〈盧生〉《ろせい》というもの。その定義及び資格についての所見。  〈邯鄲〉《かんたん》の夢という術については前項でも述べた通り、唐代の故事を基にした一種の歴史シミュレーションであり、そこから悟りを得るための行である。  もっと有り体に言えば超人を生み出すシステム。およそあらゆる行がそうであるように、そこへ挑戦する者を人として更なる高みへと導くための修練だ。  そうした意味では、体力を得るために走ることや知識を得るために書物を読み耽ることと本質的に変わらない。違うのは、その難易度。そして達成した際に得られる効果の程だろう。  邯鄲を制覇するには、夥しい死線を潜り抜けねばならないという非常に明快な危険がある。この時点でそもそも挑戦しようと思う者が限られるし、覚悟をもって臨めば成功するという甘い話も存在しない。  少なくとも、我々が日頃言葉にし、認識しているレベルのものとはまったく層を異にする覚悟が必要なのだ。  なぜなら邯鄲は夢の行。色も形も重さもなく、文字通り絵空事でしかない代物を現実に紡ぎ出してみせるという意志の力がもっとも重要になるのだから。  諦めなければ夢はきっと叶う。今どき子供騙しにもならないそんな言葉を、何より信じ抜かねばならないのだ。そう、狂的と言えるほどに。  それが出来る者以外に、邯鄲の夢は踏破出来ない。  総計で万年を越えることすら当たり前とされる時間の密度、繰り返す歴史、様々な未来……そのすべてを呑み込んで立つことの出来る〈勇者〉《バカ》。言うまでもなく常人には不可能である。  人類という種の意志に触れ、理解する器。阿頼耶識と呼ばれる境地に達せる傑物。それこそが盧生。  潜在的にその資質を持っていれば誰もが成せるというものでもない。盧生は、夢を越えることで初めて盧生になれるのだ。まさしく故事をなぞるがごとく、悟りを極めてこそ完成する。  その果てに、人が歴史の中で描いてきた夢の数々……神や悪魔という物語を現実世界に顕象させる。盧生は普遍の〈無意識〉《アラヤ》からそれらを呼び出す召喚士であり、彼らの夢は人類種の意志として破壊も救いも描き出すのだ。  一言、危険と断じていいだろう。我々、一般の者にとって、盧生は雲の上にある存在なのだ。  なぜなら神や悪魔という〈夢物語〉《キャラクター》は人が世の不条理に納得を得るため生み出した道具だから、概念として人が太刀打ち出来ないモノに設定している。  よってそれを自在に操る盧生こそはヒエラルキーのトップに在る者。悪しき盧生が暴虐の夢を紡ぎ出せば、我々にそれを止める術はない。  ゆえに、盧生とは何なのかという研究がこの百年続けられてきたし、私もその意志を継いでいる。  現状、存在を確認された盧生は三名。  〈第一盧生〉《ザ・ファースト》、甘粕正彦。彼こそすべての始まりであり、未だもって最強の盧生といえばこの人物であることに論を俟たない。  紡ぎ出す夢の概念は審判。自らを魔王と謳ったこの彼は、未来に待ち受ける人類の堕落を憂うあまり、普遍の悪役となることを望んだ。  高度文明化による法整備や諸権利の確立により、人の魂から勇気や覚悟の輝きが消え失せると思ったのだ。  天敵のいない生物は〈機能〉《ひかり》を失う。鳥は飛ぶことを忘れ、馬は走ることをしなくなり、日がな眠りこけているばかり……やがては手足を動かしただけで偉業を成したと言うような、低階層の存在へと劣化していく。  よって試練を与えるという彼の論理は確かに一定の理解を示せるものだ。  なぜなら甘粕正彦の根底にあったものは、人類に対する掛け値なしの期待であり愛であるから。殴りつけて性根を叩き直すというのは好みじゃないが、それでも効果を得られることは確かだろう。前述の通り、あらゆる生物は天敵がいるからこそより強くなっていくのだ。  その種を象徴する機能、輝き。鳥にとっての翼や、馬にとっての健脚がそうであるように、人の輝きが勇気にあるというのは同感だ。ゆえにそれを守りたいと叫んだ甘粕という盧生を、私は芯から嫌うことが出来ない。  手法がどこまでも苛烈であり、傍迷惑極まりないが、願った夢には〈真〉《マコト》がある。そこを否定することは出来ないだろう。  そして、だからこそ私は思う。〈第二盧生〉《ザ・セカンド》、柊四四八――彼こそ真の勇者なのだと。  紡ぎ出す夢の概念は仁義八行。彼は〈甘粕〉《ファースト》への対抗策として生まれた盧生だが、その夢は決して後追いの二番煎じなどではない。  人の勇気と強さを信じ、守ろうと願ったのは甘粕正彦と同じだが、そのための手法が異なっている。彼は意志を継いで行くことに誇り持ち、後代へ示す光の道となることを望んだ。つまるところ、子孫が無様な真似を出来ないよう、一種の規範になろうとしたのだ。  そしてそれは、実際に効果をあげたと確信している。  甘粕事件を制したことで世界を救ったという裏の歴史に留まらず、第二次大戦を食い止めることで表の偉業も成し遂げたのだから。  この現在も、柊四四八は世界史に名を刻んだ英雄として人々に記憶されている。その生き様、仁義八行――彼がいなければ我々は生まれてさえいなかったのだから親も同じだ。バトンを受け取った身として先人の誇りを穢してはならないと、私を含め多くの者が今も敬意と感謝を捧げている。  そして、そんな彼に負けぬよう、我々なりの歴史というものを紡ぎ、下の世代に繋げていきたいと考えている。  無論、全世界の人間がそう思っているわけではないことくらい承知の上だ。同じ日本人であっても柊四四八を知らない者は存在するし、浅ましい行いに走る輩も少なくない。  しかし、それをもって彼の力が及ばなかったと言うのは違う。  第二の盧生は、我々が人の光を消してしまうほど愚かではないと信じてくれた。そのために〈標〉《しるべ》となる背中も見せてくれた。ならばそれで充分だろう。彼は未来永劫に渡り世界を己の夢で洗脳しようなどと考えていたわけじゃない。  あくまで、彼が重視したのは継ぐということ。そうされるに相応しい己たらんと走ること。  現代に生じる問題は、今を生きる我々がどうにかしなければならないことだ。その矜持こそ、彼が示してくれた仁の心なのだろうから。  今の世が、彼ら盧生の見た未来に比べてどうなのかは分からない。甘粕正彦が悲嘆した劣化とやらを、どの程度食い止められているのかは不明だし、柊四四八が求めた朝にどこまで近づけたのかも不明のままだ。  そこは盧生でなければ分からないことであり、よって確かめる術がない。  だが、そうであるからこそ私は信じる。我々は前に進んでいるのだと。  柊四四八を無責任な敗者にしては断じてならない。この思いがある限り、劣化したなどと言わせて堪るか。  そう、絶対に。絶対に。  それこそ私の使命であると胸に誓っているからこそ…… 「ああ、いかん…… 悪い癖だな。どうもこの問題になるとムキになる。こんなものを提出したら、また親父殿にからかわれるだけじゃないか」  自嘲するように呟いて、少女は書きかけの書類から顔をあげた。目的の地へと向かう寝台列車の個室内で、軽く伸びをしてからページを破ろうとし、だが寸前で思い留まる。 「いや、まあ、けどこれは私の本音だし。  親父殿に見せられないからといって、ゴミ箱行きというのは違うよな。  うむ、だから取っておこう。出来れば額に嵌めて新居に飾りたいくらいなのだけど」  そういうわけにもいかないよなと残念げに溜息を一つ。再び少女は紙にペンを走らせ始めた。提出先から突っ込みを入れられそうな箇所はあとで綺麗に切り取るとして、前後の文脈を調整しながら続きに移る。  以上のことから、盧生たる者に必要な資質がなんであるかは推察できる。  まず先天的な要素として、その誕生に正と負の両面……すなわち二親から真っ当な慈愛と強い悪性を等しく注ぎ込まれていなければならず、存在として人間世界の縮図とも言える〈業〉《カルマ》を背負っていなくてはならない。  そうした上で、決め手となる後天的要素。自己の矛盾したルーツを理解しつつ、人類とその歴史に深い興味と愛の心を抱くこと。また、自らが描きたい〈人間賛歌〉《みらい》のかたちを明確に持っていること。それだろう。  このことについては、辰宮百合香と我堂鈴子の共著である『新世界に問う社会個人主義』で同様の見解が成されているし、伊藤野枝が記した『自由恋愛の美』にもさりげなく差し込まれている。  盧生、及び邯鄲法の秘密は闇に封じるべきものであるから、おおっぴらにはしていないが、それでも見る者が見れば分かるようにメッセージを残しているのだ。  私利私欲に走る者では盧生になれない。ゆえ、そうした者はさっさと諦めたほうがいいと。  単純な我意の強さだけで得られるような、安い資格では断じてないのだ。そう、かつて逆十字と呼ばれた男がどうしても盧生になれなかったように。  〈盧生〉《かれら》は人の代表者たる存在だ。よって自己中心な唯我独尊では至れない。  しかし、だからといって、光を愛するばかりが人間ではないだろう。人の暗部、闇の歴史を愛する盧生も存在する。  それこそが、〈第三盧生〉《ザ・サード》。稀代の殺人鬼だったと言われている者。  人類史を死の歴史であるとそれは捉え、人の阿鼻叫喚を何より愛した。痛みと苦しみこそが人間の本質だという感性で、確かにそのことも一面の真実ではあるのだろう。  端的に死神。第三の盧生が紡ぐ夢の概念はそうしたもので、それは大戦に雪崩れ込もうという昭和初期の世界が顕象させた、狂気の落とし子だったのかもしれない。  自滅に走る人類史の代表者……先々代はそのような言葉を、持ち前の〈軽佻浮薄〉《けいちょうふはく》さで皮肉たっぷりに残しているが、改めて〈第三盧生〉《サード》を食い止めてくれた〈第二盧生〉《セカンド》には感謝の念を禁じ得ない。ディストピアの夢など御免こうむる。  邯鄲法は甘粕事件に続くこの乱をもって永久に失伝したわけなのだが、それでも警戒を緩めてはならない。盧生の資格者は、今このときも生まれ続けているのだから。  と、神祇省の重鎮方は考えているようだけど、私の見解は少し違う。  おそらくもう、今の世に盧生は生まれないのではないだろうか。ただの楽観という意味ではなく、ある程度の理屈を立てたうえでそう思える。  結局のところ、三人の盧生が生じた十九世紀末から二十世紀初頭という時代は特殊すぎたのだ。  先進国が野蛮と同義の率直さを残した上で、世界という単位を本当の意味で機能させ始めた史上初の時代。文明の進化は例を見ないものであり、それに伴う人々の意識改革も凄まじい速度で成されていった。  先に挙げた先天性と後天性、どちらも発生し易い条件がそろいすぎていると言えるだろう。  我も人。彼も人。あらゆる未知と遭遇して衝突や排斥を繰り返しながらも理解を深めていった百年前の世の中は、否が応にも人間の〈業〉《カルマ》を浮き彫りにせざるを得ない。そういうことだ。  〈現代〉《いま》は確かに、世界という単位がとても身近になっている。少なくとも、その尺度でものを語ることに誰もさほどの抵抗を覚えないし、教育水準も上がっている。  そうした意味では、盧生に近い者が増えているとも言えるだろう。百年前に比べ、平均値が上がったことは間違いない。  だが逆に、それで広く浅くなったのだと私は思う。世界の裏側に住む異国人と結婚することは多少珍しくあっても奇異ではなく、許されない禁忌というわけでもないのだから、アラヤに届くほどの人間賛歌を追い求めるのは難しくなった。  それも甘粕正彦に言わせれば人の劣化なのだろうか? いいや、きっと違うだろう。彼は彼で、最期に納得して逝ったのだから。  分かりやすく目に見えなければ無いも同じで価値も無い。そのようなことは断じてないと言う柊四四八が示した勇気に、夢を託して。  だから私もそれに倣い、この任務が大過なく終わることを祈っている。何も起こらなかったことに不満を持つような人間にはなりたくないから。  かつて、柊四四八とその眷属たちが夢の世界で過ごしたという二十一世紀。それが現実の今年にあたるのならば、そこに歴史の〈朔〉《さく》が生じる事実と、その危険性を重々承知したうえで。  私は思う。 これから向かう鎌倉で、英雄たちの子孫に会うのを何より楽しみにしていると。  〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》に昇華したのだと信じているから。  〈石神静乃〉《いしがみしずの》も仁義八行の一として、彼らの仲間と言われたいのだ。  皆で一緒に月蝕を見よう。  最初にそう言ったのは誰だったのか、今となっては思い出せない。  歩美さんや栄光さんの言いそうなことだけど、そうと断言できないのは特に揉めた記憶がなかったからだ。  これは実際、珍しい。僕たちは幼い頃からいつも一緒だったから、互いに遠慮をしないのが当たり前で、思ったことは即座に言う。  少なくとも、ただ一人年下である僕を除いた七人はそういう人たちで、何をするにも始めは一悶着あるのが常だった。  纏まりがないわけでは決してないが、その手のお約束があったということ。  最初に何かを提案するのは、言った通り歩美さんか栄光さん。ポジティブな反面トラブルメーカーな二人だから、よく突拍子もないことを言い出して周りに突っ込みを入れられている。  その一番手は、だいたいにおいて鈴子さんだ。子供っぽいとか馬鹿馬鹿しいとか、とりあえず何かしら文句をつけるのが役割だと言っていい。  それに淳士さんは追従するか反発するか、場合によってまちまちだけど、共通しているのはひどく端的に切り捨てるということ。なのでそうした態度に鈴子さんはどのみち腹を立ててしまい、議題は明後日の方角へ飛んでいく。  そこで筋道を正そうとするのが晶さんだ。しかし彼女は一言二言多いので、すんなりとは中々いかない。煽り耐性もあまりないため、むしろ余計に紛糾させてしまうことが多い。  僕の姉さん、世良水希はその点クレバーで如才ない。どういう方向に乗ったらより美味しいか、即座に見極め立ち回っている。ある意味、収集のつかなさ具合を頂点に引き上げる役だろう。  それは見方を変えればお膳立てで、続く最後の一人へのパサーだと言えなくもない。かなり暴投気味ではあるけれど、上手く締めてくれるだろうという期待と信頼の表れだ。  ゆえに、四四八さんは毎度見事に皆を纏める。彼にとっては面倒この上ない役割かもしれないが、そういう星のもとに生まれた人だ。リーダーとして相応しい人格と能力を持っており、その特性を磨くことにも余念がない。  他者に厳しく、自分にはもっと厳しく。誠実で裏表のない柊四四八を仲間の誰もが認めており、僕も彼を尊敬している。  おまえもそれでいいな信明―― と、皆を黙らせた後で確認してくる四四八さんに、笑って頷くのがこの僕だ。そうした一連こそが普段の展開。  だから、すんなり決まったあの日の月見は、とても珍しいと言い切れる。  誰かが言った。じゃあそうしよう。そんな風には到底いかないはずなのに、いってしまったから逆に細部の記憶がぼやけているのだ。  いつもの工程を踏んでいない。個々の役割がばらけている。パターンから外れてしまった催しは強く印象に残った反面、どこか非現実的に曖昧だった。  まるでそう、夢であったかのように。  皆既月蝕――それ自体はまったく特別なものじゃない。年に一・二度はある天体ショーで、具体的に言えばその半年前にも同様のことは起こっている。  だけどあの時、2015年の四月初頭……春休みも終わりかけた夜の月は、僕ら全員を微々に惑わすある種の魔性を帯びていたのか。  これが何か、一つの区切り。  ここから始まる物語を、皆が感じていたかのように……  僕は千信館に合格した。遠からず四四八さんたちと同じ制服に袖を通し、あの学校の門を潜る。  そのお祝いを兼ねた集まりというのが発端ではあったけど、それにこじつけて月蝕を見ようとなったわけではない。そのことだけは覚えている。  おまけはどちらかと言えば僕のほうで、ああつまり、そうだよ。そうだ。  僕の名前は世良信明。幼い頃からずっと一緒だった八人の中で、ただ一人だけ居ても居なくてもいい存在。  先の役割分担からして、僕の立場というものは明白だろう。ずっとずっと、そういう位置にこの自分は身を置いていた。  自虐ではない。卑屈になっているつもりもない。そんなことはとうの昔に自覚して、乗り越えたという自負がある。  この物語、万仙の陣という悪趣味極まりない〈歴史〉《シナリオ》の中で悟りを得たのだ。  僕は四四八さんたちと違う。  そして、だからこそ僕にしか出来ないことが存在する。  仁義八行の八人目にはなれないからこそ、忘れてはならない一つの真。  世良信明という男が貫くべき覚悟のかたちは、至極単純。  僕は彼女を……あのとき掴んだ誇りと温もりを見失わない。  君を守る。救ってみせる。  愛情は深まるばかりで増すばかり。強く激しい君は綺麗だ。  逆さ十字の後裔である彼女に捧ぐ僕の思いは、まさしく緋衣南天に相応しい花言葉そのままで……  それはこんなことになった今も――  勇気の真実として胸にあるまま変わらない。 「はッ、はッ、はッ、はッ―――」 2015年、春――心地いい朝の爽気を潮風に感じながら、俺はランニングをこなしていた。 鶴岡八幡宮の近所にある自分の家から、海沿いの134号線を通って江ノ島の手前まで行き、帰ってくる。 幼かった頃はもっと短い距離ですませていたが、ランニング自体はもう七年ほど続けている日課だった。もはや生活の一部になっていると言っていい。 健全な精神は健全な肉体に宿る、なんていうのは今どき古臭いと言われそうだが、間違ったことじゃないだろう。俺は自分の精神ってやつを根拠もなく過大評価していないから、まずは身体を鍛えなければならないと思っている。 なぜなら人間、弱ったときにこそ本性が出るものだ。余裕があるときに寛大で優しい態度を取れるのは当たり前だが、追い込まれたときもそうあれる奴は多くない。 体調を崩したり、何か大きな悩みを抱えているとき、人はつい八つ当たりじみた真似をしてしまう。そうした心の動きを完全に封じ込め、他者にもそうあるよう強要するのは流石に厳格すぎると思うものの、だからって好きに我が侭を言っていいわけじゃない。 それは間違いなく格好の悪い行いだ。自分は大変で、可哀想な状態だから、何をしてもいい。その権利がある――なんていう開き直りをして恥じない人種にはなりたくないと思っている。 だから身体を鍛えておくんだ。早々に弱らない丈夫さを持っていればいつも余裕を保てるし、そのための訓練を重ねてきたという事実は自信になる。 もしもこの先、何かのトラブルで追い込まれることがあったとしても、心の健全さを損なわないでいられるように。 心身共に充実した状態を維持するよう務めがけ、その形を自分自身に記憶させる。それがあらゆることに通じる基本だろうと考えていた。 俺がそんな主義を持つようになった理由は一つ。 幼い頃から、ごく身近に、今も変わらず手本とするべき奴がいたからに他ならない。 「もう少しだ、信明――ピッチをあげるぞ、ついてこいよ」 「――はいっ!」 声を張り上げて促すと、俺は折り返し地点に向けてスパートを開始した。 「はあ、はあ、はあ……」 そして到着。浜辺でストレッチをしながら、荒れた呼吸を整えていく。 ここ最近、走るペースが上昇傾向にあるのは自覚していた。理由ももちろん、心得ている。 「……くそ、また追いつけなかった。やっぱり四四八さんは速いなあ。そろそろ届きそうな気がしてたんだけど」 「まだまだ余裕って感じですね。悔しいですよ」 「当たり前だ。俺に勝とうなど十年早い」 俺は鼻で笑いながら、遅れてやってきた信明に余裕たっぷりの態度を見せてやる。 だが無論、表面上ほど平気でいるわけじゃない。ここ最近の信明は、本当に速くなっている。俺でもあまり加減が出来なくなるくらいに。 それでもこんな態度を俺が取るのは、信明がそう求めているからだ。面映い話だがこいつにとっての柊四四八は目標であり壁だから、易々越えられるわけにはいかない。 兄貴分として弟分の期待には応えなければいけないと強く思っている。俺には兄弟がいないから、なおさらに。 「だがまあ、今のおまえなら栄光くらいには簡単に勝てるだろう。同学年の平均以上には間違いなく達してると思うぞ」 「もうじきスポーツテストがあるし、その結果が楽しみだよ」 「そう言ってもらえるのは嬉しいですが、どうですかね。あれで栄光さんも、やるときはやる人ですし」 「僕の同級生たちにしたって、そんな簡単じゃないですよ。千信館は、文武共にレベルが高いところですから」 「なに言ってるんだ。今やおまえも〈千信館〉《そこ》の一員だろう。自信を持てよ」 「世良はまたぐちゃぐちゃと心配するかもしれないが、しょせん女に男の崇高なプライドは理解できない。自分を信じて事に臨めば、結果は出るさ」 「はい、頑張ります。それに姉さんのアレはまあ、半ば様式美みたいなものですからね。本人も、口で言ってるほど心配してるわけじゃないはずですよ」 「そのへんは、四四八さんだって分かってるでしょう?」 言われ、俺は苦笑いしながら頷いた。こいつの姉であり、俺の幼なじみ兼同級生である世良水希は、端的にブラコンの典型なんだ。 弟に対しては世話焼きだから、現実に信明がそれを必要としているかはあまり関係なかったりする。様式美とは言い得て妙で、そういうところは俺の母さんにも通じるところがあるだろう。 親から見た子供がいつまでも子供なのと同じように、姉から見た弟はいつまでも弟なんだ。それが成長を阻害する檻のようなものにでもならない限り、微笑ましいことだと思う。 ときに鬱陶しかったり恥ずかしかったりもするが、そこでいちいちキレたり拗ねたりしてるようじゃあ本当にガキのままだ。そういうところは、信明もよく弁えているんだろう。 「実際世良も、最近はおまえが生意気になってきたって、文句言いながらも嬉しそうにしてるしな」 「そうなんですか。僕の前じゃあ、四四八さんの文句ばっかり言ってますけどね。あのメガネ、ほんと可愛くないとかなんとか」 「別におまえの姉貴に可愛く思われなきゃならん義理はない」 「それはそうですが、言葉の裏にある気持ちくらい汲んでやってくださいよ。姉さん、学校じゃあ完璧超人みたいに見られてるようですけど、ぶっちゃけ素の部分は馬鹿なんですから」 「僕からしたら、そっちのほうが心配ですよ」 「ほんと、言うようになったよな。おまえは」 逆に窘めるようなことを言われ、俺はまたしても苦笑する。 幼い頃、よく悪ガキどもに泣かされて、その都度俺や世良たちに助けられていたときとは随分変わった。強くなった。 そして同時に、今も変わってない部分もある。それはどんなときでも人を思いやれるこいつの心。 生まれつき病弱で、入退院を繰り返し、食事さえ自分の好きなように摂ることが出来なかった世良信明という幼なじみ。そんな境遇にありながら、こいつはまったく歪まなかった。 自分に絶望して自棄になることも、健康に生まれた俺たちに嫉妬や恨みをぶつけることも、記憶している限り一度もない。 そんなこいつを見ていく中で、俺は自然と悟ったのだ。本当に強い男とは、信明のような奴のことをいうのだろうと。 たまたま健全な身体を持っているから、余裕を保てているだけの俺たちとは違う。病弱でありながらまっすぐ立ち、優しさと向上心を失わない正しい心。 信明は俺を慕って、目標だと言ってくれるが、実際のところそれはこっちの台詞なんだ。こいつが持っている健やかさを、自分も得たいと思っている。 改めて誰かに話したことはないものの、そこはきっと俺たち全員に共通するものではないだろうか。 「おまえと一緒に走るようになって、もう三年か。近頃じゃあ発作もなくなったみたいだし、何も心配要らないな」 「ええ。主治医の先生も、大丈夫だって言ってくれました」 すべては千信館に入るため。話に聞くご先祖様への憧れがあったから、俺たちは皆そこを目指したし、信明もまた然りだ。 俺たちの後輩として、千信館の生徒になる。そのための努力を三年も前から続けていた信明は、見事この春、夢を叶えた。 ゆえに俺も、二学年に進級した先輩として研鑽を怠りたくない。ここがゴールなんかじゃ全然ないし、何より信明に負けたくないと思うから。 「昔のいじめっ子にリベンジとか、おまえは考えちゃいないだろうが、またちょっかい掛けられることがあってもその様子ならどうとでもなるな」 「少なくとも、そうありたいとは思ってますね。いつまでも姉さんや四四八さんたちに助けられてばかりじゃ駄目ですから」 「けど、本当に洒落にならんことがあったらちゃんと言えよ?」 「はい、四四八さんは未来の検事なんですから、頼りにしてます」 今の段階じゃただの目標でしかないものを決定事項みたいに言われたので照れてしまうが、まあ俺もそうありたいとは思っている。 「おまえは何かそういう、希望の進路があったりするのか?」 「僕は正直、まだなんとも言えませんね。ただ今は、選択の幅を広げられるようにしたいと思ってますけど」 「将来やりたいことが見えてきたら、真っ先に相談させてもらいます。いいですか?」 「ああ、いつでも言ってきてくれ。出来る限り力になるよ」 「じゃあそろそろ――」 「ええ、帰りましょうか。今度こそ負けませんよ」 「だから十年早いと言ってるだろうが」 そうして俺たちは折り返し、帰路についた。言ったように信明の向上は目覚しいものがあるから手は抜けないが、特に千信館の入学が決まった頃から、それが顕著になった気がする。 単に年齢的な意味で身体が出来てきたからなのか。もしくは精神的なものなのか。あるいはその両方か。 そこについては、一応心当たりが俺にもある。 「なあ信明、おまえ好きな女がいるんだって?」 「え? あ、へ――なんですかいきなりっ」 「いや別に。世良から以前、そう聞いたんでな」 「ね、姉さんに僕は何も言ってませんよっ」 「何も言ってなくても分かるんだろうさ。あまり女の勘を甘く見ないほうがいいぞ」 事実、この狼狽ぶり。まったく誤魔化しきれていない。 「察するに、その子も千信館に入ったんだな?」 「~~――っ、だから、僕はまだ何も言ってないでしょっ」 「隠すな隠すな。好きな女が出来たら燃えるのは男の本能だ。応援するよ」 「だから今度、俺にだけでいいからこっそり教えてくれないか。どんな子なのか、見てみたい」 「知りませんっ」 「だいたい、それを言うなら四四八さんだって、姉さんたちとそろそろはっきりさせたほうが――」 「さあて、それじゃあ八幡まで競争だ。負けたほうがジュース奢りな」 「あ、ちょっと、待ってくださいよ――四四八さーん!」 旗色が悪くなりそうな予感がしたので、俺は一気にペースをあげて走りだした。先の話題はどうにも薮蛇だったらしい。 世良とか晶とか歩美とか我堂とか、そりゃ俺だって考えてるよ。家訓に関わることでもあるし。 だけどほら、分かるだろ。幼なじみっていうのは難しいんだよ。 そうして、ゴールの八幡まで走破した俺たちは、境内で再び軽いストレッチをしてからひとまず別れた。 ちなみに、言うまでもないが競走に勝利したのはもちろん俺で、律儀な信明は本当にジュースを奢ってくれたから、それを飲みながら家路につく。 先輩のくせに後輩から巻き上げるような真似はするなと世良や晶に怒られそうだが、そこは男同士の勝負ということで通してしまおう。 ここで信明を庇うのは、あいつが絶対俺に勝てないと言ってるようなものだと過保護ぎみな女どもに理解させなければいけない。それも兄貴分の務めってやつだ。 我堂はそういう機微が分かりそうだし、歩美も勝負事にシビアなので、いざとなればあいつらに援護を頼めばいいだろうと思いつつ―― 「ただいま」 帰宅した俺は、空になったペットボトルをゴミ箱に放りつつ居間にあがった。 「母さん、あれ? まだ寝てるのか」 いつもならもう朝食の準備を始めている頃合だが、今朝はまだのようだった。居間も台所も無人で静まり返っている。 しかしまあ、こんな日もあるだろう。普段世話になってるんだから、たまに寝坊したといっても責める気はないし、メシはまだかと起こしにいくつもりもない。 むしろそれなら、今日の朝食は俺が作ってやればいい。母さんの腕前に比べれば当たり前に落ちるだろうが、料理が出来ないわけじゃないんだ。基本、自分のことは自分でやらなきゃならんと思ってるしな。 が、それはともかくまずはシャワーだ。汗もかいたし、さっぱりするのが先だろう。 そう考えて、俺は手早く脱衣所でジャージを脱ぎ、眼鏡を外すと下着も洗濯機に放り込んで風呂場へ入った。蛇口をひねり、出てきたお湯を受け止めつつ髪を掻き揚げて一息つく。 「ふぅ……」 設定した温度は高めだったが、そのほうが俺の好みだ。冷水で一気に心身を引き締めるのも嫌いじゃないが、熱さで一瞬の緊張を作り、そこからじんわりと虚脱していくやり方が運動後には合っている。 だからそのまま、しばらく棒立ちでシャワーを浴び続けている間、特にすることもない俺はなんとなく自分の身体に目を落としていた。 そこには見事に割れた腹筋や、ぴんと張った大腿筋、全体として均整の取れた男の裸身が存在している。 伊達に七年も鍛えてきたわけじゃないので、それなり以上に見映えはいいと言えるだろう。別にナルシストなつもりはないが、自分がやってきた努力の成果を誇ることに躊躇いはない。 欲を言えばもうちょっと肉を増やして厚みをつけたいところだけど、そこは体質なのだろうか、俺は鍛えれば締まっていくタイプらしい。 たとえば鳴滝や剛蔵さんのような、でかくなっていくタイプとは違うみたいだ。それに隣の芝的な羨ましさは感じるものの、なんでも思い通りとはいかないだろう。大事なのは、持ってるものをどう運用していくかということだから。 「なまらないように、研ぎ続けるのが重要ってな」 呟き、再び濡れた髪を掻き揚げる。熱いシャワーにようやく全身が慣れてきたので、俺はボディーソープを取って腕から洗い始めたのだが…… 「……ん、なんだよ母さんか?」 湯気に曇ったガラス戸の向こう、脱衣所でなにやらごそごそやってる音がするし人影も見える。 洗濯の準備でもしているんだろうか。だったら一つ気を付けてもらいたい。以前、柔軟剤と台所洗剤を間違えて、服が軒並みごわごわのがびがびなったことがあるのだ。 基本的に母さんの家事技能は高いのだけど、キャラ的にドジなのでたまに派手なミスをする。それについて俺はまあ、結構達観している部分もあるが、親父は気難しいからだいたい洒落が通じない。 あの唯我独尊な俺様男に母さんが叱責されるのを見るのは忍びないので、あらかじめ注意喚起をしておこうと考えた。 だから―― 「なあ、母さん。洗濯するんならちゃんと使うもの間違えないように……」 と、言いかけたとき。 「――――――」 …… ………… …………………… おい。 なんだこれは。というか誰だおまえは? 「ああ、その、なんだ」 「もしかして、君が四四八くんか?」 「……そうだが」 いや待て。全力でちょっと待て。何もかもがおかしいだろこれ。 実家の風呂場でシャワーを浴びていた俺のところに、いきなり見知らぬ女がやってくるという展開も。 当たり前のように全裸を晒し、まったく物怖じしていないこいつに釣られ、咄嗟に反応できず固まってる俺も。 なんだこれ。どういうことだこれ。悲鳴? 逃げる? 怒る? どっちが? ていうかこいつスタイルいいな。運動しているクチなのか無駄なく締まった全身が実にこう、じゃなくて――! 「素晴らしい。ナイスバディというやつだ四四八くん。よく鍛えこんでるみたいだな、感心だ」 「その肉体、自信を持っていいぞ。大方の女にとっては文句なく垂涎ものな仕上がりだろう」 「もちろん私も、心から賞賛する。グッジョブだ」 キラーンと、爽やかな笑顔で言い放つ。 「じゃねえだろおおォォッ!」 「なんだおまえ、なにやってんだこの馬鹿! 早く出て行け、こっち見るなよ! ていうか隠せ、そして謝れ! 悲鳴くらいあげろふざけんな!」 「いや、その、いきなりそんな色々言われても……」 などと口ごもりつつも、眼前の女はやはりまったく動じていない。 パニクる俺に面食らっているだけで、こいつ本人は全然この状況に慌てていないというのが分かった。 「確かにこれは、私の迂闊さが招いたミスだから謝罪はするが、一般的には美味しいシチュエーションだと聞いているぞ。なのでそんなに怒られると傷ついてしまう」 「言ったように、君の裸は素晴らしい。だから私にとってはごちそうさまだったのだけど、四四八くんにとっては違うのか?」 「つまり、私の裸はつまらないか? トラウマになりそうだったりする類か?」 「同世代の男の子と接するのは初めてなので、結構そのへん気になっている。だから答えてくれないだろうか」 「知らん、いいからさっさと出て行け!」 「そうは言うが、大事なことだぞ。私にだけ感想を言わせるのはずるいだろう。なあ四四八くん。なあ、なあ」 だから誰なんだよアホかこいつは。なんで俺の名前を知ってるんだいい加減にしろよ、あああああああ―――― 「ええい、もう! 分かったよ! 言えばいいんだろ言えばっ!」 「綺麗だ、セクシーだ、魅力的だ! 自信持っていいぞ、たいしたもんだから満足して今すぐ消えろ!」 「おお、そうかありがとうっ」 キレ気味に叫んだ俺が馬鹿みたいな屈託のなさで、女は満面の笑みを浮かべた。 しかし一転、なにやら訝しげに目を眇めると。 「けど四四八くん、そのわりにはぴくりとも反応してないじゃないか」 「男子ならこう、もっと魔羅が隆々とだな……いや、これは私の親父殿の受け売りなんだが」 「~~~―――……ッ!」 もう駄目だ。限界だ。このトチ狂った状況に俺は一秒だって耐えられない。 「うん、その一点だけが玉に瑕だな。駄目だぞ、男の子なら頭と下半身を切り離さないと」 「それが甲斐性ってやつなんだろう?」 「黙れやかましいんだよこのド変態がァッ!」 「うおっ、きゃ――」 未だかつて見たことがない珍生物の戯言に頭がおかしくなりそうだったので、激突するような勢いでそいつを押しのけ、一気に俺は風呂場を出た。 世良とか歩美とか、俺が知ってる女の中にもセクハラい奴は存在するが、今のはそれらとまったく違う。悪戯心やスケベ心を欠片も感じ取れなかった。 強いて言うなら、知的好奇心の発露みたいな、知識だけは備えている幼児の相手でもしている気分だ。あれが何者かは知らないが、どんな風に生きたらあんな奴が出来るんだよ。 「母さん、母さん――ッ!」 とにかく、我が家に何が起きたのか突き止めなければならない。居間に駆け込んだ俺は事態の究明を図るべく、説明責任を持ってるはずの相手を呼ばわった。 「いるんだろ? 早く、ちょっと、すぐ来てくれ! こんなの俺は聞いてないぞ、母さんッ!」 「はい、はーい。どうしたの四四八、朝から大声出しちゃって」 「どうしたもこうしたもないだろ、いったいあの女は誰なんだっていう話を」 「あら。あらあらまあ」 だがやってきた母さんは、俺の剣幕に取り合わずきょとんとしている。 と言うより、何か呆れている。 おいどうした。なんだよそのよく分からない反応は。 「えっと、四四八? 何があったのか知らないけど、まず落ち着きなさい。それから服」 「は、服……?」 「そう。四四八が大きくなったのは分かってるから、そんな見せ付けなくても大丈夫よ」 「―――――」 そこで、さーっと血の気が引く音を聞いた。 そうだ。俺は今、わざわざ確認するまでもなく…… 「何を朝っぱらから晒している。いよいよ頭がイカレたのか、この阿呆が」 「まったく、毎度ながら程度が低すぎて言葉もないわ。馬鹿息子め」 「あんたに言われたくないんだよクソ親父ィ!」 「おお、いいな。やはり家族の団欒とはこうあるべきだと私も常々――」 「だからおまえはなんで裸のまま出て来るんだよ!」 「それを言うならおまえもだろうが、戯けめが」 「はーい。それじゃあみんな、朝ごはんにしましょうねー」 「ごちそうになります」 「誰か、とっとと説明してくれェ!」 俺はもしかして、知らない間にパラレルワールドにでも踏み込んでしまったのだろうか。 真剣にそう思いかけてしまうほど、今朝の柊家はカオスだった。 「……つまり、こいつは今日から、うちに下宿する身の上だということなんだな?」 朝食を食べながら聞いた真相を、俺は食後にもう一度確認した。 「そうなの、石神静乃ちゃん。彼女のお父さんは聖十郎さんの古いお友達でね。そういう縁から、うちでお預かりすることになったの」 「それはまあ、分かったけど……だったらなんで事前に一言なかったんだよ」 「ごめんなさいねえ。私、すっかり四四八に言うの忘れちゃってて」 「くだらん。詫びる必要などないぞ恵理子。家長である俺が決めたことを、半人前のこいつに教えてやらねばならん道理がどこにある」 「事前だろうが事後だろうが、それでこいつがどんな醜態を晒そうが俺の知ったことではない。そこに何かを慮ってやるなど、総じて無駄な労力だ」 「……いつものことだが、あんたほんとに嫌な奴だな」 「だからなんだ。親の選択一つで右往左往するおまえが悪い。それは自立していない証であり、ゆえに半端者だと言っているのだ」 「文句があるなら、さっさと俺の言動など歯牙にもかけぬ男になればいい」 「この野郎……」 「はいはい。もうそれくらいにしなさい二人とも。静乃ちゃん、びっくりしてるでしょ」 「いえ、お気遣いなく。私の親父殿も聖十郎氏と似たようなものなので、慣れています」 「それに四四八くん、私の訪問が君にとって急なものになったのはこちらにも落ち度があるんだ。途中で電車を乗り間違えたから、到着が深夜になってしまい……」 「ここに来たとき、君はもう眠っていたんだ。なので起こすのも気が引けたし、挨拶は明朝にでもと思ったんだが、裏目に出たな。すまない」 「ああ、うん……それは分かった。もういいよ」 「そうか。そう言ってくれると私も嬉しい」 「それじゃあ改めて、これからお世話になる石神静乃だ。よろしくな」 にっこりと微笑みながら握手を求めてくる石神に応じながらも、俺は相変わらず居心地の悪さを払拭できずにいる。 なぜってそりゃあ、見れば分かるだろう。 「柊四四八だ……よろしく」 風呂場での映像が未だ目に焼きついているというのも当然ある。それで後ろめたいのも無論然り。だがプラス、現在進行形でこいつはおかしい。 「なんだ、ずいぶん大人しいな。初対面で物怖じするタイプでもなさそうなのに、どうかしたのか?」 なあ、見てくれよ。どうかしてるのは誰がどう見てもこいつだろう。 服を着た。それはいい。だが着るならしっかりちゃんと着ろよ。 タンクトップにパンツ一丁。そんなナリで、胡坐なんかかいてる同世代の女が目の前にいる。何なんだよこれ、突っ込み待ちかよ。 「母さん、あのさ……」 まったく意に介してない石神に正面から指摘する勇気は流石の俺も奮い起こせず、助け舟を求めていた。 「はい? なにかな四四八、おかわりほしいの?」 だが、駄目だった。この人の天然ボケは鉄壁なので突破できない。 「俺は正味どうでもいいが、そこのマセ餓鬼はおまえの格好が気になって仕方ないらしいぞ、静乃」 「え?」 「んなっ――」 「まったく、色を知る歳かよ。半端者の分際で、くだらんところだけ旺盛ときたか。嘆かわしい」 反射的に殴りかからなかった己の自制心を褒めてやりたい。クソ親父の性格の悪さは生まれてこのかた嫌になるほど体験してるが、今朝のこいつは過去三指に入る域で俺の精神を逆撫でしていた。 「ああ、なるほど。そういうことでしたか。どうも私はその手の基準を上手く認識してないようで」 「重ねてすまなかった四四八くん。さっきも言ったが、同年代の男の子と接するのは初めてだから、そのへんのことも学びたいと思っているんだ。なので以降、私がおかしなことをやったら気にせず間違いを正してほしい」 「頼りにしてるから、君も男らしくしゃんとしないと駄目だぞ」 「な?」 どうして俺は、こいつに上目線で励まされているんだろう。パンツ丸出し女に男らしさなんか説かれたくない。まずおまえが女らしくなれという話だ。 「静乃ちゃん、すごい堂々としてるわねえ。あんまり普通のままだったから、私も全然気付かなかったよ」 「申し訳ないです。なにぶん田舎育ちなもので」 「歳の近い男の子と接したことがないって言ってたけど、ずっと女子校だったのかな?」 「まあ、そんなようなものです。自分の生い立ちが特殊なのは自覚しているんですが、いざすり合わせるとなったら難しい。もっとも、それも楽しいですけど」 「静摩のことだ、必要なこと以外は何も教えておらんのだろうし、おまえの偏りを面白がってもいたんだろう。むしろ奴に育てられて、その程度ですんでいることに俺は驚きを禁じ得ん」 「うふふ、聖十郎さん、四四八がすごい顔してるわよ。おまえが言うなー、って、ほら」 「本当だ。お互い親父殿が濃くて苦労するよな、四四八くん」 「あんな男と一緒にするな。それにそこの阿呆が愚かなのは、まったく俺のせいではない」 「あらあら、聖十郎さんがムキになるなんて珍しい。ねえ静乃ちゃん、お父さんはどんな人なの?」 「そうですね。父の静摩は、なんというか……何も考えていないくせにいつも都合がつくみたいな」 「基本、行き当たりばったりにしか見えないんですが、後になって振り返ればなぜかぴたりと嵌ってしまう。そんな反射神経で生きてる人です」 「正直、聖十郎氏とは水と油だと思うので、二人が友人だということに今さらながら驚いていますよ」 「誤解しているな静乃。俺は奴と友人などではない」 「またまた、聖十郎さんったら照れちゃって。あのね静乃ちゃん、友達っていうのは、案外そういう関係のほうが上手くいったりするものなのよ」 「そうなんですか。なら私にも、そんな友人が出来ればいいと思います」 「ええ、きっと出来るわよ。千信館はみんな良い子ばっかりだから、私が保証してあげる。ね、四四八」 「期待していいよな、四四八くん」 「何か言えよ。貝かおまえは」 「…………」 ああ、そう。何か言えというなら言ってやるよ。いきなり奇天烈な団欒始めやがって。 つまりあれだな? 石神は千信館に編入するっていうんだな? だから家主の息子として、下宿人の世話をしろと。分かったいいよ異論はない。 どこの田舎から来たのか知らんが、この甚だしくズレた女に常識叩き込んでやろうじゃないか。なるほど、確かにそれはこの家における俺の仕事だ。 「石神、よく聞け」 正面から目を見て告げる。もう二度と言わんから一度で覚えろ。 「さっさと下穿け。男の前で平然とパンツ晒すな」 ご要望どおり、そう男らしく言い切ってやったのだが。 「お、おう。いや、違うんだ。私はただ……」 「なんだよ……?」 探るようにこっちを見る石神に、何かあるなら言ってみろと促せば。 「実は結構、四四八くんは見ていたいのかなと思ったもので」 「思うかっ!」 「だって、さっきは綺麗でセクシーだと言ってくれたじゃないか。あれは嘘なのか、ひどいぞ君は」 「おまえもうほんと殴るぞ!」 顔も知らないこいつの親父殿とやらを、うちのクソ親父同様叩き殺してやりたい気持ちになった。 で。 「よし、着替え完了。どうかな四四八くん、似合ってるか?」 「似合ってるかと言われれば似合ってるが、その前に一つ訊かせろ」 なんだい、と清々しい笑みで言う石神に、重い溜息で応えながら一つ。 「なぜおまえ、当たり前のように俺の部屋で着替えてるんだよ」 さっきまでこいつは下着姿だったから、着替えと言うより上に制服着ただけだし、そういう意味では別にエロス的なアレはなかったが、色々荷物ごと俺の部屋に運び込んできた流れが理解できない。 いや正直に言うと予想は簡単につくんだが、そのへんを認めたくない俺がいる。 「なぜってしょうがないだろう。他に部屋がないんだし、今後私と四四八くんは同室で寝起きすることにならざるを得ない」 「それに何か問題が?」 「大有りだっ!」 ああ、悲しいかな貧乏平屋。柊家に空いてる部屋などまったくないのだ。 しかしこれは言わねばならない。 「親父の書斎とか、そっち行けよ!」 「なあ四四八くん、柊聖十郎という御仁がそんなことを許すと思うか?」 思わない。そこは誰よりもよく分かっている。 「けど、だからっておまえ……これはないだろ。だいたい、昨日はどうしたんだよ」 「しょうがないから、庭を借りた。聖十郎氏には愚息の部屋を勝手に使えと言われたんだが、君の許可を得ないままというのは躊躇われたし、同様に居間を借りる許可も得ていなかったから」 なるほど、だから俺はランニングに出る際、こいつの存在に気付かなかったわけだ。 春とはいえ女に野宿めいた真似をさせてしまったことに罪悪感を覚えはするが、そこは親父と母さんが何とかしてやれよという話だろう。 どんな事情があるのか知らんが、他所様の娘を預かっておきながら何だよこの適当ぶりは。 言いようのない偏頭痛を覚えながらも、しかしそろそろ登校時間だ。いつまでもうだうだやっている暇はない。 「このことは後でじっくり話そう。とりあえず石神、おまえ絶対、学校で妙なことを口走るなよ」 「君が嫌がることは私だってしたくないが、具体的に言ってくれないと分からないぞ四四八くん」 「だからそれは、常識的に分かるだろ」 「風呂のことか? パンツのことか? 部屋が現状同じなことか? それともまさか、下宿のこと自体内緒にするのか?」 「前三つはともかく、さすがに最後のやつは無理があるように思うんだけどな」 「そこはもうしょうがない。けど、わざわざ吹聴することでもないっていうのは弁えてくれ」 「なるほど……ふむ、複雑だな。だが理解した、安心してくれ」 「…………」 「なんだ四四八くん、信じられないのか?」 「半々だな……」 未だ不安は拭えないが、この件についてこれ以上詰めることは出来なかった。 「おっはよー四四八ー、学校行こうぜー」 「ぐっもーにーん!」 「エイコー!」 いつものようにいつもの時間で、馴染みの三馬鹿がやってきたのだ。 これからあいつらに石神のことを説明せねばならんのかと考えたら気が重くなるけれど、避けて通れないことだ。さっさとすまそう。 と思っていたら。 「ああ、悪いが先に行っててくれ。私は後から行くんでいいよ」 「なに?」 そりゃまた、どうして? 「いや、だって編入初日は、まず保護者同伴で先生方に挨拶とかしておくのが基本というか礼儀だろう?」 「そういうことだな」 言いつつ、とても保護者とは言えないような奴がふんぞり返りながら現れた。 「おまえ、その程度の社会常識すら弁えんのか。間抜けも大概にしておかんと害悪だぞ」 「あんたに、常識云々、言われたくはないが……」 確かにその通りではあるので言い返せない。こいつがそんな面倒ごとを引き受けるなんて予想の埒外だったから、完全に意識していなかった。 しかしそう考えると、親が友人同士というのはいよいよもってマジらしい。少なくとも聖十郎が真っ当な気遣いを示すくらいに、石神の親父さんと深い仲なのは本当みたいだ。 「分かったよ。じゃあ俺は先に行く」 「だが石神、くどいようだがさっき言ったことを忘れるなよ」 「ああ、心配するな四四八くん。私は確かに世間知らずだが、馬鹿じゃないと自負しているぞ」 「少なくとも、おまえより出来がいいのは間違いないな」 「いちいち、ムカつくんだよあんたは……」 だがここで親子喧嘩をしていてもしょうがない。表では晶たちを待たせているし、ここは石神を信じておこう。おかしな奴だが、悪い奴じゃないとは感じているし。 「後でな」 「うん、後で」 万事において明朗闊達。はきはきしたこいつの態度は、それ自体純粋に見れば好感の持てるものだった。 「いい男子ですね、四四八くんは」 「あれのどこを見てそういう感想が出てくるのか、俺には皆目分からんが」  四四八を送り出した後、なにやら感心したように唸っている静乃を一瞥し、聖十郎は嘆息した。 「まあ、気に入ったというなら止めはせんから、婿でも奴隷でも好きにしろ。静摩と義兄弟になどなりたくもないが、それは剛蔵やその他でも同じことだ」 「別にそういう意味で言ったわけではないんですが」 「これは一応、私のことを認めてくれたと解釈していいのでしょうか?」 「一応、ならばな」  木で鼻をくくったように聖十郎は応じながら、改めて静乃を見る。そして率直な評価を付け足した。 「〈朔〉《さく》の危険を知りながら、まったく気負いが見えんというのはいいことだ。その姿勢を貫けるのなら期待できる。  初見では似ていないと思ったが……なるほど、確かに奴の娘だ」 「お言葉ですが、私はあれほど無軌道ではないつもりですよ」 「子供は大概そう言うものだ」 「私が憧れているのは盲打ちのスタイルじゃないのですけどね。あんなものは一人いれば充分ですし」  けどまあ、と苦笑して、静乃はむしろ誇らしげに言葉を継いだ。 「お役目に囚われていないのは確かですね。何も起きなければそれが一番いいと思っていますし、そのときはお言葉どおり、婿探しでもしてみましょう」 「本当に、四四八くんを連れ帰ったりしても構わないのですか?」 「問題ない。好きにしろ。無論、あれが承知すればの話だが。  いや、それよりむしろ、問題になるとすれば周りだな」 「ふむ、なるほどそれはそうですね。彼の友人たちは寂しがるでしょうし、なら私が嫁に入ればいいのかな」 「そういう意味で言ったのではないのだが……どのみち俺には関係ない。朔にしてもだ、おまえたちでケリをつけろ」 「ということは、ご助力してくださらない?」 「ああ。俺は近日、発たねばならん。  だから帰ってくるまでに終わらせていろよ」  突き放すような命令口調で、聖十郎はそう告げた。  それは一見してまったく興味がないゆえの冷厳さと思われがちだが、もしかして彼なりに子供たちを信頼していることの表明なのかもしれない。  静乃はそこをどう取ったのか、不明だったが、ただ短く。 「訊いていいでしょうか。どちらへ?」 「〈上海〉《シャンハイ》だ」 「はーい、それじゃあ静乃ちゃん、出発するよー!」 「…………」 「…………」  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。 「あ、あれ? 何かなこの空気? どうしちゃったのかな二人とも」 「恵理子」  伊達に夫婦なわけではない。硬直している静乃と違い、眉一つ動かさないまま聖十郎は妻を切った。 「おまえの出る幕ではない。すっこんでいろ」 「そばばーん」 「そ、そば……?」  柊恵理子が有するセンスは、静乃をしても理解不能だったようだ。 「……とまあ、そういうわけだよ」 学校への道すがら、晶たち三人に加えて、途中合流した世良や信明にも我が家の出来事を説明していた。もちろん、話せば面倒になるあれやこれやは抜きにしてだ。 当の石神と会わせる前に、こうして事情を話せたのは今になって思えば好都合だったと感じる。本人を横に連れて語るよりは、間違いなくこいつらのテンションを抑えられたはずだから。 「へえー、あの親父さんの友達ねえ」 「うちのハゲ以外にそんなもんがいるなんて、正直想像もしてなかったわ」 「剛蔵さん以外、わたしたちの親なんてまったく相手にされてないもんねえ」 「むしろ何、おまえ誰だよみたいな? あれ絶対名前さえ覚えてないだろ」 「そうそう。実際恵理子さんと剛蔵さんがいなかったら、先祖代々の関係も絶対親の代で終わってたよね」 「ちょっと姉さん、そんなずばずば言ったら失礼だよ」 「いいんだ信明。俺もまったく同感だから」 我が父親である柊聖十郎は今さら語るまでもないああいう男なので、当たり前に人付き合いが極度に下手だ。 世良が言う通り、母さんや剛蔵さんがいなかったら、曽祖父さんの代から続くという俺たちの関係も、親の代で間違いなく終わっていただろう。 「んまあそれはそれとして、その石神……静乃だっけか? どんな奴だよ?」 「聖十郎さんの友達の娘さんってことは、やっぱり変人入ってるの?」 「おまえそれあたしに対する嫌味かよ」 「ていうか美人なわけ? 美人なんだよな?」 「大杉くん、ほんといつもそればっかり……」 「野澤さんに知られたら大問題ですよ栄光さん」 「か、かかかかんけーねーし! ていうかそういう意味で言ったんじゃねーし!」 「じゃあどういう意味だよ」 「あー、でも、わたしも結構気になるかも。だって要は四四八くんと一つ屋根の下ってわけでしょー?」 「むっ」 「それは……」 「そうだよそうだよ、おまえなんだ四四八この野郎! 今どき流行んねえんだよエロゲー主人公!」 「はは、あははは……」 「…………」 前言撤回。石神が傍にいようがいまいが、こいつらがやかましいことに変わりはなかった。 「まず落ち着け。おまえらがごちゃごちゃ騒ぐようなことなんか一つもない」 というのは早速嘘だが、すべて俺のせいじゃないので開き直っておこう。そのまま続ける。 「変人かって言われれば、まあ変人だ。おまえらといい勝負くらいには」 「あー、なんかその言い方、ちょっと腹立つんですけどー」 「だが本人はそれを自覚しているようだから、少なくともおまえらよりはマシかもしれん」 「それで美人かどうかだが……」 「なんだよ、今の間」 「四四八くん、ちょっと鼻の下伸びてたー」 「最っ低だなおまえ」 「貴様に言われたくないわ。妙な勘ぐりを入れるなっ」 ただちょっと、色々思い出してしまっただけだ、クソ。 「とにかく、そこらへんは判断できん。おまえらでそれぞれ勝手に確かめろ」 「ねえねえ、どう思いますかみっちゃんさん」 「これは臭いですよ歩美さん。かなり柊くんが挙動不審です」 「いや、まあ、あたしは四四八がそう言うならそれでいいけど……」 「喝ァーーつ!」 「痛っ、ちょ――なんだよあゆ、いきなり殴んなっ」 「あっちゃんはそうやって、いっつも肝心なときだけいい子ぶるのがずるいずるいずるいビィーッチ!」 「この計算触手ヒロインが」 「はああっ? おいノブ、おまえちょっとこの馬鹿姉貴どうにかしろ!」 「いやほんと、切実にすみません晶さん」 「おいなんだおまえら、朝っぱらからぎゃーぎゃーと」 「おう鳴滝、聞いてくれよ四四八がさあ――」 半ば収集がつかなくなりそうになったところで、もう一人登場。とはいえこいつは馬鹿騒ぎするタイプじゃないんで、事態の鎮静に一役買ってくれるかと思ったのだが。 「――てわけなんだよ」 「へえ、柊の家に下宿ねえ」 「でもそいつ、どこで寝起きしてるんだ? あの家、余ってる部屋なんか一つもねえだろ」 「あっ」 「うっ」 「そうだよっ」 「うわぁ……」 殺すぞ鳴滝――いや、おまえが悪いわけじゃないのは分かっているけど。 「ごきげんよう、クソ庶民ども。今日もそろって柊の腰ぎんちゃくってわけ。進歩がないわね」 「てなんじゃそりゃああああああっ!」 「うおォい、ちょっと待て! そこ逃げるな四四八くーん!」 「ちゃんと! 説明! しろメガネー!」 「あたしは、別に、四四八がなにしてようと、関係ねーし」 「すみません四四八さん、これはさすがに僕もフォローのしようがなくて」 「無視すんなあっ! ぶっ飛ばすわよ淳士ィ!」 「なんで俺なんだよ、ふざけんなコラ!」 背後に轟く怒号の嵐を一切無視して俺は走った。それで何かが解決するわけじゃまったくないが、現状手の打ちようがないので戦略的撤退を決めるしかない。 とりあえず奴らの頭が冷えるまで、文芸部の部室にでも隠れておこう。長瀬に捕まってアニメ哲学を延々語られるかもしれないが、そっちのほうが遥かに楽だと信じられる。 「あー、ちょっとちょっと、のっちゃんそこ! 四四八くん捕まえてー!」 「祥子、お願ーい!」 「うおおお、祥子さん! 今日も一段とお美しいィ!」 「なんですか、忙しない」 だがそのとき、俺はふわっと足元を払われて―― 「朝から女の敵ですか、四四八さん」 「おまえいきなりキツいんだよ野澤ァ!」 派手に地面をすっ転びながら、今日は絶対仏滅だろうと確信していた。 おかしい。これは絶対に間違っている。なぜ俺がこんな目に遭わなければならないのだろう。 だってそもそも、俺はこんな目に遭うようなキャラじゃない。それは栄光とか我堂とか、あとはせいぜい世良とかそのへんの役目なはずだ。 ああ確かに、最初にすべてを話さなかったのは俺の落ち度なのかもしれない。だけどあからさまな偽証をしたわけじゃないし、単に説明を省いただけで、それがここまで追い詰められるようなことなのか? いきなりドがつく三枚目を演じなければならないほどの罪なのか? だいたい、本をただせば元凶はクソ親父だ。むしろ俺は被害者であり、労わられるべき立場のはずで、幼なじみや級友たちからクズだカスだ女の敵だと罵られる覚えはまったくない。 ないだろう。そうだよな? 未だヒリヒリと痛む絆創膏だらけの頬をさすり、四方八方から飛ばされる殺気の刃にただ一人で立ち向かいながら、俺は黙して前方を睨んでいた。 というか、あまり他へ視線を向けたくなかった。 蹴るな我堂。消しゴムで狙撃してくるな歩美。クラス中にメモ拡散してるのは分かってるんだよ世良。晶おまえはいい奴だが、ぶつぶつ独り言が怖いからやめてくれると俺は助かる。 「大杉栄光――エイコーって呼んでくれ。オウイエース!」 おまえはいいよな、いつも馬鹿で。 「鳴滝淳士。ま、よろしくな」 完っ全に他人事って風情だなおい。そりゃ確かにそうだけど。 「はーい、それじゃあ一同お待ちかねの柊四四八ー。何か弁明があるなら聞いてやるからいってみようかー」 先生、これは自己紹介の場じゃないのでしょうか。どうして俺のときだけ魔女裁判みたいになってるんですか。 どう転んでも死、みたいな。 いや、いい。オーケー上等だやってやるよ。これ以上、無様を晒してなるものか。俺の尊厳を懸けて戦おう。 気息を整え、立ち上がり、改めて眼前の敵を睨みつけた。 石神、静乃……! 「柊四四八です。……よろしく」 「うん、またまたよろしくだな四四八くん。同じクラスになれて嬉しいよ」 万事において明朗闊達。はきはきと清々しいこいつの笑みが、今まさに俺を奈落へと追い詰めていた。 「よーし石神、それじゃあここで、さっき世良たちが言ってたことをもう一度確認しようか」 「おまえは柊の家に下宿してるんだな?」 「はい」 「本当か?」 「そうです……」 「しかも部屋が同じだって?」 「現状は」 「仕方なく……」 「それをどうにかする意思はあるのかなあ?」 「私としては、正直どうとも……」 「断固あります! 絶対あります! クソ親父ぶっ殺してでも書斎空けさせるんで、何も問題ありません!」 「信じらんなーい」 「らんなーい」 「ほんと、最っ低」 「おまえ、また顔芸のバリエーション増えたよな」 どんな顔か確認したいところだが、今は一瞬たりとも石神から目を離せない。俺は全力でアイコンタクトを促し続ける。 (貴様、余計なことは一切言うなよ。朝に約束したよな? 覚えてるよな?) (ああ、大丈夫だ。私を信じろ四四八くん) そのときは俺は、間違いなく石神と通じ合った。その迷いがない目の輝きに、頼もしさがこみ上げてくる。 よっし、勝った。いいぞ石神、あとでなんか奢ってやるよ! 「でもおまえら、結局一つ屋根の下なんだろー? この先間違いが起こらないって言い切れるのかよー? そんなん私は絶対許さんからなー」 「大丈夫です」 「ええ、何も心配要りません」 「なぜなら、保護者の許しは得ましたから」 「はい?」 「ん?」 こいつは、何を言っている? 「ですから、四四八くんの父親である柊聖十郎氏から私は直々に許されたのです。婿でも奴隷でも好きにしろと」 「よって私たちは、いわば親公認の関係であり、そこに“間違い”と呼ばれる事態など起こり得ないと言えるでしょう。なぜならすべて許されたのだから。何をやってもいいのだから」 「ちなみに私の親父殿も、似たようなことを言って送り出してくれました。婿でも見つけて帰ってこいと」 「素晴らしい。さすがそこは長年の友人同士、まさしく阿吽と言わざるを得ません。ゆえに皆さん、お分かりでしょうか」 「私こと石神静乃と、柊四四八くんの関係は決して疚しいものではなく――」 全員、残らず大口開けて絶句する中、石神は実に誇らしげな面持ちで俺のもとへ歩み寄り、そっと手を取ってからその演説を締め括った。 「もはや将来を約束された、許婚とさえ言えるでしょう」 「ふぁ、ふぁ、ふぁふぁふぁふぁふぁファァァーック!」 「なななななななにしてんだおまえええっ!」 「胸、胸、なんで胸……?」 「揉んでんじゃないわよ柊ィィィッ!」 ああ。 いいや嗚呼。 おかしい。これは絶対に間違っている。なぜ俺がこんな目に遭わなければならないのだろう。 理解を大きく超えた衝撃から手がまったく動かせないので、とりあえずこの意味不明な行為について俺なりの考察をしてみようと思う。 察するに、これは石神が俺に信を置いていることを皆に分からせるためのものであり、決して悪戯をしてるわけじゃないのだろう。 あなたに〈千信〉《ハート》を捧げると、言葉にするならそんなところか。うむ、しっかり鼓動が伝わってくるよ。まったく動じてないなおまえこの野郎クソこら。 「なんだろう四四八くん。皆が余計に大騒ぎをしだしたが……」 「もしかして、私はまた間違ってしまったのだろうか?」 「ふ、ふふ、ふふふふふふ……」 手を放せ。放せよ貴様。この瞬間にも俺の寿命がガリガリと削られているのがなぜ分からんのだ。 「しかしまあ、賑やかで面白いクラスだな。恵理子さんが言ったとおり、これなら仲良くなれそうだよ。本音を言うと、少し不安だったんだ」 そうか。それはよかったな。代わりに俺は死にそうだけど。 「なあ四四八くん。この調子で次は校舎の案内にでも――」 呼吸ができない。動悸が荒い。そのまま俺の視界は徐々に白くなっていき…… 「くっ、は――」 「あァ――、ちょ、四四八ァ!」 ぷつりと、そこで意識が途切れた。 「どうして私はこんななのか。どうして彼らはあんななのか。 どうしてこんなに、世界は間違っているのだろうか」  境界のはっきりしない意識の中、誰にともなく独りごちるそんな声を俺は聞いた。 「私はあなたを」 「そう、あなたを――」 「―――――――」 瞬間、俺は目を覚ました。 「うおッ――」 「……ぁ、は、っ……」 なんだ、今のは……? 「どうかしましたか、四四八さん」 「……野澤?」 飛び起きた俺は、傍らで不思議そうな顔をしている隣クラスの同級生、野澤祥子に目を向けた。 「はい。そうですがなんでしょう?」 「別に、ああ……なんでもないけど、おまえさっき、何か言ってたか?」 「いいえ。特には」 「じゃあ、ここに誰か他の奴は?」 「知る限り誰も。とはいえ私自身、たった今来たばかりなのでそれ以前のことは不明ですけど」 「…………」 「それが何か?」 「いや、なんでもない。たいしたことじゃないんだ、忘れてくれ」 寝ぼけていたのか、誰かが俺の枕元で何か言っていたような気がするんだが、すでにその内容も思い出せなくなっていた。 なので気を取り直し、改めて周囲を見回せば、ここはどうやら保健室。 それで察した。ああそうだったな、俺はなんとも情けないことに…… 「一応、事情は聞いています。四四八さんらしからぬことですが、まあお疲れだったということにでもしておきましょう。鬼の霍乱というやつですよ」 「誰でも巡り合わせが悉く悪くなる日というのはあるものです」 「そう言ってくれるとありがたいよ。すまんな野澤、おまえにまで迷惑かけたみたいで」 「気にしないでください。私、保健委員ですから」 しれっと言いつつ、自然にお茶などを出してくれる。この気遣いは、今どき珍しい大和撫子だと言えるだろう。 うちのクラスにも保健委員はいるのだが、そいつはどうやら俺を見捨ててくれたらしい。そのことを踏まえてみるに、やはり野澤は人間が出来ている。 朝、いきなり俺をすっ転ばしてくれたことへの詫びを兼ねているのかもしれないが、だとしても感謝はしておくべきだろう。 「で、今は何時なんだ?」 「ちょうど昼休みが始まったところですよ。午前を潰しちゃいましたね四四八さん」 「午後からはいけそうですか?」 「ああ、大丈夫だ。それに午後は文化祭の出し物を決めるクラス会議だし、俺がサボってたら絶対に纏まらないだろ」 「今の四四八さんが仕切りにいったら余計に揉めそうな気もしますけどね」 「うるさいな。だから名誉回復を狙うんだよ」 千信館では五月末に文化祭が催されるので、この時期は非常に慌しい。入学したばかりの新入生はもちろんのこと、俺たち上級生もクラス替えをしたばかりなので色々と融通するのが大変なんだ。 なので正直、定番どおり秋にしてくれよと生徒の大半が思っているわけなのだが、そこは校訓ということで押し切られてしまうのが現状。すなわち、〈千〉《アマタ》の信頼を育むために努力をしろと。 そう言われたらこっちはやるしかないわけで、気合いを入れなきゃならんわけだ。 「ちなみに、野澤のクラスの出し物候補は何なんだ?」 「残念ながら、まだ混沌としてますね。長瀬くんの戯言を食い止めるのに精一杯と言いますか」 「そちらのほうは?」 「こっちは一応、演劇に決まりそうではある。何をやるかは意見が割れまくってるから、そこを纏めるのが議題かな」 「どうせ四四八さんは八犬伝を推してるんでしょう」 「悪いかそれが? 別に問題があるとは思えんが」 「私としては夏目漱石を推しておきます」 「考えとくよ。じゃあ俺は行く。世話になったな」 言ってベッドから降りた俺は、野澤に手を振って保健室を出ようとした。 その間際に。 「四四八さん」 「例の石神さんのことでしたら、晶さんたちが校舎の案内をすませたようなのでご心配なく」 「それから、一応誤解は解けているようですよ。かなりすったもんだした末でのことみたいですが」 それは、その場を想像するだに恐ろしいので、ある意味倒れて正解だったのかもしれない。 「ですが、一つ忠告をさせてください。いくら頭じゃ分かっていても、そんな簡単に納得できないこともあります。女子ならば、特に」 「なのでフォローを忘れないでくださいね」 「ああ、言われなくても」 頷き、俺は自嘲して。 「分かってるよ。ありがとう」 そう改めて礼を言うと、保健室を後にした。 「さて……しかしフォローと言ってもな」 野澤の言ってることは分かるし俺もそうするつもりだが、間違っちゃならないのは順序というやつだろう。何にでも言えることだが、問題は根本をどうにかしない限り解決しない。 いくら俺が晶たちに詫びるなりして信頼を回復したとしても、それは一般にその場しのぎと言われるものだ。元凶を放置していれば同じことの繰り返しになるのは子供でも分かることで、そんな選択を誠意とは言わない。 よってこの場合、俺が何よりも優先しなければならない事案は決まっていた。 「おお四四八くん、やっと戻ってきたのか。寂しかったぞ」 石神静乃。この爆弾女と対決することに他ならない。 「うん? どうしたんだ顔が怖いぞ。もしかしてあれか、朝のことを怒っているのか?」 「まあ、そのへんについては後だ」 知る限りこいつは実直なので文句を言えば真摯に謝ってくるだろうが、そのためには何をどう間違ったのか正確に理解してもらわねばならない。プラス、どうして間違ってしまうのか原因の自覚も。 そういうわけで、問題を解決するなら根本からだ。まずはこいつという人間を知ることから始める必要があるだろう。 「昼飯、まだだろ? 一緒に食べよう。ただし人目のないところでだ」 「そこでおまえのことを聞かせてくれ」 「私のことをか? それはどういう……」 「おまえがなんでそういう……あれだ。とにかく騒動ばかり起こすのかってことについてだ」 「俺が嫌がることはしたくないんだろう? だったら協力してくれよ」 「なるほど、確かにそれはそうだな。実に論理的で素晴らしいぞ四四八くん」 なんで偉そうなんだよと突っ込みを入れたかったが、こんなところで時間を引っ張った挙句に目立ちたくない。早急に移動しよう。 「場所の希望はあるか?」 「それなら、本がたくさんあるような所がいい。私も説明しやすくなる」 「本、ね……」 だが図書室は駄目だろう。あそこは相応に人がいるし、そもそも食事厳禁だ。 となれば、該当するのは一つしか思いつかない。 「分かった、ちょうどいい所がある。行くぞ」 「へーい、何処に行くのかな四四八くん」 「―――――ッ」 「わたしたちに一言もなく、しーちゃん連れてご飯ですか。そりゃ楽しそうですねー」 唐突に背後から肩を捕まれ、驚いて振り返ったら、そこにはこいつらがそろっていた。 あれ、何か間違ったか俺? さっき石神も言ったとおり、極めて論理的な判断をしたつもりなのだけど。 「し、しーちゃん?」 「私のあだ名だ。歩美が考えてくれたんだぞ、気に入っている」 ああそうか。よかったな。だが黙ってろおまえ。頼むからサイレンスだ。 「しかしみんな、申し訳ない。どうやら四四八くんは人気のない所に私を連れて行きたがっているようなので、この場は席を外してくれると助か――」 「だから黙ってろと言っただろうが貴様ァッ!」 「い、言ってないじゃないかっ、なんだいきなり君は理不尽なっ」 「まあまあ、そのへんのことも含めて、みーんなでゆーっくり話そうよ。一緒にご飯でも食べながらさ」 「で、何処に行くつもりだったのよ柊」 「す、すまん四四八。あたしはその、止めたんだけども……」 「…………」 さあ正念場だ。図らずもこうなった以上、事態に立ち向かっていくしかない。 勇気を出せ。思考を止めるな。これからどんなことが起きようと即座に対応するんだ柊四四八――おまえなら出来る。 出来る……よな? 「いやーほんと、恵理子さんの作るご飯は美味しいなあ四四八くん」 「あっはっは、二人のお弁当、中身まったく一緒だよ。あっはっは!」 「一緒に暮らしてるっていうのをまざまざと語る物体よね、これ」 「あれえ、どうしたのかな柊くーん。恵理子さんのお弁当美味しくないのかなー?」 「お茶いるか、四四八?」 「……すまん」 結論、どうにも出来なかった。 本が多くて人気のない場所という条件に合致するのは文芸部の部室で、すなわちここだが、もはや当初の目的などまったく果たせそうにない。 俺たち全員、完全に部外者だけど、ここのエースは野澤なのであいつに言われたことをやるのに必要という大儀が立たないわけでもない――なんて理屈は遥か彼方に吹っ飛んでいる。ほんと、どうすんだよこれ。 「それでね、ちょっと聞いてよ柊くん、静乃ってば田山花袋とか読んで勉強したんだって、男心を」 「うむ、『蒲団』は名作だ」 「なあ、それってどんな話なんだよ?」 「女にふられた男がその蒲団にくるまって残り香に悶々とする話よ」 「時雄ぉー、おまえこそ漢の鑑だぁー!」 「絶対違うわ、ふざけるな!」 とも言い切れないがとにかく違う。いやもちろん田山花袋及びその著作に文句をつけたいわけじゃない。 わけじゃないけど、やっぱりチョイスがおかしいんだよ。弁当を食べる傍ら、机に広げられた曰く石神の〈聖書〉《バイブル》を読み漁りながら歩美はゲラゲラと笑い続けている。 「舞姫、こころ、伊豆の踊り子、痴人の愛……どれも日本を代表する不朽の作品だと思わないか?」 「それは思うよ。偉大なのは間違いない。だがな石神……」 「ナオミー、ビッチこの野郎ぉー!」 「男女の関わりとはこういうものだと、私は親父殿に教わったんだ。そこから現代と都会風のアレンジを考察してだな……」 「うわぁ、ちょ、これ……うわぁ」 「なんだこれ豊太郎……おまえそれでいいのかよ。エリスの気持ちを考えろよ」 「まあ、男の馬鹿さ加減が実によく現れてるのは確かよね」 「もうさ、私なんだか面白くなってきちゃったから、これはこれで有りだと思うんだよね。うん、静乃は間違ってないよ」 「そうか、そうだよな。ありがとうっ」 「この豆腐メンタル連中萌えぇー!」 「向上心のない奴は馬鹿だっ」 「四四八が言いそうだよな、それ……」 「むしろ全体としてそこはかとない信明臭に私は一周回って愛しさを禁じ得ないわよ」 「新ジャンル、ノブくん系男子っ!」 「ノブくーん! 現実を見てー!」 「ちょっと、人の弟を変態みたいに言わないでよっ」 「変態なのか?」 「違うからっ!」 盛り上がってんなあ、こいつら。 俺が寝てる間に石神と仲良くなったらしいのは結構だけど、お陰でもとから大概だった女連中が余計手に負えなくなった気がする。 が、これだけは言わせてもらおう。 「石神、うちのクソ親父とおまえの親父さんに何を吹き込まれたのか知らないが、今どき親が言ったからって許婚もへったくれもない。この小説みたいな、百年前の話じゃないんだぞ」 「だからそういうところ、もっと柔軟な対応をだな……」 「四四八くんは嫌だったのか?」 「嫌というか……とにかくデリケートな問題だろ。俺とおまえが現状一つ屋根の下なのは事実だが、先生が言ってた間違い云々って疑いを晴らすなら他にもっと言いようがあるだろ。ていうか、先生が言ってた意味を正しく理解しろよ。弁解になってないんだよ、あれじゃあ」 「だいたい、おまえ自身の気持ちも大事なわけでだな……」 「私はまったく問題に思っていないぞ?」 「だからっ、それは本当におまえがちゃんと考えたことなのかって、俺はだな、――ああもう!」 「どうしましょう、みっちゃんさん。この議論すげー面白いです」 「同感です歩美さん。こんな柊くん滅多に見れないのでニヤニヤが止まりません」 「さあ早く、もっと私たちを楽しませなさいよ柊」 どうして! 俺は! 女五人に囲まれて恋愛論および貞操論などを語らなければならないんだ! おいこら、ほんとマジで責任者出て来いよこれ。 「でもさ、なんかこうやって見ると、静乃って踊り子の薫みたいだよな。世間ずれしてないっつーか、真面目で純粋培養っつーか」 「歩くラッキースケベなところとか?」 「ああ、それなんだが実を言うとな。今朝偶然にも――」 「があああ、黙れうるさいんだよはい終わりィ! メシ食ったんだから解散だ解散っ」 「えーっ」 えー、じゃねえよ。おまえら全員を相手にこの場を収集するのは到底不可能だと悟ったので、もはや強引に切るしかない。でないと俺の胃が保たん。 まあポジティブに考えれば、石神のおかしなところを具体的に理解できたというだけでも収穫なんだろう。 そう思いたい。ほんとに。 「なあ四四八、せっかくだからあたしこの本持って帰りたいんだけど、誰に断りゃいいのかな?」 「……それは、たぶん野澤だろ。あいつの持ち物なんだろうし」 「呼びましたか?」 「うおっ」 まさに噂をすればという感じで、野澤が部室にやってきた。 「あ、祥子ー。お邪魔してるよー」 「のっちゃんもご飯食べに来たのー?」 「いえ、私はもうお昼をすませたのでそういうわけではありませんが……」 言いつつ、部屋の状況をゆっくり見回し、じろっと俺を見てくる野澤。 「なんていうか、すまん……」 いや本当、おまえの城を散らかして実に申し訳ない。ここまで騒がしくするつもりはなかったんだよ、信じてくれ。 そんな謝罪をどう受け取ってくれたのか、野澤は小さく溜息を吐いていた。 「でさ祥子、あたしこの本持って帰りたいんだけど、いいかな?」 「構いませんよ。文学に興味を持つのはいいことです。ただ、汚したり乱暴に扱ったりはしないでくださいね」 「それから」 つ、と石神に向き直って、野澤はぺこりと頭をさげた。 「はじめまして、野澤祥子といいます。あなたが噂の石神さんですか?」 「うむ、そうだよろしくな。気軽に静乃と呼んでくれ」 「はい。ですがあまり、四四八さんをいじめないであげてくださいね」 「皆さんも、悪乗りはほどほどにしたほうがいいですよ。もう充分に気は晴れたでしょう?」 「はーい」 「まあ、そりゃあねえ」 「祥子にそう言われたんじゃ、しょうがないか」 「野澤……」 おまえ、ほんとにいい奴だな。こいつらに爪の垢でも煎じて飲ませたい気分だよ。 石神とか特に。本の嗜好が同じなのにどうしてこうも違うのかと。 「変だな。いじめてるつもりはまったくないのに、そう見えるのか……不思議だな」 一人きょとんとしているこいつについては、追々意地でもカタに嵌めよう。これは沽券に関わることだ、真剣に。 「じゃあともかく、本当に邪魔したよ。今度何かのかたちで絶対に埋め合わせはするから」 「ばいばい祥子、また放課後にねー」 「これありがとな。大事に読ませてもらうからよ」 「なあ、私が四四八くんをいじめているとはいったいどういう……」 「はいはい、それはあとでね。行くよしーちゃん」 「勝手に部室を使っちゃって、ごめんなさいね祥子」 と、口々に言って場を辞そうとしたのだが、俺だけ野澤に呼び止められた。 「待ってください四四八さん、これをどうぞ」 「ん、なんだよ?」 手を取られ、渡された物を見てみれば…… 「…………」 メダル。よく分からんが、謎のメダルがそこにあった。 「〈文芸部〉《ここ》の主は私じゃなくて長瀬くんですから、以降この場を使うならそれが必要です。なくさないようにしてください」 「持っていると、なかなかいいことがあるかもしれません」 言いながら、しかし野澤の顔は険しいので、その“いいこと”とやらが俺にはまったく見えなかったし、むしろ不気味だった。 「あなたに王子の加護がありますように」 「いや、おま、なんでそんな吐き捨てるみたいに……」 「さようなら」 「おい、野澤っ」 行ってしまった。なんだろうこれ。 皆目見当もつかないが、しかし持っていろと言うなら持っておこうかなと俺は思った。 その後、とりあえず自分の教室に戻ろうと廊下を歩いていた俺は、窓の向こうに馴染みの背中を見咎めた。 「世良か……」 一瞬だったが間違いない。校庭の方へ向かう世良の姿を見つけた俺は、すぐ後を追うことにした。 そして…… 「待てよ世良、何処に行くんだ?」 「あ、柊くん。何処って別に、部室だけど」 俺の声に振り返った世良は、そう言って指にかけた鍵を回してみせた。こいつはテニス部のエースだから、昼休みにも軽い練習をしていることは珍しくない。 だったらこれは、少しタイミングが悪かったかな。トレーニングの邪魔をするのは俺としても本意じゃない。 「そうか、だったらいいんだ。すまんな、急に呼び止めて」 「いいよそんなの。どうしたの柊くん、何か用?」 「用ってほどのもんじゃない。ただ、その、ほら……あれだよ」 「うぅん、何かな? ちゃんと言ってくれないと分からないなぁ」 にこにこ笑いながら小首を傾げてとぼける世良。こいつ、絶対分かってるだろ。 「例の、あいつだよ石神のこと。それで、おまえに話があってだな」 「つまり、弁解しにきたと」 「弁解って言うか、訂正だ。そのへん、誤解は解けたって聞いたけど違うのかよ」 「うーん、何のことかイマイチ私わかんないなあ」 「世良、あのな……」 「あはは、ごめんごめん。冗談だってば、怒んないで」 「柊くんがあんなに慌てるなんて滅多にないから面白くって。あの後みんなで静乃と話したから、だいたいのことは分かってるよ」 「ならいい。頼むからあんまり弄らんでくれ。こっちは朝から、気の休まる暇がないんだ」 深く溜息を吐きながら脱力する。本当、近年まれに見る厄日だよ。 「まあでも、実は結構美味しいとか思ってるんじゃない? ヘンな子だけど、可愛いもんね静乃って」 「断じてそんな風には思ってない。おまえも幼なじみなら、俺がどういう奴かは知ってるだろ」 「ちゃっかり名前呼びしてるあたり、おまえはおまえであれと仲良くなったみたいだが」 「うん。だから私は分かっちゃったよ。ああこれ、柊くんの好みだなって」 「なんだよそれ」 「あれ、自覚してない? じゃあ説明してあげよっか?」 もう弄らないでくれと言ったのに、世良は俄然面白がるように畳み掛けてくる。俺はうんざりと手を振った。 「そんな説明はしなくていい。だいたいおまえ、テニスの練習するんだろ。もう行けよ」 「なんだつれないなあ。別に今日は練習するつもりじゃなくて、部室の掃除でもしようと思っただけなんだけどね」 「だから気を使わなくても結構です。柊くんのほうから話しかけてきたんだし、そんなさくっと切り上げないでよ」 「ほらあっち。あそこらへんでもうちょっとお話しよ。せっかくだから、ね」 言って、世良は校庭の隅にある木陰を指差す。確かに声をかけたのはこちらからだし、そこまで言われたら断れない。 「分かった。けど、あんまりしつこいようだと」 「マジで帰るぞ、でしょ? 分かってるよ、何年幼なじみやってると思ってるのよ」 幼なじみだからおまえの手強さを知ってるんだよ。そう思いつつも、すでにペースを取られているのは如何ともしがたい事実だった。 「でね、さっき言ったことだけど――」 木陰に二人並んで座り、世良は微笑みながら話し続ける。内容は言うまでもない、俺の好み云々という話だ。 「柊くんは基本ばしっとしてる人だから、同じようにびしっとしてる人が好きなのね。私たちの中だと祥子とか、鳴滝くんとか、幽雫先生とか」 「とにかく芯がぶれない感じの人。融通効かないから誤解されることも多いけど、だからって卑屈になったりしない人」 「思ったことはずけずけはきはき言っちゃう人で、その結果を恐れない人。だけど自己中なわけでもなくて、自分が悪いと思ったらさっと謝れる人」 「つまり、一口で言えば潔い人。柊くんの好きなタイプって、そういう人だよ」 ということを、実に楽しそうな様子で語ってくれた。 「潔い奴、ね」 それはまあ、言われてみれば確かにそうだ。そもそも、そんな奴を嫌う人間自体、そういないだろう。 「石神がそういうタイプだって?」 「私はそう思ったけど、違う?」 「どうかな。それが分かるほどあいつのことは知らない。俺にしたって、今朝初めて会ったばかりだし」 「けど、真っ正直な奴だろうとは思ってる。良くも悪くも、小細工しないタイプだろうな。無駄に爽やかだし」 「嘘も隠し事も出来ないような感じだよねー」 にやにやしながら言ってくるのはあからさまな当てつけなので、大きなお世話だと言っておいた。世良は依然笑いながら、重ねて続ける。 「私も好きだよ、ああいうタイプ。憧れちゃうな」 「結構ほら、私ってばびびりだからさ」 「確かにな」 「そこはそんなことないぜって言いなさいよー」 「俺も嘘や隠し事が出来ないタイプの男なんだよ」 世良は仲間内でも結構特殊だ。一番繊細と言い換えてもいい。 普段はこんな風に明るくおちゃらけてる奴だけど、内に溜め込む癖がある。それだけなら特に珍しくもないんだろうが、こいつの困ったところは溜め込める量が膨大だということ。 なまじ全般的に能力が高いので、内心悲鳴をあげながらでもかなりのところまでこなしてしまう。だからパンクしたときは大変で、誰の手にも負えない事態になりかねない。事実、過去に危なかったときが一度あった。 以来俺たちはこいつの悪癖が出ないように注意してるし、世良も自省してるようだから問題は起こっていないが、付き合うのに独特のコツがいるタイプなのは間違いない。 潔い奴に憧れるといった先の言葉も、そのあたりを弁えてるからこそのものなんだろう。 「よっし、じゃあ私も、少しそういうのを見習って潔くなってみる」 「柊くん、ちょっといいって言うまで目を瞑ってて」 「なんでだよ」 「いいからっ、私が溜め込むと面倒くさくなるの知ってるでしょ。ストレス解消したいんだから協力してよね」 などと、いきなりそんなことを言ってくる世良。 ストレス解消という言葉が不安感を搔き立てたが、まさか殴られるようなこともあるまいと思って、俺は大人しく従った。 そしたら。 「すーはー、うん。それじゃいくよ」 何をだ? 疑問は尽きないが身構える俺の身に起こったことは、だいぶ予想外のものだった。 「…………」 「…………」 「あの、世良さん?」 「なーに?」 依然、目を明けていいという許可は出ていないから視認できているわけじゃないが、それでもどんな状況なのかは簡単に理解できる。 芝生に座っている俺の膝に、バレーボールくらいの丸い塊が乗っていた。とはいえボールほど軽くはなく、そこそこ硬くて、適度な重さ。 それでいて、こっちをからかうようにくりくり転がっているときたら、もう答えは一つしかないだろう。 「なにやってんだよ、おまえ……」 「さあ、なんでしょうねー」 当ててみて、と言わんばかりに膝の上から声がする。そう言われると言葉にするのは恥ずかしく、だから心の中で答えるだけに留めた。 膝枕。 なんだかよく分からんが、世良は俺の膝を枕にして寝転んでいるようだった。 「これにいったい、何の意味があるんだよ」 「んー、強いて言うならマーキング……みたいな?」 「これは私のものだぜ、的な」 「悪いが、俺の膝は俺のものだ」 「あと、あまり動くな。くすぐったい」 「へ、へんなところが反応しちゃうぜ。とか言う?」 「ぶち殺すぞ貴様、このびびりが」 見えていないと思って調子に乗るなよ。歩美ならいざ知らず、おまえ単品のセクハラなど余裕で一蹴できるわ。身の程を知れ。 「なによ、静乃のセクハラにはあわあわしてたくせにー」 「なんか柊くん、私のこと甘くみてるでしょう」 「別にそんなことはない」 どころか、仲間内で俺が一番一目置いているのはこの世良だ。 なぜなら自分で言うのも口幅ったいが、勉強にしろ運動にしろ、千信館の同学年で俺とタメを張れるのはこいつしかいない。 いいやむしろ、総合的に見れば俺より上とさえ言えるだろう。 だけど世良はこういう奴だから偉ぶらないし突っかかっても来ないので、不思議とライバルという感じじゃなかった。 それはどういう間の取りかたなのか、俺や我堂のような奴には分からないし真似も出来ないことなので、一定の敬意を払っている。 「まあ、いいけどね。私、あんまりどっちが上とか下とかには拘ってないし」 「そういうのに強い人は、他にしっかりいるもんね。ああ、だからってやる気なく適当にしてるわけじゃないんだよ?」 「分かってる。当たり前だろ」 適当に流してあんな成績を叩き出されたら、俺含む全員が自殺ものだ。勝負事やトップに拘らないからといって、それは世良が厭世的という意味じゃない。 「おまえが勝負に真剣な奴を馬鹿にしてたり、もしくはそういう奴らに気を遣って手加減してたら、とっくに我堂あたりが切れてるよ。もちろん俺も」 「だよねえ。だからそんな怖いこと、出来ません」 「鈴子とか、柊くんとか、上り詰めるぜって気持ちが強い人たちはリーダータイプなんだよ。私はそんな人たちの力になりたいから、そのために頑張るの」 「へい旦那、世良水希は結構使える奴ですぜ、みたいな」 フリーランスに向いている、とでも言うべきなのか。世良の特性は、つまりそういうものだった。 「で、そんな使える世良水希さんが、今やってるこれにはいったい何の意味がある?」 「ん? ごめんそこはあんまり関係ない」 わりと長い説明を要した果てに、こいつはそんなちゃぶ台返しをしやがった。 「あ、ちょっと怒んないでよ。枕硬くなった、寝心地悪いー」 「だったらすぐにどいてくれてもいいんだぞ」 「もう、そんなのただのメンテナンスに決まってるじゃない。ストレス解消だって言ったでしょ」 「私、トップ争いには拘らないけど、だからって何にでも無欲なわけじゃないんだよ。そんな仙人じゃないんだから、欲しいものくらいあるよ」 「正しくは、勝ちたい勝負も少しはある……かな」 呟き、頭の位置を変えた世良が、俺の顔を見上げているのが気配で分かった。 ちょっと、これは、なおさら目を明けるのが躊躇われる状況になってしまったような気がする。 「それが俺の膝だって?」 「ま、今のところはね。これくらいで勘弁してやることにするよ」 「しゃあ、充電完了っ! もう目を明けていいよ柊くん」 言って、世良は俺の膝から身を起こした。そこでようやくお許しも出て、目を明ける。 「さ、そんじゃ戻ろうか。他のみんなにもフォロー入れないといけないもんね。大変だ君は」 「いや、もういい。おまえの相手だけで、だいぶ疲れた」 「おぉっと、そんなこと言っちゃうんだこの人は。いいのかなあ、特に歩美とかおっかないぞぉ」 「そこは充電完了したおまえがなんとかしてくれよ。使える奴なんだろ? リーダーの役に立て」 「うわひどっ、ちょっと自分がどれだけ鬼畜生なこと言ってるか分かってるの? 柊聖十郎か君は」 「あん、なんだと? おまえもう一回言ってみろそれ」 そんな、埒もない言い合いをしている間に、結局昼休みは終わってしまった。 しかし、世良の相手でだいぶ色々持っていかれたのは事実なので、他の奴らを回っている余裕は実際ない。 これが俺なりの、こいつに対する答えのつもりなんだけどな。 その後、とりあえず自分の教室に戻ろうとした俺は、廊下を歩いていると栄光に出くわした。 「おう四四八、今朝は色々大変だったな。もう大丈夫かよ」 「お陰さまでな。まったく助けちゃくれなかった幼なじみには感謝してるよ、栄光」 別にこいつへ文句を言う筋じゃないことくらい分かっているが、いきなりの爽やかな笑顔に軽く腹が立ったので挨拶代わりの嫌味くらいは入れておいた。 どだいこいつは、何を言ったところで真面目に傷つくような可愛い性格をしていない。そのへん、非常に羨ましい心の持ち主だから。 「そう言うなよ。あの場のノリってもんがあんだろ?」 「だいたいあそこでおまえを庇うような真似は、他の男連中に対する裏切りだぜ。オレ、そういう仁義は大事にしたいと思うんだよね」 「分かった分かった。で、その仁義に篤い栄光はこんなところで何をやってるんだよ」 ここは自分たちのクラスも含め、知り合いの教室がある棟じゃない。かと言って、何処かへ向かう途中という風にも見えなかった。 「ん、そりゃ当然、仁義のためだよ。オレはおまえを待ってたのさ」 「言ったろ? そういうのは大事にしたいと思ってるんだ」 「すまんが、まったく話が見えん」 「聞く限り、俺に何らかのフォローをしようとはしてるようだが」 それが何なのか全然分からず訝る俺に、栄光はにやにやしながら話を続けた。 「とりあえず四四八、おまえちょっとここで待ってろ」 「きっといいことがあるぜ? すぐ戻ってくるから、いいな? ここで待ってろよ」 「あ、おい――栄光!」 呼び止める俺を無視して、そのまま栄光は逃げるように去っていった。 「なんだ、あいつ……」 いつも以上に意味が分からない。ここで待ってろ? すぐ戻る? そうすりゃいいことがあるだって? それはつまり、何か面白いものを持ってきてくれるということだろうか? 「仕方ない……」 依然として予想できないが、そこまで言うなら待ってみよう。あいつの仁義とやらを信じてみることにする。 そう思い、しばらくその場に佇んでいたのだが…… 「……遅い」 あれからもう、十分は経ってるぞ。何を持ってくるつもりなのか知らないが、ここと教室の往復程度なら五分も掛からないはずだろう。 これは一杯食わされたのか? そう思いつつも、ただ俺を待ちぼうけさせるだけなんて悪戯はいくら栄光で低レベルすぎるだろう。 じゃあいったい、どういうことだ? 微妙に苛々してきたが、短気を起こしても答えは出せないので落ち着こうと考える。とりあえず、背後にある空き教室のドアに寄りかかって、リラックス目的の深呼吸をしてみた。 すると…… 「……ん?」 今なにか、聞こえたように思うのは気のせいか? 不審に感じたのでもう一度、気を静めつつ意識を耳に集中させる。 「………せ。………ませー」 「違うな、ええっと……さまー、じゃない。何やってんだあたしは……」 「……晶?」 ドアの向こうから微かに聞こえてくるのは晶の声だった。内容までは分からなかったが、何かの練習でもしているみたいだ。 「演劇? いや……なんだ?」 「しっかしこれ、どうなってんだよ。意味分かんねえっつうの」 「男って、ほんとにこんなもんがいいのかなあ? 馬鹿じゃないのかマジで」 「けどなあ、実際商売にもなってるわけだし、需要はあるってことなんだよなあ……うちの店でやったらどうなるんだろ」 「恵理子さんとか……そばもんよりはいいのかも。いやでも、あたしはしないよ? しないって絶対」 「…………」 分からん。なんの独り言を呟いてるんだ晶。だんだん俺も気になってきた。 「でも四四八はさ、どう思うのかな。あたしがほら、こんな風にさ……」 「おい、晶」 自分の名前が聞こえたので、我慢できなくなった俺はドアを開けた。 そのとき、そこで見たものは―― 「いらっしゃいませご主人様。本日きそば真奈瀬はスペシャルメイドデーでございまーす」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 よし。 ほんとにどうしようこれ。 「可愛いぞ、晶」 嘘ではない。俺も男だ。メイド服の良さが分からんほど野暮ではないと自負している。 ああ、今のおまえは掛け値なしに素晴らしいとも! 自信を持て! 「頭大丈夫か、晶」 あまりの衝撃に、俺はついそんなことを言ってしまった。 いやだって、ギャップ的に仕方ないだろこれ。 「メイド萌えええええええっ!」 俺は男だ。いいや漢だ――! おまえにだけ恥を掻かせるような真似は断じてしないぞ。さあ晶、声高らかに謳いあげよう! メイドは実に素晴らしい! 「LOVEりークマたんはんばーぐデラックスやすらぎ風味を一つ、至急持ってきてもらいたい」 一片の違和感さえも滲ませない、完璧にクールかつ隙のない態度で、俺は目の前のメイドに注文を告げた。 「う……」 「う?」 「うにゃあああああああああああっ!」 だが返ってきたのは、熱湯に落ちた猫みたいな絶叫だった。 「な、なななななんだよぉ、なんでおまえがこんなとこにいんだよぉ! 見んなよ、見んな見んな見んな帰れええぇっ!」 「いやでも、しかしな……」 どうして晶は、こんなところでメイド服などを着ているんだろう? ていうかそれ、えらい本格的だけどいったいどこから入手したんだ? 「おまえ、わりとノリノリだったじゃないか」 「うるさい馬鹿っ、ほっとけよぉ! いつまで見てんだあっち行けええぇっ!」 「う、うぅ、うわあああああん」 「すまん、俺が悪かった」 ついに泣き始めた晶に慌てた俺は、即座に謝ってドアを閉めた。こっちも大概驚いたので、まだ心臓がばくばくいってる。 しかし、栄光…… 「あの野郎、こういうことかよ」 ここで待っていればいいことがあると。確かに面白いものを見せてもらったが、心臓に悪いんだよあの馬鹿。 そう心の中で毒づくも、今は晶のことだろう。悪気はなかったしこっちも嵌められた側なんだが、結果的に怒らせてしまったのでややこしくなってきた。 この状況で、何をどうフォローすればいいのか分からんぞ。 と、悩んでいたところで晶が出てきた。当たり前だが、普段の制服姿に戻っている。 「…………」 「…………」 睨むなよ。 悪かったって。さっきのは誰にも言わないから機嫌直せよ。 「見たか?」 「見た」 「忘れろ」 「分かった」 他に返答のしようがない。だが正直言うと、写真くらい撮っておけばよかったかなと思ってもいた。 「四四八、おまえ今ヘンなこと考えてただろ」 「馬鹿を言うな。ヘンなことってなんだ? 俺は何も考えてないぞ」 白々しいかもしれないが必死になって頭を振る。晶をそんな俺を眇め見ながら、肩を落として嘆息した。 「いいよ別に。どうせ腹の中じゃ笑ってんだろおまえ。あたしだって分かってるし、似合わねえってことくらい」 「あれはただ、文化祭のネタの一つでだな……うちのクラスがやるんじゃねえけど、なんかそこにあったからつい、ついだよ。魔が差しただけ。ほんとそれだけ」 「別にあたしが、実はあんな趣味してるなんてわけじゃないから、そんな引くなよ。鳥肌立てんな」 「そういうこと。分かった? じゃあもう行くぞ」 「いや、おい、ちょっと待てよ晶」 ぷいとそっぽを向いて行こうとする晶の肩を掴んで引き止めた。どうやらこいつ、メイド姿を見られたショックがでかくて、最初に俺がした反応を覚えてないらしい。 だったら改めて、正直なところを言うべきだろう。 「なんだよ、そんな馬鹿にしたいのかおまえ」 「服が可哀想とか、そういうこと言いたいわけ?」 「馬鹿、違う。そうじゃない」 かなり衝撃的だったのは事実だが、それはこいつがさっきから繰り返してるような意味でじゃない。 むしろ逆って言うか、つまりあれだよ。 「可愛かった。似合ってたぞ晶」 「んなっ――――」 今もほら、凄い勢いで赤くなっていくところとか、特に。 「メイドの素質は充分だ。今度、よければもう一度見せてくれ」 「ば、ば、ばばば馬鹿じゃないの、なに言っちゃってんのおまえっ? そんなのないから、絶対ないからっ!」 「それは二度と見せないということか? もしくは、あくまで似合わないと言い張ってるのか?」 「どっちもだよっ! ああもう、なんだおまえほんっと最悪! もういいからついてくんな、ついてくんなよバカー!」 「しかしおまえのメイド姿は実際に……」 「うるっさいんだよ、メイドメイドメイドメイド――おまえなんかメイドの国に行ってメイドに囲まれながら死ねっ、この馬鹿っ! メイドメガネっ!」 などと大股でどすどす地響きを立てながら、肩を怒らせて晶は去っていった。 まあ、あんな態度だけど少しは機嫌を直してくれたのかもしれない。ここはそう思っておこう。 「よぉ、どうだった四四八。なかなか面白ぇイベントだっただろ」 「栄光……」 その一部始終を覗き見していやがったのか、にやにや笑う栄光がいつのまにか横にいた。 「おまえ、ちょっとこっち来い」 「うん、どうした?」 俺は深呼吸を一つして、精神集中。 「ふんっ」 「ぐほぁっ」 かなり的確にボディブローを叩き込んでやった。 「ちょ、おま、なんだよいきなり、なにすんだよっ」 「別に、おまえのノリに応えただけだ。男同士の付き合いってやつだよ。仁義だな」 「お、おう、そうか……仁義って、痛ぇんだな」 そのまま崩れ落ちる栄光を尻目に、俺もさっさとこの場を去る。 確かに面白いものを見せてもらった。それは感謝の印なんで、遠慮せずに受け取っとけよ。 「しかし、フォローか……」 野澤にはああ答えたが、やはり釈然としない気持ちも少しある。 自分の行いによるしっぺ返しならば納得もできるのだが、今回のは事故に巻き込まれたら自分の車だけがぺしゃんこになっていたという感覚だ。 ……いや、もちろんフォローを入れておくに越したことはないと分かっているけど。 「ひとまず教室へ戻るか」 ともかく、今のまま謝ったりしたら、何も考えずに頭を下げているだけになってしまう。 そういうのは不誠実極まりないし、何の解決にもならないだろう。 俺はどのように状況を纏めればいいのか、頭を抱えながら自分のクラスへ足を向けた。 そして、昼休みの教室の扉を開けると、そこにいた馴染みの面子は歩美だけだった。 「あ、四四八くん。お帰り」 「ああ、で、他の奴はいないのか?」 「うん。あっちゃんたちは用事があって、わたし一人でお留守番だよ」 「留守番、ね」 教室に残っているのが、はたしてそんな表現になるのだろうかと思ったが、この際どうでもいいことなので流しておく。 そんな俺の様子を見ながら、にやにやしているこいつをどうするかということのほうが遥かに重要な問題だ。 「それより、朝は大変だったねえ」 「……おまえ、本当にそう思っているのかよ」 「もちろんだよ~、四四八くんが栄光くんの言うようなエロゲーハーレム主人公なわけないのにね」 「おまえも相当煽ってたような気がするが」 「いやだなあ、記憶の捏造は良くないようん」 というか、栄光はハーレムとまでは言ってなかったはずだろう。 段々と歩美の態度が悪戯っぽくなっていくのを感じる。楽しければオーケーという、こいつ特有の悪ノリだ。 それに頭を痛めながらも、しかしこれは不幸中の幸いだと思う。なぜなら一番事態を掻き回すのはこいつだから、他の奴がいない状態で歩美を確保できたのは運がいい。 ここで上手く立ち回れば、この後の処理もきっと楽になるだろう。 「あれぇ、どしたの四四八くん。考えごと?」 「いや、まあ、うん。実は折り入っておまえに話があるんだよ」 「うお? なに、なに? そんな改まっちゃって」 「…………」 あっという間に興味津々といった様子で、少し不安を覚えるが、ここは真っ向から伝えた方がいいだろう。 「石神の件だよ。あれについて、ちゃんと説明しておきたい」 「はい? そこはもう、なんとなく理解してるつもりだけど」 「それでも一回は聞いといてくれよ。筋を通すと言うか、そういう意味で」 「ん? もしかして、わたしにあっちゃんたちへそれとなくフォローさせようとしていたり……?」 「そこまで考えてるわけじゃない。けど、おまえを放置しておくわけにもいかんだろう。後が恐い」 「あは、なんかその言い方、わたしが畑を荒らす天然記念物みたいだねぇ」 看過できないが、単純な実力行使も出来ない面倒くさい相手という意味では、実に言い得て妙だった。 渋い顔をする俺に対し、歩美は嬉しそうに頷く。 「いいよ。それだったら、ひそひそ話をするのにイイ場所あるぜ」 「内緒話をするのに良い場所って……、俺はここでも構わないんだが」 「いいの。こういうのって雰囲気が大事でしょ」 「……分かった。話ができればどこでもいい」 「それじゃ一名様ご案内~」 はたしてどこに行くのか。というか、どういうつもりなのかがよく分からない。 妙な警戒心を抱きつつ、俺は歩美の後をついていった。 そうして、その後は―― 「はい王手」 「な――ッ」 パチリという小気味良い音が部屋に響く。 歩美が銀で詰めてきたのは、玉の腹。 こちらに守り駒はなく、そして玉が逃げられる先は、すでに死路になっていた。 「ま、参った……」 「やったぁ~! これであたしの七十八連勝だね」 「ぐっ……」 よく間違わずに覚えているものだ。そして、更新し続けている連勝記録が、そのまま俺たちの対戦成績のすべてである。 ……歩美のことは言えないな。俺も全部の敗戦を忘れていないのだから。 「四四八くん、今日はいつもよりも調子悪いの? もう三局も勝っちゃったよ」 「いつもこんなもんだろうが」 「そうかなぁ~、もうちょっと歯応えがある気がしてたけど」 「…………」 くそ。正直、これ以上ないというくらいに悔しい。勉強はからっきしなくせに、ことゲームと言えるものなら歩美は無敵だ。昔から、誰一人としてこいつの牙城は崩せない。 しかし、だからといって達観なんか出来ないだろう。俺の性格上それは無理だし、今回も最初の対局は全駒にされてしまったのだ。 いくら毎度のこととはいえ、ボコボコにされてヘラヘラ笑っていられるかよ。 「――いや、違う。そうじゃない」 「どったの?」 「大事な話がすっかり端へと追いやられている。さっきまでの説明を、おまえはちゃんと理解してくれたのか?」 「もちろんだよ。不可抗力だけど、しーちゃんはいきなり現れた転校生で、お父さんの友達の娘だから居候で、四四八くんの許嫁なんだよね?」 「最後に変なのを足すんじゃない」 「あはは、まあまあ。わたしはそういうトンデモ展開嫌いじゃないよ」 「…………」 まあ分かっていたことだけど、やはり歩美は面白がっているだけだった。 石神のことについて、こいつは誤解をしていたわけじゃないし、特に今回の騒ぎで気分を害していたわけでもない。 むしろ楽しいことが増えた、という感じでしかないのだろう。 「お話も済んだしこれで解散かな。三局も指したし」 「それは待ってくれ。まだだ。もう一局!」 「え~、まだやるの?」 「当たり前だ。時間はもう少しあるだろう」 「いいけどぉ、もう充分弄って遊んだから、これ以上しーちゃんのことでからかったりする気はないよ」 「そういう問題じゃない。単にここからは俺の意地だ」 言って、再び駒を並べ直し、俺たちは盤を介して向かい合う。 口ではまだ続けるの?と言いながら、歩美の顔は今日一番不敵な笑みを浮かべていた。 上等だよこの野郎。せめて一度は、その顔色を変えてやる。 「相変わらず四四八くんは飛車を振るんだねえ」 「そっちの方が性に合っているからな」 「確かに受けの棋風って感じがするね。男は黙って専守防衛、みたいな」 脳天気な口調とは裏腹に、歩美の指し筋はときに恐ろしく鋭い。 「ここにきて棒銀なのかよ」 そして、まったく読めなかった。 さっきまでは定石の中でも新しい序盤戦術を駆使していたのに、こうして古典的な原始棒銀の形を取ってきたりもする。 「…………」 とはいえ、俺もこいつとの対戦には慣れているのだ。 わずかな緩みが敗戦に繋がるわけで、俺は何の変哲もない銀の動きに最新の注意を払い、盤面を見つめた。 「えっへっへ。いいね~、こういうときの四四八くん」 「いきなりなんだよ」 「ピリピリしてる。マジ顔になると、普段よりもイケメン度が五割増しだよ」 「……盤外戦術は受け付けないぞ」 「もうっ、そんな警戒することないのに」 七十八連敗もしていたら、警戒心が研ぎ澄まされて当たり前だ。 とくに角行の動きからは、一瞬たりとも目を離すことができない。 「どうやら、角を気にしてるみたいだね」 「さっきはそれでやられたからな」 どうしてそんなところに打ったんだ? という、先局における歩美の角行。 斜めへ縦横無尽に動き回る。まさにこいつらしい駒だ。 最初は明らかに悪手としか思えず、勝利の二文字を意識したのが先ほどの敗因だろう。 緩めた手を突くようにして、守りかと思われた金を見えないところから少しずつ進め、いつの間にか、それが俺の急所になっていたのである。 ゆえに今回はどう読むべきか……思考に全霊を傾けている俺に対し、歩美がぽつりとこぼすように呟いた。 「四四八くんってさ、わたし以外に負けたことある?」 「……ない。おまえ以外には全勝してる」 「知ってるだろうが、晶や栄光は下手糞だし、世良や我堂や鳴滝はこの手の勝負に向いてない。信明はそこそこだが……本当にそこそこだし」 野澤や百合香さんは結構強いが、歩美と違ってトリッキーさがないぶん、純粋に頭の勝負になるので口幅ったいが負けはしない。母さんや剛蔵さんだって楽勝だ。 「じゃあ、お父さんにも負けたことないの? あの人はすっごい強そうなオーラ出てるけど」 「そこは同感だが、そもそも親父とは将棋を指したことなんてないんだよ」 「へぇ~」 なぜか感心しながら歩美がこくこくと頷いた。少し想像すれば分かりそうなものだけどな。 あいつと俺が将棋を指している場面なんか、誰にも想像できんだろう。 「しーちゃんとは指した?」 「そんなわけないだろ。俺だって出会ったばかりなんだから」 「えっへっへ~。それじゃこうしてムキになる四四八くんを知ってるの、わたしだけなんだね」 「そう言われると否定できないな」 「ちょっと優越感かも」 「おい。いいから次の手を指してくれよ、対局が進まないぞ」 「あ、はいはい」 歩兵を交換し、その後ろをついて、歩美が銀をとんとんと進めてくる。 「また、忠実な棒銀の形だな」 「今のところはこういうのもね」 落ち着いた歩美の口調だったが、あまり時間を取っているとチャイムが鳴ってしまう。 受けと見せかけて、開いたところから仕掛けてみるか? 脳内をフル回転させながら盤上の形勢に集中する俺だったが、歩美はそこまで没頭できない様子だった。 「ねぇねぇ。ちょっとだけ聞いていい?」 「なんだよ」 「しーちゃんのことさ、四四八くんはどう思った?」 「どういう質問だよ」 「言葉のままだよー。なんだかさ、しーちゃんと四四八くんって相性いいのかなぁ~って思ったんだ」 「どうしてそう思うんだ?」 まだそんなに話してもいないだろうに、歩美の言わんとすることがよく分からない。 「だってね、四四八くんのことを初対面の女の子が、あんな風に振り回すところなんて、今まで見たことなかったんだもん」 「それだったら相性は悪いということになるんじゃないのか?」 「分かってないなぁ~。四四八くんは、そういうところ固いよね。相性が悪いってのは、相手の中へ入っていけないってことなんだよ」 「相手の中へ?」 「うん。色々あったおかげで、少なくとも四四八くんはしーちゃんのことを考えてるでしょ」 「…………」 確かにそれは否定できない。 あいつがいきなり掻き回してくれたから、俺は否が応にも石神のことを考えずにはいられなくなっている。 「それがね、わたしとしてはちょーっとだけ羨ましくなっちゃった」 「四四八くんのことを振り回したり、四四八くんの中へずけずけ入っていけたり――」 「そういうのは、わたしたちだけの特権だったのになあって……」 そういうことか。俺はようやく歩美の意図を理解した。 どうして、わざわざ将棋なんかを指したがったのか。 それはこいつにとって、俺たちが幼なじみであるという歴史を確認するのに必要なことだったのかもしれない。 「おっと。ちょっと今のわたし、イヤな子だったね。気をつけないと」 むんっと気合いを入れ直すようにして、駒を指す悪戯っ気溢れる仕草。 ある日突然、仲間内へ知らない誰かが入ってきて、それが妙に親しげだったら、俺だって気になっていたかもしれない。 だから俺は――攻め上がってくる歩美の駒の裏をこっそりと突きながら、内緒話みたいに答えた。 「俺は別に、幼なじみという関係を過信してはいないんだよ」 「うん? それっていったい、どういうこと?」 「だから、そんな言い方をしたら、まるで俺とおまえの関係はもう決まっていて、これから先、何の変化も待っていないみたいだろ」 「けど俺はそんな単純に考えられない。まだ俺の知らないおまえがいて、おまえの知らない俺がいるはずだ」 「そういうのをもっと知るためにも俺たちは一緒にいるんだし、これからもそこは変わらない」 「四四八くん……」 「それに今日だって、たとえば、そうだな」 言って俺は、すっと盤上に一手を指す。 「俺がおまえに、将棋で勝つことだってあるわけだ」 「は――ッ」 歩美の陣内へ切り込んだ飛車。それを目にして息を呑む幼なじみ。 「こ、これは……!」 「油断大敵だったな」 盤外戦術に頼り切ったようで、すっきりしない自分もいるが、相手の隙を突いたということにさせてもらおう。 普段はまったく見せない歩美のわずかな心の吐露に対して、俺は真剣に応えながら、盤面も同じように本気で進めていたのだ。 「ま、まさかこんなところで連勝記録が? 唯一、四四八くんをフルボッコにできる将棋だったのに……!」 「ふふん。言っただろ? いつまでも同じ関係だと思うな。日々の鍛錬が俺を支えているのだ」 「く、くそぉおおおおお~~!」 ああ。ようやくこの日が来たか。 今まで十年以上、負け続けた歴史が走馬燈のように脳裏へ浮かぶ。 様々な罰ゲームを強いられ、それを乗り越えるたびに俺は強くなっていき―― 「なーんちゃって!」 「え」 「四四八くん~、油断大敵だよぉ」 「歩美…さん……?」 「ほいっと。挟み王手」 「んな――ッ」 小気味良い駒の音が部屋に響く。 優越感に浸っていたのも、ほんのわずか。よく見ると防御の空きだと思っていた穴の奥から、香車の槍が、俺の首へ刃を突きつけていた。 また角行の裏で大人しくしていた飛車が、ここにきて盤面全体へ睨みを効かせている。 俺は声を絞りだすようにして尋ねた。 「……おまえ、いつから狙っていたんだ?」 「決まってるじゃん。四四八くんが飛車を振ったときからだよ」 「…………」 絶句した俺の代わりに、終局を告げるように昼休み終了のチャイムが鳴り響く。 そんな中、歩美はにこっと微笑んで。 「四四八くん、また遊んでねー」 「……二度と、乗せられるものか」 「んふふ、こんな四四八くんを知ってるの、わたしだけだもんね。そういう顔は十割増しで好きだよっ」 軽い身のこなしで歩美が部屋から去ってゆく。 ちなみに負けた罰は後片付けをすること。 俺は歩美を誘う前よりも、がっくりと疲労感に包まれたのだった。 フォローというものをするにあたって、まず俺が考えたのは選択対象の難易度及び、遅れた場合の危険度だった。 片付ける、なんて言いかたは良くないが、クリアするのが容易そうな奴から選んでいくのが常識的で、それは後に回すと面倒そうな奴もまた然り。 そうした二つの要素から、俺が第一に選んだ相手は他でもない。 「我堂、ちょっと時間いいか? 話があるんだ」 こいつである。そこに細かい説明は要らないだろう。誰でも簡単に分かることだ。 「なによ柊、あんたもう戻ってきたの?」 「まるで戻ってこなけりゃよかったみたいな言い草だな、おい」 「別にそういう意味で言ったわけじゃないけどね。ただ、なんであんたが私のとこに来たのか分かんないだけ」 「さっさと静乃のとこにでも行けばいいんじゃない? 許婚さん」 「棘あるな、おまえ……」 だが、この程度は予想していた。むしろ嫌味の一つも言わない我堂のほうが気持ち悪いというものだろう。 「その許婚どうこうってやつについて話があるんだよ。誤解は解けてるって聞いたけど、自分で確認もしたいしな」 「それでおまえ、気安く名前呼びしてるところを見る限り、石神とは仲良くなったのか?」 「まあ、ね。嫌いじゃないわよ、ああいう子」 「だいぶヘンな奴なのは確かだけど、こっちもいい加減、変人慣れはしてるしね。むしろあんたこそ、今さらあの程度におたおたしてんじゃないって話よ」 「そう言われると耳が痛い」 が、さすがに我堂だ。こういうときはさくさく話が進んで助かる。 野澤が言ったとおり誤解は解けてるようだし、今も特に機嫌が悪いというわけじゃなさそうだ。ならこいつについては、もういいだろう。 「手間取らせて悪かった。それじゃあ俺は、もう行くよ」 「へ? なによあんた、もう話はお終い?」 「ああ。おまえが話の分かる奴で助かったよ。昼休み中に、他の奴らのところも回りたいからな」 「晶はともかく、世良や歩美は面倒くさそうだ。絶対あいつら、俺の弱みを握ったつもりで調子に乗ってる。だからどうにかしなきゃならん」 「なので我堂、重ねて言うがおまえは物分りがよくて助かった。そういう意味でも……」 最初に選んでよかったよと言いかけて、しかし最後まで口にすることは出来なかった。 「…………」 「……なんだおまえ、その顔」 大概長い付き合いだが、その俺からしても初めて見る顔芸がそこにあった。怨霊のような滅々とした目で我堂がこっちを睨んでいる。 冗談抜きで背筋がざわざわしてくるので、やめてくれないか、それ。 「ま、まあ、うん……よく分からんがお大事にな。じゃあこれで――」 「あんたちょっとこっち来なさいっ!」 「て、うおっ!」 踵を返そうとした瞬間に腕を掴まれ、そのまま凄い力で引っ張られた。事態が掴めない俺を引きずるようにしながら我堂はずんずん歩いていく。 「ちょ、待て。おまえ、いったい何処行くんだよっ」 「いいからっ、黙ってついてくりゃいいのよメガネ!」 「いや、けど、俺はだな――」 「他にも行くところがあるって? 馬鹿抜かしてんじゃないわよ、こっちの話はまだ全然終わってない」 「だからあんたは大人しく、私についてくりゃいいのよ馬鹿っ!」 言いつつ、我堂は俺の手を引いたまま千信館の前庭を突っ切り、校門まで潜っていた。 昼休みに許可なく外へ出るのは校則違反になるんだが、そこを突っ込む暇もない。我堂の剣幕に押されるまま、俺はこいつと一緒に市街へ出ることになってしまった。 そして…… 「おまえな、そういうことは早く言えよ。何事かと思っただろ」 小町通りを並んで歩きながら、溜息混じりにそう言った。俺の両手には、でかい紙袋が握られている。 「文化祭用の買出しを頼まれて、荷物運びが必要だって説明くらいに手間惜しむなよ。俺が断るとでも思ったのか?」 「そりゃ思ったわよ。だってあんた、あの後さっさと晶たちのところに行く気だったんでしょ?」 「それはそうだが、ちゃんと言ってくれればこっちのほうを優先したに決まってるだろ。一応、この件についてクラスを仕切ってるのは俺だぞ」 午後から始まる文化祭についての会議で、議長を務める身なのだから私事を優先するわけにはいかない。そもそも午前中、俺が使い物にならなかったせいで我堂がこういう役回りになったのだから尚更だろう。 買いこんだのはペンキやらスプレーやら、あとは大工道具とか相応に嵩張るし重い物だ。まだ何の演劇をやるかは決まっていないが絶対必要になる物だし、女一人に運ばせるのは酷なので、そういう意味でも手伝うことに躊躇はない。 「迷惑かけたのは自覚してるし、反省してるから機嫌直せよ。あと、当たり前に感謝もしてる。俺がいないとき、うちの奴らを仕切れるのはおまえくらいしかいないからな」 「分かればいいのよ、ふん」 まだ相応にご機嫌斜めみたいだが、それはこいつのデフォルトだと言えなくもない。ともかく、後はこれ以上怒らせないように気を付けておけばいいだろう。 「俺が寝てた間、文化祭のことで何か揉めたか?」 「揉めたって言えば揉めたけど、そこらへんはいつもどおりよ。例によって歩美がくだらないこと言い出して、水希がそれに乗っかって、大杉も調子に乗って」 「晶は止めようとするけど押し切られて、か」 「そう。それで淳士の馬鹿は役立たず」 「ついでに静乃はボケ倒すだけ」 「いつもどおり、プラスアルファか。しんどいな、それ」 「本当よ。せめて水希くらいはこっちサイドに来てほしいもんだわ」 「気持ちは分かるが、無理だろそれは」 なにせ〈世良〉《あいつ》は、弟のお墨付きで馬鹿だ。勉強が出来るからといってクレバーとは限らない。要は資質の問題だろう。 「周りを纏めたり引っ張ったりするキャラじゃない。知ってるだろ」 「そうね。だから結局、私かあんたしかいないわけよ。こういうのって、生まれつきのものかしらね」 「半々だろうな。ただどっちにしろ、子供の頃から積み上げてないと無理なことじゃないかと思う」 いわゆるリーダーシップというもの。一口に言っても色々系統があるだろうし、レベルの高低もあるだろう。だが何にせよ、それはある日いきなり目覚める類のものじゃないし、得ようと思って得られる類のものでもない。 砂場のガキ大将から始まり、学級委員や部活のキャプテン、クラスの人気者なんてポジションもあれば、近隣に名を轟かす不良の頭なんてものもある。 それらすべてに共通するのは、自然とそうなるっていうことだ。その手の立場を自身が好み、苦にしない。そして周りからもそう見られる。 つまり、三つ子の魂百までというやつの典型だろう。 「だから、なんで出来ないんだって周りに言うようなことじゃないな。逆に俺たちは、晶や栄光たちのような真似が出来ない」 「緩衝材って言うか、清涼剤って言うか」 「トラブルメーカーとか? 確かに、馬鹿やってる奴がいないと仕切り甲斐もないわよね」 「そういうことだな」 時にこいつも充分以上に馬鹿でトラブルメーカーだが、そこらへんは言わないでおこう。もしかしたら、俺も傍から見ればそうなのかもしれないし。 とにかく、俺が仲間内でシンパシーを感じる相手はこいつであるということ。それはお互い、間違いない事実だった。 そう思ったので…… 「なあ我堂、せっかく外に出たんだ。ちょっと何処かに寄らないか、飯もまだだろ?」 「なんなら奢るぞ。迷惑かけた詫び代わりだ」 「えっ?」 それにこいつは、きょとんと目を瞬かせた後。 「お、おおおお、そ、それはいい心がけじゃない。よきにはからえやがれっていうのよ」 なんかよく分からんキャラになりつつ、ぶんぶん頭を振って頷いた。 それはいい。そこは別によかったんだが…… 「…………」 「…………」 さて、問題はこれだ。なんだよこの状況は。 「ぐ、ぐぶ……ぶぶぶぶぶ……」 「まて我堂、落ち着けよ。うん、えっとな、冷静になろう。俺もおまえも」 まずこんなことになった経緯を振り返り、整理することから始めよう。 この小町通りで何かを食べるとなれば、当然のように浮かぶのはきそば真奈瀬だ。よって俺はそこに向かおうとしたのだが、なぜか我堂が反対したので店のチョイスはこいつに任せた。 それで結果はこの喫茶店。言うまでもなくメニューは軽食主体なので本音を言えば物足りないが、ここは我堂の希望を優先するということで特に反対しなかった。 思えば、それが間違いだったのかもしれない。 「いらっしゃませお客様。お二人が当店における記念すべき千組目のカップルでございまーす」 「つきましてはこちら、スペシャルドリンクのサービスをどうぞー」 ということで回想終了。そのスペシャルドリンクとやらいう物体が、このように俺たちの前で鎮座ましましている。 いや別に、ドリンクサービスだけなら問題なんかないんだよ。仮に量が多かったり、多少不味かったりしても構わない。 ただ、カップル用ドリンクというのが曲者で、そういうのはほら、ド定番だが特殊な飲み方を強要されるものであり…… 「ぶぶ、ごぶ、ごぼぼぼぼぼ……」 テンパった我堂は、ストローを咥えたままひたすら何か呟いている。お陰でスペシャルドリンクは沸騰する地獄のマグマみたいになっていた。 これを飲めと? 俺に? ここで? 「何の罰ゲームだよこれ……」 店員はもちろん、他の客まで全員ニコニコしながらこちらを見ているので逃げられそうな気がしない。 そして目の前にいるこの人間泡立て器は、まったく正気を失っている。 くそ、なんだよこれ。やるしかないのか。 「ごぶはぁっ」 「ちょっ、おま、ふざけんなこの馬鹿!」 俺がストローに口をつけた瞬間、我堂が盛大に噴きやがった。 「げふっ、ごほ、うおっぷ……」 「おまえな、むせるにしてももうちょっと、こう、ほら……」 ごぶはぁ、とか、げぶぉ、とか、なんだそのダイナミックな噴き方は。女性というものをかなぐり捨てているとしか思えない。 「だ、だって、あんたが急に飲もうとするから……」 「飲まなきゃどうしようも出来ないだろ。おまえもしかして、飲ませないためにあんなことやってたのかよ」 「ちがっ、そんなんじゃないわよ。ただ、その、なんていうか間が持たなくて……しょうがないじゃない」 「そもそも、あんたがちゃっちゃと飲もうとしないから悪いんでしょ」 「俺のせいかよ」 「じゃあ私が悪いって言うの?」 この店を選んだのは我堂なので、どちらかに責任を求めるとすればこいつの方ではないかと思うのだが、まあいい。 「分かった。それなら俺も覚悟を決める。さっさとこれ、飲んでしまおう」 「タイミング合わせて一気にいくぞ。だからおまえも、これ以上無駄に照れるな。恥ずかしいのは俺だって同じなんだ」 「て、て、照れてなんかないし私っ」 「そうかよ、なら問題ないな。いくぞ、せーのぉ」 「わっ、ちょ、待って待って――」 「げぶはぁっ」 「こら我堂っ」 「お客様、なんでしたらお取替えいたしましょうか?」 「すみません、結構ですっ」 幸か不幸か、我堂が連続で噴いたから三分の一くらい量が減った。ここで再び満杯のやつに取り替えられるより、このままこれを飲みきってしまうほうが絶対にいい。 「分かってるな我堂。もたもたしてたら昼休みが終わるぞ」 「俺たちが会議に遅刻なんてしちゃいけない。気合いだ、覚悟を振り絞れ」 「そ、そうね。確かに、その通りだわ」 「じゃあ行きましょ、せぇーのぉ」 ずずずー、と俺たちは息を合わせてスペシャルドリンクを飲み始めた。かなりでかいグラスだから簡単にはなくならないが、それでも量は確実に減っていく。 「…………」 「…………」 超至近距離にある我堂の顔を気にしてはいけない。たとえこいつがここで新手の顔芸をかまそうとも反応するな。無心になるんだ。 もう少し、あと僅か、いよいよ底が見え始めたというそのときに。 「残念、タイムオーバーですお客様。ペナルティとしてもう一杯お召し上がりください」 「ごぶはぁっ」 「時間制限あんのかよっ!」 顔面ドリンク塗れになりながら、俺は力の限り絶叫していた。 そうして、午後は文化祭の出し物である演劇のタイトルを決める会議になった。 野澤に指摘されたとおり俺は八犬伝推しであり、そこに疑問は感じてないからさっさと決定するつもりだったが、予想外に抵抗は激しく、候補を現実的な範囲に絞り込んでいくだけで時間を使い果たしてしまった。 正直、上手くない流れだと思う。余裕はあまりないのだし、ただでさえ演劇なんて手間の掛かるプログラムなのだから、事は迅速に進めなければならない。 なので明日か、最悪でも明後日には、演目を決めて稽古や資材調達などの準備に移る必要があった。言うまでもなくハードスケジュールだが、計画倒れは許されない。 新入生の手前、先輩の俺たちは手本にならなければいけないのだから。 「お疲れ様でーす」 「お疲れーっす」 放課後、バイトを終えて帰路につく中、俺はそう決心を固めていた。 「ほらよ柊、今日は災難だったな。奢ってやるよ」 「ああ、悪いな。貰っとく」 鳴滝が放り投げてきた缶コーヒーを受け取って、二人同時にプルタブを開ける。そして軽く乾杯してから、並んで俺たちは歩き始めた。 「しっかしなんだな。今さらながらウチの連中は、どいつもこいつも我が強えっていうか、引くこと知らねえっていうか」 「せっかく進級でクラス替えしたのに、濃い奴らはそのままスライドしてるもんな。ぶっちゃけた話、隔離クラスにでもされてるんじゃないかとさえ思う」 「まあそのぶん、見方を変えれば親睦深めるところから始めなくていいという利点もあるが」 「他所じゃあ、手始めにカラオケだのボーリングだののクラス会からってのがザラみたいだしな。ありゃキツいぜ」 「いくら〈千信館〉《うち》の生徒だからって、みんながみんな社交的なわけでもねえんだからよ」 「おまえは去年、相当嫌そうにしてたな。そういや」 ぼやく鳴滝を見やりながら、当時を思い出して苦笑した。こいつは見たとおりの強面でぶっきらぼうな奴だから、馴染むのも馴染まれるのも相応に時間が掛かる。 特に何もなければそのままじっくりいってもよかったが、入学早々文化祭があるのだからアウトロースタイルなど看過できない。なので悪いとは思ったが、幼なじみとして少々強引にいかせてもらった。 「朝から晩まで、世良だの鈴子だのがぎゃんぎゃんとよぉ……」 「文化祭が終わるまで学校サボるとか言い出すからだろ。自業自得だ」 「分かってるよ。うるせえなあ」 だがそのお陰で、こいつが悪い奴じゃないと皆に認識させることが出来たのだから結果良しと言えるだろう。少なくとも俺たちにとっては、友人を妙な誤解から守れたことは武勇伝の一つだった。 「その点、あの石神ってのは俺と違って愛想があるから、打ち解けるだけなら問題はなさそうだな。色々と足りてねえもんはあるみたいだが」 「空気とか、間合いとか、そういうのを読むスキルだな」 「おお、ありゃなんだよ? 完全に悪気ねえのは見りゃ分かっけど、それだけにこっちは目が点だぜ」 「龍辺みたいにふざけてるわけじゃねえ。かといって馬鹿なわけでもなさそうだし、意味分かんねえぞ」 「まあ、強いて言うなら外国人……みたいなものかな、あれは」 「日本人は全員裏で忍者やってるとか思い込んでるタイプのテンプレ、あるだろ。それに近いものを感じる」 「あー、なるほど。言われてみりゃあ確かにそんな……」 遠い世界のことを創作物頼りに想像して、影響されてる。石神がそのクチなのは間違いないと思っていた。 「事実、相当な田舎から来たみたいだしな。色んな意味で情報が不足してる環境だったんだろう。そのせいで偏ってる」 「だからこっちに来て好奇心は旺盛だけど、諸々ずれが目立つんだよ」 「むしろ旺盛だからこそタチ悪いってか。こりゃ大変だなおまえ。女難の相ってやつが出てるぜ」 「ほっとけよ、それを言うならおまえもだろうが」 からかい気味に小突かれたので、負けじと俺も小突き返す。こいつの女難云々については、きっと面白いものを見せてくれるだろうと期待している面があった。 「一年の終わり頃から、やけに生徒筆頭殿に絡まれだしたもんなおまえ」 「ガキの頃から年中鈴子や真奈瀬に絡まれてた奴に言われたかねえが、別におまえらが勘ぐってるようなもんじゃねえよ」 「ありゃあ、なんつーか……俺の素行に対する小言だよ。立場上、言わなきゃならねえんだろ。うぜえけど」 「だったらもう少し品行方正になることだな」 「そういうのは俺に喧嘩売ってくる連中に言ってくれ。好きでやってんじゃねえよ、こっちも」 そこは強面に生まれた奴の宿命というものか。誰が相手だろうと背中を見せないこいつの侠気は買ってるが、それを心配している側の気持ちもよく分かる。 小さい時ならやんちゃですんだが、そろそろ本気で喧嘩をすれば洒落が効かなくなる年頃だ。物理的にも、社会的にも。 なので俺からも、一つ提案しておこう。 「分かった。じゃあ今後、喧嘩するときは俺も行こう。それでどうだ?」 「はあ? おい待て、なんでそうなるんだよ」 「簡単なことだろ。俺とおまえは友達で、仲間だからだ」 ずばり端的に言い切ると、鳴滝は盛大に顔を歪めた。 「柊……俺はおまえのそういうところが昔から苦手だ」 「勘弁しろよ。おまえみたいな優等生に迷惑はかけられねえ。お袋さんに会わす顔がねえじゃねえか」 「だったら自重してくれよ。俺に前科がついたら検事の夢も叶わない」 「あー、もう! 分かったよクソ! たく、とんだ薮蛇だぜ」 がしがし頭を掻きながら、ふて腐れたように言う鳴滝。俺は俺で、笑いを堪えるのに必死だった。 「指切りするか?」 「馬鹿にしてんのかおまえ。ガキじゃねえんだ、おら」 言って、突き出してきた鳴滝の拳に、俺もまた拳を合わせた。 「じゃあ、おまえの忍耐に期待しようか。どうしても我慢できなくなったときは、栄光でも殴っとけ」 「そうするわ」 「うむ、なるほど。これが男の友情というやつなんだな」 と、不意に拳がもう一つ。俺と鳴滝に比べれば小さくて細いそれが、ちょんと横から重なった。 「ところで、何を誓っていたんだ? 面白そうなのでつい参加してしまったが」 「石神……おまえどこから出てきた?」 「それは無論、君の家から歩いてきたわけだが」 「いや、そういうことを言ってるんじゃなく……」 別に気を張っていたわけじゃないとはいえ、こんなに接近されるまでまったく存在に気付かなかった。さっきの話じゃないが、忍者かよおまえ。 鳴滝も同様の驚きを受けたようで、あからさまに面食らっている。 「淳士くん……だったよな? 四四八くんとはバイト仲間なのか、羨ましい」 「私もバイトはやってみたいのだが、何か出来そうなものはあるだろうか?」 「お、や、さあ……何だろうな」 「君たちのところはもう定員を締め切っているのか? そうじゃなかったら是非店長に掛け合ってほしいのだが」 「おい、石神」 いきなり現れてマイペースこの上ない。放っておいたらいつまで喋るか分からないので、強引に割って入った。 「こんな夜中に一人でどうした。バイト探しなら常識外だし、あとうちの店は基本的に女は採らん」 「ん、なんだそうなのか。それは残念」 言葉どおり肩をすくめて嘆息しながら、石神は続ける。 「私は単に、四四八くんを迎えに来ただけだよ。恵理子さんに頼まれたんで」 「夜道は危ないからと、心配していたぞ」 「だったらなんで同い年の、しかも女のおまえを迎えによこすんだよ……」 何か色々間違っている気がしてならない。まあ、母さんは以前に奇怪な着ぐるみ姿で現れたことがあるので、それよりはだいぶマシだが。 当時のことは鳴滝も体験しているので、俺と気持ちは同じらしい。ペースを乱されてお互いに所在無いが、ともかく状況は理解した。 「じゃあ柊、迎えがきたなら俺は行くわ」 「なんだ淳士くん、忙しないな。せっかくだし、もう少し一緒にいてくれてもいいだろう」 「君とは学校でもあまり話せなかったぞ私は」 「いや、そんなこと言っても、よ……」 ぐいぐいくる石神に文字通り仰け反りながら、鳴滝は助けを求めるように俺を見てくる。 朝の教室で俺がされたみたいなことをやられちゃ敵わんと思っているのだろう。痛いほどよく分かる。 だからこそすまんな。ここでおまえを逃がすわけにはいかない。 「まあいいじゃないか。もうちょっと付き合えよ鳴滝」 「てめ、柊この野郎っ」 「よし、それじゃあ語り合おうか。淳士くん、君の夢はなんだ?」 「はあ? ちょ、おま、そんなことはどうでもいいだろ」 「だいたいてめえ、人に質問ばっかしてんじゃなくてな……」 「ん、なんだ私のことが知りたいのか? だったらいいぞ、気にせずなんでも言ってくれ」 さあさあバッチ来いと言わんばかりに目を輝かす石神に、さすがの鳴滝も折れたようだ。疲れた顔で溜息を一つ、それじゃあと口を開く。 「その、あれだ。鎌倉と千信館は気に入ったか?」 「そうだな、ずっと憧れていた街と学校だったから、とても感動しているよ」 「憧れ?」 「なんでまた?」 「決まっているだろう。君らのご先祖は有名人じゃないか」 「ああ、なるほど」 「そういうことか」 俺たちはさほど自覚していないが、確かに石神の言うとおり、うちの曽祖父さんとその仲間たちには、教科書に名前が載っているレベルの人物が数人いる。 そのすべてが千信館――当時は戦真館だが――の卒業生で先輩だし、憧れを抱く奴がいるのも珍しくないことだ。俺たちも、決してその例外じゃない。 「うちは特になんもねえが、鈴子んとこや柊んとこは今でもたまに取材とか来るよな。あと野澤もか」 「〈野澤〉《あいつ》は違うが、俺たちは名前まで同じだからな。昔からよくネタにされたよ。顔もそっくりらしいし」 「おまえはその、つまり曽祖父さんたちのファンなわけか」 「ああ、駄目か?」 「駄目じゃないが、面と向かって言われると変な気分だからやめてくれ」 「けど、柊んとこと親父さん同士がツレらしいし、おまえの爺さん婆さんもなんかそっち系だったりするのか、石神?」 「いや、どうかな……うちは正直、自慢できるようなものじゃないと思う。家柄だけは古いけど、それだけだ」 はにかむ石神の様子は自嘲めいたものだったが、卑屈になっている風はない。こいつはこいつで、自分のルーツに誇りを持っているのだろうと察せられる。 「そういえば、何処なんだ実家は」 「広島だ」 「広島? だったらそこそこ都会じゃねえのか? すげえ田舎から来たって聞いたぞ」 「一口に広島と言っても、色々あるんだよ淳士くん。特に中国山地を見くびってはいけない。あれは秘境だぞ、何せ雪男の親戚がいるくらいだ」 指を立てて力説する石神に気圧されて、俺と鳴滝は顔を見合す。だが生憎と、広島の山奥に雪男の親戚がいるという話は聞かない。 いるのか、そんなものが。 「古事記にも出てる結構重要な地域なんだぞ。知らないかな、イザナミの話とか」 「全然」 「記憶にあるような、ないような」 「まあ、いいよ。とにかく私の田舎はそういうところだ」 「けどおまえ、そのわりには全然訛りとかないよな」 「そ、それは……」 すると急に、こいつは鳴滝の突っ込みに頬を赤くして言い詰まった。 「練習、したんだ」 「はん?」 「だから、ちゃんと標準語を話せるように練習したんだ! 大変だったんだぞ、テレビさえないんだから基本は辞書だ。イントネーションなんか九割勘だぞ。周りは同じ広島県民でも字幕が必要なくらいの年寄りばかりで、私がどれだけ苦労したか君に分かるか? 否、分かるはずがないっ!」 「お、おう……そりゃなんつーか、すまんかった」 「別に広島弁で喋ってもいいと思うが」 「なんだって?」 ぎろりと凄い目で睨まれた。 「君はひどい奴だな四四八くん、皆と流れるようなコミュニケーションを取れるように、私は努力してきたというのに、うぅ……」 「おい柊、謝っとけよ」 「でもおまえ、そんなこと言ってもな……」 言いたいことは分かるんだが、こいつのコミュニケーションとやらでだいぶ迷惑した身としては、かなり複雑な気持ちだった。 「その、あれだ石神。おまえが色々頑張ってるのは分かったから、これからはもう、そんなに構えなくてもいいぞ」 俺に被害が集中するし、という本音は心の中だけに留めておく。 「広島弁にしても、いいじゃないか。無理強いはしないが、今度よかったら聞かせてくれよ」 「まあ、ほら、女の子が使う方言ってのは、なんていうか、可愛いもんだし」 「それはそれで、人気が出ると思うぞ俺は」 「ほんとかっ?」 ぱあ、と一転、さっきまでが嘘のように輝く石神。子供かよ。 「そうかそうか。四四八くんは方言女子が好きなんだな? ようし分かった、それならそのように弁える」 「そういう場合、いつもやってると有り難味がなくなると聞いたからな。効果的なタイミングというやつを図らせてもらうとするよ。楽しみにしていてくれ」 「だけどやっぱり、恥ずかしいな。今さら反射的には出てこないかもしれないし、これはこれで新たに練習しないといけないことが増えてしまった。うん、頑張ろう!」 パンツや素っ裸を平気で披露していた女がいったい何を言っているんだろう。こいつにとっての羞恥の基準が、俺には皆目分からない。 ただ、面倒な火をつけさせてしまったらしいのは理解した。 「柊、おまえやっぱ女難だわ」 「だからうるさい。ほっとけって言っただろう」 と、そのときに。 「ん……?」 通りの向こう、段葛を歩いている見知った顔を発見した。 「信明……?」 あいつ、こんな夜中に一人で何をしてるんだ? 俺の視線を追って鳴滝も気付いたようで、声をかける。 「おい信明っ、どうかしたのかおまえ、おい!」 だがそれに応えず、信明は消えていった。 「…………」 「行っちまったな」 声が聞こえない距離じゃなかったはずだが、まったく反応しないままだった。愛想のいい信明が俺たちを無視するなんて、本来有り得ないことだけど。 「何か考え事でもしてたのかな、心ここに在らずって風にも見えたし」 「かもな。心配っちゃ心配だが、追うか?」 「なあ、今のは世良信明くんか? 水希の弟の?」 「ああ、夜遊びするようなキャラじゃねえし、あんま丈夫な奴でもねえからほっとけねえよ」 言って、後を追おうとする鳴滝だったが、俺はそれを制止した。 「気になるのは分かるが、大丈夫だろう。あっちは方角的に世良の家だし、帰る途中なんじゃないか?」 「信明にしても、たかが夜に出歩いたくらいで心配されたら嫌だろう」 「そりゃ確かに、そうだけどよ……」 鳴滝は納得いかなげな様子だったし、俺も本音じゃ追いたかったが、同時に過保護も良くないと思う。それは今朝にも思ったことだ。あいつはもう小さい頃のあいつじゃない。 「どうせ朝になったら俺はあいつと会うんだし、そのときも様子が変だったら訊いてみるよ。今日は帰ろう」 「……分かった、任せる。じゃあそういうことで、またな柊、石神」 そうして鳴滝も自宅の方へ、信明とは反対方向へと去って行った。 残された俺も家に帰ろうと思い、傍らの石神に目を向けたのだが…… 「…………」 こいつは何か、神妙な顔で信明が消えた方を見つめていた。 「どうかしたのか?」 「え? いやすまない。なんでもないよ」 「ただ四四八くん、私はまだ信明くんとまともに話していないから、彼のことを教えてくれないか」 「どんな子で、どんな風に生き、どんな夢を持っているのか……私は知りたいと思うんだ」 「別にそれは構わんが、じゃあ帰りながら話すか」 「うん、頼むよ」 頷き、連れ立って歩く石神。 しかし、夢ね。 「おまえ、さっきも鳴滝に言ってたよな。夢がどうこうって」 「おかしいかな? 大事なことだと私は思うが」 「ま、確かに夢は大事だな」 人は夢に生き、夢に殺される。何かの本で見たフレーズだが、それはきっと正しいのだろう。 人にとってのエネルギー。夢がなければ生きられないし、だからこそ暴走しないように御さねばならない。 少なくとも、俺はそう思っていた。 「ただいま」  控えめにそう言って、自宅の玄関を潜る。寝静まっているはずの家族を起こさないように気を付けながら、僕はゆっくりと階段を上った。  今夜も失敗。成果はゼロだ。もとより何かの確証があってやっていることでもなし、実情は空振りとさえ言えない盲滅法に近いのだから、それは当たり前のことだけど。  やはり、馬鹿な期待を持っていたことは否めない。このまま明日も、明後日も、僕は同じことを繰り返すのだろうか。  客観的に自分自身を振り返れば、ちょっと危ない奴かもしれない。そう自嘲しながら自室に入り、電気をつけて―― 「こらー、あんた何処行ってたの」  部屋の中央で仁王立ちしている姉さんと対面した。 「えぇっと、その……」  まず言わせてほしいのは、わざわざずっと暗闇の中で僕を待ち構えていたのかということ。  確かに効果は抜群で大いに驚かせてもらったけど、呆れの含有率が高いものにならざるを得ない。  そして、ついでにもう一つ。 「姉さん、いい加減に学校のジャージをパジャマ代わりにするのやめなよ」  この人は昔からそうだったし、社会に出ても同じスタイルを貫きそうだ。女性としてだいぶどうかと思うので、弟は心配になってしまう。 「そんなの今は関係ないでしょ。私の質問に答えなさいっ」 「別に、何処だっていいだろ。ただそこらへんをふらふらとだよ」 「ふらふらって何?」  ふらふらはふらふらだ。たいした目的も定めず徘徊することを指す。  世間にはそういう趣味を持った人も一定数いて、中でも深夜の徘徊を愛する層は結構多いと聞いている。何もおかしなことじゃない。  ていうようなことを言っても、意味はないんだろうなこの場合。 「育った街だし、迷わないし、ガラが悪そうな人にも場所にも近づいてないよ。だから心配は要らないって」 「だけどあんた、もし発作でも起きたらどうするのよ?」 「姉さん、僕は毎朝四四八さんと走ってるんだよ? ちょっと歩き回ったくらいで倒れるような奴が、あの人のメニューに付き合えるわけがないだろう。 そんな様だったら五分も保たない。何を今さら神経質なことを言ってるんだよ」  ぐ、と詰まって、姉さんは怒ったように僕を見てくる。まあ何を言いかけたかは分かってるよ。柊くんが傍にいるなら安心だけど、あんた一人じゃ――そういうことだろ?  そう思ってしまう気持は分かるし、思われるような僕だったし、その点姉さんに落ち度はない。先の言葉を口にせず呑み込んでくれたのも、僕のプライドを慮ってくれた証だ。なので感謝の気持ちは表そうと思う。 「ごめん。本当になんでもないから、心配しないで。単にちょっとした気晴らしだよ」 「まったくあんたは、ほんとにもう……」  溜息をついて、やれやれと肩をすくめる姉さん。表情からも険が抜けて、困ったような笑みを浮かべる。 「うるさい奴だなって思ってるんだろうけど、単純に深夜徘徊なんて褒められもんじゃないんだからね。不良になっちゃうよ、そういうことしてると。  あんただって、微妙に後ろめたいからこっそり出歩いてるんでしょ」 「それはまあ、確かにね……」 「じゃあ、もうやめる?」 「どうかな」 「おい、信明ぃ~~~」  のらりくらりしてる僕に業を煮やしたらしく、姉さんは強引にヘッドロックしてきた。 「痛い、痛い、痛いって姉さん」 「痛くしてるんだから当たり前ですー。お姉さまに逆らった罰だ、罰だ、うりゃああっ!」 「姉さん、うるさい。声大きいって、父さんたち起きちゃうだろって、いたたたたたたっ」  ちょっと本気できつい締め付けになってきたから、僕は慌てて白旗をあげた。 「分かった、分かったよ。じゃあ条件付で。事前に姉さんには断ってから外出するよ、それでいいだろっ」 「ん、まあそのあたりが妥当な線だね」  そこでようやく、ヘッドロックを解いてくれた。まだ微妙に不満そうな顔をしてるのがアレだけど。 「でも、やけに拘るわね。そんなに楽しいの? 夜中にただ歩くだけが」 「そりゃ、つまんなかったらやってはいないよ」 「ふーん。だったら今度は、私も一緒に行こうかな。もしかしたら目覚めちゃうかもしれないし」 「それは駄目だ」 「へ……?」 「ぁ………」  反射でそう言ってから、しまったと後悔する。だけどもう遅かった。 「はっはーん。ほー、そうかそうかなるほどねー」  凄まじく邪悪な顔で微笑みながら、再びにじり寄ってくる姉さん。わりと馬鹿なくせに妙なところだけ勘がいい。 「分かった。私分かっちゃいましたー。そうかノブくん、お姉ちゃんがいたら邪魔なことをしに行ってるのねー」  姉って面倒くさいよな。世の弟たちは、悉くそう思っていることだろう。  このまま黙っていたら思う壺なんで、ここは正直に話すが吉だ。勝手にあれこれ想像を膨らまされた挙句、皆に吹聴されては堪らない。 「言っとくけど、姉さんが思っているようなことじゃないよ。  僕は、誰とも会ってない」  デートとか、逢引きとか、そんな類のものじゃない。  正しくは、会えないんだ。 「人を、捜してるんだよ。クラスメートを」 「クラスメート?」  その子は一度も登校してない。だけど以前、入学する前、僕は彼女と会っている。  その日の幻影を追っている。 「なんて子なの? 捜すって、どうして?」  問いに、僕は短く答えた。答えられるだけのことを。  彼女の名は〈緋衣〉《ひごろも》〈南天〉《なんてん》―― 「……また会おうって、約束した相手なんだ」  家族の愛。燃える思い。自分に掛かる花言葉を笑っていた女の子。  彼女について、僕が言えることなどそれしかなかった。  回る。回る。回りながら沈んでいく。夢の中へ。  だけどそれは一般的な感覚でいう睡眠と些か様相を異にするもので、端的に言うと僕の意識は一瞬たりとも途切れていない。  つまり、自分がいま眠って夢を見ているんだと認識している夢であり、脳は覚醒している状態だ。こういうものを、明晰夢と言うらしい。  それ自体は決して珍しいものじゃなく、誰もがある程度は経験することなのだけど、僕は明晰夢がここしばらくの間連続している。  正しくは、千信館に入学した日からずっとだ。そこにどんな理屈や原因があるのかは分からない。  分からない、けど。  僕は、これを不快に思ってはいなかった。  学術的にはひどく浅い眠りを繰り返していることになり、精神的にも一切の休息をしていないという状態は、論ずるまでもなく健康にいいものじゃないと分かっている。  まして体力的に不安を持っている僕のような人間にとって、これは危険な兆候ですらあるだろう。  だけど。  それでも僕が〈明晰夢〉《これ》を良しとしていた理由は一つ。  ここでは彼女に逢えるという、その一点のみに意味があった。  緋衣南天――現実で僕が彼女と顔を合わせたのは一度きり。あれは学習塾の試験会場だった。  千信館に入学するため、僕は何年も前から塾通いをしていたわけで、勉強がまったく出来ないクチでもなかったのだが、いつ体調を崩して学業が遅れてしまうか分からないから、出来るときに可能なだけ詰め込んでおこうと思っていたのだ。  そんな、今から一年と少し前。僕は彼女と〈会場〉《そこ》で出逢った。  そのとき、場の空気が震えたような感覚がしたのを覚えている。  彼女が試験会場に足を踏み入れたとき、比喩ではなく音が止まった。  テスト前の準備、予習、リラックスするための雑談など、百人からの人間が各々コンディションを整えるためにやっていたこと、その結果として必然的に起こる雑多な音が、すべて止まった。  静寂の中心には、ただ彼女。だけど本人は一切頓着しておらず、傲然と顔をあげて誰とも目すら合わせてなかった。  まるで世界から切り離されているかのような女の子。  強く、苛烈に、誇り高く、だが押せば崩れてしまいそうなアンバランス。  なぜか全員が惹き付けられ、そして同時に言葉を失い、悟ったのだ。  あれに関わってはいけない。  その恐怖が何を源泉としたものなのか、正確に察した人はおそらく一人もいなかっただろう。外見で言えばとても小柄な、地味で容易く手折れそうな女の子だ。暴力とか犯罪とか、そういうものを連想させる要素はない。  だから、その場で彼女の本質を理解したのは、きっと僕だけ。  幼い頃からすぐ傍にあり、目を逸らすことなど不可能で、常に向かい合い続けざるを得なかった深淵を、彼女もまた濃密に纏っていると理解したから。  それは、要するに死の匂いだったのだ。 「ええ、だから私もすぐに分かった。ああ、この人も同じだなって」  夢の中の彼女が語る。それは夢だから、つまり僕の妄想で、現実の彼女が語りかけているわけではないと分かっているけど、きっとそう言ってくれるだろうという確信を持っていた。  なぜならば。 「あの後、色々話したよね。お互いのこと、未来のこと、一緒に千信館に入学して、また逢おうって」  約束したから。僕は千信館に入学したし、彼女もまた合格したし、誓いは果たされると信じているから。 「待ってるよ。君のことを、千信館で」 「うん、待っていて。もうすぐだから」  こんなやり取りは茶番だと自嘲する気持ちがないわけじゃない。いかにも女性に慣れてない男の典型的な夢そのもので、気恥ずかしく思ってもいる。  姉さんに見咎められ、怒られた連日の深夜徘徊も、現実の緋衣さんに逢って白黒はっきりしたいがためだ。もっとも、夢でのことを基準にして捜索場所を定めているあたり、馬鹿みたいではあるけれど。 「さあ、今夜も行きましょう、信明くん」  僕の手を取り、にこやかに軽やかに駆け出す緋衣さん。この夢を見るようになって以来、毎夜僕らはこうやって、誰もいない鎌倉の街を巡っている。お互い、色んなことを話しながら。  八幡宮に行った。七里ヶ浜に行った。小町通りや段葛を並んで歩き、まだ咲いていない紫陽花名所をせっかちにも回ったりした。  それらの記憶がすべて明晰に残っているから、僕は現実にも彼女の影を追いかけて、八幡宮や七里ヶ浜や、小町通りや段蔓を巡っている。  実情は盲滅法に近いのだから、すべて空振りしているのは当たり前のことなんだけど。 「飛ぼうか、緋衣さん」 「そうだね、思いっきり飛ぼう」  この夢はあまりにも素晴らしくて、そんな常識的見解なんか意味がないと思うのだ。風を切って文字通り宙を駆け、僕たち二人は大声で笑う。  どれだけ走っても息が切れない。ビルを飛び越え空を舞い、一度の跳躍で八幡から大仏の掌に着地を決めることさえ出来る。  まさに夢。非現実だからこそ成せる超人技だ。身体の強くない僕にとって、この夜は紛れもない福音となっている。  現実の緋衣さんを捜すならまず病院が妥当であるとか、先生に住所を訊くとか、当たり前の選択なんか採りたくない。だってそれをしてしまったら、いま感じているこの幸せは何なんだ。  夢は夢。だが嘘じゃない。いいや嘘にはしたくない。  そう思う感情を間違ってるとはどうしても思えないほど、ここではすべてが鮮烈で、リアルだった。 「信明くんは考えてることが顔に出るよね」  二人、滑るように鎌倉の空を舞いながら、そう言って微笑む緋衣さん。指で僕の頬を軽くつついて、悪戯っぽく言葉を継ぐ。 「私も同じ気持ちだよ。あなたに逢えてよかった」 「私もずっとあなたのことを捜していたの。そして思ったとおりの人だった。  それが嬉しい。ねえ信明くん、私はあなたが必要だから」  そっと額を合わせつつ、囁くように彼女は告げる。 「忘れないで。あなたは私のために生まれてきたんだっていうことを」  それはともすれば怖い台詞で、傲慢なものですらあったけど、僕はまったく不快に思わない。  微笑む彼女は透明で、真摯に切なく、そして熱くそう思っているのが伝わってくる。それほど僕を求めている。  なにより、こんなにも誰かに頼られ、必要とされた経験は記憶になかった。  気遣われ、労わられ、守られてばかりの人生……自分にも誰かのために何かが出来ると、強く認識させてくれた相手は彼女しかいない。  だから、僕の答えなどは決まっているんだ。 「ああ、僕は君のためにある。  僕は何をしたらいいんだ? 教えてほしい緋衣さん」 「こうして一緒に、今はただ……さっきも言ったとおり、もうすぐだから。  朔がそこまでやってきている。それを共に越えましょう」 「朔……?」 「あれのこと」  言って彼女は顎をしゃくり、天頂の月を指す。それが見る間に欠けていき、月蝕を引き起こした。  僕のそれを遥かに上回る、環境操作能力の夢。 「月が見えなくなる暗夜のこと」 「それが朔?」 「ええ、そうよ信明くん。これは古い昔の言葉。電灯なんかなかった頃、月がない夜をどう思う?」 「どうって、怖いよ」  何も見えなくなるのだから。世界が闇に塗り潰されてしまうから。  暗いのは怖い。原始的で根源的な、至極当たり前の答えを僕は返した。 「じゃあどうして、暗闇が怖いの? 闇はそれ自体、噛み付いてきたりはしないのに。  見えなくなる、ということがどうして私たちは怖いのかな?」 「それは、きっと不安だから」  前が、〈未来〉《さき》が見えなくなる。光という道筋は一種の保障で、安心と約束を与えてくれる希望だろう。如法暗夜の〈静寂〉《しじま》では、足元にどんな陥穽が潜んでいても見抜けない。 「何も分からなくなるのが怖いんだ。次の瞬間に何が起こるのか予想も出来ない。いま触れているものが何なのか、確かめることさえ不可能になるから」 「そうだね」  頷く彼女。僕もここで理解した。つまり朔とは―― 「予測できない、何が起こるか一切不明な暗闇の時。 それを私は、あなたと一緒に乗り越えたい。あなたとでしか、出来ないから」  急速に領域を広げていく闇に呑まれ、互いの輪郭ごと見えなくなる直前に、彼女はそう言って身を翻した。 「だから一緒に来て、信明くん」  すでに一寸先も見渡せなくなった暗夜の中、握った僕の手を引っ張るようにして緋衣さんは疾走する。  速く、速く、風よりも音よりも、光よりもなお速く。  因果律すら飛び越えようかというほどの、それは凄まじい移動だった。完全な真っ暗闇で、迷いなく駆け続ける彼女の豪胆さに舌を巻く。 「違うわ信明くん、あなたがいるから走れるの。  何も見えない夜の中で、何が起こるか分からないこの今でも、私たちはもう一人じゃない。  〈未来〉《さき》があるのよ、私たちにも。生まれたときから当たり前にそれを持っていた人たちなんかに、この素晴らしさは分からない。  ねえ、悔しいじゃない。羨ましいじゃない。誰よりその尊さを知ってる私たちに、〈未来〉《さき》がないかもしれないなんて許せないじゃない」 「だから掴み取りましょう。泣いて絶望なんか絶対にしてやらないわ。手に入れるのよ。  そうでしょ、だって私たちは知っているもの――」  強い意志を乗せた彼女の言葉に、この上ない共感を覚えて握った手に力を込める。  そして、僕らは声を合わせた。 「生きるということに、嘘も真もないんだから」  宣じた瞬間、逆巻く闇の帳を僕たち二人は突っ切っていた。  まるで時代の境さえ飛び越えてしまったかのような、超絶の走りによって。 「ここ、は……」  再び開けた視界の中、目に映る光景はある意味馴染みのものだった。 「千信館? いや、違う……」  それは見慣れた母校の校門だったが、ゆえに見落とせない違いがあるのは即座に分かった。  足元の舗装。木々の種類、そして大きさ。門構えそのものは同じでも、こちらのほうが遥かに若く、真新しい。  千信館は創立百年以上を誇るとても古い学校だ。なので重ねた年月を示すように、重厚で古色蒼然とした佇まいを匂わせていたが、これは違う。  まるでつい最近、言ってしまえば完成してから一年そこらも経っていないのではないかと思えるほど瑞々しい。  そして同時に、〈古〉《 、》〈め〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  それらの印象が何を意味しているのかも、僕は瞬時に分かっていた。  ああ、だって、まさしく一目瞭然というやつなのだから。 「戦真館學園」  これは過去、〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》が〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》と呼ばれていた頃の姿だった。 「正確には明治三十八年の春。だいたい百十年くらい前の千信館ね」  そう言って傍らに立つ緋衣さんは、いつの間にか服装が変わっていた。 「あの……それは?」 「時代に合わせたコスチューム。昔はこんな制服だったのよ、似合ってる?」 「いや、まあ、そりゃあ……うん」  いくら夢とはいえ突飛すぎる現象を前に面食らっている僕とは違い、彼女は実にクールで落ち着いていた。 「ありがとう。信明くんも似合ってるよ」 「え? あっ、――うわ!」  指摘されて自分自身を見直せば、確かに僕も服装が変わっていた。  詰襟の黒い学ラン。その中に赤と金のアクセントが光るデザインは緋衣さんと同じもので、つまり戦真館の制服ということだろう。  学生服に変わりはないが、千信館のそれよりは数段厳格で重々しい。かつては軍学校だったと聞いているので、これはそのせいだろう。  そして、これは自分でも不明だったが、なぜかこの制服に身を包んでいることが途轍もなく嬉しかった。  まるで有り得ない夢を叶えてもらったような心地で…… 「気に入ったみたいね、よかった」  これは彼女がやったことなのだろうか。分からないが、ともかくこの場の趣旨を問わねばならない。 「いったい何が始まるんだい? まさかこのまま、二人で戦真館に入学でも?」 「少し違うわね。私たちはただ見て回るだけ」 「何を?」 「歴史を」  短く告げたその言葉は素っ気なかったが、しかし隠し切れない興奮を内に湛えているのが僕には分かった。 「朔のときは何が起こるか分からないと言ったよね。だからそれに対応するため、色んな可能性を見ないといけない」 「ほら、よく言うじゃない。賢者は歴史に学ぶ。  私と信明くんで、これから様々な過去を学びましょう。そうすることで、私たちの時代に起きることの本質を掴むのよ。  原因を突き詰めれば、対抗策も講じられる。だから順を追って、一つずつ。  徐々に階層を降りていくの」  話のほとんどは理解不能だったものの、彼女の言う歴史体験とやらの第一番目が〈戦真館〉《ここ》にあるというのは察せられた。  つまり、今からここで何かが起きるという意味なのだろう。 「分かった。仕切りは君に任せるよ。僕に出来ることがあるなら手伝いたいし、そのために見なければいけないものがあるなら見せてくれ。  この夢で、僕らは何を知ることになるんだい?」 「ある男の人にとっての悲劇」  そっと彼女は瞑目し、その物語を語り始めた。 「そして、すべての始まりとなる一つの歴史」  ゆらゆらと、さらさらと、紙吹雪のように舞う意識の欠片が、夢の戦真館を包み始めた。  この物語の主役となる人物の心を、さながら表しているかのように。 「戦真館學園……明治三十六年に辰宮麗一郎によって建てられた軍学校。  その理念は戦の真で、維新を越えて戊辰を征し、日清戦争に勝利した栄光ある大日本帝国の輝きを〈永久〉《とわ》にするため、次代を担う若者たちを育て上げることが目的だった。  間近に迫る日露戦争も強くその理念を後押ししたのね。貴族院議員としての権力と財力をもとに辰宮麗一郎は辣腕を揮い、紛れもなく戦真館は当時最新かつ最先端の設備と環境、思想を備えた学び舎として産声をあげる。  だからもちろん、そこに集う若者たちも最精鋭。関東のみならず、全国から召集された選ばれし麒麟児たちに半端者は一人もいない。  現代の私たちが知ってる最高学府なんか及びもつかない狭き門を彼らは潜り、戦の真に身を投じたのよ」 「そう、投じたのだけど。  ねえ信明くん、こんな話は知ってるかな? 蟻とか蜂とか、私たちから見れば機械的にさえ感じる昆虫たちにも、集まれば逸れ者が出るってことを」  それは確かに僕も聞いたことがある。意思などないから人よりシステマチックに見える働き蟻などの世界にも、何もしない固体が一定数必ず出てくるという話。  つまり落ちこぼれ、落第者。  その発生自体は絶対に止められず、ゆえに精鋭を集めた戦真館にも、きっとそんな者らがいたのだろう。 「ええ。群れについていけない者は必ず出てくる。あるいは自らついていこうとしない怠け者とか、どっちにしろ同じだけれど。  ここじゃあ、それらはあまり問題じゃないの。今と違って人権人権うるさい時代じゃないんだから、基準に満たない者は切ればいい。それでも落伍者は際限なく出てくるけど、その都度すげ替えていくだけで……  本当のエリート主義ってそんなものだし、これはもう仕方ないよね」  区分すれば落伍者に属するだろう僕にとっては身につまされる話だが、そこは彼女の言うとおりだろう。黙って頷く。  問題はそこにないと言うなら、続きはいったい? 「逆の意味での逸れ者。つまり、上方に突出しすぎている場合。これは実際、タチが悪い。  精鋭が集まる環境だと、特に致命的な癌になるわ。そういう集団、軍事常識だと脆いのよ。だから破滅が訪れる。  この世代、戦真館の第一期生になれる年齢の少年たちには、そんな癌が三人いた。出る杭を叩けないほど上に、あるいは斜めや四次元的に折れ曲がって突出した才が三つ」 「壇狩摩。甘粕正彦。そして……」  そのとき、“彼”のイメージを僕は垣間見た気がした。  ゆらゆらと、さらさらと、紙吹雪のように舞う他者に囲まれて立つ少年。  彼の才気に比べれば、戦真館の精鋭たちですら羽毛にすぎない。それがとても悲しいことに僕は感じた。  この彼は、ずっとそんな風景で世界を捉えていたのだろうかと。  僕とは似ても似つかない、優れすぎているがゆえの哀愁。待ち受ける悲劇。 「先の二人はそのへん賢明だったんでしょうね。単に性格の問題か、あるいは勘か気まぐれだったのかもしれないけど、彼らは戦真館に入らなかった。  あくまで何にも囚われず、野に下って我流を極めたのが壇狩摩。  とても早い時期から自分の異質さを認識し、時が来るまで才を隠して埋もれる選択をしたのが甘粕正彦。  だけど、最後の一人は逃げ損なった。見誤って、勘違いし、生真面目にも突き進んでしまったのよ。崖っぷちまで」 「この時点だと、彼らは誰も互いに面識はなく、交わることもなかったけれど……やがてこの戦真館に関わる運命の中で邂逅する。だけどそれは、まだ先の話。  たった一人逃げ損なった例の彼は、飛び級で入学を果たしたのみならず、戦真館初代筆頭の座にまで上り詰めるわ。  その時点で、彼は哀れにも自分の栄光と仲間の未来を信じていたのよ。とてもとても、愚かなほどに純だったのね。可哀想に」 「だから――」  その顛末を見に行きましょうと呟いて、彼女は再び僕の手を引き、紙吹雪の舞う戦真館の門を潜った。  瞬間、世界は劇的な変貌を遂げる。 「!」  とても人間の喉から放たれたとは思えないほど、それは悪魔めいた絶叫だった。同時に空間を引き裂いて粉々にする超弩級の暴力が、僕のすぐ横を擦過して破壊の爆音を轟かす。  飛び散るのは血と肉と骨の欠片。あろうことか今の一閃で、十人以上が木っ端微塵になったのを目撃した。 「なッ、な、なァッ――――」  あまりの凄惨さに言葉も出ない。これが歴史? これが夢? かつて現実に起こったことだと? そんな馬鹿な――有り得ない。  紙吹雪は血飛沫に、世界は狂気と断末魔の殺戮大合唱へと塗り潰される。その中心で踊っているのは他でもない。つい先ほどイメージに見た、曰く可哀想な少年だった。 「        ―― !」  凄まじいまでの重質量を備えた、紅蓮の戦意に滾る〈鬨〉《とき》の声。蛇に睨まれた蛙ですらここまでではないだろうと言えるほど、硬直した僕は動けない。  これが殺気というものだ。これが戦というものだ。叩きつけられる念の濃さだけで爆撃じみたこの迫力、触れられただけで我が身も血煙と化すだろう。  そう直感した、刹那―― 「こっちよ、信明くん」  殴りかかるような勢いで腕を引かれ、僕は沸騰する血と臓物の海に転がった。同時に、頭上で再度の轟音が爆発する。 「ぐッ、が、――げほォッ」  倒れた拍子に飲み込んでしまったものを反射で吐き出す。その正体を確認する暇も余裕もなかったが、ウインナーのような何かだったことだけは舌の感覚が覚えていた。おぞましさに全身が総毛だつ。 「注意して。彼らに私たちは見えてないけど、それでも当たれば死んじゃうよ。  この〈歴史〉《ユメ》が終わるまで逃げ続けるの。だけど彼からあまり離れずに。見届けないといけないから」 「そんな、無茶な――!」  あれの傍に留まり続け、だけど攻撃は躱し続けろ? それはどんな離れ業だよ、認識されてないから大丈夫とか、そんな次元の暴力じゃない。 「 !」  今この時も爆裂する破壊の嵐は、耳元で落雷でも連続しているかのようだった。現在、彼が狙いを定めている相手は幾らか実力が近いようで、数度の打ち合いを成立させているが、そのぶん技の回転率が上がっている。  触れれば爆ぜるニトロの竜巻でも見ている気分だ。正気のまま乗り切れる修羅場じゃない。 「くッ、うぁァッ――」  恐怖も度を越えれば眼を閉じることすら出来なくなると理解した。人外の域で繰り返される殺し合いは言うまでもなく超高速で、どだい僕に詳細を把握できるものではなく、ただ出鱈目だということしか分からない。  彼の戦技に世界までもが軋んでいるのか、血霧に煙った戦真館それ自体が、チェーンソーさながらに死肉を巻き上げ、削り飛ばしつつ震撼している。  夢は夢。だが嘘じゃない。いいや嘘にはしたくないと先ほど自身が願ったまま、ここはどうしようもないリアルなのだと理解した。少なくとも緋衣さんが言うとおり、下手を打てば死んでしまうのは間違いない。  ここまで激烈、明確な死のイメージに直撃されたら、それが夢だろうが幻だろうが心臓は止まってしまう。  その認識が、僕の頭に残っていた甘い楽観を消し去った。  フィクションを楽しむような無責任さ、どうせ架空なのだからどうなろうと自分には関係ないという思考が失せる。  紛れもない当事者として、今この事態に向き合うことがようやくのこと出来たから、僕のような男ならではの才幹とも言うべきものが作動する。  それは弱者ゆえの臆病さが生んだものと言えるだろう。彼の攻勢に混じる偏りを僕は感覚的に察知していた。  この人は、左利きであるということ。 「――緋衣さんッ!」  だから逆へ、彼の右手側へと回り込む。あの左腕が届く場所に留まっていたら、どんな奇跡が起ころうとも生き残れない。  そう確信するほどに、それは研ぎあげられた殺戮の魔腕だった。  よって僕の予想通り、右側はある程度の安全圏として機能する。彼と対峙していたもう一人は左の一撃で上半身が消し飛んだが、それに心を割いている余裕は依然ない。さらにおぞましいものが目の前に展開していたからだ。 「……    !」  彼のシルエットが歪に狂った。戯画のように口蓋が広がって、下半身だけになった犠牲者を一息で丸呑みにする。 「なッ――……!」 「我も人、彼も人。仲間で、兄弟だからこそ血肉に変える。  愛してる。忘れない……きっとそういうことなのね」  カニバリズム――そう形容していいのかさえ分からなくなる。秀麗な美貌を血の涙で汚しながら、彼は犠牲者たちを食い貪っていた。  一人残らず、例外なく、体積として無理があるなんて常識は遥か夢の彼方に消し飛んでいる。  たった一人の捕食者が、数百規模の人体を丸ごと胃に納めているんだ。  これを地獄と言わずなんと言うのか。 「  ―――!」  雄叫びは慟哭のようで、絶望の嘆きに塗れていた。彼を中心にして血の霧と海が渦を巻き、螺旋を描きながら取り込まれていく。  深い咎を心に刻む、生涯晴れない闇を内部へと蓄えるように。 「……行きましょう信明くん、どうやら山は越えたみたい」  腰砕けになりかけている僕を起こして、ふらふらと歩き出した彼の背を緋衣さんは追い始めた。すでに生徒の過半数は死滅して、後は掃討戦を見届けるだけだと言いながら。 「   ……」  泣きながら、詫びながら、しかし彼の左腕はそれ自体別の生き物であるかのように死を撒き散らし、量産する。  そして命の消えた残骸を、やはり泣きながら彼は喰らう。  見ていられない。最悪の気分だ。この彼にとって人生とは、もはやここで終わっている。いくら命が残ろうと、そこに何の意味も価値も見出すことは出来ないだろう。 「この世は、総じて紙風船……万象、この罪に比べればあまりに軽い。  羽毛のごとく、軽い。軽い。空虚で……俺は終わっている」  ああ、まさしく彼は逃げ損なってしまったのだ。発狂という最後の救いからさえも。  どこまでも生真面目で、抜きん出るほど優秀で、愚かなほどに純だったから、この〈狂宴〉《サバト》を乗り切ってしまったこと。  いっそ誰一人残らず全滅していれば、続くすべてがあるいは変わっていたかもしれないのに。 「これが始まりなのよ、信明くん。この惨劇を契機にして、逆さ十字が動き始める」  それが何を指しているのか、未だ僕には分からなかったが…… 「く、ぅあ……っっ、あぁぁ……」  自らの左腕を絞め潰すように震わせながら、嗚咽を漏らす彼から目を逸らすことが出来なかった。  明治三十八年の春。戦真館第一期生を襲った悲劇と、その初代筆頭が背負うことになった罪。  飛び級で入学したという彼は、おそらく仲間の誰よりも幼くて、今の僕より年下であろうと理解できる。  だから思わずにはいられないのだ。  僕が彼ならいったいどうなる?  優秀すぎるがゆえに味わうこととなった特級の挫折と絶望……僕のような者には手の届かない別世界の嘆きを前に、心の根幹が否応なく揺さぶられる。 「俺は、空虚だ……なんて軽い」  再度の呟きは、多くを持って生まれたからこそ、すべてを失ったという皮肉を表すものだった。  持たざる者である僕にとって、訪れ得る嘆きはどんなものか。そしてそのとき、どのようにして立ち向かうべきか。 「これからも一緒に行こう、信明くん」  優しく誘いかけてくる彼女のために何が出来るか、夢の果てに答えを見つけなければならないのだろう。  持てる者には出来ない、僕なりのやり方で。 「そうですよね、四四八さん……」  呟いて、僕が知る持てる者の代表者を思い浮かべた。 すっとイメージの身体が浮き上がり、五感に先んじて覚醒した意識が現実の輪郭を捉えるあの感覚。 ここは何処で、自分は誰で、今に至るまでの〈経歴〉《ヒストリー》を瞬時に追体験したうえで理解する。 死に際に見るという走馬灯にもおそらく通じる、時間感覚の圧縮現象。それは大仰に言うなら一種の蘇生で、まあつまり。 「朝……か」 誰にとってもお馴染みの、寝覚めという一日の始まりを俺は今日も問題なく迎えていた。 いや、問題なく迎えたかったわけなんだが…… 「…………」 さすがにもう、いちいち俺は驚かない。らしくない三枚目を演じるのは昨日が最初で、そして最後だ。ああ動じないとも。結構予想してたしな! 「う、うーん……」 「……ああ、四四八くんか。おはよう」 「あひゃっ、いひゃひゃひゃ、痛い痛い! なんだいきなり何をするんだ四四八くんっ」 「やかましい、貴様こそ何をしている!」 まったく立場を理解していないようなので、頬を思いっきりつねってやった。寝場所については、昨夜寝る前に話し合ったはずだろうが! 「親父がいる間は居間で眠る。そしていなくなったら書斎で眠る。約束したよな? 了解したよな? もう忘れたのかおまえはっ!」 「だ、だだだだってっ、仕方ないじゃないかっ」 「居間で寝てたら、聖十郎氏に蹴り飛ばされたんだよ。それで君の部屋に行けと言うからっ」 「だとしてもなぜ同じ布団に入ってくるっ? どっか隅で眠ればいいだろうがっ!」 「その場合、そうしなければならないという約束はしていないっ!」 「なんだと貴様っ」 逆ギレとはいい度胸だ。頭にきたので、さらに力を込めて頬をつねる。 「むぎ、むぎぎぎぎ……理不尽だこの仕打ち。私は絶対悪くないっ」 「負けないぞ、私は屈さん! 屈さんからな……!」 「さあ、好きなだけ責め苛んでみるがいい。正義は負けんというのを教えてやる」 「何を壮大な啖呵を切ってるんだ、おまえは……」 本当にこいつ、今さらすぎるが絶対馬鹿だろ。なんか段々とアホらしくなってきた。 「痛い痛い痛い痛い――うがががが、しかしいいぞ、もっと来い! そんなものか君のすべてはっ」 「この程度、残らず私は受け止めてみせるのだ。ああ、そうだとも! へっちゃらだからな。それこそが勇気、そして愛っ!」 「どんと来ればいいのだ四四八くん! あああああ痛い痛い痛い裂けるぅぅ」 「…………」 これ、なんかやばくないか? そう思ったときには遅かった。 「朝からうだうだとやかましい! 盛るなら外でしろ猿どもがッ」 「あ、おはようございます」 「―――――」 待て。 いやいや待てよクソ親父。なんだその屑でも見るような目は、誤解するな! 「恐縮ですが、親として彼に何か言ってくれませんか? 四四八くんが強引で乱暴で、荒々しく獣のように責めたてながら痛くするので困ってます」 「ふふ、はははは……」 人間、怒りが限界を突破すると笑いしか出てこないというのを理解した。 そんな俺を見下ろしながら、クソ親父は心底呆れかえった声で言う。 「おまえ、下手か?」 「黙れよッ!」 「ぐおっ」 俺は無言で、目の前の石神に頭突きをかました。 「な、な、何をするんだ――ぐおっ」 そして休まずもう一発。 三度、四度と、ひたすら無言で俺は頭突きを繰り返す。 なあ石神よ、俺たちは昨夜、寝る前にしっかり話し合ったよな? 近日中に親父は上海だかに行くというから、それまでおまえは居間で眠る。そして親父が消えたら書斎で眠る。 なのになぜ、どうしておまえは俺の布団などに潜り込んでいるんだよ。 それについて詰問しても、どうせこいつのことだから意味の分からん戯言を抜かすのだろう。 よって言葉はもはや不要。馬鹿は身体で分からせるに限る。言っとくが、俺は体罰肯定派だ。 「ぐあっ、……お、おのれ、問答無用というわけか。いいだろう、そっちがその気なら受けて立つ」 「がッ……!」 だが、七発目の段になってカウンターを返された。予想外の反撃に目の奥で火花が散る。 「ふふふ、どうだ効くだろう。私も結構、頭の硬さには自信があるのだ」 「……この、野郎っ」 「うがっ、やったなっ」 「ッ……貴様ぁ」 がん、 がん、 がん、 がん―― 朝の爽やかな小鳥のさえずりをバックにして、時間無制限一本勝負の頭突き合戦が始まった。お互い涙目になりながら、しかしもはや後には退けない。 「人は、言葉が、話せるだろう。なのに、無言で、暴力とは、いったい、どういう、了見だっ」 「貴様に、道理を、説いた、ところで、糠に、釘だと、知ったんだよっ」 「つまり、理解を、諦めるのか。これは、甚だ、弱い、男子の、定番だなっ」 「口の、減らない、おまえこそ、嫌な、女の、定番だっ」 くそ、こいつ折れないな。俺の知ってる女どもは確かにどいつも頑固だが、実力行使にここまで対抗してくる奴は流石に初めてお目にかかった。 「ふふふ、どうした、迷いが見えるぞ。君は、そんなものか、四四八くん」 「己の、間違いを、認めたならば、潔く、謝るのが、男だろう」 頭きた。もともと頭は色々痛いが、こいつに事の正否など語られたくない。 次の一撃で決めてやるべく頭を思いきり反らせたら、石神も同様の予備動作に入った。 いいだろう、これで白黒つけてやる。 と、思ったときに。 「四四八ー、もう時間だけど今朝は走らないのー?」 「えっ?」 「あっ?」 お互い、それでタイミングが狂った。 「んんっ―――――」 「なっ―――――」 「…………」 「…………」 「あ、ごゆっくり……してくださいです、そばもん」 はあっ? 「四四八くん……一応、私は初めてなんだが」 「うおああああああっ!」 絶叫して、俺は転げまわりながら石神から飛び退いた。 「なっ、なっ、なっ、なっ……!」 「まったく、歯が当たったぞ。唇切れちゃったじゃないか」 「ファーストキスが血の味というのは、さすがに私でもどうなんだろうな」 「だ、だだだだ黙れこの馬鹿っ! 今のは違う、絶対違う! こんなもんをカウントするな、ノーカンだノーカン!」 叫びながら口を拭う。俺も俺で、がっつり唇が切れていた。 「ああ、待て。待てったら。そんな乱暴にしたらバイ菌入るぞ。二人そろって唇腫らしたまま登校したらまずいだろう」 「ノーカンにしたいのなら隠さないとな。そうだろう?」 「ぐっ……」 なぜ俺は、今ワケの分からない罪悪感に苛まれているのだろう。予想外に物分りの良い態度で正論を言いながら、かいがいしくウェットティッシュなどを取り出して血を拭ってくれる石神に、とんでもなく悪いことをした気になってくる。 「よし、これでしばらく押さえていよう。恵理子さんに氷を貰って、口に含んでいるといいかもしれない」 「ごめんな。私もだいぶ大人気なかった。口もそうだが、頭は痛くないか?」 「……ああ、俺は大丈夫だ。おまえこそ平気か?」 「言ったろう、石頭だ」 にっと微笑む石神に、バツの悪さがさらに強く込み上げてくる。 なんだか少し、その笑顔に無理のようなものを感じてしまうのは気のせいじゃないだろう。 「まあ、うん。四四八くんが怒るんだからだいたい私が悪いんだろう。察するに、許可なく同衾したのがまずかったか」 「居間で寝てたら聖十郎氏に蹴り飛ばされたからなんだが、言い訳にはならないな。この部屋を使うにしても、同じ布団に入る必要はないのだし」 「本音を言うとな、四四八くんは喜ぶかなと思ったんだ。ああ怒らないでくれ分かってる。また私の勘違いした男性知識というやつだ。まったく、本や親父殿の情報は当てにならないと、さすがに今回でよく分かったよ」 「さっきのにしても……な。まさかそこまで迷惑がられるとは思わなかったので、その……」 「別に嫌だったわけじゃない。ただ驚いただけだ」 「それに、俺の反応も過剰だったと思ってるよ。悪かった」 仮にも女に対し、デリカシーのまったくない拒絶を繰り返したことは謝らなければならないだろう。笑顔でトーンダウンしていく石神を前にして、ようやくそこに気がついた。 「嫌では、なかったのか?」 「一応、俺も男だしな。けど、そんな単純な話でもないんだよ。だからそのへんを学んでくれ」 「手順とか、ムードとか、世の中色々面倒なものがあるんだよ。そういうところは女同士、晶たちに訊けばいい。だけどあんまり鵜呑みにするなよ、あいつらも結構馬鹿だから」 言葉の内容に恥ずかしくなってきたので、そっぽを向きながら捲くし立てた。覗き込んでくる石神とは、到底目など合わせられない。 「だいたいおまえな、女ならもっと自分を大事にしろよ。誰彼構わず、軽々しくやっていいことじゃないんだぞ。相手を選べっていうんだ、本当に」 そう言ってから、ちらりと石神を流し見れば。 「そうか、分かったよ。真摯な忠告、感謝する」 「けど一応、私なりに相手は選んでいるだぞ。言っただろう、君は私にとって憧れの人の子孫だ。とてもそっくりだし」 「だから、誰彼構わずというのは違うぞ」 「…………」 そんな選別基準もどうかと思うが、これ以上言っても嫌味や小言になるだけだ。ともあれ仲直りは出来たのだし、気を切り替えていこうと思う。 「なあ石神、一つ提案があるんだが」 「これから一緒に走らないか。もやもやしたのは、汗かいて流すに限る」 言ってから、なんとも体育会系の思考ですまんと思った。俺自身、人にムードだなんだと言える身分じゃないだろう。 だがこいつは―― 「おお、いいなっ! それは是非ご一緒させてもらいたい」 例の輝くような笑顔を浮かべて、同意してくれたのでよかったと思う。 そして…… 「ふははははっ、どうしたどうした二人とも! そんなものか遅い遅いぞー」 その後、朝のランニングについてきた石神は、実に上機嫌で先頭を爆走している。ペースも何もあったもんじゃない。 「……すごいですね、石神さん。女性のスピードじゃないですよ、あれ」 「今だけだ、あんなもの。前に我堂と一緒に走ったときのこと、おまえだって覚えてるだろ」 「ああ、あれ……途中で死んでましたよね」 「それと同じだ。見てろよ、どうせ五分と保たない」 と思ったのだが。 「お・そ・い・なー! そんな速度じゃ修行になんかならないぞー!」 「…………」 「…………」 「……落ちませんね」 「……そうだな」 それどころか軽快にバック走などをかましつつ、時にバク転、バク宙まで披露しだした。 なんだあいつ、野人かよ。 「どうしますか、四四八さん」 「ほっとけ。絶対にあんなんじゃ続かない。マイペースを貫こう」 「よっ、はっ、とりゃあー!」 「…………」 「…………」 「おはようございます、いい朝ですね! あはははははー!」 「…………」 「…………」 「素晴らしい、実に気分爽快だ! これが湘南、青春の風っ!」 「私は今、生きているっ!」 「くっ……」 ちくしょう、本当にどういうことだ。恐るべし広島野人、今このときもアクロバットを続けながら、まるでペースが落ちないどころか上がっていく。 「っ、四四八さん、すみません……僕は、もう」 「気にせず、先に行ってください……!」 「分かった。後は任せておけっ」 「おっ、いよいよ本気か? いいぞ、勝負だー」 この野郎、舐めやがって。 信明に目で安心しろと告げてから、俺は石神を追って全力疾走を開始した。 結果。 「ぐはっ、は、ッ……がっ……」 折り返し地点の浜辺まで到着したとき、俺は言い訳の効かない疲労困憊。精も魂も尽きかけていた。 それなり以上に長い間鍛えてきたが、ここまで自分を追い込んだのは初めてだったかもしれないと思うほど消耗している。 だというのに、傍らのこいつときたら呑気なもので。 「いやあ、さすがに四四八くんは速いなあ。勝てると思ってたんだが、引き分けか」 「当、然だ。この俺が、易々と、負けるかよ……!」 こと走りに関してなら、相手が本職の陸上選手でもない限り早々負けない自信がある。これまで俺の全力疾走に付き合えたのはせいぜい世良と鳴滝だけだが、あいつらにしても走り終わりは俺と同等以上に消耗していた。 にも関わらず石神には、まったく堪えた様子がない。息は弾んで頬は上気し、汗もかいているがそれだけだ。言葉どおり、本当にいい運動だったという風情を崩さない。 参るなこれは。如何に俺でもさすがに脱帽ものだった。 「おまえ、実は正体あれだろ。例の、雪男の親戚ってやつ……」 「いや、私は正真正銘、君と同い年の女子だけどな」 「でも、地元の人間や旅行者が、私たちをそう勘違いしたという可能性は確かにある。山の中で飛んだり跳ねたり、毎日のようにやらされてたから」 「やらされてた?」 それに私たち? 奇妙な言い回しが引っ掛かったので突っ込んだら、石神は照れたように頬を掻いた。 「自他共に認めていることだろう。私は世間知らずの田舎ものだって」 「その通りだよ四四八くん。私は、いわゆる普通の育ちをしていない。いい学校に入って卒業し、社会に出て云々とか、そういうのを目標にはしていないんだな」 「だから勉強はからっきしだし、代わりにずっと、一般的にはまったく役に立たないようなことを訓練、訓練、ただひたすら訓練だ」 「なので傲慢に聞こえたらすまないが、君は本当にすごいと思うぞ。私みたいな普通に生きてない奴の得意分野で張り合える一般人なんて、早々お目にかかれない」 「あれくらいの差が出るのがたぶん普通だろう」 まだ遥か遠く、ようやくここに着きつつある信明を仰ぎ見て石神は言った。 今こいつが語った自分の生い立ちとやらは断片的で、ぼやかしたものだったが、曰く普通じゃないということらしい。俺が率直にイメージしたのは、前時代的な山伏とか格闘家とか、そういうものだったけど。 そこに悲壮感は窺えなかった。昨夜実家のことを話していたときと同様、むしろ誇っているのだと分かる。 だから俺は、別にこいつを可哀想で損してるなんて風には思わなかったし、純粋な好奇心で質問した。 「いったいどんな集団なんだよ。おまえの実家的コミュニティってのは」 「うーん、別に話してもいいんだが、それはまだ秘密ということでお願いできないかな。もったいぶるつもりはないのだけど」 「私は君たちとの今を楽しみたいし、そのためには正直邪魔な経歴だからな。言霊って聞いたことないか? 要らないことを話したら要らないことが起きそうな気がするんだよ」 「なるほど」 ならそれでいいだろう。俺も深く追求せずに流しておいた。 いい学校を出て社会に出て云々が目標ではないという石神が、俺たちの前になぜやって来たのかは気になるが、今を楽しみたいって主張が嘘じゃないのは確かだろう。事実、こいつのはっちゃけぶりには色々やられたわけだしな。 クソ親父はあれで名の知れた民俗学者だし、そこらへんの縁で石神の実家と関わりをもったのかもしれない。そう言えば、サンカという山の民的な集団の話を聞いたこともある。確かあれも広島だった。 石神、なんて名前は、なんとなくそれ系の偉い所っぽい響きじゃないか。 「よ、四四八さん、石神さん……遅れて、どうもすみません」 「おー、やっと来たな信明くん。いいよいいよ、ナイスファイトだ」 昨夜、奇妙な様子だった信明にも特に変わった感じはない。まあつまり、俺の日常は多少騒がしくなっただけで、何の問題もないってことだ。 「じゃあ折り返して、学校だな」 「ちょ、さすがに待ってください。少し休憩しないと、マジで死にます」 「はははっ、情けないことを言うな。男の子だろっ」 石神に背を叩かれて悲鳴をあげる信明だったが、こいつが死ぬとかそういうことを冗談めかして言えるのも良い兆候だ。 なので悪いが、今日はスパルタ気味にいかせてもらう。俺自身、もっと鍛えあげないと石神にやられたままだから悔しいんだよ。 そういう気持ち、おまえなら分かるだろ信明。 「おー、柊ぃ。おまえちょっとこっち、こっち来い」 昼休み。他クラスに用があって廊下を歩いていた俺は、背後から芦角先生に呼び止められた。 「なんですか?」 「んー、別にたいしたことじゃないんだけどさ。少し聞きたいことがあってだな……」 「はあ……」 この人にしては珍しく、あまり歯切れがよろしくない。それは隣の人物のせいだろうか。 「こんにちは、幽雫先生」 「ああ、いきなり呼び止めてすまないね。手間は掛けないので、いくらか質問に答えてほしい。昼食はもうすませたのかな?」 「それは一応。で、なんでしょう?」 どうやら俺に用があるのは、芦角先生ではなくこちらのほうみたいだ。 幽雫宗近……千信館の数学教師で、見ての通り美形かつ物腰柔らかな人だから生徒間の人気は高い。 授業内容や彼の出すテスト自体はかなり厳しめの部類に入るが、それで恨まれるのではなく慕われるタイプの先生だ。俺もその例外ではない。 「君はアルバイトをしているね? それについてのことなんだが」 「許可なら取っていますよ。芦角先生?」 「お、おう。それは知ってるし、大丈夫だよ。私が届けを出し忘れてたとか、そんな話じゃないから」 「じゃあなんでしょう?」 〈千信館〉《うち》はバイト禁止じゃないが、野放図にやっていいわけでは無論ないから許可が要る。なので当然そのあたりは守ったし、怒られるような覚えはない。直感的にそういう展開を疑ったのは、幽雫先生が特殊な役職を持ってるからだ。 生徒会顧問。兼、生活指導部主任。つまり、この人は生徒の風紀を取り締まる立場にある。 「鳴滝淳士くん。彼のことだよ」 「君と同じバイト先で働いているんだろう?」 「それは、確かにそうですが」 「でもあいつ、許可の申請してないんだわ」 「はあっ?」 予想外のことを言われて思わず声を出してしまった。なんだよそれは。 「本当ですか?」 「残念ながら、事実だな。芦角が忘れていた、なんて落ちはない」 「おまえら二人とも、まずはそこを疑うのかよ……」 「しょうがないでしょう」 「当たり前だろう」 何か落ち込んでいる芦角先生の自業自得に構っている場合じゃない。幽雫先生が言ったように鳴滝が無許可でバイトをしていたんなら、普通にこれは停学ものだ。 「あの、馬鹿……」 この時期そんなことになったら、文化祭はどうするんだよ。 「彼は君に何と言っていたのかな?」 「特に何も……ああ、すみません。これは俺の落ち度でもあります」 「君の常識では無許可でバイトに踏み切るなんて想像の埒外だったんだろう。だが確かに、洞察が甘かったな」 「法の番人を目指す者がそんなことでは思いやられるぞ」 「返す言葉もありません」 今になって考えれば、鳴滝がそんな真似をした理由も想像がつく。というか、幼なじみなら即座に読めないといけなかったことだろう。 「あいつの家は最近親御さんが体調を崩したらしく、家計を助けたいって気概にほだされて裏を見てませんでした」 「そうだな。彼の気持ちそのものは殊勝だが、とった行動がよくない。自分の素行では、許可が降りないかもしれないと思ったんだろう」 「だからこのようなことになったわけだ。君にちゃんと話さなかったのも迷惑をかけまいとしたからだろうが、裏目に出たな。身の程を弁えず、なんでも背負い込もうとして、結果は友人に心配をかけている」 「それは〈千信館〉《うち》の校訓に反する、極めて愚かな選択だ」 「おい幽雫ぁ、おまえちょっとそれ言いすぎじゃね? 鳴滝だってさあ」 「黙っていろ芦角。おまえの監督不行き届きも原因の一つだぞ」 ぴしゃりと言われて、芦角先生もまた黙り込む。本当にこれは困った。 幽雫先生が言うように、最初からちゃんと話してくれれば許可が降りるように運動することも出来たはずだ。しかしそういうことを出来ないのが鳴滝という男であり……ああくそ、やっぱり俺がアホだな。 「どうにか、寛大な処置をとっていただくことは出来ませんか? 俺が責任持ってあいつを監督しますから」 「しかし君は、すでに一度彼の失策を見逃してしまっただろう」 「だからこそです。今後はこのようなことがないようにしますから」 「そもそも、そう考えてくれたからこそ、まず俺に話を通したんじゃないですか?」 「あ~、それなんだけどな、柊」 「私らより先に、鳴滝はお嬢が掻っ攫ってったんだよ」 「……は?」 再び、予想外のことを言われて俺は間抜けな声をあげてしまった。 お嬢が? 掻っ攫う? それはつまり…… 「百合香さんが?」 「そうそう。〈千信館〉《うち》の生徒総代筆頭殿。だいたい、今回のことを最初に見つけたのはお嬢だからな」 「つーかむしろ、初めは隠蔽してたんだぞ、あのお嬢。なあ?」 話を振られた幽雫先生は、溜息混じりに頷いた。 「鳴滝くんがバイトを始めたのは今年の頭からだったな。どうもその時分から、彼女は知っていたらしい。心当たりがあるんじゃないか?」 「そう言われれば、確かに……」 百合香さんが鳴滝に絡みだしたのは一年生の終わり頃で、すなわち今年の頭になる。それはあいつがバイトを始めた時期とぴたり合致するものだった。 「まったく、手に負えん。彼女のことだ、妙な遊び心にでも駆られたのだろう。総代がそれでは、他に示しがつかないというのに……」 「遊びっていうか、善意だろ。要は鳴滝の行動に感動したんじゃね? あれ、なんかお花畑舞ってる正義のロマンチストだし」 ご両親のために頑張ってるの? まあ素晴らしい。でも許可が降りないかもしれないの? なんて不憫な。しかもお友達を巻き込みたくないから黙っているとは素敵だわ。ロマンだわ。今どき珍しい無骨で不器用な殿方なのね。きっと本当は誰よりも優しい人なのよ。ええ、そうに決まっているわ辰宮万歳! という流れが凄く一瞬で頭に浮かんだ。 「んで、幽雫が気付いたのに向こうも気付いて先手打たれた。鳴滝は今頃、お嬢に捕まってなんかやられてるよ、たぶん」 「そうですか……」 でも、なんかってなんだろう。想像する限り、鳴滝を助けるようなことなんだろうが、なぜか同情してしまう。 「ええっと、じゃあ俺は、どうして今こんな話をされているんでしょう? 少し意図が読めなくなってきたんですが」 「先ほど、君自身が言っていた通りのことだよ。鳴滝くんの監督を任せたい」 「お嬢に先手打たれた時点で、私ら平教師はもう負けだよ。なんせあれ、学園創始者の一族だぜ?」 「けどだからって、いいようにやらせてお終いじゃ癪だしなあ。そこでおまえだよ柊、私と幽雫に絡まれたぞって鳴滝に文句言っとけ。たぶんあいつにゃそれが一番堪える」 「君の責任感を試すような言い方をして悪かったな。しかし、釘は刺しておかないと何かトラブルがあってからでは遅い。分かってくれるか?」 「それはもちろん。はい、言われるまでもなく」 なんらかのかたちでお灸は据えないと、鳴滝のためにもならない。百合香さんに助けてもらってラッキーなんてあいつは考えないだろうけど、プラス俺たちにバレて小言を言われるくらいのバツが悪い思いはしてもらわないといけないだろう。 「実際、俺も少し腹は立ってますから」 「おー、そうだそうだ。あのヤンキーにがつんと言っとけ。しかし鳴滝も馬鹿だよなあ。バレたくないんなら、なんで柊と同じバイトなんかしてんだっての」 「おおかた他のバイトは軒並み落とされたんだろう。君が口を利いてやらなければどうしようもなかった。違うか?」 「その通りです。何せああいう態度の奴ですから」 改めて溜息ものだが、ともあれ大事にはならなさそうなのでほっとした。 「じゃあそういうことで、鳴滝には俺からもしっかり言っておきます。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」 「おう、こっちこそ時間とらせたな。もういいぞ」 と、ここで終わりと思ったのだが。 「あ、四四八。ここにいたのか、えっとさあ」 「なんだ晶、どうかしたのか?」 「ん、いや……なによ、先生らと話し中?」 「それはもう終わった。用があるなら聞くぞ、言ってみろ」 別に教師の前じゃあ話せないということでもないだろう。やってきた晶に先を促すと、こいつも頷いて話し始めた。 「実はさっき、うちのハゲから電話あってさ。今夜静乃の歓迎会をするみたいなんだよ。だからその連絡」 「四四八、今日はバイトないよな?」 「ああ、俺は大丈夫だ。しかし歓迎会ね……」 それ自体、異を唱える理由はまったくない。少し考え、俺は先生たちに目を向けた。 「よければ、一緒にどうですか? さっきのこともありますし、ここでも釘は刺せるかと思いますが」 「え、いいのっ?」 「俺は構わないが、いいのかな真奈瀬さん?」 「は? そりゃ全然構わないっすよ。会場はうちの店だし、どうせならじゃんじゃん金使ってくださいよ」 「そうか。ならせっかくなので行かせてもらおう。お父さんによろしく言っておいてくれたまえ」 「おおぉ、マジで? よっしゃ今日は呑むぞぉ!」 「……おい芦角、おまえ自分の立場を分かってるのか? 生徒の前だぞ」 ほんとだよ。俺が誘った趣旨を理解しているのかと言いたいが、もうこうなってはどうしようもない気がする。 「なんか悪いな。勝手に広げて」 「んーにゃ、別にいいんじゃね? この調子で他の奴らにも声かけようよ。あたしはあたしで誘うからさ」 「分かった。じゃあそうしよう」 「なあ真奈瀬、酒は奢り? 奢りなの?」 「えー、いやちょっと、それはどうでしょ……」 夜は石神の歓迎会。ちょっとしたトラブルに見舞われた昼休みだったが、この後は面白くなりそうだった。 午前中の授業が終わり、昼休みの段になって、俺がその状況に出くわしたのは単なる偶然だった。 「信明……?」 後姿だったので気づくのに少し間があったけど、なにやら不審な行動をしている生徒が信明だったのだ。 あれは〈千信館〉《うち》の資料室……その扉を開けようと悪戦苦闘しているようだが。 「……駄目か。そりゃまあ、鍵がかかってないわけないよな」 少しがっかりしたようにそう呟き、扉の前で立ち尽くしている。 俺はもう少し近づいてから声をかけた。 「おい。おまえ何をしてるんだ?」 「あ、四四八さん」 遠くから見ていたせいか、なんとなく声を掛けづらくもあったのだが、信明は平然とした様子で振り返った。 それがあまりにも先の行動と乖離して見えたので、こちらは少し出鼻を挫かれてしまう。 「その、なんだ。昼はもう食べたのか?」 「ええ。四四八さんは?」 「俺も済ませた」 あまり意味のないことを訊ねてしまった気恥ずかしさに頬を掻きながら、俺は咳払いを一つすると、改めて信明に訊き直した。 「昼休みにこんなところでうろうろして、調べものか?」 「はい。ちょっと資料室に用があって入りたかったんですが、鍵が開いてなくて……」 「もしかして、鍵を借りていないのか?」 「え、ええ……」 入室できなくて当たり前だろう、とはなんとなく言い出しにくい雰囲気だ。 とはいえ、じゃあさよならというのも違う気がしたので、俺は別の方向から訊ねてみた。 「資料室で何を調べるつもりだったんだ?」 「いや、ちょっと……、〈千信館〉《うち》の過去について少し興味があったんですよ」 「なんだ、おまえのクラスの出し物にでも関わることか?」 「そういうわけじゃないんですけど、ただ創立期のことが知りたくて……」 「ふぅむ」 どうも内心を探っているようで居心地が悪かったが、こうして話していると伝わってくるものもある。 まず信明は嘘をついていないだろうということ。 答えづらそうにしているのは間違いないが、決してはぐらかそうとか、話を逸らして逃れようとしているようには見えない。 そうしていると、今度は信明が何かを思いついたように訊ね返してきた。 「そうだ。四四八さんにも聞こうと思ってたんです」 「なにをだ」 「戦真館の……ああつまり、明治時代の話ですが、そのとき大きい事故があったようなんです。四四八さんのお父さんから聞いたことないですか?」 「大きな、事故……?」 まったく聞いたことのない話だったので、俺は信明の言葉を噛みしめるように呟いた。 創立期というと、千信館が今とは違う教育機関だった頃の話だ。要するに軍人を育成していた時代。 現在でも厳しい文武両道を貫く校風として千信館は有名だが、それが明治時代となればさらに厳格なところだったはずだろう。 親父や母さんが通っていた頃よりも昔の話だから、調べるためには資料室の文献を紐解く必要があるのも分かる。 「四四八さんのお父さんは学者だし、もし聞いていた話があったら、何でもいいので教えて欲しいんです」 そう語る信明の表情は真剣そのものだった。 親父が教えてくれたことなんて数少ないから、当たり前にすべて思い出せる。 しかし、創立期の学園で大きな事故があったなんていう話を聞いた記憶はなかった。 「悪いが、そういう話は知らないな」 「そ、そうですか」 「そもそも、おおまかに事故と言われてもな……。どういう系統だったのか、もう少し具体的には分からないのか?」 「それが、僕もよく分からなくて……」 「…………」 うーむ。やはり信明には何かしら言い出しにくいことがあるようだった。 「となると、資料室で調べる他に方法は無さそうですね」 「調べるのに人手が必要なら、俺も協力するぞ? 鍵なら先生のところに行って取ってくればいい」 「え、いや、それは……ちょっと」 「なにかまずいことでもあるのか?」 「…………」 そこで信明は黙ってしまった。 参ったな。あたかも板挟みに苦しむような信明の葛藤が聞こえてくるようだ。 おそらく誰にも言いづらいことを調べようとしているわけで、しかし俺に隠すのが心苦しいように見える。 だから追い打ちをかけることはせず、努めて気楽な調子で俺は言った。 「別におまえの事情を詮索することはしないさ。ただ、困ったことがあるんなら言ってくれよな」 「四四八さん……」 「創立期のこととなると、俺も教科書以上のことは知らないが、それでもおまえの力にはなってやれると思うぞ」 「心配かけてすみません。ありがとうございます」 そうやって微笑む信明が、悪意のあることをやるとは思えない。だけど鍵を借りずに資料室へ入ろうとしていたのは、間違いなく他人には言えない事情があるからだろう。 そのへんを考えていくと、個人的なことではなく本当に千信館全体に関わることなのだろうなと思った。 調べようとしているのは軍学校時代のことについて。 ならばきっと、表立っては言えないことも当時はそれなりにあったはずだ。何せ、戦争のために少年少女を育てていた機関なのだから。 まさか人体実験などという剣呑なことはないだろうが、学校側としては隠蔽したい何某かを信明は知ることになり、それで―― 「四四八さん、戻らないんですか?」 ぼんやりとあれこれ考えていると、信明の声で戻された。 首を傾げるこいつの目は、いつものように健やかで真っ直ぐであり、おかげで俺も必要以上の不安には駆られない。 そうだよな。不安に思うことと同時に、俺はこいつを信じなければいけない立場だし、信じられる男だと思っている。 俺は信明の目をしっかり見返して言った。 「すまん、ぼうっとしてた。それで、俺は当然戻るけど、おまえはどうするんだ。もう少し粘ってみるのか?」 「いいえ、僕も戻ろうと思います。これ以上、ここにいても得られるものはないでしょうし……」 「それじゃ、一緒に戻るか」 「はい」 分からないことを想像して心配しても仕方ない。結局は大昔の出来事なのだ。 それを調べることで、信明の身へ直ちにトラブルが降りかかるとは思えないし、なんでもかんでもこいつの事情に首を突っ込むことは避けたかった。 仮に少々危険なことがあったとして、すぐに俺のような奴がしゃしゃり出てきて良い気分がするとも思えない。 本当に困ったことになれば、信明の方から教えてくれるはずだろう。 「あ、チャイムが鳴っちゃいましたね」 「急ごう」 なので今日あったことは、ひとまず置いておこう。俺たちは学年が違うので、階段のところで散開だ。 が、しかしちょうど別れる間際で、世良と遭遇した。 「あ、二人してこんなところにいたんだ。何してたの?」 「それは……ていうか姉さんこそ。もう予鈴が鳴ってるのに、どうしたんだよ?」 「あんたがケータイの電源切ってるから悪いんでしょ」 言いながら、むすっと膨れてみせる世良。どうやらこいつ、信明に用があったみたいだが。 「姉弟喧嘩ならほどほどにしろよ。俺はもう行く」 「あ、待ってよ。ちょうどいいから柊くんも聞いて」 「なんだ、俺にも関係あるのか?」 「うん、それがね、今夜静乃の歓迎会を晶のところでやるんだって」 「なに、本当か?」 また唐突な話だが、別に内容自体は文句をつけるようなものじゃない。 「柊くんは行けるよね?」 「ああ、俺は全然構わんぞ」 「姉さん、その伝言をしに来たんだ」 「そう。晶からお願いされたの。剛蔵さんもすっかり張り切っちゃってるみたいだよ」 「ということは母さんもだな……」 二人してノリノリになっている姿が目に浮かぶようだ。 となれば問題は、うちのクソ親父になるんだが…… 「あはは。まあ良いことじゃないですか。きっと楽しくなりますよ」 「分かってるさ。おまえも出席するんだろ信明?」 「はい、是非参加させてください」 「ふふ。静乃ったらすっごい喜んでるのよ。盛り上げていこうね」 「……了解」 俺が頷いて答えると、早々にその場は解散になった。 石神の歓迎会か。あいつを知っている生徒だけじゃなく、もしかしたら先生も誘っているかもしれないし、想像すると少し不安になってくる。 とはいえ千信館へ転校してきた石神が、これから楽しく過ごせそうだと感じられる会合にできればいいなと思う。 俺はあれやこれやと段取りを考えながら、午後の授業を過ごしたのだった。 昼休み、俺は鳴滝を呼び止めてバイトのシフトに関する確認をしていた。 「――よし。それなら今月の予定はこれで問題ないな」 「ああ、いつも悪いな。こっちの都合ばっか優先させちまってよ」 「気にするな。先輩の俺が気を利かすのは当たり前だろ。そもそもおまえは、遊び金欲しさでバイトやってるわけじゃないしな」 「けどそれを言うなら、そっちだってそうだろう」 「俺のほうは、半ば意地みたいなもんだからな。おまえとは事情が違うよ」 今年の頭から鳴滝がバイトを始めだしたのは、親御さんの調子があまりよくないから家計を助けたいという真っ当な理由があってのものだ。 俺は俺で進学費用を貯めるためのバイトだが、それは親父の世話に極力なりたくないからで、鳴滝ほど殊勝な心がけがあるわけじゃない。 だから、シフトに関してこいつの都合を優先することに、なんら隔意は持ってなかった。 「ま、恩に着てくれるなら早く仕事を覚えてくれよ。さすがに来年は、俺も勉強に専念しないといけないからな。店はおまえにかかってる」 「分かってんよ。それに、そんな覚え悪いか俺? もうだいたいのことは頭に入ってるぜ」 「ああ、システム的なことはさほど心配していない。俺が言っているのは、愛想についてだよ」 「ぐっ……」 言われ、バツ悪そうに唸る鳴滝。こいつはこういう奴だから、お客さんとにこやかに会話なんてなかなか出来ない。そういうところが問題だった。 渋く寡黙なバーテンというのも有りだろうが、それは人品において一定の信頼を勝ち取らないと通じないスタイルだと思う。 「分かった、努力するよ。紹介してくれたおまえの顔を潰すわけにもいかねえからな」 「頼むぞ。とは言っても今日は定休日だから、気合いのほどを見せてもらうのは明日からだが――」 と言った、そのときだった。 「二年四組の鳴滝淳士くん。至急、生徒総代室まで来てください」 思いがけない突然の校内放送に、俺と鳴滝は顔を見合わせた。 昼休みに放送があるのは珍しいことじゃないが、生徒総代殿から呼び出しがかかるのはそうそうない。 さらには至急というのが気に掛かる。いったいどういうことなのか。 「…………」 俺たちが言葉を失っていると、再び放送が耳を打った。 「繰り返します、二年四組の鳴滝淳士くん。至急、生徒総代室まで来てください」 「おい、おまえいったい何をやったんだよ」 「……知らねえよ」 素っ気なくそっぽを向いて答える鳴滝だったが、その表情には驚きの色と言うよりも、なんとなく苦いものが混じっていた。 もしかして、心当たりでもあるのだろうか。 何にせよ、この場に居合わせたからには呼び出しを無視させるわけにもいかないだろう。 「どうした鳴滝、さっさと行ってこいよ」 「お、おお。分かってる……」 そうして足取り重く、背を向けて歩きだす鳴滝。 がっくりうな垂れているわけじゃないが、その背中からはひたすら面倒だという気持ちが伝わってきた。 その心境は、俺にも一応なら理解できる。総代である辰宮百合香という上級生は、少し変わった人だから。 「…………」 そのまま気怠く足を運ぼうとする鳴滝だった――が。 「……すまん柊。やっぱり一緒に来てくれねえか」 「はあ?」 なんだそれ? 「俺が同席することに何か意味があるのかよ?」 「ある……と思う。ていうか、おまえがいねえと困るんだよ」 「頼む。世話になりっぱなしで申し訳ねえが、助けてくれ」 「…………」 これはやはり鳴滝の奴、どうして呼び出されたのか察しているな。 それがややこしくなりそうだから、俺についてきてくれと頼んでいるのか、もしくは純粋に総代との一対一を回避したいのか。 「はあ……くそ、辰宮の考えることは分かんねえ」 うん、そこは俺も同感だ。ならば見極めさせてもらおう。 事情はまだ不明だが、こいつがここまで言うのだから俺はついていくことにした。 「どうぞお入りになってください」 「失礼します」 「…………」 呼ばれた張本人である鳴滝は、無愛想に黙ったまま総代室へと足を踏み入れた。 現在、この部屋の主である百合香さんは、そんなこいつの感情などまったく理解してない様子で、いつものようにふわふわと微笑んでいた。 「ようこそいらっしゃいました……あら、四四八さんも来られましたのね」 「呼ばれていないにも関わらず、すみません。邪魔なら席を外しますが」 「いえ、ちょうど良いのでいてください。あなたにも関係がありますから」 「俺にも?」 それは、いきなり思いも寄らない台詞だった。 横を盗み見ると、鳴滝は苦虫を噛み潰したような顔をしている。 「その表情からすると、四四八さんにはまだ言っていないのですね」 「……んなこと、俺の勝手だろ」 百合香さんの問いかけに対して、鳴滝は口を開くのも面倒だと言わんばかり。 こいつ、いったい何を隠しているんだ? 誰もはっきり言わないから、俺はただ黙って立っているだけである。 しかし、お嬢様はそんなこちらのことなど気にもしていない様子で、半ば感激しながら言ったのだ。 「ふふ、思った通りの反応ですね。さすがは淳士さん」 「は?」 「どんな苦境に陥っても、その男らしい態度と考え方は変わらないのですね。やはり見込んだとおりです」 「……おい、いったいどういうことだよ? なんでこの人、おまえを手放しで賞賛してるんだ」 「俺に聞くなよ……」 「いいでしょう。淳士さんは言いづらいと思いますので、わたくしから説明して差し上げます」 「先ほど申しましたとおり、四四八さんにも無関係ではありませんからね」 「お、おい」 「大丈夫です。きちんと誤解のないように話しますから」 「…………」 そうして百合香さんが教えてくれた内容は、俺にとって予想外のものだった。 「鳴滝。どんな事情があろうとも、今回のはアウトだろ」 「……悪い」 「せめて俺には最初から言っておけよ。おまえを紹介したのは俺なんだぞ」 「……そこを言われると、実際返す言葉もねえ」 事情を知って呆れと怒りが混ぜこぜになっている俺を窘めるように、百合香さんが割って入った。 「まあまあ四四八さん、そう怒らずに収めてください。黙っていたのも、言わば迷惑をかけまいとする淳士さんの思いやりなのですから」 「だとしても、結果的に迷惑がかかっていたら話にならないでしょう」 「殿方というものは、ときにそういった矛盾と不器用さが大事なのではありませんか?」 「……言いたいことは分かりますけど」 「……すまん」 沈黙は金なんて言うが、ここに至って鳴滝は本当に何も言えなくなっていた。 気持ちは分からなくもないが、本当にどうするんだよこれ。頭を抱えたくなる俺を他所に、百合香さんはまたしてもなにやら感動しているようだった。 「ああ、多くを語らず頭を下げるだけ。本当になんと潔く男らしい方なのでしょう!」 「ねえ、四四八さんもそう思いませんか?」 「……少し、コメントは控えさせてください」 彼女が教えてくれた鳴滝の事情は、端的に言えば校則に違反するものであり、内容は無届けでのアルバイト行為である。 俺はそれを聞いたとき、驚きを隠せなかった。なぜって、咄嗟に意味が分からなかったからだ。 俺がバイトをしているように、千信館ではそもそもバイト禁止なんて法はない。だから届けを出して、許可をもらって、そういう手続きさえ踏んでいれば何の問題もないことなのに、わざわざどうして違反するのか。 そこまで考え、脱力と共に理解した。つまり〈鳴滝〉《こいつ》、自分の素行じゃ許可が降りないかもしれないと思ったわけだ。 俺の感覚ではバイトをするのに許可をもらうという流れは至極当たり前のことすぎて、そういう発想が根本から抜け落ちていたと後悔している。 鳴滝がどういう奴かは知っているのに、不覚だったと言えるだろう。 もっとしっかり監督していれば、今回の不祥事は防げたはずだったのだ。 「……俺も脇が甘かったな」 「こうして言葉少なく理解を深める男の世界。実に美しいですね、素敵です」 というお嬢様の感嘆はひとまず置いといて。 百合香さんが教えくれた、現実に直面している問題を何とかしなければならないだろう。 「このことは、もう先生方に露見しているんですか?」 「はい。幽雫先生など、まだ一部の方で止めていますが。ただ……」 「明るみに出るのも時間の問題だと?」 「そうですね」 「…………」 口をぐっとつぐむ鳴滝を見ていると、なんだか俺と百合香さんで対策を考えようとしているみたいだな。 こいつの性格からして、不始末をやらかしたのは自分だからと、もはや発言権などないというくらいに考えているのかもしれない。 これからどうするべきか俺が考えていると、生徒総代が先回りして言った。 「うふふ。だからこそ、わたくしから妙案があるのです」 「妙案、ですか……?」 その口ぶりからして、お嬢様は如何にも自信があるようだった。 それにしても、なんだこの嫌な予感は。 わくわくと子供のように顔を綻ばせている百合香さんを見ていると、俺の中で警鐘が鳴り始める。 「友人に迷惑をかけまいとした淳士さんを、校則という狭い枠組みで罰させるわけにはいきません」 「しかし、規則は規則でしょう。生徒総代がそれでは、示しがつかないんじゃないですか?」 「もちろんです。ゆえに先手を打とうと思います」 嫌な予感がどんどん濃くなっていく。鳴滝の顔を見ると、どうやら俺と同じ気持ちのようで、訝しげに百合香さんの顔を伺っていた。 「体面を保ちつつ、淳士さんを救う方法。それは先生方が用意するものよりも、先に新たな罰を設ければよいのです」 「……どういう意味だ。あんたが、もっときつい罰を俺に与えるっていうことかよ?」 「いえいえ。それも魅力的な案ですが、今回は違います。内容的には、きっと淳士さんのためになると思いますよ」 ここにきて鳴滝のためと発言する百合香さんに激しく違和感を覚えてしまうが、彼女の案には興味があった。 俺としても、権力やら小細工やらで鳴滝の不始末を有耶無耶にするというのは本意じゃない。こいつは悪いことをしたのだから、相応のケジメはつけるべきだと考える。 だが、このまま先生方に任せてしまうと良くても停学は必至。そうなると、鳴滝は退学すると言い出しかねないからそれは防ぎたい。 よって、上手い落としどころを探さなくてはいけないと思う。 「端的に申しあげれば、淳士さんがもうこれ以上の問題行動を起こさないだろうと、皆に納得させればよいわけです」 「それには生徒教師両面から一定の信頼を勝ち取っている者が、彼のことを監督しなければなりません」 「そう、誰にも文句を言われない、言わせない人材。それはこのわたくしのみでしょう」 「――はあッ」 俺と鳴滝の声が見事にハモった。 「ゆえにわたくしも、お二人と一緒のお店でアルバイトをしようと思います。四四八さん、そういうことなので、よろしく店長さんにお伝えくださいね」 「ちょ、いやいや――決定事項みたいに言わないでくださいっ」 「なぜです? あなたとわたくしの気持ちは同じはず。淳士さんがつまらぬ罰でいなくなってしまったらどうするのです? 文化祭もあるのですよ?」 「それは……」 確かにそうなんだが…… けれど今のバイト先に、百合香さんまで加わるというのはちょっと本当に勘弁してくれ。面倒ごとが増えすぎる。 「なんてこった……」 鳴滝もまったく同じ気持ちのようだった。 しかし、こいつの立場として彼女の取り計らいは純粋にありがたいはず。そういうのを無下に断れるほど薄情な男ではない。 苦渋に満ちた表情のまま、鳴滝は黒檀で出来た生徒総代室の机に腰かけた。 「ちッ、やっかいなこと言い出しやがって……どうすんだよ、これ」 「あんた、簡単に言うけどな。バイトしたことあんのかよ? 客商売だぞ、酒だって出すし」 「苦労知らずのお嬢様がよ、遊びで勤まるほどお上品な職場じゃねえぞ」 「仰りたいことは分かります」 「てめえに何が分かるんだよ」 「分かりますとも」 鳴滝の行儀悪さを咎めるでもなく、むしろ自分も行儀の悪さでは負けないと言わんばかりに、彼女も机に腰を下ろした。 「せっかく四四八さんと男同士の友情を育んでいるところに、女が入ってきては邪魔でしょうから」 「は……?」 「場末にあるバーのウェイター。すなわちバーテン。なんとハードボイルドな響きなのでしょうか」 「わたくし、正直申しまして憧れを禁じ得ません」 「…………」 「そこはきっと、神聖な殿方の修行場。本来ならば、女が踏み込めるところではないはずです」 殿方の修行とは果たして何のことなのか想像もつかない。俺と鳴滝は、いったいどんな鍛錬をしていることになってるんだ。 しかし、俺たちがイメージできない何かが、お嬢様の頭にはあるようだった。 「あんたの言ってることが、俺にはさっぱり分かんねえよ」 「ふふ。嫌なはずでしょうに、強く拒絶はなさらないのですね。事ここ至って逃げたりせず、暴れたりもしない」 「淳士さんの筋目を弁えているところ、わたくしは素敵だと思いますよ。ねえ、四四八さん」 「わたくしはあなたと同じ気持ちであると申しあげました。言わば同志と呼んでも過言ではありません。ですから、ぜひ助け合いましょう」 「すみません……いったいどういう意味でしょうか?」 「知れたこと。淳士さんは、言動や雰囲気のせいでよく誤解されています。それを歯がゆく感じているのは、あなた達だけではないということ」 「……つまり、百合香さんもそうなのだと?」 「はい。なのでお手伝いをさせてください、わたくしと四四八さんが監督をしているということになれば、要らぬ誤解もすぐに解けるでしょうし」 「我々に挟まれるという状況は、淳士さんにとって下手な処罰よりもよほど薬になるのではないかしら?」 もはや口の挟むところのない彼女の思考と結論だった。頭がファンタジーな人ではあるが、基本的に善意と正論なのであまり言い返すことが出来ない。 「……だけどよ、そんなもん、柊一人がいりゃいいじゃんかよ」 「二人なら、さらに良いではありませんか。四四八さんもそう思うでしょう?」 「体裁を整えるという意味でなら……」 けど結果は、俺の負担が増えるだけの未来しか見えてこない。 しかし、そんなことを言っても、おそらくこの人には伝わらないだろう。 なんだか一番の罰ゲームになるのは俺のような気がしてきたとき、鳴滝が聞き捨てならないことを口にした。 「だいたいあんた、なんで〈今〉《、》〈さ〉《、》〈ら〉《、》そんなこと言い出しやがるんだ」 「俺が無断でバイトを始めた当初から、あんたは知ってたはずだろうがよ」 「……なに?」 百合香さんは、以前から鳴滝のバイトが無許可だというのを知っていた? それが本当なら、これは寄り切られそうだった俺たちの劣勢を打破する事実かもしれない。 「どういうことですか、百合香さん?」 「え、なんのことでしょう?」 「だから、今までは柊がいるからっつうことであんたは見逃してくれたんだろ? それなのに、どうして今さらそんなことを言い出すのかっていうことだよ」 「……ですからそれは申しました通り、こうなった以上、監督役も一人よりは二人の方が、周りの理解を得られるということです」 「そりゃ、そうなのかもしんねえけどよぉ」 「待て鳴滝、ちょっと黙ってろ」 良くも悪くも真っ直ぐなこいつには分からないんだろうが、これは突っ込むべき点だろう。 百合香さんは最初から知っていた。しかしその時点で今回のようなことを言っても、柊がいるから構わないじゃないかと押し切られてしまう。 だから、彼女は機会を――チャンスを伺っていたということに他ならない。 待っていたんだ。事が一部の先生にバレて事態が悪化し、取引材料が増えるのを。 おそらくは適度に隠蔽工作もして、さりげなく恩に着せつつ。 そんな、生徒総代らしからぬ下心に、俺は棘を刺すよう言ってみた。 「百合香さん、これは少々フェアではないですよね?」 「……はい?」 「これはいわゆる、蓋然性の犯罪……というわけではないですが、それに近いと思いますよ」 いずれトラブルが起きるだろう状況を構築し、あとは火がつくのをひたすら待つ。つまり落とし穴を用意して、嵌ったのを見計らいつつ手を差し伸べているようなものだ。 「鳴滝はあなたも言うように無骨な男です。お分かりですよね?」 こういう駆け引きをしたこと自体がバレるのは、きっと百合香さん的にも避けたいところのはずだ。 なぜならこの手の計算ずくな行動を、鳴滝は間違いなく嫌悪するだろうから。 「どうでしょうか。今引くなら俺もこれ以上は言いませんが」 「あん? なんだよ、おまえら何を話してやがる」 とりあえず鳴滝は無視しておく。 もともと無許可でバイトという穴を掘ったのはこいつ自身なので、嵌るのは自業自得と言えるのだが、俺がそう指摘すると総代は分かりやすくたじろいだ。 「むぅ……、さすがの洞察力ですね。四四八さんは検事を目指していると幽雫先生からは伺っていますが、納得しました」 「それは身を引いて頂けるという理解で間違いありませんか?」 「……やむを得ません。しかし、完全に諦めたわけではありませんよ」 「わたくし、こう見えてもしつこい女なのです。淳士さん、次こそ覚悟しておいてくださいね」 「…………」 鳴滝も鳴滝で、理解できなくとも余計なことを言うつもりはないようだった。 せっかく百合香さんが一時とはいえ引いてくれたのだ。一緒にアルバイトをするなどというのは、絶対に回避したいところである。 「じゃあ、これで失礼します。今後も鳴滝の監督は、俺が引き受けるということでいいですね」 「はい。ひとまずそのようにしておきましょう」 「淳士さん、頼もしいお友達がいてくれてよかったですね」 「なんか分かんねえけど、あんたにそう言われるとぞっとする」 「あらあら、つれないこと。そんな邪険にされると傷ついてしまいます」 「ではお二人とも、ごきげんよう」 そうして、引き際はまさしく千信館の代表に相応しい堂々としたものだった。 まったく、面の皮が厚いというのか。俺たちは脱力しながら生徒総代室を後にした。 「悪ぃな柊、無駄な時間を取らせちまった」 「百合香さんに呼ばれたことなら気にしなくていい。それよりも事の発端は間違いなくおまえの不始末なんだから、そっちを気にしてくれ」 「ああ、分かってるよ」 頷く鳴滝に、俺もそれ以上細かいことを言うつもりはない。 こいつの顔を見ていれば分かる。短い言葉とは裏腹に、おそらく俺が思う何倍も自戒しているだろうから。 そして、俺たちが教室へ戻ろうとすると不意に後ろから声をかけられた。 「あら、ちょうど良かった。雁首を揃えて、あんたらこんなところにいたのね」 「なんだ我堂か。ちょうど良かったって、俺たちに用があったのか」 「ええ。不本意ながらね」 百合香さんの後だと、我堂の悪態もあまり気にならないな。 いや、普段から気にならないが、天然であるがゆえに手強いお嬢様と比べると安心してしまう。 「……チッ。やっとうざいのから逃れられたと思いきや、今度はこいつかよ」 「なによそれ。聞いてたわよ。あんた生徒総代室に呼び出されてたわね」 「ま、別にあんた達が呼ばれた理由なんで、どうでもいいけど」 「だったら、いちいち言うんじゃねぇよ」 「はいはい、そんなことより晶から伝言よ。今日、静乃の歓迎会をやるから、授業が終わったらきそば真奈瀬ね」 「は? 俺まで参加するのか?」 「当たり前じゃない。文句があるなら晶に言ってよ」 「……文句は別に、ねえけどよ」 「じゃあそういうことで、ほら午後の授業が始まるわよ。だらだらしてんじゃないの」 「分かったっての。うっせえな」 さすがに百合香さんとのやりとりがあったせいか、鳴滝も疲れているようだ。 やかましい我堂に二人して背中を小突かれながら、俺たちは教室に戻っていった。 しかし、石神の歓迎会ね。 これはまた、さらに疲れることになるだろうな。 そして放課後。俺は俺で何人かに声をかけたから、残りは晶に任せて一足先に歓迎会の会場であるきそば真奈瀬を訪れることにした。 色々と下準備もあるだろうし、母さんが迷惑をかけてないかと心配でもあったから、俺に出来ることがあれば手伝いたいと思う。 そういうわけで。 「お邪魔します」 「おー、四四八くん。どうした早いな、晶たちは一緒じゃないのか?」 「あいつは参加者を募ってるんで、俺はここの手伝いでもしようかと思って来ました。何かありますか?」 「そうかそうか、それはすまんな。だが心配は要らないぞ、大丈夫だから君は気にせず寛いでくれ」 「ですが、そういうわけにもいかないでしょう」 今このときにも剛蔵さんは目が回りそうな勢いで動いているし、実際人手はほしいはずだ。俺に料理の手伝いは出来ないが、配膳くらいやるべきだろう。 「だいたい、母さんはどうしたんですか? 見当たらないですけど」 「恵理子さんなら買出しに行っているよ。重いから俺がやると言ったんだが、聞かなくてなあ」 「なるほど」 その情景が目に浮かぶようだ。小柄な母さんに少なくとも十人以上集まるだろう歓迎会用の飲食物その他を運ばせるのは無理があるけど、だからといって剛蔵さんも手が放せない。 だったら、俺がやるべきことは決まりだな。 「分かりました。じゃあ俺は母さんを手伝ってきます」 「あ、おい四四八くん――恵理子さんがどの店へ行ったのか分かってるのか?」 「見当はつきますし、絶対目立ってるから一目瞭然ですよ」 あの人のことだから、その辺でふらふらと雪だるまのようになっているはずだろう。手伝い以前に、息子としても恥ずかしいので回収しなくてはならない。 「じゃあ行ってきます」 そして、俺は母さんを捕まえるべく、きそば真奈瀬を後にした。 結果。 「ぷはー、ほんとにありがとうね四四八。お母さん助かっちゃった」 「それはいいよ。だけど母さんは、頼むから自分の体力とか弁えてくれ」 五分も掛からずに発見、捕獲。予想通り前が見えなくなるくらい荷物を抱えて、マンガみたいになっていた母さんを押さえることに成功した。 「しかしまあ、なんか色々と買い込んだな。これ、本当に剛蔵さんの許可を取ってる?」 「取ってるよ。恵理子さんの好きにしてください、がっはっは――て言ってたし」 「あの人は母さんに甘いんだよ……経営者ならもっと締めるべきところを締めないといけないのに」 ジュースやお菓子の山はいいとして、クラッカーだのヒゲメガネだの、その他パーティグッズてんこ盛りはどうなんだ。いったい誰に着せるつもりなのか、コスプレ衣装の類までいくつかある。 「けど、あれだ。例のほら、そばもんだっけ? あれを着ようとしてないぶんだけまだマシだね」 「え、着るつもりだけど?」 「やめなさい」 あんなものを着て歓迎会なんかされた日には、場が阿鼻叫喚になってしまう。母さんは不満そうだが、認めるわけにはいかない。 ともあれ、買出し自体は終わったのだから、あとはこれを持って戻るだけだ。そう思い、足をきそば真奈瀬に向けたところで、母さんが俺の袖を引っ張ってきた。 「ごめん四四八、悪いけど先に行ってて。私は一旦、家に帰らないといけないから」 「なに、忘れ物でもしたの?」 「ううん、聖十郎さんを迎えに行くの」 「はあっ?」 それは、完全に俺の意表をつく答えだった。信じられない。 「母さん……あいつがこんな会に来るわけないだろ。誘うだけ無駄じゃないのか?」 「そんなわけないわよ。静乃ちゃんは聖十郎さんにとって大事なお友達の娘さんだし、その歓迎会にあの人が来なくてどうするの」 「確かに、筋はそうだけどさ」 そういう諸々、まとめて歯牙にもかけないのが柊聖十郎という男だろう。あれは完全な、自分ルールにのみ生きてる奴だ。 「それにね、聖十郎さんはまた外国に行っちゃうでしょ? だからそのお別れ会も兼ねた意味で、私と剛蔵さんが企画したのよ。絶対来てもらうんだから」 「あいつは、そのへん了承したわけ?」 「すごい面倒くさそうにはしてたけどね。でも断られはしなかったよ」 「そう……」 だったらまあ、いいことなのかな。母さんが言ったとおり、本来なら親父は義務のレベルで参加しなければならない立場だし、そこに俺があいつと馬が合わないからって難癖つけるわけにもいかない。 しかしほんと、昔から母さんと剛蔵さんだけには弱いよな、あの俺様男。 「分かった。じゃあ俺もついていくよ」 「いいの? 荷物重いだろうし、そうじゃなくても早く届けないといけなくない?」 「母さんが買出ししたのは、ほとんど剛蔵さんの準備に必要なものじゃないだろ。会が始まるまでに戻れるなら何も問題はないよ」 「それに……」 少し恥ずかしかったが、俺は思ってることを口にした。 「親父が親父らしいことをするなら、俺も付き合うよ。家族だしね」 「うん、そうね。ありがとう四四八」 そうして、俺と母さんは並んで歩きながら、一緒に親父を迎えに行くことにした。その状況に、小さいときのことを思い出す。 今もそうだが、親父はよく研究だの何だので家を空けていたから、帰ってくるときはこうやって母さんと二人、駅まで迎えに行ったものだ。 あいつは常にぶすっとしていて、土産の一つも買って帰りはしなかったが、それでも母さんは夫の帰還をいつも素直に喜んでいた。 そのことが俺には少し癪であり、転じて親父への苛立ちにもなっているけど、今はそういう自分の感情を客観的に分析することも出来ている。 人間的にわりと言い訳無用の嫌な奴なのは確かなので、変に擁護する気はまったくないが、俺の親父は柊聖十郎というろくでなしであるって事実には目を逸らさず、向き合いたいと思うのだ。 さっきも言ったけど、家族だし。切っても切れない縁なのだから。 小さい頃、駅まで迎えに行っていたときと同じように、話題は親父のことへとなっていく。 「で、今度は上海だっけ? 具体的に何しに行くのか、聞いてないわけ母さんは?」 「うん、訊いてもまともに答えてくれないと思うから」 「けど、昔はそうでもなかったんだろ?」 「あれはねえ、話したと思うけど少し事情が違うのよ。覚えてない?」 「いや、覚えてるよ」 それは俺が生まれる前、二人が新婚だったときの話。 その頃の母さんは、よく親父に仕事関係のことを質問していたらしい。今より若かったぶん、胸に描いた夫婦像というものがあったそうで、その一つになんでも話し合い隠し事などしないってやつがあったみたいだ。 「おまえに言ったところで分かるわけがあるまい――て言うもんだから、そんことないですって言い返したのね。それで私があんまり食い下がるから聖十郎さんも怒ったみたいで、がーっと言ってきたのよ」 「専門用語全開の論文丸暗記みたいなやつをだろ?」 「そうそう。私ったらもう、この人はどこの国の言葉を話してるんだろうって思っちゃったくらい」 子供かよ、と言いたくなるような対応だが、実際有効ではあるだろう。門外漢には理解不能な話ほど、聞いててつまらないものはない。 だが、親父にとって予想外だったのは相手が柊恵理子だったということだ。 「嬉しかったなあ、私。手加減抜きで向かい合ってくれてるんだなあって思ったから」 「話は全然分からなかったけど、にこにこしながら聞いてたのね。そしたら聖十郎さんのほうが疲れちゃったみたいで」 「ざまあ見ろだな。いつ聞いても指差して笑いたくなる」 以来親父は、ある意味で母さんに白旗をあげたわけだ。いくらねじ伏せようとしても暖簾に腕押しなのだから、ムキになったほうが馬鹿を見る。 「もう、そんなこと言っちゃ駄目よ。私も何か間違っちゃったのかなってそのとき思ったから、それからはあんまりうるさく言わないことにしたの」 「聖十郎さんはちゃんと私を見てくれるんだって分かったし、焦る必要なんてどこにもないのね。そんな風に分かり合っていくんだと思うの、夫婦って」 その強メンタル、と言うべきなのかは不明だが、器のでかいところは俺も見習いたいところだ。不本意ながら、俺はそういう面が親父似で神経質な系統だと自覚してるし。 「四四八もいずれ、そんな風に思える相手が見つかればいいわね」 「俺のことはいいだろ、別に」 薮蛇な展開に顔を歪めて話を逸らそうとしてみるも、母さんは変わらずにこにこと笑っている。それでまたしても不本意ながら、親父の気持ちが分かってしまった。 「晶ちゃんたちとはもう長い付き合いだから、お互い問題なく分かり合えてるはずよね。だったら何が足りないのかな。きっかけ? 勇気?」 「母さん……」 「そういう意味でも、静乃ちゃんはいい起爆剤になると私は思うんだけどな。どう思う四四八?」 「だから、そういうことはいいってもうっ」 母親相手に色恋相談など本当に勘弁してくれ。世の息子たちの九割九分がそう思っているはずだろうが、同時にそれを面白がる母親も九割九分はいるだろうと分かってしまうのが困りものだ。 「その手の話がしたいんなら、石神に直接してくれ。あいつはきっと喜ぶし、本当に世間知らずな奴だから母さんが色々教えてくれると俺も助かる」 「女のなんたるかってやつ、伊達に年季入ってないんだから持論はいくつか持ってるだろ。それをあいつに叩き込んでやってくれよ」 「そうね。四四八がそう言うならやってみようかな。花嫁修業のお手伝いね」 「うふふ……でも、嫁姑戦争みたいになっちゃったらどうしましょう。実は結構、憧れてたんだ私」 「そこまで飛躍した話をしてるんじゃないよ、俺は」 などと言い合う内に、目的地の我が家へ着いた。母さんはぱたぱたと子供のように小走りして、玄関を開けると大声で呼ばわる。 「聖十郎さーん、迎えに来ましたよー。静乃ちゃんの歓迎会に行きましょー」 その様子を見て、しみじみ思う。本当に改めて、歳を感じさせない人だよなと。 それはきっと、母さんの人生が幸せに満ちたものだからだろう。そしてその幸せは、決して最初からそこらに転がっていたわけじゃない。 育み、守り、築き上げてきたものなんだ。 なので俺も、等しく思う。 「早く来いよ。行くぞ親父」 俺は俺で、幸せになるための努力を怠ってはならない。家族についても。仲間についても。 多少大袈裟かもしれないが、今日のこともその一つだと思ったんだ。 晶経由で伝わってきた石神の歓迎会。 俺は俺で声をかけて回ったから、ひとまず全員へ伝わったと思う。もちろん各々の事情もあるから参加できない奴もいるだろうが、少なくとも知らなかったという事態を避けられればそれでいい。 放課後、そう思って校門を出ようとしたところ、俺はとある人物のことを思い出した。 「そうか。あいつがいたな」 クラスも違うし日常的に絡むこともないから、つい忘れていた。 しかし、今日の主賓である石神の趣味を考えれば、あいつを呼ばないのは片手落ちもいいところだろう。 だいたい他にも、彼女が来れば大喜びする奴はいるわけで…… 「まだ校内に残ってくれてると助かるが……」 呟き、俺が急いで学舎へと引き返そうとしたとき、幼なじみのでかくて馬鹿っぽい声が聞こえてきた。 「なぁー、なぁー、行こうぜ。予定はないんだろ?」 「……予定はありませんが、栄光さんの誘いに乗る理由もありません」 「そんな固いこと言わずにさ~、来てくれたら、オレすっごい楽しい時間を約束しちゃうぜ!」 「…………」 「桜の咲き乱れるこの季節……俺とのカンケイも一気に咲かせちゃうっていうのはどうすかっ?」 なんだ、あれは。栄光のいつにも増した薄ら寒い言動に、俺は違う意味で戦慄を覚えそうだった。 野澤を誘ったらあの馬鹿も喜ぶだろう、なんて思っていた自分の鈍した感覚を恥じる。 そうだよな。俺が声をかけなくとも、当の栄光が行動するのはもうお約束のようなものだ。 「な、ちょっとだけでいいからさ。ほんのちょっと! たった五分、すぐ済むからさ」 「……意味が分かりません。というか、不穏な気配しかしません」 「安心してくれ。悪いことはしないと大仏さまに誓うって。そもそもオレが、祥子さんに嫌なことするはずなんかないだろう」 「もうすでにされてるんですが」 「そんな、ちょっとだけ身体を貸してくれればいいっていうのに!」 「……殺しますよ」 いかん。目眩がしてきた。栄光の性格について、今さらとやかく言うつもりもないが、こんな誘い方で野澤のような女がついてくると思っているのか、頭の中身を見たい。 するとあからさまに面倒そうなのを隠そうとせずに、今度は野澤から質問が飛んだ。 「返答の予想はつきますが……、一つだけ訊いておきます」 「なんだよ、水くさい。一つと言わずに、何でも質問してくれよ。オレ、全開答えちゃうから!」 「前に私が言った夏目漱石を完全に読破してから来てくださいという条件は、もう達成したのですか?」 「う、それは……」 「やっぱり」 予想通りというか、期待していませんでしたけど、みたいな反応。 栄光は熱心に誘っているようだったが、野澤はまったく興味が無い様子だった。 そもそも彼女の態度から察するに、おそらく栄光が何について自分を誘っているのか、さっぱり分かっていないのだろう。 よってこのままでは、ただの寒すぎるナンパ行為でしかない。 「まったく……」 やれやれ仕方ないなと思いながら、俺は栄光と野澤に声をかけた。 「よう。野澤には栄光から声をかけていたのか」 「四四八! なんだよおまえ、今いいとこなんだ、邪魔すんなよっ」 「おまえは黙ってろ馬鹿者。むしろ助けてやろうっていうんだ」 「それで……」 「なんでしょう、四四八さん」 「ああ、とりあえず言わせてくれ。誤解なんだよ」 「と、いうと?」 俺の言葉に首を傾げるのは野澤だけじゃなく、栄光まできょとんとしている。 俺はそれに溜息をつきつつ、簡潔に言った。 「〈栄光〉《こいつ》がさっきから言っているのは、石神の歓迎会についてだ。これからやることになったんで、おまえを誘ってるんだよ」 「ああ、なんだそうだったんですか」 「え、あれ。もしかして伝わってなかった?」 「悪かったな、相変わらず栄光が馬鹿で」 「別に……まあそういうことなら、最初から四四八さんが言ってくれればよかったのに」 「重ねてすまん。一歩遅れた」 「栄光さんの言っていることは、本当にワケが分かりませんでした」 「お~い」 野澤の言うとおり、夏目漱石のような擬古典小説を読んで、栄光には少し勉強してもらいたいものだ。 誤用とかそういう次元ではなく、あの誘い文句だけを聞いていたら日本語能力に疑問符がいくつもつくぞ。 「なんか少しばかり、先走っちゃったかなオレ?」 「あの有り様で先走りと言えるのがすごいです」 「勘弁してやってくれ。悪気はないんだよ。ただ日本語が少し不自由で……」 「せめて迷惑を振りまかないようにしてくれると有り難いのですが」 「俺から伝えておこう」 「待てや!」 なんというか、いつもの通りだな。 少し心配だったけど、栄光に声をかけられたこと自体は、野澤にとってそこまで不快じゃなかったらしい。 面倒だったのは間違いないだろうが、それは内容が意味不明だったからだ。 「……まったく、本人がいる目の前で失礼なことを言ってくれるぜ」 「先に失礼な真似をしたのは、どちらかというのを考えてください」 「声をかけるのは別にいーだろー? ほら、最近はまともに女の子も誘えない男が増えたっていうじゃんか。オレはそういう情けない奴にはなりたくないんだよ」 「ああ……またこの人は本末転倒なことを」 「いいですか栄光さん、女は安く見積もられるのが総じて嫌いです。しかるにあなたからは、異性に対するリスペクトが感じられません」 「え、えーっと……、ごめん。難しくてよく分からないんだが」 「つまり高めの女子だったら、簡単に声をかけらないでしょう、ということです」 「んん?」 「正確には、気持ちに応じて相応の態度が表れるはずだと言いたいのです」 「あんな風に礼儀を欠いた誘い文句がすらすらと出てくるのも、ひとえに栄光さんが私を安く見ているからに他ならないかと――」 だがそこで、真剣な栄光の声が野澤の言葉を遮った。 「違う……、それは違うぞ! 祥子さんは誤解しているっ!」 「誤解などしていないと思いますが」 「いいや、してるぜ! 話を聞いてたら、誰が相手でもオレはあんな風だと思ってないか?」 「違うんですか?」 「もちろんさ! 俺は祥子さんが相手だから声をかけてるんだっ」 「…………」 すごいな、栄光の奴。 はっきりと言い切った幼なじみの姿を見て、内心驚いていると、こいつはさらに胸を張って宣言した。 「石神の歓迎会をする。それには祥子さんがいないと始まらない!」 「な、なぜそうなるんですか」 「そうじゃないとオレのテンションが上がらないからだ! 低いテンションのままなら歓迎するのもままならないぜ」 「それは石神さんと栄光さんの問題であって、私の問題ではないはずです」 「いいや、オレ的には祥子さんとオレの問題だ。この際、石神は関係ない」 「……いつにも増して支離滅裂なことを言いますね」 本当だよ。ここまでワケの分からん三段論法は聞いたことがない。 石神の歓迎会のために野澤が必要で、野澤がいないとやる気が起きないから、だから石神は関係ない―― どうやら栄光の脳内では、こういった常人には計り知れない変化が起きているらしかった。 「オレが祥子さんを誘うとき、軽い気持ちでなんてありえない」 「自分にとって最高の女を誘ってるつもりだ! 全身全霊をもって!」 「それなのに、あなたはあんな誘いかたになるんですか?」 「そこはもう許してもらいたい! ちゃんと夏目漱石を読んでおくから、今度マジでデートして!」 「ぶっちゃけ祥子さんとインラインスケートでキャッキャウフフしたいっ」 「はぁ……」 なんだろう。野澤の溜息にもシンクロするが、しかし栄光の姿勢を応援している自分も確かにいる。 今日び、ここまで情熱的に好きな女を誘える男がいるだろうか。 その一点だけは俺や鳴滝なんかと比べると、栄光は遙か先へ、そして及びもつかない高みへ行っている。 栄光みたいになりたいわけじゃないが…… 「まあ……、四四八さんのおかげで本当の目的も分かりましたし、栄光さんの馬鹿さ加減には目を瞑っておきましょう。いつものことですから」 「助かる」 「それにこの場所で足止めを食わなかったら、四四八さんから教えてもらえませんでしたから」 「悪いな。急遽、決まったものだったから」 「謝らなくていいですよ。もっと酷い例があると、存外気にならないものです」 「ねえ、ねえちょっとおいっ」 「なんだよ」 「なんですか」 「オレと四四八の扱い、違いすぎねぇ? 差別だ、差別!」 「それは日頃の行いによる差であって、正当な評価だと思います」 「にしても、これじゃまるでオレは、四四八が出てくるまでの場繋ぎな三枚目じゃねぇか!」 「何を今さら。それがあなたの役割でしょう。身の程を弁えてください」 「ヤダヤダ! オレも二枚目がいい。祥子さんにモテるような!」 「子供かよ」 「何を言ってるんですかあなたは」 「だってそーじゃん! 四四八め、思えば如何にも二枚目ですみたいな登場しやがって。もしかしたら、ずっとタイミング伺ってたんじゃねぇか?」 「変なことを言うな」 無駄に鋭くなる奴め。 すると野澤も、俺に乗っかる形で栄光へ言った。 「そうです。取り消してください。栄光さんの台詞は、私にとっても心外です」 「そ、そんな! もしかして祥子さん、いつの間にか四四八の毒牙にかかって……?」 「おまえ、さっきから好き放題言ってるけど、俺は全部覚えているからな」 「そこじゃありません。私にモテる二枚目というところです」 「へ……? それのどこが変なの?」 「二枚目ならばなびく女に見えるんですか? だとしたら、やはり私は栄光さんから安く見られているということになりますね」 「そもそも、あまり好みではありません。二枚目なんて」 「なに?」 今、何気に野澤は凄いことを言った。本人もそれに気づいたのか、一転して慌てだす。 「あ、いえ違います。別に四四八さんへ何かを言いたいわけではなく」 「んーっと、つまり、どういうこと……?」 栄光よ、本当に日本語を勉強し直してこい。 おまえは損をし過ぎている。 「わざわざ説明する気にもなりません。夏目漱石でも読みながら、自分で考えておいてください」 「えー、そうしたら年が明けちまうぜ……」 「小説を読むのに、あなたはどれだけ時間をかけるつもりですか」 「いつも大体それくらいなんだよ、四四八なら分かるだろ」 「分かるけど、おまえの読書スピードを肯定する気にはならないぞ」 「なんだよ、薄情な幼なじみだぜ」 そんな俺と栄光のやりとりを見て、野澤はわずかに笑っているようにも見えた。 感情を表に出すタイプじゃないから分かりにくいけど、これならきっと大丈夫だな。歓迎会へ来てくれるだろう。 だったら、もう俺は早々に退散するべきだ。 「それじゃあ俺は先に行く。栄光、ちゃんと野澤を連れて来いよ」 「おう、まかせとけ!」 「四四八さんは一緒に行かないんですか?」 「俺は買い出しとかあるからな。先に二人で行っておいてくれよ」 「おお……、四四八。おまえはなんて友達甲斐のある奴なんだ。さっきは変なこと言ってごめん! おまえこそ千信館を代表する二枚目だ!」 「うるさいです」 やかましく騒ぎ、そして野澤から肘うちされる栄光。 俺は二人を置いて、先に駅前へと向かう―― 向かいながら、頭の悪い幼なじみの健闘を祈っておいた。 「さーって、ちゃんとみんな集まっかな」 「おまえの方は全員に声をかけたんだろ」 「かけたけど、必ず来るって約束を取り付けたわけじゃないし、そっちはどうだよ?」 「そこは俺も同じだが、誘える範囲で全員誘ったんだから今さらどうしようもないだろう」 「そうだけどさあ……」 きそば真奈瀬で企画した石神の歓迎会。俺と晶はできる限り声をかけて回った。 こいつが不安がっているのは、歓迎会であるにも関わらず人が集まらなかったという結果だろう。 しかし、それは杞憂だと断言できる。声をかけた奴に付き合いが悪いタイプはほぼいないし、仮に多少の欠席者が出たところで、あの店なら貸し切り満員状態になるはずだ。 「おい、なんか失礼なこと考えてないか?」 「いきなり何だよ」 「四四八が、そういう顔して考えごとしてるときは要注意だからな」 「むしろ、おまえの方が失礼だぞ」 言い返しつつ、ちょっとした機微を感じ取る晶の感覚に内心で苦笑する。 別にきそば真奈瀬が狭いとか、そういうことを言いたいわけじゃない。なんだかんだ剛蔵さんの人徳で、人はいくらでも補充できるだろうということだ。 「だいたい集まりを心配してるわりには、買い出しのとき俺の制止を聞かずに買い込んでたのは誰だった?」 「そ、そこはほら、備えあればナントカっていうだろ」 「憂いなし、だ。そのくらいさらっと言えるようになってくれ」 「うるせーなっ」 ぷい、と拗ねたようにそっぽを向く晶。 冷静に考えてみれば、クラスメイト全員分みたいな量を買った奴が、今さらデリケートになるなよという話だ。 俺は晶の肩をぽんと叩き、わざと軽い口調で言う。 「たとえば栄光が野澤を誘ったら、それは俺も心配になってるけどな」 「ああ。あいつが誘ったら、逆に来てくれなくなるかもしれねえわ」 「だろ?」 完全に陽が落ちる前の鎌倉駅前を、慌ただしくなり始めた人々の喧噪が埋め尽くしていく。 俺と晶が周辺を見ますと、しかしまだ他のメンバーの姿は見えなかった。 「なんか、こうしていると懐かしいな。昔、俺たちだけで江ノ電に乗ったときのこと覚えてるか?」 「あゆが改札ぶっちして怒られたあれだろ。電車の乗り方もよく分かってなかった時分に、よくあんなことやったよな」 「俺は知ってたぞ。おまえらが予測不可能な動きをしすぎるだけだ」 が、子供はそういうものだろう。親に内緒で江ノ電巡りという冒険を試みた俺たちは、結果として持ち金を越えるところまで行ってしまい、結構な事件になってしまった。 「栄光は泣くし、鳴滝は歩いて帰るとか言いだすし、歩美は気がつきゃ海で遊んでるし」 「ノブが具合悪くなるし、水希はそれ見てテンパるし。結局あれ、どうなったんだっけ?」 「あの頃ケータイ持ってるのは我堂だけだったから、あいつが家の人を呼び出した。何て言うんだあれ、召使いじゃないけど、なんかそういう」 「親には絶対伝えるなと脅しをかけて呼んだのに、やって来た黒塗りのリムジンには俺たち全員の親が乗っていたという、まあそんな落ちだ」 「ああ、そうだったそうだった。いやあ、怒られたよなあ実際」 「いま考えれば全然たいした距離じゃなかったのにさ、もう二度と帰れないかもしれないとか思っちゃったよあたし」 「だな。正直言うと、あのときは俺もかなり焦ってた」 大きくなるにつれて行ける場所や手に入るものは増えていく。 増えていくから、代わりに子供の頃の輝きみたいなものは徐々に色あせていくんだろう。 今日みたいに皆が一堂に会して遊べる時間も、やがては貴重なものになっていくのかもしれない。 「な、なんだよ。あたしの顔になんかついてる?」 「いや、そういうわけじゃない」 さっきまで晶が感じていたのは、そういうことに対する無意識的な不安だったのかもしれない。 いつまでこのままでいられるのか。変わっていくのは必ずしも嫌なことじゃないし、思い出もなくなるわけじゃないと知っているが、やはり寂しく思う気持ちがあるのも事実。 そんな、少し切ない沈黙が俺たちを包む中、晶はふっと微笑んで呟いた。 「でもさ、あれだよな。何があっても絶対変わんないだろうなって思える人も一人いるぜ」 「四四八は怒るかもしれないけど。おまえ、やっぱり段々似てきてるよ」 「あん?」 「だから、怒んなよ。つーか、これだけで伝わるってことは、おまえだって意識してるんじゃんか」 「…………」 それは言われたくない台詞のぶっちぎりナンバーワンであり、皮肉にもそのことを時々口にするのは、こいつらだ。 余計なことを喋ると揚げ足を取られそうだったので、俺は視線を逸らして空を仰いだ。 「……まあ言うほど、あたしは聖十郎さんのこと知ってるわけじゃないけどさ」 「そんなの、俺も同じだ。あいつほど理解できない存在はない」 「ははっ。そういう言い方が、なんとなく似てるように感じんだよ」 「……そうか?」 他人の目というのは理解できない。俺のどこがあいつと似てるというんだろうか。 柊聖十郎は俺なんかと比べものにならない程、身も蓋も取り付く島もない奴だというのに。 そりゃ……、だからといって憎んでいるとか、そういうわけではないけどさ。 「お互い、親には苦労してるよな」 「一緒にするなよ。剛蔵さんは良い親父さんだろうが」 「えぇ~、あのハゲがぁ?」 「それは言ってやるな。母さんも俺も、剛蔵さんには本当に感謝しているんだから」 「それは逆だろー。恵理子さんがいなかったら、今ごろウチの店もやばかっただろうしさ」 「そんなことを言い始めたら、俺のところは剛蔵さんがいなかったら、家族そのものがどうなっていたか分からん」 「す、すげぇ表現だな……」 「誇張とは思わないぞ。普通に事実だ。別に愚痴を吐きたいわけじゃなく」 「ただ、これはこれで一つの運命だと考えてるんだよ」 「どういう意味だ?」 「つまり、もし仮に万が一……いや億が一だな。柊家において父と息子の関係が、他の家みたいに微笑ましくいっていたとしてだ」 仮の話だとしても、ぞっとするが。 「そうなっていたら、晶や歩美や栄光たち――剛蔵さんとも、俺は今みたいな関係になれなかったんじゃないかと思うときがあるんだよ」 「じゃあ、ある意味、聖十郎さんのお陰でもあるって?」 「そういう風に言えなくもない。そもそもあいつがいないと俺は生まれてさえいないからな」 「それでも、あいつのことが気に食わないのは変わらんが」 「……はは。そっか」 そこまで話すと、晶は得心いったように何度も頷き、そして笑った。 それはどちらかというと、男が女へ身の上を語ったというよりも、昔からの親友へ少しだけ素直になったという実感だった。 しんみりしたくて、俺も話しているわけではないのだから。 「けどよー、あんまり水くさいことは言うなよな。やっぱさ、こういうのって恥ずかしいじゃん」 「さっきも言ったけど、ホントうちの方が世話になってんだぜ」 「母さんが剛蔵さんの店で働いているのは、むしろお情けで拾ってもらったと解釈してるが?」 「馬鹿、そんなことねえよ。うちのハゲは、ああ見えて情けないとこいっぱいあるんだマジ」 「…………」 「恵理子さんと聖十郎さんがいてくれなかったら、ホントぞっとするぜ」 「母さんはまだ分かるけど、親父が?」 「酔って昔の話をすりゃ、セージセージだからな。四四八の親父さんがいてくれたから、うちのハゲもなんとかやっていけてんだよ」 「……そこらへんの関係は、俺たちじゃよく分からないな。おそらく世界広しと言えど、母さんしか分からないんだろう」 「んだね」 それは前から俺と晶で共有している感覚だった。 真奈瀬剛蔵。柊聖十郎。柊恵理子という、凸凹どころじゃないトリオの謎。 こればかりは、俺たちも含め、他の奴らに分かることじゃないだろう。 家族ぐるみといえば分かりやすい関係に思えてしまうが、そこに至る複雑な諸々は当然あって、それは当事者にしか分からない。 いずれ、俺がもう少しでも大人になれたら、改めて訊いてみたいことだと思う。 「ま、親同士のことはともかくさ、少なくともあたしは確実に助かってるぜ。なんせ勉強に関しちゃあ、四四八がいなかったらヤバイどころじゃないからよ」 「それは――そうだな」 「おい。そこは否定せずに肯定すんのかよっ」 「紛れもない真実だから仕方ないだろう」 「ちぇ。はいはい分かってますよー、今後とも迷惑かけますー」 なんて、俺たちがそんなやりとりを終えたとき、ちょうどいつものメンバーが集まってきた。 「四四八くーん、あっちゃーん、お待たせー!」 「おらぁ、見さらせてめえら、祥子さんも連れてきたぜぇ!」 「栄光さん、もう少し離れてください。歩きにくいです」 三人の後ろでは、世良たちが歩き、さらに離れて我堂と鳴滝が何やら言い争っている。 「信明、勢いに乗ってお酒とか飲んだりしちゃ駄目よ」 「分かってるよ姉さん、しつこいな」 「ちょっと! 何度もメールで注意したはずでしょ。どうして歓迎会に持っていく差し入れがアルコールなのよっ」 「っせーな。ちょうどバイト先から貰った余りがあったんだよ」 すると、さっきまでの遠かった喧噪が嘘のようで―― 俺は晶と顔を見合わせて、くすりと笑った。 「いきなりうるさくなりやがったな」 「みんな、同じタイミングで集まってくるしな」 ぞろぞろと頭数が揃ってゆく様子が、いかにもこれから何かが始まるぞという予感に満ちている。 やがて石神や先生たちも集まったところで、俺たちは足りないものがないか確認しつつ、晶の家に向かったのだった。 「かんぱーい!」 「おらっしゃあァッ! 今日はいくぜェー、酒持ってこォーい!」 健全な青少年たちによる祝いの席に、風紀上問題があるような不良教師のだみ声が轟いたが気にしないでいこう。ともかく、石神の歓迎会だ。 「さあさあみんな、今日は俺の奢りだ。気にせずじゃんじゃんいってくれ!」 「ありがとうございます、剛蔵さんっ」 「それじゃあ、遠慮なく楽しませてもらいますね」 「ごちそうになりまーす」 「まあいいけど、あんまりカッコつけすぎるなよ親父」 正直、ここまで大勢集まるとは思わなかったので、晶の不安も理解できる。きそば真奈瀬は、完全に貸し切り状態となっていた。 「つい誘われるまま来てしまいましたが、本当によかったんでしょうか。私は皆さんと同じクラスじゃないというのに」 「馬っ鹿だなー、なに言ってんだよ祥子さん。そんなの全然関係ねえって」 「第一、オレらは仲間だろ? クラスがどうこうなんてみみっちいよ。それを言うなら全員百年前からの付き合いじゃんか」 「そうですね。確かにそのとおりかもしれません。まあ私は、伊藤野枝の本家直系筋ではありませんが」 「一応、親戚内では一番顔が似てると言われているので、そういうことにしておきましょう」 「あー、それ、祥子さんは家系図的にどういう位置なんだっけ?」 「野枝の三女の三女の次女ですね」 「はい淳士さん、お蕎麦をどうぞ。あーん」 「…………」 「あーん」 「~~――ッ、だから! いらねえっつってんだろ。だいたい、なんであんたがここにいんだよっ」 「あら、本当につれないですね。なぜって、当たり前のことじゃないですか」 「わたくしは皆さんの総代ですから、千信館の生徒たちを見守る義務があるのです。無礼講もいいですが、羽目を外しすぎるといけませんからね」 「実際あなたがたは目立ちますし、四四八さんはともかくとして、良くも悪くも元気の良すぎるところがあるでしょう?」 「そんなん言ったら、すでに保護者と教師同伴だろうが。心配しなくても、この状況で調子乗るような馬鹿はいねえよ」 「普段は、そうかもしれませんが」 「ねえ淳士さん、あの様で抑止力が機能すると思いますか?」 「おい幽雫ぁ、おまえ何ちびちびしみったっれた酒やってんだよ。注いでやるから飲め飲め飲めぇー!」 「芦角……おまえ頼むから、せめて生徒の前では教師らしく振舞ってくれ」 「はぁ~ん? わ・た・し・の酒が飲めないってか? 私のお酌なんかじゃ酒が不味くなるって言いたいのかあああ! 万年喪女だって馬鹿にしてんのかあああっ!」 「あらあら、まあ先生ったら泣き上戸なのね。そんなに悲観しなくても、きっと素敵な男性が現れますよ」 「ほんとですか? ほんとですかお母さーーーーん!」 「はい、きっと大丈夫です。ささ、幽雫先生もお一つどうぞ」 「恐縮です。このたびはこのような場にお招きいただき、誠にありがたく思っています。また、芦角の教師にあるまじき振る舞いを私からもお詫びしたく」 「あーーーん、私のお酌は無視するくせに恵理子さんのは受けるんだああ! 幽雫のアホー、マゾー、ロリコーン、インポー」 「芦角っ、おまえほんといい加減にしろ、聞き捨てならんぞ!」 「がっはっはっは、いいなセージ! 賑やかで楽しいじゃないか、なあ?」 「つくづく、くだらん」 「いくぜヴァルハラー!」 うん。もうのっけから見渡す限り滅茶苦茶だ。活気があるのは結構だが、色んな意味で大変だこれ。 「ほらほら信明くん、これもやるからもっと食べろ。君はなんと言うか肉食成分が足りない」 「は、はい。ありがとうございます石神さん」 「よしよし、やっぱり男の子はたくさん食べないとな。明日の朝もまた三人で勝負しよう」 「なあ四四八くん。ってどうした? 箸が進んでないようだが」 「別に。俺は俺でのんびりやってるから気にするな」 「そんなことよりも石神、この場はおまえの歓迎会なんだから、主役として何か挨拶の一つでもしろよ」 「むっ、そうか。言われてみればその通りだな。ようし、分かった」 言うなり、石神はすくっとその場で起立すると、手を叩いて一同に注目を促した。 考えてみれば、一番のニューフェイスなのに物怖じしないでこういうことが出来る奴はあまりいないだろう。俺と、あと我堂、加えて百合香さんも必要に迫られればやるだろうが、それにしたって得意と言い切れるほどのものじゃない。 その点、あくまでにこにこと気負いがない石神は、もしかしたらこの中で一番大人物的な素養があるのかもしれないと思った。 まあ実際、大物ではあるよなこいつ。 「えー、皆さん。本日は私、石神静乃の歓迎会を開いていただき、とても嬉しく思っています。こんなに大勢から祝われるのは初めてなので、結構緊張しているのですが」 「嘘つけーっ」 「よく言うわよ、この子」 「ねー、絶対そんなガラじゃない感じ」 などと周りから突っ込みが入りまくる。俺もまったく同感なので便乗したら、石神に笑いながら睨まれた。 「すでにこの場の何人かは知っていると思いますが、私は皆さんのご先祖を尊敬し、憧れています。なので今、こうしてこの輪に入れことは光栄であり、また感動を禁じ得ません」 「まあその、お陰で早々舞い上がり、すでにいくつかやらかしちゃったようですが、以後皆さんの仲間として精進を怠らずにいきたいと思っているので、今後ともどうかよろしくお願いします」 「以上、簡単ではありますが私の誓いとさせてください。ありがとうございましたっ」 「拍手」 「イエーイ!」 俺の合図で、全員が一斉に手を叩き石神を喝采した。驚いたことに、親父でさえ例外ではない。まあ、だいぶ投げやりな拍手ではあったけど、それでも相当珍しいことだ。 「なんだよなんだよ、おまえあたしらの爺さん婆さんのファンだったのか」 「正直ピンとこないけど、改めて言われると悪い気はしないよねー」 「でも、ちょっとだけ恥ずかしいな。実際私たちに会ってみて、幻滅とかしたんじゃない?」 「卑屈なこと言ってんじゃないわよ水希。むしろ何? そういうことなら奴隷にしてあげてもいいわよ、みたいな」 「おまえのその鬱陶しいポジティブさはいったいどこから出てくんだよ……」 皆が石神を囲んで、口々に質問しながら笑っている。それは歩美が言ったとおり、身内を褒められて悪い気がする奴などいないからだ。 よって必然、話題はそっち方面のものへとなっていく。 「つーかだったらさあ、石神的には誰のご先祖が一押しなわけ?」 「野枝ですか?」 「あら、うちのよね?」 「素直に辰宮万歳と言っても一向に構いませんよ」 「いや、それはもちろん、皆さん素晴らしいと思ってはいるのだけど……」 ぐいぐいくる連中に珍しく引き気味な苦笑を浮かべながら、ちらりと石神が俺を見た。 そしてきっぱりと告げる。 「やはり柊四四八だよ。日本人なら当たり前のことだろう?」 「あー、なるほどな。やっぱそりゃそうだよな」 「一人だけ知名度全然違うもんね」 「うん。何せ受験問題に出てくるレベルだし」 などと言われて、名前まで同じな俺としてはなんとも面映い気持ちになってくる。そして同時にプレッシャーだ。小さい頃から何度も経験している感情だが、高名な先人を身内に持つのは誇らしい反面、焦りや劣等感も掻きたてる。 俺の曽祖父、柊四四八――彼の名前が未だに一般でも広く挙がるのは、その成し遂げた偉業だけが原因じゃない。 「満州、アジアの救世主だっけか? 結構謎がある人なんだよな」 「そうそう、さっき水希も言ったけど受験に出たじゃん? 柊四四八が何を考えていたと思うか持論を述べよってやつ。あんなん誰も分かんねえよ」 「ああ、そういえばありましたね。当の四四八さんはなんて書いたんですか?」 「アジアの植民地解放。帝国主義の終焉……要するにそういう、教科書的なことを書いただけだ。つまり俺だって、たぶん何も分かっちゃいないよ」 柊四四八は稀代の英雄にして正体不明の怪人である――それは専門の歴史家でさえが言っていることであり、すなわち彼らのような立場の人でもそんなことしか言えないのだ。 「僕らの代にも、そういう問題は出ましたね。内容はちょっと違って、なぜ柊四四八は本格的な戦争を起こさせないまま、帝国主義を終わらせることが出来たのかってものでしたが」 「ノブくんはなんて書いたの?」 「まさか運とか適当なこと書いたんじゃないでしょうね。私、あの論大嫌いなんだけど」 「欧米側に多いあれですね。柊四四八はそこまで大層なことを考えていたわけじゃなく、たまたま結果として世界の流れがそうなった。つまり過小評価」 「まあ、あちらの心情としては仕方ないでしょう。たった一人の有色人種に対抗できず手玉に取られた、などというのは認め難いものでしょうし、そこを抜きにしても非現実的ですから」 「私たち日本人が柊四四八を持ち上げるのも、そういう意味じゃ似たようなものだよね。ああ、ごめん柊くん、別に今のは悪気があったわけじゃなくて」 「いいよ世良、それに百合香さんも。俺もだいたい同感だから」 人間、どうしても身びいきは入るのだから、この手の議論をするときは公正な目線を持たねばならない。それだけに、信明がどういう答えを書いたのかは気になった。 なので皆が先を促すと、信明は困ったように照れながら、場の一角を見つめて告げる。 そこには、つまらなそうに猪口を傾けている柊聖十郎が存在して。 「お孫さんの意見を参考にさせてもらいました。柊四四八は、未来を知っていたに違いない」 「あの論文は、きっと本気で書かれたんですよね」 「さあ、どうだかな」 そのぶっきらぼうな返答に、豪快な笑い声が重なった。 「はっはっは、いいじゃないか照れるなよセージ。おまえが自分の祖父さんを尊敬していること、俺はよーく知っているぞ」 「あの論文は本当に素晴らしかった。学がまったくない俺でも妙に納得したくらいだよ。実にロマンがあっていいじゃないか」 「浪漫などで学を語るな、阿呆めが」 それは実際その通りで、親父の論文は一笑に付されている。非現実的な妄想だと自分自身で分かっているなら、なぜそんなものを書いたんだという突っ込みを入れたいが、しかし。 それでも俺は、思うんだ。 「あー、それ! そういやそういうのもあったよな。あれ、聖十郎さんが言い出したことなんだっ」 「すっげえいいじゃないですか。なんかこう、まさにヒーローって感じでさ」 「同感だな。おまえもナイスなチョイスをしたじゃねえか、信明」 「ありがとうございます。僕も気に入ってる考え方なんですよ」 色々と腹の立つクソ親父だが、そこだけは俺も皆と同感だった。さっき思った公正な目線という意味では落第も甚だしいけど、学問的な面を抜きにした個人としては気に入っている。 それは親父が親父なりに、家族を思っていることの証だと感じるから。 日頃、全然そんな風には見えないから、特にな。 「おまえはどう思う、石神?」 「ああ、いいな。とても聖十郎氏らしいというか……ふふふ」 「わたしたち的には、ザ・模範解答って感じだけど、先生たちからすればどうだったのかな?」 「ああぁ~~~、それはだなあ、実にこう、シビアかつデリケートな問題であるからして」 「芦角先生は体育科なので関係ないでしょう。すっこんでいてください」 「うわあああああん、みんなが私をいじめるよぉ~、恵理子さーん!」 「はいはい、大変でしたねー。よしよし」 教科云々の前にべろんべろんな芦角先生にはハナから誰も期待してない。よってこの場合、対象はたった一人に絞られる。 「どうなのですか、幽雫先生」 現・千信館の総代として、生徒会の顧問でもある幽雫先生に百合香さんが代表して問う。この二人の関係はちょっと複雑らしいのだが、それは今関係ないので置いておこう。 ともかく、問われた幽雫先生は立ち上がり、軽く咳払いしてから話し始めた。 「俺も担当教科ではないので、実際にどう採点されたかは知らない。だが個人的には、君らと同様に良いと思う」 「そもそも、この手の問題に絶対の解答などないのだからな。あからさまにふざけた答えでもない限り、基本的にバツはつかんよ。だからこちらが見る点としては概ね二つ」 「想像力と論理性。つまりちゃんと自分の頭で考えているかということと、事実はともかく辻褄が合うように説明出来ているかということ」 「その点、信明くんは前者の面だと失敗している。柊聖十郎氏という高名な学者の説を引用しただけでは、オリジナリティに欠けるだろう」 「だが逆に、後者の面では評価できる。柊四四八の行動と謎を解き明かそうとした論は数あるが、実際に一番辻褄が合う考えはそれなのだからな。これは反対派ですら認めていることであり、そこに目をつけたのは見事だ」 なぜ俺の曽祖父はさしたる流血も起こさずに列強諸国の植民地を解放せしめ、帝国主義を崩壊させることが出来たのか。そのための一手一手が、当時の人々には意味不明なものであり、無軌道な狂人の暴走とすら思われていたらしい。 実際、当の大日本帝国すら解体することになったのだから、渦中の時はまさに全世界レベルの四面楚歌。内外から命を狙われていたと聞くし、今でも国賊扱いする右傾派は存在する。 結果論として歴史を見ることが出来る俺たちからしても、一見して滅茶苦茶な行動と言わざるを得ない。しかし、それらのパースがやがて理路整然と組み合わさっていく様は魔術的ですらあり、神懸った超人技だ。 柊四四八は未来を知っていたとしか思えない――そう考えてしまうことに不思議はなく、またそう考えればぴたりと嵌ってしまうのも事実。 無論、まったく戦争がなかったかと言えばそんなことはなく、各地で血は流れたが、それは最小限だったと言われている。 人命を数として考えるのは不遜だけど、それでも多数の軍事、政治、歴史の専門家たちは言っているのだ。あのままいけば第二の世界大戦が起きていた率は非常に高く、それは第一を遥か上回るものになっていただろうと。 柊四四八の行動がそれを防いだ。たとえ運や偶然であろうとも、その事実は変わらない。彼に苦渋を飲まされた人間たちでさえ、その点は認めている。 「じゃあ先生。信明の答えは半々で、つまりサンカクってことですか?」 「普通ならそうだがな。しかし採点基準というものは、先に言った二つの他に、もう一つ裏のものが存在する」 「四四八くん、君ならそれが分かるんじゃないかな?」 含むように微笑みながら問う幽雫先生に、俺もまた笑って答えた。この人の出す問題は基本的に極悪であり、コツを弁えなければえらいことになると知っていたから。 「問題作成者の意図を読むこと。つまり言い換えれば、相手が望む答えを与えること」 「素晴らしい。そして信明くんも見事それに応じている。千信館の入試問題で、戦真館の偉人代表に関する問いが出たのだ。ならばその解答には、ロマンくらいあって然るべきだろう」 「言ったように担当ではないので、実際どう採点されたかは不明だがな。少なくとも俺なら二重丸を与えているよ」 「とまあ、こんなところでどうだろうか」 「おー、すげー」 幼なじみの馬鹿代表三人組が、感心したように拍手で応える。こいつらのことだから話の半分も理解しちゃいないだろうが、それはそれだ。 「やるじゃない信明。ほんのこれくらいだけど見直したわよ」 「はい。私も信明くんの答えが最適だと思いますよ」 「いや、その、なんか照れますね。先生が言った通り、要はただの受け売りだっていうのに」 「よかったなあセージ、子供たちはしっかりおまえの気持ちを汲んでるようだぞ。いつも憎まれ口しか叩いてないのになあ、わっはっは!」 「どいつもこいつも……心底くだらん」 「もー、聖十郎さん。さっきからそれしか言ってないじゃないですか。嬉しいときはちゃんと笑わないと駄目ですよ」 そんな全員を眺めながら、改めてこのアットホームはいいもんだなと俺は思う。ふと対面に目を向ければ、石神も和んだように目を細めていた。 「歓迎会、気に入ったみたいでよかったよ。見てのとおり騒がしすぎるのが玉に瑕だが」 「ああ、本当にありがとう。私は今夜のことを忘れないよ」 「大袈裟な奴だな」 だが、そう言ってくれるならこっちも甲斐があるというもの。この先俺たちがどんな大人になっていくかは不明だが、こいつの夢を壊さないためにも先祖に恥じない身でありたいと思う。 「なあ四四八くん、実は私から一つ提案があるんだが」 「例の文化祭の件、演目がまだ決まってないだろう?」 「そうだが、それが?」 頭の痛い話だが、何の演劇をやるかは本日も決まらなかった。石神の言う提案とは、そのことについてだろうか。 「おまえ、何か案があるのか?」 「うん、それなんだけどな……柊四四八を主役にした劇というのはどうだろう?」 「なに?」 一瞬、意味が分からなくて呆けたがすぐに察する。つまりこれは、さっきからの流れに準じたものであり…… 「曽祖父さんの劇ってことか?」 「そうだよ。とてもいいと思うんだが、駄目だろうか?」 目を輝かせて問う石神に、なんと返すべきか咄嗟に迷った。 いや、そりゃ別に、否定する材料はないっちゃないが…… 「おい、どうしたよ。なに二人で話しこんでんだおまえらは」 「おお栄光くん、聞いてくれ。実はな……」 興味津々で寄ってきた栄光に、石神が先のことをそのまま話す。 結果は速攻、かつ明快だった。 「おおおおおおぉぉォォッ、いいじゃんそれ! やろうぜ四四八、絶対に面白ぇよ!」 「なになに、どうかしたの?」 「劇がどうとか言ってたけど」 「ああ、つまりな……」 「へえー、なるほどそうきたか。うん、いいんじゃねえの? 鈴子はどうよ?」 「私が主演で監督なら考えてもいいわよ」 「おまえどうせ柊を奴隷にしてとか、そんなのしか考えてねえんだろ」 「なによ、それが悪いっていうのっ?」 悪いに決まってるんだが、ともあれ石神の案を真面目に考えてみる。 母校の大先輩を題材にするのだから学祭の趣旨に沿っているし、どのような解釈を脚本に反映させるかで勉強になるという面もクリアだ。 加えて俺たちは子孫であり、顔がそっくりなうえに名前まで同じなのだから役者としてこれ以上の適任はない。そりゃ演技力の面では全員素人だが、そんなものは何の劇をやっても同じことだ。 「どうする柊くん?」 「わたしは賛成だよー。ド派手な帝都大戦的にやっちゃおうよっ」 「単純に見てみたいですね。クラスは違いますが、野枝役が必要なら出張っても構いません」 「僕も客として興味があります。是非やってください四四八さん」 言われ、俺は確認を取るため大人たちのほうへ目を向ける。芦角先生は酔いまくってるので話にならんが、幽雫先生は微笑みながら頷いてくれた。 親父は清々しく無視してくれたが、母さんや剛蔵さんは賛成のようだし…… 「分かった。じゃあそれでいこう。だが他のクラスメートにも同意を得なきゃならんから、あくまで現段階では案の一つだ。まだ決まったわけじゃないぞ」 「明日みんなにアンケートを採って、可決されればそのままいく。そういうことで、いいなおまえら?」 「おっしゃあァッ、燃えてきたぜ! オレの曽祖父さんの偉大さを全校に知らしめてやんよ!」 「どうして曾孫がこんなにショボいのかは不明だけどね」 「うーん、でも緊張するなあ。資料が残ってるくらい有名なのって、柊くんと鈴子と祥子と、あとは百合香さんだけじゃない? 私たちは、どうやってキャラ立てたらいいんだろ」 「そこはもう適当でいいんじゃねえか? よく分かってないんだから、むしろやり放題だろ」 「そーそー、思いっきり中二病やったっていいんだからさ。関東大震災を防ぐために戦ったー、とかでもいいじゃんいいじゃん。目からレーザー光線だって出しちゃおうよ」 「もはやそれは人間じゃねえだろ……」 「脚本や演出はまた詰めるとして、少なくとも配役は完璧だろ四四八くん」 「あとは衣装とかの問題だな」 過去の学祭でも演劇自体は何度かやったらしいので、衣装や大道具の類は纏めて保管されているし、今まではそれを当てにしていた。 しかし、そういう物は基本的にドレスなどが主だと確認しているので、この演目が通った場合、相応しくない。 かといって一から作っている暇などないし、題材上いい加減な作りの舞台にはしたくないので悩ましいところだったが…… 「そういうことでしたら、おそらく大丈夫だと思いますよ」 「戦真館の演劇をやるのでしたら、当時の制服を使えばいいでしょう。確か旧校舎に保管されているはずです」 「えっ、ほんとっすか?」 「はい。もっとも聞いた話ですから、直接見たわけではありませんが」 「そうなのですよね、幽雫先生?」 「まあ、そうだな。俺も実際に見たわけではないが」 水を向けられた幽雫先生は頷いて、勢い込む栄光たちを制すように付け加える。 「ただ、あそこは老朽化が激しいからな。あまりはしゃいでいると危ないぞ」 「別に遊び目的ではないのだから鍵を開ける許可は得られるだろうが、君らだけを踏み入らせるわけにはいかないな」 「大丈夫っすよ先生、オレらそこまでガキじゃねえし。四四八だっていんだからさ」 「そうですね。ここは生徒の自主性を尊重してもらいましょう。率直な話、皆で何かをやろうというときに保護者の仕切りが入ると白けます」 「先生なら、そのあたりを分かってくださるのではなくて?」 「…………」 なんとも言えない顔で黙り込む幽雫先生と、明らかに面白がっている百合香さんのやり取りが微妙に怖いので、この話はとりあえず置いておこう。どのみち明日、クラスで決を採らないと始まらないことだ。 「まあ何にせよ衣装問題は解決しそうだし、今はいいでしょう百合香さん。旧校舎の鍵が必要になったら、そのとき改めて伺いますから」 「四四八さんがそう仰るのでしたらそのように。わたくしも件の演劇、楽しみにさせてもらいます」 「ああもちろん、祥子さんと同じように、わたくしの曾お祖母さまが役として必要なときは遠慮せずに言ってくださいね。喜んで出させていただきますから」 「……なんかその瞬間、全部持っていかれそうな気がするんだけど」 「淳士さんは、わたくしと共演などご興味ありません?」 「いや、マジで勘弁してくれ。後が怖ぇんだよ、あんたが絡むと」 そんな感じで各々期待も不安も色々あるが、まだ宴は始まったばかりだ。主役の石神がせっかく面白い案を出したのだし、引き続き盛り上がっていこう。 「うらー、酒っ! 酒ください真奈瀬のお父さーん!」 ただこの人に関してだけは、あんたもう早く帰れよと言いたかった。 そうして、楽しいときは瞬く間に過ぎていき…… 「おつかれー、んじゃまた明日なー!」 「ばいばーい」 「幽雫先生、歩いて帰るのが面倒なので一緒のタクシーに乗せてください」 「それは別に構わんが……」 「ねえあんた、いいのあれほっといて」 「何がだよ。ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえ」 「なになに、おまえら青春か? ストロベリってんのか? そんなの許さん、許さんぞ私はぁー!」 無事……じゃない奴も若干名存在するが、ともかく歓迎会は幕を閉じた。 「祥子さん、オレもガッツリ送りますよ。夜道は危険がいっぱいですから」 「大丈夫です。栄光さんがいないほうがむしろ安全とさえ思ってますから」 「ひでえっ」 もはや定番なやり取りを横目にしつつ、俺は俺で皆に手を振ってから帰路に着く。親父は一人でさっさと消えたし、母さんもそれを追って行ったから身軽なもんだ。 「ほら信明ー、なにしてんの早く帰るよー!」 「分かってる。ちょっと待っててくれ姉さん」 だがその中で、信明が一人俺のほうへやって来ると。 「あの、四四八さん。明日もし旧校舎に行くんでしたら、僕もご一緒していいですか?」 「なんだいきなり、どうしてだよ?」 唐突にそんなことを言われたので面食らう。こいつはこいつで、自クラスの出し物に関わるあれこれがあるだろうに。 「特に理由があるってわけじゃないんですが……強いて言うなら僕も千信館の歴史に興味があるので」 「邪魔はしませんから、お願いします」 「それは、まあ、なあ……」 少し考えたが、別に認めて構わないだろう。真面目なこいつのことだから、自分の仕事を疎かにするわけでもないだろうし。 「分かった、いいぞ。そうしよう」 「ありがとうございます、それじゃあっ!」 言うと、信明は見るからに喜んで、大仰に頭を下げると姉貴のもとへ帰っていった。 変な奴だな。どうしたっていうんだいったい。 「信明くんは健気だな。皆に可愛がられているのもよく分かる」 「少し、君らに追いつこうと必死なきらいがあるのは否めないが」 傍らの石神が言ったことを、俺も無言で肯定する。別に俺たちなどまったくたいしたものじゃないんだから、肩の力を抜けよと言いたい気持ちはあるけれど。 「一応、目標にされてる側の責任みたいなものを俺は考えてる。程度問題だが、頑張ってる奴に水を指すのは無粋だろう? そこは慮ってやりたいんだよ」 「なるほど。兄貴分の務めというやつか」 納得したように目を閉じて頷く石神。次いで俺を見上げると、拳で軽く胸を叩いてきた。 「君がそう言うなら、それで問題ないんだろう。じゃあ、私たちも帰ろうか」 「だな。あと言っとくが、俺の布団に入ってくるなよ。分かってるな?」 「了解している。もうしないよ」 ならいいんだよ。もうそろそろ妙なお約束は勘弁してほしい。 本当に、そこさえなければこいつとは気が合うんだということを、俺は今夜の歓迎会で実感したんだ。  自分も旧校舎に連れて行ってくれと言ったとき、四四八さんは戸惑っているようだった。  それはそうだろう。向こうにしたら意図が読めないし、問われた僕も真意を答えたわけではない。  千信館の歴史に興味がある――というのは口からでまかせじゃないけれど、本音は彼女に逢いたいからだ。  昨夜の夢、その内容……戦真館の創立当初に起きたという事件の現場に触れることで、夢と現実の境を跨ぐ何かを得られるような気がしたんだ。  もちろん、そこには何の根拠もない。連日の深夜徘徊とまったく同じで、緋衣さんの影を追っているだけだった。  こんなこと、彼女に話したら笑われるだろうか。  今夜も緋衣南天は、僕を夢の中で待っている。 「ねえ信明くん、あなたの思う強い人っていうのはどんなもの?  どこかで聞いたような受け売りじゃない、信明くんの言葉で聞かせてちょうだい」  共に八幡宮の境内を歩きながら、彼女はそんなことを言ってくる。今夜の夢は昨日と違い、初めから歴史を跨いでいるようだった。その証拠として僕らは戦真館の制服姿だったし、大銀杏が再生している。 「強い人、か……僕の考えがオリジナリティのあるものってわけじゃないだろうけど」  迷うことなく、ある人物を思い浮かべて返答した。 「自分の弱さや未熟さを知っている人。だからこそ恥を知っていて、向上のために努力を惜しまない人。  要は、都合の悪い現実から目を逸らさず、逃げない勇気を持った人だよ」 「それはつまり、いつも信明くんが言っている柊先輩ということでいいのかな?」 「そうだね。あの人は僕の憧れだから」  きっぱりと言い切る僕に、緋衣さんは苦笑している。微かにからかうような気配を纏わせながら。 「なるほど。だから信明くんは柊先輩を誇るのね。自分より格上の人間は、要するに都合の悪い現実というやつそのものだから」 「柊四四八なんかたいしたことない。あんな奴がなんだっていうんだ。そんな風に考えるのは、自分のいたらなさを認めていないことであり、つまり弱い奴のやることだ。そう言うんだね?」 「まあ、言ってしまえば、そうなるね」  意地の悪い言い方だったが、間違いではない。だけどあまりに直接的だったので、鼻白んでしまう。 「怒った? でもちょっと考えてみて信明くん。あなたの大好きな柊先輩は、実際にそんな凄いことをしたの?」 「勇気、勇気と言うけれど、私たちの二十一世紀でどんな勇気を見せられるというの? 当たり前に毎日三食食べられて、ごく普通に学校へ行って、それ相応に頑張って社会的地位を得ようとするのがそんなに偉い? みんなやってることじゃないの。  好きな人が出来て、好きになってもらうために頑張って、結ばれても気持ちを維持させるためにまた頑張って、結婚して子供が出来たら、やっぱりまたまた子育てに頑張って……うん、努力してるね。だから何?  柊先輩の勇気って、つまりそういうことのための努力でしょう? そういうことを上手く回すための強さでしょう? そんなに凄いかなあ、分からないなあ」 「今の時代が閉塞的で、情報過多だから相対的で、夢もロマンもたいしてないから希望もちっちゃい。なので生きてて甲斐のないお先真っ暗。これはこれでとても過酷な、人類史上稀に見る暗黒期である。  だからそこで頑張っている僕らは凄いぞ。下克上の戦国時代や、未開な原始時代にだって生き辛さでは負けてないんだ。  なーんてもしかすると思ってる?  まさか、ねえ。いくらなんでも、そんなことは、ねえ?」  くすくすと小鳥のように、だけど獲物を嬲る猫のように緋衣さんは嘲笑する。彼女が何を言いたいのかは理解できるが、それはあまりにシニカルすぎる喩えではないのか。 「僕は――」 「答えて信明くん。本当に現代先進国の生活が、何百年も昔に比べて遜色ないほど大変だと思ってるの?」  畳み掛けるように重ねて問われ、言葉に詰まった。ともあれ、これに答えなければ話は進まないらしい。 「それはもちろん、思わないよ……」  いくらなんでも、人権の概念さえなかった時代のほうが生き易かったはずだろうなんて思っちゃいない。当たり前だ。 「そうだよね。考えるまでもないことだよね。まともな想像力があったら誰でも分かるわ、当たり前」 「たまーに見るけどね、そういうこと言ってる人。だけどそんな人たちも、きっと本音のところじゃ分かってる。  それが証拠に、じゃあおまえ、明日っからアフリカだの中東だのアマゾンだのに引っ越せよ、て言われたら嫌がるもんね。  なんやかんや理屈はつけるだろうけど、結局のところ捨てられないだけのくせにね。つまらないって散々言ってた、文明的な諸々が。そこで得た夢やロマンや〈安定〉《しあわせ》が。  そして命が」 「つまり――」  彼女の結論はこういうことか? 端的に纏めれば、すべての基準は死ぬか生きるかということにあり…… 「僕らのような、不安定な生を持っている人間や時代以外に、勇気も強さも語る資格はないとでも?」 「違うわ」  返ってきたのは、即答の否定だった。 「〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。過去にそういう主義の人はいたけどね。今のはただのおさらいって言うか、この場合は例の一つよ。だからそんなに気を悪くしないで」 「だけど実際問題、君は四四八さんを認めてないんだろう」 「そうだけど、それは仕方ないじゃない。だってやっぱり実際問題、柊先輩の強さっていうのがどの程度の結果を出すのか、まだ何も分からないんだもの。試される以前の状態で、妄信している信明くんのほうが変だよ。  私たちはまだ子供。一般的な戦いのステージにすらあがっていない。だから一般的に生きてる柊先輩は、四回戦ボーイどころかプロテスト前の練習生だよ。強いも弱いも量れないわ。  そうじゃない?」 「…………」  そう言われてしまうと、僕も反論が難しくなる。まだ学生だからステージに上がる以前だと言われればその通りだし、否定は出来ない。  だけど、いつか来る戦いのために研鑽を怠らない姿勢は素晴らしいものだろう。結果が出てないから意味がないなんて、そんな話はあんまりじゃないか。 「じゃあ結局、君にとっての強さとはどういうものなんだよ、緋衣さん」  生き死にの極限状態に晒された者でなければ、勇気も強さも語れない。そんな極論はかつて何処かの誰かが掲げた主義であり、自分の考えではないと彼女は言った。ならば聞かせてほしいと思う。  曰く受け売りではない、緋衣南天の言葉で編まれた強さとやらを。 「うん、それはね……」  促す僕に、彼女は少しの間瞑目してから瞼を開いた。  そこにあるのは、奈落の底に吸い込まれそうなほど深い瞳。 「自分こそが最強だって、微塵も揺るがず信じる心よ。  そのために、どれだけ敵を作ろうが躊躇しない覚悟の力よ」  おまえは―― あなたは―― 俺の―― 私の―― ために在る。 「―――――ッ」  脳に雪崩れ込んでくる超重量の念に翻弄され、瞬間的に僕は自我を見失った……そのときに。 「これはそんな彼の話」  曖昧になった〈此岸〉《じぶん》と〈彼岸〉《あいて》。消失したその境目が、僕という人間を別の〈肉体〉《うつわ》に宿らせていた。  そうして、まず認識したのは噴き出る鮮血。昨夜の夢と同様に、幕開けは目を背けたくなる殺人行為から始まった。 「糞、糞、糞、屑め」  僕の精神を飲み込んだ彼。つまり僕が間借りしている肉体の主は、馬乗りの姿勢で犠牲者に跨ったまま、その顔面に何度も何度も石の塊を叩きつけている。呪いの言葉を吐きながら、偏執的なまでの破壊活動を行っていた。 「役に、立たん、塵どもが。貴様らごときの生まれた意味など、俺に使われるために決まっておろうが。その程度の、役目さえ、果たせんとは度し難い。  死ね。死ね。死んで詫びろ。豚にも劣る貴様らが、俺の時間を奪いおって。  この世に、俺を生かす以外の法などない。天下の道理だ、弁えろ」  なんだこれは。いいや、なんだこの人間は? 同じ肉体を共有している状態だからこそ、彼の思考がダイレクトに伝わってくる。  これほどまでの憎悪。これほどまでの怨念。とても言葉で表すことなど出来はしない。男は一秒も休むことなく、世界のすべてを呪い、憎み、今すぐ死ねと叫喚している。  狂人なんて生易しい。これは人間という枠すら超えた悪魔の思念で、魂だ。何百回となく叩きつけたのだろう石塊は、すでに縦横亀裂が走って割れており、それを掴んだ男の五指は一本残らず折れ砕けている。  にも関わらず止まらない打擲は、犠牲者の顔面からあらゆる尊厳を今このときも奪い続けていた。  弾けた〈柘榴〉《ザクロ》をなお叩き潰して磨り潰し、掻き回してぐちゃぐちゃにする蹂躙劇。どちゃりどちゃりと湿った音を立てながら、もはや痙攣すらしない犠牲者を打ち続ける男の姿は、どこか自壊的ですらあった。  それほどまでに憎いのか。それほどまでに許せないのか。男の怒りは依然濁流のように荒れ狂っているものの、しかしそれがすべてだとは思えない。  この人物を形作る要素として、決定的なものを僕はまだ感じていない。  その正体とは、いったい何だ?  思った瞬間、耳元でそっと囁く彼女を感じた。 「そうだよ信明くん、彼の芯はまだ深い。憎悪や怒りは、そこから生まれた副産物にすぎないもの」 「緋衣さん……?」  彼女もまた、僕と同様に男の〈精神〉《なか》へ入っていたのか。奇妙な心地に当惑を覚えたのも束の間、恐ろしいことを告げられた。 「覚悟して。生半可な精神力じゃ一瞬でショック死するわよ」  そして―― 意識が極彩色に瞬いた。 「ぎッ、あ―――、があああああああああぁぁぁァァッ!」  激痛。  その概念さえ分からなくなるほどの痛み、痛み、狂乱するイタイという心のハレーション。自意識が万華鏡のように分解しかける。声の限りに絶叫しても、まったく気休めになりなどしない。  いいや、これは悲鳴がどうこうなんて次元じゃなかった。声をあげることはもちろん、心の中で転げまわることさえ出来ないほど、内から爆発する激痛の嵐が凄まじすぎる。  頭が倍以上に膨れあがり、眼球が飛び出て頭蓋骨が縦からメキメキと裂けそうだ。脳はドロドロに溶け崩れ、溶岩さながらに膨張しながら沸騰している。  息が出来ない。匂いも何も感じられない。鼻と口腔粘膜は腐り落ち、喉の奥で膿となったまま気道も食道も塞がっている。  心臓が異常な速度で鼓動を続け、圧に耐え切れない血管が弾け飛んでいく震動は落雷の轟音よりも凄まじい。  肺はあるのか? 胃は動くのか? 肝臓、腎臓、膵臓、小腸……大腸、そして十二指腸、何一つとして無事なものは存在しない。腹の中で猛毒のダイナマイトが絶えず連続で炸裂し、片っ端から臓腑という臓腑を破壊していく。  しかも、同じ種類の苦しみは一つとしてない。  目の粗いおろし金にかけられているような。  硫酸で溶かされているような。  五寸釘で貫かれ、獣に食われているような。  酷寒の吹雪に見舞われたような寒気。  熱砂の海を彷徨うような渇きと灼熱。  ヘドロを一気飲みしたかのように嘔吐感が止まらない。  全身の皮を剥ぎ取りたくなってくるほど痒い、痒い――蟲が皮下をのたくりながら這い回っている。  体重をかけた箇所で骨が縦に爆ぜ折れた。ペースト状になった筋肉を突き破って皮膚が裂かれた。蛆と共に粘塊のような血が迸る。  眼球から。耳から鼻から口から臍から肛門から――  人間の内容物を溶かして混合した液体が、腐乱臭を放ちながらぼとりぼとりと零れ落ちる。  その現象が何なのか、ああ分かるとも。知っている。  僕が体験してきたものとは比べ物にならないほど激烈だが、この呪詛にも似た苦痛の世界には覚えがあるんだ。  そう、これは病の毒。  もはやどんな名医でも匙を投げるほど進行した、不治の業病がもたらす痛みでしか有り得なかった。 「さすが、耐えたね信明くん。〈死病〉《これ》は経験者じゃないと一秒だって我慢できない。あなたなら大丈夫だって信じてたよ」 「ひご、ろも……さん?」  ようやく搾り出した僕の声とは対照的に、おそらく同じ痛みに晒されているだろう彼女の声はどこまでも平静だった。信じられない。  この苦しみを体感しながら、どうしてそんなに普通でいられる? 精神力とか我慢とか、そんなレベルの話じゃないだろう! 「いいえ、そんなレベルの話よ信明くん。だってまだこの程度、全然まったくたいしたことない。空気が美味しいとさえ言えちゃうわ」 「彼の抱える病のすべては、これの何十倍もあるんだってことを覚えていて」 「――ッ、馬鹿な!」  それはどんな不幸で、どんな痛みで、どんな世界観の現象なんだ。たった一つの人体が、そこまで膨大な病に冒されることなど医学的に有り得るのか?  もしそんなものがあるとしたら、人の形をした〈病〉《ヤミ》という概念そのものじゃないか。 「死なん、生きる。あってはならんのだ、そんなこと…… 俺は不死身だ、舐めるなよ屑めらがァ! 誰にも負けん、不可能は――ない!」  常軌を逸する死病の激痛に今このときも苛まれながら、男の心は微塵も折れない。  生きること、それのみを渇望する究極と言って差し支えない域の執念だった。彼の魂をねじ伏せることは、誰にも出来ないだろうと思えるほどに。  つまりこれが、緋衣さんの言う強さの形か?  己こそが最強だと信じる心。  常識、限界、もう助からないという現実なんか見ていない。  むしろそんな解答を示す世界のほうが間違っていると。  世界の理すら超えてやると男は本気で誓い、そしてやれると信じている。 「俺以上の者などこの世にいない、死なせていいはずがなかろうがッ!」 「役に立て、生贄となれよ貴様ら! 俺が生きるためならば、残らず塵ども、磔に処してくれる!  それ以外、すべてに何の意味があるというのだ! ありなどしない!」  男の心は徹底して黒一色だ。世界から見放された身でなお足掻くため、世界と相対する覚悟を持った彼の前に広がるのは鬼畜が歩む冥府魔道。  すべてが敵で、すべてが道具だ。そこには愛も情も存在しない。  俺が、俺が、俺が生きるため死なないため―― 「俺は必ず、夢を掴み盧生となるッ!」  天を掻き毟るような咆哮に、心が震えたのは誤魔化せなかった。僕は今、この男に言いようのない感動を覚えている。 「強い人でしょう?」  どこか誇らしげに言う彼女の言葉を、否定することは不可能だった。  彼は強い。それは間違いなく絶対のことだと僕自身も感じている。  かつてこの世に、こんな男が存在したこと。  そう思うだけで、痺れが全身を走るんだ。  彼は救いようのない性根を備えた鬼である。  世に害しかもたらさない邪悪である。  鬼畜外道、八虐無道。まさしく世界に生じた癌のような、あらゆる生命にとっての敵である者。  そんなことは分かっている。  好きか嫌いかで言えば反吐が出るよ、ああしかし―― 「誰も彼の祈りは否定できない」  生きるということに嘘も真もないのだから。  僕らはそれを、よく思い知っている人間だから。 「彼の二つ名は逆さ十字。百年続く私たちの物語において、元凶と呼ばれる夢で、タタリよ」 「いいえ正しくは、これからタタリになるのだけれど」  不明な言い回しに訝るよりも、そんなことはどうでもよくなる変質の風が吹き抜けた。  先ほどまで猛威を振るっていた病の痛みが、残らず潮のように引いていく。 「な、―――っ……」  正直、限界寸前だった苦痛よりも、それが唐突に消えたことによる落差のほうが僕の感覚を混乱させた。咄嗟に何が起きたのか理解できず、足場を失ったような浮遊感と落下感を同時に味わう。 「しっかりして信明くん、まだ終わらないわよ」 「まだ……?」  しかしそれも束の間で、再び〈激痛〉《あれ》がくるのかと恐怖した僕は歯を食いしばって耐えようとし、その緊張を起点にして感覚を取り戻した。  瞬間、視界はこれまでとまったく違う情景を開き始める。 「ここ、は……?」  何処とも知れぬ室内で、僕は――いいや彼はベッドに横たわっていた。どうやら未だ、逆さ十字とやらの夢は終わらないらしい。  ただ不思議なことに、覚悟していた痛みのぶり返しは起こらなかった。まるでゼロというわけじゃないものの、さっきまでに比べれば随分軽い。  ならばこの男は快癒したのか? そう思いかけたが、瞬時にして違うと悟る。あそこまで惨たらしく蝕まれて、治るなんてことは有り得ない。  してみれば僅かに感じる病の痛みは、消えた薄れたと言うよりも、有るが気にならないという感じだった。  つまり今この男は、肉体的苦痛なんかどうでもいいという境地に達している。それは何か? 「瀬戸際よ。彼はこのとき、本当に死にかけている」  あれほどまでに死を拒み、強く生を望んだ男がまさに朽ちようとしているのだった。  それは彼にとって度し難い理不尽で、認められない敗北で、だからこそ末期の苦痛さえ消し飛ばしてしまうほど、憤怒し、憎悪し、絶望している。  ああ、僕もまた理解した。この男があれからどれほどの年月をもがき苦しみ、文字通り血反吐を吐きながら進んできたかを。  そのすべてが、無為に終わろうとしている口惜しさを。  今や彼の肉体は、木乃伊も同然に枯れ果てていた。歯も体毛も、ほとんど残らず抜け落ちている。 「死ぬのか、彼は……?」  だから問わずにはいられない。これほどの男をもってしても、病に勝つのは不可能なのか?  全世界を敵に回してでも生きると誓った執念は、しょせん実のない遠吠えで終わるのか?  だとしたら、そんな現実、僕は嫌だ。悪魔でさえ彼には微笑まなかったのかと、遣り切れない苛立ちに絶叫したくなったとき…… 「―――――――」  そこに、光が現れた。 「勇者よ、お初にお目にかかる。俺はおまえの価値を誰より認め、心から敬服する者。  まだ朽ちるには早かろう。それともまさか、諦めたのかね?」  開け放たれたドアの向こう、光を背にして一人の男が立っている。その口調は淡々として、ごく平凡な世間話でもしているかのよう。特筆に価する感情は混ざっていない。  そして病床を見下ろす瞳にも、やはり何ら特別なものは宿ってなかった。  それがどれだけ異常なことか、僕には分かる。そうだとも、こんな人間は滅多にいない。 「おまえのことは五年ほど前から知っていたのだが、正直半信半疑でね。  いや、おまえのやろうとしていることがではない。おまえのような人間がいることが、どうも信じられなかったのだよ」  今の僕、つまり今の彼はこれ以上ないほど病んでいて、死にかけている。そんな存在を前にして、平常心を保てる者などまずいない。  哀れみ、悲しみ、痛ましさ……常識的な感性を持つ善人ならばそれらの心に囚われるし、いくらか素直な人種ならば嫌悪、忌避感、恐怖や気持ちの悪さを覚えるだろう。  そしてあるいは悪党ならば、人として破綻している外道らしく嘲笑する。他人の不幸が面白くて、下卑た優越感に浸るはずだ。  病んでいると、いつも四方からそんな感情を向けられる。それは僕の実体験からしても確かなことで、もはや真理だ。著しく健常から外れた者を前にしたとき、人は“ソレ”を対等と見ない。  可哀想な奴。気持ち悪い奴。みっともない奴。滑稽な奴。感じ方がどうであれ、共通していることはたった一つだ。見下している。  おまえは弱いな劣っているなと、それを前提にしてあらゆる上目線を向けてくるのだ。  しかし。  だというのに、眼前のこの男は何だ? 「生きるという執念、そのために戦うという気概はもっとも純で、尊いものだ。皆が持っているものであり、また皆が死には勝てん現実がある以上、誰もおまえほど真剣に祈らない。  己に死など与える世界のほうが間違っていると……ふふふ、なんともまた、真顔で言うことかよおまえ。実に眩しいよ、尊敬に値する」  この男は、全身から異様な精気を発散する偉丈夫然とした身でありながら、目の前で死に掛けている虫けらのような弱者を偽りなく対等と見ているのだ。  可哀想とも、情けないとも、みっともないとも気持ち悪いとも見ていない。  今、初めてその目に宿った感情は溢れ出る親近感で、一点の曇りもない敬意と友情。〈衒〉《てら》いなく褒め称え、労りとはまったく無縁の純粋な好意から、穢れた半死人を抱きしめようとさえしているのが分かる。 「おまえを知って、俺は奇跡の実在を悟った。そうだろう? 死にたくないというただそれだけで、ともかくここまで生きているのだ。すでに医学や科学など超越した存在だとも。  ああ本当に感謝するよ。おまえのような男がいて、俺は真実救われたのだ。  夢は現実を凌駕する。その証がここにあると認めることに疑いはない」  おそらくこの男にとって、人の価値とは念の強さと覚悟の量。その絶対値が強大であれば身分も善悪も関係ないのだ。  それが最悪の犯罪者であれ、年端もいかない幼児であれ、勇者と認めたならば全霊をもって賞賛する。たとえ自らの敵であろうと、一片の迷いもなく抱きしめて愛するのだろう。 「ゆえに、もう一度だけ問わせてもらおう」  ゆえに、僕は理解した。この男もまた、怪物的な性を持つ異常者なのだと。  僕が宿った男のような邪悪ではない。だがより危うく、より手に負えない。  彼は自らの美意識が命じるまま、輝く勇者を求めて地獄の魔王にだってなるだろう。  ここに向かい合う二人の男は、等しく世界の敵になり得る。  そうした意味で、彼らは確かに親友足り得る関係性を持っていた。 「なあ、諦めてしまったのかね?」 「―――、――ッ……!」  そんなはずはないだろう、と。俺はおまえを信じているぞ、と。  揶揄を一切含まない真摯な情熱を前にして、そのとき、腹の中で何かがぼごりと蠕動した。 「おまえにとっての戦いは、ここでもう終わりなのかね?」 「ちが、うッ――!」  憎悪。憤怒。嫉妬。凶気。膨れあがる自負と呪怨の激情が病を超越する毒念と化し、男を死の淵から蘇生させる。  自らを上回るかもしれぬ怪物性を前にして、逆さ十字と呼ばれた男が狂奔しないはずもない。 「黙れ……ふざッ、けるなァ―――!」  同時に、消えかけていた激痛も復活していた。焼き切れそうな灼熱のフィードバックに僕は再び崩れ落ちそうになってしまうが、しかし男は怯まない。  なぜなら〈痛み〉《これ》こそ、彼にとって生きているという証なのだから。相対し、叩き潰し、乗り越えると誓った業なのだから。  腐った血反吐を撒き散らしながら、眼前の男へ掴みかかるように手を伸ばす。 「見縊るなよ、俺は負けん……死なん、のだッ!  貴様ごとき、笑わせるな塵がァ! いったい、誰の許しを得て、この俺を見下ろしている……!  死ね、死ね、塵が――疾く死ね! 役に立てよ、貴様の生まれた意味なぞは、俺に使われる以外にないッッ!」  血と糞尿と吐瀉物に全身塗れ、蛆虫が這い回る眼球を零れんばかりに見開き、吼える。  これほど醜悪なモノは存在しないだろうと言える光景を見せられて、だがありったけの悪感情をぶつけられている当の男は、依然として澄んでいた。  感動さえ覚えているのか、尊いものを前にしたかのごとく、詠嘆の吐息を漏らしている。 「無論、そうするつもりだとも。俺はおまえの役に立つ。  そのために来たのだよ」 「なッ、にィ……?」  言って、男は軍帽を押し上げると、おどけたように笑って告げた。  しかしその目は、冥府の太陽のようにぎらぎらと燃えている。 「俺を邯鄲に投じろよ。被験者を欲しているのだろう?」 「如何なる危険、難関、不確定要素……一切まったく俺は気にせん。好きに使ってくれればいい。  つまりは利害の一致だよ。おまえの夢は、俺の夢だ。  共に〈楽園〉《ぱらいぞ》を掴み取ろう」 「―――ッ、………」  そのとき男の胸に生じた感情は何なのか、意識に同調している僕でさえも咄嗟に掴みきれないものがあった。  歓喜であり、恐怖のような。安らぎであり、怒りのような。  もしかしたらこれこそが、彼にとって生涯初めて差し伸べられた救いであり、それに対して抱いた幸福という気持ちだったのかもしれない。 「だけどこの人は、そんなものを認めない」  僕の感想を暗に肯定しながらも、緋衣さんは男の精神性をそう断じる。  彼の魂は幸せというものを受け入れられる形をしていない。病魔による侵食がそうさせたのか、あるいは生まれたときからそうなのか、どちらにせよそれは逆さ十字の生き方ではないのだと悲しそうに。そしてやはり、誇るように。 「いい、だろう……面白い」  他者から与えられる祝福など、彼の世界観では有り得ないのだ。  それは奪うもので、掴み取るもの。献上されるもので、貢がれるもの。  己は強く、強く、至高で無敵なのだから施しは一切不要。間違った天の理を正すため、ただ憎悪を込めて逆さ磔に生贄たちを吊るし続ける。 「名を名乗れ、若造……!」 「甘粕正彦。おまえと同じく、世界の歪さを嘆く者だ。  諦めなど俺たちにはない。夢はきっと叶うさ、友よ」  偽りない親愛の情に、血走り濁った瞳が応じる。  急速に閉じていく世界の中、今夜の夢はこれで幕を閉じたのだと理解した。  後に元凶と呼ばれることになる病み果てた男、その僅か一端にすぎない歴史だけで、強烈な印象を僕の胸に残したまま。 「彼こそ私のヒーローよ。憧れで、同時にとても憎い人。  信明くんのヒーローは彼より強い? ねえ、彼に勝てると思う?」  問いに僕は答えられない。  吟味していたからではなく、あれをヒーローと呼ぶ彼女の感性に戸惑いを覚えたからだ。  いいや、本当に惑っていたのはきっと僕自身の本音に対して。  黒く、禍々しく彼は眩しい。甘粕という男が言ったとおり、ある種の勇者であることに疑いはなく……  これこそまさに――そう感じる自分の気持ちが、大好きな先輩たちに対する背信なのだと分かっていたから。  僕はやはり、皆のように生きることは出来ないのかもしれない。  そう思いかけてしまう毒が一滴、死病のように心の中へと浸透していくのを感じていたのだ。 「よし、じゃあそういうことで、石神の案は可決された。演目は柊四四八の劇にする――今さら異論はないな、おまえら」 「ありませーん」 放課後、昨夜のことをクラスメートたちに話して決を採った結果、満場一致でこうなった。これでひとまずだが、ようやく肩の荷が下りたのもあり、安堵の吐息を俺は漏らす。 まあ現時点で問題があるとすればタイトルが決まっていないことであり、そのため『柊四四八の劇』なんて言わざるを得ないところだ。正直、恥ずかしくてしょうがない。 これは早いとこ、そのへんも決定しないといけないなと改めて思いつつ、俺は傍らの芦角先生に目を向けた。 「聞いたとおりです、先生。そういうことになったんで、これから俺たちは昨日言った手はずどおりにいきますから、いいですね?」 「お、おう……昨日、昨日って私、何話したっけ?」 「…………」 まだ酔っ払ってるのかよこの人は。こっちまで頭痛がしてきたぞ。 「衣装として戦真館時代の制服を使いたいんで、旧校舎に入りますよーってことでーす」 「は? なんで衣装と旧校舎が関係あんの?」 「だから、そこに当時の制服が保管されてるって百合香さんに聞いたんですよ。ほんとに忘れてるんですか、まったく」 「まあ、しょうがねえわなあ。花恵さんガチでべろんべろんだったし」 「ねー、剛蔵さんとか聖十郎さんとか幽雫先生とか、男の人に片っ端から絡んでたもんねー」 「しかも泣きながらな」 「たく、しっかりしてくれよマジで」 まったくもって同感である。だがそれ以上突っ込むとこの人は逆ギレしだすと経験上知っているので、皆を制しながらもう一度尋ねた。 「そういうことです。なので鍵をお借りしたく思うんですが、問題はあるでしょうか?」 「ん、いや……そうね、そうそう。オッケー、鍵だな。だったら好きに取ってこいよ。キーンって、ほら」 「はあ?」 「あの、芦角先生? 昨夜幽雫先生から聞いた話だと、旧校舎は老朽化が激しいので危険だし、相応に許可を取らなければいけないということでしたが」 「え、そうなの? キーンって鍵だけ取って行けないの?」 くそつまらない駄洒落には誰一人として反応しない。それが先生的には不満そうだったが、全員で無言の圧力を発していたらようやくのこと折れてくれた。 「はあ……分かったよ。爺ちゃん先生たちには私から言っとくから、おまえらとっとと行ってこい」 「俺たちだけで行っても構わないんですか?」 「だって面倒くさいんだもーん。お嬢に話通してるんならもうそれでいいよ。柊がいりゃ大丈夫だろうし」 「そういうことで、ほれ、いつもの先祖が有名人軍団。プラス言いだしっぺの責任で石神、おまえらに任せた。幸運を祈る」 「私はここで、他の奴らと劇の内容詰めとくから、早く行って戻ってこい」 「……分かりました」 ある程度は予想してたが、やっぱりこういう流れになったか。ほんと、この人の面倒くさがりは筋金が入ってるよな。 「じゃあおまえら、一緒に行くぞ」 「よーし、責任重大だな。実は結構、楽しみにしていたんだ」 「なんだか探検みたいでわくわくするもんね」 「だけどあんたら、あんまり馬鹿みたいにはしゃぐんじゃないわよ。何があるか分かんないんだからね」 「お化けとか出てくるかもよ~」 「な、ななななっ、そそんなん全然怖くねーしっ!」 「むしろこういうときの定番は虫だろ。こう、百匹くらいのゴキがぞぞぞわーっとよ」 「きゃーっ、最低大杉くんっ!」 「ちょ、いて、なんだよ水希、なんで殴るんだよっ!」 「いや、今のは完璧おまえが悪いわ」 というか、いつもこの手のじゃれ合いを最初にやらないと行動できんのかこいつらは。俺は溜息をつきつつ、再度促す。 「昨日約束したし、改めて百合香さんにも話を通そう。筆頭殿に一筆でも書いてもらえば、芦角先生の許可よりは効力があるはずだからな」 「そうね。なにせ学園創立者の一族だし」 「ああ、それともう一人」 きょとんとする皆に向け、俺は短く付け足した。 「信明も連れて行く。なんか知らんが、あいつも来たがってたんだよ」 そうしてその後、俺たちは生徒総代室に足を運び、曰く爺ちゃん先生たちから旧校舎の鍵を渡してもらうよう、百合香さんに一筆書いてもらった。 その効果は思ったより覿面で、まあ芦角先生の口添えも多少ながらあったのだろうが、特にトラブルもなく鍵はゲット。俺たちだけで旧校舎に入ることを許される。 それから世良に頼んで信明を呼び出してもらい、全員そろったところでいざ目的の地へ赴くと―― 「……開けるぞ」 でかい鎖で閂を固定していた南京錠に鍵を差し込み、いま俺たちは旧校舎への扉を開いたのだった。 「ふああー、これはまた、なんていうか」 「うーん……思ったより特別どうってこともねえなこりゃ」 「確かに」 率先して踏み入った歩美と栄光に俺も続き、同様の感想を口にした。 「基本的な作りは本校舎とそう変わらんな。古いのはどっちもだし」 「けど、やっぱ埃すげえな。こりゃマジであんま騒がんほうがいいぞ、喉が悪くなっちゃいそうだわ」 「そうね、この調子じゃ保管されてるって制服も真っ白けになってそう。洗濯は必須かしら」 「でも古いの下手に洗ったら、ぼろぼろになっちゃいそうな気もするねー」 「そんなことよりっ」 淡々と話し合う俺たちの何が気に入らなかったのか、唐突に大声出した石神が頬を紅潮させながら廊下全体を指差して言った。 「見ろよ君たち、夕日が差し込んでなんかこういい感じだぞ。ノスタルジックな雰囲気出てるぞ。そう思わないか、なあ?」 「あー、うん。それはまあ、そうなんだけど……」 「虫も幽霊も特にいねえと。ま、こんなもんだよな」 唯一テンション高めな石神には申し訳ないが、俺たちとしては別にどうってこともない光景だった。言ったように本校舎と作りはさほど変わらないので、夕暮れどきの演出効果もたいして胸に響かない。 「むう、冷めてるな君たちは。これが都会っ子というやつか」 「しかし信明くん、君ならそんなことはないはずだよな。千信館の風景にまだ慣れてないのは、お互い様なわけなのだし」 「この胸がきゅーっとなるような感覚をだな、君も当然理解して……」 「て、おいどうした?」 「えっ?」 石神に同意を求められた信明は、まったく話を聞いていなかったようで驚いていた。次いであたふたと弁明を始める。 「あ、えっとその、すみません。なんだかぼうっとしちゃってて」 「幽霊でも見えたか?」 「おい四四八、おまえやめろよなそういうのっ」 「あっちゃんってば、ほんとこういうとこ乙女だよねー、ビッチ」 「ファック」 「大概あざといのよ、この牛乳」 「はああ? おまえらちょっといい加減にしろよ。あたしが何したってんだよっ? コラ、おい待てっ!」 そのまま晶に追いかけられる態で、女どもはきゃーきゃー騒ぎながら廊下の奥へと走っていった。 「あーあ」 「騒がねえんじゃなかったのかよ……」 まったくだ。お陰で埃の舞い上がりが凄い。俺は顔の前を手で払いながら、晶たちの背に呼ばわった。 「おい、危ないんだから羽目外すなよっ!」 「分かってる――ちょ、だから待てっつってんだろおまえらァ!」 そうして実にドタバタと、でかい音を立てながら駆けて行く。ほんとに、もはや溜息しか出てこないが…… 「でだ」 あっちはあのとおり鬱陶しいほど元気なようで結構だけど、それに比べてこっちはどうかという話だろう。俺は改めて信明に目を向け、言った。 「おまえ、本当になんともないのか?」 「はい、心配かけてすみません」 「ふーむ。しかしそう言われると、あまり顔色もよくないな。まさか本当に幽霊を見たわけでもないだろう」 「いちいち気ぃ遣われるのもうぜえだろうが、調子悪いんならすぐ言えよ」 「たく、普通こういうのは女連中がフォローしていくもんだろうによ」 「しょうがねえって鳴滝。なんかオレらの世代、やたら女子のパワーがすげえ的な空気あんじゃん。だから多少の逆転は今さら珍しくもねえっていうか」 「実際、勉強とか部活とかの成績だけ見た話でもよ、水希に我堂に祥子さんに百合香さんだろ? 晶と歩美はまあ、あれだけど、目立ち具合じゃ負けてないしな」 「他にも色々、トップレベルにゃ女子が多いし。正直四四八がいなかったら、オレらとっくに立場なんかなくなってるよ」 「違いねえ。あとはせいぜい長瀬くらいか」 「あいつを〈千信館〉《うち》の男代表みたいに言うのはどうかと思うが」 〈長瀬〉《あれ》はなんと言うか……そりゃある意味この上ないほどの漢ではあるだろうし、引くほど優秀なのは認めているけど、ちょっとな。 「どうも、聞く限り君らの他にも面白そうな男子がいるみたいだな。今度よかったら紹介してくれ」 「まあ、分かったよ。ただ相当なレアキャラだから確約はできん。運が良ければ、ていうくらいに思っていてくれ」 「それはますます興味深いな。いったいどういう奴なんだ?」 「不動の二番だ」 「うん?」 「テストの成績は、だいたい俺か世良が一位を取る。だがどっちが勝った場合だろうと、長瀬は必ず二番なんだ」 「もはや二位に呪われてるんじゃねえかってくらい二番なんだ」 「勉強だけじゃねえ。スポーツテストの総合点だの、貢献度や好感度やらの学内コンテスト残らず全部」 「とにかくすべて二番なんだ」 「それは、また……」 意味が分からないだろう? 俺も分からない。それは一位を取り続けるより難しいことかもしれず、馬鹿げた話だが狙ってやっているのかもしれないという噂が立つほど紙一重なキャラなんだ。 しかし長瀬健太郎という男を語るにあたり、そんなものはまだ序の口で……いや、やめておこう。話せば滅茶苦茶長くなる。 「け、けど、石神さんもなんだか出来そうな感じがしますし、今後はもしかしたら長瀬さんの牙城が崩れるかもしれませんよね?」 「え、いや、それはどうだろ。私は勉強面じゃ全然駄目だし」 「なんだ、そうなのかよ。勝手に出来そうなイメージ持ってたわ」 「だが〈石神〉《こいつ》、代わりに運動面はとんでもないぞ。何せ俺がマラソンでやられるくらいだ」 「嘘ォ! 何それマジすげえじゃん、もはやすでに女じゃねえよ!」 「栄光さん、それ褒めてませんよ。貶してますよ」 「そうだぞ栄光くん。男子の矜持が疼くなら、君もこれから毎朝私たちと一緒に走ればいい」 「げっ、その、オレはほら……あんまりそういうマッチョなノリ、苦手だし」 「薮蛇だったな、大杉」 「おーい四四八くーん、みんなー! こっちこっち、見つけたよー!」 と、そこでタイミングよく、奥から歩美が俺たちを呼ばわってきた。 「分かった、今行く!」 「よっし、それじゃあ改めて出発進行だ信明くんっ」 「はい、皆さん行きましょう」 「なあ、やっぱノブの学年にも女傑系が多いわけ?」 「だから走んなっての、おまえらは」 そうして旧校舎の奥に向け、先行する石神たちの後に続く。こうして見る限り信明も、どうやら本当になんでもないらしい。 俺もやはり、心配が過剰だな。頭じゃ分かっているのだが、なかなかそのへん割り切れない。 そんな風に苦笑しつつ、歩美の声がした方へと行ってみれば…… 「ふははははっ、どうだこれ! 見さらせ男子、目ん玉かっ開いてわたしの凛々しさに震えるがいいっ!」 「世界が黄昏に染まっている。だけど私は染まらない。ああ、この漆黒に映える今こそまさに、完全無欠」 「なあ水希ぃ……あたしはたまにおまえが分かんなくなるんだよ、マジで」 「来いよ! どこまでもクレバーに抱きしめてやるぜ。いつだって私が――」 「うん、もういいから」 「あんた最後まで聞きなさいよォッ!」 そんな必要はない。たまに発症するこいつらの心と顔面の病気は常にスルーすると決めている。 「ぐ、紅蓮の魂が死せる餓狼の安寧と家畜を……」 「いや真似しなくていいからおまえ」 「大変だな、ノブ」 「はい……」 ともかく、一応だがこいつらも女なので礼儀として言っておこうと思う。 「似合ってるじゃないか、その格好」 「でしょ、でしょ? やーん柊くんったら分かってるぅ~」 「目がやらしいぞ、このエロ坊主♪」 「さあ、お金払いなさいよメガネ」 蹴りたいなあ、こいつら。 「それが戦真館の制服か、晶」 「無視すんなよっ!」 黙れおまえら鬱陶しい。何かぎゃーぎゃー騒いでるが引き続きシカトを貫く。 「お、おう、思ってたより全然綺麗だったから、つい着ちゃったよ。いい感じだろこれ」 「ああ、なんかぴしっと引き締まりそうなもんがあるな。さすが軍学校時代って感じだぜ」 「あれだよな、体育祭だの野球の応援だのにも使えば嵌りそうだわ。いっそ百合香さんにそのへん申請してみるってのはどうよ?」 「なるほど、いい案だな。私も賛成だよ栄光くん」 「特に汚れや虫食いもないようですし、いけそうですね。あっちにあるのがそうなんですか歩美さん?」 「え? うんそうだよ。全部で三十着はあったと思うな」 部屋の一角にあるシートに覆われたでかいロッカーを開けてみれば、確かに相当な数の制服が納められていた。しかもこれは、驚いたことに…… 「名札がついてる。もとの持ち主も分かってるのか」 「そうなの。これね、実際に私たちの曾お祖母さんたちが着てたやつなのよ」 「うっへえ……マジかよ? じゃあガチな意味でお下がりなわけじゃん。オレらのもあんのか?」 「ちょっと待ってろ。ええっと……あったぞ。これだ、ほら」 「おおっしゃ、なになに? 大杉グレイテストシャイニング栄光……?」 「なんだこれ、うちの曽祖父さんってアホなのか?」 「すごい血の濃さを感じるわよね、あんたんとこ」 「鳴滝、おまえのもあったぞ。俺のもな」 「他には伊藤野枝もあるな。凄いじゃないかこれ、もはや戦真館のオールスター的な殿堂だぞっ」 「おまえにとっちゃ宝の山ってわけか、石神」 「ああ、ここまでくると着るのがもったいないというか恐れ多いというか」 「――うあああ、何をしてるんだ栄光くん! そんなばさばさ振り回すんじゃない!」 「へ? いやだって、さすがに硬くなってるからほぐさねえといけねえかなって……」 「君はっ、遺物をいったいなんと心得るっ! 冗談抜きで博物館の人間が殺到するレベルなんだぞこれ!」 「あー、ははは……」 「なんかしーちゃん、こういうとこオタクみたいだよね」 オタクといえば、ついでに長瀬の曽祖父さんのやつまで見つけてしまった。やたらと妙な改造が施されているので、気になるといえば気になるが…… 「ん……?」 なんだこれ? 胸ポケットからメダルのようなものが出てきた。 よく分からんが、一応貰っておこう。機会があれば曾孫に渡してやればいい。 「まあいいや」 今は関係ないことなので、放っておくことにした。 「とりあえず、これで目的は果たしたな。おまえらも〈制服〉《それ》、今日のところは着替えとけよ。まさか着て帰るわけにもいかないんだから」 「えー、別にもうちょっとくらいいいじゃんよ。クラスの奴らにも見せびらかしてやりたいし」 「駄目だ。気持ちは分かるが、向こうでまたきゃーきゃーやりだしたら話が進まないだろ。まだ詰めていかなきゃならないことはたくさんあるのに、ファッションショーで一日潰すわけにはいかん」 「俺たちは外に出てるから、その間にちゃんともとの制服に着替えとけよ」 「ちぇー、ほんと四四八くんってば頭かたーい」 「まあまあ、今日は写真だけでも撮っとくことで我慢しようよ」 「しょうがないわね。じゃあほら、あんたらさっさと出ていきなさい」 「うるせえなあ、分かったっての。行くぞ大杉、信明」 「ういーす」 そんなこんなで廊下に出た俺たちは、女たちの着替えが終わるまでやくたいもない話をして時間を潰した。 当たり前だが(少なくとも俺は)覗こうなんて気を起こすはずもなく、だいたい五分くらい経ったところでお許しが出た。 「いいよ男子たちー、入っておいでー」 さあ、だったらそういうことで。 「後はこれを運び出すだけだな」 再び教室に戻った俺が言った言葉に、皆が頷く。今しがた世良たちが脱いだ制服及び、ロッカーにある残りを持っていかねばならない。 「一応、いくつか袋は持ってきたが、ここまであると流石に全部は入りきらんな。残りは手運びになるぞ」 「んー、まあちょっと無理すりゃ一回でいけるんじゃね? 一人につき三・四着ってとこだろ」 「あー、栄光くんは駄目だなー。全然レディファーストの気持ちがないね」 「オレがレディ扱いする女子の中に、おまえらは入ってねえっつうだけのことだよ」 「淳士、あんた一人で十着くらい持ってきなさいよ。出来るでしょ」 「それでおまえは手ぶらってか? 笑わせんな馬鹿」 「実はこれ、地味に結構重いんだよな。素材も丈夫っぽいし、なんか色々金具とかもついてるし」 「要は軍服みたいなものだもんね。でも頑張って運ばなきゃ」 「ああ、それはそうなんだが、君たち……」 と、そこで石神が割って入った。いったいどうしたのか、こいつはきょろきょろと周りを見回し…… 「信明くんがいないようだが、何処に行ったんだ?」 「へっ?」 「あれ、そういやいねえぞノブ。おい鳴滝、知ってるか?」 「いや、俺も分かんねえ……さっきまではいたと思うが」 「信明、おい! 何処だ返事をしろ!」 皆と同様、まったく俺も気付かなかった。廊下に出て呼ばわっても返ってくる声はなく、また姿も見当たらない。 「いなくなっちゃった?」 「らしいわね。あんたらさっきまで一緒だったんでしょ?」 「そうだが、特に意識をしていなかった。教室に戻るとき、あいつだけ何処かに行ったのかもしれん」 「おい水希、電話してみろよ」 「うん、ちょっと待ってて」 言いつつ、携帯電話を取り出した世良が信明の番号に掛けてみるも…… 「駄目、出ない」 「着信の音も聴こえなかったな。ということは持ち歩いていないのか?」 「もしくはマナーモードってことだよね。どっちにしろ捜さなきゃ」 「だな。別に何が危ねえってわけでもねえとは思うけど……」 「いきなりいなくなるってのがすでにおかしいぜ。ほっとけねえだろ」 「ああ。何があったのか知らんが、あいつらしい行動じゃない」 そしてこの数日、何度か信明に違和感を覚えたのも事実だ。そもそもあいつは、実際のところなんでこの旧校舎に来たがったんだ? まさか今消えたことが本来の目的で……だとしたらそれはいったい? 「あの子、最近ちょっとおかしかったのよ。夜中に一人で出歩いたりして」 「それは俺と柊も一度見たな。たいしたこっちゃねえと思ったから何も言わなかったけどよ」 「ノブくん、何か悩み事でもあったのかなあ」 「おまえは聞いてないのか、水希」 「それは……」 「ああもう、今はそんなこと話しててもしょうがないでしょ。捜すなら捜す。動くわよ」 「我堂の言うとおりだ。ひとまずそっちを優先しよう。行くぞおまえら」 「分かった。何事もなければいいんだが」 信明を捜す――そう意思統一した俺たちが一歩踏み出したそのときに、唐突な異変が場を襲った。 「なッ――」 「ど、どわわわわわわわわわ!」 「地震ッ?」 しかも生半可なやつじゃない。俺たちの身体が縦に浮き上がるほどの凄まじい揺れが起こった。あまりにいきなりのことすぎて、誰一人も対処が出来ない。 「ど、どどどうすんのよこれっ?」 「とにかく伏せろッ――いや」 それも危ない。この揺れでは旧校舎ごと崩れしまうかもしれない恐れがあり、そうなった場合は俺たち全員が生き埋めになってしまう。 だったら、危険を承知で脱出を試みたほうがまだマシというものだろう。 「ここから出るぞ! 窓ごと突き破るから後に続け、――鳴滝!」 「分かった、行くぞォ!」 こういう荒事は身体がでかく力も強い俺たち二人の仕事だった。子供の頃から自然と決められたこの手の役割分担に、今さら躊躇など存在しない。 だからそれは、まさに跳躍しようとした瞬間のことだった。 「四四八さん、姉さんッ!」 「信明――!」 血相を変えてこちらに駆けてくる信明と、その足元に走る不吉な亀裂が目に入ったとき、俺の身体は一瞬で反転した。 「来るな馬鹿ッ、さがれェェッ!」 「え、あッ―――」 「うおおあああああああッ!」 旧校舎の床が崩壊する。バリバリと音を立てて出現した深い裂け目が、俺たち全員を呑み込んでいた。 「くッ、そおおおおおおォォ!」 叫びごと、闇に墜落していくように。 落ちる。落ちる。どこまで落ちていくんだ。落ちていく……  幽霊でも見えたのか?  あのときそう言った四四八さんの指摘は、実のところ的を射ていた。  それは、そこに有り得るはずのない人影。  旧校舎に入った瞬間、僕は夕日に煙る彼女の姿を見咎めたのだ。  もちろん、そんなものはほぼ間違いなく幻で、僕の勘違いにすぎないのだろう。他の人たちがまったく気付いていなかったという点からしても明らかであり、事実として彼女がいたように感じたのはほんの一瞬だけのこと。  だから、気のせいだと割り切った。あまりにも緋衣さんのことばかりを考えているからそんなものを見たのだろうと、自嘲して皆に続く。  だけど、次の展開が再び僕を打ちのめしたのだ。  戦真館學園時代の制服……この現実で見たそれは、夢で見たものとまったく同じだったから。  有り得るのだろうか、そんなことが。  僕は誓って、戦真館の制服をあらかじめ知っていたわけではない。にも関わらず、現物を見るよりも先んじて夢に正解を与えられている。これでは、完全なあべこべだろう。  あの夢は夢であっても夢じゃない。どこまでもリアルかつ鮮烈で、本当の歴史を垣間見ているようだと僕は思ったし思いたかったが、言い換えればこれまでは、単にそれだけだったというのも事実。  だがここで、状況は完全に一変したのだ。何せ証拠を見せられている。  あの夢がただの夢ではない証として、戦真館の制服が存在するのだ。  ならばそう、つまりはこういうことじゃないのか? 「緋衣さんは、現実に僕のことを呼んでいる」  夢で逢った彼女は紛れもなく、緋衣南天本人である。  そんな、他人に知られたら頭の中を疑われるような考えに確信を持ち、いてもたってもいられなくなった僕は一人旧校舎を捜したのだ。彼女を求めて。  それが結果的にこんな事態を招いてしまったという後悔よりも、僕は引き続き、夢を追いたいと思っている。  だから。  そうだよ、だからこそ―― 「いるんだろう、緋衣さん……」  地震による旧校舎の崩壊で呑み込まれた穴の底……何処に続くのかも知れない洞窟の中を僕は一人きりで歩いている。  幸いにもたいした怪我はしていない。問題は何もない。  先ほどから意識と視界に明滅する彼女の姿が、初めて逢ったあの日のことを強く思い出させていた。 「……信明くん……大好き」 「一緒に、……生きよう。……掴んで……必要……だから、欲しいの」 「決まっているのよ……信明くんは、私のもの」  凍るように冷たい吐息。  うねるように熱い肉の感触。  まるで青酸カリを連想させる、甘い、甘い、彼女の匂い。  緋衣南天は毒の塊だと僕には分かった。分かったうえで深く溺れた。  なぜなら僕と彼女の間に、いったい何の違いがあるという。  彼女が僕を必要だと言ったように、僕にも彼女が必要なんだ。 「ああ、いいだろう。僕は君のものだ、緋衣さん」  だから見せて、教えてくれ。こんな僕を求めた先に、君は何を目指しているのか。  僕に出来ることとは何なのか。  願わくば、それが君にとって唯一無二のものであってほしい。  思いながら、僕は暗闇の洞窟を歩き続けた。  今はそうすることしか、出来なかった。 穴の底に落ちた俺たちは、まさに不幸中の幸いという言葉の意味を噛み締めていた。 「とりあえず、ここにいる全員が無事なのはよかった」 俺たちが落ちた穴は途中からスロープになっており、お陰で命が助かったのはもちろん、骨折やそれに類する大怪我は誰もしてない。 だがそれは、しょせん不幸の中に起こった幸運だ。穴をよじ登るなど無論のこと不可能だし、全体として危険な状況にあるのは変わっていない。早急になんとかする必要がある。 「信明を捜すぞ。落ちる途中にバラけてしまったみたいだが、きっとあいつも近くにいる」 「うん、早く見つけてあげないと」 「本当ならこういうとき、最初の場所から動かないようにするのが鉄則らしいけど、そういう状況じゃないもんね。ケータイだって圏外だし」 「そうだな。あのまま旧校舎がぶっ潰れてたら、瓦礫撤去するだけでも数日仕事だぜ。助けが来るのを待ってられる余裕はねえ」 「それに、ここ……」 恐ろしげに周囲を見回し、我堂が呟く。このなんとも不気味な地下洞窟。 「さっきの地震で脆くなってるだろうし、いつ崩れるか分かったもんじゃないわ。もう一度揺れでも起こったら、本当に危ない」 「ああ、行こうぜ四四八。ノブを見つけて、自力で出口を探さねえと」 「つまり意見は全員一致なわけだよな。旧校舎探検用にノリで懐中電灯持ってきちまったけど、役に立ってよかったぜ」 「君のそういうところは頼もしいな、栄光くん」 各々顔を見合わせて、頷き合う。あとは最低限、迷わないようにすればいい。 落ち着いて、だが迅速に。 「この先、もし分かれ道があったらその都度壁に目印を付けていこう。意見はないな?」 行くぞ、と言おうとしたとき、しかしそれを石神が遮った。 「すまない。ちょっと待ってくれ四四八くん」 「相談なんだが、よければこの先、私に先頭を切らせてくれないか?」 「……なんだと?」 いきなりのそんな主張に当惑する。別にいつも俺の仕切りでなければならない決まりは確かにないが、ここで言ってくる意図が見えない。 「誤解しないでくれ、君のリーダーシップに文句をつけたいわけじゃない」 「ただほら、私は田舎ものだろう? こういう自然環境のサバイバルは慣れてるんだよ。勘が利くんだ、そして夜目もな」 「なるほど」 言われてみればそのとおりだ。加えて、こいつの運動神経はずば抜けている。ここはそれに頼るのが吉だろう。 「分かった、じゃあそうしてくれ。おまえらも安心していい。〈石神〉《こいつ》はなんていうか、雪男の親戚レベルだ。この手の場所は、むしろ庭みたいなもんだろう」 「広島の……雪男? あー、分かったヒバゴンだねっ?」 「なにそれ、そばもん?」 「四四八がそう言うんならオレは全然構わねえぜ」 「俺もだ、任せる」 「よろしく頼むわね、静乃」 「お願い。信明はきっと私たちを待ってるから」 「ああ任せてくれ。それじゃあ四四八くん」 「構わない。行ってくれ石神」 そうして俺たちは、石神を先頭にしたフォーメーションで洞窟の中を歩き始めた。 五分、十分……何度も折れ曲がり、分かれ道に行き当たり、時には下り、また上り、依然として変わらない闇の中、想像を絶する空間の広大さに舌を巻く。 「おい、何なんだよこの洞窟。千信館の地下にこんなもんがあるなんて、聞いてねえぞあたしは」 「おそらくこれは風穴だろう。君らにはピンと来ないかもしれないが、風の動きがかなり速い。それに、鎌倉の地下にはそういうものがあると聞いたぞ」 「ああそれ、確かにあったわね。ていうことは、出口に通じてるってことじゃない?」 「そうなるな。伝説だと富士まで通じているなんてものもあったが、さすがにそこまでは歩きたくない。上手く市内の何処かに繋がる道を行ければいいが、さて……」 「そのへんは勘頼りってことか?」 「でもないよ。先ほどから歩数を数えながら歩いてるし、千信館を中心にした鎌倉の地図と頭で照らし合わせながら方角も測っている」 「越してきたばかりでまださほどの土地鑑はないが、それでも憧れの地だったからな。少なくとも海側に向かっていくようなヘマだけはしないと約束するよ」 「ふわー、すごいねしーちゃん。頼りになるぅ」 「こんな状況で東西南北まで分かっちゃうの?」 「まあな。これは自慢だが、方向感覚は渡り鳥なみだと言われてたんだよ。空なんか見えなくても、そのくらい分かる」 「マジか、人間磁石かよ」 まったくだ。まさに野人の本領発揮というところだろう。それに軽口めいた口調のお陰で、皆の不安や緊張も幾分かは払拭されたらしい。 「誰か、紙とペンを持ってないか? 石神が頭で地図を描いてるんなら、実際図に起こしたほうがいい」 「それで風穴の出口に繋がりそうな箇所は、土地鑑のある俺たちが導き出そう。ここはこいつの負担を少しでも減らすべきだ」 「あ、わたし持ってるよー」 「助かる。だがそうなると、やはり問題は信明くんの捜索になるが……」 「いくらおまえでも、警察犬よろしく匂いで辿るなんて真似は不可能か」 呟いて、唸ったそのとき、懐中電灯の光が示す一角に俺はある物を発見した。 「おい待て、あれはもしかすると」 駆け寄り、拾い上げて確認する。間違いない。 「靴だ……信明の」 「ほんとだ。これノブくんのだよっ」 「じゃあ、あいつもここを通ったってわけか」 おそらくそういうことで間違いない。一同に安堵の空気が広がった。 「そのへん見る限り、血痕とかも見当たらないし、どうやらたいした怪我もしてないようね。よかったじゃない水希」 「うん。でもなんで、片足だけ脱げた靴を拾わずに行っちゃったんだろう」 「見つけられなかったんだろ。俺らにゃ懐中電灯があるからいいが、あいつはそんなもん持ってねえ。視界はほとんど効かねえはずだ」 「そうか、だよな。だったらあいつ、すげえストレスのはずだぜ。正直オレ、この状況でも結構きついもんよ」 一般に、人は暗闇の閉鎖空間に単独でいると半日も精神が保たないと聞く。それは栄光が言うとおり、全員が実感していた。 懐中電灯があり、石神のナビゲーションつきで、集団を維持している俺たちでさえ気力と体力を予想以上に削られている。なら一人の信明がどれほどのストレスに晒されているかは、想像に難くない。 「けど、だからこそこれはついてる。明かりも無しに裸足じゃあ、絶対遠くにはいけないはずだ」 「このルートに信明くんがいると分かっただけでも収穫だよ。引き続き、今の調子で探索を行おう」 「あいつ、絶対そのへんでぴーぴー泣いてるわよ。子供の頃からそうだったんだから、ほんと手間の掛かる奴」 「だから助けてやらないとな」 俺たちは再び頷き、歩美が差し出した紙とペンで石神の頭にある地図を書き起こしていく傍ら、声を出して信明を呼びながら歩き始めた。 「ノブー、おいノブー!」 「信明ー、何処なの返事してー!」 「ノブくーん、わたしたちここにいるよー。ノブくーん!」 だが、そうやって三十分ほど捜したが依然として信明は見つからないし、返事もない。 意図的に靴があった周囲をぐるぐる回るように歩いたのだが、新たな痕跡すら見つけることが出来なかった。 くそ、予想外にこれはまずいぞ。こうまで成果がないままでは、俺たちの集中力にも限界が来てしまう。 一瞬、葛藤が頭をもたげた。この状況で最悪のパターンは、ミイラ取りがミイラになること。 ならばひとまず俺たちの脱出を優先して、然る後に本格的な救援をプロの大人たちに頼むべきではないのか? しょせん俺たちド素人の若造が出来ることなどたかが知れてる。なんでも自分たちでやれるなんて思い上がりは、自殺行為でしかないのでは……と。 「いや、違う」 誰にともなく、一人自分に言い聞かせるつもりで呟いた。 理屈では確かにそうかもしれない。だが状況を左右するのはあくまで人だ。数式じゃあないんだよ。 俺も、世良も、晶も歩美も我堂も栄光も鳴滝も――そしてきっと、石神も。 この手の問題では残らず全員頭が悪い。仲間を放置なんて出来ないし、そんならしくないことをやったらペースが乱れる。すべて連鎖で下手を打つ。 そういう危うさこそが人の〈業〉《わざ》というものだ。ゆえに逆説、俺たちが自分らしさを失わなければ、十全以上の力を発揮できるに違いない。 俺の曽祖父さんが、奇跡としか言えない偉業を成し遂げたように。 そう思い、強く信じて、負けるものかと再度前方の闇を睨みすえた。 そのときに―― 「―――――」 ……なんだ? いま感じた形容し難い違和感は? 「四四八くん……君も気付いたか?」 石神が声を落とし、そう言って俺の顔を覗き込んでくる。こいつも何かを感じたらしい。 「……ああ。上手く言えないが、呼び声のような」 「声? いや、私が感じたのは鼻なんだが……」 つまり、こいつは匂いを感じたということみたいだ。共に同じタイミングで違和を察知した俺たちだったが、その印象は異なっている。 ではいったい、正体は何だ? 「おまえは何を匂った、石神」 俺たちのやり取りを聞いていた他の奴らも、固唾を呑んで答えを待つ。それにこいつは、一瞬だけ迷うような顔をしてから、ぽつりと言った。 「死臭だ」 この先に何かの――あるいは誰かの――死体があると。 「そんな……」 「おい待てよ、だったらそりゃあ……」 「くそ、ふざけんな――おい行くぜッ!」 誰もが一瞬で連想してしまったイメージを掻き消すように走り始めた。そうだよ、そんなことがあるはずはない。 そう強く思いながら駆けるうち、先ほどまで説明できなかった声の印象が明確になっていく。 それは呪い。 憎悪と、憤怒と、そして羨望。この世のありとあらゆるものを憎み抜いているような鬼畜の怨念。断じて信明のイメージとはそぐわない。 あいつは強い男なんだ。ハンデを持って生まれたのに、負けることなく真っ直ぐ立てる男なんだ。俺はそれを尊敬している。 そんなあいつが、誰かを憎んだり呪ったり、あるはずないだろう――ふざけるんじゃない! そうだろう信明? 俺も皆もそう信じている。だから安心させてくれ。 この先に、まさかおまえの躯があるだなんて、そんなことは―― 「絶対に、ないッ!」 叫んで、辿り着いた開けた場所に、ソレはあった。 「なッ……」 「これ、は……」 そこに転がっていたのは、石神が言ったとおり死臭漂う躯だった。しかし一般的な意味で思い描く死体とは、著しくその様相が異なっている。 「ミイラ……?」 旱魃にひび割れた大地に転がる捻くれた枯れ木……喩えるならそのようなものであり、まさしくミイラでしか有り得ない。 なんだこれは? そしていったい誰だこいつは? なぜどうして、こんなものがここにあるんだ? 「気色悪ぃ……どういうこったよこれは」 「ほんと、不気味どころの騒ぎじゃないわよ」 皆、口々に不快な気持ちを言葉にし、顔を歪めて目を眇めながらそれを見ている。確かにこれは気味が悪い。 だが本来、ミイラというやつはそこまで怖く感じるものじゃないはずだ。なぜならこれほど生々しさを喪失し、血肉や温もりのなんたるかを削ぎ落とされた死体は徹底して“物”でしかない。 それが証拠に、堂々と博物館に陳列され、観光にさえ利用されるのがミイラというもの。ここまで生体と掛け離れてしまった躯には、逆に死のイメージを抱きにくくなってしまう。 ではなぜ、いま俺たちはこのミイラに強い嫌悪と恐怖を覚えているのか。 場所が場所で、状況が状況だというのも無論あるが、決してそれだけが原因じゃない。 「なんだよこれ……すげえ嫌な感じがするよ」 「鳥肌が立つ。ざわざわしちゃう」 「なんであたしらを、睨んでるみたいに見えるんだよこれ……」 〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈は〉《 、》〈穢〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。干乾びた死体であるにも関わらず、沸騰する腐った臓物でも見ている気分だ。胃から酸っぱいものが逆流してくる感覚を抑えられない。 空洞になった眼窩の奥から、こいつは間違いなく俺たちを呪い殺しかねない憎悪を放出していた。まるで怨敵を見るかのように。 ここに来る前、俺が感じた悪意の念はこれだったのか。しかしなぜ? どういう理屈と因果があって…… 「最悪だ。まさかこんなかたちでご対面とは」 「これが朔の元凶なのか、親父殿」 「……石神?」 俺たちの中で比較的平静を保っていたらしい石神が、よく分からないことを呟いた。その視線を追って、ミイラが抱き込んでいる物の存在に気付く。 「なんだこれ、本か?」 まるでそれが命そのものであるかのように、ミイラは古い書物をその胸に抱いていた。あれの中身を確かめれば、少しはこの状況を解き明かすことが出来るのかもしれない。 そう思い、俺は誘われるかのようにミイラへと手を伸ばして―― 「駄目だ、触るなッ!」 瞬間、予想だにしていなかった異常と混乱が襲い掛かってきた。 「〈干〉《かわ》キ〈萎〉《しぼ》ミ〈病〉《や》ミ〈枯〉《こや》セ。〈盈〉《み》チ〈乾〉《ひ》ルガ〈如〉《ごと》、〈沈〉《しず》ミ〈臥〉《こや》セ」 「急段、顕象──」 それは声――だったのだろうか。声帯など遥か昔に朽ち果てているはずのミイラが軋み、哭いている。 地獄の亡者を思わせる叫喚が、そのとき虚空に災禍の形を紡ぎあげた。 「なッ……!」 「嘘だろ……!」 化け物……そんなありきたりの言葉しか思いつかない。それはまさしく、そう表現するしかない異形たちの群れだった。 ミイラを中心にして放射状に、何十何百という穢れが膨れ上がり、雪崩をうって俺たちに殺到してくる。逃げられない。 もとより、あまりにも常識を破壊する光景に一歩も動くことが出来なかった。全員化け物の波に呑み込まれ、それが身体を透り抜けたと感じた刹那。 「ぎッ―――」 意識が万華鏡のごとく、極彩色にばらけながら爆発した。 「がッ、ァァァ――グアアアアアアァァァッッ!」 激痛。 その概念さえ分からなくなるほどの痛み、痛み、狂乱するイタイという心のハレーション。いいや断じて、これはそんな思い込みだけのものじゃない。 「ごッ、――ぐばあァッ」 「ぐううゥゥ、げええええぇぇェッ」 「あッ、がァ―――ああああぁぁァアッッ!」 皆がその場でのたうち回り、もんどりうちながら吐きまくる。腹を押さえて悶絶する者、胸を掻き毟りながら叫ぶ者、頭を地面に叩き付けて苦痛を逸らそうとしている者―― 全員症状はバラバラだったが、共通しているのは重篤の極み。悪魔が身体に取り憑いて、内部から破壊を繰り返してるようなこの激痛が凄まじすぎる。 これは幻なんかじゃ有り得ない。実際に俺たちは肉体の重要器官を穴だらけにされているんだ。腐らせ、抉り、一瞬で末期に至るほど冒されている。 ぶち撒けた血反吐からは糞便の匂いがしていた。腹が爛れる。脳が壊れる。血の一滴までもが強酸性の毒に変わる。 死んでしまう――助からない。 そのイメージが心に実像を結びかけた、そのときだった。 「―――さがっていろッ!」 地を這う俺たちの横を駆け抜けて、石神が凶源へと疾走していた。  迅雷の踏み込みと共に槍のような蹴りを放ち、続いて肘打ち。  そのまま止まることなく回転し、上段から叩き落す裏拳を決めると同時に流れる体重移動で逆の掌底を叩き込んだ。  飛散する異形の穢れ。そのうえでなお消え失せろと言わんばかりの回し蹴りが炸裂する。  まるで自在に跳躍する独楽のように、風を纏いながら連続する静乃の攻撃は一息で七体もの化け物を狩り払ったが、しかし危機的状況は変わっていない。 「くッ……」  どれだけ打ちのめし、撃砕しても、その手応えは粘性の空気を殴っているかのようだった。それが証拠に、砕け散ったはずの異形どもはすでに残らず再生している。  加え、攻撃した側である静乃のほうが、どういう理屈か謎のダメージを負っていた。  拳が、脚が、そこから浸透して骨が筋が――爛れ腐り落ちていくようなこの感覚。蝕まれるという表現がもっとも適している痛みの正体を、彼女は即座に理解した。 「――なるほど、病か」  しかも生半可なものではない。冒されたが最後、死に至る業病である。自分や四四八たちを襲っている現象をそう看破すると同時に、静乃は強く気勢を込めて災禍の元凶たる躯を睨んだ。  嗤っている。  病毒と共に憎悪の怨念を垂れ流しながら、それは間違いなく嘲っていた。表情など剥落した過去の死者でありながら、かたかたと顎を震わせ悦楽の詩を謳っている。 「だが、それがどうした? 多少芸の達者な死体ごとき、なんら恐れるものではない」  そう不敵に、そして豪胆な笑みを浮かべ、静乃は深く息を吸い込む。  軽い瞑目。そして開眼。 「はあァッ――!」  裂帛の気合い一閃。その瞬間に彼女を中心にした突風が巻き起こり、手足に食い込んでいた病の毒がすべて例外なく叩き出された。  のみならず、四四八たちの抱えた異常さえ、力の余波で半分近く吹き飛ばしている。  原理は何か――見る者が見れば、静乃の体幹部を縦に走る命の連結を捉えることが出来ただろう。  それは気ともチャクラとも。呼吸法によって増幅させた生命力の奔流により、身体能力を爆発的に向上させる武術の技だ。しかもここで彼女が行った練気の精度は、特上という枕がつく。  如何に凶悪な病であろうと、末端部位に憑いたばかりの代物を祓うことなど造作もない。先の無防備とも言える連撃は、脅威を正確に推し量るための布石に過ぎなかったのだろう。  そして、静乃が紡ぐ反撃の狼煙はそれだけに留まらなかった。  逆巻く気の〈旋風〉《つむじかぜ》に踊るがごとく、彼女の長髪が螺子のように螺旋模様を描き始める。本来、自分の意思で動かすことは出来ないはずの頭髪さえ、石神静乃の気功術は自在に操ることを可能にしていた。  〈捻〉《ねじ》り、〈捩〉《よじ》られ、硬度を増し先鋭化していく白と黒の長い髪。  彼女のトレードマークとも言える二房に分かれた髪型は、これを前提にしたものだったのかもしれない。  そこから現れたのは二振りの短刀。いいや、鉄串とも言うべき代物だった。  完全な一体成形であり、鉤状に湾曲した鍔の形が特徴的な鋼の塊。  俗に〈釵〉《サイ》と呼ばれる器械である。古流の空手などに見られる武装だが、その用途は単なる突きだけに限定されない。  打つ。投げる。極める。絡める――白兵においてあらゆる状況を想定した小回りの利く両手武器。コンセプトにおいて〈旋棍〉《トンファー》と相通じる極めて実践的な得物だった。  なるほどこれを持って戦う限り、病魔に直接触れる危険は避けられるだろう。 「日頃どうやって持ち歩いていた――なんて突っ込みは入れないでくれよ。女には色々隠し場所があるんだとでも……」  背後に感じる四四八たちの驚愕に、そんな軽口で応じると。 「思っていてくれッ!」  再度、静乃は突風を纏って病の群れへと踊り込んだ。  そこから先は息をもつかせぬ獅子奮迅。際限なく膨れ上がる魔障の軍勢を、二本の釵が嵐のごとく抉り穿って弾き飛ばす。  病毒への肉体接触という危険から解放され、得物を握った静乃の体術に枷が無くなったという理由もあるだろう。だがそれ以上に、これは水を得た魚の動きだった。  異形討伐。一対他。そんな二重の意味で過酷な状況こそ、彼女が鍛えあげてきた技の本質であり、生業だとでも言うかのように。  未だミイラ本体には届かないが、押し寄せる凶軍との勢力は拮抗している。いいや、むしろ押し始めている。  烈火のごとく、怒涛のごとく、もはや独楽などという表現では適さない。  今の静乃は鋼の爪牙を持つ竜巻だった。回転するミキサーさながらに〈妖〉《アヤカシ》どもを屠る姿は、まるで鬼を喰らう鬼のよう。  仏教には天部という尊格がある。それら総じて鬼神であり、邪怪畜生を撃滅する任を負った戦の化身で、武の化身だ。  鬼面の〈守護神〉《デーヴァ》――まさしくその体現であるかのように、背後の仲間たちに病の一滴たりとも触れさせない。  それを前に不浄の死者は何も言わず、だが嘲りは消えていた。代わりに静乃は、接近を続けながら獰猛な笑みを浮かべている。 「最初は〈玻璃爛宮〉《はりらんきゅう》かと思ったが、どうやら違うな。これが噂に聞く逆十字の急段だったら、嵌った瞬間に全滅している。  邯鄲の一種ではあるんだろうが、この程度かよ〈加護〉《ユメ》が浅いぞ。現実の範疇で対処が出来る」  今、静乃が揮っているのはあくまで武術、そして気術。加えて陰陽五行を基幹とした複合的な〈障碍〉《しょうげ》滅砕の法である。天才的に研がれた域ではあるものの、自分で言ったとおり現実技の範疇だ。  疫病祓いの理に則って、技術ある者なら程度の差はあれ誰でも出来ることをやっているにすぎない。  だが、しかし彼女は知っている。この奇怪な躯から匂う邯鄲という外法の気配。それは本来、どれだけ鍛えようと生身の人間が対抗できる代物ではないのだと。ならばその真実を突き止めなければならない。 「貴様、何処の眷属だ。そもそも逆十字の遺体は丁重に埋葬されたと聞いている。こんな所で封印されたかのごとく、野晒し転がっているはずはない。  が、まったく無関係というわけでもないだろう。であれば……」  〈病〉《ヤミ》を切り払いながら突進し、ついに謎の死者へ一撃加えんと肉薄してから静乃は言った。 「そうか、貴様が〈緋衣〉《ひごろも》だな。  未だに病んでいるのか、辛いだろう」  そう、微かに憂色を滲ませて。 「いいよ――私が祓ってやる」  振り下ろす釵が躯を穿つ寸前、それは起こった。 「哀れんだね、私を」 「――――――ッ」  釵が、あと数センチで死者の眉間に届くはずの切っ先が動かない。  ぴくりとも、微塵たりとも、そこに見えない壁でもあるかのように。  夢と現実の境を分けるように。  瞠目する静乃の眼前で、躯が抱いていた謎の書物がゆらりと宙に浮かび上がった。同時、破壊的なまでに膨張していく恨みと嫉妬と怨嗟の奔流。  虚空にばらばらと〈解〉《ほど》けながら、闇に消えていく書物の頁と重なるかたちで声が響いた。 「許せない」  そして、今までとは比較にならない真の悪夢が訪れる。 「ぐッ、づあァッ――」  一見したところ、それは何も変わっていない。病を帯びた魑魅魍魎が突進してくるだけだったが、今回は弾き飛ばすことが出来なかった。正面からまともに食らい、腹の中心を貫かれた静乃は後ろへ吹っ飛ぶ。  加え、さらに致命的な相違はその直後に顕れた。 「……ッ、がはァッ」  後転しながら体勢を立て直し、膝立ちになった静乃はバケツ一杯近い血膿と胃液を吐いていた。病の穢れが桁違いになっており、しかもこれは祓えない。  どれだけ気を循環させ、生命力を掻き集めても腹の病根を掴めないのだ。  それは夢幻であるかのように、だが別階層の法理として深く心身に食い込んでいる。手に負えない。  喩えるなら、架空のキャラクターを現実に殴ろうとしているようなものだった。そんなことは不可能であり、どれだけ鍛えようが極めようがそうした次元の問題ではない。  しかし、〈向〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈は〉《 、》〈殴〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈る〉《 、》。  こちらは彼らを怒らせることも笑わせることも出来ないが、彼らはこちらの感情をいいように翻弄するという構図と同じ。それを極限まで高めた結果としてこれがある。  すなわち、静乃には何も出来ない。顕象された悪夢に対し、常人は八つ裂きにされるのみだろう。 「ちィ、――くそォ!」  だが、それでも彼女は折れなかった。無駄と分かっていながらも釵を揮い、必死の抵抗を試みる。 「胃かッ……まったく、文字通り腹立たしい。  だけどその程度で助かったよ。これが骨や神経の病なら、根性でどうにか出来るものじゃなかった」  呟き、立ち上がって構え直すと同時に咆哮する。 「痛いだけじゃあ私は〈殺〉《と》れんぞ――かかって来い死に損ないめ!」  今、彼女の胃は実に七割以上が癌化していた。加え転移は秒刻みで進行しており、普通は立ち上がるどころかまともに声を発することも出来はしない。  根性云々を言うのなら、すでに充分どうにかなるようなものではないのだ。にも関わらず依然として曇らぬ気概を目に湛え、まだ終わらんと眼前の脅威を〈睨〉《ね》め付けている。  もはや自分の死は覚悟したのか、そのまま背後を振り返らずに静乃は言った。 「私が時間を稼ぐから、せめて君らは逃げて出口を――」  探せ、とだが言い切る前に、彼女の横から怒声が重なる。 「馬鹿かおまえはァッ!」  襲い掛かる病魔の一体。それにあろうことか徒手空拳で殴り掛かり、案の定なんの意味もなく重篤に冒されながら、しかし崩れることなく顔を歪めて立つ少年がすぐ傍にいた。 「なに、言ってるのか……ワケ分からんと言ってるだろうがいつもいつもッ! 毎度、おまえに振り回されるほど、俺は学習しないアホじゃない!」 「えっ、や……―――はあっ?」  状況を鑑みればあまりにも不適切な、頓狂な声を静乃を漏らした。彼の行動こそまったくワケの分からないものであり、まさしく阿呆で馬鹿なのだが…… 「文句があるのか? 言ってみろ、ああッ?」  振り回されているのがどちらかと言えば、それは紛れもなく静乃だった。 「そうだぜ石神……教えてやっけど、ここで逃げるような奴は男って言わねえんだよ――覚えてろッ」  しかも混乱を与えてくるのは、四四八一人に留まらない。 「そういう言いかた、頭くるなあ……男女関係なくない? こういうのって」  一人、そしてまた一人と、死病の激痛を押し殺して立ち上がる。立ち上がって横に並ぶ。 「栄光の馬鹿はいつものことだし、馬鹿男はまあ……場合によっちゃあ可愛いけどよ」  それはどういう気概で、どういう勇気で、どういう強さなのだろう。単に我慢強いというだけの話ではない。 「馬鹿女は笑えないよ……知ってた、しーちゃん?」  彼らは事象の裏を知らない一般人だ。普通に生きてきた普通の価値観を持つ学生だ。 「ま、そこらへんのこたァどうでもいいわ。とにかくこいつらぶっ潰す!」  死の危険を知る理も、そこに立ち向かう技術も、教えられ鍛えられながら育ってはいない。 「文句あんの? ないでしょ? どうよッ!」  なのになぜ、自分でさえ絶望を感じる状況に雄々しく吼えることが出来るのだろう。あまつさえ希望を湧き上がらせたりするのだろう。 「君らは……」  ものを知らないがゆえの蛮勇と断ずるのは簡単だ。事実そういう面はあるだろうし、試しにじゃあどうすると質問すれば全員答えに窮するはず。  だが、しかしそうじゃないのだ。出来る出来ないを論ずるなら、この局面で立ち上がったことにこそ意味がある。  それが出来る者は滅多にいない。少なくともこの目で見るのは初めてだったし、以後容易く出てくるものでもないだろう。  まるで物語のヒーローみたいな。  ずっと憧れていた勇者みたいな。  それを匹夫と言うような、夢のない思考を静乃は持たない。  だって、感動しているのだから。  彼らこそ――  そうだ、間違いない彼らこそがと奮えた瞬間、〈夢〉《キセキ》は本当に舞い降りた。 「これは……」 「嘘、どうして……」 「光が……おい、なんだよいったい」  その場の八人、一人の例外もなく謎の発光現象に包まれていた。彼らの誰かが行ったものではなく、今の自力を遥かに上回る意志の干渉という面では病毒の侵攻と変わらない。  だが、これは明らかにそういった攻撃とは違うと分かる。  なぜなら、あれほど身を苛んでいた痛みが消えていくのだ。癒されていくと感じるのだ。  そこに害意はなく、ただ真摯に厳しく、そして優しく見守るような。  讃え、慈しみ鼓舞するような。  父のようで母のようで、兄のようで姉のようで。  さらには自分自身でもあるかのようで。  時代を超えた〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》が、そのとき八人に流れ込む。 「それは人を思いやり、〈標〉《しるべ》にならんとする仁の心」 「愛し、守り慈しむ。生を敬う義の心意気は普遍でかつ不変ならば」 「境界に礼を払うからこそ過たない。律する心は自己の誓いと共にあり」 「その真髄は慧眼に。あるがまま見通す覚悟をもって智の心を磨くがいい」 「なぜなら〈誰〉《た》がために己があるかを知る限り、忠の輝きに負けはなく――」 「偽りなく己の真をさらけ出せば、〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》に晴らせぬ闇は存在しない」 「よって孝心、継いで報いることを誇りとすれば俺は応える。いつだとて」 「我も人、彼も人。己があるからこそ忘れてはならない〈悌〉《キズナ》を守れ」 「それこそが――」 「仁義八行、如是畜生発菩提芯――  愛する我が子孫たちよ、この朔を切り払え」  祝福であり、激励であり、希望でもある究極域の夢がここに顕象した。 「眷属の許可を与える」 その瞬間、俺たちの身に起こったことの真実を正確に把握できた奴はきっと誰一人としていないだろう。 だがそれでも、確かなことは存在した。疑うことなく、心から信じられる真はただ一つ。 「行くぞおまえらァッ!」 「―――応ッ!」 勝てる――この程度の奴に負けなどしない。今、そのための力を貰ったのだと理解したんだ。 まさにそこから先は一気呵成。意識レベルの同調すら可能なのだと実感する俺たち八人の連撃は、群がる病の魔障を木っ端微塵に粉砕していく。 拳が、剣が、帯が旋棍が蹴りが銃が薙刀が――そして釵が乱れ舞う吹雪のように撃滅の鳳仙花を咲かせ続ける。 石神を除いた俺たち全員、せいぜい鳴滝を例外にしてもほぼすべてが初の実戦である事実なんて関係なかった。それどころか自分も含め、これまで触ったこともない武器を手にした奴さえ数人いる。 にも関わらず、扱いに窮することはまったくない。高速で頭に浮かび全身を走り抜ける戦術論と技術と勘――歴戦の兵に憑依されているかのような感覚が、俺たちに戦の真を叩き込んでいるのだから。 「――凄ぇ」 「これが――」 「ああ、分かるよ」 それは紛れもない遺産だった。俺たちの血に刻まれた英雄の因子。その覚醒。 「おばあちゃん、天才っ」 「似てる似てるたァ言われてきたが」 「ここまでくると笑っちゃうわよ!」 すなわち今、曽祖父母の研鑽が俺たちの身に宿っている――! 「ふふっ、あははは……」 まだ終わってないのに気を緩めるな――そんな叱責を受けた気がしたけど無理だよ爺さん、嬉しいんだよ勘弁してくれ。 俺らはあんた達ほど大人じゃないし、いわゆる現代っ子というやつだからノリも軽く色々甘い。 だけど、何が大事なのかはよく知っているつもりだよ。 見込んで誇りを継がせてくれたこの事実に、奮えるほどの感謝と感動を覚えているんだ! 「これはまた、実に文化祭が楽しみだな四四八くん」 「ああ、本当に――」 もはや病魔の群れは蹴散らした。よって決めるはあと一撃。 「そうだよ、なあァッ!」 丸裸となった元凶のミイラに向けて、俺は渾身の〈止〉《とど》めをぶちかましていた。 声ではない断末魔を響かせながら死者は崩れ、そのまま塵となり消えていく。 そして…… 「あー、ねえみんな見て見てあれっ!」 ミイラが背を預けていた壁面が剥がれ落ち、その奥に新たなトンネルが出現していた。 「風……それに緑の匂い。間違いない、出口だぞ!」 「おおっしゃあッ! どんなもんだよ、やったぜおい!」 「ちょっ、それもだけどあれだよあれ! 見ろってほら、ノブだノブ! おいこらノブー!」 「こっちも無事だったか……ちくしょう、心配かけやがってよぉ」 「まったくだ」 不幸も幸運も重なるときは重なるもので、俺たちが来たのとは反対側の通路から信明がふらふらと現れていた。 本当に、ああ本当によかったよ。やはり状況を動かすのはあくまで人だ。自分らしさを失わず、信じて突き進めば十全以上の結果を出せる。奇跡と呼ばれるものだって例外じゃない。 「四四八さん、皆さん、それに……」 「ちょっと信明ィ――! あんたほんとにどれだけみんなが心配したと思ってんのよォ!」 「て、わっ――ごめん! ごめんって姉さん、謝るから殴んないでっ」 「ま、今は観念しなさい。愛の鞭ってやつよ、嬉しいでしょ?」 「でも、そんな――姉さんの愛ってときどき、ヘンな感じにズレるんですよ、知ってるでしょっ」 「うーん、それは確かにそうかもだねえ」 「妙なところで思い込み〈激〉《はっげ》しいもんな、水希」 「はああっ? なんなのそれ、歩美と大杉くんみたいなのには言われたくないですぅー」 「いや、わりと全員の総意なんだが」 「うん」 「確かに」 「かァーーーー、ちょっと柊くんっ、どうなのこれっ?」 こっち見んな。俺に落ちを求めるな。 「……まあその、ブラコンもほどほどにな世良」 「はは、ははははは……」 「むきぃー! だからあんたが笑ってんじゃないわよ信明ィ!」 そうして追いかけっこが始まった。そんないつも通りの光景を眺めながらも、俺は傍らのもう一人に向けた意識を離せない。 「大丈夫。言いたいことは分かってるよ」 それにこいつは、苦く笑いながら頷いた。 「こうなったからにはすべて話そう。私が知っていることを、全部」 「だけど四四八くん、今はまだ……」 「そうだな」 今夜、生まれて初めて体験した数多の異常を乗り切ったこと……その安堵に、もう少しの間は身を委ねていたいと思う。 なぜならきっと、先の局面など比較にならない災厄が、これからも数々と俺たちを待っている。 そう確信せざるを得ない気持ちが、俺の胸には生まれていたんだ。 「では、そういうことで俺は行く。留守の間はおまえたちの好きにしていろ」  いつもどおり突き放すようにそう言って、柊聖十郎は見送りにきた彼の妻と友人に向き直った。 「はい、いってらっしゃい聖十郎さん。お帰りを待ってますね」 「後のことは任せておけ、セージ。それから、土産を期待してるぞ」 「馬鹿が、なぜ俺がそんなことをしなくてはならん。  土産など期待している暇があったら、このチンケな蕎麦屋を潰さんように腐心していろ」  およそ身も蓋もない言い草であり、吐き捨てるような口調も相まって傍目には喧嘩を売っているとしか思えない。実際、聖十郎は本音を口にしているのだから、彼の台詞には言葉どおりの意味しかなかった。  この男は常にこうで、それはこれから先も変わらない。よってまともな人間関係など構築できるはずもないのだが、唯一の例外は目の前の二人だった。 「あらあら、聖十郎さんが心配してくれましたよ剛蔵さん。これはますますお店を盛り上げないといけませんね」 「そうですな、はっはっは! いやあ気を遣わせてすまんなセージ。だが大丈夫だよ。おまえの帰ってくる場所は俺がしっかり守ってみせるさ」 「そういう、ことを言っているのではなく……」  どうしてこの馬鹿どもはこうもお目出度いのだろう。聖十郎の頭脳をしても、それは解けない永遠の謎だった。  もっとも、そういう日常を彼が半ば受け入れているのも事実なのだが。  邪魔で仕方ないものの、いなければいないで調子が狂う。柊聖十郎に絡み続けられる者などそうは見当たらないのだから、それがどういう印象のものであってもすでに彼の一部である。  つまり、尻尾が生えたようなものかと勝手に聖十郎は思っていた。役に立たないし不要だが、切り取るとなれば痛みを伴う。  ならばやむなし。くっついているのを許してやろうと、彼の価値観では寛大にも許容してやることにしていた。 「それで、いったいどれくらい向こうにいる予定なんだ?」 「正直、読めんな。早ければ一月というところだろうが。  この際だ、柊四四八の足跡を追ってみるのもいい。その場合、甘く見ても一年は掛かるだろうな」 「そうか……それはまた、寂しくなるな。身体には気を付けろよ」 「何か面白いことが分かったら連絡してくださいね。だってほら、四四八たちが曽お祖父さんの劇をするんだって言ってたし。きっと喜ぶと思いますよ」 「馬鹿馬鹿しい。餓鬼の遊びなどと一緒にするな、俺はもう行く」  言って、踵を返した聖十郎は、しかし駅と反対側に足を向けた。 「おいセージ、なんだおまえ、何処へ行くんだ?」 「駅ならあっちですよ聖十郎さん」 「そんなことは言われずとも分かっている」  振り返りもせずに告げる聖十郎だが、背中に注がれる視線が鬱陶しくなったのか、苛立だしげに付け加えた。 「八幡だ。そこで人と会う約束をしている」 「おまえたちがついてくる必要はない。ではな恵理子、それに剛蔵」 「はーい。だったらその人にもよろしく言っておいてくださーい」 「なるべく早く帰ってこいよー」  声に背で鷹揚に応えつつ、聖十郎は夜の八幡宮へと歩き始めた。  そして…… 「ああ、俺だ。今から上海に発つ。馬鹿を言うなよ、貴様の駒になったつもりはない」  境内に足を踏み入れた聖十郎は、歩きながら携帯電話を使って何者かと話していた。 「俺は俺で独自の情報網があるんだよ。こちらのことは貴様の娘に任せるさ、俺の愚息が何かの役に立つかは知らんがな」 「ともかく静摩、貴様の占いとやらの精度は知らんが、上海に凶源がある率はかなり高いと俺は見ている。仏罰を下せと仏が糾弾しているんだよ。  ニュースなどにはなっておらんが、あれは中々の見物だぞ。高徳院の如来像。円応寺の閻魔像。長谷寺の十一面観音に八幡宮の初江王。  鎌倉中の仏という仏がな、睨み、指差し、弾劾しているのさ、その方角を。  〈禍〉《わざわい》、彼の地にあり――討てとな」  聖十郎が言っていることの真偽はこの場で量れない。だがキリストやマリア像が血の涙を流すといった現象は、過去に幾度か記録されていることである。  ならば仏像にも同様の奇跡が起こったところで、なんら不思議はないだろう。少なくとも、聖十郎に冗談を言っている様子はなかった。 「もちろん、意味など俺は知らん。貴様もだろう? 爺ィどもは肝心なところを闇に葬ってしまったからな。  まったくお陰で面倒だ。年寄りの尻拭いほど萎えるものは早々あるまい。手に負えぬ禍根を後に残したなら、せめて情報くらい継がせておけという話だ。  ふん、ああ分かっているとも。それが危険だというのだろう? だが理屈で納得できるなら、世の中もういくらか単純だ。俺も貴様などとつるんでおらんし、朔がどうだのと他人事で通しただろう」 「だがそうもいかん以上、出来ることをやるしかあるまい。もう切るぞ、人を待たしている。  そうだよ、あちらは邯鄲発祥の地だからな。如何に失伝したといっても、言い伝えくらいは残っているはず。そこで俺のような者が嗅ぎ回れば、どんな網に嵌るか分からん。  だから話を通しておくのさ。〈幇〉《ぱん》の人間に仁義を切れば、いくらか融通も効くだろう。そういうことだ。  ではな静摩。互いに命があれば、また会おう」  そう言い置いて、聖十郎は通話を切った。 「……さて」  顔を上げ、気を切り替えると待ち合わせの場所へと歩を進める。先ほど電話の相手に言った通り、横浜の華僑を通じてコンタクトを取ったあちらの黒社会に住まう人間と会わねばならない。  学者稼業もお上品な綺麗事だけではすまないものだ。特に民俗学や考古学の世界では、その土地や集団が持つ暗部に触れることも往々にしてあるのだから、甚だしいときは命を狙われる場合もある。  よってその都度交渉は基本であり、それを円滑に回すためには闇の人脈も必須だった。そういう意味で、これは特別珍しいものでもない。常識として警戒は怠らないが、慣れと性格もあっていたずらに不安や緊張は抱いてなかった。  源氏池を渡った先にある弁財天社……指定された地に赴いた聖十郎は、まだ相手が来ていないことを悟って忌々しげに舌打ちする。まったく、時間厳守はどんな社会であろうと基本と言えることだろうに。 「しかも、よりによってこことはな」  加え、腹の立つ理由はそれだけではなかった。〈弁財天社〉《ここ》は彼にとって、ある種特別な場所でもあったから。 「三十五年……もうそれくらいにはなるのか」  まだ少年だった自分が、鎌倉に越してきた日のことを思い出す。彼の父は定住場所を持たず、全国を飛び回っていた男だから、幼い聖十郎は故郷というもの持たなかった。  そんな日々が終わりを迎えたのがおよそ今から三十五年前。父にとって鎌倉はそのまた父の……つまり柊四四八の生まれた地なので帰還を意味していたのだろうが、聖十郎にとってはそれまでとなんら変わらない見知らぬ土地への移住でしかない。  だから当時は、特に感慨など持ってなかった。ここが我が一族の故郷である、などと言われたところで現実味を抱けるはずもなく、会わせたい人たちがいるとこの弁財天社へ連れてこられたときは面倒臭さしか覚えなかった。  しかし。  ほどなく彼は実感する。理屈ではない、魂の繋がりとでも言うべきものがこの世に存在することを。 「真奈瀬、晶……ふん、まったく騒がしい婆ァだったな」  顔を見たこともない祖父の友人。その子、そしてその孫たち。  なかでも当時はまだ存命だった真奈瀬晶を前にしたとき、聖十郎は曰く言い難い戸惑いに包まれたのだ。  特別何かをされたというわけではない。挨拶一つしない自分を叱りつけ、剛蔵やその他、自分と同じ立場の少年少女らと遊ぶように仕向けられ、それに癇癪を起こして全員泣かせてやったら、やはりまた叱られただけ。  やかましかったし、邪魔臭かったし、苛々させるし鬱陶しかった。  しかし、同時に悟ったのだ。この老婆には勝てない。  子供らしからぬ憎まれ口を散々叩き、子供らしいプライドでねじ伏せてやると挑んだが、真奈瀬晶は呆れたように微笑んでいた。そして嫌がる自分をこれまた無視して抱きしめた。  まるで、とても懐かしい何かへ対するように。大丈夫だ、守ってやると言うかのように。  あのとき感じた温もりには、未だもって勝てる気がしない。聖十郎が唯一兜を脱いだ相手こそ彼女であり、だから〈晶〉《あれ》とよく似た剛蔵は苦手である。  それは恵理子も同じであり、彼女と出会ったのも何の因果か〈弁財天社〉《ここ》だった。  ゆえに柊聖十郎という男にとってこの地は敗北の象徴であり、同時に侵したくない聖域だった。  己のもっとも弱い部分を想起させる、だが不快ではない守るべき場所。忘れられない記憶の眠る地。  つまらない感傷と言えばそれまでだが、彼のような男にもそんな心の特別はある。能天気な平和人どもの世界は優秀な自分が守ってやらねばならないし、それこそが自分を負かした彼女へ果たす義理と務めだと思うからだ。  ここは闇に片足を突っ込んだ己のような男が暗躍していい場所ではない。  幇会の情報網ならそうした背景を洗い出した上で、ここを指定した可能性が多分にあり得る。  ならば知らしめなければならないだろう。事を荒立てるつもりはないが、上下を分からせるのに暴力など要らない。  以後のためにも、あえてこの地で会うのを了承したのはそういうことだ。  くだらん揺さぶりで柊聖十郎の風上に立つことも、首輪をかけることも出来はしないと悟ってもらおう。  そう思い、ようやくやって来たらしい背後からの気配に振り向いて―― 「遅かったな。俺は――」  瞬間、夜に渇いた破裂音が木霊した。 「なッ、にィ――」  最初に感じたのは、腹腔を抉る唐突な衝撃と熱だった。次いで、そこから激痛が全身を走り抜ける。  撃たれた。そう認識したときには、すでに腹から大量の血が噴出していた。堪らず地に膝をつきながら、しかし聖十郎には事態が解せない。  幇会の刺客? 馬鹿な、そんなことは有り得ない。現段階で自分を殺さなくてはならない理由など向こうにはなく、仮にあったとしても〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  邯鄲とそこにまつわる諸々は、闇ですらない夢の歴史だ。いま生きている者の中にその真実を知っている者は一人も存在しないはずで、事実、自分や静摩でさえも全貌は分からないのに。  柊四四八たちが徹底して隠滅した“何か”の正体を、いったい何処の誰が知るというのだ。  押し寄せる疑問と苦痛に呻きながら、顔をあげる聖十郎。  そこには、その“誰か”が現れていた。  弁財天社へと続く橋の上、小柄な少女が無言のまま立っている。  外見から窺える年齢は、聖十郎の息子たちと変わらない。千信館の制服に身を包み、握った銃から硝煙を立ち昇らせながらそこに在った。  年輪を無視した謎の威厳。隙の無い気配は凍結した鋼のようで、顔立ちは整っているが非人間的なほど温かみというものを感じない。  酷薄で、冷厳で、威圧的な気配ながら、なぜか幽鬼のように不確かな存在感をも滲ませている。  ここに居て、ここに居ないような。固体のようで、気体のような。  咄嗟に幻影かとすら疑ったが、直感的に違うと分かる。  これがこの少女の特徴なのだ。常人とは掛け離れた何かをその身に巣食わせている。もはや何をしても手遅れなほど、壊滅的に汚染され尽くしている。  それはすべてを不安にさせるような。  近づけばまともじゃいられなくなるような。  奇怪なアンバランスさを秘めた美少女。彼女はただそこにいるだけで、周りの世界へ破壊を促す不協和音に満ちていた。まるで壊れたまま完成した存在だから、見る者に自分もそうあることが自然なのだと勘違いさせるような……  健常であることの自負を、捻じ曲げる少女。  もはや幇会の刺客であるはずがないのは明白だった。これはそんなものなど及びもつかぬ何かであり、本来の待ち人は彼女に消されたのだと理解する。  薄い、一切の血色を欠いた唇がそれを肯定するかのごとく蠢いた。 「ねえ、痛い?」  淡々と、だが滴る猛毒を込めて嘲るように。 「痛いの? これが? こんなものが?  泣いちゃうの? ねえ、私のヒーロー」 「ぐッ、がァッ―――」  まるで虫でも潰すように、少女の銃が再び火を噴く。吐き出された凶弾は聖十郎の右手を抉り、さらなる灼熱を与えてくるがそれだけに留まらない。 「格好いいところを見せてよ、ヒーロー」  そこから先は目を覆うような拷問だった。少女は巧妙に急所を避けつつ、だが痛点が集中する部位を悪魔の正確さで撃ち抜き続ける。  瞬く間に弾装の中身を使いきり、まだ飽き足らぬと込め直して連続させる雨霰。ようやく一息ついた頃、聖十郎の全身は血塗れの〈襤褸〉《ぼろ》同然と化していた。 「いい様ね。少し、本当に少しだけど気が晴れた」  先の銃撃は少女にとって重労働だったのか、荒く肩を上下させながら気息を整え、言葉を継ぐ。 「ええ、分かってる。あなたは彼なんかじゃないってことくらい。  よく似た顔で? 名前も同じで? だけど結局はそれだけの? 単なる別人? 一緒なんかじゃない? あははははっ!  でもね……見るに耐えないのよ、なんて堕落。そんな柊聖十郎は冒涜だわ、認めないから。だって羨ましいじゃない。  どうしてあなた達はそんななの? どうして私はこんななの? 理不尽じゃない、羨ましいのよ。誰が決めたの、許せない!  答えろ、答えろ、――答えろおおおぉぉォォォオ!」  自分の言葉に激昂し、少女は憤怒を爆発させる。その激情は世界すべてに向けられおり、空を掻き毟る咆哮となって弁財天社を震撼させた。  狂っている。  瀕死の聖十郎が抱いた印象はそれであり、事実彼女は壊れていた。  ならばこそ、この極限下でも回転をやめない男の頭脳は、その正体に当たりをつけることに成功する。 「なるほど……貴様、緋衣か。血を繋いでいたとはな、驚いたよ、屑め。  クソ爺ィども、詰めが甘すぎるにもほどがあるだろう。汚物は根から焼却せねば、際限なく湧いてくるというのにな」 「ええ、本当にね」  死に際にあっても衰えを知らない聖十郎の舌鋒に、緋衣南天はむしろ喜びの相を浮かべて頷いた。 「貴様が、朔か?」 「そうね、きっと」 「では、何を目指す?」 「愚問ね、分かってるでしょヒーロー」  そう、聖十郎にも分かっている。南天の右手にある銃など問題にならないほど、その左手には禍々しいものが握られていることを。  だから、なおさら問わずにはいられないのだ。 「今さら、邯鄲を復活させたところで何になる? どれだけ場を整えようが、盧生がいなければ夢は夢だ。アラヤを掴める者など、もういない。  まさか、貴様がなるとでも? 笑わせるなよ、逆十字はなんの教訓も得ておらんのか……!」  糾弾するように、震える指を突きつけて聖十郎は喝破した。 「盧生は、三人で打ち止めだ。貴様はなれんし、新たに生まれることもない。弁えろ、穢れた元凶の直系がッ!」  その全身全霊を込めた指摘に、しかし少女は一切揺るがず―― 「ふふっ、ふふふふ……はははははははは」  花が綻ぶような無邪気さで、毒々しく笑っていた。弁えるのはそちらのほうだと言うかのごとく。 「盧生は三人。もういない。ええ、ええ。分かっているわよ。もちろん私がなれるはずなんかないってことも。  甘粕正彦。柊四四八。クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。  魔王と、英雄と、死神でしょう? 全員、格好いい勇者よね。馬鹿で、ひたむきで、愛の戦士で……うふふはははははははは!」  今、目の前で笑い続ける少女の闇が、その源泉が見据えている事象が何処にあるのか聖十郎には掴めなかった。そもそも第三の盧生である〈死神〉《ヘルヘイム》を勇者などと表現するのが理解できない。  如何に南天が壊れていようと、塵は塵で花は花だ。形容として不適切なものを使うはずがないだろうし、〈第一〉《あまかす》や〈第二〉《よしや》と並べて語るわけもない。  そう、少なくとも自分たちが聞いていた限りにおいては…… 「――まさか」  最悪の答えに辿り着き、聖十郎は瞠目する。曰く年寄りたちが隠滅し、事実を曲げて子孫の記憶からすら抹消しようとしたものとは、もしや…… 「最後に、これからあなたがどうなるかだけ教えてあげる」  そんな予想ごと切って捨てるかのように、南天は再度銃口を聖十郎に突きつけた。 「昔、とても強い人がいた。彼は病んで、削れて、蝕まれて……それでも生きようと足掻き続けた。すべてを敵に回してでも、生きるために戦ったのよ」 「その記憶は残っている。彼の犠牲者たちが知っている。アラヤの海に、普遍の渦に。  彼は天国になんか堕ちたりしない。相応しい〈地獄〉《セカイ》で、相応しい〈邪悪〉《スガタ》で、相応しい〈死病〉《ヤミ》の〈廃神〉《タタリ》として私が必ず喚び覚ます――皆に思い出させてやる。  彼がこの世界に残した爪痕を、消したりなんかさせない!」  だから、と、泣き笑うような声で別れを告げた。 「あなた、私のヒーローの受け皿になってよ」  そうして、夜に渇いた破裂音が木霊した。  放たれた銃弾は聖十郎の眉間を穿ち、後頭部から脳と骨片を飛び散らせながら貫通する。ここに彼は、自らが聖地と定めたこの場所で、妻子や友らの与り知らぬ状況のまま死んだのだった。 「はは、ふふふふ……」  それを見届け、緋衣南天は誰にともなく独りごちる。  陰々と、滅々と、逆さ磔に生贄を吊るしながら。 「役に立ってよ……私は強い。私は強い。私以上のものなんかこの世にいない。世界のほうが間違ってる。  間違ってるのよ。私だけがこんなだなんて。あなた達ごときがそんなだなんて、有り得ないから」  逆流する腐った血反吐を飲み下して、呪怨の言葉を口にした。 「それが羨ましいのよ。許せない」  だから、少女の〈絶望〉《ユメ》は奏でられる。“ソレ”の玉座に響き渡る。  何処とも知れぬ海の底。あるいは天空。もしくは深淵。無限の中核に棲む原初にして沸騰する渾沌の阿頼耶識は、暗愚なる実体を揺らめかして無明の房室にさざめく音色を愛でていた。  〈王〉《ソレ》は今も眠っている。  自らを讃える冒涜の言辞は絶えずふつふつと膨れあがり、下劣な太鼓と呪われたフルートの連打さながら、あまりにも愚かしすぎる人のユメとはなんたる愛しさであることかと、彼の無聊を慰めている。  おまえたちは盲目だ。等しく何も見ていない。  他者も、世界も、夢も、現も、いつも真実とはおまえたちそれぞれの中にしかないのだろう? 見たいものしか見ないのだろう?  〈愛〉《う》い、〈愛〉《う》い。実に素晴らしい。  その桃源郷こそ絶対だ。その否定こそ幸福だ。おまえたちが気持ちよく嵌れるのなら〈己〉《おれ》は何も望まない。〈玉座〉《ここ》に夢を描いてくれ。  因果? 知らんよどうでもいい。  理屈? よせよせ興が削げる。  人格? 関係ないだろうそんなもの。  善悪? それを決めるのは〈己〉《おまえ》だけだ。  おまえの世界はおまえの形に閉じている。  ならば己が真のみを求めて〈痴〉《し》れろよ、悦楽の〈詩〉《ウタ》を紡いでくれ。  ここは太極より両儀に分かれて四象に広がる万仙の陣。  無窮にして普遍である。ゆえに限界など存在しない。  さあ、 さあ、 さあ、奏でろ―― 痴れた音色を聴かせてくれ。  〈己〉《おれ》はそれに抱かれて眠る。輝ける未来よ、降り注ぐ夢を見たい。  そう願う〈無意識〉《アラヤ》こそ、〈己〉《おれ》がおまえに捧げる人間賛歌の顕象ならば。 「緋衣さん……?」  盧生? おまえがそう思うのならそうなのだろうよ。  おまえの中ではな。それがすべてだ。 「柊四四八が、夢界八層を越えた条件はなんだったのか思い出しなさいよ。ここに私がいる意味も…… まったく、本当、どいつもこいつも……」  朔とは暗夜。目に見える真実など何もない。  そう、無いというのに。 「馬っ鹿じゃないの」  いったい何を鵜呑みにしている。  愛いぞおまえら、〈永遠〉《とこしえ》に踊れ。 出会いと共に時は流れ、季節もまた過ぎ去っていく。 春に起きた諸々も記憶の一部となった今日この頃、学期末のテストと共に学業もまた区切りを迎えて夏休みへ突入した。 無論のこと、成績不振で補習授業をくらった奴はめでたくゼロ。昨年までとは違いポンコツ野生児が一人増えはしたものの、俺や世良の徹底した〈指導〉《しごき》により全員欠けることなく赤点回避に成功していた。 とはいえ今回は、勉強以前にまず脱走する石神を捕獲するべく何度も鎌倉中を舞台にした鬼ごっこが発生したのは頭の痛い展開だったが──まあ、ともあれ。 終わり良ければすべて良しとはいかないものの、最後は一致団結して堂々と自由な時間を勝ち取ったのは間違いないから、今は学生の特権として青春の思い出作りに勤しもう。 長らく入院していた親父も、母さんや剛蔵さんの献身的な介護により近々退院の目途も立ってきたということで。 燦々と照り付ける太陽に照らされながら、俺たちは気兼ねなく湘南の浜辺へと遊びに来たのだった。 「しゃらぁッ、りんちゃんが育てていたカルビ──フィィッシュ! ん~、うまうま。あ、ついでにこれとこれとこれとこれもっと」 「ちょっ、おま、それオレの焼いてたソーセージッ!?」 「わ、私のトウモロコシまで」 「ていうか、野菜だけこっちの皿に放り込むなっつうの」 「おおっと残念、掴んだブツを見るがいい。ふふ……本命のハラミはこちら」 「こ、これはピーマン! あの一瞬で、いつの間に……!」 「いつの間に──じゃねえっつうの! それも、私の、お肉でしょうがッ! なにしれっと掠め取ってんのよあんたらはァァッ!」 「もきゅもきゅ、ぷはー。ごっちゃんです」 「くきぃぁぁぁああああああッ! 憎い、憎いわ、あれだけ大切にじっくり中まで炙ってあげたウェルダンちゃんがァァ……グギギギギギ」 「──この、泥棒猫めッ!」 「意味が解らん」 「あの、皆さん、そろそろ少しは野菜にも愛を注いであげられたらと、思うのですが……」 「好きにさせときゃいいだろうよ。それよりノブ、おまえのシイタケもう焼けてるぞ」 ……そして現在、バーベキューと言う名の仁義無き争奪戦がハイテンションに行われていた。主に肉を絶対視する馬鹿者たちの手によって。 乱れる箸に阿鼻叫喚と怒号の中、弱肉強食というルールのもと蹂躙される網の上は実に混沌とした様相を呈している。最初は和気あいあいとしていたはずが、誰の肉を食った食わない言ってる内に気づけば自然とこうなった。 熱気の楽園というべき状況はサバトもかくやの乱痴気騒ぎへ発展して、このように、もはや止まる様子もないらしい。 虎視眈々と互いの獲物を狙いあう修羅場の空気を感じながら、文字通り食い物にされる我堂を尻目に、すかさず俺は隣で佇む男二人にアイコンタクト。 静かに頷き合った信明と鳴滝で三人用のテリトリーを形成し、こうして一歩引いた位置から自分たち用の肉を相互に守り、静かに箸を進めていた。 「今日は皆さま一段と愉快な様子で」 「まあこの熱さですから、直射日光でやられているんでしょう。色々と」 主に何処がと言わないのは、野澤にとっておそらく最後の慈悲なのだろう。流石にフォローの一つもしたいのだが……ハイエナのように肉を貪るあいつらを見て、なんとも言えない気分になった。 「ただそれでも、わたくし達の方をなぜ、狙ってくれはしないのでしょう。少し寂しくありませんか?」 「同じ釜ではありませんが、対等の条件で食料を奪い合うのもまた青春。ああ、なんて楽しそうに互いの成果を略奪しあっているのでしょうか」 「本気でぶつかり合える関係、素晴らしいものですね」 「躊躇なく目つぶしを放ち始めたのを見て、その台詞は若干どうかと思いますが」 「けどそれもまた、ある種の無遠慮さというか、気安い間柄の証明には繋がりませんか? 傍から見れば危なげでも、当人同士の間ではじゃれ合いということだって世の中には多いはず」 「彼だから、彼女だから、これぐらいやったとしても大丈夫という信頼感。それは当然アリでしょう」 「つまり羨ましいと」 「ええとっても。路傍の石でも高嶺の花でも特別扱いされるのは、わたくし嬉しくありません」 「わたくしのお肉も、どなたか乱暴に手を付けてはくれないかしら。ねえ、淳士さん」 「……だから、どうして俺に聞くんだよ」 そりゃあおまえ言うまでもないだろうが──と、野暮なことを口にはしない。百合香さんがあからさまに流し目を送る先では、かなり居心地悪そうに鳴滝が視線をさ迷わせていた。 「混ざりたいなら勝手に混ざればいいだろうが。気兼ねされたくないのなら、それこそ余計に了承なんて一々取るな」 「って、オイ待て。どうして俺の方に来るんだあんたは……」 「はい淳士さん、お肉をどうぞ。あーん」 「だからいらねえっつってんだろ! つうか前もやったぞ、このやり取り」 「あら嬉しい、覚えていてくださったのね。あまりの喜びにわたくし、タレをたっぷり絡めてあげたい気分です」 「やっぱり男らしい方は濃い味に限りますよね。ではもう一度、あーん」 「頼んでねえよ!」 「四四八さん。あれ、天然でやっているんでしょうか?」 「少なくとも鳴滝の方は完全無欠に素の対応だな」 分かるか、信明。だからこそため息を吐きたくなるのはあいつの方で、げんなりするのが百合香さんの方なんだ。結論としてどちらも疲れる。 なのに放置すると今度はおそらくすれ違うので早々目を離せない、何とも困る関係だったが…… 「それでも以前と比べればどちらも進展した方なんだぞ。少なくとも〈片〉《 、》〈側〉《 、》が自覚したのは大きな違いだ」 「現にあいつ、素っ気ないのは同じだが今も逃げていないだろう? 面倒だからと投げ出すことを封じてる。百合香さんの対応が上手になったというのもあるが、受ける側もそれなりに根気強くなっているのさ」 「もっとも、我慢強くなったことのきっかけが彼女自身に対してではないというのが鳴滝らしい部分だが」 「ああ、幽雫先生の」 そう、相手の保護者から自分は彼女を任されたという大きな事実と、そこに対して見せるべき確かな誠意というやつだ。 もちろん、そこまで自覚しているかはさておいて、真摯な気持ちで向き合うための大きな一助となったことはきっと間違いないのだろう。 「要はその辺、頭の中がガキ大将のままなのよ。精神年齢低いんだから」 「鳴滝くんも、鈴子にだけは言われたくないと思うなぁ」 「あたしとしちゃあ、皆それぞれ色んな部分がお互い様だと思うぜ。たぶん」 「そこについては同感かな。あ、でもなんか思ったよりいい感じだね」 などとぞろぞろ、気づけば集まる女たち。やはりこういう話題に関しては食欲よりも野次馬根性が勝ったのだろう、同意の声が次々あがる。 争奪戦での戦利品を口にしつつ、俺たちと同じように遠巻きで二人のやり取りを観察していた。 「うむ、しかしあれだな。品のいいお嬢様が肉、肉と連呼しながら筋骨隆々の男に迫る光景は中々にこう……淫猥なものを感じさせてくれるじゃないか。実にそそる」 「これはもしや、淳士くんの備えた魔羅もひょっとしたらひょっとするかもしれないのでは? もしやここで事に及ぶつもりというなら、私としては二人の行為を守るべく目撃者の意識を次から次へ闇へ葬り去っていくのもやぶさかではない心境なのだが」 「さあ、百年の想いと共に耽れよ淫行。国家権力なんのその、二人の〈愛〉《ユメ》は邪魔させん──迦楼羅ナメんな」 「と、滾る使命感が今にも爆発しそうなのだが……どうしようか四四八くん」 「おまえ黙れ」 そしてここに馬鹿が一人。どうやらまだ矯正が足りなかったらしく、目を輝かせて二人のやり取りをまじまじ見つめる石神に俺は頭痛が止まらない。 まさにこれぞ百年越しの大願である、奇跡である、夢なのだと言わんばかりの目を輝かせる奴があるか。妄想の翼を広げ、アホな感動をするこいつの頭を俺はすかさずボールのように手で掴み、圧を一気に加えてやった。 みしみしと軋むような音が響く。ああもう、いっそ潰れてしまえ、この空っぽな脳天ごと。 「あいた、いたたたたたたぁ~~──ッ! な、何をするんだ四四八くん。ええいなぜだ、血迷ったか! 私はなぁ、皆がやっと求めて望んだ展開をこの手でしかと守るという、崇高な使命があるのだぞッ」 「因果も理屈も人格も、通った上で善悪もある。原典で結ばれるならそれでよかろう最高だ。ならばいっそ、盛るに致す、大歓迎ではなかろうか?」 「よってここで生暖かく二人の逢瀬を見守りながら、その成就を見届けてフィニッシュと共に万歳三唱を送りつつ、事のつぶさを後世の記録に残すことこそ、神祇省の末裔として私の継いだお役目なのだと確信するのは当然だろう」 「うん、私、間違ってない」 「ならば到達した結論にいったい何の不足があるのか。祖の遺志を子孫が遂げる……誰にはばかるというのだ、ええ」 「公序良俗にはばかるわ! よーし、よく分かった。どうやら俺の対応は甚だ温いものであったらしい」 「今日から毎日、六法全書を丸暗記させてやるから覚悟しろ」 「ひ、ひぃッ!? 駄目、やだ、それだけは無理壊れちゃうぅぅ」 安心しろ、人間なんとでもなる。突きつけた宣言に石神は水槽から飛び出した金魚のように暴れていたが、やがて観念したのかぐったりと砂浜に膝をついた。 「ぬぐぅ……四四八くんがロマンを解さない件について。もとい、皆がちゃんと求める夢をガン無視している気がするぞ」 「何だそれは。ぶつくさ言うな。別にあいつらを応援するなと言っていない、常識的な倫理を持てということだ」 「ただ、ロマンという点は少しわかる気がしますけどね」 「身分、気質、それらが違う相手同士、ゆえに生まれる縁というのは文学的に昔から需要のある組み合わせかと」 「ヤンキー漫画や青春ドラマの鉄板だよな」 「あれはもう手垢のついたベタって言うのよ、ほら──」 「ところで最近バイトの方はどのような? 一人でも任せてもらえる時間が増えたと聞きましたが、四四八さんのフォロー無しにしっかり今後もできそうですか?」 「人手と愛想が足らないようなら、どうかいつでも一報を。不肖ながらこのわたくしが足らない部分を補うべく尽力したいと思うのですが」 「要らねえよ。たまに来るあの先公とか、馴染みの客なら問題ねえ」 「つまり課題は一見さんと」 「後は、別の店でもう飲んできた酔っぱらいだな。気が大きくなっているから俺がどれだけそっぽ向いても絡んで来やがる。タチ悪い」 「だからといって殴るわけにはいかねえし、刺激を与えて吐くわ騒ぐわされる方が面倒だから最近は仕方なく付き合うことも増えたがな」 「ふふ、なるほど。だからでしょうか。最近の淳士さんはとても我慢強くなりましたよね」 「今もこうして、素っ気なくもわたくしに構ってくれているわけですし」 「……違えよ。いつまでも柊に頼りっぱなしは、俺としても御免なだけだ」 「ええ、ええ、分かっていますとも。男と男の友情ですよね、意地なんですよね。素晴らしいわとても素敵。思わず胸が高鳴ります」 「やはりわたしくし、今後も淳士さんから目を離すことができそうにありませんわ。どうか今後とも、よろしくお願いいたしますね」 「マジかよ……」 「うおぉ、すっげぇド直球じゃん。攻めるねえ」 「自覚の有無が効いてるよね。個人的には、このままなし崩しルートに三千円って心境かな」 「ならば私は年内入籍ルートに今月のお小遣いと、買い置きのシャリシャリくんをベットで」 「土壇場でヘタレるに通帳と判子を賭けるわ」 「素直に祝福してやれよ」 だが確かに、あれでは年貢の納め時も近いだろう。アプローチをかけるのに迷いがなくなっている側が、受け身の側を射止めようとぐいぐい押しに押している。そして基本こういうものは守勢の方が不利なのだから。 今後あの二人がどうなるかは分からないし、石神に同調するわけではないが、いい関係へと変わるようなら友人として俺はそれを祝いたい。 遅咲きの花を見守るような心境で、彼らのやり取りを眺めていた。 「ふいーーー、あぁぁ疲れたぁ……」 などとしみじみ思っているところへ、疲れた様子の栄光がやって来た。しかもビニール袋を大量にひっさげて。 「そういえば、先ほどまで姿を見ていませんでしたね」 見たところパシられていたようだが、と俺が言ったら、栄光はげんなりした様子で嘆息した。 「察しの通り、肉争奪戦に負けたペナルティだよこんちくしょう。ジュース切れそうだから負けた奴が買って来い、だとさ」 「今日暑いし、オレも騒いで喉乾いてたからそりゃいいんだが、こいつら揃いも揃って期間限定味や新入荷のやつばかり注文しやがってよ。おかげで幾つコンビニ回る羽目になったか……」 「ていうか、もうソメイヨシノ味とか置いてねえよ! あれ不味すぎて春先から生産されてねえやつじゃんか。今は夏、サマーなの!」 「てへ」 「あ、やっぱり気づいてなかったんだ。私てっきり……」 「言ってくれよそこはさぁッ」 「いやぁすまんすまん、あの時のあたしら、なんかテンションおかしかったからさ」 「しかし文句を言うわりにはこの炎天下でしっかり揃えてくれたのだから、栄光くんは律儀だな。おお、ネタで振った炭酸モロキューまであるじゃないか」 「ふっ、無茶振りに応える男エイコーと呼ぶがいい」 「パシり根性の賜物でしょ」 こういう場合で貧乏くじを引くパターンが多いぶん、悲しいかな栄光にとってこの手の仕事は慣れっこだった。おかげで仕事が早いのは良いことなのか、さて置いて。 「ほれ、四四八とノブも」 「すまんな」 「ありがとうございます」 気配りも効くためか俺たちの分も揃えていたらしく、何気なく手渡されたラムネを感謝しながら受け取る。 そして当然、男二人に対するだけの配慮じゃない。鳴滝や百合香さんへの分もあればこいつにとっての本命も用意しているのは言わずもがな。 「それでこれ、祥子さんのぶん」 「はい、炭酸モロキュー」 「ありがとうございます」 いや、なんでだよ。 どうしてそういった冒険用のネタドリンクを、意中の相手に渡すのか? さらにどうして野澤の方も当たり前に受け取るのやら。 これは何だ。味覚の癖で済ませていいのか。個人の趣味というのなら百歩譲って納得せざるを得ないのだが。 「微妙そうな顔ですね。安心してください、さすがに私もこれはないなと思ってますから」 「ですがそれでも一度は自分で確かめないと、予想と言う名の偏見でしょう? やりもしないのに貶したり、又聞きやしったかぶりで批判するのが嫌なんです」 「ダメならダメと口にしてから言いますよ」 「巡り合わせが悪いのか見つからないって、前に言ってたはずだからさ。とりあえず買ってきたんだよ」 「ミスしてた時は、責任取ってオレが飲めばいいことだし」 「いいえ、これは素直に感謝します。むしろよく、あんな呟きを覚えていたなと」 マメというか、なんというか。惚れた弱みのなせる技か。 「必死すぎて逆に引きます」 「ひどいッ!?」 中々に報われないのはともかく。落ち込む栄光を気にすることなく蓋を回して開ける野澤。迷いのないその動作が、見ているだけのこちらを思わず不安にさせてしまう。 「ほんとにいくの、それ。わたしの聞いた範囲だと、タクアンとピクルスを混ぜて液状化したような味だって」 「親父曰く、べったら漬けと梅干しにマンゴー足した味だったって話だぞ」 「試しに与えた野良犬が、以降私を見るたびに腹を見せて服従するのが心苦しい。あれには悪いことをした……」 「静乃、それ普通に動物虐待だから」 「そういえば最近、ランニングの後にドッグフードを買ってたような」 「償おうとする誠意があるのは結構だが、それ以前に何をしているんだおまえは」 「あの、祥子さん。買ってきたオレが言うのもなんだけど、やっぱり普通のやつにした方が……」 「いいえ結構。参考になる意見の数々、実にやる気が湧いてきました」 「私もこれで負けず嫌いを自認してます。なのでそれでは、いざ──」 言って、豪快に口をつけられる炭酸モロキュー。 そして次の瞬間、彫刻のようにぴたりと野澤が一口目で固まった。 我が社のウリは漬物です。とりわけその中でも口当たりよく、夏のビールに最適なモロキューを素材の味そのままに飲料水で再現しました。そこへ〈糠〉《ぬか》を基本とした独自の配合を繰り返すことにより……というラベルに記載していた心底まともじゃないキャッチコピーが目に映る。 いや、駄目だろそれ。なんかもうアウトだろ。これを作った奴ら、社員一同トチ狂っているんじゃなかろうか。 無言のまま真顔で口を離す野澤が恐い。続けてじっと炭酸モロキューを凝視しながら、ぽつりと。 「────どうやって作ったんでしょうね、これ」 零れるように搾り出された感想、もとい疑問の呟きに俺たちは思わず目を逸らすしかなかった。 味について一切言及しないことがこれほどまでに不安感を掻き立てるとは、どんな混沌なんだよおい。いつか親父に飲ませてやろう。 「栄光さん、すみませんが口直しにラムネかサイダーをくれませんか? できれば大至急に」 「ああ、今持っているそれで構いませんから」 「え? いやこれ、オレの飲みかけで──」 「構いませんから」 「あ──」 有無を言わさず、ごくごくと。 栄光のラムネを躊躇なく飲み干す姿に、思わず俺たちの時が止まった。 「──、────はぁ、ふぅ」 「かんせ、つ──」 「うわ、ちょ、うわぁぁ」 こびりついた異様な味を洗い流すのが目的だからか、口の中で舌を回して炭酸を味わうように嚥下していく姿はどこか、不思議な色気に満ちていた。 女どもは頬を染めるだけでいいが、白い喉が動くたびに俺や信明は強烈な居心地の悪さを味わっている。いや、何もやましいことはないのだぞ。しかしなんというか、これは、その…… とにかくまずい。 「────、……」 その衝撃たるや、なにせこのように、普段なら喜ぶはずの当人を完全にフリーズさせて彫刻に変えてしまったほどだ。 よく分からない迫力に圧倒されることしばし。真夏の太陽の下、凍り付く俺たちを尻目に野澤は舌を出し……惜しむように最後の一滴までも賞味した。 ごくり、と生唾を飲んだ音は果たして誰のものだったか。 先と一転、朗らかに、花がほころぶように栄光へと微笑みかける。 「すみません、お手数をかけてしまいました」 「自分で飲みたいと言っておきながらこの体たらく。皆さんにもお見苦しいところを見せてしまったようで、重ね重ね、申し訳ありません」 「それと誠に申し訳ないのですが、こちらの劇物をどうか厳重に処理していただけないでしょうか。これ以上手にしていると本当に忘れられなくなりそうなのが恐いんです」 「試したいのなら皆様もご自由にどうぞ。ご覧の通り、保障は一切できませんけど」 いやいやいや、首を横に振る以外どうしろと? 少なくとも俺たちに自殺志願願望はなく、その様を見てますます野澤はにっこりと。 「そうですか。では、栄光さんはどうします?」 「飲みかけで申し訳ないですが、ほんの一口、勇気を出してはみませんか? あと唐突かもしれませんが、勇敢な殿方は好きですよ。ええ」 「おおおおお、オレは、その……」 自然な動作で、しかしどこか艶めかしく突き出される炭酸モロキューの口先。それはあいつにとってまさしく悪魔の誘惑だろう。 ぶっちゃけ本心では一に二もなく頷きたいし男を見せもしたいのだろうが、先の反応を見てチャレンジするのはさすがにやばいと栄光もひしひしと感じているため葛藤していた。 「ねえ、どうします? ほら……もう少しで触れちゃいますよ」 「ちょっと、そんな、近づ、水着──」 板挟みに陥っている間ゆっくりと接近しているペットボトルの飲み口。八つ当たりか、屈折した愛情表現なのか、くすくすと笑みながら今や一人に狙いを定めてそっと野澤は囁いている。 純情な青少年をやさしく手玉に取る、まるで妖しい魔女のように…… 「栄光さん、あーん」 「あーん」 かつてないほど優しい罠が炸裂したとき、勝負はもはや決まっていた。 「──もごがふぉぉッ!」 鼻の下を長くしたのは一瞬。思わず恍惚としながら一気に飲んだその直後、栄光は砂浜の上へ悶絶しながら沈むのだった。 頭の中で鳴り響くゴング。テンカウント。喉を抑えながらのた打ち回る姿を前に、今度ばかりは心の底から同情しつつ俺はしばし黙祷を送る。 さらば、安らかに眠るがいい。 「え、えろぉぉい! 説明不要、これが魔性の女というやつかびぃーっち!」 「ねえ、あれってどう思う? 私たち、モロにガン無視だったけど」 「うーん、たまたま近くにいたからか、それともあれが祥子なりの信頼なり愛情表現だったとか……」 「少なくとも、この場で遠慮なく理不尽をぶつけられる相手というのは……きっとそういうことなんでしょ」 そこについては同感だが、だからといって良かったなとは言い難い。もう少しあいつのためにも甘酸っぱさを足してやってほしいと思うが。 まあ当人たちはきっとあれでいいのだろう。こんなことでは嫌わないと野澤も思っているからこそ、栄光にやるせない感情をぶつけたのだと信じよう。精神衛生上もそれがいい。 「迂闊だなぁ栄光さんも、女性が綺麗に微笑むときは最大限に警戒しなきゃいけないのに」 「やけに実感こもっているな」 「そりゃあもう。彼女たちはいつも僕らに見えないよう、巧妙に棘を隠し持っていますから」 「相手のために生まれたくらいの覚悟じゃないと、そうですね、〈天国〉《じごく》へ向けて抱き合いながら真っ逆さまかと。それでも本望なんですから、怖いですよね恋愛って。あはははは」 「いや、おまえそれ……」 あははじゃなく、そんな感想を笑顔で吐けるのはどうかと思うぞ信明よ。おまえいったいどんな女を見てきたんだ? 彼女らしき相手とそれなりにうまくいっているらしいというのは、それとなく聞き出した情報なのだが、ここに来て一気に不安を感じる発言だった。正直なところ、こいつだけは穏当な青春を送ってほしいという願いは、どうやら虚しいものだったか。 せめて、さすがに、俺の周囲にいる女たちほどアクの強い相手じゃないのを祈っておこう。 もう手遅れかもしれないが。 「容赦ねえな……」 「そうですか? わたくしには照れ隠しの範疇かと」 「あら、二人の世界はもういいわけ?」 「こちらはこちらで構わんから、存分にらぶらぶちゅっちゅをするといいぞ。そして影から見守らせてくれ」 「どちらもこちらも昼ドラみたいで、なんだかわくわくしてきたぞ」 「柊、こいつ最近末期だぞ。責任持てよ飼い主だろ」 「諦めろ。文明に触れた時点でアウトだったと、今の俺は結論している」 曽祖父さんの物語や一昔前の文学以外に娯楽のなかった山奥と違い、下山して数多くのメディアに触れたその結果、最近の石神はこういう面でも頭が痛い。 日曜朝の特撮ヒーローにのめり込むのは別段何も構わんのだが、同時にどろどろとした愛憎劇なども好むというのに気付いた時は遅かった。最近のトレンドは母さんと一緒にドラマ鑑賞を楽しむことだとか。おかげで無敵だ。手が付けられん。 そういうわけで聞き流せ。さすがに駄目だと思ったら、荒療治でも何とかするつもりだから。 視線の意図が伝わったのか、ため息ついて鳴滝は野澤に向き直った。 「俺が言うのもどうかと思うが、こいつもこれで本気だから多少は手加減してやるこった」 「それか、あんた自身が本意じゃないなら、さっさとバッサリやってやれ」 「そう切れ味のいい対応できれば、こちらとしても楽なのですが……」 「本当に、なんなんでしょうねこの人は」 そこでふと、白目を剥いて倒れている栄光へと苦笑して── 「まあ、私もまだまだ未熟者ということでしょう。普段の意趣返しにしてはいささか強烈すぎたようですし」 「しかたありませんから、責任として介抱は行わせていただきます」 「ほほう、つまり仕留めるまでのビッチ。目覚めるまでのナースであると」 「まさに飴と鞭の完成形ね。こうしてまた、大杉は深みに嵌まっていくわけと」 「いいんじゃねえの? これはこれで美味しいだろ」 「ですね。当人同士が満足ならきっとそれが一番でしょう」 「傍から見れば不健全でも不毛でも、自分たちが納得できた間柄なら結構それで幸福だったりしますから」 「うっわ、なにかなこの子のリア充発言。滲み出る余裕が超なまいきー」 「なんかしれっと、僕、男と女を分かってますって顔したりとか。似合わない顔しちゃってまぁ」 「そりゃあ僕は誰かさんみたいに、斜め上へこじらせた面倒くさい系じゃないからね。悪いけどその称号は返上したんだ」 「だから後は弟として、姉さんが一刻も早く残念じゃなくなることを願っているよ。頑張って」 「か、かか、かっち~~んッ! 言う? あんたがそれを私に言う? 言っちゃうの?」 「面倒くさい系は誰が見てもそっちじゃんかーっ!」 ふくれっ面で指差す世良だが、安心しろ。それはない。 そして信明の発言も俺たちは断固認めん。思い上がりを正してやろう。 「おまえ達はよく似ているよ。つまり、どちらも依然面倒くさい」 「その通り」 「そんなぁ」 悪いがここは精進しろと突き放す。完璧になれなどとは言わないが、もう少しおかしな方角へ空回る回数を下げるためにもここは若干厳しめに。 気兼ねなく言い合える関係だからこそしっかりシメておくんだからな。おまえら姉弟、たまにわざとかと思うほど隙だらけになるんだし。 情けない顔をする二人に、俺たちは思わず顔を見合わせて笑った。 「やはり仲がよろしいですわね、皆さんは」 「騒がしくはありますが、退屈はしないかと」 そんな俺たちのやり取りを、苦笑しつつ微笑ましそうに見つめている百合香さんたち。特に野澤はいつの間にか膝枕で栄光を介抱している。 これはあいつ、目が覚めた時は本当にどういう反応をするだろうかと想像しながら、他にも色々、あるいはいつもの俺たちらしく。 楽しい時間は途切れることなく、穏やかに過ぎていった。 それからしばし、腹も膨れたことで俺たちは本格的に海へとそれぞれくり出した。 自由に泳いで競ったり、あるいは砂に絵を描いたり、波打ち際で戯れたりという風にして休日を目一杯に堪能する。 青春はこれ一度きりなのだから遊びにも当然のこと手は抜かない。全力で今をひたすら楽しむからこそ、こういうのはいい思い出になるはずだ。 一秒だって無駄にしてはならないと、駆け足で過ぎ去っていく夏の価値を俺は強く感じている。 だからこそ、誰とこの時間を共有したいかといえば── 「ふはははは、待っていたぞ四四八くん! やはり臆さず来たようだな」 「抜かせ、むしろ後悔するなよおまえ」 やはり選ぶべきはこいつとの勝負だろうということで、俺は高笑いする石神の水泳勝負を受けて立った。 こいつとのランニングが日課になってから早数ヶ月、身体面で競いあえる好敵手の出現に俺の中でついた火はどうも大きかったらしい。 最近ではこういうノリで事ある度に勝負をする機会が多く、今のところ戦績は抜きつ抜かれつではあるものの、今日のこれはいい機会だ。 そろそろ男として、この野生児にはびしっと白黒つけねばならん。 「陸ではおまえと互角だが果たして海ではどうだろうな。覚悟は出来たか石神、鎌倉育ちを舐めるなよ」 「おっと、勝ち誇るのはまだ早いぞ。山育ちが弱いなどといったい誰が決めたのかな」 「体力に関しては悪いが私の生命線だ。というかこれでも抜かれたらさすがにこちらも立つ瀬がないので、今日は本気でやらせてもらうぞ。しずのんパワーを全開だ!」 「こおおぉぉぉ……太・極ッ」 「また見事に影響受けたなおまえ」 こいつは最近、歩美から妙なゲームを駆りた結果にこの様だ。ふんすと鼻息荒く何やら変身ポーズらしき行動を取っているのに脱力したが、まあ気合は充分と受け取ろう。 頭はともかく、体力面では相手にとって不足無し。こちらも全力で挑むべく互いに軽く柔軟をこなしながら話しあう。 「ルールは?」 「タイムを計るわけでもないから泳ぎ方はそれぞれ自由で。肝心の距離については、そうだな……ちょうどあそこに小島があるからあれにしてはどうだろう」 そう言って指差した沖には岩で出来た小島があった。目測としてだいたい百メートルほど離れているということから、確かにあれは手頃だろう。 あまり離れすぎていると万一の場合が危険だし、近すぎてもおそらく互いに差が出ない。何より折り返し込みで競うより、一直線に目的地を目指す方が俺たちには合っていた。 「それでだ。せっかくなのだが、ここは青春らしく何かを賭けるというのはどうだ?」 「たとえば具体的には私が勝ったら、風呂上がりのアイスを二個に増やしていいとか。もしくはたまに同衾していい権利を得るとか、そんな感じで」 「後者は端から論外だが、前者のレベルに関してならば構わんぞ。現金だとは思うがこっちとしてもやる気が出るしな」 「ちなみに俺が勝ったらおまえ、次のテストで全体順位の半分は超えさせるから覚悟しろよ」 「なっ、言ってることが全然違うぞ! それのどこがアイス一個と同等なんだ」 「いいやこれは聞く耳持たん。さすがに期末の結果については、こちらも指導側のプライドの折れる想いだった」 まさかの栄光や歩美をも超える全教科赤点ギリギリの答案用紙を前にして、俺がどれだけの屈辱を味わったと思っているんだ。 こんな様でこいつを社会に送り出すのは、とてもとても不安が残るし我慢ならん。スパルタを自認している手前、余計に。 「だが俺も鬼ではない。苦手なことを努力したという姿勢については評価できるし、少なくとも最後の最後は自主性も確認できたと思っている」 「なんだかんだ言いながら最後までついてきたのは大したものだよ。誇っていいぞ」 「そ、そうだろうそうだろう。さすがよく見ているじゃないか」 「しかし、今後もそれだと少々困ると言っているんだ」 「社会に出ればやはり結果が求められる。努力したのでどうか勘弁してください、なんて姿勢が認められるのは学生の間だけだろ? なにも成績がすべてじゃないが、だからといって手を抜くのが認められていい道理もない」 「そういうわけで、俺の出す条件はこれだ。ちゃんと最後まで面倒見てやるつもりだから大人しく受け入れろ」 「ぬぐぅ、愛と思いやりが痛い……」 「ならばっ、私も相応の条件を提示させてもらおう。異論はないな」 「構わんぞ。よほど頓珍漢なものでなければ認めよう、男に二言は一切ない」 「よし、言質は取ったからな」 「では近々こちらに親父殿が来るのだが、そこに二人で挨拶に行くというのはどうだろうか……って、おぉ、かつてないほど微妙な顔になっているぞ四四八くん。そんなに嫌か」 「いや別に、娘の下宿先へ親が顔を出すのは自然なことだと思っているし問題はどこにもないが……」 「ああ、うちの保護者が面倒だと」 無言で頷く。アレは駄目だ。以前に一度、直接顔を合わせたのだが終始頭痛が止まらなかった。 俺自身、まさかうちのクソ親父に匹敵する評価を下せる奴がいるとは、さすがに思いもよらなかったよ。 まあ、ともかく。 「憂鬱ではあるが、いいだろう。しかしいいのか? 随分軽い条件だな」 預かった娘さんについての挨拶ぐらい、こちらとしては特に構わないことなのだが。 「そ、そうか。覚悟は出来ているんだな、うん」 「ならば私も気兼ねなく紹介させてもらうとするよ。二人のゴールは目前だな、待ち遠しい」 「……まあ今からゴールを目指すしな」 何かがずれている気もしたが、ともあれこれで約束も決まった。 お互いに気力も充分。軽く屈伸をしながら横に並んで沖の小島を睨みつける。 一度不敵に視線を交わし、にっと笑って── 「それではいくぞ。よーい……」 「スタート!」 同時に海へと、勢いよく飛び込んだ。 選択したのはどちらもクロール。速さと安定を求めて、肺の酸素を消費しながら全力で水を掻きつつ前へと進む。 相手がどれほど進んでいるのか視線を向ける余裕もなく、そのままひたすら泳ぎに泳いで競い合う。 そして── 「っ────、ぷはぁ」 小島に辿り着いた瞬間、勢いよく顔を上げた。 足りなくなった酸素を吸い込み、視線を向けたその先には。 先、には── 「はっはっは、どうだ私の勝ちだぞ四四八くん」 「これで約束通り、石神家の敷居をまたいでもらおう。白無垢に彩られた私を見て震えながらおっ勃てるがいい」 ……… おい。 待て。 おまえ、ここに来てそれか。真っ裸か。野生児どころか原始人か。 いい加減にしろよ伝家の宝刀すぎるだろ。 何やら言っているが耳に入らん。俺にいったいどうしろと? 「ふふん、天は我に味方せり。何やら途中で身軽になったその瞬間、かつてない開放感が新たな境地をもたらしたのだ」 「たぶんこう、夢とか渇望的なパワーが私を後押ししたのだろう」 「馬鹿者。それは水の抵抗が減ったからだ」 ではなく、俺は何を冷静に────ああもうだからッ! 「いいから気づけ、脱げてるんだよこの痴女がァッ!」 「うおっ、なんと!」 おまえふざけろよこれ何度目だと思っているんだいやマジで、歩くセクハラ製造機かコラ、誰かこいつを山へと返せ。 俺の指摘に仰天しながら、石神は自分の状態を見下ろしていたが、しかし。 「で、どうなのかな。魔羅の具合は」 「至近距離から見たことで、できれば海から上がれないほど隆々としているようなら光栄なのだが──」 「ふふ、ふははははは……」 「よし分かった。頭冷やせ」 「にょぁああッ!?」 足払いをかけ、容赦なく海へと叩き落とす。 とりあえず衆目の目から今のこいつを隠さねばという一心での行動に、石神はなぜか楽しそうにこっちへ向かい泳いできた。 「ぷはっ、やったなこの……!」 「ええい寄るな離れろ。通報されたらどうしてくれる!」 裸の女に追われているこの状況は世間的にも非常にまずく、なのに猛スピードで追いかけてくる石神から俺は必死に逃げていた。 頭が痛いことに、きっとこれからもこうやって、俺はこいつに手を焼かされたりするのだろう。 他ならぬ俺たち自身がそう望んでいる限り…… 日常はいつまでも、どこまでも続いていく。それがここにある確かな一つの真実だった。 「あはははは。楽しいな、四四八くんっ」 だからまあ、能天気に幸せそうなこいつの言葉に同意するのは癪だったが。 「ああそうだな、だからとっとと何か着ろ!」 俺も声を張り上げて、偽らざる本心を告げるのだった。 さあ、夏はまだ始まったばかり。 この優しくも素晴らしい日常を、これからも楽しもう。 「──お疲れ様、柊くん」 砂浜に腰を降ろしている俺を、気づけば世良が覗き込んでいた。 差し出された手には、冷えて水滴のついたペットボトルが握られている。丁度こいつのことを考えていたところだったせいもあり、タイミングの良さに思わず苦笑を浮かべてそれを受け取る。 「はいこれ。喉乾いてるんじゃないかなって」 「助かる」 水泳競争、ビーチバレーと、さっきまであいつらに引っ張り回されてたせいか喉はもちろんカラカラだった。気づかいに感謝しながら一気にそれを嚥下すれば、火照った身体に染みわたっていくようだ。 十秒ほどで飲み終えたが、おかげで生き返った心地がする。世良の気配りには感謝だな。 「人気者は辛いね。あちこちに引っ張りだこだもん」 「頼られるのは喜ばしいがあいつらまったく体力配分考えないから、おかげでずっと全力行使だ。さすがに少し疲れたよ」 「羽目を外し過ぎないよう一通り釘は刺したが、どうだろうな。目を離しても大丈夫か、正直今も少し不安だ」 「その感想、なんだかプールの監視員みたいだよ。もしくは子供連れのお父さんみたい」 「勘弁してくれ」 引率や監督役には慣れているが、あいつらが我が子だったらさすがの俺も身が保たん。友人だから遠慮なくああだこうだと言えるわけで、そういう意味では少し気楽と言っていい。 まあそれに、本気で嫌じゃないのも事実だ。俺としてもこういうのは向いているという自覚がある。 その内心を察してか世良もつられて笑いながら、そしてどこか羨むような視線をこちらに向けてきた。 「なんか改めて思ったけど、やっぱりそれも資質なのかな。だとすると私としては羨ましい限りだけど」 「そういった頼られるコツというか、この人なら手加減しなくて大丈夫って思えるオーラは長い時間をかけながら培われていくものなんだよね。だから欲しいと願ってもそう簡単には手に入らない」 「悔しいけど、どうしても身に付けるには難しい才能なんだよねえ。いいなぁ」 「確かにそうかもしれないが……どうしたんだ急に。大多数の面倒見ないといけないような問題が、近いうちに迫っていると?」 「将来的には、かな。ほら、前にしたけど進路の話。教師になろうかなってやつ」 「あれから色々考えて、現実的にいけるだろうか少し計算してみたの。試験や学歴、成績面では努力すればクリアできるはずだし、やる気はこれでも結構あるからそこはあんまり問題なくて……」 「けど、じゃあ性格的な向き不向きはどうなんだろうと思ってさ。モンスターペアレントや、生意気言う学生とかニュースでたびたび聞くでしょ?」 「そういう問題が起こった時に私なら対処できるか、想像してみて……少し不安になっちゃったのでありますよ」 「なんて、この前一人で考えてたから、少しネガティブ入りかけたりしてたわけ。当たり前だけど、成るなら成るで生徒が慕ってくれるような、いい先生になりたいじゃない」 「だから頼られるコツ、か」 能力という点では、本人の言葉通り確かに問題ないだろう。贔屓目を抜きしても世良の内申と試験なら教育免許を手に入れるのはさほど難しいことじゃないし、こいつならやってのけると普通に思う。 だが、生徒を教え導くことは語るまでもなく複雑だ。単純な点数評価で解決しないし、何よりまず人格面での素養こそが重要になってくる。 教師という職を得ることは出来たとしても、そこから本当に自分の求めた教師像になれるかどうか。こいつが不安に思っているのはどうやらそういう部分らしい。 ならば俺も、これは相談を受けた身として俺なりの意見をまとめてしっかりと応えよう。 「そうだな……コツというか、当たり前に守ってきたのは確かにあるぞ。率直に言うならそれは、途中で放り出さないということだな」 「なにせその一念があったからこそ、俺はずっとおまえ達の不手際をフォローしてきたつもりでいる。分かるか、おい。いったい何度匙を投げてしまおうかと思わされてきたことか」 「あは、は……それを言われると弱いなあ。ひどいよ、何も言えなくなるじゃん」 いいや、すまんがこれぐらいは言わせてもらう。おまえは中でも幾らかマシな方だったが、たまにでかいのやらかすぶん、それで変に帳尻が合っていたという面倒くさい筆頭だった。 だがまあ、それは置いておいて。 「とにかく、つまりはそういうことだよ世良。最後までしっかり付き合うことこそが、基本でありとても大事なことなんだ」 「漫画やドラマなんかでも教師から見捨てられて非行に走るパターンとか、世に腐るほどあるだろう? やっぱりそれは王道なんだよ。題材として今も然程朽ちていない」 「なので裏を返せば、未だに多くあちこちで溢れている問題なんだと言っていいんじゃないだろうか」 「なのでもし、おまえが真剣に教師を目指すというのなら、まずはそこを守ればいいと俺は思う。頼られるうんぬんは、まずはそれを守ってからだよ」 「無責任に投げ出さなければ、実は案外、なんとでもなるものなんだしな」 「うーん、含蓄あるね」 「当然だろ。たまに噴火するおまえの対処にどれだけ手間を取られたか、そこのところ分かっているなら一も二もなく頷くがいい」 「あ、言ったなこの唐変木め。幼馴染キラーが言いおるのぅ、むっつり将軍だったくせに」 「ははは、名誉棄損で訴えるぞ」 いいんだよ、今はちゃんと一人を選んでいるつもりだ。 それは今更言うまでもなく……おまえ、分かっているだろう? ああまったくにやにやするな。 「けれど、そっか。じゃあ私たちは柊くんの生徒みたいなものなのかもね」 勉強を見て、間違わないよう時に叱って、母さんたちに余計な手間をかけないよう自分なりに面倒を見よう見ようとしてきたことを考えれば、確かにそれはそうかもしれない。 同年代だというのに、俺もまた昔から背伸びして来たんだなと、恥ずかしく感慨深い気持ちになり──そして。 「なら、ここはやんちゃな教え子らしく──」 「──ほら、行こっか。柊〈先〉《、》〈生〉《、》」 「あなたが見てきた問題児が向こうでずっと呼んでるよ。もちろん、ここにいる可愛らしい優等生もね」 などとおどけながら、自分のことを生徒と言いつつ、同時にどこかお姉さんぶるかのように世良は俺へそっとその手を差し伸べてきた。 子供っぽさと女性らしさが同居している表情は、見慣れているこいつの顔をどこか新鮮にも感じさせて……思わずしばし瞠目する。 心臓が僅かに跳ねて、何かしてやられたような気がしていると、世良は悪戯っぽく笑みを深める。 「それとも既にお歳で身体がきついでしょうか、なんちゃって」 「小うるさいわ未熟者め。だが──」 おまえが真剣に将来を考えている成長や、俺を冗談でも先生などと言ってくれたことについては、悪くないと思っているから。 「本当におまえがその道へ進みたいというのなら、そっちもいつか自慢の生徒を見せてくれよな」 「俺が育てた自慢の生徒みたいにさ」 「うん。任せなさいっ」 返答にお互い笑いあう。この約束が果たされるかは知らないが、きっとこうして深く思いやることのできるこいつは立派な教師になれるだろう。 そう、数年後の未来なんてきっと気づけばすぐそこだ。百年前から受け継いだこの時間を、これからも大切に育んでいけばいい。 他ならぬ俺たち自身がそう望んでいる限り…… 日常はいつまでも、どこまでも続いていく。それがここにある確かな一つの真実だった。 さあ、夏はまだ始まったばかり。 この優しくも素晴らしい日常を、これからも楽しもう。 「よっと、ほらパス。いったぞー」 波と戯れながら緩やかに飛んできたビーチボールをトスで返す。 あれから一休みした後、俺と晶はこうして身体を動かしながら軽い運動にいそしんでいた。 他の奴らは何やら暑さでヒートアップしているためか、ひたすら泳ぎを競い合ったり、団結して巨大な砂城を作ったりしているようだが、ここはそれと切り離された穏やかな空気が流れている。 ああいった競争事や制作作業も悪くないが、今は気分的にこいつと過ごしてしたかった。 なにせ最近、晶は忙しかったしな。 「それで、剛蔵さんの容体はどうなんだ? あれから一週間だが、そろそろ復帰できそうなんだろ」 「ああ、医者が言うには心配ないって。今日の夜に帰って来るらしいから店もすぐに再開だとさ。少し湿布臭いくらいだよ」 「けどまさか、男泣きをしすぎたせいでぎっくり腰になるとはなぁ……改めて思うとどんなコントだっつーの」 「まあそれほど、聖十郎さんの回復が嬉しかったんだろうけど。身内でギャグ漫画やられるのはさすがにあたしも予想外だったかねえ。うん」 「そう言うな。あいつの息子としては申し訳ないような、ありがたいような、なんともいえない感覚だから今も若干困っているんだ」 親父の目が覚めた直後、すぐに駆けつけておいおいと泣きながら聖十郎を抱きしめた剛蔵さん。当然殴られたり罵倒を浴びせられたりしたものの、一切構わずよかったなと我が事のように喜んでいた。 で、そこまでなら美談で済んでいたんだろうが……全力で走ってきたから普段使わない筋肉を酷使したのか、あるいはクソ親父の容赦ない〈裏拳〉《てれかくし》がトドメとなったのか、なんとその場で大悶絶。 腰から異音を立てながら剛蔵さんは地へ沈む羽目になったのだ。 おかげで俺たちの父親は二人仲良く入院中である。しかも同じ病室で隣同士のベッドで寝ているというのだから、腐れ縁に笑えばいいのか、呆れるべきか。 ただともかく、剛蔵さんが天使であるのは誰の目にも明らかなことだろう。 「心底、うちの親父にはもったいないな」 「別にいいじゃん、あれでハゲも嬉しそうだし」 「見舞いに行ったら久々にじっくり話せる機会ができたと笑ってたしな。邪険にされてもああなんだから、やっぱり仲がいいんだろ」 「ますます分からん」 人の縁は複雑怪奇というものの、やはり親世代の友情は俺にとって永遠の謎である。経緯も何度か聞いてはいるが、その度に首を傾げている気がする。 だが剛蔵さんと同室でうちの親父が苦い顔をしていることは間違いなく、それについてはいい気味だった。少しは丸くなって帰って来るとこちらとしても喜ばしいが…… 無理だろうな、たぶん。高望みはやめておこう。 「……ま、それでもあたしはいい機会だったと思ってるんだ。ああ、親父もやっぱり歳なんだなって」 「分かっていたつもりでも実は結構、我ながら衝撃あったみたいでさ。ついにガタが来た以上、家業にもっと本腰入れてみようかなんて考え中」 「ああでも、仕方ないとか諦めたとか、後ろ向きな考えからじゃあ全然ないぞ。ちゃんと自分も店を支えてみたいというか、胸を張って見てろよやってやるぜ的な……」 「んー、とにかくなんか、そういう感じ」 「分かっているとも、みなまで言うな」 剛蔵さんの不調を機にやりたいこととやるべき時が、晶の中で同時にぴたりと嵌まったんだろう。何もおかしなことじゃない。 感情自体もいいものだから俺としてもそれを応援したいと思う。だからこそ、こちらもボールを返しながら清々しく告げるのだった。 「味見役なら任せろよ。いつかのように厳しく評価してやるからな」 「おう。頼りにしてる──っとと」 その時、たまたま大きな波がきて── 「お、うわっ──」 丁度それと重なるように、晶は砂で足を取られたらしく── 「あ──」 さらに、落ちてきたボールを咄嗟にトスしたことで── 「──────」 「………………」 ……見ての通り。ご覧の有様というやつだ。 はだけた水着。遺憾ながら丸見えである。なんだこれ、最近の俺は呪われているんじゃなかろうか? ふざけんな。勘弁しろよこのやろう。 「あ、な、はにゃ、おま──」 「……晶」 なので眉間を揉みほぐしながら、ふうぅぅと深く落胆のため息を吐いて。 「おまえ、石神に似てきたんじゃないか? ──嘆かわしい」 「ふ、ふきゃあああああぁ、言うに事を欠いてそれかコラァァッ!」 率直な感想を送った瞬間、なぜか盛大にブチキレられた。 「待て、落ち着け、胸まる出しでよるな馬鹿。俺の心境も考えろ──!」 「ラッキースケベにこれ以上増えられたら心休まる時がないんだ。なあ、分かるだろう?」 「うっせえバーカ、分かるかバーカ、バーカバーカハゲメガネ!」 「親父みたいに毛根全滅すりゃいいんだ。うわああああん」 だからそんな、無駄に胸を揺らしながら混乱して向かってくるな──ああ、どうしろと。とりあえず砂浜を走って逃げるが予想外に相手が速い。 互いに少しは成長したかと思ったが、こういうノリが健在なのはいったいどういうことなんだろうか。 子供の頃から、俺もおまえもこんな風に本質はこれといって変わらないというのなら、やれやれまったく…… 「責任取れ!」 「そのうちなッ」 たぶんずっと、親父たちと同じように傍にいるのが当たり前の存在として、こんな具合にドタバタやっていくんだろう。 他ならぬ俺たち自身がそう望んでいる限り…… 日常はいつまでも、どこまでも続いていく。それがここにある確かな一つの真実だった。 さあ、夏はまだ始まったばかり。 この優しくも素晴らしい日常を、これからも楽しもう。 ──で、だ。 「いったいぜんたいどういうことか、とっと説明しろ貴様」 「んーとね、なんか横になってうとうとしていたようだから、とりあえずいっちょ埋めてみようかなって。第六天のマーラみたいに」 「おいやめろ」 端的に俺の置かれた状況はよく分かったが、その表現はよしてくれ。なにか凄まじい汚濁を感じる。 そしてどうやら、不覚にも寝落ちしている間を狙ってかなり砂を盛られたらしい。乗っている歩美の重さを差し引いても、中々の重量が身体や手足にかかっていた。 これではまさに成すがままというやつだ。そう、つまり。 「ん~ふ~ふ~、いいねえ、なんかぞくぞくするかもこのシチュエーション」 「ねえねえどんな気持ち? どんな気持ち? 今まさに、四四八くんの命運はわたしに握られているのだよっ」 「さーて──じゃあまずは、砂でおっきくちんこ盛ろうかな。まずは王道からだよね」 「くっ、やめんかぁッ」 案の定、うきうきと阿呆なことをし始めやがった。ええいまずいぞ、このままでは男の沽券が蹂躙される! しかしどれだけ足掻いても既に身体はこの通りだ。 「えへへ、いいじゃんよぅ。こんな機会は滅多にないもん」 「栄光くんみたいな隙だらけの残念ボーイをいじるより、達成感がそれこそ全然違うんだよねえ。例えるならオタサーの姫を落としたみたいな」 「全方位から袋叩きにあうだろ、それ」 「分かってないなあ、だからこその味わいなんだよこういうのは」 「マゾい難易度であればあるほど燃えるのが、真のゲーマーってものなんだからね四四八くん」 「それに、やっと捕まえたんだもん。普段は溜めてたあれとかこれとか、試してみてもいいでしょ?」 「ほら、こんな風に~っと。ふん、ふふん」 「だから、こら、何やってんだ」 俺からまったく見えない位置で、歩美は上機嫌に鼻歌まじりで何やら砂を弄り始めた。こいつまさか、本当にさっき言ったベタな悪戯をし始めたんじゃなかろうなと危惧するものの、悲しいかな止める手段は一切なかった。 にやにやとした猫のような笑顔が今は無性に小憎らしい。まな板の上の鯉として、思うがまま料理されていく。 そのまま半分諦めつつ、死刑を待つ囚人のような心地でいると、ようやく歩美の作業が止まった。動けない俺を満足そうに覗き込む。 「はい完成っ。それでは、ここで唐突なルベンクイズのお時間です」 「わたしはたった今、動けないのをいいことにいったい何をしたのでしょうか。制限時間は三十秒、ノーヒントだけどさあどうぞ」 「あ、正解すると渋々出してあげると思うよ。きっと」 「どこからどう聞いても当てさせる気ゼロだろうが」 「ちなみにダメだと同じことをまたするつもり満々だから、そこんとこ、ヨロシク」 びっ、とにこやかに指差してくるこいつの頭にかつてないほどゲンコツを叩き込みたい気分になったが、しかし。 とにかく当てない限りここから出られないというなら、ゲームには公平な歩美のこと、相手のポリシーに賭ける意味でも真面目に答えてみなければ。 「裏と見せかけて表、先ほど言ったように股間にひたすら砂を盛った」 「ぶっぶー」 「貝殻や石を使って、屈辱的な立体アートを建造した」 「ちがいまーす」 「ならばこのまま水で固めて、答えの正誤に関わらず俺をおもちゃにし続けるという魂胆か。見損なったぞ歩美ィッ」 「ふぅん、四四八くんってたまにいい度胸してるよね。お望み通りこのまま本気で砂団子にしちゃおっか」 「馬鹿な……!」 ありえない、これも違うというのか? 最後のはかなり自信のあった解答なのだが。 「だから、もっとこう、すっごくベタでよくあるやつ」 「こういう時だけ素のまま馬鹿になっちゃうとか、なんか本当にずるいよね。ふぁっく、ふぁっく、この鈍感ギャルゲー主人公」 「『大好き』とか、書いているとか思わないの?」 「ないだろ、おまえこそ流れを読めよ。冗談でも笑えないぞ」 「うっわぁ、言っちゃった。真顔で言っちゃったよこの人。むかっと来たから宣言通り書き足しまーす、っと」 「今度はお腹にもう一つ……『大好き』っとね。よし、この際だからハートマークも足しちゃおっか」 「ついでに『わたし専用』とかも、うりゃ、書き書き」 「分かったから、もう好きにしてくれ……」 「あいあいさー」 嘘か真か、何やら嬉々と書き足されていく言葉はきっと凄まじいことになっていると思うのだが、俺はそれを観念しながら受け入れた。今日は甘んじてこの屈辱を噛み締めよう。 それに、まあ、こいつのこういう悪戯に最後まで付き合えるのは自分くらいなものだろうし。 「ほらほら、そんな辛気臭い顔しないでさ。目を離さないって約束だよね」 「言われなくても危なっかしくて離せるかよ」 色んな意味で歩美から目を逸らすことはできないようだと痛感したとも。 これから先どれだけ一緒に居られるか未来は何も分からないが、それでも出来る限り傍にいてやると約束したから、そこは守りたいと思う。 他ならぬ俺たち自身がそう望んでいる限り…… 日常はいつまでも、どこまでも続いていく。それがここにある確かな一つの真実だった。 さあ、夏はまだ始まったばかり。 この優しくも素晴らしい日常を、これからも楽しもう。 まあ、正確には居たいというか、そうしなければならんというか。 そう願われているというか、でだ…… 「さあ召使い、ご主人様の身体にサンオイルを塗りなさい」 「玉のお肌が焼けないよう誠心誠意、奉仕するのよ」 「むしろ〈油〉《オイル》を浴びせて、こんがり焼きたくなってきたよ」 手渡されたオイル入りのボトルを思わず潰さないよう気を付けながら、こいつの寝言を切って捨てた。 そう、非常に不本意だが俺にはこれから我堂に対して発言通りの内容をしなけばならないという理由があった。それが真に呪わしい。 我が身の置かれた状況を思い返すたび、何の罰ゲームだと思ってしまう。むしろなぜこいつはこんなに乗り気なんだ? こんな頭がピンク色の行為をしなけばならないのは、自分も同じはずだというのに。 「正直、いつまで続くんだろうなこれは」 「仕方ないでしょ。なんだかあれから、父さんどころか組全体が気を遣ってくるんだもの」 「やれ柊くんとはどうなんだ、おまえからもちゃんとごにょごにょ……なんてことをしてるんだとか。まったくもう」 「こっちだって子供のままじゃないんだから。親の方が見事にそわそわしてるだなんて笑い話にもならないわ」 「しかも効果覿面だしな」 その過剰な気遣いのせいか、なぜかこうして俺と我堂は彼らの期待に応えざるをえないような……不可解極まる義務感にひしひし突き動かされているのだ。オイルを塗る塗らないもまた、そういうことに帰結する。 いや、別に我堂の親父さんが苦手なわけでは決してない。強制なんかもされていないし、恐れているから従っているわけでもなかった。 だがしかし、少し冷静に考えてほしい。 右翼の頭を現役で勤めている剛の方から、毎回熱い眼差しで娘との将来を切望されてみてくれよ。そんな凄まじい状況を軽く想像してみるといい。顔見知りであったとしても、これは中々断りづらい状況だとは思わないか? もちろん、あの人や組の方々に悪意はないんだ。そう悪意はまったく欠片もない。よってその分こちらとしても、余計にこう、力ごなしに跳ね除けづらいというか……ああ。 ほんの少しは配慮して装うぐらいはいいだろうかと、思っているその時点でドツボに嵌まっているのだろうな。 「外堀が徐々に埋められつつある気がする……」 期待の視線というか、無自覚な誘導というか。たびたびお嬢をお願いします、いつもらっても構わないから、むしろどうかもらってくれと言われていればこうもなる。そしてそんな意見の数々、まったく意識しないほど生憎俺は図太くなかった。 ちなみにこのサンオイルにしても、出発前にそれとなく我堂に手渡された一品らしい。 聞いて後悔したほどの値段がついている手前、さすがにこれを使わずに腐らせるわけにもいかないからこそ向き合っている。 「お節介そのものだけど、むきになって拒絶するのもどうかと思うし」 「親に対してわがまま言っているように感じちゃうから遠慮して、そのまま気づけば毎回毎回……これも本当は惰性なのよね。甘えているのと同じかしら」 「かもしれん。だからそろそろ近いうちに手を打つぞ。俺としても、なし崩しなんていうのは認めがたい」 「なによ、私が相手はそんなに嫌って? じゃあ誰ならいいっていうのよコラァ、言ってみろ!」 「だからおまえも何なんだよっ」 前もしただろこのやり取り。肯定したいのか否定したいのか、どっちがいいんというんだこいつ。 「まあいい、とにかくさっさと済ませよう。横になれ、そしてついでに背中出せ」 「そ、そうね。言っとくけど、変なところ触るんじゃないわよ」 大丈夫だ。こんなものしょせん、マグロの食品サンプルに塗料を塗りこむのと同じと思えばどうとでもなる。 心頭滅却、俺はもちろん冷静だとも。覚悟は決めたしおまえを一々意識するのも馬鹿らしいので、間違いを起こす心配もない。 そういうわけで、お互い所定の位置につく。じゃあ行くぞ。 「あ、んっ……最初は、やっぱり少し冷たいわね」 我堂──ではなく、寝そべるマグロに油を塗り込む。魚類のくせにこいつ何やら喋るらしい。 掌からは、やけにしっとりとしたきめ細かい感触が張りと共に返って来てはいるものの、落ち着け自分。これは女などではない。あくまで食品サンプルなのだ。 「ほら、同じ場所ばかりじゃなくて、もっと万遍なく塗りなさいよ。気が利かないんだから」 「肩口から腰あたりまで……ん、そう、やればできるじゃない」 「意外とうまいとか、どこかで誰かにしたことあるの?」 「馬鹿言え、こんなことを軽々しく誰がやるか」 「ふうん。まあ、今日のところは信じてあげるわ。私の慈悲に感謝なさい」 「んぅ……ふ、はぁ…………」 満足そうに息を吐く我堂をできるだけ見ないように心掛けつつ、無心でオイルを塗っていく。 それでもやはり、時折肌がどうしても視界に映ってしまうので、目を瞑りながら作業を進めることにした。ほんの少し、僅かだけだが動揺している自分がいるのも腹立たしい。 少しの間お互いに広がる沈黙。どちらもこの状況に慣れてきたせいか、ぽつりと我堂は呟いた。 「結局、なんだかんだで楽しいのかしら。どうこう言いつつ揃って乗せられてるものね」 「新鮮というならそうなんだろうな」 「経験自体はともかくとして、普段ならやらないことをやっているのは間違いない。辟易しているだけなら途中で、お互い投げているはずだ」 「まさに父さんの思惑通りかぁ」 「それでも最終的にこれから先を決めるのは、いつだって俺たちだがな」 お膳立てはできたとしても、最後の線をどうするかは当人同士の問題だろう。さすがにそこまで入って来るのは、おまえの親父さんでもしないと思っているから。 ならばその時どうするか……俺がこいつと、ねえ。 「あんたはどうなの?」 「おまえこそ」 「そっちが必死に頼むなら考えてあげてもいいけれど?」 「そっくりそのままこっちの台詞と言っておこう」 「じゃあ勝負ね」 「望むところだ」 まあ、これが俺たちなりの丁度いい関係というやつらしい。 甘さよりも、まずお互い競い合えることを得難いものだと尊重している。だからどちらも負けたくないし、これからも勝負しながら同じ時間を過ごしてみたいと心から感じていた。 時間はまだまだたくさんあるんだ。いいや、この現実は終わらない。 他ならぬ俺たち自身がそう望んでいる限り…… 日常はいつまでも、どこまでも続いていく。それがここにある確かな一つの真実だった。 さあ、夏はまだ始まったばかり。 この優しくも素晴らしい日常を、これからも楽しもう。 「……ん?」 と、そこで何か手に違和感が発生した。 塗っているはずのオイルなのだが、気のせいか別の場所から常に足されているような…… 目を閉じていたから分からなかったが、どうも誰かがぬめりを補充しているらしい。歩美たちの悪戯かと嘆息しつつ視線を向けた、その先には。 ──見るも無残な、凄まじい光景が広がっていた。 カモメの糞で背中をコーティングされた我堂が、恍惚の笑みを浮かべてクソまみれの姿を晒している。 おい、何だこれ。どうにかしろよ。誰か今すぐ時間を戻してやってくれ。 これはさすがに惨すぎるだろ。ちょっと誰だ、こんな展開望んだ奴は。説教するから前に立て。 「────、──」 「あら、もう終わり? ちゃんとしっかり塗れたんでしょうね」 「光栄に思いなさいよ。こんな清らかな柔肌を合法的に撫でまわせる機会なんて、これから先あんたには縁のないことなんだもの」 「まあ私は優しいから柊がどうしてもって土下座してねだるようなら、特別にもう一度、この幸せを恵んであげても構わないと──」 「我堂──」 ぽん、と俺は鳥糞だらけの手で、優しく我堂の肩に手を置いた。 きっと今の俺は悲しみに満ちた目をしているのだろう。ここまで来るともはやある種の尊敬さえ感じながら、慈愛と共に現実を告げる。 「今回ばかりは同情する。挫けるなよ、俺は味方だ忘れるな」 「意を決し、目を開けて、心ゆくまで叫び悶えたその後に、まずはシャワーを浴びてくれ」 「……覚悟はできたか?」 「はあ? あんたさっきからいったいなに、を────」 確認して、絶句して、噴火寸前三秒前。 諦めるように首を横へ振った、その直後。 「あ、あんじゃこりゃあああああぁぁぁッッ!!」 真夏の砂浜に悲しみと怒りの混合した大絶叫が轟いた。 ああ、恐るべきかなギャグ属性。 俺はもう知らん。 「どこに行ったんだ、あいつ」 ふと気づけば、信明の姿が見当たらない。誰かと一緒にいるのかと軽く周囲を確認したが少なくともそれらしき影はいなかった。 遊び疲れて浜辺で休んでいるにしても一報ぐらいは入れるはずだが、俺はそれを聞いていないため少々不安になってしまう。 今のあいつは昔のようにすぐ体調を崩すほど病弱ではないと分かっているが、だからといってまったく心配無用というわけでもない。 誰もあいつの不在を気にしている素振りがないため、おそらく姉の世良あたりに行先を口にしてはいるのだろうが、だとしても…… 「どこかで倒れてなければいいが」  ──なんて、思っているだろう四四八さんに心の中でそっと詫びる。  悪いと感じている反面、正直に言うと僕はとても浮かれていた。  仲間や家族の繋がりもそれは確かに大切だけど、やはりこれでも自分は一応思春期の男子なわけで。  好きな相手と浜辺で二人という状況を優先してしまうのは、尊敬している兄貴分が相手でも比べられないものだった。  なぜならほら、見てくださいよ。 「うん、とても似合っている」  彼女の水着姿が可愛いので、僕はとても幸せです。  直射日光に晒された身体は年頃の少女らしく瑞々しい。染みやほくろ一つなく、美しい姿を晒している。  浜辺を歩く足取りは軽やかで、ついこの前まで通院していたという気配なんて今は欠片も感じない。  多少、病弱な体質ではあるらしいけれど。  近頃は体調もいいらしく、こうして素肌に潮風を浴びても大丈夫だとか。そんな当たり前がなぜかこんなにも喜ばしかった。自覚はあるけど、僕の顔はつい先ほどからずっとだらしなく緩んだまま戻らない。 「そう、よかったね。じゃあ好きなだけ見てればいいよ。勝手にすれば。  あなたがそう思うのなら、それが一番なんだろうしさ」 「………………」  ただ、どうも先ほどから刺々しいというか、なんというか。  毒を吐かれるのは彼女と顔を合わせる上での基本であり、耐性もすでに充分出来ているが、さすがにずっとこの調子を貫かれては、こちらとしても反応に困る。  なにせ今は海なのだ。そして二人きりなのだ。ついでに重ねて言うならば、僕も馬鹿な男として好きな異性と甘い時間を過ごしたいなというような、当たり前の願望は当然持っているのである。  なのでずっと緋衣さんに不機嫌なままでいられるのは、とても惜しいしもったいないと思ってしまう。  この夢みたいな一瞬を出来る限り大切にしたい。そう思うからこそ、とにかく平謝りを返す。 「ごめん。何か至らないことがあったなら遠慮なく言ってほしい。僕ってほら、鈍いから。  知らないうちに気分を害していたのなら、謝るよ。申し訳ない」 「……別に、卑屈になってほしいとか言った覚えはないけれど」  そんな謝罪を聞いて、彼女はなぜか苦虫を噛み潰したように苛立ちながら目を背けた。  理由に気づかない僕の態度こそ、もどかしくてたまらないという風に。 「文句を言っているわけじゃないわ。役目を果たしたことについては認めているし、褒めてあげてもいいことだし、今更こうして終わったことを糾弾するのも時間の無駄。  ベストじゃなくてでも及第点は超えているから。勝手に私を拗ねているとか捉えないで」 「はあ、えっと……それならどうして?」  なんだろう、問いかけると機嫌が一層悪くなった気がするのだが。どうもまた僕は選択肢を間違えたらしい。  けど、何かそんな大きなことをしたっけか? 今ひとつ分からないが、しかしこれは自分たちの間において珍しいことじゃない。  彼女は時折、こういった眼差しで僕を見つめることがある。  惜しむような、悔いるような、あるいは切なく怨むような……  とても一言では言い表せない感情を深く飲み込み、じとりと睨むことが知り合ってから何度かあった。  そして最近、そういう時には大抵何を考えてるのか。 「大丈夫だよ。君は今、生きている。  これから〈未来〉《さき》も変わらずに」  ようやく分かってきた不安を、こうして真摯に伝えるのだ。 「緋衣さんが今まで身体が弱かったのは知っているけど、それでも今は違うだろう?  もしかしたら、治る過程で何か辛いことがあったのかもしれないし、納得できない忘れ物を抱えているのかもしれない。けれどそれも些細なことだ。まったく大したことじゃない」  だってそうだろう。どんな形であろうとも、僕たちみたいな病弱に生まれついた者にとっては。 「生きることに嘘も真もないのだから」 「ええ。だから腹立つのよ、今のあなたが」  と、そこで一刀両断するような鋭い言葉が突きつけられた。  呆れるような声と、心底馬鹿にするような視線、なのにどこかしら悲しむような眼差しで僕を見つめながら手を握ってくる。 「馬鹿じゃないの信明くん。そんな台詞を言える資格がいったいどこにあるというわけ?  いつもいつも君のことが、緋衣さんがとそればっかり。あまりに私の想像通りで、甘いことしか言わないから……」  そこで一度、自分でも訳が分からないというように噛み締めて。 「なんだか、信じられないじゃない。  現実なのに、まるで幸せな夢みたいで。苛々させないでよ馬鹿」  今度は離さないという風に、痛いほど手を握りながら彼女はそんなことを言ってくる。  だから、うん、これは参ったかもしれない。完璧にやられてしまった。  幸せなのはこっちの方だ。彼女はやっぱり魔性の女で、こんなにも可愛く僕を仕留めにかかっている。  思わず抱きしめそうになった感情を男の意地でぐっとこらえた。  生きたい。生きたい。生きていこう──そして君の傍にいるんだ。  なぜか今、そんなことを強く思う。彼女が愛しくてたまらない。 「全部はよく分からないけど、僕のせいで不安にさせてしまったのなら、これからも頑張るよ。  これでも一応、男だからさ。好きな女の子ためになら、いくらだって強くなれると思うんだ」  君を守る。救ってみせる。そう誓う思いに嘘はないんだ。  生きることに嘘も真もないのだから、僕たちは普通の人に比べたら脆弱なのかもしれないけれど、無意味なんかじゃ決してない。  未来は何も分からないが二人で共に時を重ねて、健やかに老いていけるというのなら、それ以上の幸せはこの世にないと思うのだ。  そんな青臭い内心を言葉にはできなかったが、それでも見栄をはる男のエゴと最後の意地だと伝わってほしい。  思い合い、分かち合う。すべてが理解できたわけでは当然ない。だとしてもその努力は常に忘れないでいたいと思う僕に対し、彼女は大きく嘆息してから、ふんと鼻を一つ鳴らした。 「ドン引き。ほんと、童貞臭いね信明くんは。私で卒業したくせに」 「はは、ははははは……」  それを言われると、こっちとしては何も言えなくなってしまうので苦笑いして目を逸らした。恥ずかしいやら何やらで、とにかく白旗をあげるしかない。 「だから、さ」  その時、くいと手を引かれて。 「ほら──自信、つけなさいよ」  慈悲を恵んでやるという具合に、瞳を閉じた緋衣さんがそっと顔を突き出してきた。  照りつける日差しのせいか、頬が仄かに色付いている。  だが、はて? 「えっ、と……」  これはあれか、目に砂でも入ったのかな?  まずいな。そうなるとハンカチを持ってないのが悔やまれる。  そういった甲斐性、というか便利度をここでチェックされるとは思わなかったぞ。どうしよう。 「────だから、ほら」 「いやそう言われても、その……」  手で目元を拭っていいものかと悩むところに、早くしろと急かされて。どうも自分の考えているようなものじゃないなと、理解はしたが。  分からないので褒めてみよう。 「まつ毛、長いね」 「死ね鈍感」  瞬間、叩きこまれたヤクザキック。的確に脛を打ち抜かれたことで悶絶する僕に対し、絶対零度の視線が刺さった。  あ、まずい。これ本気で怒ってる感じだ。 「え、なに? なんなの? まさかここで勘違い系気取るとは思わなかったよさすがね〈主人公〉《ヒーロー》。思わず殺意が湧いちゃった。 知らないうちにギャルゲーの種馬くんになったつもりでいたのかな? そんなに自惚れてたなんて、私思わず感心したわ──逆さに吊るしてあげたいくらい」 「そう言われても、何が何だか……」  まさか彼女に限って、単にキスしろとか言うわけないし。  うん、ないない。緋衣さんは絶対そういうキャラじゃない。  とことん黒くて手の付けられない可愛らしい人だから、そこをまず選択肢から除外したので、他には本気で思いつかずに首をひねり……  これもしかして本当に? 僕の妄想なんかじゃなくて? だとしたらちょっとした衝撃というか、光栄を通り越し天地が消えて真っ逆さまに大気圏から大墜落って感じだけど。  え、本当に?  おかしいな、罠はいったいどこだろう。 「ほら、さっさと役に立つ!」 「はいっ」  急かされて、思わずバネのように立ち上がった。混乱の極みにあったが、どうやら嘘じゃないらしいし自分としてもそれは望むところだと、現金にも気を取り直す。  震える手で自分も彼女へ顔を寄せた。  そのまま、少しだけ勇気を込めて── 「──、ん」  お願い通り、僕は久しぶりに彼女へ願われ、役に立った。  唇に感じた温もりが、ゆっくりと離れる時間をたまらなく恥ずかしく感じるのはどうしてだろう。もっとすごいことだって何度かしている関係なのに。  お互いに顔を少し赤くしながら感慨を抱いて見つめ合う。この一瞬が永遠に続いてほしいと心から思う程に、僕は緋衣さんが愛おしい。  彼女のすべてを愛している。 「僕は、君に相応しく在れているかな?」 「どうかな。けど今のところ、代役が務まる道具もいないから」  分からないことは数多ある。緋衣さんはミステリアスで掴めない。  だけど今、この胸にある想いだけは決して嘘じゃないだろう。  彼女が求めてくれる限り、僕はきっと何でもできる。君の役に立ち続ける。  そのためにもあと少し、さっき触れた温もりをもう一度感じるために── 「なら、ますます役に立たないとね」 「当然でしょう。あなたは私のために在る。  決まっているのよ。信明くんは、私のもの」  その通りだと頷いて、僕たちはしばし笑い合った。  さあ、夏はまだ始まったばかり。  この優しくも素晴らしい日常を、二人で共に楽しもう。 「一つ、未来の話をしよう。  俺が先頃、邯鄲で体験した可能性世界の話だ。おおよそ百年後にはこういったことも有り得るという一例として、おまえにも聞いてほしい。  俺の目指す〈楽園〉《ぱらいぞ》とは如何なるものか、知ってもらうには必須のことだと思うのでね」 「まずはそう、たとえば講道館があるだろう? 三十年ほど前に嘉納治五郎が興したあれだよ。最近では財団化したらしいな。この現実でさえ、もはや一種の商売と化している。  もちろん、それをもってすべてが悪いとまで俺は言わんよ。彼とは直接面識があるわけではないが、風評を伝え聞く限りあれはあれで気骨のある漢なのだろう。少なくとも、偉人であることに疑いはない。  五輪大会への参加。流血なき熱狂。近代体育の父――素晴らしい。  競技の枠に落とし込むことで争いが持つ陰惨さを薄れさせ、もとは殺人術であったものを純粋な心身練磨の教えに変える。勇気ある決断だし茨の道だ。それを嘲笑うほど俺は心の捩れた男ではない」 「が、しかしだ。どれほど初志が〈高邁〉《こうまい》であろうとも時間によって歪みは出てくる。釈迦やキリストの教えを正確に継いでいる者がもはや存在しないのと同じように。  自然、または恣意的に、様々な要素が絡み合って事象は不可逆的な変質をしていくものだ。  嘉納治五郎は新時代に相応しい光の武を生もうとしたのか。あるいはいずれ消え行く伝統を可能な限り保護しようと努めたのか。  もしくはその両方か? それともまったく違うのか? 俺には分からんが、断言しよう。武人であり、漢であるなら、あのような未来を目指したということだけは決してない」 「前置きが長くなったが、これから俺が語るのはそういうものだ。例えとして講道館を挙げるのがもっとも適しているだろうと思える歪み。  おまえは怒るか? 笑うかな? 性質の悪い冗談だとさえ感じるかもしれないが、これは偽りなく邯鄲で見た未来であり、起こり得ると人の〈総意〉《アラヤ》が判断した現実の延長なのだよ」 「その夜、俺は、東京の盛り場に存在した。  亜細亜一の歓楽街として、眠らぬ街を歩いていたとき目にしたものだ」 「ふとな、怒声が傍らで弾けたのだよ。見れば肩がぶつかっただのなんだのと、通行人を捕まえて威勢良く吼えている小僧がいた。  それだけならば、まあよくある光景と言えるだろう。吹っかけている小僧の〈格好〉《なり》が、俺たちの感覚で言えばだいぶ奇異であるという突っ込みどころはあったがね。  要は当世風の愚連隊と思えばよいのだ。問題はそこにない。  俺が疑問を覚えたのは、どう見ても絡まれている男のほうが強そうだったからだ。身長差、体重差、身体の厚み、四肢の太さ……このままいざ殴り合いになった場合、小僧が勝てそうな要素は微塵もない。  にも関わらず、餓鬼の威勢はいや増すばかりだ。これは全体、どうした理屈のことだろう?」 「若さとはそうしたものだ? 一理ある。武器を忍ばせているのでは? そうかもしれん。だが俺は、それでも違和感を拭えない。  どうにもな、その小僧には欠けているものがあるように思えたのだ。やる気と言うか、本気と言うか、大層な剣幕で吼えているのに必殺してやろうという意志が見えない。むしろ遊んでいるような印象さえ覚える。  なんとも奇妙な話だろう? 仮に小僧がじゃれているだけだとしても、吹っかけられた相手にとってそんなことは関係ない。  言ったように両者の単純戦力は後者が一目瞭然で勝っているのだ。その丸太のような腕で軽く払えば、小うるさい餓鬼は手もなく吹っ飛ぶ。そういう力関係の二人なのに」 「これでは、小僧にとって割の合わなすぎる遊びだろう。ではそれを勘案した上で度胸試しをしているのかと言えばこれも違う。なぜならまったく危機感というものが見えんのだから。  まるで、こいつは自分に手出しできんとハナから知っているかのように。  そして事実、絡まれている男は無礼な小僧を実力で排除することが出来ずにいる。  顔面を紅潮させ、拳を震わせ、間違いなく怒っているだろうに殴らない。殴れない。  実に奇々怪々な二人だったよ。ゆえに俺は、彼らの心とその背景を読み取ってみることにした。ああ、夢の中ではそういうことが出来るのだよ。精度に個人差はあるだろうが、表層を掬うくらいならそう難しいことでもない」 「結果、見えた答えに俺は心底愕然としたね。先に言った講道館、その歪みがこうした形で出ていたのだ。  絡まれている男はな、興行として格闘を衆目の前で行い、糧を得ている立場だった。相撲取りでも講道館の人間でもなかったが、この時代にはそうした団体が無数にあり、その一つに属している者だったのだよ。  そして彼らは、いわゆる素人に手が出せん。生業として武を振るっている身だからこそ、鍛えた五体は凶器と認識されている。社会的に、そうした枠に嵌められた存在なのだ」 「よって、その武を使うことが許されるのは〈闘場〉《リング》の上のみ。そこで同等に鍛えた者と戦うときのみ。  適切な場所、適切な相手、二つがそろって初めて生存を許されるサーカスの猛獣だった。これを違えれば彼は職を失い、生き場を失う。ゆえに眼前の、本来ならば容易くひねることが出来る雑魚の一人も殺せない。  無念だよなあ。理不尽だよなあ。そもそもこれは本末転倒ではないだろうか。男がこれまで、鍛えに鍛えあげたのは何のためだ? 不当な侮辱や悪意を打破し、勝利するためではないだろうか。  単に強さと言っても色々あるが、その中から肉体的なものを選んだのなら論を俟つまい。我慢して血圧を上げるよりは、敵を殺すことに重きを置く価値観の持ち主だからこそ、五体を凶器に改造したのだ」 「少なくとも、この男はそういう人種と言ってよかった。  ひどい矛盾を抱えた生き物であり、この時代、そういう者はまったく珍しくないということが俺にとっては衝撃だった。  そして、そこに付け込む卑怯者の存在も。  いいや、単に卑怯なだけならまだ分かる。俺が許せんと思ったのは、この餓鬼が恥すら知らぬ屑だったからだ」 「なあおい、信じられるか我が友よ。小僧はな、これを武勇伝であるかのごとく自慢し、誇っていたのだぞ。  俺は格闘家に喧嘩を売り、頭を下げさせてやったぜと。相手が先の事情により手が出せんのを知った上で、己が何か偉業でも成したかのように吹き上がっておったのだ。目眩がするほどの愚劣さだろう。  何なのだこれは。どうしたことなのだ、この時代は。  暴力を禁忌とし、法整備を成し平和を敷く。  理性を重んじ、殺伐とした弱肉強食を排斥する。  ああ正しいとも、それは疑いなく素晴らしいことだろう。道端で子供が犬のように打ち殺される世の中が、正しくあろうはずもない」 「しかし、その果てにあるのがこれか? 自分は守られ、殴られず奪われず殺されず、生きていく権利を持っているのだからと、なんらの覚悟もなく思い上がった愚図を湧かせるこんな未来が?  何もこの小僧に限った話ではない。ここでは煮え湯を飲まされた男にしても、己の性と修めた技に覚悟を持たぬから無様を見るのだ。そうした腑抜けた及び腰が、屑を増長させる結果になっているのだから同罪と言えるだろう。  無論、これは極端な一例だとも。この出来事に眉をひそめる人間は未来においても数多く、例の小僧も裏では馬鹿にされていただろう。  だが、それだけに病理は深い」 「己もまた、大差ない醜さを普段発揮しているということにほとんどの者が気づかないのだ。気づいていても、目を逸らすのだ。  殴り返される覚悟もなしに人を殴る。端的に言えばそういうことで、もっと言えば別に殺されはしないだろうと勝手に高を括っている。特に、この日ノ本では。平和で、平和で、銃も刀も持たぬから。  実に素晴らしき日々……なのだろうかなあ。俺は悔しくて泣いてしまったよ。人間とはそんなものでよいのだろうか」 「権利とは、自由とは、夢とは、そして尊厳とは――そこまで安く下卑たものか? 尊く光り輝くものは、時代の流れや見方使い方の些細な変化で、容易く醜悪に堕す程度か?  俺は違うと信じている。普遍でかつ不変たれと、人の〈歴史〉《アラヤ》に謳いあげたい。盧生としてこの身が描く夢はそういうものだ。  掴み取り、勝ち取ってこその生ではないか。だからこそ勇気の賛歌が眩しく諸人を照らすのではないか。  おまえなら分かるだろう、友よ。  生きるということに誰より真摯なおまえなら」 「俺は魔王として君臨したい。人の輝きを永遠のものとして守るため、絶対不変の災禍となろう。  俺に抗い、立ち向こうとする雄々しい者たち、その勇気を未来永劫絶やさぬために。  それこそが俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》。生涯かけて追い求める、我が悲願にして夢である。  セージ、そういうことだよ。理解してもらえただろうか」 「甘粕……」  熱のこもった、しかしどこまでも当たり前のことを述べているだけだという態度の男に対し、逆さ十字は率直な感想を口にした。 「貴様、やはり狂っているよ」  そんな夢を連日見た。それが自分に、ある変化を促していると彼女は強く自覚している。  正確には、意識のちょっとした改革だ。これまで考えていなかった角度でものを見るようになったということ。  その焦点になっているのは他でもない、恋人との関係だった。  そうした間柄にある男女の常として何度も喧嘩をしてきたし、これからもするだろう。だがそれは、果たして本当に喧嘩と言えるものだったのだろうか。  告白すると、彼女は父親以外の男に殴られた経験がない。それにしたところで、幼い頃に拳骨を食らったという程度のものだ。厳密な話、カウントしてよいものか甚だ微妙と言えるだろう。  別に殴られたいわけではないが、そういう行為にいまいちリアリティを感じていない身なのは事実。ならば覚悟はいったい何処に?  恋人に文句を言うとき、それが原因で嫌われてしまうかもしれない可能性は考えていたと思う。だけど、殴られる可能性についてはどうだったか。  暴力はよくない。自明のことだ。しかし、リスクを正確に想定しないまま揉め事を起こすのも、同様に間違っているのではないだろうか。  やるはずがない。そんな人じゃない。信用と言えば聞こえはいいが、それは要するに舐めた思考だ。手出しできまいと高を括った上で格闘家に喧嘩を売る馬鹿と何が違うというのだろう。  躾ける。育てる。しめる。総じて教育する。恋人や配偶者に対してそんな表現を用いる人種を、彼女は男女問わず軽蔑していた。その理由を、正しく認識することが出来るようになった。  そういう輩はほぼ例外なく、相手の反撃をまったく考慮していないまま悦に入っている勘違い野郎だからだ。殴り返される覚悟もなしに殴っている。  しめる? しめた? 馬鹿を言え。しめさせて頂いたのだ。情や社会通念や法律の手前、相手が我慢し譲ってくれただけのこと。  修羅場の際、おまえの人生を終わらせてやる、などと偉そうに言う奴もいるそうだが、ならばこちらはおまえの命そのものを終わらせてやると返されたらどうするのだろう。  どのみち人生とやらを終わらされてしまうなら、殺人者になっても大差ない話ではないか。相手にはそんな選択肢も存在すると、欠片でも考えているのだろうか。  これまでの自分は、きっと考えていなかった。  それがみっともなく、恥ずかしい。  もちろんこの現代社会において、野蛮な行為に走ることがどれだけリスキーかは知っている。先に言った諸々もあくまで理屈の話だし、実際に行動へ移す奴はある種の人格破綻者だ。それを賛美するつもりはない。  ないが、だからこそ重要なのは気構えじゃないのだろうか。  喧嘩の理由やどちらに正当性があるのかは、この際問題じゃない。そういう場において、互いにしっかりと覚悟を持っているか否か。  相手が行使できる権利をすべて把握した上で、そのリスクを承知しつつものを言う。それでこそ対等だし、筋を通すということじゃないのか。  連夜、甘粕正彦の夢に触れ、彼女はそう思うようになっていた。それは荒唐無稽な伝奇小説めいた物語であったけど、だからこそ彼の〈楽園〉《ぱらいぞ》に一種の憧れを抱いている。  閉塞した現代社会に生きる身だから、その破壊者が清々しく見えるだけなのかもしれない。だけど、人として大事なことを言っているのは確かだろう。  自分は恋人を愛している。家族や友人も愛している。ゆえにしっかり真を持って向き合いたいし、相手にもそうしてほしい。  我も人、彼も人。ならば対等、基本だろうと思うから。  思うから、そうだ。  その日、待ち合わせ場所に三十分も遅れてきた恋人に対し、彼女はあらん限りの罵声を浴びせていた。  本音のところはそこまで怒っていたわけでもない。ただ知りたくて、確かめたくて、そうした欲求に衝き動かされてしまったのだ。  彼は穏やかな人だった。言い換えれば引っ込み思案で、臆病な人だった。  これまで何度も喧嘩をしたが、その八割くらいは自分のほうから吹っかけたし、理由の如何に関わらず謝るのは九割がた彼のほう。  だから、ねえ、あなたもしかして、私に手加減をしていたの?  自分が本気で怒ったら、私が壊れてしまうから。そんな理由で正面衝突を避け続けてたの?  だとしたらごめんなさい。今までの私は確かに甘ったれで覚悟がなかった。あなたを怒らせるということがどういう結果を招き得るか、真摯に考えていなかった。  けど、今は違う。考えている。だからお願い。舐めないで。  小うるさい子供を扱うみたいに、適当な態度であしらわないで。  私はリスクを考えもせず、調子に乗っている恥知らずじゃない。最悪を想定しながらも伝えたいと思う譲れないことがあるから、勇気を持って今あなたに相対している。  なのでお願い。あなたもそうして。ぶつかってきて。欺瞞や妥協の関係なんて、そんなの悲しすぎるじゃない。  思い、信じて、熱くなり、そのとき本当に熱が生じた。  次いで衝撃。平衡感覚の乱れと揺れる視界。気づけば彼女は、数メートル吹き飛ばされて地面に尻餅をついていた。  頬が熱い。呼吸が荒い。鼻血が止め処なく溢れてくる。  ぶたれた。そう認識するのと同時、湧き上がってきたのは歓喜の気持ち。  暴力はよくない。分かっている。  殴られたいわけじゃない。当たり前だ。  しかし自分は、そういうリスクも有り得ると覚悟した上でものを言ったし、実際に殴られた後もパニックにはなっていない。  つまり、彼と正面からぶつかろうとした自分の想いに偽りはなく、勇気は真だったということだ。  それが嬉しい。  嬉しいからこそ、このとき別の思いも生じた。  待てよ。自分は確かに覚悟を持って臨んだが、はたして彼はどうなのだ?  私を殴ったこの人は、その後に起こり得る展開をどの程度考えている?  殴られた私が取り得る行動。権利。選択。自身のリスク。  それに対する覚悟のほどは? 認識は?  まさか――いやいやまさか、もしかして。殴り返されないと高を括っているわけじゃないよね?  自分は男で、こいつは女で、体力差は明白だから余裕楽勝黙って従えなんてそんなこと――  違うよね? あなた、そんな卑怯者じゃあないでしょう?  瞬間、彼女はバネ仕掛けのように跳ね上がり、その勢いのまま恋人を殴り飛ばした。そこに付随する異常性を当の本人は気づいていない。  反撃に移った速度も、その威力も、女性という枠はもちろん人間の範疇すら超えていた。吹き飛ばされた恋人は壁にめり込み、爆弾でも落ちたかのように破壊を撒き散らしている。こんなことはたとえ猛獣でも出来などしない。  まるで夢の中であるかのように。  あまりにも非現実。出鱈目な結果。  だけど、彼女はそれに気づかないのだ。常人なら間違いなく即死級の攻撃を受けながら、立ち上がった恋人が再び殴りかかってくる様を恍惚と眺めている。  ああ、よかった。彼も覚悟をしていたのだ。それが証拠に笑っている。  本気で、偽りなく互いの真実を曝け出し、ぶつけ合えることがとても嬉しい。なんて幸せなことだろう。  痛い。苦しい。本気ね、本気よ。ちょっとそんなにしたら死んじゃうじゃない。いやいやごめんよ、だけど覚悟はしているだろう?  殺されるかもしれない。殺すかもしれない。胸が掻き毟られるような恐怖とリスク。だけどそれを呑み込んで、屈さず向き合うからこそ勇気は輝く。  そうだ、これこそ〈楽園〉《ぱらいぞ》だ。第一の盧生が天下を取れば、世界はこんなにも色鮮やかで美しい。  遠くでは雲を衝く大巨人が多頭の大蛇と争っていた。  雷を握り締めた神霊が、地より生じる不浄な魂に裁きの炎を落としている。  翼の生えた人は天使か。UFOのように飛び回る光はいったい?  大津波が、大地震が、全世界規模で起こり続ける天変地異と神話の戦争。  恋人との殺し合いは熱く血塗れの情交だ。私たちには覚悟がある。勇気がある。こんな世界だからこそ、たとえ相手が幼児であっても舐めたりしない。出来るわけがない。  そこに広がるのは、誰もが人の輝きを尊ぶ世界。  甘粕正彦――光の魔王よ。  私たちはあなたの眷属。共に夢を見させてちょうだい。 「無論だ。俺はおまえたちを愛している。  ゆえにもっとだ。もっとおまえたちを愛させてくれ。  永遠に守りたいのだ。人間賛歌を謡わせてくれ」  降り注ぐ祝福を満身に浴びながら、彼女は恋人と強く抱き合って至福のうちに目を閉じた。  そしてそのまま、二度と覚めない夢に落ちた。  自ら望んで、そうなったのだった。 「これにより、鎌倉市で続く原因不明の死亡者は八名となりました」 「特に健康面で問題があったわけでもない方々が、ある日眠ったまま目を覚まさずに息を引き取るということ自体は、間々起こり得るそうですが、それでもこれほど連続するのは極めて異例と言えるでしょう」 「今回、亡くなられた両名は交際関係にあったとのことですが、他六名はまったく相互の繋がりがなく、仮に新種のウィルスであったとしても感染経路が不明なため、事態の究明および対策は難航しており――」 「広がる不安をどのようにして静めるべきか、ともかく今は冷静な行動を心がけてもらうよう、呼びかけることしか出来ないのが現状と言えるでしょう」 そこまで聞いて、俺はテレビの電源を切った。なんとも言えない苦いものがこみ上げてくる。 「これが、朔ってやつの影響なのか石神」 「まあ、間違いなくそうだろうな」 あの旧校舎の一件からすでに十日。GWも終わりに近づいたこの日、俺たちは全員そろって今後のことを話し合っていた。 「だいたいのことは前にも聞いたけど、今こんな風に人が死んでいるのは夢のせいなんだよね?」 「俺ら以外の奴らは曽祖父さんたちの夢を見ている。それに悪酔いすると逝っちまうってことなんだよな?」 「正確に確かめようはないが、おそらくそういうことだろう」 「以前話した甘粕事件……その物語を我々以外の者たちは夢で見ている。君らはそのへん、色々言われているんだろう?」 「そうね。急にファンが増えたっていうか、その逆もだけど……ご先祖のことで馴れ馴れしく寄ってくる奴が異様に出てきた。正直、ちょっと怖いくらい」 「特にSNSとか凄いことになってるよ。壇狩摩、萌えーとか」 「大杉栄光の馬鹿野郎とかな。祥子さんも迷惑してるみたいだし」 「まるで漫画の登場人物扱いだ。これまでも似たようなことは何度かあったが、さすがに今回のは度がすぎてる」 現状、俺たちが直面している一番の厄介ごとはそれだった。曽祖父母をネタにされるのは言ったように初めてじゃないが、頻度と内容が洒落で済まされる域を超えている。 なぜなら俺たち以外の奴らは皆、夢で同じ物語を共有しているようだから。その時点でもう、現実的な範疇をぶっちぎっているだろう。 百年前に何があったか、甘粕事件とやらの真相を石神から俺たちは聞いているが、他の奴らは“観て”いるのだ。まさしく漫画や映画の客であるかのように。 だから退屈な日常ってやつを吹き飛ばす超常体験として、特に同世代の若い奴らは連帯し盛り上がっている。中でも夢の性質上、千信館の学生はその傾向がとても強い。 「邯鄲の夢……だったか。曽祖父さんたちのやったことは、まるっきりファンタジーだからな。娯楽的に面白がってしまう気持ちも分かるが、こっちは堪ったもんじゃない」 「四四八くんは、まだ私の言ったことが信じられないか?」 「いいや、そういうわけじゃない。否応もなく信じてるよ」 「なんといっても、動かぬ証拠としてこれがあるからな」 言って、俺は自分の手に目を落とし、拳を握る。そこには疑問の余地なく超常の力が宿っているのだ。 千信館の地下、風穴の奥で受け取ったもの。眷族の権利、その許可。 「現実に夢みたいなことが起こるし出来ると、俺たちは実感している。だからおまえの話を疑ってはいないよ、石神」 「まあ少々、未だに持て余すものがあるのは事実だがな」 「あー、分かるわ。うっかり全力で走ったりしたらえらいことになるもんな。人目もあるし、ばれないように加減していくのが難しいよ」 「正直、こんな状況じゃなかったら少しくらいは浮かれてみたいところだけどよ」 あれから毎日、俺たちは夜中に集まって夢の使い方を練習している。しかし日常生活を問題なくすごすため、出力を抑えることに関しては未だ相当な注意を払わないといけないのが現状だ。 もっとも、俺たちが得た力の使い道はまったく逆で、非日常に対抗するためのものだと理解している。 「この十日、事態の把握と慣れを優先して色々やってきたけど、そろそろ限界でしょう。ていうか、いい加減こっちも我慢できないわ」 「人が八人も死んでるんだし、私たちに出来ることをやるべきだと思う。そうでしょう、あんた達?」 「しーちゃんも、今日はそのためにわたしたちを集めたんだよね?」 「こっちも今さらごちゃごちゃ言う気はねえ。具体的な対策は柊と詰めてんだろ? 話せよ石神」 言われ、俺と目を合わせてから頷く石神。本日の趣旨、今後の方針を明確にするため、こいつは静かに話し始めた。 「まず、あのあと私が話したとおり、盧生、眷属、邯鄲の夢……そして百年前の甘粕事件、このことについてはみんな理解しているな?」 「無論だ。さっきも言ったが、そこから疑ってる奴は一人もいない」 「静乃の素性もね。壇狩摩って人の親戚なんでしょ。神祇省だっけ?」 「そういうことだ。もっとも私は君らのような直系じゃないし、先々代とはまったく違うタイプだと思っているから一緒にしないでくれ」 「とにかくそういう、我ながら胡散臭いことこの上ない立場として、この時期、鎌倉で起こるかもしれない異変に対処するためやってきたんだ」 「それが、朔」 「そう。戦真館の特科生たちが夢で体験した二十一世紀、それが現実の今年にあたるため、そこに歴史的なずれが生じる可能性があったんだよ。観念的なことなんで、ピンとこないかもしれないが」 「いや、なんとなく理屈は分かるぜ。タイムパラドックスっていうのか? それとは少し違うんだろうが」 「要するにちょっとした食い違いだよな。おまえは月に喩えてたけどよ」 「異なる二つが重なるときは、新月になって暗闇になる」 「だからそのときは、何が起こるか分からない。だったよな? そう言われたらそこそこ納得できる話だとは思ってるよ」 「そして、その暗闇に起こった事態がこれなわけだ」 鎌倉全域を覆いつくす、甘粕事件という夢の共有。その結果に訪れる死。 「我々の先人がどういう風に戦ったかは話したが、しょせん当事者じゃないし聞いた話にすぎないから細部については限度がある。私を含め、君らは漠然としたあらすじと設定を知っているだけなのが現状だ」 「しかし、夢で甘粕事件を体験している人たちは違う。おそらく我々より遥かに詳しく、詳細に内容を知っているんだろう。事の推移はもちろん、登場人物の心や言動、その背景に至るまで」 「だから、さっき四四八くんも言ったように嵌ってるんだ。娯楽なんだよ。映画でも観てるみたいに泣いたり笑ったり怒ったり、共感しつつもどこか突き放して楽しんでる」 「別の言い方をすれば、無責任なのかな。結局のところ自分には何の関係もない絵空事として消費する。それ自体は、別に悪いことじゃない。フィクションを楽しむとはそういうものだし、我々だって日頃同じことをやっている」 「内容が荒唐無稽な大活劇にしか見えないだろうから、特にな」 石神の言葉に、皆が頷く。確かに物語はそうやって楽しむものだ。共感共感とは言うものの、劇中の出来事に本気でシンクロしていては現実生活が覚束なくなる。 好きな登場人物が死ねば、時に泣くこともあるだろう。だがそれで本当に葬式をして墓を立てるわけもない。 中にはそういう奴もいるだろうが、大半はただの洒落だ。本気でやる奴はどこか壊れた変人だし、十中十人がそう断言するはずだ。 「しかし、それだけに観る側の心が浮ついているのは否定できない。そもそも他人事ですらない嘘っぱちだからな。わりと善悪だって関係なくなる」 「道理も。時には登場人物の人格さえも」 「Aはどうしようもない悪党だけど面白いから好きだ。もっと暴れてほしい。このへんでBが殺されたらとても悲劇的でいいんじゃないのか」 「CとDは仲が悪いという設定だけど、実は愛し合っているとしたら最高だ。というか、絶対そうに違いない。こいつらの事情? 性格? いや関係ないし。自分がそう思ってるんだからそれが正しいんだよ」 「とかな。それぞれ心当たりがあるんじゃないか?」 「う、確かに……」 「まあ、そんな風に楽しむのは普通だわな」 「ああ、普通だ。重ねて言うが、別にこれらはまったく悪いことじゃない。あくまで娯楽、架空の物語であったなら」 「つまり」 石神は、現状をこう推察しているわけだ。俺はそれを言葉にする。 「甘粕事件の夢に投射した願望は、そいつにとっての真実になる」 おまえがそう思うならおまえの中ではそうなんだろう。どこかで聞いたフレーズだが、かなり的を射ている真理だと感じる。人は見たいものしか見ないというのもまた然り。 「夢で出鱈目なものを求めたら、そのまま出鱈目が紡ぎあがってそいつ自身を殺してしまう。そういうことだな?」 「おそらく。たとえば甘粕正彦の〈楽園〉《ぱらいぞ》などを肯定し、それが理想郷だなんて思ってしまったらどうなるか」 「たとえそこまでいかなくても、ちょっと見てみたいと考えたらどうなるか」 「ぜってー速攻死んじゃうよな、それ」 「だろうな。聞いてる限り、まともな人間が生きられる世の中じゃねえよ」 「だけど、夢を見ている人たちに当事者意識はない」 「なぜなら、しょせん夢だと思っているから?」 「そういうことだ。しかしこれは、ただの夢じゃ有り得ない」 「現実に人が死ぬ。邯鄲の夢だ」 じゃあなぜ? 一同の疑問は、続くすべてに集約される。 百年前、俺たちの曽祖父母が身を投じたという邯鄲の夢。その奥義は失伝したと聞いているのに。 そして何より、夢を紡ぎ、夢の中に人を誘えるのは特別な存在のみ。甘粕正彦や、俺の曽祖父さんのような者。 石神は断言した。 「我々の知らない盧生がいる。第四の、正体不明な盧生が」 「でないとこの事態は説明がつかない」 「いやでも、ちょっと待てよ」 そこで堪らず、晶が言った。顔には困惑の色が浮き出ている。 「四番目の盧生って、そんな都合よくぽんぽん出てくるもんなのか? 確かおまえの話じゃあ、もうその手の奴は生まれないだろうって言ってたじゃんか」 「それに現実問題、盧生がいたらどうするの? わたしたちは、四四八くんも含めて眷属だよ?」 「盧生は盧生じゃないと太刀打ちできない。あんたが言うには、そういうことだったはずよね、静乃」 「あと、夢に引っ張り込まれてる側の人たちは、夢の中でどれだけ死んでも大丈夫だって聞いたけど」 一斉に問いを投げられ、石神は困ったように苦笑する。豪胆と言うか、場違い感すら覚える態度だったが、ともかく落ち着けと皆を制した。 「言いたいことはもっともだが、少し待ってくれ。一つずつ私の考えていることを話していこう」 「まず晶、今の世に新しい盧生は生まれないという私の持論だが、これについて考えを改める気はない。君も言ったように、いくら朔の時とはいえそんな都合よく出てくるとは思えないからな」 「じゃあ、どういう……」 「言ったぞ、落ち着いてくれ。なら逆に訊くが、私たちはいったい誰のお陰で、誰の眷属になったんだ?」 「あっ」 「なるほど。そういうことかよ」 その言葉で、皆が一気に納得した。あまりに現実離れしたことなので、我が身に起こったことさえ発想から抜けていたらしい。 「第四の盧生は、過去にいる?」 「少なくとも、そう考えるのが一番自然だと私は見ている。どうも盧生というものは、想像を絶してとんでもない存在らしい。時間を飛び越えて干渉することが出来るほどに」 「曽祖父さんが俺たちを眷族にした以上、確かに可能なんだろうな。普遍無意識、アラヤってやつを握った者だからこそ出来る芸当か」 「幾つもの未来を見て、昇華した超人だからな。理屈としてはきっとそういうことなんだろう」 「よって私たちが第四の盧生と直接出会うことはきっとないし、戦う必要もおそらくない。それは第二の盧生――柊四四八がやってくれるはずだろう」 「私たちはこの時代で、私たちにしか出来ないことがあるはずだ。そのために、眷属として選ばれたんだと思うよ」 「なるほどね。そう考えれば辻褄も合うか。そもそも私たちじゃどうにも出来ないのに、頑張れなんて無責任なこと言うはずがないもんね」 「ああそれ、四四八もよく言ってるもんな。スパルタは相手を見込んでるからこそ意味があるって」 「出来ないことをやらせる馬鹿はいねえ。確かにな」 「じゃあ問題は、俺たちがこれから何をやるかということだ」 そこで話は最初に戻り、すなわち本題ということになる。 皆が来る前に、大まかなところを俺は石神から聞いていたが、改めてその先を促した。 「極めて単純だよ。悪夢を狩る」 「先も言ったとおり、この現実で死人が出るのは、甘粕事件の夢を見ている人たちが悪酔いした結果だと考えている」 「どうも、この盧生はかなり夢の中へ引っ張り込む技能に長けているんだろう。理屈の詳細は不明だが、鎌倉の全人口をいきなり酔わせてる時点で規模が尋常じゃない。もしかするともっと増えていく可能性もある」 「だが、そのことを話したところで信じてもらえるはずもないし、無駄な行為だ。ならばやることは一つだろう」 「今まで皆を焦らしていたのは、その条件が整うのを待っていたんだ。結果的に八人も死なせてしまったのは痛恨だけど、現実問題としてどうしようもなかった」 「今夜、満月の日になるまでは」 言って石神は、窓の向こうへ顎をしゃくった。まだ日は落ちていないので目立たないが、確かに今日は満月となっている。 「私たちが直面しているこの事態は、朔という型に嵌っている。だから月の満ち欠けに影響を受けるはずだ」 「旧校舎の一見以来、今日が初の満月で、これから徐々に新月へと……つまり朔の日に近づいていく。それに連動する形で、間違いなく人を殺す夢がこの鎌倉に続々と顕れるよ。そのすべてを排除する」 「え、じゃあつまりそれって、現実に夢が出てくるってこと?」 「そうだよ。顕象――〈象〉《かたち》をもって顕れるって書くんだが、まさしく読んで字のごとくと思えばいい」 「君がさっき言った疑問の答えはこういうことだ。これまで死んだ人たちは、正確に言うと夢の中で死んだんじゃなく、顕象された悪夢によって現実側から殺されている」 「たとえば、とても悪い世良水希が見たいなと思う人が一定数いて、その願望力がある基準を超えたとき、本当に悪鬼のような世良水希が顕れて、そう願った人たちを殺しにいくんだ。望まれた役を果たすためにね」 「うわ、ちょっと静乃。その例えは凄い意地悪」 「すまない。だが充分に起こり得ることなんだと肝に銘じていてほしい。いざというとき、衝撃で呆けてしまわないように」 「これまでは月齢の影響で顕象が希薄だったから感知も対処も出来なかったが、これからは違う」 「防ぐことが出来るようになる反面、失敗した場合の被害規模も跳ね上がるっていうわけか」 「そう。人の願望が生む災厄、タタリと私たちが呼んでいる現象で、危険な盧生のやり口としてはむしろ常套手段だよ」 「じゃあそういう、物理的って言ったら変だけど、現実に悪い夢が出てくるのは今夜からだって言うんだな?」 「状況を整理して考えれば、そうなる確率が極めて高い。というか、私たちは夢の中に入れないし、この現実で夢を使えるようにされたんだから、そうなってくれないと手の打ちようがないだろう」 「要はさっきも言った理屈だよね。四四八くんの曾お祖父ちゃんがしてくれたことを信じる的な」 「それならそれで、こっちも期待に応えられるよう腹決めるけどよ……今の流れからすると、次の新月がピークってことだよな。つまりそれまで、段階的にやばさも増してくっちゅうことかよ」 「なによあんた、びびってんの?」 「ばっ、違ぇよそうじゃねえって……ただよ」 「なんかこう、少し違和感があるんだよ。夢ってさ、そんな悪いことばっか想像するもんじゃねえだろう?」 「曽祖父さんたちの夢を見てる奴らさ、そりゃあ悪者連中が滅茶苦茶するのを見たがる層もいるだろうけど、そんなひねくれてる奴だけじゃないだろう。オレなら普通に、ヒーローのことを考えるぜ」 「そういう夢がさ、オレらの力になってくれるかもって期待をしちゃあ駄目なのか?」 「栄光……」 こいつは本当、たまにだが良いことを言う。他力本願とも取れる主張ではあったけど、根本にあるのは人の善性に対する信頼だ。正義は勝つという王道が、本当はみんな好きなはずだと言っている。 無論、そこは俺も同じだし、晶たちもそうだろう。だが石神は、申し訳なさそうに首を横に振っていた。 「この夢の中心にいる盧生が、甘粕正彦ならあるいはそれも期待できたと思うよ。だけど栄光くん、今回に限ってはたぶん無理だ」 「どうしてっ?」 「言ったと思うが、盧生が召喚する夢は、その人となりに強く影響されるんだよ。だから悪党なら、悪魔的な夢しか顕象しないし、出来ない」 「私には、この盧生がヒーローなんてものを求めているとは、どうしても思えないよ」 「そういやおまえ、三番目の盧生だかもそういうクチだって言ってたな」 「ああ、なんだっけ。クリームシチュー的な」 「クリームヒルト。ナチスドイツの軍人だったんでしょ?」 クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。曰く死神の夢を顕象させたという第三の盧生。 甘粕正彦と同様、そいつは俺の曽祖父に斃されたと聞く。 欧州を死の渦に巻き込みながら中国大陸に進出してきたその盧生は、まさに戦乱の中心で、そいつを制することが大戦を防ぐことに繋がったという。具体的なところは不明だが、石神の家に伝わっている話ではそういうことらしい。 「たった一人の存在が世界大戦に至る流れを生んでいたなんてのは俄かに信じられないが、盧生はそれくらい図抜けているってことなんだろうな」 「曽祖父さん同様、未来を知っている上に夢を操れるというのは、その気になればどんな洗脳も出来る」 「正しくは、盧生の精神性と似通った神格の力で虜にする、だな。クリームヒルトは死神だから、その夢に当てられた者たちは破滅に向かって突っ走るんだよ。まさしく〈冥界〉《ヘルヘイム》の底まで」 「ともかく盧生とはそういうものだから、あまり期待しないほうがいい。私たちが柊四四八の眷属になれたこと以外、この現状は残らず敵がやっていることなんだ。普通、そこにお助け要素を入れるなんて有り得ないだろう」 「甘粕正彦みたいな奴でもない限り?」 「すげえ馬鹿野郎のほうが敵としてはおっかねえけどな。まあ話は分かったよ、そのタタリだかを湧いた先からぶっ潰していくのが当面の方針なんだな」 「でも私は、大杉くんの考え方が好きだよ。それに甘えるっていう意味じゃなくて、ヒーローを信じるのはいいことだもん」 「だな。ヒーローが現れないなら、俺たちがヒーローになればいい。そういう心構えは重要だ」 「そんなわけで、しゃきっとしろ栄光。なんにせよ、まずは今夜のことがすべてだろう」 「お、おう。つか別に、オレはガチでびびってるわけじゃねえって言ってるだろっ」 「すっごい説得力ないわよ、あんた」 「見栄張んなって。あたしも正直、不安だらけなんだしよ」 そんな風に、みんな空元気が混じりつつも笑っている。 鬼が出るか、蛇が出るか。今夜顕象される〈悪夢〉《タタり》とやらに、はたして対抗できるのか。恐れる気持ちは拭えないが、それでもやるしかないと覚悟を決める。 なぜなら全員、そこに不満や後悔の色を滲ませてはいないから。いきなり眷属なんてものに選ばれて、常識はずれの事態に立ち向かえと言われているのに、運命を呪うような奴はいない。あのときも思ったことだ。 見込んで夢を継がせてくれたこの事実に、奮えるほどの感動を覚えている。そんな俺たちを時折眩しそうに見つめている石神を、失望させたくないと思っているんだ。 俺たちは英雄の血を引いている。それが誇りで、だからこそ―― 「ちょっといいか、石神」 深夜に再び集合することを約束し、一旦それぞれの家に帰った皆を見送ったあと、俺はこいつにとある疑問を投げていた。 いいや、むしろこれは確認。こいつが意図的に省いたことを、せめて俺だけは知っておくべきだと考えている。 「なんだ四四八くん、怖い顔して」 「一つ答えろ」 単刀直入。ずばり俺はそれを言った。 「この現実にも、夢じゃない敵はいるな?」 「…………」 「どうしてそれを皆に言わない?」 まったく、隠し事の下手な奴だ。良くも悪くも単純な栄光たちならいざ知らず、俺はそこまで鈍くないし浅慮でもない。 他にも歩美や我堂あたりは気づいているかもしれないが、とにかくそのことを淡々と指摘していく。 「盧生と邯鄲の夢を用意できる奴は、必ずしもイコールじゃない。甘粕にしろ、俺の曽祖父さんにしろ、場を作った奴は別に存在している」 「確か、逆十字だったよな。俺の高祖父……それに該当する奴がいるだろう」 「あのミイラ、あれが持っていた本、誰かが持ち去ったのを俺は覚えてるぞ」 厳密に言えば、その誰かとやらが現れたわけじゃない。だが持ち去ったとしか表現できない現象が起きたのをこの目で見ている。 病に冒され、瀕死の状態だったとはいえ、それを見紛うはずもない。 「だから、朔の元凶はむしろそいつだ。そいつが邯鄲を構築し、盧生の夢を招いている」 「時系列的にも、そう考えればぴたりと符合するんだよ。違うか石神、思うにあの本は……」 「逆十字の手記……ああ、君の言うとおりだよ四四八くん」 「百年前、邯鄲の夢で真奈瀬晶が見つけたという手記は一つじゃない。もう一冊存在したんだ」 「そしてそちらには、邯鄲の夢を紡ぐ方法が記されていた」 深くため息を吐きながら、石神はそう言った。無言で先を促す俺に、こいつは観念したらしく話を続ける。 「君と同じで名前が同じだから紛らわしいが、逆十字と呼ばれた柊聖十郎の死によって一度邯鄲は失伝している。だけどそこで終わっていれば、第三盧生であるヘルヘイムが出てくるのはおかしいよな」 「キーラ・グルジェワがそうだったように、逆十字の生前に情報が流出したと君らには思わせたかったんだが、実際は違うんだ。言ったように邯鄲を構築する手法は遺されていて、それを継いだ者がいる」 「名前は緋衣征志郎。君の曽祖父、柊四四八の異母兄だよ」 「そして、あのミイラが彼だ」 「―――――」 ある程度は予想していたことだったが、実際に聞かされると衝撃を禁じ得ない。それは自分の血筋と、緋衣という男に対する複雑な気持ち。 なぜならきっと、いいや間違いなくそいつは…… 「病んで、いたのか……?」 「そう聞いている。逆十字が持っていた無数の死病は、そっくりそのまま緋衣の血に遺伝したんだ。ゆえに緋衣征志郎は、属性も精神性も、柊聖十郎そのものだったらしい」 「よって目的もまったく同じだ。邯鄲の夢を創りあげ、盧生を生み、その資格を奪い取って病から解放されること。そしてやはり同じように、夢は頓挫して病死する」 「それが、まさかあんなところに転がっているとは思いもしなかったよ。もしかしたら例の手記ごと、闇に葬るつもりで封印されていたのかもしれない」 「だけど、俺たちが暴いてしまった?」 「違うよ。正確には利用されたんだろう。あの地震だって、実は旧校舎以外のところじゃ何も起きてなかっただろう?」 「誰かが、狙ってやったんだよ。あの場所への道を開くために」 石神が言うとおり、本当はあのとき地震なんか起きていなかった。それはクラスメートや先生たちにも確認したし、記録も残っていない。 実際に旧校舎は倒壊し、俺たちは地下深くまで落とされたが、あれは非常に局所的な揺れだったのだ。まるで狙い済ましたような、いわばテロや暗殺に近いもの。 だから、なおさら俺は思う。 「俺たち以外に、眷属化した奴が近くにいる。そういうことだな?」 「そこまで断言できないよ。旧校舎を崩したのは、たとえば爆弾だったのかもしれないし、あの時点で眷属がいるというのは順序が合わない」 「だが手記を持ち去った奴は確実にいるだろう。そいつはなんだ、緋衣の関係者か?」 「分からない。だけどそもそも、邯鄲絡みの事情を知っている人間はとても限られるんだ。私や君の親父殿ならもう少し踏み込んで予想を立てられるのかもしれないが」 生憎うちのクソ親父は優雅に上海旅行ときたもんだ。よって役に立たないし、そこは石神の親父も同じらしい。放任と言えば聞こえはいいが、凄まじく無責任な大人たちだ。 苛立ちに頭痛を覚えながらも、俺は努めて冷静になるべく溜め息を搾り出す。それから、改めてこいつに問うた。 「どうしてそのことを皆に言わない。信用していないのか?」 「違うよ」 「ただ……」 何だと言うのか、石神はうつむいて目を逸らし、少しの沈黙を挟んでからぽつりと言った。 「分かってるのか四四八くん、これは殺人だぞ」 「夢じゃない。現実に生身を持った敵がいる……それをなんとかするっていうのは、そういうことだ」 「君らに、それが出来るのか?」 「…………」 「いや、仮に出来たとしても、やらせたくないよ」 「ついでに、そんなことをしようとしてる私を知られたくもなかったし」 「要するに、そういうことだよ。それを信用してないと言われたら、返す言葉もないけれど」 石神は肩を落とし、普段のこいつからは想像できないくらいバツ悪げにしている。つまり、それほど話したくなかったことなんだろう。 にも関わらずこうして素直に説明したのは、まあ性格で、こいつなりに信頼の気持ちを表明するためでもあったのだろう。そこは俺も理解した。 そのうえで、思う。 「殺人か……確かにその可能性は俺も考えてたが、おまえほどリアルには捉えてなかったかもしれない。結局のところ、これまで普通に生きてきた学生だからな」 「戦争に直面した大正時代の人間でも、山で妙な修行をしながら育った人間でもないから、そこはどうしようもない。そんな身で、おまえの気持ちを考えずものを言ったことは謝る」 「だけど、無粋で余計なこととは思ってないぞ」 石神の肩に手を置いて、こちらを向かせる。少し狼狽えてるらしいこいつの目を正面から見据えつつ、俺は続けた。 「だからそれについては全員で悩もう。人を殺すことになるのか、それでいいのか。別に爺さんたちを尊敬してるからって、同じ軍隊ノリでやらなきゃならない理由はない」 「時代が違うんだ。俺たちなりの、今風でいく戦の真を見つけよう。だから一人で決めるな。突っ走るな。面倒でも、みんなで答えを考えるんだよ」 「俺はそうしたいと思う。おまえはどうだ、石神」 問うと、こいつは目をぱちぱちさせながら。 「あ、その、それは……」 「君がそう言うなら、もちろん私も……」 再び顔を伏せ、だけど照れたようにもじもじしながらそう言った。 「なんの解決にもなってないけど、なんだか言葉に力があるから納得させられるよ。あのときと同じだな」 「だけどやっぱり最悪のときは、私に汚れ役を任せてほしい。そういう訓練をしてきたんだ。それが自然だし、効率もいいだろう?」 などと、こいつは伺いたてるように言うものだから。 「そこなんだが石神、おまえは今まで、つまりそういうことをやった経験があるのか?」 「え、それは生憎、ないけれど……」 困ったように口ごもるその態度に、俺は安堵がこみ上げてきた。なのでそうした気分のまま、笑って言う。 「じゃあ俺もおまえも同じだろう。経験者なんかいないんだから、効率もクソもない。妙な格好をつけるな馬鹿」 「むっ、それは聞き捨てならないぞ。私はこれまで、とてもとても努力してだな。認められたからこそ親父殿からこの役目を――」 「あー、分かった分かった。そりゃ凄いな、特に鬼面衆って名前がもうギャグみたいだ」 「は、腹立つな君はっ、ちょっとおい、分かった表に出ようじゃないか。私の必殺技を見せてやるっ!」 ムキになる石神をからかいながら、これでいいんだと思っていた。話の内容は物騒だが、それに合わせて殺伐とすることはない。他の奴らも、きっと同じことを言うだろう。 「おい待て、聞いてるのか四四八くん!」 だから、ついでにもう一つ。確認したいことが俺にはあった。 「なあ石神、それより盧生についてだが――」 「おまえは本当に、もう生まれることはないと思っているのか?」 そこについても、はっきりさせておかなければならないだろう。 「つまり歩美は、四番目の盧生が〈現代〉《こっち》側にいる可能性も捨てきれないって言うんだな?」  四四八の家を出てからそれぞれの家に帰る道中、彼らはそんなことを話していた。 「うん。だって誰にも断言できないことでしょう? だいいち百年前は二人も三人も出てきたのに、今は絶対生まれないとか、それはちょっと強引だよ。  しーちゃんの言うことも分かるけど、あれはおじいちゃんたち大好きっ子だからさー、そういうノリでまるっと信じちゃうのも時と場合で良し悪しあるでしょ」 「おまえ、そう思うんならなんであんとき言わないんだよ」 「えー、だってそういう空気じゃなかったし。あの場はみんなでえいえいおーってするのが優先かなと思ったんだもん。  たぶん四四八くんも同じこと考えてるだろうし、あっちはあっちで今ごろ突っ込み入れてるよ。だからこっちはこっちでね、また一から話し合う手間を省いておこうかなと」 「まあ、なんでもいいけどよ。俺はごちゃごちゃ理屈考えるの苦手だし。  おまえはなんかあるのか鈴子?」 「そうね。さっき歩美も言ったけど、〈現代〉《こっち》側になんとかしなきゃいけない奴がいる率は高いと思うわ。盧生云々はともかくとして」 「そうそう、黒幕的な? 絶対いるよね。でないと色々おかしいもん」  そうして歩美は、皆に彼女が思うところを語って聞かせる。それは奇しくも、四四八が静乃に質したこととまったく同じ内容だった。 「わりといつものことだけど、歩美ってよく考えてるよね。普段は大杉くんと大差ないくせに」 「あー、失敬だなみっちゃんは。勉強できるくせに抜けてる誰かさんが残念なだけなんですー」 「む、ちょっとその言い方はひどくない?」 「むしろオレに対して謝れよおまえら」  ともかく、例によってすぐ脱線してしまう流れを晶が締めた。 「はいはい、もう分かったから。いつまでもじゃれんなよおまえら」 「その黒幕ってのがいるとして、じゃあなんで静乃はそれをあたしらに言わなかったと思うんだ?」 「そこはほら、たぶんだけど……」 「一人で殺す気だったんじゃねえか? あいつはそういう、要するに殺し屋仕事をしに来たんだろ」 「淳士、あんたねえ、言い方ってもんがあるでしょ」 「悪ぃ、けど、結局はそういうことだろ。あいつなりに気ぃ遣ったつもりで、俺らにその手の真似をさせたくなかったんだと思うぜ」 「要らねえ世話だな」 「うん。でもほら、そこはきっと柊くんがシメちゃってるよ。だからたぶん大丈夫」 「あとであたしらからもガツンと言っとくか。そこらへんどうするかは、黒幕とっ捕まえてからでも遅くねえし。  問題は、〈現代〉《こっち》側に盧生がいた場合ってことだろ、あゆ?」  盧生は盧生じゃないと太刀打ちできない。その前提がある以上、そうだった場合は詰んでしまう。最悪の流れだが、だからといってそれを考えないのもよくないというのが歩美の主張だ。 「まあねえ、わたしも色々考えてみたんだけども。  しーちゃんの推理はだいぶ確率が高いと思うよ。だけどやっぱり、他にも考えられるパターンはあるわけで。  たとえば盧生は、時間を飛び越えられるわけじゃない? だったら生前の甘粕大尉やクリームちゃんが今回のことをやってる可能性もあるわけだよ」 「クリームちゃんって、おまえな……」  脱力を伴う呼び名にげんなりする一同だったが、歩美はまったく気にしていない。変わらずマイペースで話し続ける。 「そんな風に、盧生っていうのは超チートなんだから、理屈で考えても無駄っぽいよ。実はこんなことも出来るんだぜ、ふははーって新設定が続々出てくるかもしんないし。  そのうえでしーちゃんが四番目もいるぞって言ったのは、過去の三人とやってることの系統が違うからだね。これは私も同感だし、仮にクリームちゃんたちが犯人だとしたら、それはそれで楽だと思う」 「一番目と三番目の盧生は、柊四四八にやっつけられてるから?」 「うん。なんにしろ、わたしたちの盧生さまはこの二人より強いんだよ。そんな単純でもないだろうけど、とにかく勝った相手なんだから大丈夫――て思いたい」 「まあ、私たちの気分的にもだいぶマシよね。それで?」 「あとは静乃が言うパターンと、おまえが不安がってるパターンだよな」  第四の盧生が過去にいるか、現代にいるか。前者の場合は静乃が言うとおり柊四四八に任せればいいが、後者だと手に負えない。  それについて、歩美は自説を披露した。 「実はもう一パターンあるんだよ。過去でも今でもない、未来にいる場合」 「はあっ?」  あまりにもその推理は突飛すぎて、全員例外なく目をむいた。言われてみれば過去と現在と未来は三点セットであるものの、そこまで話を広げると切りがなくなってしまうのではないか。  皆の反応を見て察したのか、歩美は弁解するように付け加える。 「勘違いしないで。別にそんな、百年後とか千年後とかの話をしてるんじゃないから」 「要は、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈点〉《 、》〈で〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》ってことだよ」 「つまり……」  それで、まず水希が理解した。全員を代表して言う。 「今まさに、そうなろうとしてるってことだね?」  盧生とは、夢を操る資格を持つ者。だがそれは、邯鄲を制覇してアラヤを握らなければ完成しない。  必須の工程、修行を終えて極めない限り盧生は盧生になれないのだ。ゆえにたとえ資格者でも、途上にあるうちは常人と変わらない。  それはまだ、盧生になっていないと表現できる。歩美が言っているのはそういうことだ。 「考えたんだよ。たとえば今、修行を完成してる盧生がこっちにいたらさ、もう絶対無敵の無双じゃん? 誰もなんにも出来ないし、とっくに滅茶苦茶やられてるよ」 「でもそうなってない。むしろ何か、言ってしまえば半端でしょ? ていうことは――」 「なるほど。これから盧生になる奴か。だったら確かに、筋も通るわ」 「段々影響力が強くなっていくのもそうだよな。要するに修行中だからか」 「だったら四四八の曽祖父さんが、オレらに任せてくれたのも分かるぜ。八層超えなきゃ、そいつはただの普通人だしよ」 「そうなる前に見つけ出して、ぶちのめせばいいってことか」  もしかしたら、静乃もその可能性は考えていたのかもしれない。そのうえで言わなかったのは、やはりさっきと同じ理屈で、自分たちに手を汚させたくなかったからだろう。 「どういう風にやっつけるかは、みんなで考えればいいことだしね」 「私たちみたいな学生が人殺しなんて流行らないわよ。柊だって、きっとそう言うに決まってるわ」 「つか、言ってるだろ。結局のところ、黒幕シメればいいんじゃないか?」 「百年前の逆十字に該当する奴だよね。まだ仮定に仮定の話だけど、元を断っちゃえば夢は終わるよ」  と、前向きな結論を出したとき。 「しっ、おまえら黙れ」  唐突に、淳士が皆を制していた。 「なんだよ鳴滝、どうかしたのか?」  訝る面々だったが、すぐに彼らも事情を察する。それは……  段蔓で姉さんたちを見つけた僕は、努めて何もないような顔をしつつ皆に近づいて話しかけた。 「こんにちは。皆さんそろって、何処に行ってたんですか?」 「えっ、ああ、それはちょっと、四四八んとこにさ」 「そうそう。文化祭のことで会議をしてたんだよ、ねえりんちゃん?」 「え、ええそうね。劇の脚本について、ほら、やっぱ私が目立たないとつまんないし?」  皆、口々にそんなことを言っているが、全員そろって嘘が下手だ。僕が何も知らないと思っているのだろう。 「それで、信明はどうしたの?」 「もうじき暗くなっちまうし、特に何もねえなら一緒に帰るか?」 「そーそー、なんせ近頃は物騒だしよー」 「物騒?」  だから、そんな彼らの態度が神経を逆撫でした。思わず険を帯びた僕の口調に、しまったという顔をする栄光さん。それに無言の非難を向ける姉さんたち。  馬鹿が、余計なことを言いやがってと、顔に書いてあるんだよ。  丸見えだし、見逃さない。どれだけ僕がみんなのことを、昔から追い続けてると思っているんだ。  そんなことを言っても、彼らは困るだけだと分かっているけど…… 「その、なんだ。最近は妙な事件も多いしよ。よく分かんねえ死人が出てるのもそうだが、旧校舎でのこともあるじゃねえか。だから調子は大丈夫なのかと思ってよ。  なんだかんだ、俺ら全員危ない目に遭ったんだ。前も言ったが、うぜえだろうけど心配なんだよ」 「…………」 「ノブはほら、例のおかしな夢とか見てたりすんのか? おまえの学年でも話題になってると思うけど」 「もしそうなら、ちょっと教えてほしいなあとか思ったり」 「別に……」  ささくれ立つ気分を静めるため、深く息を吐きながら首を振った。皆が本当のことを話さないなら、僕も話す義理はない。 「何も、特に何もないです」 「信明……」  だが本当は話したいし、話してほしい。ずっと追いかけてきたんだから、置いていかれたくないと思うんだ。  おかしな夢? ああ見ているさ。見ているとも。おそらく他の人たちよりずっと前から、より詳しく劇的な形で体験している。  だからこそ、僕は姉さん達が知りえないことまできっと知っているんだよ。  百年前の戦真館。甘粕事件。盧生、眷属、邯鄲の夢……緋衣南天という女の子と一緒に、僕はそれらの真相を夢の中で見続けている。  〈徐〉《 、》〈々〉《 、》〈に〉《 、》〈階〉《 、》〈層〉《 、》〈を〉《 、》〈降〉《 、》〈り〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》――ゆえに、思い知らされることがとても多い。  柊四四八の物語。その眷属である六人の仲間たち。仁義八行の犬士たちには、しかし最後の八人目がいなかった。  いなくても、何も問題はなかったんだ。  僕らの曾祖父母、柊四四八は眩しく、真奈瀬晶は優しく、龍辺歩美は賢く、我堂鈴子は正しく。  大杉栄光は熱く、鳴滝淳士は重く、そして世良水希は烈しく――  皆、それぞれの戦の真を見出し、求めて戦った。  そこに、僕は存在しない。僕に該当する人物は見当たらない。  だから〈現代〉《ここ》でも、言い知れぬ疎外感を覚えるんだよ。  またしても、おまえの役は存在しないと叩きつけられてるように感じるんだ。  しかも、これは決して、単なる気分の問題ではない確信がある。 「それよりも……皆さんこそ、大丈夫なんですか?」  あのとき、あの地底において、僕を除くこの人たちは、と―― 「だ、大丈夫って、何がよ?」 「あれ以来、夜中に皆で集まって何かしてるようですし……気になりますよ」 「そ、それは、だって、あんたもやってたことじゃない」 「僕はもう、夜中に出歩いたりしてないよ。知ってるだろ?」  正しくは、出来なくなった。どういうわけか、姉さんが外出した後に僕の部屋のドアは頑として開かないのだ。まるで見えない鍵でも掛けられように、絶対追ってくるなと言っているかのように。 「他にも、気になることは色々ある。たとえば姉さん、最近家のものを壊しすぎだよ。  コップとか、皿とか、テレビやゲームのコントローラー、どうしてちょっと触っただけで、あんなものが壊れるんだい?」  まるで、力の加減が急に分からなくなったみたいに。外見はそのまま、プロレスラーにでもなったというのか? 有り得ないだろう。  有り得るとしたら、それは一つ。 「姉さんたちは、もしかして……」  夢の彼らと同じように、夢の力を獲得する権利を、与えられて――  僕を除き、また僕以外で、しかも今度は石神さんという真の八人目を迎え入れて。  姉さんたちだけが戦の真を、百年前の続きをしようと―― 「うるさいッ!  あんた、いったい何が言いたいの? さっきからワケの分からないことばっかり、関係ないじゃない。ほっといてよ!」 「おい、水希……」 「〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》?」  それを言うのか。言ってしまうのか姉さん。  ああ、やはりそうだ。間違いない。  この件に関し、僕の役目は存在しないと言っている。 「皆さんも、同じ意見なんですか?」 「いや、別にその、あたしはそんな……」 「ノブくん、よく分からないけど、何かきっと誤解してるよ。わたしたちはさあ……」 「僕に、何も取り立てて言うことはないと?」  正面から皆を見据えて問い質すと、返ってきた答えは単純明快。 「そうね。これといって何もないわ。  姉弟喧嘩もいいいけど信明、単にあんたの考えすぎよ」 「おい、鈴子……」 「黙ってなさい、この馬鹿っ! とにかくそういうこと、話は終わり。  そうでしょ、水希」 「うん、そうだね。  怒鳴って悪かったけど、ほんとに何もないわよ信明。だから……」  それ以上、聞いても仕方ないと思ったし、聞きたくなかった。 「もういいよ」  吐き捨て、僕は踵を返す。そしてそのまま、皆に背を向けて走り始めた。  逃げるように。いや実際、逃げたんだろうなこれは。直視したくない現実というやつに向き合うことが耐えられなかったから。  ああ、くそ。弱い、本当に弱い。  以前、夢の中で僕は言った。都合の悪いことから目を逸らさず、逃げない勇気を持った人こそ強いのだと。  それがどうだ、この様は。我ながら情けなさすぎて、笑いたくなってくる。  だけど込み上げてくるのは苦い何かで、僕が経験したどんな病より嫌な味のするものだった。 「……なあ、よかったのかよこれで」  駆け去る信明の背を目で追いつつ、何とも言えないバツの悪さを滲ませながら栄光は呟いた。 「あいつに全部話すわけにゃいかないってのは分かるけどよ……何もあんな言い方しなくたって」 「それは自覚してるし、反省もしてる。だけど他にどうすりゃよかったのよ」 「ごめんねみんな。もともと私が短気起こしちゃったから」 「まあ、謝るならノブに謝れよ。気持ちは分かっけどさあ」 「やっぱり家族だと、色々見られてるし誤魔化しきかなくなっちゃうもんね。わたしもお母さんに結構言われて、うるさいなーこいつって思ってるもん」 「信明……フォローしてやりたいところだが、今は何言っても薮蛇にしかならねえだろうな」 「よくねえ流れだったのは確かだが、こうなりゃもうしょうがねえだろ。話せねえもんは話せねえし、不恰好だがすっとぼける以外にゃよ」 「あとで、四四八にこのことも言っとくか。あいつの話なら、ノブもいくらか素直に聞くだろうし。  あぁ~、怒られそうだなあ、ったく」 「こうなりゃさっさと面倒ごとは終わらせて、これ以上こじれないようにするっきゃねえよな」 「そうだね。だから今夜は頑張ろう」  ひとまずそういうことでいくしかない。言い方は悪いかもしれないが、大事の前だ。  今夜、そして今後も直面するだろう諸々に比べれば、今起こったことはしょせん些細な、無視は出来ないが後に回すしかない問題で…… 「信明、あの子……ちゃんと家に帰ってくればいいけれど」  彼を大事に思うからこそ蚊帳の外に置くしかないと、苦い気持ちを抱えながらも断固として、水希たちは判断したのだ。  そう、正しいのは姉さんたちのほうだと分かっている。僕の想像通りだとしたら話せるはずのないことで、もしも立場が逆だったらどうするかなんて考えるまでもない。  事実、僕はこれまで、自分が抱えた秘密を姉さんたちに話さなかった。  話しても心配させるだけだと思ったし、何も解決しないと分かっていたし、そして一種の優越感に浸っていたからだと自覚している。  そんな身で、そっちは包み隠さず話すべきだと文句をつけるほうが間違っているだろう。結局のところ、自分の優勢が突き崩されてみっともなく嫉妬しているだけにすぎない。  僕だけの秘密。僕だけが知る真実。僕だけが体験できる超常の物語。  それが市内中に広がるというかたちで矮小化されてしまい、さらにはおそらく、より強力なアドバンテージを姉さんたちが握ってしまった。  そんな現実に僕は腐り、気持ちのやり場なく苛立っているだけのこと。  分かっている。分かっているんだよ。僕の空回りだということくらい。  だからこそ、自分の成すべき何かが欲しい。世良信明というちっぽけな男にも、確と定められた役目が欲しい。  そんなものは自分で見つけろ? 正論だ。しかし僕には圧倒的に欠けているものがあるので、己に何が出来るのかさえ見つけられない。  自負――それを育む成功の、そして他者から認められるという体験。そうしたものが足りないから、僕は、僕は、ああちくしょう! 「くそおおおおォォッ!」  全速力で走り込んだ浜辺に立ち、腹の底から吼えていた。そうすることで、内に溜まった醜いものをすべて吐き出したかったのだ。  が、そんな単純にいくはずもないことは誰より自分自身分かっており…… 「……、…っ、くそ……」  吐き出すどころか余計に黒いものが堆積する感覚を覚え、砂を蹴った。  寄せては返す波の音は常に不変で、ぶれぶれの自分を一層惨めに感じていたとき。 「泣いてるの、信明くん」  その声が、背後から僕を稲妻のように貫いたのだ。  夕焼けに染まった七里ヶ浜。  階段に腰掛けて微笑む彼女がこちらを見ている。  背景が透けて見えそうなほど儚げで、押せば崩れそうなほど脆そうで、しかし強烈な芯を内に秘めた女の子。  相対すれば大半の者を不安の渦に落とし込むだろう佇まい。  〈病〉《ヤミ》の気配。甘い香り。まるで蠱惑的な劇薬のように。  緋衣南天がそこにいた。 「君、は……」  本物なのか? 思わずそう漏らしかけたのは無理のないことだろう。千信館に入学以来、毎夜夢で逢ってはいたが、こうして現実に面と向かうのは一年以上ぶりになる。  その夢にしても旧校舎の件からこの十日間、彼女と会話をしていなかった。  傍にいるし、同じ夢を見ているという実感はあったものの、なぜか接触することが出来ずにいた。  にも関わらず今、このタイミングで、ここに緋衣さんが現れたという状況が掴めない。不意打ちすぎて咄嗟に対応できないのだ。  本音を言うと、彼女はもう、もしかしてと…… 「ごめんね。ここのところ素っ気なくて。少しばたばたしていたの。  ねえ信明くん、ひょっとして、もう死んだんじゃないかと思ってた?」  そんな僕の心を見透かすように、緋衣さんは淡く笑う。  それにこちらはどぎまぎしてしまうものの、大事なのはそこじゃない。  今の言い様、それは暗に、一つの事実を決定付けるものであり…… 「君は、夢で……」 「ええ。最近はご無沙汰だったけど、毎日逢って色んな所に行ったよね。  小町通りや、段蔓や、この七里ヶ浜や、八幡宮や。  そして明治だったり、大正だったり。覚えてるよ、たとえ夢でも―― 今はもう夢じゃない。一緒に朔を越えようって約束したこと、覚えてる」  彼女は紛れもなく緋衣南天本人であり、また共に夢を巡った同志である。その偽りない証となる言葉を告げられ、僕の胸は熱くなった。  つい先ほどまでとぐろを巻いていた諸々が、一気に霧消してしまうほどに。  なぜなら、僕を必要だと言ってくれたのは彼女だから。  僕を認め、好きだと言ってくれたのはこの人だから。  緋衣南天が目の前にいる。その事実だけで、僕は何者かになれるのだと信じることが出来るんだ。 「心配、してたよ。君は全然学校に来ないから。  やっぱり今も、その、身体は……」 「うん、残念だけどあまり自由には動けない。登校するのは、ちょっとまだきついかな。  だけど、だいぶ良くなったのよ。こうして信明くんの前に出てこられるくらいには。  そして、これからはもっと良くなる」 「本当に?」 「嘘なんて言わないよ。あなたのお姉さんたちとは違うんだから」  その言葉に、僕は少し面食らったが苦笑した。彼女はときたま、こんな風に意地の悪いことを言う人だったので今さら気にするレベルじゃない。 「見てたんだ」 「信明くんのことなら大抵、いつもね」 「じゃあ、やっぱり姉さんたちは嘘をついてる?」 「もちろん、だって彼女たちは眷属よ」  盧生の端末。邯鄲の夢を現実に紡ぎだすための資格を有した、選ばれし戦士たち。百年前の彼らがそうだったように、やはりこの百年後でも同じ権利を獲得したということだ。 「君は本当に色々知ってる。いっそ不自然さすら覚えるほどに。  緋衣さん、いったい君は何者なんだ?」  恐いほど裏の事情に精通し、逆さ十字をヒーローと言った彼女。  僕とてそこまで馬鹿じゃない。状況を並べれば見えてくるものがある。 「第二の逆さ十字になりたいのかい?」 「そして世界を敵に回し、何が何でも生きるのかって? ええそうよ、だって羨ましいんだもの。  て言ったら、どうするの?」 「どうもしない」  問いに、僕を即答した。それに少し、僅かだけだが緋衣さんは驚いたようで、そのことがこっちとしては嬉しかった。  彼女は〈真〉《マコト》を偽らない。すべては明かさないかもしれないし、危険なほどに病んでもいるだろう。だが、それがどうした。  重要なのは、彼女の傍なら僕の役があるってことだ。それを信じられるという〈現実〉《いま》だ。 「お互い、よく知っているだろう。生きることに理屈なんかない。  君は言ったね。僕は君のために生まれたと」  だから、ここではっきりと聞かせてほしい。嘘偽りない本当の気持ちを。  君が奉じる戦の真を。 「世良信明は、緋衣南天の役に立つのか?」 「ええ、あなたにしか出来ない。ううん」  そこで彼女は、一度ゆっくりと首を横に振ってから。 「信明くんじゃないと、私は嫌」  答え、再び淡く笑ったのだ。 「ならいいんだよ。これからもよろしく」 「そうだね。頼りにしてるから、私を助けて」  ああ、助けるとも。何が何でも、絶対に。僕が君を死なせはしない。  そして、それは僕だけが君の味方でありたいだなんて意味でもない。  緋衣南天という女の子を、僕以外のすべてから敵視されるような存在には断じてしないという誓いだ。  彼女と共に行く道は、もしかしたら姉さんや四四八さんたちへの裏切りになるかもしれない。彼らを危険に晒す片棒を担ぐ羽目になると予感している。  しかし、だからこそ行くべきだ。ここで僕が逃げ出したら、緋衣さんは止まらない。きっと彼らと彼女の間で、破滅的な衝突が起きてしまう。  百年前の逆さ十字と同様に。僕がそれを止めるんだ。  緋衣さんを守り、姉さんたちを守る。僕には大それた役なのかもしれないが、やらねばならないし、やれると信じろ。 「ねえ信明くん、何を考えているの?」 「色々さ。僕の役目を、間違わないように」  微笑む彼女はすべてを見透かしているように思える。だがそれでもいい。  もとから嘘をつく気はないし、ついたつもりもないのだから。 「役目ね。じゃあ、より正確に理解できるよう教えてあげるね」 「あなたは、盧生――」  けど、しかしその一言が。 「私の救世主で、〈主人公〉《ヒーロー》になる人よ」  あまりにも予想の埒外だったから、思考は完全に止まってしまった。 「僕が、盧生……?」  史上、本当に特別な、人類の代表者とも言える超人の器?  馬鹿な、そんな、悪い冗談だと思いながらも…… 「だから大好きよ、信明くん」  姉さんより、四四八さんより、高みの資格を有していると、笑う緋衣さんに否定を返すことは出来なかった。  なぜならそれは、とても抗い難く甘美な〈称号〉《ユメ》だと感じたんだ。 精神を集中し、“見る”という感覚を研ぎ澄ます。それは外見上の容姿を捉えるという意味じゃなく、もっと深い層での分析だった。 存在として、その対象が持ち得る属性。及び格とでも言うべきものを判定する透視力。 〈解析〉《キャンセル》、実行――ここに俺たち全員の戦力が〈露〉《あらわ》となる。 「そうか、信明がそんなことをな……」 深夜、八幡に集合した皆を前に、俺はいつも最初にやることとして全員のステータスを確認していた。これ自体は体調のチェックみたいなものだから、適当というわけじゃないが話をしながらでも出来る。 今夜、旧校舎の件以来、二度目の実戦になると予感しているので相応に精査はしてるが、そういう面で問題を抱えている奴はいなかった。全員、この十日で訓練した結果がしっかり出ている。 もっとも、内の大半は曽祖父さんたちの努力だった。眷属に選ばれた際、俺たちは彼らの研鑽も継いでいたから、まったく同規模というわけじゃないだろうけど、最初から一定以上の力と技を与えられている。 だから、この十日でやってきたのはむしろ制御を主にした訓練で、いきなり入手した天外な力に慣れることが最優先。 未だぎこちなく、不恰好な点はそれぞれ多々あるものの、何とか形になりかけている。よってコンディションに不都合はない。現状における最善を維持していると認識して、俺はキャンセルを解除した。 「で、あいつは家に帰ってきたのか世良?」 「うん、でも、やっぱりまだ思うところはあるみたい。話しかければ応えてくれるし、私も改めて謝ったんだけど」 「それは仕方ないだろう。あいつを怒らせたことについてちゃんと話せないのに、言葉だけ謝罪を述べても意味はないさ。おまえの立場も察するが」 「まあ分かったよ。俺もあいつのことは気にかけておく。どのみち朝になれば会うんだしな、任せとけよ」 俺自身、この十日間で信明が不安定になっていたのは感じていたし、さらに前から兆候はあった。にも関わらず手をこまねていていたのだから、責任の一端はあるだろう。それどころじゃなかったとか、言い訳はしたくない。 「そういうわけで石神、悪いが次のマラソンは席を外してくれ」 「なんだ、私がいたらやりにくいのか?」 「一応な。こういう類は男同士のほうが上手くいくんだよ。女の前じゃ話せないことってのが色々ある」 「なるほど、じゃあ野暮は言わない。覗いてみたい気持ちはあるが、ここは慎み的な女子力を磨くことにしよう」 「それで今夜の方針だが……」 石神に促され、皆の顔から雑談の雰囲気が消えた。目先の問題と向き合うため、緊張を孕んだ空気が場に下りる。 「基本、いつ何処で何が出てくるかは見当がつかない。出てくれば、その時点で我々は察知できるはずだが、初動はどうしても後手に回ってしまう」 「まあ事の性質上、舞台に選ばれるだろう場所は限られているし、この八幡もその一つだ。なので歯がゆい話だが、まずは待つしか出来ないと思う」 「それについて、何か意見はあるだろうか?」 「うん、そこなんだけど一ついい?」 「当てずっぽうに鎌倉中歩き回るよりは、それっぽい場所で待ち構えてるほうがいいだろうっていうのは同感。だからその場所選びを、もうちょっと確率あげていこうと思うの」 言って、世良はスマホを取り出し、なにやら操作をしてから続けた。 「つまるところさ、街の人たちの意識調査が大事だと思うの。言ってみれば人気投票の順位チェックかな。喩えがちょっと不謹慎だけど」 「なるほど」 そこで俺も理解した。世良の言わんとしていることを引き継いで話す。 「甘粕事件の夢を見ている人たちが、今現在どんなことを思っているか。その傾向を把握できればっていうことだな」 「そう。といっても凄い量だから限度があるし、気休めかもしれないけど」 「いや、何もやらないで待ってるよりは、絶対にそれ有意義だぜ。ケータイがあれば、ここでもネットは見放題だしよ」 「要するにSNS全般が対象よね? 確かに量は膨大だけど、上手く検索かければやれないこともないか」 「淳士、ほらあんたも手伝いなさい」 「んなこと言っても、俺はケータイなんか持ってきてねえよ」 「はあ、あんた馬鹿じゃないの。連絡手段の確保は必須でしょ、ほんと使えないわね」 「うるせえな、しょうがねえだろ。そんないきなり言われてもよ」 「悪い、あたしも持ってきてなかった。壊れたら嫌だし」 「というか私はそもそも、携帯電話自体持ってないという……」 「ごめん。もっと早く気づけてれば良かったんだけど……」 「まあ、そこは全員同じだ世良。とにかく出来る奴でやるしかないだろ」 言いながら、俺も携帯電話を取り出して調べに入る。確かにこんなものは気休めかもしれないし、もしかしたら余計に混乱するだけかもしれないが、やれることはやらねばならない。 そういう意味では、俺がこの手を思いついていてもよかったんだ。予想される修羅場を前に冷静であろうと努めていたけど、やはり浮き足立っていた面があるのだろうと自省する。 よって、世良が謝ることはない。過去から紡がれる悪夢とやらに立ち向かうため、曽祖父さんほどとはいかなくても、その真似事くらいは出来るようになりたいと思う。 「鎌倉、夢、戦真館、甘粕正彦、柊四四八……効果的な検索ワードはこのあたりか。歩美はどうだ?」 「あー、うん。ちょっと今、学校の裏サイトに入ってみたとこ」 「え、なに? 〈千信館〉《うち》ってそんなもんあるの?」 「あるよー。パスワード教えてあげよっか? 結構面白いんだから」 「お願い歩美、ちょっと恐い気もするけど」 「ほんと、噂にゃ聞いたことあっけどよ……なんかおっかねえよなそういうとこは」 「ま、陰口大会や秘密暴露は定番だよね。でもそういう、トイレの落書き的なノリだからこそ、この場合は役に立つと思うんだ」 「千信館の学生なら、もしかしたら他の一般人より選ばれる夢の優先順位が高いかもしれないし」 「ほらしーちゃん、見てよこれ」 「なになに、えーっと」 歩美に促され、液晶に目をやった石神は眉をひそめた。 「石神静乃は壇狩摩の子孫だと思う奴のスレ……なんだこれ」 「あいつ、髪の色が狩摩そっくりじゃね。柊とつるんでる時点でクソ怪しい。だって」 「鬼面衆ワロタ……」 「さくっと正体バレてるわねあんた」 まったく、外野は好き勝手に言ってくれる。書き込み自体はふざけたものばかりだったが、生憎と笑う気にはなれない。 俺たち以外、鎌倉中の人間が、甘粕事件の夢を見ているという現実がそこにあった。これが導く事象を思えば、むしろ恐怖を覚えてしまう。 「改めて、これは洒落にならないな。赤の他人に命を握られた気分だ」 柊四四八で検索をしようとしたら、五番目くらいの候補に「死ねばいいのに」と出てきた。もしもこれが現実化したら、俺はどうなるんだという話だろう。 「悪気は、別にねえんだよな……いや、あんのかもしんないけどよ」 「夢は夢、か。気楽なもんだぜ、くそったれ」 「こうなったら面白い。こんな展開が見たい。あいつがこうで、こいつがそうで……」 「いわゆる二次創作ってやつかしらね。それ自体、静乃が言ったとおり別に悪いものじゃないけれど、状況的にこっちは冗談じゃすまされないわ」 〈創作者〉《クリエイター》が無数にいる。そして、〈作者〉《それ》は物語の神だ。作り出す発想、技量、求められる〈声〉《ニーズ》がそろえば、まさしくなんでも出来てしまう。 登場人物の生死、感情、運命すらも自由自在。それが現実に当てはめられたら、これほど凶悪な暴力はないだろう。 なぜなら、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「やっぱこれ、考えるなとか言ったところで無駄だよな。事情話しても通じるわけねえし、相手多すぎるから手が足りねえよ」 「おまえの考えてることが現実に起こるんだよ――なんて大概だもんね。ううん、もしかしたら薄々気づいてる人はいるかもしれないけど」 「だからこそ、面白いってか」 八人死んだ。異常事態。そこから連想して夢が原因かもと考える奴はいるだろう。だが、そう思えばこそ考えるのはやめられない。 試したいという好奇心。避けたいという恐怖心。なんであれ、想像の翼は広がっていく。 よって、俺たちが〈悪夢〉《タタリ》とやらを排除し続けるだけではジリ貧だ。求められるのは根本的な解決になる。 すなわち、それは元凶を叩くという意味であり、石神が皆に内緒でやろうとしていたこと。 晶が場を和ますように、苦笑しながら石神の肩を叩いた。 「まあ、そんなわけでよ。おまえ一人で抱え込むのは無しだぜ静乃。あたしらに黙って暗殺とか、そういうのつまんねえから」 「悪い夢はぶっ潰す。黒幕捜してぶっ飛ばす。二つ一緒に、みんなでやっていこうじゃねえの。そりゃ、おまえに比べりゃあたしら頼りないかもしんないけどさ」 「少なくとも、逃げるような奴はここに一人もいないんだから」 「晶……」 盧生は誰か。逆十字は誰か。そしてそいつをどうするか。 昼の話し合いで石神がぼやかした部分についてはすでに俺たち全員からの突っ込みが成されており、謎は依然謎のままだが、それでもこいつのスタンドプレーは看過しないという方向に落ち着いている。 なので再度、釘を刺した晶だったが、そこで一転ニヤリと綻び。 「あ、でも栄光は逃げそうか」 「ちょ、おまえなあ、オレを落ちに使うんじゃねえよっ」 「そりゃ人一倍びびってはいるけどよ。そんなんでおまえオレは――」 「ああ、分かってる。私は君を信頼してるよ栄光くん。それにみんなも」 「だから元凶の処遇について、私の方針を伏せていたことは謝るよ。言うとおり、そこはみんなで考えよう」 「本音を言えば私だって人殺しなんか避けたいし、やらないですむならそれに越したことはない」 「だけどな、歩美」 「うん? なあにしーちゃん」 「君が言っていた、盧生が〈現代〉《こっち》にいるかもしれないという説……それについてはやはり有り得ないと思うんだ」 「そうかなあ? 結構いい線いってる推理だとわたしは思ってるんだけど」 首を傾げる歩美に対し、石神は困ったように首を振った。こいつにしては珍しい、奥歯に物が挟まった調子で続ける。 「確かに可能性はゼロじゃないだろうが……なんていうか、それは良くないと感じるんだよ」 「そういう風に考えるのは危ないと思う。いや無論、考えたら現実になるかもなんて意味じゃない。私たちは例の夢を見ていないんだから、条件に当てはまらないし」 「私の説を否定されたからムキになってるわけでもないんだ。……すまんな、我ながら要領を得ないが」 「つまり勘かよ。まあ、あながちそういうもんも無視できねえ。何にしろ、目の前のことを片っ端から潰していけば答えは出るだろ」 「あんたはほんとに単純よね。羨ましいわ」 「んで、結局ネット検索の結果はどうなんだよ? 当面のことって言ったら、まずはそこだろ?」 言われ、俺たちケータイを持ってる組は顔を見合す。 「結論から言うと、さっぱり分からん」 「もうちょっと腰をすえていけば何か掴めるかもしれないんだけど、今夜に限って言えば無理めだね。とてもチェックが追いつかないよ」 「だな。今後を考えれば利用価値はあると思うが」 「いっそのこと、わたしたちも介入して情報を募ったほうがいいかもしんない。今、どういうのが流行ってる?って専門のサイトを作ってさ。逆に煽っちゃうことになりそうだから危険だけど」 「私は賛成よ。後手に回るのは性に合わない。どう思う?」 歩美の案に、俺たちは少し考えたが頷いた。 「今夜の結果次第じゃ、それも有りだな。確かにリスクはあるが、先読みが出来るようになるのはでかい。対策も立てやすくなる」 「だから歩美、そのときはおまえにサイト作りを任せていいか?」 「オッケー。じゃあともかく、今夜を乗り切っちゃわないとだね。それについては、やっぱりこのまま待つしかないって感じ?」 「とりあえず言えることは、絶対にばらけないこと。そうだな、石神?」 「ああ。手分けしたい気持ちはあるだろうが、この状況で戦力分散は危険すぎる。全員が目の届くところにいるべきだ」 「〈八幡〉《ここ》は開けてるから何かあればすぐに分かるし、まかり間違って逸れるようなこともないだろう」 「あとは上手いこと、当たりであってくれたらいいんだが……」 人の願望によって顕象される悪夢。それが出現する場所には一定の法則があると俺たちは思っていた。 甘粕事件の夢から生まれるものである以上、その物語と関係ない地には出てこない。少なくとも、起点はそこに縛られているはずだろう。 すなわち八幡、高徳院、千信館、七里ヶ浜……そして旧辰宮邸。 どれも昼の賑わいとは裏腹に、夜は閑散とする場所だから俺たちにとっても都合がいい。その中から、八幡を選んだのは単なる当てずっぽうなんかじゃなかった。 要は事が起きた場合、危険度が高い場所。市街のど真ん中に存在し、周りに民家が密集しているダントツがここだからだ。 そうした意味では千信館も同様だが、八幡の近所には俺や晶たちの家がある。ゆえに個人的感情からも無視できないし、ここは夜間の参拝客もゼロじゃないんだ。 よってこの地を陣取り、人払いの結界代わりに環境クリエイトを敷く必要が存在した。未だ不慣れな俺たちにとってそれは高等技術だったが、世良が高い適性を持っているので不可能じゃない。 つまり、早い話が、スカした場合に大惨事が起きる場所を優先的に選んだということ。不安はあるし、ベストじゃないが、現状のベターはこれだろう。 俺たちは固まって歩きながら、ひとまず本殿の前へ向かうことにした。先の理由から、何か起こるとしたらそこだろうと思っていたから。 「あの、さ……柊くん」 と、そこで世良が控えめに俺の袖を引いてきた。何事かと思って振り返れば。 「これ、ちょっと見て」 「……………」 差し出してきた世良のスマホに目を落とし、俺は表情が強張るのを抑えられなかった。 「……誰だこいつ、ふざけやがって」 「分からないよ。だけど……」 こんなことを思っている奴がいるということ。仕方ないとか、罪はないとか、そんな風に達観できるほど大人にはなれない。 俺のことならまだしも、くそったれが。 「信明……これがあいつの目に入らなければいいが」 「そうだね。本当にそう思うよ」 世良が示してきたのは、先ほど歩美にパスを教えてもらった千信館の裏サイトだ。よってこれを見ているのは学校関係者ばかりだし、当然俺たちを知っている奴らということになる。 ならば、たとえ信明がこのサイトを知らなくても、いずれ間接的に察するだろう。噂、視線、そういう類はどうしようが当人に伝わってしまうものだ。 曰くお荷物。役立たず。出番などない。 〈甘〉《 、》〈粕〉《 、》〈事〉《 、》〈件〉《 、》〈に〉《 、》〈世〉《 、》〈良〉《 、》〈信〉《 、》〈明〉《 、》〈の〉《 、》〈該〉《 、》〈当〉《 、》〈キ〉《 、》〈ャ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈は〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 〈現実〉《ここ》でも、あいつは何も成せない。いる意味がない。どうして生まれてきたの、だと? 目の前にいたらぶん殴ってやるところだ。 「そうなったら面白い。そうなってほしい。いいや……」 「そうなるに違いない……か」 おまえがそう思うならおまえの中ではそうなんだろう。画面越しに、そんな嘲りが聞こえてきたような気がした。 「どうした水希、四四八くん」 「なんでもない。ただ、締めて掛からないといけないって思っただけだ。そうだろ世良」 「うん。絶対、こんなの早く終わらせないといけないよね」 「当然だ」 決意は義憤に強化され、断固たる気持ちを胸に点す。 こんなつまらない戯言なんかに負けるかよ。俺は俺で、信明は信明だ。誰かの思いつきで振り回される夢なんかじゃない。 現実が絵空事に潰されるなんて、あっていいはずないだろう。  〈揺蕩〉《たゆた》う意識は茫漠と、しかし確固とした自我を持って夢の中へと滑り落ちる。  それは落下であり、上昇であり、変革であり逆行だ。待ち受ける深奥に向けて、また一つ自分を階層を越えたのだと自覚しながら、世良信明は今夜も明晰夢の螺旋を回る。  傍らには、彼を必要とする少女の姿。二人は手を取り、舞うように、その座標へと逆さまの十字を描き潜行していく。  ああ、周囲に輝くのは星だろうか。彼らを取り巻く幾千幾万もの祈り、願い、誓い、夢見る物語。  信じている。  〈信〉《イノリ》、〈信〉《ネガイ》、〈信〉《チカイ》、信じる。彼に出来ることはそれしかない。  己を、彼女を疑わないこと。自分に求められた役があり、他者と代われるものではなく、世良信明だからこその務めがあるなら突き進むことに躊躇はなかった。  あなたが必要だと言ってくれた彼女のために。  そして何より自分のために。  そんな彼らを俯瞰して、事態のすべてをただ見ているモノがある。  それは信明の決意を愛しく思い、南天の覚悟を賞賛し、だが〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》ここに瞬く〈星〉《ユメ》の悉くを是と謡い、無限の中核にまどろんでいた。  その存在を定義することはまだ出来ない。名乗りをあげるに相応しい状況が整っていないから、それは何にもなれずにいた。  そして、何にでもなれる可能性を持っていた。  眠り、揺蕩う夢の中、事象の中心点である巨大な暗黒。  ここから始まり、広がっていく。盲目の痴れ者たちが奏でる音色に魅せられて、自らも盲目的に願い続ける。  人よ、今こそ救済しよう。我こそおまえたちの理解者である。  賛歌を謡え。真を想え。それらすべては、正しく普遍で不変なり。  神とも、渾沌とも、超越とも、阿頼耶とも。  未だ定義できない超重量の闇が渦巻く房室で、爆発的なエネルギーを沸騰させつつ膨張するそれは嗤った。  己を取り囲む白痴の〈星々〉《ユメ》、その中でも今現在、一際輝く祈りに向けて真なりと詠嘆したのだ。 「緋衣さん――」 「信明くん――」  あなたなら出来る。  ああそうだとも、おまえが信じるならそれが正しいことなのだよ。  閉じろ。そして目を塞げ。世界はそうして完結するのだ。  げらげらと嘲り笑い倒しながら、我が認めてやると許可の印を形にした。  朔を覆う暗黒の正体が、ここに紡ぎあげる夢の波動。  声なき祝福が痴れた宇宙に轟き渡る。  太極より両儀に分かれ、四象に広がれ万仙の陣―― 終段 顕象。 「ふはは、ははははは、あははははははははは―――!」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  そのとき彼女が感じたのは、大伽藍の空から墜落するような無数の笑い声だった。  何人いるのか、誰なのか、一切見当すらつけられない。  ただ、それが己に向けられた好奇と期待と悪意と嘲笑の念であり、一種見せ物として囃し立てられているのだと直感する。  因果? 知らないどうでもいい。  理屈? やめろよ興が削げる。  人格? 関係ないだろうそんなもの。  善悪? それを決めるのは自分だけだ。  どうする? どうなる? 死ぬか? 生きるか?  いいや、殺してしまおうか?  我らが求める物語、より面白く劇的なものとして演出するには、悲劇も必須のスパイスだろう。  だから、なあ、おまえちょっと踊ってくれよ。どんな声で鳴くのか見たい。  その決定権は〈作者〉《こちら》にある。おまえが死のうが泣き喚こうが、こっちは知ったことじゃないんだよ。  しょせんは玩具、人形、夢物語。楽しませてくれ、得意だろう?  オリジナルに感じた不満と疑問を、解消するために〈もしも〉《イフ》が知りたい。  そう、多く願われているのだと瞬時のうちに理解して―― 「我堂ッ――くそ、何処に行った!」 「そんな……いつの間に、何があったの?」 「誰も目なんか離してねえだろッ」 「消えちゃった……いきなり、ぱっと」 「あの馬鹿――ちくしょう鈴子、てめえ早く返事しろ!」 「どういうことなんだよ、静乃ッ」  慌てふためく仲間たちの声が聞こえる。だけどこちらの声は届かない。  完全に、明確な意図をもって自分たちは分断されたのだと鈴子は察した。それが今夜の悪夢で、タタリで、顕象された〈声〉《ニーズ》の結果なのだろう。  出現の起点として縛られるのは、何も〈縁〉《ゆかり》の地だけではない。 「そうか……人も同じなんだ」  相応しい舞台と演者。それがそろってこその物語。  宴に重要な者だけ選び、用のない者は排斥する。どれだけ無茶な理屈であろうと強引に、絶対に。  それが作者の特権というものだから。 「千、信館……?」  今、ただ一人で飛ばされた鈴子の座標は、馴染み深い母校の校庭上だった。しかし明らかに空気が違う。  何百もの目が自分を見ている。これから起こることに期待して、その結末を見せてくれと胸を高鳴らせている視線、視線。妄想という念が槍のように、八方から我堂鈴子へその穂先を向けていた。 「なるほどね。まあこれも、人気者の定めかしら。  一応、そうね。最初に私を選んだ目の高さは褒めてあげるわ。せいぜい涎たらしながら見てなさい。  あんたらのお気に召す落ちがつくとは限らないけど?」  状況の危険さを無視するように、鈴子はあえて軽口を放った。それに喝采、罵声、ありとあらゆる感想が返信されてくるのを体感している。  そのすべてに涼しい顔で応じながらも、本音のところで鈴子は深く怒っていた。激昂寸前とさえ言っていい。  なんて悪趣味。先ほど四四八が言ったとおり、赤の他人に命を握られるという理不尽さに、目眩を覚えるほど腹が立つ。  私はあんた達のオモチャじゃない。一個の人格で、心があり、自負も拘りも持っている。  好きな奴のことは好きだし、嫌いな奴のことは嫌いだ。そうした選択の積み重ねにより、自分の人生を描いている。それを勝手に、単なる好奇心や一方通行の思い込みで歪められては堪らない。至極当然の怒りだろう。 「対等な会話ならしてあげるけどね。ちゃちなパントマイムには付き合わないわよ。百年前の夢を見たなら知ってるでしょ?  我も人、彼も人」  テーマはそれだ。よって鈴子は断言する。 「私の生き方を決めるのはあくまで私と、私をしっかり見てくれる奴らとの関係だけ。そんなの基本でしょ、言わせんじゃないわよ恥ずかしい」  再び沸騰するギャラリーの反応に、鈴子は気丈な態度を崩さない。それは自分で言ったとおり、私はあんた達の思い通りにならないという宣誓だ。  柊四四八の眷属となり、百年前の夢をその他大勢と共有していない自分たちは、第四の盧生とやらが描く支配の外にある。  舞台の中心で、主役を担う立場の一角ではあるだろうが、いわゆる操り人形とは違うのだ。  こんな風に駒のごとく配置を弄られたりはするけれど、そこで何を思いどう動くかの決定権は自分にある。ゆえにその矜持を手放してはならない。  だから、さあ―― 「来い……!」  創形した薙刀を手に、見据える先は校庭の中心地点。そこに凝縮する無数の想いが、願われた夢の形を徐々に顕象させていく。  最初は一滴。それから激しく量を増して。  虚空から滴り落ちる泥のような粘塊が校庭に穴を開けて渦を巻き、底なし沼さながらの深淵を出現させた。  その、奥から、今――  手が伸びた。思ったよりも小さく華奢だが、それが秘めている暴力の密度を察した鈴子は戦慄する。  まるで遺伝子に刻まれていたような記憶。ああそうだ、私はこれを知っていると、這い出てくる影を見ながら感じたのだ。 「ウ、ラ……あああぁぁぁ……」  たなびく長い銀の髪。真紅に染まった戦装束。麗しく気高い妖精のような外見に相反し、その双眸は地獄の太陽めいた禍々しさで黄金色に燃えている。  全身に絡みついた汚泥を血管のように張り巡らせて、ここに顕れた〈悪夢〉《タタリ》の名は鋼の牙――その女王。  キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワとかつて呼ばれた、極めて直線的な脅威としての形だった。  魔獣の咆哮めいた雄叫びが迸る。それだけで吹き飛ばされそうになる破壊の圧力は凄まじく、彼女を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が校庭に刻まれた。  そこから察せられる事実は単純明快。このキーラへ求められた役に、何ら変化球的なものはないということ。  ただ強く。強く。ひたすら無尽に大暴れしろ。理性などぶっ飛ばし、絢爛暴虐たる魔獣の本懐を遂げてくれ。  そんなおまえが見てみたい。 「くッ――」  ゆえに、これは甚だ由々しい事態だった。災禍的なタタリとして顕象された鋼の女王と対峙している鈴子が危険だからというだけの意味ではない。 「私たちのタイマンが見てみたいって? 気楽に言ってくれちゃってまあ」  それは百年前にもあったと聞く。よって、ギャラリーの目線から言えばリターンマッチだ。  わざわざそんなものを求めたのは、過去の結末に疑問があったか、不満があったか、もしくは単に名勝負の再現を望むという思考なのか。  きっと、すべて正解なのだろう。今、この鎌倉で夢を見ている者たちの内、どれだけの人間がこれを願ったのかは不明だが、総意として夢のベクトルがバイオレンスにあるのは間違いなかった。  その意味するところを、夢見る観客たちは自覚してない。認識が甘いのだ。  これは他人事でも、嘘っぱちでも、まして娯楽と言えるものでもない。  夢は夢だが、盧生が顕す邯鄲の夢である。  召喚されたキーラ・グルジェワは現実を侵せる力があるのだ。すなわち、これを望んだ観客たちも無事ではすまない。  暴威の具現として招かれた以上、その役目を果たすためにキーラは力を見せ付けるだろう。彼女にそう在れと願った者たちへ、希望通り獣の本領を披露するに違いなかった。  喰らい、貪り、蹂躙する。そんな存在としてのアイデンティティを。  静乃が言っていた通り、それがタタリというものだから。 「守ってあげないとね……わりと大きなお世話なのかもしれないけど。  正直腹が立つし、馬鹿馬鹿しい。だけど、殺されなくちゃいけないほどの愚かさだとは思わない」  現実のキーラ・グルジェワを是としたら、何人殺されるか知れたものではないということ。話に聞いただけの自分であっても、その危険度に議論を挟む余地はない。  しかし、これはしょうがないのだ。周りは夢物語だと思っているから、現実にいたら自分がどうなるかなんて、そこまで真面目に考えない。  フィクションの悪役を賞賛する。道理も善悪も関係なく、外道の鬼畜さを楽しむスタンスだってあるだろう。  そうした消費の仕方を鈴子は共感できないが、よくあることだと弁えてもいる。だから先ほど言ったとおり、死に値する愚劣さとまでは思わない。  特にこのキーラなど、なまじ容姿が美しいからファンもつきやすいというものだ。  そういう価値観もあるということ。 「それで死んでも、意外に本望とか言うんでしょうね。そういう奴らは」  しかし、やらせない。  こうして対峙した以上、自分の役目はそこにあると覚悟を決めた。 「ウラー・インピェーリヤ!」  女王の魔眼が鈴子を捉えた。信者たちの夢を乗せ、キーラ・グルジェワも自らの役を果たすべく動き始める。  さあ見るがいい。これがおまえたちの願った結果だ。  喰い殺してやると、凶悪無比かつ〈貪婪〉《どんらん》に。 「久しいな子兎……おまえ、私に勝てると思っているのだろう。  生憎と、誰もそんなことは望んでいないぞ」 「ああそう、だから何ッ」  嗜虐的な眼差しに、凛烈な喝破を返した。アンチの十人百人千人万人、騒いでるからといってそれがどうした。我堂鈴子はそんなことで凹むようなタマではないと宣言する。 「上に立つ者は嫌われるし敵も多い。そのていど呑み込めないで何が我堂」 「右翼舐めんじゃないわよ、掛かって来なさいッ!」  不屈の闘志を裂帛の叫びに乗せて、今こそ開戦の火蓋が切られた。  しかし、まだ鈴子は分かっていない。  彼ら人の夢に編まれるタタリという存在が、どれだけ悪辣なものなのかを。 全身に走り抜けるその悪寒を察知したのは皆同じで、次の瞬間には全員が駆け出していた。 とてつもなく凶悪な夢の力が出現したこの方角は間違いない、千信館―― ならば一刻も早くそこへ行き、我堂を助けなくてはならない。 直感だが、これはあいつ一人でどうにか出来るものではないと確信に近い域で悟っている。 「先に行くぞ、悪いが足並みそろえていられる状況じゃない!」 「ごめん、そうして! すぐ追い付くから」 「けど、絶対に無茶はすんなよッ!」 言われるまでもない。基本的に俺たちは、個々の役割分担が徹底している。眷属として受け継いだ力の形がそういうものだし、気性も然りだ。 よって、真価を発揮できるのは全員がそろっているとき。その条件を成立させるため、足の速い奴から現場に行って我堂をフォローし、段階的に布陣を整えていくしかない。 いわゆる戦力の逐次投入というやつになりかねないが、是非もなかった。一度構えていたフォーメーションを強制的に乱された今、打てる手はそれしかない。 「栄光、鳴滝、おまえらもだ! なんとか俺たちが保たせておくから、頼んだぞ!」 「分かった、ちくしょう――なんだってんだよ!」 「ぼやいてても仕方ねえだろ、集中しろ。すっ転ぶぞッ」 栄光は装備の特性上、移動にいくらか補正も効くが、それでもやはり不慣れを含めて限度がある。ゆえにこのとき、先陣を切るのは必然的に残る三名。 「世良、石神――」 〈戟法〉《アタック》の迅において、水準以上の適性を持つ俺たちだ。もはや人目がどうこうと、そんなことを気にしていられる場合でもない。 「全開で走るぞ、一秒も惜しい」 「分かった!」 「ああ、ただし人を含めた障害物には気をつけろよ二人とも。ぶつかってしまったらうっかりじゃすまない」 「当然だ!」 頷き、俺たち三人は全力疾走を開始した。すでに最初の一足で、広大な八幡の敷地を突破している。 しかし、石神が言うとおり注意するのはここからだ。俺たちが本気で走れば、常人の目にはほぼ映らない速度も出せるだろうが、そのスピードで激突などしようものなら大惨事になる。 街の平和を守ろうという立場の身が、そんなことをしてしまったら洒落にならないだろう。よってルートは限られてくる。 深夜とはいえ、未だ通りに人は絶えない。そのすべてを全速のまますり抜けていくというフットワークは流石に無謀だ。少なくとも俺には出来ない。 だから―― 「各自、可能なやり方を選択しろ。俺に構う必要もない」 言って、通りに出た俺は跳躍すると、背の低いビルの屋上に着地した。そこから次へ、また次へ――障害物のない上空のルートを進んでいく。 傍らに目を向ければ、石神も俺と同じ選択をしたようだった。こいつは現実の身体能力でも雑技団のような奴だから、これがもっとも理に適っているのだろう。同ルートの道行きをこちらに並走するかたちで進んでいる。 「世良は?」 「あそこだ」 対して世良は、ひたすら地上を走っていた。文字通り、目標地点に向け真っ直ぐに。 「解法か、凄いな水希は」 「まあ、あいつの本気はたまに俺でも引くレベルだし。こんなもんだろ」 思わず感嘆の呻きを漏らす石神に、そんな場合じゃないだろうという意味も込めて素っ気無く返したが、俺も内心では舌を巻いていた。 世良は全力で走りながら、透過の〈解法〉《キャンセル》も展開してあらゆる障害物をすり抜けていく。人も、家屋も例外なく、最短距離を突っ切って。 それは理屈じゃ可能なことだと俺も石神も分かっていたが、ここで特筆すべきは技量じゃない。 失敗すれば大惨事というリスクを前に、まったく恐れない世良の心だ。もし僅かでも躊躇があれば、あんな真似を実現することは出来ないだろう。 あいつは自信過剰な〈性質〉《たち》じゃないし、周りの被害を気にかけない傲慢な性格ではもっとない。にも関わらずあれだけの夢を発揮できるのは、真摯に己と向き合っているからだ。 そして我堂を助けるためにやるべきことを、疑いなく信じているからだろう。 俺たちとてそこは同じ。 「世良に続くぞ、もうすぐだ石神」 「分かってる。しかし、いや――」 「なんだ、これは……」 「―――――ッ」 疾走の中、目に見えて迫りつつある千信館の校舎が遠い。ある一定の距離まで詰めておきながら、そこから先にはなぜかまったく近づけなかった。 まるでベルトコンベア。俺たちの足元に、見えないランニングマシンでも据えられているかのようだ。 「柊くん――これ、もしかして!」 先行していた世良も、それに気づいていたらしい。地上から呼ばわる声に応じる形で、俺と石神は校門の前に着地を決める。 「入れないのか?」 「うん、ここから先に進めない。壁があるわけじゃないっていうのに」 「創界……人払いか」 それは最初、俺たちが八幡で待機していたときに敷いていたのと同じものだ。邪魔者を立ち入らせないための世界。環境の創造。 今夜の主演は我堂であり、俺たちはお呼びじゃないと言われている。 「相当強いぞ。これを破れるとしたら栄光くんか? しかし……」 「もうすぐ着くと思うけど、それまで待ってるっていうのは……」 甚だ危険な予感がする。一分か、二分か、時間にすればそんな程度の足踏みだろうが、それが致命になりかねないと俺たち全員が悟っていた。 なぜなら、今夜の夢を描いた奴らは我堂の独行を所望している。それは徹底されていて、助けたくても助けられないという状況の具現がこの創界だ。 ならば、栄光が来れば起死回生――などという安易な抜け道は期待できない。あいつがここに来たときは、もう手遅れという〈筋書き〉《プロット》を組まれている可能性がある。 創界を突破できるのは〈解法〉《キャンセル》だけ。崩すにしろ、すり抜けるにしろ、その出力が要求される。 俺たち三人、〈解法〉《キャンセル》は相応に得意だが、それでもこれを越えるにはパワーが足りない。先ほど世良がやったような精妙さではなく、求められるのは爆発力。 となれば…… 「手はある。ただし保障のない苦肉の策だからベストじゃないし、おまえら二人の危険がでかい」 「それでもやれるか? 世良、石神」 問いに、二人は迷うことなく即答した。 「もちろん」 「出来もしないことをやらせる奴はいない。そうなんだろ四四八くん?」 スパルタというのはそんなもの。頷くこいつらに応えるべく俺もまた笑みを浮かべて…… 「じゃあ行くぞ。我堂を助ける」 思いついた唯一の手段を、ここで実行することにした。  振り下ろされた爪の一撃は超威力の破壊となって無人の学内を震撼させる。  開始場所となった校庭はすでに惨憺たる有様で、そこでの不利を悟った鈴子は戦場を校舎内に移していたが、その選択はまったく意味のないものだった。  こいつは〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》――何処であろうと関係なく、機能を十全に発揮できるよう変幻するのだ。まさに百獣の王かのごとく。  開けた場所ではトップスピードが手に負えない。鈴子も速さには自信があったが、敵は遥かに上手だった。ならばと選んだ屋内で、キーラは蜘蛛と化していた。  三次元的な動きに予測がつかない。  今の女王は六つの腕を持つケルベロス。 「あははははははははは―――!」  けたたましい三重奏の笑い声に胃の腑が引っくり返ってしまいそう。それは生理的な不気味さだけに留まらず、物理的な衝撃となって鈴子の全身を打ちのめすのだ。  三頭獣の一角は、その轟哮で音速の破壊を撒き散らす。ゆえに間合いの概念は消滅していた。近づこうが離れようが、狂乱しながらも狩猟勘を失わぬ三姉妹に隙はない。  母校が粉砕されていく状況も、後でどれだけの騒ぎになるかと考えられる余裕はなかった。瞬き一つのミスであっても、即座に首が飛んでしまう高密度の死が迫る。 「どうしたどうした。貴様、この程度はおさらいだろう。何を初見のように狼狽えている。まさか忘れてしまったわけじゃあるまい。  皆が退屈しているぞ。過去と同じ事を繰り返して、誰が満足するというのだ馬鹿め」 「うッ……るさいわねェッ!」  キーラが見ているのは鈴子であって鈴子じゃない。要は百年前の我堂鈴子だ。そのため両者の認識には齟齬がある。  自分は子孫。あくまでも別人なのだ。先祖の人生ごとそっくり受け取ったわけではないし、そうした意味でキーラの言は的を盛大に外している。  初見のようだと言われたところで、事実そうなのだから仕方ないというものだろう。 「……でも、関係ないのよねあんたには。ううん、この夢を見ている奴ら、全員にとって」  我堂鈴子という枠に嵌った存在ならばなんでもいい。過去と現代。夢と現実。そういう境を把握してすらいないだろう。  よって、つまらない反論に意味はないしする気もなかった。  事実、鈴子が未だ生き残っていられるのは、ほぼ丸ごと先人のお陰と言ってよいのだから。  迫る鉤爪を叩き斬る薙刀の一閃。使用に一定の空間を要する長物でありながら、狭い屋内で窮することなく最善の挙動を取れているのは、鈴子自身の捌きじゃない。  それは地力を数段増しにしたもので、すなわち過去から受け継いだ遺産の結果だ。仲間内で多少のばらつきはあるだろうが、具体的に言うなら最初から、三つ以上の夢を同時に使えるレベルにまで達している。 「がッ、ぐぅゥゥ――」  だから、たとえ自分にとってキーラと戦うのが初めてでも、足りない情報を補うだけの蓄えは存在していた。  今のように、腕を切り落とされても瞬時に再生する怪物だとは知らなくても、そこからの反撃に即殺されず済んでいる。  咄嗟に直撃を避けた身のこなし。衝撃を受け流す解法。回復させる循法。  一つでも欠けていたら終わっていた。そんな綱渡りをしている自覚はあったが、まだ踏み外していないという事実を抱いて鈴子は立つ。  情報の他に足りないものも分かっていた。まず第一に、邯鄲の夢という法の操作が未だ自分は下手なこと。  言わばペーパードライバーだ。そんな者が、歴戦の兵たる先人の夢という、F1マシンに乗っているような状況だろう。  直線を全速で行くだけならば可能だが、微妙なコーナリングを要求されるとボロが出る。この実戦で飛躍的に上達してはいるものの、キーラと真っ向やり合えるような進化は流石に望めなかった。  少なくとも、それを目標に悪戦し続けるのは愚策だと分かる。 「だから……狙うなら一つだけ」  全力、全霊でぶん回すこと。強固なマシンがあるのだから、その性能を爆発させてやればいい。  大技、必殺、そういう夢を。  だけど―― 「ふふ、ふふふ、ふふふふ……」  そこに言い知れぬ不安があるのだ。キーラが追撃をやめ、天井に貼り付きながらせせら笑っているという不気味さだけが理由じゃない。  それは自分に足りないもう一つの要素。先に挙げた技量面と並ぶかたちで存在している、精神面の未熟さだ。  これもまた、どうしようもない不慣れと言えることだろう。今まで軍人とか殺し屋とか、そういう人生は送ってないのだ。ゆえに命の取り合いとなれば、容易に払拭できないぎこちなさが生じてしまう。  鈴子特有のプライドで不敵に振舞ってはいたものの、要所でタイミングがずれ気味なのは確かだった。この誤差は天性の才能か、ひたすら重ねた経験でしか修正できない。  そして、〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈も〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈自〉《 、》〈覚〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  ただの学生が人殺しなんて流行らない。昼間そう言った台詞に嘘はなく。  無論、このキーラは人間どころか生き物とすら言えない存在だと知っているし、仮に彼女が生身であっても緊急避難だ。  殺されるくらいなら殺すが正しい選択だと、思っているけど……  不安がある。そんな気構えで本当にいいのか?  この悪夢を掻き消せるのか?  そこに、見えない第三の要素があるような気がしてならない。  先人にあって、自分にはないもの。  その正体を見極めないまま放ったところで、キーラ・グルジェワを斃せるのかと、自問の螺旋に終わりが見えず……  瞬間、おぞましいまでに痴れた視線が、夢の深淵から自分を射抜いていると感じて、鈴子は―― 「行くぞ」  回転する殺人プロペラが迫ってきたとき、もはや否応もないと腹を括った。 「――――ッッ、舐めんじゃないわよ! やってやろうじゃない!」 「破段、顕象ォォッ!」  極意は戟法。そして創法。二つの夢を同時に使うことさえ出来れば、破段の顕象はさほど難しいものじゃない。  二種、等しく調整する精度に自信はなかったから、ひたすら全力でぶっ放した。  ここに描いた夢は檻のイメージ。  魔獣を拘束する枷と柵。受け継いだ遺産の記憶に倣いながら、先人と同じ力を形に変えた。不可視の斬監がキーラを縛り、閉じ込める。 「これがあんたの首輪よ、喰らいなさいッ!」  その正体は剣閃の残留だ。鈴子の薙刀が描いた軌道に、そのまま斬気が留まり続けて触れたものを切断する。  よって、高速移動を得手とする者には極めて有効。翼をもいで脚を断ち、相手の自由を奪うことが可能となる。  野放図に奔放な乱行など許さない。  それはさながら、法を強制する倫理の具現であるかのごとく。 「ふふ、はははは! いいぞ貴様、ようやくらしくなってきたじゃないか。  だが知っているだろう。これで私は止められん!」 「づッ、ぐ……ああああァァァッ!」  顕象した破段の夢に、鈴子は全精力を注ぎ込んで強化する。幾重にも檻を構築していくが、その片端からキーラに破られ始めていた。  そこに技術や理性といったものはない。ただ力任せの強引さで、血飛沫と共に四肢を千切られながらも突破する魔獣ならではの暴走だった。  これこそ、もっとも恐いと思う。圧倒的な力を前に、法や道徳は踏み潰されるという一つの真理に違いない。  言ってしまえばよくあることだし、予測可能。  だから鈴子も、これで片がつくと虫のいいことは思ってなかった。 「―――――――」  迫る脅威を前にあえて瞑目。  湧き上がる畏怖と焦りを封じ込め、静謐な心を持って己の夢と向かい合う。  戟法と創法の二重掛けで破段を成した。しかしこれには、まだ上の形があると知っているのだ。  今の自分は、三つ以上の夢を同時に使うことが出来るのだから。  その意味するところはただ一つ。 「急段――」  協力強制による特定ルールの絶対執行。中でも自分が継いだ夢は、この相手に対し特効的な切り札となるはずだろう。  ゆえにあともう一手。三番目に重ねるのは解法だ。  資質的には不得意な夢で、そのまま使えば他とのバランスが滅茶苦茶に乱れてしまうだけだろう。  だが、その事態を逆用するために敵との合意という条件がある。  自分に限れば、それは消す・消えるという概念だ。言うまでもなく非常にマイナスな祈りであり、だからこそ不得手な解法の追加というマイナス効果と掛け合わさって威力が爆発的に跳ね上がる。  嵌れば必殺。脱出不可能防御不可能な断罪刃。  それはキーラ・グルジェワを相手にしたとき、常時成立するもので―― 「顕象ォォッ!」  開眼、咆哮――同時に成立する協力強制。人外の者はこの刃を前に消滅するのみ。  そのはずだったが。 「おい」  キーラはひどく、ひどく興醒めしたような声を漏らして。 「馬鹿かおまえは。己がどういう生き物かすら忘れたのかよ」  ガラスのように砕ける斬監の欠片を纏いながら、鈴子のすぐ眼前にまで迫っていた。 「そんなっ――」  無効? 失敗? どういうことだ?  確かに自分は、先人と比べて未熟な繰り手だったかもしれないが、こうまで外してしまう理由がそもそも分からない。 「つまらん。つまらん。こんな落ちは誰も期待していない。ああ、もういいぞおまえ。目障りだ」 「消えろ」  困惑に呆ける鈴子を侮蔑するように一言告げて、死の鉤爪が落ちてくる。  それは首ごと頭を潰し、如何なる夢をもってしても再生不可能な致命の損傷を与えるものだ。なぜならまったく迷いがない。  慣れでも、感情による弾みでもなく、ごく当たり前に命を摘むという行為。  死線に凝縮された刹那の中、自分とキーラの間で真に成立させるべき合意とは、そこにあるのだと理解して……  理解したけど、ああそれは、いいえどうして本当に? 「私は、違う……?」  何か、一連の事象とはまったく関係ない一つの違和感に気付きかける。  そのときだった。 「―――鈴子ッ!」  破壊し尽くされた千信館という創界を、先のキーラと同じく突き破って現れた仲間の声にはっとした。  結果はまさに一髪千鈞。鋼の爪が触れる寸前、水希の剣が腕ごとそれを斬り飛ばす。 「ぬッ、ぐおおォォ―――貴様ァッ!」 「やらせないッ!」  そこから先は事態を一変させる剣と獣の乱舞だった。自分と戦っていたときはどこか遊んでいる感のあったキーラだが、ここではギアが三段階はあがっている。  速さも、力も、三面六臂の異形をフルに使った挙動、連携――紛れもなく本気になったのが一目で分かる。まるで爆撃のハリケーンだ。  しかし、水希はそのすべてに喰らいつく。破壊の嵐に頭から飛び込んで、しかし揉み潰されずに流れを読んで切り抜けるのだ。  キーラの左脚側に存在している首の特性は戟法特化。姉を上回る超級の怪力は鉄筋コンクリートを紙屑のように引き裂きながら迫り来るが、水希はそれと正面衝突する愚を犯さない。  柳のようにしなやかで、空を泳ぐ魚のように速く滑らかな体捌き。大味ゆえに振りが雑だという〈左首〉《レムス》の力を逆用し、鮮やかなカウンターで再び腕を斬り飛ばした。  そして当然であるかのように、そこで気を抜くことなどない。  なぜなら右脚側に存在している首の特性は咒法特化。一撃入れて後退させたからといって、それが逃げを意味しているものではないと瞬間の迷いもなく見抜いているのだ。  放たれた物理破壊をもたらす轟哮に、水希は逆らわず身を潜らせる。本質的に音波であるということから、これは防ぐ躱すといった手段で切り抜けられる類じゃない。  神懸かった域の精妙さで紡がれる透の解法――少なくとも傍目にはそう見える夢の行使をごく自然に操りながら、水希は振動波に同調するかたちで圧壊の津波を泳ぎきる。  そこから間合いを詰め、放たれた刺突は時間さえ止まったかのようだった。  眉間を貫かれたキーラは呆けたように数瞬目を丸くして、だが次の刹那には憤怒に染まる黄金瞳が信じられない現象を引き起こした。  手。そう呼んでいいのか分からないほど巨大な拳。  戦車でも叩き潰せるだろう大質量の塊が、天井を突き破って水希の頭上に叩き落されたのが一瞬見えた。 「くッ―――」  流石にそれは予想外。しかしにも関わらず、水希は咄嗟の回避で直撃を避けている。対峙する二人の勝負は、魔境と言って差し支えない夢の領域に突入していた。  一見すれば水希が優勢と言えるだろうが、事態はそれほど甘くない。今の攻防で相当な損傷を負ったはずのキーラは、すでに完全な復元を遂げているからだ。  恐るべき、規格外の耐久力と回復力。さらに加えて、未だ全貌の見えない危険な技を持っている。  死を孕んで回転し続ける三つ首の背後には、ゆらゆらと陽炎のようにおぞましい何かが明滅するのだ。まるで彼女を守るように。  喩えるなら群れ。いいや軍勢か。血に飢えた数千もの殺意を感じる。  しかし、それら脅威を認めながらも、なお特筆すべき対象を選べと言うなら鈴子は水希に瞠目していた。驚嘆していると言っていい。  眷属化し、受け継いだ夢によって、個々の先人に相応した強さを与えられているのは皆同じ。先の喩えで言うF1マシンで、水希はその基本仕様が特に高性能ということもあるが、問題はそこじゃない。  現段階で、ほぼ完全にその力を使いこなしている彼女自身の順応性だ。基本、出力が高い機体ほど操縦は〈神経質〉《ピーキー》で、複雑な加減を要求されるのは実体験から知っている。  にも関わらず、まったく扱いに窮する様子がないということ。むしろ、最初から自分のものであったかのような堂に入った馴染みぶり。  それが鈴子は、なんとも言えず複雑で…… 「立てるか? 見る限り無事なようだが、間に合ってよかったよ」 「静乃……?」  いつの間にか横に立ち、手を差し伸ばすもう一人の仲間を見て、またしても鈴子はよく分からない当惑に襲われた。  あれ、なんだろう? どうして私はさっきまで…… 「なんだ、私の顔に何かついてるか?」 「いえ、別に、そういうわけじゃないけれど」  自分でも不明な歯切れの悪さを晒す鈴子に、静乃はまあいいさと軽く笑って、しかし油断せずに気を配りながらキーラと対峙している水希を見た。 「来る途中にも思ったんだが、凄いな水希は。こういうことは私の専売だという自負を持っていたのだけど、正直嫉妬してしまうよ」 「嫉妬? あんたが?」  鈴子はその言葉に疑問を覚えた。  嫉妬。羨む。妬ましい。静乃がそう言うのなら、先ほど自分が水希を見て思ったこともそれなのか?  いいや、違う。  水希とはとても長い付き合いだ。子供の頃から知っているし、彼女が突出した才を持っているのも当たり前に分かっている。  だから今さらそんなこと、わざわざ気にするはずもない。  水希を上げたり己を下げたりという意味ではなく、自分と彼女はタイプが違うと弁えているからだ。  簡単に言えば、伸ばしたいと願う長所が異なる。だから彼女の道を尊重できるし、自分の道に不安を覚えることもない。  鈴子がやりたくて、なりたいと思う理想のかたちが競合している相手は四四八だから。ゆえに嫉妬なんかであるはずもなく……では何かと言われると分からないが。 「ああ、もうっ」  知らん。〈も〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈問〉《 、》〈題〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。鈴子は頭を振って立ち上がった。 「あんたを見てると、本当に分からなくなってくるわ。さっきまでの私はなんだったのか。  どうして、〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈て〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》  今なら、凄く簡単にやれる自信があるのにね。おかしな話」 「いいの。なんでもないわよ、こっちのこと。  あとね、嫉妬云々言うんなら、私はあんたにしてるわよ」 「私に? どうして?」 「言わせるつもり? このヒバゴンは」  あんたが寝起きしているのは誰の家だと思っている。  そう心の中で毒づきながらも、まったくの素で静乃が不思議がっているのも分かっていたから、本題とは別にある事実の一つで煙に巻くべく、鈴子は再び構えを取った。 「私たちの力は貰ったもので、ほとんどズルみたいな感じだけど、ただ一人あんたは違う。  あんただけは、自分で鍛えた夢と力を持っているでしょ。誰に恥や負い目を持つことなく。  それが羨ましいっていう話よ」  共に眷属となったのは同じだが、静乃は先人の夢を受け取っていない。  それは壇狩摩の直系でないゆえか、そもそも件の盲打ちとやらが継がせるべき手合いではないからなのか。  正確なところは不明だが、ともかく静乃だけは二周目特典のようなドーピングをしていない。  結果、現実には一番荒事に長けているはずの彼女が、いざ邯鄲の出力を競う場になったら仲間の最下位となっている。  が、その差もそこまで開いているわけじゃない。むしろ素質数値だけを見れば四四八を凌ぎ、水希に並ぶ。  それが偽りなく自分の器と研鑽によるものだと誇れるのだから、実際羨ましくもあるだろう。 「なるほど。だがそれはこちらも同じだよ、鈴子」  応じるように、静乃もまた構えを取って〈釵〉《サイ》を抜いた。  創法の適性が低いわけではない彼女だが、これは現物のまま持ち歩いている正真の武器。その点からも、自分が揮う力に借り物や貰い物は一切ないと言っているようだった。 「私も君らが羨ましい。だからズルだなんて言わないでくれ。その夢は、ただの棚ぼたなんかじゃないんだよ」 「たまたま運良く貰ったものと、認められて託されたものは重さが違う。  君らは疑いなく後者だろう? まして掠め取ったわけでもなし、誰に後ろ指をさされるはずもない。  というか、そんな奴がいたら私は許さん。ぶっ飛ばしてやる」 「ふっ――」  どこか拗ねたように、だが大いに本気であろう罵言を述べた静乃が鈴子は可愛くて、可笑しかった。 「あんた本当に、うちらのご先祖様が好きなのね」 「ああ、大ファンだよ。だからこそ――」  睨み合いを終え、再び動き始めた水希とキーラに目を向ける。  その表情は、不謹慎だがこれを待ち望んでいたと言うかのようで。 「君らの仲間になれたことがとても嬉しい。夢だったんだ、本当に」 「会えてよかったよ、鈴子」  と、そんな染みるように言うものだから、鈴子は照れを隠すために盛大な勢いで首を振った。 「やめてよね、そういう死亡フラグみたいな言い方は」  絶対にここで終わるわけがない。だって、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈我〉《 、》〈堂〉《 、》〈鈴〉《 、》〈子〉《 、》〈だ〉《 、》。 「行くわよ、静乃!」 「ああ、すぐに他の皆も来る。四四八くんの頑張りだよ。  弊害として、彼はここに参加できないかもしれないが――」  二人、同時に水希の援護に入るべく跳躍しながら静乃は言った。 「これも託された責任だな。我々はあんなタタリに負けたりしない」 「当たり前でしょ!」 「ぐッ、あ、ああああああァァッ!」 渾身の力を振り絞り、俺はその場で穴を維持すべく夢の出力を上げ続ける。 場所が校門前というのも皮肉な話で、やっていることは閉まろうとする巨大な扉を押さえ続けているに等しかった。気を抜いたら閉じてしまうし、一度そうなったら再び開かせる自信はない。 それほどの念がこの創界には込められているのだと肌で感じ、中の我堂たちを思えば気が気じゃないが、だからこそ今はこの役を果たさないといけなかった。 少なくとも、他の奴らが着くまでは―― 「四四八――!」 「すまねえ、待たせた。〈鈴子〉《バカ》はそこかッ?」 「ああ、中にいる。早く助けに行ってくれ……!」 歯を食いしばって告げる俺に二人は何か言いかけたが、しかしそこから先は阿吽の呼吸だ。共に無言で、今も維持している創界の亀裂に身を躍らせる。 これで援軍は現在四名。特に晶が来たのはでかい。 あいつがいれば回復が出来る。危機を払うことが可能になる。 あとはフォーメーションの問題だ。我堂も含めて、残りは白兵専門の連中ばかり。それで十全の連携を取るのは難しい。 「ひぃ、はぁ、よ、四四八くん……」 「やっと来たか、待ってたぞッ」 こいつなりに全速で走っただろうことは分かっていたし、責めるつもりもなかったが、逼迫した状況が自然に声を荒げさせた。 ゆえに歩美は一瞬びくりとした後で、さらに自分より消耗している俺の様子に目を白黒させていた。 こいつは日頃元気がいいし予想外に頭も回るが、〈実〉《 、》〈は〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈目〉《 、》〈ど〉《 、》〈お〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈弱〉《 、》〈い〉《 、》。いや待て、そうだったかな? ああもう、今はそんなことなんかどうでもいい。 「あのね、あの、栄光くんがね……」 「そりゃ俺のせいだ。後で謝る。あいつは怪我とかしてないか?」 「それは、うん、大丈夫だと思うけど……」 「ならいい。早くおまえも行け、ただし絶対前に出るなよッ」 「わ、分かった!」 言って、歩美も援軍に入る。これで投入できる戦力は打ち止めだ。俺と栄光は、今回現場に参加できない。 だから不安は残るが、是非もなかった。最初に世良と石神を送ったとき、苦肉の策だと言ったのはそういうこと。 俺の破段――正確には受け継いだ破段だが、とにかくそれは力の総合値を守る限り、自分の性能を好きなように変更できる。 特に悌の夢を使用すれば、仲間の誰かに極めて近く化けることが出来るんだ。その効果により、ここでは俺がまさしく栄光の代わりとなって破格のキャンセルを成功させた。 しかし、すべてが上手くいったわけじゃない。 本来なら、それは夢の〈共有〉《シェア》という域で顕象される能力だ。よって、あちらを立てればこちらが立たずなんて状況にはなり得ない。 極論すれば、俺が他全員の能力を使いつつ、仲間たちもそれに続くという戦力の倍々算も理論上は可能だし、最初はそれを狙っていた。 が、やはり不慣れということだろう。いけそうに感じたのは本当に初めだけで、石神たちを送り出してからは一気に調整が困難になった。 結果、消耗の度合いは跳ね上がり、〈共有〉《シェア》という特性がむしろ略奪に様変わりした。俺が栄光に化けてる間、当の〈栄光〉《あいつ》は夢そのものが使えないという状況に陥っている。 今さら言っても仕方ないが、自分の未熟さが腹立たしかった。俺に力を与えてくれた曽祖父さん本人なら、こんなヘマは絶対しないはずだろうに…… 「よ、四四八、悪ぃ……なんか急によ」 「言うな栄光、俺こそ悪い。驚いただろう」 今、ようやくやって来たこいつは目に見えて衰弱していた。突然夢を奪われて、体力ごとごっそり失ってしまったというのが分かる。 だからここで〈略奪〉《シェア》を解除し、こいつに穴を開けてもらい俺が入るというのは不可能だった。そして言うまでもなく、無力化している栄光を投入することにも意味はない。 加え、中で何が起きているのか知れない以上、退路の確保は最優先だ。ここを閉じてしまうわけにはいかないから…… 「大丈夫……だよな?」 「信じよう」 今夜、俺たち二人は信じて待つしか出来ない。 だから帰ってこいよ、誰も欠けずに。 いいや、欠けることなんか絶対許さん。そんな夢など認めない。 「づゥゥ、らあァッ!」  そして、想いを託された者たちは、ここまで見事期待に応えていた。  戦場は、再び開けた校庭に移っている。度重なる破壊によって半ば倒壊した校舎から弾けだされるように飛んだキーラを追う形で、水希と静乃、淳士と鈴子が肉薄していく。  単純速度においてキーラと張れる者はいなかったが、それでも四人がかりとなれば話は別だ。いいや、正確には五人がかり。  要所で入る歩美の〈狙撃〉《スナイプ》が、敵の意識を散らすという面において非常に重きを成していた。彼女は崩れた校舎の間を縫うように移動しながら、己の位置を悟らせないよう絶妙な援護を続けている。  そして、援護と言うなら晶の存在も欠かせない。  キーラの矢面に立って白兵を続けている四人には、どうしても避けがたく負傷が蓄積されていく。そんな彼らが攻め手にのみ集中できるよう、回復役を務める晶は絶対に必要だった。  彼女もまた、自分が替えの利かない駒であると深く理解していたから、歩美同様校舎を陰に立ち回ってキーラに発見される愚を犯さない。他者を守る者は、まず何よりも己を守らなければならないと弁えている行動だろう。  技量面で卓越している静乃と水希に問題はなかった。二人は常に左右、前後、上下と挟み込むような連携を繰り返し、キーラを確実に削っていく。  そして淳士の役目は文字通り、彼に相応しいまさに壁だ。  仲間内で最高の耐久力と破壊力。後者の威力はすべて不発に終わっているが、それでも最初に数発見せ付け、印象付けたことには意味がある。  直撃すればキーラといえども危険な大砲。その存在感が、静乃と水希だけでは手が足りない局面を牽制している。頑強な肉体の守りと合わさって、四人目の前線担当に危険な攻撃を届かせない。  すなわち、鈴子。 「―――いける!」  この場の核、中軸を成しているのは疑いの余地なく彼女だった。三つ首のキーラに対する四人目の攻め手。単純な算数だが、だからこそ有効性には論を俟たない。  破段の檻で戦域を限定するよう囲い込みつつ、必殺できる瞬間を狙っている。鈴子の斬気は仲間にとっても危険だが、そこを気遣う様子は皆無だった。事実、誰もそれには掛からない。  知っているのだ。いや、あるいは信じているのか。  この斬監が帯びている概念は礼。すなわち人の一線を守るという誓いであり、鬼畜に堕ちない矜持の具現だ。  それに抵触する輩など、仲間にいるはずがないということ。よって鈴子は線を縦横に引き続けるし、他の者らも当たり前のように不可視のそれを掻い潜って攻め続ける。 「忌々しい、小うるさいぞ虫どもがッ」  しかし無論、以上で万事問題なしというわけでもない。欠員分の穴は存在している。  キーラは時折、今のように面妖な攻撃をしてくるのだ。まるで見えない隕石を落とすような、大威力の圧壊撃。  その頻度が、徐々にだが上がっていく。 「神よ、ツァーリを護り給え。  力強い、偉大なる、栄光のうちに君臨し給え。  栄光のうちに我ら、恐怖のうちに君臨せよ!   ツァーリ、ツァーリ、ウラー……はははははははははははははッ!」  そして、ついに連続してくるようになった。朧に垣間見れるシルエットは、人の輪郭を帯びているが巨大すぎる。全長数十メートルはあるだろう。  だから、それが欠員分の痛手だった。栄光がいればあの手の不可視化迷彩は切り払えるし、巨腕の攻撃を散らすことも出来るだろう。  そして四四八がいたならば、採れる手段の幅がざっと人数分は拡大する。本人は器用貧乏などと嘯いているが、誰の代わりもこなせる汎用性の効果は計り知れない。加えて、精神的支柱が据わるというメリットもある。  ゆえに現状はベストじゃない。そこは充分わかっている。  だがそのうえで、鈴子に先の言を引っ込める気は毛頭なかった。  いけると、今も思っているのだ。 「あんた、少し舐めすぎよ。前はタイマンでやられたんでしょう?  なら今、この頭数を前にその自信はどこから来るのよ」  栄光がいない。確かに困る。  四四八がいない。大問題だ。  しかしそれを補えるだけの練度が今は機能していた。個々の立ち回りを見れば一目瞭然と言えるだろう。  まず先駆けとなったのは水希だが、以降戦力が投入されるごと、まるで相互高めあうように皆が熟達の動きを見せている。  鈴子にしても、一人のときは感じていた内部のちぐはぐさが今はない。その理屈は不明だが、深く考えることもなかった。場合じゃないし、何よりも―― 「私はあんたに必ず勝てる」  キーラ・グルジェワに己は負けない。それが絶対の確信として存在するから迷いはなかった。  四四八不在時の代理指揮官たる務めとして、鈴子は皆に激を飛ばす。 「さあ畳むわよ。あんたら全員死ぬ気になって、あれの動きを封じなさい!」  すれば、トドメは自分が刺す。これは己の使命である。  微塵の疑いもなくがっちりと、その認識が胸の中で嵌っていたのだ。 「分かった」 「任せろ」 「つーかおまえの指示は、なんでいっつもそんなノリなんだよ」 「しょうがないよ、りんちゃんだし」 「…………」  応じる者らも、まったく迷いなく鈴子と同じ結末を描いていた。  軽口めいた調子も決して状況を舐めているからではない。死線に慣れた〈兵〉《つわもの》だからこその豪胆さ。  そして信頼。 「淳士ィ! あんた一人だけシカトすんじゃないわよ。罰として一番槍、行きなさいッ!」 「るっせェな、分かったよッ!」  ゆえに、成果は表れる。キーラの巨人化を顕象させてはいけないという統一された意思のもと、鈴子の斬監をなおも狭めていくように折り重なっていく無謬の連携。  一撃で、そう一撃で決することが出来るように。  獣の自由を剥奪し、檻に封じ込めてその総体を凝縮させ――  なおも殺戮を諦めず、礼の一線をキーラが越えようとする刹那こそ―― 「今ッ――!」  この夢は、真に絶対なる裁きのギロチンとして機能する。 「急段、顕象――!」  同じ異才を持つ者同士、人界の掟に礼を払うか払わないか。  越えてはならない決まりを破って、非礼を貫くならば是非もなし。同類としての責任を果たすのみだ。 「〈犬村大角〉《いぬむらだいかく》――〈礼儀〉《まさのり》ッ」  化生に対する断固必殺の消滅刃――先の失敗とは違い、今度は完全に嵌った協力強制がキーラを大瀑布さながらに押し流す。激流と化し、人の世からその存在を排除する。  そう、するはずだったが…… 「ふはっ」  光が消え去った後、キーラは変わらずその場に在った。消滅どころか毛ほどの傷も負っていない。 「ふは、ははは、はははははははははは――――!」  そして轟く狂笑に、鈴子は――いいや他の全員も声を失い絶句する。 「どうして……!」  決まったはずだ。決まったはずなのだ。  この上なく完璧に、一分のミスもなく夢を回した。それは鈴子のみならず、この場の皆が認めていること。不発ではない。  ではなぜ、どうしてキーラは生きている? こんな事態は理屈上、絶対有り得ないことだというのに。 「言っただろう、誰もそんな展開は望んでいない。  貴様ごときが私を滅するのは許せんのだとさァッ!」  同時、天から墜落し地から湧きあがる無数の喝采を鈴子たちは聞いていた。  そのすべてが、言っている。  因果? 知らないどうでもいい。  理屈? やめろよ興が削げる。  人格? 関係ないだろうそんなもの。  善悪? それを決めるのは自分だけだ。  その主張どおり、因果も理屈も一切無視。ただ、我堂鈴子に斬られるキーラを見たくないというだけの夢。  結果、引き起こされる事態の善悪すらも関係ない。 「おまえの世界はおまえの形に閉じている。  ならば己が真のみを求めて〈痴〉《し》れろよ、悦楽の〈詩〉《ウタ》を紡いでくれ」  タタリとは、悪夢とは、人の願望が顕れるとはこういうことなのだとソレは言った。キーラの顔とキーラの声だが、桁外れに深い穴の底から響くもののように聞こえる。 「己の生に、完全なる満足などをしている者がいると思うか?」 「王には王の不満があり、乞食には乞食の不満がある。よってどのように生きようと立場相応の不自由がある――という次元の話ではない。そもそも、立場などと言われるものがどうして生まれるのかという話だ。  思うに、それは真実を共有できないからだろう。〈我〉《 、》〈堂〉《 、》〈鈴〉《 、》〈子〉《 、》」  抉り、射竦め、だが愛でるように、深淵の視線が注がれた。未だ衝撃抜けやらぬ鈴子に向けて、淡々と話し続ける。 「おまえはこの夢を度し難いと思っているな。善悪、正誤、道理の何たるかを弁えて物を見ようとせん、盲目白痴の愚かさだと。  それは正しい。間違っていない。ああ、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈よ〉《 、》。  そして一方、彼らは思う。断罪? 責任? 傲慢な。おまえの理論に賛同してやらねばならぬ謂れはない。より楽しく、より華々しく、より美しくを求めることが我らの自由。好悪の情は正義を超える。  それも正しい。間違っていない。ああ、〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈よ〉《 、》。  〈真〉《マコト》は人の数だけ膨れ上がる」 「ゆえに生き難いの当然だろう。不満が消えぬのはそういうことだ。ならばどうする?」  ずしんと、見えぬ巨体を揺すりながらキーラが一歩前に出た。 「人の数だけ、世界を閉じてしまえばいいのだ。  私は私が望まれるまま、彼らに彼らの真を伝えに行く」 「ウラァァァァァッ、インッピェェリヤァァァァァッ!」  最後にがらりと気配が戻り、渾身の域で放たれたキーラの轟哮によって、千信館を覆う創界が内部から木っ端微塵に吹き飛ばされた。  それが意味する結果は、一つしかない。 「駄目ッ、待ちなさい――!」  タタリが街に放たれる。求められた役を果たすために。 それは瞬間の突風めいて、対処どころか反応することすら出来なかった。 「づッ、うおおおッ!」 いきなり粉砕された創界の衝撃で俺と栄光は吹き飛ばされ、地面を転がりながらも顔をあげたその一瞬―― 「残念だったな。私の勝ちだ」 「止められんよ。これが理なのだ――盧生、死すべし」 「私の夢は終わっていない」 満月の下、揺らぐ超獣のシルエット。それが雄叫びをあげながら街に拡散していくのを目撃していた。 「馬鹿な……」 では、あの悪夢に触れてしまった人らはどうなるッ? 「よ、四四八、やべえよ。こんなんおまえ……」 すでに先のタタリは夜に溶けて影も見えない。もともと実体もクソもない存在なんだ。広域に散った気配を今さら追うことはもちろん、捕捉することすら不可能だった。 そして察する。もはや手遅れ。最初の衝撃からここまで十秒も経たないうちに、悪夢の残響が消えていくのを感じていた。 「…………ッ」 つまり、役目は果たしたということだろう。この状況で俺たちがやれることは一つしかなかった。 「……晶たちと合流しよう。あいつらが心配だ」 「お、おう。だよな!」 先のアレが俺と栄光を素通りしていった以上、中の奴らが全滅ということはないと分かっていた。自分の勝ちだと言って夜の街に拡散したのも、勝利条件はそこあったからだと推察できる。 が、だからといって皆が無事という保障はない。逸る心を抑えつつ、俺と栄光は走って、走って―― 「大丈夫か、おまえらッ!」 辿り着いた校庭、そこで全員を発見した。どうやら一人も欠けた奴はいないようで、安堵に胸を撫で下ろす。 「ごめんなさい柊くん……せっかく任されたのに、応えられなくて」 「くそッ、けどいけそうだったんだよ。ほんとにさあ、あたしら実際上手くやってて、なのによぉ……」 「あれはちょっと、酷すぎる反則だよ」 「何があった、石神」 取り逃がした、有り得ないと、晶たちは憤慨して悔しさに肩を震わせている。自分が助かったことよりも、その衝撃が忘れられないらしい。 だから一番冷静さを保って見える石神に問い質すと、こいつは気を静めるように深く息を吐いてから話し始めた。 「実はな、四四八くん――」 その顛末を聞くにつけ、俺もまた晶たちの気持ちを理解するに至っていた。 「マジかよ、なんだそれ? そんなん有りかよ!」 「まるで子供の夢そのものだな……」 無敵を思い描いたから無敵になる。そこに弱点も何もあったもんじゃなく、理屈を度外視した代物だ。 「正直、毎度こうなら手に負えねえぞ。俺ら、おちょくられ続けるだけじゃねえか」 「こっちの〈夢〉《チカラ》は、みんな種が割れてんだしよ。じゃあそれを効かなくしました、なんてやられちゃあどうしようもねえだろう」 「たく、曽祖父さんどもは意外に嫌われてんのか、おい」 「というより、面白がられてるんだろうね」 「こっちは面白くねえよ!」 「分かるけど、今はそれより大事なことがあるでしょう」 そこで、ずっと黙っていた我堂が顔をあげた。こいつは直接、自分の夢を無効化された立場だから、他の奴らよりショックは数段強いだろう。 最初に一人だけ隔離したのも、殺すというより挫折と無力感を味わわせて嘲笑するのが夢の目的だったのだと今になれば推察できる。 だが、それら事実を理解しながら、我堂はまだ折れていない。意地とプライドとその他諸々がだいぶ混じってはいるだろうが、気丈に〈眦〉《まなじり》を決していた。 責任感。今のこいつを立たせているのはそれだろう。 「あれが街に出て、静乃はいったいどうなったと思う? いいえ――」 「いったい、〈ど〉《 、》〈れ〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》と思う?」 「そうだな。断言は出来ないが……」 問われた石神は顎をさすり、少し考え込むようにしてから口を開いた。 「おそらく、十から二十人というところかな」 「そんなに……」 「いや、でも、見方によっちゃあ……」 少ないとも言える。 とは誰も口に出さないが、等しく思ったことだろう。俺は一瞬すれ違っただけだが、それでもあの悪夢を構成している念の膨大さは感じ取れた。 おそらくは数百人分以上の規模。仮に五百人とした場合、被害率は五パーセント以下になる。犠牲者数がこれまでの合計を倍近く上回ったと言えば大惨事に違いないが、〈当たり〉《ハズレ》を引く確率は存外低いのも事実。 この意味するところはいったいなんだ? 「言わなかったかな。一口にタタリと言ってもそれぞれに格というものがあるんだよ」 「いわゆる位、等級だな。先のアレは、そういう意味でさほど高くない。だから大それた被害を起こせなかったんだよ」 「いやすまん、犠牲が軽いと言っているわけでは無論ないが」 俺たちの疑問を察したらしく、石神がそう説明を付け加えた。 「まあ、俺に言わせりゃそいつら自業自得だからよ。てめえの首を絞めた馬鹿のことなんざどうでもいいが」 「熱いな、淳士くんは。鈴子の夢を否定する考えが幼なじみとして許せないんだね。だがこれは昼も言ったが、仕方のないことであり――」 「はあッ? なんだそれ、うるせえな。おまえは寒気のすること言ってんじゃねえよ」 「いいからほら、さっさと説明続けやがれ」 「淳士、あんた後で便所来なさい。寒気がするって何よ」 とまあ、狙ったわけでもあるまいが、石神のお陰でようやく皆が落ち着いてきた。遠くに救急車のサイレンが鳴り始めたのを忸怩たる思いで聞いているが、だからこそここで終わってはいけない。 「で、その等級ってやつの基準は何なんだ?」 「要は現実に影響を及ぼせる規模の大小だよ。他にも細かいところは色々あるが、この場合はそう弁えてくれたらいい」 「特に、戦力としての強弱はあまり関係ない。先の奴は暴力的な夢だからだいぶ強い部類だったが、影響力は低かった。そういうことだよ」 「じゃあ例えば、誰かの性格や人間関係の設定を変えるって夢だったら、戦いとは関係ないから強い弱いとかの話じゃないけど」 「代わりに影響力がでかかったら、タタリとしては格が高いっていうことかよ」 「その通り。水希の例えに倣うなら、仮に四四八くんと淳士くんが実は愛し合っているという夢が流れた場合……」 「おい、おまえいい加減にしろよ。なんだそのふざけた例は」 「とにかく、そいつらにとってはそれが絶対の真実になるってわけね? 私たちが何を言おうが、やろうが、暖簾に腕押し」 「もはやパントマイムだな。意思疎通すら取れなくなるのか」 地味だが、そういう類も非常に危険だ。相手と面と向かっても、真実は自分の中だけで完結している。そんな、ある種の中毒者が溢れ返ることになれば、現実の様々な機構もじわじわと破綻していくだろう。 なぜならそれは、言わば絆の全否定だ。人の話を聞かない。理解しない。自分が思い描く都合のいい理想のみを真実として行動する。そこに生じる現実とのずれは、無数の事故や揉め事を生むはずで、それでは社会が成り立たない。 人と人との繋がりが断たれてしまう。これも一つの、ディストピアと言えるだろう。 「その度合いをランク分けしているのが等級だ。一から八等まであり、数字が大きくなるほど影響力はあがる」 「今夜の悪夢は、見た限りせいぜい四等。ちなみに五等や六等は、〈神祇省〉《うち》の基準だと〈菅公〉《かんこう》や崇徳院だ」 「平安時代当時の騒ぎとしてな。そう考えれば、規模の想像はつくだろう」 時の朝廷が機能停止するほどの社会的混乱。特に崇徳院といえば、源平合戦を起こした祟りとまで言われている。 「あれで四等か……だが確かに時代が時代なら、一晩で十人単位の怪死が起きれば大混乱だろう。神の怒りだなんだと騒がれるだろうし、それは今でもあまり変わらない」 「むしろ、情報社会なぶん今のほうが大事になるよね。これはやっぱり、わたしたちもネットに介入したほうがいいよ。展開を予測するっていうのもあるけれど」 「噂や願望自体は止められないことだから、せめて最悪なほうに行かないよう誘導するのは大事だと思う」 「けど大丈夫かそれ。あたしは正直、自信ねえぞ」 「一応、そういうのに強い人の心当たりがあるから、協力してもらうようにする。あ、もちろん本当のことは内緒にするよ。いいかな四四八くん?」 「……そうだな。この手のことなら、俺たちの中でおまえが一番向いている。だが全部任せて負担をかけるつもりもないから、手伝えることがあったら言ってくれ」 「それから石神、もう一つこれも大事なことなんだが」 「タタリの顕象っていうのは、今後どれくらいのペースで起きるんだ? まさか毎晩ということはないだろう」 ピークはおそらく次の新月。すなわち二週間ほど先とのことだが、そこに至るまでの段階日がまだ読めない。 今夜の悪夢は四等だったということから考えれば、新月に八等が顕れると仮定して、五・六・七等の出番があると見るべきだろう。 ならば単純に、そこから逆算した場合…… 「だいたい四日、そんなところじゃないかと思う」 やはりそうなるのか。石神も、俺と同じ計算をしたようだった。 「しかし無論、あくまで予測だ。基本、いつ何が起きてもいいようにしておくべきだろう」 「歩美が情報収集をしてくれるならそれ次第で確度もあがるが、トレーニングも兼ねて毎晩集まったほうがいいと思う」 「それで黒幕も捜さないとね」 「だな。けどこりゃ、相当ハードだぜ。寝る時間がほぼ全然ねえ」 「今夜のことを踏まえれば、おおよそ危険な時間帯の特定は出来たがな」 いわゆる丑三つ時。夜と夢というものがもっとも色濃くなる時刻。 「そこをすぎれば、その夜は乗り切ったと見ていいはずだ。といっても、睡眠時間は確かにやばいな」 「寝られるのは四時すぎかよ。それで二週間ぶっ通すのはちょっと洒落になんねえな。若さでどうだとか楽観できる域じゃねえ」 「ああ。だが言っておくが、おまえら学校はサボるなよ。これは方針として徹底したい」 「ええっ、マジ? いやそりゃ、文化祭あるからってのは分かるけど」 「あんまり寝不足がすぎると、いざというとき危なくなるんじゃないのかな」 世良の言うことは分かるし、その通りだ。しかしそれでも、俺は登校することに重きを置くべきだと考える。何も文化祭云々だけが理由じゃない。 「昼は昼。夜は夜。区切りをしっかり分けたいんだ。夢なんてものと向かい合うからこそ、俺は現実を大事にしたい」 「こんな夢がほしい。こんな夢が正しい。こんな夢が罷り通れば面白い……そんなふざけた喧嘩を売られているんだ。俺は負けたくないんだよ。だからしっかり現実と向き合って楽しむことが、そのための力になると思っている」 「平たく言えば、どんなときでも俺たちらしさを失いたくない。それでこそ実力以上を発揮できる」 「まあ、古い根性論だと言われればそれまでだが」 「いや、私はあんたに賛成よ。何があっても自分は自分だって宣言したい。そういうことでしょ?」 我堂の言葉に黙って頷く。それで他の皆も納得したようだった。 「じゃあ方針は決まったな。私としても、せっかくの真っ当な学園生活を蔑ろにはしたくない」 「だよね。戦ってるとき、校舎とか凄い壊れちゃったからどうしようって思ったけど、今はもう直ってるし」 「ほんと、そこだけは良かったって言えるか」 創界が消え、タタリが去った千信館は普段どおりの様相で、破壊の爪痕は消えている。晶が言うとおり、本当にそこだけは良かった点だ。 今夜、俺たちは負けた。全員無事ではあったものの、どちらがより多く目的を果たすかが勝敗を分けるとするならそういうことだ。認めねばならない。 今後のためにも、守れなかった人たちに報いるためにも。 改めてそう誓い、朝になったら再び登校するべく今夜は解散ということになった。 が、その前に一つだけ。俺は確認しておきたいことがあったから我堂にそっと声をかけた。 「おまえ、本当に大丈夫か?」 「……ええ。全然平気ってわけじゃないけど、これ以上くよくよしたところで仕方ないじゃない」 少し疲れた様子で苦笑しながら、振り向いたこいつはそう答える。 「淳士が言うとおり、死んだ奴らは自業自得な面があるけど……だからってざまあ見ろとは思わない。いくら私を否定した相手でもね」 「そう思えるから、大丈夫。ありがとう柊、気にかけてくれて」 「ああ、ならいいんだ。安心したよ」 たとえ自らに唾を吐き、石を投げてきたような相手であっても、私情で見切ることはしない。 善悪、道理、人としての筋というものを弁える姿勢。それでこそ我堂だ。 「さっきも言ったが、らしさを失わないでいこう。頼りにしてるぞ」 「あんたこそね」 そうして頷き合う俺たちは、朔に関わる二度目の夜を終えたのだった。  そうして、僕は新たな階層を自覚する。甘粕事件の顛末はすでに把握していたから、これからは別の歴史を見ることになるのだろうと理解していた。  己が夢の中心にあるのだという漠然とした実感がある。それは彼女に言われたからというだけではなく、周囲の状況から察せられることだった。  そう、周囲。僕らの周りに瞬いている幾つもの星々。その一つ一つが、今夜同じく夢を見ている人たちの意識なんだというのが分かっていた。そしてそれは、僕の階層突破に合わせて劇的な反応を示している。  個々が思い描く夢の出力が明らかに強くなった。こちらの進行に比例するかたちで光を増す星の数々。この身が盧生だというのなら、彼らは眷属になるのだろうか。  僕にそんな契約を結んだ覚えはないが、そのあたりの決まりは存外と曖昧なのかもしれない。事実、百年前の柊四四八も、自分で把握していない眷族を多く抱えていたのだから。  しかし、鎌倉中の人々を眷属として抱える――などというのは些か以上に世良信明という男の器を逸脱していると分かっていたので、盧生云々を鵜呑みにはしていない。なぜならもしそうだとしたら、それは一つの予想を容易に促してしまう。 「何を考えているか分かるよ信明くん。私が、あなたの盧生資格を奪い取ろうとしているんじゃないかと言いたいのね。  かつて、柊聖十郎がそうだったように」  緋衣南天は病んでいる。  その痛みを消し去ることが至上目的であり彼女の夢だ。  ならば、かつての逆十字と同じ道を歩もうとするはずだろう。実際、緋衣さんは柊聖十郎を崇敬していると言っていい。その点については疑いがない。  だが、しかし同時に思うのだ。 「違うよ。君はそんなことをしようとしてない。僕には分かる」 「あら、どうして? 私が信明くんのことを好きと言ったから?  役に立つからそう言っているんだとは考えないの?」 「一緒に生きようと言ってくれただろう」  意地悪な彼女の言動にはもう慣れた。そこにいちいち腹は立てないし、分かっていることもある。 「君は賢い。狙いがそこにあるのなら、わざわざ僕を警戒させるとは思えないよ。メリットがない」 「だから自分が盧生なんかであるはずがないと言いたいのね。卑屈だよ、信明くんは。 じゃあ逆に訊くけれど、私は君にそんな嘘を吹き込んでなんの得があるのかしら?  役に立たない人を乗せても、私の〈病〉《ヤミ》は晴れていかない。  信明くんだから言っているのよ。あなたは私のためにある」  一緒に生きようと言ったでしょう、と弄うように彼女は笑った。 「あなたは盧生。私の〈盧生〉《ヒーロー》。大好きよ、嘘じゃない。  そろそろ、これまでの環境で育んできた劣等感は捨ててちょうだい。つらいわ、そんなの。不毛じゃない。  逆十字は、どうしても盧生になることが出来ないんだから。どんな夢を持っていても、それは叶わないと知っているから。  私は盧生に寄り添い生きていく。そう決めたのよ」  つまり、それが自分の選択なのだと言っていた。 「僕が盧生で、君はその眷属として?」 「ええ。要は現実に夢を使えるようになればなんだって構わないのよ。八層を突破しさえすればそれが出来る。  信明くんは、私から夢を取り上げるなんて意地悪はしないでしょう?」  確かにそんなことはしたくない。だがそれは、緋衣さんの毒性をばら撒いてよしとするって意味じゃないんだ。  僕が誓ったのは、彼女を世界の敵になんかさせないということ。それをもって彼女を守り、四四八さんたちを守る。  世良信明が願う夢は、そういう未来なのだから。 「じゃあ仮に、僕が本当に盧生だとして。  今、鎌倉で起きている怪死事件はそのせいなのか? 僕たちが邯鄲の夢を突破するため、危険に付き合わされた人たちの中から犠牲が出ている。そう思っていい?」 「いいわよ。その認識で間違いない」 「それに対する君の感想は?」 「特に何も。ああ、そうなのって」  素っ気なく、彼女は何ら含むことなく返答した。 「夢路を越える私たちの旅が朔なのよ。そして言ったでしょう、朔とは月が見えない暗闇の時。  だから転ぶ人、落ちる人、それは色々出るでしょうよ。いちいち気にしていられない。  そして私はやめないわよ。だって羨ましいんだもの。  生きたいのよ。何が悪いの」  そこに嘘も真もない。  緋衣さんの決意は固く、また共感せざるを得ない重さがあった。  やはり、彼女はとても危うい。だからこそ僕の選択は間違ってないと確信できる。不眠を貫くなど不可能だから、一度回りだした邯鄲の夢を止めるなら僕か緋衣さんが死ぬしか手はないだろう。  よって目指すべきは、速やかな八層突破による終焉だ。巻き込まれる犠牲者たちを減らすために僕が心がけるのはそれしかなく、またその姿勢が四四八さんたちを助けることにもなると思う。  なぜならきっとあの人たちは、この事態に抵抗を試みているはずだから。細かい手段や理屈は知れないが、きっとそうしているだろうと分かる。 「そういうわけで信明くん、次の階層も頑張ろうね。これまでとは少し毛色が変わるから」  そんな僕の思いを知ってか知らずか、緋衣さんは気分を変えるように微笑んで見せた。正直、未だ盧生については半信半疑であるものの…… 「変わるって、どういう風に?」 「一旦戻るの。甘粕事件は一通り体験したけど、まだ語られていない謎の領域があるでしょう?」 「それは柊四四八たちの一周目……とても重要なことだと思うわ」  初めて彼らが夢に入り、甘粕正彦に敗北して終わったという物語。  未だ謎に包まれていたその領域を、次からは見ていくことになると彼女は言った。その果てに、僕が知ることになるのは何なのか。  いったい、何を得られるのか。  四四八さん、僕は、僕は本当に…… 「信明――おい、聞いてるか」 「え、あ――すみません、なんでしょう」 「なんでしょうって、おまえな……」 早朝、マラソンの折り返し地点である七里ヶ浜で信明と話をしようとした俺だったが、こいつはなにやら上の空で心ここにあらずという感じだった。 石神には当初の予定通り席を外してもらっている。だから男同士、腹を割って話そうと俺は思っていたんだが…… 「おまえの姉貴のことだよ。喧嘩したのは聞いている。それについてだ」 「あ、ああ、そうですか。でも、そんな心配されるようなことじゃないですよ。姉弟喧嘩なんて、結構いつものことですし」 「姉さん、わりと繊細だから大袈裟なんです。言うほどたいした問題にはなってませんから、別に……」 「俺が言ってるのは喧嘩の度合いじゃなくて、原因のことだよ」 「…………」 そこには触れられたくなかったのか、信明は口を噤んでしまった。そして警戒や防衛といった雰囲気を滲ませ始める。 なるほど、こりゃ確かに頑なだな。世良も手を焼いたことだろう。 「腹を割ろう信明。小賢しいのは好きじゃないからずばり言うが、確かに俺たちは、ちょっとした秘密を抱えている」 「それは他の誰にも言えないことだ。もちろん、おまえであっても例外じゃない」 「だから気になるだろうし、不安にもなるだろう。そこはすまんと思っている。けどな」 「俺たちは、それが正しいことだと信じてるんだ。そう思っていること、おまえにだけは知っていてほしい」 「四四八さん……」 絶対に明かせない秘密について問われたとき、人はついとぼけてしまう。そんなことは知らない、何のことか分からないと、丸ごと否定するのがほとんどで、だからこそよくあるミスと言えるだろう。 実際、世良や他の奴らも信明にそういう対応をしてしまった。結果、揉め事が生じてしまった。 基本、嘘をついて上手くいくことなどあまりないのだ。まして親しい相手になら、尚更に。 隠すというのと騙すというのは、必ずしもイコールじゃない。話せない、すまないという事実と謝罪を先に伝えず、相手の譲歩を期待するのは虫が良すぎる話だろう。 「分かりました。そう言ってくれるだけで、僕もだいぶ楽になります」 「考えてみれば、もうお互い小さな子供じゃないですからね。秘密の一つや二つはそりゃありますよ。僕にだって、もちろん」 「俺たちに言えないことがおまえにもあるんだな?」 「はい、すみません。でも僕は、それが正しいことだと信じてます」 「だから、おあいこですね。今後姉さんがまた何か言ってきたら、そういう返しでいこうと思いました」 「あんまりいじめてやるなよ。あいつはおまえ、言ってた通りわりと馬鹿なんだから」 悪戯っぽく笑う信明に苦笑で返しながらも、俺は安堵に胸を撫で下ろしていた。 信明の秘密とやらは気になるが、ああいう顔が出来る男に心配は無用だろう。兄貴分として、こいつの自主性は尊重したいと思っている。 まさか、俺たちと同等の危険に手を染めているなんて有るわけもなし。信明が完全に常人なのは、眷属化した俺から見れば一目瞭然なのだから。 他にこちらから注意できる点があるとすれば一つだけだ。 「時に信明、おまえは今噂になってる例の夢を見ているか?」 昨夜の件で死亡したのは、今朝のニュースで分かった範囲でも十二人。甘粕事件の夢に危険な願望を投影すると、そういう目に遭いかねない。 だからせめて、信明がそこに巻きこまれる展開だけは防ぎたいと思う。 「いえ、〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》〈ね〉《 、》」 「本当に?」 「はい、それがどうかしましたか?」 「いや別に、ならいいんだ」 俺たちの他に、たとえば野澤や百合香さんなど、百年前からの縁がある奴らは夢を見ていないとすでに確認を取れていた。なので信明がそうだとしても、特におかしいことはない。 客ではなく演者、要はそういうことなのだと思う。噂の対象として祭り上げられる立場の一人。 そういう意味では危険だが、そこは俺たちが頑張るしかないだろう。信明たちに被害が届かないよう、現代版戦真館特科生、プラスアルファの出番ってやつだ。 「よし、じゃあ帰ろうか。また競争するか?」 「いいですね、今度こそ負けませんよ」 「だから十年早いと何度も言ってる」 そうして一つ問題を解決した俺は、気分を前向きに切り替えることが出来た。 さて、それじゃあ学校だ。皆と約束したとおり、昼は学生らしい諸々をしっかり楽しもうと思う。 日課のマラソンを終えて家に帰ったはいいものの、なんとなく手持ち無沙汰になった俺は、いつもよりだいぶ早いが一人で登校することにした。 特にこれといった理由があるわけじゃない。強いて言うならここ最近はずっと朝から石神の相手ばかりしていたので、少し気分を変えたくなったのだ。 別にあいつへ文句をつけたいわけじゃなく、……いや、文句は今でも色々あるが、とにかくたまにはいいだろうと思ったのだ。 お互い小さい子供でもなし、住んでる家が同じだからといっていつも一緒にいなければならない決まりはない。 そういうわけで俺は今、一人で千信館の門を潜り、昇降口へ向かおうとしていたとき…… 「あれ、柊くん?」 なぜか、同じように早くから登校していた世良とかち合うことになっていた。 「どうしたおまえ、こんな時間に……」 「それは、ていうか柊くんもじゃない」 同時にそんなことを言い合う俺たちだったが、しかしすぐにお互い察した。要は、似たような理由だろう。 なので、苦笑しながら俺は世良に話しかける。 「おまえら、まだ喧嘩をしてるのか? あいつには、俺からも言っといたんだけどな」 「あ、ううん。それは違うの。別にそんなわけじゃないから心配しないで……ありがとう」 「柊くんこそ、静乃と仲良くしなきゃ駄目だよ」 「俺だって、別にあいつと喧嘩してたわけじゃない」 俺がたまには石神と離れて行動したくなったのと同様に、こいつも信明と別行動がしたくなったということだろう。 何せ、今の俺たちにとって夜は修羅場なのだから。朝を待ち遠しく思い、その象徴である学校につい先走ってしまっただけ。 「まあ、気が昂ぶり気味なのは自覚している。おまえもそうなんだろう?」 「けど言ったように、だからこそ俺たちは普段通りを貫くべきだ。特に〈学校〉《ここ》じゃあな」 「分かってる。そういう意味でも、柊くんに会えたのはラッキーだったかな。ちょっと私、ほっとしたよ」 「ならよかった。さっきああは言ったけど、おまえは信明のことで心労も多いだろうし」 「柊くんも、リーダーは色々プレッシャーが多いよね」 「よっし、じゃあこの話はもうやめて、今日も元気に学生しようかっ」 快活に笑って促す世良に頷きを返しながら、俺たちは二人並んで昇降口へと向かった。 学生らしく、その本分を忘れずに。今はそうした立場をちゃんと楽しみ、全うする。それが現状の、そして最後まで通したい方針なのだから否はない。 そう、ないのだが…… 「えっ……」 ここで俺たちは予想外の、ある意味じゃあ極めて学生らしい問題に直面することとなった。 自分の下駄箱を開けた世良が瞬間的に硬直し、次いで困ったように俺の顔を見上げてくる。 「み、見た……?」 「うん」 「ど、どうしよう?」 「俺に訊くなよ」 それは正直、こいつにとってさほど珍しいものじゃない。だが気持ち的には完全な不意打ちだったのと、あとはまあ、実際にそこそこ久しぶりだったせいもあり…… 「ラブレターか、良かったな」 「他人事みたいに言わないでよぉ!」 早朝の、まだ誰もいない学校に世良の声が響き渡る。 他人事みたいに言うなって、そうは言うけど本当に他人事なんだからしょうがないじゃないか。 他人事……だよな? うん。俺の論理に間違いはない。そう思う。 「とにかく、頑張れ。俺はもう行く」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。置いてかないでってば、柊くーん!」 なんだかよく分からない居心地の悪さから退散を試みたが、世良が必死の形相で追いかけてくる。 そうして結局、やはりまだ誰もいない教室にまで至った俺たちは、二人してラブレターという物体と対峙する羽目になってしまった。 「……さて、とりあえず幾つか、確認したいことがある」 「まずそれ、本当にラブレターということでいいんだよな? 実は果たし状とか、そういうわけじゃなく?」 「うん。そういうわけじゃない」 「ならいったい、誰からなんだ? 俺の知っている奴?」 「知らない……と思う。ていうか、私も知らないし」 「なんかこれ、一年生の子からみたい」 「ああ、なるほどな」 一般に、春は出会いと恋の季節だ。まだ世良水希という女をよく分かっていない新入生が、哀れにもトチ狂ってしまったということだろう。 「柊くん、すごい失礼なこと考えてない?」 「気のせいだ。とにかく、そんなうろたえるなよ。この手のことは初めてでもあるまいし」 「それは、確かにそうだけど……だからって慣れるわけもないじゃない」 「こんな風に、現場見られちゃったら私だって恥ずかしいよ……」 「……それはすまん。だが茶化すつもりはないし、迷惑なら忘れるようにするが」 「え、あっ、違うの! そうじゃなくてっ」 俺の言葉に、世良はしどろもどろになりながら身振り手振りでつけ加えてきた。 「あのね、別に柊くんに見られたのが迷惑とかってわけじゃないの。それから当然、こういう手紙をもらうことも」 「書いてくれた人は、きっと一生懸命だったんだと思うし……ただ」 「ただ?」 「簡単な言葉で返事はできないから、それで困っちゃうかなって……」 「それはつまり、断るつもりということか?」 「そ、そうだよ。だって、私の返事は決まってるもの……」 言いながら、上目遣いにこっちを伺ってくる世良。 まあその、どうするかはあくまでこいつが決めることなのだから、そこについて俺がとやかく言うことはない。 「それでおまえは、いま誠実なお断りの仕方を模索してるというわけだな?」 「うん……、だって柊くんが返事をもらう側だったら、やっぱり素っ気ない対応はされたくないでしょ?」 「どうだろうな、結局そこは人によると思うぞ」 「たとえば?」 「あんまり優しく言いすぎると、上手く拒絶が伝わらなくてストーカーみたいになったり」 「そうじゃなくても、変に気を持たせて逆に苦しめることになったり」 などと、嫌なパターンをあげつらってはみるものの、こんなことを言い出したら切りがないと思ってはいる。 なので結局、俺から言えることなど知れていた。 「何にしろ、おまえにとって正しいと思う行動をするしかないんじゃないか? どうなっても後悔しないように……いや、違うな」 「後悔することになっても、自分の選択に責任を持てるように。……すまんな、ちょっと臭すぎるか」 言いながら、なんだか恥ずかしくなってきた。しかし世良は笑って頷く。 「ううん、柊くんらしい意見だったよ。そうだね、せっかく好きって言ってくれた相手なんだから、私もちゃんと自分に責任持たないと」 「じゃあやっぱり、返事は手紙にしようかな。面と向かって言うのが誠意かもしれないけど、そうなると私、なんだか焦って変なこと言っちゃいそうだし」 「ちゃんと整理して気持ちを伝えられるように、それがいいんじゃないかなって思うけど、どうかな?」 俺も世良の考えに異論はない。そこまで考えた上でのことなら、それはきっと文面にも表れるし、伝わるだろう。 私見になるが、たとえ振られても本望と思ってくれるのではないだろうか。 「ねえ柊くん、聞いてる?」 「ああ、うむ。いいと思うぞ。とにかく無理はしない範囲で頑張れ世良」 そう励まして、ひとまず俺はこの場を去ろうと思ったのだが。 「えっ、うん、あれ? そんな感じ?」 何か、またしてもよく分からないが世良は戸惑っているようだった。 「なんだよ、まだ何かあるのか?」 「だいたいこれ以上、部外者の俺が踏み込むのは良くないだろ」 「えっと……っ、そ、それはぁ~、そうなんですけどぉ~」 「じゃ――」 「ちょ、ちょーーーーっと! 待った待った、待った……!」 「なんだよっ」 再び俺がクールに立ち去ろうとすると、世良が慌てて腕を掴み引っ張ってくる。 「それはさすがに、冷たくない? こうして居合わせたのも何かの縁だし、意見だってくれたんだから最後までっていうか……ほら責任よ、責任っ」 「柊くんにも、そういう義務があるでしょこれっ」 「かと言って、他人のラブレターを俺が見ていい道理はない」 「そ、そうなんだけどっ! でも、返事を書くのが大変っていうのは分かるでしょ?」 「それはまあ理解してる」 「だったらさ、少しは一緒に考えてくれても……」 「それこそ駄目だ。ラブレターを出した相手が、他の男と返事を書いてたって知ったらショックだぞ」 「うっ……、それはそうね」 「だろうが。相手に分からないことと言っても、仮にバレたら大事だ。屈辱でしかない」 「そういう危険を生む行動は、どう考えても誠実と言えん」 「む~~~……っ、う~う~」 言葉にならない抵抗を見せる世良。なんだか、いきなり子供っぽくなったな。 こんな姿をこいつのファンが目撃したら、どう感じるのか聞いてみたいところではある。 「そんなにつれないことを言わなくてもいいんじゃないかなぁ……正論馬鹿」 「……?」 なんだか、徐々に要を得ないことを言い始めてるな。正直、世良が何を言いたいのか分からなくなってきた。 けれどこいつは、より小さな声でぼそぼそと呟き続ける。 「だってさ、柊くんにもあながち無関係ってわけじゃないんだし……」 「あん、なんだって? 今、何を言った?」 「な、なんでもない。それよりここは、こうなったらお互いに妥協しようよ」 「また急に何を言い出してるんだおまえは」 「柊くんは読まないでいいから、その代わり断りのメッセージを一緒に考えて」 「読まないで考えさせるなよっ」 「私はちゃんと読んだもん。だから基本的に私が書くけど、男の子の目線でアドバイスが欲しいの」 「それは男が傷つかない言い方とか、そういうことか?」 「うん。それだけでいいの。だから――返事を書き終わるまで一緒にいてくださいっ」 「うーむ……、そこまで言うのなら、まあ」 「ありがとう、恩に着ます」 なんだか変な話になってしまった。内容的に俺がやることはあんまり多く無さそうではあるが。 何より今の世良を見ていると、どうにもここから離れていきにくいという感覚が生まれていた。 「そ、それじゃあまずはこういう文章で始めようと思うんだけど――」 そして俺は世良を手伝い、ラブレターの返事を一緒に考えていった。 こいつの言う通り、基本的にどのように書いて伝えるかは決まってるようで、思ったよりもすらすらと書き進めていく。 俺は、気になる言い回しがあったらそこで口を挟む程度である。 「…………っ」 ただし、盗み見るみたいにずっとチラチラとこちらへ視線を向けてきたのが気になったが。 「おいそれ、なんかその言いかたは嫌味っぽい」 「ああ、ごめん! えっとそれじゃあ――」 ともかく、他のクラスメイトが登校してくるギリギリまで、世良は頑張って返事を書き続けていた。 晴天の下、芦角先生のホイッスルがグラウンドに響き渡る。 遠慮のない、気持ちの良い笛の音はやかましくも、熱っぽく急き立ててくるようだ。 四人ずつに分かれての徒競走。だが体育の授業と呼ぶには全員かなり本格的なスタートを切っていたし、適当に流す奴は一人もいない。どちらかというと陸上部の短距離走みたいな雰囲気だったが、これがここでの日常だ。 高い水準で文武両道の千信館ならではといった光景である。 「ほら、男子! おまえら本気でやってんだろうな? 世良と石神に負けた奴は罰走追加するぞ」 まったくこの人は無茶を言う。俺含む順番待ちの男たち全員が、本気かよという目でグラウンドの隅に目をやった。 そこにはすでに計測を終え、座り込んでいる女子たちの姿。 あっちでぶっちぎりのワンツーだった世良と石神に負けたら罰走だと? 「そうだぞ~! 男の子なら、いいとこ見せてくれなきゃ~!」 「あんまりプレッシャーかけ過ぎるのも、どうかなって思うけど」 「そうか? ここで燃えるようじゃなければ男子じゃないだろ」 「同感ね。ほらあんたら、情けない顔してんじゃないわよ」 「災難だな、同情するわ」 これはいよいよ手が抜けない。確かに俺とて負けるつもりはハナからないが、芦角先生の出したハードルは高すぎる。真面目な話、クリアできそうな奴は男の中でも三人いるかどうかじゃないのか? 自分の番が確実に迫ってきている俺たちは、首や肩を回したり、屈伸をしながら顔を見合わせた。 「はぁ~、毎度ながらうちの女性陣は優秀だねぇ。水希と我堂だけでも大概だったのに、石神とかなんだよあれ」 「だから言ったろ、あいつは野人だって」 「そりゃ知ってるけどよ、素の状態であんなタイム出されたらマジ引くわ」 当たり前だが、こんな場で夢の力を使うわけにはいかない。よって世良と石神が出した記録は純粋な肉体能力の結果なんだが、これが相当に面倒だ。 なぜなら、全力で走りつつ夢を使わないというのは想像以上に加減が難しい。無我夢中になれば弾みでやらかしてしまうかもしれず、だから晶と我堂は今回タイムを落としてしまった。 そういう観点から見る限り、世良と石神は力のコントロールを完全にマスターしつつある。よってそんなあいつらに勝つというのは、俺たちにとって二重の意味での難題となっていた。 「まあ、しょうがねえ。やるだけやってみるさ。俺はもともとスピード重視の資質じゃねえし、うっかりぶっ放してもギャグみてえなことにはならねえだろ」 「あ、なんだよそれ。ずりぃぞ鳴滝。そんなん有りかよ」 「別にハナから使うこと前提で言ってるわけじゃねえよ。ただそれにびびって、全力出せないまま負けたらダセぇだろうが、罰走も嫌だしよ」 「一理ある。だが俺は、あくまで素のままに挑戦するぞ。勝つなら堂々と、完膚なきまでに勝ってやる。男の意地だ」 「……はあ、意地ねえ。おまえらはこういうとき大変だよな。オレと違って、男的カーストが高いからよ」 わりと自虐的な主張だったが、栄光は特に含むところもなさそうに、だらんと身体の力を抜いて溜め息をついた。 「考えてみりゃ、それが唯一の救いだぜ。期待されたらいつも結果出さなきゃ許されねえだろうが、オレくらいの立場になれば、一発逆転も有りっつーかよ」 「普段はダメでも、たまにカッコつければ全部許して貰えそうな気がしねえ?」 「あん、なんだそりゃ?」 「つまり、そういうのは明日からでいいやって思える」 「おい。それは本気になっても駄目な奴の台詞だぞ」 「明日から本気出すぜ」 「あのな、栄光……」 「もういいや柊、言わせとけ」 鳴滝はいつものことと言わんばかりに、相手するのをやめたようだ。 実際、こんなところで言い合っても仕方ない。 栄光のこういうスタンスは今に始まったことじゃないし、バランスを取りながらほどほどでやるっていうのも一つの生き方ではある。 俺の生き方ではないが。 「とにかく舐めて走るなよ。おまえが先生から罰走を食らうのは勝手だが、それに巻き込まれたら敵わん」 「冷てえなあ、苦しいときこそ友情の真価が問われるって思わねえの?」 「馴れ合いを友情とは言わん」 ぴしゃりと言い切ると、栄光もそれ以上はごちゃごちゃ言わなかった。 ああ見えて目敏いのが芦角先生だ。ダラダラやっている奴が一人でもいたら、冗談抜きで連帯責任が目に見えている。 俺は呼吸を整え、動悸を抑え、そして意識をスタートラインからゴール地点へと集中させていった。 やがて俺たちの順番が回ってきて、横には栄光と鳴滝が並んでいる。 どちらも緊張した様子は感じられず、落ち着いて合図を待っていた。 俺たちの姿を確認した先生が、おもむろにスターターピストルを持った片手を挙げた。 「位置について。よーい――」 意識が研ぎ澄まされ、風の音さえも遠くなる。 ゴール地点を一心に見つめた俺は、身体に充実してゆく気力を自覚した。 だから、だろうか。 「――えっ」 俺はその人影に気がつかず、栄光が小さくあげた声にも反応できなかった。 そして同時、スタートラインに並んだ俺たちが一斉に飛び出した。 距離は400メートル。あっという間に終わるわけではなく、ペース配分とそれからコーナーを回る技術の差も如実に出てくる。 仮にスタートで遅れようが、駆け引きの余地が有る競走なのだ。 よし―― スタートはそこそこ。俺の前に、他の生徒の姿は見えない。 二番手の鳴滝に半歩リードの状態を保ったまま、俺はペースを落とさず最初のコーナーを曲がっていく。 そして、二つ目のコーナーを曲がり、再び直線に入ったときだった。 背後から、地獄のような叫び声が聞こえてきたのだ……! 「うぉおおおおおおおおおおおおーーーーーーーー!」 「んな……っ、は、栄光!?」 走っている最中だというのに、思わず声を上げてしまった。 まずい。呼吸が乱れ、精神がざわつく。集中していた意識が散らばってしまう。 まだ距離にして半分を過ぎたところだ。ここからが正念場―― 「負けてぇ、たまるかよォ!」 「くっ……」 「たまにはオレにも、勝利を寄越せぇえええええええ!」 なんだこいつの本気度は。 未だかつて見たことのない謎の迫力に、頭の中が掻き回される。 一瞬、栄光が夢を使っているのかと疑ったが、違うと感覚が告げている。 つまり素で、こいつが俺に迫っているのだ。 「はっ、はっ……! な、並んだ! あと少しッ」 「馬鹿な、嘘だろッ」 「嘘ってなんだ、いつまでも安パイとか思ってんじゃねーぞ!」 最終コーナーに差し掛かると、気迫に満ちた声が俺を脅かしてきた。 決して舐めていたわけじゃないが、栄光の奴、こんな底力を隠していたのか。 「ふんぎいぃいいいいいいいいいーーーーーーー!」 しかしおまえ、なんて声を出してるんだ。それほど本気ということかよ。 「―――――ッ」 いいだろう、上等だ。栄光の気迫が、俺のスイッチまで強く押してくる。 事情は知らないが、こいつが本気になっているからこそ負けてはいられない。 嬉しいぞ栄光。さあ、男の勝負といこうか! 「くっ、うぉおおおおお――!」 「んがぁあああああああああああ!」 ラスト15メートル。 意地の張り合いにも似た俺たちの競り合いに、周りの視線が注がれる。 俺と栄光が気力を振りしぼるラストラン。無意識の内に隣をイメージして、より前へと胸を出してゆく。 そして、そのとき―― 俺は、ある女生徒の影を視線の端に見たのだった。 「ど、どわわわわわわわわわ!」 「栄光ッ?」 「うわぁああああああああああ――ッ」 ……よって、その後。 最後の最後で盛大に転んだ栄光は、当然のように怪我をしてしまった。 正確には足首を捻ったようで、そのまま俺が担いで〈保〉《、》〈健〉《、》〈委〉《、》〈員〉《、》へ引き渡したのだ。 「……なるほど、そういうことだったのか」 同時に俺は、どうして栄光が急にやる気を見せたのか得心していた。 まさか別クラスの野澤が、俺たちの競走を見ていたとはな。 そりゃ負けられないし、勝ちたくもなるだろう。〈栄光〉《あいつ》は単純だから、なおさらに。 「これが栄光の言う明日ってやつか」 授業が終わった後、俺は見舞いがてら保健室に向かっていた。結果的に怪我をさせてしまった負い目もあるし、何より一言二言忠告もしたい。 本気になるべきときを定めるのは結構だが、普段とギャップがありすぎるから怪我などするんだ。そんなことでは仮に結果を出せたとしても、取り返しのつかない犠牲を払いかねない。 自爆して格好つけるヒーローなんてのは反則技だぞ。基本、そういうのはやっちゃいけないことなんだ。今後のためにも、そこらへんをあいつには理解してもらわないといけないだろう。 そう、俺は思っていたんだが…… 「まったく、仕方のない人ですね、あなたは」 「え、そうかなぁ? むしろあの四四八によく食らいついていったもんだと、自分じゃ思ってるんだけど……」 「それで、この様ですか」 「うん、名誉の負傷だろ?」 「むしろ馬鹿の証としか思えないのですが」 「き、きっついなあ祥子さん。なんで必死に走って、説教くらってるんだオレ」 言うべきことは、すでに言うべき奴が言っているようだった。保健室からは野澤と栄光の話し声が聞こえてくる。 ならばもう、俺がやるべきことはない。と弁えつつも、自然と耳をそばだてて中の様子を伺ってしまう。 「向こう見ずで無鉄砲。男の子はどうしてそうなんでしょうかね」 「まあ、そこほら、しょうがねえもんがあるっつうか……」 「なにがです?」 「だってさ。なんがかんだでそういうの、女子的にはきゅんきゅん来ない?」 「来ませんね」 「あれっ」 ずこっと転ぶ栄光の気配が如実に分かった。野澤らしいといえばそれまでだが、今の遠まわしな告白もまったく通じていないらしい。 と言うより、分かった上で切っているのか。曰くきゅんきゅんとやらを野澤にさせようと栄光は頑張ったわけだが、それに対しおまえはアホかと言っている。 だが、続く台詞はどこか笑いを帯びたもので。 「むしろ呆れますし、溜息が出ます。要するにあまりいい気分になりません」 「なので栄光さん、これで頑張るのをやめたりしますか?」 「え?」 「一生懸命走ったのに、こんな風に言われて、栄光さんは頑張ることを馬鹿らしく感じたりするか、ということです」 「…………」 その問いに、だが栄光は笑って答えた。 「残念っ、生憎そこまでデリケートにはできてないぜ」 「変なところでマジになって、失敗して。誰かから駄目だしされるなんてのはオレの平常運転さ。祥子さんもそうだけど、オレの周りにいる奴らは基本なんかしらスペック高いしよ」 「オレがぶっちぎりで一番なことっていやあ、ヘマやらかす以外にないんだから。むしろ美味しいと思ってる」 「……それはつまり、今さら反省するつもりもないと?」 「反省って、オレが?」 再度、むっとした野澤の声に、きょとんと呆けるような栄光の声。 「違う違う。それは反対だ。いつも反省してばっかりなんだよ」 「話が見えません……どういうことでしょうか」 「だからさ、裏のある難しい意味じゃなくて言葉のまま。いつも失敗しちゃあ怒られて、その度に反省して……」 「それなのに失敗してしまうのは変わらないんですか?」 「そこを突かれると痛いけどさ。でも、オレのポリシーとして、失敗するのをビビって何にもできなくなる男にだけはなりたくないと思ってるんだよ」 「そうなんですか。初めて聞きました」 「あ、ごめん。初めて言った。今日からこのポリシーでいこうかなと」 なんだそれは。思わず突っ込みを入れたくなる俺と同様、野澤の気配はなおのこと冷えていく。 それにまったく動じた風のない栄光も、大物と言えば大物なんだが。 「……ふざけているんですか?」 「い、いやぁ、なんていうかこういうこと話してるから、改めて気づいたりすることもあるわけで……もちろんビビってちゃ何にもならねーって、ずっと思ってるぜ」 「そこをもう少し詳しくお願いします」 「つまり、さっきも言ったけど、俺の周りは出来る奴が多いんだ。性格に難ありみたいなところはあるけど、みんな他人に負けない何かを持ってたり……」 「まあ、実際そうですね」 「だろ? だからさ、誰よりも失敗するオレがビビってたら、一番かっこ悪いじゃんか」 「…………」 「きっと何にもできなくなるし、やろうとしなくなる」 「オレは雑魚くても、みんなと対等でいたいんだよ。だからせめて、カッコだけはつけていたい」 「……それで、ゴール手前で大転倒ですか」 「ははっ、四四八あたりは心配して的外れな責任を感じてるかもしれないけどな」 「どうでしょう。四四八さんなら逆に腹を立てているかもしれません。日ごろの鍛錬が足りんからだ、馬鹿めが……みたいな」 「ああそれ、確かに言いそうだよな」 「私も腹が立っています」 「え、何か言った?」 「なんでもありません」 ともあれ、もうこれ以上の出歯亀はいいだろう。聞いていると恥ずかしくなってきたし、あとは野澤に任せたほうがきっといい。 普段は見せることのない、栄光のちょっとした告白。 それをちゃんと受け止めてやられるのは、野澤だろうと思うから。 「ただし、それは別として心配ばかりかけるのもどうかと思いますよ」 「おお、祥子さんそんなに心配だった?」 「別に。私がどうこうではなく、四四八さんたちにということです。彼らと対等でいたいならしゃんとしないと、格好つけるも何もないでしょう」 「そんなに心配する奴らかなぁ。自業自得くらいに思ってるんじゃないか?」 「そうだとしても。こんなことばかりしていたら……、その――」 「うん?」 「最終的に、私も心配せざるを得ないでしょう。保健委員、なんですから」 「……そ、そっか! そりゃそうだよな」 「はい、弁えてください」 さて。 どうやら栄光、この調子じゃあ次の授業に出てくるか怪しいところだ。 なので特別、今回は俺がおまえのぶんもノートをとってやろう。感謝しろ。 怪我をさせたぶんは、野澤と二人きりになれたということでチャラだから、貸し一つだぞ。 昼休みになり、俺は職員室へと向かっていた。 文化祭のことで芦角先生に確認したいことがあり、同じく実行委員である我堂も呼ぼうかと思ったが、雁首を揃えてたずねることもない。 職員室に着くと、同様に用のある生徒たちでそこそこ賑わっていた。 校風からして生徒と教師が友達のように馴れ合う環境でもないが、授業では質問できない各々の事情を相談しに行くことはある。 「とはいえ、その先生が不在の可能性もあるが……」 なにせ俺の探し人はあれだし。 多忙なわりに動き回っている感じではない。わりと大切なことも忘れていたり、そんな雑把な性格は、おかげでこちらも気が楽ではあるけれど。 「真面目な相談をするに相応しいタイプでもないよな」 「何がタイプじゃないんだ?」 「せ、先生っ」 驚いてふり返ると、妙な迫力を発しながら芦角先生が立っていた。 皺のあるジャージを着ていて気が抜けているような格好なのに、身に纏う空気はまるで抜き身の刀のようである。 「タイプってのは、まさかあれか? おまえの恋愛的好みがどうこうとか、そういうんじゃないだろうな?」 そして、地獄耳すぎる。そのせいでこの圧迫感のある表情だったのか。 「いえ、先生が考えているような意味ではないです」 「なら、いいが……けどその言い方だと、私の頭が年中桃色みたいに聞こえるぞ」 どちらかというと思春期って感じもするが。そんな突っ込みを入れた日には恐ろしいことになりそうなので、俺は本題を振った。 「文化祭のことで伺ったんですよ。色々と確認しておきたいことがあったので」 「ああ、そういえば柊が実行委員だったな」 そういえばって。相も変わらずマイペースな担任だ。 と思いながらも、俺は極めて事務的に質問事項をあげていく。すると、少し離れたところから聞こえる耳慣れた声に気がついた。 「――そ、そうですか。いつ頃、来られそうかも分からないんですか?」 「はい、はい……。いえ、僕もはっきりした事情を知っているわけじゃなくて……」 信明だ。担任の先生と思われる教員と、妙に真剣な様子で話し合っている。 いや……、あれは話し合っているというよりも、何かしらを探っているような様子だった。 信明の方は俺にも見せたことのないほど真剣な表情なのだが、話している先生の方はしきりに首を傾げているだけ。 「なぁ、おい柊。おまえちゃんと聞いてるのか?」 「え、あ、はい。すみません」 「人と話してるときにぼうっとするなんて、おまえらしくないぞ」 「もしかすると実行委員の話ってのは仮初めで、本当は何か別の相談でもあったりするのか?」 「いえ、特にそういうわけではありません」 「純粋に気が抜けただけですよ。すみませんでした」 「そうか……、まあ一応は担任をやってるわけだし、何か困ったことがあったら聞くだけは聞いてやるから遠慮すんなよ?」 「はい。そういうときは自分も包み隠さず言いますよ」 「ふむ。確かにおまえは半端に隠し事をするような奴じゃないな。そういう女々しい男は最悪だからな」 「なんか実感こもってませんか」 「う、うるさいな。特に相談事もないんだったら、さっさと話すべきことを済ませろよ」 「分かりました。では今後、うちのクラスが練習で体育館を使用するスケジュールについてですが……」 その後、俺は早々に切り上げられるよう事案を端的に確認していった。 そして職員室を出た後、俺は教室に戻らず信明が出てくるのを待つ。 どうしても、あのときの表情や口調が気になるからだ。世良だったら身体のことを心配しているのかもしれないが、俺は直感的に別のことだと思っていた。 体調が悪いとか、そういうことで今の信明はあんな顔を見せたりしない。 そうして、待つこと数分の後…… 「失礼しました。――て、四四八さん?」 「よう。どうしたんだ、こんなところで」 「どうしたんだって……、四四八さんこそ」 「俺は文化祭のことで芦角先生に用があったんだよ。そのときおまえも〈職員室〉《なか》にいるのが見えたからな」 「え、そうだったんですか?」 「ああ。おまえが妙に真剣な顔で何か話していたから気になったんだよ」 「あのときの雰囲気からして、どうも安堵するような返答をもらえた様子でもないし、困ってるんなら俺が話を聞くぞ」 「いえそんな、別に困ってるだなんて」 「心配するな。もちろん世良とかその他には内緒だ」 「四四八さん……」 そう。こんな風にたずねると信明は弱い。 小賢しい聞き方だとも思ったが、こいつがあんなに真剣な顔をするのは、皆に話せない何かを抱えてるときなのだ。 その“皆”には、当然俺も含まれているんだろうが……例外を出すならそれはやはり俺だろうという経験上の確信がある。 お節介ぎみなのは承知の上だが、皆の状況と立場を鑑みれば、これは俺の役目だからやらねばならない。 「その、わざわざ四四八さんに聞いてもらうようなことじゃないんです」 「おいおい。俺たちの間で、今さらじゃないか。そんなことを言ってたら、俺は何もおまえに訊けなくなる」 「…………」 「それとも俺に話すと、何かまずい方向にでも進んでしまうことなのか?」 「い、いえ! そんなことじゃないです。仮に話してまずいことになるのなら、むしろ四四八さんを巻き込んだ方がきっと早く解決へ向かうはずだと思ってますから」 「そ、そうか?」 言葉だけとれば、それは信頼の表明と言えるのだろう。 しかし、俺はこのとき言葉にできない違和感を覚えていた。信明は嘘をいうタイプじゃない。しかし、言うほど他人を巻き込める人間でもないのだ。 だからこそ、俺はどう返していいのか迷ってしまう。 信明が言葉を濁しているのは、おそらく俺が思っているよりも色んなことを考慮しているからだろう。 俺を巻き込んだ方が早く解決するというのは、こいつにとって嘘じゃないと思うが、しかし…… 「まあ、実際のところは分からんが」 結局、仕方ないので思ったことをそのまま俺は口にした。 「相手が担任の先生ってところから察するに、クラスメイトの話なのか?」 「はい……だから、四四八さんにはいくらなんでも関係が無さすぎるかなって」 「なるほど、確かに」 それは俺にとって遠い話だ。依然として思いつめたような顔は気になるが、少なくともこっちの秘密に関わる話じゃないということで、内心胸をなでおろす。 「どういう事情のことかはともかく、健全な悩みみたいで安心したよ」 「そうですかね?」 「ああ。少なくとも、未だに姉弟喧嘩で悩んでるよりは年相応って感じじゃないか」 「ははっ、それは言われてみるとそうですね」 信明が小さく笑うと、その場の空気もふっと緩んだようだった。 これなら大丈夫か? どうやら悩みと言っても些末なことみたいだし。 というか―― 「なんとなく、気づいてきたような」 「ほら、例の。前に話しただろ。もしかして女絡みか?」 「え、あ、いやっ、それは……えっと」 「図星かよ」 結構、適当に言ってみたのに信明は分かりやすく顔を赤くして困った表情を見せた。 なるほど。世良には話せないわけだ。女のことで姉に相談ってのは絶対に嫌だろうし。母さんと立場を置き換えてみれば俺にもよく理解できる。 だけどそこは向こうも同じで、母さんがそうであるように世良もきっと知りたがるんだろうな。 改めて俺は、信明にちょっとした親近感を覚えてしまった。 「しかし、異性との複雑な事情で悩んでるんなら、俺もアドバイスできること多くなさそうだ」 「基本、そういうことは部外者がしゃしゃり出て言うことじゃないだろうし」 「はい……それはなんとなく分かります」 「だから詳しいことは訊かないが、おまえ一人で解決できそうなのか?」 「ええっと、そこはちょっと複雑でして、まだ彼女について知らないことも多いから」 「どういう意味だ?」 「実はその子、入学してからずっと登校してないんですよ」 信明の返答に、俺は軽く言葉を失った。 一度も登校していない? いったいなぜ? 怪我か? 病気か? それとも俗に言う引きこもりというやつなのか? 詳しいことは訊かないと言った手前呑み込んだが、どうやら単純な色恋よりもデリケートな類らしい。 「だから色々、先生から教えてもらおうと思ったんです」 「……そしたら、解決に繋がるようなことは聞き出せなかったということか」 「はい。先生も何だか要領を得ない感じで……、収穫無しでした」 「……そうか」 俺が頷くと、信明は苦笑してみせた。 しかし、その表情は昔によく見せていた自己不安に陥った感じではない。 日々の鍛錬の賜物なのか、今は解決できなくともじっくり腰を据えて何とかしてやろうという決意が裏に秘められている。 ならばもう、これ以上の口出しは野暮でしかないだろう。 「色々と勘ぐってすまないな。その子とのこと、俺も陰ながら応援するよ」 「いえ、僕も心配かけて申しわけありません。本当に困ったことになったら、そのときは四四八さんに相談するかもです」 「……ああ。いつでもいいからな」 「ありがとうございます」 しかしやはり、言うほど信明は俺に頼るつもりが無さそうに思えた。 けど、別にいい。 そういうこいつの姿勢について、殊更とやかく言うつもりはない。気持ちは分かるし、俺にだって少なからずあるポリシーなのだから。 男としては、自分でなるべく解決できるようになりたいものだ。それが女絡みなら、特に。 「じゃあ、俺はもう行くよ」 「はい。それなら、また明日の朝に」 「おう」 そうして俺は踵を返し、信明と別れた。 が、廊下を曲がったところで思わぬ人物に声をかけられた。 「おや。どうしたんだ、四四八くん。もうすぐ授業が始まるというのに、こんなところをうろついて君らしくもない」 「すみません。すぐに教室へ戻ります」 「幽雫先生は職員室へ帰る途中ですか?」 「そういうことだ。次の授業に遅れそうなのは俺も一緒なので偉そうなことは言えないが、総代殿に少々捕まってね」 「そうですか。お察しします」 軽口めいた返答は不敬だったかもしれないが、本音なのでしょうがない。幽雫先生も苦笑していた。 「まあ彼女も、俺に絡んで気が晴れるならそれでいいさ。君ら生徒を振り回すよりは被害も抑えられるというものだろう」 「君も俺も、今は遅刻しないように急ぐとしよう」 「はい……あ、そうだ先生。一つだけ聞きたいことがあるんですが、いいですか?」 「なんだね。時間が掛かるようなら、次の機会にしてもらいたいのだが」 「いえ、すぐに済みます。一年生に、ずっと不登校の女子生徒がいると聞いたんですが」 「その子がどうして不登校を続けているのか、もしご存知でしたら明かせる範囲で教えて頂けませんか?」 「女子生徒が不登校……?」 「はい。自分ではないのですが気に病んでいる後輩がいて、もし明るい話題があったら教えてやりたいと思うんです」 「ふむ……」 俺の言葉に、幽雫先生は立ち止まって考え込む。 この人は生徒の生活主導も担っているから、不登校の者がいたら漏らさず知っているだろうし、何ならすでに対策を打っているかもしれない。性格的にも放任しそうな芦角先生とは正反対のタイプだから。 答えを待つ俺に向け、しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。 「知らんぞ。生憎そんな生徒はいないはずだ」 「……え?」 俺が目を丸くすると、幽雫先生が諭すようにつけ加えた。 「仮にいたとしても、生徒のプライベートな事情なら君に話せるはずもないが、そういう意味ではなく、いないものは話せない」 「…………」 「もういいかい? そして、君も早く教室へ戻りたまえ」 「あ、はい……すみませんでした」 困惑する俺の表情には気づいた様子だったが、先生は足早に去っていった。こんな立ち話で遅刻するわけにはいかないだろう。 あの幽雫先生が誤魔化したり嘘を言うわけがないし、そもそも隠す理由も無い。かといって知らないということも有り得ない。 ならば、嘘をついているのは―― 「信明……?」 あのとき薄っすらと感じていた違和感は、どうやら残念ながら当たっていたようだ。 しかし、決して嘘をついているようには見えなかったんだが…… 俺は頭を振って気持ちを切り替える。 問題の規模としては信明のクラスメイトのことだ。俺がああだこうだ言うことじゃないし、それに女子のことだから単純に照れて隠したのかもしれない。 いずれにせよ何かしら問題のある子で、信明はそれを気にしているというわけだ。 「まあ一応、頭の片隅には置いておこう」 そう呟いて、俺はチャイムが鳴る中、小走りで教室へと戻っていった。 四限目終了のチャイムが鳴り響き、昼休みを迎えたクラスメイトたちが慌しく行きかう中、俺は一人机に座って組んだ両手に顎を乗せつつ考えていた。 無論、悩み事は数多い。目の前の級友たちも例の夢を見ているわけで、そんな彼らの願望が現実に投影され始めているという状況が、如何に危険なものかというのは論じるまでもなく理解している。 柊四四八の直系として、百年前からの事件に関わった者の責任。そこは当然重く受け止めている。が、しかしだ。 「どうした四四八くん、一人で難しい顔をして」 「早くみんなで、一緒に昼食を摂ろうじゃないか」 〈千信館〉《ここ》にいる以上、あくまで俺たちは学生である。そして学生の本分とは、切った張ったのどうだこうだというものでは断じてない。 普段どおりに、らしくあること。それが局面を問わず、ベストな選択なのだと信じているんだ。 然るに、なあ石神よ…… 「おまえに訊きたいことがある」 「なんだい、また改まって」 「元素記号を上から順番に言ってみろ」 「――――――」 はい、今ピキっとなった。周囲の色相が反転する勢いで、凍りついたな石神貴様―― 「す、水軍士官の李書文が僕の艦ギャルたちとふわふわタイムで……」 「舐めているのか貴様ァ! 中学レベルの常識だぞ!」 「うおっ、なんだ四四八、いきなりキレて」 「あ、しーちゃん見て見て。わたしの提督ってば今日も変わらず最強無敵っ」 「歩美ィ、おまえはこいつにくだらんことばかり教えるな!」 俺の生活が急に慌しくなってからこっち、諸々の日常において分かったことを断言しよう。 石神静乃は、馬鹿である。 最初からおかしな奴ではあったけど、そういう世間知らずとか生まれがどうこういう話ではなく、純粋に真っ当な意味で。 こいつは馬鹿だ。読み書きが出来るということすら、今になって思えば驚愕に値するほど――未だかつて見たことがない域の無学。放置できない。 「そういうわけで、おまえに勉強を教えてやる」 「分かったら石神、ちょっとそこ座れ」 「えええええっ」 えー、じゃねえよ。 無駄に荒事は得意なくせに、こんなことで泣きそうな顔しやがってこの野郎。むしろ泣きたいのはこっちのほうだ。 「な、なんで今さらそんなこと。私は勉強が苦手だってかなり早い時期に言ったじゃないか」 「だとしても程度があるだろ。そもそもおまえ、いったいどうやって〈千信館〉《うち》に編入できたんだよ?」 「そ、そこはほら、うん……一般社会とは一線を画する闇の力学が働いててだな」 「基本、うちの親父殿に任せておけばだいたい上手く行くんだよ」 「おまえのクソ親父がうちのクソと同レベルでアレなのはよーく分かった。そんなものに呑まれてはいけない」 「自立するんだ石神。自分で生きる力を手に入れろ。そのためにも勉強、勉強、ただひたすら勉強だっ」 「わ、私はアマゾンの奥地に放り込まれても生きていける自信があるぞ」 「文明社会での話だ馬鹿っ、貴様は今後一生、鬼面衆とかいうワケの分からんブラック企業で働くつもりか? 広島の未確認生物でいいというのか、目を覚ませ!」 「ちょっ、ちょっと柊、気持ちは分かるけど、そういうこと大っぴらに言うんじゃないわよ」 「我堂か、ちょうどいい。おまえも手伝え。今からこの馬鹿を矯正する」 「いやすまん。鈴子に教えられると顔芸が気になって頭に入らないから勘弁してくれ」 「ん、それはそうだな」 「はああっ、なんですってぇ?」 「だから、鈴子はすぐそういう顔するから」 「いいか石神、そもそもだっ」 力強く机を叩いて、熱弁を振るう。 「仮にも俺の身内が、俺の目が届く範囲で馬鹿馬鹿しい醜態を晒すなんて我慢できん。柊四四八の沽券に関わる」 「これは使命だ。むしろ誇りと言い換えてもいい」 「四四八くん……」 「なあ君、実は結構馬鹿なのか?」 「貴様に言われたくはないわァッ!」 机を引っくり返さなかった己の自制心を褒めてやりたい。俺は今、かなり良いことを言ったというのに、なぜこいつには伝わらないんだ。 「転校してきたばかりだし、前の学校ではカリキュラムが遅れていたのかもしれない――なんていう甘い見方が通用するのも、そろそろ限界だと分かっているだろう。うちの先生方は、そこまで節穴じゃないぞ」 「文化祭が終われば、すぐに中間考査がやってくる。そこで目も当てられない点数を叩き出そうものなら、編入試験のやり直しだって有り得るんだ」 「え、ほんとに?」 「嘘など言わんッ」 そうなったらおまえ、困るだろう。いいやおまえだけじゃなく、俺たち全員の生死に関わりかねない問題だ。 「ここに、頼りがいのあるおまえの親父さんとやらはいない。よってワケの分からんご都合は働かないと思え」 「自力で、おまえが、やるんだよ!」 「う、ううぅ~~」 そこまで言って、ようやくこいつも事態の深刻さを理解したのか。ぷるぷる震えながら伺うように俺を見てくる。 「わ、分かった。明日から頑張ろうと思う」 「今やるんだよっ、なんだその駄目人間のテンプレみたいな発言は」 「だ、だって、お腹すいたし。早くご飯食べたいし」 「放課後はトレーニングとか色々あるし、夜は夜で忙しいじゃないか。だから勉強はまあ、その後でいいかなあ、と」 「だ、大丈夫だよ。テスト前にまとめてやればなんとかなるさ。もっと私を信じてくれ」 「そう、私はまだ本気を出してないだけなんだ」 「よく言うだろう。諦めなければいつかきっと夢は叶うっ」 「世良、ちょっと参考書持ってきてくれ。あと我堂、おまえいい辞書持ってたよな。あれ貸してくれ」 「うん、分かった」 「なんか久しぶりよね、このノリも」 俺の指示に頷いて、二人はテキパキ動き始める。晶、歩美、栄光を千信館に入学させたこのフォーメーションは伊達じゃない。 「諦めろ、静乃。あたしらみんな、このデスマーチを乗り越えたんだよ」 「栄光くんなんか四徹強制されたんだからね。逃げられないよ」 「あっ、あれはなんだ!」 「黙れ」 「痛いっ」 窓の外を指差して叫ぶ石神の手を、俺はすげなく叩き落とした。まったく、こんなところまで勉強不足な奴だ。 「今時そんな手に引っかかるかよ。いいからさっさと覚悟を決めろ」 「ち、違うんだ。本当に……」 しつこいな、こいつ。 「ほらあそこ、聖十郎氏が君のお弁当を手に走ってくるっ」 「何ィ!?」 「さよならー!」 「は、速ぇ……」 「あの馬鹿、本気で逃げたわよ」 「ていうか、四四八くん……」 「しょ、しょうがないよ柊くん。人には誰でも、克服できない弱点っていうものがあるからさ」 「ふ、ふふ、ふふふふ……」 俺は今、かつてない怒りに全身を包まれていた。 この期に及んで逃げやがった石神はもちろん、俺自身の不甲斐なさにも。 「上等だ貴様ァ、このまま逃げ切れると思うなよ!」 バネ仕掛けのごとく立ち上がり、俺は石神の後を追って全力疾走を開始した。 「はっ……、はぁ、ようしここまで来ればもう安心」 「甘いんだよコラ、そこを動くなァ!」 「うぇ!? も、もう追いついてきたのか君はっ」 「当たり前だ、俺を舐めるなよ。今日こそ白黒つけてやる!」 「何か趣旨が変わってるようなー」 「やかましいんだよ! とにかく貴様、そこへ直れェ!」 「断るっ!」 「え、おい!」 石神の奴、いきなり窓からダイブしやがった。ここ二階だぞ! 「ふふん、恐れ入ったか。ではさらば」 慌ててサッシに取り付いた俺の目には、地上で不敵に笑いながらポーズを決めている石神の姿。 くそったれ、この原始人が! 「舐めるなと、言っただろォ!」 「え、うおおっ」 怒声一喝、俺もまた窓から宙に舞っていた。一瞬の浮遊感を体験しつつ、石神のすぐ目の前に着地を決める。 「っ、~~……ッ、……」 「よ、四四八くん、大丈夫か? ぷるぷるしてるぞ」 「高所からの着地を決めるときは、衝撃を分散させるためにもっとこう、全身の間接を柔軟にだな」 ご教授どうもありがとう。今後の参考にさせてもらうから、お礼に俺の教えを受けろ。 「捕まえたぞ」 「――甘い」 だが、必勝を確信して伸ばした俺の手は空を切る。 「よっ、はっ」 軽やかに、足音すらろくに立てず、ひらひらと俺の手を掻い潜り続ける石神。 「とりゃー」 そのまま距離をとるように、派手な捻りを入れつつ後方へ宙返り。まるでこいつの足元にだけトランポリンでもあるかのような、常人離れした動きを披露した。 パンツ丸見えで。 「おーっ」 「十点、十点、十点、十点」 「凄いけど、パンツ芸は水希の技でしょ」 「いやそんなこと絶対ないからっ」 背後の校舎から、俺たちを見下ろしつつギャラリーは好き勝手なことを言っている。 が、生憎こっちはそれどころじゃない。ここまで虚仮にされたのは初めてのことだ。 「前も言っただろう四四八くん。これは私の得意分野だ」 「如何に君が相手でも、早々遅れを取りはしないぞ」 指を突きつけて勇ましく喝破する様は立派だが、その実力を発揮している動機が甚だしく情けないということを、こいつは気づいているのだろうか。 「勉強など、したら負けだと思っている」 「だからもう、諦めてくれ」 「待てやぁあああああーーーー!」 身を翻し、砂を巻き上げて駆け去る石神を俺は再び追いかけ始めた。それこそ、校内の隅から隅まで。 「くっ……! 本当にしつこいな。こっちもいい加減、本気を出すぞ」 「やってみろ、絶対に逃がさん!」 「面白い、その挑戦受け取った!」 言うなり、ジャンプした石神は、校庭の木に掴まって半回転。即座に枝の上へ着地を決めると、そこからまたジャンプして今度は校舎の二階へ入る。 先の単なる飛び降りとは違い、今のアクロバットはかなり再現の難易度が高い。だが、同じコースを辿って追わなければ、あいつを捕まえることは不可能だ。 「ッ――、おらああァッ」 結果、なんとか俺も成功。石神に比べればだいぶ不恰好ではあったものの、タイムロスを最小に抑えられた。 勝負はここから。 「嘘だろ――君、ちょっと世界観を間違ってるぞ!」 「だから、おまえに言われたくはないんだよォ!」 その後も、ひたすら俺と石神の勝負は続く。立体的な動きや瞬間的な敏捷性はあいつのほうが上手だが、単純な直線の走力なら俺のほうが上だと分かった。 ならば手はある。地の利を利用して追い込めばいい。石神は、まださほど千信館の作りに明るくないから不可能じゃないだろう。 そうして、俺たちの戦いが行き着いた先は…… 「ほら、次の問題だ。これを解いてみろ」 「うぅううう~、お腹空いたよぉ……」 こうして当初の目的は達成されたが、口惜しいことに実力でこいつを捕まえられたわけじゃなかった。 いや、もう少しあれば出来たと確信しているんだが、その前に強制終了させられたのだ。 校内で縦横無尽の大立ち回りをやった結果として、生活指導の幽雫先生に怒られるという、極めて当たり前の落ちによって。 「流れで先生にも事情が知られてしまった以上、もう本当に後がないのは分かってるだろ。泣き言いうな」 「一問正解するごとに酢昆布やってるんだし。ほら、次はこれ」 「え、え~っと、サインコサインタンジェント……」 「おい。口に出して読めと言ってるんじゃない、解けと言ってるんだよ」 「だ、だってぇ、何が書いてあるのか私にはよく分からないし……」 「待て。ここはもうとっくにやったはずのところだろう。前の学校がどんなレベルだろうと、それくらいは習ったはずだぞ」 「いやぁ……、それが現代文などは覚えているんだけど、数学となるとなんだかさっぱり引き出しに入ってなくて……」 「それじゃあ、この図形の問題はどうだ?」 「う、うん……ここの角度は方程式を使って導くんだよね?」 「まあな。それで、どうなると思うんだ?」 「……そうかっ」 「分かった! ここの角度は334度じゃないか?」 「なんで三角形の内角がそんなになるんだよ! 内角の和は180度っ」 「な、なるほど。論理的に有り得ないわけか……!」 やばい。これは想像以上だ。隠し持っていた小テストの点数からして、危険度マックスだと分かっていたが、冗談抜きで笑えないぞ。 「いいか石神、今このときから、空いた時間はすべて勉強に費やすからな」 「ええっ! そ、そんな……君は鬼か四四八くん」 「問答無用っ」 かくして昼休みの間は、石神に付きっきりで勉強を教えた。 自分の昼食どころじゃなかったが仕方ない。こいつの非常識を叩きなおすというのは、初対面のときに誓ったことだし。 だが、それにしても一つ―― 「そういえばおまえ、逃げるときに夢は使わなかったな」 「うん? そんなの当たり前だろう。四四八くんだって使わなかったじゃないか」 「力の使い道を間違っちゃいけない。私たちを見込んでくれた先人の誇りにかけて」 「そうだろう?」 「まあ、そういうことだな」 「うん。それに夢なんか使わなくても、あれはあれで結構楽しかったよな。こんなことを言ったら、君はまた怒るのかもしれないが」 笑う石神はひたすら無邪気だ。 こんな風に素直な奴だし。大事なところは締められる倫理も持っているので、前途多難だが大丈夫だろう。 教えるのはいつものことだし、俺の得意技なんだからな。 「ねえ……」 「…………」 「あのさあ……」 「…………」 「どうしてあんた、さっきからそんなローテンションなのよ」 「そんなつもりはない」 「私と一緒なのが気に食わないわけ?」 「そんなことは言っていない」 ただ、猛烈に嫌な予感がするだけだ。そして、それはおそらく我堂も感じているだろうことだから、さっきからこいつも機嫌が悪くなっている。 だからこそ、ここで仲間割れをしている場合じゃなかった。 「腹を割ろう、我堂。俺は正直、このまま帰ってしまいたい」 「そういう責任感のない真似はガラじゃないと承知の上だが、なんというかこう、分かるだろ?」 「……ええ、そういう問題じゃない感じ? 分かるわよ、でもしょうがないじゃない」 「私たち、実行委員なんだから」 そう。俺と我堂はうちのクラスの文化祭実行委員という立場であり、それ自体は共に立候補した結果のことだから文句はない。 が、俺たちが引き受けたのはあくまでも文化祭の運営に関わる仕事だけだ。それ以外は契約外であり、想定外で、もっとずばり言えば関係ない。 その関係ないことに、これから引きずり込まれそうな予感が凄くする。それはもちろん、虫の知らせなんてあやふやなものを根拠にしているわけじゃなく。 「今日は定例会議の日じゃないよな?」 「そうね」 「じゃあ、なんで呼び出されたんだとおまえは思う?」 「さっぱり、全然分からない」 「だけど、先生は切れてたよな」 「凄い怒鳴ってたわよね、校内放送で」 全学年、全クラスの実行委員、今から残らず来い――以上! と実に不安を掻き立てる芦角先生の放送が、ついさっきあったのだ。そうなれば立場上、俺たちは参上せねばならず、だが参上したらどんな目に遭うか知れたもんじゃない。 そりゃあ俺や我堂じゃなくても逃げたくなるというものだろう。 「救いは、実行委員全員を呼び出してるってことだよな」 「それで少なくとも、俺たちをピンポイントでどうこうしようってつもりじゃないと察せられる」 「そうだけど、甘いわよ柊。あんたあの人が、極度の面倒くさがりだって知ってるでしょ」 「用件がなんだろうと、誰かしらババ引くことになるのはほぼ確定じゃない。そのとき、一番選ばれそうなのって……」 「俺たちか?」 「間違いなく」 なぜって、芦角先生の担当クラスの生徒だから。 実にひどい話だが、あの人のノリはそういうものだと知っている。無茶と理不尽が通り相場。軍隊かよ。 「しかし、ここでいつまでも渋ったところで仕方ないのは確かだな。逃げたところで、それを理由にもっとひどい目に遭わされそうだし」 「行こう我堂。どんな話になるか分からんが、協力してくれ」 「ほんと、芦角先生も勘弁してほしいわよ。どうせまた、何かミスしたのを逆切れしてるだけなんだから」 「上の無能を下が補う羽目になるのって、昔から日本的な組織特有の病なのかしらね」 「おまえ、何気に結構ひどいな」 「だってそうでしょ? 段取りが上手にできるタイプの女だったら、芦角先生の婚活も随分スムーズに進んだはずよ」 「頼むから、それ絶対に先生の前で言うんじゃないぞ」 「分かってるわよ」 やがて、俺たちは放送で指定された教室に辿り着いた。中からは妙に大きい先生の声が聞こえてくる。 まずい。寄り道をしたつもりはないが、なにぶん我堂とのやりとりで遅くなってしまったようだ。 「な、なんだかいつにも増して危険なテンションになってるわね」 「……内容は分からないが、どうやら説教みたいだぞ」 「…………」 緊急定例会議という、すでに矛盾した冠の張り紙がドアに貼られているところからして、もう不安が止まらない。 俺たちは挨拶をしながら、慌てて中へと入った。 「おいこら、遅いぞそこの二人組っ」 「すみません。突然の呼び出しだったので遅れてしまいました」 「ああ~ん、そりゃ私が悪いって言ってんのかあっ」 「いえ、滅相もありません。ただ今は、議題の遅延を招かない方向に促すのが我々なりの謝罪であると思いまして」 「ふん、まあいい。とにかく緊急事態なんだ。おまえらさっさと席に着け」 「はい」 俺と我堂が隣に座って、状況を見まわす。どうやら俺たち以外にもまだ到着していない実行委員はいるらしく、集まっている生徒の数は明らかに少なかった。 教室の中に漂うピリピリとした空気。その中心にいるのは、間違いなく芦角先生である。 理由の見えてこない針のむしろに曝される中、先に待っていた委員たちに申し訳ない気持ちにもなってくる。 「よーし、まだ全員が集まったわけじゃないが、後から来る連中にはおまえらが伝えておくように」 「いいか、これは早急に対処しなければならない異常な事態だ。事件発生と言いかえてもいい」 「だからのんびりと人数が集まるのを待ってはいられない。おまえたちには先に説明しておこう」 瞬間、芦角先生の表情がさらに険しくなり、机を勢いよく叩いて発破をかけた。鬼気迫るといった様子である。 あまりの剣幕に、一部の生徒はびくっと身体を震わせていた。 「……先生。言葉を返すようですが、何をそんなに心配しているんですか?」 他生徒の代弁をするべく俺が直球で、しかし大いに遠慮しながら尋ねると、芦角先生は重たい扉を開くかのように口を開いた。 「よく訊いてくれた柊。これを見ろ……!」 勢い良く黒板を叩き、高々と掲げられた書類。それは一枚のプリントだった。 しかし、その内容はただの文書ではない。新聞の切り抜き文字を使い、ある文句をしたためたものである。 「な、なんですかそれ」 「見ての通り、怪文書だッ!」 ええっと、何々? 眼鏡を押し上げつつ内容に目を走らせてみれば…… 「千信館、ベストカップルコンテストの復活を……?」 「な、なんだこれ」「な、なによこれ」 思わず我堂とハモってしまった。いや、本当になんだこれ。 「これは我が校に眠る、忌まわしくも廃れた悪習。それを復活させようと暗躍している輩がいる!」 「すみません、意味が分からないんですが……」 「言葉のままだ。ベストカップルなんていう、クソたわけたくだらない風習が、昔この千信館にもあったのだ!」 「当時、私は赴任してきたばかりだった。新任教師として希望に燃え、優秀な教え子たちと切磋琢磨していけると思っていたのに、このような馬鹿げたイベント……」 「つーか、ジャリがベストカップルとか、冗談も休み休み言ええええ!」 「貴様らに、愛だの恋だの十年早いんじゃああっ!」 炸裂する先生の怒声に、どよめいていた生徒たちが静まり返る。 そういえば俺たちは日常茶飯事で見慣れているけど、他の連中――特に一年生なら度肝を抜かれても仕方ない咆哮と内容だろう。 黙っていれば若くて綺麗と言えなくもない先生なのに……惜しい。実に悔やまれる。 芦角花恵という女性の中に、いったいどれほどの闇が隠されているのだろうか。それを思うと、俺は悲しみを抑えきれない。 「柊、柊、あんた顔に出てるわよ」 「ああ、うん……とにかく先生、その文書が今、校内で配られている、つまりはそういうことですか?」 「かつて先生が握り潰し……いえ、食い止めた悪習とやらが、ここに復活しようとしていると?」 「そうだ柊、その通りだよ。今回は間一髪で回収したからまだおまえたちは知らなかったろうが、すでに学校の裏サイトに流れ始めているという情報もある」 「だからこそ今、おまえたち実行委員を集めたんだ」 「……ね、ねえ、なんだか猛烈に先の展開が読めてこない?」 「言うな我堂、言わないでくれ」 俺は現実逃避をするように、教室から窓の外を見たのだが、無情にも芦角先生は言い放った。 「いいか、実行委員たるおまえたちは文化祭が円滑に遂行されるべく、しっかり管理と監視をしなければならない」 「ゆえに今このときから調査を開始しろ! 怪文書を作成し配布している輩を早々に特定し、私の前に引きずり出して来い!」 「ベストカップルとかなあ、そんなのお伽噺でしかないんだよ! 言うにこと欠いて誰もが認める理想の恋人だとォ? 小童どもがナマ言ってんじゃねぇ!」 「先生、頼みますから落ち着いてください。一年生たちが怯えています」 「言いたいことは分かりましたから」 そして、熱い気持ちも伝わりました。もう泣けてくるほどに。 「ようし、それならいい。今日はここで解散だ。最初に言ったとおり、まだ来てない他の連中にも伝えておくように」 「分かったらいけ。犯人を特定してこい。あ、ちなみに責任者は柊な」 「え、ちょ、はああ? いきなり何で俺が任命されてるんですか!」 「いいだろ別に。柊なら間違いない。おまえに任せておけば確実に解決する」 「しゃあッ、私あんまり関係ないっ」 「くっ……、こら貴様! さっき協力しろって言っただろうが」 「別に了承はしてないしぃ。ああ、他人の不幸はなんて蜜の味が――」 「それから柊の補佐として、我堂。おまえが手伝ってやれ」 「ふぇえええええ!?」 我堂から変な声出た。 「同じクラスなんだから当然だろう。他の実行委員は、二人の指示を仰ぐように。いいか、怠慢は許さんぞ」 「トチ狂って自分たちがベストカップルになろうなんて考えてる奴がいたらなあ、この私が直々に鎌倉中引きずり回してやるから覚悟しろ!」 「以上、解散!」 かくして、強引すぎる先生の私怨? により、俺と我堂は怪文書の犯人探しをすることになった。 「あーもう、どうして私がこんなことをしなくちゃいけないのよ! 実行委員として普通の仕事もあるのに。暇じゃないのよ!」 「それは俺も同じだ、諦めろ」 「あんたねえ、さっきは慌ててたくせに、なんで今はそんなに落ち着いてるのよ」 「なんかもう、こういうことに慣れてきたというか」 ある程度、事前の予想通りだったことでもあるし。 柊に任せれば間違いないか……そう言われるのは光栄だが、今回は交通マナーを誰よりも守っていたら事故に巻き込まれたような気分だった。 「それで、どうするの? まさか本当に犯人捜しなんてするつもり?」 「芦角先生の理屈はともかく、放置しておくわけにもいかないだろう」 実際問題、文化祭の運営に支障が出る可能性もあるのだ。今のうちに何とかしておいた方がいい。 それに―― 「あんたもしかして、犯人の目星がついてたりするの?」 察しの良い我堂に、俺は頷いて答えた。 「まあな。俺の知る限りだが、こんなことが出来る奴は一人しかいない」 「それならさっさと、そいつのところに行きましょうよ。こんな役目からは早く解放されたいわ」 「同感……なんだけど、今日はもう校舎にいないんじゃないかな」 「はっきりしないわね。知り合いなんじゃないの?」 「……て、ああ――もしかしてっ」 「気づいたか。何せ神出鬼没な奴だからな。俺たちでさえ、校内で顔をあわせたことはほとんどないくらいだし」 だからこそ、あいつは先生の目を掻い潜って水面下の活動が出来る。学校の裏サイトとか、いかにもそういうところで君臨してそうなイメージの奴だ。 「捜すなら、本気で捜さないとまず見つけられないだろう」 「そうね……あーあ、気が重い」 「まったくだ」 こんなことで本来の仕事がちゃんと務まるのか不安になってきたぞ。 とりあえず、例のメダルを集めるとこから始めてみようと思う。 文化祭を前に奴の尻尾を掴むまで、これが続くのか…… 「おう四四八! どうした、今日は一人かよ」 放課後、校門を出たところで晶からいきなり声をかけられた。 「他の奴は誰もいねえの? 静乃とかさ」 「なぜ真っ先にあいつが出てくる」 確かに俺たちは一つ屋根の下ってやつだが、だからこそ家や学校以外ではプライベートを大事にしたい。つるむと疲れる相手だし、少なくとも俺はそう思っていた。 「あいつなら、世良と我堂に連れられて部活めぐりをやってるよ。聞いてなかったのか、おまえ」 「ああ、そうだっけ? あたし、さっきまであゆと話し込んでたからさ」 「その歩美はどうした?」 「あー、うん。ちょっとうちの店にも関わることでさ、話せば長くなるんだけど、あいつはあいつでまた変な真似やってるっていうことだよ」 「そっか、静乃は部活めぐりか。まあ、あの運動神経だし、そりゃ引っ張りだこになっちゃうよな」 ちなみに鳴滝は総代に捕まって、栄光は野澤の尻を追いかけている。共に女難くさいあいつらを他所に、本日の俺は一抜けしてきたという感じだ。 「でもそうなると、寂しいだろ四四八。いつも四四八くん四四八くんって言ってた静乃が、みんなのものになっちゃうみたいで」 「あのな……」 生憎と、そんな感慨はまったくない。 「寂しがってるのはおまえだろ。他の奴らが捕まらなかったからって、俺を弄るな」 「一緒に帰りたいなら付き合ってやるから、ほら行くぞ」 「あ、ちょっ、誰が寂しがってるなんて言ったよ、おい!」 そうして、まあ確かに言われてみれば珍しい、いつもに比べればだいぶ面子が足りない帰路に俺たちはついた。 ここのところ何をするにも石神絡みが多かったのは事実なので、こうして晶と二人きりというのは久しぶりだ。それが原因なのかは不明だが、こいつも少し所在無さげで、全体的にぎこちない。 俺もそんな感じかもしれないけど。 「なあ、何か話せよ。よく分からんが、微妙に居心地が悪い」 「へっ、あ、いや……そうだな」 「あたしがあんまり喋んないっていうのは、やっぱおかしいか」 「別にそういうわけじゃない。今さら、ただの無言が気持ち悪くなるような関係でもなし」 「何か喋ってないと間がもたないっていうのは、もっと浅い付き合いのときに起こるものだろ。だからただの無言なら俺も気にしないんだが」 「おまえ、何か言いたいことがあるんじゃないか? そんな風に思えるぞ」 「あー、やっぱバレバレ?」 言って、晶は照れくさそうに頬を掻いた。そして続ける。 「うんとさ、なんか恥ずかしくなっちゃったんだよ。言われるまで意識してなかったんだけど、墓穴掘っちゃったみたいな」 「なんの話だよ?」 「だから、さっきの。寂しがってるんだろうって」 「あたし、どうやら寂しがっちゃってたみたいだわ。こりゃ参ったね」 と付け加える晶の顔は少し赤い。変な奴だなこいつ。 「みんなで一緒に帰れなかったのが、そんなに寂しいのかよ。子供じゃあるまいし、大袈裟じゃないかおまえ」 「いや違うからっ」 「いた、なんだよ。チョップするな」 「あたしが言ってるのはそういうんじゃなくてっ」 「四四八が、静乃とばっかりイチャついてるからだよ、この馬鹿」 気づけよ、と憤慨しながら言われてしまった。 「……生憎、あいつとイチャついてた記憶はまったくないが」 「わーかってるよ、ただの喩え。おまえ、ほんと頭は良いくせに会話を読むのは下手だよな。親父さんみたいだぞ」 「自分の言葉が足りないのを棚に上げるな。あと、あのクソ親父と一緒にするな」 あれはアスペとかコミュ障とか、そういう次元の問題じゃない。柊聖十郎という現象だ。 「とにかく、ちゃんと分かるようにしっかり話せよ」 「だから、そういうのを説明するのが恥ずかしいって言ってんのに。おまえモテないぞ、そんなんじゃ」 「大きなお世話だ。で?」 「おまえ、結構友達少ないじゃん?」 「そんなことはない」 「おっかねえし、容赦ねえし、よく周りの奴らに引かれてるじゃん?」 「それは親父だ。俺じゃない」 「そんな四四八とさ」 「聞けよっ」 「なんだかんだスパルタされながらも付き合えるのは、あたしらくらいだろうと思ってたんだよ」 「自負っていうの? そんな感じで、それがすげえ簡単にぶっ壊されたのが悔しいっていうか……」 「ちょっと、寂しかったみたいだわ、あたし」 「…………」 「てこと、はい終わりっ!」 ばん、と俺の胸を叩いて晶は身を翻す。結構強かったのでむせそうになったが、とにかく言いたいことは分かった。 そして、俺も恥ずかしくなってきた。 「考えすぎだおまえ。俺はそんな大層なもんじゃない」 曽祖父のような、歴史に名を残す偉人ではないのだ。 だからそんな、容易に絡めない奴みたいに言われると、むしろこっちのほうが寂しくなる。 「勘弁してくれよ。おまえらは俺のことをよく知ってるだろう」 「……ははっ、そうか。そうだよな!」 振り向いた晶は、安堵したように笑っていた。 「しっかしさあ、今どき許嫁だなんて教えられたほうの身にもなってみろよ。幼なじみだって、そりゃびっくりするぜ」 「俺に言うな」 むしろそれは、皆へ向けて俺が叫びたい台詞である。 「ま、いいや。腹も減ったし、ウチに来いよ。親父の奢りだからさ」 「なぜそうなる。脈絡がないぞ」 「いいじゃんか。ハゲの蕎麦は旨いだろ?」 「恵理子さんだって、もうすぐあがりなんだし。帰るときの買い物に付き合ってやれよ」 「……そうだな。荷物持ちがいたほうが良さそうだ」 時計を見て、頷いた。時間的には母さんが仕事を終えるギリギリという感じだが、何とか間に合うだろう。定刻が来て、とっとと帰るタイプでもない。 石神に鍋物を食べさせたいとか言っていたから、今日は買い出しも少なくないはずだ。 「よし、決まり! 一名様ごあんなーい」 朗らかに響いて聞こえる晶の声が空に吸い込まれていく。 下校の途中、俺たちは久しぶりに二人できそば真奈瀬へと向かった。 「親父、ただいまー」 そして到着。ガランとした店内に、まだ明るい陽が差し込んでいた。 しかも、予想に反して母さんはもうあがってしまったらしい。 「参ったな、こりゃ」 「すまんな四四八くん。スーパーの閉まる時間が、今日は特別に早いらしいんだよ。だから俺も、先にあがっていいよと言っちまったんだ」 「今からだと、スーパーで合流するのも厳しそうですね」 「どうする、四四八」 「まあまあ、せっかく来たんだ。とりあえずウチの蕎麦を食っていけや」 「ちょっとおい、何も考えてないだろハゲ親父」 「ハゲって言うなぁあああ! 恵理子さんの性格を考えて、俺は食べてけと言ってるんだよ」 「恵理子さんの性格?」 よく分からないといった様子の晶だったが、俺には理解しやすい。 よって、素直に頷いた。 「そうですね。せっかくだから食べていきます。店まで来たのに注文もせずじゃあ、そっちのほうが怒られそうだ」 「ああ、なるほど。恵理子さんならそう言うか」 「何せあの人は、我がきそば真奈瀬のことをよーく考えてくれとるからなぁ!」 このあと、家に帰ればすぐ夕食だが、俺も若い男なので問題ない。蕎麦の一杯や二杯でパンクするほどデリケートな腹ではないんだ。 晶は奢りだなんて言っていたが、しっかり金を払うつもりもある。日頃世話になっている剛蔵さんに、甘えてばかりではいけない。 この時間帯としては珍しく、空いている店のことも気になるし。 「その顔は色々と考えてるようだが、勘違いしたら駄目だぞ四四八くん。昼は繁盛しとったんだから」 伝票を用意しながら、剛蔵さんが勝手にメニューを書きこもうとする。いつも決まったのを頼んでしまうから、別にいいけど。 「でもさあ親父、ちょっとこの状況はまずくない? なんか対策立てないと」 「言いたいことは分かるが、急いては事をし損じると言うだろう」 「う~ん、やっぱ例のスイーツが原因か……」 「例のスイーツ?」 なんだ? 急に新しい言葉が出てきたせいで、さっぱり飲み込めないんだが、剛蔵さんは頭を撫でながら頷いた。 「気にしすぎても仕方ないんだがなあ。そこまで言うなら晶、おまえ今度行ってみるか?」 「おう。並ぶ時間があるときに偵察してくるよ」 「おいおい、待ってくれ。いったい何の話をしてるんだ」 「おや、四四八くんは知らないのか?」 「確か抹茶のフロートなんだぜ」 「いや、そういうのがあったとしても、どうして蕎麦屋が偵察するんですか」 「いや、うちだけじゃなくて、小町全体の話なんだよ。こんくらいの時間帯だと、すごい行列で他の店はどこもこんな風になっちゃうんだ」 「スイーツと蕎麦の客層は違うだろう」 「甘いな、四四八。流行のスイーツよりも甘いっ」 「…………」 どうしてノリノリなのかは、あえて聞かないでおこう。 そんな俺の視線を察したのか、フォローするように晶が続ける。 「夕方って時間帯は、そもそも流動的でさ。はっきりと飯を食べにきたって感じじゃなくて、お客さんはなんとなく来店するんだよ」 「それはまあ、分かる」 「んでもって、そういう浮き草みたいな客だから、行列ができてるとなんとなく並んじまうし、話題になってるとなんとなく待つこともできちまう」 「つまり……、浮動票を根こそぎ取られてるっていうことか」 実に何と言うか、日本人らしい現象と思わなくもない。俺に言わせれば、何かを食べるために並ぶということ自体が、もう意味不明だが。 「がっはっは! まあそういうことだな」 「笑いごとじゃねーから!」 「しかしな晶、こういうときだからこそどっしり構えて、旨い蕎麦を出していくことに意味があるんだよ。下手な小細工をしても逆効果だ」 「賛成ですね」 「そうかなあ。ここは女子向けの新しいメニューとかさあ……」 そんな風に一人釈然としない晶を宥めつつ、剛蔵さんは俺に出す蕎麦を打つために奥へ引っ込んでいった。 「母さんはどんな風に感じてるんだろうな」 「恵理子さんも親父と同じだよ。焦ったりして余計なことはしない方がいいってさ」 「やっぱりな。俺もそれがベターだと思うし、ひとまず様子見でいいんじゃないか」 「なんだよ、それじゃあたしばっかりが焦ってるみたいじゃんか」 「実際、そうなってるだろ」 「ちぇ、まあ分かったよ。おまえまでそう言うんなら、そうなのかもしんない」 「んじゃとりあえず、今は落ち着いて蕎麦食おうか」 「そうしよう。色々と喋ってたら、本気で腹が減ってきた」 「うん。店の雰囲気を保つってのも大事だよな」 「ああ見えて、親父も黙って蕎麦打ってりゃ、それなりに威厳あるように見えるし。ハゲだけど」 「…………」 そういうことを言うから、剛蔵さんの威厳が削られるんだ。あとで一悶着ありそうだが、今はとにかく蕎麦を待とう。 こうして静かにしていれば、鼻をくすぐる打ち立ての蕎麦の匂い。麺切り包丁が小気味良い音を刻む。 挽き立て、打ち立て、茹で立てがきそば真奈瀬の真骨頂だ。 そうして、俺と晶が黙って椅子に座っていると―― 「うわぁあああああああああーーーーー!」 今度は厨房から、凄まじい悲鳴が轟いた。 「な、なんだいったいッ」 「親父っ?」 「でっ、でででで、でたぁーーーーーーーーーっっ! 奴が出やがったぁああああ!」 尋常じゃない様子で駆け戻ってきた剛蔵さんに俺は言葉を失ったが、晶はすぐ理解して声をあげた。 「ま、まさか! こ、ここ、こんな時に奴が……!」 「おい、なんだ。なんの話をしてるんだ」 「くそがぁーーーーっ! 恵理子さんがいない時間帯を狙いやがって!」 「母さんが?」 「やべぇよ……、やべぇよ……っ」 慌てふためく父親と、まるで世界の終わりであるかのように青ざめる娘。 状況を理解できない俺だったが、母さんの名前が出てきたせいで不安感を拭えない。 「いったい、どうしたんですか! 俺でよければ力になりますが……」 すると、剛蔵さんはぶんぶんとごつい手を振って俺を止めた。 「い、いかんぞ四四八くん。そして、晶も。ここは俺に任せて、おまえたちは先に行け!」 「な――ッ! 親父、あんたまさか……!」 「先に行けって、注文した蕎麦は?」 「早く、手遅れになる前に……、奴の姿を見たらすべてが終わっちまう」 「そ、そんな……っ、いやだよ親父。あたしだって、一緒に戦う!」 「馬鹿言うんじゃねぇ! おまえは、俺のたった一人の娘だ。いくら口が悪くても、ぶっきらぼうでも、おまえは大事な宝なんだよ」 「奴の毒牙になんて、かけさせるわけにはいかねえ!」 「親父ぃいいいい!」 「だから四四八くん、晶を頼む。せっかく来てもらったのに、すまねえなあ。こんなことになっちまって」 「剛蔵さん…………っ、蕎麦は?」 「さあ、今日はもうこれで店じまいだ! こっから先は男一匹、俺と奴の死闘だぜ」 「おまえたちはさっさと非難してろ。あいつの――Gの姿を見る前に……!」 すると、俺たちの茶番劇(?)をよそにカサカサと件の奴がやってきた。 「…………」 固まる真奈瀬父娘。静まり返る店内。晶の唾を飲み込んだ音が響く。つーか、単なる―― 「ゴキブリかよ!」 「ひぃいいいいい!」 「よ、四四八くん! その名前を言っちゃいけねぇ!」 「ゴキブリって?」 「ガハッ……! ゴホッ…ゴブッ……!」 血を吐く(フリをする)剛蔵さん。それだけ精神的な損傷が大きいということなのか。 「どうしよ……っ、み、見ちゃったよ黒光りしてるあの姿! もう駄目だ。すべて終わりだ」 「え、恵理子さん、戻ってきてくれ……!」 おいおい、まさかゴキブリが出るたびに母さんが処理してたのか。 本当に大丈夫なのか、この店は。さっきまでは頼もしく感じられた蕎麦屋の店主の姿がものすごく不安になる。 俺はやれやれといった様子で、そいつに近づいていった。 「四四八? お、おい何するんだ! 馬鹿な真似はやめろよ……っ」 いやいや、どっちが馬鹿な真似なんだ。ガクガク震えてる姿を鏡に映して見せてやりたい。 近くにあったホウキとちり取りを持ち、俺は一気に目標へ向けて距離を詰める。 「す、すげえ……っ」 なにやら感激している二人を尻目に、俺はなるべく潰さないよう注意しながら奴をちり取りへと入れたのだった。 「いやー、まさか四四八くんも大丈夫だったとはなあ。さすが恵理子さんの息子だよ」 「この場合、剛蔵さんたちのほうが特別だったような……」 「がっはっは! 遠慮するところまで恵理子さんにそっくりだ。一番最初に退治してくれたときも、まったく同じことを言ってたよ」 「今もそんな反応なんですか?」 「いやいや、今はもうにっこり笑って処理してくれるだけだな」 やはりそうか。こんなことを続けていたら、なんかもう、何も言う気がなくなるだろう。 俺は改めて垣間見た働くということの大変さと、人知れず苦労している母に思いを馳せた。 そばもんそばもん言ってるだけじゃないんだな、あの人。 「……あ、ありがとな四四八」 「礼を言われるほどのことじゃない」 マジで。 「そんな……、そんなことないよっ。あいつを何とかしてくれたときの、四四八の顔。格好良かった――」 「ものすごく、その……っ、頼もしかったよ」 「そ、そうか」 なんだろう。本当になんて答えればいいのか分からなくなってくる。絶句している俺ともじもじする晶を見て、剛蔵さんが豪快に笑った。 「がっはっはっは! こうなったらきそば真奈瀬は、やはり四四八くんに継いでもらわないとな!」 「晶もそう思うだろう?」 「ば、馬鹿このハゲっ! ドサクサに紛れてなに言ってんだよ!」 「照れるなくてもいいだろう。俺だって、今日は本当にそう思ったんだから」 「親父……」 「恵理子さんばりの度胸に行動力。そして優しさ。四四八くん、殺さなかったもんなあ」 「いや、だって可哀相じゃないですか。ただ生きてるだけなのに殺すっていうのも……」 「俺たちだったら、氷殺スプレーかけてから熱湯責めにし、最後には毒餌の山に沈めていただろう」 「勘弁してください」 人は恐怖を感じるほど残酷になるという。 普段は温厚な剛蔵さんをして、この言い様。それだけ恐かったということか。 「こうなったら恵理子さんだけじゃなくて、四四八くんにもなるべく店に来てもらわんとな!」 「まあ、善処しますよ」 「……悪い。あたしからも頼むよ、四四八」 そんなこんなで、ようやく大団円といった雰囲気が俺たちを包んでいた。 気分的に、凄い疲れたけど。 「あ、そうだった」 と、そこでふと思い出したように剛蔵さんがポケットから何かを取りだした。 「いかんな、忘れるところだった。これ、四四八くんが来たら渡そうと思ってたんだよ」 「なんですか?」 「いやあ、つい先日、うちへ食べにきた千信館の生徒がな、忘れ物をしていったんだ」 「これは……」 渡されたのは、一枚のメダル。なんだろう、何処かで見たことがあるような。 「初めて見る顔だったから、名前も分からなくてなあ」 「背が低くてて、女の子みたいな男の子だったよ。しかし、妙な迫力があってな。俺でさえ気圧されるほどだったぞ」 「はあ……」 「つーかさ、そんな忘れ物があったんなら、あたしに渡してくれればよかったじゃん」 「おまえに渡すと、その日の内に無くしそうだからな。四四八くんが来るのを待ってたんだよ」 「ふん、あーそうかよ」 「……まあ、とにかく落とし主を捜してみますよ」 「うむ。四四八くんに頼めば安心だ」 そんなこんなで謎の落とし物を受け取ってしまった、とある日のきそば真奈瀬。 結局買い物も手伝えなかったし、家に帰ったら、ここでずっと働いている母さんの肩でも揉んでやろうかなと思う。 母さん、毎日お疲れさま。 「まあ素敵、これがかの有名な高徳院の大仏ですのね」 「…………」 「…………」 「本日はお日柄も良く、まさにお参り日和となりました」 「連れてきてくれた淳士さんには感謝ですわ」 「はぁ……」 「……俺は?」 お嬢様の言う通り、よく晴れた日の放課後、俺と鳴滝は共だって百合香さんを案内しに参ったわけだが、どうやら彼女の視界に俺は入っていないようだ。 しかし、無理もない。それというのも生徒総代殿からご指名があったのは鳴滝だけであり、俺はそれに無理矢理引っ張り込まれたようなものだから。 「すまねえ、柊」 「別に謝らなくてもいい。ただ……」 「なんだ?」 「これっきりにしてくれよな」 「……分かってる」 視線を逸らして遠くを見つめる鳴滝だったが、そんな俺たちのやりとりを他所にお嬢様はひたすらはしゃいでいた。 「ほらほら、どうしたのですか。こんなにも縁起の良い場所だというのに、淳士さんのお顔は優れませんのね」 「俺のことは気にするな。そんなことよりあんた、はしゃぎ過ぎて転んだりすんじゃねえぞ」 「まあ嬉しい。わたくしを心配してくださるのですか?」 「……怪我でもされたら面倒だっつうだけのことだよ」 「うふふ、その仰りよう、本当に淳士さんらしいですね」 鳴滝の反応はいつにも増してぶっきらぼうだが、これが百合香さんに対するデフォルトでもあるため、彼女の解釈は一応間違っていないだろう。 ほんと、依然として俺の姿などまったく眼中にないという感じではあるが。 「たく、ある程度は覚悟してたが本当に面倒くせえ。今さらながら迂闊だったぜ」 深く嘆息する鳴滝だったが、そもそもこの現状は自身が言っているように、自業自得という面がある。 こいつがもう少しちゃんとしていたら、こんなことにはなっていなかったのだから。 鳴滝はバイトをするにあたり、学校側へ届けを出していなかった。 それは本来なら停学必至の違反であるため、まずいことになったのだが、そこで助け舟を出してくれたのが現千信館の総代であり、学園創始者の一族でもある百合香さん。 色々あって、鳴滝の処遇は俺がしっかり監督するというかたちに落ち着きはしたものの、百合香さんに借りが出来てしまった事実は変わらない。 俺は、そして鳴滝も、そういう義理を無視できない人種だから。 「――今日はこうして、一緒に大仏見学というわけか」 「…………」 「しかし、なんだな。改めてちょっとした不思議なんだが、どうしておまえはそんなに百合香さんが苦手なんだ?」 「……ああ? そりゃおまえ、なんつうか」 「もともと社交的じゃないのは知ってる。特に女相手なら尚更だろう。だがそのへんを差し引いても、ちょっと過剰すぎないか?」 完全に添え物状態で振り回されてるだけの俺とは違い、と言外に含めながら続ける。 「一応おまえ、あの人に好かれてるだろ。どういう好意かはとりあえず置いといて、別に悪気があるわけでもなし」 「なんだかんだ、総代の辰宮百合香っていえば人気者だぞ。あの通り、美人だしな。それがどういうわけかこんなに構ってくれるんだ、普通に名誉なことじゃないか?」 「うるせえな……おまえにしちゃ下世話なことを言うじゃねえかよ」 「別にそんなつもりはない。ただ客観的な事実を言っただけだ」 「まあいいけどな。今日の俺はただの〈脇役〉《パセリ》だ。気にしないでくれ」 「ぐっ……」 軽い当てこすりめいたこと言ってやると、鳴滝は困ったように呻いてから、ぼそぼそと言葉を継いだ。 「そんなこと、俺だって分かんねえよ。ただ、上手くは言えねえが……」 「なんかこれ、違うんじゃねえのかなって、そんな風に思うだけだ」 「違う? 何がだ?」 「それが分かりゃ苦労しねえよ。とにかくあのお嬢からは、近づきにくいもんを感じる。あいつがどうこうじゃなくて、むしろ俺の問題っつうか、ああもう! よく分かんねえ」 「……本当に、ワケが分からんな」 要は意味不明だが苦手であるという、それ以上のことは伝わらなかった。そろって首を傾げる俺たちを他所に、当のお嬢様は依然としてにこにこふわふわしているままだ。 「はぁ……、しかし何度見上げても素敵な大仏様ですわね。歴史と浪漫を感じてやみません」 「先祖代々、千信館に関わってるくせして変な奴だなあんた。ここらはお膝元みたいなもんだろうがよ」 「ですがわたくし、ここへ来たのは初めてですの」 「なんでだよっ!」 思わず声を合わせて鳴滝と突っ込んでしまった。 ……相変わらず、庶民の目線ではよく分からないお嬢様だ。 「ねえ淳士さん、見てください。あの逞しくもおおらかな佇まい。包まれるような雄大さといい、まるであなたのようではないですか」 「…………」 「ほら、あの胸板ときたら。なんて男らしいのでしょう。今どきの殿方にありがちな細さ薄っぺらさなど微塵も感じられません」 「大仏の胸板って、また斬新なところに目をつけるな」 「腕だってあんなに力強い……女性を守るためには、あれくらでないと安心できませんわね。淳士さんのように」 「愛する女性を抱きしめ受け止める腕と胸。それから、いつ来てもここに居てくれそうなどっしりとした座り方」 「座禅を組んで動かないのが大仏だしな」 「そういう力強さや存在感の雄々しさが、淳士さんを思わせるから……」 「わたくし、見とれてしまいます」 「もういいだろ……」 うんざりと零す鳴滝だが、それはお嬢様に聞こえないくらいの声だった。 彼女はきっと本心から言っているのだろうが、大仏に喩えられつつ褒めちぎられる男の心境というやつは、ちょっと想像できないものがある。 「その……とにかくよかったですね。格好いい? 大仏が見れて」 「はい。聞くところによるとわたくしの曽祖母も、ここの大仏様がお気に入りだったとのことですから」 「へえ……」 ここでもまた、ご先祖様の物語か。確かに辰宮百合香という名前も、戦真館に関わる歴史の中では外せない。 単なる大富豪ということでも一般的に有名だが、彼女にはちょっとした裏の噂も存在した。 曰く、満州に渡った俺の曽祖父を影から資金面で援助していた黒幕であるとか。あまり確度の高い話じゃないから以前は俺も知らなかったが、石神に聞いたところによるとそれは本当のことらしい。 どころか、甘粕事件の頃から深く関わっていたと聞く。 もっとも、俺たちが知る情報は基本的に又聞きの又聞きレベルだから細部については不明だけど。 「四四八さんたちもご存知でしょう? 今、なにやらおかしな夢を見ている方が多いようですね。生憎わたくしには分かりませんが」 「曾祖母のことで、色々と言われる機会が増えました。まあ、あまり、好意的なものではないのが残念ですけれど」 「そうなのか?」 「ええ。ですがわたくしは、曾祖母のことが好きですよ。知る限り、とても可愛らしい方だと思っています」 「そのことについて、少し話してもよいでしょうか?」 それに俺は黙って頷き、鳴滝も促した。 「話したいなら好きに話せよ」 「うふふ、では話させて頂きます。先に申しました通り、わたくしの曾祖母も大仏が好きだったらしいのです」 「だから、誰かと待ち合わせをするなら大仏の前……」 「友人が〈高徳院〉《ここ》の顔利きだったらしいので、そこそこ無理も通り、よく私的に利用していたと聞いています」 語る百合香さんの顔も口調も普段通りのままだったが、この話を聞いてほしいという思いが伝わってくる。 そんな彼女の雰囲気を鳴滝も感じたのか、こいつは初めて会話らしい質問で返した。 「……だから、あんたもここが好きなのか?」 「そうだと思います。曾祖母の話を寝物語で聞かされるたび、この大仏を見たいと願い続けていました」 「だったら、すぐ見に行けばよかったじゃねえか」 「ええ、ですからこうして、今日淳士さんを誘ったのですよ」 「わたくしがここに来るなら、それは曾祖母の夢を叶えるかたちにしたいと思いましたので」 「うん?」 ちょっと食い違っているようなやり取りが気になった。鳴滝もそこに突っ込む。 「どういうことだよ?」 「簡単です。彼女は、この大好きな大仏の前で、とある方をずっと待っていたのですよ」 「あん? なんだそりゃ」 「よくある話です。曾祖母は恋文をしたためてある方に渡しました。ここで待っているから、来てくださいと」 「…………」 それはある意味、浪漫と言うか……現代の感覚ではどこか浮世離れした光景が頭に浮かんだ。 桜、紅葉、あるいは雪……それらが舞う夜の高徳院で、恋する男を待ち続けていた女性がいる。 それはきっと、この百合香さんとよく似た雰囲気を持つ人で、俺たちのご先祖とも面識のある人なのだから、単なる他人事とは思えない。 「彼女はずっとこの場所で、その御方を待ち続けました。何年経とうとも、時代がどう変わろうとも……」 「……じれってえな。そんで結局、どうなったんだよ」 「それが……、最後まで返事は貰えぬまま終わってしまったのです」 「つまり――」 「その野郎は来なかったわけか」 「……はい」 頷く百合香さんは、心の底からつらそうな顔をしていた。おそらくまるで自分のことのように……曾祖母が迎えた結末に胸を痛めているのだろう。 そんな彼女の機微を理解してるのかは知らないが、鳴滝は少し憤慨した様子で言った。 「冷てえ野郎だな。あんたはまるで物語みたいに語るが、単純にそれってひどい話なだけじゃねえかよ」 「まあ……、淳士さんはそうお感じになるのですか?」 「当然だろ。どう思ってる女だろうが、最低限の礼儀がある」 「断るにしても、面と向かって言えっていうんだ」 「……ふふ。相変わらず優しいんですね」 「こういうのは優しいとか、そういう問題じゃねぇよ」 鳴滝らしい返答に思わず苦笑してしまった。そこはこいつのプライドと言うか、ルールやポリシーなのだろう。 いくら百合香さんのことが苦手とはいえ、話そのものはちゃんと聞くし、彼女の曾祖母を不憫に思う気持ちは別のものだ。 それはそれ。これはこれ。理不尽だと思えば誰が相手でも怒るし、庇うし、言いたいことは言う。 俺も理解できる主義だし、こいつのそういうところは気に入っていた。 「ですがまあ、うちの曾祖母は結構問題のある人だったらしいので、おそらくその男性にも嫌われるようなことをしていたのでしょう」 「会わないのが、彼なりのケジメ……ないし筋の通し方だったのではないかと、曾祖母は日記に綴っておりました」 「だとしても気に食わねえよ」 「……ふふ、そうですね。わたくしもそう思います。気に食わねえです」 「…………」 そんな口真似をされて、鳴滝は少し照れている様子だった。きっと、話しすぎたと思っているんだろうな。 まあしかし、俄然蚊帳の外へ追いやられ始めている俺としては、なんだか手持ち無沙汰も甚だしい。 だから、そのせいだろうか。さっきから気のせいかもしれないけど、妙な気配を感じるのは。 いや、これだけの人混みの中にいるのだから、気配も何もないとは思うけど。 そして、俺が辺りを見まわすように首を動かしたとき、百合香さんは思いがけない質問を鳴滝に飛ばした。 「淳士さん。一つだけ質問に答えてください」 「……なんだよ」 「たとえば、わたくしが同じことをしたら、あなたはここに来てくださいますか?」 かなり踏み込んだ質問に、俺は内心舌を巻いた。 さすがというか、何というか。百合香さんはこういうところがマイペース過ぎて、見ているこっちがハラハラする。 案の定、鳴滝は今までで一番苦い表情をして、ぼそりと答えた。 「……分かんねえ」 「そんなのは、なってみなきゃ答えられねえよ」 「……そうですか」 それから数秒間、鳴滝と百合香さん(と俺)の間には重くて固い沈黙が座した。 そんな空気を振り払うように、鳴滝が口を開く。 「もういいか? 話が済んだなら俺は帰るぜ」 「いいえ、まだ終わっていませんよ。先ほどの話には続きがあるのです」 「なんだよ。だったらもう、この際だから最後まで言え」 「ありがとうございます。実は曾祖母の日記を読むに、どうやら彼女は二人の男性の間で揺れておられたようなのです」 「恋文を送り、ずっと待ち続けた相手の他にも、もう御一方」 「はあ、じゃあそいつはそのとき、何してたんだよ?」 「死んでいました」 「…………」 「曾祖母は、生きているのに会ってくれない男性と、死んでいるからもう会えない男性の狭間で、苦しんでいたようですね」 なにやら、話が思いがけない方向に転がり始めた。まさかただの片恋慕で終わる内容かと思いきや、もう一人の男がいて、しかも当時から故人だったとは。 その来なかった男とやらも、死んだ男とやらに義理立てしていたのかもしれない。はっきりしたことは知るべくもないが、色々と思うところは確実にあったはずだ。 なるほど、なかなか問題のあった曾祖母様か。妙に納得する反面、俺は不謹慎だがある意味感心してしまった。 百年近く昔に、押しも押されぬ良家の子女が、そんな恋をするとはたいしたものだ。野澤のところも、当時としてはかなりエキセントリックな価値観を持つ曾祖母様だと思うけど、こちらもどうして負けちゃいない。 「……おまえのばあさんは、片方が死んだからもう一人を選んだのか?」 「分かりません。色々と思うに任せられぬ葛藤があったのでしょうね。わたくしは素敵だと思います」 「もしかして、おまえのババアが一番タチ悪かったんじゃねえの?」 「そう、見えますか?」 「ああ。俺には、そんなふらふらする心情がまったく理解できねえな」 「自分の気持ちも分からないなんてことがあんのかよ」 ストレートに自分の考えを述べる鳴滝に、百合香さんは微苦笑しながら頷いた。 「そうかもしれませんね。ただ、こういう話があります。わたくしの知るとある女性が、まったく同じような悩みを抱えているのですが」 「とある女性だ?」 「ええ。彼女には、子供の頃からずっと一緒で、兄のように育った優しい男性がいるのです」 「だから当然、彼女は彼のことを憎からず思っていました。これはきっと恋であろうと、半ば確信していたのです」 「相手のほうは堅物なので、まったくつれないのですけどね。まあ、そうした一線があるならそれも一興。ちくりちくりと越えてみようかと、彼女は楽しんでいたようです」 「…………」 「だけれど最近、それとは別に気になる人が出来てしまったらしく」 「その彼は、もう一人の彼とは正反対で……優しくないし乱暴なのです」 「…………」 ええっと、すまん。話の腰を折るつもりはないのだが、これってつまりそういうことなんだよな? 「友人の世話になっておきながら迷惑をかける。それも悪気があってではなく、迷惑をかけまいとして、結果的に迷惑をかけてしまうような人なのです」 「本人はそれを男気と思っているのかもしれませんが、基本、言葉が足りない方なのでいつも誤解されています。それを心配する者も多いというのに、まったく聞き入れてはくれません」 「要するに、先の男性と比べて、もう一人の彼は非常に子供っぽいのです」 なんだかこれは、冷や汗が出てくる話だった。 思わず鳴滝に目を向けると、こいつはつまらなさそうにばっさり言う。 「そんなガキっぽい男の何がいいんだ?」 「不思議ですよねえ。でも彼女は、その人になぜか惹かれているのです」 「実は結構、優しい人なのも知っているから、そのせいですかね」 「だとしてもだ、もう一人の奴に比べて数段そいつは落ちるだろうが」 「俺にはさっぱり、あんたの知り合いとやらの趣味が分からねえよ」 「……鳴滝よ」 おまえ、どう突っ込めばいいのか、もはや俺には分からないぞ。 だが内心で呆れるこちらに対して、百合香さんはとても楽しそうだった。 「彼女は言いました。最初の彼のことを思ったり、一緒に居ると、胸が温かくなるのだと。要するに、彼は安らぎを与えてくれる」 「対してもう一人の彼のことを考えると、胸は落ち着きなく高鳴るのです。とても普段通りではいられなくなる」 「ありのままの自分でいられる相手と、まだ見ぬ自分を見せてくれる相手」 「これはいったい、どちらを好きだと言うべきなのか……最近の彼女は、そこをずっと悩んでいます」 「なので、淳士さんはどう思われますか?」 「知らん」 息もつかせぬ即答に、俺は思わず天を仰いだ。そして同時に、例のおかしな気配も増していく。 「うふふ。そうお答えになると思っていました」 「だったらいちいち訊くんじゃねえよ」 ああ、もう! ここにきて、俺もなんとなく分かってきたぞ。 いや、鳴滝が鈍いとかそんな小学生でも分かるようなことじゃなく、この妙に優しくも生暖かいような視線と気配。 俺は少し声を大きくして、ふり向き様に言った。 「今の話が誰のことだか分からないなんて、どうなんですかね。この際、あなたから教えてあげれば――」 「正直、もう見てられないんですよ、幽雫先生!」 俺が発破をかけるように声を上げると、そこには幽雫宗近教諭が唖然として立っていた。 もちろん、鳴滝と百合香さんもそれを見て驚いている。 本当に、みんな揃いも揃って鈍いもんだ。それとも今日は、特別に存在感を発揮できていない俺だからこそ、敏感になれたのだろうか。 そんなこちらの心情を他所に、鳴滝が毒づくような声をあげた。 「てめえ、先公――そこでいったいなにしてんだよッ?」 「いや、俺は……」 いきなり教員にてめえ呼ばわりである。しかも先公なんて単語は久しぶりに聞いた。 「どうせ俺が不良だからっつって、監視してたんだろ」 「別に、そういうわけではないが……」 「じゃあ何だっつーんだよ」 ああ、鳴滝よ。おまえはもう、それ以上喋るな。さっきから口を開けばそのたびに、男を下げている気がしてならない。 ……いや、もしかするとそんなこともないのかな。 だって今、少なくとも―― 「ほらほら、そんな風に先生へ絡んでいると、今度は厳重注意じゃ済まなくなりますよ淳士さん」 「ちょ、おい、てめぇ――」 「な、お嬢様!?」 渦中の人である千信館の総代様は、実に楽しそうな様子で笑っているのだから。 「もう、先生ったら。ここでそんな呼び方はしないでください。でも、懐かしいですね」 「それにこうして腕を組むと、まるで小さい頃に戻ったみたい」 鳴滝と幽雫先生の腕を取って、言葉の通り小さい子供のように、百合香さんはスキップしだす。 「淳士さんも、まだ見学は終わってませんよ。むしろこれからが本番です。ちゃんとエスコートしてくださいね」 「……マジかよ。ていうか、いい加減に手ぇ離せコラッ」 「幽雫先生、帰るときはちゃんと車で送ってくださいね」 「……分かった。そうさせてもらう」 「はいそれでは、三人一緒に大仏の中へ入ってみましょう!」 そうして、夕陽の下をずんずんと百合香さんに引っ張られてゆく男たち。 その後姿を見送りながら、俺は最後に呟いた。 「えっと……、俺って今日、いた意味あったのか……?」 俺っていったい何なんだろう。そう思わずにはいられない一日だった。 今日も八幡宮は、いつも通り多くの観光客でにぎわいを見せていた。 呆れるくらい非現実的なことに巻き込まれてしまった俺たちであるが、こうして一日の終わりはいつも通りにやってくる。 眷属化、今までは歴史の授業という認識でしかなかったご先祖様たちの物語。 信じていなかったわけじゃないが、今でもときどき意識が浮いてしまう。 「これからどうなるんだろうな……」 やるべきこと、俺たちにできること、今の俺たちならできること。 様々な状況と変化が絡み合い、今も刻一刻と流動している。 目に見える世界と、その裏側にある現実とは乖離した感覚を改めて引き締めないと、すぐに置いてけぼりにされそうだった。 燃え上がる夕日を眺め、俺が帰宅の途についていると、不意に後ろから声をかけられた。 「待ってくれ四四八くん、先に帰るなんてつれないじゃないか」 「……石神か」 「やはり君は、ここに寄って帰るんだね」 「そりゃ、家の裏だからな」 それはなんとなく、こいつらしい声のかけ方だった。 意識の隙に入り込むようなタイミングで、いつもこいつは声をかけてくる。 本人にそういうつもりはないんだろう。しかし、どうも忍者っぽくて神出鬼没なところがあるのだ。 「それにしても、帰るときは声をかけてくれてもいいんじゃないか?」 「そうは言うが、そっちにはそっちの都合もあるだろうし、儀礼じみてくると束縛してるみたいだろ」 「私にとって君と帰るのは嫌なことじゃないから、それが毎日になっても束縛とは言わないと思うよ」 「それとも、四四八くんが嫌なのか?」 「別にそういうわけじゃないが……おまえ、俺がいないと右も左も分からないわけじゃないだろう。寂しがるようなクチでもなし」 「仮に俺たちが特別な関係でも、そういう何でもかんでも一緒っていうのはあまり好ましいと思えない」 「特別な関係とは?」 「…………」 なんだか墓穴を掘る三秒前といった予感がしたので、俺はぐっと口をつぐんだ。 すると石神は恥ずかしがったり動揺することもなく続けて言う。 「だいたい仮にではなく、現実に特別な関係だろう。私は居候の身なんだから」 「今は聖十郎氏の書斎が空いているから寝起きしてる部屋は違うけど、基本、生活リズムが同じなんだから君に行動を合わせるのは自然なことだろう?」 「だとしても、わざわざ帰るときまで一緒じゃなくていい。何のために鍵を渡してるんだ」 「鍵は信頼に応えうるものだと思っているよ。だから、こそこそと帰ったりするのは避けたいなという気持ちなんだが……」 「…………」 声の調子からして、本気でそう考えているのが伝わってくる。すげなく答えるだけじゃ、さすがにあれなので、俺は言い聞かせるように告げた。 「そういう姿勢と気持ちが聞けただけで充分だよ。もともと俺も母さんも、それにたぶん親父もおまえのことは信頼している」 「それに応えたいと思ってくれるのなら、妙な気は使うな。自分の家と思って堂々としてろ」 石神の性格も態度も、隠れたところなんて感じられないが、本人としてはやはり表に見せない心理もあるだろう。 いくら親父同士が知り合いとはいえ、それまで交流のなかった家にたった一人で居候しているのだから。 立場が逆なら、きっと俺は相当畏まっていただろうと予想できる。なので、言ったように気遣い無用。狭い交友関係に囚われず、楽しく学園生活を送ってくれという意味を込めたのが、伝わっただろうか。 「ふふふ、ありがとう。じゃあそのうえで、やはり私は君と一緒に帰りたいと思う。いいかな四四八くん」 「分かった。ここまできたら、もう今さらだしな」 「よし。それじゃあ今日は、どこに寄って帰るんだい? それともこのまま家かな」 「普通に帰るさ」 「そうか。少し残念だな」 「残念?」 「余裕があるんなら、この街をゆっくり案内して欲しいと思ってたんだが」 「……よく分からないな。もう知っているだろう」 朝のランニングもそうだが、すでにそこそこ、こいつはこいつで鎌倉の中を回っているはずだ。 改めて案内するようなところはないと思うけど。 「一度や二度行っただけで、その場所を理解したと思うほど私は傲慢でも見識が狭い人間でもないよ」 「ていうかな、大事なのは何処に行くかじゃなく、誰と行くかじゃないか?」 「それによって、違う景色もまた見えるだろう」 「つまり端的に言うと……?」 「ぜひ君と、ひとつデートしながら街を見て回りたいと思っている」 「…………」 「小町で買い食いしたり、大仏を見たり、あとはほら、なんか人力車があるじゃないか。あれに四四八くんと二人で乗ってみたい」 「おまえは修学旅行生かよ」 「いいだろ別に。気分はそんな感じなんだから」 「……だったら、そういうことは俺以外に頼んでくれ」 「おや、どうしてだい?」 「どうしても何も、俺がそういう男じゃないことくらい分かってるだろ」 「そうかな。歩美や晶、それに水希たちの相談に乗ったりして、よく色んなところに行ってるじゃないか」 「別に好きで首を突っ込んでいるわけじゃない。ただ一人の人間として、責任は果たしたいと思っているだけだ」 「じゃあ、居候であり許嫁でもある私への責任を果たすってことでいいんじゃないかな」 「居候ではあるが、しれっと許嫁とか言うんじゃない」 「もう、本当に君は私にだけ冷たいな。ツンデレ男子なんか流行らないぞ」 「おまえな、毎度歩美から妙なことばっかり吹き込まれてくるな」 本当に、どこまでもマイペースな奴だ。 こうして言い合いをしていると、だいたい俺のほうが劣勢になってしまうので、ついつい視線を周りへ散らしてしまいがちになる。 すると予想外にも、向こう側を歩いている見知った人影が目に入った。 間違いない。あの冬ごもり前の小動物みたいなのは明らかに身内である。 「母さん」 「あら、四四八。静乃ちゃんも」 「お疲れさまです。今、お帰りですか?」 「それはこっちの台詞だよ。二人で仲良く下校なんだね」 「はい。先に帰っていた四四八くんに私が追いついた次第でして……」 「む。四四八ったら、静乃ちゃんのこと放置して帰ったんだ」 「言いがかりはやめてくれ。普通に下校しただけだよ」 「毎日、一緒に下校しようと約束しているわけではないのです……まだ」 まだ、とかつけ加えるんじゃない。 けれどそんな石神の言葉を聞いた母さんは、なにやら難しい顔で俺のことを睨んでいた。 「約束してなくとも、一緒に住んでる女の子を放って帰るなんて、お母さんは嬉しくないな」 「待った。放って帰るってなんだよ。さっきも少し話したんだが、こいつは別に――」 「はあぁ……四四八はそこらへんが聖十郎さん譲りというか、心配になっちゃうところだなぁ」 「お、親父譲り?」 少しピキッとくる俺である。 「きっと自立した歳だから一人で帰れるとか、自分の時間がどうとか、そっちの交友を狭めるのは良くないとかって思ってるんでしょ」 「…………」 並べた言葉のすべてに否定ができない。俺が黙っていると、石神は感心したように頷いた。 「まさしく、そんなこと言われました。母とは、かくも悟りのような洞察力を持つのですね」 「これでも四四八のお母さんになって長いからねえ。聖十郎さんにも似てるから、よく分かっちゃうのよ」 「ほうほう。その辺りも詳しい話が聞きたいところです」 「い、いいから、つまり母さんは何が言いたいんだよ」 「そんなの一つだけだよ。相手を尊重するっていうのと、素っ気なくするのは違うんだよ」 「む……」 「おお」 言葉にしたら当然なことであり、それくらいは理解しているが、石神はよくぞ言ってくれたとばかりにぶんぶん頷く。 「今どきの若い子は、距離を大切にし過ぎてるのかもしれないからねえ」 「けど自分の見せられるところだけを見せて、自分が見ていられるところだけを見るっていうのは、結局何も見ていないのと同じなんだよ」 「すみません、メモしてもよろしいですか?」 「ああ、うん! どんどんメモって!」 「いいこと四四八。男と女はね、恋人の数だけ恋のカタチがあって、夫婦の数だけ特別な愛があるの。そういうのを見つけるには、もっとお互い体当たりでぶつかっていかないと駄目なのよ」 「それは恵理子さんの体験による哲学ですか?」 「もちろんそうよ! 私は聖十郎さんみたいに頭が良いわけじゃないけど、まだまだ四四八や静乃ちゃんたちに教えておかなきゃいけないことはいっぱいあるんだから」 何を石神に乗せられてノリノリになっているんだこの人は。神社で母親から愛のなんたるかを説法される息子の気持ちを考えてくれ。 基本的に間違ったことは言ってないから反論できないが、こんなことなら例の着ぐるみ姿で現れてくれたほうが、まだ突っ込みどころがあって助かったのに。 「ううむ。頼もしい限りですね。そうは思わないか、四四八くん」 「……いや、まあな」 実際、母さんの言うことは分かる。 俺は自分のことを過小評価も過大評価もしたくないから、今の己に足りないスキルや経験もはっきり自覚しているつもりだ。 なので、母さんが危惧している俺の欠点や、あまつさえ親父に似ているなんて言われる部分は、改善しなければといけないと認識しよう。 しかし――、これだけは言っておかねばならない。 「四四八、どうしたの? 何か言いたそうだけど」 「ああ。ちょっといいか、二人とも」 「なんだい? もしかして、明日から一緒に帰るための作戦でも考えてくれるのか? 上手いこと他の皆を撒くための」 「まあ大変、それじゃあ晶ちゃんたちと修羅場になっちゃうわ。お母さん、誰の味方をすればいいのかしらっ」 「それとも、まずは呼び方から変えようかってことだったり?」 「つまり、静乃と?」 「そう、こんな風に。――静乃」 「ああっ、これは思ったよりクラっときます。君はやばいぞ四四八くん!」 やばいのは貴様らの頭だこの馬鹿。 と叫びたいのをなんとか堪え、俺はゆっくりと深呼吸してから冷静な口調で言った。 「……それは俺と石神が、男女として意識し合っている前提の話だよな?」 「男と女の話は理解した。異論もない。今の俺はまだ子供で、前向きに大人へなっていきたいと思う」 「おお。なら憚りながら、この私が手伝おうか? 男が大人の階段を登るためには理解のある女が必要だ、とも歩美がくれた本には記してあったぞ」 「きっとそういうときこそ許嫁である私の出番なのだろう。さあ――」 「おまえはもう黙っとけ」 「あれっ」 「母さん、改めて確認するけど、別に俺とこいつは許嫁じゃないよな?」 「そうだっけ? なんか流れでそんな風に私は思ってたけど」 「思ってたのかよ! とにかくそんなこと、俺は最初から認めていない」 「でも、私に言ったって困っちゃうよ。だってもともと、お父さんたち同士の約束みたいなものじゃないの?」 「だからこそ承服できない。俺は親父のために存在しているわけじゃないからな」 「やだなあ四四八、聖十郎さんだってちゃんとそのへんは分かってるよ」 「これはこれで、あの人なりに四四八のことを思ってみたいな」 「絶対ない!」 「そんなことないよー」 まったく暖簾に腕押しだった。 ここで問答を繰り返しても真実は闇の中。親父は上海の中である。 いっそ二度と戻ってこなければいいのに。 「まあまあ、けど賑やかで楽しくなったんだからいいじゃないの」 「さっきも言ったけど、私的には四四八のお嫁さん候補としてどの子を応援しようか、迷っちゃってもう大変」 一番大変な立場に追い込まれつつあるのは間違いなく俺だった。 「ああ、なんか昔を思い出しちゃうなあ。特にこの八幡に来るとねえ」 「ほうほう」 「ここ、私と聖十郎さんが初めて会った場所だから」 「なるほど、実に興味深い。あの人をどのようにして落としたのか、是非教えてください恵理子さん」 「それは、四四八攻略の参考にするって意味かな静乃ちゃん」 「だったら駄目かな。お母さんは今のところ、フェアを貫きたい気分なの」 「むう、厳しいですね。だがよし、それでこそ燃えてくる」 「なあ四四八くん――て、あれ?」 「あー、四四八。なんで一人で帰っちゃうのよー!」 話は尽きず、時間は足らず、石神と母さんはその後も大盛り上がりをしながら家路に着いた。 すっかり日は暮れ、どこからか夕飯の匂いがやってくる。カレーやら煮込み料理やら、二人はそんなことも楽しそうに語り合い、そして一緒に支度をし始めた。 ていうか。 「おまえ料理できるのかよっ?」 「え、そんなの当たり前だろう。何を驚いてるんだ君は」 「ピコーン、姑の好感度1UP。ご褒美に四四八の小さい頃の写真を見せてあげます」 「やめろ母さん、やめてくれ!」 この二人を組ませると手に負えない。そう実感した夜だった。 「なあ歩美、こんな感じで本当にいいのか。偵察とか調査という感じが、まるでしないんだが」 「いいんだよぉ~、むしろスパイだったら、こんな風にカップルを装って潜入するんじゃないのかな」 「装う必要ってあるのか……」 「もっちろーん! 戦場なら迷彩服、上海ならマフィアスーツ、商店街なら制服カップルじゃないとね~」 「…………」 端から見たら、とても友人の窮地を救うべく結成されたコンビには見えないだろう。 しかし、俺としては幼なじみが本気で困っているのなら、力を貸すのに否応はない。 「~~♪ ~~♪」 放課後、口笛を吹いて闊歩する歩美に腕を引かれ、俺たちは小町通りで潜入調査とやらをする羽目になっていた。 それもこれも、発端はついさっきの学校で起こったこと。 今日もつつがなく授業が終わり、皆が帰り支度を始めている。 すると、まず栄光が俺に声をかけてきた。 「いよっ、どうした? 物欲しげにキョロキョロしてよ」 「キョロキョロはしていたかもしれないが、勝手につけ加えるな。何を欲しがるっていうんだよ」 「いやてっきり、一緒に帰ってくれる女の子をせっせと漁ってるもんだとばっかり」 「おまえと一緒にするな、馬鹿が」 いつものことだが、こいつのこれは挨拶のようなものなので相手にするだけアホらしい。すっぱり切り捨てて、あとはスルーを決め込むとする。 「お?」 だが栄光とは反対側から、またもや別の幼なじみが声をかけてきた。 いや――事はそれだけに留まらず。 「四っ四八くーん! 今日はこれからどうするのー?」 「ぐほっ」 唐突な衝撃に、俺はむせながらつんのめった。 「おやおや、大丈夫?」 「おまえな、背後からいきなり体当たりしてくるんじゃない」 「でも四四八くんだし、これくらいやらないと微動だにしないかなあって」 「どういう意味だよ。俺だって普通の人間だ」 「後ろからいきなりアタックされたら肝を冷やしたりするんだぞ」 「まあまあ、いいじゃねえか。そんで歩美、おまえこれからどっか行きたいのか?」 「うん、何か食べて帰ろうよー」 とは言うが、世良は部活。鳴滝はバイト。我堂は琴の稽古がどうだとか言って帰ったし、石神はそれを面白がってついていったのでもういない。 よって今、ここに残っているいつもの面子はあと一人だけなんだが。 「…………」 「晶……?」 いったい何があったのか、こいつは暗い表情をして窓の外をぼうっと眺めていた。 「あっちゃん、どしたの?」 歩美が声をかけても上の空。いかにも深刻そうな、晶らしくない哀しげな表情で視線を泳がせている。 俺は少し声を大きくして呼びかけた。 「おい、晶。どうかしたのか?」 「……へっ」 「なんか黄昏れちゃって、悩みごと?」 「晶じゃなかったら、窓際の美少女ってタイトルがついてたかもな」 「う、うるせえな。勝手に人の顔を見てんなよっ」 「勝手に見ていたわけじゃない。ちゃんと名前を呼んでいたぞ」 「…………」 俺たちの問いかけに、晶はあからさまな感じで目を逸らした。 「ねえ、本当にどうしたの。困ったことがあるんなら、わたしたちが相談にのるよ?」 「そうだぜ晶。水くさいじゃねぇか」 「四四八くんも、そう思うよね?」 「もちろんだ。俺たちに話せることだったら教えてくれ」 「一人で抱えてるよりも解決できるはずだぞ」 「四四八……」 俺だけじゃない、歩美と栄光の親身な反応に、晶が瞳に光を取り戻す。 さっきまで虚ろだった目が、ようやく生気を取り戻したようだった。 そして、たどたどしくもはっきりした口調で、晶は言った。 「ライバルがいるんだ。それも超強力な」 「らいばるぅ?」 よく意味が分からない。黙って次の言葉を待っていると、晶はぽつりぽつりと語りだした。 「あたしだってよくは知らねーけど、とにかく最近、ウチの売り上げが落ちてるみたいなんだよ」 「ウチって、なんだ店のことか。てっきりオレは恋の悩みかなんかだと――」 「馬鹿野郎、あたしにそんなもんあるわけねえだろ。て大きなお世話だこの馬鹿っ」 「あ、あっちゃん、落ち着いて。聞いてると悲しくなってくるから」 確かに別の意味で切ないし危険な話だ。 しかし、事はそれどころじゃないという気持ちも分かる。自営業ならば、ちょっとした売り上げの変動も黙って見過ごせないだろう 母さんが働いてる俺にとっても、他人事ではすませられない。 「あ~あ~! まさかウチまで影響が出てくるなんて……!」 「ウチまでってことは、そこそこ名の知れた店が相手なのか?」 「ああ、結構前から、近所じゃ噂になってたんだよ」 「俺は母さんから何も聞いてないんだが、それは評判になるほど旨い蕎麦屋なのか?」 「実際に大流行なんだぜ? ここ数日、ウチのお客さんも、お土産袋を下げてる人が見過ごせないくらい多いし」 「え、なんだそれ?」 蕎麦の土産を持ち帰りながら、蕎麦屋に行くのか? いつのまにか俺の知らない空前の蕎麦ブームでも来たのだろうか。俺が首を傾げていると、歩美がぽんっと手を叩いた。 「分かった。それじゃあこれから、調査に行っちゃおう!」 「つまり、実際に行って食べてみるというわけか」 「そうそう。まずは敵がどこまでのものなのかを知らないと」 歩美らしい行動力に基づいた提案だった。 「てことは、おまえは店を知っているわけだな」 「うん、お土産のところでピンと来たよ。小町を騒がす行列の噂は、わたしも聞いてたんだよねえ」 腕を組み深く頷く歩美だったが、栄光は対照的に残念そうな様子で首を振った。 「わりぃ、今日はオレ、ちょっとパス」 「なんだよ。そんなに大事な用事でもあるのか?」 「まあな。イベントの最終日だから、今日は外せない」 「イベントって、もしかしてソーシャルゲームの?」 「おうとも! 水着イベントだからな。ウルトラアイドルの栄光は10000位までにしか与えられない」 「…………」 友達甲斐のある奴なのか、よく分からない幼なじみだった。 けど無理矢理誘っても良くないので、仕方ないが三人で行くかと俺が言おうとしたとき、今度は晶がすまなそうに首を振った。 「あー、悪い。あたしもパスだ」 「なんだよ、まさかおまえまでイベントの最終日なのか?」 「馬鹿。なんであたしがゲームで水着イベントなんだよ。こっちは店の手伝いだ」 「それなら母さんがいるはずだろう」 「違う。恵理子さんは普通に働いて、あたしは新メニューの研究をするんだよ」 「そういうのはおやっさんの仕事じゃねえの?」 「ダメ。ハゲた感性じゃダメなんだ」 「あっちゃん……」 「脅威の新製品は、女子たちを軒並みノックアウトしてるみたいだし、ここはあたしの女子力――腕が必要なんだよ」 「…………」 突っ込むのはやめておこう。おまえの感性ってそばもんだろうがと、身も蓋もないことを言ってはいけない。 結局、四人中二人だけか。せめて世良でもいてくれたら心強いのにと思ったのだが、歩美は俺の腕を掴んで言った。 「よぉーし! こうなったら、わたしと四四八くんでミッションクリアしてやろうじゃない」 「……この際だ。背に腹は代えられねえし、二人とも頼んだぞ」 「おう、オレも応援してるぜ」 ということで。 その後、俺と歩美は真っ直ぐ件の店へと向かったのだ。 どうやら早くしないと売り切れ必死くらいの人気ということだったし、その上で俺は勘違いしていたのだが―― 「まさかスイーツだったとはな」 「四四八くん、勝手に早合点しちゃうんだもん」 「やりとりから、なんとなくズレてる気もしたし、違和感はあったけど……おまえ、噛み合ってないの分かっていただろ?」 「えぇ~、なんのことかなあ」 スキップするように歩き、楽しそうに知らんぷりをする歩美。 こういうのは今に始まったことじゃないし、俺もそこまで気にしているわけじゃない。 「……確か抹茶フロートとか言ってたな。それ自体は、別に珍しいものでもないんだろうが」 「大繁盛するっていうことは、きっとプラスアルファがあるんだろうな。俺たちはそこ探っていかなきゃならんと」 「最近、雑誌でも特集が組まれたり、テレビでも取り上げられたり、飛ぶ鳥を落とす勢いなんだよ~」 「それは知らなかった」 日常的に甘いものを食べることがない身だし、出来ればスイーツという単語自体使いたくないほどの俺としては、意識しないと情報そのものが入ってこない。 地元で流行しているものを知らなかったというのは、些か以上に間抜けな話になるけれど。 テレビまで出張ってきているというのなら、それは味やアイデア云々よりも広報戦略的な問題なのかもしれない。偏見かもしれないが、女性全般はそういうものに流されやすい傾向があると思うし。 「で、まだその店は遠いのか?」 「ううん。そこまで遠くないよ。四四八くんみたいに迷い無くキリキリ歩いてたら、五分で着いちゃうかも」 「悪い。歩きにくかったら言ってくれ」 俺と歩美じゃ、無視できない歩幅の差がある。いや、俺だけじゃなく女子全般の平均から見てもそうだろう。 普段からちょこまかしているイメージがあるけれど、それはこいつなりに他人の歩調へ合わせてるという見方ができるかもしれない。 性格的に周りの気づかないところで気を使う歩美なら、充分にありうる話だ。 「もー、そういう意味で言ったんじゃないから気にしないでよ~」 なんて反応を見せるのも、捉え所のないこいつらしさと言えた。 なので目敏い歩美に気づかれぬよう、俺はあくまでも自然に歩くペースを落としていく。 「ねぇねぇ、四四八くん。こうやってさ、デートするのも久しぶり……というか、すごく珍しいよね」 「デート?」 「うん。だってそうでしょ、これは。間違いなく」 「いや、まあそう言えるのかもしれないが……ちょっと違う気もする」 幼なじみの蕎麦屋を心配して調査に来ている時点で、ロマンチックとは言えないシチュエーション。目的もはっきりし過ぎていて、どうにもデートと言うには違和感が拭えない。 「そうかなぁ。もし四四八君がおかしいなって思うんなら、それは幼なじみ逆補正のせいだと思うけど」 「言葉の意味が分からない……」 「深い意味はないよ。言葉のままだもん。幼なじみだからこそ、プラスに補正されることもあれば、マイナスに補正されちゃうこともあるからさ」 「マイナスに補正ということは、例えば二人で流行のものを食べに行こうとしても、デートっぽくはならないということか?」 「ピンポーン、さっすが四四八くん! 理解するまで早い早い」 「仮にさ、今日の相手がわたしじゃなくてしーちゃんだったら、もっとデートっぽくなったりはしない?」 「…………」 しないと思うんだが。 むしろ、石神ほどデートとかいう言葉が似合わない奴もいないんじゃないか? ただそんなことを言ったら言ったで、また面倒なことになりそうだから、本人には言うつもりもないけど。 「歩美が思ってるほど、幼なじみだからどうこうというのは無いと思う」 「そう?」 あっけらかんと話すこいつの反応は、やはりさばさばした感じである。口調には深刻な様子も、考えすぎている雰囲気も感じられない。 そうしていると、いつの間にか目の前には、長い行列が伸びていた。 「おっと。もしか……しなくても、これが例の抹茶フロート目当ての行列か」 「あったりー、時間が中途半端だからかな。思ったよりも並んでなくて良かったね」 「そうか……?」 有り体に言って、うんざりするような長蛇の列なんだけど。 間違いなく俺一人だと、こうまで並んで食べたくはないという次元の行列になっている。 「テレビの威力っていうのは、やっぱり凄いものなんだな」 「んん?」 「雑誌だけだと、こうまで人は集められないだろう」 まんま夕方に放送しているニュースに出てきそうな光景だ。今、巷で大流行しているスイーツ特集の画面が目に浮かぶ。 しかし―― 俺の反応に対して、歩美ははっきりと首を振った。 「違うよ四四八くん。勘違いしちゃダメだよ」 「勘違い……?」 「うん。だって、雑誌が特集を組んだりテレビがやってくる前から、ここはこんな感じだったんだもん」 「……そうなのか?」 「口コミってすごいよね~。あっちゃんと剛蔵さんが不安になっちゃうのも分かるなぁ」 ……まさか、目の前の光景はマスコミ効果無しの産物だったのか? 消費者たちの口コミで、ここまで流行するものなのだろうか。 業界に疎い俺じゃ想像もつかなかったが、歩美は腕を組み、訳知り顔で教えてくれた。 「これはね、ただのヒット商品じゃないんだよ」 「もしかして、いわくつきだったりするのか?」 「いわくというか……簡単に言うとね、この抹茶フロートは店の再生をかけた、一世一代のスイーツだったのだ」 「なぜならちょっと前まで、冗談じゃなくお店は傾いていたからね。このままじゃやばいと思ったオーナーと従業員のみんなで、どうにかしなきゃと話し合って……」 「けど、そんな簡単にヒット商品なんか出てこない。ましてやスイーツ戦国時代の今、競争率の激しすぎるところへ新しい試みなんてやられ尽くしているのだよ」 「おまえ、いったいどうしたんだ」 変なスイッチが入ったような歩美に狼狽える俺である。 「だからこそ、わたしもずっと温めていたネタを彼らに提供したというわけ」 「……んっ?」 「やっぱさ、大切なのは人間だよね。オーナーさんたちの本気が伝わってこなかったら、わたしも手を貸さなかったと思う」 「…………おい、待て。ちょっと、いいか」 「なぁに?」 たったの数秒で目の前の相手から出てきた言葉を、頭が理解できなくなる。 しかし、歩美の表情は至って真面目なので、俺は冷静さを失うことなく、純粋に質問を投げかけた。 「え、なに。おまえがアイデアを出したのか?」 「うん。抹茶フロートなんだけど、使ってる炭酸ガスがイタリアから直輸入で特別なんだよ~」 直輸入は置いといて。 「いやいや、そういう表面的なことじゃなくて……、すまん。言外の意味として、おまえはそんな活動をやっているのかということなんだが」 「いえーす! ときどきね、プロデュースしてくれって依頼がきたりするんだこれが」 「他にも旅館やファミレスのメニューから家庭の便利グッズに至るまで! そう、わたしこそは人呼んで鎌倉の〈錬金術師〉《アルケミスタ》っ」 「おまえは延暦寺先輩かよっ」 「ふえ、誰それ?」 いや、以前、世良から借りたマンガにそういうキャラがいたから……ではなく! 「……と、とにかくおまえ、晶の家を脅かすのは遠慮しておいてやれよ」 「いやいや~、これが良い結果に繋がるんだよ」 「どういう意味だ?」 「あの抹茶フロートが出てこなかったら、あっちゃんも女性をターゲットにした新メニューを研究しようなんて思わなかったはずでしょ?」 「そ、それは確かに……」 「だからこうやって、資本主義の競争原理は高みへと登ってゆくのだ」 歩美の幸せな言葉が、夕空へと吸い込まれていく。 なんだろう。こいつの言うことや考え方は、冷静になると俺的にも賛成なので、ごちゃごちゃ言うのはよそうという気持ちになってくる。 やがて行列が俺たちの番になると、歩美は慣れた様子で注文した。 「しゅわしゅわ抹茶フロート、ふたつ~」 「あざーす! 今日もお疲れさまです!」 「…………」 「毎日大変だねぇ」 「いいえ、おかげさまで大繁盛っすよ!」 まるで流れるようにスイーツを用意する店員さん。 奥にはお辞儀をしているオーナーらしき姿も見えた。 「……おい、料金はいいのか?」 「これが依頼料なんだよ。今季中はずっとタダなんだぞ、えっへん」 「……リーズナブルなアドバイザーだ」 まあ、反対よりはいいだろう。変に金を取っていたら、それこそ学校で問題になってしまう。バイトのレベル超えてるしな。 「はぁい、おまたせー! どぞどぞ、四四八くん。ぜひ感想きかせて」 「ああ……」 恐る恐るシャーベット状のアイスに抹茶をかけると、グラスの中ではしゅわしゅわぱちぱちと小気味良い音が立つ。 こういうのがきっと女子たちの心を掴んでやまないのだろう。 期待感を膨らませて口へ運ぶと―― 「こ、こいつは……!」 「うまい! 普段こういう物を食べない俺でも分かる。こいつは斬新な食感だ……!」 「わぁ~、四四八くんの美味しそうな顔ゲット~~!」 「これなら流行るのも行列が長いのも理解できる」 「えっへっへ~、おかげさまで。ねぇ、四四八くん、ご褒美もらっていい?」 「ご褒美?」 「うん。こういうときは、よしよしって頭を撫でたりするのも有りだと思うよ~」 「…………」 「ほらほら、四四八くんは女の子に奢られたまま、何もお返しあげない男の子じゃないよねえ」 「……分かった」 「よっしゃ!」 歩美が目をつむって、くいっと頭を寄せてくる。 釈然としないものも感じつつ、でも言われることは分かるので、俺は特に抵抗もせず歩美の頭を軽く撫でた。 「……よし、よし。幼なじみの蕎麦屋へプレッシャーをかけるのは、ほどほどにな」 「はぁ~い」 うむ。これで晶の店も大丈夫だろう。もしかして気持ちが向けば、あっちにもアイデアを寄せてくれるかもしれない。 そうして、商店街の来た道を戻ろうとしたとき、歩美は楽しそうに言った。 「よぉーし、それじゃ次のご褒美も貰っちゃおうかなぁ~」 「つ、次の?」 まさか、こいつ…… 「あそこにある鯛焼き屋なんだけど、今は新製品の試食があってね」 「…………」 「口の中が抹茶味になったところへ、丁度いい快感を用意したつもりなんだよ」 「……そうか」 諦めと呆れと、それからつい隠しがちになる期待感。 俺は腕を組んだまま歩美に引っ張られ、小町通りを端から端まで歩き回ることになった。 放課後、通学路から海辺まで足を伸ばすと、途中で匂いが変わってくる。 家とは反対方向なので普段は下校時にあまり来ないのだが、今日は不思議と海に寄りたくなったのだ。 毎朝ランニングで見る光景とは、時間によってまったく別の顔を見せてくれるのがここである。 それは簡単に言うと心の琴線に触れるからで、だからこそ思う。 「どうせなら、他の連中も呼んでみるべきだったかな」 寂寥感に駆られて独りになりたいなどというつもりはなかったけど、つい用事があると言って一人で下校してしまったのだ。 わざわざ一緒に帰る約束をしているわけじゃないが、こうして海を眺めていると色々なことが頭をよぎる。 石神との出会い、ご先祖様たちの物語、日常から脱却してしまった眷続化、そして…… タフガイの後ろ姿。 「剛蔵さん……? あの人、こんなところで何をやってるんだ」 思いがけない光景に首を傾げてしまう。というか少し驚いたぞ。 おなじみの蕎麦屋の店主は、でかい図体で浜辺にしゃがみ、何かをやっている。 結構大きい声で時に喋っているらしく、打ち寄せる波の途切れ途切れに、それは聞こえてきた。 「はぁ…はぁ……っ」 「お、俺はここまでなのか……?」 「――いや! こんなもんじゃねぇはずだ! 負けちゃならねえ、気合だ剛蔵。やるんだよっ」 「……なんだ、この鬼気迫る雰囲気は」 もはや奇妙で、訝しく見えてしまうその背中に、俺は不安を覚えた。 もしかして、平穏無事なこの海岸で、何かが起きているというのだろうか? まさか石神の言っていた、現実に血肉を持った敵という奴が―― 「く、くそが……! 怯えるんじゃねぇ、今までも似た敵と戦ってきたんじゃねぇか……ッ」 「………ッ」 やはり、剛蔵さんの身に何かが起こっている。だったらこのままにしてはおけない。 助けなくては―― 意表を突かれた展開だったせいで状況を見てしまい、一歩遅れてしまった。 しかしここまでだ。俺が来たからにはこれ以上やらせはしない。 剛蔵さんに諸々バレることになるのは必然だが、それでもこの人を見捨てるなんて選択は有り得ないから、俺は一気に全速力で駆け寄った。 が…… 「おや、なんだ四四八くん。こんなところでいったいどうした?」 「――え、……は?」 予想外に普通の反応をされてしまい、慌てて俺は砂を巻き上げながら急ブレーキをかける。見れば敵なんてものは何処にもおらず、剛蔵さんにもなんら異常なところはなくて。 「……あの、妙に真剣そうでしたけど、何をやっていたんですか?」 恐る恐るたずねると、剛蔵さんは頭を掻きながら答えた。 「い、いやぁ……、まさかこんなところを見られちまうとは」 「わざわざ説明するほどのもんでもないんだが、相手は四四八くんだ。正直に告白すると、コイツと戦ってたんだよ」 恥ずかしそうにそう言って、指をさした先にあるソレは、岩の影でコソコソしていた。 強いて言うなら、大きいダンゴムシみたいなそいつは、つまり…… 「……フナムシ、ですか?」 「おうよ。本丸に攻め込むのはまだ厳しいってんで、まずは似た姿のコイツでね、慣れようかと」 「俺はどうにもこう、わさわさカサカサしたのが苦手でよう……分かるだろ、ほら、ご、ご……」 「ゴキブリですか」 「ひ、ひいっ、頼む、その名は言わんでくれえ」 裏声ですくみ上がる巨漢のマッチョに、俺は果てしない脱力感が込み上げてきた。 いや、そりゃ、勝手に誤解したのはこっちだけどさ。 きそば真奈瀬でのてんやわんやぶりは記憶に残っている。女子である晶はともかくとして、剛蔵さんにまで変なスイッチが入っていたし、改めて外見とのギャップに目眩を覚えてしまうのだ。 「あの後、晶に怒られてなぁ。運良く四四八くんがいてくれたから良かったものの、恵理子さんがいないときのことを本気で考えようって話になったわけだよ」 「それでフナムシで練習ですか」 「そうだ。こいつに触れるようになれば、九割くらい克服したと言えるだろうが」 「……そうですかね。つかめるようになったらすごいとは思いますけど」 俺がそんな風に答えると、剛蔵さんはオロオロしながら首を激しく振った。 「お、おいおいっ、恐ろしいことを言うなって! そんな拷問みたいなこと、よく思いつくなぁ」 「…………」 「まあ、ここはじっくりいくさ。触れないまでも、後一歩のところまでは近づけたんだ。このフナムシ野郎も、今日のところは勘弁してやるってな。はっはっは!」 「……そうですか」 どっちが勘弁されているのか分からなくなりそうだったが、冷静に考えて蕎麦屋のタフガイだろうなと思った。 わざわざ指摘することはしないけど。 「しかしなあ、四四八くんはしっかりと恵理子さんの血を受け継いでいると改めて思うよ。あのときも動じずに処理してくれたしな」 「そこはまあ、はい。俺も母さんも、家で見つけたら普通に掴んで、庭に離してやったりしてますから」 ちなみにクソ親父は、ゴキブリだろうがムカデだろうが一顧だにしない。びびりもしない代わりに、対処しようともしないのだ。 あれはあれで、稀有な反応だろうと思う。 「だよなあ。それに比べて俺ときたら、自分の〈店〉《しろ》に奴が出たっていうのに、何もできなかった……」 「最初はなんとかしようとしていたじゃないですか」 「そんなのは実際に何とかしてくれた四四八くんと比べたら、屁みたいなもんだよ」 「男一匹、タフに生きてきたつもりでも、恵理子さんには今でもお世話になりっぱなしっていうわけだ」 頭を掻きながら、どこか子供っぽく……言葉は悪いが、まるで悪ガキが恥ずかしがっているようにも見えた。 よくよく考えてみれば、母さんと剛蔵さんと、それから親父と。 三人は、当たり前だが俺や晶たちの関係よりも長い付き合いなわけだよな。 「母さんは小さい頃から、あんな感じだったんですか?」 「うん? いや、恵理子さんの小さい頃のことは知らんな。出会ったのは千信館に入学してからだ」 「ああ、そうでしたね」 昔の話は母さんから何度か聞いているけど、つい幼なじみ三人組のように思ってしまう。 それというのも母さんと出会うまで、親父と剛蔵さんが二人でつるんでいたというのが信じられないからだ。あの男と二人などというのは、まともに考えて苦痛でしかないはずだろう。 しかし、剛蔵さんは懐かしそうに話し始めた。 「セージとはなあ、初めからして滅茶苦茶だったぞ」 「想像がつきます」 「いや、おそらく四四八くんの想像以上だろうなあ。セージの奴、あれでもかなり丸くなったほうなんだから」 「一応、話には聞いていますが……」 いったい親父の奴、若い頃はいったいどれほど周りに迷惑をかけていたのか。 そう思うから、付き合いの途切れなかった剛蔵さんには畏敬の念さえ覚えてしまう。 「あいつとの出会いは八幡宮でな。聞いたことあるか?」 「あるはずないです」 「がっはっは。そうだろうな。話す姿が想像できん」 「自分もです」 こうまで一致している親父のイメージに、ちょっとだけ可笑しくなる。あいつはいつでもどこでも、誰にだってああなのだ。 にも関わらず、どうしてこの人は柊聖十郎とここまで付き合うことが出来たのか。 そこに何かきっかけでもあったなら聞いてみたい。にわかに興味が湧いてきた。 「細かいことを語っていくと長くなるが、まあ第一印象は最悪だったぞ。気に食わない奴で、とても仲良くなれるとは思えなかった」 「それに、いつの間にか仲良くなっていたなんていうのも、あいつは間違いなく否定するだろうな」 「…………」 段々と謝りたくなってきた。 剛蔵さんは恨み節で話しているわけじゃないのだろうが、親父の性格が分かりすぎてしまうために、今までのことがひたすら申し訳ない。 そんな俺の様子を察したのか、剛蔵さんはつけ加えて言った。 「おっと、勘違いするなよ四四八くん。それでも俺は聖十郎と出会えたことに感謝しとるんだ」 「なんでですか?」 我が親ながら、俺は直球で聞き返してしまう。 「なぜってもちろん。あいつがいなかったら、俺と恵理子さんも仲良くなってはおらんかっただろうからさ」 「……はっ?」 さっぱり訳が分からない。いや文脈を理解しようとする頭を心が抑えつけて、全力で否定する。 そんな言い方をしたら、まるで親父が真ん中に立って友情を支えているみたいじゃないか。 素っ頓狂な俺の返事を、剛蔵さんは笑い飛ばした。 「がっはっは。想像もつかないという顔をしているな」 「当たり前です。母さんと剛蔵さんの仲が良いのは分かりますけど、そこに親父がどう絡んでいるのか理解できません」 「ふぅむ……よし。そしたら、少しばかり恵理子さんと出会った頃の話もしてやろうか」 剛蔵さんはそう言うと海の遠くへ視線を向け、俺とそれから、目の前で落ちてゆく夕陽に向けて、あたかも告白話をするよに語り出した。 「恵理子さんと、俺とセージが出会ったのは千信館に入学したときだ。彼女は最初から豪快だった」 「豪快、ですか?」 「あいつに物怖じしない女を見たのは初めてだったよ」 「さっきも言ったが、俺でさえ出会いの印象は最悪だった。まさか大人になっても、こうして付き合いが続いてるもんだとはなぁ」 「……それなのに母さんは、最初から親父と仲が良かったんですか?」 「ん。まぁ仲が良かったというよりも、今の関係がそのままだな。恵理子さんが、なんだかんだとセージの世話を焼いていた」 「変わってないんですね」 「だからこそ、恵理子さんたちはくっついたわけだ。がっはっは!」 豪快に笑い飛ばす剛蔵さんを見ていると、さっきまでフナムシと格闘していたのが嘘のようだった。 「…………」 しかし、なんというか。剛蔵さんの雰囲気もまた普段とひと味違うようだった。言葉で表現しろと言われたら、うまく表せる自信はないが…… 表面的にはいつもと変わらないタフガイで、豪放磊落な蕎麦屋主人で、どこか間の抜けたところのある、優しい幼なじみの父親なんだけど。 しかし長い付き合いだからこそ、俺には伝わってくる感触というものがある。たとえば、これが蕎麦屋の店内だったら、剛蔵さんはここまで語らなかったはずだ。 「あれだな。こうして四四八くんと喋るのも珍しいもんだ」 「剛蔵さんも、そう思いますか」 「おうとも。陽が落ちてゆく海を前にして、男二人で語り合いってもいいもんだ」 「…………」 「ん? どうかしたか、四四八くん」 「いや、それが……」 どうしようか。さすがにこんなことを尋ねるのは、気が引けて仕方ないが……でも、今しかないという実感もある。 親父と母さんと剛蔵さん。俺や晶たちのように、いつもつるんでいたという三人組。 そんな話を聞かされるたび、ずっと疑問に思っていたことがあったんだ。 「不躾だと分かっているんですが、一つだけ聞いてもいいですか?」 「なんだ? いつにも増してシリアスじゃないか」 「いいぞ、他ならぬ四四八くんだ。一つとは言わずに何でも聞いてくれ」 「それじゃあ失礼して……剛蔵さんは、もしかして母さんのことを好きだったんじゃないですか?」 するとその瞬間、剛蔵さんはブッと吹き出した。 「んな――ッ!? よ、よよ、四四八くんいきなり何を言っとるんだ!」 「いや、なんとなく、そういうこともあったんじゃないかなと思って……」 「いやいやいや! こんな海坊主みたいな男が、恵理子さんを好きだったなどと、性質の悪い冗談だ!」 「まさか、馬鹿なことを。いくら四四八くんでも考えすぎってもんだ」 「そうなんですか?」 「そうとも! ま、まったく……、今どきの若もんの考えることは分からんなぁ」 「…………」 剛蔵さんの反応が、どちらとも取れる感じなので、俺はちょっと判断に困ってしまった。 言っていることを信じていないわけじゃないが、それにしては動揺し過ぎのような…… とはいえ、本当に突拍子もないことを言われて心底、驚いているようにも見える。 「いや……、ま、そりゃ、恵理子さんは素敵な人だと思うけどな……」 俺が黙って聞いていると、剛蔵さんはごにょごにょと早口でしゃべり続けていた。 そんなつもりはなかったのだが、こういうことを聞いておきながら、意地の悪い反応をしているのかなと自戒しつつ、俺が口を挟もうとしたときだ。 剛蔵さんは大きく息を吐いて言った。 「ふぅ……その顔を見ていると納得してねぇな四四八くん」 「いえ、そんなことないです」 「いいや! その顔は、俺と恵理子さんの仲を疑っておる!」 そこまでではないのだが。あの母さんが、親父に対して二心あるなんてことは絶対に有り得ないだろう。 だが剛蔵さんは、そういうことを心配したのか、さっきまでとはまた声色を変えて語り出した。 「……よし! ここまできたら俺たちのこと、もう少しばかり教えておこう」 「他に特別な話があるんですか?」 「特別って程じゃないなんだがな……、しかし――」 「一度、恵理子さんと話したことがある」 「何をですか?」 「ふむ……出会いからしてそうだったが、俺たちは端から見れば、かなりおかしな三人組だったろう」 「だけどな、セージはあんな奴だけど色男だし優秀だから、女が寄ってくること自体は珍しくなかったんだよ」 「しかし、やはりあんな奴だから、その女たちも三日と持たずに現実を知って逃げていった」 想像するのが非常に容易い。 楽しそうに喋る剛蔵さんだったが、次の瞬間、視線を遠くにやりながら照れた様子でつけ加えた。 「だからなあ、俺としては逆だったんだよ」 「逆というのは?」 「もちろん恵理子さんのことだ。彼女がセージに寄っていくのは、最初おかしく思わなかった。ああ、また理想と現実のギャップを思い知る女が一人増えるなと」 「はい」 「しかしな、不思議なことに恵理子さんはセージと共に、俺ともつるむようになったんだ」 「……もしかして、逆っていうのは」 「そうだよ。俺はな、聖十郎の奴にじゃなくて、俺に恵理子さんがびびらないほうが不思議だったんだ」 「なあ、分かるだろ? セージの性格があまりにアレだからついつい麻痺しがちだったが、冷静に考えれば俺の顔も人のことは言えない」 「それまで俺とセージに友達が出来なかったのは、まあどっちもどっちの原因があったわけだよ」 「だからこそ、自分みたいなのとつるんでて、嫌じゃないのですかと恵理子さんに聞いたことがある」 「でも、男らしい人が好みの女性もいるでしょう」 「俺はフナムシだって触れないんだぜ?」 涙が出そうになる切り返しだった。 「そしたら、四四八くん。恵理子さんは何て答えたと思う?」 「さあ、分かりません」 「あの人の答えはな……、聖十郎さんとずっと友達でいてくれた人だから、だったんだ」 「…………」 「すると今度は、恵理子さんの方から訊き返してきてな」 「私が変な女なのは自覚してる……。剛蔵さんこそ、私みたいなのと一緒に居て邪魔じゃなかったの、だとよ」 俺はその話を聞いたとき、図らずも目を丸くして剛蔵さんを見つめていた。 思わず言葉が出て来なくなりそうだったが、俺はなんとか問いを投げた。 「それで……、剛蔵さんは何て母さんに答えたんですか?」 「きっと四四八くんの想像通りさ。俺は恵理子さんにはっきりと言ったよ」 「あなたは素晴らしい人だ。なぜなら、セージの良さを見抜いているから、だってな」 「…………」 波が浜辺へ打ち寄せる音が、静かに響いている。 夕焼けを彩るオーケストラ……いいや、そこまで洒落たものではなくて。 言葉にはできず形容できない気持ちを抱えながら、俺としては少し気に食わない気持ちも芽生え始めていた。 それはもちろん目の前の剛蔵さんや母さんにではなく―― 「分かったかい? 要するに俺も恵理子さんも、聖十郎ありきの関係なんだよ」 「だからさっきの質問へ真面目に答えると、恵理子さんに対する気持ちは恋や愛なんかじゃない。もっと素晴らしいものだ」 「……そうですか。良い関係ですね」 「そうだとも!」 こんな風に母さんたちのことを思い、側にいてくれた剛蔵さんに感謝する気持ちはあれど、それ以外の、まして下世話な感情などまったくない。 わざわざ言葉にするのは野暮だと思うから言わないが、感動的な話だった。 それなのに、だ。あの馬鹿親父ときたら。 「おや、なんだか面白くない顔をしているな」 「……あんなのの何がいいのか、よく分からないだけです」 俺がそう答えると、剛蔵さんは楽しそうに笑って言った。 「がっはっは……、そうか。まあ君はそれでいいんだよ」 「息子っていうのは、親父とそういう関係であるのが理想だと思うぞ」 「ですかね」 「おうとも。なぜなら俺は、セージのことが羨ましい。晶に不満があるわけじゃないが、やっぱり息子も欲しかったしな」 「だからきっと、セージも君と喧嘩する毎日を楽しく思っているに違いないよ」 そうして、俺たちは日がすっかり暮れてしまうまで、黙って海を眺めていた。 クソ親父は今、上海で何をやっているのだろう。 遠くを見つめる剛蔵さんの顔はどことなく子供のようにも見え、それが胸に残った会話だった。  ではこれより、夢の彼方に置き去られた一つの歴史を紐解こう。  それは“彼ら”の一周目。その物語が甘粕事件という一連において、特に重要な意味を持つのは今さら論じるまでもないだろう。  なぜならすでに、君らは甘粕正彦と柊四四八の物語を結まで見ている。よってこの一周目がどういう類であるのかなんて、野暮な説明は不要のはずだ。  そうだよね? そしてだいたいの流れも知っているよね? 原因というか、そういうものをさ。  要は空気を甚だ読まない、いいや見方によればとても読んだ一人の男が悪戯したのが始まりなのさ。それによって、彼らの邯鄲は非常に特殊なものへと変化した。  困ったズレ。盲打ちの乱れ棋譜。当事者たちが全員呆けてしまった一手のお陰で狂ったものは色々あるが、同時に変わらなかったものも存在する。  ああ、もったいぶった言い回しはやめよう。  端的に言うとだね、〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈記〉《 、》〈憶〉《 、》〈喪〉《 、》〈失〉《 、》〈が〉《 、》〈起〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈二〉《 、》〈周〉《 、》〈目〉《 、》〈以〉《 、》〈降〉《 、》〈だ〉《 、》。この一周目では、まだ異常が表面化していない。  兆候は、多々現れ始めているけどね。  そこに対処するため、全勢力が右往左往した挙句にしっちゃかめっちゃかという落ちさ。知っているだろう、僕の主が〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈さ〉《 、》。  その経緯を、これからしばし追っていこう。なかなか素敵に馬鹿馬鹿しくて、面白いものが見られると思う。  なあ君、君だよ。つれないなあこっちを見てくれ。僕と君の仲じゃないか。  今回、君の〈彼女〉《ハニー》は百年前と違うんだね。だが強くて病んだ女に魅せられる性癖は変わってないようで安心したよ。流石は一度、僕の核になった男だ。趣味が似ている。  いいよねえ。ぞくぞくするよねえ。壊れそうに張り詰めた自負と、間違った方向に駆け続けるパワー。なんて素晴らしいヤミの魂なんだろう。  思い出すよ。セージ、セェェェジ――彼女は正しくその後継……なのかどうかはまだ言えないが、イカす女だ。実に下種い。  かつての親友が僕と同じ〈廃神〉《モノ》として再誕するなら、惜しみない祝福で迎えよう。彼を天国に堕とした身で言うのもなんだがね、一度その時点で契約は果たされたから、後は好きにしてくれという感じだよ。  だから君、ねえ君だよ。僕は君に一つアドバイスをしてあげたい。  今度の〈南天〉《ハニー》も言ったようにかなり魅力的な女だけど、君は忘れちゃいないかい? 女っていうのはよく嘘をつくんだよ。  よって、彼女も一つ君を騙している。かつてのマリアがそうしたように。  分からない? 本当に? どうしてそれは? うふふふふふ……  世良信明、君の役目はあったんだよ。百年前にも、しっかりと。  この甘粕事件という夢の中で、そこらへんの事実については上手いこと隠されている。君は存在しなかったかのようにされている。  だが、本当は違うのさ。君は自分の役目がないからそれを強烈に欲しているが、実際のところはあったんだよ。その真実を〈南天〉《ハニー》は隠す。  なぜって、そりゃあもちろん自明のことさ。  かつてと今、君の役目は微塵も変わらずたった一つ。  その真実が知れてしまうと困るから、彼女は、彼女は、くく、ふふふふ……駄目だもう耐えられないよ! 「きひっ、ひひゃはははははは―――いいねえ、いいねえ、いいねえ、いいねえ! 待ってるよ信明ィ!  早く君の魂をまたしゃぶりたくて、僕は、僕は――」 「うるさい」  けたたましい蝿声の哄笑を断ち切るように、緋衣南天は夢の深奥から漏れる廃神の念を封じた。  それはチャンネルを繋ぐにあたって避けられない混線だったが、看過するわけには断じていかない。彼女が求める未来のために、相応しくない干渉は排除する。それだけのこと。 「気にしないで。さあ行きましょう」  だから今夜は、夢の彼方に置き去られた一つの歴史を紐解こう。  それは“彼ら”の一周目。その物語が甘粕事件という一連において、特に重要な意味を持つのは今さら論じるまでもないのだから。  そして―― 開かれた〈夢〉《セカイ》は深海の底を思わせる密室だった。  蒼い闇が揺蕩う〈静寂〉《しじま》のなか、円卓の中央に据えられた燭台を囲むように四人の男女が向かい合っている。  一見して、バラエティに富んだ面子と言えるだろう。世代、性別はもちろんのこと、身分的にも本来ならば同じ卓を囲むような者らではないと容易に分かるし、その印象どおり彼らの関係は良好と言い難い。  全員が全員、他の者らを見下して、それを隠しもしていなかった。要は己のやりたいようにやっているだけの人種であり、それが天下の法と信じている。質に多少の違いはあったが、極めて自己中心的な性根の持ち主たちと言えるだろう。  そういう意味で、彼らはここに向かい合いながらも相手をまったく見ていない。薄いが鉄壁のフィルター越しでしか他者と関われない筋金入りの破綻者である。  そして、だからこそ彼らは強く、始末の悪い者たちだった。この一周目という状況でありながら、すでに全員が強固な夢を纏っている。己が〈価値観〉《セカイ》を認知するという面において、誰に教わることなく初めから知っているのだ。  ゆえに本来、わざわざ通じ合えぬ雁首をそろえることに彼らは意味を見出さない。やりたいようにやるのみで、話し合いなど笑止千万。  だが、そうも言っていられぬ事態が起きたから今がある。その直接的な体現者とも言える存在が、第一に口を開いた。  いや、口よりも先に出たのは行動だった。  円卓の上へ、叩きつけるように投げ出されたのは軍靴の踵。  サイズ的には可愛らしいとさえ表現できる大きさだったが、それが及ぼした効果は見た目の印象を完全に裏切っている。大理石の円卓が縦に割れ、崩れ落ちてしまったのだ。  巻き込まれて落ちた燭台の火を踏みにじりながら、彼女は傲岸不遜に一同を睥睨しつつ言い放った。 「で、どいつが柊聖十郎だ?」  目の前に在る三人へ向けて。いや、彼女が問うている対象は男性だから、内の一人は除外される。残った二人はスーツ姿の偉丈夫と、すべて他人事のような風情で煙管を吹かしている痩身の男。 「私にとって用があるのはそいつだけだ。よって、他の者らは〈疾〉《と》く〈去〉《い》ぬるがよい。特別に見逃してやろう。  本来なら、私と同じ空気を吸っただけでその罪万死に値する。だが今回に限り、不問にしてやると言っているのだ。光栄な話だろう、なあ貴様」 「さて、その前にあなたが何者なのかさえわたくしは存じ上げないのですが」  無法も極まる言い分を前に、部外者として真っ先に切られた少女は苦笑いを浮かべていた。蒼い闇の奥、彼女の背後で危険な気配が生じていたが、それを制するようにゆるゆると首を振って付け加える。 「この場に相応しくない者が誰かと言うなら、それはあなたでございましょう。いったいどこから迷い込んできた外様でしょうか。  ねえ柊殿、これは些か、お話が違うのではないでしょうか?」 「俺の知ったことではない」  問われた男は、これまた劣らぬ倣岸さで一刀両断に切り捨てた。しかし、その名を明かされたことで銀髪の少女は反応する。彼女にとって、用があると言った相手はこの人物だ。  柊聖十郎――逆さ十字。邯鄲の夢と呼ばれるこの領域を構築した張本人こそ彼であった。 「が、そこの餓鬼が何者か、見当もつかぬというわけではない。ああ、甘粕から聞いているぞ、グルジエフだな」 「それは父だ。私はキーラ……キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。  そして貴様は柊聖十郎。相違ないな?」 「ないと言ったら?」 「説明しろ」  主語を省いたまま命令する。それは彼女にとって自明のことだから語るまでもないのだろう。あるいは聖十郎にとってもか。  相変わらず自分たちの存在を塵ほどにも斟酌しないキーラの様子に、令嬢然とした少女はどうしましょうともう一人に流し目を向けた。その相手といえば、なんと居眠りをしている始末。 「狩摩殿」 「ん、おぉ、なんじゃお嬢。そがァに恐い顔してからに。  なんや知らんが、俺ら関係ないなら好きにやらせとけばええじゃない。そんで何がどうなろうと、賽は投げられたわけなんじゃし」 「そういうわけにも参りません。というか、これは勘ですが―― あなたに関係ないとは思えないのです。お心当たりは?」 「どうじゃろうのォ」 「ではもう一度、柊殿は?」 「知らんと言った」  見事に取り付く島もない。ここまでの流れでもっとも全体の纏めに気を割いて見える少女は、小さく嘆息してから混乱の主原因たるキーラに告げた。 「まあよいでしょう。事態は未だに掴めませんが、長い付き合いになるだろうことは間違いないと察せられる。よってお見知りおきを願います。わたくしは辰宮百合香。  こちらの神祇省、壇狩摩殿と共に、甘粕大尉の敵となるべく夢に身を投じた女です」 「キーラ殿と仰られましたか。あなたは大尉殿の走狗ですか?」  瞬間、燃えあがったキーラの眼光に呼応して、空間を不可視の何かが走り抜けた。とてつもない重質量を備えた夢の波動が、百合香の頭を握り潰すように放たれる。  が―― 「おや、どうやら違うと? これは面白いことになりましたね」  寸前で、それは弾き返されていた。百合香は何もしていないが、彼女を守るようにやはり不可視の力が働いている。  その正体は知れないが、キーラの所業に対し特に有効な防衛手段であると感じられた。重さ、質量という単純な暴力を前に、それを打ち消すカウンター。言わば天敵とも形容できる手駒を百合香は持っているのだろう。  してみれば、先の言葉もあえてキーラを怒らせるために放ったのかもしれなかった。それにより、少なくとも己を無視できない状況の構築を成功させている。  狙いは場の主導権を握るということ。深窓の令嬢を絵に描いたような外見でありながら、彼女は強かで豪胆だ。表面上はそう見える。 「よいですね。なかなか悪くありません。敵の敵は味方というわけにもいかぬのでしょうが、我々の目的にあからさまな邪魔でもない。であれば結構、歓迎しますよ。  キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ殿、あなたもこの夢に列席する資格があると認めましょう」 「はッ、抜かすな売女が。どの口でほざく」 「私の行動を、なぜ貴様に許可されねばならん」 「それはもちろん、此度の事態が辰宮の仕切りで成されているという立場からして自明のこと」 「そういうことを言っているのではない」  最初の怒りはもう消えたのか。キーラは一転、眇め見るように百合香の顔を覗き込んだ。そして静かに付け加える。 「私はな、鼻が利くのだ。そこで言わせてもらおう、貴様は屑だ」 「辰宮? 目的? 立場がどうのと、空々しいのだよ茶番を見せるな。貴様は何も懸けていない。  すべてが浮遊しているのだよ、ひどく軽いぞ。くだらん建前は捨てて本音を言えよ―― 貴様、ただの死人であろうが。腐臭しかせんわ」 「あっはっはっはっは!」  突如、そこで爆発したように笑い出したのは狩摩だった。再び剣呑になりだした女たちの空気を吹き飛ばすかのごとく、大仰に手を叩いて傑作だと言っている。 「おもろいのォ、じゃがそんくらいにしとけや毛唐。お嬢になんぞ言いとォなる気持ちはよォ分かるが、そんとなこたァお互い様いうもんじゃろうが。  女は化けるゥいうてのォ……じゃけえ可愛いんじゃないか。おまえもそうじゃろ。 さっきから、ちらちらあられもない〈正体〉《ザマ》が見えよるぞ。隠したいんなら、もっと上手ォ化けんとのォ……ぶっちゃけた話、この俺からしてどん引きじゃわい。  グルジエフいうアホたれは、よいよたいぎィもんを遺してくれたわ。甘粕もそりゃ笑うでよ」 「貴様ッ……」  好き放題に言いながら勝手に納得している狩摩の理屈は不明だったが、その内容がキーラに対する侮辱に近かったのは確かだろう。だが絶妙な間と呼吸で滑り込ませてきたせいか、先ほどのような激発は起こさせなかった。  と言うよりも、この男は何をしようが致命的事態に陥らないという奇怪な特性を持っているのかもしれない。 「まあ、多少は俺の耳にも入っちょるよ。なんら〈大太法師〉《だいだらぼう》でも〈飼〉《こ》うちょんのかと噂されよった露助んこたァの」 「あれがおまえの親父じゃろうがい。んで、飼い主が逝ってもうたけえ夢を継いだっちゅうことかいや。どうして入ってこれたんかは知らんがの。  先に言った説明せえとは、そこについてか?」  問いに、しばし無言のキーラだったが、やがて首を横に振った。 「違うな。どうして私がここにいるのかなど、まったくたいした問題ではない。  ただ甘粕を知り、貴様らを知り、入りたいと願った結果こうして入れた。ならば種はそういうことだ、殊更求める理屈もあるまい」 「つまり初期の施術における邯鄲の効果範囲が、予測に反し拡大したということですか。これは我々が把握しておらぬ眷族も今後増えそうな予感がしますね。それが吉と出るか凶と出るかは知りませんが。  なんにしろ、こうなったからには説明責任があるのではないですか柊殿。少なからずあなたの仕事、その領分でしょう」 「おうおう、実は夢を張るんに失敗したァいうてのォ……よいよこんなは偉そげにしよるわりにゃあ締まらんわい。実際どうなっちょるんなら」  そうして三者から視線を向けられる聖十郎だったが、態度は一貫して不動だった。 「何度も言わせるなよ、知らん。  俺が敷いた邯鄲に狂いが生じた。ああそれで? 結果、貴様らにどんな変化を及ぼそうが、俺のやることは変わらない。  そもそも、貴様」  つ、と顎を軽くしゃくって、聖十郎はキーラを見据えた。 「説明しろなどと抜かしていたが、まったくその行為に意味はない。なぜならここで俺が何を言おうと、貴様はそれを覚えることが出来んからだ」 「なに、それはどういう意味だ」 「この邯鄲は、我らの主たる盧生が八層を超えるか、もしくは死ぬまで何度でも繰り返し紡がれます。その際、前回の自分が何をやったかという記憶は一切継承されません」 「つまりのォ、夢に入る前から把握しちょった設定以外、ここで何を知ろうがその都度ご破算になるんじゃわい。それは鍛えた夢の程度もまた然りじゃ」  つまり、ループが起きるごと皆が白紙に戻される。記憶然り、技然り。それは歴史の分岐を数度に渡り体験するという邯鄲の性質上、ごく当然のことと言えた。  最初から知っている歴史では分岐の選択が意味を成さない。よって持ち込める記憶は、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈場〉《 、》〈所〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈大〉《 、》〈元〉《 、》〈の〉《 、》〈設〉《 、》〈定〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。  自分が夢を見ながらループしているという知識はあっても、それが何度目の旅で前回はどんな道を歩んだか……その詳細を知ることは出来ない。  ゆえに、ここでキーラへ何かを説明することは無駄と言えた。すればこの場に限った理解を得ることも出来ようが、次回、次々回では忘れている。  それは同じ説明を、そうとは知らずに何度も重ねかねない所業なのだから無様な徒労だ。聖十郎ならずとも馬鹿馬鹿しいと断ずるだろう。 「よって貴様は、最初から盛大に出遅れている。何を思って乱入してきたのかは知らんし、また興味もない。それを聞いたところで、俺も覚えてはおられんからな。  辰宮に神祇省、貴様らもだ。俺の手際に文句をつけたいのなら好きにしていろ。だがそこについての話し合いなど、何の意味も持ちはせん」  理解も対策も、次の周回では等しく忘れているのだから。そして、最初の一周目ですべての片がつくだろうとは、流石の聖十郎も思っていない。 「要は、これが邯鄲だ。真実は夢のごとく、一期一会も泡のごとくよ。〈現〉《うつつ》の感覚を捨てきれんようでは二周も保たずに発狂するぞ」 「第一、この今とてこれが一周目だという保障はないのだ。俺たち全員、そう思いこんでいるだけですでに百周ほどしているのかもしれんだろう。  ゆえに茶番よ。貴様らと話すことなど何もない」  言って、彼が席を立とうとしたときにそれは起こった。 「いいや、これが一周目だよセージ。そこは僕が保障しよう」  瞠目する四人の中央、燭台が点っていた空間に拳大の穴が生じた。それは見る間に巨大化していき、割れた円卓を内に巻き込みながら一人の男を吐き出した。  いいや、正確には一柱と呼ぶべき存在を。 「やあ、不躾な訪問で申し訳ないね。だが必要を感じたから参上させてもらったよ。  セージ、それに他のみんなも、我が主からの伝言がある。聞いてほしい」  何億もの羽虫が飛び交っているような声で笑いながら、それは告げた。 「今、この場においてのみは例外とする。だから存分に語り合え、とさ」 「……なに?」  闖入者の伝言とやらは端的だったが、それだけに意味を悟らせるのも一瞬だった。聖十郎の気配が変わる。  これまでの傲然としたものではなく、妬みと苛立ちに満ちた怒りの相へと。 「甘粕は、ここでの出来事を邯鄲の法から切り離すことが出来ると言うのか」 「みたいだねえ。なにせ史上初の盧生サマだ。現状、ただ一人の玉座なんだし、そこは相応の特権があるんじゃないかい? 夢の世界で出来ないことなんか存在しないよ。  ということだ君たち。僕もこの場に加わるから、知りたいことがあったらなんでも尋ねてくれればいい。  ああ、それよりもまず自己紹介かな? こちらのセージとはそれなりに付き合いもあるが、他は初対面だろう。僕は――」 「じゅすへる、じゃの? おまえみとォなもんが〈現実〉《シャバ》をうろつきはじめたいうのは知っちょるよ。  なんら軍に紛れて遊びまわっちょるらしいのう。戦艦一つ、オモチャにしよるらしいじゃないか。秋山が逝ってもうたのもおまえのせいじゃいう噂よ」 「時期的に、直接なものではなかったのかもしれませんがね。何にせよ、あなたが甘粕大尉の影として数年前から動いているのは知っています。  こうして見ると、なるほど確かに……悪い夢のような方」  そんな己の評価に対して満足したのか、無貌の男は慇懃無礼に腰を折って名を名乗った。 「神野明影――それがここでの通り名だよ。まあ覚えがめでたいようで光栄だけど、実際のところはただの奴隷さ。  なんとも破天荒な主を持って苦労している。それでそこの可愛子ちゃん」  ちらりと、複眼めいた瞳をキーラに向けて、馴れ馴れしく破顔した。 「基本、これは君のためだよ。主はフェアな男なんでね、スタートラインにハンデがついているのはつまらないんだってさ」 「ほう……」  邯鄲に持ち込め、また引き継げる記憶は夢に入る前のもののみ。  その前提がある以上、キーラは確かに不利である。彼女が事前にどれほどの知識を持ってここにいるかは定かでないが、他の三者より遅れを取っているのは確かだろう。それは先ほどのやり取りからも明白である。 「セージと、そこの辰宮さん、それから神祇省はある種の盟約をしてから夢に入った。よってこういうことになった以上、そこに改めて君を加えてからの仕切りなおしをしたいと思う。異論はあるかい?」 「ないな。だが一つ言わせてもらおう。これで恩に着せたなどと思わんことだ。  甘粕は殺す。そしてその狗だと言うなら貴様もな。 ゆえに覚えておけ、黒蝿」  神野明影というモノを指して実に的確な喩えを持ち出し、キーラは言った。 「次はない。今後私の前を飛び回れば容赦せんぞ、貴様は甚だ不愉快だ」  腐乱臭を放つ屍肉や糞便に好んで群がり、貪りながら掻き回す。これはそういうものであり、だから真っ当な生理反応として受け付けない。その点についてだけは、彼女のみならず他の者らも共有しているだろう気持ちだった。  いや、あるいは若干、違う者がいるのかもしれないが…… 「うふふ、いいねえ。悪魔は嫌われてなんぼだよ。ともあれそういうことで、場がまとまったなら何よりだ」  神野明影、及びその背後にいる甘粕正彦に対する嫌悪ないし敵愾心。  たとえ一時の仮初めであっても団結を促すなら、分かりやすい憎まれ役が必要なのは基本と言える。悪魔を名乗る身としてそれを果たせたことに満足しながら、神野は四人を睥睨した。 「実はもう〈一柱〉《ひとり》、〈盧生〉《あるじ》の夢はいるんだけどね。そいつはお話なんて高尚なことが出来る奴じゃないから勘弁してくれたまえ。  というか、あれをつれてきたら僕たち全員殺されちゃうよ。だから今後、君らも奴とは極力遭わないように気をつけたほうがいい。それがこの夢を上手く乗り切る秘訣だよ」 「そりゃあ龍かい」 「天災だ。〈百鬼空亡〉《なきりくうぼう》」 「大地震の夢ですわね。ええ無論、存じております」 「面白い、〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》」  そう、ここでは“覚える”ことが出来るのだ。曰く甘粕の計らいにより、この場で得た情報は今後の周回にも引き継ぐことが可能となる。  それが意味を持つ局面。言い換えれば、そうしないと面白くない事態が起こっている。まだ表面化していないが、深く静かに不可逆的な歪みへと変質しながら…… 「そういう意味で、僕らは対立しているがある種の同志だ。ここでの秘め事は秘め事のまま。誰にも話しちゃいけないよ。  特に戦真館の子らにはね。主役が早々に裏を知ってしまうとお話がつまらなくなる。勢力相関については適度に誤解していてもらおう。  それが主の願いだし、どのみちそうなる。なぜならこれは、僕らだけの希望じゃないから。  ねえ、そうだろう辰宮さん?」 「わたくしが、ですか? なにやらよく分かりませんね」  言葉どおり、本当に意味不明だと百合香は首を傾げてみせた。神野の言葉は確かに曖昧なものだったのでその反応は正当だろうが、同時にどこか、この令嬢には面白がっているような風が見られる。  もしくは、一種の期待だろうか。キーラに死人と言われた彼女だが、今はそのような印象がまったくない。開花を待つ百合のような、瑞々しさと妖しさが美貌から匂い立っていた。 「なんでもええが、そういうことなら俺も一つ確認がある。この場の記憶を引き継げるっちゅうんなら、そりゃあ文字通り頭ん中だけってわけじゃなかろうがい。 なんせ、ここは夢じゃけえのう。今の己を覚えておられるならこういうことじゃろ」 「技もまた引き継げる。そうだな、無貌」  狩摩の言を横からさらった聖十郎の問いに、神野は肩を竦めて肯定の意を返した。 「なるほど、それも道理だな。夢とは想いで、そして記憶だ。今の私を引き継げるなら、すなわち今のすべてということになる」  現状の力量。それもまた記憶の一つだ。認識の有る無しで世界観は一変するもの。  よってこの場の四名、さらに言えばその従者たちには、本来周回ごとに強制される力のリセットが起こらない。あくまでこの今という基準だが、少なくともゼロリスタートではなくなるということ。 「であれば、さらにもう一つ旨みもあろう。おそらく階層についても」 「その通り。よく気づいたね。これで〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  君らは、一度降りたことがある層になら以後自由に行き来ができる。正しくは、主たる盧生が降りた層という意味だけど」  同様に、認識一つでそういう真似も可能だった。この場で得られる権利を自覚することにより、出来るという意志が夢の法理を超えさせる。 「だいぶ反則的ではあるけどね。まあ〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈陰〉《 、》〈で〉《 、》狂い気味な設定なんだ。僕の主も認めているし、こうなればチートを楽しむのも悪くないだろ」 「ああ、その点を言えばセージ。君は主の眷属なんで最初から持っている権利だったね。これでそういう利点が消えてしまったのは不満かもしれないけど、そこは許してくれると助かるな。  だってほら、甘粕正彦ってああいう人じゃん? 僕も色々大変なんだよ」 「構わん。その程度、ハナから切り札になるとは思っていない。条件が同じなら勝つのは俺よ。   俺は、俺が得るはずだった盧生の資格を奪い返す。それが成れば貴様らなど――」  狩摩、百合香、そしてキーラ。各々の立場や方針、力量の相関はともかく柊四四八の眷属として存在している者たちに、聖十郎は断言した。 「残らず夢から消え去るのみよ。いや、なんとなれば俺の眷属にしてやろうか。すべて奪い取ったうえでの道具としてな」 「はッ、それだよ。私はそれが知りたかった」  傲岸不遜な物言いに、我が意を得たりと仰け反るキーラ。癇症な彼女としては激昂してもおかしくない状況だったが、獲物を前にした肉食獣のように笑っている。  そのまま舌なめずりすらするかのごとく、聖十郎へ言い切った。 「私もまた盧生になりたい。迂遠な探り合いは好かんのでな、こちらもまた言わせてもらおう。  柊聖十郎、貴様がその法を知っているならそれでいい。その言質が取れただけで満足だ。いずれ必ず奪ってやろう。  忘れるな、略奪は牙持つ者の特権だ。すなわち我らにのみ許されたもの」  言って、立ち上がったキーラは踵を返した。外見からは想像もつかない重量の何かを引きずりながら去っていく。 「皆殺しだ。それまで震えて待つがいい。  ふはは、ははははは――――」  残響する咆哮のような笑い声。その余韻が消え去るまで等しく無言の一同だったが、やがて神野がぽつりと言った。 「困った子だね。ありゃ面倒だ」  極めて単純。そして直情。愚鈍とさえ言える率直さは、もはやケダモノめいている。ある意味御しやすそうではあるものの、正面から叩き潰すのはおそらく至難の業だろう。 「各階層の突破条件。そこらへんの話もしようかと思ってたんだが」 「まあ、どうかいの。一概にあれがアホとは言い切れんかもしれんで。ノリと直感いうのは大事なもんよ。  なぜなら、じゅすへる。おまえの話ィずっと聞くんもよろしゅうないわい」 「そうですね、口車に乗せられそうな気がします」  神野の仕切りに虚偽はなくとも、結果意図していることは間違いなく碌なものではない。それは誰もが分かっていたから、キーラは早々に去ったのだ。 「しかし、彼女が愚かなのは確かでしょう。眷属の身で我らの盧生に対抗しようという方針がもう狂っていますし、あれをどうにかするのが何層かの条件になるのではないですか?  たとえば、そう、察するに五層あたり。ちょうど露西亜との戦が起きている時代ですし、彼女らを撤退させるのが条件なら嵌るというもの」 「ま、そんな展開もあるんじゃないかい? そこはこの一周目を楽しみながら見極めてくれよ。  僕の話を聞くのが危険と考えるなら、これ以上はあえて言わんよ。六層、七層の突破条件はそっちにとって明白だろうし。  そこも基本、周回ごとに変わるはずではあるんだが、もしかしたらその設定も狂い始めるかもしれない。何せ空亡だっているからね、でかすぎる脅威は不変性を生むものさ」  曰く誰かさんのせいで乱れ始めた邯鄲の夢。その影響はこの段階でも多岐に渡っている。  予期せぬキーラたちの参戦により、甘粕の計らいで周回リセットがすでに崩れた。そのうえ各層の突破条件まで、変動するのか固定化するのか分からぬと言う。 「であれば、四四八さんたちには〈条件〉《そこ》をどう告げるべきか……ああ、面倒ですね。現場の判断に任せましょう」 「どのみち、彼らはここでの情報を知り得ないし覚えられない。ならば言うもよし、言わぬもよし、適当に告げるもよし……と。やれやれ、なにやらわたくし、悪女になってしまいそうです」 「あんたの面倒なところはそのへん自覚がないところなんじゃが……まあええわい。後は臨機応変っちゅうやつじゃろう。  〈神野〉《こんな》に賛同するわけでもないが、俺は俺で楽しませてもらうとするでよ」 「で――」  ひと段落ついたと思ったところに、それまで黙っていた聖十郎が口を開いた。己以外を塵芥と断じている彼特有の視線を神野に向けて、短く問う。 「貴様はどうなのだ?」 「どう、とはセージ?」 「俺たちの〈記憶〉《すべて》はこの場に限り引き継がれる。それはいい。だが貴様がそこに当て嵌まるのか、明白にしろ」  それは今後の情報戦を見据えたうえでの台詞ではない。どこまでも柊聖十郎という男らしく、自分の風上に立つやも知れぬ存在を許せないだけだった。  己が知り得ないことまで神野が知ってしまう可能性。間抜けのごとく無知を晒して走る自分を、嘲笑いながら見る視線。そんなものをこの男は許容しないし、してはならない。  もしもそんな事態が起こるなら、聖十郎は邯鄲のすべてを引っ繰り返しにさえ掛かるだろう。もとより彼が築き上げた法なのだ、簒奪者たる甘粕の走狗を対等な同盟者などとは見ていない。 「俺にとって、世界は俺と、俺に使われる道具しか存在せん。知っているだろう。 貴様は何だ? 答えろ無貌」  ゆえに、そうした柊聖十郎という男のことを、この悪魔はよく知っている。黒く眩しい太陽を仰ぐように、愛しげに目を細めてから濡れた声で返答した。 「友達だよ。ああ、愛してるんだセェェェジ」 「そんな君が嫌がることを、僕がするはずもないだろう。契約は守るさ、君が君であれるように出来ることは惜しまない」  つまり、と一呼吸置いてから続ける。鬼畜外道がそのままらしく突き進めるよう、聖十郎が容認する関係を演出するのが必要ならば。 「僕も君と同程度の知識しか持たない。そうしよう」 「本当のところを言うとだね、僕はなんでも知っているのさ。だって甘粕正彦の夢だから。  けど、それが君にとって不快なら慎もう。忘れた振りなら簡単に出来る」 「振りか?」 「振りだよ。だがそれは真だ」  神野明影は人に非ず。悪という概念に皆が寄せる、無数の〈理想〉《ユメ》が寄り集まった蝿声である。よってどのように己を見せるか、その変化は自由自在。  忘れたことにしてしまえば、本当に忘れることも可能だろう。 「ただし、君が求める場合は思い出して役に立つよ。でないと友達甲斐がないだろう。道具にしてもそこは同じさ。  そういうことでいいかなセージ? これでも気に食わないなら文句は主に言ってくれよ、僕のせいじゃない。  ああほら、君が駄々をこねるから他が引いちゃってるじゃないか」 「いいえ、なかなか興味深いものでしたよ」 「とりあえず、薄ら寒い衆道趣味なら他所でやれぇや。お嬢にゃ刺激が強すぎるわい」  呆れたように煙管の紫煙を吐き出しつつ、狩摩もまた席を立った。 「話はこれで終いじゃの。んなら甘粕に伝えとけや。おまえが何をどんなんしようと、最後に笑うのは俺じゃとの」 「では、わたくしからも一つだけ」  続いて百合香も立ち上がり、控えめだが妖艶に笑って言った。 「もしかしたなら、大尉殿に尽きせぬ感謝をすることになるやもしれません。彼が存在してくれたこと、わたくしがこの夢を歩むことになった発端として」 「ありがとうございますと伝えてください。そのように思うかもしれぬ予感が今、していますから。  この先、直接言える機会が訪れるとは限りませんので」 「了解した。伝えておくよ、ご両人」  再び慇懃に腰を折って、神野は去って行く二人を見送った。  そしてそのまま、顔をあげずに付け加える。 「まずは四層突破に注力してくれ。そこだけは常に不変だ」 「何が起きた時代かは、当然のこと知っているよねえ。きひっ」  にやにやと、蠢く蛆虫の群れのように。蠕動する無貌を歪めながら神野は嘲り笑い続ける。この場に彼の主がいればこう言うだろう。  輝く勇気を点すためには、挫折と絶望を経ねばならない。今日び、一概には賛同されぬ向きもあるが、甘粕正彦はその普遍性を信じている、と。 「なあ、セージ?」 「くだらん」  この場にいない己が盧生を睨み殺すように闇を見据え、聖十郎は悪魔が思い描いているだろう喜劇を尋ねた。 「結局、この狂いとやらで戦真館の餓鬼どもはどうなるのだ?」 「ああ、それはだね」  なんでも知っているが忘れている。だが求められれば思い出すと先ほど自分で言った通り、神野は友の問いに返答した。 「あの子らは、二周目以降にすべてを忘れちゃうんだよ。  だから〈一周目〉《ここ》は、なんでも有りの無法地帯だ。普通じゃ出来ないこと、有り得ないこと、そんな真似はしちゃいけないって誰もが思うことをやれちゃうんだしやらせてあげよう! だって忘れちゃうんだから!  ああ、頭が痛い。思い出せない。おかしいな、どうも変だぞ。僕は私は誰だっけ? 戦の真は何処へ行った?  うふふっ、きひははははははははは―――いいねえいいねえ! 見たいんだろう? いわゆる黒歴史っていうやつをさァ!」  そこで、ぐるりと目玉を反転させつつ神野は言った。聖十郎でも、去って行った百合香たちでも、まして四四八たちでもない者らへと。 「なあ、聞いてるのかよ。僕は〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》に言ってるんだぜ。  見たいんだろう? 知りたいんだろう? だからこんなことになったんだって、理解したならぐちゃぐちゃ言うなよ。  ただ、ありのままを見て、感じろ」  因果?  理屈?  人格?  善悪?  おまえの世界はおまえの形に閉じている。  ならば己が真のみを求めて〈痴〉《し》れろよ。 「好きなように、何とでも思え」  そうして、今夜の夢は幕を閉じた。  何かが微妙に、だが確実に軋みつつ……  それは下劣な太鼓とフルートの調べに乗って。  ぐるぐると、回る回る万仙の陣。 「ごちそうさまでしたっ」 「はいごちそうさま」 「ごちそうさまです」 その夜、いつものように夕食を食べ終わると、母さんはてきぱきと片づけを始めだす。基本的に色々と抜けている人だけど、こういうところは流石に主婦暦が長いだけあってそつがない。 「あの、前から思ってたんですが、自分の食器くらい自分で片付けますよ恵理子さん」 「ん、そんなのいいっていいって。これが私の仕事なんだから取らないで」 「それに二人は、どうせこの後いつものように出るんでしょ? 若い人の時間を取っちゃうのは好きじゃないの」 「それは、まあ……そう言ってくれるのは嬉しいんですが」 「大変ねえ、文化祭のお稽古も。だけど私、楽しみにしてるんだからそっちを優先してちょうだい」 「ね、四四八。当日は剛蔵さんと一緒に観に行くからね」 「分かったよ。期待を裏切らないように頑張るつもりだ」 「ほんとにねえ。聖十郎さんも来れたらよかったのに」 と言いながら、三人分の食器を持って台所に向かう母さん。そのまま鼻歌などを歌いつつ、洗い物を始めている。 その背を目で追い、石神は小さな溜息を漏らしていた。 「なんだかこう、結構な罪悪感を覚えてしまうな。仕方がないこととはいえ、恵理子さんのような人に嘘をつくのは忍びない」 「その点君は、わりに堂々としているよな四四八くん」 「意外か?」 「少しな。だが母親に対する男子とは、概してそういうものかもしれんと思っている」 「私の母は早世したから、羨ましいような気がしてちょっと色々と複雑だが」 こいつの家庭環境については俺も少なからず興味を持っているのだが、そのあたりについてはまたの機会にしておこう。母さんに嘘をついてはいるものの、忙しい身であることだけは本当だ。 「よし、じゃあそろそろ出ようか。あれからまだ二日しか経ってないし、流石に何もないだろうが、それでも警戒は怠れない」 「ああ、けどその前にちょっといいか? おまえに訊きたいことがある」 「ん、私に? なんだい、また改まって」 浮かしかけた腰を再び戻し、きょとんと見つめてくる石神。その態度からして、こいつは気づいてなかったのかもしれない。 なら俺の気のせい……であったらいいんだが。 「今日、学校の雰囲気が少し妙じゃなかったか?」 「妙? たとえば?」 やはり、こいつは何も感じなかったらしい。育ちがら、そういうものに一番敏感であろう石神が気にしてないという時点で、俺も自信がなくなってきたが、一度言い出したことだから最後まで口にしてみる。 「なんと言うか、視線かな。俺たちを見る他の奴らの態度に違和感があった」 「どこがどう、とは言えないんだが、強いて表現するなら何かを期待されてるような……」 しかも、あまりいい意味でのものじゃない。好奇と警戒が入り混じったような視線。 「まるで、そう、近いうちに俺たちが犯罪でも犯すかのような。それを待ってて、見逃さないようにしている、みたいな……」 「パパラッチというやつか?」 「古いな、おまえは」 2テンポくらい語彙の選択が遅れている。極端な田舎育ちだからしょうがないのかもしれないが、しかし言い得て妙でもあった。 まるでワイドショーの記者に張り付かれている芸能人。そんな存在にでもなったかのような感覚だ。 「ふーむ、だが有り得るかもしれないな。実際君らは有名人だし、動向を追われているとしてもおかしくないだろ」 「私が感じ取れなかったのは、きっと部外者だからじゃないかな。甘粕事件に石神静乃なんてキャラは登場しないし」 「何か今は、そういう夢が流行っている。いや、流行ろうとしてるんじゃないだろうか」 「なるほど……」 その可能性は確かにあるか。だとしたら由々しい事態だ。 まさか俺たちの人格が弄られるようなことはないだろうが、曰く二次創作の矛先が直接こちらに向き始めているのかもしれない。 「昨日から、歩美が学校の裏サイトで情報を募り始めているみたいだし、今夜はそのへんのことも確かめてみよう」 「じゃあ、行くぞ石神」 「よし、分かった。なんにせよ、一層締めて掛からないとな」 「恵理子さん、行ってきますっ」 「はーい、気をつけてねー!」 そうして今夜も、俺たちは悪夢を追うため夜の鎌倉に身を投じる。それが一歩間違えれば死にかねない危険なものだと分かっているけど、傍らの石神はむしろ上機嫌そうであった。 理由はこれまでの人生で培った慣れであり、性格でもあるんだろう。だがそれ以上に、一つの事実に因るものだということを俺は知っている。 「どうした、そんなまじまじ見てきて」 「なんでもない。こっちのことだ、気にするな」 一昨日、悪夢と対峙した修羅場で、こいつが我堂に言ったことは俺の耳にも入っていた。 俺たちの仲間になれて嬉しい。ずっとずっと夢だった。 かつて、何もなければそれが一番いいと言ったこいつと、怪異が起きるのを待ち望んでいたと言うこいつ。 きっとそれはどちらも本音で、だからこそ。 「ま、おまえがいて助かってるよ」 不謹慎ではあるけれど、そんな石神を頼もしく思っているのも、俺の偽りない本音だった。 「戦真館特科生、柊四四八とその仲間たちの邯鄲第一周目を体験する夢」 「それは歴史の暗部であり、あえて語られることのなかった領域である」  そう自発的に今夜見ることになる夢のテーマを口にして、僕と緋衣さんは螺旋しながらその場所へと降りていく。  周囲には、僕らと同じく今夜の夢を体験するだろう多くの人たち。瞬く星のように明滅している彼らの精神が、ある種の期待と不安に包まれているのは容易に分かった。  なぜなら、僕も同じだから。この夢を見たいという気持ちと、見てはいけないんじゃないかという気持ちが、等しく心の中で鬩ぎあっている。  柊四四八たちの一周目。  それは結末だけなら知っているが、そこに至るまでの過程はこれまで一切省かれていた。  いったいなぜか?  見ても意味のないものだからか?  確かにそう言われたらそうかもしれない。  甘粕事件という一連において、一周目はプロローグだ。ゆえに結だけ知っていれば問題ないし、重要なのは当事者たちがそこを忘れていた事実と、再び思い出すための過程だろう。  だが、しかし僕を含め、観客というものは貪欲だ。さほど重要じゃないと頭で分かってはいるけれど、だからこそ見たいと願う。ぼやかされている部分を想像する。  仮に、もしも、たとえば、それとも。僕なら俺なら私なら――  柊四四八たちが特に語らずとも大筋の話は完結を見た以上、この一周目は言わば〈自由〉《フリー》だ。大局に影響を与えていないジャンクの集積。ならばどのような妄想も好きに描けるというものだろう。  無論、何から何まで自由勝手というわけではない。この手の問題で大事なのは、妄想の核となる事実を一つ、事前に饗されていることだ。  そして実際、僕らはそれを得ていたから。 「この一周目において、柊四四八たちは記憶を喪失していない」  いや増す期待と不安を止められない。仮に、もしも、たとえば、それとも。僕なら俺なら私なら――と、広がる心の翼は無限だった。  記憶を失っていない戦真館の特科生たち。それはすなわち、彼らが軍人の候補生としてあるがままに在れた唯一の瞬間だったと言えるはず。  甘粕正彦との決戦を前に、記憶を取り戻した柊四四八たちはある意味で歪んでいるのだ。自分たちが二十一世紀の人間だと思いこみ、そこで一生を終えた記憶を何パターンも得たうえでの復活なのだから当然だろう。  記憶、知識、そして価値観。語彙や食事の好み、服のセンスに至るまで。  体験した現代文明の影響を受け、彼らは少なからず変わったはずだ。そうでなければおかしい。  大正時代の人間が知るはずのないことを知っているし、文字通り別の人生すら経験した。その統合が、まったく新たな柊四四八たちを生んだのは間違いないと言えるだろう。  ならば、この一周目は?  それら、言ってしまえば不純物を得ていない本来の彼らはいったい?  見せろ。見たい。いいや、やめろ。夢が壊れる。  瞬く星々が合唱するようにそう叫ぶ。僕もまったく同じ気持ちだ。  見たいけど、見たくない。いいや正確には、想像できてしまうから躊躇する。目を覆ってしまうが、指の隙間から覗いてしまうのを止められない。  大正。軍人。誇張ではなく世界の危機に立ち向かうため、決死の覚悟を固めた若者たち。戦の真は千の信に顕現する。  我も人、彼も人。  その信念は揺ぎなく、僕らの時代感覚で言えば、おそらくは愚直にすら奉じていた時分の彼ら。  そこから察せられる一つのことが、どうしようもなく僕らの胸を疼かせる。 「四層、突破……」  その条件は不変。すべての始まりとなる出来事で、ここから邯鄲の夢という物語が紡がれ始めた。ゆえに何度の周回を重ねようと、誰の茶々や邪魔が入ろうと、そこだけは絶対に変わらない。  だから、皆にとって最大の興味と関心はその一点に集約された。  常に変わらない第四層の突破条件。  毎度、必ず越えなければならないその試練。  そこがどれだけ不変であろうと、この一周目においてのみは他と違う様相を帯びるのじゃないか。  なぜなら場ではなく、変わっているのは挑戦者で、人だから。  正確には、以降の彼らこそが変わったと言うべきだろうが、ともかくこれはそういうことだ。  戦真館特科生――不屈の信念と血気にはやる大日本帝国の精鋭たち。  甘さはない。迷いもない。  青さはあっても、それは僕らの時代的なものじゃない。  百年違えば別の惑星も同然だ。  ゆえに一種、異星人のように彼らは、彼らは――  あの第一期生総代のように。  〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》。 「さあ、見ていきましょう。とても興味深いことだと思うわ」  微かに嘲笑するような緋衣さんの声に引かれて、僕らはその領域へと一気に足を踏み入れた。  同時に、押し寄せてくる激烈な喧騒の念。それは僕の主観でこの夢を語ることを許してくれず、視点は神のものへと持ち上がる。  そう。  実際に神たる者が、この一連をまどろみながら夢見ているように。 「……なるほどな、そういうことか」  暴徒と化して襲い来る“同胞”たちの攻撃を掻い潜り、柊四四八は冷めた感慨を漏らしていた。事態に対する混乱の気持ちがないわけではないが、それを遥かに上回る克己心で微塵も動揺を表に出さない。  薄々、察していたことでもある。この第四層がこういう修羅場になるのではないかということ。 「まったく、百合香様もお人が悪い。事前に教えて頂けなかったのは幽雫元筆頭に対する気遣いか……いいや違うな」  己の主筋と、先達に対するそんな感想を口にして、四四八は眼前の集団へ猛然と踊り込んだ。 「教えたところで意味がない――そういうことかッ」  そして振り抜かれる両の旋棍。彼を中心に弾ける散の咒法と、それに被さる崩の解法による合一が、群がる暴徒らを一気に十人以上吹き飛ばした。  その精度は高度に調律されたものであり、一切の淀みも歪みも混じっていない。つまり、〈操〉《く》り手である四四八本人の精神にまったく気後れがないということを意味している。  今、彼が薙ぎ払った者らは同胞だ。過去に死した夢の残像ではあるものの、紛れもなく実在した戦真館の生徒たちに他ならない。彼らの無念、恐怖、絶望のほど、余さず四四八には伝わっているし、それを無視しているわけでもない。 「許せ、とは言わん。分かれとも、諦めろとも…… だが信じてもらうぞ。おまえたちは無駄死にしたのではないということ」  悲劇ではあった。哀れでもある。このような事象が過去に起きたという事実に、深い憤りを抱いてもいた。  しかし、だからこそ彼らの魂を救わねばならない。同じ戦の真を奉じた身として、これは務めだと四四八は断固決意していた。 「俺がここで斃れたら、おまえたちは何のためにそうなったという。  この〈過去〉《ユメ》、断じて無駄ではない。邯鄲の果てに大儀を成し、俺がそれを証明してやる」  ゆえに、今ひとたび死ぬるがよい。  夢中の夢へと散らすように、四四八は介錯の武を揮い続けた。凄惨な様相ではあったものの、そこに柔弱な悲愴は存在しない。壮烈な慈悲の一撃として己は夢を紡いでいると、少なくとも彼はそう信じていた。  まさに軍事的な偽善そのものではあるだろう。しかし、彼が培ってきた現実とはそういうもので、それが正義とされる価値観に生きている。ゆえに迷いなど抱くはずもなし。  そうでなければ、戦真館の特科総代は名乗れない。  どだい相手はもとより死人。そうなるべき運命だと、すでに決した者たちである。ならば放置していても勝手に喰い合い消えるだろうと、そんな手抜きは有り得なかった。  先に自分で言ったとおり、彼らの死が無駄ではないと証明するため、己が手を汚さなければ意味がないのだ。そこを恐れていては始まらないし、何より侮辱になるというもの。  そうした面で、辰宮百合香がこの〈層〉《じだい》における詳細を話さなかったことにも暦とした意味があった。彼女の本心がどうだろうと、状況はそのような様相を見せている。  初代の戦真館は“事故”によって焼け落ちた。その際、唯一生き残ったのが幽雫宗冬。  ゆえに四四八らもその事故と相対し、生き残ってみせねばならない。  と、事前に判明していたのはその程度。事故とやらの真相は不明と煙に巻かれたし、当事者であった宗冬は百合香の許しがなければ誰に問われようと口を割らない。  そうした状態で挑んだこの場、なるほど事故ではあるだろう。ただし、極めつけの人災だ。  物部黄泉とやらの演説を聞いているときにもしやと思った。  現実で自分たちが経験したのとよく似た処置を施され、夢に入れと言われたときは半ば以上確信した。  これは邯鄲の夢の失敗劇。自分たちが身を投じた完成品に至る途上の、実験による暴走事故なのだろうと。  そして結果、このような修羅場を体験させられている今があった。これを生き残ることが第四層の突破条件。  だから、事前情報を知らされなかったことには意味がある。対策は立てられず、心構えも正確に持てず、いきなり放り込まれた悪夢に対する胆力、洞察、実技能力に順応力。  それらすべてを、高密度な死線の中で問われるのだ。業腹だが、歴史の追体験として正しい流れと言えるだろう。  そもそも、仮に教えられていたところで、この試練が有する本質は事前に対策など立てられるものではない。そこを四四八は、とうの昔に察している。  かつて、生き残ったのは宗冬一人。  その意味するところは単純明快。  過去の死者だろうと、そこに投入された生者だろうと同じことだ。場が要求するのはただの数字。  すなわち、最後の一人にまで絞られなければ、この第四層は終わらない。 「――――――」  己の周囲にあった目につく死者を残らず再殺し尽くしてから、四四八は残心を取り息を吐いた。これで大方はやったはずだが、むしろここからが本番なのだと知っている。  最後の一人という数字が求められている以上、彼と共にここへ入った者たちとて例外ではない。  相手は仲間で、同志で、友人だ。戦真館の厳しい訓練を共有し、切磋琢磨してきた彼らは兄弟とさえ言っていい。  それと戦い、斃さねばならなかった。今まで四四八が片付けてきた死者たちも、そうした悪夢と対峙したのだから甘いことを言う資格はない。  無論、だからといって簡単に割り切れるものではないけれど。  これは呑まねばならない痛みだった。軍人の本質とは死の肯定。まず何よりもその覚悟が要求される。 「――が、問題も一つあるな」  務めて平静な声を意識しつつ、四四八はそう呟いた。 「俺は盧生だ。俺が死ねば、俺たちの邯鄲はそこで終わる」  眷属ならば盧生がいる限り夢において不死身だが、主たる〈盧生〉《もの》は根幹であるがゆえに遊びが効かない。現実同様、死ねばそこで終わりである。  それを踏まえたうえで、彼の仲間は彼と戦うことが出来るだろうか。最悪、自滅すら及ぼす行為を許容できるか? 「愚問だな。そこまで日和った奴らじゃない」  眷属は夢において不死。ならば四四八が仲間を討つことに本質的な意味はなく、そこに殺し殺されることを覚悟しろという、戦の真は存在しない。  では、その不平等についてどう帳尻を合わせるか。答えは簡単。そのための盧生と眷属の関係である。  盧生が死ねば、連座で眷属も十中八九死亡する。その事実をもって、双方に死という天秤が成立するのだ。些か歪であるものの、彼らならではの関係性と言えなくもない。  友人、兄弟、だからこそ―― 一蓮托生に生死を賭す。  我も人、彼も人だ。おまえの命は俺の命。  辰宮なり神祇省なり、四四八の眷属は他にも複数存在している。  それらもすべて、この場にいなくとも帰趨に巻き込まれてはいるのだから、百合香なり狩摩なりに恨み言をいうのも筋違いだ。彼らは彼らで、ここに等しく死を賭している。  四四八と相対する者が、自滅を恐れてわざと負けるということは有り得ないと信じていた。そのような手抜き、何より四四八が許さないし、彼の仲間たちもそうだろう。  むしろ、眷族に負けて諸共消えるような夢ならば、どだい甘粕正彦に勝てるはずなし。そのような盧生は盧生に非ず。  よって、求められるのは柊四四八による全勝だ。少なくとも、その結果を目指さねばならない。  仲間に刃を向ける局面など、可能な限り他の者らに味わわせたくはなかったから。  それが、この場で柊四四八が己に許した、唯一の甘さと言えるものだった。 「よう、ここにいたのか。捜したぜ」  そして、彼がそんな結論へと至ったように、他の者らも当然様々な結論へと至っている。 「晶か……なるほど、おまえらしい」  真っ先に〈盧生〉《よしや》を狙う。それもまた選択の一つだ。  晶は、己がこのような場にいつまでも耐えられないと知っている。二度も三度も、仲間と戦える性ではないという自覚があるのだ。  ゆえに一度。だけどそのぶん、芯から本気でやれるたった一度きりの勝負。  結果、己が負ければそれでよい。仮に勝って、すべてが木阿弥になったとしても、それは他の仲間たちが傷つけ合う時を瞬間的に終わらせられる。  己一人が、破滅の引き金を引いたという十字架を負って。  癒すのではなく、傷つけることでしか動きようのない局面ならば、せめて最短、最速、最小の痛みで片をつけることが出来るように。 「まあ少し、情けなくて汚い選択だっていう自覚はあるよ。  なあ四四八、おまえはこんなあたしを軽蔑するか?」 「馬鹿を言え。言っただろう、おまえらしいと」  仄かに笑って、四四八は静かに構えを取った。そのまま偽りない武気を全身から滲ませて、しかし声は対照的にどこまでも優しく、感謝の念すら込めて告げる。 「初めにおまえが来てくれて助かった。お陰で以降も引かずにやれそうだよ」 「俺が、一番遠慮なしに絡めるのは結局のところおまえだからな」 「ははっ、なにそれ。凄い偉そうなこと言ってるぞおまえ」  彼ら二人は幼なじみ。それは現実の、つまり大正時代における関係として、四四八と晶だけは初めからそういう間柄だったのだ。  親の代からの付き合いである。父を知らない四四八は剛蔵を、母を知らない晶は恵理子を、共にそれぞれの父母同然に深く慕い、育ってきた。  よって、踏ん切りをつけるためにも最初の相手は〈晶〉《おまえ》がよい。そんな四四八の台詞に苦笑しながら、晶もまた臨戦態勢に入った。 「その、もうあたしに勝ったみたいな言い草はなんなんだよ。言っておくけど、全然負ける気はないんだからな」 「面白い。おまえ俺に、何かで勝ったことがあるのかよ」 「そういう煽りは効かねえって」  慣れている。気にもならない。  なぜなら真奈瀬晶にとって、柊四四八とは競う追いかけるという対象じゃなく…… 「あたしは、鈴子じゃないんだからな!」  いつも一緒にいる大事な人。生まれたときから、きっと死ぬまで。  だから、それは晶にとっても、遠慮なしに全力でぶつかれる相手は四四八しかいなかったのだ。 「ぁ――――」  文字通り、それは一閃。四四八と晶の戦いが始まったのとほぼ同刻に、もう一つの勝負は至極あっさりと終わっていた。 「水希、あんたは……」  勝利したのは我堂鈴子。しかし彼女の顔に、なんら達成感のようなものは認められない。血の海に伏す水希を見下ろし、ただやり切れない苛立ちを滲ませている。  仲間と戦い、これを斃したことに対する忸怩たる気持ちは当然あった。しかし割合で言うと、それは全体の一割にも満たない。 「どうして、ちゃんとやらないのよ……」  手を抜かれたから。尋常な勝負じゃない。水希は本気で自分と戦おうとしなかった。  その認識が、鈴子を果てしなく苛立たせている。それは少なくとも彼女にとって、錯誤など有り得ない絶対の解釈だった。 「あんたが、こんな簡単なわけないでしょう。  ねえ答えなさいよ。どういうつもり? いつもいつも……馬鹿にしてるの、私たちのことを」  問いかけても、答えは無論返ってこない。もはや水希は、この場において脱落した者。ゆえにいくら眷属の不死性があろうとも、四層の突破が成されない限り起きあがってくることは有り得なかった。  そして、突破に失敗すればそのまま終わりだ。死は現実として、ほぼ間違いなく世良水希を彼岸の彼方へ押し流してしまう。  それでいいのか? 無念じゃないのか? 命を懸けた試練だから、結果がどうなろうと全力で臨むべきだろうに、なぜそうしない。  本当にいつもいつも……いつもいつもだ。先ほど口に出して言った通り、鈴子が認識している水希の怠慢はこれが初めてなどではない。  反論する者はいるだろう。それこそいつも、世良はこんなものだったろうと、晶や栄光、淳士あたりは言うはずだ。  しかし、鈴子は違うと見ている。他にも四四八は見抜いているかもしれないし、歩美も確率的に高いだろう。  ともかく一定の目端が利いて、俯瞰的な視点を持つ者。加えて言えば強い上昇志向や自負心など、要は指揮官的な素質やそれに近い何かを持つ者なら気付くはずだ。世良水希の〈歪〉《いびつ》さに。  神童――それが水希の通り名であったから。過去形なのは、そう呼ばれていた時分の彼女を鈴子は知らないからである。  上級生徒として、自分たちが入学する前から戦真館の徒であった水希。彼女が現在、鈴子たちの同輩なのは、家庭の事情によりしばらく学び舎を離れていたからだと聞く。  それは本来、即座に放校処分となる行いだ。軍人という規律第一の人材を育成する環境で、その手の個人的振る舞いは許されるものじゃない。  が、しかし水希は例外だった。そのような扱いをされている時点で、彼女が特別なのは議論の余地なしと言えるだろう。家格の高い出自というわけでもないのだから、原因として予想されるのはただ実力。  世良水希を逃すのは惜しい――それが上層部の判断であったのだろう。  持ち前の性格から、鈴子はそんな水希に早くから目をつけていた。有り体に言えば競争心で、それは四四八に対しても同じこと。  競い合い、比べ合い、高め合う。狭義に言えば断然敵だが、広義に言えば多大な期待を寄せる仲間。信頼と尊敬の念を向ける同胞として、共に切磋琢磨したかった。  しかし、そんな鈴子の思いは、水希に限り常に裏切られ続けている。  こんなものか。それで終わりなのかおまえは。いいや違う、断じてそうじゃないだろう。  期待をかけすぎた反動として、無駄に失望しているだけなのかもしれないという気持ちは鈴子になかった。なぜなら節穴ではないという自負がある。  水希の立ち居振る舞いに、抜き難く感じる遠慮。言い換えれば余裕。または白々しさ。  言動の端々から、自分はこの程度だと己や周囲に言い聞かせているような一線引いた態度は見逃さない。鈴子はその手のものに敏感な鼻を持つ。  あるいは水希本人、それは無自覚なのかもしれないが……  何か耐え難いことでもあって、自ら力の出しかたを忘れているのかもしれないが…… 「その様で、それでもあんたは特科にいる。見え見えなのよ、後でしっかり白黒つけてやるから、覚悟しなさい」  言って、薙刀を払った鈴子は踵を返した。  そう、後で。この階層を突破してから。  それが己の敗北を意味しているということも分かっていたから、知らず自嘲が漏れてしまう。  なんとも難儀な条件だ。勝ったら失敗になるなどと、水希に対する皮肉が効きすぎている。  だが、わざと負けるなんてことは到底出来ない。それで仮に上手くいっても、我堂鈴子の支柱が砕ける。以後、自分は木偶の坊になってしまうことだろう。 「これ以上、面倒臭い奴を柊の馬鹿に抱えさせるわけにもいかないからね。私は私のままで行く。 あいつにだけは舐められたくないのよ。負担になるなんて、冗談じゃないから」  と、言い切ったそのときに。 「よく分からねえが、言ってることには同感だぜ鈴子」  この日、彼女にとっては二人目の、そして絶対に容易くはない障害が現れていた。 「舐められたくねえ。ああ、そうだな。ついでに言やあ、おまえと柊をやらせるわけにもいかねえ」  鈴子の後方、倒れている水希にちらりと視線を向けはしたが、そこには何も言わず淳士は続けた。 「別におまえらが日和って腑抜けてるとか言っているわけじゃねえぞ。単に俺が、そりゃ気に食わねえっていうだけだ」 「あら、どうして?」  まるで津波の前の引き潮だ。あるいは噴火前の地鳴りだろうか。大柄な淳士の身体を圧するように、内から噴きあがろうとしている戦意を感じる。  だがそのうえで、鈴子は平然と訊き返した。四四八と晶がそうだったように、彼らもまた、この時代からの幼なじみなのだから。  知っている。分かっている。ゆえに阿吽の呼吸で通じてしまう。 「おまえ、あいつに惚れてんだろ。柊の野郎は知らねえが。  殴り合って固まんのは、野郎同士の繋がりだけで充分なんだよ。女にゃ女の魅せかたってもんがある。  そこらへん履き違えてると、おまえ幸せにゃあなれねえぞ。要するにこりゃ、お節介だ」  張り合いを醍醐味とする男女は何かがずれていて、一般的な枠には嵌らない関係となる。たとえば結婚、そういうところには落ち着かないと。  そんな淳士の主張に根拠はないが、奇妙な説得力も付随していた。鈴子はそれに苦笑する。 「ほんと、大きなお世話よ馬鹿」  この局面で、喧嘩を売りに来て、その理由がそんなもの。まったくどこまで、こいつは見かけに反したお人よしなのだろう。  だいたい幸せがどうこうと言っているが、そこに定型なんてないはずだ。自分らしさを貫いた結果であれば、たとえ傍から見て馬鹿丸出しだろうと納得すると鈴子は思う。  そして逆に言えば、貫けなかった結果のことは納得できない。  たとえそれが、傍目に非の打ち所がない大団円であろうとも。 「だから決裂ね。すっこんでなさい」 「ま、おまえはそう言うよな。昔から、いまいち決まんねえ奴だしよ。  ついでにもう一つ、この際だから確かめときたいこともあるんだ」  言って、両者共に構えを取る。今さらすぎるのかもしれないが、まずもって話し合おうという選択は二人になかった。  第四層は最後の一人が決定するまで終わらない。つまり裏を返せば、時間制限がないことを意味している。  だから自分たち七人、他の脅威をすべて排除したうえで膝をつき合わせ、同士討ちなどせずともすむような方法を模索する――という選択も一応は存在したのだ。実際、水希はそうしたかったのかもしれない。  しかし、解決策などなかったら? 話し合ったけど答えは出ず、結局戦わなければならなくなったら、いったいどうする?  その状況はとても危険だ。なぜなら士気が萎えている。困難で苦痛を伴う道行きは、一度逃げ場を探し求めた精神状態で踏破できない。  それは軍事常識であり、戦の真で、すなわち彼らの知る正義そのもの。  そこから外れるのは柔弱で、耳心地よいだけの奇麗事だ。返って惨禍を呼ぶだけの無様である。彼らの時代では、娑婆でさえそうだろう。  いいや――と鈴子は、淳士は、等しく思った。  そんな小難しいことではない。本音を言おう。  自分たちは、戦いたいのだ。  俺と貴様はどちらが〈偉い〉《つよい》?  その感情に支配されていることを否定はしない。  甚だ馬鹿馬鹿しくも嘆かわしいことではあるが、軍における上下とは、そのまま死を命じる者と命じられる者という関係なのだ。そこをくだらないと誤魔化すのは、気楽な態度でありすぎる。 「行くぜ」 「来なさいッ」  ゆえに賭そう。仲間だからこそ全力で。  甘粕正彦に勝てる夢を掴むために。  そう信じ抜く彼らの真は、哀れなほどに愚かしくも青かった。  魔王を打倒し得る青さとは、本来如何なるものであるべきか。  そこに思い至ることが出来ないほどに……  火蓋を切った鈴子と淳士。それと並行するかたちで、もう一方の勝負は早くも佳境に達していた。  視界を縦横に埋め尽くす帯の追跡を縫うようにして躱しながら、四四八は手近な教室に飛び込んだ。狙いはそこから窓を突き破って開けた場所に移動することだったが、しかし晶は許さない。室内は瞬く間に彼女の領域へと塗り替えられる。  その様は、まるで獲物を呼び込んだ食虫花のようだった。隙間なく教室中を覆った帯は晶の手足も同然であり、文字通り四四八の挙動は彼女の掌に握られている。 「おまえと戦う状況を真面目に考えたことはなかったが……」  これはかなり凶悪だ。意外にもと言うのは非礼に当たると弁えているから口にしないが、四四八をして舌を巻くほど晶は手強い。  まず厄介なのは武装の質。それはあらかじめ四四八が創形して渡した物だという事実を踏まえれば、まったくもって皮肉だが、今はそのことを自嘲する気にもなれない。  第一に射程の長さだ。直線距離にして約三十間――つまり五十メートル以上伸びるそれは、晶の感覚器官と連結している。救いはさほど複雑な動きをしないことだが、すべてに目や耳がついていると言っていい。  そんなものを常に八方へ張り巡らせた面制圧に、隙を見つけることは不可能だった。加えて言えば帯という特性上、物理的に粉砕できる物でもない。  重さはそれこそ薄紙同然。風に舞ってひらひらと浮遊している。ゆえに打撃は言うまでもなく、斬撃で切り払えるかも怪しかった。なぜなら薄いが、脆くはない。高度な靭性を有している。  であれば、あれをどうにかするには縛り上げられてからの勝負となろう。捕獲された状態で引き千切る。危険だが、その瞬間なら外圧に内圧で対抗できる力勝負だ。実際、四四八は自信があった。  資質的に、膂力の面で四四八を上回る者は淳士しかいないのだから。それにしたところで、破段の操作次第では凌駕できる。  よって、晶との単純な力比べに負ける要素は見当たらなかった。彼女の弱点は決定力。  癒し手として回復役を務める晶だ。それは自明なことであり、疑うべくもないと思っていたが…… 「おまえ、気付くの早ぇよ……一瞬で決めたかったのに」  苦渋を飲み込むように告げる晶の声は重かった。こんなものを仲間に向けたくなかったという思いがあるのだろう。だが、だからといって止めようとはしていない。  そう、単純な力比べならよかったのだ。それなら真っ向対処できる。  しかし当然、晶もそんな己の弱点は知り抜いていた。そのうえで策を講じないほど愚かではないということ。  今、双方決め手になっているのは解法だ。それによって状況を看破した四四八然り、彼を討とうとしている晶然り。  繭のように標的を包み尽くさんとしている帯からは、まるで帯電しているかのごとき解法の脈動を感じられた。あれに触れてはいけない。  触れたらどうなる? 〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「怖いな。読めないというのは本当に厄介だ」  邯鄲の夢を操る基本において、複数の夢を掛け合わせて使用すれば効果が上がる。しかしそれは、得意な夢同士という場合に限るもの。  どちらか一方、あるいはすべて、不得手なマイナスが入り込めば法はあっけなく乱れ始める。  具体的に言うなら反転、暴走、または不発。その内、最後のパターンはこの状況的に有り得なかった。  晶は夢を〈操〉《く》っている。その効果がどのようなものになっているかは別として。  彼女の得手は循法。それは武装の強靭さと、それが有する癒しの力として顕象される。  だが、そこに不得手な解法を重ねてきたらどうなるか。予想として、〈癒〉《 、》〈し〉《 、》〈の〉《 、》〈夢〉《 、》〈が〉《 、》〈反〉《 、》〈転〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。しかもそのうえで暴走する。  有り得るのは過回復。ないし、全感覚器官の大混乱。先の帯電という喩えに倣うなら、まさしく触れればショートを起こしてしまうだろう。  武装を操る創法。広範囲に感覚を乗せ、張り巡らせる咒法。そして前述した循法、解法。  実に晶は、このとき四つの夢を同時に使っている。並みの負荷ではないだろうし、滅茶苦茶にもなっているが、ここではそれこそが脅威だった。四四八は改めて思い知る。  真奈瀬晶が回復を失敗するとは、これほど恐ろしいことなのだと。  そして、だからこそ言わねばならない。 「おまえは必要だ。今までも、これからも―― 本気のほどは理解した。俺もそれに応えよう」  この帯に捕まったらショートするとは、何も四四八に限った話ではない。当人である晶自身も、きっと強烈な反動を味わうだろう。  なぜならここまで無茶をしているのだ、結果に対価なしということは有り得ない。それは今後の運命を左右しかねない危険だと分かる。  如何に眷属の不死性をもってしても、精神に甚大な衝撃を受けたら無事に復活できる保障はなかった。廃人になった晶では困る。  だから、これは彼女を守るためでもあり…… 「俺がおまえたちの盧生たらんとする矜持と思え」  宣言するように言い放ち、四四八は一直線に晶へ向けて疾走した。 「このッ、馬鹿――!」  それは自殺行為だ。晶はそう断言し、一気に罠を口を閉じに掛かる。速さにおいては四四八が上だが、密度的に躱しきれるものではないし距離でもない。  そう、あくまでも平面のみの話なら。  次の瞬間、踏み込んだ四四八の足が教室の床そのものを蹴り抜いた。いいや、そんな表現で片付けられる規模ではない。  まさしく、床ごと消したのだ。必然、二人は下階へ落ち始めるが、自由落下の晶と違い、最初から下方にベクトルを向けていた四四八のほうが落ちる速度は一手速い。  それにより、彼は閉じる罠の口から離脱することに成功した。さらに言えば、広げていた帯を凝縮させたことで晶は無防備となっている。 「あっ―――」  よって、いち早く下階へ着地し、続けて落ちる晶の背後を取った四四八に抗することは出来なかった。  敗因は、やはり限度を超えた夢の酷使と、その偏りにあっただろう。攻撃にのみ集中させた四つもの夢は、周囲の状況を精査する余裕を奪い去った。  双方、決め手は解法にある。もしも晶が透を使用していたら、四四八が床全面を叩き消すべく、しばらく前から足で崩を流していたことに気付いたはずだ。  しかしそれは無意味な仮定で、ここに二人の勝負は決し―― 「強かった。ああ、本当に頼もしいよおまえは」  す、と優しく労うように、四四八の手が首に触れる。 「ひとまず眠れ。心配するな、すぐに起きてもらうから」  そのまま、芸術的とさえ言える手際で頚骨をへし折った。  一切の痛みも与えず、意識ごと瞬時に刈り取る殺人技巧は精緻を極め、晶の循法性能であっても防ぎ切れない。  戦いにおいて、会心の一撃を決める要素は大まか三つ存在する。  視野の死角。意識の死角。そして機能の死角という三点だ。  すなわち見えない角度から、思いもよらぬタイミングで、構造上躱せない体勢の敵を狙い打つ。このうち二つがそろえば相手にとってほぼ絶望であり、三つそろえば鬼神であろうと死の河を渡る。  今、四四八がやったことは極めてそれに近かった。意識の死角については完璧と言い難い面もあったが、それでも二つ半は条件をそろえている。晶に成す術がなかったのも当然と言えるだろう。  もっとも、そんな己の技を四四八が誇っているとは限らないのだが。  晶に何も言い遺させない即殺は、無駄に苦しませないための気遣いがあったのだろう。しかし同時に、聞きたくないという思いもあったのではないか。  この状況で恨み言を述べる女ではないと知っているし、むしろ励ましさえするだろうけど。  それを聞いて、彼は平常を保てるのだろうか。  まだ続くこの試練を、乗り切る強さの維持ができるか? 「……………」  答えは不明で、ただ数瞬……崩れる晶を抱きとめながら無言でいる四四八がこの場のすべてだった。  だからこそ――  飛来したその一閃は、完全に想定の埒外と思われた。  四四八の後方、いきなり〈壁〉《 、》〈を〉《 、》〈飛〉《 、》〈び〉《 、》〈越〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈出〉《 、》〈現〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈弾〉《 、》〈丸〉《 、》は、まさしく鬼神すら穿ちかねない。  視野の死角。意識の死角。機能の死角。  それら三つの条件を、これは完全に満たしている。  狙っていたのか。最初から真に必殺できる瞬間を。  ならば四四八は、ここであえなく死の河を渡る?  否―― 「歩美か」  なんと彼は、振り向き様にその弾丸を受け止めた。  〈晶〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈体〉《 、》〈を〉《 、》〈盾〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》。 「来ると思ったぞ。おまえがこの瞬間を逃すはずはない」  三つの条件はそろってなどいなかった。成立していたのはせいぜい視野の死角だけであり、それにしたところで狙い目が背後しかないとなれば見えていたも同然。  晶を抱いていたのは悼んでいたからではなかったのか。むしろ誘いで、狙撃手を燻り出すための演技にすぎないものだったのか。  機能の死角など存在せず、ハナから盾にするための予備動作に入っていたとしたらあまりに冷徹。もはや悪辣とさえ言える戦術だろう。晶の血に濡れながら、四四八の表情は鉄のように動かない。  そのような心の揺れを、彼は己に許していない。  求めているのは、柊四四八による全勝だから。  それが唯一、ここで己に許した甘さだから。  晶の死体を盾にした。その事実をもって歩美にも仲間を討った痛みを味わわせたのではないかと言うなら、それは違う。  死体は死体。物にすぎぬからというお定まりの理屈ではない。 「気にするなよ。そして勘違いもするな。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》」  決着の瞬間を狙い済ましていた歩美に、晶を見捨てたという責任はない。  この場において、真奈瀬晶の命を奪ったのは己である。その事実に対する所有権を主張するため、俺はこいつを好きに出来ると見せ付けたのだ。 「うん、まあ……四四八くんの言いたいことは分かるんだけど」  位置は掴めず、四方に反響するような歩美の声。弾ではなく、声を咒法で飛ばしているのだろう。ある種の空間跳躍すら起こすその手並みを、四四八はよく知っている。  その声が、告げた。 「そっちこそ気にしないでよ。だってわたし、もう一人仕留めちゃったもん」 「……なに?」  瞬間、まさしく四方から弾丸が出現した。先と同じく、距離というものを一切無視して。  それはたった一人の射手による十字砲火。  とはいえ、そこで討ち取られるような四四八ではない。  言葉によって虚を衝かれたのは否めなかったが、知っている能力に手もなく嵌るはずもないだろう。  全身を投げ出すように転がって回避すると、廊下に出た四四八は一気に駆ける。ともかく立ち止まっていてはいけなかった。歩美を相手にしている限り、行動の遅滞は死を招く。  なぜならこの狙撃手には、射線や遮蔽物という概念が存在しない。その気になれば、天井から垂直に撃ち抜く真似さえしてくる相手だ。伏せて様子見などしていたら、瞬く間に蜂の巣となってしまう。  つまり屋内は分が悪い。動き回るのに限度があるし、こちらにとっては死角と遮蔽物の不利がもろに出る。  歩美のように咒法で視野を飛ばすことも不可能ではないが、捜し回っている間にやはり蜂の巣の運命だ。現状、一方的に捕捉されていることを忘れてはならない。  加えて言うなら、戦真館でもっとも戦上手なのは歩美である。四四八はそう断定している。  ゆえに突き崩すのは容易じゃなく、読み合い騙し合いは厳しいと自覚していた。ならばどうする? 「決まっている。野蛮にいこう」  盤上向かい合っての指し合いでは勝負にならない。それごと引っ繰り返す力技が必要だ。  なので、四四八は思考を捨てた。移動は止めないし警戒も怠らないが、後は反射でやると決めている。  通常の狙撃手を相手にする際、開けた場所は死地であり、それは歩美を相手にするときも変わらない。しかし、さらに輪をかけて死地なのが屋内なのは述べた通り。  だから、易きに流れることこそ特級の死地である。よって屋外にはあえて出ない。  そういう常識以前の選択を採っただけで、他は何も考えない。どだい何をどうしようが、歩美は己の裏を取る。ならばそのとき、狩るか狩られるかの勝負をするだけだろう。  それはある意味、この上ない信頼の表明でもあった。必ず出し抜かれると覚悟している者に対し、会心を決めるのは歩美にとっても甚だ困難。  彼女の立場にしてみれば、四四八に見つけられたら終わりである。面と向かっての殴り合いでは、勝てる理屈を持っていない。  相手は無作為に校舎を走り回っているだけとはいえ、長引けば位置を特定される危険が跳ね上がる。これは時間との戦いだった。  速やかに、かつ完全に、必殺の状況を整えねばならない。  本能的な警戒網にすべてを託して、思考放棄という四四八はさながら鉄の獣だ。ロジックを逆手に取る歩美としてはもっともやりにくい相手と言える。  そう、〈論理〉《ロジック》。彼女がこの状況を呑み込んでいるのもそういう方程式によるものだ。  晶のようにセンチメンタルな理由ではない。四四八を必殺するという意志は確固たるもの。ただしそれと並行して、己が斃されなければいけない事実も弁えている。完全に矛盾した両立は、およそ常人に理解できないものだろう。  だが、歩美にはそれが可能だ。なぜなら彼女は、自分自身も駒のようにしか見ていないから。  こういう状況が必要だから、そのように倣って行動するのだ。スコープ越しに広がる世界はファンタジー。恐れも迷いもそこにはない。  四四八一人を残すため、たとえば他の全員が自殺するという手もあるだろう。それが正答だと結論すれば、歩美は躊躇わずに実行できる。眷族の不死性という特質に胡坐をかく意味ではなく、真の意味でもやれると思う。  だってクリア条件がそれなのだから、やらねば進まないではないか。  要は条件の達成なのだ。そのために最良の選択をしているだけ。  四四八以外が自殺するという落ちでは、きっと最良足りえない。  むしろ悪手だ。なぜなら初代戦真館の崩壊時に、そんな筋書きは存在しなかったはずだから。  歴史の追体験という意味で正しくない。そこからずれれば、おそらく途轍もない反動が来る。ルールを無視した横紙破りは、相応のツケを払わされることになるだろう。  たとえば甘粕正彦の介入然り。大龍神の降臨然りだ。  それはよくない。詰んでしまう。現段階の自分たちでは、到底切り抜けられると思えないから。  俯瞰の視点で、冷静に、己という駒を指すのだ。  それが歩美の〈理屈〉《ロジック》。〈策略〉《ギミック》。  そして生きるための〈戦法〉《マジック》だ。  連続するテレポートで重ねられ続ける銃弾は、未だ四四八を捉えていない。  しかし、別に構わなかった。〈意〉《 、》〈図〉《 、》〈は〉《 、》〈的〉《 、》〈中〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  ここまでの銃撃で狙った結果は、殺傷でも制圧でもない。誘導だ。  四四八を“ある場所”に誘い込むためのもの。  すなわち―― 「――――――」  今、彼にこの光景を見せることが目的だった。 「はる、みつ……」  手足を縛られ、壁に磔となっている栄光の死体。それは奇しくも、先に四四八がやったのと同じことだった。  これはわたしのものだという、歩美からのメッセージ。 「〈殺〉《と》った」  そして同時に、物言わぬ栄光を飛び越えて必殺の一撃が飛来した。正面に立つ四四八へと、唸りをあげて弾丸が迫る。  周到に練りあげられた、これが歩美の決める王手だった。  必ず出し抜かれると覚悟したうえでの思考放棄。本能にすべてを傾けたがゆえの高次警戒網を掻い潜るのは、事実上不可能に近い。  だから、歩美は伏線を張った。すでに一人仕留めたと事前に報告することで、四四八の頭にノイズを混ぜ込んでおいたのだ。  それで彼なら気付く。思い至る。〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈る〉《 、》〈羽〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》。  結果、予想通りのものが具現化した瞬間に、四四八の無想は崩れ去った。  仮に何も知らせずこれを見せても、多少の動揺と虚を生むことは出来ただろう。しかしそれでは浅いと歩美は思った。  重要なのは、彼に考えさせること。  歩美の一手を予測せざるを得ない状況に仕向ける。怖いのは何も考えていない状態の四四八であって、普段に近い精神へと誘導できればそれでいい。  楽ではないが、勝機はあった。なぜなら彼は、歩美に読み合いで勝てないと思っているから。  ショッキングな場に乗じた一撃。戦術としては極めて〈常套〉《セオリー》。  龍辺歩美が? これを衝く? 裏か表かそれともいったい――  思考は迷路だ。無想を崩されて尚のこと錯綜している。  よってその隙、意識の死角としては充分すぎた。視野と機能も混乱に陥っているのは間違いない。  だから必殺――そう信じた歩美の弾丸は、狙い過たず四四八の眉間を捉えていた。  そう、捉えてはいたのだが…… 「……やはり、将棋の類ならおまえの勝ちだな。  しかし、軽い。これは遊びじゃないぞ歩美!」 「―――――ッ」  まともに銃弾を受けながら、四四八はまだ立っている。単純な肉体強度の問題で、歩美の王手は効いていないと言っていた。  いや、きっとそれだけではないのだろう。 「おまえは少し、前から妙なところがある。  上手くは言えんが、それはきっと良いことじゃない」  未だ眉間に留まっている弾丸を掴み取り、血に濡れた顔で四四八は笑った。 「俺は盧生だぞ。夢を現実に紡ぐ者だ。  ゆえに現実味を欠いた夢でこの俺は斃せない。そこについて、おまえに一つ課題を出そう」  握り込む。握り込む。弾丸からそれを放った射手に向け、通じている念の〈径〉《パス》を逆流する夢の波動。 「いつか自分で答えに気付き、どうするか決めて報告しに来い。俺からは何も言わん。 じゃあな。そのときを待ってるぞ」  言って、一気に腕を引いた。四四八の夢によって繋がった〈径〉《パス》は決して切れず、歩美を拘束する鎖も同然の物と化す。  結果、破段の空間跳躍という特性はそのままここでも反映され、校舎の何処かに潜んでいた歩美は四四八の前にテレポートのかたちで引きずり出された。  面と向かった殴り合いになれば勝てない。そうした認識そのままに。  将棋の負けを認めたうえで、盤ごと引っ繰り返す力技に訴えた四四八の勝利がこれとなる。 「あっ―――」  先ほどの晶と同じく、手加減なしゆえの慈悲深い一撃を胸に受け、意識ごと瞬時に刈り取られた歩美は夢の中へと散っていった。 「あとは我堂、鳴滝……」  それを見送り、搾り出すように呟く四四八。  栄光をこの手で討つことは叶わなかったが、だからといって最初の方針を変えるつもりは毛頭ない。可能な限り、残っている者は自分がやると決めている。  水希はどうだか分からないが、先に挙げた二名は確実にまだいるだろう。彼らの性分、力量、そして伝わる気配がそう告げている。 「待っていろ」  決意を新たに固めながら、四四八は赤く煙る校舎の中を走り始めた。  しかしここで一つだけ、見落としていたものがあったことに彼はまだ気付いていない。  そして淳士と鈴子の戦いは、初手からこれまで一方的な様相を呈していた。  どちらの側にと言われたら、どちらにとってもと言うしかない。  縦横無尽に旋回する薙刀が稲妻のごとく閃いて、宙に斬撃の軌跡を描き続ける。圧倒的な速度差により発揮される手数の多さは、そのまま主を守る盾にもなり、ここまで一度の被弾も許していない。  つまり無傷で、今も休まず攻めは連続していた。傍目に戦況を握っているのは鈴子のほうで、その印象は間違っていない。  実際、技量的に優れているのは疑いの余地なく彼女だった。淳士に限らず、他の特科生たちも含めたうえで、現状もっとも邯鄲の夢を使いこなしているのは鈴子である。  一言でいえば、先天性。要はこの手の荒事に向いているのだ。  特に誰から教わらずとも、殺し合いの呼吸を仕組み的に理解している。その根幹を成すのは暴力に対する禁忌が薄い精神で、しかも鈴子はそれを自覚していた。  そこを殊更誇っていないが、悲観もまたしていない。才は才、どう使うかは己次第と弁えて、ゆえに芯は不動のまま。  振り回されないなら機能として優秀である。よって鈴子の邯鄲は初期から高密度に研がれており、他より頭一つ抜けているという事実があった。  具体的には、ただ一人急段まで使うことを可能としている。  だが―― 「くッ、ほんとこの――あんた鈍すぎなのよ、肉達磨!」  それは今、鈴子が楽勝できる展開には直結しない。第一に彼女の急段は淳士に嵌るものじゃなく、使用不可能だという単純な理屈。  そして第二は、もっと単純な理屈だった。  剃刀で岩を切り刻んでも意味がない。  地響きすら伴う淳士の踏み込み。実に鈍重なものだったが、その開き直りこそ鈴子にとっては厄介だ。速度と技量で劣っていることを弁えているゆえに、同じ土俵で戦おうとしていない。  己は己。鳴滝淳士という無骨不器用な漢を貫く。  戦闘開始からこのときまで、彼は電車道を仕掛けているだけだった。  すなわちただ真っ直ぐに、鈴子から見れば甚だ遅い動きで間を詰めようとしているだけ。  必然、それは斬撃の檻に正面から身を投じることになるのだが、淳士は委細構っていない。  ひたすら重く、ただ重く――強く硬く押し通る。  もちろん無傷ではすまされないが、動けなくなるほどのものではなかった。  鈴子は決め手に欠けている。この調子で続けても、淳士に致命傷を与えるまで丸一昼夜以上は掛かるだろう。 「どうした、てめえこんなもんかよ」  そして、問題は他にもあった。彼を形容するなら巌だが、この岩石は単にのろのろと転がって来るだけではない。  時折、火を噴く。  放たれた拳の生んだ衝撃波に、鈴子の痩身は危うく吹き飛ばされ掛かった。回避は簡単だが食らえば終わりの重爆撃。威力に三桁近い差が存在する。 「―――――ッッ」  とはいえ、そういう恐怖に硬直するような鈴子でもない。彼女は修羅場の順応性に長けているのだ。当たらなければしょせん風車と割り切ることもできるだろう。  そう、あくまで風車。不恰好な空振りでしかなかったらの話。  鈴子にあって淳士にないものがあるように、淳士にあって鈴子にないものも存在する。  それは膂力や頑強さという身体的な面の他にも、観念的な要素として一つ。 「あ、っ―――」  数度の回避を経た先に、知らず鈴子は袋小路へ追い詰められつつあった。  武器を振るうにしろ躱すにしろ、相応の空間が必要なのは言うまでもなく、得意の速度を保つためにもスペースの維持は欠かせない。  それが少しずつ削られている。 「おおおらァッ!」  つまり、これが淳士の強みだ。鈴子は生まれ持った感性を軸に戦っているが、彼は経験を活用している。  鳴滝淳士は甚だ喧嘩に慣れているのだ。現実的にも筋骨隆々、体躯雄大なむくつけき男である。その拳と真っ向打ち合う豪気な者はそうおらず、大半が似たような選択をするので対処が身体に染み付いている。  それが淳士に、後天的な一つの才能を授けていた。  いわゆる当て勘。要するに空間把握能力だ。相手の速度に関係なく位置を捉えることが可能だし、たとえ躱されても間合いを侵略し続ける。  よって今、表面的には鈴子が押しているように見えるものの、実のところ淳士が圧倒していると言っていい。このままこれが続行すれば、おそらく数分保たない間に決するだろう。 「仕方ないわね」  そう思えたが、しかし呟く鈴子の様子は奇妙だった。言葉も口調も諦めたような風情でありつつ、何か位相のずれたものに聞こえる。  その正体は、秒瞬の後に判明した。 「出来ればやりたくなかったんだけど」  軽い、淳士に言わせればそう断じるしかない一閃はこれまで通り。だがそれが及ぼした効果は激烈だった。 「づッ、ぐおおおッ」  悲鳴に近い叫び声。同時に淳士が――この重戦車のごとき男が弾かれたように飛び退った。  傷の深さ大きさが原因ではない。それはごく単純な痛みによって。 「あんた、本当に鈍いんだもの」  振り戻し、構え直した鈴子の声にもはや感情はこもっていない。彼女が今やったことを、斬りつけたと表現すれば語弊が生じる。  正しくは、斬り飛ばしたのだ。狙いすました一閃で、淳士の足指一本を。 「だからこういうのはどうかしら」  続く返しの一振りで、今度は左耳を削ぎ落とした。再びあがる男の苦鳴。開いた口に刃が入り、次は奥歯を抉り飛ばした。 「ぎッ、がああァッ」  だが、そこで守るよりも攻めに転じた淳士の度胸は凄まじい。常人なら七転八倒の激痛を無視し、全力で殴りかかる。  いや、殴りかかろうとしたが果たせなかった。踏み込みの瞬間に足の親指を切断されて重心が乱れ、隙が出来たところに右手の小指を飛ばされる。  そこから先は文字通りの五分刻みだった。淳士の耐久力は確かに高く、鈴子の攻めで致命傷は与えられない。  しかし、それは何も通用しないという意味じゃないだろう。末端の脆い部位なら削ることは可能だし、速度と技量で勝っているなら自由に狙える。  たとえば指。たとえば耳。そして目や鼻、舌など色々。  それら、単純な質量の面で見るなら総体に比べて些細なものだ。失ったところで死に直結する器官ではない。  だが、総じてそこは“痛い”のだ。物理的な意味でもそうだし、精神的にも多大な衝撃を受けてしまうのは避けられない。  そして、痛みに心が乱れれば夢も乱れる。それはどれだけ頑強な巌だろうと、やがて亀裂と化さしめるだろう。  ひびの入った状態ならば、非力な剣でも割るのは決して不可能じゃない。  鈴子の狙いはそこだった。すでに淳士は、手足の二十指を四割ほどを失っている。もはや行為は拷問とさえ言っていい。  理屈としては通っている。極めて有効な策だろう。  しかし、こんな真似を知己に対して平然と、いいや仮に怨敵であっても出来る者が早々存在するのだろうか。  やりたくなかったと鈴子は言った。それは確かに本音かもしれない。  だがやる必要性に迫られて、なら仕方ないと割り切れるのは紛れもなく異形の心だ。  本質的に、血への嫌悪がないことの証と言えよう。ゆえにこんな戦法を実行できる。  鈴子はそんな己をよく自覚しているのだから。  そこを殊更誇っていないが、悲観もまたしていない。才は才、どう使うかは己次第と弁えて、ゆえに芯は不動のまま。  振り回されないなら機能として優秀である。  だからこそ―― 「てめえも、相当アホだよな……」  基本、何であれ美しく整然とした機能を持った者には強い。  その代わり。  そう、その代わり……なんだ? 「アホだから、やっぱおまえ柊に殴ってもらえ」  空白的な自問の瞬間、これまでの倍近い速度で踏み込んできた淳士が間合いに入った。  しかし鈴子にとってはまだ遅く、むしろ隙だらけで、待っていた亀裂が生じた瞬間にしか見えなかったから。 「――――――」  す、と刃先が自然に動いた。意志も反射も超越した無空に等しいその一閃。過去最高の鋭さと精妙さに、鈴子は我ながら感嘆する。 「俺は御免なんだよ、アホな女の御守りなんぞなッ!」  だから、同時に振り下ろされる拳への反応が完全に遅れてしまった。極限的に理想の攻撃を成立させてしまったことで、守りの意識が吹き飛んでいる。  そこで、鈴子は我に返った。  いやちょっと、少し待てと。  御守りは御免って、別に最初からそんなものは頼んでいないが、初めにお節介と言って絡んできたのはそっちだろう。あんたは何を言っている。  殴ってもらえと言いながら殴ってくるし、こいつは昔から言ってることとやってることが滅茶苦茶だ。大いに頭が悪いのはよく知っているが、さらに開き直っているから性質が悪い。  自分の論が支離滅裂だと理解して、その不可解さに一人で腹を立てるのだ。  勝手に乱れて、勝手に切れる。そのくせ初志は貫徹する。  ああまったく、なんだそれは。  我堂鈴子は己の芯を弁えている。ゆえに基本、何であれ美しく整然とした機能を持った者には強い。  そういう類は同類だから。  たとえ暴虐を振り撒くケダモノめいた者であっても、一種機能美を有した手合いなら対処法を知っているのだ。  その代わり。  そう、その代わり―― 「あんたみたいな――」  逆に甚だ矛盾した、何処かの回路がぶっ壊れているような者には弱かった。  〈淳士〉《こいつ》みたいな。  そして〈四四八〉《あいつ》も、違う意味で腹が立つから。 「鈍い奴はいっぺん死ねェッ!」  交錯する拳と刃。それぞれが互いの急所に吸い込まれる。  その最中、ほぼ直感だが鈴子は淳士の苛立ちの正体に気付いていた。根拠がまったくないわけでもない。  彼は〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈相〉《 、》〈当〉《 、》〈ア〉《 、》〈ホ〉《 、》と言った。それはすなわち、誰か比べる対象が存在しているということだろう。  〈そ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》のことが気に掛かるのか。ならばつまり、基本すべてはそちらに向いたものであり、矛盾も憤りも源泉はそこにある。  要するに、あんた――いや私もだけど―― 「八つ当たりか、二人とも」  あわや相打ち――その未来しか予想できない状態で、しかし割って入った四四八が二人の運命を変えていた。 「おまえ……」「柊ッ……」  彼らの驚きは当然だろう。如何に横合いからとはいえ、全霊の乾坤一擲を同時に止められるとは思わなかった。  特科の総代として四四八が優れているのは知っているが、そこまで隔絶した差があるわけでもないだろう。むしろ得意分野に限れば二人は彼を上回るし、今放っていたのはそういうものだ。  にも関わらず、この結果。ならば四四八が凄いと言うよりは、鈴子と淳士が甘いと言うべきかもしれない。  二人には、まだ十全な形で夢を回すための克服できていない〈疵瑕〉《しが》があると。  たとえば、先ほど彼が言っていたような…… 「いや、すまんな。特に根拠があったわけじゃない。ただ、なんとなくそう感じただけだ。  ともあれ我堂、鳴滝―― 俺の役目を取るな」  呆ける鈴子の胸に旋棍が突き刺さった。同時にそれは跳ね上がり、顎を打ち抜いて彼女の意識を消し飛ばす。  胸部陥没。頚椎破壊。及び脳まで突き抜ける衝撃という、急所三つに対する容赦ない加撃だった。それをほぼ同時に叩き込まれては、鈴子の防御力的に耐えられるはずがない。先の晶や歩美と同様、一言も発せず崩れ落ちる。  そして…… 「ちくしょう……だがまあ、安心したぜ。やっぱおまえは、近頃増えてきた軟弱どもとは違ぇよ。  馬鹿は女でもぶん殴ってやらねえとな。おまえがいりゃあ、〈鈴子〉《こいつ》も少しは変わるだろ。 そこさえどうにかなるなら、もういいや。後は知らねえ」  苦笑気味に呟く淳士は未だ健在。ならば四四八は、とりあえず鈴子から攻撃して彼を後に回したのか。  いいや、違う。 「……流石だな。まだ口を利けるとは思わなかったぞ」  四四八は、淳士にも致命の一撃を放っていた。胸に据えた片手から、強力な解法を直に流しこんでいる。  分厚く硬い筋肉と循法の守りを前に、馬鹿正直な力勝負をしても即死させるのは難しい。ゆえに透でそれらをすり抜け、崩で直接心臓を破壊したのだ。  つまり、今の淳士は心臓が動いていない。にも関わらず立って、まだ喋っている。  四四八が敬意に近い賞賛を口にしたのはそのためだろう。 「おまえも我堂の〈歪〉《いびつ》さには気付いていたのか」 「当たり前だろ、付き合いだけならこっちのが長ぇ。  他人の得手不得手に文句をつける趣味はねえし、割り切ってんならそれでいい。けどよ、こいつのはなんか違うだろ。  前から思っちゃいたんだが、さっき試して、つくづく俺ァ納得したよ」 「第三訓か……確かにな」  敵と戦う以上、殺し殺されることを覚悟しろ。  戦真館で幾つか叩き込まれた訓戒のうち、鈴子はそれに抵触している。四四八と淳士は共にそう思っていた。  なぜなら鈴子の覚悟は、言ってしまえば四角四面だ。言葉の意味をその通り以上には解釈してない。と言うよりは、体感することが出来ないのだろう。 「覚悟とは、恐怖を呑むこと。知って、見つめることが大前提。  ゆえに無感のままでは意味がない。それで揮われる刃は剃刀だ。切れすぎて危ないうえにすぐ折れる」 「だから、まずは怖ぇって気持ちを知らねえとな。てめえの性分は危ねえってよ。今の世の中、実際難しいのかもしれねえが……」 「夢の中ならあるいは……か。俺も同感だよ鳴滝、歩美にも似て非なるものを感じている。 そしてもちろん、おまえにもな」 「……あん?」  そこで急に水を向けられ、淳士は露骨に訝しんだ。すでに全身の血流は止まり、顔色は死者のそれだが、驚くほど表情を変化させて問い返す。 「俺に何が足りねえっていうんだ?」 「知らん。そこまで男の内情を〈忖度〉《そんたく》する趣味はない。  だが……そうだな。強いて言うならおまえは少し、素直になってみたほうがいい。 男は無骨で、偏屈なくらいがちょうどいいと俺も思うが、これからの時代はもう少し……な」 「ちッ……」  そこでようやく、淳士の中に蓄えられていた残滓も尽きた。崩れ落ちながら、忌々しげに言い遺す。 「偉そうに……おまえのそういうところが気に食わねえよ」  そうして、ついに四四八は一人となった。足元の二人を見下ろしながら、詫びるように低く呟く。 「当たり前だ。俺はおまえたちの総代で、盧生だぞ。  だからこそこの結果がある」  不本意ながら、と心の中で付け加え、四四八は静かに踵を返した。  そして…… 「後は世良か……だがあいつの気配を感じない。  奇妙だ。なぜ夢が終わらないんだ」  これで条件は達成されたはずだろうと、見渡す限り無人と化した校舎の中を歩きながら、彼はここまでの流れを反芻していた。  晶を斃した。歩美を斃した。鈴子と淳士も斃したし、水希も生きているとは思えない。 「であれば、まさか……」  ここで四四八は、己が犯した一つの失態に気がついた。  晶、歩美、鈴子、淳士――この四名は自らの手で斃した手前、確実に仕留めたことを実感している。  だが、そうじゃない相手の死は予測にすぎない。しっかりとした確認をしていないのだ。  特に、過誤として意味が重いのは一人。  未だ死体を見ていない水希はともかく、一度この目にしながら確認をなおざりにし、勝手に死んだと思い込んでいた相手がいる。  気配が消えているから? 馬鹿を言え。特科の中でもっとも解法に長けたあいつなら――  栄光ならば、そんなもの。 「気付くの遅ぇよ」  背を走り抜ける悪寒がそのまま、声と衝撃になって横っ腹に炸裂した。 「ぐゥッ、があああァァッ―――」  比喩ではなく、本当にアバラが消し飛んだ感覚を味わいながら四四八は吹き飛ばされていた。壁を突き破って営庭の半ばまで転がっていく。  そこへ、宙を滑るように走りながら迫る追撃。  思わず迎撃しようという反射をそれこそ全力で抑え込んだ。あれと正面衝突など愚の骨頂。ある意味で淳士の剛拳よりも危険なものだと知っている。  ゆえにもんどりうって回避した動きはお世辞にも洗練されたものと言えなかったが、形振り構っていられる状況でもない。どうにか体勢を立て直し、膝立ちに構えながら敵を見据えた。  そう、これがこの第四層、最後の敵で最後の勝負。 「やっぱ簡単にはいかねえか。流石だぜ四四八」  大杉栄光――歩美に斃されたと思われていたが、しかしその実、彼は死んでなどいなかった。百聞は一見にしかずとして、今ここに存在している。 「流石? 嫌味か栄光、事前の声がなければ間違いなく終わっていたぞ。  まったく、自分の迂闊さに腹が立つ」 「そこはそれ、お互い様だろ」  自分は嫌味を言ったわけじゃないし手加減だってしていない。そう四四八の台詞を否定しながら、栄光は首を振った。 「〈殺〉《と》られて当たり前の状況を晒したのは、こっちのほうが先だからな。オレもおまえが気付くまで、不意は打たねえって決めたんだよ。  言っとくが、余裕じゃねえぞ。おまえ相手にそんなもん持てるわけねえ。これは単に、オレが全力でやれるようにするための帳尻あわせだ」 「あのときどうだの、もしもなんだの、たらればぐちゃぐちゃ悩まねえように……オレは自分がそういう奴だと知ってるから。   てめえに言い訳用意したくはねえんだよ」 「なるほど……そうか、よく分かった」  言って四四八は立ち上がり、そのまま必殺の気を交換しながら目の前の敵と対峙する。  なぜ栄光が生きていたのか、そこについて語る必要はお互い最初から認めていない。  おそらく彼は、歩美から一度本当にやられている。しかし持ち前の驚異的な解法性能が、即死を紙一重で防いだのだろう。  仮死か、それに近い状態でギリギリだが留まった。そのことに歩美が気付いていたかは不明だが、そこはたいした問題じゃない。  なぜなら彼女にとって、栄光を完全に殺すことはまったくテーマじゃないからだ。あの局面で欲していたのは四四八を釣るための餌であり、その役目を果たせるものなら極論人形でも構わない。  用を成す前に目を覚まして逃げれられる――そういう状況さえなければいいのだ。そして歩美の攻撃で仮死となった栄光は、彼女が健在な限りその影響下にあるので目覚めない。  であれば、本質的に死体と同じだ。仮に気付いていたとして、わざわざトドメを指す必要性がどこにあったというのだろう。  今、栄光が目覚めているのもそういう理屈。四四八が歩美を斃したから、封が切れただけのこと。 「ただ、一つだけ腹の立ってることがある」  僅かに身をたわめながら、最終戦の火蓋を切る跳躍前の溜めに入った。  それは四足獣を連想させたが、豹や狼といった猛獣的なものではない。  大杉栄光は、その手の影を背負うような人種に非ず。 「いつも冷静で、優秀なおまえが、戦場で敵の生死も確かめねえなんて下手をなぜやったのか」 「そりゃおまえだって人間だ。知った奴の死に顔なんか極力見たくねえっていう、そういう気持ちがあったのかもしれねえ。 だけど――」  彼は〈羚羊〉《レイヨウ》――臆病かもしれないが強くしなやかなカモシカだ。その誇りは甘くない。 「違うんだろ? 分かってる。おまえはこう思ったんだよな」 「栄光なら、そりゃこういうこともあるだろうって……」  漲る筋肉の緊張が走る。噛み締めた歯の軋みが聞こえる。  そして空間ごと歪められる爆発的な解法の燃焼と共に。 「そんな風に見られるオレ自身が、オレは一番許せねえんだよォ!」  轟音が炸裂すると、まさしくその姿が瞬時の間もなく掻き消えていた。 「――――――ッ」  自己透化? 否、違う。 「縮地かッ」  側面からいきなり現れた栄光の蹴撃が迫る。四四八はその打撃面と直接ぶつかる愚は犯さず、かち上げた旋棍の一撃で足首を打ち抜いて軌道を逸らせた。 「ぎッ、づあああァッ!」  しかし、栄光の攻勢は止まらない。下からの加撃によって錐揉み状になりながら、閃いた手が四四八の胸倉を掴んでいる。  そして流れる崩の解法。 「させんッ!」  まさにタイミングは紙一重。合気に近い〈柔〉《やわら》をもって投げ飛ばすことに成功したが、僅かでも遅れていたら四四八の胸部は吹き飛んでいただろう。  そして二度防がれた程度のことは、今の栄光から戦意を奪う要因足り得ない。片足首、片手首、共に折れて外れているが、まったく頓着せずに再び宙を跳ね回る。  そこに間合いの概念は消滅していた。四四八をして瞠目するほど、恐るべき現象が起こっている。  最初に彼は縮地と言ったが、そんなレベルのものではない。姿勢と運足の妙技による距離感の幻惑という、一種のまやかしとは違うのだ。  これは世界を壊している。  〈此方〉《こちら》と〈彼方〉《あちら》、そこを隔てる空間という距離を破壊し、文字通り刹那のずれもなく両端を繋げているのだ。すなわち瞬間移動だが、歩美の破段とは似て非なるもの。  飛び越えるのではなく縮めている。栄光が壊した距離は何処とも知れぬ時空に消し飛んで、もはや那由多の果てにも見つからない。  結果世界が縮小する。四四八は一歩も動いていないが、目に見える校舎との位置関係が秒刻みで狭まっていた。 「答えろ四四八、オレはそんなに頼りねえかッ!  すぐ死にそうな、雑魚だとてめえは思ってんのかッ!」  果てに訪れる事態がどんなものか、想像するだに戦慄する。それは万象が無に凝縮するという、一つの究極的破滅の形だ。  無論、理屈上の仮定であり、一個の人間が世界そのものを握り潰せるわけもない。現実での話であれば、せいぜい局所的な地震か何かに事は収まるはずだろう。  しかし、ここは夢である。邯鄲の第四層という、限定された領域だ。  そのうえで考察すれば、おそらくという枕が付きはするものの…… 「耐えられねえんだよ、そんな目でおまえらに見られんのはなァッ!」  栄光は、ここを潰してしまうことが可能である。  自覚の有る無しは知れないが――いいや、自覚していてもやるだろう。  なぜなら彼という男にとって、仲間に役立たずと見られる以上の絶望はないのだから。  己はやれる。舐めないでくれ。そして何より自分自身に知らしめたいと強く願う。 「―――破段顕象ォォッ!」  死も戦いも、龍も神もそのことに比べれば怖くないと。  祈り、放たれた蹴撃が、四四八の左腕を消し飛ばしていた。 「ぐゥッ――」 「ぬッ、があああァッ」  そして、ゆえに対価は平等そのもの。栄光の左腕も、同時に全機能を消失していた。  距離を壊せば世界が消え。四四八を消せば栄光も消える。  もはやこの場は、ゼロに向かって加速する大車輪も同じだった。事象の中心である二人を軸に、渦巻くがごとく夢のすべてが呑み込まれていく。 「〈栄光〉《おまえ》なら、こういうこともあるだろう……か。なるほど」  しかし、その破滅的事態の中、四四八の声は平静だった。自身も片腕を消失している状態で、にも関わらずまったく窮した様子がない。  それが諦観でも自棄でもないのは明らかだった。なぜなら対峙している栄光が知っている。  その手のものは柊四四八に存在しないと。  ではいったい? 答えは彼の言葉となり紡がれていく。 「白状しよう。確かに思った。  どう顧みても、あの場で俺があんな失態を演じた理由は他にない」  栄光はすぐ死にそうだから死んでいても疑わなかった。  それは彼を深く傷つけるだろう事実だったが、四四八は悪びれずに肯定している。 「過誤は過誤。己の未熟と戒めてはいるがな」 「しかし、それとこれとは話が別だ。仮にまた、同じ状況に直面しても」  つまり、再び栄光が死んだと思しき場に立たされても。 「俺はおまえが死んだと即座に思うことだろう。今回の教訓として確認はするが、特にそれ以上の意味はない。  なぜって、おまえは死に易いからな」 「――――ッ、~~~――ッッ」  もはや挑発ですらない平板なその口調に、栄光の中で何かが弾けた。 「言うんじゃねえ、黙れ四四八ァァッ!」  そして更なる破段顕象。四四八の側頭部に命中した蹴りが視覚と聴覚の半分を奪い去り、同時に等しい対価を栄光にも刻み込む。 「オレは、オレはなあッ、分かってんだよそんなこと!  度胸がねえ、頭が足りねえ、身体もたいして強かねえ!  おまえらより劣ってんのは分かってる。どうして特科にいられんのか、そもそもなんで戦真館に入れたのか、そんなことさえ自信持てねえんだよこのオレは!」  蹴撃、連撃、乱れ打ち。矢継ぎ早に繰り出されるすべての攻撃が四四八を削り、また栄光も削っていく。  その様は、羽を燃やしながら炎に飛び込む燕のようで。 「甘粕正彦? 邯鄲の夢? 知らねえんだよそんなもんは、どうでもいい! オレみたいなもんが大儀やなんだで、死ぬかもしれねえ状況を呑み込めるかクソがァッ!  ただ、それでも四四八、オレはよぉ……」  もはや互いに、無事な器官を探すほうが難しい。凝縮していく世界の中で、それでもただと、栄光は告げた。 「おまえらの仲間に相応しい、格好いい男になりてえから。  格好つけたいと思ったから、オレは……」  すでに速度は見る影もなく、だが宿る効果は一片たりとも減ずることなく放たれた蹴りが当たる寸前、それは起こった。 「〈格〉《 、》〈好〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》、だと?」  深く、底からせり上がってくるような声。栄光の蹴りを掴み止めた四四八の瞳に炎が燃える。 「これがか? いったい、馬鹿か貴様は……!」  その声にこそ、一連の事象を前にした四四八のすべてが込められていた。  諦観でも自棄でもない。  これまで冷静沈着にさえ見えた口調は、単に限界突破して振り切れた感情を上手く紡げなかったというだけなのだろう。  それが今、ようやく正しいかたちで表出したのだ。  この上ない激怒。ふざけるなという憤怒の声で。 「なぜ貴様、俺と戦うのに〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈捧〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈消〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》!  舐められたくないだと? 貴様こそ俺を舐めているのか栄光! 俺を消すのに俺以上の対価があって堪るかッ!」  栄光の破段は、己にとって大事なものを対価として、それに見合った脅威を消すという断固相殺の夢である。  ゆえに四四八を攻撃するごと栄光の肉体も削れていったが、そもそもそこからして気に食わない。  柊四四八は現状敵で、脅威だが、同時に掛け替えのない仲間ではなかったのか。栄光自身、先ほどからそう認めていたではないか。  ならばなぜ、対価として四四八本人を捧げない。それは成立する理屈だろうに、だから馬鹿めと言っている。  そちらこそ、舐めるなと。 「だいたいな」  強く、強く、握った足を折るほど握り締めて四四八は吼えた。 「貴様は卑屈すぎるんだよ!  こんな俺が? 俺なんかが? 俺のことくらいどうなってもいいから、身を捨ててでも頑張るだって?  それが格好をつけることだと? いったい何を戯けている。夢見に酔っているのか、ぶちのめすぞ!」  引き付け、詰め寄り、正面から目を見て言った。 「いいか、栄光――」 「断言してやる。そんなものに幻惑される奴は間抜けだ。  少なくとも俺は褒めんし、認めない。  だから貴様は死に易いと言っている」 「――――――」  四四八とて、何も自己犠牲という概念そのものを丸ごと切り捨てているわけではない。それは確かに高潔で、畜生には真似できない尊い人間賛歌の一つだろう。  しかしそこには、大前提として誤ってはならない点が存在するのだ。  自己を犠牲にするからこそ、軽んじてはならない自己評価。  自分程度、自分なんか、そのような卑屈さで紡がれる夢に輝きは宿らない。  まして、日頃ぱっとしないから華々しく死ぬのが帳尻合わせに最適だなどと、錯誤しているにもほどがある。  曰く格好のつけ方とやら、その桧舞台は、己を軽々しく売り飛ばして買えるものじゃないはずだ。  いいや、買えるものであってはならない。  そんなものは、単なる死にたがりの世迷い言にすぎないだろう。 「一人を残し、全滅しないと終わらない〈四層〉《ここ》で…… 簡単に死のうとするな栄光。今後のことが不安になるぞ」  死が条件として存在している階層だったからこそ、栄光との勝負がもっとも重いものと化したのは必然だったのかもしれない。  まるで、この先訪れる未来を予言するかのように…… 「そんなことがあったら困る。おまえに限らず、全員いてもらわないとな。  俺は頼りにしてるんだから」 「四四八……」  ゆえにこれ以上、重ねて何か言うことはなく。  通じたはずと信じた四四八は、唯一まともに動く右腕を振り被って。 「行くぞ」  今夜最高の一撃を全身全霊で繰り出した。  それに対する栄光も、乾坤一擲で迎え撃つ。  捧げるのは四四八の心臓。まさしく己の命そのものと言える熱を対価に破段が唸る。  盧生と眷属は一心同体であるがゆえ、価値を軽んじるなど有り得ない。  これこそ戦真、我も人なら彼も人なり。  交錯する真の想いに、第四の悪夢は今こそ終焉へと向かうのだった。 「……ようやく見つけた。こんな所にいたのか、おまえ」  そうして、真に最後の一人となった彼は傷だらけの身体を引きずり、彼女の前へとやって来ていた。 「全員、俺の手でやるのが筋だと思ったし……そうするつもりで、実際ほぼやり通しはしたんだがな」 「おまえだけは上手く行かんか……まったく、手強い奴だよ、世良」  呟いて、四四八は水希の前に膝をつく。跳ね散る血溜りが服を濡らすが、今さら頓着することでもない。  すでに全身、彼は仲間たちの血に塗れているのだ。その返り血が、生き物のようにうねりながら宙に纏まり始めている。 「おまえから化けの皮を剥ぐならこの場が最適だろうと思ったが、その様じゃあ仮にやっても無理だったか。一筋縄ではいかないな。  果たしていつになることやら、さほど気が長い性分でもないんだ。あまり逃げてくれるなよ」  水希が持つ歪さについて、直面できる機会が何度もあるとは思っていない。  なぜなら確信を得たのが夢に入ってからであるため、以降の周回で今と同じ認識を持てるという保証はなかった。  無論、八層を超えればすべての記憶が統合されるはずだろうが、それも簡単な話ではない。赤と青を混ぜれば紫色となるように、つまるところ別物に変わるのだ。  それはもはや、別人格とさえ言えるだろう。一生を何度も経験する邯鄲の夢とは、すなわち生まれ変わりを繰り返すということかもしれない。  同じ柊四四八であっても、歩む人生が異なれば違う人間になっていく。  得るものも、思うことも、周回を重ねるごとに変わるだろうし、それらが合わされば自分がどんな人間になるのか見当もつかない。  ゆえにこの今、ここでの記憶と感情は真実一度きりのもの。水希に限らず、他の皆についてもまた…… 「ともあれ、まずは……」  呟き、覚悟を決めるように四四八は再び立ちあがった。その眼前には、仲間六人の流した血が一滴残らず渦巻いている。  当然だが、並大抵の量ではない。単純に考えても、四四八にとって体重の三分の一ほどはあるだろう。  それを、彼は、おもむろに掴んでから顔を寄せ―― 「これで四層突破だ」  口をつけると、貪るように喉を鳴らしながら飲み干し始めた。 「ぐッ、ぐッ、ぐッ、がはァ―――」  最後の栄光を斃したときに、電撃的な啓示のごときものがあったのだ。  これこそ第四層の締め括り。討ち果たした同胞たちの血肉を我が物として取り込むこと。  意味は罪過か、呪いか、祝福か……歴史の追体験として先人が負った業をなぞりながら、四四八は拷問に等しい所業を続けていく。  達成がもっとも困難な条件は、むしろこれだったと言えるのかもしれない。どだいまともな神経でやれるようなことではなく、ただでさえ血液には強い催吐性が含まれている。  それをこの量。まして仲間の血。どれだけ四四八の精神が鋼であろうと、正気のままやり通すことが出来るのだろうか。  いや、正気でやり通したら彼はどうなってしまうのか。 「晶、歩美、我堂、鳴滝、栄光、そして、世良……俺は!  今日、狙ってこの結果を受け入れた。何を言っても、言い訳にしかならない」  だから、せめてこれも飲み干そうと。  他に出来る誠意の示し方を四四八は見出すことが出来なかった。 「次に〈四層〉《ここ》を越えるとき、俺はどうしたらいい?」 「こんなもの、何度も経験したくはないんだ。これを忘れて、周回ごとにまたおまえたちと……? 冗談じゃないッ!」  血に咽ながら叫ぶ四四八は泣いていた。  総代として、盧生として、皆の前では許されない弱音だったが、今だけなら誰も見ていない。  見ていないと思っていたから…… 「次は違う結末に進めるのか? そもそもそんな選択が有り得るのか?  分からない。今の俺には、まだ分からないんだよ、どうしたら――」 「もっと、強く胸を晴れる未来を描けるのか……」  本日、己の選択が間違っていたとは今もまったく思っていない。  なぜならこの場の趣旨は、戦真館特科総代の挫折という歴史の追体験にあるからだ。  意図的に不本意な方向へ向かわねばならないのが正答で、ゆえに誇りと信念を胸に道を踏み外すという、言わば狙って失敗する必要に迫られる。  他に手は無く、なら呑み込むしかなく、それは他の皆も同意したこと。  よって運命は挫折の属性を帯びた袋小路に向かうだろうと、彼は冷徹に分析していた。  思考は正しく、論理は整然。自分に問題点が見当たらない。  逆にそのことが問題である。  仲間たちに指摘したような、克服すべき何かがない。あったとしても、顕れてくれなければ立ち向かいようがないというもの。  だから出て来い。あるなら早く。 「それが何か、見つけなければ失敗する。真に越えるべき試練と対峙していない俺が盧生では……」  偽りない不安と本音を、彼はこのとき漏らしていた。 「負けるかもしれない」  それは、俯瞰で見れば迂闊としか言えなかっただろう。 「ひいらぎ、くん……」  なぜなら、このとき四四八は一人じゃなかった。誰もいないと思ったからこそ漏れた本音は、彼女に聞き咎められていたのだ。  上に立つ者、みだりに腹の中を見せてしまえば組織の崩壊を招きかねない。  それは常識であり、真実で、だからそのようになり始める。 「つらいん、だね…… かなしいん、だね…… こわいん、だね……」  聖餐を干す四四八に呼応して、徐々に第四層が明け始める。  よってやはりそこに呼応し、眷属の不死性が復活を始めているのだ。  世良水希は、この試練においてもっとも早く脱落した者。  ゆえに当然の時間差として、復活する順番も最初となる。  だから彼女は嘆く四四八を目撃し、同時にこう思うのだ。 「無理、してるん、だね……やっぱり、同じ……」  男の人とはそういうもの。  強く、強く、強く在ろうと狂気的に思い焦がれて傷だらけ。  お願いもうやめて。死んでしまうよ、あの子のように……  それが嫌で、嫌で、言えたらいいのに。  あのときあの子へ言えなかったこと。 「弱くて、いいから……」 「はいはい。鬱陶しいね面倒くさいよ馬鹿女」  彼女が何を言おうとしたのか、というより誰に向かって言おうとしたのか。  判別できず訝しむ僕を遮るように、緋衣さんはそこで唐突に幕を下ろした。 「え、ちょ……いや、どうして?」 「なあに? 何か不満があるのかな、信明くん」 「不満と言うか……」  これでは尻切れトンボだろう。釈然としない僕をからかうように、彼女は目を細めて続ける。 「とにかく、彼らの一周目における四層突破は、こういう感じだったみたい」 「色々と、なんか頭が悪いよね。言ってしまえば社畜みたいな、ちょっと洗脳されてる的な感じ?  だけど、こういうのが当時のノリだったって言われれば、まあ納得も出来る雰囲気はあったかな」  確かに、そこは僕も大まか同意できるものだった。緋衣さんのきつい言い方によるところではなく、現代とはノリが異なるという意味で。  二周目以降の彼らとは、別人的な面が確かにあった。  凄惨で、真っ直ぐなぶん悲しくて……胸を抉られる気持ちを抱いたのは嘘じゃない。 「けど、やっぱり僕は最後の部分が気になるよ。姉さん……じゃないけど、彼女は何を言おうとしたんだ?」 「もう、ほんと信明くんはそっちにばかり目をやるんだから。  まあ分かったわ。それじゃあちょっと考察しようか」  言って、彼女が指を鳴らすと、まるで世界がテレビのように切り替わった。 「このとき世良水希は、柊四四八の弱音を目撃してしまったのね。それでちょっと思い出してほしいんだけど、第二盧生サマは性格が現代ナイズされた二周目以降でも、弱音らしい弱音を吐いたことがあったかしら?」  問われ、僕は考える。しかし考えなければいけない時点で、答えはほぼ出ているも同然だった。 「おそらく……ない。愚痴や冗談めかしたものはあったかもしれないけど、ここまで深刻なものは……」  弱音と言うより、もはや挫折に近いもの。己の失敗、敗北の予感。  強いて言うなら母親を亡くしたときくらいだが、それにしても人前ではそんな態度を見せなかったはずだ。 「そうだね、だからこれはとてもレア。お陰で馬鹿女の勘違いには拍車が掛かる。 ああ、ごめんね。別に信明くんをディスってるわけじゃないから」 「柊くんは無理をしている。強がって、我慢して、それはありのままじゃない歪な真。そんなんじゃあ勝てない。  どれだけ正しくて、強く格好よさそうなスタイルを掲げてても駄目。   なんてね。ありのままって何よって感じだけど、この人の中じゃあそういうことになってるみたい。  実際、あながち外れてもいないのかな。だってこのとき、負けちゃったのは確かだし」  その通りだ。柊四四八はこの周回で、甘粕正彦に完敗している。  今の俺が盧生では、と敗北を予感した果て、完全な盧生の前に砕け散った。  そういう意味で、百年前の世良水希が思ったことも的外れとは言えない。 「でも、やっぱり勘違いは勘違いなのよ。そもそも彼女程度の浅い見識で測れるほど、盧生同士の戦いっていうのは簡単じゃないわ」 「それは、そうかもしれないけど……やっぱり一面は捉えてるんじゃないか? 柊四四八も、そんな感じのことを甘粕正彦に言っていたと思う」 「ん? ああ、それってもしかするとこれのこと?」  すると映像上の時間が流れ、問題の台詞が再生された。 「嗤うかよ、俺の〈邯鄲〉《ユメ》が不純だと?  あるべき型に嵌っていない。おまえはそう言うのかよ」  そう、これだ。  世良水希が危惧したことを、そのまま甘粕正彦に問う柊四四八。これこそ動かぬ証拠というやつではないか。  そう指摘する僕に対し、だが緋衣さんはお腹を抱えて、盛大に笑い出した。 「あっはっは――ちょ、ちょ、のぶ、のぶあきクン……なに言っちゃってるのよ、困ったなあもう!」  それはあまりに嘲笑的だったので、意地の悪い彼女の言動にだいぶ慣れたつもりの僕でも、流石にむっとしてしまう。 「どういう意味だよ」 「だからあ、どうしてあれを甘粕正彦に言ったんだと思ってるのよ。  〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈は〉《 、》〈世〉《 、》〈良〉《 、》〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈に〉《 、》〈決〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「はあっ?」  予想外の返しに呆気とする。そんな僕を見ながら緋衣さんは、猫のように笑いを噛み殺して続けた。 「面白いなあ。そういう勘違いをしちゃう人も世の中いるのね。これは世良水希のことだけ特別馬鹿にはできないかも。ていうか、もしかすると血筋だったりする?  いい、いい。分かった分かりました。それじゃあまだ疑ってる信明くんに、一つずつ説明していこうか」  全然たいした問題じゃないんだけど、と指を立てて、本当に一つずつ。 「まず、台詞の内容そのものね。これ、わりと柊四四八の口癖じゃない?  要は俺を舐めるな。俺を勝手に定義するな。おまえは何を言っている。  て、似たようなことをかなり言ってた気がしない? しかもだいたい、世良水希に」 「……そうだったか?」  言われてみればそんなような気もするが、いまいちまだピンと来ない。  そんな僕に、緋衣さんは二本目の指を立てた。 「次、甘粕正彦の性格。  彼ってさあ、そんなこの夢は良し、この夢は駄目とか言うタイプ?  彼が嫌いなのは、ちゃんと頑張らない奴のことでしょ? 頑張ってる相手なら、それがどんな方向性だろうと万歳万歳よ」  今度は、流石にはっとした。そう、確かに緋衣さんの言う通りだ。  甘粕正彦の他者に対する評価基準は、ただ想いの絶対値という一点のみに集約される。 「ちなみに、万歳されたら優しく撫でてくれるとは限らないわよ。むしろ気に入られてると余計に危ない。  おまえは凄いぞ、素晴らしい。さあもっと俺に、光輝く愛と勇気を見せてくれ――ロッズ・フロム・ゴーッド。   て感じに、このときの柊四四八はやられちゃったんじゃないかしら」  ゆえに、甘粕正彦から否定的な態度を取られたという解釈は成り立たない。  頷く僕に、緋衣さんは三本目の指を立てた。 「最後、ちょっと分かり難かったかもしれないけど、このシーンって基本どういう視点だったかな?  私たちが見ていたのは誰寄りの目線だったか。誰の立場から、誰の感想と心情を見ていたのか」 「それは……」  言うまでもない、世良水希だ。このとき、この場は、彼女の感じる世界という単位で完結していた。  そこに客観的な、つまり公平な描写はまるでない。 「だから勘違いだって言ってるのよ。彼女の勘違いというものが、とても大きなウェイトをしめている事象こそ甘粕事件。  そこが分かってるなら、もっと疑って掛からないとね。そういう意味じゃあ朔と同じよ」  それは暗闇の時。足もとにどんな陥穽が口を開けているか分からず、目に見えるものはないから鵜呑みに出来ない。  そういうことだと、緋衣さんは笑って言った。 「私は信明くんに勘違いしてほしくないのよ」 「何を? 僕が盧生だっていうことの真偽について?」 「その通り」  ちょん、と僕の鼻先を軽く突付き、自信を持ってとまた言われた。  疑え、鵜呑みにするな、勘違いをするなと言いながら、同時に信じろとも言われるのは一見無茶な相談だったが、しかし彼女の理屈が分からないわけじゃない。  要は強くなれ。そう言っているのだろう。  惑わされず、己で真実を選び取れる心。  見たいと、芯から願える夢を描ける自負。  緋衣さんはそれを育むための手助けをしてくれる。  盧生とは何たるか。この夢の果てに解明するため。  現状、僕はそのための教材として、二人の盧生を見続けているわけだ。  彼らの思想。人生。そのぶつかり合いを。 「結局君は、この一周目で柊四四八が負けた理由はなんだって思うんだい?  世良水希の考察が勘違いなら、君の考察は?」 「そうね、凄く単純に言えば熟練度。力量の違い」  それは身も蓋もない結論で、しかし当時の相関を思えば当たり前の真実だったが、それだけじゃないと緋衣さんが思っているのは分かる。  なので僕は、無言のまま促した。  その答えは。 「このとき、柊四四八は逆さ十字に遭ってないのよ。だから力量が足りないと言えばその通りだし、観念的な理由があると言えばそれもそう。  彼は八層を越えない限り盧生として完成しない。そして、八層の試練は柊聖十郎なんだから。  さっきの四層突破で、仲間たちに色々上から言ってたじゃない? それぞれの課題というか、そんな感じの」  もちろん覚えている。そしてそれらは、二周目以降の周回で徐々に克服されていったことも知っている。  ゆえに分かった。彼女の言わんとすることが。 「柊四四八の問題は、八層に行くまで表面化しない?」 「そうよ。だから、四層時点で問題だらけの仲間たちに負けることは絶対ないし、問題すら知らない状態で甘粕正彦に勝てることも決してない。  その結果を悔やんで、挫折して、這い上がっても、それは彼にとって本当の試練じゃないから、本質的には上がりも下がりもしないわ」  せいぜいが、世良水希の勘違いを深めるか解くかだけ。あれにはそうした意味しかない。  柊四四八が、真に昇華するためにはただ一つ。  曰く、彼にとって格好をつけるための桧舞台とは、そのときまで訪れることがないのだから。 「柊四四八には、逆さ十字が必要なのよ。  それを超えないとね、盧生サマは死んじゃうわ。ふふふっ」  言って微笑む緋衣さんは、どこか得体の知れない虚空を眺めているかのように、僕は見えた。  その夜――正しくは早朝と言っていい時間だったが、歩美は自宅でPCを立ち上げるといつものサイトに接続した。  これが最近の習慣になってる。仲間たちと鎌倉市内の深夜パトロールを終えた後、登校時間まではネットで情報収集だ。いったい、いつ眠っているんだと言われそうだが、それは学校で眠っているのよと答えるしかない。  四四八の方針的に、いつも通りのノリを貫こうということだったので、そこに違反しているわけでもなかった。なぜなら歩美の夜更かしは今に始まったことじゃないし、学校で居眠りするのも普段通り。  そういうわけで、今夜も歩美はネット三昧だ。少し前までと違うのは、別に遊んでいるわけじゃないということ。 「柊四四八たちの一周目……?」  閲覧しているのは千信館学園の裏サイト。そこで、鎌倉市民たちが今どんな夢を見ているのか。どんな感想を持っているのかをチェックしている。  見るのはそこだけでいいのかと思うかもしれないが、あまり範囲を広げすぎてもいけない。国や大企業ならともかく、個人レベルでやれる情報収集には限りがあるのだ。数が膨大になりすぎれば、纏めることさえできなくなる。  だから、やるなら効率的に。統計として充分なものを得るために場を整えたのは歩美じゃないが、ともかく今はこの裏サイトで、他の利用者たちから情報を募っていた。 「一周目の彼らは記憶を失っていない。そして他の勢力たちはちょっとズルをした……ふむふむ。  目下の注目は四層突破の件。狩摩、本当に他人事な顔して笑える。神野が面白がってるし何か起きそう。楽しみ…… なんだかなあ」  その何かとやらを起こされてはこっちが堪らないのだけど、皆の期待が膨らみ始めているのは感じ取れた。  問題は、まだ具体的なことが分からない点だろう。話題になっているのは四層突破に関するものだが、その答えは出ていない。  おそらく今、このときに皆は問題の夢を見ているのだ。なのでそれが終わり、目を覚ました者が出てくるまで新たな情報は入ってこない。  こうしている間に過去ログも粗方見終わったし、ただ報告者の登場を待つというのも暇な話だ。歩美は少し考えてから、秘密のチャットルームに入った。 『おはようペガサス、起きてる?』  キーボードにそう打ち込んで呼びかける。内容はお伺いだが、実質のところネチケ以上の意味は無く、確認ですらない。  歩美は、この相手がどんなときでも即レスしてくるのを知っている。 『何かなルベン、相変わらず夜更かしだね君は』 『んー、あなたにだけは言われたくないんだけど』  するとやはり予想通り、まったく間を置かずに返信が来た。些か廃人同士の挨拶めいてはいるけれど、まあ似たようなものである。趣味が近く、馬が合う相手として、そこそこ長い付き合いだ。 『さっきみんなの反応を見てみたけど、なんとなく違和感があるの。あなたはどう思う?』 『僕としては何も。だが君が感じていることの正体には見当がつくよルベン』 『ほんとに? 教えてペガサス』  HNの呼び合いに少し間抜けな感じがするのは否めない。  なぜなら彼こそ歩美の協力者で、裏サイトの管理人であり、当然のこと千信館の現役学生で、ゆえにぶっちゃけた話、氏素性顔見知りである。  このチャットルームも、今回の件を頼んでから設けてもらった二人専用のものだから、普通に名前で呼び合っても不都合はないのだ。  というか、音声通話でもしたほうがよっぽど効率的だろう。別に直接会って話してもいい。  にも関わらず彼――つまりペガサスは、頑なにこの方式を貫きたがる。現実に面と向かうのは校内での偶発的遭遇(異様に低確率)以外許さないし、似たような意味で顔も声も晒したがらない。  要するに変人だ。かなりいっちゃってると言っていい。  だがそれゆえと言うべきか、この手のことには疑いの余地無く有能だった。歩美もネット関係はかなり明るい部類に入るが、ペガサスの知識と手腕、人脈には太刀打ち出来ない。  裏サイトの住人たちを全員それとなく誘導し、一種の探偵に仕上げてしまったのがその証だ。彼らは個々の友人や親兄弟、その他外部からも積極的に情報を収集し、投稿している。そういう祭りを意図的に演出するのは、高度な人心操作術とカリスマがなくては不可能だろう。  歩美がこの件を依頼したのはたかだが二日前ということを踏まえれば、神業とさえ言える速さだ。現段階でもこれなのだから、以降はもっとペガサスの兵隊が増えていくに違いない。  事実、昨日など、なんならテレビ局にも協力を頼もうか、などと言ってきたくらいである。流石にそれは、むしろ逆効果になりそうなので断ったけど。  夢への願望が現実になるという真相は話せないので、そういう齟齬が起きるのは仕方なかった。なので歩美は、噂にされているのが先祖のことだから気になるとしか言っていない。  少々不安だが、ペガサスもいたずらに煽って無責任な炎上はさせないだろう。友人として歩美たちの立場を慮ってくれると思うし、彼にとってもまったくの他人事じゃない。  他の一般人たちと異なり、甘粕事件の夢とやらを見ていないのはペガサスも同じなのだ。ゆえに同志として信頼している。  だから答えは?  そう期待して返信を待っていたら…… 『見返りは?』 「……………」 『ルベン、人間関係の基本はギブ&テイクだよ』  いや、それはそうかもしれないけれど。歩美は突っ伏したい気持ちをなんとか堪えた。 「さっきまで、わたしは結構あなたを心の中で持ち上げてたんだけどなあ」  彼に頼みごとをするのなら、毎度なんらかのブツが要るのは知っていたけど、この程度のことにまで言ってくるなよと。 『今期覇権アニメのヒロイン抱き枕でどう?』 『却下だ。君は未だに僕のことをよく分かっていないようだね』 『意中の女性をあられもない姿に剥き、獣欲のまま抱いて眠ることを目的とした物など、愛に対する冒涜だと思っている。実に許しがたい愚劣さだ。  いいかいルベン、夢とは触れ得ないものだからこそ美しいんだよ。たとえ商品やそれに近い形態を取っていても、本質的には遠いもの……そこに明確な彼我の次元を分かつ、切なくも愛しい一線がなくてはならない。  漫画を見て、誌面に生きている彼女の手を握れるか? アニメを観て、液晶に躍動する彼女の人生を守れるか?  そう、出来ない。出来ないからこそ強く焦がれる。しかし絶対にやってはならない。彼女らをこちらの次元に無理矢理落とし込んでなんとする。  そんなものは本質を歪めた行為であり、だから冒涜だと言っているんだ。その背反に苦しみ、かつ快感を得る者でなければ二次元を愛す資格はない』 『ゆえにルベン、弁えたまえ。君はもう少し敬虔さを持つべきだ』 「お、おぅ……」  こいつは何を言っているんだ? 毎度のことだが、頭がわいているとしか思えない。  だが直言するわけにもいかないので、彼の理屈をなんとか自分なりに解釈しつつ、これまでの傾向も踏まえて有効な貢物を考える。 『声優さんのサインでどう?』 『ほぉ……』  食いついてきた。要するにペガサスは、立体的に触ること前提の物が駄目なのだろう。先に挙げた抱き枕や、あとはフィギュアとかそういう類。  曰く本質、察するにキャラクターの魂的な? それを三次元物体に宿らせるのが冒涜だと言っているんだ。あくまでも絵や文字として、二次元に本質を置く物なら彼の教義に抵触しない。 『ギリで有りだな。2.5次元だ』  声優は生身の人間だが、二次元キャラの魂を構成する一つでもある。よって有効。  その握手権なんて言ったらまた説教をされただろうが、サインなら二次元物体だから問題ないのだ。 『じゃあ決まりだね。すぐってわけにもいかないけど、必ず用意するから少し待ってて』 『了解した。それではルベン、先の問いだが』  現在の夢情報、その傾向に対して歩美が覚えた漠然とした違和感。  それが何か、ペガサスは見当がつくと言っていた。ではいったい? 『君ら自身と君らの先祖が、徐々に混同されつつある。  正直、どちらのことを言っているのか分からない書き込みが目立ってきたよ。ほら、たとえば……見なよ、今朝の報告者第一号だ』  言われ、歩美は掲示板のほうへと目を移す。そこにはペガサスの指摘どおり、今夜の夢から覚めた第一号が書き込んでいた。 “今日の柊たちは喧嘩しそうで見物だな、あんなことがあったわけだし” 「……は?」  あんなこと? あんなことってなんだ? 『君らは喧嘩をしたのか、ルベン?』  ペガサスの問いに答えるなら否だ。自分たちは喧嘩なんかしていない。  しかし書き込みの内容は主語が曖昧で、いったいどっちのことを言っているのか分からなかった。  ネットによくある日本語でお願いというやつかもしれないが、寒気がする。  歩美は直感的に、これはこれで書き込んだ人の中では筋が通っているのだと察していた。  前半部分は現代、後半部分は百年前。  二つの時代と二グループの登場人物を混同している。戦真館の因が千信館の果になるとでも言うかのように。  しかも、凄く当たり前な感じで。 「ちょっと、待ってよ……」  焦りながら掲示板に張り付いた歩美だったが、それから登校時間までの間、続々と挙がってくるとんでもない書き込みを見る羽目になってしまった。 「……なるほどな」 歩美からの説明を受けて納得する。俺も昨日から漠然と感じていたことであり、石神に相談した案件だったが、そういうことになっているのか。 「なあこの状況、すげえ俺はムカついてんだが」 「抑えろよ鳴滝、ここで切れたりしたら台無しだろ」 「そうそう。だからほら、にこやかに~」 「なんだか針のむしろだな」 まさしくそんな感じだった。教室で会話しているだけという、ごくなんでもない普段通りの俺たちなんだが、周りの奴らはそういう風に見てくれない。 クラスメートたちはもちろんのこと、他のクラスや学年が違う奴らまでちらほらとやって来ては、俺たちを遠巻きに観察して何事か囁きあっている。 鳴滝が言う通り、これだけでもかなり腹の立つ状況だった。しかし、かといって不快の意思を表明することは躊躇われる。 なぜなら、この野次馬どもは俺たちを危険人物のように見ているからだ。怖いもの見たさ的な好奇心で集まっているのが分かるため、怒ればそれ見たことかとなってしまう。 だからなるべくにこやかに、和気藹々とした風に俺たちは話し合っているんだが、これにどの程度効果があるかは分からない。 「ともかく、俺たちは喧嘩を期待されているらしい。癪だし、実際にそんな予定も無いから、その通りに振舞ってやることはない」 「曽祖父さんたちの一周目とやらに何があったかは理解したが、その出来事と俺たちは関係ないんだ。これ以上、余計に混同を深めるような真似は慎まないといけないだろう」 「前に心配したことが、ちょっと現実になりかけてる感じだよな。オレらの人間関係、そこらへんの事実ガン無視かよ」 「まあ今のところ、どうしようもないレベルで夢と現実をごっちゃにされてるわけでもなさそうだけど」 「正確に言うと、こうだよね。みんなは私たちも例の夢を見てると思ってるから、その影響でぎくしゃくしてんじゃないの?みたいな」 「そういうことでしょ、歩美?」 「うん。裏サイトの反応を見る限り、そのくらいに留まってはいると思う」 「あくまでもまだ、という感じではあるがな」 かつて戦真館の特科生たちは、一周目の四層突破に際し仲間同士で本気の殺し合いを行った。そういう夢を全員が共有しているはずだという前提のもと、良く言えば俺たちの仲を心配している面もあるのだろう。 親同士が喧嘩をしたら、それを知った子供同士にも影響が出る。要はそういう論法で、一応理屈は通っていた。 あまりにも興味津々の度が過ぎるという面で異常の片鱗は感じるが、まだギリギリ現実的な体裁は保たれている様子だ。 「こうなったらよ、別に俺らはそんな夢なんか見ちゃいねえよって言いまくればいいんじゃねえか?」 「おまえらの言ってることはただの夢なんだよ、ごっちゃにすんなって分からせるためにもよ」 「あー、あたしもそう思う。これまでもしょっちゅうそのへん訊かれたし、曖昧に誤魔化してたから悪いんだよ」 「気持ちは分かるが、たぶん意味は無いぞ」 「というか、逆効果だな」 「そうかあ?」 「単純に数が違いすぎるから、多数決には勝てないよ。私たちが知らない、見てないって言っても、それは私たちが特別だって言ってるようなものになっちゃう」 「そうね。だからやっぱりこいつらは、って思われちゃうだけ。あんたらもっと考えて話しなさいよ」 「んなこと言ってもよぉ……」 「正直、こりゃかなりきついぜ。オレなんかおまえ、今朝いきなり知らない奴に肩叩かれて、しみじみ同情されたんだぞ。意味分かんねえっつうの」 「何やらかしたんだよ、おまえの曽祖父さんは……」 どだい、夢を見ていない俺たちは詳細を知るにも限度がある。裏サイトの情報から大まかな流れは把握しても、実際にライブで体験した奴らとは熱の感じかたが違うというものだろう。 「栄光くんとあっちゃんはまだマシなほうだよ。わたしとりんちゃんとか、ねえ?」 「サイト見たけど、凄い言われようだったわね」 「それは俺もな」 「俺もだ」 「ていうかたぶん、一番私が……」 「まあ、そういうことは言ってもしょうがないだろう。現実を見よう」 少なからず滅入るものがある俺たちを奮起させるように、元気よく石神が手を叩いた。 こいつは夢に立場が重なる登場人物を持たないので、皆の中でも一種独立した精神状態を保てている。 それはこの状況で、心強いものでもあった。 「かつての特科生たちと君らを混同するような流れが生まれ始めている。そのうえで、今のブームは君らの不仲を期待するようなもの」 「整理するとこういう感じだな。これを踏まえつつ、近く顕れるだろうタタリの性質を見極めないといけない。皆の意見を聞かせてくれ」 言われ、頷くと気持ちを切り替える。こいつの言う通り、一番現実を見ないといけないのは俺たちなのだから。 「予想されるパターンは二つある。実際に俺たちは喧嘩などしていないんだから、その事実を変えるための手段が求められるはずだろう」 方向性、と言ってもいいが。 「一つ、野次馬どもの認識のみに干渉する。これは前にも話した系統だな。要するにパントマイムだ」 「私たちが憎み合ってるという夢のすり込みね。現実がどうだろうと、他の奴らの中ではそれが真実だと完結させる。何を言っても、やっても、通じなくなる状態」 「その場合、出てくるタタリはたとえばどんな感じなんだ?」 「有り得るのは、暗黒柊四四八とその仲間たちみたいなものじゃないかな」 「同感だ。おそらくそうなる」 殺伐と憎み合っている戦真館の特科生たち。あるいは俺たちそのものか。いずれにせよ両者の混同が進めば、見ている奴らにとって違いなどない。そういうタタリが拡散されたら、我堂が言う通りの状態になるだろう。 「そして二つ目。正直、恐ろしさではこっちのほうが上だ」 すでに同じ予想を立てていたのか、世良が俺の言葉を引き継いで言った。 「私たち自身を変えちゃうことだね」 「はっ?」 「え、いや、ちょっとそれってどういうことよ?」 「つまり、俺たちを直接狙い打つタタリだ。柊四四八たちを喧嘩させろという願いを受けて、その役目を果たそうとする夢」 この現実で、俺たちが険悪な関係になるよう仕向けてくる。どういう手練手管でそれを成すかは知らないが、実現されたら困るどころの話じゃない。 前者のパターンは、極論すると外野が勝手に騒いでいるだけだ。不快だし風評被害も受けるだろうが、それ以上のものではない。 だが後者は、俺たちの関係そのものがおかしくなる。仲間割れなどした状態でこの先やっていけるわけがないのだから、それは自殺を促す悪夢とも言えるだろう。 「なるほど、それは手強そうだ。しかし見方を変えれば、ある意味ラッキーとも言えるんじゃないか」 「我々を狙い打ってくれるなら、無駄な犠牲が出なくていい。要はこっちがちゃんとしてればいいんだよ。簡単じゃないか」 「おま、そんなあっけらかんとな……」 気楽にすぎるとも言える石神の意見だったが、それを聞いた俺は思わず苦笑してしまった。 「……まあ、そうだな。確かそういう見方もある」 「いや、そう考えるべきなんだろう」 些かネガティブに寄りすぎていたと自覚する。俺たちは仲間割れなど誰も望んでいないのだから、タタリに洗脳される謂れはない。 確かに、こっちがちゃんとしていればいいだけの話だ。 「気に入ったぜ石神、単純に考えるのは悪くねえ」 「だな。どうせそんなもんが出て来てもさ、栄光が鈴子の貧乳馬鹿にしてるとか、そういうこと吹き込んでくるだけだろ。目じゃねえわ」 「なに、あんたそんなこと言ってるわけ?」 「言ってねえよ! ……いや、そういうわけでもねえけど」 「ほんと、しーちゃんってば前向きだよね」 「もちろんだ。君らの絆は誰にも侵せないものだと信じているっ」 「お、おぅ……その、ありがとう」 顔を見合わせ爆笑する俺たちの様子を、他の奴らは驚いた目で見つめている。 そうだ、これでいい。 こういうノリを保ち続けることが、今は一番大事なことだ。 「方針は決まったな。その二パターンを想定して夜は動こう。情報収集も忘れずに」 「おらー、おまえら。何をわらわら集まってんだよ、散れ散れー、散らんか」 「出欠取るぞー! ほら、関係ない奴はさっさと散れって言ってんだろうが」 そんな芦角先生の登場で、一気に場の日常感も回復した。この人も俺たちと同じで、例の夢を見ていない少数の一人だと判明している。 だから他と違い、まるでなんの影響も受けていない普段通りぶりに、ある種の頼もしさすら込み上げてきた。 「おい、なに笑ってんだ柊。さっさとおまえ席につけよ」 「すみませんでした、では――」 ひとまず夜まで、今日も学生らしく行くとしようか。 ホームルームが終わり稽古の時間、教室には張りのある声で、戦真館の物語が紡がれていた。 実行委員をやっている側としては、他にも色々やるべき仕事があるのでそっちを疎かには出来ないのだが、しかし肝心の劇が芳しくない。 それというのも、どことなくキャストを務めるメンバーと、裏方に回っているクラスメイトたちとの温度差があるからだ。 文化祭本番が迫っているわりに、未だキャストのエンジンはかかり切っていない。だから実行委員の仕事はひとまず置いて、俺は劇の方へ集中していた。 とはいえ歩美や栄光あたりは何とかやってくれている。 鳴滝は比較的に台詞が多くないし、我堂は伝わる逸話がどれもこいつそのままなので、そもそも演じている、という感じではない。 だからこそ、誰よりも不安にさせてくれるキャストがいた。 それは―― 「つまり、晶はこう言うんだな。世良と出会って以降のことは、必ずしもネガティブじゃない」 「そ、そう思ってるよ……おまえの前で言うのは無神経だし、恵理子さんを夢に誘ったのはあたしだから、ふざけたこと言ってるって自覚はあるけど」 「でもさ、あたしらが一緒にいるのって悪いことか? みんなのために頑張るのを誇らしいって思うのは間違ってるか? それ死亡フラグかよ? 違うだろ?」 「…………」 「だから四四八、つれなくすんなよ。こんなんじゃ本当に嫌なままで終わっちゃうじゃん。あたしが、ゲ、〈女の勘〉《ゲスパー》かましたみたいにしないでくれよ」 「巻き込んだり、込まれたんじゃない。望んだんだ、あたしらが」 「だいたい、仲間を頼らないなんて〈千信館〉《うち》の校訓に反するだろ」 「これは絶対、不吉なことなんかじゃない」 力強く断言する晶――という脚本なのだが、明らかな照れが見てとれる。 ここのやりとりは劇の序盤で肝になる部分。戦いが始まってしまえば状況は刻一刻と変わっていくわけで、その出発点を固めるシーンなのである。 ゆえにスタートがブレていると、何のために動くのか、何のために考えるのか、そして何のために戦うのか。 頭を使わないでサクッと見られるような、単純な恋愛劇などではない。土台がしっかりしていないと、見ている客は途中で分からなくなってしまうだろう。 「また一緒に、ごっこ遊びするか――犬塚信乃」 「おう、頼りにしてるぜ――犬江親兵衛」 さて、ここからだ。想いを新たにするにようして、懊悩を振り払う。 葛藤はあれど、戦うためには決意表明や覚悟を確かめることが必要なのだ。 ならばこそ、次のシーンでは―― 「ほら四四八、カモン」 おもむろに両手を広げ……てないな。 ガチガチに固くなりながら、なんとか両の腕を広げようとしている。 「は……?」 台本と同じ台詞なのだが、俺の実感としては違う意味も含まれていた。 何をやっているんだろう。と言うか、何をしたいんだろうこいつは。 これでカモンとか言われても、こっちまで無駄に緊張してくる。 「色々、これから一緒にやっていかなきゃいけないだろ? だからその前に、おまえが気にしてるところは全部無くしちゃおうぜ。泣けないのがつらいって言ってたじゃん」 「それは、言ったが……」 熱く語っているはずの言葉が、演技と合っていない。 本当にあたしの腕の中へ来るの? マジで? 劇の中とはいえ、マジなのか? みたいな心の言葉が伝わってくる。 「胸貸してやるから泣いちゃえよ。遠慮すんな、秘密にしてやる」 「泣けないかもなんて心配すんな。意地でもあたしが泣かせてやるから」 泣きそうな顔で言わないでほしい。 「な? ほら、おい――ちょっ、逃げんなよ!」 「いや、おまえが逃げるなよっ」 台本の台詞は、いや逃げるだろっ、である。 しかし、晶は手を広げながらも即行で逃げられるような感じで力を入れ、あまつさえ俺が少し身体を動かすだけでビクッと腰を引いてしまった。 これではまるで晶の身体に触れようとしている痴漢みたいじゃないか。 「はぁ……真奈瀬さーん、またミステイクだー」 「これで十六回目だよ。同じ事、何度繰り返せば気が済むんだろうね」 「いい加減、私たちも怠くなっちゃうよ。五回目超えたあたりから緊張感、欠けてきてるしー」 クラスメイトの非難が公然と晶へ飛んでくる。 しかし、段々と真っ向から潰すわけにもいかなくなってきていた。 確かに進歩の見えない繰り返しのせいで、稽古の締まりが悪くなっているような、全体的な緩みが無視できなくなるところへ来ていた。 「四四八くんが、何度も付き合わされて可哀相」 「いや、俺はいいんだ。それより晶、大丈夫か。煮詰まってるなら、一回離れることも視野にいれた方がいい」 「気にしないで、あたしは大丈夫だから。それより、ごめん四四八」 「だから、気にするな。おまえが手を抜いたりしてないことは、ちゃんと俺たち分かってるから」 「四四八……」 しかし、先ほど声をあげた女生徒が被せるように告げてくる。 「四四八くんもさー、身内ばっかりかばってないで、もっと私たちのことも見るべきだと思うな」 「そうね……、真奈瀬さんだけずるいなって思います」 彼女らに釣れられて、一斉にクラスメイト達がどよどよと不満を述べ始める。 妙に絡んでくるが、そもそも俺はこの二人と親しいわけではない。劇の中でもそれは同じで、だから彼女たちの本音は別にあるのだと伝わってきた。 つまり、仲違いする俺たちが見たいのだろう。 「おまえら、うっせーよ! そんな風に晶のことぐちゃぐちゃ言ってる時間だって、さっきから増えてきてるじゃねーか。いい加減しつこんだいよ」 「はい、そこまで。もぅー、みんな一旦落ち着こうよ。四四八くんも、台詞にない言葉で突っ込んじゃダメだよ~」 「すまん。妙に避けられている気がして、ついな」 「さ、避けてるわけじゃねぇよ!」 「だったらいいけど、今のシーンだけでも、もう少し何とかならないかな」 「うっ……」 「確かになぁ。ここのシーンだけで何回やり直してるんだろ」 「うーん、それじゃあっちゃんは自主練ってことで次のシーンへ行っちゃおうか」 「さすが演出監督。びしびしいくんだな」 「…………」 晶には悪いが、時間があるわけじゃない。 俺たちは次のシーンの準備をしつつ、再び台本読みを行ったのだった。 昼休みになると次の移動教室もあったので、早々に食事を済ませて先に教室へと向かっていた。 溜まっているはずの実行委員の仕事がある。我堂に任せている分もあったが、劇にかまけてやらないわけにもいかない。 そして、学年ごとの出し物リストから、備品や当日の人員についてチェックをしていると、不意に後ろから声をかけられた。 「よ、よう。仕事は捗ってるか?」 「いきなり何だ。今は昼休みだぞ。飯はいいのか?」 「四四八だって、先に来てるじゃんか」 「もう食べたのか?」 「おう。特にやらなきゃいけないこともないから、早めに移動して来たんだ」 「良い心がけだ。予習しておけよ」 「あ、ああ」 タイムスケジュールを確認しながら、文化祭の照明係を配置していく。 担当の実行委員が作ってくれたものだが抜けも多く、芦角先生からチェックと修正を任されているのだ。 「思ったよりも時間がかかりそうだな……」 どうする。我堂に手伝ってもらいたいところだが、あいつもやること多いしな。 そんなとき、都合良く目の前には暇そうな幼なじみがいた。 「そうだ。悪いが手伝ってくれないか?」 「え、おまえが今やってる作業をか?」 「ああ。簡単な作業だから、表の確認を手分けしてやってくれると――」 「わりぃ、四四八。それはできないんだ」 「……は?」 普段は見せない上目遣いでこちらの様子を伺ってくるような晶。 こいつはそのまま、もじもじしながらも意を決したように切り出した。 「頼みがあってきたんだ。おまえのことだから、なんとなく分かってるだろ」 「いや、まあ、いつもの晶じゃないなとは思ってたけど、何の用だ?」 「歩美たちには内緒にして欲しい。約束してくれるか?」 「……ああ。おまえがそう言うなら約束する。早く言ってくれ」 「うん。実は、そのっ、演技の練習に付き合って欲しいんだ」 「演技? おまえ……もしかして、そのために俺が一人で作業してるのを見計らって、こんなに早く来たのか?」 「そうだよ。わりぃかよっ」 「悪くはない。むしろ良い心がけだが、そんなに時間はないぞ」 時計をちらりと見ると、昼休みは残り三十分を切っている。 「頼む。次の稽古は明後日のショートホームルームだから時間が無い。それまでにクラスの奴らを見返したいんだ」 「おお……」 そこまで熱い気持ちだったのか。正直、乗り気じゃないのかと思っていたから嬉しい誤算である。 目の前の作業も詰まっているが、俺は晶の情熱に突き動かされるような形でこいつの両手を掴んでいた。 「よし、やろう。おまえがそこまで言うのなら、きっと今やれば身になる特訓ができるだろう」 「……あ、ありがとよ」 なんだかもう劇中みたいなやり取りだが、俺は熱い気持ちで応えようと思った。 ――のだが。 「お、お、おまえなあ! そこでそういう反応するか普通? どう考えてもここはありがとうって流れだろうが! 恥ずかしがってんじゃねえよガキ!」 「うるさいぞ、そんなんじゃない。だいたいおまえこそ、顔真っ赤だろうが」 「おまえが妙な反応するから釣られちゃったんだよ! ――ああもう、なんだこれ、あったまきた。絶対逃がさねえからな、そこ動くな!」 「こっちの台詞だっ」 「わ、悪いっ」 突っ込むと、さながら小動物のように晶は身体を震わせる。 わざわざ着替えた気合いも空回りのようだ。 「じりじり後ろへ下がりながらだと説得力なくなるだろう」 「分かってはいるんだ……」 晶と演じるシーンでしばしば感じることだが、この何とも言えない緊張感を払拭できるかどうかが勝負の分かれ目だろう。 歩美や栄光だと自然に没頭していけるのだが、こいつ相手だと妙な羞恥心が伝わってしまうのだ。 「はぁ…………」 顔真っ赤だろうが、と指摘するシーンは、演技と思えないほどの仕上がり具合。 「気持ち一つというか、ちょっとの変化だと思うんだけどな」 「……あたしにできるのかな」 らしくないほど気落ちしている姿を見ていると、気休め程度でも慰めの言葉をかけたくなる。 しかし、それで改善するほど簡単じゃない。俺は思いきって言ってみた。 「よく考えると、こんな役柄なんて比べものにならないくらい、昔のおまえはノリノリだったじゃないか」 「な、なんだよそれ。その言い方。あたしが変な女みたいだろ」 「否定はしないが、今はそういうことを言ってるんじゃなくて、小さい頃を思い出してみろよ」 「公園の砂場で、歳上の奴と喧嘩したとき、覚えてるか。あのとき、おまえは啖呵を切って言ったんだ」 「四四八たちは、あたしの最高の仲間なんだ。大好きな仲間のこといじめると承知しねーぞ! って……」 「ば、馬鹿! そんな昔のこと掘り返すんじゃねーよっ。あれはさ、栄光の馬鹿と四四八が、顔も身体も怪我だらけで帰ってきやがったから、その――」 「だからといって、男の、しかも歳上にあんな台詞を吐いて向かっていけるおまえのことを、歩美も世良も我堂だって感心したんだぞ」 だから、触発された女性陣も俺たちの喧嘩に加わってしまい、十人以上の大騒ぎになり、しまいには救急車まで出動する事態になったのだ。 「今はもう子供の頃と違うし、あたしが原因で四四八たちのことを悪者にするのはって思うと、なんだかプレッシャーになってきて……」 「そんな考えこそ捨ててしまえ。そんなことよりも、あのときの自分を思い出せば、今ある羞恥心を乗り越えられるはずだ」 「うっ、そ、そうかな……」 「あのときは、どうしてあそこまで熱くなれたんだ?」 「それは――」 動揺していた晶だったが、俺につられて真剣な雰囲気の表情になっていく。 どうやら本気で思いだしているようだ。 邪魔をしないように待っていると、たどたどしくはあるが晶は語り出した。 「……い、いやあ実はさ。あたしだって、本当はもっと前に出て、四四八たちのことを守りたいって思ってたんだ。けどさ、喧嘩になると四四八と栄光と鳴滝が出ていっちゃうだろ」 「でも……それでっ、よ、四四八が顔を腫らして帰ってきたのを見たら、頭がかーっとなって、そのまま自分を止められなかった……あゆたちには言うんじゃねーぞ」 「それで、あんな風に啖呵を切って、向かっていけるものなのか」 「も、もういいだろっ! 昔のことはッ!」 顔を真っ赤にして叫び返してくるところを見ると、これ以上は掘り下げない方がいいみたいだな。 うじうじやっていても時間が過ぎていくだけなので、まとめるように言った。 「分かった。そう興奮するな。とにかく晶は、元々が戦真館の物語における真奈瀬晶の性格に近いわけだ」 「友情に篤くて行動力があって、ときどきやり過ぎちゃうこともある」 「そ、そうなのかな……」 「だったら話は簡単だろ。自分の気持ちに素直になれ。あのとき俺たちと一緒になって、悪童と戦ったときの気持ちを思い出すだけでいい」 「うん、確かに夢中になればいけそうな気がしてきた」 少し強引な気もしたが、単純明快な言葉を聞いた晶は思ったよりも納得したように頷いている。 「そうだ。なんなら、状況を再現するという意味で、少しくらい俺は顔を腫らしたっていいんだぞ?」 「ば、馬鹿野郎! 駄目だよ、そんなの! 四四八が怪我したりするのは絶対に禁止!」 「だったら、俺が怪我をせずにすむよう、頑張ってくれ晶」 「うん、分かった……!」 「それじゃ、続きからいこう」 そうして、俺たちは数秒だけ見つめ合い、再び戦真館の柊四四八と真奈瀬晶へ切り替わった。 ………… どうしたらいいのか分からない。ぽかんとした表情の俺。 「ほら四四八、カモン」 おもむろに両手を広げ、そこには羞恥の色が〈少〉《、》〈し〉《、》〈だ〉《、》〈け〉《、》〈し〉《、》〈か〉《、》見られない。 頑張ってるな。 「は……?」 「色々、これから一緒にやっていかなきゃいけないだろ? だからその前に、おまえが気にしてるところは全部無くしちゃおうぜ。泣けないのがつらいって言ってたじゃん」 「それは、言ったが……」 動揺しつつ上体を引く俺に対して、晶の笑顔は力強い。 「胸貸してやるから泣いちゃえよ。遠慮すんな、秘密にしてやる」 「泣けないかもなんて心配すんな。意地でもあたしが泣かせてやるから」 「な? ほら、 おい――ちょっ、逃げんなよ!」 「いや逃げるだろっ」 「お、お、おまえなあ! そこでそういう反応するか普通? どう考えてもここはありがとうって流れだろうが! 恥ずかしがってんじゃねえよガキ!」 「うるさいぞ、そんなんじゃない。だいたいおまえこそ、顔真っ赤だろうが」 「おまえが妙な反応するから釣られちゃったんだよ! ――ああもう、なんだこれ、あったまきた。絶対逃がさねえからな、そこ動くな!」 今までと比較しても、比べものにならないくらい確信に満ちた言葉。 表情には微かな照れが見え隠れもするが、それだって本当の真奈瀬晶が違ったかというと、そうではないのかもしれない。 当時、こんなやりとりをしたときの先祖達は、もしかして今の俺たち以上に照れ隠ししながら、熱い青春をしていたのかも。 「…………」 「……分かった」 諦めたようでいて、どこか浮ついたような柊四四八の台詞。 晶はたじろぎつつも、ぐっと身を乗り出す。 「お、おう。ま、任せとけ」 「……そういう態度やめろ。胸が痒くなる」 「う、うるせえな。もとはおまえのせいだって言ってんだろ」 「……本当に泣けるかどうかは分からないぞ」 「だから……泣かしてやるって言ってんじゃん」 「……じゃあ、頼む」 「……う、うん。いくよ」 まさか人知れず学校の昼休み、芝居とはいえ二人で抱き合うことになるとは。 頭の片隅で信じられないとか思いながら、まさにその瞬間が訪れようとしていたときだった。 「――な」 「げっ――」 さながら予定調和のようでいて、しかし友人たちの溢れる気持ちが零れるように。 教室の扉が突然、開いたのだった。 「わ、わりぃーなー、四四八。歩美の奴が気になってるもんで、つい」 「そ、そんな、嘘つかないでよ……っ。栄光くんだって気にしてたくせに」 「でも、感動した。あっちゃんがここまで出来る子だったなんて、わたし舐めてたよ」 「す、すまん。邪魔するつもりはなくてだな、これは単に、まったく予想外だったっつーか、おまえがそんな関係だったなんて、びっくりつーか……」 「き、き、き、き……」 「……はっきり喋れよ、鈴子」 鳴滝と我堂までいたのか。おまえら、否定するくせに仲良過ぎるだろう。 「き、汚い! 不潔よ――変態、変態! 今すぐそばもんになって死ねっ!」 「そばもん馬鹿にしてんじゃねえよ鈴子てめえっ!」 「つかおまえら、心配してるんなら隠れてないで出て来いよ!」 怒号と悲鳴が響きあい。 歩美は楽しそうに笑っているけど、こいつらの水くささに文句を言いたい気持ちでいっぱいだった。 どこらへんが晶を置いといて先へ進める判断なのか。心配していなかったら、そんなところで雪崩れ込むことにはなっていないだろう。 「はぁ……」 俺が溜め息をつくと、それをまたきっかけに我堂が喚きだし晶がやり返して、鳴滝が皮肉で煽り栄光が巻き込まれ、歩美が火に油を注ぐ。 世良と石神がいないのが惜しい気がしたが、それはそれ、皆のことを眺めながら俺はどこか心安らかになっていた。 同時に気になるのは、曽祖父さんたちはどうだったのかなという疑問。 勇ましく熱い若者たちの物語だが、もしかすると歴史の研究者たちが考えているよりも、ずっと青春物語だったのかもしれない。 「この配置図は何だ?」 「文化祭で必要な椅子と机。あんたが作っておいてくれと言ったんでしょ」 「もうできたのか。さすがに早いな」 「ふん。遅かったら遅いでうるさいくせに」 我堂から受け取った紙束には各教室における必要な椅子と机が記してあり、当然俺たちのクラスの配置図も含まれている。 例えば喫茶店のような催しと比べると、演劇をやるわけだから、椅子や机はさして複雑なものじゃなかった。 「それで次はどうするのよ。実行委員の仕事がなかったら、演劇の手伝いをしたいのだけど」 「そうだな……」 こいつの言う通り、そっちの進行が遅れ気味ではある。芦角先生の手前、実行委員を優先することも多く、演劇の練習へ満足に参加できないのだ。 台詞はすでに頭へ入っているし、事実ミスをすることも少ないのだが、自分だけの問題ではない。 晶なんかは自分の役回りに苦戦しているし、なるべく手伝ってやりたいところである。しかし、無視できない実行委員の仕事もあった。 「何を考え込んでるのよ。仕事がないんだったら、向こうを手伝うわよ?」 「待ってくれ。頼みたいことがないわけじゃない。机と椅子の配置が決まったら、倉庫から予備を出す必要がある」 「それを私たち二人でやるの?」 「そのつもりだったんだが、しかしな……クラスの仕事も進めないと」 「そうよ。劇の遅れだけじゃないわ。大道具を作ってるメンバーも人数が少なくて大変なんだから」 一応、物語の主役を務めているわけで、遅延が忍び寄る中、実行委員の仕事だけを優先させるわけにはいかない。 すると我堂は俺の心中を察したように言った。 「……仕方ないわね。柊がいなくなったら、うちのクラスは本格的に遅れるわ。倉庫の作業は私がどうにかするから、あんたは大人しく教室にいなさい」 普段は高飛車な言動が多く、ゆえに失敗することは日常的な光景になりつつある我堂だが、こういう風に状況を理解して即座に察してくれるときは頼もしい。 こいつの気遣いへ、純粋に感謝である。 「すまん。今はおまえに頼らせてくれ」 「ふ、ふん。当然のことをわざわざ言葉にしないで」 どうやら苦々しい思いで引き受けているわけでもなさそうだ。 俺は安堵しながらも、我堂一人に任すのは気が引けるので、暇そうにしていた鳴滝へ声をかけた。 「鳴滝、おまえ我堂のことを手伝ってやってくれ」 「あん?」 突然の頼まれ事に、鳴滝が分かりやすく表情を曇らせる。 我堂もまた似たような顔をして反論を飛ばしてきた。 「どうして淳士から手伝われないといけないのよ。一人で無理そうだったら、女子に頼むわ」 「勝手にしろ」 ある意味、軽く予想できた反応だったので、俺はたたみ掛けるように説明した。 「力仕事になるから、女子だと二人でもきつくなる。進捗が遅れている状況で三人目の手伝いは出せないぞ」 「うっ……」 「配置図を作ったおまえは指示にまわった方がいい。そうなってくると力仕事をこなせる男を連れて行った方がいいんだよ」 「鳴滝なら、現状手持ちぶさたになっている。我堂の手伝いへ適任だ」 正論なのでこいつは黙ってしまった。実行委員の仕事ではあるが、それで余計な負担をクラスにかけるわけにもいかない。 そういう理屈は我堂もよく分かっているだろう。 「……面倒くせぇな」 愚痴をこぼしているが、俺から頼まれたことで鳴滝も納得したように見える。 「こっちが早く終わったら駆けつけるよ」 「分かった。気は乗らないけど、とにかくさっさと片付けてくるわ。ダラダラしてないで行くわよ淳士」 「うるせぇ。指図してんじゃねぇ」 「指図したくて言ってるんじゃないの。私だって、あんたとなんか仕事したくないわよ」 「だったら、一人でやれ」 気がつけばいつものやりとりを、まるで様式美のように繰り広げている。 「……ったく」 けどやり合いながらも、二人は自然と作業へ向かおうとする。 そういうのは、もはや慣れ親しんだ光景―― のはずだった。 しかし、そのとき。 さっきまでは違う視線に、〈俺〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》は気がついた。 「えっ、なに……?」 鳴滝や我堂より少し離れて、演技の練習をしていた歩美たち。渋る晶へ、歩美を監督として、世良と栄光が演技指導をしている。 すると歩美は、晶たちから視線を外して、周りの生徒たちへ言ったのだ。 「もうっ。まさか、こんなことでアヤシイ~とか思ってるの?」 「……は?」 「はいはい、もうくだらないこと言ってないでさ。口よりも手を動かす! ただでさえ遅れてるんだから」 「ああ? 何言ってんだおめーら」 「私たちにとっては普通の光景なのにね」 「そうだよ。りんちゃんと鳴滝くんと四四八くんが、あんななのはいつものことじゃん」 「あんなのってなによ」 歩美の言っていることへ先に気がついたのは、栄光たちの方が先だった。 普段は見せない歩美の強い口調に少し驚いたが、周りの生徒たちから聞こえる呟きで、俺はようやく何のことか理解できた。 “我堂さんってさ、鳴滝くんと柊くんの二人とさ――” 「なんだそれは」 弄り甲斐のある我堂のせいて、確かに昔はよく勘繰られたことだった。 男女の関係における、幼稚で浅薄な噂話。 空回りするタイプの我堂が、口数の少ない鳴滝へ絡むものだから、それはときに五月蠅い与太話になったりもした。 けど栄光の言う通り、今さらだよなあ。 「も~~、しつこいなあ!」 「目眩がするほど下世話ね」 「くだらなすぎるぜ。おい、柊。帰っていいか?」 「馬鹿ッ、ホームルーム中に帰ってどうするのよ」 とはいえ、歩美もあそこまで声をはりあげることないだろうに。 だが、半分呆れている俺の思惑とは反対に、周りを取り囲むクラスメイトたちのひそひそ話は、驚くような勢いで伝播していった。 “けど、やっぱり怪しいよね。女子と話さない鳴滝くんだし、普段は冷静な柊くんが我堂さんの前だと、変なことで言い合ったりするし” “表面上は仲良さそうだけど、鳴滝くんと柊くんってさ、もしかして……” 「お、おい。なんだよ、こりゃ……」 「ばっかじゃねーの?」 あまりの浅薄さに、黙って呆れていた晶がついに挑発的な言葉で切り返す。 そうすると案の定、周りの声も大きくなっていった。これはもう噂話なんかじゃない。 「いい加減にしてほしいわね。下劣な妄想をするのは勝手だけど、ネタにされる方の身には考えが及ばないのかしら」 まずいな。金切り声で叫ぶ間はまだいい。しかし、我堂の様子を見ていると、いつもの腹立ちとは違う。 本気で汚いものを見るような目になっている。 「おい、鳴滝――」 慌てて声をかけると、鳴滝も普段とは比べものにならない鋭い表情で、クラスメイトたちを睨んでいた。 「てめぇら、どんだけ偉いんだ?」 「ほんとだぜ。おまえらのつまんねえ妄想に対して、オレたちはいちいち言い訳しなきゃいけないとでも思ってんのかよ」 「……説明して伝われば、まだいいほうね」 「おまえたち……?」 なんだこれは。端を切った歩美だけじゃない。我堂や晶や栄光、普段は相手にしないはずの鳴滝や、ましてや世良までが本気で不機嫌になっている。 ただ皆の怒っている理由も、俺は理解できた。 栄光の言う通りではあるのだ。日常の何気ない一幕でさえ、きっかけ一つで周りはありもしないことを思い描いたりする。 それが個人の妄想であるならばいいが、こうして包囲網のような噂話をされると、それはまるで猛烈に広がる山火事のようだった。 真っ向からいくら否定しようが、さながら悪意を持った炎のごとく、廻遊して燃え上がり、後には何も残らない。 「…………」 我堂たちの異様な雰囲気に対し、クラスメイトたちも、さらに刺激を受けたようだ。 廊下にいたはずの生徒も呼んで、群衆の妄想は妄執へと変わっていく。 そうであればいいなから、そうであるべきなのだと、真実を塗り潰していくペルソナのように実体のない言葉やイメージ。 そして、俺は自分の内で急激に広がる、ある感情に気がついた。 「……めんどくさいわ」 周囲に対して挑発的な我堂が、まずその言葉を口にした。 そう。面倒だ。こいつらのために、俺たちは一緒にいるわけじゃない。そんな理由で幼なじみをやってきたんじゃないんだ。 それなのに取り巻く世界は、それを許容する気はないようで。 ならばこそ、それならどうして俺たちは一緒にいる? 「ほんとだぜ。誤解を解くよりも、誤解されないでいる方が楽だしな。つまり一緒にいなきゃいーじゃん」 「ふん。栄光らしい軟弱な考え方だけど、まああたしも同じだな」 「っんだと? 偉そうに言ってるんじゃねーよ」 「二人とも落ち着いて」 「もー、喧嘩するなら誰もいないところでやってよ」 湧き上がった感情は俺だけのものではない。俺と同じく……いや、我堂たちの間に広がっている嫌悪感が、俺までをも染めていく。 長い間、幼なじみとしてやってきたことが、どこか作り物のように感じられてしまう。まるで練習している演劇のようだ。 好奇な視線と、仲間の中に広がる倦怠感に本気で嫌気がさしたのか、鳴滝がとうとう吐き捨てるように言った。 「くだらねぇ。俺は帰らせてもらうぜ。おまえらと関わってこんなことになるんなら、俺は一人でいい」 まったく後ろ髪も引かれない様子で、さっさと教室から出て行こうとする。 「ねぇ、マジで帰っちゃうの?」 鳴滝は何も答えずに教室から出て行ていった。 すると糸が切れたように、栄光と晶も後へ続きながら言った。 「……わりぃ。こんなんじゃ劇なんてやってらんねーわ」 「練習は一人でやっとくからさ……もう知らねぇよ」 次々と作業から抜けていった栄光たち。 周りのクラスメイトたちも噂話から、いよいよ批判や悪口へと切り替わっていく。 そんな彼ら彼女らに対して、世良は慌てて弁解を始めた。 「ご、ごめんね。確かに噂話は良くないけど、出て行っちゃ駄目だよね?」 「みっちゃん、もういいよ。どうせ止まんないだから好きにさせておけばー?」 歩美は我関せずといった様子で、再び台本へと目を通して作業を再開する。 世良を手伝おうという様子はなく、続けて我堂が苛つきながら声をあげた。 「こんな奴らへ対して卑屈になる必要はないわ。おぞましい。ただひたすら汚いだけ」 「鈴子……」 まさに罵詈雑言といった言葉を並べていくが、俺は我堂の言うことをあますことなく理解できた。 おぞましい。非常におぞましいのだ。下世話で、下劣で、俺たちの人格を無視することへ、何ら躊躇いがない。 クラスメイトたちの心の声が、まるでコーラスとなって聞こえてくるようだった。 “おまえがそう思うんなら、おまえの中ではそうなんだろう” そう大合唱しながら、本人の主張や反論を塗り潰していく。当事者の言葉さえ、声の大小で判断されるのだ。 大きな言葉、数の多い主張、真実よりも揺るぎのない嘘。 そういったものが薄いカーテンになって、俺たちのことを包んでいく。 「私も先に帰らせてもらうわ」 「ちょ、ちょっと鈴子まで。柊くん、どうすれば――」 「もう黙っとけよ、世良。言うだけ無駄なんだ」 助け船を求める世良に対して、俺の中から出てきたのは、そんな台詞だった。 そのとき、我堂の足音だけが響く、静寂のような喧噪を切り裂くようにして、教室の扉が開いた。 「ん、鈴子?」 「どいてよ」 石神と入れ替わるようにして、我堂は教室から出て行った。 「……石神か」 「四四八くん、どうかしたのかい。ここに来るまで栄光くんたちとすれ違ったが……」 「悪い。後で説明するから、今は何も言わないでくれ」 そして、俺は少し考えると頭を振り、世良へ言った。 「世良、悪いけど、ここを頼んでいいか」 「柊くん?」 「実行委員だからな。我堂に話してくる。弁解などするつもりはないが、ホームルームを潰すわけにもいかない」 「……うん、分かった。任せて」 「ありがとう」 訝る石神や、どうやら会話だけは窺っていた様子の歩美。そういう視線や気配を感じながら、教室を出て我堂を追いかけた。 我堂へ追いついたのは、グランドにまで出たときだった。 「おい、帰る気なのか?」 「当然でしょ。あんな奴らに付き合ってられないわよ」 「気持ちは分かるが、こうして俺たちがバラバラになったら、それこそ奴らの思うつぼだろう」 教室と比べると、外は晴天で気持ちのよい風が吹いていた。 「ふん……教室と比べて、ここは静かで落ち着くわね」 「授業中なんだから当たり前だ」 「すぐに風情のない言い方をするところ、いかにも柊らしい」 「おまえはもう少し状況を把握しろ。もう一回聞くが、帰るのか?」 「しつこいわね。そんなに悪いことなの?」 「だから、授業中ということを踏まえて考えろ。会話が噛み合わなくなる」 それに実行委員の仕事もあるんだ。俺たちは好きに我が侭をやっていい立場じゃない。 それで文化祭の進行が立ち行かなくなったら責任問題だろうと諭したら、我堂はようやく少しは冷静になったようだ。 「そ、それは……ちょっとだけ困るわね」 そうだろう、と言って肩をすくめる。同時に俺も、なんだか気分が落ち着いてきた。 こんな天気のいい空の下にいるからだろうか。 「あれだけピリピリしていたのが、なんだか信じられないな」 「……そうね。どうして、あんなに頭にきたのかしら」 「挑発的な台詞を吐き捨てた奴の言葉とは思えないな」 「う、うるさわね。事実、そういう実感なんだからしかたないじゃない」 「まあ、俺も同じだけどな」 本当に我堂の言う通りだった。 どうしてあのときは、あんな風に怒りがこみ上げてきたのだろうか。 たった数分前のことなのに、それはまるで他人から聞かされた体験談のようだった。 それなのに不思議と感覚だけは残っている。中身は空っぽだが、尋常ではない嫌悪感と憤怒が、延焼した後の煙のように立ち上っているのだ。 「柊は午後の授業をどうするの。気分的にはやっぱりエスケープしたいんだけど」 「鳴滝や晶たちまで出て行ったのがな……ここで全員がサボったら、さらに面倒になる」 かといって、せっかく平静に戻ったのに、またあの中へ戻って我を忘れるのは勘弁願いたいところだった。 「淳士の奴、自分だけ帰るなんて、許しがたいわね」 「おまえが言うなよ。とにかくこれ以上、バラバラになって、周りの奴らの妄想加速させるのは危険だ」 「他の奴らにも戻って来いと連絡しよう。あいつらも俺らと同様、なんで怒ってたんだと不思議がってるかもしれない」 「別にいいけど……まずは淳士とあんたが仲直りしてよ?」 「あのな、おまえがそういうことを言うから、周りがくだらないこと思ったりするんだぞ」 「そんなこと知らないわ。三角関係なんて、私も舐められたものね」 まあそこらへんのことはともかく、実際に俺たちは伊達に付き合いが長いわけじゃないから、喧嘩なんか珍しくもない。 そう思えば、これもいつも通りではあるんだよな。周囲の思い込みによって操作されてるんじゃないか、という疑念が浮かんで考え過ぎになっている。 だからこそ、俺たちはできる限りマイペースで自分たちらしくあろうと話し合ったはずだろう。 「……なあ戻る前に一つだけ聞いていいか?」 「なによ。くだらないことだったら、速攻で帰るわよ」 「ちょっとだけわざと演じてみないか」 「演じるって、意識して仲違いをするってこと?」 「違う。今からやってみるのは反対だ。普段の俺たちじゃ、有り得ない関係で接してみよう。それがどういう風にギクシャクするのか、試してみたい」 「別にいいけど、それってつまり、私と柊がいつもみたいに言い合ったりするんじゃなくて、お互いに褒め合ったりするの?」 「そうだ……要するに、おまえみたいな可愛い子が帰るなんて、俺は残念なんだ」 「んなっ――――!?」 不意打ちの先制パンチ……でもないと、恥ずかし過ぎて、こんなこと言えない。 すると我堂は目を丸くしながら頬を紅潮させていたが、間もなく理解したようにうなずいていった。 「ご、ごめんなさい。素直になれなくて……」 「じゃあ、今日は最後までいてくれるのか?」 「ええ……あなたとの委員会活動もあるもの。ちゃんと二人で活動してから、一緒に帰りましょ」 「良かった。君がいないまま、自分一人で委員会を全うできるか不安だった。俺の隣には、我堂鈴子がいつだって必要なんだ」 「わ、私もよ。柊四四八が側にいれば、きっとなんだってできる。この国さえ、私たちの手に入るわ」 「鈴子……」 「よ、四四八……っ」 やがてしばらくの沈黙を経て――俺たちは同時に吹きだした。 「キモい!」 ……まあ、こんなところか。 声の調子から、いつもの我堂といった様子である。 嫌がりながらも流されるように、いつの間にか並んで教室へ向かっているし。 自分の中に起きた違和感を覚えつつも、俺はそれ以上考えすぎないように、皆を呼び戻したのだった。 その視線は朝から感じていた。振り払ってもまとわりついてくる。 さながら人畜無害を装った羽虫のように不快であり、気にしないようにと思っているのだが、完全に無視することがどうしてもできなかった。 千信館の裏サイトで書かれていた俺たちのあらぬ噂に、身勝手な妄想。 「おーい、もしかして四四八まで苛々してる感じ?」 昼休みになった途端、栄光が早速声をかけてきた。 こいつも同じなのかもしれない。一人だと、どうしてもささくれ立ってしまいそうだから、あえて茶化すような雰囲気で力をわざと抜いている。 「俺もってことは……まさか鳴滝が?」 「おお。あいつ、昼休みになったら止める間もなく帰っちまった」 「ちゃんと止めようとしたのか?」 「いや、まあ、かなり苛々してるようだったから、つい、その、声が掛けづらくて……わりぃ」 「いや、すまん。そもそも帰ることに気づかった俺が言えることじゃないな」 「今日はバイトで会うから、そのときにでも、ちょっと言っておくよ」 「サンキュ」 悶々としているせいで、気を抜くとつい棘のある言葉で答えてしまう。 こんなことでいちいちギスギスしていたら、野次馬たちの思うつぼだろう。自戒しないといけない。 「それでおまえのテンションはどうなのよ」 「苛々してるって程じゃないが、ただいつものようにってわけにはいかないもんだな。どうしても周りの目線が気になる」 「……だな。こうして二人で話すだけでも、なんだか変に意識しちまうよ」 他人の目をまったく気にせず生きることなどできるわけがなく、こうしている今も裏サイトへ誰かが書き込んだりしている。 誰が書き込んで、誰がそれを読んで、誰が信じているかなんて、そんなこと誰にも分からない。 今回の件に限って言えば、書き込んでいる本人でさえ、どこまで意識しているのか怪しいのだから。 「歩美は、晶たちを誘ってさっさと飯食いにいっちまったしな」 「それが懸命だろう。おまえはどうするんだ?」 「もう食べた。これから祥子さんに会いにいくところ」 「なるほど。それでご機嫌なのか」 「あ、分かる? なんか保健室の作業を手伝って欲しいって呼ばれてさ。おかげで朝はマジで苛々してたんだけど、今は落ち着いてるんだ」 「だったら、早く行ってやれよ。野澤のやつを待たせたら、何をペナルティに課されるか分からないぞ」 「おうとも! 四四八には鳴滝のこと伝えようと思ってさ」 「ありがとう。助かるよ。おまえが気にしてたって、鳴滝にも伝えておいてやる」 「な、なんだよ改まって気持ち悪ぃな。それにあいつは、そんなの面倒くさがるだけだろ」 「まあこういうときだから、普段言わないことも、少しは言葉にしていいかもなって思ってるんだ」 「ま、おまえがそうしたいならいいけどさ。それじゃ俺は保健室へ行ってくる」 そうして栄光は足早に教室を出て行った。 こういう状況だと、ああして会いたい人がいるだけでも羨ましい。きっとそれだけであいつの情緒は良好に保たれるだろう。 見渡すと我堂は、誰に告げることもなく教室から出て行っているようだ。 いつもと比べてバラバラになりがちの俺たちだが、今の状況ではそれが無難だからしかたない。 クラスメイトたちの、隠そうにもだだ漏れている下世話な期待や、扇情的な物言いが浴びせかけられると、仲間に当たってしまいそうになるから、それだけは気をつけないと。 「俺も外に出ていってみるか」 こういうときは身体を動かして汗をかくに限る。 昼休みにわざわざ鍛えている生徒もいないだろうし、とにかく黙々と汗をかきたい衝動に駆られていた。 健全な魂は健全な身体に宿る、なんていう使い古された言葉もあるが、しかしそれは否定しようもない事実。 こういう憂鬱で穏やかではない心境のときこそ、体内で渦巻くもやもやを汗と一緒に流してしまいたかった。 そうしないと身体の外へ出て行かないだろうという予感もある。 「普段、走っているし、どうせなら上半身を鍛えてみるか」 校庭の隅に設置されている鉄棒へ向かおうとすると、しかし、そこでは思いも寄らない人物が懸垂をしていた。 「ふっ……、はぁ……っ、おっと、柊じゃないか、どうした?」 どうしたと聞きたいのはこちらの台詞である。 いや、体育教師だし、この先生はいつだってジャージ姿なんだから、決して有り得ないような光景ではないのだが。 とはいえ、懸垂をしている女の人と話す経験は初めてだった。 「はぁっ、はぁっ……ふっ、あっ、分かったぞ……ほっ、おまえ、もっ、身体をっ、動かしにっ、来たんだろっ?」 「いや、あの、それはその通りなんですが」 懸垂するのか話すのか、どちらかにしてもらいたい。 他の空いている鉄棒だと高さが足りなくて、男の身長だと足がついてしまう。さながら気の利かない家来のように、ぼんやりと眺める俺である。 「悪いなっ、ちょっと……っ、待てよ、もう少しで、百回……っ、だからな」 本気ですか。滴る汗の量もかなりのものだったし、軽めの筋トレとは思わなかったが、まさか百回とは。 体育教師とはいえ、女子で百回ってのはかなりすごいことなんじゃないか。俺でさえ百回は怪しいところなのに。 運動に関しては千信館にいる体育教師の中でも、男に負けないポテンシャルなのは分かっていたつもりだけど、現実に目の前で汗だくになりながら百回も懸垂する女性は初めてだった。 「はっはっ……、きゅうじゅう、きゅう……っ、くううっ……ひゃあく……っと」 「ふぅううううう……、いい汗かいた」 「あ、はい。お疲れさまです」 「なんだ? おまえらしくもない暗い顔をしてるな」 「今の先生ほど爽やかじゃないだけですよ。それと汗を拭くときはタオルを使ってください」 「まあいいじゃないか。ジャージの袖なんて汗を拭くためにあるもんだ」 そういうところが女子力に欠ける……なんて毒づきそうになる自分を寸前で抑える。 「ん? なんだ。何か言いたそうな顔をしているな」 危ない。俺は首を振って、先生が使っていた鉄棒を見上げて訊ねた。 「いえ、何でもないです。それより、ここ使っていいですか? 他のところだと懸垂にならないので」 「ああ、もちろんいいぞ。ただ……柊が懸垂だなんて、ちょっと珍しいな」 「そうですか?」 「だって、おまえは基本的に長距離を走って鍛えてるだろ。世良の弟と、それから石神と走ってる姿を見たって、何度か目撃されてるぞ」 「目撃って、毎朝やってることですから、珍しい事じゃないですよ」 「そう思ってるのは当事者のおまえたちだけじゃないか。聞いたところによると、石神とのマラソンはかなりのハイペースらしいな」 「あ、それは確かに珍しい光景です。俺もそう思います」 「なんだ、そりゃ」 女子とは思えぬ、という点ではこの人も同じだが、それでも石神の身体能力は驚異的だ。 今じゃ慣れはしたが、それでも通常の状態ではついていくのに精一杯だ。おそらくあいつは、腕や背筋なんかも常人とは比べものにならないレベルなんだろう。 そして、俺が気持ちを切り替え鉄棒に手をかけようとしたとき、芦角先生がふと気になった様子で訊ねてきた。 「……なあ、柊。おまえ、何かあったのか?」 「なんですか藪から棒に」 「いや、別になんでもないなら、それでいいし、話しにくいことだったらスルーしてくれて構わないんだが」 「けど意味や理由ののないことをするおまえじゃないだろう。普段はしない運動をするときってのは、大抵何か悩みごとなんかでモヤモヤしてる状態だ」 「良かったら、今ここで聞いてやるぞ。柊だけの特別授業だ」 こういうとき、妙に鋭いから困る。 それになんとなくだが、俺が身体を動かしに来ている理由までも、先生はすでに見当がついている様子でもある。 「察するにあれじゃないのか。今、学校の奴らがおまえらをどう見てるか、ネット上を俄かに賑わしてるアレだろ?」 「裏サイトのこと知ってたんですか」 「見たことはないし詳しいことを知ってるわけでもないんだがな」 「……先生には敵わないですね」 こんな風にこの人と二人で話すのも滅多にないわけで、妙に素直な気持ちに駆られながら、ここまでのいきさつを簡単に説明した。 「なるほどな。私の時代と形は違うけど、まあ学生ならではの面倒くさい人間関係ってのは変わらないもんだ」 「俺自身、イジメとかって思ってるわけでも、誰かがそう感じてるわけでもないんです」 「ただネットのそういうのって、なかなか解決に向かう糸口が見つからなくて」 「なんとなく分かる。ただネットだから大変ってわけじゃなくて、そもそも人間関係なんてこじれるようになってるもんだ。よくあることだよ」 「……そうですね。心からそう思います。きっとこんなことは取るに足らないことで、今悩んでるようじゃ社会に出たとき、困るだろうなと感じています」 決して嘘を言っているわけではないが、しかし俺は自分の台詞をどこか機械的にも感じていた。 学生レベルのことで悩んでるようじゃ社会に出たとき大変だ。 大人は皆、子供じゃ想像もつかないことで悩んでいる。だから大人になったとき上手くやっていけるように、若い内から苦労しておけ。 こういうのは揺るぎない真実だと思っているが、まだ大人の大変さというのを知らない自分が口にすると、異様に薄っぺらく感じた。 だから、てっきり大人の先生が補完して相談は終わりだと思っていたのだが。 芦角先生は、そこで思いがけないことを言い始めた。 「いや、そんなことはねえよ。柊は勘違いしている」 「よく教師っていうか大人たちは、社会に出たらこんなもんじゃねえみたいなこと言うけどな、私が思うに学校ってのは極めて特殊な空間なんだ」 借りものみたいな俺の台詞を、真っ向から否定した先生が真剣な眼差しで語る。 邪魔しないよう口を挟まず、黙って耳を傾けた。 「まずな、同世代の集団っていうのは社会だとない。そして大人の社会ってのは、基本的に利害関係が必ずついてまわるものだ」 「それは金だったり権力だったり血の繋がりだったり、まあ色々あるわけだが、学生同士みたいに利害関係のないコミュニティってのは、普通無いものなんだ」 「だからこそ大人は嫌なことがあっても、金や生活のためで我慢できる。我慢すれば見返りがあるから、社会へ出て行けるんだ」 確かにそれは分かりやすい構図だ。先生は続ける。 「けど、学生はそういう精神的な大儀なり言い訳なりがない」 「大人は、金をもらえるから我慢できるというのがぶっちゃけ一番でかい理由なのに、おまえら学生はむしろ金取られて嫌な思いをする。払うのはまあ親だけどな」 「ばっさり言い切りますね」 「事実だからな。たとえばよ、恋愛がらみでトラぶったとしよう。けど恋人とケンカしようが別れようが、ほぼ毎日顔をあわせないといけない」 「しかも、元カレや元カノが次に誰と付き合うかということまで、周囲含めて筒抜けだ。こういう状況は、大人になるとまず有り得ない」 「職場恋愛にしたって学生時代ほど極端じゃないんだ」 「なんだかリアリティがあって分かりやすいですね。先生の経験ですか?」 「いや、まあ、今のは友人の相談に乗ったりな……」 しまった。妙に説得力があったので、つい引っ張られるように訊いてしまった。 けど、先生はいつものように荒ぶることもなく、咳払いをしてから言った。 「こほんっ。まあそんなことはどうでもいい。つまりだ、まとめると学生時代っていうのはそれはそれでハードなんだよ」 「だからこそ、逆に学生時代のハードモードな青春を送った奴が、社会がイージーモードで大成するっていうケースもよくあることだ」 「一概に社会が学校より大変ってことは絶対に言えない。おまえが今悩んでることも、そういう意味で決して軽いものじゃないんだ」 「……ありがとうございます」 「私に感謝することじゃないけどな。でも、これは先生として、人生の先輩として伝えておきたい」 「大切なのは事の客観的な軽い重いじゃない。当事者として悩んでる熱量だろう」 「未熟な子供だからこそ、くだらないことでも命がけで悩んだり。ブランコが占領されたら、本気で悩む子供の方が、きっと良い大人になるぞ」 「な、なるほど」 正直、今まで先生の話を聞いてきた中で、もっとも感動している自分がいた。 俺はそのとき、子供に対してそんな風に言ってくれる大人が一人でも多い世の中であってほしいなと思った。 少なくとも俺は将来、自分が親になったとき、先生みたいに考えて子供の悩みを真剣に汲んでやりたい。 小さいころの話だ。公園の砂場を占領する上級生と本気で喧嘩になったことがある。 それをウチの親父は、くだらん、とばっさり切り捨てた。 確かに今にして思うと、くだらない。けど当時の俺たちからしたら、世界を守るに匹敵することだったんだ。 だから芦角先生のように、そういうことを理解してやれる大人になりたいと思う。 そして、最後に先生は晴れやかな笑顔で言った。 「まあそういう風に考えると、学校を出てから学校に就職してる私が、一番すごいということになるがな」 「えっ、ああ、まあ、そう、なんですかね」 「当然だろう」 わりと台無しである。 はぁ、こういうのが無ければ幽雫先生にも負けないくらい、生徒から信頼厚い先生になっているかもしれないのに。 するとさらに被せるようにして、先生はいつものおかしいテンションで訊ねてきた。 「そういやおまえ、カップルコンテストどうなったよコラ」 ああ、スイッチが入ったようだ。こうなるとぐずぐずはしてられない。 早々に切り上げる方向へいかないと。 「さっき恋愛の話したじゃん。おまえらの色恋なんてのは、そんな上手くいかねえんだよ。いかねえからこそ、学生であることの意義が何なのか忘れるなよ」 「はい、分かってます」 「そんなハードモードなおまえらの恋愛を邪魔するのが楽しかったりすんだけどな」 「……ということは、大人である先生は、イージーモードということですか?」 「はぁ!? 何を訊いてたんだ柊! 言っただろ、私は学校から学校へ就職したスーパーハードモードなのっ」 「いや、むしろナイトメアモード。分かるか、おまえ。イージーモードでこの世の春と言わんばかりに、ゲームクリアしていく同輩たちを見届ける気持ちが!」 「祝儀だって高くなっていくし、もう地獄しかない。そんな私の前で、学生恋愛とかマジ許さねぇから」 「は、はい。もう分かってますから、どうかそのへんで……」 「……ふん。色々とまだ語りたいことはあるんだが、まあいい」 ようやくそこで先生は言葉を切った。 とにかく先生は決して悪い人じゃないし、教員という仕事に対してプライドを持っていて、なげやりなことを言ったりはしない。 ただちょっとおかしくなっちゃう瞬間があるだけなのだ。 そして、俺が鉄棒を再び見上げたところで、先生は懐から何かを取りだして渡してきた。 「ところで、こんなもの拾ったんだけど、面倒だからおまえが落し物として提出しとけ。教室で拾ったから。まあ十中八九ウチのクラスメイトだろう」 「了解しました。確かに」 「どうだ、すっきりできたか?」 「はい。良い意味で自分の悩んでいたことに対して、大きな気持ちになれた気がします」 「そうか、そうか。悩んだら、いつでも話を聞いてやるぞ」 先生は上機嫌そうに笑って言う。 最後に余計なおまけがついたけど、聞かせてもらった話は、とても有意義なものだった。 「それでもやっぱり懸垂はしていくのか?」 「せっかく来たんで、ひと汗かいてから教室へ戻ろうと思います」 「おまえも体育会系な奴だ。午後の授業に遅れるなよ」 間もなく芦角先生は校舎へと消えていった。 よく晴れた昼休みの校庭で、俺はこれといった目的もなく、けど妙に気持ちの良い汗をかいて昼休みを終えたのだった。 「そっちはどうだ? いたか?」 「ダメ。見かけた人はいなかったか聞いたけど、こっちには来なかったって」 参ったな……。廊下で、世良と顔を見合わせる。 困った限りだが、俺たちがいくら焦ろうとも、去るときは迷わず消えてしまう奴だ。 早く見つけないと―― 「あ、鳴滝くん!」 そのとき、前庭を横切ろうとしているあいつの姿を見つけた。 今にして思えば、鳴滝が本気で苛ついていたのは、きっと朝の時間からだった。 いつものメンバーで登校している最中も、周りからの妙な視線はずっと注がれている。 自意識過剰なのかもしれないが、しかし裏サイトを見ている歩美曰く、朝から晩まで俺たちの話題で埋まっているらしい。 飽きもせずによく続くものねと、吐き捨てるように我堂が言ったとき、実はあいつよりも鳴滝の方が不機嫌そうな顔で黙っていた。 そして、昼休みを過ぎた頃。世良が異変を察知した。 「柊くん、流石にまずいよ。みんなにバレたら、いくら鳴滝くんでもいつものサボりってわけにはいかなくなっちゃう」 いつものサボりって何だよと突っ込めるほど、俺も平静ではない。 「……分かってる。今日ばかりは、あいつだからってのは通用しない」 いや、普段も授業をサボっていいわけじゃないが。けれど何よりも、このホームルームを逃すと、クラスメイト全員揃っての演劇練習日が限られてしまうのだ。 それはまるで当てつけるようなエスケープだった。 ただでさえ、俺たちに対して奇異の目が向けられることの多い中、全員に迷惑がかかるタイミングで勝手に消えたら、何を言われるか分かったもんじゃない。 だが、それら周囲の視線に対して、あたかも背中を向けるように鳴滝は教室からいなくなった。クラスメイトたちにバレるよりも前に、あいつを捕まえなければいけない。 そうして、ようやく前庭まで来たところで姿を見かけたのだった―― 「……なんだよ、わざわざ二人して、おまえらも帰るのか?」 「馬鹿を言うな。見りゃ分かるだろう。堂々とサボる幼なじみ止めに来たんだよ」 鳴滝相手に遠回しで告げても意味が無い。いざとなったら会話をぶった切ってでも、こいつは立ち去ってしまうだろう。 「まったくおまえは……」 先制パンチと言えば単純過ぎるが、つまり釘を刺して、逃げ道になるような流れを塞いでおかないと、にべもなく帰ろうとする。 そういう思惑がはっきりと伝わっているからこそ、鳴滝はすぐに面倒くさそうな顔をして視線を逸らした。 「世良まで一緒に来るとはお節介なことで。奴ら困ってるんじゃねえのか?」 「大丈夫よ。歩美ったら張り切って、晶のことビシバシ鍛えるって言ってたから」 対峙する俺と鳴滝だったが、世良は朗らかに笑って言う。 「晶もああ見えて、もっと自然に真奈瀬晶を演じられるようになりたいって燃えてたし、今ごろ熱血指導中なんじゃないかしら」 「だから、戻ろうよ。仲間が頑張ってるとき、側にいてあげられなかったら、きっと後で鈴子に怒られるよ」 「あいつが騒ぎ出すのは、いつものことだろうが」 「あら、それを言ったら、鈴子が空回りしてるとき、側で呆れてる鳴滝くんがいなきゃいつもの光景にはならないんじゃない?」 チッと舌打ちをする鳴滝。勝負ありという感じだった。 ああ言えばこう言う。世良の物言いは、俺よりも逃げ道を塞ぐ仕方だったが、それは決して意地の悪さを感じさせるものではない。 だから鳴滝も毒気を殺がれたようで、俺はなるべく自然に訊いてみた。 「しかし、おまえにしては普段よりも直情的に過ぎたんじゃないか?」 「そうでもねえだろうよ。俺がサボるなんてのは、おまえたちも珍しくなんて無いだろ」 「珍しくないから、だよ。いつもの鳴滝だったら、もっと冷静に判断してる。少なくとも積極的に誰かを困らすことはしないはずだ」 「何でも自己責任なんて軽くいう人もいるけど、自分で責任を取り切れず他人に迷惑が降りかかることなのかどうか、誰よりも理解しているのが鳴滝淳士のはずだろ」 「そうだね。鳴滝くんがいなくなるときって、いなくなっても大丈夫なときだもん」 「うるせえよ。そんな大層な人間じゃねえよ俺は」 俺と世良は無理に褒めそやしているわけじゃない。本音だし、厳然とした事実だと思っている。 そのままじっと見つめて次の言葉を待っていると、やがて鳴滝も観念したのか、渋々といった感じに話しだした。 「……劇の練習がやべぇってことは分かってる……ただ、その、今の俺がいたら進むもんも進まなくなりそうだったからよ」 「どういう意味?」 「単純なことだ。教室の雰囲気に耐えられねえ。今までも、何度かヤバイ瞬間はあったんだ」 「だが、どうも今日は朝から、いつもよりジロジロ見られてる気がする。実際、俺の耳にまで届いてくる陰口もあったんだから、おまえ達だって気づいているだろ」 ……なるほど。そういうことか。 「いつにも増して奴らの視線がうぜえ。気がついたらキレてそうだ……冷静になれないんだったら、いないほうがいいだろ」 こいつの話を聞いていて、俺は頷くことをしなかったけど、気持ちはよく理解できた。 要は鳴滝なりの気遣いであり、成り行きを予想した結論なのだ。 もう幾ばくもない練習日。劇が上手くいくかどうか、瀬戸際にまで来ていることは明白であり、だからこそ、貴重な機会で諍いを起こしてしまうわけにはいかない。 だが一方で、クラスメイト達の俗っぽい噂話や苛々させるような期待感は増していき、確かに今日は朝から異様な雰囲気を感じるときがあった。 「悪ぃけど、俺は自分のことを買いかぶりたくはねぇ。柊や世良にだって、収拾がつかなくなる事態になるかもしれん」 「だから、今日の所は帰らせてくれよ」 観念はしたが、それでも説得に応じて考えを曲げてくれる奴でもない。 なにせ俺でも、内心でしょうがないところもあるなと思ったからだ。 このまま帰るのを認めるわけにはいかないが、心情的には鳴滝寄りであり、正直どうしようかなと思っていた。 すると、思いがけず世良がさらっと。 「……そうやってすぐ鳴滝くんは逃げちゃうよね」 「あん?」 その台詞に反応して視線を挑発的に上げる鳴滝だったが、世良はあくまでも優しく、どこかお姉さんみたいな口調で語りかけていた。 「世良とはいえ聞き捨てならねえな。誰が逃げてんだよ」 「ううん、ごめんね。言い方悪かった。でも、それは私の本心なの」 「鳴滝くんは、私たちの中でいつも矢面に立ってくれる。子供のころから、何か揉め事があると、真っ先に貧乏くじを引いちゃうでしょ」 「そんな君に守られたことがいっぱいあって、嫌がるだろうから普段は言わないけど、みんな感謝してるし尊敬してるんだよ」 「今回のことも、君が一人で帰ると、みんなの批判は鳴滝くんに集中しちゃう」 そして、裏サイトやクラスメイト達による煩わしい視線も、自然と俺たちというグループ単位から、鳴滝淳士という個人への攻撃に収束してしまうだろう。 だからこいつは、俺たちを守るためにそうしようとしたんじゃないかと世良は言うが…… 「別にそこまで考えてねえよ。俺はただムカついたから帰ろうとしてるだけだ」 「ふふ。そういう言い返し方も、子供の頃から変わってないの気づいてる?」 「…………っ」 「だけどね、そんな鳴滝くんに守られるのを卒業しないといけないの。だって、私たちも、同じように鳴滝くんを守りたいんだもん」 こいつの言う通りだった。世良の言葉は俺たち全員の気持ちを代弁している。 鳴滝が俺たちのことを信頼しているのなら、別の勇気も持ってほしい。 何ら恐れず厭わず、自ら進んで傷つく行為は、ある意味では勇気と呼べない。傷を負わないように耐えることこそ、今の俺たちに必要な勇気だ。 そのための努力というのを覚えてくれず、ただ面倒になり投げやりになっているままじゃ、いつしか俺たちはすれ違い、物別れになってしまうことだってあり得るだろう。 「鳴滝くん傷だらけになっちゃうよ?」 「君が私たちに傷ついて欲しくないと思うのと同じように、こっちだって鳴滝くんのことが心配なんだから」 「くっ……もういい」 俺はそのとき、そしてたぶん鳴滝も、世良には敵わないなと思った。 いや世良が言ったようなことは、俺も日常的に感じたり思ったりしている。 しかし、俺じゃこうは言えない。鳴滝相手だと、どこか説教くさくなったり、またぶっきらぼうになったりもしてしまう。 仮に俺が同じ事を伝えようとしたら、難しい言葉で説得というよりも説明になってしまうことだってあるだろう。 けれど世良はとても簡単な言葉で――それでいて心の奥にまで届くように伝えることができるのだ。 俺はふっと息を吐いて、重々しい口調にならぬよう言った。 「世良の言う通りだな。確かにそういう観点じゃ、おまえは逃げている」 「あ、てめ、柊まで――」 「まあ聞けよ。男同士だからこそ、あえて言わせてもらおう」 「鳴滝淳士は孤立するのを苦にしない。もしかしたら、俺たちと出会わなくても、おまえはおまえで、今のまま変わらなかったんだろうな」 「けど……だからといって、今こうして確かにある俺たちとの関係が無価値だなんて、そんな風にも思ってないだろ?」 「そ、そりゃ、そうだよ……わざわざ言わせんなよっ」 「ふふっ、それなら私たちにもこれ以上言わせんなよ~。戻ろうね、鳴滝くん」 トドメの一撃だった。 今の鳴滝は、きっと頭の上がらない姉から諭されたような実感だろう。 「……信明も大変だ」 「なに? なんか言った?」 と口の中でつぶやいたつもりが、世良は耳敏くこっちへ振り向いてくる。 鳴滝を見ると、さっぱりしたような、でも照れたような雰囲気でくるっと背中を向け、さっさと歩き出した。 「分かったよ。おまえらの言うとおりだな」 「一人で戻るの?」 「当然だろ、ついてくるなよ。おまえたちに連れられて戻った日にゃ、鈴子あたりに何言われるか分かったもんじゃねぇ」 「いずれにせよ、あいつは何か言ってくるだろうけどな」 「はぁ~あ、面倒くせぇな」 そうして、鳴滝は足早に教室へと戻っていった。 奴が廊下の角を曲がったところで、世良との間で空気がふっと緩む。 息を吐いてから、俺は切り出した。 「さすがだったな。世良のすごいところを、改めてまじまじ目の前で目撃した」 「なによ、もしかして男からしたら嫌味な女に見えちゃった?」 「違うよ、むしろ反対だ。世良水希という女がああ言ってくれたから、あいつは納得して教室に戻る気持ちになれたんだ」 「鳴滝に代わって感謝させてくれ」 「ちょ、ちょっと、いきなり、そんな褒めたりしないでよっ」 「本音なんだから、わざわざ隠しても仕方ないだろ」 「それは、えーっと、そうなのかもしれないけど……でも、柊くんから、そこまで褒められちゃったら、あのっ」 さっきまでの姉らしさ全開の姿はどこへやら。 急にもじもじと、幼いような雰囲気で言葉が詰まるこいつを見ていると、女ってのは本当に底深いというか、男には計り知れないところがあるんだなと感じる。 だからこそ、男には女が必要になっていくのかもしれない。 「……ねえ、もう一回だけ訊いていい?」 「なんだよ」 「柊くん、私のこと……え~っと、だから、あのっ、み、見直したのかな?」 「おうとも。世良のスペック再確認って感じな……いや、スペックってのは薄っぺらい言い方で違うかもしれない。もっと実のある言葉が相応しい気がする」 「ふ、ふぅ~ん、そんな風に思ってくれたんだっ」 妙な口調の世良はさておき、俺は同時に他のメンバーを思い浮かべていた。 今日みたいな状況で、鳴滝のことを説得しなければならない場合、これが我堂だったら無理だろう。 鳴滝との絡みは多いが、そのせいか言わなくてもいい一言が出てきたり、素直にあいつが納得している姿がイメージできない。 歩美はわりと無責任に煽るだろうし、晶は言葉が圧倒的に足りないタイプだ。栄光は物の役に立たん。 石神はまだ鳴滝との絡みもそう多くなく、案外うまく伝わったりするかもしれないが、しかし博打のような感じで、しっちゃかめっちゃかに事態は悪化しそうな気もする。 最後に俺一人であっても、やはり厳しいと思う。同じ内容のことは言えるが、世良のようには伝えられない。 そういう意味で考えると、世良の良いところは能力が非常に高いわりに、すっと相手へ入っていけることだ。 つまり優秀なわりに目立たないとも言えるし、さりげないとも言える。 「柊くん、なに考えてるのか聞いていい?」 「益体もないことだ。わざわざ細かく説明することでもない」 「もうっ。肝心なところで、予想通りの返答なんだから。もし柊くんから私に伝えたいことがあるのなら、喜んで聞かせて欲しいのに」 珍しくも食い下がってくる。普段なら、ああ答えるとさらりと流れたりするのだが。 しかしまあ、思わせぶりなだけの男というのも駄目だろう。 ストレートに喋ると流石に恥ずかしいので、いい例えはないものかと俺は脳を回転させながら口を開く。 「いや、まあ、そうだな。上手く言葉にはできないんだが……」 「おまえは昔から間合いが上手いよな。相手にとって目立たないところから語りかけられるというか」 「影薄いって言ってるの?」 「そう言えるかもしれないが、おまえは目立ちたいのか? 我堂みたいに」 「それは嫌」 そこはやっぱり嫌なんだな世良でも。 などと、そんなことを言っている内に、ぽんっと頭にとある人物像が浮かんだ。 「そうだ。おまえは俺にとって、言わば韓信なんだな」 「劉邦の?」 間髪入れずに理解してくれるのがとても助かる。 これが栄光だったら、一からすべて語らないと駄目だっただろう。 端的に説明すると、韓信とは有名な項羽と劉邦の戦いで活躍した人物だ。その武勇は国士無双という言葉と共に語り継がれている。 彼は非常に優れた将軍であり、主君である劉邦の意思を離れたところから実行することが出来たのだ。 つまり各々自由にさせたとき、俺の意向と一番ずれがないのが世良であると言いたいわけで。 「比較した言い方になってしまうが、我堂は結局のところ俺と同類だ。あいつはあいつなりの戦略や考え方を持ってる」 「だからこそ、まず間違いなく俺の考えとは最大限にズレていく」 「柊くんが、そういう風に語ってくれるのって珍しいな。興味わいてきちゃう。他のメンバーはどんな風に思ってるの?」 「歩美は、また違う意味で、俺の予想もしないことを考える奴ではある。ただときに化学変化を起こす奴だから合うこともあるんだが、基本的にはイレギュラーだな」 「それから言い方が悪いけど、晶は指示待ちというか、一人で決めさせようとすると、意外に迷ったりするタイプだ。頼りにしていないわけじゃないが……」 「サポート力のあるタイプってことね」 「まあな。ときどき暴発したりするけど、無茶苦茶やるタイプじゃない」 「けどそれを言ったら、柊くんにとって私もサブな感じじゃないの?」 「意味合いが違う。おまえが一番、俺とずれない」 「こっちがやりたいことを実現させるって意味なら、俺本人がやるより上手くやれたりするのが、世良水希だなって思ったんだ」 「そ、そう?」 「嘘は言ってない。今日みたいなとき、誰よりも頼りになるのが、おまえだ」 例え話を用いたが、結果的にはやっぱり恥ずかしい言い方になってしまったな。 しかし、世良は特に突っ込んだり冷やかしたりする様子もなく、どこかそわそわした面持ちで、何か俺に聞きたそうな佇まいだった。 「え~っとさ、その、静乃についても聞いていいかな」 「あいつは分からん。振り回されることも多いし、計りかねてる状態だ」 「……そっか。それじゃ女の子の中だと、わ、私が一番みたいな感じ?」 「そういう聞き方をされると返答に困るんだが……」 「そ、そうだよね。ごめんっ」 「いや、俺から言い出した話だ。こちらこそすまんっ」 俺と同じように、恥ずかしいことを言ってしまったという感じで世良が頭を振る。 この雰囲気はちょっとばかり居づらい。こいつもやはり同様の様子だった。 それから数分の間、何とも形容しがたい沈黙が通り過ぎていく。やがて気分を入れ替えたような顔をした世良が、ぺろっと舌を出してから悪戯っぽく言った。 「じゃあ、柊くんの目的が達成したら、韓信みたいに私は用済みなっちゃう?」 再び博学な問答がさらりと出てくる。 そう。こいつの言う通り、最終的に韓信を処刑したのは劉邦なのだ。 その点では、例えが悪かったかもしれない。俺は、はっきりと首を横に振りながら答えた。 「馬鹿を言うな。だいたい、俺は天下統一というか……、社会を手に入れることを目的にしてるわけじゃない。用済みなんて考え方はナンセンスだ」 「だから、その……、おまえはずっと必要だよ」 「ちょ、ちょっと。このタイミングで、そんなこと言わないでよっ」 「お返しだよ。とにかくそういうこと。頼りにしてるからな、これからもよろしく」 「うん。よろしくね」 恥ずかしい告白合戦もそろそろ終わりだ。 普段言わないようなことは、一度喋り出したら止まらなくなるから要注意だと思う。 せっかく鳴滝を引き戻したのに、早く戻らないとまたあらぬ噂が囁かれるかもしれない。 そう思い、俺たちは教室へと小走りに向かった。 平穏な昼休み。その呼び出しは降って湧いたように響き渡った。 「柊四四八くん、柊四四八くん。至急、生徒総代室へ来なさい」 「おや?」 「繰り返します。柊四四八くん、緊急案件です。至急、生徒総代室へ来なさい」 「…………」 「四四八くん、何かやらかしたの?」 「心当たりがまったくない」 「しかし、急いていたようだ。緊急案件という呼び出しは、転校してきて初めて聞いたよ」 「俺だって初めて聞いた」 隣にいた石神が、どこか訝しむように顔を覗き込んでくる。 本当に何の心当たりも無いのだが、お嬢様の放送は確かに妙な緊張感で満ちていた。来なさい、なんてあからさまな命令口調は基本使わない人だろう。 「文化祭のことで呼び出しかもしれない。四四八くんは実行委員だからね」 「それなら我堂も同じく委員だぞ。担当教員である芦角先生が呼ぶ出すはずだ」 「ふむ。いずれにせよ、あの様子からして、こんなところで油を売っているわけにはいかないんじゃないかな」 「まあな……」 百合香さんが俺を呼び出す理由など想像もつかないが、こっちに選択権はないだろう。無視していたら、すぐにでもまた繰り返されそうな放送だった。 やれやれと内心で思いつつ、生徒総代室へ向かおうとすると、石神は自然に並んで歩き始めた。 「もしかして石神もついてくるつもりか?」 「迷惑かい?」 「迷惑というわけじゃないが……」 自分でも見当のつかない呼び出しに他人が同席するのは、少々気が引ける。 後ろめたいことなどないが、それでも見られたくないというか、何というか。 「大丈夫。これでも口は固い方だから」 今までの経験からして説得力のない発言だった。 こいつの口からするする零れた発言のせいで、どれだけ困らされたか走馬燈のように浮かんでくる。 「四四八くんが生徒総代室へ呼び出されるなんて、果たして何の用だろうね」 「……まあいいか。百合香さんへ余計なことは言うなよ」 「もちろん。四四八くんの力になるために、私は同席するだけだよ」 そんな言われ方をすると、余計に呼び出された理由が気になってくる。 着崩してはいないが、俺は衿を正して気を引き締めた。緊急案件とは、本当に何のことだろう。何が起きているのだろうか。 生徒総代室へ向かう間、頭の中には石神との出会いからここ最近の事件まで、様々な理由が浮かんでは消えていった。 「失礼します。柊四四八、今着きました」 「遅かったですね。どうぞお入りなさい」 「石神もいるのですが、同席してよろしいですか?」 「そうですか。問題ありません、どうぞ」 「失礼します」 部屋に入ると、一種異様な空気が辺りに充満していた。重いというだけでなく、空気が冷たく刺々しい。 「…………」 参ったな。生徒総代は、明らかにお怒りの様子だった。 石神も瞬時に察したらしく、黙してお嬢様を見つめている。 何を言われても動揺はしないよう、息を吐いてから訊ねた。 「緊急の呼び出しということですが、どういった内容になりますか?」 しかし、百合香さんは視線を上げずに黙ったままだった。 「明け透けには言えないことですか?」 「……そういうわけではありませんが、どう言ったらいいものでしょうか」 「さながら痛恨といったところでしょうか」 「痛恨?」 同じトーンで聞き返す。図らずともハモってしまった。 どこか間の抜けたような俺たちに対して、お嬢様がなおも続ける。 「四四八さん、静乃さん。わたくしが何も気付いていないとでも思っているのですか?」 「ま、まさか……」 「その顔は、心当たりがあるようですね」 石神と顔を見合わせる。まさか百合香さん、気付いていたのか? ここ数週間の記憶が浮かび上がってくる。使命を帯びた石神との出会い。旧校舎の崩壊から、運命の歯車は動き出した。 今や俺たちのことを普通の人間なんて呼べないだろう。そんなところまで来てしまったのだ。 「むっ…………」 百合香さんから伝わってくる、かつてない重苦しい雰囲気が如実に語っていた。 しかし、どこから知り得たのだろうか。まさか鳴滝が他言することはあるまい。 世良や我堂は言わずもがな、晶や歩美、うっかり栄光でもそこまで軽率じゃないだろう。 ならばこそ、なぜ? 疑問は、どうやら石神もまったく同じ思いのようだった。情報の出所が分からない。 いや、もはやここに至っては漏洩の在処なんか問題ではない。百合香さんが知ってしまったなら、どう対処するべきなのか。 俺と石神が俊巡していると、お嬢様は苛立ちを隠すことなく告げてきた。 「いつまで沈黙しているつもりですか。わたくしを馬鹿にしていらっしゃいますの?」 「そんなことは……」 「こうなれば埒があきませんわ。強権を発動させたくはなかったのですが、仕方ありません。千信館における生徒総代の名において命じます」 「ゆ、百合香さん」 「可及的速やかに、包み隠すことなく、お教えなさい。その――」 「鳴滝淳士お誕生日会というイベントの詳細を……!」 「……えっ」 立ち尽くしたまま、再び顔を見合わせた俺たちは、まもなく盛大に溜め息をついていた。 そりゃ、確かにもうすぐ鳴滝の誕生日だし、あいつに内緒で祝う段取りを考えていたけれど、まさかそのことだとは思わなかった。 で。 「今まで申しあげた内容が、サプライズで鳴滝淳士を祝うための段取りになります」 「な、なるほど。なかなかにスリリングな催し物のようですね」 「誕生日を祝うとなれば、少なくとも一ヶ月前から準備が始まるものでしょう。そして、当事者も祝辞に対する謝辞を考えておくものです」 「それなのに、まさか、淳士さんの誕生日祝いを謀のように行うなんて……」 「それこそサプライズというやつだね」 鮮烈な印象を受けている様子の百合香さんだったが、同じく初耳であるはずの石神は驚いていないようだ。 別にこいつをハブっていたわけじゃないが、色々と常識を知らない奴なので直前まで黙っておこうと決めていた。 何せほら、軽くこれまで聞いていた石神の環境からして、友人の誕生会など経験はないだろうから妙に舞い上がってボロを出すんじゃないのかと。 思ったのだが、ここでの反応を見る限りそういうわけでもないらしい。 なのでその点聞いてみると、石神は笑いながら首を横に振っていた。 「いや、私も初めてだよ。友人の誕生日でパーティーを開くなんて……今までになかった経験だ」 「にしては驚いているように見えないが」 「それは状況がそうさせるというか。横でもの凄く驚いている人がいると、逆に冷静になったりするだろう?」 「――はッ!?」 指摘されて我に返る千信館生徒総代。少し照れたような顔をして、居ずまいを正す。 「こ、こほん。わたくしだって、お誕生日会という名前だけは知っていましたよ」 「ただ……、こちらから企画するのは初めてなのです」 「少々、気負い過ぎて大げさな気もしますが」 「いいえ、そんなことありません。誕生日というのは、何よりも大切なイベントでしょう」 「特に鳴滝淳士聖誕祭ともなれば、街全体を上げて、私たちはお祝いをしなければなりません」 いつから祭りになったのだろうか。 まるで一世一代切った張ったの大仕掛けみたいな気合いが、百合香さんから感じられる。 ……危険だ。 「やり過ぎるのは良くないと思いますよ。鳴滝も嫌がるでしょう」 「そんなことは四四八さんから言われずとも、百も承知です。覚悟した上で、わたくしは淳士さんを全身全霊でお祝いしたいのです」 「すごいなぁ」 わりと呑気な石神だったが、俺はどうにも心配になってきた。 はたして百合香さんは鳴滝の奴をどうするつもりなのだろうか。十中八九、嫌がる姿が目に浮かんでくるが、それも程度の問題である。 今までのような日常的ハプニングならまだしも、生徒総代の権力や実家の財力なんかをフルに使われて企画されたら、あいつの堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。 「うふふ、楽しみですわ。まずはジェット機の手配から始めましょうか」 なんて瞳を輝かしながら言うお嬢様。 そんな彼女を見ていると、やはり鳴滝からコテンパンに打ちのめされる姿は、なるべく現実にしたくはない。 百合香さんの背中を押すつもりも、鳴滝に妙な便宜を図るつもりもないのだが、悲惨な結末ぐらいは回避する甲斐性は持っておきたい。 「百合香さん、一つだけ宜しいですか」 「あら、何でしょう。淳士さんが喜びのあまり涙を流すような妙案でも浮かびましたか?」 「そうですね。涙を流すかどうかは分かりませんが、少なくともあいつが嫌がらないやり方をお勧めしたいなと思いまして」 「まあ、それはいったいどういう?」 両の指を身体の前で結び、百合香さんが身を乗り出し訊ねてくる。 それに若干引きながらも、とりあえず真剣に俺は答えた。 「いいですか? 鳴滝の性格上、大仰な企画は好みません。むしろ嫌悪するはずです。百合香さんも分かるでしょう」 「理解できますが、しかしお誕生日会というのは、普段素っ気ない彼でも実は内心で喜ぶものではないのですか?」 「その情報、誰から聞きました?」 「大杉さんから教えて頂きました」 栄光か。後で鳴滝に報告しておこう。 「百合香さん、あなたは勘違いしています。いいえ、楽しみのあまり少々浮き足だっている」 「よく考えてください。鳴滝とは一般論で語ることができてしまう男なのですか?」 「そ、それは……」 「百合香さんの中のあいつは、世俗的な価値観で舞い上がってしまう男ではないはずです」 「確かに四四八さんの仰る通り――」 「でしょう。ゆえに今こそ冷静にならなければいけません。一般的な馬鹿騒ぎを企画して、鳴滝を喜ばすことができるのかどうか」 「導き出される答えはノーです。そんなことで喜ぶ男ではありません」 こほんっとわざとらしく咳をつき、お嬢様から確約を得るため、告げるようにして言う。 「大仰な企画は、せっかくの誕生日をぶち壊す恐れすらあります。ゆえにここはプレゼントのみでいきましょう」 「誕生日にお祝いを貰うというのは純粋に嬉しいものです。アルバイトをしているくらいですから、あの鳴滝だってそうでしょう」 「なるほど。つまり手配したジェット機はリボン包みでお渡しするべきだと、四四八さんはそう仰りたいのですね」 「ジェット機から離れてください。そもそも鳴滝の誕生日にジェット機の手配をする必要はありません」 「そ、そうですか。確かにジェット機は維持するのにも個人では持てあましてしまいますね」 「根本が違うんですが、まあその通りです。言っていることは間違っていません」 「ならばそれよりもお手軽なヘリコプターを――」 「少し黙って聞いてください百合香さん」 「はうっ」 駄目だ。百合香さんに手綱を握らすと、速攻でトンデモない方向へ行こうとする。 はっきり言って要はこの人と鳴滝の問題なのだから、俺がここまで熱っぽく説得するのは出しゃばり過ぎという気もしているが。 「鳴滝が今一番欲しいものを百合香さんは知っていますか?」 「うっ。そ、それは……知りません」 しゅんとうな垂れるお嬢様。 ここだ。ここしかない。 「まずは鳴滝の欲しいものを百合香さんが把握することこそ肝要です」 彼女は興味深く頷いていたが、すぐに顔を曇らせて答える。 「しかし、わたくしが訊ねたところで、淳士さんの口から素直に欲しいものが出てくるとは思えないのですが……」 なるほど。正確な分析だった。鳴滝と百合香さんについては今のところ、お嬢様の一方的なアプローチに止まっている。 「そのために俺を呼んだのでしょう?」 「誕生会について聞きたかっただけで、さすがにお願いごとをしようと思ってはいませんでしたが……ここまで来たら甘えさせてくれますか、四四八さん」 「ええ、鳴滝の欲しいものについては自分が調べておきます。それよりも、百合香さんがただ何もせずに待っているというのは宜しくありません」 「あなたはあなたで、あいつに渡したいプレゼントを考えておいてください。誠意を伝えることが、何よりも大事ですから」 「あ、ジェット機だけではなくヘリコプターも除外で」 鳴滝にプレゼントを渡したいという真摯な気持ちを大事にしてほしいと思う。 もちろん一般人の考え得る範囲の話に限った物で。 「そうですか。リムジンなどの車も外して考えるべきですよね?」 「はい。もちろん国産も駄目ですよ」 まだ危ういな。もう一つ提案しながら百合香さんへ告げる。 「手ずから作ったものなど、学生らしくて受け取りやすいかと思いますよ」 「て、手作りですか」 すると百合香さんは深く頷き、そしてちょっとだけ照れた様子で答えた。 「しかし、わたくし恥ずかしながら、今まで手作りした物を家族以外に渡したことがないのですが……」 「そういうのは上手い下手よりも気持ちが大切です。さっきも申し上げましたが、誠意が伝わるかどうかが問題でしょう」 「な、なるほどっ」 うんうんと頷くお嬢様が、噛みしめるようにしてつぶやいた。 「手作りをして淳士さんの誕生日にお贈りする……」 「あれこれ考えるだけでも楽しいものですね」 「頑張ってください。応援していますよ」 「あ、ありがとうございますっ」 最初に入ったときは、なんとも厳格な雰囲気だったが、終わってみれば乙女浪漫な空気が辺りに漂っている。 危ういところもある我が生徒総代だが、その想いは誰よりも熱意溢れるものだった。 俺と石神にとっては厄介事が増えたに等しかったが、それでも大切な秘め事を共有したのに間違いはなかった。 「四四八と合流できて良かった」 「持っていけるのはバイト先までだよ」 ここで母さんと遭遇したのは偶然だった。待ち合わせなどしていなかったが、放課後になりバイトへ向かう途中で鉢合わせしたのだ。 例の如く冬眠前の動物みたいになっていたので、速やかに買い物袋を受け取った。 「重くない? 結構あれこれ買っちゃったから、お母さんの方にもうちょっと入れていいよ」 一番重くて大きな袋を担ぐようにして持つと、母さんは少し申し訳なさそうに言った。 「言うほど重くない。買い物袋が重くて持てなくなるほど、ヤワに鍛えてきたつもりもないから」 「……ふふ。わざわざありがとうね、四四八」 「わざわざ礼を言われることじゃない。当たり前のことだろ」 「そうやって可愛くない言い方をするところ、誰かさんに似てるねえ」 「…………」 当然、誰に似てるかなんて聞き返さない。牧歌的な雰囲気が台無しだ。 実の親ながら、あいつほど親子水入らずとか、家族団欒という言葉から遠い男を俺は他に知らない。 そんな機微を感じ取ったのか、母さんは話題を変えて喋った。 「静乃ちゃんは大丈夫かなあ」 「心配いらないだろ。遠くへ行くわけじゃないし、それに世良たちがついてる」 「だからこそ、ちょっとだけ心配なんだけど」 「なに……?」 母さんの反応が予想外だ。 「世良たちがついてるのに心配なのか?」 「そうだよ~。年頃の女の子は無茶したいときもあるんだから」 「無茶って……、歩美なら分かるけど世良に限って、変なことはしないだろう」 「甘い。甘いよ、四四八。お父さんと初めてデートしたときのチョコラテくらい甘い」 「そんなことは聞いていない」 「都会にはまだ慣れてないみたいだし、静乃ちゃんのことは四四八が心配してあげないと」 「……言わんとすることは分かるけどね」 しかし、石神たちは夜遊びのために街へ繰り出していったわけじゃない。 スイーツ経験ゼロというあいつの話を聞いた歩美と世良が誘い、なし崩し的に晶が巻き込まれていったのだ。 食べ歩きならうちの蕎麦でいいじゃんかと晶は主張したが、華麗に却下されていた。 「でも、いいなぁ~。スイーツの食べ歩きだなんて。青春まっしぐら~って感じ」 「約一名、半ば無理矢理に引っ張られていったが……」 「そういうのも含めてだよ、四四八」 母さんは嬉しそうだった。石神と出会って、まだ月日も経っていないのに、どこか自分の娘のように感じているのかもしれない。 らしいと言えばそれまでだけど、母親の懐の広さを俺は好ましく思っている。 「けど本当に夕御飯は作らなくて大丈夫なのかなぁ」 「なんだかんだ言って、晶のところで食べてくると思う」 「四四八はそう思うの?」 「ああ。十中八九、騒ぎ過ぎて疲れた結果、スイーツだけじゃ物足りなくなるだろうしな」 「そっか。四四八がそう言うんなら、きっとそうだね」 妙な信頼が気になる結論だったが、食べ歩きに行って腹を空かして帰ってくるはずもないだろう。 益体もない話をしながら歩いていると、いつの間にかバイト先に到着していた。 今まで持ってきたあの重みを渡すと思うと心苦しかったが、早く冷蔵庫にしまわないといけないものもある。 どうしようか迷っていると、母さんが思いついたように言った。 「そうだ。静乃ちゃんが夕ご飯いらないなら、今日は母さん、四四八の働く姿を見学しちゃおうかな」 「え、バーに寄って帰るのか?」 「うん。お店の冷蔵庫を使わせてくれると助かるんだけどなぁ」 「……スペースは余っているから、大丈夫だとは思うけど」 思いも寄らない提案だったが、今までも何度か店に来たことがあったので、驚くほどのことでもない。 確かに一人で持って帰らせるには、いささか重すぎたから、内心でホッとしつつ店に案内しようとした。 そのときだった。 「四四八くん……、それから恵理子さん」 振り返ると声の主は、千信館学園の生活指導も兼ねている幽雫先生だった。 街中で遭遇するような人ではないので、俺は少々面を食らってしまう。 しかし、母さんは普段通りの笑顔で先生へ挨拶を返した。 「あら、先生。こんなところで奇遇ですね」 「突然、申し訳ありません。思わず見かけたものですから、つい声を掛けてしまいました」 「謝ることじゃないですよ。いつも四四八がお世話になってます」 「こちらこそ」 勢い良く頭を上げる母さんに対し、先生も堂に入った仕草で礼儀正しくお辞儀で返した。 「こんばんは、先生」 「四四八くん、ここが例のアルバイト先かね?」 「はい。ただ今日はシフトではないので、鳴滝の奴はいませんが……」 「ふぅむ。そうか」 幽雫先生は、何かを確認するように頷いたが、そこに厳し気な色は見えなかった。 鳴滝は学校に無断でアルバイトをしていた事実が最近発覚したため、すでに先生方の知るところとなっており、警告処分も下されている。 ……百合香さんから、個人的に直接。 これならいっそのこと、学校側から厳しく罰せられた方がマシなどとあいつは嘆いていたが、現実はそんなに軽いものじゃない。 だから、俺は一瞬頭によぎった悪い想像が杞憂であるのを確認するように、先生へ訊ねた。 「視察ではないんですね」 「ああ。純粋に通りかかりで見かけただけだから安心しなさい。それに処分も下されている」 「それはそれで鳴滝の奴、嘆いていましたけど……」 「しかし生徒総代から直接の厳命だ。彼女の遊び心は否定できないが、それを踏まえても寛大な措置だっただろう」 「自分もそう思います」 まったく幽雫先生の言う通りである。本来なら停学は避けられず、さらにペナルティが積まれてもおかしくないのが千信館だ。 そうしていると、俺たちのやり取りを見ていた母さんが心配そうに訊ねた。 「あの……、うちの四四八が、何か良からぬことでもやらかしたんですか?」 「いいえ、そんなことはありません。四四八くんは信頼のおける生徒です」 「だからこそ、他の生徒がやらかした不始末の件で事情を了承してもらいました」 「そ、そうですか。良かったあ」 きっぱりと答える姿が頼もしい。時に身も蓋もないが、変な誤解を生まないところが幽雫先生の尊敬できる点だ。 きそば真奈瀬での打ち上げを思い出すと、これが芦角先生だったら何かしらおかしな展開になるかもという不安が否定できない。 だから、だろうか。 次に母さんが幽雫先生へ言った言葉を、俺はすんなり受け入れることができた。 「そうだ。先生も一杯どうですか?」 「一杯、というのは四四八くんのバイト先でという意味ですか?」 「はい。私も寄っていこうと話していたところなんです」 「ふぅむ」 顎に手を当てて考える姿もサマになっている。 「贔屓したりはできませんが、真心込めて応対させてもらいます」 それでも少しの間、表情を変えずに迷っていた先生だったが、思いついたように頷いて答えた。 「……そうですね。こういう機会でもないと、現場を見ることはなかったと思います。少しだけ邪魔させてもらいましょうか」 「わぁ、ありがとうございます」 「四四八くん、アルコールは無しで頼むよ」 「分かりました」 それでも弁えてくれる幽雫先生の分別は頼もしい。 まるで家に迎え入れるかのように、俺と母さんは先生を店へ案内した。 「どうぞカウンターへ座ってください」 「当たり前だけど、母さんたちだけね」 「オープンしたばかりだからな」 「混雑したら帰るから安心してくれたまえ」 静かに座る幽雫先生だったが、そこまでウチの店は堅苦しい雰囲気じゃない。 なので常連のお客さんからすれば、人心地つける隠れ家的な店だと思う。 「どうぞ」 母さんが頼んだノンアルコールのカクテルと、先生のブラックを同時に並べて置く。 どちらも手のかからず慣れたものだから、意識しなくとも同時に提供できるのだ。 すると意外なことに母さんではなく、幽雫先生が感心したように言った。 「ほう。手慣れたものだ。手際が良い」 「二人だけですから」 「それでもだ。君の働きぶりを見ていれば理解できる。四四八くんと鳴滝くんのやっている仕事は、真っ当なものだろう」 「もしかして心配してました?」 「多少はね。酔客を相手にするんだ。悪い影響があってもおかしくはない」 「そういった事情も含めて許可をもらったと理解しています。余計な心配をかけないことが、俺たちの責任です」 「その通りだ」 どこか満足気に頷く先生に対して、母さんは嬉しそうに笑った。 「良かったね、四四八。ありがとうございます、幽雫先生」 そういえば幽雫先生と親父って知り合いではあるんだよな。となると母さんも顔見知りっていうことになる。 きそば真奈瀬の打ち上げでも、普通に話していたわけで。 「先生はお仕事に熱心ですよね」 「他にすることがありませんから」 「あら、いい歳をして何を言うのかって感じがします」 「いい歳、とは?」 「わざわざ言わせるんですか。よもや、それがモテモテの秘訣だったり。けど私には最愛の夫がいますよ?」 「ブッ――!? げほっ、ごほっ」 「せ、先生、大丈夫ですか? ちょっと、何を言ってるんだ母さん」 「先生くらいの歳で、仕事熱心な出来るイケメン。これでモテないはずがないっ」 「そんなことはありません。根拠の無い妄想でしょう」 「そうかなぁ。聖十郎さんと似た匂いを感じますけど」 「どういう表現ですか」 「…………」 なんだか珍しい光景だな。あの幽雫先生がこんな風に狼狽えるなんて。 ただ母さんの指摘することはもっともだと思う。芦角先生ならともかく、幽雫先生は間違いなく異性が放っておかないタイプのはずだ。 いや、芦角先生も綺麗な人だとは思うけど。 「今はお仕事が恋人というわけですか?」 「そのような表現をするほど熱心なわけでもありませんが……」 「ということは……、仕事はほどほどでも、恋には情熱的なタイプだったり?」 「いいえ。そういうわけでもありません。揚げ足を取らないでください」 「うふふ。歳を取ると、つい意地悪な言い方をしちゃうみたいで、気分を害してしまったのならごめんなさい」 「謝るほどのことでは……、ねえ四四八くん」 「そうですね」 母が妙にノリノリのせいか、息子としては空返事になってしまう相づちだった。 先生は俺に話を振って矛先を変えたい様子だったが、母さんは酔っていないにも関わらず、なぜか果敢に先生へと話題を向け続ける。 「先生のことをからかいたいわけじゃないんです。ただそのお歳で恋愛に興味が無いところが気になっちゃって」 「まったく興味が無いわけでは……。自分では人並みにあると思っています。ただ――」 「ただ?」 「今は仕事も忙しいですし、それと個人的な事情から、妹のように面倒を見てきた子が大人になろうとしているのです」 「おおっ」 「ですから、自分にまで手が回らないという感じでして……」 そんな先生の話を聞いた瞬間に、千信館の現生徒総代のことが思い出される。 そうだったな。百合香さんと先生は、少々特別な関係だった。 百合香さんに振り回される鳴滝が、俺に助け船を求め、そうして二人に付き合ったりしている中で、少しだけ聞いたことがあるのだ。 はっきりとは教えてもらえなかったけど、兄同然に育ってきたという男の人の存在―― 「こういう場に、私はどうも馴染まないようです。申しわけありません」 「いいえ、そんなことないです。先生と話していると、なんていうか、出会った頃の聖十郎さんを思い出しちゃいます」 「私に似ていたんですか?」 「うーん、似てる似てないって感じじゃないんですけど、何て言えばいいんでしょう」 「……?」 母さんの言いたいことが、俺にもよく分からない。 するとぽんっと手をつき、思いついた様子で答えた。 「そうですね。似てるというより、同じ種類の男性って感じです」 「ほう。柊聖十郎氏と並べて、そのような評価が頂けるとは」 「もしかして、嬉しかったりしちゃうんですか?」 「学者として高名な方です。あまり表に出て来られませんが、特に戦真館とそれに関わる歴史における研究では間違いなく第一人者でしょう」 「わぁ、先生からそんな風に言われると、私まで嬉しくなっちゃう」 「…………」 「ふふ。反対に四四八は面白くなさそうだけど」 「……別に」 ただ親父の話をしているとき、幸せそうに話をふるのを止めて欲しいだけだ。 しかし母さんに言っても仕方ないので、俺は二人のやりとりに耳を傾けながら、目の前のグラスをひたすら磨いていった。 「先生、これは経験者のアドバイスです。結婚はしてみないと、その良さが分からないなって、最近つくづく感じます」 「実感のこもった言葉ですね。肝に銘じておきましょう」 「自分のような女性に縁のない男が、どう実践できるか分からない助言ですが」 「ああ、そこで固く考えたら駄目なのにっ」 「男の私から見ても、聖十郎氏のような異性と出会える確率は、この世界で低すぎる確率だと思いますよ」 「そ、そうですか? いや、私も実はそうなんじゃないかなぁ~って思ってます」 「…………」 はぁ。ちょっとした予想外の化学変化だったのかもしれない。 幽雫先生と母さんが一緒に飲み出すと、アルコールがなくとも、こんな展開になるわけか。それとも今だけなのだろうか。 俺には分からない。ただ―― 普段は見せない惚気を母さんが見せていて、それを真面目に聞きながら、幽雫先生が相槌を打っている。 親父の話が出るたびに面白くない顔をするバーテンには気づかないようだった。 そして、先生から百合香さんの話を聞けるとは、それ以上の発見というか偶然である。 皆、見えないところで繋がっていて、それぞれ及びもつかない想いを抱えて生きている。 母さんと親父なんかも同じだ。俺には理解できない絆で結ばれてしまっているらしい。 やがて、にわかに混み出した店内を見まわして、母さんと先生は解散したのだった。 放課後、俺は用も無いのに海岸へと足を伸ばした。 石神が隣にいるときは真っ直ぐ帰宅するか、母さんから言付かったりして、商店街へ買い物に行くときもあるのだが、一人だとつい無目的に歩いてしまう。 だが、ときには予想外な人間が海を眺めていたり、浜辺でごそごそしていたり、思いも寄らぬ出会いが待ってたりもする。 そして、その日の夕暮れは、また意外な人物が水平線を見つめていた。 「こんなところで何をしているんだ」 「あら、四四八さんですか。珍しいですね」 「それは俺の台詞でもあるのだが。野澤だって、家はこっちじゃないだろう」 「ならば、互いに普段通りではないということですね」 この場所にいる理由を聞いているはずなのに、野澤はさらりと躱してしまう。 そして、それはおそらく無意識ではないだろうと思った。 彼女のことだ。意識的に話の向きを逸らしているに違いない。 「夕暮れどき、こんな場所で二人だなんて、とても珍しく感じます」 「……それも俺の台詞だな」 しかし、個人の事情を詮索するつもりはない。 早々に退散するため、俺は視線を横へ向ける。 すると予想外にも、野澤のほうから続けて話しかけてきた。 「四四八さんが一人でいる時点で、今日は特別なのかもしれません。珍しい違和感はそれなのかも」 「野澤の中で、俺は常に誰かと群れているイメージなのか」 「群れているという言葉はちょっと……。ただ誰かが四四八さんを必要として、いつも側へ寄っていく印象はありますね」 「喜んでいいのか微妙なイメージだ。受け取り方によっては、群れないと何もできない男みたく感じる」 「それは逆でしょう。一人で何でもできてしまう四四八さんを見ると、周りの方たちはつい声をかけたくなるんですよ」 相変わらず思ったことをストレートに言う奴だ。 こういう女子に惚れると大変なのかもなと、栄光の姿を浮かべながら思った。 「もしかして失礼なことを考えていませんか」 「そうでもない。どちらかというと失礼なのは、野澤の方とも言える」 「四四八さんの気分を害してしまいましたか」 「そこまでじゃないけど……」 「なら良かったです」 どこまでもマイペースな奴だった。 やり返すつもりなどなかったが、さっき聞くのを止めた――ここに佇んでいた理由を俺はもう一度訊ねたくなった。 なぜなら、こうして少し話しているだけでも伝わってくる。 どうやら野澤は、俺のことを煙たがっているわけではなさそうだ。 「野澤は何をしに海岸まで来たんだ?」 「……気になりますか?」 「答えたくなかったら、無理する必要ないけどな」 「無理、というわけではないのですが……」 野澤らしくない反応だった。 さっきまでは舌鋒鋭く、とはいかないまでも、俺が閉口してしまいそうになる感じで話していたのに、急にはっきりしなくなる。 もう一歩踏み込んで聞いてみた。 「もしかして、何か困っていることでもあるのか? 俺で良ければ話を聞くぞ」 「いえ、相談したいというわけでもないです。ただちょっと、私の知らないことなので……」 さっぱり分からない。言い淀んでいるのは間違いないのだが、野澤にとって話しづらいことが想像つかなかった。 例えば世良や晶たちのように、普段から話している仲であれば予想もついたりするのだけど、彼女は違う。日常的に俺たちと連んでいるわけではない。 「…………」 なのでどうしようか迷っていたら、零すように彼女は言った。 「……少しだけ寄りたいところがあるのです」 「寄りたいところって、この海岸じゃない場所なのか?」 「はい」 「ということは、その寄りたいところへ行く途中で、海を眺めていたのか」 「ただぼんやりと眺めていたわけではありません。勝手が今一つ分からなかったものですから……」 奥歯に物が挟まったような言い方が、いかにも彼女らしくない。 首をかしげていると、野澤は意を決したように告げてきた。 「スポーツショップに寄ろうと思ったんです」 「ス、スポーツショップ?」 思いがけない返答に、思わずオウム返しで小さく声を上げてしまう。 「はい。駅前から海側にかけて、そういうお店が何店舗かあると聞きました」 「……もしかしてサーフィン?」 海岸で時折見かけるスポーツと言えば、それくらいしかない。 けれど野澤がサーフィン。言葉に出しておきながら、光景がまったく浮かばなかった。 すると彼女は、少しだけ恨めしいような表情をして言い返してきた。 「四四八さん、ふざけてますか?」 「いや、大真面目だよ。それくらい予想がつかないんだ」 世良ほどではないにしろ、野澤は文武両道を地でいく女子だ。 さすがに俺や石神のランニングについてこられるような体力は無いだろうが、栄光と比較したら彼女の方が運動神経や勘は良いかもしれない。 それくらい欠点のない奴というイメージだった。 「実はインラインスケートを探しているのです」 「けれど買ったことがないのはもちろん、現物を見たことすらなかったので、何をどういう判断で買えばいいのか分からず……」 「海を見て悩んでいたというわけか」 「そうですね」 なるほど。俺はようやくそこで合点がいった。 無意識に栄光を思い浮かべ、脳内で野澤と比べてしまったが、つまりはそういうことなのだ。 「栄光には相談して……ないよな?」 「はい。まだ買うとも告げていません」 「見たことないんだから、野澤的に興味があるわけじゃ無いんだよな?」 「それなのにしょっちゅう誘われています」 「実際にやるやらないは置いといて、野澤くらい運動神経があれば楽しくなると思うぞ」 「四四八さんは経験あるんですか?」 「スケート靴は持ってないが、栄光に誘われてレンタルで何度か」 「楽しかったですか?」 「それなりに」 何事か考える様子の彼女を見ていると、満更でもないことが伝わってくる。 良かったな栄光、などとついつい思ってしまった。 しかし、目の前の女子を誘うあいつの頑張りは容易に想像がついたし、それが決して軟派な気持ちでないことくらい俺たちは分かっている。 「どの店のスケート靴にするのか、だいたい絞れてるのか?」 「いいえ、まだです。すべてのスポーツショップに置いてあるわけではないのですね」 「まあな。手軽に楽しめるスポーツだと思うけど、どちらかというとマイナージャンルだ。品数を気にしたら店は限られてくる」 「まさにそこです。私が見てまわった店では、これといって気に入るものがありませんでした」 彼女の言う通り、水着みたいに分かりやすく売っているサマーレジャー用品ではない。またスキーやゴルフのような確固とした専門店もなかった。 軒先を眺めただけでは売っているかどうかも分からない。だから気に入る商品を買うのもひと苦労だろう。 その辺りの事情は、栄光に付き合わされたこともあったので知っていた――とそこで俺は思い出した。 「そうだ。時間があれば案内するぞ」 「栄光の奴が、よく行くスポーツショップなんだが、品揃えもしっかりしていてアフターケアまでばっちりらしい」 「買ってからも手間がかかるものなんですか」 「あいつは大げさに言うから、話半分ではあるけどな。でも素人にスケート靴のメンテナンスはできない」 「栄光が通っている店は、そういうメンテナンスも優しいって言ってたからな」 「……なるほど」 顎に指をあて納得するこいつの姿を見ていると、どうしても内心で嬉しくなってしまう。 本当に良かったな、栄光。 だが、そんな機微を察したのか、野澤が非難するように言った。 「何をニヤニヤしてるんですか四四八さん」 「いや、ちょっとだけ昔のことを思い出してな」 「む……っ」 「出会いからして普通じゃなかっただろう。野澤にとって、特に栄光との初対面は忘れられないはずだ」 「余計なことを回想しないでくださいっ」 「忘れられないのではなく、忘れたい思い出です」 わずかに頬を膨らましながら歩き出す野澤。 少し遅れて、俺はもう一度訊ねた。 「それでどうするんだ? 栄光が行きつけのショップを案内していいのか?」 「インラインスケートを始めると、まだ決めていません。ただ漠然と靴を見るだけです」 そうして、素直にならない彼女を引っ張るようにして歩を進め、海岸からほど近い店へと案内した。 三歩ほど離れた後ろに気配を感じつつ、そのときの俺は、栄光から聞いていた二人の出会いを思い出していた。 一年のとき、野澤と栄光は同じクラスだった。 俺は別のクラスだったので後から聞いた話だったのだが、二人の最初の会話は始業式の日だったらしい。 「野澤祥子。好きなものや得意なものは、特にありません……あ、それから委員会は保健委員を希望します」 「ああ、君か。小説の賞を取ったのを私も聞いている。クラスメイトの中にも、君のファンはいるんじゃないか」 「まあそれはどうでもいいですが、サインとかは勘弁してください」 「……おお」 「そして、詳しい方は既にご存知かもしれませんが、訊ねられると面倒なので先に言っておきます」 「私の曾祖母は戦真館の卒業生で、柊四四八の同期生です」 「――ッ!!」 「名前は伊藤野枝。苗字が違う理由に、これといって特別なこともありません」 「話を聞かれても文献以上のことは知りません。以上です」 「伊藤野枝……」 「もし万が一訊ねたいことがあれば、今日このときだけ受け付けます。その代わり、以降はやめてください。面倒なので」 「どなたか私に訊ねたいこと言いたいことはありますか? ありませんよね? それでは、私の自己紹介はこれで終わりに――」 「はい、はい、はい! オレ、君に伝えたいことがある!」 「あなたは……?」 「オレは、大杉栄光! ハルミツじゃなくてエイコーでもいいぜ。そして、オレも君と同じく戦真館物語に出てくるキャラの子孫だ!」 「……!?」 「……そうですか。それで何か、私に因縁でも?」 「ああ、これはきっと運命に違いない!」 「う、運命?」 「祥子さん、一生のお願いだ――結婚してくれ」 「…………は?」 そんな栄光の先走った言動で知り合い、仲良くなっていった。 自己紹介から一週間、栄光は口を聞いてもらえず四苦八苦しており、見かねた俺たちが彼女へ挨拶した。 マイペースなところは昔も今も変わっていないが、野澤は自然体で関わってくれたのだ。 「しかし、出会ったときのハイテンションは何だったんだろうな」 「伊藤野枝と大杉栄光の仲が特別に良かった、などという話は聞いたことがありません。栄光さんがおかしいだけです」 彼女の言う通り、今まで見たことのある文献に、そういった記録は残されていない。 身内に口伝される物語でも、野澤と栄光の先祖の関わりなど聞いたことがなかった。 しかし、だからこそ栄光の想いには尊いところがあるように、俺は感じてしまうのだ。 「四四八さん、どうかしたんですか。何か失礼なことを考えていませんか」 「考えていない。どうしてそうなるんだ」 普段から失礼なことなど考えていないのに。 すると野澤は、事も無げに短く答えて言った。 「四四八さんは栄光さんの幼なじみですから。きっと悪影響を受けているに違いありません」 「例えば――私みたいに……」 「……そうか」 うーむ。悪態をついているように見えて、これは栄光的に嬉しいことなんじゃないか? 他人とつるまない野澤が、栄光にだけは特別な想いがあるようだった。 良くも悪くも。彼女にとって、栄光は他の男子とは違うようで…… 歩みを止めることなく、野澤がぽつりと言った。 「栄光さんには黙っててください」 「あいつの誘いがあるから、ショップを見に行くんだろう?」 「だとしても、です。まだ買うとは決めていませんから。仮に買ったとしても、栄光さんと滑るとは言ってないです」 「理解できないほどテンション上げられると面倒くさいので黙っててください」 「……了解」 悪いな、栄光。報告ができるのはもう少し後のようだ。 けど内心じゃ心配する必要もなさそうだった。 なぜなら、そう遠くない未来、栄光が飛びきり調子に乗る姿を、ちらりと垣間見た気がしたから。 ほんのわずか、恥ずかしそうに視線を逸らす女の子の隣で…… 「みんな、それではまた明日」 石神が手を振りながら、世良や栄光、晶たちへと告げる。 そこそこ人数がいたから、校門から街中まで妙に時間をかけて練り歩いた。別れてから気がつけば、いつの間にか夕暮れになっている。 こうして二人で帰宅するのも当たり前の光景になっていた。 出会ってからそんなに時間は経っていないはずなのに、そんな石神と歩いているだけでなんとなく言葉にしにくい気持ちに包まれる。 「おや、どうしたんだ。私の顔に何かついてる?」 目線を感じたのか、こいつは覗き込むように訊ねてきた。 「そういうわけじゃない。すまん、気にしないでくれ」 これが幼なじみの晶たち相手なら、自分でも分かるんだ。 普段、憎まれ口を叩いたり、あまりにも当然の存在であるがゆえに、ふとその掛け替えのなさに感心したりする瞬間がある。 しかし、石神相手だと自分でもどうしてか分からない。切ないような気持ちになる理由がすぐには見つからないというか…… 「そんな反応をされると気になって仕方ないが。四四八くんが嫌なら、立ち入って聞くつもりはないよ」 「……いや、うまく言葉にしにくいんだが、おまえもすっかり馴染んだなって思ったんだ」 「馴染むというのは、つまり四四八くんたちとってこと?」 「ああ。今日なんて特にそうだ。全員、幼なじみと下校してるようだった」 「そ、そうか。四四八くんから、そんな風に評価されるとは……嬉しいな」 「評価って、そんな仰々しいものでもないだろう」 気にさせた上で、もったいぶった言い方をした俺がそう指摘するのも変な感じはするが。 しかし、俺たちは別に評価し合うような関係でもない。他のメンバーも、石神のことをあるがままに受け入れている。 まるで昔からそうだったように。石神まで幼なじみだったっけと錯覚するほど、俺たちはグループで自然体だった。 「私だけ付き合いが浅いから、ときに不安にもなるんだよ」 「たとえば私がいないときの方が、四四八くんたちは過ごしやすいんじゃないかって」 「そうなのか? 少し意外だな。石神はいつでもマイペースなタイプかと思ってた」 「よく言われるけどね。四四八くんは、他人が自分のことをどう思ってるのか、気になって仕方なくなるときはないの?」 「俺だってもちろんあるさ。けど、そういうのを理由にして生きたくはないとも思ってる」 「誰かに嫌われたりするのを気にする前に、まず自信を持って他人の前に立てる自分なのかどうかだろう」 「ふふ。思った通りの答えだね」 「石神は誰に対しても、そう思ったりするのか?」 「いいや、自分が好きな人たち限定だね」 やはりマイペースな女だ。こんな台詞をさらりと言ってのける。 そう思っていても晶や世良、栄光は恥ずかしがるだろうし、我堂は口が裂けても言わないだろう。 歩美は大切に思っている程、そんな台詞は決して言わない。その辺りは鳴滝も同じだ。 それなのに、こいつは心底そう思っているからこそ言葉にするんだと言わんばかりに、真っ直ぐな眼差しで告げてくる。 俺は少しだけ目を逸らして訊ねた。 「なあ、個人的なことだけど訊いてもいいか?」 「なんなりと。四四八くんが知りたいことならできる限り答えたい。というか、私に何を訊いてみたいのか、それを知りたいな」 やっぱり大げさな奴だ。突っ込んでも仕方ないので、ここはストレートに訊いてみた。 「おまえ、この事件が終わったらどうするんだ?」 「実家へ帰るのか? それとも、こっちに残るのか――」 何気なく訊ねたつもりだったのだが、石神はことのほか驚いた顔をして、だがそれは一瞬で元に戻り、笑って答えた。 「もちろん卒業まで残りたいと思ってるよ。そもそも朔の問題が起きなかった場合は、普通に学生するつもりだったんだ」 「普通に学生、か」 「ああ。育った環境が、ちょっとばかり特殊だからね。ずっと心の片隅で憧れてた」 「目覚めたら軽めの早朝ランニングをして、皆と学校で過ごしたら、こうして男の子と二人っきりで下校する……そんな普通が、今はとても楽しい」 あれが軽めなのか。鍛えているはずの俺でさえ限界ギリギリに追い込まれた記憶がフラッシュバックする。 「四四八くんにとって昔から続いてきた普通……そういう青春の一ページに私も加われていることが嬉しいんだよ」 「だから、さっきかけてもらった言葉は、私にとって格別だった。ありがとう」 破顔してそんなことを言う。 どちらかというと聞いているだけの俺の方が恥ずかしくなってきた。 「あ、でもこんな一方的な言い方をされたら困るかな。四四八くんは迷惑?」 「そんなことはないから気にするな。母さんも喜ぶし、今更おまえが抜けたら晶たちだって寂しがる」 ときどき、娘も欲しかったの、みたいな感じで母さんが零すときもある。 親父はあの通りだから気にしないとして、幼なじみたちは間違いなく普通のクラスメイトがいなくなるという反応でいられないだろう。 けれどそんな俺の返答に、石神は首を振った。 「確かに他の皆の反応も気になるけど、今訊いてるのはそうじゃなくて、四四八くんがどう思うのかってことだよ」 「いや、まあ、俺もそりゃ、そうだよ」 「そりゃそうとは、どういう意味かな……詳しく」 お、おいおい。なんだこの突っ込みは。意地の悪い聞き方だぞ――と言い返そうとして、俺は思いとどまった。 こいつの表情を見ている限り、そこには答えを確信した上で悪戯っぽく期待している様子は微塵も感じられなかった。というか、石神はそもそもそういうタイプじゃない。 本気で分からないから言葉にして訊いているという瞳の色。 参ったなと思いつつ、こういう歯切れの悪さが、もしかしたら不安にさせているのかもしれない。 「ほら……、四四八くんには出会いから、迷惑をかけてしまっただろ。私に配慮が足りなかったせいで、みんなに誤解を生んでしまった」 わりと最近のことなのに、色々とあったせいでそういえばそんなこともあったなと思い出す。もはや懐かしい記憶となりつつあるが、石神は申し訳なさそうに続けた。 「冷静になって振り返ると、思春期の男女にあるまじきセクハラ行為だった。どうにも普通の価値観に乏しい私だから、水希や歩美、鈴子にも注意されたよ」 「もっと自分を大切にしなさい、四四八くんには気をつけろって」 自分を大切にしろというのは同意見だが、俺に気をつけろとはどういう意味だあの馬鹿ども。次会ったら軽く仕置きをしてやろうと、こっそり心に誓う。 「四四八くん云々は幼なじみらしい友情の発露だとして、けれど私は自分の軽率さについて反省したんだ」 「もうあんなことしないよ。信用してくれ」 「いや、あのな……」 困ったことは事実だが、さすがにそこまで気にしなくてもとは思う。 しかし、これはちょっと難しいところだ。石神は良くも悪くも素直な奴だし、気にするなと言うのもそれはそれで良くないかもしれない。 確かにああいうハプニングは、もうこれ以上ないに越したことはないけれど。 「四四八くん……」 また違う意味で参ったな。どうやって答えるべきか。これからもウチへ住むことに変わりないとして、受験勉強とか大丈夫かな俺。 親父がいない今は、書斎を使わせて事なきを得ているが、卒業までとなるとさすがに無理だろう。上海から帰ってきたら、石神をとっとと書斎から追い出すに違いない。 受験シーズンに突入して、同室寝起きなんて事態になっていたら将来設計にまで影響を及ぼしてくるかもしれない。 俺は慎重に言葉を選びながら、重たい口を開く。 「おまえも最近は分かってきたというのは俺も同感だ。しかし、問題はそれだけじゃなくてだな……ほら、俺たちって形としては同じ家に住んでいるわけだろう?」 「ああ。だからこそ、迷惑をかけずに暮らしていきたいんだけど、他にも何か至らないところが? 遠慮せずに言ってくれ」 なかなかうまく伝えられない。 要は石神にセクハラされようがされまいが、若い女と一つ屋根の下という状況そのものが問題なんだが、こいつはそのへんの事情をまったく分かってない。 普通ならこういうとき、言外のニュアンスというやつで伝わるだろうし、歩美なんかは逆に分かってて聞きだそうとしてきたりする。 そうなれば、俺も気にせずはっきりスルーできるのだが、こいつの場合はそうじゃない。真剣に悩んでいるからこそ、ちゃんと伝えてやらないといけないだろう。 そうして四苦八苦しながら俺が説明も覚束ないでいると、石神は突然明るい表示になって拍手を打った。 「……そ、そうか! もしかして、四四八くんは照れてるんじゃないかな」 「あ、まあ、そう……いうことになるのかな」 「なるほど! ということはつまりだ。一緒に暮らす内に君の中で、私の存在そのものが特別になってしまい、このままでは男としてままならないと」 「はっ?」 「らしくもない歯切れの悪さが恐かったんだけど、そういうことだったのか。つまり四四八くんは私のことを――」 「愛してしまったということか……」 こいつの頭の中はどうなってるんだ。 いや、確かに男としてままならないという見解は外していないんだが、どうして愛なんていう話になるんだ。 まずい。ここに至っては、少々乱暴でもはっきり断っておこないと。 「待て。おまえは盛大に勘違いしてる。こういうのは別におまえに限った話じゃないんだ」 「えっ、そうなの?」 「仮に今の状況が、石神じゃなくて晶だろうと世良だろうと同じだこの馬鹿」 「年ごろの男女が一つ屋根の下ってのは、単に好きだから困るとか、そういう単純なものじゃない。相手との距離感とか、もっと基本的なことで……」 「な、なんだ、誰でも一緒なのか……」 あからさまにしょげる様子の石神である。 あれ、俺って間違ったこと言ってないよな。まあデリカシーに欠ける言い方だったかもしれないけど、あそこは直言でいかないともっと酷いことになりそうだったし。 とはいえ、こいつの落胆した顔を見ていると妙な罪悪感にかられてしまう。凄まじくバツが悪くなってきた。 「そもそもおまえは、本当に俺と四六時中一緒の状況が平気なのか?」 「同世代の男と交流が無かったと言ってただろう。疲れたりはしないのか?」 「それは最初に言ったじゃないか。君は私にとって憧れの人の子孫だし、むしろ一緒にいられるのは嬉しいんだ」 「いや、でもそれって……、要は俺個人のことをまともに見てないってことじゃないか?」 ああ、そういうことか。俺はここにきてようやく違和感の正体に気づき始めていた。 俺がこいつに対してずっと感じていたズレというか、すれ違ってしまう肝は、つまりここにあるのかもしれない。 曽祖父を尊敬してるのは嬉しいし、本当だろう。 だけど憧れが強すぎるせいなのか、俺のことを一個の人間として、まともに見てないところがこいつにはある。 許婚云々を軽く承諾してしまうのも、裸で遭遇したところで何も気にしていないのも、俺の人格と曽祖父を混ぜて見ているせいなのだ。 石神静乃は、きっと俺のことを――現代の柊四四八を軽んじてるわけじゃない。しかし、こいつにとっての曽祖父――柊四四八はでかすぎる。 当然ながら俺と曽祖父が別人であることくらい頭じゃ分かっているだろうが、まだ気持ちの折り合いというか、空想と現実感が入り混ざっているのかもしれない。 「うん?」 そんな俺を、石神は不思議そうに見つめていた。 けど……わざわざ今ここで言うことじゃないかもな。すぐにどうこうと結論づけても、果たして解決へ至るのか甚だ疑問だ。 時間が必要な問題であり、俺に出来ることは変わらず俺らしくあることだろう。 そうすれば強い憧憬は、日常にある現実によってきっと上書きされるはず。 まあ、今こうして石神が向けてくれる親愛の情というか、妙な俺への買いかぶりみたいなものが失われ、幻滅されたりするのはちょっとばかり残念ではあるけれど。 俺は頭を振ってから、まとめるように告げた。 「とにかく。おまえが今後も鎌倉に留まるつもりなのは分かったよ。長い付き合いにもなりそうだ。改めて色々とよろしく」 そして、俺は現代の柊四四八なんだ。なるべく早く気づいてくれよ? 「うん、もちろんだよ。こちらこそよろしくお願いします」 どことなく玄妙に石神が頭を下げる。雰囲気だけ見ると、言葉にしないこちらの機微が伝わってる様子なんだけどな。 実際のとこ、こいつの心の中はどうなっているんだろう。 そんなことを内心で考えていると、すっと石神が顔を上げた。 「ふふ、なんだか思うところは一緒のようだね。今後も世話になるという意味で、実は四四八くんに伝えたいことがあったんだ」 なんだ? 「私になりに家計の助けをしたいと思うんだよ」 「……ほう。感心だな。バイトをするのか?」 「そのつもりだ。実はもう、目星をつけている。これを見てくれ」 そういって鞄の中から、チラシっぽい紙を取り出そうとする。 こいつ、何も言わずにこんなこと考えていたのか。俺の思惑とは違うけど、これはこれでとても殊勝なことだ。 母さんは決して石神から家賃みたいなものを取ろうとはしないだろうし、俺も気にしていない。どうしても必要な金があれば、なんだかんだで親父同士で話はつくはずだろう。 けど、俺もバイトする身として、こいつの気持ちはすごく理解できるし、さっきまでのやりとりから一転、見直した――気持ちのはずだった。 「これなんだけど、どうかな?」 石神の差し出した求人のチラシには、目の痛くなるようなショッキングピンクの文字でこう書いてあった。 『緊急、大募集! 〈戦〉《イヤシ》の〈真〉《マコト》は〈千〉《アナタ》の〈信〉《カワキ》を解消する。業界初、コスプレありの千チン姦学園!!』 「素晴らしいだろう? 詳しい内容はよく分からないけれど、きっと戦真館にまつわる何がしかの仕事だと思うんだ」 「癒しを宣言するだけあって、おそらく千信館の学生でしか為し得ない、社会に蔓延する疲労なんかを取り除く高尚なサービス業なんだろう!」 「見てくれ、端に小さく書いている。戦真館の制服を持っている方は優遇らしい!」 なに言ってんだ、こいつ。数分前に感心した俺の気持ちを返せ! というか、こんなもんどっから手に入れて、しかも学生鞄に忍ばせてんなよ。今日はずっとこれ持ってたのか。 絶句していると、石神はキラキラと瞳を輝かしながら告げてくる。 「さて。実はこれから面接の約束を取り付けているんだ。申し訳ないけど、今日は一緒に家まで帰ることが出来ない」 「そういうわけで、四四八くん、行ってくる!」 「私が受かったら、是非君も遊びに来てくれ。精一杯サービスさせてもらうから!」 「やめろぉおお! この馬鹿! しばらく俺の目の届かないところへ行くんじゃねぇ!」 「……えっ」 渋る〈石神〉《バカ》の手を取り、片時も離さぬよう連行する。 最初は面接会場の502号室へ行きたがっていた石神だが、思い切り腕を組む勢いで引っ張り始めると、思いのほか静かになって素直に帰宅した。 はあ。何が少しは常識が分かってきただよ。やっぱりこいつは色々と気が抜けない。これが卒業まで続くのか。 と嘆息しながらも、それはそれで悪くないかなと片隅で思っているのを自覚していた。 「おい。こんなところに来るなんて聞いてないぞ」 「当然じゃーん。言ってないもん」 放課後になると、いきなり歩美からちょっと付き合ってと言われて引っ張られた。 無論、嫌なら引き返すことも出来たのだが、急ぐ用事もないので訝しく感じながらも付いてきたのだが。 しかし、まさか二人で高徳院に来ようとは。今さら過ぎる行き先である。 「来る前にどこへ行くのか教えてくれ。場所を告げたら、断ると思ったのか?」 「まさか。四四八くんなら、付き合ってって言えば、どこまでも付き合ってくれるっしょ」 「それも違うと思うんだが……、まあいい。けどそれなら、どうして行き先を訊いてもひたすらはぐらかしたんだ?」 「うーん、はぐらかすなんて人聞き悪いなぁ。考え事したり、ちょっと噛み合わなかっただけだよ」 なんていう風に、またはぐらかしている。 歩美相手の場合、なし崩しで引っ張られるのはよくあることだからこの際気にしないとして、しかし今さら何故、こんなところへ来たのかが分からなかった。 俺も歩美も、数え切れないくらい何回も来ている場所なのだ。今さらここに来たところで、別にどうということもない。 あえて語るべきものも、見るところもないだろう。 「付いてきたこと後悔させちゃったかな」 「そんなことはない。連れて来られたのが嫌ってわけじゃないんだ。ただ……大仏殿にやってきた理由が分からなくて落ち着かない感じだな」 「んー、特に深い理由はないんだけどね。四四八くんはデートに口実はあった方がいいタイプ?」 「……いや、なくてもいい」 粘るように訊ねても、こいつの反応はこうである。 はぐらかしているのが伝わってくるので、余計に突っ込んで聞きづらい。 晶や世良ならば取るに足らない理由で逃げてる可能性もあるから、こっちも遠慮なく追求しようという気になったりするが、歩美は違う。 こいつが隠すということは、実はどこかにそれなりの理由があるはずだろう。要は相応にシビアな問題である確率が高いため、つい慎重になってしまう。 「ほら四四八くん、あっち行ってみよーよ」 言いながら、歩美はずんずん先へ行ってしまう。 今の時期、観光客は多い。あまり気は乗らないが、はぐれても仕方ないので見失わないように追いかけた。 「四四八くん、遅いよー。しゅっしゅっしゅっ」 「おい、馬鹿。やめろっ」 歩美の手から放たれたのは鉄製の手裏剣だった。 分類的には玩具らしいが、危ういところで受け取ったそれは本物の武器である。 「おまえは何を持ってるんだ」 「たまにはこういうのもいいじゃん。銃よりはレトロって感じで、牧歌的!」 オンラインゲームと比べればアナログなんだろうが、とても牧歌的とは言えない。 「普通に危険物なんだから、人へ向けるなよ。ましてや投げるな」 「もっちろん! 普通の人間には投げつけないよ」 「待て。それは俺が普通の人間じゃないということか?」 「わたしも含めてね。今や立派な超人だよ~」 極秘の話なのに、こいつはあっけらかんとして言った。 誰かの耳へ届いているわけではない。予想よりも混雑しているせいか、観光客のざわめきは逆に二人だけの会話にしてくれるBGMのようだ。 ただそれでも、あまり言うべきではない。 「もしかして寺に入る前、武器屋に寄ったのは、俺たちが今の状況にあるからなのか?」 「強そうな雰囲気ぷんぷんしてるでしょ?」 おいおい。まさかこいつ、手裏剣を現実の飛び道具として使う気か? 俺たちが手に入れた得物に比べれば玩具に過ぎると思うんだが。 しかしそんな心配をよそに、歩美はまったくそのつもりなどなさそうだった。 「そういうわけじゃないよ。前からちょくちょく寄ってたしね。買ったのは初めてだけど」 「そ、そうなのか。手裏剣の他には何を買ったんだ?」 「忍者刀とか、まきびしだよ。見てみる?」 「いや、いい。頼むからここで広げてくれるなよ」 「忍者系の武器って、ロマン溢れて格好いいのに~」 おまえは日本に間違った憧れを抱く外人か。鎌倉へ観光に来ている人たちの中には、そういう人も少なくないだろう。 寺院の前にどんと店を構える武器屋。物珍しさと怪しさに、修学旅行らしき学生や観光に目を輝かす異邦人が吸い込まれていく。 ある意味、小さい頃から変わらぬ風物詩のような光景だが、まさか一緒に育ってきた幼なじみまでもが利用しているとは。 呆れ半分、変な意味で見直したような気さえしていると、にへらと歩美が笑った。 「……ま、四四八くんは武器とか必要ない男の子だもんね」 「どういう意味だよ。男にも女にも手裏剣とか必要ないだろ」 「いやだなあ、分かってるくせに。四四八くん自身が、何よりも研ぎ澄まされた刃って感じ?」 「そんな風に思えるほど俺は鍛えられていない」 「嘘。自信ないの?」 「トレーニングや勤勉に対して自負はある。だが武器が必要ないほど磨かれてるかと問われたら、俺は決して日常レベルを逸脱してない」 「石神を見て痛感したよ。俺はまだまだ日常の凡夫が鍛えてるレベルだ」 「そういうとこ、真面目だねぇ四四八くん」 「現実的と言ってくれ」 「あはは。そんなテンションだったら、いざというときにモテないかもよ?」 いざというときって何だよ。 どうにも最初から要領を得ない。歩美の持ち出してくる話はどれも繋がりがなくて、なんというかわざと時間を消費させようといった感じだ。 複雑な境遇や事情が絡み合う中で、俺たちのするべきことを列挙し始めれば、おそらくキリがなくなるだろう。 事実、何か行動を起こすときは事前に確認をして話し合い、仲間たちは皆目的を持って動いている。 けれど目の前のこいつは、そういう流れにあえて反するような雰囲気だった。 なので、ああつまりと思い当たる。 「どう? たまには可愛い幼なじみとデートできて、ゆっくり休めてる感じ?」 「それはこっちの台詞じゃないか。おまえ、もしかしたら、今ちょっとしんどいんだろう?」 「いや~どうだろ。そう訊かれると、そんなことないよーって答えたくなっちゃう」 「……なるほどな」 学校にいる間も、あまりに普段通りすぎて気がつかなかった。俺の怠慢というか、幼なじみだからという慢心だろう。 子供の頃によく来た場所へ、歩美の奴がこんな風に俺を誘うことそのものが、こいつのサインなのではないか。 心のケア。考えようによっては、目的を持って動くときよりも大切なことだ。 「裏サイトで、何か気になることでもあったか?」 「ああー、毎日よくもまあ飽きずに、他人の話で盛り上がれるよね」 俺はあれから見てないが、裏サイトのチェックはこいつの役割である。 詳しくないから具体的には分からないが、きっと見たくもないものを無限に見ている気持ちなんだろう。 無理矢理、誰かを誘って気晴らしがしたくなっても不思議ではない。 「てゆーかさぁ、その情熱だけはホント見習いたいくらいだよね。いる奴はきっと24時間チェックし続けてるよ」 「きつかったら代わってやるから早めに言えよ。無理をして身体でも壊される方が困ったことになる」 するとこいつはへらへら笑って言い切った。 「別に自分らのことがぐちゃぐちゃ書かれてることは気にしてないよ。ネットはそういうもんじゃん」 「だったら、なんでまた気分転換みたいもんに、俺を誘ったんだ?」 「もうっ、せっかちだなあ。もう少し歩美ちゃんとの武器屋デートを楽しんでからでいいのに」 武器はもういい。それよりも言い方が気になった。せっかち、ということはただ気晴らしをするだけではなくて、やはり何か話したいことがあるのだろう。 「この場所に関係があることなら、ちゃんと話せよ。場合によっちゃ、大勢の人が巻き込まれることだってある」 「仮に一大事になったとき、冷静でいるためにも、俺はみんなの話を漏らさず聞いておきたい」 そう告げると、歩美はちょっと迷ったようなそぶりを見せつつ、視線は向こうを向いたまま話し始めた。 「ネットなんかね、どうだっていいんだよ。そりゃ見てるときはストレス溜まったりするけど、裏サイトってそういうもんだしね」 「でも、純粋に今後のことを考えたらさ、タタリは冗談抜きでやばいよ。特に敵として出てきたら、恐そうな奴いるし……壇狩摩」 歩美は確信をもっているかのように、その名前をつぶやいた。まるで近い将来、相まみえるはずだと予知しているみたいに。 ただ俺としては見聞による脅威よりも、自分たちが敵を正確に把握できていないことが気になった。 単純にいくら強かろうが、どういう存在なのか仔細に知っていれば、何かしら対策を立てられる。 しかし、情報が足りず具体的にはそう動けないという状況が、不安をかき立てるのだ。 「確か石神の親戚だったよな?」 「うん、そうだよ。詳しく知ってるわけじゃないけど、しーちゃんの話とネットの反応を見る限り、わたしたちと一番相性悪そう」 「ここはさ、狩摩の関係場所だったみたい。偵察ってわけでもないけど、ただ気になったから来てみたかったんだ」 そういうことか。確かに説明しにくい理由ではある。歩美自身が感じている脅威も、まだ漠然としたものでしかないのだから。 形としては、側にいるだけでいいから付いてきてなんていう理由になるのかもしれないが、それはちょっと違う気もするしな。 「壇狩摩か……単純なバトルが通じる相手じゃないみたいだな」 「対峙しても、どういう風に対抗すればいいのか分からない。そういう意味では、確かに面倒な相手だ」 「うん……でもね、狩摩がもしタタリとして出てきたら、わたしがどうにかしないといけないのかぁって思ってるんだ」 「おまえが? 一人で?」 「うん。ひいおばあちゃんもそうしたみたいだしね」 いかん。これは予想以上に歩美の奴、ナーバスになっているようだ。 もちろん状況や展開次第で、タタリと一対一で戦うこともあるだろう。しかし、今から一人で気負う必要はない。 まだそういう段階ではないんだ。狭まった視野では、気持ちだってどんどん尻すぼみになってしまう。何より自分らしさを見失いかけているのが気になった。 だから、俺は話題を変えるためにもある提案を持ちかけてみた。 「なあ、ちょっとゲームでもしてみないか?」 「ゲームって……いきなり、どうしたの四四八くん」 「俺たちは、言わばタタリ相手にひと勝負するわけだろう。ならば、ここで勝負勘ってのを養っておくのもいいかなって思ったんだ」 言葉では訊ねつつ誘っているが、口調はわりと強引に持ちかけている。首をかしげながらも、歩美は恐る恐る頷いた。 「別にいいけどさ、でもなんのゲームで勝負するつもりなのかな。ここ人通りが多すぎて、たいしたことできないよ?」 「ややこしいことをするつもりはない。ただの簡単な勝負。おまえ、コインか何か持ってるか?」 「これならあるけど」 ポケットから取り出したのは、予想外にも将棋の駒だった。 「おまえ、こんなの持ち歩いてるのか。というか一式持ってたりするのか?」 「まさかそこまでじゃないよ。コインよりは大きいけど飛車でいい?」 「手の平に収まるサイズなら、どれでもいい」 そして、俺は駒を上に置いて、親指を弾くように準備をした。 「もしかして、コイントス?」 「ああ、これなら小手先の技術は関係ない。動体視力と、それから勘の勝負だ」 「むーん、こういう単純なのって、あんまり得意じゃないんだけどなぁ」 良し。だからこそ、選んだ甲斐がある。 ここはごちゃごちゃ考えさせるようなゲームじゃなくて、いわゆる勝つか負けるかの気合いを試すだけでいい。 たった一瞬だけど本気で勝負する。当然、俺は本気で挑むし、ゲームで鍛えられたこいつの動体視力でも見切れないくらいのスピードでやってやる。 それくらいでやってこそ、本当の気分転換になるだろうし、弱気になっている歩美への刺激になるはずだ。 「準備はいいか? いくぞ――はぁあああっ!」 「お、おお? は、速い……!」 どうだ。 駒はしっかりと右へ握り込んでいる。その上で左もがっしりと拳を作る。 「んん~~、これはねー、うーむっ」 今から見たところで判断などできるはずもない。どうやら、瞬間で見切ることは無理だったようだ。 よしと確かな手応えを感じつつ、俺は相手にたっぷり時間を与えた。急かす必要はない。今だけは充分に悩むがいい―― 「うん! よし、決ーめた! こっちにする~」 「えっ、もういいのか? 時間制限なんてないから好きなだけ悩んでもいいんだぞ」 「だってえ、こんなのいくら悩んでも仕方ないでしょ。なんとなく、こっちに入っていったように見えたから、わたしはこっちに賭けるっ」 そんな歩美が指さすのは、俺の右手だった。 「分かった。それじゃ自分で確かめてみろ……ほら」 「はいはい」 そして、拳の中を見ようとこいつが寄ったところで―― そのまま軽くおでこにパンチ。 「ぬわっ!? な、なにするんだよーっ」 怒る歩美。当たり前だ。 思った通りの反応だったので、俺はにやりと不敵に笑い、あえて挑発的に言ってやった。 「だから、これが壇狩摩なんだろ? ……ったく、まだまだ隙だらけだ。本番が心配になってきたぞ」 「……あ! あー、あー! 確かにそうだねっ」 「いかんなおまえ、こんなんじゃ先が思いやられる」 「うー、こんにゃろう。ある意味すっきりしたけど、今度は逆にムラムラ火がついてきた……」 どうやら元気も出てきたみたいだな。 そう。今の俺たちに大切なのは、まず自分らしくあること。皆との関係性を逆手にとって内部から崩されるのなら、それに負けない気持ちでなきゃいけない。 それには元気が必要だ。勝負事に遅れをとったときの負けん気でもいい。 「このわたしが、四四八くんにゲームで負けるとは……っ」 「ほら、もう長居しても仕方ないだろ。そろそろ帰るぞ」 「えぇー! 勝ち逃げずるい! もう一回勝負! 今度はわたしが考える!」 「しようがないなあ。人も多いし一回だけだぞ」 本当はこれで帰ろうと思っていたが、歩美が望むのならばもう一勝負受けてやることにする。 「その余裕顔、すぐに崩してやるーっ」 久々にこいつをやりこめた爽快感もあり、ちょっぴり気分もいい。こういう風に上から目線の余裕があれば、なんとなく次も勝てる気がする。根拠はないけど。 俺はなるべく余裕たっぷりの雰囲気を見せつけながら、歩美へ訊ねた。 「さあなんだい? あんまり時間のかからない勝負にしてくれよ」 するとこいつはさらっと答えた。 「勝負は野球拳。お互い着る物がなくなるまで勝負! 靴下かたっぽとかはなし!」 「……はあ? いや、おまえ、周りの状況考えろよ。観光客だらけだぞ」 「いいじゃん、観客がいっぱいで脱ぎ甲斐があるよ」 「どうしてそうなる」 こんな徳の高い場所でもっとも遠そうな野球拳とか、リアルに罰が当たりそうだ。 というか、普通に途中で警察を呼ばれること間違いない。 「あのな、せめてちゃんと完遂できるゲームにしろ。こんなところで服を脱いだら、速攻で通報されるぞ」 なんなら、次も将棋の駒でコイントスでもいい。 裏か表かの勝負もできるわけで、わざわざリスキーなことをする必要がない。そもそも脱ぎたくないし、こんな人目のあるところで歩美を脱がせたくない。 そんな風に俺が渋っていると、歩美はらしい笑顔で言った。 「えー、四四八くん、もしかして怖いの?」 「む……。別に怖いとか、そういうんじゃないだろう。純粋に勝負として、それはどうなんだって話だ」 「けどさー、女の子が脱げるって決意してるのに、男の子がごちゃごちゃ言い訳するのってがっかりしちゃうなぁ」 「が、がっかり?」 「うん。だって勝てば女の子の裸が見られるんだよ? そりゃ四四八くんが紳士なのは知ってるけどさ、こういうゲームで尻込みされたら幻滅しちゃうなー」 「あ、でも、そうか。女の子の裸とかには興味ないって言う、あれだ。今どきの若い草食系男子! そっかぁー、そういうことなら仕方ないね」 「くっ…………」 「正直、女からしたらそれってどういうなのって思っちゃうし、男らしく見えないけど、うん、まあそういうのも悪くないと思うよ。いいじゃん、草食系!」 「そういうイメージ、四四八くんには無かったけど、紳士だもんね! どっかで草食系になっても、おかしくないのかな」 「ル、ルールはさっき言ったので問題ないのか……?」 「……くすっ。どうやらその気になたみたいだね。よっしゃ、じゃーいくよ~!」 「えっ、あ、いや、待て。まだやるとは言って――」 「やーきゅーうー、すーるならー」 「こ、こういう具合にっ、しやしゃんせ!」 「アウト! セーフ!」 「よよいの、よい……嗚呼っ!?」 「いぇーい! 四四八くんの負け~!」 怒濤のじゃんけん。俺がパー、歩美がチョキ。 焦って流されたまま、当然負ける。あいこもなく負ける。 結局……またこいつに一本取られ返されてしまった。 「あーんな煽りで流されちゃうなんて、まだまだ若いね~」 「き、汚いぞ。盤外戦術ばかり使いやがってっ」 「さっきのデコパンチのお返しだよ。それじゃ約束通り脱いでもらおうか」 「お、おい、本当に、マジで脱ぐのか?」 「もちろんだよ。まずはパンツから脱いでよね」 「順番おかしいだろ!」 俺の猛抗議にも歩美はまったくぶれない様子。ましてや懇々と説教を始め出す。 「いけないなあ、こんなことで目くじらを立ててたら平常心なんて遠くなっちゃうよ」 「おまえに言われたくない」 「リーダーとして、まだまだ冷静さが足りん!」 ぐっ……そういう風に言われると否定できないのが哀しいところだ。 確かに歩美と接するときの俺は平常心を乱しがちだ。それは認める。 だが、どうしてもペースが狂わされてしまうのだ。 「そんなんじゃ壇狩摩が出てきたときが思いやられちゃうなぁ~」 確かに指摘される通り、真の相手は人外レベルの傑物だ。 こんなとこで脱衣ゲームをして、ぎりぎりと唇を噛んでいる暇ではないはずだ。さっさとするために、俺は制服のズボンに手をかけてベルトを外し始める。 するとそんな俺の様子を察したのか、歩美が慌てるように口を開く。 ああ、良かった。やっぱりマジで脱ぐのは歩美もさすがに―― 「ほら、早く! どんどん脱いでかないと、勝負が終わる前につまみ出されちゃうよ?」 「やっぱ脱ぐのかよぉおおおおーーー!」 その日、高徳院には言葉にならない絶叫が響いたという。 学校からの帰り道、俺はどこか重苦しい気持ちで歩いていた。 石神は歩美たちと用事があるらしく、バイトもないので珍しく一人きりの帰路。 だからだろうか。普段なら意識しないようにしている陰鬱な心持ちが、自分の中を支配していた。 「まだまだ、だな」 これくらいのことで塞いでどうすると、心中独りで言い聞かす。 だが、どうしても学校で向けられる好奇の視線が、校門から外へ出た今でもひたすら向けられているような気がしてならない。 「ただここまでの話をまとめると、俺たちが学校外でも見られてるのって、結局のところ事実でもあるんだよな」 だが、他人の野次馬心など詳しく知りたいとも思わない。 それを知ったところで、どうすることもできないのだから。 俺たちに可能なことは、とどのつまりいつもの俺たちでいることだけだ。 「敵は己の中にありってことになれば、いっそのこと楽なんだがな」 気づけば八幡神社にまで来ていた。 何の用事もない。誰かがここで俺のことを待っていて、会えるわけでもない。 本当に何の気は無しに、家に帰る道すがら寄ってしまった。 「こんなことなら多少強引にでも、栄光あたりを連れてくれば良かったか」 あいつはあいつで、同じように重苦しい気持ちを抱え悶々としているだろう。 もしかしたら、暴発して野澤に迷惑をかけているかもしれない。 「ネットをチェックしてる歩美は、さらに大変だな」 だからこそ、俺が精神的に参っていたら情けない話だろう。 いかんな。しっかりしないと……と思った、そのとき。 携帯が不意に鳴り出した。 「知らない番号……、誰だ?」 それは言葉にしにくい感覚だった。とても不思議な呼び出し音。 いや、もちろんいつもと変わらない機械の音ではあるのだが、まるで鳴らすのを忘れていたから、焦って忙しく鳴っている――ように聞こえる。 今の精神状態もあってか、煩わしくも感じながら、俺は平静を装って応答ボタンを押してみた。 「はい、柊です」 「おう出た出た。元気しちょったか?」 「……は?」 誰だよ。知らない番号の癖に開口一番、異様な馴れ馴れしさだぞ。 まるで旧知の友人にでも対するような……いや、それよりも久方ぶりに話す遠戚みたいな、そういう感じだ。 間違い電話か? 「すみません。どちらにお掛けでしょうか?」 「なんじゃ、もう忘れたんかい。ちゅうてもあん頃、おしめも取れとらんかったけえのう。しゃあないか、わっはっは!」 なんだ、このテンションは。栄光よりも図々しくて、我堂よりもふてぶてしい。 おしめとか言ってるから、常識的に考えようとすれば、親戚の誰かということになるのかもしれない。 だが、俺はこんな声を知らないし、話したことのある親戚の顔と名前と声を忘れるほど、不義理な人間のつもりもない。 「うん? 黙っとるとこ見ると、どうやら話に聞いてた通り、考え込むタイプのようじゃのう」 そうして、俺はようやく察してきた。こんな癖のある方言は…… 「石神静摩じゃ。うちの娘はちゃんとやっちょるか?」 「石神のお父さんですか……始めまして、柊四四八です」 「ほほぅ、やりゃできるけえ。男前の声よのう」 なんだ、この石神とは違う意味でまたぶっ飛んでるというか、マイペースな人は。というか、なんで俺の番号知ってんだよ。 まだ状況が把握できないので、恐る恐る訊ねてみる。 「あの、もしかして石神から番号を聞いたんですか?」 「そんなんは別にどうでええわい。しっかし、聖十郎の息子とは思えんのう」 「……は?」 「奴の血をひいてるにしちゃあ礼儀正しゅうてええ、ええ。あのクソ外道も人の親っちゅーこった」 「こっちの話を聞いてくださいよ。俺の番号はいったいどこで――」 「これもやっぱり恵理子さんの人徳かの。ありゃあええ女じゃけえのう」 「なにせ、この俺からして恵理子さんを狙っちょったんじゃがのう。よいよ、あんな外道に持ってかれるとはのう」 「じゃが今、あんなはおらんのじゃろうが。なんなら俺がのう。これはチャンスってやつかのう。俺のことを親父と呼んでもええんじゃぞ」 「…………っ」 まさか、初めて話しただけの人間相手にこんな気持ちを抱かされるとは思いもしなかった。 なんだろう。言葉にするのも馬鹿らしいほど苛々させてくれる、この感じ。 親父以上にむかつく人間はいないだろうと常々思っているわけだが、どうやら俺は新しい扉を開こうとしているようだ。 「どうじゃ? 今はどうせ聖十郎はおらんけ、恵理子さんは寂しゅうてたまらんじゃろ」 「新しく息子になるわれが呼び立てすりゃ、すぐにでも駆けつけてやるけんのう」 「恵理子さんには、もう少しの辛抱じゃけ、枕を濡らしながら待っていんさいと伝えとけ」 まずいぞ、抑えろ、自分を解放してはいけない。 この不届き不遜な御仁でも、石神の親なのだ。 かなり特殊な家庭環境と自ら言っていたが、予想よりも遙かに上、もしくは下をいく。 声から察する人物のイメージは悪い意味でただ者ではなく、俺は徐々に警戒心すら芽生え始めていた。 実際に会ったら、もっとむかつくに違いない。 「いや、あなたは石神の父親であって、俺の父ではないでしょう」 「なんじゃ、つれんのう。どのみちそうなるじゃろうが」 「なんでそうなるんですか。俺は柊聖十郎と柊恵理子の一人息子です」 おお、新たな自分をどんどん発見してしまう。 こんな風に親父の名前を誰かに告げたのは初めてのことだった。もし万が一、上海土産とか買ってきたら、今ならそこそこ喜べそう。 すると電話口の向こうから、さらに高いテンションが返ってきた。 「なんの、なんの。われが静乃とくっつきゃ、自動的に息子となる。そしたら、恵理子さんとも他人じゃなくなるけんのう」 「早くその日を拝みたいもんじゃ。もちろんガキの式なんかじゃなく、恵理子さんのご開帳じゃぞ。わっはっは!」 「切りますよ」 「おおっと、待て待て。そのまえに聞いとかなきゃならん大切なことがあったんじゃ。恵理子さんの話ですっかり忘れておった」 「それならそうと早く言ってください」 「くっくっく。短気なとこは、あのクソ外道とそっくりじゃのう」 はぁはぁ……耐えろ、耐えるんだ。こいつの言う通り、用件が無いのに俺へ電話してくるはずがない。 親父や母さん、石神相手なら分かるけど、いきなり何のクッションもなく掛けてくることから、ことによっては緊急事態なのかもしれない。 だが、以降こいつから電話がかかってきても、母さんには絶対に取り次がないと決意しつつ話を促した。 「聞かなきゃいけない大切なことって何ですか。俺も暇ではないので早く教えてください」 「焦るな、時間はとらせんけんの。安心しんさい」 まったく気を抜けない。 「つまりなぁ、大切なことっちゅーのは――静乃の具合はどうじゃった?」 「―――――」 「おお? そうか、そうか! 言葉を失うほど良かったけぇ、そりゃこの俺も報われるっちゅーもんじゃて」 「手塩にかけて育てたけえのう。われが気に入ったんなら、もう心配せずとも大丈夫そうじゃのう」 「言っている意味がよく分かりません。切っていいですか?」 「待った! 結論を急いで、どないするんじゃ。伊豆の踊り子でもあったろうが。男ゆうんはのう、裸見せりゃあイチコロっちゅうて」 「しっかり教育した甲斐があったわ! まだまだおぼこいもんじゃったろうが、あいつの裸でめろめろっちゅーは、相性抜群っちゅーこった」 「まったく涼しげな声して、スミにおけんのう。どれ、それじゃ交換っちゅーこって、俺は恵理子さんの具合を確かめ――」 「切ります」 ……ふう。あの耳障りな声に喋り方が、ようやく途切れてくれる。 強引になら何度も切るタイミングはあったのだが、石神の父親をそんな扱いにするのはどうなんだろう……なんていう気持ちが消え去るのに、時間はさほどかからなかった。 今日の夜、石神に詳しく訊ねてみよう。 ここまで神経を逆撫でしてくれた人間は初めてだったから、もしかしたらあっと驚くような経歴なのかもしれない。 ……よし。携帯を切ったら落ち着いてきた。白昼夢だと思うことにする。 だが、しかし。 ……マジか。 これ、どうにかできないのかな。ディスプレイには先ほどと同じ登録のない電話番号が表示されている。 絶望的な気持ちとは裏腹に、携帯はどことなくいつもよりも迷惑な感じで、うるさく音を鳴らしていた。 「……はい」 「わっはっは! 人が悦に入ってるちゅーのに電話を切るとは、それでこそ聖十郎の息子じゃのう」 「まるで若いときのあいつのようじゃ。恵理子さん似なんかと思っておったが、なんだかんだで息子は父に似るのかもしれんのう」 そのとき、俺の中で音が響いた。ぷつんと。 「……ふぅうううう、うるっせーんだよ、この野郎!」 「おお?」 「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! こんな電話に付き合ってられるか!」 「親父のことも母さんのことも、ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ! 特に母さんには絶対に会わせねぇからな!」 「ほほう、したら、今のまま聖十郎みたいなクソ外道が相手でもええんか?」 「ああ、ワケの分からないこと言うあんたよりはまだマシだ! だから、分かったか! 二度と掛けてくるなよ、次はもう出ないからな!」 「おい、待て。少しは落ち着け」 「いきなり真面目な声出されても説得力ないんだよ! もう切るぞ!」 「だから、待てと言うとるに。せっかちじゃのう。用ならちゃんとあるわい」 「……なに?」 突然、トーンを下げたせいか、ついさっきまでのふざけたような声色とはまったく違う雰囲気だった。 威圧感というわけでもなく、それは純粋に俺と何か話がしたそうな声と口調である。 これが最後だと心に決めて、俺は石神の親父へ訊ねてみた。 「いったい、俺になんだっていうんですか?」 「具体的な用じゃないけ。ただ、少しはすっきりして落ち着いたかのう」 「……え?」 まるでこちらの精神状態を見透かしたような言い方だ。 水をぶっかけられたような展開だが、相手の声は確かに俺のことを心配している様子である。 「まったく予想通りの男じゃ。おまえは聖十郎と違って、あの柊四四八にそっくりじゃけえのう。優秀だが真面目過ぎる。それが少し心配だったんじゃ」 「何を言ってるんだ?」 「まあ理解できんのも無理はない。細かいことは気にせんでええけ、少し糸を緩めてくれりゃ、それでええわい」 「電話に出たときの声で、すぐピンときた。張り詰め過ぎた弦は切れる。少し緩めたほうがええ」 「要は目先のことに囚われんなっちゅうことじゃ、婿殿よ。わっはっは!」 まだ事情が飲み込めないでいたが、俺はなんとか思いつくことを訊ねてみた。 「……石神から聞いたんですか?」 「まさか、そんな姑息なことするけえ。そろそろ煮詰まる頃じゃろうなと、ただそれだけじゃ」 「しかし、静乃はああ見えて女には変わりないけえのう。近くにいる男が少しでも頼りになった方が、親としては安心するっちゅーもんじゃ」 ……くそ。そのとき、俺ははっきりと感じた。 こいつはきっと親父なんかとは違う種類の人間だろう。それこそ信条とかは相容れないくらいの勢いかもしれない。 しかし、俺にとっては確かな共通点がある。それは―― 「……心配掛けてすみません。石神のことはちゃんと守ります。男として」 「はっはっ! まさにあの柊四四八じゃのう。ええわ、そういうところ嫌いじゃないけえのう。ただ静乃には、守られてくれるような可愛げがあるかどうか怪しいが」 「好きにせえ。あいつもええ歳じゃ。いつまでも俺がとやかく言うもんでないけのう」 「……はい」 俺をここまで苛つかせる原因。 それは親父もこいつも、今の俺じゃ敵わないクソ親父どもということだ。 感心する自分をはっきり感じる中で、まったく腑に落ちない部分もある。 これ以上、長電話しているとまた苛々に包まれそうなので、俺は礼を言って電話を切ろうと思った。 「それじゃ、また何かあったら電話でもかけるけえ、よろしくな」 「分かりました。こちらこそ、よろしく――」 「あ、切る前に最後、一つだけええか。大事なことを忘れ取った」 「なんでしょう?」 「避妊はしちゃあかんで。ありゃあ冒涜じゃ」 「黙ってください」 「はーはっはっ! 仲良うやるんじゃぞ」 「ぶち殺すぞ」 「わっはっは! ちゃあんと膣内に出さんと授かるもんも授からん! 頑張って励むんじゃぞ」 「男は妄想力も大事じゃけえのう。俺なんて、恵理子さんのおかげでどれだけ脳内が鍛えられたか――」 はぁはぁ……少し見直そうとした自分が腹立たしい。 石神には悪いが、あいつとは何があっても相容れないだろう。 そうして、俺が肩で息をしながら携帯をみしみし握りしめていると、後ろから声をかけられた。 「あ、あの、どうしたんですか四四八さん。なんだかものすごい形相ですけど」 「何でもない大丈夫だ、気にするな信明」 「はぁ……」 そうだ。あんな奴、誰かに説明する気にもならない。 ちょっとした悪夢のようなものだと思うことにしよう。 そう決めた俺は、信明に顔色を心配されながら、とぼとぼ歩いて帰宅したのだった。  柊四四八たちの一周目。その四層突破がどういうかたちで成されたかは昨夜の夢で理解した。  要は極めて〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》道筋の攻略だったということだろう。斯くあるべしと定められた規範通りの、実に真っ当な選択、結末。  登場人物やそれを見ている僕らの心情がどうであれ、システムとしては何ら間違ったところなどない。  邯鄲の夢とはこうであると、乱れなく紡がれた流れのものだ。ゆえに以降の周回では見られなかった諸々が当たり前に回り始める。  僕らからすれば順序が逆なのでこの一周目こそを奇異に思ってしまうのだが、実際のところ正しいのはこちらのほう。  数多の異常が顕在化した二周目以降こそ、出鱈目だったというのを忘れてはいけない。  その一例が、今からここに示されていく。 「気付いてる、信明くん?」 「ああ、これが本当の、彼らにとっての五層目なんだね」  四層は越えた。ゆえに五層へ突入した。そう短く言い表せる事態が目の前に存在するが、前述した通り二周目以降とは様相を異にしている。  まず、この五層目は二十一世紀の輪郭など帯びてなかった。柊四四八たちは記憶喪失などしておらず、己が大正時代の人間だと知っているのだから、間違った認識に場が引っ張られるようなことはない。  至極当たり前。因果として道理のこと。  そして二つ目、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈歴〉《 、》〈史〉《 、》〈の〉《 、》〈跳〉《 、》〈躍〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  思い出してみてほしい。二周目以降の柊四四八らは、階層を突破するごとに時間を完全ジャンプしている。  特に五層から六層間、六層から七層間などはそれぞれ十年近い時代の開きがあるはずなのに、その間隙をきちんと経験していない。  一つの層を越えたら次の層、その渦中に当たる試練の時期にいきなり跳躍しているのだ。これは邯鄲の夢として正しい在り方ではないだろう。  もちろん、なぜそうなったかというのは理解している。彼らは自分が二十一世紀の人間だと思い込んでしまったから、普遍的な時間の流れを経験するのはそちらのほうで……彼ら曰く“朝に帰った”時代で一生を経験したのだ。  しかし、ここでは当然のこと事情が異なる。真っ当な記憶に基づく自己認識を持った彼らは、真っ当にここで時間の流れを経験するのだ。  つまり、新たな階層へ入ったからといって時代をワープしたりしない。試練の時が一年後なら一年間、十年後なら十年間、当たり前に時を重ねながら進んでいくことになる。  よって今、五層に入った彼らはそういう状態。  試練の時はしばらく先。四層突破から数日しか経ていないという時代の中を生きていた。  神、いや阿頼耶の視点で、僕らはそれを追っていこうと思う。 「ひとまず、ご苦労様でした。このように言うのもどうかという面があるのでしょうが、見事でしたよ。そう思います」  辰宮邸、主の間で、百合香はそう微笑みながら柊四四八を労った。  先の四層突破に際し彼女は指一本動かしていないが、眷属として命を懸ける立場にあったのだからそのくらい述べる権利はあるだろう。  そもそも、百合香は四四八の主筋である。部下の奮戦を慰労するのに理屈は要らない。 「気持ちは察します。わたくしに何か言いたいこともあるでしょう。あの出来事は、辰宮という家が生んだ禍根ですからね。あれがなければこのようなことにならなかった。  今の甘粕大尉を生んでしまった遠因……その尻拭いに駆り出されているのはわたくしも同じですが、申し訳なく思う気持ちは有るのですよ。宗冬然り、あなた方然り。  さぞ辛い決断だったでしょう。わたくしを恨んでいますか?」 「いえ、決してそのような」  歌うように話し続ける百合香に対し、四四八は鉄のような応答を一貫して崩さない。別にこの令嬢へ思うところがあるからではなく、身分を鑑みて正しく弁えているだけだ。  先の修羅場で己が成したこと……それについての内心も処理はしている。消し去ったわけではないが、ここでいたずらに拘泥しても仕方ない。そう考えているがゆえの鉄面皮であり、不動の姿勢だった。 「自分だけではなく、他の者らも〈四層〉《さき》のことは必然と理解しております。何かを恨むなど、そのようなことは有り得ません。  すべて、しょせんは大事の前。大儀を成すために必要な道程。  ゆえにどうか、百合香様もお気になさらぬよう」 「そうですか。ならば別によいのです」  よって、彼女はそれが面白くない。  事情はどうあれ、己に唯々諾々と傅く者を軽蔑するのがこの令嬢だ。もとより他者の心情を慮るという機能が抜け落ちているから、四四八の生真面目さをつまらない木石としか見ていなかった。  とはいえ、ここでの百合香はそれでも少し、常と異なる趣を胸に抱いているのだが。 「時に四四八さん、あなたはこの五層における突破条件をどう考えていらっしゃいますか?」 「は、おそらくは、露西亜との戦に関わることなのではと。すでにそういう時勢ですし、鋼牙のこともあります。  よって、〈五層〉《ここ》に求められる条件はあの者らとの直接対決。その勝利と考えております」 「なるほど。なるほどなるほど。ふふふ……」  模範的な回答に、百合香は笑った。それは自嘲するような笑み。 「やはりあなたもそう考えますか。まあ実際、普通はそのように考えてしまいますよね」 「……百合香様は、違うと仰る?」 「さあ? ただ時代というものを考えてみたところ、この頃に起こった事件は何も戦ばかりではないでしょう。  たとえばわたくしや、あなた、そしてあなたの仲間たち……皆が生誕した時期でもありますわよね」 「それは、確かに……ですが」  思いもよらぬ指摘に四四八は一瞬口ごもる。だがすぐに言葉を継いだ。 「我々が生まれた。それは仰る通り、一つの事件でありましょう。しかしそのことが、いったい何の試練に繋がり得るというのですか?  邯鄲の各階層に設けられる条件は、等しく生死を賭すものだと聞いております。より端的に言えば戦いの場…… 率直に言わせていただけば、誕生はそれと真逆の概念であると考えます」 「でしょうか? 一概にそうとは言えぬものがありますよ」 「たとえば我々の父母が出会い、結ばれなければ我々は生まれない。これはこれで充分に命が懸かっているでしょう、実に由々しい問題です」  軽口でも叩くかのような百合香だったが、台詞の内容自体は半ば本気である。実際、彼女は鋼牙云々が条件であろうとはもはや欠片も思っていない。  五層の真なる条件には、まず間違いなく柊聖十郎が関わってくる。  〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈会〉《 、》〈談〉《 、》〈を〉《 、》〈終〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈後〉《 、》〈で〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈付〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈痛〉《 、》〈恨〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈は〉《 、》〈二〉《 、》〈周〉《 、》〈目〉《 、》〈以〉《 、》〈降〉《 、》〈に〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈継〉《 、》〈が〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  柊聖十郎、逆さ十字。甘粕正彦の眷属にして柊四四八の父であり、邯鄲の夢を唯一施術できる男。  彼の破綻した人間性と夢が紡ぐ凶悪さは、己の従者である幽雫宗冬と芦角花恵を襲われたことから、百合香もよく分かっている。  事実、宗冬はともかく、花恵は現実での状態が酷すぎるため、未だ邯鄲の夢に入りきれていない。自意識すら分解しかける業病に苛まれ、夢さえ見れぬ有様なのだ。少なくとも、この周回で花恵の参戦は絶望的と言っていいだろう。  そんな、言ってしまえば敵も敵である聖十郎に頼らざるを得なかったのは、他に手がないからというのも当然あるが、何よりも彼が甘粕正彦に対してすら牙を剥いているからだ。  そこに見るのは利害の一致。  逆十字は、端的に言って鞍替えをしようとしている。  甘粕という盧生は自身の手に負えず、御せぬから、より扱いやすい盧生として息子の傀儡化を狙っているのではないか。  であれば、本質的に自分とたいして変わらない。  それが当初、百合香の抱いていた印象であり、実際正解だったがより正確ではなかった。  それに気付かされたのはキーラの存在。  我もまた盧生になりたいというその野望。  ピンとこない主張である。咄嗟に何を言っているのか分からなかった。  なぜなら盧生とは資質であり、そう生まれついたという属性だ。言ってしまえば背が高い低いと変わらぬ次元の特徴にすぎず、なるとか奪うとかいう類のものではない。  だから、それが百合香の心得違いだった。少なくとも聖十郎は獲れる。そのための夢を持っている。  自分が盧生になろう、なりたいという考えをまったく持っていなかったから、先入観が邪魔をして百合香は気付くのが遅れてしまった。  他より圧倒的に情報不足であったはずのキーラだが、その点だけは自分たちより真を掴んでいたことになる。  逆十字が本当に望んでいる未来。  それは息子を操って甘粕を打倒させるという穏当なものに非ず。  息子から盧生の資格を奪い取り、自ら盧生となって甘粕を殺すことなのだ。  よって、第五層は柊四四八にとっての死地となる。  いずれ自分に盧生の資格を献上する息子。その誕生を祝い、奪い取ると柊聖十郎が決めた時代。  全体から見れば中盤の階層で、最悪の敵とまみえるのだ。まず勝利することは不可能だろう。  ゆえに百合香は考える。 「次以降の周回で、わたくしが同じ結論に至れる保障はありません。記憶を引き継げる場はすでに逸しましたから、二度とこうは思わないかもしれない。  いいえ、たとえ思い至っても、気分が変わっているのかも……〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」  四四八にとっては理解不能なことを言いながら、百合香は一度瞑目した。  そして開き、決を下す。 「あなたは休みなさい四四八さん。この階層、突破は我々が行います」  それは後の周回も含めてただ一度きり、この令嬢が自ら戦に臨むと決めた瞬間だった。 「もしかしたなら、この夢の果てにわたくしは望むものを得られるのかもしれない……そんな予感がしています。  ゆえに今、あなたという盧生を失うわけにはいかない」 「は、いや……しかし」  四四八の当惑も無理からぬことだろう。百合香が出陣するという事の奇態さは言うまでもないが、何より盧生たる己に出しゃばるなという理屈が分からない。 「自分では、五層を突破することが出来ぬと?」 「そう考えます。少なくとも今のあなたでは」 「ねえ四四八さん、あなたはご自分のお父上を存ぜぬのでしょう?」 「それは確かに、ですが……」  いったい何の関係がある。そう問いたい四四八だったが、百合香はそれ以上語ることなどないとばかりに微笑の仮面を厚くしている。  よって、食い下がるなら切り口を変えてみるしかなかった。 「百合香様を始め、辰宮がたや神祇省が真価を発揮できる戦場は五層に非ずと考えます。そのうえ、自分がそこにおられぬとなれば、尚更……」 「それでも、あなた方が絡むよりはきっとマシです」 「しかし……!」  四四八の眷属のうち、辰宮や神祇省の面々は盧生との繋がりが薄い。端的に言って、特科の者らほど親しいわけでもないから加護が十全に行き渡らず、ある種の制限を受けているような面がある。  その一つが、場というものに対する被影響性だった。百合香たちは、彼女らにとって関わり深い土地や時代でなければ力が落ちるという性質を持っている。  要は好不調の波があるのだ。それは夢の出力だけでなく、気質や思考の面にも及んでいる。やる気があったりなかったり、正直になったり捻くれたりと、全体的にむらが多い。  そういう意味で、今の百合香はらしくなかった。日頃有り得ぬような積極性を示している。  ならば、これが彼女にとって時代の恩恵なのかと言われれば、四四八は否と断じていた。 「百合香様の領域は、おそらく七層…… なぜなら芦ノ湖の湖水祭と同様、九頭龍の霊験が顕れたのはこの館であると伺っています。それはすなわち、震災の前段階において百合香様が必要になるという啓示かと」 「でしょうね。しかしそれはそれです」  すげなく言ってのける態度から、彼女に意見を変える気はないと分かった。こうなってしまえば、四四八の立場として強引に止めることは出来ない。 「まあ、そう難しい顔をせずに。それよりも四四八さん、特科生の面々とはその後どうなっているのです? あなたは大事無いと言いましたが、少なからず互いに蟠りはあるでしょう。  それを解きほぐすためのお手伝い、よければさせていただけませんか」 「…………」  百合香の申し出に、四四八は数秒沈思して。 「いえ、結構です」  答えた瞬間、世界がぐにゃりと回転した。  それは史実と異なる流れ。  実際に柊四四八は、このとき百合香の申し出を断った。その展開こそ正しい歴史で、受けた場合はどうなったかなどまったく大局に関係ない。  だが、しかしだからこそ興味はある。  いや、むしろ見たいと願う。  堅物め柊四四八、毒婦と戯れるのも男の甲斐性であろうがと。  数百、数千、数万もの思いがこの場に注がれて、今―― 「それを解きほぐすためのお手伝い、よければさせていただけませんか」 「…………」  ここに、夢は巻き戻った。再び彼は選択を迫られる。 「どういたします?」 「あら、残念。つれないこと」 「お気持ちだけ有り難く頂いておきます。しかしそれよりも先の件」  言って、四四八は混ぜ返した。百合香の真価は七層にある以上、ここで何かあっては困る。眷族の不死性といっても、変則的な性質を体現している彼女にどこまで意味があるのか分からない。 「この階層、我らに待機せよと仰るならそういたしましょう。ですが百合香様、そのためには一つ」  四四八は硝子の小瓶を創形すると床に置き、次いで剣指を立てると自らの手首を切り裂いた。 「これをどうかお持ちください。〈盧生〉《わたし》の血……飲めば瞬間的に夢の強化が成されると考えます」 「分かりました。その気持ち、ありがたく頂きましょう」  滴り落ちる四四八の血を眺めながら、百合香は艶然と頷いた。そうして小瓶を受け取ると、玩具を手にした童女のように掌で弄ぶ。 「ではこれで、御武運を百合香様」  それを見届けた柊四四八は実直にそう言って、史実通りに辰宮百合香との会談を終えたのだった。 「分かりました、ではそのように」  頷いた柊四四八へ、百合香は蠱惑的な笑みを浮かべて頷くと。 「今日はひとまずお休みなさい。わたくしが手はずを整えておきますから」  そう言って、優しく退室を促したのだった。 「俺たちの仲を取り持つための手伝いか……そう言われても、さて」 百合香様との会談を終え、辰宮の屋敷で自分に宛がわれている部屋に帰った俺だったが、少々迂闊な了承をしてしまった気がしてならない。 別に辰宮百合香という女性に文句があるわけでもなかった。彼女は確かにご面倒な気質の令嬢だが、他者に悪意をもってどうこうする人種ではないと知っている。 主家に対して不遜な物言いになってしまうが、あれは一種、白痴の姫君だ。どこまでも白く無垢なお方であり、かといって染まることもないため基本的にすべてが滑る。 要するに、育ちが違うと言えばよいだろう。我々下々の者がどのようなことを考えているのか、あまりご理解してくださらない。 ゆえに迂闊。早計だったと自省してはいるのだが、正直なところ今は諸々面倒だった。そのまま身を投げ出すように俺は寝台に倒れこむ。 「……まったく」 仲間たちとの蟠りが残っているだろうと言われれば、不甲斐ないが否定できない。実際、他の者らはまだ死から完全に目覚めておらず、そのときが来て再び対面する瞬間を俺は怖いと思っている。 あのとき、己が言ったこと、やったこと……一つの例外もなく正しい選択であったと今も変わらず信じているが、そうであるゆえに自己への嫌悪も等しくあるのだ。これでこの先、本当によいのかという逡巡を拭いきれない。 もしかして百合香様は、だからこそ俺たちを五層の戦線から外したのか。言ったように他者への共感などは歯牙にもかけないお方だが、それゆえに鋭い部分も持っておられる。 早く目を覚ませ柊四四八。もしくは正しく夢を見ろ……と。 己に何が足りないのか、何を得なければならないのか。 そこは未だ、不明なのだが……、 「――――――」 不意のノックに、俺は上体を起こして扉を見た。それが徐々開いていき、現れたのは…… 「世良? 歩美……?」 四層での死から目覚めた仲間たち。その突然の訪問に咄嗟の言葉を失う俺だったが、二人は無言でこちらに近寄ってくる。 「どうした、いったい……?」 まさか恨みに思って逆襲を目論んだわけでもあるまいが、俺は何か別の意味で本能的な危険を察し、思わず後ずさる。 世良と歩美は、そんな俺を追い詰めるかのように四つん這いで寝台に上がり…… 「ほら、おいでよ。ずっと見ているだけのつもりじゃないでしょう」 「早く~、こんな態勢のまま女の子を放っておく気なのかな-?」 世良も歩美も、まるでこちらを見透かしたようなことを言ってくる。 ぎりぎりまでこちらの境界にまで詰め寄ってきては、立ち止まり、そして俺に是非を問い、意志を確認してくるのだ。 おまえたちが勝手にやってるだけだろうと告げると、二人はくすくす笑いながら聞き返してきた。 「あれぇ、四四八くんの方から捕まえたいんじゃないのかなわたし達のこと」 「男の子だもんね」 「おっとこ前ーっ」 とりつくしまもない。よく考えると、寝台で遭遇したくない二人組である。 「失礼なこと、考えてるんでしょう?」 失礼なことって何だ。怪しげな香気が漂っているように、鼻を抜ける雌の匂いが、脳髄にまで訴えかけてくる。 腰の辺りが甘く、疼く。正常な思考がにわかに鈍くなっていくようだ。 「嬉しいね、みっちゃん。四四八くんの目がえろえろになってる」 「そうだね。幼なじみの私達には隠せない変化が見てとれる」 顔色が変わって悪いのか。極上の身体を二つも前にして、言わば当然の反応だろう。 両極端だ。まだ学生の齢であるにも関わらず、それはまるで彫刻のように美しく完璧な均整と呼んで差し支えのないような世良の肉体。 対して―― 「こらこら。確かに四四八くんの、この顔は失礼なことを考えてるね」 「そうでしょう?」 失礼なことなど考えていない。むしろ世良と並んでいるときこそ、歩美の魅力はより際立つだろう。 同じ歳であるはずなのに、未成熟な彼女の造形は、世良とは違う押し出しの強さで、俺の中の男を刺激してやまないのだ。 「そんなにじろじろ見なくても、わたしがひんそーなことくらい分かってるよ」 「卑屈になることないわ。それが大好きという人もいるんじゃない? というか、歩美が理想っていう人の中に柊くんが入っているかもしれないし」 「え、そうなの?」 そんなこと分かってたまるか。 首を振って応えると、世良は形の良い乳房をぷるんと揺らしてくすくす笑った。 「ふふっ。困ってる柊くん可愛いな」 勘弁してくれと乾いた口調で応えると―― 「いいんだよ? 柊くんなんだから。私も歩美のことも、今はあなたの好きにしちゃっていいの……」 一方的に愛するってのは、あまり好きじゃないけれど…… 「ばかっ。こんなときまで、真面目なんだから……。ね、そう思わない?」 「思う思う。美味しいどこどりしちゃえ四四八くん」 すごい表現だな。決してらしくない物言いじゃないが、それでも狼狽えそうになる自分がいる。 けど嘘をつくのは嫌だ。きっと二人は俺の虚栄心など見透かしているだろう。 興奮を隠せない俺は、内心で決意したように手を伸ばして、二人の身体へ触れた。 「はぁあっ……んんっ……。優しい触り方……柊くんらしね」 乱暴になどできるものか。 「柊くんのそういうところ大好き。意地とかプライドとか、女が男に持ってて欲しいなって思うところ、いっぱいあるんだもん」 「固い四四八くんだから、わたしたちがほぐしてあげないとだね」 そういうのは男の台詞だと思うのだが、世良と歩美に迷いはないようだった。 そうだな。俺だって決して迷っているわけじゃない。 目の前にある極上の快楽から目を背けるのは、ある意味で男らしくない決断なのだ。 「ああんっ、んんっ、優しいのがちょっとやらしいっ……ふわぁああ……」 乱暴なのが良いわけじゃないだろう? 「うん……、柊くんが乱暴に私たちを犯すのって、誰も求めていないもの」 「…………」 どこか薄ら寒い感覚が瞬間、背中を駆け抜けたような気がした。 しかし頭を振ってから頷き、服の上から二人をまさぐっていく。 大きな双丘と、小さな乳房。確かにこれは甘くて美味しいところだけを集めているように思えた。 「はぁああ……っ、暑いね……汗が止まらなくなっちゃう……っ」 「みっちゃんからいい匂いがしてくる」 「ぃやだ、そんな、汗くさいでしょ……?」 「そんなことないよ。女の、やらしー匂いがしてる」 照れ照れと頬を染める世良だが、決して嫌悪している表情には見えなかった。 女の価値観は難しいが、今は気にして手を止めるんじゃなくて、とにかく二人を気持ち良くさせたい。 「……んんっ。んっ、んんっ、あああっ……いいぃっ……き、気持ちいいよ柊くん」 「女の、感じるところ……、いっぱい知ってるんだね……わたし、胸がね、すごく感じるの」 淫猥な台詞を吐く世良の姿が、普段と落差を感じさせる。あたかも隔絶して特別な、俺たちだけの場所であるかのように。 「四四八くん……んんっ、こ、こういうことまで優等生なんだもんね」 「はぁはぁ……そ、そうだね。乳首、つまんだり……っ、私がして欲しいこと、すぐしてくれちゃうの」 男の欲望に従ってるだけなんだが、二人とも満足気で艶のある笑顔を浮かべている。 「次は、いつかも分からないもんねっ。して欲しいこと、全部してもらっちゃおうね」 「さんせーいっ」 クスクス笑いながら誘ってくる幼なじみに、眩暈を覚えそうになりながら、なんとか踏み止まって愛撫を続けていく。 「あああっ……はぁあああん! だんだん、疼いてきちゃう……濡れちゃってるかも」 「おっぱい、責められるの……気持ちいいぃ……っ」 世良の乳首をこねるようにして愛撫を繰り返し、もう片方の手では歩美の鎖骨から胸へと優しく撫でまわしていく。 「ふあぁあああああああっ! よ、四四八くんが、指でなぞったところ、ビリビリってしてきちゃう……っ」 「はあぁああああ……んんっ……。わたしも、濡れちゃってる、かもぉお……」 「柊くん、もっともっと、触りたいだけ触っていいんだよ? やりたいこと、全部私たちにして……っ」 二人の声色が高まるにつれて、自分を段々と解放していく。 ここまできたら、劣情の全てを見せてやるしかないと、そんな気さえしてくるのだ。 俺はゆっくりと胸から、彼女たちの下半身へと手を降ろしていった。 「はぁああ……熱いの……、身体が熱くて……、胸が張り裂けそう……っ」 陰裂を優しく擦り上げる。染み出した愛液が指に触れ、濃密な女の匂いが辺りへ満ちていくようだ。 制服越しであるにも関わらず、粘膜に俺の指が触れる度、世良と歩美の身体はビクビクと痙攣して反り返る。 「はぁあああああん……! 柊くんの、指が私ので濡れちゃってる……っ」 陰裂を指でさすると、割れ目が開いていくのが伝わってくるのが分かった。 腰回りが蛇のように蠢き、彼女たちの身体は更なる快楽へ落ちたがっているよう。 「はぁはぁ……ああああっ! ゆっくり触られるだけで、身体中が反応しちゃう……!」 秘部の擦るだけで、歩美は震えていた。そんな反応を見て、世良も興奮を高めているのか、今度はこちらの股間へと視線を伸ばしてくる。 性器を下から擦るように、執拗に指を上下させた。 「ひゃあああああうぅっ! はぁぁっ、あっ! あっあっあっあっ……ああっ! そ、そこぉっ、いいよぉっ!」 「んくぅうううう……っ! が、我慢、できなくなってきちゃった……ねぇ、もっとちょうだい四四八くん……っ」 「はぁはぁ……、そうだね。柊くん……、一緒に気持ちよくなりたいな……」 「わたしたちと、もっと深いところまでいっちゃおうよぉ……」 「柊くんのも……その、固くて大きくなってるもんね……?」 「びくびくしてるみたいでカワイイ。淡白そうに見えて、四四八くんも立派な男の子なんだからぁ」 俺は最初から普通の男だ。そう。女へ興味の無い男でもなければ、性的なものへ関心のない男でもない。 ゆっくりと世良と歩美が絡み合い、俺の股間へと手を伸ばしていく。ここまで来たら、もはや戻ることなんでできない。 「男の子の匂い……、これが柊くんのなんだね。ああ……、それだけで私、いやらしく濡れちゃうかも……」 「四四八くんのえっちでやらしー匂い。嬉しくて、身体の奥から熱くなってきちゃうみたいだよ」 そして、三人で楽しめる態勢へと動き、俺は二人の身体を開かせていった。 「あぁっ……んっ、あ、歩美とこんな近くに……」 「キ、キスっていうの? しちゃいそうだねぇ」 「するのか?」 「いやぁ~、さすがにそんなこと、愛しの四四八くんの前ではしないよ~」 とってつけたように言うんじゃない。 「柊くんの前で、歩美とキス……っ」 世良も頬を染めながら呟くんじゃない。最近の女子たちは、こういう素養があるのだろうか。男にとっては永遠の謎である。 しかし、なんだ。改めて眺めるとすごい態勢だ。 向い合いながら、生殖器が触れる位置で、身体を重ねている。 世良が抱くようにしてを小さな幼なじみを抱え、歩美は手をつき背中を反り返しながら、こちらへ陰部を見せつけていた。 「柊くん、えっちな目で歩美のこと見てるね」 そうでもない。どちらかというと不可抗力のはずだ。まるで盛った雌猫のように尻を上げているのだから。 「そんなにえっちぃの? ちょっと嬉しいけど、四四八くんらしくないねっ」 「…………」 歩美の言う通りかもしれない。確かになんとなくの感覚だが、自分の意識が自分ではないみたいだ。 淫靡な光景へ吸い寄せられるように目を離せなくなっている自分を、どこからか“別の冷静な自分”が見つめている。 しかし、冷静であればあろうとするほど、鼻孔をくすぐるような女の匂いに、俺の意識は塗り潰されていくようだ。 「ふふっ。男の子的には挿れやすいでしょう」 「それって、わたしとみっちゃんのどっちって意味で?」 「どっちもじゃないかなぁ……だって、私たち二人とも自分のあそこがどう見えているのか分からないじゃない」 「そだね。抱き合ってるから、四四八くんのスケベな目線が見られなくて残念」 「そこは妄想だよ。歩美が乗っかってるから、私も柊くんの大事なところ見れないし……」 「きっと立派にそそり立ってるんだろうねぇ~」 「だね……えへへ。見えない分、ゾクゾクしちゃうかも」 勝手な妄想を広げるな、とは言えないのがつらいところだ。 なぜなら、俺のモノは今までに見たことがないくらい、はち切れんばかりに怒張している。 二人が服を脱ぎながら迫ってきたときから、すでに勃ってはいたのだが、こうも淫猥な様で見せつけられると、男として抗い難いものがあった。 「ねぇ、早く挿れて欲しいな。見えない四四八くんので貫いて欲しい」 「そうだよ。私たち、もう準備できてるんだよ?」 「みっちゃんにはバレバレだねぇ」 「私も歩美と同じだもの」 確かに目を凝らさずとも、二人の性器はしっかりと濡れていた。まだ触ってもいないのに、あたかも泉が少しずつ湧き出るように。 てらてらと湿り毛のある陰毛からは、脳髄を痺れさす香気でも出ているようだ。 「四四八くんの忍耐力が試されるね」 歩美の言う通りだが、さすがに愛撫をしないまま挿れるわけにはいかない。それはもう男としてどうなのかっていうくらいに思える所業だ。 柔らかくさするように入り口へ触れると、歩美と水希は同時に声を上げた。 「はぁ……んんっ……! ああっ! 柊くんの指……っ」 「くぅう……、ま、待ってたせいか、声、でちゃう……んんっ……」 我慢しなくていいのにとも思ったが、台詞とは裏腹に口調はのっているように感じられる。 くいくいと尻を揺らしている様子が、いかにも挑発的だ。 「このまま、挿れちゃってもいいのになぁ。でも、柊くんのそういうところ、大好きかも」 言葉では応えずに、世良のを指の腹でさすっていく。同時にアヌスまで見えてしまっている、歩美の恥部の周りもなぞりあげた。 「あ……ああっ……い、いいっ。お尻の、穴、くすぐったい」 「くぅう……んんっ……、きもちいいね歩美」 「はぁはぁ、ああ……、みっちゃん、可愛い顔してる」 歩美の表情は見えないが、声色からかなり昂ぶっているようだ。 おねだりの声はどこまでも甘い。しっかり者に見えて、実は可愛いところの多い世良。 「歩美だって、すごくやらしいじゃない……あっ……くうぅっ! んっ……ああ! 柊くんの指、いいよぉ!」 性器を擦り上げると、世良の腰がぴくんと跳ねるように動く。ゾクゾクする声色に怒張しているモノが張り裂けそうだ。 彼女が指をいやらしく歩美の脇腹に這わすと、聞いたことのない嬌声が上がった。 「はぁあああああん! そ、それは……ちっと、感じ過ぎちゃうかも……!」 「お返しだよ。私だけえっちな声出すの恥ずかしいでしょう」 「で、でもぉ……、四四八くんとみっちゃんが二人でさわさわしてくるなんて、そんなのっ、た、耐えられるわけないっ」 世良がぎゅっと抱きかかえる。逃げようとする歩美を支え、俺は後ろから人差し指の第一関節までを挿れてみた。 「きゃぁああああっ! ふぅわあ……あああっ! んんっ――」 うねうねと歩美の腰が動き、俺の指をくわえ込もうかという勢いだ。 もちろん、もう片方の手を休めてはいられない。 「あはぁあ! 柊くんのぉっ、んくぅうううう……! あ、あんまりじらさないで欲しいな……っ」 不自然なまでくらいに出来上がっている世良と歩美の身体。 けれど違和感を覚えるよりも、目の前の劣情に引っ張られていってしまう…… 俺はきついくらいにパンパンになっている鈴口の先を、世良の陰部へあてがった。 「ああ……っ! 挿れちゃうんだね、柊くんの、固いのすごく熱い――」 ぬるりとした感触が亀頭の先を包み込み、そして膣の中へと誘導しようとする。途中、固くなっている突起物に触れた。 「ふぅわあぁああああ……! だ、だめだよ、そこは、そんな風に擦ったら、目の前がばちばちって……っ」 同じく俺も頭が飛びそうだった。真っ白になりそうになった意識を戻そうと首を振ると、歩美が愛おしそうに世良の頬を撫でる。 「みっちゃんの反応、たまらないね。わたしが犯してるみたい……」 俺からすれば、おまえも同じ態勢なんだぞ。 「そうだけどさ……、優等生の、あんな声を聞いちゃうとわたしまで熱くなってきちゃうよ」 「あ……ああ……かはぁっ! んんっ……くうううううぅっ……っ!」 歩美がしゃべっているのと同時にすべて入った。今までおあずけを食っていた膣は、これでもかというくらいに締めてくる。 ずっぽりというハマった感触は、まるで快楽の其処へ引きずりこまれているよう。 「はああ……、はぁはぁ…………イっ、イッちゃいそう。まだ挿れただけなのに……こんなに感じちゃうなんて……っ」 ぎゅぅっと締め付けられ、絶頂を迎えそうだというのは誇張ではないのが伝わってくる。本当にそうだ。まだ挿れただけなのに。 歩美の身体に這わせた指は、ぐっと爪を立てるように食い込んでいる。 「ご、ごめん。大丈夫? 痛くない?」 「んふふ。痛気持ちいいから、もっとぎゅっとしちゃってもいいよ……」 「でも、身体に跡が残っちゃう――」 「それでいいんだよ。わたし、せっかくのこの時をもっと感じたい。直に強く感じたいんだよ……」 「歩美……」 歩美の言っている内容は不明瞭だったが、なぜか気持ちだけは伝わってくる。 今、この瞬間を確かなものにしたい。誰かに――誰でもない奴に用意されていた、などと思いたくない。 「柊くんの……、気持よくしてあげちゃうからっ。そしたら、次は歩美だよ?」 ああ、分かっている。 「うふふ、大好き。私たち二人とも、貴方のこと愛しているんだから……」 「四四八くん……」 切なげに響く歩美の声。彼女を待たすわけにはいかないし、世良との繋がりをおざなりにするわけにもいかない。 二人に感じさせてやれる限界まで、俺は覚悟して抽送を開始した。 「はぁ……ああうぅっ……っ! はぁはぁっ、あっあっあっ、くぅううっ……! いいぃよぉっ……熱くてっ、どろどろぉになっちゃう」 腰を浮かしながら、共に動かしてくれる世良の身体が、俺と歩美までをも包み込んでくる。 上に乗っかりながら一緒に挿入されているかの如く、彼女の腰も動いていた。 「ここにいると、四四八くんとみっちゃんに挟まれてるみたい」 「んっ……んんっ……はぁあああん! お、おかしく、なっちゃう……自分の膣内が、ビクビクしてるの、分かるんだ」 「どんな感じなの……? ちゃんと教えてくれないと分からないよ」 「う、うん……、それがね、お腹の奥にある私の深いところが、柊くんのこと求めてるの……」 「柊くんのが熱くて火傷しそうで、だから、どんどん奥から溢れてきて……」 「この……、固くて最高のおち○ちん、私の膣内が食べようってしてるんだ」 半分アクメを迎えたような、世良のヴァギナ。冗談ではなく、俺のモノを扱き上げ、食べようとしているように感じられる。 あまりに強い刺激を我慢できず、先走りしそうになる鈴口を、俺は一旦膣内から出した。 「あ、柊くんの……、中から出ちゃった」 危なかった。簡単に俺がイッてしまうわけにはいかない。 甘ったるい吐息を漏らし、世良が歩美の身体を抱きしめている。 「そうだね、私だけ気持ち良くなるのは嫌だもん。次は歩美の番――」 ああ、その通りだ。今度は上に乗っている彼女の身体へ目線を上げて、尻を掴み、差し込んでいった。 「あっ……ふわぁあああっ……んんっ……! し、子宮にぃっ、ずしんって響いてっ、あああっ!」 「いいでしょう、柊くんの。最高だよね」 「う、うん……! みっちゃんが、どんだけ良かったか、わ、分かっちゃった……」 「こんなに逞しいの、反則だよ……四四八くんっ……。ああ……あああっ!」 ゆっくり楽しませてやりたいのはやまやまだが、俺も正直、余裕がなくなっている。 耳に届いてくる二人の喘ぎ声だけでも、イキそうになるくらいなのだ。 突き上げるように、抽送を強めに始めていく。 「もぉお……、みっちゃんにはゆっくりだったのに、わたしには遠慮ないんだねぇ――くぅううう!」 「羨ましいな……歩美が欲しいの、柊くん分かってるんだ」 「はぁはぁ……うん、みっちゃんが喘いでたときから、わたし強くされたいなって思ってたよぉ」 「が、我慢、できなくなっちゃう……いいよぉ。おかしいくらい溢れてくるの」 「歩美も同じなんだね」 「四四八くんのが、早く欲しくて……っ、だから、勝手に身体が準備しちゃうのぉ……」 「熱いのを、奥の方に出していいからね――」 世良と歩美が共にあられもない姿で喘ぎ、らしくないような痴態をさらしている。 獣が貪り合うよなまぐわいだが、今は――今だけはこれが正しいように思えた。 そう。誰もが期待する、俺たちの誰にも見せられない情事。幼なじみ同士であり、それはきっと、こうあるべきだと…… 「はぁああああ……んんっ……! 強くしてぇ……動いて、私の膣内、かき混ぜて犯して欲しいの……四四八くん、むちゃくちゃしていいんだよ?」 「うふふ……、そうだね。柊くんがめちゃくちゃにするから、最高なの。思い出しただけで濡れちゃうような、すごいのを私たちに注いで……」 望まれたら満たしてやりたい。意識を塗りつぶし染めていく、男の性分。女に痴態を見せられ、注いでやれない奴なんて、男じゃない。 腰を甘く、くすぐられるような刺激がうっすらと包み込んでいる。 抽送するたびに、たっぷりと味わう余裕すら奪われていくようだった。 「くふぅううぅっ……はあぁっ、あああぁっ! な、中がぁっ……いっぱいっ、熱いよぉっ、気持よく……みっちゃんも、気持ち良くして上げてぇええっ……」 世良の膣内へ、交互に出し入れする―― 「ひゃううううん! くうぅっ……柊くんのが、膣内にいきなり挿いってきた……っ。今の、すごいよぉ」 「はぁっ……あああ……もっとぉっ、いやらしい音、聞かせて四四八くん……んんっ、わたしたちのことパンパンして、奥まで刻みつけて……っ」 二人の望むままに。そう、ずっとこうしたかった。世良の膣内を蹂躙して、歩美の小さな尻を突き上げて破るくらいに抽送を重ねる。 ごちゃまぜになった精液と密が匂い立つように鼻をつく。かき混ぜる音だけが漏れ聞こえていた。 「きゅぅっ……ふわあああぁっ! あああっ! あっあっあっあっあっ! い、いいぃっ! 気持ちいいのぉ! 子宮のある、奥までぇ……もっと!」 「ふぅっ、ふぐぅっ……んんっ……ずんずんって壊れちゃう……っ、わたしの小さな身体じゃ、おかしくなっちゃうよぉ!」 快感に溺れていくと、どっちが責めているのかさえ分からなくなってくる。 上下左右に揺する動きも、今や技巧的ではなくて、ただひたすら貪るだけの、獣の舌みたいだ。 「くふぅううっ……ああっ! はぁはぁ……っ! ビクビクって、いま、膣内が……、震えてる……っ」 「あっあっあっあっあっ……! ビクビク、止まらないのっ……、おち○ちんの先っぽ、膨らんでて、い、イキそうなの? ねぇ――」 「ま、まだ駄目だよ。あとちょっと、だから……っ」 二人の痙攣している膣内の脈動がはっきりと伝わってくる。膣が収縮して蠢く。 歩美の太ももには、もはや洪水のような密液がひたすら垂れていた。 「はぁああん……、はっはっはっ……! 気が遠くなる……、四四八くん、いいよ……っ。そろそろ、わたしも……!」 振り幅を激しく、そして速度を最高にまで上げていく。ただ突くだけでは物足りない。二人をイカせるために、爆発しそうな亀頭を子宮に擦りつける。 すると結合部から漏れ出す愛液が、そのとき音を立てて飛び散ったのだ。 「ああっ! ああああっ! き、きたのっ、すごいのが、熱いぃいい……はぁああああっ、わ、私ぃっ、い、イッちゃうぅっ……っ!」 世良が上に乗った身体へ爪を立てると、同時に歩美は彼女の頭をぎゅっと抱きしめる。 絶頂が二人と、それから俺を包み、三人の身体をガクガクと震わせた。 「きゅふぅうううううっ! い、イクううううううううううううううううっ!」 「はぁあああああ……っ、ああああ! ひゃあああああああああああああんんっ!」 嬌声が木霊して同調していく。膣内から噴き出す液体は、俺の身体にも降りかかり、そして陰茎から最後の一滴を絞りとるまで、締めつけてきた。 「ああああああああぁっ! きゃぁあああ! ああああああーーーーーーっ!」 爆発するような射精感。世良も歩美も、だらしなく顔を紅潮させて、聞いたことのない嬌声を上げた。 濃い匂いが充満している部屋で、弛緩させた身体を横たえた歩美が言う。 「はぁああ……すごかったね……、こんなに、おかしくなっちゃうなんて、わたし、どうしたんだろう……」 「終わった後に何を言ってるんだ……」 ことが済んでから我に返ったような彼女へそう言うと、世良もまた優しく微笑んで言ったのだ。 「うふふ。でも、歩美の気持ちは分かるかも……、まるで私たちが私たちじゃなくなったみたい」 「…………」 「ハメを外したみたいで、たまにはこういうのもいいね」 「実際はハメちゃったわけだけど」 「――もうっ」 抱きしめ合う俺たちの、快感はまだ消え去ってはいない。余韻に揺れたままだ。 二人とも鈴を鳴らすような甘えるような声で、楽しそうにくすくすと笑った。 淫靡な匂いに包まれながら、俺たちは温もりを感じ合う。 そして、最後に何かを確認するようにして口づけをし合った。 「晶? 我堂……?」 四層での死から目覚めた仲間たち。その突然の訪問に咄嗟の言葉を失う俺だったが、二人は無言でこちらに近寄ってくる。 「どうした、いったい……?」 まさか恨みに思って逆襲を目論んだわけでもあるまいが、俺は何か別の意味で本能的な危険を察し、思わず後ずさる。 晶と我堂は、そんな俺を追い詰めるかのように四つん這いで寝台に上がり… 「お、おい。二人ともどうかしたのか――」 艶めかしい身体を見せつけるように、まるでポーズをとるようにして、晶と我堂が迫ってくる。 仮にこれが歩美だったら、からかっているんだろうなと思えるだろう。しかし、目の前にいる二人は性格が性格だ。 「冗談ではないよな……」 ふざけて肌を晒し挑発できる奴らではない。 戸惑いを隠せない態度に対して、晶は首をかしげながら、俺よりも困惑した表情で聞き返してきた。 「おまえこそ、どうしたんだよ。ここまできて、らしくないぞ」 「緊張してるんだ? 柊のそういう真面目なところ、嫌いじゃないわね」 緊張だって? 何を言っているのか、どういうつもりで訊ね返してきているのか。困ったことにそれが分からないほど子どもではない。 答えは一つしかない。しかし、それを認めていいものかどうか…… すると、そのとき晶はほっと安心した様子で声をあげた。 「なんだ。反応のわりに、ちゃんとおまえだって、そのつもりじゃん」 「いや、これは――」 おいおい。確かに目の前の二人の姿は、まさに煩悩へ直撃するような淫靡さだが…… 俺の身体は、自分で制御が効かないような勢いで、いきり勃ってしまっていた。 素直な身体の反応に、我ながら驚きを隠せない。 「すごいわね。勃ってると、柊ってここまでになっちゃうんだ」 「お、おまえが緊張してたら、あたしたちまで伝わってきちまうだろ……?」 「……観察しないでくれ」 首をかしげながらも視線を外せないといった二人の反応。怒張したモノを隠したい衝動にかられたが、今更過ぎる羞恥心は男らしくない。 凝視するならさせてやろう、などと開き直れるわけでもないが、熱っぽい晶と我堂の瞳に、俺は吸い込まれるような気がした。 そう。ここまできて、情けないことを言っていてもしかたがない。 おまえはそんなにも男らしくない奴だったのかと、さながら誰でもない誰かに問われているような気がしたのだ。 「おまえが照れるなんて珍しいよな」 「柊にも可愛いところがあったのね」 そんなことはないと思ったが、いちいち言葉で反論していても埒が明かない。向こうには我堂までいるのだ。 悩んで固まっていても意味が無い。頭を振ってから、おもむろに手を二人へ伸ばしていく。 「お? ようやく、その気になったのか。四四八にしては火付きが悪かったな」 悪かったな。期待に応えられないでいるのは言われる通り、情けないだけだ。 俺は葛藤をすべて振り払って、二人の身体へ触れていった。 「……んっ」 豊かな晶の胸が剥き出しだ。真っ白な肌は、彼女が実のところ初心なところを象徴しているようである。 同世代の中でも、はるかに大きい乳房を優しく揉み上げていくと、切なげな艶声が響き渡った。 「はぁあああああん……っ、い、いきなり揉んじゃう、んだなっ」 揉む以外にどうしろというんだ。 薄い色の乳首が、たわわな重量感の先っぽで可愛く揺れている。豊かな乳房に指が沈み込むたびに、晶は小さな声を上げるのだ。 「ああっ、はぁはぁ……んくぅうう。よ、よしや、それ、ちょっと……、まって」 「おまえの指先がっ、先っぽに触れると……、ビリビリって――あぁあああっ!」 無視して揉み続けていると、我堂が恨めしそうに口を開いた。 「な、なによ。まるで胸しか見てないような、浅はかな男みたいになって……」 「どうせ晶が、私と同じようなスタイルだったら、見向きもしないんでしょ?」 「そ、そうなの? ……四四八ぁ」 「…………」 まったく何を言っているんだか。 あまりにズレている我堂の指摘が、むしろ可愛いくらいである。 それくらいの高揚感に包まれていた俺は、腕を伸ばして彼女の頬を撫でた。 「ひ、柊……っ、んん……」 一瞬、身体を固くさせたが、すぐに力を抜いてこちらへあずけてくるような仕草をする我堂。 そのまま頬から鎖骨、そして胸元へと腕を降ろしてゆき、晶と同じように乳首を中心に指先を使い刺激を与えていった。 「くぅうう……、そ、そんな風に触ったって、本当は嬉しくないことくらい分かっているんだから」 「そういう柊の優しさ、私の気に入らないところなのよっ」 勘違いもほどほどにして欲しいところである。 こういうとき、言葉で納得させようとしても、それは逆に説得力を失っていくだろう。 互いの温もりを感じ合っているところで、無闇に喋るほど野暮なことはない。 二人の身体を撫でまわしつつ、俺は腰を突き出して愛撫を続けた。 「柊! こ、これって……」 「こんな……、すごいっ。四四八のここが、こんなになってるところ、初めて見た」 「そ、そうね……っ」 ごくりと我堂が咽を鳴らす。あまり節操のある仕草ではないが、それでも初々しい二人の反応が、こちらの身体を熱くさせてくる。 そろりと手を伸ばす二人が、同時に俺のモノへ触れる。 晶と我堂は包み込むようにして指を絡ませ、ゆるく圧迫される感覚に亀頭がビクンと揺れた。 「す、すげぇ……っ。かっこいいな、おまえ」 「…………」 「鈴子もそう思うだろ?」 「……否定はしないけど」 目を輝かす二人は、隆起する男性器を自然と扱く動きで触ってくる。 初心なくせに、どことなく襲われているような感覚に包まれて腰を引こうとすると、我堂がくっと指へ力を入れてきた。 「逃げないの。こういうとき、怯む柊じゃないはずよ」 「だな。ほら、もっと腰を突き出せよ。優しく触ってやるからさ」 「……その、あたし、四四八のここが固くなってるの、すごく嬉しいんだ」 「…………」 「四四八は……、あたし達に触られたりするのは嫌いか?」 台詞のわりに、おずおずと上目遣いで訊ねるのは反則だ。 晶と見つめ合いながらうなずくと、我堂がぼそっと言ったのだった。 「……この淫乱が」 「ちょ、おまっ、おまえだってこんなところ触ってるだろ。いきなり何を言いやがる」 「そうだけど、あんたのやり方が淫乱だっていうことよ」 「どういう意味だよっ」 軽く睨み合い、そして対峙する二人が握りしめるのは、男を操作するハンドルである。 なんだこの状況はと頭が痛くなりそうだったが、局部を握られては反抗のしようもない。 「おい、ちょっといいか」 「なんだよ?」「なによ?」 言い合っていたくせに、きっちり同調する晶と我堂。そういうところに切っても切れない縁を感じてしまう。 「男の立場から、一つだけ言わせてくれ」 そんな物言いに対して、思い当たるところがない様子で首をかしげる二人。 案外、気が合う組み合わせのような気がしてきた。 「おまえらのなぁ、そういう格好に、さっきからもう我慢できないくらい、俺は興奮しているんだ」 「四四八!?」 「晶も我堂も……、これ以上ないってくらい魅力的なんだ」 「そ、そうなの……?」 「ああ。だから、そこで睨み合ってないで頼むから、先へ進ませてくれ」 脈動する生殖器を握る指から、晶たちの気持ちが伝わってくる。 つまらないことを言おうとはせずに、彼女たちは互いに見つめ合い、そうして僅かにうなずいてから、こちらへと寄ってきた。 「はぁあああん――ッ! ふ、深いよ四四八……っ」 クイッと少し動かすだけで、そのまま突き上げる抽送になってしまう。女性上位の態勢だけあって、俺に自由は許されない。 「ふっ……んっ、ああっ、ちょ、ちょっと……柊、そこ、息かけないでっ」 そんなことを言われても呼吸をするなというのは、あまりにご無体な願いである。 性行為において、女の頼みごとはなるべく聞いてやりたいと思うが、無理なものは無理だ。 なればこそ、いっそのことという感じで、舌を伸ばして我堂の秘部をつついてみた。 「ひゃああああああ……っ、あああ……ッ! バ、バカ! 敏感なところ、触れないでっ」 敏感なところだから、舌先で責めているのだが。 「ああっ、くぅううう……! ひ、柊の舌が、私の大事なところ……っ、ふわぁああああ――」 ビクンッと背中を反りながら嬌声を上げる我堂だが、もちろん一方で抽送も忘れない。 「はっ、はっ、はっ……動けないはずなのに、おまえのが、奥まで突き刺さってくる……!」 自由には動けないがゆえに、純粋に腰を突き出しては前後させることに集中できる。 膣内で動くモノを深く味わおうと、腰をうならせながら、実際に奥まで導いているのは晶の方だ。 片や舌を伸ばして、もう一方で男根を差し出す。さながら、女への奉仕する精神を試されているような錯覚さえ覚えてしまう。 「んっ……あああ! くぅ……ふわぁっ、あっあっあっあっあっ……!」 「は、ぁ……あああん、……んんっ」 前後だけでなく左右も、それから斜めも、ときには捻って締めつけるように。 我を忘れて貪るように、晶はそこへご執心のようである。 「い、いいよぉ……! 四四八の、ち○ぽ……、すげぇ、いいっ……!」 「はぁはぁ……晶、そんなに切ない顔しないでよっ。こっちまでたまらない気持ちになってくるじゃないのよ」 「だってぇ、おまえの方こそ、我慢できないだろ? あたしたち、四四八としてるんだ……っ」 「……夢みたいだ。ずっと欲しかったんだ、四四八のこれが……!」 どこか夢うつつといった感じで、夢中に語っている晶の様子に、俺は頭の片隅で違和感を覚える。 だが、それも一瞬でどこかへ霧散してしまう。 すると目の前にいるのは、俺にまたがってよがってくれている、極上の女たちだ。 まさか、そんなことになるはずはないと思っていた、幼なじみ達…… 「んんっ! はぁあああああっ……あぁ! くううううぅっ……!」 「柊の責めるところ、私の1番弱いところなの……ッ」 分かっている。だから念入りに舌で舐り、溢れてくる愛液を塗りたくっていく。 ただでさえ舐められているせいか、我堂の密壺からは泉が溢れるように漏れてくる。 晶と同じく、彼女も快感に耐えきれないように腰を前後に動かしていた。 「お、おまえだって、見たこともない顔になってるじゃねぇか」 「――――ッ」 「ここまで来て……んんっ、い、意地張ってもしかたないだろ。素直になれ、よ……っ」 「晶……っ」 「四四八のち○ぽ……、ずっと、あたしたちが欲しかったんだ」 「…………」 「ど、どうせ、おまえのことだから、学園じゃあんな態度でも、夢の中で四四八に犯されたりしてたんだろ……?」 「な、なにを、いきなり……っ」 「あたしは言えるよ、今なら。素直に告白できる。四四八とずっとしたかった」 「こんな風に突き上げて欲しかったし、幼なじみってのを忘れるくらい、エロいことして夢中になりたかったんだ」 思いがけぬ流れで、晶と我堂が告白し合っている。 二人のやりとりは愛撫に没頭しているこちらの耳へもはっきりと届き、怒張したものはさらに爆発するくらいに反応してしまう。 そうだ。俺だって、ずっと二人と――晶と我堂とセックスをしたかった、はずなんだ。 自分へ言い聞かせるようにして、舌をさらに深くところへ潜り込ませた。 「ひゃああああああん――ッ! お、奥まで……、そんな深いところまで、柊の舌が……はぁああああ」 「鈴子……」 晶が優しげに名を呼ぶと、我堂は感極まった声で叫んだ。 「そ、そうよ! 私も……、ずっとこうなればいいなって思ってたの――」 「無理矢理でもいいから、柊に犯されて、それで何もかも忘れてしまうくらい、こういうことに溺れたかったの」 「ふわぁあああああ……、あっあっあっあっ! んんっ……はぁはぁ」 複雑に絡み合いながら、まるで涙を流しているかの如く溢れる感情で喘ぎ、抗えない何かに動かされるようにして腰をうねらす。 膣口にある突起物を、柔らかく唇で挟み込むと、我堂はビクンビクンと電気が奔ったように身体を反り返らせた。 「ひゃぅうううううう……っ、ああっ! そこ、ビリビリってしちゃうのぉ……!」 「はは……んんっ、鈴子の声、すげぇ……あたし、そっちにすれば良かったかな」 「なに……っ、言ってるのよ……はぁはぁ。あんたは、柊のを……っ、くわえ込んでいるのよ? 光栄だと思いなさいよっ」 「あれぇ? いきなり、四四八の擁護か。もしかして、実はメロメロ……?」 「う、うるさいわねっ。だって、こんな風に気持ち良くさせられたら……そのっ、悪くなんて思えないじゃない」 「柊ってば……、私のイイところを、優しくそれなのに激しく責めてくれてる」 「そんな風に愛撫してくれる男なんて……んっ、他にいないはずだわっ」 「思ったよりもメロメロだ……はぁあ! んんっ!」 じゅぷじゅぷと水音が部屋に響く。膣内で溶けてしまうくらい熱い肉襞が、執拗に絡みついてくるのだ。 愚直に突くというと何もしてないように感じるが、この態勢で出来うることは、ひたすら休まずに愛撫し、そして上に突き上げることである。 「ああぁっ……! あはぁあああああんっ……! くぅうううう……ふわっ、ああ!」 「三人で繋がって……はぁはぁっ、ひとつになっちゃってるんだな――」 「いつも減らず口、叩き合って、る……っ、あたしたちが、こんなエロいことしてるなんて、信じられないかも」 まったく同感だ。 「今更なこと……あ、ああっ……っ、くぅううううっ! い、言わないでよっ」 強張る反応が瞬間、わずかに変わる。膣内の粘膜だけではなく、身体全体の筋肉が収縮したような反応だ。 深く差し込まれる怒張が、奥できゅうきゅうと締めつけられる。 食いちぎられるような乱暴さはなく、普段の言葉使いや振る舞いとは裏腹に、晶の中は温かく優しい。 「あっあっあっあっあっ……! 晶と柊の……っ、動きがこっちにまで伝わってきて……、舌が奥を突いてくるの」 「き、気持ちいいか?」 「う、うん……すごいわっ。本当に三人で繋がってるみたい――」 晶も我堂もお互いの反応を見つめ合い、快感の虜になっているようだった。 舌でかき混ぜるだけでなく、陰唇へ口づけをする。それから再び舌を伸ばして、絡めて膣内を貪っていく。 「んんっ……はぁああああん! ふわぁあっ、あはぁ……、あっあっあっあっ!」 同時に腰は、俺の意識よりも加速度的に抽送を激しく速めていく。擦れ合う膣内は火傷するくらいに熱く、目の前が白くなりそうになる。 「ん、はっ……くぅうううっ……あ、あはぁああああんっ……んんっ、んっ……」 「……ぁ、んくぅっ……はぁっ、ひゃあああっ、ああっ! はぁはぁ……あっ」 強烈に絡みついてくる膣内。自らの快感の到達点が朧気ながら見えてくる。ここからはさらに気を抜けない。 男として一人だけ先に果ててしまうことはできない。晶と我堂と三人で、快楽の最後まで辿り着けるかどうか。 それこそ、男にかかっているのだ。 腰を突き上げると、恥骨が当たる音さえ耳に届いてくる。 「ふわぁあ、あっあっあっあっ、ぁぁぁああっ……! くっ、ああっ、んはぁっ!」 「はあっはあっ……、よ、四四八ぁ……、おまえ、つまんないこと考えてんなよ?」 なんだ? 答えることはしなかったが、すると晶の台詞をすべて理解しているように、我堂が補足するように言った。 「そ、そうよ……っ、あんたどうせ、奉仕し尽くして……んはぁ! お、俺が責任を持たないと、なんて考えてるんでしょっ」 「…………」 「あはあぁぁ……ああっ! んくぅううううぅ……っ」 根本まで包まれる陰茎が、じゅっぷじゅっぷと水音を立てて、耳まで犯されているようだ。騎乗位は、襞肉のうねりのすべてを感じさせる。 彼女たちによる腰も、深い快感をたっぷり味わうように、早く深く繋がろうと蠢いている。 「んんっ、ぅあっ……! い、いいっ……ひゃあああぁっ!」 「やっ、あんっ! ふわぁああああぅっ……ふっ、くぅぅっ、んっ、んんんっ!」 終わりが近い。俺はさらに抽送を速めていく。 「あ、ああぅっ……! すごっ……、あたしが上なのに、はぁあああん、よしやがリードしてるみたいに」 「せ、せっかくあたしたちが最後までやってあげようとしてたのにっ」 その優しい気持ちだけ受け取っておく。が、余計なお世話だ。 後悔しないようにすべてを尽くす。それが柊四四八なんだ。 そう。誰もが期待する俺という人格であり、〈彼〉《、》〈ら〉《、》にとってそれが俺の在り方なのだろう。 「はわぁあああっ……! んっ、んくぅううううぅっ……ふあっ」 「あっあっあっあっあっあ……ああっ! はぁあああんっ……ひ、柊っ……そこ、すごい……!」 溢れ出る蜜壺を執拗なまでにほじくり返す。尽きることのない泉のように、愛液は止まる気配を感じさせない。 嬌声は激しくなり、舌を突き入れる度に彼女は深く息を吸っては吐き出した。 「はぁっはぁっ……んんっ、ひくぅううううっ……あはっ! ああっ! ふわっ!」 「こ、壊れちゃうよ、よしや……ひぅっ……やっ、はぁああああぁっ……!」 膣襞と擦れる度に、亀頭のあたりは甘くて、どこか暴力的なまでの衝動が駆け抜けていく。 二人とも開いた脚からはだらしなく汁を垂らし、あたりを強烈に雌の匂いに染めていた。 「っ……そ、そろそろ、ごめんっぃ……あたしぃ、もう……んんっ!」 ただでさえ痺れているのに、尻が前後左右にくねくねと動いて圧迫してくる。どうやら晶は本気でイキかけており、男根の隅から隅までを味わっているようだ。 呑み込まれてしまうような重圧を感じながら、まるで動物のような一心不乱さに歯止めはかからない。 「はぁあああああんっ、あぁっ……! んっ、ひゃああぅっ……くる、きちゃう……私も……んはぁ! た、たえられないっ」 絡み合う舌と陰唇。すえた匂いが鼻腔を支配し、腰から下を蹂躙されるような快感が、もう目の前にまで押し寄せてきている。 痙攣しそうになる身体をなんとかぎりぎりで押しとどめて、晶と我堂へ最後の奉仕を続けたのだ。 「ひゃああああああんぁん! はぁっ、んんぅっ……はぁっ……はぁはぁはぁはぁ、んはっ、ぁあああぁっ!」 「イ、イクぅっ……、イッチャうのぉおおお……っ、よしやの、ち○ぽで、んくぅううぅっ……! あたし、最後までイっちゃうっ……!」 「はぁあああああ……っ、わ、私もイクッ、イッちゃうううううううっ!」 「きゅふぅうううっ! あっあっあっあっあっ! ふわぁあああああああああああああっ!」 「あっ、んああああぁっ、ああぁあああぁぁぁぁぁーーーーっ!」 愛液の最後の一滴までもが、顔に降りそそいでくる。片や、最後の一滴まで絞り取るかのように脈動するモノを膣が包み込んだ。 全方位的に擦られまくるせいで、亀頭へは強めに引っかかり、鈴口へは優しく細かな襞がノックするように触れていく。 大きく背を反らせる晶と我堂。彼女たちが達するまで、俺は射精を我慢することができたのだ。 目の前がバチバチっと光り、視界は真っ白に染まってしまう。強烈に締まる膣壁と、それからひくつく女陰は、どちらも確かな反応で伝えてくれていた。 どうやら二人とも満足はしてくれたようだ。 「はぁあああぅぅっ……熱い。あたしの子宮へ、ずっと注ぎ込まれてるよ……?」 「はぁはぁ……、私のあそこ、濡れ過ぎて壊れたのかと思った……んんっ。どうやら、錯覚なようで無事みたいね」 こういうときに強がれる我堂は純粋にすごいと感じる。晶はというと、力が全て抜けてしまたったかように、身体をあずけて呟いていた。 余韻と呼ぶにはもう少し情緒さが欲しいところかもしれない。 ――が、俺たちは三人とも身体で交換し合った熱をゆっくり冷ますようにして、陰部を繋げたまま息深呼吸をした。 「ちょっと……っ、どこまで、私の身体を弄くったりしたのよ――」 「垂れていくのが止まらないじゃない……っ」 膣から溢れてくる愛液を恨めしく指で受け止めつつも、我堂の声は決して非難めいたものではなかった。 挑発するような内股の雫。匂い立つ二人の淫靡さに、射精したばかりだというのに眩暈がしそうだった。 「めっちゃ気持ち良くしてもらったね、四四八……」 「次はちゃんと、あたしと鈴子からあんたのこと先にイカせてやるからな」 「覚悟してなさいよ」 いつの間に、ここまで息の合う二人になっていたんだか。 ずっと付き合ってきた幼なじみとして違和感のある気もしたが、それもすぐに快楽と疲労の泥の中へ沈んでいく。 まどろんだ意識に身体の感覚までもが引っ張られていく。 満たされた心と身体のはずなのに激しく足りない――何かもっとも大切なことが抜け落ちているような錯覚。 身体をあずけて眠ろうとする二人を抱きながら、俺は目を閉じた。  その後、主の間を出た四四八は、特に当てもなく広大な辰宮邸を歩いていた。  己に宛がわれた部屋へ帰るという選択は採りたくない。そこに明確な理由はなかったが、強いて言うなら気がそぞろなので足もそぞろに動いている。  この五層において、戦線から外されたことが少なからず影響しているのだろう。休めと言われても何をしていいのか正直分からず、自己をもてあましている状態だった。  ……いや、言い訳はやめよう。四四八は首を振って自嘲した。  俺は今、逃避している。  何をしていいか分からない、などというのは大嘘だ。  この状況で、いの一番にしなければならないことは明白だった。百合香にも言われたはずだろう。  しばらく戦から遠ざかるなら、なおのこと。柊四四八には数多の義務が存在するのだ。  仲間たちへの報告。そしてそれに伴う諸々をしなければ……と。 「――――――」  思ったとき、乾いた音が広い邸内に響いたのを聞き咎めた。 「―――、まさか」  はっと四四八は我に返り、その音がした方へと駆けて行く。今のは間違いなく、人の頬が打たれたときの音だった。  つい先ほど、百合香との会談が始まる前まで、四層で死を経験した彼の眷属たちは一人も目覚めていなかった。如何に不死の存在とはいえ、そう易々と意識が常態に回復するわけもないのだから当然である。  それが四四八をして、現状に躊躇を生ませている原因だった。つまるところ、気まずい思いを拭えずにいたということ。  しかし、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。反射に等しい挙動で駆け出した四四八は、廊下の角を曲がってその場所へと辿り着く。  そこで見たものは、不運にも予想通りの光景で…… 「ちょ、おい――何してんだおまえ、やめろって鈴子」 「駄目だよりんちゃん……みっちゃんも、大丈夫?」 「…………」  慌てる晶と歩美に手を掴まれ、憤然としたまま無言の鈴子。そして、そんな彼女に見下ろされたまま、頬を押さえて蹲っている水希。  どういう状況なのかは、一目瞭然のものだった。 「おい、おまえら」 「あ、四四八。ちょうどよかった聞いてくれよ、鈴子がさあ」 「お願い、一緒に止めて四四八くん」  皮肉にも、すでに揉めている者らがいたから他の人間関係は棚上げになっていた。四四八は言われるまま、彼女らのもとへ歩み寄る。 「放しなさい二人とも。別に暴れたりしないから。  とにかく、水希」  だが、鈴子はそれよりも早く手を振り払って自由になると、未だ蹲っている水希を見て言った。 「私から、言葉であんたに伝えることは何もない。だけど今の一発は忘れないで。 なぜ殴られたかは分かるでしょう? ……ううん、もし本当に分からなくても、分かるようになって。  じゃないと、あんたはきっと駄目になる」  それだけ告げると、四四八とすれ違うように去って行こうとする。もはや水希を一顧だにしていない。 「どいて柊」 「我堂、いやしかしな……」 「ど・い・て」  これは今、何を言っても駄目だろう。そう思った四四八は嘆息して道を開け、鈴子は軽く鼻を鳴らすとその脇を抜けて行った。 「……………」  四四八にしても、鈴子の気持ちが分からないわけじゃない。やはりおまえも気付いていたのかと、むしろ納得するような心地だった。  実際、もしも水希が男だったら、四四八が殴っていただろう。四層でのことを踏まえれば今さらという気がしないでもないが、それが現状に対する彼の本音だ。  しかしともあれ、このままにはしておけないのも事実。 「平気か、世良?」 「……うん、ごめんなさい。ありがとう」 「みっちゃん、やっぱりまだ、休んでたほうがいいよ。わたしがお部屋まで連れて行ってあげる」 「そうしてくれ歩美。世良も、今はとりあえず寝てろ」 「うん……ほんとに、ごめんね」  そうして水希は、歩美に手を引かれるまま去って行った。それを見送り、残された四四八と晶は顔を見合わせる。 「なーんかその、ヘンなことになっちまったな。  鈴子の切れ癖はいつものことって言やあそうだけど、何もこんなときによ」  と言うより、こんなときだからこそだろう。再び見詰め合った四四八と晶はしばらくそのまま黙っていたが、やがてどちらからともなく苦笑した。 「目、覚めたんだな。大事なさそうで安心したよ」 「ん、まあ、誰かさんがすぱっとやってくれたからな。逆に寝覚めもすっきりってな感じだよ」 「ごめんな四四八、無茶やらかしちまって。おまえあれ、あたしを助けてくれたんだろ?」 「そういう見方も確かにあるが、しょせんは事の一面だ。あまり良いようにばかり解釈するなよ」 「なんだそれ。いいじゃん別に、あたしがそう思いたいんだから」  柊四四八は真奈瀬晶を殺害した。それは厳然たる事実である。  だが当の晶は、真逆の解釈をしているらしい。それは彼女の性格で、美点と表現できる心の強靭さなのだろう。 「考えてみればさ、自分をぶっ殺した奴としみじみ話せることなんか普通ないぜ。だからこれは、なんだかんだで良いことなんだよ。  あたしらだからこそ出来る関係……そう思えば、特別って感じもするから悪くないだろ?」 「まったく……」  おまえには敵わないな。四四八は心の中でそう呟く。 「あ、なんだおまえ、今あたしのこと馬鹿だって思ったろ?」 「思ったが、別に悪い意味じゃない。そこはおまえお得意の前向きさで、良いように解釈しろ。  そういうところを維持できるなら、晶はきっと大丈夫だよ」  四層突破の修羅場に際し、彼女ら眷族たちの問題点が浮き彫りになったという事実。  晶は中でも、一見してこれといった改善の余地はないように思えるが、しかしまったくのゼロでもない。  他者を思うあまり、自分に対する配慮をつい怠りがちなのだ。自傷や自虐の癖があるというわけじゃなく、単純に忘れてしまう。  直情気質で熱血で、だからこそ突っ走ったら色々と見えなくなる。基本、それは長所として機能してるが、まずい状況にもなり得るということ。  そのことは、晶自身も一応理解しているらしい。  だからといって、いきなり万事問題なしとはいかないだろうが。 「まあ、なんだ。あたしはこんな感じだから、おまえもつまんないことで悩んでんなよ。別に自分が間違ったことをしたって風には思ってないだろ?」 「当たり前だ。俺はそこまで柔弱な男じゃない。  ただ、な……」 「ただ?」  己に問題点が見当たらないことこそ問題である。それを上手く言葉で表現できなかった。  自ら殺し、蘇った眷族たちに会うのが気まずかったというのは本当だ。しかしそれは、殺してすまないといった意味のものじゃない。  そうまでしたのに、それが正答だと今も確信しているのに、未来へ勝利を描けない己に対する後ろめたさだ。  甘粕正彦に対する敗北の予感。  仲間に約束をしてやれない不甲斐なさへの憤り。  そんな状態で顔を合わすのは躊躇われた。そういうことで、打開の糸口はまだ掴めない。 「さっき、おまえが寝てる間に百合香様と話したんだよ」  結局四四八は、自分たちが五層の戦線から外されたという事実だけを晶に伝えた。 「……そうか。あの人も何考えてんのか分かんねえけど、そう言われたんじゃしゃあねえな。あたしらにゃ逆らえねえよ」  正しくは、逆らおうという発想が浮かんでこない。  この時代の常識。立場として求められる規律。二人はそんな風に思っているが、実情は百合香による洗脳だった。彼女の夢はそうした真似を可能にする。 「確かに手持ち無沙汰で据わりも悪くなっちまうけど、別に無能で用無し扱いされたわけでもないんだろうしさ。  むしろ、あっちにすりゃあおまえを温存しときたいんだろ。極論言っちまえば、盧生さえ生きてりゃ負けねえんだし。殺しても死なないのはあたしらで証明されてることだもんよ」  だから、と晶は笑って四四八の肩を叩いた。 「こうなりゃ大人しく、お言葉に甘えようぜ。出撃しなくても修行するのは勝手なんだし、これも無駄にはならねえよ」 「……だな、俺もそう思ってる。他の奴らにも伝えておこう。  鳴滝と栄光の目はもう覚めたのか?」 「ああ、その、それは分かんねえけど……あのさ四四八」  去ろうとする彼を呼びとめ、もう一度晶は快活な笑顔を浮かべた。 「おまえ強すぎ。だから大丈夫、無敵だって」  いったいどこまで四四八の内情を察しているかは不明だったが、それで彼が幾ばくか救われたのは確かだった。  そうして、残る仲間を捜すために引き続き館の敷地内を歩き始めた四四八は、中庭で見知った顔と行き会った。 「どうも。ご機嫌麗しゅう四四八さん」 「野枝か。……ああ、栄光と話してたんだな」 「ええ。まあそんなところです」  見れば、彼女の向こう側に栄光が立っていた。四四八と目が合い、決まり悪げに視線を宙へ泳がせている。  それに気付いて、野枝は深々と嘆息した。 「まったく、こういうときの殿方は面倒くさいですね。女同士のほうがよほどさばさばしています。  たかが喧嘩に負けたくらいで、何をいつまでもうじうじしているのやら」 「喧嘩、ね……」  彼女らしいと言えばそれまでだが、実に鮮やかな一言で切ってくれる。  あれを喧嘩と言われたらひとたまりもない。 「あまりきついことを言ってくれるな。逆に考えて、喧嘩に負けた男がへらへら笑っていたら気持ち悪いだろう。  それはそれで、女の目から見ても情けない奴じゃないか?」 「なるほど……言われてみればそんな気もします。ただ、そういう両極端ではなく、上手い落としどころを見つけるのが男子たるものと思いますが。  ともかく四四八さん、私はあなたに感謝していますよ。栄光さんは馬鹿ですからね」 「痛い目を見ないと分からないことのほうが多いでしょう」  そう言う野枝の口調は軽い笑いがこもっていたので、四四八も肩を竦めるだけに留めておいた。  なんだかんだで、栄光の欠点についてはこの彼女に認められるのが一番手っ取り早く、唯一の解決法と言えるのかもしれない。 「百合香様の方針については、私から栄光さんに話しておきました。色々と思うところもあるのでしょうが、納得はしているようです」 「そのときは、おまえも出払うと言うんだな?」 「はい。そもそも四層については、完全に四四八さんたち任せでしたからね。ならば次は我々の番……そういう風に考えてください。  でないとこちらも、居心地が悪い。少なくとも、私はそうです」 「分かった。なら俺からは何も言わない。  ただ武運を祈る。それだけだ」 「ありがとうございます。では……」  言って、野枝は一礼するともう一度栄光へと向き直り、何事か言い含めるように頷いてから場を辞した。 「さて……」  ゆえに今、ここは取り残された男二人がいるだけである。 「座れよ、栄光」  四四八は彼の傍まで歩き、そう言ってから中庭に腰を下ろした。無言で栄光もそれに倣う。 「おまえ、俺に何か言いたいことはあるか?」 「……ない。 おまえはオレに何かあるか?」 「そうだな、一つ」  一拍置いて、四四八はそのことを話し始めた。 「覚えているか? 俺たちがこの邯鄲に入ると決めたときのことを」 「思い返せば、あれは唐突なものだったな。百合香様と壇狩摩がいきなり現れ、呼び出された俺たち特科の三十名……それで夢が何だのと、正直悪い冗談かという気がしたよ」 「ああ……そりゃ、確かにそうだったな」  彼らは軍人の候補生だ。そして軍人とは〈現実主義〉《リアリズム》を叩き込まれる。時代的な精神主義も抜き難く染み付いてはいるものの、基本として怪力乱神は否定する側の立場だった。  そんな彼らが、夢という非現実の話を持ちかけられる。それは対極の価値観を問われたと言っていい。 「甘粕正彦……か。名だけは聞いたことのある相手だったし、そこには当然、良くない噂も含まれる。  俺たちが子供の頃、災害が立て続けに起きていたのは事実だし、ちょうど戦真館に入った頃から、上がキナ臭くなった空気は感じていた。  しかし、だからといってこれは飛躍のしすぎだろう。今日び子供騙しにもなっていない。そう思ったよな?」 「思ったぜ。だけど……」  栄光は苦笑して、揶揄するように言葉を継いだ。 「一番最初に信じたのは……四四八、おまえだったじゃねえか」  誰よりも現実的で、言い方を変えれば堅物で、もっとも絵空事とは無縁に見えた柊四四八。  そんな彼が、こんな荒唐無稽を第一に信じたのが驚きだったと栄光は言う。 「一応、そこについては理屈的な説明も出来るんだぞ」  それに四四八は、やはり同じように苦笑しながら宙を仰いだ。 「なぜならあのとき、百合香様は言われた。志願を募ります、と。  おかしな話だろう。なんであれ、俺たちを動かしたいなら一言命令すればいい。こちらに拒否は出来ないし、すれば抗命罪になるだけだ。にも関わらず、彼女はあのような言い方をした。  志願を募る――事実上の命令として、それを慣用句にしたわけでもない。不遜な物言いになってしまうが、そこまで世間を知っている人にも思えなかったからな。 ではなぜか?」  四四八は言う。それこそ事が真実だからではないのかと。 「命令として強制するような体制では、到底乗り越えられる試練じゃない。なぜならこれは、夢に挑む戦いだから。  個々の意志。何よりもそのことが意味を持つ……とな。そうしたある種、一貫した芯が見えたんだよ。俺たち流に言うならば真を見たのさ」 「だからおまえは、夢を信じた?」 「ああ、それが理屈だ。しかし実はもう一つ」 「ひどく観念的な、言葉に出来ない何かを感じた。これは俺の役目、俺がやらねばならないこと。 いいや、俺はこの運命から逃れられない。……まったく、我ながら青い話だ」  しかし、ただの思い込みだったとも考えられない。事実として、彼は盧生だったのだから。 「一番最初に志願したのがおまえで、そのおまえが上手いこと盧生だった。  なるほど、改めてこりゃ出来すぎた話だよな。もしかして、百合香様たちは知ってたのかね。少なくとも、予想は立てていたのかも……」 「分からん。だがそんなことはいいんだよ。俺が言いたいのは、栄光――」  そこで四四八は彼を見た。そのまま、思いのほか強い眼差しで見返してくる友人に短く告げる。 「おまえたちは、俺のせいで逃げられなくなったのでは、と…… 俺がワケの分からん衝動で動いたから、おまえたちはそれに引きずり込まれたのではないのかと」  後の世に、神風と呼ばれた悲劇がある。それも志願の形態……先の慣用句的な意味合いが強かったらしいが、ともかくそういうことがあった。  現段階の四四八では知り得ない歴史だが、このときの彼はそれに近しい気持ちを告白している。  すなわち、一種の同調圧力。我は決死なりと一歩進み出た戦友を目にすれば、他の者らも続かざるを得なくなる。有り得ない心の動きとは言い切れない。 「あのとき、おまえの言葉でそれを意識させられた。前から思っていたのかもしれないが、初めてその可能性に気付いたんだよ。馬鹿な話だ」  舐められたくない。おまえたちに雑魚だと見られるのが耐えられない。  栄光に叩きつけられた言葉を、四四八はいま反芻している。 「違うぜ、四四八。オレはよぉ……」 「分かっている」  だから、彼は栄光の反論を制して首を振るのだ。  これは詫びているんじゃない。礼を言っているのだと。 「そんな考えが、おまえの誇りを傷つけるということ、よく分かった。  おまえは自分の意志で、自分の真を貫くために志願したんだ。  それが分かったから、同時に俺は救われたよ。ありがとう」  まったく、と手足を摩りながら四四八は嘯く。努めて軽口でも叩くように。 「大儀や世の中、甘粕なんかはどうでもいい……か。それであそこまでやられちゃ敵わない。本気で強かったぞおまえ、一番苦労させられた」 「へ、へへ……そうか、そうかよ」 「ああ、だからこそおまえも俺が言ったことを忘れるな」  二度と自分で自分を軽く見るなと言い含めて、四四八は続く言葉をもち締め括る。 「この夢を越え、現実に帰還したとき、また聞かせてくれ。おまえたちが何を思ってこの邯鄲に身を投じたのか。  たとえ野暮だと言われようとも、聞きたいんだよ。俺が盧生として、夢を過たないように」 「分かった。ああ、分かったよ」  頷き、微笑み、それきり二人は何を言うでもなく、黙って空を眺めていた。  そんなものでいいのだろう。  なぜなら互いに謝るようなこともなければ、曰く喧嘩をやり足りないわけでもない。  たとえ無言同士であっても間が持たなくなることはなかった。今、二人が思っていることは共に同じなのだと分かっていたから。  強くなりたい。  自分にとって本当の戦いと言えるときがやってきたら、そこで勝利することが出来るように。  四四八が、栄光が、いいや仲間のすべてが等しくそう思っていると確信していたからこそ、前へ進もうと真摯に誓える。  四層で受けた傷も、生じた不安も、拭えないものがあるなら今は抱いて行くしかない。  すべての清算が成されるのは、きっと真なる戦いに直面したときでしかないのだろうから。 「あれはいったい、何を話しているのでしょうね。 淳士さんはどう思われます?」 「知らねえよ」  一方その頃、中庭の二人を窓から見下ろしながら百合香はそんなことを言っていた。  彼女がいるのは、淳士に宛がわれた部屋である。やんごとなき身分の子女がこんな時間に男の部屋へ、しかも単独で訪れるというのは軽々にすぎる行動だったが、当人はまったく気にした様子がない。  淳士がそういう野蛮さと無縁の男であることは皆の知るところだが、それだけに彼は甚だ不機嫌だった。如何に硬派を信条としている身であろうと、おまえは木石だと直言されれば面白くないのも道理だろう。  いやそれ以前に、彼はこの令嬢がどうにも苦手だ。一種嫌悪しているとさえ言っていい。  そのこと隠しもせずいつも前面に出しているのだが、百合香はむしろ面白がっているらしいというのが、またどうしようもなく腹立たしかった。 「あんたさ、たいした用もないならさっさと帰れよ」 「あら、用がなければ会いに来てはいけないのですか?」 「当たり前だろう、迷惑だ」  しかし、淳士も淳士である。彼の態度は、時代と立場を鑑みれば暴挙とすら言えるものだ。  戦真館を創ったのは辰宮の一族であり、百合香は今代の当主である。よって今風に言えばスポンサーであるのと同時に主君の立場だ。四四八がそうしていたように、恭しくあたるのが常識だろう。場の状況によっては、拝跪すら求められるかもしれない。  淳士ら軍人の候補生が真っ先に叩き込まれるのは、徹底した上下関係だ。ゆえにたとえば教官などは、神として敬えとさえ言われている。  百合香はそれよりさらに偉い。この夢においては共に四四八の眷族として、言わば淳士と同等の身だが、実質的な指揮権は未だ彼女が握っている。つまり、とてつもなく地位の懸絶した上座にいる相手なのだ。  その程度の道理を理解できない間抜けでは流石にない。百合香の不興を買えば、淳士は戦真館の籍を剥奪されるどころか、家ごと潰されてしまうだろう。一生日の目を見ない生活へと、親族共々落とされるかもしれない。  貴族、支配者という血統の者はそうした力を持っている。百合香は確かに変わり者で、高圧的な人種ではないが、下々の気持ちを斟酌しないところは明確に持っていた。  にこやかに話しかけてきたからといっても、誤解してはいけない。それは本質的に、犬猫を愛でているのと同じようなものなのだから。 「…………」  ゆえに淳士は、彼に出来る最大限の遠慮をしているつもりだ。  極力関わらないようにすることで粗相を減らし、その事実をもって敬意と解釈してもらいたい。  それが甘い言い分であることは、現状からも重々承知しているのだが…… 「五層の件なら了解した。柊が納得したなら、俺がとやかく言うことじゃねえ」 「ただ……」 「ただ?」  あんた本当に大丈夫なのかよ? その言葉を口にしかけて、思い留まる。自ら泥沼に嵌る発言としか思えなかったから。  しかし、淳士は嘘や誤魔化しの類が苦手な人種だ。直言しないというだけで、結局は似たようなことを言ってしまう。 「……幽雫の野郎は、頼りになるのかよ」 「俺らがいねえなら、あんたの傍にいるのはあいつだけだろ。伊藤は神祇に取られちまったし。  あの狩摩って野郎が、素直にあんたの言うことを聞くとは思えねえ。むしろあれは、後ろから撃ってきかねない手合いだ。  そこらへん、何か対策は立ててるのか?」 「そうですねえ。これといって何も」  苦虫を噛み潰したような淳士の言葉に、百合香は心底楽しげに応じる。それが男の態度をより硬化させているのだと分かっていながら、面白くてしょうがないらしい。 「そのようなことは考えません。狩摩殿がどうだろうと、宗冬がなんだろうと、わたくしは自分のしたいことをするのみです」 「つまりあんたは、誰も信用しねえって言うのかよ」 「他者とは信用に値するものですか?」  逆に問われ、淳士は思わず言い詰まった。  百合香の言葉に共感しているからではない。  馬鹿かと思うし、何かをこじらせているようにしか見えないが、だからこそ思ったままを口にすることが出来ないのだ。  前述の通り、立場と育ちが違いすぎる。それを理解できないほど愚かではないということ。  百合香はそんな淳士の態度に、少しだけ溜息をつき…… 「何か言いたいことがあるなら、遠慮なさらずどうぞ。  辰宮百合香など、たまたま面倒な家に生まれただけの他愛のない小娘にすぎません。それくらいよく自覚しております。  嫌いなのですよ。権力とか家格とか。そして嫌いなものを行使することも、やはり同様に嫌いです。  たとえば、淳士さんがわたくしに無礼な真似を働いたからといって、あなたを社会的に抹殺するとでもお思いですか?」 「……しそうだろ、あんた」 「まあ、事によってはするのかもしれませんが」  さらりと怖いことを言いながら、百合香はからかうように言葉を継いだ。 「仮にそうだとして、借りてきた猫のようになるのが鳴滝淳士という殿方の程度ですか?」 「だとしたら可愛らしい。ああ、可愛がってあげましょう。そのようなものだと解釈し、そのように扱って差しあげます。他のすべてと同様に。  ねえ、それをどうやって信用すればよいのです?  あなたは、そんなものを友だ恋人だと言えるのですか?」 「…………」  百合香の口調は静かだったが、それだけに辛辣な皮肉であり罵倒だった。おまえは案山子かと言っている。  そして、鳴滝淳士は他者に舐められたまま黙っていられるような男ではない。 「おや、強張りましたね。怒りましたか?  怒ったのなら、さあどうぞ。殴ってみたりしてください。その後わたくしが、どうするかは知りませんけれど」  背中合わせに触れている状態だからこそ、淳士の緊張はそのまま百合香に伝わってしまう。よってこの令嬢に対し一線引くなら、早々に身を離すべきだったが、それはそれで癪だった。逃げたようで腹が立つ。  淳士は気を静めるため、深く大きく息を吐いた。 「……結局、あんたが気に入らないのはそこかよ。  周りのご機嫌取りにうんざりしてる。なるほどな、理解できないこともねえ。俺でも苛々するだろうよ」  事情は違うが、淳士も他者から距離を置かれることが多い。強面に無骨な性格が災いして、面と向かえば愛想笑いしか浮かべない輩はこれまで多く存在した。  その卑屈さ、ひきつった笑み。向けられる者が甚だ醜悪に感じるのは無理からぬことだろう。だから百合香の他者に対する失望も分かる。  だが、ならばこそだ。 「あんた、待ってるだけなんだな。気付いてくれと言ってるだけかよ。  なんだかんだ、自分じゃ一歩も動かねえ。そういうところが……」  自分と似ていなくもない。そう淳士は心の中で呟いていた。  なぜなら彼もまた、人間関係においては基本として受身だからだ。もともと馴れ合う性分ではないことも当然あるが、自分に正面からぶつかってくる相手としか打ち解けないし、そういう者が現れなければ孤立するだけ。  自ら積極的に関係を構築しようとしていない。ゆえにむしろ、この場は百合香のほうがきちんと主張しているぶん上等とさえ言えた。  素直になれ。四層で四四八に言われた言葉が胸をよぎる。 「わりに、最初から見え見えだったぜ。  入学式で来賓席にいるあんたを見たとき、こいつ全然笑ってねえなってよ」  彼女に対する自分の苛立ち、それは同属嫌悪に近いものだろうと理解した。  淳士は外見と気質。百合香は加えて生家の格。共に自分ではどうしようも出来ないもので、ある種の枷を嵌められた身だ。人付き合いが下手糞で、放っておいたら誤解される。  そして、上手く解きほぐすための手段を知らない。そこはほぼ完全に人任せで、誰かが手を差し伸べてくれるまで何もしない受動型。  思えば、淳士がよく鈴子とつるむのはそういう原因があったのだろう。幼なじみということもあるが、そもそも両者の関係が構築されたのは彼女の手によるところが大きい。  なぜなら〈鈴子〉《あれ》はあれで、特殊な家柄の人間だからだ。先に言った、生まれつきある種の枷を嵌められた同類だろう。  しかし、鈴子は気にしない。  淳士に限らず、周りを引きずって引っぱたいて振り回す。それで失敗したりからかわれることも多々あるが、全方位へ喧嘩でも売るかのように積極的で、激烈な気性を隠しもしない。いいや、誇ってさえいるだろう。  馬鹿は殴ってやらないといけない。  淳士が信条としていることの一つだが、元を辿れば鈴子から教わったものだ。よって、彼が他者に積極介入するときは、自ずとそういうかたちになる。  ならば、辰宮百合香を殴ること。物理的にという意味じゃなくとも、それは自分の役なのではと淳士は思った。もとからそう思っていたのかもしれないが、ようやくそれを朧げながらも理解した。  なぜならこれは、四四八たちに出来ない類のことだから。  彼らは道理を弁えすぎる。言ってしまえば常識人なので、主筋に対する一線は越えられない。  鈴子でさえ怪しいだろう。世の倫理道徳仕来たりその他、有り体に決まりを重視する性格なので、破るのは負担になる。  他の者らはそれどころじゃないのだ。こんな、言ってしまえばどうでもいい次元の問題にかかずらっている場合と違う。余計な面倒を負わすべきではない。  ゆえに自分だ。自分のような素行不良の無頼漢。身分だの何だのと、小賢しいことを気にしない唐変木の仕事である。  百合香の性根を叩き直すことが、自分たちの旅に良い影響を与えるかは分からない。まったく関係ない確率のほうが高いようにすら思う。  しかし、無駄とは思わなかった。なぜならこれは、淳士が自分を見つめ直すことにも繋がるから。  素直になれ。素直になれ。言われたことを忘れてはいない。自分の本音というものを見つけなければならないのだ。鳴滝淳士が強く己の夢を描くために。  そう。身分の一線を越えることが社会的不義となり、自分や家族の破滅を招くかもしれないという理屈は言い訳だ。そんなもの、実のところ己はまったく気にしていない。  親に迷惑を掛けるかもしれないが、こんな自分に生んだのは親である。ならばその事実に真摯であること。己に恥じない道を選ぶことこそが断固正しい。  きっと淳士は、ずっとそれを探していたのだ。自分のような者に手を差し伸べてくれた仲間に報いる一つとして、誰かの手を待っている奴に同じことをしてやりたい。  淳士はたまたま、孤立を苦にしない性格だった。ゆえにたとえば鈴子や四四八たちと出会わなくても、世を拗ねたりはしなかったろう。  だが、だからといって、彼らとの出会いが無価値だと思うほど傲慢ではない。マイナスにならないというだけでゼロはゼロ、何の面白みもない生だったに違いなく、プラスを与えられたからこそ今があると信じている。  その点、百合香はマイナスなのだ。彼女の魂は孤立に耐えられる種類じゃなく、絶えず出血を起こし壊れかけている。  ならば迷うことはないだろう。淳士は彼女と出会い、自分だけが一目でその傷に気付いたときから、これを運命のようにすら感じていたのかもしれず……  夢というこの世界で、共に生死を賭すならなおのこと、そうだ。  自分は、辰宮百合香という女のことを…… 「……さん、淳士さん」  長い、本当に長い自問に耽っていた淳士の意識を、彼女の声が呼び戻していた。 「続きはなんです? 興味深い話なので〈聞〉《 、》〈か〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈だ〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》」 「え、あ、いや……」  一瞬、百合香の言葉に強烈な目眩を感じた。己の内心を無理矢理引きずり出されるような恐怖を感じ、抵抗するため首を振る。 「なんでも、別に……なんでもねえよ。たいしたことじゃねえ」 「そうですか」  まだ、己の心を明確には捉えていない。こんな状態で何か言うことなど出来ないし、半端は彼のもっとも嫌うところだ。  なので淳士はそう答えたのだが、百合香は残念そうだった。  いや、もしかすると喜んでいるのかもしれない。どちらとも取れるような、俄かに判別できない声で言う。 「やはり、効きが悪いですね。あなたにだけは、どうしてか」 「その答えをお聞きしたいところですが、わたくしのお願いなど歯牙にもかけないからこその淳士さん……ああ、まったく悩ましいです。  いつか、話してもよいと思ったときに教えてくださいましね。わたくし、ずっと待っておりますから。  ではこれで。どうやら四四八さんたちのお話も終わったようですし、頃合でしょう」  窓の外、中庭からはすでに四四八と栄光の姿が消えていた。それに淳士が一瞬目を向けた隙に、百合香はもう立ち上がっている。  そしてそのまま、部屋から出て行く前に告げた。 「生まれ育ちのしがらみとは面倒ですね。まるで絡みついた蜘蛛の糸……拭ったつもりになっていても、必ずどこかに纏わりついている。  そうしたものが最初からない状態で、あなたとお会いしとうございました。これは詮ない夢かしら? いいえ、叶うような気がしているから、わたくしは行きます。その未来のために。  ごきげんよう淳士さん。この今のこと、互いに忘れてしまうのが残念でなりませんわ」  扉は閉じ、百合の香を残しつつ令嬢は去った。残された淳士はぽつりと呟く。 「忘れちまう……か」  確かにそうだ。次以降の周回になったとき、ここでのことは自分たちの記憶から消えている。  だが、それは永遠に失われるという意味じゃない。 「早く、本番に辿りつきゃあいいんだよ。しょせん、こんなもんは予行演習みたいなもんだろうが」  八層を越え、甘粕正彦に対するだけの力を得てから現実に帰還する。その目標さえ果たされれば、一度は無くしていた記憶も再構築されるはずだろう。  だから、まずはそこを目指す。そのとき本当の気持ちとしっかり向き合えるように。  もちろん自分の性格は知っている。たとえ今の感情が戻ってこようと、他の周回における想いと混ぜ合わさり、余計に複雑怪奇と化すかもしれない。  断固、意味が分からん面倒だと突っぱねながら、それでも百合香を気にする未来の己が見えるようだ。  しかし、いいやならばこそ――  たとえどういうかたちになろうとも、自分はあの女を救わねばならない。  一人自らの拳を見つめ、そう誓う淳士だった。 「……だからあいつは、何を一人でぶつぶつと、ワケ分かんないわね。  だいたい何よ。目ぇ覚ましたんなら、まずは私に一言詫びでも入れに来るのが筋じゃないの? そこらへん、道理ってもんを知らないのかしらあの馬鹿は」  同じ頃、部屋の外では鈴子が一人、鍵穴を覗きながらこちらもぶつぶつ言っていた。  水希とのことが流石に気まずく、所在無かったので、腹いせに淳士でも怒鳴りつけてやろうと思っていたのだが、彼の部屋から百合香が出てきたので思わず隠れ、そのままこんな流れになっている。  それがなんだか気に入らない。 「まあ、あいつがお嬢様に何か出来るほど根性あるとは思えないけど、そこは色々あるじゃない? ほら、私の立場っていうか責任的に。  実際これ、保護者みたいなもんだし、馬鹿が粗相したら申し訳ないというか私の沽券に関わるというか、つまりそういう」 「おい」 「だいたい柊も柊よ。詫び入れるんならあいつこそ真っ先に来いっていうのよ。いやそりゃ、どけって言ったの私だけど、あっさりどいてんじゃないっていう、ああもう、なんで分かんないかなあそういうの」 「あのさ」 「だから、うるさいわね。なんだっていうのよすっこんでて、しっし――」 「こら、我堂」 「うひゃいっ」  力強く肩を叩かれ、鈴子は奇声を発しながら飛びあがった。 「なっ、なっ、なっ、なっ……」 「何してるんだおまえ、ここは鳴滝の部屋だろ。用があるならさっさと入ればいいだろうに――」 「ちょ、ちょちょちょちょーっとあんた、こっち来なさい!」  扉にノックしようとした四四八の手を引っ掴み、彼を引きずったまま一気に鈴子はその場から離脱した。 「はあ、はあ、はあ……」 「何なんだおまえは……相変わらず分からん奴だな」 「う、うるさいわね。そんなことより――」  さも迷惑だと言わんばかりに眉をひそめる四四八に指を突きつけて、鈴子は言った。 「あんたこそ何してんのよっ」 「何って、俺は鳴滝の様子を見ようと思ってだな」 「私はっ?」 「おまえは切れながらさっさと行っちまっただろうがよ」  それは確かにその通りだが、そういうものじゃないだろう。女性に対する扱いとは、もっと細やかな心遣いがあって然るべきだと鈴子は思う。  だがそんな気持ちが顔に出ていたのか、四四八は鼻で笑いながら付け加えた。 「あの状況で俺が気を遣うなら、それは世良のほうにだろう。まあおまえの怒りも察するが、殴られたほうを労わるのが基本的な人の道だ。  おまえは元気が有り余ってそうだったし、後回しにされたくらいで文句を言うなよ」 「~~~………っ」  腹立つなあこいつ。人にえぐいのぶちかましておきながら、なんでこんなに偉そうなんだろう。ごめんの一つもないのだろうか。 「おまえ、俺が謝ったら余計に怒るだろ」 「当たり前でしょっ」 「分かっている。だから詫びん。そもそも悪いと思っていない」  まだ何か、と言う四四八の顔を掻き毟ってやりたかったが、なんとか堪えて鈴子は深く息を吐いた。 「……もういい。それで、他の奴らのご機嫌伺いは終わったの?」 「おまえに邪魔されたせいで鳴滝はまだだが、他の奴らはだいたいな。  世良は少し、これまた誰かさんのせいで手間取りそうだが、幸いなことに時間はある」  そうして四四八は、百合香の方針について説明を始めた。それに鈴子は、特に何を言うでもなく分かったとだけ返しておいた。 「意外だな。おまえが一番ごねるだろうと思っていたのに」 「あんたね、私を何もんだと思ってるのよ。命令無視が趣味の狂犬じゃないんだから、上の言うことにはだいたい従うわよ」 「だいたいだろ?」 「だいたいよ。それでだいたいっていうのは、ほぼ間違いなくっていう意味なの。少なくとも百合香様は、その例外って感じがしないわね。  私が逆らう上がいるなら、たとえばそれは……」  言いつつ、じろりと四四八を睨む。彼が鈴子を跳ねっ返りと思っているなら、つまりそういうことなのだ。天下に約一名の、甚だ気に食わない上官を限定にした反骨心。  いや、対抗意識と言うべきか。  四層で淳士に言われたことを思い出し、顔が熱くなってきたが無視だ無視。引き続き思い切り睨みつけ、怒り狂ってるように見せながら誤魔化してしまう。  四四八は呆れたように一歩引いて、肩を竦めた。 「まあなんでもいいが、納得しているならそれで構わん。おまえ、鳴滝とぎくしゃくなんかしないだろうな」 「しないわよ馬鹿らしい。あいつは弟みたいなもんなんだから、ちょっと生意気やらかしても大きな器で受け止めてあげるわ」 「知らないでしょあんた。あいつって、昔は私よりチビだったのよ。   それをまあ、ちょっとでかくなったくらいで文字通り上からほんとに……ああ腹立つわね」 「……おまえから、全然大きな器ってやつを感じないんだが」  ともかく分かったと頷く四四八。  じゃあそういうことで鈴子も応え、踵を返す。  だが、そのときに。 「待て我堂、もう一つだ」  呼び止められ、振り返ると、思いのほか真摯な瞳とぶつかった。  ああやめて。その目は駄目だ。自分がみっともなく思えてしまうから。 「おまえのことだ、俺に言われるまでもなく分かっているだろうが……世の中効率だけで動いているわけじゃないぞ。  時に弱点を設けるのも、決して悪いわけじゃない。それはきっと、おまえにとって鞘になる」 「そんな風に、俺は思うよ」  我堂鈴子は己の得手を知っている。それを殊更誇りも悲観もしてない。  ただ才は才。機能は機能。時代と立場に求められている状況で、役に立つなら優秀だ。そう弁えているからこそ、四四八の言うことを否定は出来ず…… 「そうね。……ええ、きっと、そうなんでしょうね」  こいつは困る。本当に改めてそう思う。  鈴子は己の仕組みを知っているから、同じように整然とした機能を持った者には強い。  だから、何処かの回路がぶっ壊れているような者……たとえば淳士のような者には弱いが、それはそれで扱いが苦手なだけだ。調子が狂うという以上のものではない。  だけど。  自分と同じように整然として、筋の通った機能を持ち、さらに完成度が高い相手にはどうしたらいい? 正しくは、後ろ暗い要素のない者か。  先の喩えに倣うなら、鞘を標準装備で持っている者……  仁義八行の光が眩しくて惨めになる。礼の尊さを本質的に体感できないことが悔しい。 「私は、もしも……」  もっと能天気な時代に生まれていたら、その平和ボケを愛することで鞘を得ることが出来たのかもしれない。  と思ったが、口に出すことは出来なかった。世の中のせいにするのは簡単だが、同世代に四四八がいるのだからそれも言い訳にしかならないと知っている。 「……なんでもない。うん、分かったから、自分なりに考えてみるわ」  ゆえに困るのだ。幸せになれないぞと言われたことを思い出す。  そんなものに定型はないと考えるし、納得できればなんでもいいと言いたいが、このままできっと納得が遠い。  ある種の劣等感を抱えたままの自分では、四四八と張り合うことさえ本当の意味では出来ないのだと分かっていたから。  それではただの八つ当たりだ。あのとき彼から言われた通り、反骨心や対抗意識にすらなっていない。  そんなのは、嫌だと鈴子は思うのだ。 「……なるほど。あの後はこうなったのか」  第一周目の四層突破に際し、ある種の仲間割れを経験した柊四四八と眷族たち。その結末は、どうやら穏当なところに落ち着いたようである。  辰宮百合香の出陣という特殊な状況が起こってはいるものの、僕としては彼らが空中分解しなかったことに安堵を覚えた。やはり、仲間同士で殺伐とした関係になるのは忍びない。  この周回でどういう結末を迎えるかは知っているので無駄な心配と言われればそれまでだが、そこを指摘するならすでに最終的な結末まで知っているのだ。過程すべてに無感動であれなんて、そんなことを求められても困る。  なので僕はほっと胸を撫で下ろしていたのだが、同じものを見た緋衣さんはまったく別の感想を持っているようだった。 「つまらないな。もっとぐちゃぐちゃやってくれればよかったのに。  揉め事があっけなく収束するほど白けるものはないと思わない? 他人の喧嘩を見ることほど、傍目に面白いものはないんだから」  と、そんな風に同意を求めてくる彼女。言ってることの理屈自体はまあ分からないでもないんだが、これは史実の再生だ。そんな娯楽みたいに捉えるものじゃないと思う。 「事実は小説より奇なりと言うけど、それは正負どちらの意味でもお約束ってやつがあまり起きないからじゃないのかな。  今回に限れば、負のご都合主義が働かなかった。一度揉めたら、際限なく揉めてこじれないとおかしいなんて……それはそれで一方的だし、現実的じゃないよ」 「確かにね。でも私みたいに思う人も結構いるんじゃないかと思うわ。  もっとドロドロしたのが見たい。やってほしい。たとえばこうで、もしもそうで、これこれこんなことになったら別の展開が始まったんじゃないのかなって……そう思うこと自体、止められるものじゃないでしょう。  夢なんだから、夢見たいのよ。だからみんな祈ってる」  夢は夢。想像は自由。そんな風に緋衣さんは言うのだが、重ねてこれはあくまで史実だ。柊四四八とその眷族たちは実在した歴史上人物で、僕らに弄ばれるための玩具ではない。  いいや、仮に彼らが架空のキャラクターだったとしても、一個の人格として生み出された魂であることに変わりはないと考える。だから好き嫌いは持って然るべきものだろうが、気に入らないからといって勝手に改変を望むのは一種の冒涜だと僕は思う。  自分は自分で、他人は他人だ。その一線は尊重しなければならないだろう。誰もが自分にのみ都合のいい世界を求めていたら、そこは絆の失せたディストピアとなる。極論、会話すら用を成さなくなるではないか。 「ま、信明くんは真面目だからね。言いたいことは分かるんだけど。  なんだかんだ、人のことは言えないんじゃない? これは史実って、それはそうだけど、一瞬だけおかしなことが起こりかけたのを見たでしょう」  僕の心を正確に読み、そのうえで揶揄するように彼女は言った。  おかしなこと、それが何を指しているかは、もちろん僕とて分かっている。 「自覚してるのかな? あれ、信明くんがやったんだよ」 「僕が?」 「そう。なぜなら思ってたじゃない。彼らにちゃんと仲直りをしてほしいって。  そのお手伝いを辰宮百合香がしてくれるって言うんだから、ここは大人しく厚意に甘えとけよと思ったでしょ。  最初に柊四四八が断ったとき、ちょっと待ておまえって慌てたでしょ」  だから、僕が史実の時間を巻き戻し、再度選択の瞬間まで夢を操ったのだと彼女は言う。 「まるでゲームのセーブ&ロードみたいに」 「フラグ回収がしたかった? ねえ信明くん、あなたも充分こっち寄りよ」  勝手に物語の改変を望んだ。当事者たちの意向を無視し、見たいものを見せろと願った。  そう指摘されたら僕は言葉が出なくなり、反論が浮かんでこないことに気付く。  しかし緋衣さんは別に勝ち誇るでもなく、むしろ祝福するかのように僕の頬を優しく撫でた。 「おめでとう。これでようやく分かったでしょ、あなたは特別なんだって。  あの展開を望んだのは確かにあなただけじゃない。結局改変は出来なかったんだから、不完全だと言われればそれもそう。だけど、自覚のきっかけとしては充分でしょう?  夢を束ね、夢を操る。歴史に干渉できるほど強く、強く、ひたすらに……それが盧生よ。あなたが持っている資格。  これからもっと、その力は顕在化する。あなたはその都度、本当の自分に近づいていく。だから何度でも言うわよ、自信を持って。  信明くんこそ、私のヒーロー」  恐怖は――しかしそれ以上に彼女の言葉が、僕にとっては…… 「僕が、特別……」  これほど強く誰かに認められるということ。その裏付けが証明されつつある事実に、世良信明は奮える心を抑えられない。  彼女から授けられた祝福が、胸にがっちりと食い込んだのを僕はこのとき自覚した。 「……………」  目の前で繰り広げられた光景に、僕は絶句して顔を覆ってしまった。  知人の――ではないが、姿形はそれそっくりな人たちの濡れ場をいきなり見せられて、平常心を保てと言うのがそもそも無理な相談だろう。途轍もなく後ろめたい気持ちになってくる。  第一、この場にいるのは僕だけじゃなく、彼女も今のを見ていたわけで…… 「うーん。なんというか、お爺ちゃんたち意外に激しくお盛んだったね。  でもま、これで結果オーライな感じかな。仲直りセックスばんざいサイコー、的な」 「ちょ、ちょ、待ってくれ緋衣さんっ」  同い年の女の子が、素の調子でそんなことを言っているところなんか見たくない。普段の毒舌ならともかく、これは別の意味で問題だ。 「言葉を選ぼう。男の前でそういうことを言うもんじゃない」 「はあ?」  と、僕はかなりマトモなことを言ったつもりなのだけど、彼女は理解不能といった感じで露骨に首を傾げていた。 「変な信明くん。今さらこれくらいで何をあたふたしてるのよ。面白いね、そういうところ」 「私たちなんか、出会い頭にいきなりやっちゃったっていうのにさ」 「――――――」  それは一年以上前。僕と彼女が出会った日のこと。  言われてみればその通りで、確かに今さら貞節恥じらい云々言うのはズレているのかもしれないが、そういうのはまた違う話じゃないかと思う。 「あ、それとも、今のでエッチな気持ちになってきた? 男の子はそういうところ素直だもんね」 「そうか、どうしようかな。私的には気分じゃないけど、信明くんが望むなら態度次第で考えてもいいよ」  スカートの端を両手で持ってひらひら僕を挑発しながら、緋衣さんはにやっと笑う。  そして、実にクールな調子で言い放った。 「跪きなさい、犬」 「おねだりの仕方が気に入れば、好きにぺろぺろさせてあげるわよ」 「あのなッ」  彼女は何を言ってるんだ。そして、なんだこの展開は。 「ふざけないで説明してくれ。今、明らかにおかしなことが起こっただろ」 「3Pが?」 「だから、そうだけどそうじゃなくて……!」  正しくは、その少し前だ。仲間たちとの関係を取り持とうかと辰宮百合香が提案し、柊四四八は一度それを断った。  しかし、その後に異変が起きた。あれはなんだ? 「まるで、時間が巻き戻ったみたいに……結果、柊四四八の選択そのものが変わった」  史実を曲げたのだと理解している。そうして始まったあの濡れ場……あれはたぶん、本来有り得なかった歴史じゃないのか。  そう指摘する僕に対し、緋衣さんはまだからかい足りないのか微妙に不満そうだったが、やがて溜息を吐きつつ頷いた。 「そうね。今のは歴史の改変。  本来の道筋を無理矢理曲げて、イフを具現化させたのよ」 「どうして?」 「どうして?」  鸚鵡返しにきょとんとして、緋衣さんは僕を見る。そして華やかに笑い始めた。 「嘘でしょ、まだ分からないの信明くん。そんなの、あなたがやったに決まってるじゃない」 「なんだって?」  今のを? 僕が? それはいったいどういうことだ? 「彼らの仲を正常化させたいと思ったんでしょう? 仲間割れでぎくしゃくするのは見るに忍びないと感じたんでしょう? そして辰宮百合香の提案を断った彼を見たとき、あなたは思った。  頷けよ。そこは厚意に甘えとけ」 「……………」  言われ、否定できないことに僕はこのとき気がついた。 「つまりそういうことよ信明くん。望んだのはあなただけじゃないけれど、みんなの思いを束ねて力に変えたのはただ一人。  夢を操り、歴史を紡ぐ。盧生の資格を持つあなただけ。  ようやくこれで、少しは自覚してくれたかな。あなたは特別、特別なのよ」 「僕が、特別……?」  まるで祝福するように彼女はそう言う。そして実際、僕が望むまま異常な事態が展開したのは偽りないことだった。  しかし、こんな流れを生んでよかったのか? 確かに結果オーライなのかもしれないが、登場人物たちの人格すら無視したものだっただろう。  言ってしまえば、とても粗悪な二次創作。  おそらくは辰宮百合香による洗脳という、最低限の理屈は立っているものの、これが今後何を及ぼすのか掴みきれない。  だから戸惑う僕に対し、緋衣さんはそっとその身を寄せてきた。  僕の胸に額を当てて、優しく囁く。 「辰宮百合香は悪い女ね。みんなの仲直りが出来たといっても、それはどこか歪になったわ。  だから、何かが狂うことになるかもしれない。ううん、きっと狂うだろう。狂うはず。  そんな風に、思ってるでしょ?」  思っているのは僕だけか? 緋衣さんもか?  そして、これを見ている全員か? 「怖い? なら、しっかり信明くんが夢を紡いで。それが出来れば問題なんか何もない。  私のヒーロー、私の盧生…… 一緒に生きていきましょう」  そう、怖い。だがその恐怖は――しかしそれ以上に彼女の言葉が、僕にとっては…… 「僕が、盧生……」  これほど強く誰かに認められるということ。その裏付けが証明されつつある事実に、世良信明は奮える心を抑えられない。  彼女から授けられた祝福が、胸にがっちりと食い込んだのを僕はこのとき自覚した。  そして、これから一周目のクライマックスが幕を開ける。  今夜の夢における趣旨はそれだ。実質的な最終決戦である戦艦伊吹での戦いは、言わば柊四四八の負けイベントなのでクライマックス足り得ない。  現実にしろフィクションにしろ、最後が最高潮とは往々にしてならないものだ。むしろその一つ二つ前、そちらのほうに比重が寄ることは決して珍しくないだろう。  だから、これはそういう類。柊四四八を始めとする特科生たちは待機を命じられ、代わりに出撃した神祇省と辰宮がメインを張る五層の戦い。  その相手は? 愚問だろう。僕は確認の意味で彼女に問う。 「彼らは、逆十字――柊聖十郎と戦うんだな?」  現在の柊四四八では父に勝てない。その見立てがどれだけの精度だったかはもはや量ることも出来ないが、ともかくそういう理屈のもと辰宮百合香は決断した。  後の周回に訪れるであろう、彼女にとって救いとなる展開を予感したから、その未来を掴むために。 「ええ。だけどそれだけじゃないわ信明くん」  僕の問いに半分ずつの否定と肯定で答えると、緋衣さんは言葉を継いだ。 「鋼牙機甲獣化聯隊――キーラ・グルジェワもこの機を決して逃さない。  つまり四勢力による三つ巴。それがこの戦いを表す真実よ」  だから、さあ―――と彼女はいつものように僕を促し、夢の狭間を共に螺旋しながら潜行しようと手を伸ばした。  そのときだった。 「おい」  何か、途轍もない質量を持つ夢の波動が、この場に干渉してくるのを僕ら二人は感じていた。 「―――ッ、いけない!」  目に見えて慌てる緋衣さん。彼女がこれほどに取り乱すのは初めてで、この人でもこんな顔をするんだなと、場違いに僕は呑気なことを思ってしまう。 「手をッ――早く、信明くん!」 「何者か知らんが、見たいのなら堂々と見ろよ」  手が伸びる。緋衣さんが伸ばした手よりも速く、強く、そして底知れないほど強大な……それはまさしく魔王の掌。  まるで卵でも掴むように、僕の全身を握り込んだ男の手が、彼の待つ領域へと世良信明を引きずり込んでいく。  光速をも超える時間と因果律の単純踏破。僕と彼が存在している時代と世界の境界など、まったくもって意味を成さない。  ああ、そうか。これこそが…… 「――信明くゥゥゥんッ!」  引き千切られるように遠くなる緋衣さんの叫びと気配は消えていき、僕は今、単独で彼の前へと引き出されたのだ。 「特等席にお迎えしよう。〈何処〉《いずこ》の夢から訪れたお客人」  そして、一気に視界は開けた。 「―――――――」  弾ける輝きに目が眩む。それはごく普通の照明によるものだと即座に理解したものの、他の要素も存在することは明白だった。  なぜなら、〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈の〉《 、》〈重〉《 、》〈さ〉《 、》〈を〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。五体の存在感を認識できる。これまで僕は夢として、言わば精神体のようなものでしかなかったが、ここでは生身を得ていたのだ。  正確には違うのかもしれないが、極めて近いのは間違いない。ゆえに感じ取れる外界の情報も桁違いになっており、単なる照明でもあっても太陽を直視したような感覚に陥ったのだ。  それを成したのが誰なのかは、もはや言うまでもないだろう。 「ほう、これはこれは。誰かと思えば奇遇だな。  ともあれよく来た、歓迎しよう」  礼拝堂と思しき空間に、ただ一人立ってこちらを見ている軍装の偉丈夫。  顔立ちは端正と言って差し支えのないものだったが、そんなことはどうでもよくなるほどこの男は〈で〉《 、》〈か〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》。  まるで〈峨峨〉《がが》たる大連峰……人知の及ばぬ自然そのものを見ている気分だ。一見して神聖にすら感じるが、瞬き一つの表情変化で人類を根絶させ得る暴威の面も備えている。  怪物。あるいは神たる何かか。男を構成している夢と歴史の凄まじさ、到底筆舌に尽くせるものじゃない。僕はこいつを知っている。  これこそ盧生。最初にして最強の夢界攻略者。  光の魔王――甘粕正彦。 「ふむ、どうやら俺のことを知っているらしい。ならば自己紹介は不要だな。  掛けたまえよ、せっかくだ。しばし話を聞かせてくれ」  夢に潜って彼らの歴史を垣間見ていた僕らだったが、認識の甘さをここにきて痛感する。  僕らが彼らを見ているなら、彼らも僕らを見ることが出来るのだ。少なくとも、この男にはそれを可能とする力がある。  完成された盧生たる者、こんな程度は朝飯前だというのだろう。甘粕正彦にしてみれば、僕や緋衣さんのやっていることなど子供の戯れ遊びにすぎないのかもしれない。  その事実に戦慄し、逃げも隠れも出来ない状況に震えあがってはいるものの、しかし同時に湧きあがってくる一つの疑問を無視できなかった。 「あなたは、僕を知っている……?」  最初に、彼はそうとも取れるようなことを言った。その不思議が恐怖を半ば麻痺させて、僕の口を衝き動かす。 「どうして? いったい……いつからどのように僕のことを知っていたんだ?」  有り得るようで、有り得ないようで、理屈が立つようで、立たないようで。  もはや何がなんだか分からない。  僕はパニックになりかけているのを自覚する。 「落ち着けよ」  だが、そんなこちらを宥めるように、甘粕正彦は緩く笑って指を振った。  滲み出る彼の威圧感は依然として桁のおかしい域だったが、今のところ害意は持っていないと主張しているのが伝わる。 「安易に他者から答えを得ようとする癖があるなら、改めたほうが賢明だな。おまえ、俺が知らんと言ったらそれで納得するのかよ」 「同様に、俺が知っていると答え、説明しても、おまえはそれを信じるのか? そんなことはあるまい。依存の先に真実など転がってはいないからな。  そうだろう? 易きに流されるなよ少年、まずは己で立てる強さを持て」  魔王を自任する男に人の強さの何たるかを説かれる。それはある意味噴飯もので、呆れるような滑稽さがあったものの、内容自体は正しいと感じられるものだった。  ゆえに、余計シュールな印象を受けてしまう。流石に笑うことは出来なかったが、お陰でどうにか少しだけ、僕は落ち着くことができたらしい。 「……つまり、あなたは答える気がない?」 「そういうことだな。それより俺は掛けろと言ったが、嫌なのかね? まあそれはそれで構わんが」  言いつつ、甘粕正彦は無理強いしないと肩を竦めた。僕は僕で、タイミングを逸してしまったせいもある。  付け加えるなら、彼の前でだらけた態度は極力避けたい。座れば多少なりとも気が緩むので、それは怖いと感じていた。  話をしようと言った甘粕正彦。その真意はどうであれ、彼が放してくれない限り僕はきっと戻れない。だからここは、どうにかして場を乗り切る必要があったのだ。  粗暴な相手ではないと分かる。むしろ器の大きさはかなりのもの。よって嘘は言わないし、些細な怒りで僕を攻撃することもない。  だけど、この人物から失望されることだけは断固避けねばならなかった。彼の基準で人間失格の烙印を押されたら裁かれる。第一の盧生が揮う夢は、審判の概念を帯びた祈りなのだから。  もっとも、本当に恐ろしいのは過剰に気に入られてしまった場合。そのとき僕は、文字通り悪魔的な試練を課されることになるだろう。  要するに極端だ。極論をもって人を愛するこの魔王と対峙するなら、どちら側に振り切れてもいけない。あくまで真ん中を貫くことが重要だと考える。  流れ落ちる冷や汗と、早鐘のような心臓を忘れることは出来なかったが、ともかく僕はようやくにして腹を括った。  傍から見れば馬鹿馬鹿しいほどの存在差。こちらの目的も、上手く逃げ切るという情けないものだったけど、これは僕と彼の勝負だろう。  なんとか無事にやり過ごし、再び緋衣さんと合流しないといけない。  引き離されたあのとき、彼女らしからぬ悲痛な様子で叫んでいたのが痛いんだよ。僕はあの子を放ってなんかおけないから。 「いい目だ。事情は知らんが、どうして俺好みの益荒男らしくなってきたではないか。  それで、ならばどうしようかな。無理矢理お越しいただいたのに恐縮だが、実のところ何も考えていないのだよ。  いったい俺は、おまえと何を話せばよいと思う?」 「……、なに?」  こいつは、今なんと言った?  いきなり拉致同然にこんな所へ引っ張り込んでおきながら、どうするかまったく考えていなかっただと?  僕はこれでも、僕なりに勇気を振り絞って決意を固め、この状況に対抗しようと気力を総動員したというのに。  当の加害者である甘粕正彦は、勝手にどうしたものかと困っている。ふざけているとか舐めているとか、そういう次元の問題じゃない。  この男、単純にとんでもない馬鹿じゃないのか。 「そう怒るな。性分でな。面白そうなものには生来目がないのだよ。  ふと気付いた。だから捕らえた。他にたいした意味はない。吟味はしている最中だ。  見たところ、俺が知るどの陣営にも関わりはないようだが……」  おまえは何者か、どういう立場かと言外に問うている。それに対し、僕が答えられることは決まっていた。 「盧生だと、そう聞いている」 「ほう、おまえは盧生なのか?」 「分からないのか?」  この男に嘘をついてはいけない。俯瞰的に見た場合の真偽がどうであれ、僕が認識している本当のことを話す必要があると思ったから言ったのだが、甘粕正彦は予想外に曖昧な態度だった。  世良信明は盧生である――その真実を確かめるのにこれほど適した相手はいないと期待していた面もあったのに、これでは完全な肩透かしだ。 「分からんのかと? ああ分からんな。八層を越えてアラヤを掴んだ者であれば別だがね。  途上にある盧生の成り掛けでは、一見したところそこらの眷族と見分けもつかん。そもそも、判断するに例というものが少なすぎる。  邯鄲の全工程を修了した盧生は、現状ただ俺一人。成り掛けも他に一人しか知らんのだ。この程度の見識で、いったい何を見極めろと言う。  が、俺の把握していない盧生、ないし成り掛けがいるのはどうやら間違いないらしいな。知っていると思うが、〈邯鄲〉《ここ》には盧生本人かそれに繋がった者でしか入り込めん」 「俺におまえを繋いだ覚えはない。そして、セージの息子と繋がっているわけでもないだろう。であれば、そういうことになる」  よって、と甘粕正彦は一拍置き、自らの感想を次に纏めた。 「おまえが自分を盧生と言うなら、なるほどそれらしく見ることも出来る。俺から言えるのはそんなところだ」  おまえがそう思うならそうなのじゃないか。結局のところ彼の意見はそういうもので、判断は丸投げされたに等しかった。 「僕が言うなら……か」  なんだか最近、その手の考えを突きつけられることが多い気がする。始めの会話にしてもそう、他者から答えを得ようとするな。易きに流れてはいけない。依存の先に真実はないのだから、と。  結局周りがどう言おうと、最終的な判断は自分自身で下すしかない。要するにそういうことで、一つの真理的なものだろうとは思う。  なら僕は、それが出来ているのだろうか。信じると言えば聞こえはいいが、緋衣さんに依存しているだけじゃないのか。  まず何よりも信じるべきは、僕が僕自身に対して誓う誇りのはずで、その思いこそが世良信明の核でなければいけない。  だったら答えは、僕にとって一つしかなく…… 「興味深いな。俺の知らん自称盧生よ。  聞いたとおまえは言っていたが、さて、その人物についても幾つか答えてもらいたい。  なに、時間はあるのだ。ゆっくりしていけ」  と、思考はそこで中断され、いよいよ腰を据えなければいけないのかと心身ともに身構えたときだった。 「いったい何を騒いでいる」 「――――――」  この場に、もう一人の脅威が現れた。  ごく単純な格としては、甘粕正彦より数枚落ちる相手と知っている。だがその気性、属性、凶源としての禍々しさは断固群を抜いていた。  当たり前な意味で危険な存在。現実で僕が知っている人物とは顔も名前も同じだが、内面はおぞましいほど異なっている。  柊聖十郎、逆さ十字……僕と緋衣さんにとってはある種の理想で、それだけにもっとも恐ろしく感じる者こそ彼だったから。  そう、だったからこそ―― 「誰かいたのか? なにやら話をしていたようだが」 「いや、なに〈独〉《 、》〈り〉《 、》〈言〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。たいしたことではないさセージ」 「……?」  このとき、僕は呆気に取られた。誇張ではなく死すら覚悟しかけたのに、事態は何ら波風を立てないまま進んでいく。  柊聖十郎には、僕のことが見えていない? 曰く面白そうだからという理由でこの場に引きずり出され、夢界における生身を得ている僕のことを?  困惑するこちらを他所に、甘粕正彦は話し続ける。一瞬、僕に向けて片目を瞑った仕草がひどく印象的だった。  邪魔は入れさせない。俺とおまえの話は終わっていない。ゆえにしばらく待っていろ。  そういう意思が伝わってくる。つまり今、僕は彼のお陰で柊聖十郎の認識から外されているということなのか。 「おまえは今から出向くのかね? 結局五層で獲ると決めたようだが、百合香に気付かれてしまったらしい。肝心の息子は、後方に下げられているようだぞ。  かといって、直接あの館を襲うというのもまた難儀だ。傾城の令嬢が健在な限り、そうそう破れるものではあるまい。  特に、おまえの夢は対人特化の系統だからな。城攻めは不向きだろう。場や砦に込められた念そのものは、柊聖十郎に何の感情も抱きはせん」 「委細承知」  彼が誇る玻璃爛宮は、己に向けられた悪感情が引き金となる。よって心のないオート防御のようなものには効果がなかった。自身、そこは言われるまでもなく分かっているらしい。 「面倒だが、順序を踏めばいいだけだ。売女を殺し、神祇を殺し、鋼牙を殺して盧生を奪う。奴ら全員、俺に抗える手合いではない」 「貴様のような、か? そうだな。俺くらいの者でなければ逆さ十字は破れまいよ。あるいは、芯から人外でなければな。  これは純粋な興味なのだがセージ、おまえは、なぜ己の夢が俺に通じんのか分かっているのか?」 「無論だ」  吐き捨てるかのごとく、心の底から憎々しげに柊聖十郎は断言した。 「貴様は俺を脅威と見ていない。それがすべてだ」 「どうとでもなると思っているのだろう。そしてその根源には、盧生としての絶対的優位が据わっている。ゆえに俺を恐れも憎みもしないのだ。  忌々しい。許し難い。今ある貴様の優位など、単に盧生であるという事実に胡坐をかいた砂上の楼閣にすぎぬと知るがいい。  よって、俺が盧生となった暁に貴様は死ぬ。立場が同じとなれば余裕は微塵も抱けまい。  いいや、断じてこの俺が抱かせん」 「くっく、いやいや、参ったなこれは……」  地獄の怨念を凝縮したような目で睨まれ、あまつさえおまえを殺すとさえ言われているのに、甘粕正彦は笑っていた。だからおまえが愛しいのだと言うかのように。 「立場が同じ、同じ、同じか……いやはや、そこまで分かっているのにこれほどずれてしまうとは」 「セージ、俺はな。初めて会ったあのときから、盧生となったこの今まで、一貫しておまえを対等だと思っているよ。立場がどうのと言うのなら、そこはずっと不変のままだ。  己に向けられる他者の悪感情を嗅ぎ分けて、それを糧とするべく吊り上げていく逆さの磔……そこから外れる条件とは何のこともない。おまえを掛け値なしの友と見ているからに決まっておろうが。  悪感情などという、無駄に曖昧で大きな概念を定義するから履き違えるのだ。要はおまえを、対等の人間と見ているか否か。病身だろうと鬼畜だろうと、我も人なら彼も人なりと認めているからこそ見下さない」 「逆さ、逆の十字架顕象。生贄として吊るし上げた者たちにでさえ、おまえは〈頭〉《こうべ》を上方へ置かせない。それすなわち、我を見下すなという祈りがこもっているからに他ならん。  なあおい、どうしておまえはこの程度のことが分からんのだよ」  嘆かわしい、と結ぶ彼の言葉に、僕もまた感銘を受けながら同意していた。  柊聖十郎が背負った病魔に比べれば、遥かに甘いものではあるけれど、僕もまた病が身近な人間だから。  どんな痛みと恐怖に苛まれても……なお一番つらいのはただ視線だ。おまえは劣っているなという見下しの目。あれこそが、闘病する者にとってもっとも手強い敵となる。  だからこそ、〈死病〉《ヤミ》の魂である逆さ十字はその視線を許さない。生きるために皆殺し、糧として踏み台にすると決めたはずだ。  にも関わらず彼が本質を掴めないのは、言ってしまえば被害妄想。自分を対等に見る者などいるはずがないと決め付けて、甘粕正彦に勝利できない理由を把握できない。  それも分からないほど、彼は病み狂っているのだろう。異常とも言える独尊は大方生来のものだろうが、幾分かはそうしたことへの裏返しがあるのかもしれない。  少なくとも、僕はそのように感じていた。 「ほざけよ。貴様の戯言など俺には何の意味も持たん」  ゆえに、柊聖十郎は変わらない。友の忠告さえ妄言の類と切り捨てる。 「対等? 抜かすな盗人が。もとより邯鄲は俺のものだ。その成果を掠め取った貴様には、万死以外の運命などない。  俺を懐柔したいのなら、もういくらかマシな理屈を捏ねることだな。あるいは――」  聖堂を去って行きつつ、逆さ十字は傲岸不遜に言い放った。 「今すぐ俺を殺してみろ。後々怖いから芽を摘もうと、屑は屑らしい卑小さを満天下に曝け出してな」 「くく、くくはは、はははははは……」  そうして、闇に消えていく彼の背へ、甘粕正彦は喝采を浴びせる。 「せんよ。せんとも。俺は卑小な男だがな、友の真なる戦いを妨害するほど恥知らずではない。  ああ、だからこそ――」  言って、指を鳴らす第一の盧生。すると同時に、彼の足元から影がぞろりと立ち上がった。 「これでは舞台がつまらない。我が親友に相応しくない。  ゆえにだ、〈影〉《おれ》よ――おまえがどうにかするがいい」 「仰せのままに、我が主」  それは幾億もの羽虫が乱れる渦のような、肥溜めの腐臭に群がる黒い蛆虫めいた影。  どうしてか、僕は、その存在を目にしたとき、曰く言い難い悪寒を覚えて。 「少しの間、君に主のお相手を任せよう。  あの通り、なんとも面倒な人だからとても苦労するとは思うがね。   まあ頑張って。強くならなきゃ駄目だよ君ぃ……うふふ、ひぃっひっひっひ、ひゃはははははははは――」  こいつは僕が見えていたのか、そして僕のことを知っていたのか。  衝撃に立ち尽くすこちらを置き去り、黒い蝿声は柊聖十郎を追ってこの場から消えていた。 「さて、それでは話の続きだ」  よって今、僕は再びこの男と二人きりになって残される。 「言った通り時間はあるのだ。まずはゆっくり、此度の戦を観覧しよう。  その後に問わせてくれ。おまえの勇気、信じる夢をな」  試練はまだ終わらない。一周目のクライマックスと並行して、世良信明の真なる〈覚悟〉《マコト》が魔王の愛に試される。  それをクリアしない限り、僕は死んでもここから出られない。 「しかしまあこりゃ、なんともたいぎぃ茶番じゃのォ」  そうした観客の存在に気付いているのかいないのか、盧生と自称盧生の目が注がれている戦場で、壇狩摩は甚だ面倒そうにぼやいていた。  彼の不敵さ、その笑みだけは如何なるときも変わらない。己の勝利を自然現象であるかのように受け止めているため、精神的に追い込まれるという事態とは生涯無縁の男だった。  そこは今も不変のまま。これまでも、これからも、彼に真なる敗北を味わわせる者はいないだろうと予想できる。  が、しかしだ。 「アホらしいでよ。本音を言やあ、さっさと首でも吊りたいわい」  今、壇狩摩は、紛れもない窮地にあった。本人が白けた軽口を叩いているだけであり、傍目には劣勢そのもの。死路に立たされていると言っていい。  その理由は単純明快。如何ともし難い相性の悪さ、それに尽きる。  空間全体に爆撃じみた咆哮を叩きつけ、猛進してくる鋼の女王を止められない。狩摩が放った咒法、創界――迎撃の矢と壁の悉くが、キーラに片っ端から破られるのだ。ごく真っ当な出力という面において、鋼牙の突破力が神祇省の守りを優越している。  よって、ここは彼にとっての死路だった。五層の決戦場となったこの八幡宮で、狩摩が保てている己の領域はもはやほとんど残っていない。  切り裂かれ、咬み破られ、踏み躙られながら四散していく。聯隊規模の銃火が織り成す鉄量に、対抗できる術がない。  そう、術がないのだ。  なぜなら狩摩の夢は、〈馬〉《 、》〈鹿〉《 、》〈を〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈類〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  まず人間並みの理性があり、そのうえでそこそこ賢いと評価できる知性を持った者であること。それが条件としての前提なため、野獣のような勘と本能だけで暴威を振り回す輩はハナから専門外である。  盲打ちの真骨頂は、意図の読めない一手の連続。そこに幻惑されてくれなければ、そもそも勝負が成立しない。  知らん死ねよと殴られれば、そのまま吹っ飛ばされてしまうだけだ。  ゆえに劣勢。こんなことなら、まだ龍神を相手取るほうがこの男にとってはマシである。  なぜなら天地自然はとても素直だ。こうと決められている型があるし、それが存在へ及ぼす因果の深さは知的生物の比ではない。  まだ完璧な獣であれば自然寄りとして対処することも出来ようが、しかし目の前に迫る脅威は人獣――  人混じり、鋼混じり、言わば人造の荒神である。そのため甚だ世の理から逸脱しており、神祇に伝わる千四百年の法を無視する。  維新、新世紀、産業革命――そうした時代に生まれた鬼子だ。こうしたモノが発生したのはつい最近であるために、歴史の厚みが意味を成さない。 「やれんのォ……どれ、破段顕象」  なんともやる気の見えない口調で、狩摩は己の夢を紡ぐ。 「〈中台八葉種子法曼荼羅〉《ちゅうだいはちようしゅじほうまんだら》」  瞬間、迫る獣化聯隊の陣形が寸断され、それぞればらばらの位置に飛ばされた。まるで盤上遊戯であるかのように、配置を勝手に弄ってしまう。  それは集団戦において、非常に有効な技と言えよう。前衛を後衛に、後衛を前衛に、その他あらゆる適材適所という概念を乱しまくる。  陣形とは、生物に喩えるなら身体設計そのものだ。目鼻の位置が変わったり、手足を逆に挿げ替えられてはまともな直立歩行すら覚束ない。  まさに創界を極めた狩摩ならでは、場というものに強い支配権を有する彼の特性が顕れている。  加えて言うならこれは破段だ。使っているのは創界一本だけではない。 「ぬッ、が――おのれ貴様、面妖な真似をッ」  キーラが座していた白銀の戦車、それを牽いていた黒狼が突如あらぬ方向に駆け出し始めた。陣形そのものだけではなく、対象の感覚器官すら弄っている。  咒法によって、己が設定した五感情報を直接叩き込んでいるのだろう。散との組み合わせで効果は創界の領域すべてに及び、かつ射を重ねることで感覚のベクトルを曲げている。  つまり今のキーラたちは、前進しているつもりであっても右や左や後ろにずれる。音も匂いも、あらぬ方向へと乱反射している状態だろう。  しかし――― 「それがどうしたァッ!」  やはり、馬鹿には効きが悪い。たとえ感覚が混乱しようと、それに慌てる理性と知性が薄いのだ。殺戮欲求という本能を〈縁〉《よすが》として、獲物の位置を嗅ぎ分けている。  だから、これは手詰まりだった。せいぜいが多少の時間稼ぎにしかなっていない。  相性は最悪。破段がたいした意味を成さず、急段にはそもそも最初から嵌ってくれない。本来なら、このような相手とは正面から向き合わないのが狩摩である。 「ま、しゃあないの。一度や二度はこんとなノリもよかろうて」  にも関わらず、嘯く台詞は浮薄そのもの。  余人であればただの負け惜しみにしか見えないだろうし、彼も現状の続行が死に直結していることは自覚している。  だが、それすら是と笑うのが壇狩摩だ。早い話、この男は分の悪い勝負すら面白がっている。  らしいとからしくないとか、そういうことはどうでもいいのだ。要はその場の気分であり、ちょっと惨たらしく潰されてみるのも一興かと、そんな判断を下しただけ。  堪らないのは、こんな主に付き合わされる鬼面衆のほうだろう。彼らは個々に奮戦しているし、それぞれが得意分野を極めた域の〈兵〉《つわもの》だが、本質的には暗殺者だ。  圧倒的に物量で上回る敵を相手に、真っ向から引っ繰り返すような芸は持たない。  そして、鬼面の呪縛が駒の属性を顕在化させている以上、謀反も逃走も不可能どころか愚痴の一つも零せなかった。  俯瞰で見れば一種滑稽。狩摩が始めに言った通り、茶番とすら言える戦線だろう。  しかし、それもまたしょうがないのだ。なぜならこれは夢であり、曰く予行演習にすぎないもの。そこにクソ真面目な覇気をもって臨むなど、阿呆のやることだと狩摩は今も思っている。  まあ、そうした阿呆に付き合っている時点で、自分も充分同類なのかもしれないが。  ばん、と大地を踏み鳴らし、見得を切るように諸手を掲げて彼は叫ぶ。 「のォ、見た通りこっちはこういう様なんじゃ。そろそろ勘弁してくれや。  あんたに惚れちょる男の頼みじゃ。助けてくれェよ、なあ、お嬢ォ!」  そのとき、迫る鋼の津波が十戒さながらに断ち割られた。 「やれやれ……もう降参ですか。少しは男気を見せてください、狩摩殿。  早々に女へ助けを求めるなど、あなたは恥ずかしくないのですか?」  轟雷のごとき鉄火の調べを掻き消すように、楚々と現れた令嬢の歩みが石畳を伝っていく。たったそれだけ、歩いただけで、意思なき地面すらもが愛撫に歓喜し、熱く脈打っているかのようだった。  血と砲煙に満ちた戦場の臭気すら、芳しき百合の香へと染まっていく。その変質を思い切りに吸い込んで、しかしまったく変わった様子もなく狩摩は呵々と大笑した。 「そう言われてものう、滅多と見られん辰宮百合香の出陣じゃ、早ォ見たいっちゅうのも人情じゃろうが。  ええの、ええでよ。今夜のあんたは最高じゃわい。何処へなりとも付き合っちゃろう。  好いた惚れたに〈命〉《タマ》ァ懸けて、晴れ舞台になるんは女だけの特権じゃわい。 うわはははははははははははは――――!」  言いつつ、一人で勝手に盛りあがる。さっきまでの倦んだ態度は何処へやら、己は美姫を飾る道化たらんと、芯から喜んでいる狩摩だった。 「まったく、あなたはいつもそうやって…… 甚だ信用が置けませんね。盲打ち殿に情の何たるかが分かっているとは、到底のこと思えませんよ。  まあもっとも、そこはわたくしとて同じなのかもしれませんが」  そして、今宵彼女を彩るのは彼だけに非ず。辰宮百合香の傍らには、常に姫を守る騎士がいるのだ。 「払いなさい宗冬。あれの駆逐を命じます」 「御意に、お嬢様――」  一陣の風となり、割れた鋼牙の陣中に飛び込んだのは漆黒の猟犬だった。そのまま彼を中心に、あらゆるものが逸れていく。 「上意だ、鋼牙――貴様はここで消えるがいい。  鋼であろうと何だろうと、等しく俺の前では紙風船と変わらない。その牙、我が主には届かせん」  先の現象は彼の手によるものだった。己に接近するすべてのものを、薄紙同然の質量へと転じさせる異質の破段。直接的な攻撃力を有しているわけではないものの、敵にとっては凶悪極まりない夢だろう。  なぜならそれは、特にキーラや鋼牙兵のような者らに対して有効だからだ。  物量、力、単純にそうしたものを頼みとしている輩ほど、幽雫宗冬は鬼門である。得手を根本から崩されて、瓦解した足場の上では立ちあがることさえままならない。 「そうか、貴様か。面白いぞ借りを返そう――」  ゆえに戦況は、一転キーラたちの不利となる―― とは、簡単にいかない現実が存在した。  女王がその身に纏った夢は、確かに単純な暴力だ。現に今このときも、宗冬の破段に侵食されてあらゆる質量が低下している。 「うううゥゥゥッ、らああァッ!」  しかし、だからどうしたという。キーラは己が身に起こったことを理解しつつも、なお一切構っていない。  それは二周目以降、宗冬と主に対峙した彼もやったことである。  すなわち、どれだけ軽くされようとさらに重くなればいい。  要は綱引き、力比べだ。宗冬の破段が如何に対物理の理想であろうと、究極ということは有り得ない。完璧などという概念は、人間が体現できるものじゃないのだ。必ず限界が存在する。  その点、キーラが有する馬力のほどは人の規格を超越していた。如何に相性が悪かろうとも、容易く劣勢に落ちたりしない。  先の会談で、一度体験した力でもある。百合香を圧殺しようとしたキーラに対し、それを防いだ夢こそこの破段だ。  知っている。分かっている。だから驚きはなく〈暴威〉《ユメ》も不動。  揺れる要素がないのであれば、鋼の魔獣は絶対だ。真っ向打ち合って崩すのは、彼女を上回る暴力でしか成立しない。  化生を嵌める罠として、宗冬の破段ではまだ力不足。有効ではあるものの、特効とは言い難い。  よって、減じ切れない破壊の余波が周囲に飛んだ。鋼牙の獣化聯隊が、軽化の夢を掻い潜って百合香と狩摩に殺到する。 「下がりなさい」  だからこそ、ここで彼女の出陣が意味を持った。命じるかのごとく、だが甘い睦言のように囁かれた一声で、鋼の兵たちは〈砕〉《 、》〈け〉《 、》〈散〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  内圧と外圧、いいやそれとも右と左、両方向からの引き合いに耐え切れず、さながら自壊してしまったように。 「ひょぉォ、やるのうお嬢――人獣どもの絆さえも潰しよるか。  怖い怖い、魔性じゃのう。どっちつかずにふらふらしよる女の敵は死ねェ言うか。 まあ、気の多い男なんぞは生きちょる価値もないけえのう」  キーラに対する忠誠心と、百合香に対する忠誠心。その鬩ぎ合いが引き起こした結果である。後者は完全な後付けだが、文字通り〈城〉《くに》すら〈傾〉《こわ》す妖婦の色香はそれほど強い。  ゆえに彼らは破滅する。古今、色に狂って男を立てた者など存在しない。そうした歴史をなぞるように。 「大方予想はしていましたが、まあこうなるのが順当でしょうね。  であれば、もういくらか直接的にいきましょうか」  今このときも自壊し続ける鋼牙兵らに百合香は一歩進み出て、頭を撫でるように優しく告げた。 「自害しなさい」  それが及ぼした効果のほどは、先に輪をかけて激烈なものとなる。  まず、弾け飛ぶ者の数が四倍以上跳ねあがった。下がれという最初の命は百合香に向かう者にしか作用しないが、これは彼女の夢が届く全範囲の敵に叩き込まれる。  加えて、死ねという命令が持つ当たり前の単純さと不条理さだ。より直言したことで強制力は増大され、さらに拒否反応も比較にならない。  結果、及ぼす混乱のほどは桁が違うものとなる。距離的な問題で自害を踏み止まった者たちも、その大半が精神に異常をきたした。無謬の連携を誇るはずの鋼牙兵らが、発狂して同士討ちすら始めている。  こうなればキーラにとって、もはや数の優位は頼みにならない。むしろ逆効果とさえ言えるだろう。 「さあこれで、戦況は五分以上というところでしょう。後はあなた方の頑張り次第。 ご希望通り助けましたので、男を見せてください狩摩殿」 「おうおう、しっかしよいよえげつないわい、あんたの夢は」  百合香は急段を使えない。練度的には可能な域に達しているが、他者を条件に嵌めるという思考がそもそも彼女にないからである。  なぜなら条件付けとは、要するに分ける行為だ。人種の多様性を肯定しているからこそ出来ることだと言っていい。  しかし百合香にとって、基本他者とは画一的なものだった。どだいすべては、自分が一つ微笑むだけで終わってしまうとしか思っていない。  その認識に対する厭世観と諦観、絶望……それらが核となっている夢だからこそ、急段の協力強制が前提として破綻している。  中には違う者もいるようだと思い始めてはいるものの、長年かけて凝り固まった人生観が一瞬で変転するなら誰も苦労はしないだろう。だから百合香は、三つ夢を重ねた破段という特異なスタイルで完結している。  そしてそれは、急段が使えないから弱いという答えにならない。現状を見れば瞭然なことだろう。  広範囲に香気を振り撒く咒法。  対象の精神を破壊し、上書いていく解法。  それらの効果を空間という領域に固めてしまう創法。  高密度に複合が成された傾城の支配力は絶大だ。発動に条件が存在しないということは、裏を返せば誰にでも通じることを意味している。  実際、百合香の破段はほぼ日常的に垂れ流しているようなものだった。意図して効果を強めたり特定の対象を狙うことはもちろん出来るが、ゼロに抑えることが出来ずにいる。鞘という概念を知らないのだ。  なぜなら彼女にとって、これは当たり前のことだから。単に手足を動かして、息をしているレベルの事象と認識的に変わらない。  であれば、使う使わないという選択自体が令嬢にないのも当然だろう。彼女にとって他者とは儚く、残念な者。盛大な勘違いではあるものの、だからこそ顕象される夢は深い。  自閉の百合籠は奇特な王子様に破壊されるまで不変となる。 「あなたもですよ宗冬。命を懸けてわたくしの期待に応えなさい。  どうせおまえにはそれしか出来ない……いいえ、それすら満足には出来ないのだから」  哀れに、そして情けなく、案山子のように獅子奮迅するがいい。  そうした命に応えるかのごとく、彼女の従者はより一層軽化の夢を深めていく。主人が己に向ける言葉以外、あらゆるものに価値を認めないと言うかのように。  傍目からすればまさに〈傀儡〉《かいらい》。意思なき木偶も同然である。だがこの男は、望んで自らそうなった。それしか愛に報いる術を知らずにいる。  そして主従双方とも、互いのずれを是としていた。  百合香は宗冬の内情を〈忖度〉《そんたく》できず、宗冬は百合香の内情を知ったうえで歪んだ忠義を抱くしか出来ない。  してみれば、なるほどよく似た二人と言えよう。共に世界観が浮遊して、ゆえに徹底的なすれ違いを起こしている。衝突するには重さというものが必要で、それがないならぶつかる以前に逸らし合ってしまうだけだ。  一瞬触れたと思っても、芯にはまるで届かない。  だからこそ今、鋼牙の鉄量と向かい合っても辰宮の主従は優雅でいられる。  滑稽なほど、切なくなるほど。  そうした二人を、おそらく唯一この場で正確に把握している〈狩摩〉《もの》はといえば、変わらず面白がっているだけだった。  ただの痴話喧嘩なら犬も食わんが、こうまでずれているなら見世物として悪くない。その悪趣味を歌舞伎のように楽しみながら見物していた。  傾城反魂香――愚かな恋に破滅していく男女の悲喜劇は金になるのだ。古今東西それは証明されていること、愉快に思って何が悪いと。  事実として彼もまた、この演目を観るために〈命〉《カネ》を払っているのだから。 「――――ぎッ、があッ」  妖婦の魔力は人獣にさえ通用する。キーラの両腕があらぬ方向へ反り返り、それを押さえ込もうとする意志との鬩ぎ合いで肩部の筋肉が破裂を起こした。  死ねと命令された範囲と対象には彼女も当然入っているのだ、ゆえにこの程度ですんだことこそ驚異的と言うべきだろう。  曰く、馬鹿に効きが悪いのは狩摩の夢だけではない。精神の破壊や攪乱を主とする百合香の夢も、対象に一定の知性を要求する。  ただの獣を躾けるだけならそれはそれで単純だろうが、混じりものであるがゆえにキーラは致命の支配から紙一重で外れていた。  が、それは文字通り瀬戸際の抵抗にすぎない。行動に多大な枷を掛けられたのが事実である以上、当たり前に戦力は低下を起こす。  ゆえに今、宗冬の破段に抗う力も同様に落ちていた。渾身こめて振り下ろしたはずの一撃が、綿毛でも払うかのように逸らされる。そして返しの刃に抉られる。  すべて、獣を狩る際の常識と言えるだろう。勘と身体性能において遥か人間を優越しているモノを討つなら、まずもってその自由を許してはならない。  罠に嵌め、檻に封じ、爪牙を折って追い詰める。  得意分野の使用を互いに許し、その競い合いで勝敗を問うたりしない。  そうしたものは同じ理想を抱いた人間同士が、譲れぬものを懸けて争うときのみ成立する現象だ。合理性などは度外視した、ある意味壊れた思想だろう。  だからこそ、美しいとも言える愚かさ。鋼牙機甲獣化聯隊という敵に対し、その手の美感を掲げる必要はまったくもって存在しない。  なぜならキーラ本人に、ヒト科特有の美質と付き合う気持ちがないからだ。歪んだ化生としてのアイデンティティがすべてであり、ゆえに人外として対処されるしそう扱われることを望んでいる。  結果がこれだ。実にこのとき、彼女の自由を奪っている枷を列挙すれば明白だろう。  狩摩の破段による感覚器官の混乱。  宗冬の破段による攻防力の低下。  百合香の破段による精神の反転。  これだけの縛に絡め取られ、曲がりなりにもまだ戦えるだけで充分おかしい。さらに加えて言うならば、鬼面衆の働きもそこに上乗せされているのだ。  怪士の破段は老化を起こし、頼みの身体性能が鈍磨する。  泥眼の破段は読心を成し、獣の連携術を察知して。  夜叉の破段が百合香によって減じた物量差を引っ繰り返しに掛かっている。  ゆえに窮地だ。未だ頭数ではキーラのほうが上とはいえ、質の多彩さという面では圧倒的に劣っている。  このままでは、遠からず鋼の牙が折られてしまう。それは当人も分かっており、ならばどうするかは彼女にとって自明だった。 「―――来い」  低く、静かにキーラは命じる。百合香の精神支配にも勝る域で、その一言は女王の兵らに津波のような伝播を起こした。  そう、ばらけているから付け込まれるのだ。それでは薄い、絆が浅い。  もと通りに、あるがまま、個として凝縮すればよい。  人獣を超え、魔獣を超え、鋼と狂気で編まれた超獣へと―― 「来ォい―――!」  再び、今度は爆雷に等しい咆哮として女王の命が轟いた。  絶対の、不可侵の、何者にも立ち入らせない鋼牙の主従にある絆。  当たり前だ、なぜなら〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈で〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》〈命〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  もとの姿へと回帰を果たせば、売女の淫臭などに惑わされることはない。 「――――――」  その異常を最初に感じ取ったのは、最前線で直接キーラと切り結んでいた宗冬だった。まるで巨大な渦のように、鋼牙の首領へ事象が収束していく引力を感じる。  事実、敵の重さが変わっているのだ。急激に――それでも緩慢なのかもしれないが、とにかく凶兆が起こっている。  部下の思いを、夢を背負っているから重いといった抽象的なものではない。確かにそうした概念もこの世界では力を持つし、先ほどまではそうだった。  しかし、今度のこれは明らかに違う。  より直接的で、単純かつ物理的な重さが異なる。外見だけはそのままに、鉄が金になろうとしていた。 「ぐッ――、貴様」  受け止めた攻撃の威力が十倍はでかくなっている。  それが瞬きの後には十五倍。二十、三十、四十、五十――  百を超えた瞬間、宗冬の破段が軋み始めた。いったいどれほど上がるというのか、もはや個という枠に収まらないほど膨れあがっていく暴力は、さながら神話の怪物めいて…… 「教えてやろう、三千倍だ」  荒唐無稽な数字が告げられた瞬間に、戯画的なまでの破壊力が顕現した。 「がッ、ぐおおおおォォッ―――!」  横殴りに放たれた巨腕の一撃は、音速で飛来する山の塊に等しかった。以前の会談で弾き返したものとはもはや違う。  偽装をかなぐり捨てた正真の、実体としての物理力だ。現状のこれを山とするなら、隠していたときの威力は霞にすぎない。  結果発生した衝撃は、宗冬の処理能力を超えていた。即死を防いだだけでも瞠目に値する手並みと言えるが、木っ端のように吹き飛ぶ彼には何の慰めにもならないだろう。  現実問題、この超獣を止める術が居合わす誰にも存在しない。 「見たな、知ったな。であれば死ね――貴様らごときが目にすることは、本来許されん〈姿〉《ユメ》なのだから。  醜いだろう? おぞましいだろう? これが私だ。  私の〈真実〉《マコト》だ、焼き付けろ!」  自らの姿を誇っているのか、厭うているのか。  見てほしいのか、隠したいのか。  混じりすぎたキーラの思考は今も斑に錯綜している。きっと本人にも分かっていない。  確かなことは、ここに顕れたその異形だ。鋼牙の兵たちは一人残らず、主たる女王と融合している。  現状、見えているのは翼のように彼女の背から展開している一対の巨腕のみだが、そこから予測できる総体規模は全長五十メートルを越すだろう。  大巨人、超獣の顕象、これこそがキーラ・グルジェワ。  その殺意が、ここまでもっとも彼女の神経を逆撫でした者へと向けられる。 「潰れてしまえよ、売女」  すなわち、それは辰宮百合香。女王の兵たちを無様に惑わせ、数多く殺戮した罪は許し難い。審議の余地なく、万死に値する咎だろう。 「以前、私は貴様を死人と言ったが、訂正しよう。ああ、誤解するなよ。褒めているのではない。そちらのほうがマシだったと言っている。  ただ死んでいるだけなら無害と見てやらんこともなかったが、躯を苗床に毒花を咲かせるとなれば捨て置けん」 「たまにいるのだよ、貴様のような存在するだけで迷惑しか及ぼさん輩がな。  それは死人と言うよりも――」  巨腕に凄まじい力が漲る。地響きにも似た震動は必殺を前にした強張りであり、解放の爆発に向けて高まる鬼気は大噴火の瞬間を思わせた。 「ハナから生まれるべきではなかった屑と言う」  そして今、本日最大の出力で巨人の鉄槌が落とされた。 「うぉぅ、こりゃいかん!」  狙いは百合香一点だが、巨大すぎる拳撃ゆえに当たり判定も当然でかい。巻き込まれては御免とばかりに、狩摩は一目散の退避を決めた。まったく同盟者を庇ってやろうという気概が見えない。  百合香もまた、そんなことはまったく気にしていなかった。迫る巨腕に怖じもせず、ただ不動のまま相対している。 「わたくしが生まれるべきではなかったと……なるほど確かにそうなのかもしれません。実際思ったこともよくありますよ」  悠然と、だが決然と、語るこのときも傾城の香気は放たれていた。自害せよ、圧壊せよ、おまえが討つべきものはそこじゃない。  その効果は今も確実に顕れている。巨腕を構成する〈鋼牙〉《さいぼう》の一つ一つが弾け飛んでいるものの、しかし全体の動きを止めることは出来なかった。あまりに質量が膨大すぎて、潰しが到底追いつかない。  つまり返しは不可能。直撃を食らうのは避けられず、そうなれば百合香の防御力で耐えられる域の破壊ではない。  それは当人も分かっているはずだろうに、その目はどこか澄んでいて…… 「なぜなら生きているのです。面白いことなぞあるものですか。そこはあなたとて同感でしょう」  凛然と喝破した。台詞の内容は後ろ向きだが、そこには何かを確信した者特有の、潔い爽やかさすらこもっている。 「だから、わたくしは夢が欲しい。  初めて自ら欲したのです。そのために動いたのです。ええ、断言しましょう。この果てに――」  自分は自分の勝利を得られると予感した。  そう告げて、返す刀で百合香は続ける。  こちらも本日、過去最高――絶対規模の夢を回して運命ごと決するように宣告した。 「あなたは負ける。キーラ・グルジェワ。  きっと夢路に、何も得ることなく散るでしょう」 「抜かせ屑めがァッ!」  最後に叩き込まれた傾城香は、これまでと比較にならない破壊をキーラに与えた。巨腕はもとより、未だ見えない他の部位にも連鎖爆発のごとき効果を及ぼし、大量の血飛沫が巨人の輪郭を露にする。  中核であるキーラ本人も相当の深手を負ったが、しかしそれでも超獣の進撃は止まらない。  ついに、その拳が令嬢を叩き潰さんとした刹那―― 「―――百合香お嬢様ァッ!」  飛び入った宗冬が主を庇い、極限の破段を行使した。  そう、行使したのだが、それどまり。  辰宮の主従そろって、あえなく潰されるという結果にしかならなかった。  叩き付けた拳の下、生あるものが完全に消えたのを確信してキーラは呟く。 「ふん、くだらん……こんなものか」  なにやら戯言を述べていたが、遠吠えほどの効果もなかった。キーラはそう断じており、事実その負傷は高速で復元していく。  ならば後は、当たり前に残敵を掃討するのみだろう。どだいこの戦など茶番であり、彼女の本命は別にあるのだ。 「時が惜しい、さっさと来いよ神祇省。〈辰宮〉《こいつら》同様、即座に捻り潰してやろう」  言って、視線を向けたそのときだった。 「まったく、度し難い愚か者だな貴様らは。しかしまあ、勝手に俺の手間を省いてくれたことは褒めてやろうか」  すべてを傲然と見下ろしながら、そこに柊聖十郎が現れていた。  生死之縛・玻璃爛宮逆サ磔――  それが柊聖十郎の急段であり、彼という存在の象徴。人生の具現とさえ言えるもの。  対象が誇る何か、重要に思っている宝、すなわち手足や臓器という単純な肉体器官はもちろんのこと、気質や能力といった無形のものまで奪い取る。  奪い、そして自らの〈死病〉《ヤミ》と交換する。  ゆえに嵌れば必殺。抵抗の力を削がれたうえで、極大の負荷を押し付けられることになるのだ。  二重の意味で凶悪な、まさに絶対の殺し技と表現できよう。  ならばこそ、彼と相対するならそれに嵌らないことが大前提。  逆さ磔の顕象を許した時点で、たとえどのような強者であろうと聖十郎の優位に立てない。むしろ強ければ強いほど、その〈美点〉《かがやき》を端から奪われていく羽目となる。  だから、嵌ってはいけないのだ。掛からないよう、出させないよう、注意を持って立ち回るのが基本であり、それは他のあらゆる戦闘においても通じるセオリー。  むざむざ敵に都合のいい状況を構築してやる馬鹿はいない。よって聖十郎の能力を知らなくても、当たり前の反応として彼と遭遇すれば警戒する。  が、それこそ思う壺なのだ。逆十字の男が悪辣なのは、その急段に嵌らず逃げおおせることが、事実上ほぼ無理の領域だからである。 「あ? ッ――、ぐおお……!」  まず、磔の毒牙にかかったのは狩摩だった。いきなり両の眼球を奪い取られ、換わりに規格外の末期的腫瘍を脳髄に植えつけられる。  突如襲来した暗黒と死に値する激痛を受け、流石の盲打ちも抵抗が出来ない。続いて肺、続いて片腕と、まるで消しゴムでも掛けられたかのように重要器官を喪失し、引き換えの死病が次から次へと発現していく。  その様を無感動に眺めながら、聖十郎は侮蔑の言葉を吐き捨てた。 「馬鹿が、自分は掛からないとでも思ったか。身の程を知れよ若造。  貴様のような手合いこそ、俺が処すと誓った有象無象そのものだ」  玻璃爛宮に嵌る条件は単純明快。柊聖十郎という鬼畜を知り、そこに悪感情を抱くこと。そしてそんな対象が有する〈健常さ〉《かがやき》を、逆十字が羨ましいと感じること。  憎悪然り、憤怒然り、嫌悪や忌避、憐憫までもが含まれる。  平たく言えば、それは興味だ。相手を知らなければ抱きようがない心であり、戦闘の場でその思いを封殺することは不可能に近い。  なぜなら敵を知り、己を知れとは兵法の基本である。ゆえに柊聖十郎を無視することは誰にも出来ない。彼ほど凄まじい凶源を前にして、無関心を貫けるものはもはや生物とすら言えない何か、例えるなら自然災害のような現象でしかないだろう。  狩摩は確かに、特異な性情と価値観を有する男だ。聖十郎がどれほどの鬼畜であろうと義憤などは抱かないし、八つ裂きに殺されながらも笑うことが出来るだろう。  事実、未だに狩摩は笑っている。阿鼻叫喚の苦悶に晒されながらも絶望とは無縁であり、加害者に怒りも憎しみも抱いていない。  まして聖十郎を哀れむなどということは、さらに輪を掛けて有り得なかった。  では何か。そう、その笑みが問題なのだ。  〈狩〉《 、》〈摩〉《 、》〈は〉《 、》〈聖〉《 、》〈十〉《 、》〈郎〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈下〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。嘲り、指差し、愉快な道化めと囃している。  何がどうなろうと、最終的に己が勝つという奇怪な自負。その真実は措くとしても、自分の優位を常に信じるとはそういうことだ。それが今、この場においては盲打ちの死を意味していた。  柊聖十郎は病んでいる。  彼の真実は、立ちあがることも出来ない末期の重病人である。  狩摩はそれに気付いていた。いや、気付かされたと言うべきだろう。  かつて聖十郎が物部黄泉の足跡を追い、邯鄲の極意を求めて病身を引きずりながらも神祇省に接触していた時分から。  現実の宗冬や花恵が襲撃され、その症状を目にしたときから。  そして先の会談で、己は盧生の資格を奪い取ると彼が言い切ったのを見たときから。  狩摩は柊聖十郎という男の闇を理解した。そうなるように誘導された。  ゆえにだから、今も溢れる嘲笑を止められない。  面と向かっての戦いでは、天地が入れ替わっても逆十字には抗し得ないという型に嵌められてしまったのだ。 「貴様の目が気に食わん。ああ、実に羨ましかった」  ここで甘粕正彦の指摘を挙げよう。玻璃爛宮から逃れるには、柊聖十郎を芯から対等と認めなければならない。  この汚らわしく、惨めで醜い末期患者を。  あらゆる善と道徳を蹂躙する、鬼畜外道の八虐無道を。  己と同じ一個の人間。これも命の賛歌に祝福された、等しく世に在る同胞なのだと―― 認めることが出来なければ、逆さの磔に吊るされるのみ。  それは後の周回で、聖十郎の急段を破った者が等しく言っていたことでもある。そしてこの一周目でも、甘粕から直接そう言われている。  だがしかし、それでも逆十字はその真理を解さない。対等という概念が彼にとっての鬼門であるため、その何たるかが分からないのだ。  あるのはただ、己が上だという常軌を逸した独尊だけ。  ゆえに狩摩が自分に向ける嘲りも、至高なる柊聖十郎に対する歪んだ防衛心としか見ていない。  気が狂っている域の履き違えだが、及ぼす結果は同じである。  何より尊い己に対し、不遜な見下しの目を向ける者は許さない。  客観的に己が弱者であることは自覚しているが、それは天の誤りだろう。よってその悪法を破壊しようとする自分に、他の有象無象は妨害を試みるのだ。  皆が柊聖十郎を恐れている。己の矮小な世界を守るため、俺を悪法のもとに封じ込めようと腐心している。  同情や憐憫などを寄せる輩も、芯の部分はそこだろう。俺を弱者のまま葬ってしまおうと、迂遠な攻撃を仕掛けているのだ。  なぜなら奴らは、結論的に俺へ諦めろと言っているから。  敵である。許し難い蒙昧ども、等しく俺の道具と化せ。  奪う。捧げる。逃がさない。間違った天の理を正すため、己の上方に頭を置かせてなるものか。分際相応に叩き落し、生贄として踏み台にしてみせよう。  男の自負は暗黒の太陽めいて、執念という名の毒と病をばら撒き散らす。  決して、決して、俺が生きることの邪魔はさせない。  だからこのとき、まず狩摩の目を奪ったのは啓示的と言えるだろう。聖十郎は略奪部位を自分の意思で選べないが、それでも初手が目であったことに意味がないとは思えない。  貴様は地を這え。俺は翔ぶ。  そう断言する、これが柊聖十郎の〈人生〉《すべて》だった。 「抵抗は無駄と知るがいい。しょせん、こんなものは俺にとって前座ですらない。 単に順序を踏んでいるだけ。貴様らを殺し、盧生を奪い、甘粕を滅ぼすというそれだけのことだ」  言って、さらなる略奪を行おうと、聖十郎が一歩進み出たときに狩摩は吼えた。 「行けやァ、鬼面どもォ!」  同時に、三方から聖十郎へ襲い掛かる暗殺者たち。確かに彼らなら、玻璃爛宮を突破できるかもしれない。  面によって駒の属性を得た彼らは、その感情が封じられているからだ。事実このときも、逆十字の圏内に入っていながら行動を可能としている。 「もう一度言おうか、馬鹿めが」  しかし、それもここまでが限界だった。聖十郎が視線をそちらに向けただけで、三人の鬼面たちは残らず四肢とその他を略奪されて地に転がる。  如何に痛みや恐怖を感じない駒であっても、機能的に動けなくされてしまえばどうしようもない。 「貴様ら、心がないのではないだろう。ただ巧妙に隠しているだけだ。  そのうえで纏った無機性など、臭すぎて何の守りにもならん。俺の絶望を甘く見るなよ、どれだけ貴様ら屑に囲まれてきたと思っている。  この柊聖十郎に無感でいるなら、龍神にでもなってから掛かって来い」  どだい、そんなものは人に体現できる精神ではないが。  そう蔑視を向けて嘯くと、一気に聖十郎は止めを刺した。 「言ったように後がつかえている。ゆえに遊んでやる気も起きん」  蹂躙、陵辱、後には何も残さない。縦横に揮われる急段の牙が、神祇省を解体して夢の一片まで潰していく。狩摩もまた、笑いながら逆さ十字に喰われていった。 「ふはは、ええのう! おまえはよいよ面白がらせてくれる男じゃわい!  今回はこれでええ。いずれまた、別のかたちで遊ぼうでよ。約束じゃけえのう、ふははははははははは――!」  そうして、邯鄲の露へと消えていく。確かに眷族である狩摩をここでどう殺そうと、本質的に意味はない。聖十郎が健在な限りこの周回で蘇ることは不可能だが、次周以降になれば話は別だ。  現実で奪った宗冬や花恵、剛蔵や恵理子とは違う。夢中における眷族の所有権は盧生にあるため、再び狩摩は聖十郎の前に現れるだろう。無軌道な盲打ちが、そのときどういうスタンスを取ってくるは知らないが。 「それも、次があった場合の話だ」 「俺が〈一周目〉《ここ》で、盧生の資格ごと奪い取ってしまえば、貴様はもう戻ってこれんよ。 いや、俺の眷族として俺の旅に付き合わせるのも一興か?」  そう呟き、ここで彼は最後の一人へと目を向けた。  いや、一群と言うべきか。 「凄まじいな、柊聖十郎……それがおまえの方法か」  キーラは未だ、玻璃爛宮に嵌ってはいなかった。癇症な彼女としては意外に見えるかもしれないが、何もおかしいことではない。  盧生の資格を奪い取る。その点で両者の目的は同じであり、キーラにとって聖十郎は貴重な情報源だったからだ。  ゆえに現状、殺意はなく、有益な存在として尊重しようという意思さえあった。急段の発動条件を正確に察していたわけではないものの、だからこそ裏心なく回避を成功させていると言っていい。 「ふん、羨ましいか」  だがそれは、キーラの無事を絶対とするものではなかった。聖十郎は笑って告げる。 「俺も貴様が羨ましい。ああ、実に強壮で……ご立派な〈姿形〉《なり》だよ小娘。  犬には惜しいな。くれよ、グルジエフのカスごときにはもったいない」 「―――――ッ」  憤怒、激昂、直情的で素直だからこそ回避できていた現状は、同様の理由でいとも容易く引っ繰り返る。 「貴様の親父は間抜けかよ。そんなことだから甘粕に潰されるのだ」 「貴様―――」  続く言葉を、キーラは発することすら出来なかった。  玻璃爛宮はひとたび嵌まれば必中不可避。  射程距離、補足人数は彼方へ消し飛ぶ。  極論、柊聖十郎を前に一億人が存在して全員彼を憎んだならば、そのすべてを逆十字は絡めとって吊り上げる。  たとえ聯隊規模の超獣だろうと、巨体はまったく盾にならない。むしろ群体ゆえに怒りは乗算されてしまい、結果は火を見るより明らかだった。 「仕舞いだ。では盧生の資格を奪いに行こうか」  崩れ落ちる鋼牙の地響きを背で受け止め、今このときも奪い抉り獲りながら、聖十郎は優雅とさえ言える挙措で歩き始める。  なんという無道。なんという絶対悪。このような男を誰が止められるというのだろう。  第五層は逆十字の独壇場だ。柊四四八はこの父親に勝利できない。盧生の資格は奪われる。  そう、未来は誰の目にも明らかで、だからこそ―― 「はいカットー」  現状、ここで彼を止められる唯一の男の手が入った。 「はいはいはい、まったく困ったもんだよねえ。ぶっちゃけこんな強引さは、全然僕の好みじゃないんだけど」  やる気なさげに手を叩いて顕れたのは無貌の黒影。その出現に重なるかたちで、柊聖十郎は文字通り動きを止めた。  まるで、彼ただ一人だけが時間を止められてしまったかのように。 「分かってるかなあ、これって全然違うわけよ。史実はこういうもんじゃない。  君さ、面白がって歴史を曲げちゃったの自覚してる? 正しくない流れを選んだから、正しくない落ちになったってわけ。そのへん反省してほしいんだよね、実際が」  意味不明な〈繰言〉《くりごと》を述べながら、さも不本意だと言わんばかりに神野明影は落胆している。そのまま、物言わぬ聖十郎の肩に手を置いて、深々とわざとらしい謝罪を並べた。 「ごめんねえセージ、僕も好きでやってるわけじゃないんだよ。なんか僕らの仲を険悪にしたい一派がいるらしくてさ、その勢いに負けちゃった。みたいな? いやほんとだよ、ほんとなんだから信じてくれって。  ま、けど別にいっか。どうせ君は覚えていないし、次の周になれば忘れちゃうし。僕らの友情に亀裂なんかは入らないさ。  というわけで、ここはこんな感じに終わりました。セージくんを一応無力化させたから、めでたし五層は突破っぱー!」 「その後にどうなってこうなったとか、もういいだろ面倒臭い。言ったように正しい流れじゃないんだから、深く考えずに流してくれよ。たいした興味もないだろうし。  ねえ、そうだよね?」  そこでぐるりと目玉を半回転させ、神野は逆に覗き返した。  自分を見ている相手へと、滴るような笑みを浮かべて。 「あーあ、また主の病気が出ちゃったよ。ご愁傷様だね。  だからまあ頑張って。応援してるよ、ハニィィィ」  言いつつ、それに比べればどうでもいいことだと笑っていた。 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈先〉《 、》〈に〉《 、》〈行〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  彼女はそれを、断固止めてみせると誓ったのだ。  崩れ消え去った機甲獣化聯隊と代わるかたちで、その躯があった位置に一人の少女が現れている。全身を朱に染め、満身創痍の状態ながら強く、強く、花のように。  辰宮百合香が、柊聖十郎と最後に相対する者としてここにいる。 「聞こえましたか、止まりなさい。あなたはここで朽ちるのです。  〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈運〉《 、》〈命〉《 、》〈を〉《 、》〈呑〉《 、》〈み〉《 、》〈な〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》」  傾城の香による精神支配と強制の縛。それは確かに、聖十郎が相手でも一定の効果を発揮するものだろう。だが、百合香もまた逆十字からは逃げられない。 「あッ、ぐうぅぅ……!」  事実このときも、令嬢は臓器を次から次へと奪われていた。そして同時に、病み爛れて膿腐ったものと無慈悲な交換が成されている。  技の威力という面で、絶望的な開きがあった。聖十郎ほどの独尊を骨抜きにするなど無理難題の範疇であり、西から太陽を昇らせる行為に等しい。  せいぜいが、多少動きづらいという負荷を与えるのが関の山だ。そしてそんなことしか出来ない間も、百合香は逆さ磔に吊るされていく。  無意味、徒労、悪足掻きにすらなってないはず。  だというのに―― 「――、なんだと」  聖十郎は、その場を一歩も動けなかった。してはいけないと言われたから、するべきではないと思い始めている。  有り得ないことだった。そして許し難いことでもあった。  柊聖十郎が、こんな小娘に逆らえないだと? それはいったい、どういう理屈の不条理だと言う――!  激怒に瞠目する逆十字へ、百合香は艶やかに笑って告げた。  その声、その顔、脳髄を掻き回されるような目眩が聖十郎を襲っている。 「わたくしには、切り札がありましたから。  ひとえに加護の違いというものですわね。甘粕大尉に背を向けているあなたよりは…… 眷族として、今はわたくしのほうが上のようですよ」 「―――――ッ」  同時に、聖十郎は感じ取った。百合香の内部で脈打つ力……死病の侵攻にも潰されず、炯々と燃えるそれこそ、彼が狂気に至るほど欲しているものに相違ない。 「貴様は、盧生の――!」 「ええ、我が盧生からの助力をこのように賜っています。具体的に言いましょうか、血を頂いたのですよ」  五層の戦は任せろと言ったとき、四四八から渡された彼の血液。それを飲むことによって百合香の繋がりは極限まで強化され、一時的だが驚異的な夢の行使を可能にしている。  飲血のタイミングは、キーラに潰されたその直後だ。百合香にとっても先の戦いは前座であり、本命は聖十郎と対峙するときに他ならない。  よってギリギリまで使わなかった。かなり際どいものであったが、結果はこのように吉と出ている。  キーラが誤認するほどの勢いで潰された。事実百合香は、そのときほぼ死んだと言っていい。  だが宗冬の破段により、間一髪だが生き残ったのだ。お陰で今このように、逆十字の不意を衝くことが出来ている。 「あなたと今の四四八さんを引き合わせたら、きっとすべてが終わってしまう。それはすなわち、わたくしの夢も終わってしまうということでしょう。  では次なら? その次はどうでしょう? おそらくそのときなら、大丈夫でなかろうかと思っているのです。  少なくとも、今のわたくしは――」  そして次やその次の自分が、今と同じ境地に達していられる保障はない。  だから今だ。重要なのはこの今だ。  未来に夢を繋ぐため、今は絶対に柊聖十郎を止めねばならない。百合香はそう決心している。 「〈下〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈な〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》」  だから命じる。玻璃爛宮の猛威を受けつつも決然と。 「今宵、ひとまず〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈夢〉《 、》〈は〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」  自分への攻撃をやめろという命令は下さない。そんなものに処理を割いている余裕があるなら、全霊を逆十字の自滅へと向かわせるだけだ。 「〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》、〈柊〉《 、》〈聖〉《 、》〈十〉《 、》〈郎〉《 、》――」 「ぐッ、おお、おおおおおおおおおぉぉぉォォオッ!」  抗う。抗う。百合香の夢はしょせん破段だ。急段の協力強制がない以上、誰にでも掛かる長所と誰にでも抵抗される短所を持っている。  ゆえに聖十郎は、渾身込めて妖婦の呪縛を断ち切ろうと咆哮した。彼が有する精神力は、たとえ甘粕であろうと曲げられない。地獄の苦悶に耐え抜いて、なお生きるために世界すら敵に回すと誓った男の怨念である。  逆十字は天上天下に絶対無敵。その自負を砕ける者がいるとしたら、それはおそらく…… 「ご自分の血に揺ぎない誇りを抱いておられる柊聖十郎殿、正直そこは羨ましく思います。  ああ、だからこそ確信しました。あなたという父を知り、向き合う覚悟を固めたとき、必ず四四八さんは勝利できる」  同じ血を引き、聖十郎が望んでも得られなかった盧生の資格を持つ〈四四八〉《むすこ》。  彼ならば、いずれ逆十字を超えられると現状が証明している。  その成長にかける時間を稼ぐため、ここに百合香は存在するのだ。 「可愛らしい。可愛がって差しあげましょう。あなたも結局は同じです。多少頑固であるといっても、いくらか強くお願いすればこのような小娘に跪いてしまう。  切ないですね。悲しくなってしまいます。ですがきっと、世には気骨のある殿方もいらっしゃるはず……ええ、わたくしはその彼に逢いたいから。  殴ってもらいたいのですよ。あの方流に言うならば」  断固夢を回しつつ、百合香は死者すら操るような声で言った。 「おまえもいつまで寝ているのです。起きなさい、宗冬」 「――御意に」  そうして、本当に死者同然の者が蘇った。同じく傷だらけの身体を起こし、幽雫宗冬が百合香の傍らに立ちあがる。 「驚きましたか? ですが、これを甘く見てはいけませんよ。本当に、本当にしぶといわたくしの家令ですから」 「あの程度で死ぬはずがない。いいえ、仮に死んでいてもわたくしが言えば蘇ります。  そうですね、あなたのお言葉をお借りするなら……」  そこで、ふっと百合香は意地悪く微笑すると。 「わたくしの家令を止めたければ、龍神でも連れてきなさい」 「ぬ、が……貴様らああああああああァァァッ!」  絶叫と共に猛威を揮う逆十字。それは百合香も宗冬も等しく抉り続けていくのだが、聖十郎もまた動けない。  そしてそこに、曰く龍神でもなければ止められぬという辰宮の忠僕が近づいてくる。一歩、また一歩と確実に。  信じられないことだった。聖十郎は以前に一度、この家令を至極容易く蹂躙している。なのにこれは、いったいあのときと何が違うというのだろう。  宗冬は四四八の血など飲んでいない。つまりまったくの素でしかない。にも関わらずこのような、条理を逆転させる何かが今の彼には存在している。  まさか、百合香に言われたからというだけではないだろう。いいや、もしかして本当にそうなのか?  それは聖十郎のような男にとって、未来永劫分かりえない感情だった。  そして、今は百合香にも。  幽雫宗冬を狂おしく動かしている何かの正体……きっと、言葉にすればひどく単純なものであり…… 「覚悟しろ、貴様の負けだ逆十字」  だから、あえて言うまでもないのだろう。  それはこの男にとって、唯一重いものだから。 「ほざくな塵どもがああァァッ!」  迫る宗冬。祈る百合香。そして抉り続ける聖十郎。勝敗の行方は時間と運のみが握っていた。  百合香の中にある盧生の血。それを聖十郎が奪い取るか、宗冬の剣が先に届くか。  天秤は左右迷いながら揺れている。  その決着が訪れようとした、まさに寸前―― 「はぁい、それまでー」  事態は、誰も予期しない第三者の闖入によって凍結していた。 「貴様……!」  突如現れ、両者の間に割って入った神野明影。それに一番激怒したのは、ある意味で救われたのかもしれない聖十郎のほうだった。 「何をしにきた無貌、いいや―― 貴様、俺の邪魔をしにきたのかッ」 「んん、むしろ君のために骨を折りに来たつもりなんだが」  呪殺すらしかねない域で睨みつけてくる聖十郎を、神野は悲しげな様子で見返した。そして次には一転、滴るような笑みに変わる。 「本音を言いなよ。僕が君の夢に嵌らなくてムカついてるんだろ? ああ確かに、そこらへんを衆目にアピールしたみたいで、友達としてのデリカシーが欠けていたのは認めよう。  僕らの秘密だったのにね。ごめんごめん、謝るよセージ」  言う通り、神野は玻璃爛宮の効果範囲に入りながらも平然としている。それは彼が甘粕同様、例外に属する者だという証明だった。  この男が聖十郎に向ける友愛は、主の甘粕と同じ本物である。  嘲ってはいるし笑い転げてさえいるものの、それが見下しの類に入らないのは彼が悪魔だからに他ならない。  要するに、あらゆる悪意が神野にとっては無償の愛だ。  地獄に引きずり込もうという誘惑さえも、悪魔の視点で言わせてもらえば求婚している行為に等しい。  ゆえに、柊聖十郎の急段は神野明影に通じない。その事実に激怒している彼のことすら、悪魔は心の底から愛している。 「ということでだね、今回はこのへんで引いとこうよ。確かにこのままいけば君は盧生になれるかもしれないが、流れとして美しくない。  本当の試練を自覚し、それを越えるために頑張る息子……そんな彼を打ち破ってこそ、セージもまた輝くってもんだろう。  違うかな? そうして完成された君じゃないと、盧生になったところでどうなるものやら」  そこまで言った神野を遮り、聖十郎は軋むように搾り出した。 「つまり、甘粕の差し金か」 「オウイエース! ほら、あの人ってあれだろう。ノリで生きてるところあるじゃない? だからそういうの、重視しちゃうタイプなんだよ。  今のままでは青さが足りん―――なーんて言っちゃってさ、あははははっ」  魔王が期待する清き青さは、この動乱時代を越えた先にある。  あの愚かしい〈時代〉《みらい》を体験してなお、立ちあがることが出来るのならば……それはきっと、素晴らしい輝きとなるだろう。  そして、ゆえに友である聖十郎の桧舞台も、ここにはないと甘粕正彦は考えている。 「だからいっぺん、戦の真がどうたらこうたら、忘れちゃったほうがいいんだよ。軍人がバチバチやるのは当たり前のことなんだしさ。  せっかくの面白そうなお膳立て、盲打ちの一手に乗ってみるのも面白い。  何も知らない少年少女が、びびって迷いながらでも剣を執る。そういうのこそがほんとは強くて――」 「そういうのじゃないと、父子問題の何たるかなんてきちんと試練にならないよ。実際〈五層〉《ここ》、今は君が引くだけでクリアなんて条件なんだぜ?  自分で日記にも書いてただろう。生まれた意味っていうやつを、息子くんにはしっかり考えてもらわないとさ。  だから……」  そこまで言って、神野は聖十郎の肩に触れた。すると同時に、宙の逆十字共々動きが完全に止まってしまう。 「ごめんよ、今回君はここで終わりだ。  でもいいだろう? どうせ次回にゃ忘れてるし、息子以外の相手に負けたかもしれない可能性を、僕が摘んであげたんだから。  うひ、ひひひひ、ひゃははははははははは!」  それはおそらく、盧生による眷族への強制執行。太源にある者として、端末の自由を一方的に禁じたのだ。  完成された盧生である甘粕には、そして彼の影である神野には、そういう真似が可能ということ。  よって聖十郎は眠り続ける。この周回が終わるまで、何もかも夢中の夢へと流しながら。  俯瞰的に見るならば、友と己のためにそうまでしつつも、自らその場の勢いで四四八を殺してしまった甘粕正彦の青さというものが分かるだろう。  彼は子供だ。果てしなく純で愚かで、だからこそ激しく強く恐ろしい。  普遍無意識に渦巻く無限の神魔たちと合一する精神性……盧生とは、等しくそういう面を持った者たちのことを指すのだろう。  人の代表者。ゆえに人そのものと言える不完全な完全なのだ。 「でだ、君ら的にもそれで了承してくれるかい?」  仕事を終えた神野は振り向き、辰宮の二人へと目を向ける。質問の態を取っているが、実際は否応もないというものだろう。百合香は静かに頷いた。 「いいでしょう。あなたの介入は不本意ですが、結果的に目的は果たされました。これで五層は終わりですね?」 「まあね。なのでこれからは六層だ。まあ、神祇省が逝っちゃったからどういう試練になるかは知らないが、適当に頑張ってくれたまえよ。十年くらい時間はあるんだ。  それより大変なのは七層だが、今回の君なら空亡の人柱になれるかもしれない。そこも実際、どうでもいいっちゃいいんだがね」  言いつつ、神野は踵を返した。後は勝手にやってくれとひらひら手を振りながら、もはや百合香たちを一顧だにしていない。  しょせん、こんなものはもう終わったことなのだから。  大事なのは今だよ今。  そう呟いて、この一連をずっと見ていた者に言う。 「なあ君、そういうわけでとっとと動いたほうがいいよ。  こんなのだらだら見ることなんて、君にゃあどうでもいいだろう」  そうだ、確かにそんなことはどうでもよくて―― 「のぶ、あき……くん」  今夜の夢を見ている者は緋衣南天ただ一人。  たった一人というのが問題なのだ。  厳密に言えば、鎌倉中の人々がこの夢を共有している。しかしそんなことなどは、彼女に何の意味もない。  世良信明。信明くん。彼がいないということがすべてであり、由々しい事態を招いている。 「どうしよう……」  まずい。これは本当に良くない流れだ。以降のあらゆるものが破綻していく可能性が見えている。  甘く見ていたということなのか。用心、周到さが足りなかったか。まさか甘粕正彦の直接介入を引き起こし、挙句彼が連れ去られるなど冗談じゃないにもほどがある。  盧生。盧生。盧生。盧生――! 死ねよ、おまえらがいったいどれほど偉いという!  全体どうしてくれるんだ。自分の計画が滅茶苦茶だ。ふざけるなよ許さない。許さない。許さない許さない――! 「う、うぅ、うううぅぅゥ……!」  憤怒に頭を掻き毟り、ぶちぶちと髪の毛を引き抜いた。滴り落ちる血で顔を濡らし、悪鬼の形相となった南天は叫ぶ。 「許さない……!」  そうだ、絶対許さないぞ。アレは私のものだ――返せ! 「う、がっ……あああああああああああぁぁぁぁァァアッ!」  怒りと絶望に塗れた咆哮が、夢の景色を一瞬のもとに掻き消していた。 「……づッ、は、ああぁァ……」  そうして、彼女は現実の夜に帰還する。跳ね起きた瞬間に、拘束着のごとく全身を覆っていた呪符の束が音を立てて弾け飛んだ。 「あッ、が……!」  同時に襲ってきたのは言語を絶する苦痛だった。彼女以外の者がこれを受けたら、刹那も耐え切れずにショック死していただろう。それほどの痛み。  それほどに、末期。  しかし、南天の怒りと憎悪は自分が死ぬことなど認めていない。極限の負に偏ってはいるものの、超人的な精神力で死病の激痛を封じ込めた。  消したわけではないし、治したわけではもっとない。ただ、無視をすると決めたのだ。  やらねばならないことがあるし、掴まねばならない夢がある。そのためにはこんなもの、一切かかずらっている時間はないから―― 「は、ぎ――、んんぅぅ~~……!」  彼女は今、もがきながらも立ちあがった。  場所は簡素な賃貸用のワンルーム。〈塒〉《ねぐら》として機能するならそんなものでよかったし、病院なんかは何の役にも立たないと知っている。  外出するため、南天は手早く衣服を脱ぎ捨てた。そこに晒された裸身を見れば、誰もが絶句しただろう。  これが人生の絶頂期にあるべき可憐な少女の……いいや、生きている人間の肉体なのか。短く表現するならば、それは汚染された荒地だった。  張りや瑞々しさといったものは欠片もなく、そもそも肌色自体が見当たらない。節くれ、ひび割れ、木乃伊同然に干乾びている手足や胸、尻、そのいたるところに毒々しい花のような色彩が斑に乱れ咲いている。  紫、緑、黄色、青、赤……すべて悉くが死斑も同然の病巣であり、柘榴のごとく弾けた皮膚から腐乱臭を放つ膿と体組織の混合物が、今も止め処なく滴っている。  顔など、直視できるものではない。夢の中で彼女がどれだけの美少女だったかを知る者ならば、凄まじすぎるこの落差に嘔吐さえしただろう。  眼球は死魚のように光をなくして白濁し、髪は八割以上も抜け落ちている。禿げあがった頭部は奇岩のごとく隆起と陥没を繰り返し、そのうえ元の倍近くは膨れあがっている状態だ。  歯などもちろん、一本の例外なく残っていない。長年に渡り苦痛を噛み締め続けた影響で顎の骨は変形し、そのため輪郭が崩壊している。  もはやこれは、人間の容姿と言えなかった。普通ならとっくに死んでいるはずの状態で生にしがみついてきた結果だろう。通常有り得ぬ量の病が全身で混沌しながら重深度で爆発し、少女を異形に変えている。  有り体に怪物だった。外見だけではななく、その心も、魂も。  すでに、動く死病の塊だと言うしかない。 「……ちッ」  そんな己を見下ろして、南天は舌打ちした。どす黒い血痰を無造作に吐き捨てて憤る。  外見を偽装する簡易な迷彩の夢すら使えない。それはすなわち、彼女の繋がりが消えかけていることを意味していた。  ゆえに、こうなれば仕方ない。時間がなくて時間がないのだ。なんとかマシに見えるよう包帯で要所を覆い、その上から私服を着るとよろめきながら部屋を出た。  今、掌から零れ落ちようとしている己の夢……それを逃がしてしまわぬように。再び掴んで、叶えるために。 「のぶ、あき……くん」  信明くん。信明くん。嫌よ駄目よ戻ってきてよ行かないで。  私のヒーロー。あなたがいないと潰えてしまう。  私の生が。私の夢が。私の祈りが私の憎悪が――  あなたは私のために在る。そのために生まれたのだから、役目を果たさずいなくなってしまうなんて許さない。  ねえ、助けてよ。  私、痛いの。とってもつらくて、羨ましいのよ。  運命なんか信じない。そんなものが自分をこうしてしまったのなら、世界のほうが間違っている。  だから、世界と戦うのだ。そして勝利し、生き残るのだ。  かつての柊聖十郎とはまったく違う方法で。  先人の失敗をもとに、ずっとずっと練りあげてきた計画を頓挫なんかさせやしない。これが最初で最後のチャンスなのだ。 「信明くん……!」  だから、彼を取り戻す。夢の世界で甘粕正彦に拉致された信明を、夢の側から救出することは不可能だ。  なぜなら盧生たる者は超越者。中でも歴代最強の甘粕である。  南天が揮える邯鄲程度でどうにか出来る相手ではないし、信明が自力で脱出することは尚のこと不可能だろう。  ゆえに、手を尽くすなら〈現実〉《こちら》側から。覚めない眠りに落ちている信明を、物理的に叩き起こす。  危険は当然、あるだろう。下手をすると信明を廃人化させてしまうかもしれない。  南天は延命のため、邯鄲の他にも数多の魔道に精通している。それらの手段を用いて信明を覚醒させるつもりだが、その綱引きに彼が耐えられる保障はなかった。  要点は二つ。  邯鄲の夢を上回る術の類は、この世界に存在しないということ。  しかし、少なくとも顕象されていない夢ならば、現実の現象のほうが強い影響力を持つということ。  よって今なら、力任せに引っぱたくほうが効果を発揮するはずだと考える。  だがしかし、繰り返すが相手は甘粕正彦だ。その見通しがどこまで通じるかは分からない。  結果、信明が廃人と化したら南天の夢も終わってしまうが、どのみち座していても同じことだ。ならば一縷の希望に賭けるしかない。  この身体で、この様で、信明の家に侵入するというのも十二分に離れ業。それは南天にとっても、洒落にならないくらいリスクが高い。  すべての事を成す前に、見つかってしまったら終わりとなる。ただの死にかけている弱者として、至極簡単に排除されてしまうだろう。  誰にって、それはもちろん言うまでもなく―― 「ぁ――――」  逸る気持ちに身体のほうが追いつかず、その場で南天は転倒した。受身も何も取れるはずがなく、顔面から舗装に叩き付けられる。 「ぎっ、ぐぅ、うううぅぅ……」  痛くない。痛くない。こんな程度の外傷なんかは蚊に刺されたくらいにも感じないほど、深い〈絶望〉《いたみ》が今も中で暴れている。  だけど、南天は泣いていた。  悔しくて、憎らしくて、妬ましくて。  なんだこれは。いったい何なんだこの自分は。  どうしてこれほど無様で醜い。  どうしてこんなに苛められる。  いったい自分が、何をしたというのだろうか。 「許さない……許せない……!」  その思いが、緋衣南天のすべてだった。度し難い理不尽に対する呪怨の心。  ただそれのみで、少女は今も生きている。  だから再び立ちあがろうとしたときに―― 「ちょ、おい――大丈夫かよあんた!」  夢に続き、こちらでも最悪の展開が彼女を追い詰めようとしていた。あらゆるものがマイナスへと転がっていくのを自覚する。 「…………ッ」  動けない。逃げられない。すでにほとんど死滅している毛穴が開き、粘った膿のような汗がじっとりと全身を濡らしていく。 「おいみんな、こっち来てくれ。怪我人がいんぞ、この子が――   この子……が――」  絶句し、驚愕に目を見開く大杉栄光。その背後から、わらわらと何人も集まってきた。 「どうしたのよいきなり、大声出して…… て、え……?」 「――――――」 「あ、あの、あなた、何してる……の?」 「びょ、病院! 病院だよ、救急車っ!」  どいつもこいつも、まるで化け物にでも遭遇したかのような顔をする。そんな彼らを、南天は心の中で陰惨に嘲った。  そう。今夜も仲良くパトロールなのね。  楽しそうだわ、部活でもしているつもりなのかしらこのアホどもは。  なら、いいことを教えてあげる。今、あなた達の前にいるコレこそが、朔の張本人である緋衣南天。  すべてを皆殺しにしてでも生きると誓った、三代目の逆さ十字だ! 「君はいったい……どうしたのだ、その様子は」 「ちょ、おい。動くなって! そんなんじゃ、あんた……」  死んでしまいそうだと? ああ、死にかけているよ。だからどうした。  正体を気取られてはいけないと分かっている。それは完全に破滅を意味し、唯一残った最後の希望さえ粉砕される未来だと知っている。  だけどそれでも南天は、耐えることが出来なかった。  激烈な恨みと怒りを瞳に込めて、この勘違いしたクソ野郎どもを抉るように睨みつける。 「見る、な……!」  その目を――やめろ。私を見るな。見下すな。  死にそうだから? 弱そうだから? 可哀想だから? 惨めだから?  やめろやめろ――おまえら勝手に、善意で気持ちよくなるんじゃない!  腐れ馬鹿丸出しの酔っ払ったオナニー猿が、その目が私の敵なんだよ!  私は今代の逆十字だ。死病の魂、誰より強い。  おまえら、いずれ生贄となる道具にすぎない分際で、私を上から見下ろすなよ。この世の誰にも、そんな真似はさせやしない。  そんな目を私に向ける奴は絶対殺す。必ず殺す。逃がさない許さない意地でも認めないから殺してやるぞ屑が屑が屑が――!  この、たまたま運良く健常なだけで、〈生死〉《マコト》の何たるかも弁えずに調子付いている塵どもがッ! 「ねえ、柊は何処行ったのよ」 「便所だ。すぐ戻ってはくるだろうが……ちくしょう、待ってられる状況でもねえなこりゃ」  だが、そうした南天の憤激も、まったく効果を及ぼさなかった。彼らは戸惑い、一種怯えてさえいるものの、眼前にある瀕死の存在を欠片も脅威と見なしていない。  怨念の瞳で睨まれても、痛みに必死で耐えているだけなのだろうと、勝手にいいような解釈をしていた。 「真奈瀬、頼むわ。四の五の言ってちゃやばいだろ。  救急車呼ぶにしても、その前によ」 「だな。分かったよ」  そうして真奈瀬晶が近づいてくる。南天は、それにほとんど反射で抗った。 「―――――ッ」 「いや、大丈夫。落ち着けって。別になんも痛いことはしねえから」 「すぐお医者さんに連れて行ってあげるからね。ただその前に、応急処置でもしておかないと」 「不安なのは分かるけど、本当に大丈夫だから信じて。きっと楽になるから」  分かっている。知っている。だがそれは、決して許されることじゃない。  労わり、情けなんかは不要なのだ。  逆さの心はそんなものなど望んでいない。  他者から与えられる祝福なんて、自分の世界観では有り得ないから。  それは奪うもので、掴み取るもの。献上されるもので、貢がれるもの。  己は強く、強く、至高で無敵なのだから施しは一切不要。間違った天の理を正すため、ただ憎悪を込めて逆さ磔に生贄たちを吊るし続ける。  それこそが緋衣南天。それこそが逆十字。  私の矜持を、誇りを、自尊を――汚らわしい善意なんかで傷つけるな! 「くる、な……!」  来るな。来るな。寄るな。触るな。  いま触れられたら、いま癒されたら、私はきっと壊れてしまう。  だからやめろと、叫んで、叫んで――だが壊死した声帯はまともに言葉を紡げないまま、身体はろくに動かなくて……  血涙すら流して内なる絶叫を発する南天の肩に、晶の手が置かれていた。 「任せとけよ。安心しろ」  そして、瞬間―― 「―――――――」  一つ、間違いなく今一つ。南天の中で何かが終わった。  それはこの場の誰にも気付かれないままひっそりと、だが取り返しのつかない出来事として、この夜に刻まれた喪失の真実となったのだ。 「よし、これでたぶん、少しはマシになったと思う」 「じゃあ、後は病院ね。こんな時間だけど、すぐに来てくれるかしら」 「なんなら、私たちで運んだほうがいいんじゃない? そっちのほうが絶対速いし」 「ここまでくれば、もう今さらだもんね。こうなりゃヒーローらしくいっちゃおうか」 「おう、人助けに力惜しんでるわけにはいかねえもんな」  口々にそんなことを言っている彼らの顔を、南天はガラス玉のような瞳で見つめている。  それはとても虚無的な、危うさを振り切れたものだったが、やはり誰も気付いていない。  いいや、本当にそうなのだろうか。 「あ、四四八くん。ようやく終わったのか、ちょっと来てくれ」 「なんだおまえら、どうしたいったい?」  分からないが、ともかく彼がやってくる前に南天は立ちあがっていた。そしてそのまま、踵を返し歩きだす。 「な、ちょ、待てっておいっ」 「大丈夫です、家の者を呼びますから」  冷めた、この上ないほど感情を配した声で、ぽつりと呟く。  一瞬だけ戻した視線とぶつかったのは、やはり感情を配した顔でこちらを見ている石神静乃。  彼女に向けて、南天は告げた。 「皆さんのこと、忘れません。いずれ必ず、〈御〉《 、》〈礼〉《 、》〈は〉《 、》〈し〉《 、》〈に〉《 、》〈伺〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》」  それでは、と付け足して、病身の少女はその場を去った。背後でまだなにやら騒いでいたが、まったく揺らぐことのない足取りで心配するなとアピールしながら、追ってくるなと背で言っている。  そう、心配なんか要らないのだ。心配するなら、おまえたちの未来を思え。  今、おまえたちは一線を踏み越えた。それが自らの首に落ちるギロチンの引き金だと知るがいい。 「殺してやる……」  南天は泣いていた。  年齢相応の少女らしく、物騒なことを言いながらも顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっている。 「殺してやる。殺してやる。絶対、全員殺してやるんだから……!」  すでに信明の家へ行く気はない。ここで彼らに会った以上、それは不味すぎる選択だし、そもそも最初から現実的ではなかったと思い直していた。  覚めた思考。クリアな精神。皮肉にも敵の施しを受けたせいで、自分がやるべきことを過たず理解できる。 「順序よ……」  そう、順序の問題なのだ。柊聖十郎が言ったように。  そして、自分は彼のように失敗しない。 「面倒だけど、順序に従うのが一番早い。邪魔があるなら、邪魔を先に消せばいいのよ」  だから、と一拍置いてから空を見上げる。満天の星すら目に入らない。 「それまで待ってて、信明くん」  夢の彼方へと紡いだ言葉は愛の告白めいていて。  しかし、紛れもなく狂気に染まったものだった。 「―――信明がっ?」 朝、遅れて学校に来た世良から聞いたその事実に、俺は目を見開いた。 「うん、原因は分からないんだけど、全然目を覚まさなくて……」 「ごめんね。柊くんには一番早く伝えないといけなかったのに、私たちも気付くのが遅かったから……」 「そんなことはいい。それより、あいつは大丈夫なのか」 今朝、いつものようにランニングをするべく信明が来るのを待っていたが、あいつはやって来なかった。 ゆえに俺と石神は待ちぼうけを食らったわけで、世良はそれを詫びているが、そんなのは仕方ないことだろう。タイミング的に、家族であろうと遅刻ギリギリくらいにならなければ気付けるわけがない。 「一応、主治医の先生に来てもらったんだけど、ただ寝ているだけだって。だから少し様子を見ようってことになってる」 「寝てるだけ……?」 「他には、何もねえんだよな? たとえば、その……」 「うん。最近はあの子も丈夫になってたし、病気とは関係ないと思う」 「ただ、疲れが堪ってるのかもしれないって先生は言ってたけど……」 「疲れ、ね……」 「だとしたら、心配ないのかもしんねえけど……」 「判別しづらいところだな。これはどう考えるべきか」 「病気なら安心ってわけでもないもんね」 要するにそういうことだ。信明は、事実として健康にハンデがある。 だから体調不良で寝込むというのは由々しい事態で、楽観できるものじゃない。そして仮に病気と関係なかったら、それはそれで問題なんだ。 眠ったまま目を覚まさない。そこから連想されるものを、俺たちは等しく知っているのだから。 「信明は例の夢を見ていないと言っていたよな?」 「ええ、そう言ってたわ。そのへんについては、前にも一度調べたでしょう」 「私たちはもちろん、私たちの家族。他には祥子、百合香さん、芦角先生、幽雫先生とその家族」 「あとペガサスも」 「あん、なんだそりゃ?」 「あ、いや、とにかくそんな感じでさ、甘粕事件の関係者一族は例外なんだって分かってるよ」 「だからノブが夢の影響を受けてっていうのは、確率低い話だよな」 「私もそう思ってるんだけど」 「いや、そうとも言い切れねえだろ。柊はどう思うんだ?」 「少し待て。考える」 だが現状、これは答えの出せない問題だった。ならば悩んでいてもしょうがないと言うことが出来、やれる行動をやるしかない。 夢を見ていない俺たちはタタリを招く立場じゃないが、タタリに狙われる立場ではある。だから鳴滝が言う通り、信明の変調にそれが絡んでないとは言い切れない。 実際、〈信明〉《あいつ》を囃し立てるような書き込みが、裏サイトに多くあったのを見ているから尚更だ。 「纏めるぞ。放課後になったら、とりあえず全員で信明の見舞いだ」 「そこで晶、おまえがあいつを癒してみろ。本当にただの体調不良なら、それで目を覚ますはずだ」 「あ、そうか。そうだよな。昨日の夜だって実際さ」 「病気の子を助けたっていうあれか? まあそういうことだ。世良はもう試したか?」 「一応、親に不審がられないようにはやってみたよ。でも駄目だった」 「けど、晶だったら私よりずっと上手いし、もしかしたら」 「そうだな。まずやってみる価値はあるだろう。それで四四八くん、その後は?」 「決まってる。信明の状態が回復すればそれで良しだが、してもしなくてもその後にやることは変わらない」 周期的にもおそらく今夜、新たなタタリが顕れるだろうと踏んでいる。皆、それは分かっているようだった。 「悪夢狩りだ。信明の異常がそれ絡みなら、やはりそうすることであいつを助けることができるはず」 「歩美、今の状況を教えてくれ。そこから予想を立てていく」 「あ、うん。それなんだけどね……」 現在、どんな夢を思い描いている奴が多いかという、その傾向。 俺たちの仲違いを期待する雰囲気はこのときも続行中で、こうしている間にも色んな奴らの視線を感じる。 だからおそらく、今夜のタタリはそういう系統になるのだろうと半ば予感していたのだが…… 「今はむしろ、百合香さんのことばっかりで……」 「なに、なんだそりゃ?」 まったく慮外な返答に、俺たちは全員呆けてしまったのだ。 「さて、それでは参りましょうか」  言って、百合香は鍵の束を取り出すと、その一つを使って目の前にある巨大な扉の錠を開けた。  そうして広がる光景は、端的に言うと非常に現実離れしている。ここが日本であるということはおろか、二十一世紀であることすらも危うく忘れてしまいかねない。このような空間は、早々見当たらないだろう。  旧辰宮邸……当時は国内屈指の富豪として権勢を揮ったという、百合香の先祖が建てた文字通りの豪邸だ。いいや、もはや城郭とさえ言っていい。  大正浪漫とでも表現すべき類だろうか、日本史の中でもかなり特異な時代を象徴しているかのように、この館は時の流れから切り離されて今も変わらず健在だった。  無論、言うまでもなく、百合香がここに住んでいるわけではない。辰宮の家は依然として地域を代表する名士だが、貴族の概念が無くなってからは庶民的な富豪の範囲に納まっている。  あくまでも、昔に比べたらという意味でだが。  とにかく現在、この館は辰宮の所有物ではなかった。何十年も前に国へ権利を渡しており、今は史跡として観光地の一つになっている。  しかし、そこはそれ。元持ち主の一族には多少の特権があり、融通も利くというもの。たとえば本家の一人娘が自由に見物できるように、便宜を図るというような。  月に一・二度、百合香はこうして夜の館内巡りをするのが習慣だった。彼女自身、これを楽しみに思っている。  理由は生家の歴史に興味があるからで、同時にこの館そのものが好きだからだ。年齢相応の女心として、お姫様になったような感覚が味わえる空間を嫌うはずがない。  そして、加えることもう一つ。 「今夜もボディガードをお願いしますね、幽雫先生」  振り返って艶やかに笑いかけるその相手。疲れたように嘆息している彼を困らせるのが楽しいからだ。 「いつも何度も言っているが、せめて照明を点けさせてくれ。危ないだろう」 「あら、それならわたくしだって、いつも何度も言っていますわ。そんなの絶対許しません。  なにせ、これほど大きな建物なんです、電気代も馬鹿にならないのは明白でしょう。あなたの安アパートと同じ感覚で言わないでください。  ご厚意で我が侭を許していただいている身なのですから、極力迷惑はかけないように。常識でございましょう?」 「しかし、そのせいであらぬ噂が立っているのを君は知っているだろう」  曰く、深夜の旧辰宮邸には幽霊が出る。  その真実は言うまでもない。定期的に暗闇の館内を徘徊しているこのお嬢様が原因だ。迷惑云々を言うのなら、そちらのほうが大概だろう。 「名所旧跡には相応の〈都市伝説〉《フォークロア》も必要だと思いますの。  先生はご存知なさらない? ヴェルサイユ宮殿やロンドン塔など、それはもうおどろおどろしい逸話が盛りだくさんで」 「分かった、もういい。俺の負けだ。好きにしてくれ」 「あら残念、今日は降参が早いんですのね」  微笑で教師をからかいながら、百合香は軽く拗ねてみせた。まったくのポーズというわけでもない。  照明を点ける点けないの話題に際し、彼のアパートを引き合いに出してみたのを突っ込んでほしかった。その言い方では、自分たちがそこにおいて、そういう話をしたことがあるみたいではないか、とか。  まあ、彼にはちょっと分かりづらかったようだ。あえて無視したのかもしれないが、いずれにせよ滑ったのは確からしい。 「昔から何度も来ている所です。多少暗かろうと問題ありませんわ。むしろ雰囲気が出て好きですの」 「この話も何度したことか分かりませんわね。ではお約束もすんだところで行きましょうか」 「分かった。重ねていつも言っていることだが、あまりはしゃぎすぎないように」 「もう、そうやっていつもわたくしを子供扱いばっかりして」  そうして二人は、薄暗い館の中を歩き始めた。街の明かりが届いているので完全な闇ではないし、言ったように慣れてもいるから足取りに不安はない。  まずはホールを抜けて一階を一回りし、そこから中庭に降りるというのがいつものコース。  その間、幽雫宗近は常に一歩引いた距離を保ちながら百合香の斜め後ろを歩いていた。彼女が好いている館の景色、その鑑賞を邪魔しないように弁えているのが見て取れる。  それは保護者役の教師と言うより、主人に仕える召使いのような振る舞いだった。実際に彼はそういう教育を受けていたし、血筋に刻み込まれたものでもあるのだろう。  なぜなら幽雫という家は、古くから辰宮家の臣下だからだ。流石に現代では封建的な関係を維持していないが、主筋として立てることを忘れていない。  少なくとも宗近はそういうタイプで、その理由も分かっていた。  一つは恩。  百年ほど前に幽雫の本流は一度断絶し、僅かな傍流もほぼ絶えかけていた。  それを当時の辰宮が盛り立てたから、どうにか今まで家を残すことが出来たのだと宗近は感謝している。  時代錯誤だと人は言うかもしれないが、彼はそういう恩義を大事にする男なのだ。  そして二つ目は、おそらくわたくしのせいでしょうね、というのが百合香の見解。  端的に、彼女はこのつれない男を好いている。どういう種類の好きなのかは自身まだ掴めていないが、とにかく好きなのだから感情に従ったアプローチはしているわけで、それがよろしくなかったらしい。  俺は辰宮の従者の家系で、現代風に砕けるのも兄代わりがせいぜいである。と、そんな態度を常に全身から放射するのだ。  それが百合香は微妙に面白くないものだから、よくこうやって困らせている。結果、彼はますます頑なになる。  やれやれ、いわゆるドツボかしらと我ながら思うものの、これはこれで充実した毎日と言えなくもない。  ゆえに纏めると、辰宮百合香の日常は幸せだった。彼女を取り巻く皆にとっても、それが同じものであったらいいと思う。  特に、先祖代々因縁浅からぬ相手は、この教師以外にもいるのだから。  百合香は、そのことを口にしてみた。 「ときに先生、近いうちに四四八さんたちもここへ連れて来たいと思うのですが、どうでしょう?」 「彼らを? なぜ?」 「なぜと申されましても、ただそうしたいからとしか言えませんわ。反対ですの?」 「俺の立場としては、なんともコメントに困る」 「煮え切りませんわね」  教師としては生徒の夜遊びを推奨するわけにもいかないが、辰宮邸に誰を呼ぶかは君の自由であって俺の領分ではない。大方そんなことを考えているのだろう。百合香は溜息をついていた。 「まあ、なんと言いますか、少し気晴らしをさせてあげたいのですよ。ここのところ、彼らはどことなく張り詰めているように思えますから。  先生もご存知でしょう、おかしな夢の話」 「ああ、あれか」  彼自身、少なからず面倒な思いもしているのだろう。夢という単語を聞いて嫌そうな顔をしていた。 「どうも彼らは、好きに言われているらしいな。俺や君も例外ではないようだが、正直比較にならんだろう。一度職員会議の議題にさえなったよ」 「だが、そういう理由なら言わせてもらおう。 先の件、あまり賛成できないな」 「あら、どうしてですか?」  抗議の意を込めながらも、百合香はどこか楽しそうにそう言った。事実、面白がっている。 「先生にわたくしの交友関係を制限される覚えはありませんけれど」 「そうだな。それは分かっているから、ただの意見だ。別に強制しているわけじゃない。  夢がどうのと馬鹿馬鹿しい話だが、実際どうもキナ臭い。周囲の反応といい、少し常軌を逸して見える。  殊更関連付けるつもりもないが、眠ったまま死んでしまった人たちも多くいるという状況だ。今は軽率な振る舞いをするべきじゃないだろう」 「つまり、先生はこう仰る」  少しだけ機嫌を悪くし、百合香は彼の顔を睨んだ。 「四四八さんたちは何か怪しいから関わるなと?」 「残念ですわ。そういうつまらない大人の意見が聞きたかったのではありません。というか、そういう人だったのですか先生は」 「少なくとも、彼らはある種の渦中にいるんだろうと思っているよ。だから安易に関わるなと言っているのは確かだが、少し誤解があるようだな」  宥めるようにそう言ってから、しみじみと宗近は続けた。 「俺が言いたいのはつまるところ、彼らの邪魔をしてやるなということだ」 「君はあまり空気を読まない。平たく言うと我が侭だから、きっと迷惑をかけてしまうだろう」 「はあ?」  なんだかひどいことを言われた気がする。百合香は目を丸くしながら、彼の言葉をもう一度反芻した。 「ええっと、つまり、先生はわたくしの心配をしているわけではないのですね? むしろ四四八さんたちのほうが心配だと」 「そうだ」 「わたくしのような頭があったかい系のキャラクターが、デリケートな問題で悩んでいるだろう彼らを振り回すものではないと仰る」 「ストレートに言うと、そうだ」  ストレートに肯定された。なおのこと彼は続ける。 「大方君のことだから、ここで彼らを巻き込んでのご先祖ごっこでもしてみたいのだろう。その様子を撮影して、文化祭用のPVでも作る気かな」 「それは、まあ……いいじゃありませんか。だってそういうものも役に立つでしょう?」 「格好よく演出できれば、流言蜚語もいくらか収まると思うのです。わたくしは総代ですから、校内の風紀に責任を持たねばなりません」 「君のそういうところは素晴らしいと思っているけどな」  分かってないんだよ、と嘆息する宗近。今、四四八たちを取り囲む噂話は、二人が把握しているだけでもかなりある。  特に目立つのは彼らの仲違いを期待するようなものであり、その根源は夢に見たという百年前の人間関係らしいから、曰くご先祖ごっこの映像作品で印象を回復しようというのが百合香の主張だ。 「格好よさを演出か。仲のよさをアピールするつもりもあるんだろう。そうすることで百年前にしろ今にしろ、喧嘩なんかしていませんと納得させる。まあ理屈は分かるんだが…… 君は大衆というものを知らなすぎる。そういうのはきっと面白がられない。  彼らが好むのは、基本的に人の不幸なんだよ」  美談を悪評で潰すことは出来るが、その逆は極めて難しい。不可能とまでは言わないが、滅多に起こることではない。  百合香はそういう仕組みに対して疎いのだと、宗近は指摘している。 「だからやめておきたまえ。完全に無駄とまでは言わないが、余計に煽ってしまう率のほうがきっと高い。それは君にとっても本意じゃないだろ」 「ですが、このまま見て見ぬふりというのはあまりにも……」 「君がそう思い、案じていると、真っ直ぐに伝えてやれば充分通じる。  なぜなら彼らは弱くない。彼らなりのやり方で、この問題と戦っていくはずだろう。そのときに君の気持ちが力になると俺は思うよ」  そう諭す宗近に百合香は何事か反論しかけ、だが結局上手い言葉を探せなかったから膨れてしまった。恨みがましい目を向けつつ、微かに詰るような調子で愚痴る。 「なんだか言いくるめられたようで釈然としません。腹が立ちますわ。  宗近のくせに、わたくしへ物申すとは生意気です」 「……参ったな。そんな風に言われても困るぞ俺は」  まるで子供時代のような百合香の態度に苦笑しながら、宗近は首を振った。 「最初に強制するわけじゃないとも言ったろう? どうするかは君が決めなさい、百合香お嬢様」 「もう、分かった。分かりましたっ」 「つまりこういうことですのね。わたくしの我が侭とやらに振り回されるのは幽雫宗近教諭の特権であり、それは誰にも渡さんと。  ああ、なんとマゾい殿方なのでしょう。わたくし、そういう趣味に付き合っていけるものか不安になります」 「な、ばっ――、違うだろう、そういうことではっ」 「あら、何がどう違うんですの? しっかり説明してください」  と、腹いせに百合香が一発やり返したときだった。 「……え?」  彼女はいきなり目を見開くと、次いで眇め、表情は訝るものへとなっていく。その変化は、向かい合っている宗近も当然気付いた。 「どうした、何かあったのか?」 「いえ、その、今あそこに……」  言って百合香は、この中庭から見える棟の一角、東館の二階を指差した。 「誰かが、いたような」 「本当か?」 「はい、それでこちらを見ていました」  彼女が指差す方へ宗近も目を向けるが、そこに人影らしきものはない。だが、嘘を言っているわけでもないだろう。 「もしや、噂の幽霊かしら」 「それは君のことだろう。とにかく、気になるなら俺が確認してくる。待っていたまえ」 「あら、それならわたくしも行きますわ。面白そうじゃありませんか」  無邪気なお嬢様のはしゃぎように、宗近は頭痛を堪えるような表情を浮かべた。実際、本当に痛いのだろう。 「あのな、リアルに考えてくれ。もし本当に何者かがいたというなら、それは要するに不審者だ。物取りの類かもしれんし、はっきり言って危ないぞ」 「だからこそ、こんな所にわたくし一人を置いて行ったら駄目でしょう。危ないならなおのこと、傍で守ってくださらないと」 「それは、確かにそうだろうが……」 「加え、このまま退散というのは有り得ませんわよ。辰宮の者として、この館が荒らされているかもしれぬなら放置できません。  ではないかしら、幽雫先生?」  先ほどの意趣返しとばかりに、勝ち誇って諭す百合香。宗近は深く息を吐いてから頷いた。 「……了解、畏まりましたお嬢様」 「よろしい。では参りましょう」  そうして、二人は問題の場所へとやって来たのだが…… 「何もありませんわね」 「そうだな。まあ、現実はこんなものだろう」  そこには人影どころか何の痕跡も見つからない。注意深く周囲を見回した宗近は、やはり百合香の気のせいだったかと判断した。 「結局、枯れ尾花にもならなかったな。しかし多少のスリルは味わえたから満足したろう。もう帰るぞ」 「ああそんな、見切るのが早すぎますわ幽雫先生。もしかしたら、まだ何処かに隠れているかもしれないじゃないですか」 「何処とは、たとえば?」 「た、たとえばほら、ここなんかっ」  言うと、百合香は傍らの部屋に通じるドアのノブに手をかけた。  無論のこと夜間は全室施錠されているのだから、彼女の持っている鍵がなければ開くはずなどない。  そう、だからこれは閉まっていないとおかしくて、百合香もポーズ以上のつもりはなかったのだが…… 「……あれ? 嘘、どうして」 「―――ッ、下がりなさい」  予想外に何の抵抗もなく開いたドアを見て、呆ける百合香。宗近は彼女を押しのけ、室内へと踏み入った。  そこで彼が見たものは…… 「なッ、あ、芦角っ?」  馴染みと言えば甚だ馴染みである同僚が、床に倒れている姿だった。しかも、彼女だけではない。 「あら、あれは祥子さんですか?」  宗近の肩越しに中を覗いた百合香には、やはり馴染みである下級生の少女が見えていた。先の花恵と同じく、床に倒れている。 「これはどういうことでしょう。まさか二人が物取りということは有り得ませんし、なぜ二人そろってこのような……」 「ともかく、放ってはおけん。おい芦角、芦角――」 「祥子さん、どうされたのです? 祥子さん?」  共に事態を確かめるべく介抱に入った二人だったが、花恵と祥子は何の反応も示さなかった。 「……………」 「……………」  眠っていると言えばそれまでで、規則正しく息はしているものの起きる気配がまったくない。場所と状況も手伝って、異常としか思えなかった。 「……いかんな、これは手に負えん。救急車を呼ぼう、警察もか。  騒ぎになってしまうが、四の五の言っている場合じゃないだろう。構わんよな?」 「はい、しょうがありません。我々素人が下手に動かしていいものか、その判断も出来ませんから」 「よし、では――」  と、携帯電話を取り出した宗近は、しかし同時に動きを止めた。開け放たれたドアの向こう、先ほどまで彼らがいた廊下を凝視し、固まっている。 「どうしたのです、幽雫先生」  だから百合香もそれに気付き、彼の目線を追ってそのまま…… 「――――――」  それを見たとき、やはり同様に硬直していた。  少女。  見たことのない少女が一人。幽鬼のような佇まいでそこにいる。  ひどく幻想的で、現実味のない光景だった。なぜなら彼女の服装は百年も昔、自分たちの母校が戦の真と呼ばれていた当時のものであり……  時の流れに置き去られたこの辰宮邸が、少女を中心に逆行していくような感覚に囚われたのだ。  それは建物だけじゃなく、自分も、そして宗近も。 「あなた、は……」  なんとか搾り出したその声を最後に、百合香の意識は逆転していく渦の中に呑み込まれながら消えていった。 「―――よし」  我ながら会心の手応えに緋衣南天は満足して、静かに拳を握り締めた。現在、この辰宮邸にいる彼女をなんと定義するべきかは難しい。  タタリと言えばタタリである。つまりこの現実に編み上げられた夢にすぎず、正しい意味で〈身体〉《リアル》を持っている存在ではない。  彼女にとって本当の身体は、今このときも例のワンルームで眠っている。ゆえにこれは、ある種の幽体離脱に近かった。  南天の見る夢が、彼女の形となってここに在るのだ。そしてそれは、もちろん自力だけで成したことではない。  今代の逆十字という存在の情報を、さりげなくネットの海に流した結果だ。本当にさりげなく、しかも即座に消したから、目にした者は十人そこらもいないだろう。だがそのくらいで丁度いい。  あまり大勢の目に触れてしまうと、どれだけイメージを弄ばれるかまったく読めなくなるからだ。結果、南天本人にどんな被害が及ぶか知れたものじゃないだろう。  だからこうやって、ごく少数のイメージにより漠然と創られた偶像へ、彼女の意識を投射したのだ。顕象する夢を選ぶのはあくまでも盧生だが、南天の知識と技術があればそれくらいの軽い反則は出来る。  要は今夜の主役として招かれるべきタタリ、その実体化に乗じるかたちで余剰のエネルギーを拝借したと言えばいい。舞台が出来あがっていくどさくさに、モブとして紛れ込んだようなもの。  なぜ彼女がこんな真似をしているかと言えば、つまりこういうことになる。  信明を救うには現実的な手段が必要。  しかし現実の本体は衰弱しすぎて、行動できない。  そして今の身体は夢であるため、やはり不可能。  必要なのは、消えかけている“繋がり”の復活だ。晶に癒されて一時的に体力は回復したが、そこに本質的な意味はない。だからこの状況を作るため、得た活力はすべて注ぎ込んでいる。  重要なのは順序を踏むこと。今夜邪魔者の数を減らし、かつ自分の本体が行動できるだけの繋がりを取り戻すために。  そう、順序だ。南天は心の中でそう繰り返し、目の前で倒れている四人を見下ろす。 「役に立ってね、あなた達……立派な生贄になってちょうだい。  期待してるから、頑張って」  タタリとは、結局のところ人の夢だ。ゆえに根本として別次元の存在であり、それをこちら側へ招くとなれば受け皿となる依り代、核が重要になる。  少なくとも無いより有るほうがより良いのは当たり前で、だから〈生贄〉《ソレ》を得たタタリは強い。基本性能が数段上がる。  よく似た属性、シンクロできる型を持つ者。要するに今夜の彼らで、これを集めるのにこういう〈夢身〉《カラダ》が必要だったというだけのこと。  しかし無論、リスクはあるのだ。現在の南天は、先の喩えに倣うところのモブである。極めて薄いタタリにすぎず、ろくな力もないので同種の攻撃を受けたら手もなくやられてしまうだろう。  そしてそのダメージは、投射している意識を通じて彼女の本体にも届くのだ。現実的に瀕死の身体は、きっとそれに耐えられない。  つまるところ、今の南天は無力な生身を晒しているのと意味合い的に同じだった。さらに言えば、自由意志で逃げることも出来ない。  今代の逆十字という偶像を夢見ている何人か、その彼らが目覚めるまで消えられず、モブとはいえ舞台作りに関わった以上、もはやこの館から出られない。  始まったら終わるまで、演じ切るしかなくなるのだ。そして、もうすぐに始まってしまう。  だから、これはまさしく命懸けだ。今夜の南天は決死の覚悟。そうしなければいけない理由が存在する。 「待ってて信明くん、私が助けてあげるから」  狂気を孕んだ声で少女は呟く。 「ここで万仙の陣を少し回す。せめて何人かは消さないと…… それであいつに疑問を抱かせてやらない限り、私の力が戻ってこない」  余人に理解できない決意を固め、南天は震える身体を自ら押さえるように抱きしめていた。 「はあ……しかしいつ見てもドン引くよな、ここ」 眼前に聳え立つと言って構わない旧辰宮邸。その威容を見上げながら、栄光はそんな感想を漏らしていた。程度の差はあれ、そこらへんは皆同じような気持ちだろう。 「これでも庭とかだいぶ削ったらしいけどね。どうかなしーちゃん、ファンとしてはやっぱり感動しちゃう感じ?」 「まあ、うん。それはそうだが……今はそういう場合でもないだろう」 「今夜ここにタタリが出る。だったら呑気なこと言ってんじゃないわよ。少しは空気読みなさいよね」 「ノブの奴……あたしが何しても結局目覚めなかったしな」 「だからここで、俺たちが何らかの結果を出すしかない。分かってるな世良」 「うん、私は大丈夫。心配しないで」 現在、史跡として観光地化されているここに正面から入ると守衛に捕まってしまうので、俺たちはそれぞれ壁を飛び越えるなりすり抜けるなりして、この玄関前にやって来ていた。 信明の症状がどういう因果によるのものなのかは未だに掴めないままだったが、だからこそやれることをやるしかない。学校で決めた方針通りに行動する。 歩美が調べた情報によると今の話題は辰宮絡みが主流とのことだったので、十中八九ここが現場になるはずだろう。 前回の苦い思いを払拭するため、全員気持ちは高まっていた。しかしそれでも一つだけ、場所がここであるということから予測できる展開に不安がないとは言い切れない。 辰宮の屋敷……そこに出てくるタタリとなれば、それはもちろん言うまでもなく、ある人物しかいないわけで…… 「きっと百合香さん……なんだよな。オレらが知ってるあの人じゃないとはいえよ」 「たぶん、すげえそっくりなんだよな。そんなのと戦わなきゃいけねえのかよ」 「栄光くん……」 「いや、すまねえ。萎えること言う気はねえんだ。けどやっぱ、つらくてよ」 「分かってる、あたしらだって似たようなもんだ。それでも行くしかねえだろう」 「そうね。だけど私はそのことよりも、他の部分が不安だわ」 「私も同感。甘粕事件の辰宮百合香って言ったらそれは……」 俺も同じことを思っていたので、世良と我堂に続くかたちで石神へと目を向ける。こいつはその視線を受け止めて、一つ大きく頷いた。 「ああ、話に聞く彼女の夢は傾城だ。要するに、洗脳能力だよ」 そう、その事実が正直に恐ろしい。なぜならそれで、俺たちの仲違いを望むというもう一つの主流を実現させることが出来るからだ。 いいや、むしろそのための悪夢ではないかとすら予想できる。 「不安なのは分かるよ。私もこれはかなり怖い。まだ当たり前に襲われたほうがマシかもしれないと思ってる」 「もしかしたら、自覚すら出来ないうちに頭を弄られるかもしれないんだからな。しかも具体的な対抗策といったら――」 「ごちゃごちゃうるせえな、おまえらは」 と、そこで不意に鳴滝が声を荒げた。不機嫌も露に顔を歪めて、一人ずかずかと玄関扉に向かっていく。 「あ、おい、待てよ鳴滝っ」 「お、落ち着こうよ。どうしたのいきなり」 「だから、うるせえんだよおまえらは。んな答えも出ねえことうだうだやるために来たってのか、違ぇだろ」 「洗脳だ? 上等じゃねえか、んなもん気合いでぶち破りゃあいい。そんでぶん殴っちまえば終わりだろ」 「そうすりゃ信明も目ぇ覚まして、俺らのことを揉めさせたい野郎どもも目ぇ覚ます。簡単な話じゃねえか、おら行くぞ!」 「あぁ、ははは……」 「まったく、本当にこの馬鹿は」 苦笑気味の我堂に続いて、石神も肩を竦めた。そのまま呆れたように、だがどこか楽しげな様子で言う。 「だ、そうだ。要は気合いで行くしかないと」 「で、どうする四四八くん?」 「……そうだな」 結局は気合い。それしかない話ではある。 「鳴滝の言う通りだ。行くぞおまえら」 「各人、気をしっかり持ってろ。何かワケもなく誰かのことがムカつきだしたら、とりあえず栄光でも殴っとけ」 「ちょ、なんでオレなんだよっ」 実際、俺たちの人間関係を弄ぼうというノリには、大概こっちも腹が立っている。今夜、ここでそのタタリを打倒できれば、鳴滝が言う通りそうした風潮を消し去ることが出来るはずだ。 そして信明、あいつを捕らえている謎もまた。 「開けるぞ」 俺は鳴滝と並び、玄関扉に手を置いた。当たり前に閉まっているのを予想していたが、意外にも施錠されていないのが感触で伝わる。 面白い。もしかするとお待ちかねというやつかもしれないな。俺は皆に目配せしてから、鳴滝と呼吸を合わせて一気に扉を押し開いた。 そうして――広がった光景を前に俺たちは目を見張る。 「これは……」 踏み入った一階のホールは、眩い照明の輝きに満ちていた。外からはまったく光が漏れていなかったにも関わらず、内部は完全な別世界の様相を見せている。 加えて印象の違いは、視覚効果だけに留まらなかった。上手く表現できないが生気とでも言うべきだろうか、今のここはそういうものに溢れている。 過去にこの旧辰宮邸へ足を運んだこともあったから、なおさらその差は感じていた。以前のイメージが殺伐としていたわけではもちろんないが、館が持つ瑞々しさと麗しさに月とスッポンほどの開きを覚える。 これこそが本来の、正しき辰宮の姿。史跡ではない、住居として生の空気というものがそこにある。 すなわち、もはや明白だった。今のここには主がいるのだ。 この大豪邸を跪かせ、自らの色に染めあげる主人の存在。一種グロテスクなほど雅に可憐で華々しい〈艶〉《つや》を持つ者。 それを疑いの余地無く信じることが出来ていた。 「凄いな、こりゃ」 「うん、まるで御伽噺の中みたい」 「さしずめ、時代ごと元に戻ってるって感じかしら」 「だとしたら、これが百年前の雰囲気で」 「いわゆる大正浪漫というやつか」 言いながら、ぼこぼこやり続ける女たちに殴られまくれ、栄光が悲鳴をあげた。 「だからっ、ちょ―――なんでオレを殴んだよおまえらはっ」 「あ、ごめん」 「すまんな栄光くん、私たちは女子なのだ」 「意味分かんねえよ、なんだそりゃっ!」 「我慢してやれ。こいつらなりに頬っぺたつねってるようなつもりなんだろ」 御伽噺みたいとは言い得て妙で、要するに女特有の姫様願望みたいなものが疼くんだろう。だから正気に返るため、ちょっとした肉体刺激が必要だったのだと予想する。 なんでそれが栄光を殴る行為になるのかは知らないが。 もしかして俺のせいか。まあいい。 「ともかく、これで色々と確定だ。どう見ても一筋縄じゃいきそうにない、締めて行くぞ」 と、改めて皆を促したときだった。 「――し、誰か来る」 鳴滝の声と同時に、俺たちもまたそれを聴いた。 足音。しかも複数ある。ホールの奥からこちらに近づいてくる何者か、その存在を察知して、皆が一気に臨戦態勢へ入った。 そうして数秒の後、現れた者たちの正体は…… 「ようこそおいでくださいました、当辰宮家の家令頭を務める幽雫宗冬と申します」 俺たちの知るあの彼と、とても似た雰囲気を持つ人で…… 「並びに芦角〈花恵〉《かえ》。んー、なるほどこりゃあ傑作だ。どいつもこいつも本当によく似てる」 あちらもまた、こちらと同じ印象を抱いているのだと告げながら。 「伊藤野枝です。まさかこのようなかたちでお会いするとは思いませんでした」 ここに三人。辰宮百合香の従者たちがそろっていた。 「なッ……」 「嘘だろ、なんで先生たちまで……」 ある程度予感していたし覚悟していたことでもある。しかし実際、こうやって面と向かった際の衝撃は洒落にならないものがあった。 これは似ているなんてレベルじゃない。まったくの同一人物そのものだろう。如何に先祖と子孫の関係とはいえ、ここまで瓜二つということが常識的に有り得るのか? 双子でさえ、もう幾らか特徴の相違があって然るべきはずなのに。 まるでこんなの、憑依の域だ。俺たちの知る彼、彼女らに、別の精神が宿って動かしているような錯覚さえ抱いてしまう。いいや、その中身にすらさほどの違いがあるとは思えない。 俺たち自身、よく似ていると言われてきたし、写真も幾つかは残っているが、年齢の違いと静止画ということもあってこれほどの相似性は感じてなかった。ゆえに初めの驚愕が引くと同時に、懸念していた危機感が込み上げてくる。 特に、栄光。 「しょ、祥子さん? いや、でも、違うんだよな……けど、なんで」 全員、親しい顔見知りの輪郭を帯びているが、中でも特別に強い個人的感情を抱いているこいつはやばい。俺は栄光の視界を遮るように前へ出て、眼前の三人と相対する。 「お出迎え恐縮ですと言いたいところですが、その口ぶりからして色々と自覚があるようですね。あなた方はご自分がどういう存在か理解している」 「ええ、もちろん。そして我々が成さねばならぬ役割も」 「それはあなた方の意思と言えるものですか?」 「我々の意思?」 鸚鵡返しにそう言って、幽雫先生――いや、幽雫宗冬は失笑した。 「そのようなもの、どだい最初から持ち得ませんね。夢であろうと、なかろうと」 「我々の役割とは、すなわちお嬢様の命に従うことのみ。さしあたって今は、あなた方をご案内するのがそれに当たります」 「つまり、ここでやる気はねえってことかよ」 「命あらば、ですが、命なくば、さして」 「つーことだ、ガキんちょども。お嬢がおまえらと話したがってる。ついて来い」 「それが嫌だって言うんなら、お望み通り腕ずくになるぜ。おまえはそっちのほうが好きか鳴滝」 「百合香様は争いを嫌う方です。ゆえにどうか、皆様も穏便に」 「そのまま抑えてくだされば、きっと悪いようにはなりませんから」 言われ、俺たちは互いに顔を見合した。 さて、どうする。確かにこの彼らが言う通り、現状悪意や敵意の類は感じられない。それが主人である辰宮百合香の意向ならば、今すぐどうこうというわけじゃないのも真実だろう。 しかし、ならはいそうですかと頷くわけにもいかない理由は存在するから…… 「悪いなおまえら、一度試す」 「え……?」 瞬間、俺は一気に目の前の家令頭へと踏み込んでいた。 「……疑いは、晴れましたか?」 「ええ、一応。すでに頭をやられているわけじゃないらしい」 呆気に取られる皆の気配を背で感じながら、俺は叩き付けた旋棍ごと身を引いてそう言った。 不意打ち気味にほぼ全力の一撃を放ったにも関わらず、まったく動じることなく捌かれてしまったのはショックだが、これで少なくとも警戒感を狂わされているかもしれないという不安は消えた。 もしもそういう術中に嵌っていたら、今のは採りようがない選択だろう。 だからこれは自分の意思。 その確信を得るためにも必要な行動で、一度試した以上はもう迷わない。 「行こう。でないと話が進まない」 「お、おう、なるほど。そういう意味ね。いきなりすぎてびびったわ」 「異論はない。大丈夫か栄光くん?」 「……ああ、平気だよ。行こうぜ」 「では――」 そうして俺たちは、この奇妙な三人に連れられて館の主が待つ部屋へと向かうことになった。 傾城の夢、城すら傾ける魔性の女……それを象徴する領域が、無垢なものすら思わせる白亜の豪邸という事実に不思議な皮肉を覚えながら。 「鳴滝、おまえもだ。本当に大丈夫か?」 「ああ? なんで俺に言うんだよ。心配なら大杉の野郎にでもしてろおまえは」 「そうは言うがな……」 いつにも増してぶっきらぼうなこいつの態度も、栄光に負けず劣らず目立つんだから仕方ないだろ。その理由にも、おおよその見当はついているから尚更だ。 まあ、あえて口にして怒らせるつもりもないが。 「そういえば、なんだかんだこの中で一番百合香さんと関わりが深いのは淳士くんだったよな」 「石神、おまえな……」 こういう空気読まない奴も中にはいるから、そこが困りものであると言える。 「別にそんなことはねえよ。何言ってんだおまえ」 「うん? そうだったかな。違うのか鈴子」 「そこは放っといてやりなさい。自分でもワケ分かんなくなってんでしょうから、この馬鹿は」 「とにかくだ。いつでも状況に対応できる気構えだけは崩すなよ」 俺たちを一顧だにせず歩く家令。たまにこちらへ優しく微笑む伊藤野枝。そして、常に面白げな顔をしながらにやにやしている芦角花恵。 三者三様、らしいと言えばらしいと思えるほどダブって見える彼らだが、それにいつまでも振り回されてはいけない。 今夜のタタリは彼らであり、その中核は辰宮百合香だ。ここまでの流れからして、その〈役割〉《もくてき》が俺たちにあるのはもはや間違いないと言える。 だから、これはラッキーだろう。以前、学校で石神が言ったように、標的が俺たちなら他の奴らに被害が及ぶことはない。 信明のこと考えればそうとも言い切れないかもしれないが、少なくとも直接的な破壊をばら撒く悪夢じゃないんだ。だったら俺たちがしっかりしていればいいという結論は変わらず、気合いの問題であるのも最初に決めた方針通り。 戦いになるのか、ならないのか。なったとして、それはどういう系統のものなのか。 謎はいくらでも出てくるが、いい意味で気を楽に持て。さほどプレッシャーを感じることはない。 鎌倉中の一般市民全員なんて括りならともかく、自分と仲間たちの安寧と真実という範囲なら、いつもそれぞれ背負ってきたことなのだから。 「柊四四八様、並びに御学友の皆様をお連れいたしました、お嬢様」 そして、ついに辿り着いた扉の向こう。恭しいノックに応えるかたちで、館の主から声が届いた。 「ご苦労。どうぞ」 開かれる青檀のドア……その奥で待ち受ける人物が発する空気に、ここで俺たちは初めて触れた。 「ようこそおいでくださいました。わたくしが当辰宮家を預かる百合香でございます」 「さあ皆様、どうか遠慮なさらずに、そちらへお座りくださいませ」 「…………ッ」 「うわ、これって……」 俺含め、全員が反射的に鼻と口を覆っていた。それは議論の余地無く無礼も甚だしい振る舞いだったが、そんなことを気にしていられる状況じゃない。 目の前に在る辰宮百合香という女性を中心に、空間が歪曲しているような印象を覚える。率直に言って、もはや禍々しいほど耽美だった。 最初に呼吸器を塞いだのは、傾城の正体が香気であるという前情報に基づくもので、実際に何かの匂いを嗅いだわけじゃない。 だが、分かる。これは妖しい。 俺たちの知っている千信館の総代とまったく同じ外見だが、この人物に限っては中身が全然違っていた。 世間知らずでマイペースで、少し我が侭だけど可愛らしいあの先輩とは到底似ても似つかない。非常に虚無的な何かを内に呑んだ、壊れかけのご令嬢。 狂気にさえ近いものを、眼前の辰宮百合香という〈悪夢〉《タタリ》は持っている。 「臭ぇ……なるほど、これがそうかよ」 ただ一人、鳴滝だけは実際に香気を嗅ぎ取れたようだったが、そのことに意識を割く余裕も今はない。 なぜなら、そう……ここにいるのは彼女だけじゃなかったから。 「お、親父殿……?」 半ば呆然と呟かれた石神の声で、皆の視線がその人物へと集中した。 「おう、なんじゃおまえ。くくく……、よいよあの餓鬼とよう似ちょるわい」 「やれんのう。こんとな所に招かれてまで、俺ァ木っ端の御守りをせにゃあならんのか」 〈煙管〉《キセル》を咥えて飄々と、柳のように捕らえどころのない佇まいを見せる男。 芯が無い。掴めない。存在感だけはあるくせに、どういう奴かを定義しようとすれば途端に印象がばらけてしまう。 ゆえに“そういう奴”と言うしかない、この男は…… 「静乃のお父さん……?」 「いや、違うだろ。これってたぶん」 「話に聞いてた、あいつなのね」 神祇省。鬼面衆。盤面不敗を自負する盲打ち。 「壇、狩摩……」 辰宮百合香と並ぶかたちで、こいつもここに存在していた。 「さて、お掛けになってくださいとわたくしは言ったはずですが」 立ち尽くす俺たちに行儀のよい微笑を向けながら、辰宮百合香がそう囁く。それだけで、こちらは即座に彼女の言いなりになってしまいそうな感覚に囚われていた。 そうしている間に、俺たちをここへ連れてきた三人は銘々の居場所へと移っている。幽雫宗冬は主人の背後に。芦角花恵はその傍らに。そして伊藤野枝は壇狩摩との中間地点に付かず離れずひっそりと…… 別に座るくらいはどうという問題でもないと頭で分かってはいるのだが、全員感情的な面でその誘惑に抗っていた。ここではいと言ってしまえば、一気に潰されそうな気がしている。 そんな俺たちを眺めながら、やおら爆発したように笑いだしたのは壇狩摩。 「ひゃっひゃっひゃ、やめたれェやお嬢、別に座ろうが座るまいがどうでもええこっちゃないの」 「夜は長いで、楽しもうじゃない。こんなところで小僧どもに体力使わせてもしゃあなかろう」 「まあ、確かに行儀は悪いがのう。そこはほれ、俺も似たようなもんなんじゃけえ」 「そうですね、分かりました。ではそれぞれお好きなように」 「皆さん紅茶はいかがです? せっかくこうして集まったのだから、和気藹々と参りましょう。野枝、お願い」 「畏まりました。それでは――」 「うるせえんだよ、この野郎!」 緊張と弛緩が混合した空気を吹き飛ばすかのように、そのとき鳴滝が吼えていた。今にも殴りかからんばかりの剣幕で、こいつは辰宮百合香に食ってかかる。 「なんだてめえ、お茶だ? ざけんな! こっちはてめえのお遊びなんかに付き合うつもりはねえんだよ!」 「やるならいつでもやってやっから、さっさと本題に移りやがれ!」 「本題? そう、本題ですか」 しかしそんな怒声にも、鉄壁の微笑は崩れない。むしろ慈しんでいるかのように、令嬢の艶やかさは深くなる。 「困りましたね、花恵。これではまるで、我々が悪い者であるかのようではありませんか」 「まあ、そこらへんは実際しゃあないんじゃないっすか? 話したら話したで、こいつらがっつり切れそうだし」 「なあ幽雫、おまえはどう思ってんだよ? 私は正直、どっちに転んでもあんまり変わんないような立場だけどさ、おまえは結構違ってくるだろ」 「別にどうとも。俺はお嬢様の意向に従うのみだ」 「そりゃそう言うわのォ、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》」 「野枝はどうじゃ? おまえは中々、お嬢と一緒で美味しいもんがあると俺は思うがの」 「そこを否定は出来ませんが、私の立場からは如何とも……申し訳ありませんが、返答はお許しください」 「だから、てめえら、なにをぐちゃぐちゃ……!」 「待てよ鳴滝」 まったく要領を得ない、こちらを置き去りにした会話で腹が立ったのは俺も同じだ。なまじ気を張っているぶん、余計に神経を逆撫でする。 だけど、だからこそ闇雲に突っ走ってはいけない。人数的にさほどの差がないこの状況で、相手の目的も確固としないまま乱戦突入というのは剣呑すぎる。 「失礼。あなた方に明確な敵意がないのは察しています。しかし、それで余計に混乱するこちらの心情も理解してもらいたい。言葉通り、悪い者でないと言うなら」 「単刀直入に問いますが、あなたは俺たちをどうする気ですか?」 ある種の洗脳を試みているのは分かっているが、その趣旨をはっきりしてもらいたい。虫のいい発言なのは分かっているが、話に拘るのならそれくらいの義務は果たしてもらおう。 俺の問いに、辰宮百合香は軽く小首を傾げて返答した。 「そうですね。強いて申さば、一つお願いを聞いていただきたい」 「お願い?」 「まさか、死んでくれとか言うんじゃないよな」 「それこそまさか。そのような危ないことではありませんよ」 「単にお願いはお願いです。あなた方の自由意思を尊重して、対等の立場から了解をいただきたいだけ」 「ですがあなたは、今もこうやって私たちを惑わそうとしている」 「あくまでお願いだって言うんなら、まずこういうのやめてくれません? 反抗しようと頑張ってるから、こっちもどうしたって態度が悪くなっちゃうんですよ」 言いつつ、歩美が目の前の空気を追い払うように手を振った。こいつらしからぬ険のある言い草だったが、そこは実際しょうがない。まさに言う通りというものだから。 「そのへんはおまえらも勘弁したれえ。お嬢のコレはの、消したり引っ込めたり好きには出来んもんなんじゃ」 「要は生まれつきの性ゆうもんよ。もしくは一種の機能かの」 「おまえらじゃって、月のモンは自分で止められんじゃろうがい。たらたら漏れるもんは漏れるっちゅうての」 「まあこりゃ、孕めば消えるんじゃったか。ひゃひゃひゃひゃひゃっ」 「さいってー!」 「なんなの、この人……」 「ねえ柊、あいつぶっ殺していいかしら」 「なんと言うか、すまんみんな……」 まさか大正時代の男にセクハラされるとは思いもしなかったのだろう。女どもには災難だったが、ともかく言いたいことは理解した。 「今、あなたが出している香気にこれといった意図はない。自然の現象なので止めようがないと言うんですね?」 「はい。それについては申し訳なく思っていますが、ご了承ください。大方、狩摩殿の言った通りですよ」 「おうおう、こりゃあほんまじゃぞ。お嬢にその気があったらのォ、おまえら今頃そろって腑抜けになっちょるわい」 「まったく、これじゃけえ物を知らん餓鬼の相手はやれんでよ」 「だったら――!」 そう、だったら――話を戻して早く続けろ。栄光が耐え切れぬように口を開いた。 「あんたらのお願いっていうのは何なんだよ!」 「簡単です」 それに辰宮百合香は、一度大きく頷いて瞑目し。 再び瞼を開くと、謡うように目的を告げた。 「我々の存在を認めてほしい。ただそれのみです」 「なに……?」 「認めろって、それは……」 俄かに意味が分からなかった。存在を認めてほしいとはつまりどういう…… 「要するに、この私らが〈現実〉《ここ》に残るのを許してほしいって言ってんの」 「そんな難しいこっちゃねえだろう? 放っといてくれりゃあいいんだよ。別に世の中引っ掻き回してやろうなんて思っちゃいないし」 「せっかく招かれた百年も未来の娑婆じゃわい。楽しみたい気持ちは分かろうが。夢じゃあタタリじゃあ〈細〉《こま》いことを言うちょらんで、見逃してくれえっちゅう話よ」 「のう? お嬢の言う通り簡単なことじゃろうが」 予想外の“お願い”に、俺たちは呆けてしまった。まさに毒気を抜かれたと言っていい。 見逃してくれ? 放っておいてくれ? 彼らがこの時代に生きていくのを? 別に何もしないから? 「有り得ないな」 だが、そんな困惑する俺たちを他所に、一刀両断したのは石神だった。 「親父殿。いや、先々代か、あなたの噂は嫌になるほど聞いている。あまりふざけるものじゃない」 「見たところ〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈し〉《 、》、狂言回しが役割か? ともかく辰宮百合香殿――」 き、と強い眼差しで睨みつけ、石神は名指しした相手に指を突きつける。 「お願いに誠意が足りない。それでは到底呑めないし」 「話せばもちろん、我々は絶対に認めんよ」 「…………ッ」 そこで俺も思い出した。先ほど芦角花恵が言っていたこと。 話したら、俺たちが切れると。 ならばお願いに誠意が足りないという石神の指摘はその通りだろう。彼らには隠していることがある。 ではいったい、その真実はなんだ? 「おまえは分かっているのか、石神?」 「ああ、気付いたのはついさっき、この部屋に入ったときだが間違いない」 「先々代だけは例外のようだから、それで分かった。正直かなりタチが悪い」 「いいか四四八くん、それにみんなも、この彼らはな――」 「あなた方の知人を核としてここに在る。まあ、言ってしまえばそういうことですね」 さらりと告げられたその言葉に、またしても俺たちは呆けてしまった。それを掻き混ぜるかのような狩摩の爆笑。 「ひゃっひゃっひゃ、つまりのう、お嬢らの中にはおまえらのお友達がおるっちゅうことよ」 「ええか、よう聞け。夢っちゅうのは〈彼岸〉《あっち》のもんで、それを〈此岸〉《こっち》に招いた挙句、固めちゃろうゆうんがどれだけ大層なことかくらいはおまえらでも分かろうがい。そりゃあ盧生でもなけりゃようできん」 「そんでいくら盧生でも、やっぱりこりゃあ大変なんじゃ。夢を〈此岸〉《こっち》に縛り易くするための重石、受け皿、依り代、生贄……言い方は何でもええがの」 「核となる〈此岸〉《こっち》の何かがあればより良い。そんでそりゃあ、当たり前じゃが招く夢と相性のええモンに限られる」 「つまり――」 「血縁者、その肉体ならこれ以上の依り代はない」 「なッ……」 もはや絶句してしまう真相だった。常軌を逸するほど瓜二つだった外見は、すなわちそういうことなのか。 「じゃ、じゃあ……あれは本当に祥子さんの?」 「ああ、動かしている中身が変わっているだけだ。いや、先の口ぶりだと上から覆っているのか。どっちにしろ似たようなものだろう」 「それで放っておいてくれってことは……」 「成り代わろうって言うの? 祥子や百合香さん、先生たちと!」 「おいこら、ふざけんじゃねえぞあんたら!」 「そんなの、絶対許さない!」 至極当たり前の答えであり怒りだった。認めるわけには断じていかない。 そして、今すぐ確かめなければいけないこともある。 「答えろ、本物の百合香さんたちは生きているんだろうな」 「もちろん。可愛いわたくしの曾孫ですもの。どうしてそんなひどいことをしなければならないのです?」 「よく言う。あんたらはただの夢だ。厳密に百年前の人物と同じじゃないし、その魂でもない」 「そう言われましても、そんなことはどうでもよいでしょう。認識の問題として、確かめようがありません」 「わたくしはわたくし、辰宮百合香としてここに在る。願い、望まれ、夢に描かれ、招かれたこれがわたくし。真のわたくしが持つ真の思い」 「それが焦がれているのですよ。――生きたい」 まるで何かを抱きしめるように、そう辰宮百合香は詠嘆した。 「生きているから面白いことなぞ何もない。そんな諦観はもう嫌ですの。今度こそわたくしはしっかりと生きたい。この手で掴みたい。亡くしたくない」 「彼を、彼も――」 「逢いに来てほしい。わたくしはここにいる。殴られても罵られても構いませんわ、いいえ――」 そこで、一気に空間の歪曲が増した気がした。溢れ出る傾城の夢。 頭蓋骨の裏側をくすぐるような、彼女の声が響き渡る。 「わたくし、それが好きなんですの」 「くッ―――、ざけんなよこのクソ女が……!」 辰宮百合香は狂っている。男の俺には理解できない感情なのかもしれないが、そういう類のうねりに呑まれているのだと直感した。 「それが、あんたの役割か……!」 「いいや、違うの。これがお嬢の素っちゅうやつじゃ。昔誰かさんに教えて貰ォたことをのう、健気に実践しちょるだけのことよ」 「欲しいもんがあったら手を伸ばす。嫌なもんがあったら怒鳴る。泣いて、叫んで、喚き倒せっちゅうてのォ……可愛いじゃろうがい。なんでこんくらいの我が侭を聞いてやろうとせんのなら」 「さっきも言うたが、お嬢らは核を持っちょる。そんで少しばかり強ォなりすぎてしもうてのう。正味な話、お客さんの要望なんぞはてんから無視じゃ。要はやりたいようにやっちょるだけよ」 つまり、夢見る者たちの〈声〉《ニーズ》に沿った行動をしていない? 自らの意思で目的を定め、独立しようとするほどの強度を持ったタタリだと? 「じゃが――」 戦慄する俺たちを嘲るように、ただ一人部外者気取りの顔をして狩摩がゆらりと立ちあがった。 「そんでも大筋のところは外さんように回るゆうんが、流石は流石の万仙陣。どっちにしろおまえらの仲はワヤになってしまうけえのう」 「これが第四の怖い点よ。たとえ甘粕や大将じゃろうと、正攻法じゃあ潰せんわい」 「のう、じゃけえこそのおまえじゃろうが。いったいいつまでボケちょんなら! 俺の下に続く身ィなら、とっととこれくらいのカラクリに気付かんかい!」 「なッ――」 やおら炸裂した狩摩の怒声は、なぜか石神一人に向けられていて…… 「ああ、ええ。もうええ。分かった分かった、ちゃっちゃと話ィ進めようでよ。それが俺の仕事じゃけえのう」 皆の視線が集中していたにも関わらず、こいつをそれを掻い潜るように、気付けば俺たちのすぐ目の前まで来ていた。そして―― 「一つ、ここはきっかけでも作っちゃろうかい」 こいつの狙いが誰にあるのか、即座に悟った俺は有無を言わせず歩美の腕を掴んで引っ張っていた。 「わっ、ひゃあ――」 「はははっ、なんじゃなんじゃ! こっちの大将もどうしてケチぃ男よのォ!」 今、狩摩が何をしようとしていたのかは分からない。だが咄嗟の判断で空振りさせてやったのは間違いなく、そのほっとした間隙に滑り込んできたのは声だった。 鬼哭のような、咆哮と共に世界が変わる。 「おっ、わあ――」 狩摩の狙いは石神だ。直前の状況からもそれは間違いないことであり、確信をもって俺はこいつの手を引いたのだが…… 「え……?」 いったいどういうわけなのか、件の盲打ちは歩美の前に立ったままにやついており…… 「おまえ、こっちでもよいよちんまいんじゃのう。飯食うちょるんか?」 誰にも理解不能な男の一手が、やはり意味不明な真似となって俺たちの前に展開された。 「なッ――」 「げっ……」 「う、嘘……」 「はあっ?」 結論。狩摩が歩美の(小さい)胸を揉んだ。 なんだそれは。 「はっはっはァ、馬鹿が油断しちょるからじゃ。ざまァないのォ!」 「こ、こ、こ……」 「お、落ち着け歩美、気持ちは分かるが冷静になれっ」 「なにすんだこのセクハラ野郎ォォッ!」 怒号爆発。それと同時に、狩摩が両手を叩いて見得を切る。 瞬間、世界が変わる音を聞いた。 「破段顕象――」 きっかけを作ってやる。 その言葉通り、こいつは自ら起爆剤となって強引に状況を動かし始めた。 すなわち、もはや言うまでもない。 「あーあ、結局こうなっちゃうか」 「交渉は決裂。ならば是非も無かろう」 「残念。ええ、本当に残念ですわ」 「あなた方と、ここで生きたいと思っていたのに」 乱戦が始まる。八対五だが、誰一人として気を抜ける相手じゃない。 いいや、本当に五人だけか? 「来いや鬼面どもォ!」 狩摩の背後に、新たな面が二つ出現していた。 それに呼応するかのように、野澤が――否、伊藤野枝が黒い霧と白い面に覆われていく。 「栄光さん、残念です」 「あなたと添い遂げるには、これしかなかったというのに、もう……」 「祥子――」 伸ばした手は、顕象する破格の創界に呑み込まれた。 「――〈中台八葉種子法曼荼羅〉《ちゅうだいはちようしゅじほうまんだら》ァ!」  その瞬間、起こったのは場と人物を対象とした強制的な転移だった。  陣形崩し。配置の入れ替え。四四八ら八名は狩摩の破段によって、辰宮邸の各場所へと抗う間もなく飛ばされる。 「なッ――」 「ここは……」 「中庭……?」 「さーて、そんじゃ始めようか」 「――祥子さん!」  水希、晶、鈴子、栄光――その四人に対する鬼面衆三人と芦角花恵。 「野郎……好都合だぜ」 「俺とおまえか。まあ戦力的に不安は無い」  淳士と四四八は主の間に残されたまま、目の前の二人と向かい合う。 「あまり長引かせるのも忍びない。わたくしもやりましょう。  宗冬、おまえはおまえのしたいように。いいですね?」 「御意に、お嬢様」  辰宮百合香と幽雫宗冬。今夜、事象の核となるタタリは彼らで―― 「こんの野郎ォ……!」 「抑えろ歩美、先々代は半端じゃない」  だからこそ、もっとも異質な盲打ちと対峙している歩美と静乃の責任は重かった。  読めない。分からない。掴めない。壇狩摩と戦うとき、勝敗という当たり前の物事すら意味不明なまやかしと化す。 「呑まれれば喰われるぞ、二対一なのを意識しろ。  これは優位だ。それを忘れなければ勝機はある」 「くっくっく、はっはっはっはっは!」  辰宮邸の上空に出現した奇怪な陣。幾何学的な曼荼羅の上に立ちながら、神祇の首領は手で顔を覆い笑っていた。  自らの後裔に対する嘲罵か、それとも親愛か。何にも囚われない彼独特の価値観で、この盤面を俯瞰しているかのように。 「クソ真面目じゃのう。誰に似たんかよう知らんが、おまえそんなじゃけえ駄目なんよ。  いいや、じゃけえこそ万仙をも崩し得る……か? やれやれ、ここは天晴れ大将とでも言っちょこうかい。流石は英雄様じゃとのォ」  天を指差し、地を抑える。上下に広げた両腕を回し、鳴動する空間そのものに勅を下した。  これは〈遊戯〉《あそび》。ただし命を懸けた座興だと。 「来いや。餓鬼どもの出来具合、見ちゃろうじゃない。  知っちょるじゃろうが、俺は使えんと思うたら親でも〈殺〉《バラ》すぞ」  盤面不敗の宣戦布告が、夜を圧する号砲となって轟き渡った。 「そうだ、やれ。やってしまえ……!」  人知れず辰宮邸に潜伏したまま、すべての状況を盗み見ている南天は期待に肩を震わせていた。  昂じすぎた憎悪は甘く、病の痛みさえ忘れるほどに彼女の胸を満たしていく。  祈りは一つだ、役に立て。  自分がどれほどの愚か者か、知って墜落するがいい。 「殺すのは、その後よ」  だから回れ。回れ回れ万仙陣。  酔い痴れて盲目の〈宇宙〉《ソラ》を体感しろ。 「ほぉ……?」  同刻、とは言えぬ夢の彼方で、世良信明は甘粕正彦との問答を続けていた。  いいや、まさに今から始まるところである。彼の感覚では、ここに二人きりとなってからまだ数分と経っていない。  そんな中で、ふと小首を傾げると虚空を見上げた甘粕は、いったい何を感じていたのか。 「これはこれは、どうしてなかなか……未来も面白そうではないか。  いいぞ、俄然熱くなってきた。こちらはこちらで始めようか」  ずい、と一歩前に出る。気圧されそうになる信明へ、魔王の笑みは深くなる。 「おまえの真を教えてくれ」 「僕の、真……」  噛み締めて、搾り出す。そして同時に、理屈を超えて直感した。 「緋衣さんが、危ない……!」  自分が何とかしなければ、彼女がいなくなってしまう未来を。 「――行くぞ」  瞬時に戦闘態勢へと移行して、静乃は全身に夢を纏い気を漲らせる。やると決めた以上、思考と行動に遅滞はない。この場で採るべき役割分担も迷いなく見出していた。 「私が突っ込む。歩美は援護を」  そういう極めて単純な戦術だったが、これこそ一番理に適っている。数の有利をそのまま活かせる選択だろう。  前提として歩美は後衛以外有り得ない。ゆえに静乃がアタッカーとして槍になる。  神祇省の先々代、壇狩摩……彼のことはよく話に聞いていたから、その性質も大まかには理解していた。こうと定義しきれない人物ではあるものの、白兵が得意なタイプじゃないことだけは確かだろう。  だから、静乃がその懐に突っ込むのだ。歩美と狩摩が遠距離同士で撃ち合っている弾幕を掻い潜り、近接で止めを刺す。  決着は早ければ早いほどいい。ゆえに静乃は、ここで自分の守りに意を割かないと決めていた。歩美の援護を信頼して、一直線に間合いへ入ることだけを考える。  それが成せれば、勝機は十二分にあるだろう。 「分かった。けど大丈夫?  あれ、しーちゃんのお父さんとそっくりなんでしょ?」  つまり精神的にいけるのか? 歩美の問いに、静乃は鼻で笑って返答した。 「問題ない。さっき彼自身も言っていただろう。  敵ならば、親でも殺す」  それが〈鬼面衆〉《じぶんたち》で、そういう訓練をしてきたのだと言い切った。そしてそんな発言に、一瞬だけ表情を曇らせた歩美へのフォローも忘れない。 「ついでに言うとな、うちの親父殿はすごく腹の立つ奴なんだよ。まあ、四四八くんと似たような立場なんだ、私は。 だから、これは有り難い。いつかぶっ飛ばしてやろうと常々本気で思っていた」  軽口は軽口だが、言葉の通り本気である。笑っていいものか咄嗟に迷っている歩美に一度片目を瞑り、静乃は一気に踏み出した。 「その顔を晒して私の前に出てきたことが、運の尽きだと思ってくれ先々代!」  距離は目算で十五メートル、接触まで半秒も掛からない。この一撃で決まると思っていたわけでもないが、少なくとも顔から余裕を消してやろう。  相応の自信を持って駆け出した静乃だったが、次の瞬間、驚愕の事態が彼女を襲った。 「え……?」 「なッ―――」  どういうわけか、歩美が目の前に現れていた。  瞬間移動? しかしどうして―― 「うッ、おおおおォォ!」  理解が追いつくよりも反射の域で、静乃は無理矢理身体を倒した。あのまま駆けたら歩美と激突していたわけで、そうなると彼女の防御力的に大ダメージは避けられない。  ゆえに静乃はもんどりうち、ギリギリで回避を決めつつ陣の上を転がり回る。傍から見れば完全な一人相撲の様相だったが、そこに滑稽さを感じていられる状況じゃない。 「な、なぜ……!」  いったいどんな理屈の出来事だ? 混乱覚めやらぬまま顔を上げて、静乃は叫んだ。 「歩美、どうして君が邪魔をするッ!」 「ち、違うよ。わたしは何もしてない!  しーちゃんこそ、なんでわたしに向かって来るの?」 「なにッ?」  歩美の言っていることが正しければ、おかしな真似をしたのは自分のほう。咄嗟に周囲を見回して、静乃は愕然と目を見開いた。 「反転? いや、私が逆に走ったのか……?」  駆け出す直前と、景色の前後左右が逆になっている。それはすなわちそういうことで、理は歩美にあることを意味していた。  方向感覚が狂った? どうして?  拍車をかける不可解さの中、心底馬鹿にした笑い声が響いてきた。  その声もまた、どこか乱反射しているようで…… 「さっきも言うたが、おまえよいよ真面目じゃのう。まるで若い頃の大将みたいな奴じゃわい。  当たり前の手ェいうんは、当たり前に読まれて掬われるんど? 優等生もほどほどにしとかにゃのう」  そして、掲げた狩摩の手に高密度の咒法が集中する。危険を悟った次の瞬間、それが花火のように爆発した。 「――――ッッ」  襲い来る散弾に視界のすべてが埋め尽くされる。しかもこれは、ただ真っ直ぐ飛んでくるわけじゃない。一つ一つが標的を追尾するホーミングの性質を備えていた。 「君は動くな歩美、なんとかその場で撃ち落とせ!」  この陣上で無闇に動き回るのは危険である。直感的に察した静乃はそう叫び、自分は自分で向かってくる光弾の迎撃に移った。  本音を言えば歩美を庇いに行きたかったが、それは難しいと感じている。きっと〈上〉《 、》〈手〉《 、》〈く〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈辿〉《 、》〈り〉《 、》〈着〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  理屈を立てたわけじゃないが、間違いないと思っていた。今の己は何かが非常に乱れている。  そしてそれは、次の刹那に痛みをもって証明された。 「がッ、ぐううゥッ」  前方の弾を叩き落そうとした瞬間に、真後ろから衝撃を食らったのだ。その他の左右や斜めからの攻めには対応できていたにも関わらず、本来もっとも容易いはずの正面攻撃を迎え撃てない。  結果静乃は、つんのめりながら〈後方〉《ぜんぽう》に投げ出される。再び不覚を取った事実に歯噛みする暇もなく、背筋に冷たいものが走っていた。  うつ伏せに倒れている自分の下、そこに何かを感じていて――  今、私はまた踏んだ。  その認識を持つと同時に、上から追い打ちの咒法が迫る。 「ちッ、くそォッ!」  間一髪、何とか回避できたものの、異常はここでも起こっていた。なぜなら左に避けたはずなのに、右へ転がっていたのだから。  なんとか膝立ちで身体を起こし、ようやく静乃は確信を得た。やはり自分は、方向感覚を狂わされている。  しかも丁寧に一つずつ。最初は前後、次は左右というように。 「では、いったい……」  種は何だ? いくらなんでも野放図に好き勝手というわけじゃないだろう。仮にそうなら、最初から全方位を出鱈目にされていたはずである。  きっかけは、常に自分の移動とあった。最初は攻撃のために踏み出したとき、そして今は吹き飛ばされて転がったとき。  先ほど、倒れていた際に腹の下で感じた戦慄を忘れていない。あのとき“踏んだ”と直感したのは、つまりそういうことであり―― 「――下かッ」  淡く明滅する陣に向け、静乃は解法の凝視を叩き込んだ。すると見える。見える。悪辣な罠が見えてくる。 「キリーク、タラーク、マン、アン、サク、バン、カーン……梵字かこれはッ」  幾何学的な組み合わせを見せる曼荼羅の陣。それを構成するパネルの一つ一つに、前述した梵字を刻む光が浮いていた。  しかも、まったく一定ではない。今このときも、梵字はランダムに輝きながら位置を変え続けている。  これが異常の正体だ。あれを踏んだら、そこに対応する方向感覚を反転させられる。  いわゆる干支の守護梵字。種字法曼荼羅と言われる類。  最初に静乃は子の方角、つまり北を意味するキリークの種字を踏んだ。結果として彼女が認識する北は北じゃなく、反対方向である南の午に変わったのだ。つまり前進しようとすれば後退する。  続いて踏んだのは酉の方角、西を意味するカーンの種字。ゆえに左右、西が東に変わっている。  全八方向、どれかを踏めばどれかが狂う。そして罠の配置は流動的に、絶えず不規則に変わり続ける。 「最悪だ……」  ほぼ完全な白兵封じと言っていい。知らずに突っ込めば翻弄されるだけであり、気付けば気付いたで動けなくなる。  この陣において狩摩を斃そうとするのなら、全方向への広域破壊しかないと思えた。しかしそんな技は自分たちに無く、仮にあったとしても仲間を巻き込んでしまうから使えない。  先の強制転移も考慮すれば、多勢に対する極悪な嵌め殺しと言えるだろう。にも関わらずノリがゲームめいているところなど、神経を逆撫でするどころじゃない。  苛立ちに目眩すら覚える。この面倒臭さ、人を食ったスタイル、親父殿に輪をかけてタチが悪いと、静乃が歯噛みしたときだった。 「しーちゃん、右斜め前!」  先の攻撃をどうやら凌ぎきったらしい歩美がそう叫んだ。そのまま続ける。 「サクが出てる、踏んで!」 「えっ、あ――」  意味を理解するより速く、静乃は反射的に歩美の指示通り動いていた。現状、狂わされているのは前と左だけだから、斜め方向への移動なら問題ない。  そう、動くだけなら問題はないのだが、本当に厄介なのはその結果だ。これ以上感覚を狂わされるわけにはいかないというのに、歩美は何を考えている?  と、思ったときに、効果はもう現れていた。 「あ、なに? これは、そうか……!」  〈午〉《サク》を踏め。そう指示した歩美の意図をようやく静乃は理解した。というか、今まで気付かない自分のほうが馬鹿だった。  突然の乱調が原因で、術の本質を正確に掴むことが出来なかったらしい。要は相互反転である。  この破段が持つ恐ろしさは、方角の反転じゃない。〈方〉《 、》〈角〉《 、》〈を〉《 、》〈潰〉《 、》〈す〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈だ〉《 、》。陰陽道の〈方違〉《かたたが》えよろしく、方位に対する禁縛の勅となっている。  なぜなら前が後ろになったからとって、後ろが前になったわけではない。〈午〉《サク》を踏まない限り後ろは後ろのままであり、先ほどまでの静乃は前進という選択を潰された状態だった。  それで勝てるはずもないのは当然で、だからこその相互反転。後ろを前に変えることで、前進の自由を取り戻す。  単純に見れば混乱がより深く顕在化したことになるものの、前に絶対進めない状態よりはマシだろう。ゆえに続けてやることも決まっている。 「そっち、〈卯〉《マン》が出た!」 「分かってる!」  続いて、右を左に逆転させる。これで左方向への自由も取り戻した。  前後左右、完全に逆向きの感覚状態に陥っているが、少なくとも不具ではない。ならばやれる。  自分自身に強くそう言い聞かせる静乃だったが、それよりも驚くべきは歩美の順応性だった。いくら彼女の感覚が正常であったとはいえ、梵字の意味などよく知っていたものである。  この手の知識を叩き込まれてきた静乃ならともかく、普通の学校で習うようなものではないのに。  そんな驚きを感じ取ったのか、歩美はにやりと親指を立てて胸を張った。 「この程度、中二界隈じゃ常識っ!」 「お、おう、そうか。頼もしいよ」  一般の世について、静乃にまたしても誤解を生じさせないやり取りだったが、ともかく種は分かったし最悪も脱した。後は、この状態でどこまで普段通りにやれるかという話だろう。 「しーちゃんはなるべく何も考えないで。わたしが普通の感覚で指示を出すから」  つまり、右に動いてほしいときは左に、下がってほしいときは前に行けと静乃に言う。それは、歩美が彼女を操作するという意味でもあった。 「それなら集中も出来るでしょ?」 「ああ、しかし、本当に大丈夫か?」 「だいじょーぶ!」  再度、頼もしく胸を張る。未だ半信半疑な静乃に向けて、歩美は断固請け負った。 「クォータービューの反転仕様なんてゲームじゃしょっちゅうやってるよ。  だから心配しないで、絶対ミスったりしないから」 「分かった、君を信じよう」  どの道、こうなればやるしかないのだ。静乃は歩美の指示通り、〈後〉《 、》〈ろ〉《 、》〈に〉《 、》〈下〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈進〉《 、》〈む〉《 、》。そして、極力斜め方向を連続させるじぐざぐ軌道で動き始めた。後はこれ以上、下手な梵字を踏まないようにすればいい。  最初は確かに面食らったが、慣れれば可能な作業だろう。 「ほぉ、こりゃたまげた。やりおるのう」  再び放たれる狩摩の咒法。広域に拡散する先と同じものだったが、静乃は歩美の指示に則って前方だけを迎撃しながら進んでいく。  複雑な挙動はなるべく取らないほうがいい。捌ききれない残りの弾は、同じく歩美が放った咒法によって相殺された。 「要は神経衰弱みたいなもんでしょ、これ。わたし、こういうのじゃ負けないよ!」  実際、歩美の指示は正確を極めていた。舌を巻くほどの処理能力で、最短ルートを示していく。 「行けるぞ……!」  この連携に問題はない。  時に静乃本人の修正し難い反射によって幾つか被弾しているものの、即死に繋がるような重さはなかった。少なくとも、狩摩の懐に達するまでは持ち堪えることが出来るだろう。  なぜなら盲打ちは動かない。棋士を気取っているかのごとく、最初の場所から一貫して不動のままだ。それが静乃に、ある確信を抱かせている。 「どうやら、この創界のルールに嵌るのはあなたも同じらしいな先々代」  不用意に移動して梵字を踏めば、狩摩本人も方向感覚が狂うのだ。ゆえに彼はああやって、固定砲台のように動かない。  策士策に溺れるの格言通り、敵を嵌めることに執心しすぎて自分の自由度を削いでいる。それは悪手だと断言して、静乃は一気に間を詰めた。 「御覚悟――、百年前の夢にやられるようでは進歩がないと笑われる!」  ゆえにあと一歩、釵の間合いに入るとき、踏まねばならぬ足場には〈酉〉《カーン》の梵字が生じていた。すでに一度踏んだ方角。ならば突っ切って問題ない。  きっと変化はないだろうし、仮にあっても再反転で狂った感覚が元に戻る。どっちに転んでも御の字だ。  それは静乃も、そして歩美も確信していたのだが―― 「阿呆めが」  神祇の首領は失笑する。出来の悪い生徒を諭す教師のように。 「半端じゃのう。確かに俺と阿呆は相性悪いが、芯から阿呆にもなりきれちょらん。それじゃあ駄目よ。  加えて洞察も足りんのう。よいよ優等生にもなりきれんか。さっきは似ちょるゥ言うてやったが、やっぱ大将にはまだ遠いわい」  いったい何を言っている? 分からずとも、静乃は最後の一歩を踏んだ。〈酉〉《カーン》の梵字が光り輝く。 「ご丁寧に技の名前まで叫んでやったっちゅうのにのォ」  〈中台八葉種子法曼荼羅〉《ちゅうだいはちようしゅじほうまんだら》――狩摩の破段を表す号で、その意味するところは何だというのか。  察するまでの一刹那で、静乃の感覚は〈上〉《 、》〈下〉《 、》〈逆〉《 、》〈さ〉《 、》〈ま〉《 、》〈に〉《 、》〈反〉《 、》〈転〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。 「え、――なァッ」  足場が空に、そして地面が頭上にある。重力まで逆になった蝙蝠のような視界の中、見上げる下方には狩摩の姿。  つまり、陣は上下に対の形で存在したのだ。このとき静乃は、上の陣に強制転移させられたことになる。 「まあ、ええ。餓鬼は痛い目見んと分からんけえの」  嘯き、狩摩は一歩踏み出す。加えてまたもう一歩。  踏むと同時に、彼の姿が掻き消えた。そして次の瞬間に、声はすぐ傍から聞こえてきて…… 「おら、ぼっとすなや」 「あッ、ぐううゥゥッ―――」  背後に出現した狩摩が放った裏拳をまともに受けて、静乃は逆さまの天を転がった。ようやくカラクリの全貌を理解したときにはもう遅い。 「ほんで、こうじゃ」  再び狩摩が一歩踏み出す。  するとまた掻き消えて、今度は下の陣へと移動する。 「あっ―――」  そこには、無防備で硬直している歩美がいた。上下の陣を瞬間転移するということは、こういう真似も可能になる。 「王手じゃの。ほれ」  その一撃は指で弾いた程度だったが、歩美を無力化するには充分すぎる威力があった。声もなく吹き飛ぶ彼女を見届けてから、狩摩は上方に倒れている静乃を見上げる。 「降りて来いや。ここまでやりゃあ、もう説明もいらんじゃろ」 「くッ……!」  舌打ちしながら立ち上がり、静乃は手近な梵字を踏んだ。下陣にある干支対応のものではなく、そこにあるのは胎蔵法曼荼羅。  すなわち、中台八葉の種字である。 「……下にばかり気を向けさせたのは、上の陣に気付かせないためですか」 「ん? ああ、そりゃそうじゃが、一応事前に教えてやったつもりじゃがの。  こうやって、ほれ、身振りまでしちゃったろうが。よいよ何処を見ちょったんなら」  天を指差し、地を抑える。そのまま広げた両腕を上下に回す最初の仕草。それをもう一度やって見せつつ、狩摩は呵々と笑っていた。  お互い、再び下の陣で向かい合いながら、静乃は忸怩たる気持ちを抑えられない。  中台八葉……それもまた干支と同じく、八方向を示す曼荼羅である。つまり下の陣で同じ梵字を二度以上踏めば、そこに対応する上の陣へと強制転移させられるのだ。  静乃は〈酉〉《カーン》を二度踏むことで、八葉における天鼓雷音が存在する上方へ飛ばされたことになる。  足場へ集中せざるを得ない状況に追い込まれて、上下挟み撃ちの種を見抜くことは心理的にまず出来ない。  狩摩は事前にヒントをやったと言っているが、彼の行動を意味づけしようとするのは基本徒労だ。神祇の一員として盲打ちの何たるかを知っている静乃なら、なおのことそう思うだろう。  しかし、だからといってそれは言い訳にならないことだ。事実としてこの失着は痛すぎる。  歩美が戦線を離脱した。数の優位が無くなったのみならず、以降はこの乱れた感覚を自分自身で制御しながら戦わないといけない。 「ま、たいぎいじゃろうがもうちょいと頑張ってみい。〈歩美〉《あんな》は自由にさせちょったら小賢しいけえのう、さっさと消えてもらう必要があったんよ」 「今、俺が興味を持っちょるんはおまえじゃけえ」  言いつつ、自らの後裔を指差す狩摩。静乃は先ほど殴られた頬を軽く撫でて、確認するための問いを投げた。 「あなたが白兵に長けているという話は聞いていませんでしたが?」 「おう、そりゃそうじゃろうのう。俺からして驚いちょるわい」 「しかし、これが今の役目じゃ。お客さんの要望には応えちゃらんといかんじゃろう。お嬢らが好き勝手にやっちょる手前、尚更の。  どうもあれじゃ、俺のやり方が気に喰わん奴ァ、おまえらだけじゃないみたいでよ」  つまり、この狩摩は近接戦闘も全力でこなせる。そういう〈声〉《ニーズ》によって編まれた存在なのだと告白していた。 「まったく、本当にタチが悪い」  ならばいっそのこと、単純な脳筋にでもなってくれればよかったのに。盲打ちのスタイルを維持したままで、唯一の弱点と思われた部分も強化されたら手に負えなくなってしまう。  まさしくこれは反則だ。前回のキーラと同じく、正真正銘の悪い夢。 「だけど……」 「おう、じゃけどやらにゃあならんのが正義の味方っちゅうやつよのう。話はこれくらいにしとこうかい」  言って、互いに構えを取る。静乃の感覚は未だに前後左右が逆のままで、狩摩も幾つか狂ってはいるだろう。歩美を排除した一連で、彼も負債を負っているのだ。そこに期待をかけるしかない。  白兵においても無双の盲打ち。そんなタタリに、どれほどの効果があるのかは知らないが…… 「少なくとも、あなたはここで食い止める。皆の所に行かせはしない」  そう誓う静乃に対し、狩摩は笑った。  放埓に、嘲るように。馬鹿め何も分かっていないと言うかのように。 「そりゃあどうかの。必死に足止めしちょるんは、もしかすると俺のほうかもしれんでよ?」  その言葉が意味する事象を、静乃は確かに分かっていない。  いいや、分かってはいけないような気がしたのだ。 「はい、当たりー!」  一方、中庭での戦いは奇怪極まりない様相を呈していた。  両陣営、敵味方合わせて八名――その全員がすでになんらかの傷を負っている状態だったが、それは決して互角の戦況を意味していない。  単純にダメージだけを量れば対等とも見えるだろうが、精神的には完全に鈴子たちのほうが呑まれていた。勝負とも言えない不条理な夢を前に、打開策すら見つけられない。 「いや、もしかすると外れなんかな? まあどっちでもいいや、続けようぜ。  大杉も、んな怖い顔すんなら殴ってこいよ。誰に飛ぶかは、ぜーんぜん私も分かんないけどさ」  怪士の攻撃を受けた鈴子は、それに対し無傷だった。  しかし代わりに、泥眼が吹き飛んだ。  先の状況を説明するなら、そういう出鱈目な構図となる。事の因果というものが狂っており、ダメージが八人の間を乱反射している有様だった。  そんな事態を引き起こしている者は言うまでもない。この場で一人、心底楽しそうにしている花恵である。 「どうすんのよ、これ……!」  攻撃しても攻撃されても、ほぼ正しい所に伝わらない。確率は八分の一で、自分自身に撥ね返ってくることさえある。  ゆえに、鈴子たちは手詰まりだった。己の技が仲間を傷つけるかもしれない危険に萎縮して、もはや満足に戦えなくなっている。  だというのに、相手側は一切頓着していないのだ。  条件は同じ。ロシアンルーレットのような状態にも関わらず――  今も豪雨のように降り注ぐ夜叉の剣が、そのことを証明している。こんな弾幕、何人に命中して何人にダメージが飛ばされるか、想像するだけで恐ろしくなるというのに。 「避けて、みんなッ!」  だから、出来ることは逃げ回るより他になかった。防御さえ迂闊に出来ない。  たとえ上手く受け止めても、その衝撃さえ何処かに飛ぶのだ。それは状況次第で致命的な隙を生むかもしれず、よって回避の一辺倒。  馬鹿げている。甚だふざけていると言うしかない。花恵の夢は確かに敵の気勢を削げるだろうが、同時に自分の首も絞めている。  いったい、どうして、なぜにこんな真似が出来るというのか。 「んー、なんだよまたそのへん話させるのか? いい加減に理解しろよ、私はこういうもんなんだって。  望まれてるし、こう在りたいし、ただのお茶目な教官殿じゃあつまんねえだろ、実際がよお」  皆の思考を正確に看破して、おどけたように花恵は言う。今このときも死のルーレットは回り続けているというのに、まったく躊躇う様子がない。 「だから、そろそろ腹決めな。そういうやる気ない態度見せられるとよお、こういうことしちゃうぞ私は」  言うなり、彼女は抜き打ちで放った軍刀を傍らの怪士に叩き込んだ。 「なッ……!」  その意味するところは同士討ち――とは一概にならないことを無論全員が承知している。 「あッ、がああァッ!」  ダメージが飛んだのは晶だった。肩から袈裟懸けに斬り下ろされる朱線が生じ、そこから血飛沫が噴出する。 「はっはっは、真奈瀬、おまえ運悪いなあ。何回目だよ。  けど、おまえ以外の奴だったらとっくに逝っちゃってたかもしんないしな。そう考えりゃあラッキーなのか?  おい、よかったなあおまえら。優しい真奈瀬がまたババ引いてくれちゃってよお!」 「くッ、ほんと……腹立つけどその通りだよ」  運が悪いけど運が良い。実際言い得て妙であり、今のダメージを晶以外の仲間が受けていたら即死していたかもしれない。彼女の高い循法性能が、ギリギリで踏み止まることを可能にしている。 「けど、これ以上は流石にやべえ。そろそろどうにかしねえとよ……」  状況に予断は一切許されない。このルーレットは時間が経つほど凶悪さを増していく。  なぜなら同じ人物が二度目、三度目と重ねて受け止め役を引いた場合、それに呼応してダメージ量が跳ね上がるのだ。  実に晶は、ここまで四度も曰くババを引いている。五度目以降となってくれば、ただの平手打ち程度であってもどれほどの威力になるのか分からない。 「鈴子、おまえ何か考えろよ! ジリ貧どころじゃねえぞこれ!」 「分かってる! 分かってる……けど!」  正味な話、やれる手はハナから一つに決まっていた。  事態を混迷化させているのは、議論の余地無く花恵の破段。まずはあれを無力化しないと始まらない。  彼女を中心にして、蜘蛛の巣状に広がっている阿弥陀クジを消し去ること。  かなりの力勝負になるが、求められるのはそれだろう。破段は急段と違い、誰にでも通じる反面、抵抗や破壊が可能である。よって、成すには強力な解法が絶対不可欠。  すなわち栄光。しかし彼では、そこに辿り着くまでのリスクが大きすぎた。  花恵は最後方に下がっているため、鬼面衆三人を潜り抜けながら行かねばならない。仮に上手く成功させても、当の鬼教官とて案山子じゃないのだ。逃げるし防ぐし反撃してくる。  以上のことを勘案すれば、栄光をそのまま突っ込ませても十度以上は被弾してしまうだろう。とても結果が出るまで保ちはしない。  確率的に、そんなものは戦術とすら言えない破れかぶれだ。辛い局面で、そういう類に頼りだしたら負けてしまうと鈴子は思う。  だから、少しでも成功率を上げねばならない。  そのための一手も分かっている。  しかし―― 「………ッ」  不安がある。勝利のヴィジョンを描けない。信じられないほど弱気な己に鈴子は自身激昂してるが、それでもまだ、どうしてもと…… 「お願い鈴子、決断して!  分かってるから、やるしかないでしょッ?」 「水希……」  そんな懊悩に耽った一瞬、迷いごと切り払うかのように水希が吼えた。お互い目が合う。  大丈夫――そう告げる瞳に鈴子は少し気圧されて、だけどすぐに持ち直して頷き返した。  そう、悩んでいても始まらないこと。ならばやるしかないだろう。 「突っ込みなさい大杉、何処狙うかは分かってるでしょ!」  花恵の破段を掻き消してしまえ。  相手にとっても見え見えの狙いだろうが、だからといってわざわざ仔細を語るような真似などしない。彼女はそういうところが生真面目で、つまり我堂鈴子らしく在ろうとしている。  いつも通り、自分らしく。そして皆も皆らしく。  信じろ、信じろ――疑ってはいけない。 「あんたはそれ以外、考えなくていい!  フォローは水希、あんたに任せた。あんたにしか出来ない!」  標的めがけて一直線に、防御も回避もかなぐり捨てて進む栄光を水希に援護させること。趣旨はそういう作戦である。  言うまでもなく、フォロー役の負担は半端じゃない。栄光を守りながら、自分も被弾せずに剣林を突破しないといけないのだ。冷静に鑑みて、己には不可能だと鈴子は思う。だから足手まといは参加しない。  水希なら出来る。水希にしか出来ない。スパルタは相手を見込んでいるからこそ意味があるんだと胸の内で復唱しながら、鈴子はもっとも重要な最後の指示を晶に下した。 「もしも失敗したときはあんたが頼りよ、絶対治して!  それから、当然分かるだろうけど――」 「あたしらだけじゃねえってんだろ? 言われるまでもねえよそんなの!」  そうだ、それが一番大事なことだ。勝負とは、最後に立っている側へ無条件に旗が上がるというものじゃない。  どちらがどれだけ、より目的を遂げたかの競い合いである。いくら相手の狙いを挫いても、こちらの成果が半端だったら勝ちと言えなくなってしまう。 「私たちは、生き残らないといけない」  目的その一、この場で生存を勝ち取ること。 「そして、取り返さないといけない」  目的その二、友人や恩師を救うこと。  この二つを完璧に達成しなければ勝利じゃないのだ。  タタリの核にされたという花恵や祥子、百合香と宗近――以上四名の無事があってこそガッツポーズが出来るというもの。そこを抜きにして勝負の帰趨も糞もない。  核の人物を傷つけず、どのように泥眼や花恵教官を制すればいいかはまだ分からないが、とにかく目下大問題なのはこの破段だ。これをどうにかしない限り一歩も進まないのは前述通りで、ゆえに方針もその攻略で揺るがない。  よって今だ。さあ腹を括ろう。 「任せたわよ、大杉――水希ッ!」  同時に飛び出した二人に向けて、渾身の激を送った。背後では、晶が万一の場合に備えている。  ここで自分は晶を守る。ともすれば吶喊しそうになる衝動を全力で封じ込め、自分が下した命の結果を正面から受け止めること。  それが指揮官。四四八でもきっとそうするはずだと信じている。  だからこそ―― 「はああああァァッ!」  託された水希は、全力でそれに応えた。銃弾のように回転しながら矢面を疾走し、栄光に向かうすべての攻撃を防ぎきる。  驚異的と表現すべきは、自分にのみ当たる攻めを彼女が見極め、迎撃していないことだった。速度を一切落とさないまま、入神域の体捌きで紙一重の回避を決め続けている。  結果、続く栄光は完全なスリップストリームに乗っていた。元来さほどの速さを持たない彼だったが、水希に引っ張られるかたちで突っ走る。鬼面の追撃を置き去るために。  怪士を抜いた。泥眼を抜いた。難関である夜叉も抜いた。  残るは一人―― 「今よ、大杉くん!」  花恵の軍刀が二人まとめて串刺しにしようと迫る中、水希は勝機を確信していた。  これは防げる。絶対の自信を持ってそう思える。  この一撃を弾いた直後に、栄光が自分を追い抜いて乾坤一擲を決めればいい。彼の解法ならやれるはずだと、これも等しく確信していた。 「なあ、おまえさ――」  だからだろうか。極限まで引き伸ばされたような時間の中、花恵の声がダイレクトに水希の芯へ届いたのは。 「誰だっけ?」 「――――――」  何を、この人は何を言ってる?  自分は誰かと、そんなものは質問にすらなっていない自明のことで…… 「ぁ………?」  おかしいと、その意味すら判別できずに生じた空白的な一刹那。水希は躱せるはずの一閃が眉間にめり込む音を聴いた。  言うまでもなく、それは致命域の損傷である。 「ああああああぁぁぁァァッ!」  そしてそのダメージは泥眼に、いいや野枝かそれとも祥子か、ともかく彼女に飛んでいたのだ。 「なッ、祥子さん――!」  鬼面を被り、痛みも感情も封じている状態の泥眼が悲鳴をあげた。つまり今のは、そのくらい深刻な事態を示している。 「はい馬鹿、こんなときに女の尻追ってんじゃねえ」  浮き足立った栄光を、返す刀で花恵が貫く。これもまた致命傷。 「がッ――、うおおお、やべえぞ私、やっちゃったよ! ははははははは!」  そしてそれは、花恵本人へと撥ね返った。結果を見れば水希も栄光も無傷だが、まったく喜べるものではない。作戦は失敗したうえ、救うべき対象二人をまさに殺しかけている。 「あ、晶ァッ!」  悲鳴に近い水希の声は、彼女が混乱の絶頂にいることを告げていた。己の失敗による惨禍だと自覚しているからだろうが、本を正せばなぜ失敗したのか分からない。 「分かってる。――けど、これ」  駄目かもしれない。その言葉を晶は崖っぷちで堪えていた。  単に傷が深すぎるという意味だけじゃなく、当の花恵たちが素直に癒されてくれないからだ。彼女らは瀕死の身体を引きずりながらも、晶の循法から逃げ続けている。  そして、無傷な者らも木偶のように突っ立っているわけではない。  怪士の拳が、夜叉の剣が、共に晶へ殺到した。それを防ぐために鈴子が割って入ったが、弾幕の密度が高すぎる。完全には迎撃できない。 「きゃあああァッ」  結果、水希が弾け飛んだ。彼女がダメージを受けるのはこれで三度目、耐久性能を考慮すれば非常に危ない。 「どうして……!」  いったい何が起きたんだ? 叫び出したくなる鈴子に応えたのは、血塗れのまま今もにやついている花恵だった。 「悪ぃな、理屈は私もよく分からん。ただ、狩摩に言われたんだよ。やばいと思ったらそうしろって…… ふふ、まったく傑作だなあおい! どうすんだこれ、なんかもう滅茶苦茶になってきたぞ」 「滅茶苦茶って、それはあなたが……!」  思わず悪罵で返しかけたが、そんなことをしている場合じゃない。鈴子は全力で考える。  嫌な予感。浮かばない勝利のヴィジョン。この結果に至る兆候は存在して、にも関わらず強行した自分のミスだ。どうすればいい?  考えるが、分からない。そもそもどうして、なぜ私はと、水希に向けた花恵の言葉が、鈴子にも呪いのように広がっていく。  これはどんな意味の出来事なんだ。  分からない。分からない。  分かっては、いけないような気さえしている。 「さて、〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》?」 その言葉を叩きつけられた瞬間に、俺と鳴滝の中にある何かが崩れた。 「がッ――」 「ぐおおおッ」 まるで、自分の身体が瞬間的に鉛と化したようだった。傾城の精神支配とはまったく違う領域で、先の言葉が俺たち二人に枷を掛ける。 いいや、むしろ何かを外されてしまったような。 喩えるなら剣なり鎧。そういった武装を瞬間的に解除された感覚に囚われた。 ゆえに当然と言うべきだろう。その隙を幽雫宗冬が逃すはずもない。俺たち二人は、纏めて無様に吹き飛ばされる羽目となった。 羽毛のごとく、軽い軽いと彼の破段に翻弄されて。 「ちっくしょう……なんだ今のはッ」 「分からん……だが、どうにもまずいぞ」 致命傷を避けただけでも僥倖だと、そんな強がりすら口に出来ない。今のたった一台詞で、戦況を引っ繰り返されたのだと自覚している。 つまり、ほんの先ほどまではこちらが優勢だったのだ。負け惜しみじゃなく、あと一歩で勝利を掴めたはずだろう。 なぜなら幽雫宗冬の破段にしろ、辰宮百合香の破段にしろ、鳴滝は一種の耐性を持っている。後者については理屈的に曖昧だが、とにかく効きが悪いのは確かだった。 そして前者は、相性的な相殺論。重化と軽化のプラマイゼロが成立している。出力勝負ではあるものの、そこで負けるこいつじゃなかった。 ゆえに後は、至極単純な話になる。鳴滝が矢面に立って、俺の負担を減らせば減らすほどこちらが有利になる構図だ。壁と決め役の配置は普段どおりで、まったく変則なものではない。 辰宮二人の破段は共に範囲対象の夢であるため、そこまで容易いわけでもないが、雑把に纏めてしまえばそういうことだ。勝機はあったし届きかけたし、ほぼ指を掛けていたと言っていい。 だというのに、これでは振り出しどころかマイナスだろう。しかも原因不明というのが手に負えない。 「さてどうするよ。俺らが知ってる先公なり総代なりも助けなきゃいけねえ。うざい奴らだが、見殺しってのは流石に後味悪すぎる」 「とりあえず死なねえ程度にぶちのめして、大人しくさせてからっつうのは通りそうにないぜ」 もう、さっきまでのやり方では意味がない。そのへんの見解はこいつも俺と同じらしく、新たな方針を求めていた。 「考えるのはおまえの役だろ、何かねえのかッ?」 「そうだな、さしあたっては鳴滝――」 言いかけてから、俺たち二人は左右に散った。いつまでも作戦会議を許してくれるほど甘くない。幽雫宗冬の一閃を共に回避しながら立ち回る。 そこで俺は、一気に鳴滝を置き去って前線に躍り出た。 「交代だ、しばらく俺が壁になる!」 「あァッ、しばらくっていつまでだよ!」 「分からん、とにかくおまえは、俺が言うまで何もするな!」 「――けど、おまえそんなのは……!」 言いたいことは分かっている。危険すぎるというんだろう? だがこうなってはやるしかない。 別に自棄を起こしているわけじゃないんだ。勝利までの新たな方程式を見出す道筋は掴めている。 俺と鳴滝に起こった異変は、先の喩え通り武装解除だ。つまり単純な弱体化、技術の劣化を意味している。 眷族としての力を得てからこっち、不慣れながらも積み上げてきたものを一気に帳消しされた感覚だ。それは確かに痛手だが、別に存在的な根本を覆されたわけじゃない。 俺たちは俺たちのまま、気性も特性も不変である。単に下手糞となっただけなら、鳴滝の持つアドバンテージは健在だろう。 ならば、より困難なほうをやってもらうのが筋というもの。現状、それは壁役に非ずだ。そして俺の役目も、異変の正体を突き止めるというものじゃない。 原因究明と、そこからの解決手段獲得という二つを成すのは遠すぎる。トラブったらトラブルと向き合うのは一見正しいように思えるが、そういうのは往々にして単なるパニック状態だ。同じところを延々回っている行為に等しい。 「だから、このまま勝てる手段を採るぞ!」 状況を模索するより、ただ状況に対応すること。ここで大事なのはそれだろう。まずもって武力制圧というプランが不可能レベルになった以上、危険だがその工程を飛ばすしかない。 すなわち、タタリのみを祓う段に直接移る。失敗できないぶっつけ本番になる以上、耐性持ちの鳴滝にやってもらうのが一番いい。そのために成さねばならないことは分かっていた。 つまり彼らの目的を果たさせること。要は満足させてお帰りいただく。 本物の百合香さんや幽雫先生に縁を持っているのは俺よりも鳴滝だから、そういう意味でもこいつが適任。上手く嵌れば、核の二人は解放されるはずだろう。 「わたくしを認めてください、四四八さん」 「――――ッ」 瞬間、心をねじ切られるような声が頭蓋骨内で反響した。 「それほどまでに、わたくしがこの世に留まるのは許せませんか?」 「―――、がァッ!」 舌を噛み切る勢いで食いしばり、自分の頭をほぼ全力でぶん殴った。完全な自壊レベルの行動だったが、こうまでしなければ虜になっていただろう。 そして、その隙に切り込んでくる軽化の破段と鋭剣の一閃――無論のこと躱すどころか、対処できるものではない。 「――柊ッ」 結果、俺は血煙をあげながら吹き飛ばされ、背後の鳴滝に受け止められるかたちとなった。肩越しに、焦燥と心配の極地にある声が届く。 「無茶すんじゃねえよ、俺と代われ。おまえ、こんなことしてると死んじまうぞ」 「いったい何考えてんだ。理屈になってねえことくらい、俺でも分かんぞ」 「……失敬な、馬鹿扱いするんじゃない」 溢れる血を飲み下し、再び立ち上がって前に出る。断固おまえはそこにいろと背で告げながら、心配無用だとアピールした。 「これが、この場じゃ正しいんだよ。説明すると長くなるから、察してくれ」 謎の弱体化現象に嵌った以上、辰宮二人の破段に俺はまったく太刀打ちできない。ゆえに傍目からは、壁役など確かに不可能だと見られるだろう。 「まさかおまえ、根性でどうにかしようってんじゃないだろうな。ふざけんなよ、そんなこと仮に上手くいったとしても――」 「片がつくまで、おまえが保つはずねえだろうが」 「だから、誤解するなと言っている」 俺が殺されるのが先か、タタリを祓うのが先か、そういう時間勝負をしようとしているのは本当だが、頼みにしているのは根性なんてあやふやなものじゃない。 そういうのも嫌いじゃないが、ここではまったく別のものだ。いいや、もしかしたら似たようなものなのかな。 「まあ、いい」 ともかく、〈鳴滝〉《こいつ》も頑固な奴だ。納得させなければ作戦に支障をきたすと理解して、短く言った。 「おまえには、直接分からせるべきだろうな」 「断っておくが、ハイリスクなのはそっちのほうだぞ」 同時に、俺は一瞬の精神集中に入った。背に感じる鳴滝の存在を捉え、こいつが持つ夢の輪郭を形にする。 「破段顕象――」 おまえの重さを貸してもらう。そう心の中で告げながら、描いた夢は鳴滝淳士という誇りの具現。 こいつの破段を俺が使う。壁を成立させるために、それこそ絶対不可欠なことだった。 「なッ、こりゃあ……」 狼狽の気配が如実に伝わる。それも当然の反応だろう。なぜなら今、こいつは一切の夢が使えない状態に陥っている。 前回の栄光と同様、俺が使うことで能力を奪われたのだ。状況だけ見るならば、総合戦力の低下以外何ものでもない。 ゆえに、これは俺の破段本来の姿でもなかった。前回の苦い経験から練磨を重ね、本来の型を体得していたというのにこの体たらく。弱体化の影響はそれほど深い。 が、今回に限っては致命的じゃないと考える。 「いいか鳴滝、おまえはおまえがやらなきゃいけないことを見極めろ」 「〈素〉《 、》〈直〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》、分かったな」 「―――――」 それだけ言って、俺は再度前線へ躍り出た。狙いは幽雫宗冬を抑えるというただ一点。 「行くぞおおォォッ!」 雄叫びと共に、間合いへ入った一歩が百倍以上の重さとなって辰宮邸を震撼させる。ここから断じて後には退かない。その意思表示であり自己への鼓舞だ。 同時に繰り出された鋭剣の一撃を真っ向から受け止める。今度はもう吹き飛ばされない。 重墜と軽昇の鬩ぎ合いが、ここに対等なかたちで成立していた。よって今からが勝負だろう。 鳴滝のために道を開く。そのためには、俺だけへ軽化の夢を向けさせなくてはいけない。 余裕を奪え、他に意など割かせるな。なんでもいいから釘付けにしろ……! 「答えろ、あんた本人の意志は何処にあるッ」 「自分が独立した夢だというなら、言ってみせろッ」 鍔迫り合いを続けながら、幽雫宗冬に向け俺は問うた。こうして対峙しながらも、この人物だけは未だに読めない。 辰宮百合香は、この現実で生きたいと言っていた。それはすなわち未練であり、生前に遣り残したことがあったからだと推察できる。 なら、この家令は? そんな主と一緒にいる彼の未練とはいったいなんだ? 「まさか、唯々諾々というわけじゃあるまい」 「大の男が、案山子のように言いなりか? そんなくだらない奴じゃないだろうッ」 「答えろ幽雫宗冬、あんたの真は――」 何処にある、と言い切るより速く、彼の破段が激化した。 「あなたには関係ない」 「…………ッ」 「だが目の付け所は見事だ。流石と言おう、よく出来ている」 「ああ本当に、彼らの生き写しだよ」 同時に、彼は体重がない者のようにふわりと後方へ飛んでいた。そうして開いた距離をこちらが詰めるよりなお速く、五月雨のような刺突が連続する。 躱せる数でも、技量でもなかった。そしてそもそも、今の俺は鳴滝だ。あいつはこういうものに対し、小賢しく捌くような真似をしない。 「重くなれ……!」 地球よりもずっと、もっと、その矜持を芯にして、俺は刃の弾幕に特攻した。全身を抉られるが構わない。頑強さを武器に押し通る。 「おお、らァッ!」 そして放った一撃を、闘牛士のような軽やかさでいなす幽雫宗冬。再び距離が開くが逃がさない。 「止まってください、四四八さん」 「――――ッ、ぐゥ!」 だが追撃しようとしたその瞬間に、またしても頭蓋を揺らす声が届いた。抗うための反発で、目から耳から血が迸る。 鳴滝の破段を使用している今の俺だが、〈傾城〉《こちら》に対する抵抗力は依然頼りないままだった。僅かでも気を抜いたら、一気に頭を壊されると実感している。 しかしその事実は、何も悪い意味だけじゃない。 「ぐッ、は……やっぱりな」 辰宮百合香の破段に対する耐性は、鳴滝の夢と関係ない。それがたった今証明された。 もとより精神支配という特殊なものだ。ならばそれに対する抵抗力も精神性、すなわち心の在り様に左右される。 極めて簡易に言ってしまえば、俺は彼女の虜になる余地があるから掛かり易い。ならば、掛からない奴とはどういうものか。 「見ただろう鳴滝――こういうことだ!」 この局面で、おまえに夢の加護は必要ない。そう言外に含めながら俺は吼えた。 「百合香さんは任せたぞ、行ってやれ!」 今夜、悪夢の中心にいるのはあの令嬢だ。ゆえにその攻略こそが、すべてに連鎖する要となるはず。 彼女の未練を断ち切ること。その満足を与えてやれるのはおまえしかいない。 百年前の事情なんかほとんどよく分かっていないが、状況から推察するにそれしかないと考える。 そして、この場にいるもう一人も…… 「攻めて、来ないんだな。絶好のチャンスだったのに……」 今、その気になれば俺を四・五回は殺せただろう幽雫宗冬。にも関わらず、彼は不動のままだった。 ならばこの人物も、鳴滝による主の救いを望んでいるのではないか。俺はそう考えて、いや信じて―― 「察するに、色々つらいところなんだな」 「さて、何のことやら」 もう少し、彼の下手な芝居に付き合おう。とことん不器用なこの男は、加減のやり方も下手糞だ。 よって僅かでも呼吸がずれれば殺される。そんな危険で、切なく、滑稽な……脇役の舞踏を続けよう。 彼が愛するお姫様を、夢から覚ましてやるために。 「―――――」  四四八からの激を受け、淳士は文字通り硬直していた。彼らしからぬ事態と言っていい。  基本、考えるより先に身体が動くタイプである。よって指示の意味が分からなくても、とりあえず実行に移すのがいつもの淳士だ。それで己の本道とずれが生じることはないと経験から知っているし、彼は四四八を信頼している。  が、にも関わらず今回は咄嗟に身体が動かない。普段なら常に合致していた彼の衝動と四四八の指示が、ここで乖離を起こしている。  百合香を任せた。彼女のところに行ってやれ。そう言われたが、淳士本人は行きたくないと思っているのだ。  それはなぜか? 分からない。分からないことが不快である。  いいや、本当に分からないのか? 頭では行くべきだと、理解しているはずだろう。  状況が掴めないほど間抜けじゃない。鍵を握っているのは間違いなく己であるという自覚がある。  四四八の破段によって自分の夢は使えなくなったが、それはまったく問題ない。淳士にとってこの場の脅威は幽雫宗冬だけであり、そちらは抑えられているのだから臆せず進めばいいだけだ。  後は至極単純な役割分担。説明不要だし馬鹿でも分かる。  淳士の担当は辰宮百合香。あの少女を彼がどうにかしなくてはならない。  そう、どうにかする。  タタリを祓い、核となっている生徒総代を救い出すこと。  その具体的手段はまだ見出せないが、本来足踏みするほどのことではないはず。  夢が使えなくなっているこの今でも、淳士に傾城の夢は効いていない。ゆえに洗脳される不安はなく、行けと言われたら行くべきだ。とりあえずでも、行動してから考えるのがいつもの淳士なのだから。  しかし―― 「~~~――ッ」  奥歯が砕けかねない域で歯噛みした。まったく、なんだこの無様は。  矢面に立ち、身体を張っている四四八に悪いと思わないのか。他の仲間たちを心配する気持ちはないのか。  こんなところでぐだぐだと、らしくない醜態を晒している場合じゃない。  素直になれ――そう言われて、だからここで従うべき自分の心は、皆に恥じない己でいるための責任だろう。ワケの分からない駄々を捏ねていったいどうする。 「分かったよ。……ああ、行ってやるよ。任せとけ」  一歩。それこそ岩盤でも引き抜くように。夢は使えないにも関わらず、信じられないくらい重く感じる一歩だった。  そしてそのまま、自分自身を引きずるようにして淳士は歩く。原因不明の抵抗感を、渾身込めて抑え込みながら。 「さあこちらへ、いらっしゃってください淳士さん」 「…………ッ」  令嬢の声に、抵抗感は数段増しで跳ね上がった。  一種の皮肉と言うべきか、百合香の破段が効かない淳士は、それがゆえに目的の達成を自ら困難にしている。  どうやら自分は、何としてでもこの女の言うことを聞きたくないらしい。そのことだけは、ようやくのこと見えてきて……  後はまたしても答えの出ない堂々巡りだ。なぜ、という疑問符だけが無限に生じていくばかり。  すぐ傍らでは、四四八と宗冬が絶死の火花を散らしている。鋭剣と旋棍の風圧が頬を叩くほど至近を擦過し、飛び散る血飛沫が衣服の至るとこを濡らしていく。  もし、まかり間違って流れ弾の一発でも受けてしまえば、今の淳士は粉微塵になってしまうだろう。それはよく分かっていたが、この危険域に留まるほうが数段楽に思えていた。百合香に届くあと一歩がどうしても踏み出せない。  奇怪、不条理、甚だ度し難いこの拒否感。  それは目の前の百合香が気に入らないから? 総代である千信館の百合香を救う気がないから?  否。原因はそこじゃないと、ようやくそのことだけは理解して―― 「どうしても、応えてはいただけませんか、淳士さん」 「俺は……」  違う。〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈待〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  この俺では意味がないと、理屈を超えて身に走る答えを自覚した瞬間だった。  とん、と、軽く背を押されたのだ。  それは傍らで戦っている四四八の背が淳士の背に触れたからだが、そんなことが起こったのは起点となった者がいるからで――  間に四四八を挟まなければ触れたくもない。関わりたくもない。しかし見過ごすわけには断じていかぬと、殴りつけたいほど不愉快で不器用な誰か。  おそらくは、自分と同じくらい馬鹿な男。 「行けよ、これはおまえの責任だ」  そいつが、失笑まじりに言っていたのだ。 「そして、俺が成すべき役目であろうと心得る」  未練はそれだと、文字通り背を押された淳士は踏めなかった一歩を踏んでいた。 「うッ、おおおっ」  繰り返すが、このときの彼は夢を使えない生身である。  山を背負っているような重い歩みだと思っていたのはあくまで錯覚。精神的なものにすぎない。  現実的には見た目相応の重さしかなく、戦闘圏内に留まっていたせいで宗冬の破段も幾ばくかは受けていた。  つまり、今の淳士はひどく軽い。そんな状態で押されてしまえば、狂った物理法則をまともに受けて飛ばされるのみ。  何処へ? もちろん言うまでもなく――  微笑む令嬢の胸元へ。諸手を広げて歓迎するかのような彼女に、淳士は―― 「だからッ―― そりゃ俺じゃねえって言ってんだろうがあァッ!」  止まれ止まれと、素の全霊を搾り出し叫んでいた。  かつて似たようなことがあったかもしれないと、不意に脳裏を過ぎったものが何なのか、淳士はまだ分かっていない。  分かるべきは、自分じゃないだろうと感じていたのだ。 「――はあああァァッ!」  歩美が脱落し、一対一となった上下曼荼羅の境界を、神祇の二人は流星よりもなお速い超越の速度域で乱舞しながら激突していた。  もはや誰の目にも捉えられない。移動という概念を根本から破壊する動きであり、事実当然のことだろう。それらすべてはテレポーテーション、共に空間距離を飛び越えた消失と出現の繰り返しであるからだ。  ゆえに、ここで特筆すべきは物体運動の速さに非ず。魔天に通じる夢の理に身を置いて、なお遅れを取らない思考の速さだ。彼と彼女が、等しくこのサーカスに適応していることである。 「はっはァ、やるのう! ケツに火ぃ点いて、ようやく気合い入ったか。  おら、もっと見せェや。〈迦楼羅〉《カルラ》なら空くらい飛んでみい!」  愉快痛快と呵々大笑する盲打ちは、しかしそういう面で見ればさほど驚愕に値しない。ここは彼の創界で、言わばその領土である。己が敷いた陣の特性を十全に使いこなすのは、むしろ道理とすら言っていい。  恐るべき使い手とは表現できるが、あくまでそれ以上のものではなかった。  よってこの今、真に凄まじいのが誰であるかは言うに及ばず。 「驚いた、私の号まで知っているのか先々代!」  回転しながら中台八葉の陣に転移し、飛来した咒法の散弾を残らず叩き落した静乃である。今や彼女は、一挙動ごとに上下へ飛ばされる身でありながら、一切の混乱なくこの悪辣な曼荼羅への対応をこなしていた。  すでに双方、全八方向への感覚がものの見事に反転している。右は左に、前は後ろに、音も気配も完全な逆さまだ。そのうえ重力さえ〈狂々〉《くるくる》入れ替わり続ける状況で、まったく動きが乱れない。  いいや、むしろ徐々に正確さを増してすらいく。 「そんなもん、動きを見りゃあ分かるわい。師匠は誰なら、ええ教育を受けちょるのう。神祇は百年後も安泰かァ?」 「生憎と、皆が我々のことなど忘れている。三代先まで続いているという保障はない」  すぐ右隣に転移してきた狩摩に対して、静乃は全力で左へ叩きつけるような蹴りを放った。  結果、逆さの感覚がそれを是として、中空に激突の音響を轟かす。矢継ぎ早に繰り出された盲打ちの拳にも、彼女は顔面からぶつかるように踏み込むことで後方への回避を決めた。  そして転移。離れ際、抜き放った〈苦無〉《くない》を上下逆に投げつけることも忘れない。 「だが、私はそれでいいと思う。皆と学校に通ってそう感じた。  こんな技、後生大事に伝えていくような世ではもうないよ。  いいや、こういう心をか」 「ほぉ……抜かしよるのうひよっこが。若いもんはこれじゃけえやれんでよ。  わりゃあ、神祇の千四百年をなんじゃと思うちょるんなら」  同じくこちらも、飛来した苦無をまるで窮することなく防ぎきる。どころか、内の一本を指で摘むと投げ返してきた。 「そういう口ぶりは、なるほど親父殿とそっくりだよ。  だからだろうな。少し鈍り気味の感覚が戻ってきたのは」  紙一重で、しかしなんら危なげなくそれを躱すと、自嘲するように静乃は言った。曰く勘が戻ってくるたび、彼女の動きからは無駄が消える。  言い換えれば、際どくなっているということだ。ほんの僅かな手違いで致命傷を負いかねない、そんな綱渡りへ迷いなく踏み込んで行くかのごとく。  恐怖がないのか。傍目にはそうとしか思えない豪胆さであり、事実ほぼその通りだった。  なぜ静乃が総反転した感覚を持て余さず、死線に対処することが出来ているのか、答えは実に簡単である。彼女は死ぬことを塵芥ほどにも思っていない。  それは単なる感情麻痺や、自己に対するいい加減な認識によるものでもなかった。死にたいのかと言われれば否と答えるし、今も前提として生きるために戦っている。  ただ、戦になれば人は死ぬと、その現実を徹底して叩き込まれているにすぎない。そこに己を例外として、神にでも選ばれていると錯覚をしないこと。  大事なのは、単純にその一点。  全方向感覚が逆向きに狂うのみならず、足場さえもが不規則に転移し続けるという場でパフォーマンスを維持するなら、それこそ五感を超えた獣じみた本能でも発揮するしかないだろう。しかし基本、そんなものは人間に出来るようなことではない。  だが逆に、人であるからこそ可能なことも存在する。進化の過程で本能が鈍磨している種族ならでは、生存欲求を潰してしまうという機能の獲得。  無論、ただの怖いもの知らずや死にたがりでは意味がない。理性を残したまま特殊な死生観を武器化するのが重要であり、ここで求められるのは要するにオンオフだ。  スイッチを切り替えるように、生きるために死ぬという矛盾した概念を纏うこと。何も珍しいものではない。  士道の基本として、現代まで一般に伝わっている価値観の一つだ。元来、日本人には向いている哲学なのかもしれず、神祇省はそれより千年以上早くそうした境地を見出している。  よって、洗練のほどは比にならない。静乃はあえて死に飛び込む道を連続して選んでいるから、逆向きの曼荼羅が正反対の結果を出し続けているというだけだ。  理屈としては至極当然、まったく難しくない公式。だがそれを実践するのがどれほど困難かは言うまでもないだろう。  死ぬ気になれば生き残れる――よく聞く話ではあるものの、だからといって迫る刃に正面からぶつかっていける者はほとんどいない。  その場の思いつきや開き直りで、生理反射まで抑え込むことは不可能だ。そうすればそうなると分かっていても、普通は身体がついて来ない。  だからこれは、静乃が積み上げてきた練磨の賜物。  鬼面の号を有する者は、一言でいえば修羅である。殺し屋であり、死が生業だ。ゆえに矛盾した死生観を揮うことに不都合はまったくない。むしろこれこそ、本来の在り方とすら言えるだろう。  彼女は若く、まだ殺しを知らない。そうした意味では、確かに現状不完全。  だが、経験を補う素質が静乃には宿っていた。  神祇の歴史において四人目の迦楼羅――その名が持つ“お役目”は措くとしても、生半可な力で得られる座でないことは事実だから。 「まるで鍛えなおされているような気分だよ。そうした意味ではこの陣も、何処となく修行時代を思い出す。  もしかして、あなたが後世に遺したものか?」 「さあてのう、俺がそんなことをするかどうかは、自分でもよう分からんが」  ごきごきと指を鳴らし、狩摩は大儀そうに首を振る。そのまま自他の周囲に点滅している梵字を一通り眺めた後で、煙管を燻らせ紫煙を吐いた。 「おまえが陽を好いちょるんは理解したわい。ちょいと陰から離れたくらいで、呆気のう染まり始めるくらいにゃあの。  別にそれ自体は構わんで。さっきはああ言うたがの、俺からして神祇の歴史なんぞはどうでもええんじゃ。実のところ、百年先まで続いとったことに驚いちょるわい。 じゃがの――」  そのとき、狩摩の目つきが変わった。飄げた態度はそのままに、いきなり声にも重みが宿る。 「組織の存亡がどうじゃろうが、人の資質ゆうんは大事での」 「盲打ちの二代目が必要なように、迦楼羅の四代目も必要なんじゃ。  わりゃあ、そのためにはもうちいと己の〈陰〉《カゲ》を見つめにゃならんの。じゃなきゃあ朔の毒なんぞ呑めやせんわい。  よいよたいぎィ話じゃが、これも大将に言われたことじゃし……」  一歩、狩摩が踏み出し梵字を踏んだ。同時に掻き消えるその姿。 「恨むんなら、俺らの盧生様を恨めや――のうッ!」  次の刹那、現れた彼は静乃から十メートル近く離れた座標に存在した。てっきりすぐ間近に来るものと身構えていただけに、空振りめいた肩透かしを受けてしまう。  そして、それは連続した。 「――ッ、何を」  訝る静乃の眼前で、高笑いを続けながら転移を繰り返す狩摩の動きは滅茶苦茶だ。到底意図があるものとは思えない。  直接的な脅威になる行動は一切なく、牽制にしても間合いとタイミングの取り方が無意味だった。これではまるで、子供がふざけているのと変わらない。  ゆえに、むしろ読み易くなる。幻惑とは虚実か混じるから効果を発揮するものであり、すべて外しているなら単なる馬鹿だ。  なぜなら、物事には流れというものが存在する。最終的に詰める気ならば一見無茶でも相応の手順が必要で、ここまで盛大に崩した後では修正できない。  必敗の道筋は必勝同様、ある程度以上進めてしまえば降りることが不可能なのだ。これはその一線を越えている。  静乃の目には、そう見える。 「~~~―――ッ」  どうするべきだ。盲打ちの特性なら知っている。ここまで乱した流れに乗っても、彼は勝利すると言うのだろうか。  すでに二度、いいや三度、静乃はイメージの中で狩摩に痛打を浴びせることが出来ていた。もしも最初からその通りにしていれば、今頃勝負は決していたかもしれない。  迷った瞬間、すぐ目の前に神祇の先々代が現れていた。ここにきて初の実だが、言ったように予測は容易で、だからこそ―― 「おらァッ!」  ごく当たり前に繰り出された肘の一撃を、難なく静乃はいなしていた。  直撃すれば頭蓋が砕け散ったかもしれないが、そういう未来を予感させる怖さはない。  そこから先は反射だった。目の前に隙だらけの敵がいれば刺してしまう。今の静乃はそういうスイッチを入れているため、放たれた返しの釵が深々と狩摩の肩を抉っていた。 「づゥ、はは――やるのう!」  ここまでまったくイメージ通り。与えた負傷の程度まで、静乃が思い描いた絵面を綺麗になぞっていた。予想に反した大ダメージでも与えていれば逆に警戒もしただろうが、そういうことにはなっていない。  ただ当然の成り行きとして、あまり上手くない防御がこの結果を生んだのだ。  ならば次は? その次は? もっと深く入るだろう。  間違いない、狩摩は必敗の流れに乗っている。 「あなたは私に――」  よってもはや躊躇は無用。静乃は自らも転移に入った。 「殺しの経験を積ませたいのかッ」  そして追撃も呆気なく成功する。狩摩の移動先を即座に見極め、揮った釵が今度は脇腹を抉っていた。  奇妙な心地がする。己の技が殺人行為に着々と近づいているからではなく、このような真似をする壇狩摩という男の内面を思えばだ。  振り返るに、彼は最初からこちらを試すような言動が多かった。いいやそれどころか、ある種成長を促すような態度ばかり取っている。  ならば、これはそうなのか? 自己の〈陰〉《カゲ》に対する直視が甘いと先ほど言っていた通り、石神静乃を迦楼羅天として完成させることが目的なのか。  己を殺させることによって?  三毒を喰らう霊鳥の何たるか、その真髄は衆生の煩悩に対する救済だ。ゆえに殺しという負の経験を積ませなければ完成しないと、彼は考えているのかもしれなかった。  そう仮定すれば、確かに表面上の筋は通る。組織の存亡よりも人の資質と先ほど言っていたように、静乃の昇華を煽る手には矛盾がない。  ないが、しかし、そうなれば同時に見えてくる一つの可能性。  この〈狩摩〉《タタリ》、もしや違うのではないのかと。 「――先々代!」  盤面不敗を謳う盲打ち。その彼が己の敗北をもって勝利の布石としたことは、以前もあったと聞いている。  そしてこのとき、狩摩が描いている勝利の形というものを推察すれば、それは一般の者が夢で知り得るような情報じゃない。  だったら、答えは一つだろう。 「今夜、あなたを顕象した盧生は――もしかして我々と同じ」  柊四四八、その人なのではないのかと。  ここにきて思い至った静乃は、同時に狩摩の背後を取っていた。完全なる必殺の状況が具現している。 「さあ、どうかいのうッ!」  振り向き様に放たれたのは握り込んだ煙管での一撃。唸りをあげて迫るそれに、静乃は自ら飛び込んだ。逆向きの法理に則るまま、死へ特攻することがここでは生に繋がると信じるがゆえ。  これまで通り、今夜何度となくやったことをもう一度再現する。それで終わりと、彼女は疑いなく最後の一歩を踏み込んで―― 「え―――?」  なぜか、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈動〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈事〉《 、》〈態〉《 、》〈を〉《 、》〈悟〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  感覚は反転してない。右は右で、前は前。  よってこのとき、死へ向かえば必然として死が落ちる。 「ボケがあァッ、青いんじゃあッ!」  怒声は本気の罵倒だった。使えぬならば親でも殺すと言った通り、狩摩の殺気に偽りはない。  静乃は気付いていなかったが、彼女が踏んだ最後の一歩にはとある秘密が隠されていた。一見した限りなんら変哲のない無地の足場で、梵字はまったく浮かんでいないが、その周囲に種がある。  このとき、静乃と狩摩を中心とした八方には、中台八葉が正しい形で並んでいたのだ。不規則に出現場所を変えるすべての梵字は、実のところ完全なランダムではない。  ある一定のタイミングで、このような正規にそろう瞬間が生まれ得る。  そしていったい、何が起こるか。  八葉の中心にあるのは〈大日如来〉《アーク》――  すなわち万象の根源であり、始まりを意味するもの。  ゆえに、そこを踏めばすべての感覚がリセットするのだ。  心得違いはどういうものか。この事象が示しているのは如何なる真相、真理なのか。  教えてやる気は狩摩にない。  ただ馬鹿め、不合格と断言し、閻魔のごとく切り捨てるのみ。  迫る死を目前に、静乃は呆けるままなのか。  いいや、違う。 「くッ、あああああああァァッ!」  もはや躱せぬ。一度入れたスイッチをこの刹那で切り替えることは不可能で、だから彼女はさらに前へと踏み出した。  そうすることで命中のポイントを僅かでもずらす。死中に活どころではない選択は、決して投げやりなものじゃない。たとえ虚実見誤ったままであっても、己にとって大事なものを決して逃さないという静乃なりの気迫だった。  なぜなら、彼女が信じるものは一つ。 「私は柊四四八の眷属だ! あなたもまさしくそうならば―― 知っているだろう、青臭くて何が悪いッ!」  己の何を否定され、何を正すべきだと言われているのか、静乃はまったく分かってないまま、しかし真を吼えていた。  内情としては支離滅裂。現状意味はまともに通らない。  だが今、ここで宣誓した誇りこそ、これより先に彼女らを待ち受けるモノへと向ける伝家の宝刀。  今代の迦楼羅が有する、降魔の剣を晒した瞬間だった。 「しーちゃん!」  そして、ゆえにだからだろうか、霊鳥の雄叫びと共に毒は祓われ救済が起きる。直前まで脱落していた歩美が目覚め、彼女の破段を顕象させた。 「ぐッ、がああッ!」  まさに手荒すぎる阿吽の呼吸。歩美の弾丸は静乃の背に命中し、それが新たな推進力となって迦楼羅を飛ばす。  死線を越えて、もっと、さらに――その羽ばたきで悪夢を残らず掻き消すがごとく。 「ほぉ、こりゃこりゃ」  よって盲打ちは、そこですべての牌を投げた。躱そうと思えば躱せたのかもしれないし、あるいは静乃を潰せたのかもしれない。  だが、そんなことに意味はないのだ。どだい彼が何をしようと、最終的にはその手に勝利が収まっている。  そう信じる者こそ壇狩摩で、要は満足したということだろう。  曰く、己の役目はここで終わり。 「まあ、気張れェや。万仙はえげつないで。  今夜、おまえら含めて生贄の誰か一人でも死んだらのう、そこで全部終わってまうんじゃ。その意味をよう考えェ」  胸に釵を受けたまま、静乃を見落ろし狩摩は笑った。徐々にその姿が薄れていく。 「青さが武器かい。くくく……まったく大将みとォなこと言いよってからに。おまえほんまにアレなんじゃのう、たまに自分が怖ォなるでよ。  こうまで嵌るたあ、よいよ俺も天才ゆうかなんちゅうか……」 「ぁ……」  消えていく。そこに何を言うべきか静乃は咄嗟に分からなかったが。 「おら、前向けい。やらにゃあならんことは知っちょろうがい。  さっさと片ァつけるんじゃ。出来るよのう?」  確かに今は優先すべきことがあると知っていたから迷いはなかった。 「もちろんだ。安心してくれ先々代!」  頷き、同時に息を吸い込む。回転を始める命の経路。十二の正経と八の奇経が脈動する気流となって彼女の体内を駆け抜ける。  ここに練り上げた膨大なエネルギーを夢に乗せ、静乃は小さく囁きのかたちで吐き出した。 「オン・ガルダヤ・ソワカ――」  その瞬間、辰宮邸を覆うすべての悪夢に亀裂が走った。ゆえにもう一度、今度は大音声で咆哮する。 「オン・ガルダヤ・ソワカ――!」  障碍、滅砕――声は突風と化して爆発さながらに広がった。  皆に届く、届く、劣勢など一気に吹き飛ばしてしまうように。 「行くぞ歩美ィ! 手を伸ばせ!」 「わ、ちょ、ちょちょちょちょちょま――」  狩摩の消滅と共に砕け散った曼荼羅の欠片を纏いながら、静乃は歩美を小脇に抱えて迦楼羅王のように舞っていたのだ。 「――ッ、静乃!?」  空中に張り巡らされた奇怪な陣が粉砕されたのと同時、鈴子たちは静乃の咆哮を聞いていた。  そして、それが及ぼした効果は劇的なものとなる。  まず、鬼面衆の夜叉と怪士が文字通り掻き消えた。主である狩摩の消滅に釣られたのか、一切の抵抗もないまま瞬時に夢へと還っていく。 「なッ、ちょ――おいおいおい!」  そして、次には花恵の破段が消えていた。あれほど手こずり、数秒前まではまさしく絶望の悪夢でしかなかった死のルーレットが、術者の意向を無視して千々に乱れ散ったのだ。  その二つだけでも驚異的。誇張なしの奇跡と言える変転だろう。しかし、本当に特筆すべき事象は別にある。 「え、あれ……?」 「身体が……」  鉛の海に放り込まれていたかのような、正体不明の不調が消えていた。それどころか湧き上がってくる力は以前以上、ここにきて飛躍的な進化が自分たちに起きたのだと理屈を抜きに確信できる。  ゆえにもはや、この場の勝負は決していた。事実上、相手側に反撃の余地は皆無となっていたのだから。 「すまない、遅れた。みんな無事か?」 「うわわ、のっちゃんとハナちゃん先生、すごい怪我だよっ」  中庭に着地した静乃と歩美に鈴子たちは振り返ると、それぞれ頷く。確かに味方の側は全員無事だが、彼女らの恩師と友人がこのままではどうなるか分からない。 「――祥子さんッ」  だから、彼は誰よりも早くその相手へと駆け寄っていた。地に伏す泥眼を抱き起こし、いかないでくれと懇願する。  きっと栄光の頭では、野枝も祥子もなんら違いはないのだろう。理解が足りないとか見分けがつかないとかいう意味ではなく、この馬鹿な男にとって彼女はそういうものなのだ。  そして、だからこそだろう。 「あなたは、いったいどなたでしょう……?」  いま彼女が、この上なく満ち足りた顔を浮かべているのは。  言葉の内容は拒絶に近くあったものの、それとは正反対に瞳は優しく、安らいでいる。  そして、諭すように続けるのだ。 「私はあなたなど知りません。あなたも私を知りません。そうでしょう? どうですか?」 「い、や、オレは……」  彼女の言っていることが分からない。露骨な混乱を浮かべる栄光に、野枝は訥々と話し続けた。 「夢を、見たような気がします。とても馬鹿馬鹿しくて、切ない夢を……  私には好いた男性がいて、彼も私を想ってくれて、それがとても嬉しく、また誇りで…… このまま添い遂げられればよいのにと、つい浅はかな、有り得ないこと」 「そんな幸せは、絶対に無理だということくらい分かっていたのに。  いいえそもそも、そう思う心自体をなくしてしまったはずなのに。  残酷ですね、この夢は……願われて、描かれたから、私は知ってしまいました。そして愚かにも、欲しいと思ってしまいました。  ここでなら、もしかして……今ならば、あるいはと……思い出したらもう止まりません。私がこんなにも弱いとは、正直甚だ驚いています」  ですが、と枯れた声で苦笑しつつ、野枝は首を横に振った。 「結局、これでよかったのでしょう。私の浅はかさを、有り得ないと切られたかった。そうすればこうやって、あのときの言葉をまた聞ける。  ねえ、答えてください。名前も知らないそこのあなた」  つ、と栄光の輪郭を震える指で軽くなぞり、遥か遠い日の空を思い返すように目を細める。 「これは夢と、現に交わる、儚い幻の物語……そうした渦中にいるあなたにとって、どんな出会いも、重ねた時間も、泡沫のように消えてしまいそうだとは思いませんか?」 「たとえばあなたが、愛する人を、綺麗さっぱり忘れたりとか。  よく分からないうちに夢中になって、覚めるように嫌いになるとか…… それもまた、当然のようにありえそうだとは思いませんか?」 「〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》」  反射で、しかし何も考えていないだけに確信を持って栄光はそう答えた。  絶対にない。それだけは――どんな場所でも、どの時代でも見つけ出してみせるのだと断言する。 「本当に?」 「ああ。それでもし忘れちまっても、オレは何度だって好きになるよ」  なぜなら、〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。ゆえに単なる強がりではないのだと誇りをもって、今ここに。 「百万回生まれ変わっても……約束する。オレ、君のことが好きだから。  大好きだから」  そして、誓いは再び紡がれた。  二人にとっての必然は、その言葉がある限り果たされる。たとえ何が、どのような運命となり訪れようとも。 「ああ……」  だから彼女はそれを信じ、今度は迷わぬように夢中の夢へと還っていく。 「──月が、綺麗ですね」  夜空に溶けていく我が身と共に、千の〈信〉《イノリ》を口にして。  ただ誠心に……悲しいほど、清らかに。 「……………」 「……大杉」  いつまでそうしていただろうか、夢が抜けて生身に戻った祥子を抱いたままぴくりとも動かない栄光に、鈴子はおずおずと声をかけた。 「そっちは、その……」 「ああ、大丈夫。生きてるよ、祥子さんは……」 「だけどッ……!」  振り向いた栄光は泣いていた。先の女性は祥子じゃなく、その曾祖母の夢であっても、だから自分には関係ないと思うような男ではない。  激昂していた。許せないと猛っていた。そしてそれは、皆が同じ気持ちだった。  野枝と並ぶかたちで消えていき、やはり生身に戻った花恵の介抱をしていた静乃が立ち上がって深く頷く。 「言いたいことは分かってるよ。芦角先生も無事なようだし、残るは二人だ。  行こう、今夜の夢を終わらせる」  他の全員も続いて頷き、決意を再認したのだった。 「――――――」  そのとき、響き渡った静乃の咆哮と同時に過ぎったものが何なのか……淳士には分からなかったが理解した。  これが、これこそ、この女が抱いた未練の中核であることを。  だから、しっかり伝えねばならない。そのために成すべきことはたった一つ。 「止ッ、まッれええええェェッ!」  数瞬前までとまったく同じ、だが明らかに位相の違う重さをもって彼は吼えた。今は止まらなければならない理由を直感的に分かっている。  なぜなら、〈己〉《 、》〈は〉《 、》〈鳴〉《 、》〈滝〉《 、》〈淳〉《 、》〈士〉《 、》〈だ〉《 、》。その認識のみで、他のすべては一切不要。小難しい謎解きや理屈付けは、他の誰かがやればいい。  だから止まれ。止まれ止まれ――こいつに言わねばならぬことがある。  素直になれと、かつて言われた通りに俺は―― 「ぐッ、が、ぐうううゥゥッ……!」  気付けば、重化の破段は復活していた。四四八が解いたのか、それとも謎の不調が消えたのか、分からなかったがどうでもいい。  とにかくここで、淳士は己が〈信念〉《おもさ》を縁に停止を成功させていた。  視界が眩む。力のフィードバックによる瞬間的なブラックアウト。焼け付きそうなほど沸騰する血流を冷ますように、冷たい何かが淳士の頬に触れていた。 「あなたという人は、本当に…… 殴る殴ると言いながら、ついぞしてはくださらないのですね」  百合香の両手が、淳士の顔を挟むように彼の頬を撫でていた。  それは慈しむようで、しかし同時に、つれない男に対する抗議の張り手めいてもいた。  半ば呆然とする淳士に向けて、百合香ははらはらと涙を流しながら訴える。 「だいぶ嫌われている自覚はありましたが、結局あなたは、あれから一度もわたくしに逢ってはくださらなかった。  まず待ってみて、それでは駄目だと思い当たって〈文〉《ふみ》を書き、まだ逢えないならあれもこれもと……ええ、わたくしなりに頑張りましたよ。ずっと、ずっと、命が尽きてしまうまで。  恨み言ではありません。大方、自業自得なのは分かっております。あなたにとっては迷惑であろうことも、言われるまでもなく、しっかりと」 「ですが、未練はあったのです。いいえ、自信が持てなかった。  辰宮百合香は、ご存知の通り駄目な女でしたから」  情けないですね、と淡く崩れるその笑みに、先ほどまでの傾城は宿っていない。薄れ始める〈悪夢〉《タタリ》と共に、生の純粋な彼女がそこにあった。 「宗冬に言われたから、あなたを追いかけ、苦しめと言われたから……ただ贖罪のつもりで、盲従しているだけなのではと。  それは不実のようで、無意志のようで」 「いつも揺れておりました。わたくしが想っているのはあなたなのか、宗冬なのか。分かっていないのは例のごとくわたくしだけで、だからこそ、あなたは逢ってくれなかったのではないのかと。  必死さが、足りていなかったのではないのかと」  ゆえに、それが未練となった。百合香はそう言っている。 「もちろん、あれ以来の生を空虚だったとは申しません。そんなことは絶対にない。楽しくも、悲しくも、切なくも幸せでもありました」 「けど、わたくしは本当に、あなたのお言葉を芯から受け止めていたのだろうか。そこに、己の真をちゃんと見出していたのだろうか。  泣いて、叫んで、喚き倒す……やっただろうか、出来ていたのか。  そういう思いが、胸の何処かにずっと残っておりました。そんなときです、ふと呼ばれていることに気付いたから。  ああこれこそ、最後の機会。どれほどみっともなくても構わないと、このような茶番、お許しください。  こうして今、あなたに逢えた。それだけでもう、わたくしは満足です」 「またしても不快な思いをさせてしまい、すみません。勝手なことばかりをつらつらと、本当にごめんなさい。  これでもう、二度とあなたの前に現れることは、ないはず……ですから」 「待てよ」  そこで淳士は、ようやくのこと言葉を紡いだ。極めて短い一言だったが、彼なりに振り絞って言ったのだ。  まだ消えられては困る。そう本心から、このときの彼は思っていたから。 「あんたは、少し俺と似てるな」  人付き合いが下手糞で、放っておいたら誤解されて、しかしどう解きほぐしてよいか術を知らない。 「俺には鈴子や、柊たちがいた。けどあんたには、いなかったんだな。  だから手を伸ばした。そうなんだろう?」  言いながら、おずおずと。普段の彼からは想像もつかない、臆病とさえ言えるじれったさで、淳士は百合香の手に触れた。 「ならそれでいい。あんたが満足するための手助けが出来たんなら、俺にとってもそれでいい。  こういうかたちでしか応えてやれねえが……別に、さほど、そんな迷惑ってわけでもねえよ」 「さほど、ですか?」  泣き笑うように、だがどこか悪戯っぽく問う百合香に、淳士は顔を盛大に歪めた。 「いや、かなり。ていうかすげえ……ああくそ、なんだてめえ、泣いてんのか笑ってんのかはっきりしろッ!  いいかこの、俺はだなァッ」 「はい、なんでしょう?」  いつか、本当にいつのことか自身見当もつかないが、この女を救わねばならぬと誓ったような気がしている。  そして、それが悪いことだとは思わない。 紙一重の危険な均衡に立つ事象だと直感する何かはあるが、少なくともこの場においては必要なことだと思うのだ。 「あんたみたいな駄目な奴は殴りたくなる。だから、その調子で気に喰わなかったら喚き倒せ。  目に入って、気が向いたら、その……行くからよ」 「はい。どうか殴ってくださいましね」  言って百合香は、それこそ花のように微笑むと、急速にその姿を〈解〉《ほつ》れさせていった。 「生まれ育ちのしがらみとは面倒ですね。まるで絡みついた蜘蛛の糸……拭ったつもりになっていても、必ずどこかに纏わりついている。  そうしたものが最初からない状態で、あなたとお会い出来た夢がとても愛しい。たとえなんであろうとも、この時代は眩しくて……」 「ごきげんよう淳士さん。この今のこと、わたくし忘れてしまうのが残念でなりませんわ」  そう、意味の通らない言葉を最後に残し、だが心底からの感謝を述べて辰宮百合香は夢の中へと消えていった。 「――感謝する」 そして、それに釣られるように、彼もまた薄れていく。 「手の掛かる主で申し訳ない。だが幾分かは奴のせいだ」 「これくらいの苦労、してもらっても罰は当たらんというものだろう」 消え去る間際、実に皮肉の効いた笑みを浮かべて。 「俺もまた、君らの勝利を信じている」 輪郭を失った彼と入れ替わるかたちで、俺たちのよく知っている幽雫先生がその場には倒れていた。 「…………」 大きく息を吐き、俺は気持ちを整える。些か意味の分からない部分はあったが、ともかく結果として目的は達成したと言えるだろう。 「鳴滝、そっちは?」 「お、おう。一応、なんだ……つかどうにかしろこれ!」 見れば、意識を失ったまましなだれかかってくる百合香さんを放り出すことも出来ず、いらつきまくっている鳴滝がそこにいた。 「無事なんだろ?」 「そりゃあ、まあ、たぶんそんな感じだが……おまえ何笑ってんだよ、舐めてんのかてめえ!」 「ああくそ、こいつもこいつで、気持ちよさそうに寝てやがる。ぶん投げるぞくそったれがッ」 などと出来もしないことを言っているが、問題ないのはよく分かった。するとそこへ、慌しい足音と共に他の奴らも集まってくる。 「四四八くん、無事か――て、うおおっ」 「おう、おう、なんかもう、うん……ほんとごめん。またしても」 「あっちゃん、わたしたち邪魔みたいだからあっち行こう」 「……だな。どうも今夜は、あたしら盛大にお呼びじゃない感じがするわ」 見れば全員、相応に消耗はあるようだが無事なようだ。俺は胸を撫で下ろす。 「野澤と先生は?」 「そっちも一応大丈夫。目は覚ましたけどまだ混乱してるようだから、空いてる部屋で休ませてるわ」 「正直ついててやりたかったけど、こっちはこっちで気になったしよ」 「なるほど、分かった。それで……」 あとはこちらの二人が目覚めればよし。ようやく百合香さんを床に横たえ、さもほっとした言わんばかりに身を引く鳴滝に苦笑しつつ、俺たちは彼女らの介抱に移った。 「先生、先生――幽雫先生」 「百合香さーん。ほら、朝ですよー」 「ん、んんぅ……」 「……っ、く、ここは?」 「よっしゃ、こっちも問題なし」 「無事なようで安心しました、二人とも」 この後の説明が面倒臭くなりそうだが、ともあれこれで一件落着。 とは、いかないことを俺は知っている。 「二人とも、いきなりですみませんが一つだけ教えてください」 「いったい、何があったんですか?」 「え……?」 未だ意識朦朧で目を瞬く二人だったが、これは急を要することだ。もしかしたなら、今夜ですべてを終わらせることが出来るかもしれない。 「具体的に言いましょう。誰に会いましたか?」 その問いで、他の奴らも一様に察したらしい。そう、今回のことは明らかに外部の手が入っていた。 タタリの核として利用された百合香さんや幽雫先生……それはすなわち、彼らを拉致した者がいるということ。 誰か? 言うまでもない。そいつこそが朔の元凶に間違いなかった。 「あ、え…っと、そうですね……わたくしはここで、幽雫先生と一緒にいて」 「ここでっ?」 「はい、それで、その……」 「女の子だ。ちょうど君らくらいの、女の子に俺たちは会った」 「その後のことは……すまんな、まったく思いだせん。それがいったい、どうかしたのか」 「すみません、そのことは後です――晶、鳴滝ッ!」 立ち上がり、急ぎ二人を安全な場所へ移すよう促した。野澤たちが休んでいるという部屋に、しばらく隠れていてもらおう。 それで安心と言うわけにはいかないが、事は一刻を争う。この機は絶対逃せない。 「分かってるな、おまえたち」 晶と鳴滝に連れられて先生たちが部屋を出た後、俺は残っている者らに強い口調で問いかけた。 最初に頷いたのは、中でも一番険しい顔をしている栄光。 「ああ、千載一遇ってやつだぜこりゃあ」 「黒幕がここにいんだろ? 絶対に逃がさねえよ……!」 「うん、分かるよ。本当にいる……!」 それは勘であり、同時に確信でもあった。そいつは俺たちの戦いを薄笑いながら見物していたというのが分かる。 「ピンチの後にチャンスありだね」 「ちょうどいいわ。ここで一気に終わらせましょう」 「行くぞ石神」 「分かった。でもみんな、用心して行こう」 言われるまでもない。だがそれ以上に、俺たちは今怒っている。 逃がさない。再度心の中でそう呟き、邸内の探索に移っていた。 「――そんな」  事態の収束、その結末を知った南天は驚愕に目を見開いていた。  あまりの怒りと苛立たしさに意識さえ遠退きかける。なんだそれは、ふざけるのも大概にしろ。  十二分に目のある賭けだったはずだろう。自分はそんなに大層な結果を求めていたわけじゃない。  たとえば柊四四八たちの全滅とか、そこまで虫のいいことは考えていなかったんだ。彼らが勝つなら勝つで一向に構わない。  だけど、だからって無傷というのは無い話だろう。これでは意味がなくなるではないか。 「誰か一人、誰か一人でも死んでいれば……」  血が出るほどに指を噛みつつ、すべてを呪い殺すように南天は毒づいた。  そう、一人。たった一人の脱落で構わなかったのだ。それは何も、四四八たちの陣営に限った話ではない。  百合香や祥子ら、核として饗された生贄の誰かでもよかった。敵味方に分かれて戦わなくてはならない状況。四四八が勝とうとタタリが勝とうと、死者は必ず出てくるはずで、そこに疑問を挟む余地は無い。  この条件は南天にとってかなり分のいい話であり、だからこそ賭けたというのに。  死者が出るという状況に直面し、その“異様さ”を僅かでも察してもらえば御の字だった。それで自分は力を取り戻せたはずだろう。  だというのに、この様では…… 「壇、狩摩……!」  あいつか? あいつが原因なのか? 招かれてもいないくせにしゃしゃり出てきやがって。盲打ちの存在が南天の組んだ盤面を滅茶苦茶にしてしまった。  静乃なり誰なり個々の奮闘はあっただろうが、結局その一つに収束する。 「そこまでして――」  そこまでして、私のささやかな願いを踏み躙るのかおまえらは! 「――そっちは、いたかッ?」 「ううん、見当たらない。だけど絶対まだいるよッ」 「ちくしょう、意地でも見つけ出してやっからな!」 「そうね、舐めた真似してくれたじゃないの。許さないわ」  そうしているうち、外を走り回る足音と声を聞いて南天は我に返った。 「――――――」  奴らは私を捜している。私がこの邸内に潜んでいることを知っている。そして、見つけられたら終わってしまう。 「いけない……」  急速に意識が現実味を帯びてきた。怒りが焦りに、恨みが恐怖へと塗り換わっていく。  未だ南天は、特に力もない儚いタタリだ。眷族の資格を持つ四四八たちの夢にかかれば、何の抵抗も出来ずに殺されてしまうだろう。  自らの意思で消えることも、この辰宮邸から出ることも出来ない。存在感が弱すぎるため探知の網に掛かっていないが、それもしょせんは時間の問題。  もはや紛れもない瀬戸際だった。どうすればいい? 「おい、そっちの部屋とか開けてみたか?」 「ううん、あのへんはまだだったと思う」 「行こう。四四八くん、君らも来てくれ」 「年貢の納めどきっていうやつだな」  近づいてくる。近づいてくる。破滅が、終わりが、夢の瓦解が―― 「嫌よ、嫌……そんなのは……いやっ」  年貢の納めどき? ふざけるな!  謝って? 土下座して? 靴を舐めてでもやり過ごす?  冗談も大概にしろ! 「私は、逆さ十字だ……誰より強い!」  謝らないぞ、見下させない。  生きるという意志は何よりも強いんだ。間違った世界の法則なんかぶち壊してやる。  〈生〉《それ》は自分にとって、物乞いのごとく恵んでもらうものじゃない。  勝ち取るものだ。貢がれるものだ。土下座なんかしなくても、自分は死なない。死なない。死なない。死なない――!  来いよ、このくそったれども! 「私は、死なない……! 絶対生きるッ!」  条理を捻じ曲げるほど凄愴に、善悪の彼岸すら振り切って、南天はただ激烈に生を願いながら扉を睨む。  数秒の後に開かれるだろうその先に、待ち受ける未来と対峙する覚悟を固めて。 「信明くん……」  脳裏によぎった彼の顔。続けて紡がれた彼女の言葉は…… 「なるほど。つまりおまえはその少女に踊らされているというわけか」  まずは成り行きを初めから話せ。そう言ってきた甘粕に、僕は事の次第を語って聞かせた。  結果、返ってきた感想はそんな身も蓋もないものだった。 「踊らされているわけじゃ……ない!」 「ほう、では何だと言うのだ? おまえは要するに、自分の弱さから目を背けているだけだろうがよ。  劣等感。疎外感。焦燥。嫉妬……ゆえに育まれる承認欲求。根底にあるのはそのあたりだな。ひどく見え透いているために、件の少女はそこをくすぐり、おまえをいいように操作している。   仲間たちは優しいのだろう。おまえを認めてくれるのだろう。そしてだからこそ、おまえは内に惨めさを募らせていく。   抜き難く存在する格の違いに、表面上は気にしていないと微笑みながらも、芯は腐食を始めていたのさ。長い時間をかけて、ゆっくりと、確実に」 「知っているか? そういうものは匂うのだ。特に同類ほどよく嗅ぎ分ける。  おまえの中には腐食の〈瓦斯〉《ガス》が充満しているのだからな。であれば後は簡単だ。一つ火種を放り込めば、容易く業火へ変ずるだろう。   どうということもない日常では自覚の術も無かったろうが、この〈邯鄲〉《ユメ》に関わった以上そうもいかん。ある意味災難、いいや幸運な出来事だったな。己が物語の主人公にでもなったかのような気分を味わえたろう。   僕は盧生だ……くくく、ははははは! まったく面白いなおまえはッ!」 「よいよい、悪くないぞ。どこまでも女に踊らされているがいい。   お似合いだよ世良信明。いいや、第四の盧生殿、か?」 「―――黙れ」  あまりにあまりな言われように、流石の僕も聞き捨てならないものがあった。いいや、僕のことなら別にいい。それは否定できないことだと自覚もしている。  しかしこいつは、緋衣さんすら侮辱した。そのことが許せない。 「何も知らないくせに、好きなことを言うな。おまえに何が分かるという。  勘違いするなよ甘粕正彦、彼女はただ生きたいだけだ。そこに嘘も真もない。  そして僕も、彼女を思う気持ちに偽りはないんだ!」  そもそもこいつ、もはや過去の夢にしか存在し得ない身のくせに、そのことも知らず何を偉そうにしているんだ。 「自分の真実すら分かっていないのはあんたのほうだろ。  そんな奴に何を言われたって響かない。これ以上くだらないことに付き合わせるな、早く僕を解放しろ」  そう言い切った僕を前に、甘粕正彦は数瞬だけ虚を衝かれたような顔をしていた。  しかし、それはすぐに笑いへ変わる。  恐ろしいと、僕はその笑みを見たとき感じていて…… 「真実? 俺の真実だと?   おかしなことを言う奴だ。そんなものは未来永劫、ただ一つしかない」 「だが、それよりも先の言だな。随分と威勢がよかったが、さて……」  同時に増していく破格の圧力。姿形はそのままに、甘粕が天まで届く氷山にでもなったかのような錯覚に囚われた。  怒っている? 楽しんでいる? いいやそれとも、何だこれは? 「勘違いするなとおまえは言った」 「要するに、俺の言葉が癪に障るか。おまえの神経を逆撫でするか。ゆえに俺は正されるべき歪みであり、勘違いするな目を覚ませと言いたいわけか」  傑作だな、と呆れ蔑み果てるように。  侮蔑の念を露にしながら、それでもこの男は笑っている。 「勘違い、勘違い……そもそも俺が、何を違えていると言うつもりだ。おまえ、世に絶対不変の真理でも悟った伝説の哲人なのかよ。  何も知らない? 分かっていない? 目を覚ませだと? おまえこそ目を覚ませ。俺にものを言いたければ、せめて同じ土俵に上がって来い」  盧生たるその頂に? こいつがいる超越の座に?  目で問う僕に、甘粕は断固首を横に振った。否と。 「身分や力、すぐそんなところに目を向けるからおまえはずれているのだよ。  盧生、眷族、男、女、年齢、職業、国籍、人種――などと小難しいことを言っているのではない。俺は単に、覚悟を持てと言っているのだ。  おまえは俺に放言しながら、俺を殺そうという気概も持たん。ただ腹が立ったから、深く考えもせずに吼えたというだけ。  笑わせるなよ、こちらこそ言わせてもらおう。そんなものは響かない」 「おまえの弱さも、少女の卑しさも、それ自体は否定などせん。どんな心得違いをしていようが、貫くならばああ構わんさ。讃えよう。  件の少女は、なるほど病んでいるのだろう。危険なほどに壊れてさえいるのだろう。だが生きると誓ったその勇気、俺は侮辱などしておらんよ。尊いとすら感じている。  ゆえに、俺が気に食わんのはおまえのことだ。おまえはそんな少女と添い遂げようと決めながら、修羅を駆ける覇気がない。未だ甘い幻想に浸っている」 「殺される己が想像も出来んか? おまえたちの時代では当たり前か? 覚悟覚悟と言いながら、それがどういう意味を持つのか、本当に一度でも考えてみたことがおまえにあるのか?  要はそう、そちらの〈時代〉《ノリ》で言うならリスクの話だ」  何が正しく、何が間違っているのか。主張の右左、天地前後は関係ないと甘粕は言う。  ただリスク――意を述べるに当たって必然と発生するそれを呑むこと。大事なのはそこであり、そこさえ満たせば後は何であろうが構わないと魔王の理論で、傲然と。 「それさえ出来んのであれば、そんなものを俺は人と認めない。  勝手に苛々していろよ。リスクを呑んで殴り返してくる度胸もなければ、口を噤んで尻尾を巻け。それが負け犬なりの筋目というものだろうが。  まあもっとも、そんな輩が俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》で生きていけるとは思えんがな」 「ッ……、!」  徹底的に強者の、正論なのだろうが、同時に破滅的な暴論だそれは。  こいつの理屈に沿って世が動けば、最終的に誰一人として残らない。 「あんたの価値観とは、なんでも殴り合うことが前提なのかよ」 「そうだ。俺にとって人と人との繋がりとは、すなわちこれ殴り合いを意味している。すべて戦であり、交情であり、〈真〉《しん》と〈信〉《しん》に懸ける想いだ。  我の主張が、彼の主張が、ずれるぶつかる交わらぬ。千差万別十人十色よ、ならばこそ対等であるという敬意だけは持たねばなるまい。  〈此方〉《こちら》と〈彼方〉《あちら》は違うのだ。何かを守るため、勝ち取るため、物申さねばならぬときもあるだろう。だがそれは、向こうも同様に思っているということを肝に銘じ、確と向き合う意気がなければ繋がりとして成立せん!  一方通行の関わりほど虚しいものが、天下の何処にあるというのだ!」  それが自分の覚悟なのだと、甘粕正彦は断言する。  未来永劫変わらぬ己の真。その誇りを天高らかに謳いあげる。 「ゆえに、これが俺の〈人生〉《たたかい》だ。ゆえに、俺は殴っている。  殴るのが好きなわけでは決してないが、そうすることでしか人の輝きは見出せぬと信ずるゆえに」  対しておまえはどうなのだと、一転冷めた目で甘粕は僕を見つめた。 「おまえの真は何処にある? さあ語れよ、芯の無い戯言をこれ以上抜かすなら是非もない」  おまえを裁く――そう甘粕は言っていた。  僕はそれに、一度自分の両手をただ見つめながら考える。  ああ、そうだよなんてことはない。こんなにちっぽけな僕の掌、この手で掴みたいと願うものなど、極々単純な一つしかないんだ。 「あなたと戦い、殺してまで何かを成そうなんて思っちゃいない。僕は柊四四八じゃないんだから……」 「ここであなたに何を言おうと、それはあなた好みの覚悟なんかじゃないだろう。そもそも戦うとか、殴るとか、嫌いなんだよ。興味がない」  だから、甘粕正彦を殺すつもりでものを言うなんて僕には出来ない。むしろやってはいけないことだ。 「なぜなら、あなたに挑めば僕は死ぬから。  冗談じゃないんだよそんなこと。〈自〉《 、》〈殺〉《 、》〈の〉《 、》〈趣〉《 、》〈味〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  そう言った僕に対し、魔王はなぜか目を瞬いて不思議そうな顔をしていた。その真実は分からなかったが、こちらはこちらだ。本音で喋ろう。 「殺して、権利を奪い取らないとここから出さないと言うんなら、僕はそんなものに付き合わない。逃げて、なんとか別の方法を模索する。  一秒だって惜しいんだ。あなたに関わっている暇はない」  緋衣さんが待っている。彼女のもとに、一刻も早く。  それが今、世良信明の望む唯一のことで―― 「僕の真は、彼女を守りたいというただそれだけだ。  どれだけ病んでいようと構わない。救ってみせると誓ったんだよ」  劣等感。疎外感。焦燥。嫉妬……ゆえに育まれる承認欲求。ああ確かにそうだろう。  そんな中で、強烈に僕を欲してくれた初めての〈女性〉《ひと》に舞い上がっているだけだと言われたら否定できない。  だが、それの何が悪い? 彼女が僕を求めているのが真なら、そのことを嬉しく思うこの気持ちもまた真だ。 「貫いてみせる。僕にとっての戦いとはそういうもので―― 死なないし、死なせないための覚悟が勇気だ!」 「よく分かった」  そのとき、僕と甘粕を隔てている空間が不意に歪んだ。まるで雫が落ちた水面のように、そしてそこから透かし見える先には彼女が―― 「おまえの勇気を受け止めよう。その行く末を、俺も夢の果てから見させてもらう」 「おいおい、何を呆けているんだ。言っておくが俺は何もやっておらんぞ。   描きたい〈未来〉《ユメ》を確固と持ち、顕象したがゆえの真だろう。自らの成果に戸惑いなど浮かべるなよ。   なあ、おまえは何を願ったのかもう忘れたのかね? 曰く、第四の盧生殿」 「僕は――」  そうだ、これが僕の夢で、祈りで、ならば迷うことなんか何もない。 「緋衣さん――!」  苦笑している甘粕正彦などもはや意中から締め出して、僕はそこに手を伸ばしていた。 「開けるぞ、みんな油断するなよ」  ついに進退窮まって、追い詰められた南天は待ち受ける未来と対峙する覚悟を固めた。 「信明くん……」  そんな中、脳裏によぎった彼の顔。続けて紡がれた彼女の言葉は…… 「役に、立ってよ……」  か細く、儚く呟かれたその声に、爆発する光の奔流がすべてを呑み込み応えていたのだ。 「―――――」 「……誰も、いない?」  踏み入った部屋の中、ようやく捉えたと思った元凶の姿はそこになかった。一堂の間に困惑の空気が広がっていく。 「もしかして、別の部屋にいるんじゃない?」 「いや、けど、ここ以外はもう粗方見て回ったぞ」 「じゃあ、初めからそんな奴はいなかったって言うのかよ」 「分からないけど、百合香さんたちが嘘を言ったはずもないし……」 「ちくしょう! どういうこったこりゃ、ふざけやがって」  振り上げた拳の下ろし先を完全に見失った。徐々に苛立ちの気配が増していく皆の中、唯一冷静さを保っていた静乃が一歩、進み出た。  そして部屋の一角に膝を付くと、絨毯に手を這わせて独りごちる。 「逃げられた。手強いな…… これで、まだ悪夢は続いていく」  そう、今夜の朔は勝利だったが、最終的な解決を目前にしながらすり抜けられた。これがこの先、どういう事態となって自分たちに向かうのか分からない。 「返し風は強烈かもな。ピンチの後にはチャンスが来る。それは向こうにも言えることで……」 「我も人、彼も人か」  対等、だからこそ必然の反撃を覚悟しろ。  何処とも知れぬ彼方から、そう言っている誰かの声を静乃はこのとき感じていた。 「捕まえた。もう離さない」  そうだ、二度と彼女を見失わない。掴んだ手に力を込めて、僕は緋衣さんを抱きしめていた。 「のぶ、あき……くん?」  僕らが離れ離れになっていた間、この人に何があってどういう状況に陥っていたかは知らない。だけど、確実に分かっていることが一つあるんだ。 「良かった。君を救えて、本当に良かった……!」  危なかったんだろう? もう駄目だと思ってたんだろう? 隠さないでくれ分かってる。こんなに近くで触れ合いながら、その程度にも気付かないほど流石に僕は鈍くない。  彼女の細い肩が震えている。血の気の失せた冷たい肌が語っている。  本当に、これこそ危機一髪だったということが。あと僅かでも遅れていたら、二度と逢えなかったということが。 「うそ、どうして……? 信明くんが、助けに来れるはずなんてない。  だってあなたは、甘粕正彦に捕まって……」 「関係ないさ、そんなもの」  そして、ちょっと言わせてくれ。君は僕が、何も出来やしないと思っていたのか。  まあそれは、あの状況なら誰でも思うだろうけど。 「あんまり甘く見ないでくれよ。そういうのは少し傷つく。……男だからさ」 「これでも、意外にやるときはやる奴なんだよ」  やっとそういう自負を持てたばかりで、偉そうなことは言えないが。  しかしそれでも、この気持ちは嘘じゃない。誇りに出来る明確な事実だ。 「……信じられない。最強の盧生に勝っちゃったの?」 「いや、その、それはどうかな……」 「勝ったと言うか、やられたと言うか、戦ったわけじゃないし、むしろ振り回されただけで」  思えば煽られたような気がする。僕にとっての真、勇気――それを見極めさせるために。 「だけど一応、うん……僕なりに頑張ってきたよ」 「――すごい!」  すると彼女は、負けないほどに力いっぱい僕を抱きしめ返してきた。  触れ合う頬が濡れていく。この気丈な女の子が泣いている。  涙は――毒も病も混じっていない清く透明なものだった。 「すごい、すごい! あなたはすごい! 大好きよ信明くん!  もう駄目だと思ってた。みんな終わっちゃうと思ってた。でもまだ続くのね? 〈未来〉《さき》があるのね?  信明くんが、私にそれをくれたんだね? ありがとう、ありがとう、ありがとう!  愛してる……! あなたに逢えて、本当に良かった!」  愛情は深まるばかりで増すばかり。強く激しい君は綺麗だ。  逆さ十字の後裔である彼女に捧ぐ僕の思いは、まさしく緋衣南天に相応しい花言葉そのままだった。 「僕もだよ……君を守る。救ってみせる」  盧生云々はどうでもいい。今夜掴んだ彼女の温もりこそが僕の誇りだ。  これを抱いて果てまで駆けよう。  この子のために。自分のために。 「あなたは私のために在る。  決まってるのよ。信明くんは、私のもの」  見ていろよ。僕は自分の覚悟を貫く。  そう誓った、これが勇気の真実だった。 「なんていうか、色んな気持ちが溢れてきて上手く言葉がまとまらないが、確かなことは一つだけだ。俺はおまえたちに会えてよかった」  悪夢を祓い、今こそ彼らは朝に帰った。これはそうした瞬間の〈史実〉《ものがたり》。 「なぜなら比喩も誇張も抜きにして、これほどの時間と密度を共有した関係は他に絶対有り得ないから。  もう、少々どころの腐れ縁じゃないんだよ俺たちは。そのへん、勘弁してくれって奴はいるか?」 「うんにゃ、全然」 「私はまだまったく飽きてないし」 「むしろようやくおまえらに慣れ始めたくらいだわ」 「オレのエイコーな物語もまだ終わんねえよ」 「ていうか始まってもいないし」 「つまり、これからは未来?」 「そういうことだ」  よって、彼らはこれから進んでいく。  未来へ、幾つもの歴史を越えてきた者としての誇りを持って。 「百年後の千信館に、見事未来が繋がるように―― 今度はそこを、皆で目指そう。戦真館から千信館へ。  これが俺たちの―――」  偽り無く胸にある〈真〉《マコト》の誓い。  だから全員で乗り越えよう。どんな激動の世の中も。 「トラスト&トゥルース!」  唱和する声と共に、あの未来と同じ朝日が彼ら全員を包んでいた。  そう、包んではいたのだが……  誤解してはいけない。これはあくまで歴史の事実だということを。  仮に娯楽小説の類ならばここで終わり。あやふやに開かれた未来を好意的に夢想しつつ、本を閉じるだけだろう。  そして、登場人物たちは役目の終了と共に消費されてしまうのだ。つまり、ここである意味彼らは死ぬ。  その後という概念は生まれ得ず、望まれようとも形にする者がいなくては日の目を見ない。幕が下りた物語は、そこで永遠の停止という墓場に遺棄されてしまうだけ。  しかし、言ったようにこれは史実だ。語られたのがここまでだからといって、それが結末というものにはならない。  続いていく。何年も。彼らが本当の意味で死を迎えるそのときまで。  いいや、死した後も永遠に。  結局のところ、彼らにとってこれは人生の一出来事にすぎないのだから。  とても重要な意味を持つものではあったけど、真に大事なのはそこからだ。  今、大きな山を乗り越えた彼ら。その事実を胸に抱き、この先どう生きていくのか。どんなことがこれから起こるか。  後日談。見方を変えれば、真なる意味での前日談。  今より始まるのはそれである。  甘粕事件を見事制した柊四四八とその眷族たち。  それで目先の破局を回避した彼らだが、さらなる難事が行く末には立ちはだかっている。  その新たな敵とは、すなわち時代。  世界を動かしている巨大なる流れそのもの。  史上、第二回目の大戦という、特級の災禍を防ぐための戦いである。  時に世は昭和初期。もはや猶予は幾ばくもなく、すでにあらゆる火種が至る所で生じている状態だ。  如何に柊四四八が未来を知っているからといって、この流れを変えるのは不可能レベルと言えるだろう。なぜなら、彼が武器に出来るのはその知識だけ。盧生という資格に付随する超常の能力を、悉く捨て去っていたのだから。  甘粕正彦を斃すにあたり、それは必要な選択だった。  そして、柊四四八が見出した悟りの境地でもあった。  ゆえにたとえば服のように、盧生の資格を脱いだり着たりと何度も繰り返すべきではない。そのような真似をしては真が揺らぐ。根幹の信念を崩しかねない。  よって彼は、この難題にあくまで人のまま立ち向かうべきだと決めていた。  事態の苛烈さと背負う責任を考慮すれば愚かしいとさえ言える生真面目さだが、そうした決断を下せる漢だからこそ、柊四四八は第二の盧生足り得たのだろう。  共に夢を駆けた仲間がいる。甘粕事件を制したことで、国家の中枢と繋がりを持つことも出来た。年齢を鑑みれば破格の立場を獲得しており、決して無力なわけではない。  中でも辰宮と神祇省、この二勢力から受けた援護は極めて大なるものだった。  前者からは資金面と政治力、言わば表の力を補強され、後者からは裏の人脈を得るに至った。宮家――すなわち皇族とすら関わりを持つことに成功した柊四四八は、大元帥直属の密偵に等しい地位を得る。  無論、だからといってそれが無敵の印籠となるわけではない。  公的には存在しない〈裏の肩書き〉《ゾンビユニット》であるため、いざとなれば切り捨てられる。どころか、反逆者として末代までの汚名を被ることにすらなり得るだろう。  そうした危険極まりない立場を呑み、なお成さねばならぬ正義を信じて柊四四八は満州に渡った。ここで彼は南満州鉄道・東亜経済調査局局員として、関東軍特務機関長・土肥原賢二の指揮下に入る。  つまるところ現地における情報・謀略工作の諜報員であり、いわゆる二重スパイと呼ばれるものだ。関東軍による満州支配を確固とするため精励する表の肩書き――それすら裏だが――を隠れ蓑にして、軍の暴走を抑えるという大元帥直々の命を受けていた。  実際、この時分における本国の世論は、軍組織に冷淡なものだったという。  世界恐慌からの回復手段として、資源と産業を国家が管理する色合いが強くなり、結果として軍部の台頭が悪目立ちを始めた時勢なのだ。早い話、不景気の中で大飯食らいが疎まれだしたという構図である。  だからここで、柊四四八が軍を抑制せよとの命を受けたのはなんら不思議なことでもない。  歴史的な必然であり、彼がやらずとも他の誰かが同様の任務を負っていたはずだろう。  そう、ここまでなら。まだ当たり前の流れに乗っていたのだ。  ゆえに重要なのは、ここから先。  未来を変えるための戦いは、このときから始まっていく。  満州事変――すべてはそこに集約されると柊四四八は考えていた。  複雑怪奇に入り乱れた国際情勢の中、それはあくまで原因の一つにすぎないだろうが、だからこそここを封じなければ話にならない。以降、連鎖反応的に勃発していく大戦への火種に対し、手を打つことが出来なくなる。  なぜならこれを契機として、本国の世論が一変するのを柊四四八は知っていたのだ。  満州事変は、客観的に見る限り大元帥への謀反に等しい。本来、関わった将校たちは残らず処罰されて然るべき暴挙だったにも関わらず、逆にほぼ全員が昇進したという異常な結果がすべてを物語っているだろう。  そこにどのような力学が働いたかはともかくとして、要するに肯定されてしまったのだ。そのため、後は突き進んでいくことになる。  空前の大戦へ。国土が焼け野原となる破滅的な未来へと。  柊四四八は満州事変を防ぐために奔走する。  それは現在、歴史の事実として知られている物語であるものの、大衆には知らされていない裏の戦いも存在した。  そしてむしろ、その裏こそが事象の核となっていた。  動乱の中国大陸を舞台に起こった、歴史に記されていない悪夢の戦。  このとき、渦中にあった人物は都合四名。  柊四四八。  緋衣征志郎。  クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。  そして……  この四名による攻防が、以降の世界を決定した。  いいやそれとも、決定するのはこれからか。  ともあれ現在、この物語に立ち会うすべての者らが当事者であるという認識を持ち、各々夢を描くがいい。  そのうえで一つ。これだけは言っておかねばならぬことゆえに一つ告げる。  柊四四八は、この渦中にあっても盧生に返り咲くことは終ぞなかった。  昔も、今も、そしておそらく未来においても……  それは彼の決意が成した選択? 無論その通りではあるだろう。  だがしかし、もしかして……  まったく異なる位相の力が、そこに働いたと見ることは出来ないだろうか。  盧生、死すべし――その夢が発生した因果は? 意味は?  そんなものは関係ない。好きに描けと第四の王は嗤い続ける。  痴れて、痴れて、盲目の〈邯鄲〉《ソラ》に今このときもまどろみながら……  それは無明の房室に、夢見るがまま〈揺蕩〉《たゆた》うのだ。 「――よし」  呟いて、南天は立ち上がると静かに拳を握り締めた。相も変わらず何の華やかさもない監獄のような自室だったが、そんなことはどうでもいい。彼女の気分は高揚している。  今夜の夢、甘粕事件が終わった後の物語がこれから始まるわけなのだが、その観賞をする気はなかった。今は眠って夢に潜るよりも優先したいことがある。 「動く。……よし、よし」  辰宮邸での危機を脱してからすでに二日。一時は瀕死にまで追い込まれていた南天だったが、ここに復活を果たしていた。その事実に会心の手応えを感じている。  彼女が有する死病は深く、完治しているわけではもちろんない。だが、行動に支障がない程度の抑制は出来るようになっていた。  常人ならばそれでも死に値する重篤だが、逆さ十字の後継者にとっては充分すぎるほど許容範囲。余裕を持って我慢が可能。  つまり、破綻しかけていた南天の繋がりはここに再構築されたわけだ。それが証拠に、外見を誤魔化す迷彩の夢を使用することも出来ている。  木乃伊のように枯れていた肢体は、潤いをもって健やかに。  抜け落ちていた歯や頭髪は新芽同然に瑞々しく。  腐り、白濁していた眼球は命の輝きを確と宿し、病で奇形化していた輪郭、スタイル、欠損していたすべての器官が美しく正されている。  こうだ、こうでなくてはならない。これこそ本来の自分である。  〈邯鄲〉《ユメ》の中でそうあったように、魅力的な美少女として緋衣南天はここに在った。それは無論、前述の通り迷彩であり、彼女の真実は依然として目を覆うような有様なのだが、そんなことは関係ない。  間違っているのは世界である。  天の理であり、悪趣味極まりない〈運命〉《シナリオ》のほうだ。  よってそこに反旗を翻している南天から言わせれば、正しいのはこちらであるという論法にまったく疑問の余地はなかった。いずれ必ず、夢など使わずとも現実ごと正してやろう。  それは決して、遠い未来の話じゃない。その確信を持っている。  だから珍しく、本当に珍しく上機嫌の南天は、鏡の前で髪型を弄りつつ、今夜着ていく服はどれにしようかと選んでいた。  年齢相応の少女らしく、可愛い仕草で眉間にしわを寄せながら、自分をより良く見せるための努力をしている。そうした行為を楽しんでいる。  軽く化粧でもしてみようか。いやしかし、それは趣味じゃないかもしれない。  じゃあこれは? ううん、やっぱりこちらはどうかな? ああだけど、意外にこういう感じはどうだろう。  より良く見せたい。見られたい。すなわち、人の目を意識している。  偽装や騙し、生存の手段として用いるカモフラージュでは断じてない。極論して、洒落っ気というものはすべて詐称だと言い切る輩もいるだろうが、ここで南天がやっているのはそんな無味乾燥なものじゃないのだ。  女性が美しくありたいと願う心に、穿った難癖をつける者こそ無粋である。  綺麗になりたい。綺麗だよと言われたい。そんな自分を誇りたいし、同じく誰かの誇りになりたい。  それはとても純粋で、ゆえに侵せない尊い真だ。化けるのも飾るもの、等しくそうした情念あってこそ。  だから美しい女に会えば、男は讃えてやればいい。彼女がそう在りたいと願った一端を、己が担っているという事実が誉れだ。〈化粧〉《ユメ》を剥げばどうだこうだと、見当違いのことを言っていては程度が知れる。  そんな男には、どんな女も微笑まない。 「あ、いけない」  ゆえに今夜、南天の努力を己が誇りとして共有できる資格を持つのは、ただ一人。  彼女と共に夢を駆け、彼女の危機を救った男だけの特権だった。 「遅れちゃう、もう行かないと」  弾むようにそう言って、身支度を終えた南天は夜の街へと出て行った。  彼女のヒーロー、彼女の夢になくてはならない世良信明と逢うために。  次の夜は眠らずに、直接逢って話をしよう。  僕が甘粕正彦から解放され、緋衣さんを救ったあの日から翌日に、夢の中でそう言われたから今こうしてここにいる。  深夜、誰もいない七里ヶ浜。  今夜も姉さんたちは出ているようで、相変わらず自室のドアは頑として開かなかったが、僕は窓から無理矢理脱出を決めたのだ。せっかく彼女に逢えるというのに、家で閉じこもってなんかいられない。  こうしているのを姉さんたちに見つかったら面倒なことになりそうだと思っているけど、だからといって必要以上にこそこそするつもりもなかった。なぜなら僕は、緋衣さんが今夜を指定した意味をなんとなく分かっていたから。  明日は千信館の文化祭だ。それは僕ら新一年生にとって、初めての学校行事ということになる。  だけどきっと緋衣さんは、参加することが出来ないのだろう。体調にしてもそうだし、これまでずっと休んでいた彼女がいきなり来てもやれることは存在しない。  だからせめて、今夜僕と、一足早い思い出作りをしようとしてくれたんじゃないだろうか。はっきり言われたわけじゃないものの、たぶんそうなのだろうと考えられる。  少し前の僕なら思いもしなかったことかもしれないが、今はそういう前向きな捉え方が出来るようになっていた。  彼女を救い、感謝され、その事実を疑いなく誇りにするという一連の経験が、僕に自信というものを芽生えさせている。  別にこれまで、すべてにおいてネガティブだったわけじゃないが、明らかに自分は変わったという自覚があった。それはきっと、何も特別なことじゃないのだろう。  大半の人間が、ある日を境に強く確信するとても単純な気持ちだと思う。  生まれて良かった。生きていて嬉しい。自分はこのために存在すると、傍から見ればたとえ大袈裟な解釈だろうと、こちらは本気だ。  好きな人へ想いが通じたと信じられることはそれほど強い。  その手応えを握り締めている感覚がある。  まさしく今なら何でも出来るような、そういう幸福を僕は得たのだ。よって変革は確かなもの。  この誇りを失わないよう、それに相応しい己でありたい。真摯に、僕はそう思っている。 「お待たせ。ごめんね、遅くなって」  なので、うん、まあ……こういうときは気の利いた台詞くらい言えるようになりたいのだけど。 「え、あ……その、気にしないで。僕も今来たところだから」  現実は中々厳しく、振り向いた僕はこんな風にしどろもどろな反応をするしか出来なかった。だって仕方ないだろう。 「そう? なら良かった。  どうしたの、信明くん。ぼうっとしちゃって、私の顔に何かついてる?」 「そうじゃ、ないよ。ただ……」  こうして面と向かった緋衣さんは、何か息を呑むような雰囲気があった。  もとから独特の存在感とキャラクターの持ち主ではあったけど、今夜の彼女は違って見える。  凄味と言ったら不適切なのかもしれないが、これまでとは違った意味で僕の心をざわつかせる佇まいを持っていた。 「もしかして、お化粧とかしてる?」 「ん、いやしてないけど。したほうが良かった? 迷ったんだよ私。  こうやって現実に逢うのは、お互い慣れてないもんね。だから色々、がっかりされないように気をつけてみたつもりだけど…… 何か変かな? 夢の私と、やっぱり違う?」 「い、いや――別にそんなことは」  ない、と言えば嘘になる。悪い意味では全然なくて、むしろ逆で……  ああもう、男だろう世良信明。はっきり言え。 「へ、変じゃないよ。……今夜の君は、とても」 「とても?」 「綺麗だ」  半ば裏返った情けない声だったが、ともかく思ったことを素直に言った。それに緋衣さんは頬を染めて、淡く微笑む。 「ありがとう。嬉しい」 「ほら、座って。今夜は普通に、ここで色々話しましょう」 「うん……そうだね」  言われるがまま、僕は彼女のすぐ傍に腰を下ろした。先の言葉が照れ臭く、鼓動は今も早鐘のように鳴っているが、それを居心地悪いとは思わない。  むしろ、満ち足りたような充実感に包まれていた。それはきっと、これが僕の一人相撲じゃないと感じられるからだろう。  緋衣さんも同じように、このときを楽しんでいる。照れて、慣れずに、軽くぎくしゃくしているのもお互い様。だから自然と、笑みこぼれてしまうのだ。 「……そうか、やっぱり文化祭には来れないんだね」 「行きたいのは山々だけど、逆に迷惑かけそうだしね。他校生のふりをして紛れ込むのもなんだか変だし。  だから信明くん、後でどんな感じだったか話してちょうだい」 「分かった。そこは約束するよ」  そうして小一時間も経った頃、すっかり僕らは砕けた雰囲気になっていた。会話は途切れず、無理をせずとも話したいことはいくらでも出てくる。  邯鄲に関わることだけは何となくムードじゃないのでお互いに避けていたが、それでも場に違和感はない。ちょっとした冗談に笑いあって、軽く叩いたり叩かれたり、そんなやり取りが純粋に嬉しい。 「そういえば聞いてなかったけど、緋衣さんは何処の生まれなんだ? 鎌倉じゃないだろう」 「まあね。いったい何処だと思う?」 「いや、そう言われても分からないけど……」  他愛ない話題だったが、早々に降参するのは彼女にとってもつまらないだろう。だから僕は考える。  ここまで、緋衣さんから方言のようなものを感じたことはなかったから、まともに推理すれば首都圏内だと思うけど、それはそれで安直だしひねったほうがいいように思う。  石神さんにしたところで、広島育ちというわりにはまったく訛りを感じさせない。だからここは、いっそのこと思い切って突飛なことを言ってみようか。 「もしかして、海外とか?」  と、探るように言ってみたら、緋衣さんは目を丸くして僕を見ていた。 「すごいね。どうして分かっちゃうの?」 「え、いや、ほんとにそうなの?」 「うん、大当たり。私が生まれたのは日本じゃないわ」 「だったら、いったい……」  まさか、ここでも質問形式というのはないだろう。外国まで範囲が広がれば選択肢が多すぎて、ノーヒントのまま当てるのは不可能に近い。  そんな僕の気持ちを察したのか、緋衣さんはくすりと笑って答えてくれた。 「教えてあげる、中国だよ。  黒竜江省、ハルビン市。ほとんどロシアみたいなところね、あれは」 「中国、ハルビン……」  言われたことを鸚鵡返しに呟きながら、頭の中で地図を描き検索してみた。  黒竜江省といえば、確か中国の最北端かつ最東端で、北朝鮮の上にある地区だったと記憶している。そしてなるほど、言う通りロシアとの国境が存在するところでもあった。 「それは……なんていうか、寒そうだね」 「まあね。〈日本〉《こっち》の北海道より、もうワンランク上っぽいかな。気候も少し違うから、単純に気温の問題だけじゃないけれど。  でも、あまりたいした思い出はないな。まだ小さいうちに、すぐ引っ越しちゃったから」 「それで日本に?」 「ううん。次も同じ中国。だけど今度は、正反対に暑いところ。  蒸し蒸ししてて、人が多くて、なんかこうギラギラーっとしたところよ。何処か分かる?」  問われ、僕は深く考えずに即答していた。 「上海?」 「はい、大当たり。やるなあ信明くん、結構頭がいいんだね」 「いや、そんな、これくらいは一般常識の範疇というか」  中国の南部寄りにある大都市と言えば、ほとんどの人がそこを思い浮かべるはずだろう。香港と迷うところではあるけれど、そこが持つ享楽的なイメージはあまり緋衣さんにそぐわない。 「でも、なんだか凄いな。僕には想像できないものを、君はたくさん見ていそうだ」 「別に外国暮らしをしていたからって、見識が広がるわけじゃないよ。そりゃあ言葉なら話せるけどね、ニーハオとか」  言って、悪戯っぽく舌を出す。そこから〈翳〉《かげ》りのようなものを感じることはなかったが、きっと色々あったに違いない。  普通と異なる彼女だから、普通じゃない人生を歩んできたのは容易に想像できるところだ。真っ先に思いつく点として医療面とか、国内では不可能なことが多くあったのだろうと考える。 「親御さんは、今なにを?」  だから、これまで彼女を救うために手を尽くしてきたのだろうご両親のことが気になったから、訊いたのだけど。 「死んじゃったわ、ずっと前に。  私の家系は、みんな長く生きられない。遺伝なのよ」 「それは、その……すまない」 「いいのよ、気にしないで。確かに嫌な話だけど、私は違う」  連鎖を断ち切ってみせるのだと、両の瞳が言っていた。  出逢った頃からずっと一貫していた彼女の真、生きるという決意と覚悟は微塵も揺らぐことがない。 「今は信明くんもいてくれるしね。なんだって叶う気がする」 「あれこれ面倒なことはあったけど、ようやく実を結びかけてる感じがするわ。本当に長かった。  うん、自分で言うのもなんだけど、すごく大変だったのよ。ちょっとそういう話をしてもいい?」 「それは、もちろん構わないよ」 「ありがとう。さっきも言ったけど、私が中国にいたときにね」  微笑み、彼女はらしくない饒舌さで当時のことを話し始める。その内容は、正直に言って色々と間違っているものだった。 「私が向こうで世話になっていたのは、まあ要するにこっち系の人たちで」  頬にすっと線を引きながら語るジェスチャーは、つまるところヤクザなものだということだろう。賭博がどうだの、密輸がなんだの、そこに関わる諸々の話。ムードもへったくれもあったもんじゃない。  だけど。 「ねえ、聞いてる信明くん?」  僕は余計な口を何も挟まず、黙って彼女の話を聞いていた。さすがに笑顔で楽しくというわけにはいかないところもあったけど、別に不快を押し殺していたわけじゃない。 「聞いてるよ。それで、続きは?」  内容がどうであれ、緋衣さんが僕に胸襟を開いている。この、いつも超然とした女の子が、嬉々としてずれた話題に興じている様を、純粋に可愛いと思っていたんだ。 「つまり緋衣南天という子の正体は、中国マフィアの一員である。そういうことだろ?」 「え、いや、うん……まあ、ざっくり言うとそうなんだけど。  あ、その、ごめんなさい。なんか私、痛い子だった?  DQNの悪さ自慢みたいで、引いちゃうよねこれ」  一転、あたふたと慌てだす彼女に僕は笑った。 「まあ、そういう人が身近にいないから驚いたのは確かだよ」  悪系の武勇伝なら淳士さんも相当なものがあるだろうが、あの人は絶対そういう話を皆にしない。  それは彼なりの主義で、矜持で、曰くDQN自慢などみっともないだけ。その通りだろう。 「だけど、君の話ならなんでも聞くし、話してくれるのは嬉しいよ。緋衣さんに関することなら、それだけで僕には大事だ」 「そういうわけで、さあほら、続きは?」 「…………」  促す僕に、緋衣さんはなんだかとても可愛らしい顔を見せてくれた。  恥ずかしいのと、怒っているのと、困っているのが見事に鬩ぎあっている顔。  そして、少しだけど喜んでいるのが伝わる顔。  ずっと見ていたい思うに足る表情だったが、それはすぐに消えていく。  でも、だからといって残念な気分にはならなかった。 「本当に、調子狂うな信明くんは」  代わりに浮かべてくれたその顔も、負けずと魅力的に感じるものだったから。 「あなたみたいな、ムードもへったくれもない人が私は……」 「いやいや待ってよ。ムード云々言うならそっちこそが」  突っ込みどころ満載な呟きに反駁しようとしたのも束の間、彼女は僕の襟を掴んで引き寄せ―― 「大嫌い。おめでたい人。  鬼門だわ。どうしてくれようかしら、本当に」  息の掛かる距離でそう言われ、そのまま僕の口を封じるように彼女の唇が重なった。  儚げな外見からは想像も出来ないほど、それは強引で、暴力的にすら感じるキス。  まるで男女の立場が入れ替わったような、おまえは私のものだと刻みつけるみたいな口付けだった。 「ふふっ、犯しちゃった。信明くんのこと。  なかなかいい味だよね、上等上等」 「なっ、ちょ、あのなあ」  そして、僕が抱いた印象を肯定するかのように、男前と言うにも語弊がある肉食発言をする緋衣さん。  本当に真面目な話、ムードがないのはどっちだと言いたくて堪らない。 「知ってるでしょ? 私、悪い女だから。  ピュアとか清純とか処女がどうとか、そういう童貞臭い妄想には付き合わないわよ。   ていうか信明くん、童貞じゃないんだからおたおたしないで」 「~~~――……」  今度は、こっちが恥ずかしさやら怒りやらで顔を歪めることになった。そんな僕を見やりながら、彼女はくすくすと笑い続ける。 「私が奪ってあげたんだから、今後もそれ相応の価値を見せてね。  期待してるんだし、役に立って」 「言われなくても……!」  悶絶したい気持ちを抑えながらも、精一杯の意地を張って僕は頷く。  そうだ、あのとき誓った勇気の真実を見失わないことが何より大事。  僕はこの子を、守り救うために存在する。 「見ていてくれ」  彼女と添い遂げたいと思うなら、修羅を行く覇気が必要。甘粕正彦に言われたことをそのままなぞるつもりはないけれど、甘いだけの道じゃないのはとっくの昔に分かっている。  だからその果てに、彼女を怒らせ、あるいは恨まれ、失望されることになったとしても。  緋衣南天を守りきる――それが僕の貫く覚悟なんだと、再認する文化祭前の夜だった。 「さあて、いよいよだなおまえたち」 早朝、文化祭の準備が万端整いつつある光景を眺めながら、俺は背後の仲間たちにそう言った。 そして振り返り、気合いを入れるための激を飛ばす。 「色々大変だったけど、こうしてとにかく今日が来た。どいつも不安はないだろうな」 「もちろん」 「当たり前でしょ」 「そりゃ緊張とかはしてっけどさ」 「ここまできたら、もうやるしかないって感じ」 まさに歩美の言うとおりで、心地いい高揚感が場を包んでいる。これまで越えてきた夜の悪夢や、今後も起こり得るだろう諸々なんかはひとまず無視だ。 今は朝で、日常の時間。だから明確に線を引こうという俺の方針に理解を示し、共に文化祭を成功させるため頑張ってきたこいつらの気持ちを強く感じることが出来ている。 「いやあ、しかし、マジにハードスケジュールだったぜ。こんなの入試以来のレベルっちゅうかさ」 「だな。けどおまえ、寝ぼけて台詞とかトチんじゃねえぞ」 「当たり前だろ。そんなことしたらぶっ殺されかねねえ」 「それにそもそも……」 「ああ、劇の内容が内容だからな。がつんと見せ付けてやらないといけない」 「そういうことだ」 曽祖父さんたちの物語。それを主題にした演劇をやるというのは石神の歓迎会をやったときに決まったことで、当時は純粋に面白い案だと思っていたが、今は複雑な事情が相当に絡んでいる。 それは言うまでもなく、現在の鎌倉で起きている事件のことだ。甘粕事件にまつわる夢を見た結果として、タタリが現実に招かれるという危険な状況。そのことを鑑みれば、俺たちの劇は火に油を注ぎかねない。 だから当初は、最悪やめるかという話さえ俺たちの中では出ていたけど、そこに断固反対したのは石神であり…… 「こんなときだからこそ、王道の〈舞台〉《ユメ》を見せなくちゃいけない。どれが正しいとかいう話じゃなく……だな?」 「うん。以前、君と栄光くんが言っていたことに感銘を受けたからな」 「ヒーローを祈ることこそ普遍的で、それが現れないなら私たちがヒーローになればいい」 「だから演劇は絶対決行。やっぱり大事だよね、そういう気持ち」 「ま、馬鹿な大衆どもに啓蒙してやるのは当然の義務ってやつ?」 「おまえはそういう偉そうなこと言うから最初のときみたいにアンチが騒ぐんだよ。けーもーとか、そんな大上段のもんじゃなくてよ」 「むしろ一種の挑戦状だよね。どうだこんにゃろう、これが主役だー、みたいな」 「おまえの喩えも物騒なんだよ。こりゃ単に、俺らの意地だろ」 「演劇見せ付けたくらいで野次馬どもの何が変わるとも思えねえが、少なくとも俺らは変わんねえぞっていう、そんな感じのよ」 「いや、他の奴らも変えられるって鳴滝。実際あれ以来、例のムカつく雰囲気もなくなったじゃん」 俺たちが仲違いをしているという噂、妄想。だから喧嘩をするに違いないという希望、期待。それらの空気は、辰宮邸での一件を収めて以来、確かに鳴りを潜めていた。 そういう役割を負っていた百年前の辰宮百合香というタタリを祓ったから、これは順当なことだと分かるが、だからこそ俺たちは無力じゃないという自信を得ることが出来ている。 纏めるとそういうことで、ゆえに俺たちは全力で本日の文化祭に臨む。 もちろん楽しむし、堅苦しく気負っていくだけのつもりはない。 「おー、おまえら、いたいた。とりあえず一旦、教室入れ。劇は午後の部だから、午前中は段取りの分担決めなきゃいけないだろ」 「分かりました。じゃあ、おまえらも――」 呼びに来た芦角先生に応えつつ、再び皆へ目を向ける。 「とりあえずは午前の部だな。他クラスの出し物も見て回りたいし、そのへんのタイムテーブルを決めておこう」 「了解っ」 そうして俺たちは、ひとまず午前の部を迎えるため、校舎の中へと入っていった。 さて。それじゃあ開演までにはまだ時間もあることだし、じっと待機しているだけではもったいない。 なので、俺は晶と二人で校内を歩いていた。さすがに文化祭当日であり、周囲は活気に溢れている。 「うーん。あっちは喫茶店で、その隣は展示かぁ。どこも気合い入ってんなー」 「うわ、見ろよ四四八あれ。格好あざと過ぎじゃない?」 視線を向けてみれば、客引きの女子たちが黄色い猫撫で声を振りまいている。問題はその格好で、身に纏っているのは旧式の体操服──いわゆるブルマだった。 千信館は学校指定のジャージがあり、ゆえに彼女たちは目立っている。脇を通る男子も皆しっかりと誘引されているが、それもやむなしと言えるだろう。 「ここの体操服が、昔そういうやつだったのかなぁ。いや、それにしても目立つわー」 「まあ、客引きにベストだと判断してのことだろうな。正直、気持ちは分からなくもない」 「あんまりにも行き過ぎてるなら問題だが、あのくらいであればギリギリ常識の範疇だろうしな」 そう。たかが文化祭とはいえ、かけてきた時間があるし思いもある。だから色んな人に来てほしいよな。 そこは俺たちも同じだから、気持ちはよく分かるんだ。 「午後の開演まで、もうあと数時間か。晶は緊張してるか?」 「うん。そりゃ多少はしてるけどさ──」 「ここまできたら、やるしかないじゃん。開き直ったぞあたしは」 頼もしい笑顔に、俺も頷いて同意を示す。もはやどんな精神状態であろうとも、間もなく本番を迎えるという事実は変わりない。 人事は尽くしたと言い切れる。であれば気負いは無駄なこと、今は他のクラスでも見て楽しもう。 そうして二人歩いてると、なんだか騒々しい話し声が聞こえてきた。 どこかの教室から出てきた連中のようだが…… 「おい、あそこの出しもの凄くね? マジで一つだけレベルが違うわ」 「総代のクラスだろ? 学園生活最後だから、気合い入ってるのかねぇ」 「にしても、どんだけだよ……よくストップかからなかったよなー」 彼らが話していた情報を統合すると、どうやら噂の元は百合香さんのクラスらしい。 内容までは分からなかったが、要するにとんでもない出しものを運営しているようだった。 俺は、晶と顔を見合わせる。 「だとさ。行ってみるか?」 「ああ。百合香さんのことだし、半端はないんだろうな。楽しみだ」 互いに興味を惹かれ、三年生の教室へと俺たちは足を向けるのだった。 そして── 「お、おぉ……」 「いやー、ずいぶんと暗いんだな……なんか空気も生温いし」 「足下も見えないし……うわ、今何かそこ通った?」 「人魂みたいなものに見えたな」 「冷静に言うなよー、もー」 想像を遙かに上回る規模の出しものに、すっかり晶は怖気づいている。 そう、百合香さんのクラスはお化け屋敷。しかもありえないレベルで凝りに凝りまくっていた。 周囲は完全に暗室状態。照明は独自のものだろうか、怪しく明滅しながらまるでこの世ならざる雰囲気を醸し出している。 そして会場の広さも、優に教室数個分はあるだろう。まさかとは思うが、これは壁をぶち抜いているのだろうか。 そういえば、確かに数日前から校舎内で工事をしているらしき様子はあったが……このためだったとは恐れ入る。 端的に言えば、辰宮の財力にものをいわせて凄いことになっているのだ。 これなら生徒たちの評判になるのも当然であり、そして隣の晶も覿面にびびっている。 「おい、そう恐がるなよ。これはしょせん文化祭だ、本物の妖怪が出るわけじゃないぞ」 「分かってるよ。けど、仕方ないだろこんなのさぁ……」 「絶対置いてくなよ四四八。一人にしたら承知しないからな!」 「はいはい」 応えながら、俺は入口で説明されたことを思い出す。どうやらこのお化け屋敷には、守らなければならないルールがあるらしい。 その一。まずは二人一組で行動しなくてはならない。 その二。どこかに落ちているはずの鍵を探さないと出られない。いくら早々に離脱したくとも、それは無理ということだ。 要するにオリエンテーションみたいなものだと言えるだろう。二人一組が必須ということは、互いに協力しないと乗り越えられない仕掛けが待ち受けているということか。 それだけ見れば順当と言えなくもないんだが、背後にはあの人の世間知らずさが存在するので油断できない。 ともあれ鍵を探さないことには始まらず、俺は晶に声をかける。 「あっちの方とか、なにかありそうだよな……って、歩けるか?」 「ちょ、待って四四八、ひゃあっ──」 「ようこそ地獄の一丁目ェェェェェ!!」 「ぶしゅらしゅらしゅらしゅしゅしゅゥゥゥゥ」 「おわああああああああああああああぁぁぁ!!」 「ッ…………」 やたら精巧な化けが出たな。しかも複数。 いかなる特殊メイクを施しているのか、ただの学生じゃこれだけのクオリティを出せはしない。そこは素直に舌を巻こう。 しかし…… 「おい、ちょ、晶──」 「いやー! キモい! キモい! あ、あっち行けーっ」 眼前の光景よりも問題なのは、晶が思い切り俺に抱きついているということだ。 この手の場所では定番とも言えるリアクションだが、この本気っぷりはそうそうお目にかかれないだろう。心の底から恐れている。 驚かせ冥利には尽きるのだろうが、こっちは正直戸惑ってしまう。密着し過ぎだろうがよ、いろいろと。 「ほら落ち着け、もう連中はどこか行ったぞ」 「ほ、ほんとに……? ほんとのほんとに大丈夫?」 「ああ、まったく大したクオリティだよ」 「うぅー、びっくりしたぁ……もうやだマジで。誰だよ、こんな大がかりに仕組んだの」 そう半泣きになりながら、俺に縋りついたまま歩く晶。 普段はしっかりしているはずのこいつがこうまで取り乱しているのは、こちらとしても調子が狂う。今までのお化けも確かに結構なものだったが、そばもんに比べりゃだいぶマシだろうがよと。 思いながらも歩いていくと、小さな鳥居のようなものが見えてきた。 そこを入り口にして、穴が奥へと続いている。うん、もうあからさまに怪しいなこれ。 「おそらく、ここに鍵のヒントみたいなものがあるんだろう。ちょっと覗いてみる」 「っと……ん、きついな……くっ」 しかし壁の穴は思いのほか狭く、俺の体格では入れない。 となると……気は進まないが、こいつに頼むしかないだろう。 「晶、すまんが見てきてくれないか」 「ええー! あたしが? ヤダヤダ絶対無理だって!」 「俺もそうさせたくはないんだが、鍵が必要だというルール上どうしようもないんだよ」 「危なくなったら戻ってくればいいから、な?」 「うぅ~~……」 どうにも踏ん切りのつかない様子の晶だったが、この状況では他に選択肢など存在しない。 早く出てしまいたいならなおのこと、鍵を入手するしかないだろう。 「分かったよ。ただ、何かあったら頼むぞ!」 「ああ、いつでも呼んでくれ」 「ん、しょっ……あー、これ確かに狭いな。あたしでやっと通れるくらいだわ」 「って、きつ、引っかかる……」 言いながら身体をよじっていく晶。しかし盲点と言うべきか、こっちから見たら晶の尻だけが突き出ている状態であり、なんだか妙に艶めかしい。 目の前で左右に振られたりすると、その、あらぬ邪念が芽生えてしまいそうだ。 そんな中でも晶は少しずつ前進していく。そして、少し広い場所に出たのか進みが速くなった。 「お、こっちに続いてるのか。どれどれ──」 「晶、大丈夫か?」 「なんとかなー、ってひゃあぁぁぁぁっ!?」 「おい? どうした、何かあったのか!?」 「うぅー、いたた…………」 「あれ、ここどこだ? 四四八? おーい、四四八ーっ」 「晶ァ!」 名前を呼び舌打ちをする。どうやらこのトンネルの中には更なる穴のようなものがあり、晶はそこに落下してしまったのだろう。 これは俺の不注意に他ならない。常識の範疇で攻略法を計ろうとしたが、百合香さんはとことんまでやる人だ。 ワンフロアしかないはずの教室でなぜ下に落ちるんだとか、常識的なことを考えたって意味がない。それが辰宮なんだから。 「うぅ、なにも見えない……気持ち悪い、もうやだぁ……」 「……なに? 今、出てきたのって……っ……」 「まさか……本物の幽霊、なんじゃ……」 そんなことはないと伝えようとするも、ここで俺が何を言ったところで届きはしないだろう。晶が暗闇に置かれて平常判断を出来るとは思えない。 加えて、実際あいつに何かないかも心配だ。いくら出しものとはいえこんな暗闇なのだから普通に危険で、何があるか分かったものではないだろう。 「うわ、わわわ、近づいてくる……やめろ、来るなよ……」 「た、助けて……助けて四四八ー!」 「待ってろ晶、今行くからなッ!」 叫び、そして考える。この穴は俺の身体じゃ通れないが、今やそんなことで躊躇している場合じゃない。 あいつに何かあったらと思うだけでいても立ってもいられなかった。いや、恐がらせたくすらないんだよ。 かくなる上は、体当たりで入口をこじ開けて……! と、思ったそのときだった。 「な、ッ……!」 「────」 そこに突如として姿を表わした存在は──ああ、如何なることだろう。 振り返った先にいるのは、この場に絶対存在しないはずの男。酷薄な笑みを浮かべたまま、異次元の光景を顕現させる。 「どうした? 驚くことはない、俺の顔は見慣れているはずだろう」 「なぁ、四四八……我が愚息よ」 両手を広げて現われたのは柊聖十郎。ありえないと頭を振る。 いるはずがない、今ごろは海の向こうなのだから。いや、それを勘案せずともこいつが文化祭などに足を運ぶとは思えない。 そして、何よりも衝撃的なのはその背後に林立しているモノの存在だ。 天井から樹木のように張り出しているそれは十字架と表わすべきだろうか。何の気配も感じさせず突如として現われたそれには人が無残に括られている すべてがミイラ化しており、損壊、腐敗、あるいは発火している── ああ、酸鼻極まる光景だ。因果脈絡まったく読めないこの現実に、俺は目眩を押し殺す。 そして、逆さ磔の中には見知った顔があった。 「ッ、母さん──」 「芦角先生も……! 親父、これはどういうッ……」 逆十字には母さん──柊聖十郎の妻であるはずの女性が哀れに磔られている。 傍には腐乱した先生もいて、二人はいったいどうなっている? 取り乱す俺に対して親父は悠然、冷笑を崩すことなく告げる。 「千信館学園の周囲に広がる龍脈の流れにおいて、この鳥居は至極重要な一点でな」 「足を踏み入れた者は、その魂を根刮ぎ吸い上げられる──このように」 「あんた、いったいなにを……」 口にする単語すべてが理解不能だ。龍脈? 魂? それはどういうことなんだ。 加えてなぜ文化祭の出しものと繋がっているのかなど、告げられる事実は一から十まで俺の常識を崩しにかかる。 確かなことは、現実にこの光景があるということで…… 「ゆえ、先ほど飛び込んできたおまえの女も、この中に取り込まれているというわけだ」 「安否が気に掛かるだろう? さあ、見事見つけ出してみせるがいい」 「晶が、ここに……?」 信じられないという思いと戦いながら、俺は聖十郎に目を向ける。 気を確かに持て柊四四八。おまえはさっきなんと誓った。 晶を助けるんだろう。自分の代わりに向かわせた女が巻き込まれたんだ。何を犠牲にしても必ず救わねばならない。 そう決意して、この絶望的な状況を打開するために思考を巡らせる── 「無知蒙昧な貴様に教えてやろう、ここから救い出す方法を」 「なにッ」 「魂の救済──その条件とはただ一つ。探し求めている相手をどれだけ愛しているか、声を大にして告げることよ」 「嘘偽りは認められん。冥府に落ちた魂を救い上げるには、真なる叫びを以てしなくては届かない」 「人を蘇らせようとするのだ、そのくらいは当然というものだろう?」 親父の言うことはかなり無茶苦茶だが、この状況を前にしては信じるしかないのか。荒唐無稽にもほどがある。 しかし……皆が囚われている現状において、それは真贋問えずとも抗うことの出来ない事実となる。 なによりも、灼熱した頭ではこれ以上考えられない。ああいいさ、乗ってやる。 晶をこの手に取り戻すためならば、その程度なんの障害にもなりはしない! 「どうした四四八、宣してみろよ。想いがあるなら容易いことだ」 「さあ、恥ずかしがらずに言ってみようかァ!」 妙に悪趣味な煽りを前に、俺は一つ呼吸を整え…… そして、親父を前に己の内奧を晒していく。 「あいつは──気がついたらいつも傍にいる、そんな存在なんだ」 「それは、幼いころからずっと……嬉しいこと、悲しいこと、すべてを一緒に経験してきたんだよ」 「それが当たり前だと思えるし、今こうして奪われてなおさら実感したよ。晶の姿が見えないだけで、俺はこんなにも不安になってしまうのかってな」 「お、おぉ……」 「戻ってこい、晶。おまえがいてくれるからこそ、俺の毎日には笑顔が……暖かい日々があったんだ」 「会いたいんだ、今すぐに……そして今度は離さない」 「恐い思いも、辛いことも、もう二度と味わわせたくないんだ。ずっと、ずっと、俺がおまえを守ってやるッ!」 「百点……満点ッ、ですわ!」 己のすべてとも言える気持ちを解放し、それに呼応するかのように親父は快哉を叫ぶ。 その語尾に違和感を覚え、同時── 「こ、れは……?」 目の前にいたはずの親父が、まるで霧を払ったかのように消えていく。 同時にあの逆さ十字も薄れていき、そして。 「あ……えーと、その……」 「おまえ、あたしのこと、そんなふうに思ってたのか……そっか……」 「晶ッ……」 鳥居の脇から、晶がおずおずと歩いてくる。その顔は薄闇の中でも分かるほど赤く染まっている。 自分の発言を振り返ると、ああ、なんてことを言ってしまったんだ。仕方がなかったとはいえ、聞かれているというつもりなんてなかったから。 さっきはただ無我夢中で、そして俺を陥れた相手はもうあの人しかいないだろう。 「勘弁してくださいよ、百合香さん……」 「ふふ、情熱的な告白、素敵でしたよ四四八さん」 「男らしく、実直で……ああ、いい声録らせていだたきました」 どこからか聞こえてくる柊聖十郎の声。その中身はもう言うまでもないだろう、この出しものの企画者だ。 つまりさっきのあれは立体映像の類で、これはボイスチェンジャーといったところか。どうしてここまでするのか、などという問いは無駄なんだろうな、きっと。 辰宮流の話をされても分からないし、今は正直その元気もない。 「やはり祭りを彩る思い出は、男女の告白より他にないでしょう。様々な書物を読んで、そのくらいのことは知っておりますの」 「いかがでしたか四四八さん、晶さん? よろしかったら、お友達もぜひお誘いくださいね~」 「ほんとどうかと思いますよ、今回のは……」 割とマジで。 そう言って、ぐったりしてる晶と一緒に出口へと向かうのだった。 そして── 「…………」 「…………」 「あのっ」「あのなっ」 「あ……すまん。なんだ晶?」 「いや、あたしこそごめん。先にどうぞ……」 当然、俺たちの空気はこうなるよな。あれだけ派手にやらかしたんだから。 聞いたところ、あの後晶は別室みたいなところに連れて行かれていたらしい。 それは、いわくコンピュータールーム。主犯はやはり百合香さんで、俺の前に現わしたホログラフィーを操っていたらしい。機材を用いて声まで変えるという徹底ぶりだ。 俺は本気で親父がいると思ってしまった。少し考えればそんなことあるはずもないと分かるのに、完全に動転していた。 あげくのはて糞真面目に、晶がどれだけ大事かを叫んで…… その告白めいた宣誓に、百合香さんはいたく感動していたらしい。あの四四八さんがなんと情熱的な、と。 そして俺が想いを告げたことでミッションクリア。晶に鍵を持たせ、戻ってきたというわけだった。 いや、もういいけどな。文句を言う気も起こらない。 それより当面はこの空気だ。ああ、いったいどうすればいいんだよ。 晶はすっかりしおらしくなって俺の隣を歩いている。 そして何度目かの視線が合い、染まったままの顔で口を開いた。 「いや、まあ、分かってるからよ。あれが想定外な状況だったってのはさ」 「ほんっとメチャクチャしてくれるよなぁ百合香さん。悪気がないっつうのがまた厄介というか、まったく……」 「すまんな、なんか」 「四四八が謝ることないって! っていうか、むしろ……」 「あたしは、嬉しかったよ。その、あんなにはっきり言ってくれるなんて、思ってもみなかったからさ……」 「そういうふうに、考えてくれたんだなぁって」 告げられた言葉に俺も照れてしまう。いや、そんなこと言っても、あれはおまえ、仕方ないだろ。 恥だのなんだのに構っていられるわけがない。 それに、今こうしておまえが無事でいることに心底ほっとしてるんだから。良かったよ、本当に。 それからも俺たちは言葉少なに、しかし悪い気分でもなく校内を回るのだった。 俺たちの劇は午後開演──時間はまだしばらくあり、その間は自由行動となる。 あまり羽目を外すわけにはいかないものの、せっかくの文化祭だ。なにか見て回ろうと校内を適当に歩いていると…… 「おぉ柊。今一人か? うんうん、だったらちょうどいい」 正面から同じく一人歩いてきた芦角先生に捕まってしまう。 ちょうどいいと言うからには、なにか用事でもあるのだろうか。などと考えていたら、先生はずずいと近寄ってきた。 「で、どうよ。〈あ〉《、》〈の〉《、》〈件〉《、》についての首尾は。おまえならどうにか出来んだろ?」 「いや、なんの話ですか藪から棒に」 首を傾げ、俺はそう尋ねる。 いや、そんな露骨に落胆したような顔をされても……説明もなしに言われたって、こちらとしては当然の疑問だろう。 俺たちの付きあいもいい加減長く、多少のことだったら察することも出来ようが、ノーヒントで分かれと言われてもさすがに困ってしまう。 先生は心底嘆かわしいといった様子で俺を見て、そのままさらに一歩前に出る。 「えー、まさかなんにも手ぇ打ってないとか言うなよー。こっちとしては、おまえのことをバッチリ信用してんだぜ?」 「前に言ったよな。この文化祭で、ベストカップルコンテストとかいうふざけたイベントが開催されるって」 などと言ってくるものの、どうだったか── ああ、そういえばそんなこともあったなと思い出す。 男女二人でエントリーして、どのカップルがもっともお似合いであるかを競い合う。文化祭の恒例ともいえる催しであり、イベントの最後を鮮やかに彩る華行事だ。 確かに聞いてはいたものの……自分のところの準備でいろいろ忙しく、すっかり意識の外に追いやっていた。 「思い出したか。んで、上手い具合に阻止出来そうか?」 「すみません。今のところ、ちょっとまだ……それに前にも言いましたが、さすがにイベントの中止までは難しいと思いますよ」 「俺を買ってくれてることは嬉しいですが、一生徒が出来ることなんてたかが知れてますからね」 「っかーっ、なんだなんだ。難しいから諦めるって? あのなぁ、私はおまえたちをそんな惰弱な生徒に育てた覚えはないっつーの」 「やれと言われたらイエス・サー。どんな困難にも屈さない。分かったら気合入れろやボケぇ」 「はぁ」 なんたる理不尽。たとえかつての軍学校でもここまで一方的な物言いをする教員はおるまい。 そもそも、面倒だからというのを抜きにしても実際に無理なんだよ、そんなことは。 どうにか思い出そうとはしたものの、やはり聞いた覚えはない。忘れてしまったのだろうか? なので先生にそう伝えると、不思議そうに首を傾げる。 「あれー、そうだっけな。言ってなかったか」 「まあいいや。んじゃ改めて説明するけど、〈千信館〉《ウチ》の文化祭にはベストカップルコンテストなる恒例行事があってだな──」 一通り話を聞かされて、だいたいのところは理解出来た。なるほど、そんなイベントが行われるんだな。 男女二人でエントリーして、どのカップルがもっともお似合いであるかを競い合う。文化祭のトリに相応しい催しであり、イベントを鮮やかに彩る華行事だ。 まあ、これから自分のクラスの劇もあるし構っている暇はないのだが。 しかし、そんな俺の事情など斟酌することなく先生は告げる。 「だけどな柊、それは仲睦まじい男女を素晴らしいと規定し、ぼっちに対しては惨めに貶めようとする、極めて失礼なイベントなんだ。なあ、そうは思わないか?」 「はぁ、まあ」 それは、そういう意見もあるかもしれないな。 とはいえ祭りの場で、しかも学生がすることだ。度を超しさえしなければ、盛り上がりの範疇ではあると思うけど。 「要するに私の言いたいのは、神聖なる学園行事にかこつけて盛るなっていうことなんだよ。ジャリどもが鬱陶しいったらないだろまったく」 「だからこそ、おまえに指示を出す。なあ、今からでもいいからなんとかしてくれない?」 「なんとかって……」 「中止に追い込んでくれっていうことだよ。こんな不健全なイベントを、おめおめと開催させるわけにはいかんだろ?」 いやいや。俺一人でそんなこと、どう考えたって無理だろう。 だいたいさっきから私怨が覗きまくってるじゃないか。おおかた、目障りだから潰してやると言ったところだろうか。 うん、さすがに付いていけない。 そもそも俺は学生側なのだ。皆の楽しみにしているイベントを無碍に潰すわけにはいかないだろう。 「どうした、なにをこそこそやっている芦角──」 廊下を塞ぐような形で立ち話をしている俺たちに、そう声をかけてきたのは幽雫先生。 助かった、と俺は内心安堵する。暴走しがちな芦角先生のストッパーに、彼であればなってくれるだろう。 これまでの経緯を俺は簡単に説明する。文化祭でカップルコンテストがあり、それについて芦角先生が不満の意を示している等々── 「なるほど、それでこいつが絡んできたというわけだな。大変だったな四四八くんも」 「というか、おまえいい加減にしろよ。教師がそれでは生徒に示しがつかん。いいや、それ以前の問題だ」 「えー、なんだよ急にぃ。これは私と柊の問題なのにー」 「こうして見てしまったからには、言わねばならんだろう」 「なあ芦角、おまえ四四八くんと幾つ離れてると思ってるんだ? まったく、本人はそう思わないかもしれないんだろうが、傍から見ていると滑稽なものだぞ」 「教師と生徒でコンテストに参加など……いくら文化祭だからといって、浮かれるのも程度があるだろう。悪いことは言わん、慎んでおけ」 「うええっ? ちょ、待てよおい。誤解してるぞおまえ完全にっ」 「いや、先生それは違います」 ちょっと聞き捨てならないレベルでの誤解をしていたようなので、二人して即座に正す。 教師と生徒の交際という話も聞いたことくらいはあるが、今回の件とはまったくの無関係だ。これ以上話がややこしくなっては敵わない。 「おや、そうなのか。すまなかったな二人とも、俺の早とちりだった」 「だいたいなー、どうして私がこんなのに声かけなきゃいけないんだよ」 「ぜんっぜん趣味じゃないわ、柊なんて。まず年下だしー、ガキだし、口うるさいし、真面目そうに見えてムッツリスケベかもしれないし……」 「ほう、言ってくれますね」 「じゃあもう、先生たち二人で出ればいいじゃないですか。歳も近いですし、意外とお似合いだと思いますよ?」 名誉毀損にも等しい言葉を向けられ、もうまともに構うのが面倒になった俺はそう言った。 ガキがどうこう言うのなら、そしてパートナーが欲しいと願うのなら、年相応のカップルでコンテストに出てみればいいじゃないか。 話題にもなるだろうし、俺は面倒事から解放される。ああ、文句なしの展開だ。 さあどうだと思い見てみると、芦角先生の様子になにやら異変が起こっている。 それは、まるで…… 「えー……柊ぃ、それってさぁ。私と……こいつってこと?」 「おまえそれ、マジで言ってんの? いやぁ~、そりゃどうなんだろうなぁ……」 「確かに教員同士ではあるけど、だからといって……んー……」 幽雫先生とコンテストに参加することに、なんだか照れているかのような仕草を見せる芦角先生。 普段見せたことのないしおらしさに、俺の方が思わず訝しんでしまう。いや、どうしてこんな表情を浮かべてるんだ? 「つまりさあ……か、か、カップルってことだよな、それって……」 「はい」 「うわわ、ばっかおまえ、やめろよなー無責任にそういうこと言うの。あのな、私はこんな奴、同僚としてしか見てなくてだなっ」 「そもそも……ああもう、言わせるなよなーまったくよー」 と、怒っているようにも見えるし、まんざらでもない様子にも見える。 ああなるほどな、と俺は合点がいってしまう。これは恐らく、“カップル”という単語に反応しているんじゃなかろうか。 別に相手が幽雫先生だからというわけじゃなく、好きとかそういうことでもない。ただ単に、自分が男性とセットとして扱われることに戸惑っている── もしもそうだとしたら、初心というかなんというか。男に縁がないみたいなことを普段から言いまくっているが、まさかここまで深刻な事態に陥っていたなんて思わなかった。 突っ込みを入れるのすら憚られる。そんな微妙な空気の中、もう一人の当事者である幽雫先生が口を開いた。 「四四八くん。なにを言い出すかと思えば、君らしくもない冗談だな」 「いちおう言っておくけれど、俺はこいつとコンテストに参加するなど心底嫌だからな? たとえ誰に頼まれようとも御免被る」 「衆目の中で生き恥を晒したくないんだよ。君なら分かってくれるだろう?」 真剣極まる表情で、一欠片の社交辞令もなく嫌がっていた。 言葉こそ失礼であるものの、ああそうだろうなと深く納得してしまう。理由については今さら触れるまでもない。 そして目の前で絶対拒絶宣言を突きつけられた芦角先生は、一瞬きょとんとした表情を浮かべていたものの── 「って、そんな嫌がんなくてもいいじゃん!」 「嫌なものは嫌なんだ。そもそも芦角、おまえもさっきまで散々言っていたじゃないか」 「うっ」 「いつも憎まれ口ばかり叩いているもんな。だが安心しろ、今回ばかりは俺たちの気持ちは一致している」 「俺は、おまえなんかとカップルになるなんて、真っ平御免だ」 幽雫先生にとってごく当たり前の事象であるがゆえ、淡々とそれは告げられる。 対する芦角先生はといえば、赤くなっていた顔が青くなり、今は蒼白にまで変わっている。きっと内心、俺なんかでは窺い知れないほどのダメージを負っているんだろう。 「う、う、うぅぅ……ううぅぅぅっ…………」 「幽雫の馬鹿ぁぁーっ、変態、眼鏡、アホマゾロリコンインポー!」 しまいには泣き出さんばかりの表情を浮かべ、あらん限りの憎まれ口を叩きながら芦角先生は走り去っていった。 そして残されたのは俺たち二人。ちょっとした騒動こそあったものの、差し当たっての窮地をしのぐことができて心底ほっとする。 廊下の端に消えていく芦角先生の背中を見送りながら、幽雫先生が話しかけてきた。 「大変だな。君も」 「そうですね」 ああ、大人の理解が身に染みる。普通というものはかくも得難く、ありがたいものであったのか。 そんな当たり前の幸せを、先生の言葉にしみじみと感じるのだった。 「大変だな。君も」 「そうですね」 ああ、大人の理解が身に染みる。普通というものはかくも得難く、ありがたいものであったのか。 そこでふと、騒動の大元であるカップルコンテストについて幽雫先生の考えが気になった。風紀を乱す恐れもあるこのイベント、彼は反対などしていないのだろうか。 「そもそもなんですが、カップルコンテストについて先生はどう思ってます?」 「ん? そうだな──」 「いろんな意見はあるだろうが、著しく風紀が乱れるようなものじゃない限り、俺は別に有りだと思うよ」 「男女が仲睦まじくしていることに対して、問題視する手合いがいるのは知っている。異性交遊の温床となるイベントを快く思わない者もいるだろう」 「だが、君たちは学生なんだ。そういうことすべてを抑えつける方が、不健全というものだろう?」 「千信館の生徒として、楽しく過ごす分には何も言わん。俺はそこまで野暮じゃないつもりだよ。君はどうだ?」 「ええ、まったくの同感です」 多少の下心を持って参加している奴もいるだろうが、それはあくまで学生の範疇を出ない程度のものだろう。本当に間違いを起こす奴なんかいやしない。 あくまで、これは祭りであるという共通認識の上でのコンテストなのだ。数あるイベントの一つに過ぎず、殊更に目くじらを立てることもないだろう。 その場のノリがすべてに優先するというわけでもないけど、常に石頭でいることが誉れでもないからな。年相応に羽目を外すことも必要だろう。 「ああ──そういえば、これを君に渡してくれと頼まれていた。うちのクラスの生徒からだ」 すると思い出したように、先生はポケットから何かを取り出す。 それは、薄いメダルのようなもの。 「コンテストについて聞いてくれて、ちょうどよかったよ。君の意向を聞いて今のように答えた場合に限り、渡せと言われていた物だったからね」 などと、妙に限定的なシチュエーションを先生は挙げてくる。 カップルコンテストについて俺が触れなかったら、このメダルは渡されていなかったということになるのだろうか? そうであれば先生に言伝をしていたところで、無駄に終わる可能性の方が大きいわけだが…… 文化祭で皆忙しい中、そんな労力を惜し気もなく費やしてくるのは誰なのか、まあ想像はつくんだが…… あまりそいつのことは深く考えたくない。しかしくれると言うのなら断る理由もないので、俺はメダルを貰っておいた。 劇の開演まではまだ時間がある。それまでは自由ということで、俺は校内を歩いていた。 せっかくの文化祭なんだ。出す側としてではなく、見る側としても楽しんでおきたいからな── 「ッ、────」 なんだ今のは──廊下ですれ違ったモノに俺は全力で振り返る。 やっぱり見間違いなんかじゃない。黒く染まった肌の色はまさに伝説の邪神を彷彿とさせ、その身体からは腐臭が漂ってくるかのようだ。 というか、こんな禍々しい存在がどうして平然とここにいるッ! 驚いているのは周囲も同じようで、なんだあれ?とざわめきが起こっている。イベント当日だから仮装と捉える向きもあるが、そうでなければ確実にパニックとなっているだろう。 しかし当の本人は何処吹く風で、ごく普通に歩いている。まさかこの人外が千信館の関係者というわけでもあるまい。 ふらふらと歩き去っていこうとする怪物に、俺はどう対応するべきかを考える。あれが出し物である可能性もなくはないが、そうでなければ単なる不審者だ。放置するのは危険だろう。 奴の目つきは完全に人格破綻者のそれであり、いかなる危険が潜んでいるかも分からない。 しばし逡巡したものの── 「放っておけるかッ……!」 そう。千信館は現在、普段にも増して人が多い。もしものことがあった場合、ここでの判断ミスは後悔じゃ済まないだろう。 最大限の警戒を払いながら、俺は後を尾けていく。 奴の慣れた足取りに何度か見失いはしたものの、すぐにその凶的な後ろ姿を人混みから発見する。 当たり前だ、あんな禍々しい存在が目立たないわけがない。むしろ奴の行く先、人の波がモーゼを前にしたが如くに割れていく。 異相の男はふらふらと体育館へ向かう。いかんと俺は瞬時に感じた。あそこに俺のクラスメイトが残っていたら…… 開演前の今はまだ〈人気〉《ひとけ》もないだろうし、奴がなにをしでかすかも分からない。 最悪の事態など想定したくもないが、可能性は排除出来ず。加えて今から誰かを呼んでも状況的に間に合わない。 俺しかいないのならば是非もなく、もはや保身など考えず拳を握り込む。 あいつらには指一本触れさせんぞッ! 「貴様、そこを動くなァッ」 「ひゃっ……」 「ふおぉっ!?」 中にいたのは世良で、突然踏み込んだ俺に驚いている。異相の男との距離は僅かしかなく、ああまずいッ! 「そいつから離れろ世良、早くッ!」 「あ、柊くん。急にどうしたの? びっくりしたぁ」 「離れろって、彼から?」 ああそうだ、今も近づいてくる男の凶相を見ろ、まるで悪魔のそのものじゃないか。鬼気がここまで伝わってくる。 俺たちの視線が交錯し、男が邪悪に相好を崩した。ああもう駄目だ、こうなれば玉砕覚悟で突撃するしかない── 「で、どうだった山田くん。そのへん歩いてきた感想は」 「素晴らしいよ水希ぃ、君の手並みは完璧だ」 「道行く者、誰もがみな僕を見る。いいや、避ける者すらいる始末さ。まるで悪魔かなにかのようにねェ」 「ここまでの屈辱はついぞ覚えがない。ああ初めてだよォォ、ひはははははっ」 ……突如として展開される目の前の光景に、理解が追いつかない。 この見るからに蛆の湧いていそうな男と、世良はどうやら普通に語らっている。それは油断を誘うためとかそういうものでは断じてない。 そう、まるで知己のごとき親しみを持ち接しているのだ。 「……どう、いうことだ? おまえ、そいつと……」 「ああ、これよく出来てるでしょう。私頑張ったんだから、特殊メイク」 「柊ィィ、俺だよ俺。山田だってば」 「────」 告げられた真実にしばし唖然としてしまう。 つまりこれは劇のためのメイクで、今眼前にいる禍々しい存在はクラスメイトの山田だとでも言うのかよ。 普段はそこそこノリのいい山田が、どうしてこんな人外の存在にまで貶められるのか。というか声まで変わっているんだが。 「すげえだろこれ。ボイスチェンジャー。今時はこういうものもあるんだねェェ。知らなかったな感心するよ」 「驚いただろ柊ィィ。俺も自分がこんなになって吃驚仰天、大したものだね水希ィィの腕は」 うん、大したものだ。もはや特殊メイクの領域をとっくに凌駕していると言える。 これも、世良の生来恵まれた能力ゆえだというのだろうか。確かに衣装関係全般を任せはしたけど、正直言ってここまでやるとは思わなかった。 「へへー、どう、すごい? 柊くんが驚いてくれたんなら、少しは自信持ってもいいかなぁ」 「ああ、大したものだとは思うんだが……こんな奴を劇に出すのか? 人間じゃないだろう、山田はもう」 「んー、それはほら、イメージってやつよ。舞台の上って、味方とそれ以外の区別を少しくらい強調しないと、お客さんからは分かり辛かったりするじゃない?」 「だからこのくらいやれば、ぱっと一目で理解出来るかなぁって」 ああ、充分だ。むしろこのやばさは通報される危機すら孕んでいると俺は思う。 事情を知らない人間相手に、庇い立てが出来る自信はないぞ。 「よォし──じゃあ引き続き、このメイクを見せつけつつ客引き頑張ってくるかねぇ」 「演劇、絶対成功させようぜェェェェ」 愉しそうに言い、山田は去っていった。いいのか本当に。 そして楽屋裏は静かになり──出来上がりつつある舞台を見ながら、俺は世良へと声をかけた。 「頑張ってるみたいだな。おまえも」 さっきの超クオリティメイクも含めて、世良は一生懸命だ。 幼なじみだからこそ知ってることだが、昔の世良は色々と引っ込み思案なところがあった。出るべきところで戸惑ってしまうというか、自己主張が苦手なタイプ。 だけど、今は輝いてる。何にも臆さず全力を振るっている。 こいつのそういう姿を見ると、自然と頬が緩んでくるのだ。 「んー、どうせやるんだったら、やっぱりいい思い出にしたいしね」 「ここまで苦労してきたんだもん。出来ることをやらずに失敗するなんて、そっちの方が許せないよ私」 「ああ、苦労したよな本当に。キャスト、演出、衣装……揉めなかったことなんてないんじゃないか」 「その中でも、一番大変だったのはやっぱり脚本かなぁ」 そう──かなり紛糾した挙げ句、採用されたのは俺の脚本だった。 無論みんなに相談しながら選んだのだが、これがまた色々と大変だったのだ。 出番どうこうというところは、さして問題にならなかった。お互いに食い違ったのはもっと根本的なところ。すなわち俺たちの先祖に対する解釈について。 「やっぱり一番の問題は、柊四四八が誰と結婚したかっていうのが未だ不明ってことだよねえ」 「こればっかりは、もう知りようがないんだもん。かといって、完全な創作にするわけにもいかないし……」 自分の家族のことではあるが、俺の曽祖父は結局どの女に子供を生ませたのか未だに不明である。 つまるところ、俺は曽祖母を〈知〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》ということになる。 同じ家系とはいえ三代前だし、会ったことがないというのはさして珍しくもないだろう。しかし、家系図を見ても不明点があるというのは珍しい部類だと思う。 「本当、揉めに揉めたよな。結局俺の考えで押し切ってしまったんだが」 「私は、柊四四八の結婚相手をぼかしたかったかも」 「だって、見た人たちがいろいろ想像出来る余地があったほうが面白いじゃない?」 という世良の言葉は、これまでにも聞いてきた意見だ。 柊四四八にまつわる謎の一つ。その答えは一応劇中で出したけど、あれで正しいかどうかは俺にも分からない。 しかし── 「これはさんざん説明してきたことだがな、創作物の中で結末をはっきりさせないっていうのはどうかと俺は思うんだよ」 「媒体によってはそれでもいいかもしれない。だけど、これは一度きりしかやらない劇のシナリオなんだ」 「二度見る人なんていないんだし、その場で完結させるのが筋だろう。こういう言い方は良くないが、客に丸投げというのはどうもすっきりしない気がしてな」 それも手法としては有りかもしれないが、俺は明確にする方を選んだ。 なので考えた末、いくつかある説の中からもっとも腑に落ちるものを採用したつもりだ。しかし、それも主観の入ったものであるのは否めない。 題材が題材なので軽く扱うわけには到底いかず、曽祖父母を貶めるようなものになってしまったら……という不安が過ぎらなかったと言えば嘘になるだろう。 世良は脚本を思い出すように瞳を細め、口を開く。 「柊くんの曽祖父が選んだのは、私の曽祖母じゃなかったんだよねぇ」 「調べてみたらさ、可能性としてはあったらしいじゃない。でも、柊くんはそれを採用しなかった」 「ああ」 「それがちょっとだけ残念だったな。なんていうか、私はお姫様の家系じゃないって告げられちゃったみたいで」 「ほら、実際静乃にメインヒロイン役取られちゃったし? んー、残念だなぁ」 「あのな世良、それはあくまで配役上の話であって──」 「でも残念なんですー。女の子としてはっ」 「そりゃ、私がヒロインなんてことになったら緊張するだろうけど、やっぱり憧れもあったりするんだよ?」 などと冗談っぽく言ってくる。 それでいて瞳はどこか俺の真意を覗いてくるかのようでもあり、なあなあに話題を落とすことを許さない。 だったら、誠意を持って答えなくてはならないだろう。俺は世良を見つめ返し、自分の考えを告げた。 「そうは言うがな、仮に俺の曽祖父とおまえの曽祖母が結ばれたとしよう」 「すると、俺たちは〈は〉《、》〈と〉《、》〈こ〉《、》……親戚ということになるわけだ」 「まあそうだね、うん」 「それはそれで、なんというか……今さら不自然な感じがしないか?」 そう、俺たちが重ねてきた時間はあまりにも長く、それは家族としてのものじゃない。 友人として……一番近い男女として、今までずっと過ごしてきたんじゃないか。こっちはもうそれで染みついてるんだよ。 今さら親戚関係だなんて、慣れやしないにもほどがある。 「〈は〉《、》〈と〉《、》〈こ〉《、》ねえ、うーん……確かにピンと来ないかも」 「ねえ、それって結婚できないんだっけ? 婚姻関係が認められてるのって、何親等までだったかなぁ」 「はあ? おまえ……」 いきなりな世良の問いに、俺は思わず絶句する。 というかおまえ、その流れだと…… 「どういうつもりだ、世良」 「んー? さあどうだろうねえ。ふふっ」 「でもさ、結婚はともかくとして、私たちもこれから何があるか分からないから面白いんじゃない?」 「ひょっとして親戚なのかもしれないし、これから家族になる可能性だってあるんだよ。そういうのって、なんだかワクワクするよね」 軽口めかしてはいるものの、どうにもペースが乱されている。 なるほど、こいつなりの意趣返しといったところだろうか。しかし世良、一つ見誤っていることがあるぞ。 思いのほか動揺しているんだよ俺は。あんまり妙なこと口走ってるんじゃない。 そして視線が合い、束の間互いに動きが止まる。 「あ……」 二人が同時に気づいてしまった。今この場には、俺たち以外の誰もいないということに。 学内の喧噪もどこか遠く、誰も見ている者はおらず。 互いに意識しあったまま、見詰め合い…… 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」 「六算祓エヤ滅・滅・滅・滅」 「亡・亡・亡ォォォッ」 「なんだ──」「ひゃっ……」 意味不明な文言を撒き散らしながら、異形の者が現われた。その見た目は威圧感甚だしく、まるで神の領域にまで立ち入っており── というか、おまえ何者だよ! 「あ、長谷川さん、お疲れさまー。その格好で歩けた? 大変だったでしょう」 長谷川さんだったのか、と俺は明かされた事実に再度驚愕する。 クラスの中でも愛嬌のある子だった彼女が、まさかこんな威圧感溢れる出で立ちになっていようとは。 「大したもんだな、おまえの腕前は」 「うん。ほら見て柊くん。この顔のところとかすごく頑張ったんだよ。リアルでしょう、凄いでしょう」 ああ、凄い。もう何も言うつもりはない。 本気になった世良水希恐るべし、といったところか。 「私、もうちょっとここで頑張ってるから、柊くんは他のクラスの偵察でもしてきてよ」 「ああ、分かった。じゃあ言葉に甘えさせてもらう」 「だが世良、あんまりやり過ぎるなよ。このクオリティだとかえって客が引くからな」 「はーい!」 いい返事をした世良の目は爛々と輝いていて、本当に大丈夫かと不安に感じさせてくれる。 だがまあ、悪くない流れだなとは思う。皆が皆のやることに没頭している。こういうときの俺たちは強い。 午後から本番頑張ろうなと心でエールを送りつつ、俺は体育館を後にするのだった。 さて、劇の開演までにはまだそれなりの時間がある。多少余裕を見ておくとしても、校内をぶらり回るくらいは出来るだろう。 そう思い出てみた校庭では、各クラスによる屋台が所狭しと立ち並んでいた。 焼きそば、綿菓子、フランクフルト……この手の飯系出しものは、言うなれば祭りの王道だ。そういえば俺たちのクラスでもいくつか候補に挙がってたっけな。 普段の千信館とはまた違う活気に溢れた光景はイベントならではのもので、歩いているだけでもどこか気分が高揚してしまう。 そして……漂ってくるソースの匂いに食欲を刺激され、なにか食うなら今かなと俺は考える。 劇を前に満腹になってしまうのも考えものだが、かといってあんまり張り詰めすぎても逆効果だろう。それに、せっかくの文化祭を満喫したいしな。 問題は、無数に並んでいる出店の中からどこを選ぶべきかということだろう。いろいろと冷やかしながら歩いていると、やがてその内の一つにクラスメイトの姿を見つけた。 「ふむ、これがたこ焼き──庶民のお祭り、その定番ってやつね」 「ん、匂いは悪くないじゃない。それではさっそく、いただきます……んん、あむ、あむ。あむ……」 「なによこれ、生地固く仕上げすぎじゃないの? いったい火加減はどうしてるのよ」 「ああもう、せっかくの風味が台無しじゃない。ソースも無駄に多く塗ってるから、早く食べないとべちゃべちゃになっちゃうし……」 「こんなもの平気で出すなんて、金取ってる意識あるのかしら──」 なんか盛大に文句をつけながら、パックのたこ焼きを食ってる我堂がそこにいた。様子を見るに、屋台でなにかを買うのは初めてといったところだろう。 言うまでもなく、文化祭の出店なんてものに質を求めるのは間違っている。この手のものはノリで食うのが正しい作法であり、一応お嬢様育ちである我堂はまだそれを知らないのだ。 あからさまな不機嫌ぶりに声をかけるのも躊躇してしまうが、このままだとあいつは屋台の責任者に直接クレームをつけかねん。結果起こるであろう揉め事を想像すると、ここは未然に防いでおくしかないだろう。 「あのなぁ……おまえ、学祭の出店レベルで文句言うなよ」 「柊。なによ、私が悪いっていうの」 「お客さまが神様なんて言うつもりはないけど、これが商品である以上それなりのクオリティは求めるわよ。当然のことでしょう」 「作ってるのはプロの料理人じゃない、あくまで俺たちの同輩なんだ。多少の粗があっても仕方ないだろう」 「だからこそよ。千信館の学生だからこそ、互いに高め合っていかなくてどうするの」 我堂の言っていることはまあ正論で、こいつらしい主張だ。俺としても同調しない部分がないわけでもない。 だが今は祭りであり、読むべき空気があるというのもまた一つの正論。端的に言えば、料理の腕前向上はこの場の目的ではないんだよ。 加えて俺も腹が減っている。余計なトラブルにかかずらっているよりは、腹ごしらえの一つでもしておきたいのが本音だった。 「あ、すいません。俺にもたこ焼き一パックください」 「こら、聞いてるのあんた。私の話はまだ終わってないんだけど」 「昼から劇が控えてるんだ、あんまりモタモタしてる暇もないだろ。いいから食わせろよ、文句つけたくなるほどの味なのかどうか確認してやるから」 そして、ほかほかと湯気を上げているたこ焼きを一つ口に放り込む。 「ん……なんだ、旨いじゃないか。少なくとも祭りの出店でこれは、充分に当たりの部類だと思うぞ。おまえどこが不満なんだ?」 「分からないの? 生地が固すぎなのよ。もう少し火加減弱めでいいのに、ここまで焼いちゃったら風味が台無しになるじゃない」 「焼きが足りずにグズグズになるっていう失敗が多いからな、むしろそこは気を遣ったんだろう。文句を言われるほどじゃない」 実際、このたこ焼きはなかなか悪くない。我堂の言うことにも一理はあるが、それはあくまで好みの違い。クレームまで受けるのは可哀想というものだろう。 というか、早くも手元のパックが空になりかけている。入っていた量は決して少なくなかったものの、俺も思春期の男。空腹の胃袋を満たすためにはそれなりの量が必要となる。 「すいません、もう一パックお願いします」 「ちょ、あんたまだ食べるの?」 「ああそうだ。腹が減っては戦は出来ぬと言うだろう。昼からのためにも、ここでしっかり食っておかないとな」 「別に我堂に迷惑かけてるわけじゃないだろう。放っておけよ」 「むむ、なんかその言い方ムカつくわね」 「祭りにおける庶民のルールが分かってない私に、上から目線でレクチャーして? んで、自分はもう一つ注文しますってか。いいですねぇ、慣れてますねえ柊さん」 「いや、別にそういうつもりはなくてだな」 「ていうか、私だってこういう場での楽しみ方くらい知ってるわよ。ただ、思ってたのと違う感じだったからびっくりしただけだし、いい気になるんじゃないわよこの眼鏡」 「あ、こっちにも二パック追加お願いするわ」 いや、どうしてそうなるんだよ。 おまえ、今の今までさんざん文句言ってただろうが。俺と張り合って注文するとか、なんの意味があるんだ。 「いいじゃない、私の勝手よ。別に迷惑かけてるわけじゃないわ」 「あんたにドヤってされるの、我慢ならないのよね。あむあむ……」 そう言ってたこ焼きを再び食い始める我堂。ひょいぱくひょいぱく、なかなかのペースで咀嚼していく。 てかおい、ちょっと詰め込みすぎだろう。頬パンパンのすごい顔になってるぞ。 「あんまり無理するなよ我堂。そもそもおまえ、普段から食の太い方でもないだろうに」 「あー、もう一パック追加で」 「聞けよ、ほんとに……」 駄目だ、こうなったらもう己を曲げることはない。 それが我堂のパーソナリティーであるとはいえ、男である俺を軽く凌駕する食いっぷりにはいささか心配になってしまう。 食事というより放り込み。その豪快なスタイルは半ば必然として周囲の注目を集めている。 ああ、そうだろうな。俺もこんな勢いで食う女は今まで見たことがない。 どうしてこんなことに、と思い始めた矢先── 「う……」 低く苦悶の声を漏らす我堂。どうやら限界が来たようだ。 「ほら、だから言ったろまったく。そもそも俺と張り合うこと自体がおかしいんだよ」 「お茶でも飲むか? なんだったら、そこらで買ってきてやるが……」 声をかけてやるも、反応はない。数多のたこ焼きを頬張ったまま、ただじっとしている。 目は座っており、普段の虚勢は微塵も感じられず……これはまずいかと俺が思ったその瞬間。 「おろろろろろろろ────」 「って、吐くかよいきなり!」 表情を一切変えないまま、その場に我堂は盛大なリバースを見舞うのだった。マジで最悪だなおまえ! そして…… 「はぁ、はぁ……いや、たこ焼きも意外にいけたわ」 「なるほど、あれがB級グルメってやつなのね。最初はちょっと戸惑ったけど、慣れれば実際癖になるわ」 「お、おう」 正直、勘弁してほしい。そんな思いを抱えながら俺はこいつと歩いていた。 周りの人たちに平謝りして、相当恥ずかしかったんだぞこっちは。しかし我堂は意に介しておらず、少しは気にしてくれよ女だろと言いたくなってくる。 「ともあれ、今回は私の勝ちってことでいいかしら」 「いや、どこに勝ち負けの発生する要素があったんだ」 「あんたは私を味音痴扱いしてたけど、私はそのレッテルを見事乗り越えたんじゃない。この不屈の精神でね」 「なら、勝ちとしか言いようがないでしょうが。潔く認めなさいよ」 「ああ、そうだな。それでいいよもう」 やり方には大いに問題ありだが、理が通っていないこともない。実際、俺のつけた文句をこいつはクリアしてみせたのだ。 当たり前のことを行うだけで勝ち誇られるのは解せないが、まあいいだろう。 そして、たこ焼きを美味いと認めた我堂はその後もなんだかんだ言いつつ屋台を見て回っている。こいつも楽しんでいるのなら、それは悪いことじゃない。 「すいません、焼きそば一つください」 「おい、まだ食うのかよ。あれだけの惨事を引き起こしておいて」 「うるさいわね。自分でも不思議だけど、なんだかお腹空いてるのよ」 原因は戻したからだろうなどと思いつつも、俺は我堂に付きあってやることにする。乗りかかった船というやつだ。 とんでもないものも見せられたが、まあこういうアクシデントも文化祭ぽいと言えなくもないしな。 「ずぞぞぞぞ……んん、味がワンパターンねぇ。ソース以外の調味料使ってないんじゃないの?」 「しかも濃いし。400円も取るわりにこれって、怠慢じゃないかしら。柊もそう思わない?」 「相変わらず文句から入るんだな」 それだけ食っておいて、説得力のないこと甚だしいぞ。 「おまえさ、そんな偉そうに言うからには、自分で美味いもの作れるんだよな? たしか、あまり料理は得意じゃなかったように記憶してるんだが──」 「うっ」 指摘すると、妙な顔芸で応戦してくる。 多少オブラートに包んでやったものの、こいつがまったく料理の出来ない部類であることを俺はよく知っている。 別に、女たるものとかそういう話じゃない。文句つける立場じゃないのではないかということだ。 「おい、どうなんだ。そこらへん」 「こ、このくらいなら、私だって出来るわよ。多分、その、きっと」 「〈こ〉《、》〈の〉《、》〈く〉《、》〈ら〉《、》〈い〉《、》じゃなくて、誰しも認める美味いものじゃなきゃ駄目だろう。だってそうだろ、あれだけ文句をつけたんだから」 「自分に出来ないことを非難するものじゃないぞ、我堂」 「むー……でも金取ってんだから、客としてこっちには言う権利くらいあるでしょ」 「まあそれはそうかもしれんが、この場に相応しい振る舞いじゃないな。文化祭で権利どうこう言い出すのは、空気が読めてないと言わざるをえん」 多少煩いだろうなと思いながらも、俺は説教をくれてやる。 しかし、自分が料理下手ということを意外と気にしてるのか、我堂からの反撃はない。ならばと俺は訊いてみる。 「おまえ、今後料理を覚えるつもりはないのか?」 「苦手だって自覚してるんだったら、克服した方が健全だろう」 「は? なにあんた、私の料理食べたいの?」 「いや、どうしてそうなるんだよ……」 「今のところ、覚える予定はないわ。必要ないもの」 「ただ……そうね。作りたいと思える相手が出来たら、そのときは覚えるわよ」 なるほど。現状俺たちには差し迫った理由はなく、必要に迫られた際に始めるのは合理的というものだろう。 「だけどな、そのときになって一念発起しても遅いんじゃないのか? 練習しても、すぐに上達するとは限らんぞ」 「そりゃ最初は駄目だろうけど、初心者が下手なのは当たり前じゃない。文句なんて言わせないわ」 「料理の腕前がマシになるまで我慢して食べ続けるのが、男の器量ってものじゃないの?」 言い切る我堂に、俺は半ば降参して肩を竦める。 暴論ではあるものの、同調出来る意見でもある。男たるもの、美味い不味いでみっともなくゴネたくないからな、俺も。 まあ、告げればこいつはいい気になるだろうし、わざわざ言ってやらないが。 「しかし、最初は美味いもの出せないって自覚があるなら、なおさら練習は必要なんじゃないのか」 「上達するまでの間、その料理を食わなきゃならない可哀想な男は誰になるんだかな」 軽く煽ってやると、いい感じに我堂は切れている。まあ、この反骨精神があれば、料理なんてすぐに上手くなることだろう。 目標に対して邁進するこいつのガッツは、俺も一目置いているのだから。 「そうだ、なら今度一緒に練習でもするか──」 「あんた、急になに言ってんのよ」 「いや、前々から考えてたことなんだがな。この先大学に通ってる間、俺は一人暮らしするだろ?」 「親元を離れてろくなものも食わずに、体調を崩してたんじゃ話にならない。だから今のうちに、俺は俺でしっかりとした料理を覚える必要があるんだよ」 そう。健全なる精神は健全な肉体に宿るというのはかねてからの主張だが、それ以前に体調の管理というものは当たり前に欠かせない。 今は母さんに頼っているけど、それも千信館に通っている間まで。親元を離れたからといって自堕落な暮らしを送るようでは、この先が思いやられるというものだ。 「そういう理由もあって、おまえも一緒に練習するかと誘ったわけだ」 「将来のため、今から努力をしておくのも悪くないだろう」 同時に、我堂と一緒に練習をしたなら張り合いも出るだろうなと思う。 何事にも手を抜かないこいつの姿勢が、好ましいことには間違いないのだから。 そんな俺の物言いに、我堂は怒っているのか顔を赤くして黙っていたが……やがていつもの尊大な調子で口を開く。 「なるほどね、分かったわよ柊。あんた、我堂家秘伝のレシピを盗もうとしてるのね」 「いや、ないよな。そんなもの」 「いいわ。少しでも私に近づこうとするその心がけ、なかなか殊勝じゃない。ただし親切に教えてなんてあげないわよ、見て学びなさい」 「ちょっとぐらいだったら……味見も、許してあげるから」 そう言って、我堂はようやく表情を緩めてくれた。ああ、機嫌が直ったならなによりだ。 しかし味見か……恐くもあるが、そりゃまあ少しは楽しみだ。どんな珍妙な料理が出てくるのだろう。 未来の食卓にとりとめのない思いを馳せながら、俺たちはその後もしばらく二人で屋台を回るのだった。 今から劇の開演まではまだしばらく余裕がある。このまま時間を持て余しているよりは、どこか見て回った方がいいだろう。 せっかくの文化祭だしな、などと考えながらぶらぶらと校内を歩く。そのまま足を前庭に向けてみると── 「……これ、なにがあったんだよいったい」 そう思わず呟いてしまったのは、目の前の光景があまりにも異様なものだったからに他ならない。 なにせ、前庭にちょっと収まり切らないくらいの人が集まっているのだ。まるでなにか、〈千信館〉《ここ》に有名人でも来ているかのような賑わい。 そして俺は気づく。集まっているそのほとんど、いや全員が男である。場に漂う熱波にも似た空気は恐らくこれが原因か。 加えて、彼らにはある一貫性があった。 それはひとえに外見的特徴であり、端的に言ってしまえばどいつもこいつもオタクくさいのだ。基本黒ずくめの胡乱な風体……カメラを首から下げている奴らも相当数いる。 この学校のどこにこれだけ潜んでいたのか、などと思いながら向けた視線の先には、よく見知った人の姿があった。 「はーい! みなさん、ちゃんと列を作ってくださいね。他の生徒に迷惑をかけてはいけませんよぉ」 「慌てなくても、撮影の時間制限は設けておりません。どうか安心して並んでください~」 そこには生徒総代殿が、なんというか……妙な格好をしておられた。 なんだよ、あんたそれは。胸とか脚とか露出すごいぞ。 扇情的な衣装を纏ったまま恥じらう様子もなく、カメラを携えた野郎どもにポーズを取っている。そして同時に閃くフラッシュ。 これはさすがにやばいだろう。関わりたくない状況なのは確かだが、放っておくわけにもいくまい。 「ちょっと、百合香さん。どうしたんですかこれ」 「あら四四八さん、ご機嫌麗しゅう」 「どうしたって、わたくしの撮影会ですよ。見れば瞭然、分かるでしょう?」 「それは分かります。だがそうじゃなくて、なぜそれをあなたが率先して行っているのかということなんですが」 「あら、だってこういうお祭りには、彩りを添える女性が欠かせぬものだと聞いております。華たるもの着飾り、皆の目を楽しませるべし──」 「男女平等の風潮に反するという意見もあるようですが、わたくしそこまで狭量ではありません。場の熱気に水を差さない程度の常識は解しているつもりです」 いや……水を差すどころか、むしろ火に油を注ぎまくっているということにこの人は気づいているのだろうか。 確認するまでもなく、百合香さんは自分がどういう目で見られているのかをよく分かっていない。口にする理屈だけはそれっぽいものだが、なんと言えばいいのだろう。あまりに当事者意識が欠け過ぎている。 「だいたいなんですかその格好は。まずいでしょう、どう見ても」 「これは辰宮家に代々伝わる正装です。如何ですか、良いものでしょう」 「まずいというのはどうしてですか? 千信館が迎える年に一度のこの舞台こそ、わたくしが先頭に立つに相応しい場ではありませんか?」 ああ、もうまったく御せる気がしない。というか、今こうしている間にも周囲には人だかりが出来ている。 百合香さん目当てに集まった奴らにとって俺は紛うことなき邪魔者、そこどけ消えろと言わんばかりの視線が全身に容赦なく突き刺さる。 状況的にこのまま突っ立ってはいられず、さりとて立ち去るわけにもいかない。いくらここが学内であるとはいえ、飢えた野獣のような連中の前に彼女だけを残していくのは危険極まりなく── 「────」 「マジでなに考えてやがんだ、あいつは……」 ふと気づくと、鳴滝が俺のすぐ後ろに佇んでいた。 百合香さんのあられもない格好、及びその行為を前にしたこいつの様子は相当に不機嫌そうだ。群れを成す連中を掻き分けながら近づいていく。 「あら淳士さん、来てくださったのですか? 嬉しいですわ」 「この格好、如何でしょう? 自分で言うのも憚られますが、なかなかだと思うのですが──」 「どうもこうもねえよ。あんた自分がなにやってんのか分かってねえだろ? ヤバいだろうが、ありえねえ」 「ヤバい? それは、この格好が問題ということでしょうか」 「保存状態も良く、文化祭という栄えある場に相応しい服であると思ったのですが……」 「ああもう、そういうことじゃなくてだな……」 見慣れた二人の食い違い。いつもだったらここで鳴滝が口ごもっているところだろう。 しかし、今回は引かない。確固たる意志を感じさせる表情で、しかしどうにも言いにくそうに口を開く。 「あのな、あんたも一応女だろ? なら少しは男の視線に気をつけろ。出し過ぎなんだよ、いろいろと」 「胸とか脚とか、危ねえだろ……しっかりしてくれよ、マジで」 おぉ、と俺は心中で感心する。すごく嫌そうにではあるものの、よく言ったぞ鳴滝。 しかしこのお嬢様は、そこまで面と向かって告げられても未だよく分かっていないかのような顔をしている。 「……要するに、わたくしの胸は危ないのですか?」 「言葉のまんまの意味じゃねえぞ。集まってるこいつらなんざ、〈そ〉《、》〈こ〉《、》しか見てないってことだ」 「男の興味ってのは、んなもんだよ。あんたが思うより単純なんだ」 「なるほど。つまり淳士さんも、わたくしの身体に興味があるということですね?」 「マジ頭痛ぇ……」 「俺が言いたいのはだな、あくまで一般的にあんたがどう見られてるかであって──」 糠に釘この上ない様子は普段どおりだが、さすがに今回は鳴滝に同情してしまう。百合香さんの方も単なる困ったちゃんではなく、天然だからこそ一層タチが悪い。 「総代、こっちにも目線お願いしまーす」 「あ、ちょいとポーズ取ってみてくれませんか。なんかこう、猫っぽいやつ」 「はーい、これでいいですか? にゃぁん」 「おい、抜け駆けなんてずるいぞおまえ。総代こっちも!」 「にゃんにゃんっ」 「キモい注文真に受けてるんじゃねえぞあんたは!」 「ってか、おまえらもだ。いい加減にしろよ、なにが猫だふざけんじゃねえッ」 あんまりな状況に限界を迎えた鳴滝は、百合香さんとその周囲を取り囲んだ野郎どもに当たり散らす。 しかし相手も然る者で、屈強な鳴滝に怯むことなく応戦する。 「ふざけてるのはそっちだろう! 急に入って来てなんだ、偉そうにッ」 「自治厨とか勘弁して欲しいですわー。文化祭でそういうのって一番盛り下がるでしょうが」 「空気読んでほしいよねー、正直ねー」 多分に下心からくるものであるにせよ、連中の言い分もまあ分からなくはない。彼らにしてみれば、この場は楽しいイベントなのだから。 決して百合香さんに無理強いしているわけではないのだ。それを、いきなり乱入してきた奴に中止とか騒がれるのは普通に鬱陶しいことだろう。 ゆえに、この場は一触即発の空気を孕む。鳴滝はもうとっくに限界寸前で、周囲の連中も祭りのテンションで気が大きくなっている。 言うまでもなく、喧嘩沙汰にでもなったら大問題だ。俺ももう関わりたくないとか言っていられる状況じゃない。 多少のいざこざはやむを得ん、仲裁に入る決意を固めたその瞬間── 「なにをやっているんだ、君たちは。遠くからも異様な光景が目立っていたぞ」 教師の登場に、また違った種類のざわめきが前庭に生じた。 そして、幽雫先生は周囲の動揺を見逃さずに告げる。 「俺も本来、こういう口出しはしたくない。生徒たちの祭りに教師が水を差すのはどうかと思うしな」 「しかし、それも通常の範疇であればのことだ。今回は君たちもいささか逸脱が過ぎるだろう」 「いや、でも……」 「でもなんだ? 男ばかりが女子一人に見境もなく群がって、しかも皆その姿をカメラに収めようとしている」 「総代の一存が後ろ盾としてあるからとて、健全ではない事態だよ。ここまでは分かるよな」 「加えて、ここは学園の前庭だ。文化祭に参加しようと思ったら通らないわけにはいかない。そんな場所での醜態は、運営的な見地からも問題だ。そもそも実際に通行の妨げになっている」 「俺に風紀取り締まりの肩書きがある以上、ここで見逃してやるわけにはいかんのだよ。それも分かってくれないか」 語り口はまさに理路整然、追い詰められていく群衆たち。 鳴滝のように勢い込めば衝突もしていただろうが、冷静に来られると向こうもきつい。彼らにしても、この状況が健全なものではないと理解しているのだろう。 ゆえに必然として、彼らは各自しぶしぶと退散していく。さすがは幽雫先生、治めてくれて本当に助かった。 「あん、先生ったら。わたくしなら、あのまま続けていただいても構いませんでしたのに」 「あのな……文化祭を盛り上げてくれるのは有り難いけれど、手段というものがあるだろう」 「君も生徒総代なら理解してくれると信じるが、それは校訓に則ったものであることが前提となる。少なくとも、同輩の劣情を刺激したりというのは感心しないな」 「由緒正しき辰宮の衣装に、文句がおありということですか?」 「時代は移りゆくんだよ。当時はその格好でもよかったろうが、今の世ではいささか目の毒だ」 などと説教めいた言葉を口にするものの、それは紛うことなき正論だ。言い返すことままならない。 そして彼の視線は鳴滝へと向く。 「百合香お嬢様はともかくとして、実際君も不甲斐ないぞ」 「────」 「先生、こいつは騒動を収めようとしてくれたんです」 俺は助け船を入れる。確かに少しは揉めたものの、鳴滝の怒りは義憤であることに疑いの余地はない。 「ああ、知ってるよ。彼女を守るために身体を張ってくれたんだよな」 「それには感謝もしているし認めている。だが、結果としてどうなった?」 「まるで煽るような口振りで乱入して、あれでは逆効果というものだろう。もしものことが起こったら、君一人では責任を負いきれない可能性だってあった」 「意気は買うが、そんなことじゃあ困るんだよ。大人になりたまえ」 幽雫先生の辛辣な言葉に、鳴滝は反抗的な様子を見せることなくただ黙っている。 確かに、誰かを守ろうとしたら背負うべき責任は二倍となる。互いを危険に晒す軽挙など許されるものではない。 分かっているからこそ鳴滝の沈黙だ。腹は立つけれど理解しているということだろう。 そんな中で、百合香さんは悪戯っぽく微笑んで口を開く。 「そうですわね……確かに場の雰囲気は異常でした。皆の反応を予想出来なかったこと、深く反省しております」 「でも、わたくしは淳士さんに庇っていただいて嬉しかったですよ?」 「あのな、今はそういうことを言ってるんじゃないぞ」 「存じております。しかし問題はわたくしのことゆえ、本人の意見を聞かないというのも違っているのではないでしょうか」 「先生にも、もちろん感謝しております。あなたの行動は実際素晴らしいものでしたし、来てくれなくてはどうなっていたか知れたものではありません」 「ですが、わたくしは淳士さんのやり方のほうに、より親しみを感じます」 「向こう見ずであったかもしれないけれど、そういう殿方にこそ女の心は揺れ動くものですよ?」 そんなことを言って、鳴滝の腕を両手で掴む。 「だから、改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます、淳士さん」 「いや、そう言われてもだな……俺は別に、そんな感謝されるようなことはしてねえし」 「つうか離せって、ベタベタすんなっ」 戸惑うべきか、言葉通り受け取っていいものか──もはや彼女と相対したときの常なのだろう、鳴滝はひどくやり辛そうにしている。 そして百合香さんにちらりと視線を向けられた幽雫先生は、呆れた様子で嘆息した。 「ああ、心得ましたよお嬢様。あなたがそう仰るなら是非はない」 「感謝はしておりますのよ?」 「どうも。いや、俺も大人げなかったよ。まったく、出しゃばると碌なことはない」 「まあ、今後は行き過ぎた行動のないよう気をつけてくれたまえ」 そう言って、先生は踵を返し去っていく。 彼にとってもいささかの災難であっただろう。俺は感謝の念を抱きながら、その後ろ姿を見送るのだった。 「────」 すると、それを見た百合香さんは不機嫌そうな表情を浮かべて鳴滝にもたれかかる。 彼女の様子は、まるで悪戯が思うようにいかなかった少女のようで…… 「なんだおまえ? おい、どうした」 「いいえ、別に」 「なに怒ってんだよ。つうかどういう」 「なんでもありません。怒ってません」 見ての通り、しっかりと密着していながらのこの態度である。 どういう事情か分からないながらも、俺の立ち入る幕でないことだけは理解した。 挑発的に語り、さりとて相手が身を引いたなら険も露わな振る舞いを見せる── 理不尽とも言える光景を前に、辰宮百合香という女性の複雑さというものを垣間見たような気がしたのだった。 そして…… 「うおお、きたきたきた、ついに次だぜ。見ろよおまえら、すげえ人集まってんぞ。やべえってやべえって!」 「ちょっと、あんた落ち着きなさいよ。こっちまで焦ってくるでしょ」 「なんか立ち見の人までいっぱいいるよ。動員数120パーセントって感じ」 「生徒以外の一般客も結構いるな。あれって全部父兄かよ」 「それなんだけど、幽雫先生が大学の教授とかまで呼んだらしいよ。なんて言うか、歴史問題に詳しい系の……テレビにも出てるような人たちを」 「マジか? じゃあ四四八の親父さんみたいな人らがごろごろいるってことかよ、これ」 「うちのアレみたいなのがそんなに沢山いてたまるか。しかしこれは、実際にプレッシャーだな」 「まったくだぜ。ちくしょう、あの先公、余計な真似しやがって」 直前のプログラムだった一年生による合唱を見届けた俺たちは、舞台袖から観客の様子を覗きながら各々緊張を隠せずにいた。 歩美が言うとおり動員数は半端じゃなく、世良の言ってることが本当なら相応に厳しい目を持った人たちも交ざっているらしい。雰囲気的に、学生のお遊びで済むような状況じゃなくなっている。 もちろんこっちは本気でやるつもりだし、そのための練習もしてきたが、流石にリラックスできるような気分じゃなかった。いくら図太い奴が多いうちのクラスでも、そこまでの強心臓を発揮しろというのは無理がある。 俺たち以外、他の奴らも、見るからにそわそわと落ち着かない。どうにか少しでも、皆の気分を和らげなければいけないと思う。 「みんな聞いてくれ。気が気じゃないのは分かるし、俺もそうだが、無理に不安を押さえ込もうとする必要はないんだ。こういうときに心がざわつくのは、むしろ健全というものだろう」 「だからそれを楽しむつもりで、各々失敗を恐れるな。まずはとにかく、最初を乗り切ることだけに意識を向けよう」 人前で何かするとき、もっとも大事なのはそこにあると思っている。初めの第一声さえクリアすれば、あとはむしろ気持ちよくなってくるのを俺は経験から知っていた。 それが万人に共通するものかは分からないが、まずは主役の俺が率先して見せねばならない。だから後に続けよと言いつつも、なかなか皆の顔は晴れないので、その…… 「衣装、全員似合ってる。特に女子たち、まあ正直、うん……可愛いぞ」 「へ?」 「嘘、柊くんがすごいこと言った」 「可愛いってよ、あっちゃ~ん」 「え、いや、別にそんな……つかなんだあゆおまえ、目がムカつくんだよ。こっち見んな!」 「四四八、おまえもいきなり妙なこと言うんじゃねえよ、この馬鹿っ」 「オレは嬉しいぜ四四八、おまえもようやく分かってきたか。やっぱ女子の軍服って萌えるよなあ」 「しみじみ言うな、そしておまえと一緒にするなっ」 「ああ、とにかく!」 恥ずかしくて堪らなかったが、これもクラス委員の務めだろう。誰かが本番でやらかす前に、率先して恥をかいておくのは意味があると思う。たぶん。 「そういうことだから、自信を持て。全員、全力で演じ切るぞ!」 「おーっ」 一丸となりガッツポーズする皆を見て、ほっとする。どうにも俺は、場を和ます才能があまりないと自覚しているので不安だったが、なんとか上手くいったみたいだ。 「んじゃま、ほんとにいよいよだな。誰か抜けてる奴とかいねえか、真奈瀬」 「ああそれなら、静乃がまだ衣装合わせをしてるはずだよ。あいつの出番は終盤だから、間に合わないってことはないと思う」 「あれねえ、さっきちょっと覗いてみたけど、すっごい似合ってたよ」 「意外って感じでもないんだけど、役からして特殊だもんね」 「やっぱあれか? おまえ的には目立つ役を取られて悔しいって感じかよ我堂」 「うるさいわね。そりゃ確かにそういう気持ちもあるけれど、私たちは最初から役が固定してるんだから仕方ないじゃない」 「それより柊、あの子もすごい気合い入ってるから、呑まれてトチったりするんじゃないわよ」 「分かってるよ。言われなくても」 石神は曽祖父さんたちのファンだから、この演劇にかける気持ちは並々ならぬものがある。加えて世良や栄光も言ったとおり、かなり特殊で重要な役どころなので、それに直接絡む俺も大変だ。 言ってしまえば、今回の舞台におけるヒロイン。石神の役はそういうもので…… 「それでは続きまして、二年四組のプログラムである舞台演劇を始めます」 「内容は、我が校の偉人代表である柊四四八の、謎に包まれた半生を追うというもの。演目は――」 百合香さんのアナウンスに俺たちは顔を見合わせ、自然と円陣を組んでから手を合わせた。 そう、この演劇を表すタイトルは単純明快。 「戦の真は千の信に顕現する」 かつて曽祖父さんたちが誓った誇り。捻る必要など感じないから、そのままド直球でいかせてもらった。 「いくぞ」 そうして、ついに俺たちの舞台が幕を開けた。 「ですから、そのようなことを言っている場合ではないのです、〈土肥原〉《どいはら》機関長!」 「このままでは間違いなく、この満州は戦場と化すでしょう。そうなったが最後、我が国は完全な四面楚歌です。ええ、確かに関東軍はこの地を制し、戦果をあげることでしょう。ですがそれは局所的、近視眼的な見方です。言わせてもらえば、卑近な満足感と表現して構わない」 「あなたは〈溥儀〉《ふぎ》陛下を活用すると仰られたが、あの方をただの傀儡としか見なさぬようでは日本帝国に未来は無い。我も人、彼も人。最大の理解者となって頂かなければならない方に、そのようなことでどうするのですか!」 「甘い? 青い? 腰抜けであると? であればなんですか。私は亡国の片棒を担ぐなど愚かだと言っているのだ。たかだか二・三度の戦に勝ったくらいで、帝国軍は史上に天下無敵であると吹き上がっているあなた方こそ、この時代に跋扈する魑魅魍魎なのだとなぜ気付かない!」 手加減抜きの全力で机を殴りながら俺は吼えた。演技は演技だが、半ば以上反射でやった挙動であり、一種のアドリブと言えるだろう。 そんな俺の剣幕に、対面の土肥原賢二役を務めるクラスメイトは本気でびっくりしているのが伝わってきた。つまり極めて自然な反応で、素人臭さが吹き飛んでいる。会心の展開と言えるだろう。 俺は俺で、さっきはこのクラスメイトからやはり本気のパンチを食らったから、熱くなっているのは見せ掛けじゃない。この野郎と思っているし、そういう意味では柊四四八が憑依しているような感覚を味わっていた。 「よろしいですか、つまり私の言いたいことは目先の小さな勝利ではない。いやそもそも、真の勝利とは如何なるものか、天下国家の大義として掲げねばならぬ理想とは何であるのか。その一点にこそあるのです」 「ゆえに機関長! どうか私の話を! これが歴史の分水嶺となるのです、その御自覚を! どうか、どうか!」 激し続ける俺に対し、土肥原賢二は見るも鬱陶しそうな顔を作りながら手を振った。すると数人の従兵が現れて、俺の両脇を抑えると力任せに引きずっていく。 「ええい、放せ! 貴様らの手など借りずとも、自分の足で歩けるわ! 機関長、どうか〈石原〉《いしわら》・板垣両参謀をお止めくださいますよう、伏してこの柊四四八、お願いしたく――」 「それを成さねば、遠からず我が国は破滅へ向かうこととなる!」 まさに暴言。軍の上下や国粋主義を完全無視した暴挙であり、この地と時代の情勢を鑑みれば滅茶苦茶どころの話じゃない。 柊四四八は気が違っているという当時の世評そのままに、俺は狂犬めいた若き日の曽祖父を演じていた。 「お疲れ。やっぱり駄目だったか」 「ああ。だがこちらもハナからすんなり行くとは思っていない。すべてはまだ、これからさ」 「けどおまえ、このままじゃあ殺されちまうぞ。今回も、謹慎で済んだのが奇跡だぜ」 「しかもどうせ、大人しくしてるつもりなんかねえんだろうし」 「当たり前だ。監視を付けられているのも知ってるが、それで萎縮するような俺と思うか。死ぬ気はないが、死を恐れてもいない」 「たく、おまえはほんと、火の玉みてえな奴だよな」 同じ帝国軍部内から粛清の話すら出始めている柊四四八に、変わらず付き従ってくれる友人役として鳴滝と栄光が苦笑している。それは現実における俺たちの関係とも、似通ったところのあるものだった。 だが実際の曽祖父さんは、ここまで無鉄砲じゃなかっただろうと思っている。おそらくもっとクレバーで強かな、権謀家としての性質を併せ持っていたはずだろう。 しかし劇中ではこんな感じの、直情気質で義侠心に富む熱血漢という色付けが成されていた。それは尺の問題的に、あまり複雑な暗闘を描いている余裕がないのと、より分かり易くするためという理由による。 加えて言うなら、柊四四八の謎を解くという主題が影響している面もあった。それはもちろん、満州事変を如何に止めたかというものなんだが、その手段として俺たちが立てた仮説は少しばかり特異なもので…… 「けどなんでも一人でしようとすんなよ。おまえがここで目立ってるぶん、監視緩くなってるから今は女どもが動いてる」 「ああ、あれ。そういやもうじきだな。しかし本当に大丈夫かよ、なんせ相手が相手だぜ」 「正直、女を使いに出すにゃあヤバすぎる連中だろ」 「同感だが、信じよう。我堂が言い出したことだ、止めても聞かない」 その相手とは、いわゆる〈青幇〉《ちんぱん》。 そう、俺たちが立てた仮説とは、当時の中国で権勢を誇っていた闇社会との同盟だった。 なぜなら関東軍を抑えるだけでは片手落ちになる。中国側にも影響力を持つため、それは絶対に必要なことだと思ったんだ。 「つまり我々は、あなた方と手を結びたいと思っています。そちらにしましても、この国が戦火に包まれるのを良しとしているわけではないでしょう。世評どおり、幇会が侠の結社であるというなら」 「仁義八行は、もともと〈中原〉《ちゅうげん》で育まれた価値観のはず。如何に、御大?」 そして舞台は切り替わり、我堂の視点へとシーンが飛ぶ。柊四四八が満州で関東軍と対峙していた頃、当時の我堂鈴子は上海にいたという筋書きだ。 それはまったくのでっち上げというわけでもない。事実として我堂の曾祖母さんは、この時期に本国の財閥や右翼団体と連絡を取っており、相当の金や物資を動かしていたという記録が残っている。 その行き先は不明瞭なところが多々あるが、間違いなく何らかのかたちで柊四四八の支援に使ったはずだろう。その解答として、青幇。彼らとの同盟資金だったのではと、俺たちは解釈していた。 が、無論、すんなりいったはずなどないのは当たり前で…… 「義か、ああ確かに、それは我々にとって大事なものだ」 「しかし、そちらの義はどこにある? 本国どころか、満州の意向も無視した一軍人の使いなどに、どうして信を置けると思う」 「倭人の立場からしてみれば、おまえたちは売国奴も同然だろう。そのような輩が掲げる仁や義など、我らは侠と認めない」 「去れよ小娘。それともおまえたちそのものを貢物として、柊四四八とやらはここへ送り込んだのか?」 「なんだとてめえッ」 「馬鹿にしないで、四四八くんはそんな人じゃない」 露骨な嘲りに色をなくす晶たちを見下ろしながら、酷薄な気配を醸し出している男の名は黄金栄。当時の青幇における最高権力者であり、その力は途轍もないものがあったと聞く。 具体的に言えば、国家元首である蒋介石すら彼の存在を無視できない。政府は青幇の資金力と組織力に依存している面があり、だからこそこの男を落とさねばならなかった。 しかし本来なら、こうして会えただけでも奇跡の領域。辰宮を始めとする本国の名士たちや、神祇省など幇会と同じ裏勢力の援助があったからこそ成せたことだが、ここから先の折衝は困難を極めた。 端的に、金や綺麗事だけでは通らない。 「いいでしょう。あなたがそう望むなら、私は〈寵姫〉《ちょうき》になっても構いません」 「私の家も似たようなものですからね。釣り合いは取れるでしょうし、この手の盟における筋の通し方は知っています」 「結社は家族。血の盟約なくして、外の者を迎え入れるなど有り得ない」 「ちょっと、鈴子!」 「ゆえに御大、よろしいですか」 皆を制し、我堂は決然と顔を上げる。正面から黄金栄と対峙して、淀みなく言い放った。 「私の覚悟をもって、柊四四八の器を認めてもらいたい。要するに、この私があんたの愛人になってもいいって思うほど、あいつは凄い奴だって言ってるのよ、分かったか!」 「こっちも子供の使いじゃない。手ぶらで帰るわけにはいかないのよ!」 「面白い」 「いいだろう、肝の据わった女は好みだ。正式に場を設けてやるから、次は柊四四八本人を連れて来い」 「それまでおまえは――」 「ええ、人質だろうが妾だろうがやってやるわよ。そういうわけで――」 再び舞台は暗転し、次のシーンへと切り替わっていく。 まさに我堂らしい、自負と気合いの立ち回り。この会談内容は俺たちの完全オリジナルな脚本だったが、実際に我堂の曾祖母さんがこういう状況に直面したら、まったく同じ選択をしただろうと思っていた。 が、歴史的事実として、かつての我堂鈴子が黄金栄の妾になったなどという話はない。だから必然、以降の展開は言うまでもなく…… 「こうして柊四四八とその仲間たちは、青幇に囲われた我堂鈴子を救うために動き始めた。それは二重の意味で困難な、歴史に記されていない戦いだったと言えるだろう」 舞台のセットを大急ぎで組み替えていく傍ら、芦角先生のナレーションで状況の整理と説明が成されていく。 我堂の捨て身によって青幇との同盟にチャンスが芽生えたのは確かだが、それを成功させつつ我堂も取り返すというのは客観的に見ても虫が良すぎる。普通は絶対に通らない。 大事を成すためには小事を切る。それが道理で、賢い選択なのだと分かっちゃいたが…… 「柊四四八という男は馬鹿なのだ。そんな風に割り切れるほど利口なら、そもそも狂人扱いなどされていない」 「我堂鈴子は怒るだろうが、ここで見捨てるという選択は有り得なかった」 なぜなら彼女が信じた柊四四八たらんとするなら、それはまったく当たり前のことであり。 「だからこそ――」 「分かった」 俺が演じる柊四四八は、即断で黄金栄に直談判をすると決めていた。 「ごめん、本当にごめん柊くん。私たち、むざむざ帰ってきちゃったりして」 「こうしてる間にも、ちくしょう……鈴子は」 「たく、あの馬鹿野郎。勝手に突っ走りやがって、余計にややこしくなったじゃねえか」 「そんな言い方は酷いよ鳴滝くん。りんちゃんだって、きっと必死に考えた末でのことなんだよ」 「まあ実際、これくらいのリスク踏まなきゃ、まともに話なんか出来やしなかったかもしれねえな。それにこんな言い方はしたくねえが、条件として釣り合いそうなのはオレらの中じゃ我堂だけだろ」 血の盟約――それを青幇のトップと交わすなら、生まれにおいて相応の格というものが必要だ。その点我堂は名家の出だし、そこと繋がりを持つのはあちらにとってもメリットがでかい。 だからそのへんも計算した上で、我堂は黄金栄のもとに残った。理屈としてはそういうことだが、芦角先生のナレーションでも言ったように、それで柊四四八は納得しない。 馬鹿なのだ。強い意味で。 「世良、あちらが指定した日時を教えてくれ」 「それは、一ヵ月後だって言っていたけど……」 「長ぇよ。焦らしてるつもりか、クソ野郎が」 「どうする四四八、無視する気か?」 「ああ、こちらの準備が整い次第、即座に動く」 前提として、柊四四八は軍部に身を置いている立場であり、加えて今は謹慎中だ。よって自由勝手な真似は出来ないし、相応の理屈をでっち上げてでも上海に行く手続きを取らねばならない。 それすら無視してしまったら、たとえ幇会との同盟を成立させても関東軍に関わる基盤を失う。だから最低限、体裁を整える時間が必要だった。 「向こうにしたら、そういうのも考慮したうえで一ヶ月後って言ったのかもしれないけど」 「だとしたら舐めすぎだ。二週間、いや十日だな。それでなんとかしてみせる」 「けど、それって大丈夫かよ。ただでさえ喧嘩売りに行くみたいな同盟交渉なのに、余計あっちを怒らせることにならねえか?」 「そうだよね。建前上でも、礼儀を重んじる相手なんだし……付け込まれる隙を与えることになっちゃうかも」 「そこは任せとけ。要するにこういうことだ」 俺は指を立て、観客のほうへ向き直ると演説するように言葉を継いだ。 「あちらが想定した期間を二十日も早く上回ることで、俺たちの力と本気の度合いを理解させる」 「そして何より、仲間のためならそこまでやるという義を見せ付けることに意味があるんだ。いくら建前でも侠を名乗っている連中なら、この理屈を無碍には出来ない。面子というものがあるだろう」 詭弁だが、概して大人の喧嘩とはそういうものだ。筋目と大義の奪い合いと言ってもいい。 俺たちは仲間を助ける。見捨てない。たとえ青幇と決裂することになろうと一歩も引かぬという気概を見せることで、逆説的に信用を勝ち取ろうという方針だった。 「つまり俺たちと盟を結べば、それだけおまえたちのためにも骨を折るんだという主張だな。とかくこの国では信用されない日本人だが、実際に行動で示してやればぐうの音も出るまい」 「なるほど。あっちの本音がどうだろうが、そうすりゃ同じ土俵に乗るしかねえわな。基本、ヤクザもんなんてのはカッコつけ野郎だしよ。無理でも度量がでかいところを見せなきゃならねえ」 「漢の貫目勝負ってわけか。それならいけるぜ、負けるわけねえよ」 「ま、おまえなら速攻潰されて終いだけどな」 「んなことねえって! なんだおまえら、笑うんじゃねえよ!」 「そうして――」 再び入る芦角先生のナレーション。場面は柊四四八が上海に飛ぶ一日前へと変わっていく。 「宣言どおり、驚異的な早さで上海行きの許可を取り付けた柊四四八は、一人、満州の夜を歩いていた」 「すでにいつ命を狙われてもおかしくない身でありながら、驚くべき豪胆さと言えるだろう。いや、間近に迫った大事を思えば、軽率とさえ表現できるかもしれない」 「ゆえに、この夜の彼はおかしかった。なぜこのタイミングで、そんな無用心を晒したのか、理由はきっと本人にも分かっておらず……」 「だからこそ、これは運命だったのかもしれない」 「胡乱な街角に花が一輪……あまりに場違いなその少女を前にしたとき、柊四四八は咄嗟に刺客かと疑った」 「それほどまでに、彼女は彼の心へ一瞬のうちに入り込んできたのだった」 「……何か?」 「え、ああ、いや、すまない。なんでもないんだ」 言いながら、俺は無様に慌てた己を取り繕う。それは台本にも書かれている筋書き通りのリアクションだったのだが、この場に限れば演技じゃなかった。 チャイナドレスに身を包み、茫洋と立っている石神の佇まいは普段のこいつとまったく違うものであり、それに呑まれかけたから。 玲瓏と、幽玄と、まるで非現実的なものさえ漂わせている今のこいつは、何かが憑いているようにしか思えない。 凄いな石神。本気で気合いが入っている。内心で素直に舌を巻くと同時に、衝撃で飛びかけていた台詞を俺は必死になって掻き集めた。 「君は、その……こんな所で何をしている? 女性が一人でうろつくような界隈じゃないぞ」 「別に。強いて言うならあなたとお逢いするために」 「こうして、お待ちしておりました」 「なんだとッ?」 その台詞に、俺は一転して警戒感を漲らせながら身構えた。ちょっと過剰すぎたかもしれないが、そんなこちらを見やりつつ、石神はゆるゆると微笑む。 「ということにでもしていただければ、浪漫も生まれるのではないでしょうか。男の方は、時に女以上の繊細さを持つものだと聞いております」 「あなたはなんだか、張り詰めたご様子なので、それを癒してあげられたらと」 「俺をからかっているのか。ああ、気遣い実にかたじけない。礼を言うから、君も早々に帰りなさい。繰り返すが、ここらはとても物騒だ」 「そういうことでしたらご心配なく。私にとって、こういう場はむしろ庭も同然です。おそらく、あなたよりは慣れていると思いますよ」 「ですから、こちらも繰り返しましょう。癒しは必要ありませんか?」 「君は、つまり……」 娼婦……その単語を、しかし俺は口にしない。台本にも書かれていないし、何より柊四四八は女性に対して、そういう無遠慮な言葉を投げる男じゃないはずだと信じていたから。 しかし観客には伝わらないと意味がないので、口調や表情、その他の挙措をもって表現しようと試みた。素人にはかなり難しい演技だったが、なんとか上手くいったと思う。 胡乱な街角が庭も同然。慣れている。癒しはいかがと、石神の台詞もそれを助けてくれるものだった。 「まあ、おおかたご想像の通りですね。私は売り買いされる身の女です」 「汚らわしいとお思いですか? ゆえに要らぬと仰っている?」 「そういうことは考えない。君には関わりのない問題だが、俺はこれから女を救いに行かねばならないんだ」 「それに際して別の女を買うなど、理屈の通らない話だろう。そもそもからして、俺はその手の真似をしようと思ったことがないし、これからもない」 「君の生業を蔑んでいるわけじゃないが、出来るならば早く足を洗いなさい。勝手な言い分で申し訳ないが、似合わないと思う」 「そうですか。しかし私も私なりに、相手は選んでいるのですよ」 「あなたならばと思ったのですが……よければその、救わねばならぬという女性のことをお聞かせください」 静かに詰め寄る石神と、仰け反る俺。そんなことは話せないと突っぱねながらも、妙に押しの強い催促に寄り切られるという体で、事情を簡潔に述べていく。 当たり前だが、ありのままを話すはずもないことなので、内容的には大部分をぼやかしたもの。だが自分の求める未来のために、成さねばならないという一点だけは強調する柊四四八。 そんな問答の末に、石神が呟く。 「未来、ですか。たとえばどんな?」 「今、俺たち双方の国……いや、世界を覆っている闇を祓った先にある未来のことだ」 「誰もが幸せで、永遠に笑いあえる理想郷……などという大言壮語は吐けないが、少なくとも大事な相手を理不尽に奪われたままにはならないような」 「そして、何が大事かを各々自信を持って選べるような」 「あるいは、私のような者であっても、道に誇りを抱けるような?」 「ああ、俺はそれを照らすための〈道標〉《しるべ》になりたい」 言い切る柊四四八を見上げたまま、石神は…… いや、この演劇において核となる役名を帯びた女は、ただ厳かに頷いた。 「あなたの求める未来のかたち、よく分かりました柊四四八様。ではまた、後日お逢いしましょう」 「私は〈黄〉《ファン》、〈黄雪麗〉《ファン・シュエリー》……青幇の後継となるべく育てられた女です」 「あなたがあなたのような方で、本当によかった」 そう、つまり石神の役は黄金栄の娘であり、会談に先んじて俺の器を単独量りにきたというものだった。 そうして再度、舞台は暗転。後に黄金栄との会談シーンとなり、我堂の返還を求める俺へ、あちらが出した条件は一つだった。 曰く、血の盟約は絶対に必要である。 我堂鈴子を返せと言うなら、おまえ自身がそれと代われ。 すなわち…… 「〈雪麗〉《シュエリー》……君は本当にそれでいいのか?」 結局は、政略結婚のすげ替えだ。柊四四八が黄金栄の娘である雪麗を娶ることで、青幇との同盟は完成する。 それは、言ったようにこの演劇の核となる展開だった。なぜなら史実の柊四四八は、本当のところ誰と結ばれたのか未だに不明とされていたから。 俺がいて、親父がいて、今に至る柊家の系譜があるのだから、曽祖父に妻がいたのは間違いない。あるいはそういう体裁を取っていなかったのかもしれないが、子を産ませた女は存在したはずだろう。 なら、それはいったい誰なのか? そしてどういう経緯でそうなったのか? 柊四四八にまつわる謎の中では、些細なことと言えるかもしれない。 少なくとも大戦がどうこうという事象に比べれば、多分にゴシップ的な小事であることは確かだろう。 しかし。 だからこそ俺たちは、この謎を掘り下げようと考えた。 彼が拘ったのは継ぐということ。子孫に対する〈道標〉《しるべ》にならんと走ること。 だったら俺も、自らのルーツを誇りたいから知りたいと願う。 柊四四八が最後に愛した女は誰なのか。その真実に迫りたいと思ったんだ。 「ええ、私は売り買いされる身の女だと言ったでしょう」 「自虐や皮肉ではありませんよ。それでも相手は選んでいるのだと言ったはずです」 「そして、あなたがあなたのような方で良かったとも」 〈黄雪麗〉《ファン・シュエリー》……そんな人物はどの記録にも残っていないが、俺たちによるまったくの創作というわけでもない。 モデルがいるんだ。それは他ならぬ、石神の曾祖母で…… 「これからは、雪子とでも呼んでください……四四八様」 ただ、その名前のみ伝えられている女性らしく、壇狩摩が何処からか連れてきたという謎多き人だった。 石神は、この雪子という曾祖母に、なぜか子供の頃から言葉に出来ないシンパシーを感じていたという。 だから、台本を作るにあたって名を借りた。本当の雪子さんとはきっと全然違う設定だろうが、石神が演じるなら相応しいのはその名であろうと思ったから。 「しかし、君は、いや俺は……」 「煮えきりませんね、日本男児は」 堅物ゆえに、まだ相手を慮りすぎている柊四四八に、雪子は強い笑みを浮かべて言う。 ああ、このシーン。俺は一番気に入っているところであり、エンディングでもあるのだから気合いを入れようと心の中で身構えた。 流れはこうだ。石神が俺の手を取り、「それが未来のためだと信じています」――そう告げて〆。 これから激化していく国家間の難事に立ち向かうため、まずはまったく違う生き方をしてきた男と女が手を取り合う。 それは縮図で、ここから始まるんだという未来を予感させる素晴らしいものだと思っている。 だというのに―― 「私はあなたを愛しています」 「…………」 「…………」 「はあっ?」 予想外のアドリブに、俺は思わず頓狂な声を出すばかりか、色々全部吹っ飛んだ。 「愛しています!」 「ちょ、まっ、おおぉい!」 しかもこいつ、何をトランス入っているのか知らないが、クソ恥ずかしい台詞を二度も言いながら俺に抱きついてきやがった。台詞だけじゃなく、アクションまでアドリブかよ! 勢いに負けてそのまま後方へ押し倒される俺の無様に、観客席は大歓声の大喝采だ。違う、断じて、これはアクシデントなんだよ誤解するな。 台本書いたのは俺であり、それは観客に配った演目の用紙にも載っているから、こんな展開を俺が石神にやらせてるなんて思われちゃ堪らない。恥ずかしすぎるだろ、死にたくなるぞ! 「あ、あ、あ、おああああああああああッ!」 そして、憤怒に猛り狂った絶叫をあげるナレーション役。見れば舞台袖からも、クラスメイトたちが俺に小道具を投げつけまくってくる。 「ゆ、許さん! そんなエンド、私は絶対許さんからなああッ!」 「終わり、終わりじゃあ! はい〆! さっさと幕下ろせェ!」 「ていうか柊、石神、おまえら後で私んとこ来ォい!」 俺は関係ないだろう! なんて真っ当な抗議が通りそうな気配は皆無だった。 「あ、あれ? 私はまた何かやっちゃったか?」 「おまえはほんとに、この野郎ォ!」 編入初日の再現かよ。下りていく幕を仰ぎながら絶叫して、だけど劇そのものは大成功に終わったという、怒ればいいのか笑えばいいのか判断できない俺だった。 劇も終わって、俺は歩美と学内を歩いていた。 あとは後夜祭を残すだけとなり、周囲もどことなく終わりに向かっている雰囲気が漂っている。どこか高揚感を残しながらも寂しい雰囲気だった。 「いやー、お祭りももう少しで終わっちゃうねえ」 「お疲れさまでした、四四八くん。あのクラスをまとめ上げるの、大変だったでしょ」 「ああ、おまえにも感謝しないとな」 「それにしても、劇が成功してよかったよ。打ち込んできた甲斐があったというものだ」 「まあねえ。でもわたしは、正直ほっとしたって気持ちの方が強いかも」 「しーちゃんがアドリブ炸裂させたときには、もうどうなるかと思ったよ」 「ああ、俺もだ」 「結果こそ良しではあったけど、あの抱きつきは恥ずかしくて敵わなかったな。取り乱す俺が未熟だと言えばそれまでなんだが」 「いきなりああいう行動に出るなんて、どういう判断だったのかな石神は」 「えー、とかなんとか言ってぇ。四四八くんさぁ、本当は嬉しかったりするんじゃない?」 「ラッキースケベだもんね、にししし」 「おまえなぁ……」 そんなもの、満喫してる暇なんてない。本当に焦ったんだぞこっちは。 そして歩美は、なにか面白いことを思い出したかのように微笑む。 「脚本決めるときにさ、ボツになった案あったじゃん? あれみたいなの本当はやりたかったんじゃないのー」 「ハーレムものみたいなやつ、好きだったりしない? 男の子なんだしさぁ」 「馬鹿を言うなよ、お断りだ」 「皆の前でその手の姿を見せるなど、論外にも程がある」 そう、脚本決めは極めて難航した。 俺たちはクラスメイトから案を募り、いくつもそれに目を通した。ほとんどが真面目なものであったが、中には女性とひたすらイチャイチャしているだけという台本もあったのだ。山場も落ちも意味もなく、ひたすらに。 が、それは俺が断固潰した。どうしてそういうノリになるというのか。 御国の英雄だぞ。世界の一大事に、そんな色事にうつつを抜かしはしないだろうよ。 「そういえばおまえ、あの脚本を推してたよな」 「うん、そうだね。だって悪くないと思うもん」 「モテモテの日常を描くことで、柊四四八の器の大きさを示すことにもなると思うしー」 器が大きいというのか、それは。 こいつはオタク気質なので、そういうネタもいけるクチだ。没脚本の内容について思い出しながら、俺たちは取り留めもなく話す。 「だってさ、四四八くんの曽祖父さんって日本の英雄じゃん」 「惚れないわけがないと思うんだよねぇ、周りにいる女の子視点だと」 そう言われると、名前が同じというのもあって微妙に気恥ずかしいものがある。 まあ女っ気なしということもなかったのだろうが、状況が状況だからな。普通の恋愛ができる環境ではないだろう。 だがこいつの言うことも一理ある──というか誰の意見も証明は出来ないのだ。ゆえにまるっきり否定するというわけにもいかないだろう。 「自分を慕ってくれる女の子、その一人として悲しい思いをさせない。ならどうするか、そうだ全員選べばいい……」 「別に不純でもなんでもないとわたしは思うなぁ」 「そうは言うけどな、選ぶことによって深まっていくものもあるだろう」 「絆とか、信頼とかそういうこと?」 「ああ」 特定の相手と、時間をかけて育むからこそ醸成される……そういった感情があることは論を俟たない。 加えて、なにも難しい話ではなく、自分以外とも関係を持つなど耐えられないという女性だっているだろう。皆が歩美のように進歩的な考えではないのだから。 この現代においてもそうなのに、当時は保守的な向きが多数派であったろうと推測される。 「うーん、それも一理あるけど……むむぅ」 「多少、自己投影めいたものになったのは否定出来ないところだけどな」 「しかし、おまえ随分熱心じゃないか。案外あれ書いたのも歩美じゃないのか?」 「うん、そうだけど?」 「ってマジでおまえだったのかよ!」 あのときはいろいろ慌ただしかったし、書いた奴までは知らなかった。ああ、なるほどすべてが納得出来てしまう。 それは擁護もするというものだろう。 「でも、ハーレム系の脚本やっても面白かったんじゃないかって、ほんとは今でも思ってる」 歩美はなにかを考えているのだろう、遠くを見ながらそう口にした。 「女の子たちがみんな好きな人と結ばれて、楽しく笑い合ってる世界……」 「都合がいいってよく言われるけどさ、それって男の子視点だけじゃなくて、むしろ女の子にとってのものだと思うんだよね」 「だってそうでしょ? 現実だったら誰かがくっついたその時点で、他の女の子は諦めなきゃいけない。泣いちゃう子もいるだろうし、一緒にいられなくなるかもしれないじゃない」 「そういうのって、ハーレム世界にはないの。みんなが男の子の傍にいて、誰も傷つくこともない」 「嘘臭いかもしれないけど、みんなが幸せになれるならいいじゃない」 思いのほか真面目に歩美は語っている。なるほど、そういう見方もあるということか。 現実はときに残酷だ。こいつの言うように、悲しい思いをする奴は確かに出るかもしれない。 だから、一面においては歩美の言うことも真実だと思う。 「でも、やっぱり最終的には誰かを選ばないといけないだろう」 「おまえを否定しようってわけじゃないさ。事実、今まで俺の見ていない一面を気づかせてくれたと思う」 「だがな、ハーレムの状況に潜んでいるのはプラスの要素だけじゃないはずだ」 「嫉妬や所有欲、そういう感情から目を背けるわけにはいかないだろう。現実として」 そう。人間というものは本来利己的だ。皆が皆、大切な存在を分け合うような世界を望んでいるわけじゃない。 「──ふふっ」 すると歩美は思いついたことがあるらしく、そう笑んで口にする。 「じゃあさ、わたしの曽祖母ちゃんを選んだパターンをやってみない? 今から即興で」 「龍辺歩美の脚本による、第二幕の開演でーす」 「はぁ? おまえ、なんでそんな──」 「だいたいここは前庭だぞ。悪ふざけするには人目が多すぎる」 「だーってさ、脚本書いた人としては今回のでいいかもしれないけど、他の選ばれなかった女の子としては不満なんだもん」 「わたしだっていい思いしたーい。ほらほら、誰も見てないってば」 「いい思いってな、おまえ……」 「天国から文句言えないのをいいことに、曽祖母ちゃんをモブにしようったってそうはいかないんだから。ゆえにさあ、やってみよう」 「ヒロイン気分味わわせてよぉ、ねえねえ」 悪ノリに等しい提案を俺は拒むつもりだったものの、こいつは思いのほかしつこく。 そして…… 「それじゃ、始めようか」 「言っておくけど、なぁなぁはナシだからね。やるからには本気で臨むこと」 とうとうこうして押し切られてしまった。 打ち合わせまでして茶番を演じることになっている。まあ、ギャグみたいなノリでいいのだろう。 早く終わらせるぞ、まったく。 「それで? 俺はまず、どうすればいいんだ」 「あー、もうやる気ない。ひどーい」 「さっき打ち合わせしたじゃん。とりあえずは恋愛部分のハイライトをやろうって」 そう、今回のテーマは男女関係。 歩美の曽祖母に、俺の曽祖父が懸想しているという仮定に基づくものだ。つまり…… 「俺はおまえが好きだ。ああ、狂おしいほどに愛している」 「みたいなことを言ってみ。さあ、ほーれ」 「く、ッ……」 冷静に考えて、どうしてこういう状況に置かれているのか分からなくなってきたぞ。受ける理由もなかったはずだが、これが文化祭特有の空気なのか? とはいえ一度は受けたこと、ここで断るのも男が廃るというものだ。 ゆえにここは、覚悟を決めて── 「俺はおまえが好きだ。ああ、狂おしいほどに愛している」 「そんなっ、四四八さんいけません。あなたには大いなる使命があるはずっ」 「このようなわたしなんかに構っている暇はないはず……ダメ、おやめになって。やんやんっ」 ……などと、ノリノリで演技をする歩美。 なんだ、その気持ち悪いカマトトぶったような反応は。見ているだけでイラっとするぞ。 そもそも、こいつの大正と昭和初期観はどうなっているんだよ。 「おい──」 「殿方に心底求められるなど、これ以上の女の幸せがどこにありましょうや」 「ええ、決心するべきときが来たようです。だけど……今ここで一歩を踏み出したとして、本当に許されるのでしょうか?」 「でも、あぁ……」 なんだか、周囲に人目も出てきたわけだが。 なにやってんだあいつら──そんな視線が痛い。どう収拾するんだよこれは。 歩美はわざとらしい拒絶を繰り返している。おまえはなにがしたいんだ。俺といちゃつくんじゃなかったのか。 こんなもの、明日から悪い意味で学内の有名人だろうが。 「なあ」 「だけど、四四八さんは日本にとって重要なお方。その遙かなる道程、わたくしなどが阻めるものではありません」 「この動乱の情勢において、重要極まりない大願がありますゆえ……」 「分かった、男を立ててくれると言うんだな。その心遣いにこの柊四四八、深く感謝いたします」 「じゃあ、また」 「え、ええっ?」 「ちょ、待ってよ四四八くん、いいとこだったのにぃ。もうすぐクライマックスじゃない──」 いい加減にそんなことを言って、去ろうとすると止められる。 なんだよ、行かせてくれるんじゃないのか。さんざん渋ってただろおまえ。 「あのな、文句を言いたいのは俺の方だぞ」 「見ろよこれ、どうやって収めるんだよまったく。すっかり野次馬が集まってるだろうが」 「えー、いいじゃん続けようよ。人目なんて、さっきの舞台に比べたらずっと少ないってぇ」 「こっちはさっさと終わらせたいのに、おまえがうだうだしてるから進まないんだろう。そもそもなんだ、あの猫撫で声は」 「だって、当時の人って今より奥ゆかしいっていうでしょ? だからあんな感じかなって」 「そういうわけで、もう一度やろう四四八くん。ね?」 いや、いい区切りだろ。 そう告げようとすると、歩美はさっきまでと違う様子で俺を見た。 どこか、なにかを思い出すように…… 「でも──ここで四四八くんに告られるのって、なんだか前にもあった気がする」 「あれ、おかしいな? そんなこと、あるはずないのに……」 「ああ、そうだな」 なに言ってるんだおまえ。混同するなよ、現実と。 歩美なりの冗談かとも思っていたが、どうも様子がおかしいことに気づく。本気で戸惑っているみたいだ。 「分かってるよお、そんなこと」 「けど、どうしてだろう。同じような場面を、経験したことがあるような気がするの……」 言われ、思い出そうとする。それっぽいことはこれまでにあったか? ない、はずなのだが── おかしい、違和感を覚える。そういえば…… いや、思い出せない。しかしこれは。 「────」 とりあえず……〈あ〉《、》〈る〉《、》としたらの仮定で考えてみよう。 柊家の家訓として、好きな女には言葉を惜しむなというものがある。いずれは俺もその教えを守ろうと思っていた。 だから、告白するということ自体はありえる。タイミングは……一つの区切りとして、入学式あたりだろうか。 自分の性格ならそうしたはずだ、と客観的に分析する。しかし…… 「あー、やっぱ四四八くんもそう思ってんじゃん」 「あったような気がするでしょ? んんー、いつだろう。不思議だなぁ」 「いや、しかし……」 正直に言うと確かに不思議だ。しかし、記憶には間違いなく存在しない。 「じゃあさ……ここでもう一回、告白してみる?」 「忘れたっていうなら、やり直しちゃえばいいじゃない。ね?」 そう言う歩美は、俺に向き合って視線を交わらせる。 悪戯めいた笑顔を浮かべるこいつに、俺は一つ溜め息をついて。 「はいはい、ないない」 そう、ないんだよ。 覚えていないことがなによりの証拠じゃないか。おそらく、文化祭特有の感傷というやつだろう。 自分らしくもないが、いつのまにか飲まれていたのかもしれないといったところか。 「んじゃ、後夜祭でな」 歩美もこれ以上は追求するつもりもないらしい。一つ息をついて、俺は最後にもう一回だけ思い出してみる…… やはり記憶にはなく、それは絶対に間違いない──しかし、どうにも拭えない違和感が残るのだった。 劇を終えて、後夜祭まではまだしばらくの時間がある。 俺は文化祭の締めに入りつつある校内を歩いていた。そこに…… 「あっ、いたいた。四四八~」 「見せてもらったわよ、みんなの劇。もうすっごくよかったわ~~」 偶然はち合わせたのは母さんと剛蔵さん。二人とも、どうやら見てくれていたようだ。 いくら子供のためとはいっても、剛蔵さんは店まで休んで来てくれた。申し訳ない気持ちもあるが、それはやはり嬉しいものだ。 「ありがとうございます。お忙しい中、時間を割いて頂いて」 「いやいや、なにを言うんだ水くさい。晶と四四八くんたちの晴れ舞台だ、来るのは親として当たり前だろう」 「剛蔵さんったら感激しちゃって、最後の方はずっと泣いてたのよ」 「まあ、わたしもあまり人のことは言えないんだけど。だって素晴らしかったんだもん、涙が止まらなくって大変だったわ」 「やあ、あんまり言わんでくださいよ恵理子さん。本人を目の前にしてどうにも決まりが悪い」 そう言って豪快に笑う剛蔵さん。母さんも劇の内容を思い出したのか、うっすらと涙目になっている。 二人にこうして楽しんでもらったのなら何よりだ。せっかく来てくれたのにつまらないものを見せたら、それこそ申し訳が立たないというものだろう。 「それにしても、見応えのある劇だった。題材がごく身近な人の話であったからなおさらだよ」 「中国にわたった柊四四八が、満州事変をいかにして食い止めたか……歴史的にも謎の未だ多いその辺りを、四四八くんたちなりに立派に解釈していたと思う」 「おっと──こりゃいかん。紛らわしいな、名前が」 俺たちなりに頑張った劇のことを褒めてくれるのは嬉しいが、こう正面きって言われるとやはり照れてしまう。 「それで、なんだったかな──満州に渡ってから柊四四八が出会った、中国のマフィア組織っていうのは」 問いに、〈青幇〉《ちんぱん》のことですねと俺は答える。 「そう、それだ。ここのボスと独自のルートで話を持ちかけて、共産党や国民党とそれぞれ渡り合ったという大筋だったよな」 「つまりはあれだ。歴史の裏で動いていたがために、正史としては残されていないということだよな? うん、なかなか面白い発想だ」 「一般的ではない解釈だが、こういう歴史もあったのかもしれないと思わされたよ」 そう、柊四四八が満州に渡ってからの足跡は未だ謎が多い。 如何にして偉業を成し遂げたのかというのもそうだし、そもそも俺からして自分の曽祖母すら知らないのだ。動乱の時代であったとはいえ、普通はないことだろう。 世界中でも議論になっている彼の半生をいかにして表し、真実めいたものにするかが劇における最大の焦点だった。 正直、俺たちの演じた脚本も賛否両論ではあるだろう。見る人が見たら粗があって当然だ。 しかし一つの可能性は提示出来たと思うし、見てくれた皆が満足してくれたならそれに勝る喜びはない。 そしてなにより、偉大な先祖の顔に泥は塗れないという思いの元に演じきった舞台は、それなりのクオリティになったと自負している。 「わたしはあれがよかったなぁ。柊四四八が結婚するときのシーン」 「その娘役に静乃ちゃんが出てきて、四四八と向かい合ったりなんかしちゃって、もうわたしドキドキしちゃったわぁ」 「演技も情感たっぷりで良かったし。ままならぬ恋に身を焦がす感じが出てて、本当に素敵だったわよ」 確かに、柊四四八の妻役に選んだ石神は結果的に大いにハマったというべきだろう。 あいつが当時に存在していれば、本当に曽祖父から選ばれたかもしれない……という可能性を感じさせる雰囲気があり、それが俺の脚本に説得力を持たせてくれたのだと思う。 最後はアドリブもあって、それは計算していなかったが……まあ結果としてはよかったのかもしれない。 演者として焦りはしたけれど、大盛り上がりだったのは事実だしな。 「あー、まるで四四八の将来の結婚式を見てるような舞台だったわねぇ」 「そういえば、最近静乃ちゃんとはどうなの? 進展とか、少しはあったのかしら」 「ないよ、そういうのは……」 そして、母さんと会ったら来ると思った冷やかしである。まあ、言われるよな、あんな演技をしてしまえば。 実際のところなにもないが、まあ舞台上で面食らったのも事実ではある。母さんが突っ込みを入れたくなるのも道理というものだ。 「まあまあ、聞かば照れるのが彼らの年頃というやつですよ、恵理子さん。ここはそっと見守っておきましょう」 「おせっかいなどしなくても、本当に縁のある二人であれば自然と惹かれ合うものですよ」 「まあ、剛蔵さんたらロマンチックですね。うふふ、そうかもしれません」 「しかし、これはセージにもぜひ見せたかったなぁ」 「あいつだったら、どういう感想を持ったかな。四四八くんとしてもそこは気になるところだろう」 「いえ──どうせ、あいつは文句しか言わないですよ。いつものことです」 そう、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているのが容易に想像出来る。 そもそもこれは柊聖十郎の専門分野。たかが学生である俺の付け焼き刃など、あいつから見れば笑止というものだろう。 分かっている。が、剛蔵さんの言った言葉はどこか俺の心に残った。 実際親父だったらどう反応するだろうと、自分なりに考えていると…… 「そういえば、四四八くん。さっき〈あ〉《、》〈る〉《、》〈生〉《、》〈徒〉《、》から君に言伝を頼まれたんだが……」 「俺に? なんですか?」 突然剛蔵さんにそう言われ、俺は考える。 言伝を受けるような何かが、果たして俺にあっただろうか。クラスの奴らとはずっと一緒にいたし、直接言えば済むことだ。 他所のクラスの奴だろうとも思うが、剛蔵さんに頼むということはある程度俺たちの関係を知っているということになる。 真っ先に思い浮かべたのは野澤だが……あいつはこんなやり方をしないよな。 だとしたらいったい、と考えて── 「いや、やはりやめておこう」 俺が思い出そうとしていると、剛蔵さんはそんなことを言う。 「彼が言うには、どうやら君はまだ条件を満たしてないらしいんだ」 「“証”とも言えるそれをすべて集めたときにこそ、彼は皆の前に姿を現わす……そんなことを言っていたな」 証……いったいなんだろう。よく分からないが。 「だから頑張って集めてくれ……と言っていたぞ。君なら出来るとね」 「はあ、そうですか」 「まあいいんですけど、剛蔵さんはそれを聞かされて来たんですか?」 「ああ、まあな。彼の語り口からは熱意みたいなものが感じられて、こんな俺でも引き込まれるようだったよ」 「まあ、細かい事情はなにも分かっちゃいないんだけどな。ははっ」 そう言って、剛蔵さんは豪快に笑った。 俺にも分からないのだし、彼が事情を掴めなくともそれは当然というものだろう。集めるという言葉を俺は再び考え── そして、日が暮れると同時に忘れてしまうのだった。 「おお、素晴らしいぞ四四八くん──君は見事、すべての条件を満たしている」 「はあ、なんのことですか?」 興奮したような剛蔵さんの言葉に、俺は思わず眉根に皺を寄せてしまう。 条件といきなり言われても、なんのことだか分かりはしない。 「いや、俺には細かいことなんてなにも知らないんだけどな……言伝の主から聞かされたんだ」 「そう、彼の語り口には熱意みたいなものが宿っていて、まるで引き込まれるようだったよ」 剛蔵さんは彼と言った、つまり、その相手は男ということだ。 思い当たる奴は本当にいないんだが──どういうことだ? 「彼が言うには、会うためには条件というものがあるらしい」 「“証”ともいえるそれを集め、すべてを満たしたときにこそ、皆の前に姿を現わす……そんなことを言っていたな」 条件とはいったいなんだろうと、剛蔵さんの言葉について思案する。 見当はつかないものの、俺が複数持っているものはといえば──この小さなメダルになるのだろうか。 もしそうだとしたならば、〈こ〉《、》〈れ〉《、》は複数ある前提になる。姿を表わすということは、全部揃ったという意味だろうか。 つまりこれから、伝言の主には会える……ということか。 「さあ、そのメダルの導くままに進むがいい。きっと彼が待っている」 そう言う剛蔵さんに、俺は無理矢理送り出されてしまう。 導くといっても、光りはしないし何もない。当たり前だ、ただのメダルなんだから。 ああ、まったくよく分からないが、とにかく向かってみるとしよう── 「あ、もしもし緋衣さん?」  嬉しさが声に滲んでいるのを自覚しながら電話に出た。  その相手は緋衣さんで、最近の僕たちは時間さえあればこうして連絡を取っている。  もはや習慣とも呼べる頻度だったが、彼女の方から連絡をくれるという事実に、僕の心は容易く躍ってしまうのだった。  緋衣さんを求める心は、昨夜のことを知った今でもなんら変わることがない。  彼女は鎌倉に来る前、上海のとある組織に身を寄せていた。  〈幇〉《ぱん》──あくまで表向きは、経済的活動を中心とする互助的な団体だ。  その歴史は古く、宋の代にはすでに存在が認められていたらしい。  構成員は全て同業・同郷・同族の者たち。中国では土着意識というものが強いのだろう、それは結束力であるのと同時に、一種の排他的精神を同時に宿す。  長い年月をかけて純度を高めていったがゆえ、この現代まで残存している……緋衣さんはそう教えてくれた。  最初に知ったときこそ驚いたものの、僕は未知の存在に対する理解に努めた。  いたずらに恐れるのはきっと自分が無学だからで、実際は彼女を育んだ場所なんだ。一方的な偏見などで否定していいわけがない──そう己に言い聞かせる。  たとえ緋衣さんの過去がどうであったとしても、僕にはそれを受け入れる選択しかないのだから。  今、電話中ながらもそれが心を過ぎっているのは、今日観てきた演劇で極めて近しい題材が扱われたからだ。  謎に満ちた英雄の半生を題材として扱った脚本。それは独自の解釈もあってなかなか目新しいものだった。  少なくとも、僕の知的好奇心は存分に刺激されていた。 「柊四四八は現地の組織から政略結婚の話を持ちかけられたらしいんだけど、それが緋衣さんから聞いたのと同じ団体でね。  確か、幇会って言うんだっけ?」 「ふーん……ああ、そう。  いかにも図書館で調べましたー、ってとこかしら。女一人で歴史を動かせると思ってるあたり、いかにも世間知らずのお坊ちゃん的発想よね。  柊先輩たちに幇のことなんか分かるわけないのにね。ふふっ」  その言葉には刺があり、隠す様子は窺えない。  僕はこれまでの付きあいで、四四八さんたちのことを話せば緋衣さんの機嫌が悪くなるのを知っている。  現に今もそうなっており、彼女と殊更揉めたいわけでもない僕は話題を変えようと試みた。 「まあ、それはそうだろうね、実際のことなんて、経験した人でないと見えてこないものだよ。  それで聞いてみたかったんだけど、君が知ってる幇会っていうのはどういうものなのかな?  僕もまったく想像できないからさ、教えてほしいと思って」  我ながら物騒な話題だな、と思いつつ訊いてみる。  こうすれば話が繋がると思ったから。せっかく緋衣さんの声が聞けたのだ、機嫌を損ねた彼女がすぐに電話を切ってしまうなんて嫌だった。  少しでも、このままでいたい。  すると、僕の思った通りというべきか、彼女は上機嫌で話し始めた。 「幇会の呼び方は昔からいろいろあってね、現在残っているもので代表的なのは〈青幇〉《ちんぱん》というものかしら。  分かりやすく言えば、前にも教えてあげたとおり──中国の秘密結社よ」  いささか大仰に聞こえるそれは事実だろうか?  子供の遊びじゃあるまいし、よほどでないと結社だなんて表し方はしないだろう。  しかし彼女は構わない。そのまま説明を続けていく。 「元々のところ、幇会は中国の運河に広がる水運業者だったの。  故郷を出てきた人たちが互いに助け合い、結束し、明るい未来を目指す……この時点ではまだまっとうな組織だったのね。  生活が厳しいから当時の体制に反抗はしてたけど、それはある志を抱いていたからで── 仲間を笑顔にしたい。それこそが、彼ら最大不変の目的だったのよ」 「それは……素敵じゃないか。いいことだと思う」 「ええ、そうでしょう? だけどね、そういつまでも青雲の志というものは続かなかったの。  時代が変わるにつれ、彼らも変わっていった。もっと豊かになるためにはどうすればいいか── 答えは簡単。儲けなくてはならない。そのためには、強くなる必要がある。体制側や他の組織に儲けを搾取されてちゃ堪らないもの。  手っ取り早く成り上がれる手段って、信明くんには何か分かる?」 「────」 「簡単に言うと、麻薬、ギャンブル、そして売春よ」  僕の心臓が、どくんと一つ大きく跳ねる。  彼女の口にしたそれは、血と破滅の匂いが濃厚に立ちこめていたから。 「その成り立ちを理解するには、かの国そのものを語らなくてはいけないかしら。 清の時代、中国は海禁政策を採っていたの。そのため長距離の運輸には大運河を使うしかない……  船で米を運ぶ水夫たちは、その道中の困難さから必然的に団結せざるをえなかった。これがさっき話した幇のあらましね。  当時の中国清朝は結社を禁止していて、政府は幇のことも警戒していたわ。だから、表向きには愛国的であることを標榜していたの。  彼らは北京に米を運んだ後、帰りの空船に禁制品である塩や阿片を詰め込み、密売し利益を得ていたというわけよ」 「でも、ここで時代が変わる。阿片戦争の後、鎖国はお取りやめになったの。  物資が海上輸送されるようになっちゃうと、必然水夫たちは職を失い、路頭に迷うようになった。  幇会がこうした状況に苦しんでいた一方で、物流の中心地である上海は、列強諸国の居留地が誕生して商工業が急速に発展したの」  ああ、それは世界史で習ったから知っている。  もたらされた経済活性化を契機に、当時の中国はここから飛躍的な発展を遂げていくのだ。 「それにつられるように、中国各地から移民、流民が押し寄せてきた。彼らも幇会と同じく、出身地ごとに団結し組織を結成した。  無数にあったその組織も、淘汰に晒されていく……最終的には幇ともう一つが残り、地下社会を支配するに至ったの。  当時の上海の人口300万人のうち、四分の一が両組織のどちらかに属していたと言われるらしいわ」 「そして青幇は、外国人居留地の「大世界」っていう一帯を本拠地にしていた」 「大世界?」 「これはね、合法、非合法を問わずあらゆる娯楽が味わえる施設で、当時はこの世の桃源郷とも謳われていたそうよ」  幇会の背景、そして上海の歴史を聞かされながら、僕は次第に呑まれていく。  やくざ組織みたいなものと教えられてはいたものの、ここまでの規模であるとは想像もしていなかった。  そして同時、ふとした疑問を抱く。 「幇会にはトップっていうか、そういう人っていたのかな。  その結社の中で、一番偉かったのは誰なの?」  僕の問いに、緋衣さんはくすくすと電話口で嗤う。  そして、口端を歪める彼女の表情が見えるかのような、御機嫌な調子で教えてくれた。 「幇会の最盛期である1920年代には、三人のボスがいたの」  曰く、黄金栄。杜月笙。張嘯林。  内の一人は四四八さんたちの演劇にも出てきた名前だ。当時の上海で彼らを知らない者はいなかったという。  黒い意味だが、ある種の偉人と言っていい領域の存在だろう。 「その後、彼らは?」 「死んだわ。ああ、もちろん、昔の人間だから今はもう……なんて意味じゃないわよ」 「殺されたの、一人残らず。それも身内に」 「―――――」  権力争い。咄嗟に浮かんだのはそういう言葉で、映画のような血で血を洗う抗争の情景が頭に浮かんだ。  しかし、実情はそんな簡単じゃないだろう。当時の上海を支配していた三人もの顔役を一斉に排除するなど、考えるまでもなく尋常じゃない。緋衣さんの口ぶりから、それがいわゆる自滅的なバトルロイヤルの結果ではないと感じていた。  なぜなら、たとえ幾つかの歪さを孕んでいようが、三つの頭で安定していたのが青幇だ。いかに熾烈な派閥争いがあろうとも、そこまで混沌としたことには普通ならない。  異端がいたのだ。彼女が言うとおり、組織の中に。 「クーデター?」 「ええ、そうね。首謀者は国民党でも共産党でも、関東軍でもなければ柊四四八でもない」 「彼の名は、〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》」  彼女はそう、謡うように名を挙げて。 「彼こそが当時の上海および、中国の広域を支配したアジアの黒幕。あまねく富のすべてを奪い、なにもかもを手にした男…… 近代最強のギャングスタよ」  そんな男の存在は聞いたことがない。  だが、僕は自分がものを知らないだけなのだろうと思う。この現代社会で普通に暮らしていれば、そんな昏い歴史など接することもないのだから。 「なるほど……すごいんだね、言葉もないよ。  だけど、彼はどうしてそんなに凄い権力があったんだい? いくら組織を一つ丸々引き継いだからって、中国の支配とかまで力が及ぶとは思えないんだけど……」 「信明くん。当時の上海周りはね、かねてから蔓延していた阿片で完全に染まっていたの。  黄錦龍は、その売買で巨万の富と力を手にしたのよ」 「でもそこからは、凋落の一途ね。彼らは柊四四八の台頭に反比例する形で、歴史から消えていく」 「じゃあ、今は……」 「焦らないで、話はまだ続くのよ。  青幇は組織としては消滅したということになっているけど、それは大嘘。現在でも、あっちの地下社会には幇会の残党が残っているの」 「もっとも、中国の歴史研究者の間でも意見は分かれてるみたいだけど。青幇は内部分裂をして消えた。いや、分散して未だ各地で活動している。どころか、未だ変わらず残存する……  実際、華僑の証言も割れているわ。仕方ないのよ。どれも本当で、どれもが嘘だもの。  動乱の近代史──その遺物とも呼べる幇会。私の育ってきた場所は、こんなところよ」  目眩にも似た感覚の中で、僕はその言葉を聞いていた。  話が進むほどに幇会への疑問は深まっていく。彼女の説明をそのまま真実とするならば、これは大それた話などというものではない。中国政府の対立勢力として、歴史の教科書に記載されているべき問題だ。  なのに、今の今まで黄錦龍などという名は聞いたこともなかった。  彼女の虚言か、自分をからかう冗談か? しかし電話の向こうの声はそんな様子でもなく……  僕が訝っている中、緋衣さんはなおも話し続ける。 「彼はね、阿片こそが救いだと思っていたのよ。  難しいことを考える必要はないの。ただ、ラリったら幸せじゃない? 面倒臭いことを何一つ考えることなく、自分の妄想の中だけで生きていけるんだから。 乞食だろうが王様だろうが、等しく夢の中で幸せになれる……それこそまさに、彼の思い描いた理想郷。  だから、上海を麻薬に沈めた。  黄錦龍は本気でそう思っているのよ。まったく、本当にたちの悪い男だと思わない?」  異常思考だ──そう思う。  改めて考えるまでもなく、そんなものはただの薬物中毒に過ぎない。麻薬で頭が溶けていくのが理想だなどと、悪質な冗談以外の何ものでもないだろう。  しかしそんな男のことを、彼女はまるで気の利いた洒落のように語っている。  すべては夢の中に落ち、幸せという名の白痴と化してしまえば皆満足……聞いているだけでも、こうして背筋が寒くなる。  理解のある振りをしているのも、もう限界だ。緋衣さんの言葉をいよいよ遮ろうとした、そのとき。 「おい、信明」  後ろから、そう声をかけられる。  反射的に電話を切って、僕は四四八さんに振り返った。 「どうした、電話中だったか?」 その手に持った携帯電話を見て、俺はそう信明に問う。 なにか用事があるようだったら、こっちは後でも別に構わないが。 「あ、大丈夫です。すいません」 「それよりも、文化祭お疲れさまでした」 「ああ。おまえも入学してから初のでかい行事だったわけだが、どうだった?」 訊くと信明は、楽しかった、驚いた、などと笑顔で言った。 そうか、なら良かったと俺は思う。新入生であるこいつにも、存分に文化祭を楽しんでほしいと思っていたから。 「あと残すところは後夜祭か。これも有志がいろいろやるという話を聞いているからな、期待してていいぞ」 「はい」 いつもと変わらぬ穏やかな表情で、信明はそう頷く。 こうして、俺たちは後夜祭が始まるまでの時間を一緒に過ごしたのだった。 劇を無事成功させた充足感を胸に、俺は校内を見て回る。 あと残っているのは後夜祭で、これもまた一つの大きなイベントである。バンドやら何やら色々とやるらしいことを聞いている。 俺のクラス的には劇を終えての参加であり、それは思い切りはしゃげるということを意味している。これまでは、なんだかんだでセーブしなくてはならなかったものな。 後夜祭ではどこに行ってみようか、そんなことを考えていると…… 「四四八さん──」 「野澤か。おまえも昼の部、お疲れさん。なかなか頑張っていたみたいじゃないか」 背後から声を掛けてきたのは野澤だった。 走ってきたらしく息が少し上がっており、見れば血相を変えている。いつもはなにがあろうと冷静なこいつらしくない様子だ。 どうしたと聞くと、野澤は顔を上げて言う。 「ええ、事態は急を要します。もはや一刻の猶予もなりません」 「あの、うちのクラスの長瀬くんを見ませんでしたか? この辺りにいるはずなんですが……」 残念ながらと首を振る。その理由は、こいつにも分かっているはずだ。 「こんな人の多い日に、あいつにそうそう会えるわけないだろう。ただでさえ見かけない貴重な存在なんだし」 「すまんが、知らないな。なにかあったのか?」 「ええ、あった、と言うわけではないのですが……」 「これから行われる、と言うべきか……」 精一杯冷静であろうと努めているものの、野澤はどうやら焦っている。うむ、ますますこいつらしからぬ様子だ。 おまえがそんなだと気になるじゃないか、さすがに。 「どうした、俺に話してみろよ。そりゃすぐに解決とはいかないかもしれないが、一緒に考えることくらいは出来る」 「友達だろう? 遠慮なんてするなよ、さあ」 「…………」 口ごもっている野澤。言うべきか、それとも、と迷っている。 これはよっぽどのことだろう。聞くからには、俺も腹を括って取り組まなければならないのかもしれない。 逡巡の末、野澤はようやく言い辛そうに口を開いた。 「そうですね、元々、四四八さんに話すつもりでいましたし」 「ただ、どうしても踏ん切りがつかなくて……申しわけありませんが、このことは絶対に他言無用でお願い出来るでしょうか?」 「ああ、もちろんだ。誰にも口外したりはしない」 「で──どうした?」 「実は……この後、後夜祭があるじゃないですか。そこで、長瀬くんが水着コンテストをしようと企んでいるみたいなんです」 「はぁ?」 「水着って、マジか? いやでも、そんな……」 投げかけられた間抜けな疑問に、恥ずかしそうに頷く野澤。 思わず俺は固まってしまう。いや、これは衝撃だぞ。 まず思ったのはそんな馬鹿なということだった。自由を重んじる千信館の文化祭ではあるものの、いくらなんでも女子の水着姿に許可が下りるとは思えない。 その発想までは至る奴もいるだろう。しかし、そうしたところで実際は様々な反対が起こって実現は不可能というものだ。だいたい、どうやって教員を説き伏せるというのか。 許可を得るということもそうだし、他にも実現のためにはたくさん越えなくてはならないハードルがある。 しかし…… 「あいつなら実現することも可能、かもしれないな」 「ええ。長瀬くんが本気になったときにどれだけの力を発揮するのかは、四四八さんもご存じでしょう」 そう、奴の能力はこの千信館にいる者であれば誰もが認めている。 加えて情熱も溢れんばかり。己が野望のためであれば、このくらいはやってのける奴だろう。多少の不可能は長瀬にとっての障害足りえない。 しかし大きな問題が一つあるように俺は思えた。それは取りも直さずあいつの情熱の根幹を成す部分であり…… 「というかあいつ、三次元に興味ないんじゃなかったのかよ」 「クラスメイトの水着見たさに本気を出すというのは、どうしても想像が難しいんだが」 そう、長瀬が二次元世界の住民であることなど、これもまた千信館の学生であれば誰だって知っている。 あいつが執着を見せるのはいつだって画面の向こうに微笑む二次元美少女たち。決して現実世界には興味を示さず、それがゆえに草食王子などと命名されたのだ。 ゆえ、「そっち」ならば理解は及ぶものの今回は違う。なぜだ? 「それはそうなんですが、彼にはどうやら別の理屈があるみたいなんです」 「いわく、〈私〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》〈は〉《、》〈全〉《、》〈員〉《、》〈二〉《、》〈次〉《、》〈元〉《、》〈だ〉《、》と」 「な、ッ──」 何言ってんだあいつ。ああ、ますます分からない。 俺たちはこの世界に存在しているじゃないか。それを二次元などとはもはや理屈からして通っていない。 野澤たちが自らの偶像であるということの隠喩か? しかしそのようなものは長瀬にとっては妥協に過ぎないだろう。 事実としてこれまで誰にも手を出していないわけで、それを今になって曲げるのは釈然としない部分がある。 俺はよっぽど不可解そうにしていたのだろう、野澤がそれに同調する。 「私もさっぱり分かりません。ですが、彼は動き出しています。正直もう手に負えないんですよ」 「なんとかなりませんか、本当に」 「いや、さすがに俺でもなぁ……」 「まあでも、そんなに嫌なら出なきゃいいんじゃないのか?」 「それが出来たら苦労しませんよ……」 恨めしそうに睨まれる。野澤のクラスもまた、それなりの事情があるのだろう。 「ただ、長瀬くんはこんなことも言っていたんです」 「文化祭の時間内に四四八さんが自分のところに辿り着いたら、水着コンテストは取り止めてやろうと」 「そういう約束を、わたしと確かに交わしたんです」 なんだそれは、どうして俺が関わっているんだ。 あいつの思考を読むなど無理と分かっているものの、それでも理不尽さを覚えてしまう。こちとら劇を終えたばかりで疲れているというのに…… 巻き込むなよ、他のクラスまで。 「無理なお願いということは分かっています。でも、もう頼れるのは四四八さんしかいないんです」 「お願いします、なんとか見つけてくれませんか」 俺は息を大きく吐いて、頭の中を整理する。 状況としては、俺が長瀬を見つけたら水着コンテストは潰せるかもしれない。 だが、見つけられなかった場合は絶対に始まってしまう。 どうにかしようにも、スタート地点からして随分と悪い状況だ。そんなことを思っていると── 「おーす、四四八に祥子さん」 「二人してどしたんだよ、偶然会ったの? いいなぁ、なに話してたんだよ四四八」 廊下の向こうから栄光が俺たちを見つけて近づいてくる。 おお、ナイスなタイミングだ。ここは一つ、栄光にも相談に乗ってもらうとしよう。 長瀬とベクトルは違うかもしれないが、こいつも水着とか好きだろう。その意見を聞くことによって、なにか新しい展望が開けるかもしれない。 「聞いてくれ栄光。相談があるんだ」 「ん? どうしたんだよ改まって」 「実はな、これから野澤たちが水ッ──」 言おうとしたところで、隣から野澤に肘で突つかれる。 いや、もはやそれはエルボーの域に達していた。見ると無言の圧をかけられてしまう。 どうやら言うなということらしい。確かに栄光がもし知ったら、こいつ間違いなく会場に来るもんな。 それは野澤の本意とする展開ではないだろう、確かに。 オーケー了解、この話題はいったん終わり。何気なく日常会話に戻ろうか。 「いやすまん、なんでもないんだ栄光」 「それにしても文化祭ももう終わりだよな、お疲れさん」 「お疲れさまでした、栄光さん。劇も好評だったみたいですね」 「おおっ、そうなんだよー! いやあオレの活躍たるやもはや千信館の歴史にはっきりくっきりと刻まれたわー」 相変わらず吹かす栄光。どうやら、思いがけず野澤と喋ることが出来て良い気分のようだ。 ああ、こいつが単純で助かったよ本当に。 「文化祭が終わったら、もうすぐ夏だよなー」 「ああ、そうだな確かに」 そう、文化祭の後は試験、そして夏休みへと繋がっていく。 一学期はまだまだ忙しい、ここで気を緩めている暇などないのだ。 「夏といえば海ッ、そして、海といえば水着ッ!」 「ッ……!」「────」 まるで狙ったかのような栄光の軌道修正に、俺と野澤は思わず目を見開く。 いや、こいつなら言いそうな流れではある。俺たちが隠していることに気づいて掘り返したわけじゃない。 しかし……あまりにもタイミング良すぎるだろう。さすがの野澤も表情が変わっている。 無論栄光はそんな流れに斟酌することなく、いつも通りのマイペース。 「うおっ、ひょっとして祥子さんも海とか行きます?」 「もし行くんだったら、ぜひともオレたちと一緒に……」 「いっ、行きません。なにを言っているんですか、あなたって人は本当に」 「あー、そう? まあ外は暑いし、室内でのんびり読書とかの方が祥子さんにはいいのかなー」 「でも、もし機会あったら一緒に行きましょうよー。祥子さんの水着が見れたら、それだけでオレ最高っすわ!」 「ああ、口に出してたら超見たくなってきたー。くーッ」 うむ、馬鹿だな相変わらず。 女を前にしてそれはないだろう。水着超見たいとか言って気に入られるとは相当なレアケースだぞ。 しかし野澤は顔を赤くして、どこか困惑するように口ごもる。 「栄光さんは、その……えっと」 「そんなに……私の水着姿が、見たいんですか?」 「当たり前じゃん! あぁ、まだ見ぬ祥子さんの水着姿、きっと素晴らしいんだろうなぁ」 「それはまるで、水辺に舞う妖精──どんな水着でもきっと似合うに決まってる。確定事項だよマジで」 歯の浮くような台詞を並べ立てる栄光。こいつは普段と変わらない。 他方、まんざらでもない様子の野澤。明らかに栄光の態度に照れている。 いや、あのな。この雰囲気だともうむしろな。 「お、どした四四八」 「ええぇ、なんで黙ったまま去っていくんですか四四八さん!」 そりゃそうだろう。この雰囲気が読めないほど野暮じゃない。 「なんというか、もう二人で楽しくやっていればいいと思うぞ。俺は」 野澤は焦っているが、そのままでいいんじゃないのか別に。 長瀬のことを思い出すが、別にそこまでの問題でもないだろう。水着姿も栄光なら喜んでくれるさ、きっと。 二人の騒がしい声を背に、俺はその場を立ち去るのだった。 そうして芦角先生の理不尽な説教からようやく解放された俺たちは、暮れなずむ校内を二人並んで歩いていた。 さっきから話しているのは演劇のこと。それは、あの場の余韻をこのまま消してしまうのはどこか惜しいという気持ちがあったからだろう。 長い時間をかけて造り上げたんだ、思い入れだってある。それはどうやらこいつも同じらしく、笑顔で話し続けていた。 「しかし、みんなと一緒になにかを成すことが、こんなに充実感を覚えるものなんて思っていなかったよ」 「私はほら、今まで誰ともこういう経験がなかったからな──」 「己を研鑽することだけがすべてじゃない。同輩と過ごす時間というものもまた、真に必要なものなんだと学ぶことが出来た」 「ああ、そうだな」 言葉にするのは照れるけど、確かにこいつらなしでは今の柊四四八になっていなかったことだろう。 俺は仲間に対して誇りすら持っている。だからこそ、石神に同じ気持ちだと言ってもらえたらやはり嬉しいものだった。 こいつもどこか感傷的になっているようで、いつもと比べテンションがそこまで高くない。元気がないというわけじゃないが、大人びた様子を見せている。 普段とは少し違った表情……そんなこいつを見て、俺はやはりあのことについて突っ込まねばならないと考えた。 「なあ、石神」 「ん?」 「演劇の中でさ、おまえ最後にアドリブを入れたよな」 今さら説明するまでもない。俺たちが芦角先生に説教された原因でもあるあれだ。 台詞のアドリブだけでも大概なのに、俺の手を取るという芝居のはずだったものが抱きつくという行動にまで変わっていた。 なにも事前に告げられていなかったし、正直驚いたよ本当に。 「あー、あれね……うん、そうだな」 「ひょっとして四四八くん、怒っていたりするか?」 「いいや、そんなつもりはないさ」 実際、慌てに慌てたのは確かだが、今は少し落ち着いて考えられるようになっている。 「ただ、突然のことというのもあるし、なによりも本当の意味が見えなかったからな」 いったいなぜあんなことをしたんだと質問する俺に、石神は少し照れた感じで下を向きながら答えた。 「すまない。実は、私にも分からないんだ」 「アドリブで演じるつもりなんてなかった。そもそも、私は君の脚本を尊重していたんだぞ? この解釈であれば演じてみたい……本当にそう思っていたんだよ」 「だけど……気づいたら、身体が勝手にそう動いてた」 「言うなれば、なにかが憑いちゃったみたいな感じかな。あのときの行動は、自分の意志ではないみたいで……」 「いや、よそう。言い訳にもなっていないな。やはり気分を害したか?」 「さっきも言ったろ、別に責めたりなんてしない」 アドリブの結果とはいえ、格段に良くなったのは確かなのだから。 女性の感情がより自然に、観る者の心に届いたんだ。その何かがハマった感じは、クラス一堂が認めている。 あと、そのとき俺の取った不覚とも言えるリアクションが、どうやら逆に名演技みたいな扱いで色々褒められているらしい。 ただのハプニングなんだがな。結果こそ良かったものの、恥ずかしくて敵わない。 ともあれ── 「いい演技だったよ、本当に」 「ありがとうな石神。おまえが演じてくれて、良かったと思っている」 「ふふ……そうだったら嬉しいな」 「私の方こそ感謝しているよ、四四八くん。こんな素晴らしい舞台に立つ機会をくれて、どうもありがとう」 素直に告げてくれる石神に、俺は微笑んだ。 いつになく穏やかな、少しだけ虚脱気味ですらあるかのような雰囲気が、俺たちを包んでいる。 その中で、こいつはぽつりと。 「でも結局のところ、柊四四八は誰と結婚したんだろうなぁ」 今もってそれは明らかになっていない。真実は闇の中であることを口にした。 まあ、あの脚本にしても、あくまで俺の解釈に過ぎず歴史として正しかったわけではない。 だからこその自由な発想でもあったのだが、自分たちの解釈はどうだったんだろうと思う。本当に人前で演じるに値していたのだろうか。 ただ…… 「正しいとか、正しくないとかを論じることじゃないよな、今の俺たちに出来るのは」 過ぎし日に思いを馳せ、学ぶこと。曽祖父さんが望んでいるのはきっとそういうものだと思う。 それが、思いを受け継ぐということだろう。過去に戻れない以上は、先を見据えていくしかないのだから。 たとえば俺にしても、いずれ結婚することになる。そのときどう答え、どう今後の人生を歩むのか。 先人の教え──参考になることはいくらもあるはずだ。 未来のことを何とはなしに考えていると、石神が悪戯めいた笑みを浮かべて近づいてきた。 「まあ私たちに関しては、結婚するにあたって最大のハードルはもうクリアしているといっても過言ではないのだが」 「忘れたわけではあるまい。ほら、我々は許婚だろう? 双方が結婚を認められた状態であるのだから、プロポーズというものは終わっているに等しいのだよ」 「おまえ、まだ言ってるのかよそんなこと……」 考えを読まれたようで決まりが悪い。そして、許嫁に同意をした覚えは依然としてまったくない。 これは石神のことが好きとか嫌いではなく、ただ事実ではないということだ。やれやれと俺は溜め息をついた。 同時、二人の間の距離が妙に近づいていることに気づく。 こいつの天然ぶりに振り回された前科を思い出し──顔が赤くなっていくのを自覚しながら俺は告げた。 「もう少ししたら後夜祭が始まる。〈千信館〉《うち》のはなかなか盛り上がるぞ」 「おまえも忘れず来るように。終わったと思って帰ったりするなよ」 「え、あ、あれ? どこに行こうとしているんだ四四八くん」 「また後でな、石神」 少し頭も冷やしたかったし、そう言って俺はいったんこの場を去ろうとする。 「ちょっと待ってくれ、っ……」 石神は追ってくるが、疲れているのか足下がふらついていた。 「危なっ……」 咄嗟に身体を支えようとして、そして── 二人一緒に、その場に倒れてしまう。 庇ったはずなので身体は大丈夫だとは思うが、俺は慌てて声をかけた。 「おい大丈夫、か──」 「あ……」 そして、置かれた状況に思わず固まってしまう。 俺が上、こいつが下で組み伏しているような体勢──言ってみれば際どい格好だ。 アクシデントを避けようとして、更なる深みにはまってしまった。お互い見つめあったまま沈黙が流れる。 やばい、か? などと、膠着状態で思ったそのとき。 「…………は?」 奔る白光に、なんのことだか一瞬本気で分からない。 見るとそこにいるのは生徒総代。手に持っているのは立派なカメラで、職人よろしく構えている。 百合香さんはシャッターを切る。一度、二度、三度……必然、周囲の注目も俺たちに集まっていく。 「いい絵ですよお二人とも。ああ、これこそまさに文化祭。迸る青春の情動が今、ファインダーの向こうに現われています」 いや……なにしてんだよ、あんたは。 「さあ石神さん、そこでちゅーです。僅かな隙をも逃さない姿勢こそ、この学園の女子に求められているものなんですよっ」 「え? あ、そうなんですか?」 「はいっ」 「ふむ──分かりました。ではっ」 そう言って目を閉じる石神。 おい、おまえもどうして乗るんだよ。などと言っても仕方ない。どうせ百合香さんの言うことを頭から信じてるんだろう、この馬鹿は。 「私なら良いぞ四四八くん。ほら、いつでも奪ってくれ」 もういつものことだ。ならば俺も、心のままに…… 「あいたぁ! な、何をするんだ! 君は──」 「うるさい馬鹿。時と場所を弁えてくれと、どれだけ言わせれば気が済むんだよ」 頭をはたいてこの場を終わらせる。そりゃそうだろう、茶番が過ぎるというものだ。 石神は心外そうな顔をしてこっちを見ている。が、知らんぞ俺は。 「四四八さん。据え膳が目の前にあってその行動はあんまりだと思います」 「さては度胸がないのですか? それはそれで、由々しき事態だとは思いますが……」 「あーあー、はいはい」 百合香さんの言葉を遮りながら俺は踵を返す。まったく、あなたはただ面白いことが好きなだけでしょうに。 さっき舞台の上であれだけ恥を晒したんだ、ここでは勘弁願いたい。 そう思い、治まらない胸の鼓動を意識しながら、俺は逃げるように立ち去るのだった。 「とは言うものの……」 歩くにつれ、俺はなんとも言えない躊躇いのようなものを感じずにはいられない。手の中にある六枚のメダルがそうさせるのだ。 いやもちろん、剛蔵さんを疑っているわけじゃない。あの人が俺を何かの罠に嵌めようとしているなんて有り得ないし、彼が気持ちよく送り出してくれた以上、先に待つのは不穏な未来じゃないだろう。 そう思うが、同時になんだが色々狂っているような気がするんだよ。 「そもそも俺は、いつのまにメダルを六枚も集めたんだ……?」 そんなにこれを入手した記憶はぶっちゃけない。というか、別に持ち歩いていたつもりもない。 なのになぜ、今このとき、俺はこんなものを都合よく手にしているんだろう? 何か、時間軸とか整合性とか、そういう諸々をぶっちぎっている時空に入り込んでしまった心地がする。喩えるなら、いきなりギャグマンガの世界に通じる扉を潜ったような…… 「しかも俺は、なぜ迷いもなく歩いているんだ」 こっちの気持ちとは裏腹に、勝手にすたすた足が動く。メダルが導くと剛蔵さんが言ったとおり、俺の歩みは一切の淀みなくその場所へと向かっていた。 正直、今すぐ引き返したい。なのにそんなことは許さんと、天の誰かに急かされているかのような。 「ああ、くそ!」 分かった。いいよ、しょうがない。こうなったからには腹を括ろう。何が出てくるのか不明だが、立ち向かってやろうじゃないか。 そう覚悟を固め、辿り着いた一室の前で深呼吸をしてからドアを開き―― 「よく来た、選ばれし勇者よ! 僕は君を、ずっとずっと待っていたんだよ本当に!」 「あらゆる選択を前にして、無限の可能性に挑んだその気概! まったく当てにならない未来を信じて、金と時間と睡眠を削りながらここへ辿り着いた君のことを僕は誇り、讃えよう。君こそ二次元を真に愛する資格を持つ者っ」 「よってここに、我が二つ名ペガサスの号を授けよう。そう君こそが、草食たる者を統べる伝説のぉ――」 「すまん長瀬。部屋を間違えた」 「間違ってなどいなあああいッ!」 鬼気迫るような形相で、がしっと両肩を捕まれた。そのまま無理矢理部屋に連れ込もうとしてくるが、ふんふん唸るだけで俺はぴくりとも動かない。 絶望的に、体力腕力その他諸々のパワーがないんだこの男は。 「く、なんたる暴威か。そのように野蛮な力を発揮することで、僕に抗おうとは片腹痛いぞ四四八くん」 「そんなことで、二代目ペガサスの座につけるとでも思っているのか君はっ」 「いや別に、そんなもんなりたくないし」 マジで早々に帰りたい気持ち全開だし。 「というか、このBGMやめろ。世界観が根底からぶっ壊される」 「む、そうか。ならこれでどうだ?」 「それも同じだろ。頼むから長瀬、作品としての纏まりを考えてくれ」 「いや待て。何を言っているんだ俺は?」 BGM? 作品としての纏まり? 意識せず出てきた奇怪極まりない台詞に、我が事ながら当惑する。 「ふ、何も驚くことはない。それこそ君が、僕と同じ時空に立つ者という証だろう。素直に認めて、受け入れたまえ」 「さあほら、というわけでいい加減に観念しろよ。いつまで意地を張っているんだ君は」 「これ以上聞き分けがないようだと、こちらも手段を選んでいる余裕がなくなるぞ。さしあたってまずは、エロゲーの○○○○○○○○に際する○○○○○○○○に関わる裏話とか――」 「黙れ! 何を危険なことを口走っているんだ貴様は!」 「もういい、分かった。分かったから、最低限の体裁くらい整えてくれ。訴えられたらどうするんだっ」 「分かればよろしい。ではこちらへ――」 言ってBGMを……いやそれはもういい。とにかく真っ当な雰囲気に(ギリギリだが)修正し、こいつは颯爽と踵を返した。 長瀬健太郎。不動の二番。千信館の草食王子にして真の黒幕とかなんとか言われているエキセントリックな友人は、その肩書きどおりトチ狂ったとしか思えない出で立ちで俺を室内へと迎え入れた。 先の通りパワーは皆無な奴だから強行突破で逃げることは不可能じゃないんだが、それでこいつの怒りを買ったらどんな滅茶苦茶をされるか分かったもんじゃない。長瀬はそういう、言ってしまえば別階層の次元に身を置いている存在なんだ。 一見してか弱い女子にしか見えない容貌だからといって、侮ってはいけない。全ジャンル不動の二番という実績は伊達じゃないのだ。パワー不足を補って余りある異次元の法則を、この男は全身に纏っている。 「……で、何から突っ込みを入れるべきか迷うんだが、おまえその服」 「ああ、これか。せっかくの学祭だからな、曽祖父の制服を拝借させてもらったんだよ。まあ一種のコスプレだな」 「どうだい、素晴らしいセンスだろう。ちなみにこの勲章は、日本で初のアニメが公開されたときの記念品で――」 「分かった。うん、それはいいから。用件だけ進めてくれ」 一旦スイッチが入ったら最後、こいつの話は長すぎる。こんなもんと同じクラスで、同じ部である野澤に同情と敬意を抱きつつ、俺は先を促した。 「おまえがわざわざ出張ってくるなんて、珍しいどころの騒ぎじゃない。いったい何を企んでるんだ?」 「また随分と人聞きの悪い。僕はただ僕なりに、母校への愛を示したいと思っているだけだよ」 「それで君に、少々協力してほしいというわけさ」 「協力?」 不吉な予感しかしてこないが、内容を聞かなければ始まらない。簡潔に頼むと念を押しつつ、俺は先を促した。 「君は芦角先生から聞いているだろう? ベストカップルコンテストのゲリラ開催について」 「ああ、あれか」 頷きながら、またしても時空に対する違和感を覚えたが、この場はとりあえず無視しておく。細かいことを気にしていたら、長瀬と会話など出来はしない。 「発案者はおまえだろうと思ってたんだが、違うのか?」 「いや、僕だよ。ただし本気でやろうとしていたわけじゃない」 「あれはなんと言うか、目くらましのダミーだよ。この手のことは、どうしても何処からか情報が漏れてしまうものだからね。完全隠密裏を期するなんてのはナンセンスだ」 「そういうわけで、芦角先生が食いつきそうな餌を用意しておいたというのがほんとのところだ。実際はその裏で、水着コンテストを画策していた」 「野澤さんからそのへん聞いてはいないかい?」 「ああ、そういえば聞いたような……」 どうもこの部室に入ってからそういう記憶が錯綜しているので、自分自身よく分からない。 だからひとまず、野澤にも同じことを言ったのかもしれないが、律儀に突っ込みだけは入れておくことにした。 「けどそれ、おまえの教義的にどうなんだよ? カップルコンテストにしてもそうだが、水着がどうこうなんて三次元の最たるものだろ」 「四四八くん、君に昨今のアニメ事情を一から把握しろとまでは言わないが、一つだけ言っておこう。二次元には水着回というものが厳然と存在する」 「僕はそういうお約束をとても愛しているんだよ。だからそれを演出してみた。もはや使命感の類だな」 「ああ、いい。大丈夫だ言わなくても分かっている。どうせ君はこう思っているんだろう? ここは〈三次元〉《げんじつ》で、〈二次元〉《ユメ》じゃないと」 「そこについての議論はやめよう。だが君の魂、いいや君を動かしている大いなる意思の主は、きっと僕の理屈を分かってくれるはずだと確信している。ともかくこれは、ペガサスの教義に反することじゃあないんだよ」 「はあ、そう……」 俺という存在を根こそぎ覆しかねない理を説かれたような気もしたが、大人しく相槌を打つだけに留めておいた。なんだかんだで、この状況に慣れてきたのかもしれない。 「で、その水着回とやらを手伝えと?」 「いや、それはもう済んだ。君がここに辿り着いた時点でそうなっているはずだから、気にしなくていい」 「これまで僕が述べたことは、端的に言うとおさらいだ。そろそろ君なら、こちらの言わんとすることが分かるだろう」 「……つまり、おまえはこう言いたいのか?」 「本命は、むしろこれから始まると」 「イエス、まさしくその通り!」 力強く親指を立てる草食王子。同時に沸き起こる拍手喝采の〈SE〉《オーラ》を感じたが、やはり気にしないでいこう。気にしたら負けだ。 「分かったよ。いったい何をやらかす気なのか知らないが、邪魔だけはしないと約束する。俺に出来る協力なんてのは、せいぜいのところそんなものだが」 「ご謙遜だね四四八くん。ここまで辿り着いた君だからこそやれることは存在するんだ。とはいえまあ、実務を手伝えとかそういうことを言っているんじゃない」 「僕が君に望むことは、夢を信じてほしいということだ。その気持ちだけは、この先何があってもなくさないでくれ」 「約束してくれるかな?」 妙に意味深な様子で言う長瀬に、俺は思わず気圧される。 だが、お願いの内容自体は別に悪いものじゃなかったし、むしろ前向きで良いと思うことだったので頷いた。 若干、相変わらず意味の分からないところはあるけれど。 「可能な限り、希望に沿う。もう行っていいか?」 「ああ。それじゃあ君たちに、いつも二次元の加護があらんことを」 そんな加護を振り撒かれたら現実に帰ってこれなくなりそうなんだが、ともかく俺は長瀬に別れを告げ、この場を後にした。 で…… 「おー四四八、捜したぜ。何処行ってたんだよおまえ」 続く後夜祭を楽しむため、再び俺はこの場所へと戻ってきた。そこでは、すでに栄光と鳴滝が席を確保しつつ待っている。 「ちょっとした野暮用でな。それで、こっちは今のところどんな感じだ?」 「さっき、三年の奴が漫才やってて結構笑えたぜ。他には先公連中の隠し芸とか、そんな感じだ」 「なるほど、そこそこ盛り上がってるみたいだな」 この後夜祭では、有志が集って色々面白いものを見せてくれる。俺は去年も今年も出場していなかったが、来年は最上級生になるのだから思い出作りに何かやるべきかもしれないと思っていた。 「それで、ここにいるのはおまえらだけか? 世良や晶は何処に行った?」 「いや、それなんだけどよ……なんかあいつらが見当たらねえんだよな。ケータイも繋がらねえし」 「おまえこそ心当たりはねえのかよ柊」 「いや、特に……」 分からんと答えつつ、なんだか前にも同じようなやり取りをした気がしてくる。 まさか、例の水着コンテストとやらが始まるのか? だがそれは、長瀬曰く『もう済んだ』とのことらしいし、じゃあいったい…… と、訝りつつ首をひねっていたときに、いきなり館内の照明が落とされた。 「うおっ」 「なんだおい、停電……じゃねえよなこれは」 不意のことに周囲の皆がざわめき出す。だがそれも束の間で、再び点灯したライトに照らされたステージには、見知った顔がそろっていた。 「なッ……」 「おいおい、あいつらいつの間に……」 世良、歩美、我堂、晶……それぞれがギターやらの楽器を携え、スポットライトの中に立っている。 先の演劇で使った戦真館の制服に身を包み、少し照れたような顔をしながらも晴れ晴れしく。 「えー、こほん。皆さん、ご来場ありがとうございます。この後夜祭を楽しんでもらうため、私たちが練習した曲を聴いてください」 「あんま時間もなかったから、色々甘いかもしんねえけど……精一杯やるんでよろしく」 「だってやっぱり、文化祭っていったらガールズバンドは鉄板だもんね! さすがペガサス、分かってるぅ」 「あんたなにワケ分かんないこと言ってんのよ。とにかく――」 最後に出てくるもう一人。これがバンド演奏なら、顔とも言うべきボーカルがまだいないのは皆の目にも明らかだった。 そして、それが誰なのかも。 「カモン静乃、派手にやるわよ!」 「イエーイ!」 次の瞬間、花火とスモークをバックに石神が現れた。 その本格的な演出にも驚いたが、そもそもおまえ、その格好…… 「カッケーじゃんかよ石神、似合ってるぜ!」 「あいつ、ほんとにおまえの曽祖父さんが好きなんだな」 石神のコスチュームは晶たちと同じ戦真館の制服だが、それでも一人だけ装いが異なっていた。 つまり、あいつだけは男装。ていうかそれ、鳴滝の指摘からも分かるとおり、さっきの演劇で俺が着ていたやつじゃないか。 なんだか色々恥ずかしくなってくるが、客の反応は上々だった。女が男の制服を着てるんだから当たり前に丈が違うし、そういうアンバランスさが受けている。 「素晴らしい、そのだぼだぼ具合が実にキュートだ石神さん。裸ワイシャツにも相通じる萌えの極地、その一つと言えるだろう」 「だが、しかし気をつけたまえ。あとでそれを四四八くんに返すとき、こっそりクンクンしたりスリスリしたりされるかもしれない」 しねえよこの野郎、黙ってろ長瀬貴様。 当然のように入ってきた草食王子のMCに観客たちは爆笑し、なお一層場の盛り上がりが増していく。 「ああ、大丈夫。そういうことならとっくに私がやったから」 が、それを一気にぶった切る石神のボケが炸裂した。 「もういい。もう俺をほっといてくれ……」 いったい俺のイメージはどこまで破壊されるのだろう。頭を抱えて絶叫したくなってくる。 「言っただろう、四四八くん。夢を信じ、楽しんでくれ」 「たとえどれだけ荒唐無稽であろうとも、これは君らにとっての現実なんだと祈るんだよ。そうすれば必ず未来は開ける」 「なぜならよく言うだろう。諦めなければ――」 「いつかきっと夢は叶ァう!」 「そういうことだ。それでは頼むぞ石神さん」 「任せてくれ。行くぞみんな!」 雄々しくマイクスタンドを握り締める石神の音頭と共に、いま俺たちの後夜祭が始まった。 「ワン、ツー、ワンツースリーフォー!」 「おおお、凄ぇぞおまえら、最高だったぜ!」 「自信ねえとか言ってたわりに、息ぴったりだったじゃねえか」 見事やり終えた女どもの演奏に、皆が拍手と歓声で応えていた。俺も栄光たちと同感で、素晴らしい出来だったと思っている。 本当、いつ練習してたんだという疑問はあるが、そういうことを言うのは野暮なんだろう。 なので、ちょっとした小休止を挟んだ後に客席へ戻ってきた石神たちを、俺は素直な賞賛で迎えていた。 「お疲れ。よかったぞ、本当に」 「ありがとう。でも、すっごい緊張したんだよ」 「ていうか、手が痛いよー」 「おまえみたいなちっちゃいのがベースってのは、さすがにキツいもんがあるだろそりゃ」 「どうよ淳士、私の多彩ぶりに改めて感服したでしょ」 「おお、まあ、俺にゃあ出来ねえことだと思うぜ」 「そうかあ? 鳴滝はドラムぶん回すのが似合いそうだと思うんだけどなあ。あたしなんかもう、マジに一杯一杯だったよ」 「んなこたねえよ。人前でなんかやるような度胸は基本持っちゃいねえんだ」 「そういう度胸は、俺たちの中じゃやっぱり石神が一番かな」 「え、いや、そんなことはないと思うぞ。私なんかその、勝手に気持ちよくなっちゃうだけで……酔いやすいというか、それだけだ」 謙遜しながら照れ笑いしている石神だったが、こいつのトランスできる資質については今さら疑うべくもない。演劇にしても、バンドにしても、他の諸々に関しても。 「そんなことより、すまなかったな四四八くん。勝手に制服を借りたりして」 「どうしても着てみたかったからついやっちゃったわけなんだが、やっぱり怒ってるか?」 「別に。こっちはいい加減もう慣れたよ。ていうかおまえ、俺がいつも怒ってる奴みたいに言うな」 笑いながらそう返す。それに石神も笑みを浮かべ、皆にも波及して和やかな空気が満ちていく中―― 「おいおいまさか、君らはこれで終わりとか思っているんじゃないだろうな」 再度、館内に響き渡る長瀬のMC。そしてまたまたすべての照明が落とされた。 「ぶっちゃけて言おう。今までのは前座だ」 「夢は続く。後夜祭は終わらない。それではいざ、メインイベントォォ!」 同時に轟くさっきの数倍はあろうかという花火の爆音。眩いばかりのスポットライトが、飛び出した三人の姿を映し出す。 「ああ、あれはっ!」 「嘘でしょ、どうしてこんなところに……!」 とても感動的な、何者であれ心を打たれずにはいられないBGMを背負いつつ、現れたのは間違いない。 「お待たせみんな、キーラちゃんだよ☆」 「なんでおまえらが出て来るんだよ!」 俺の突っ込みを他所に、だがオーディエンスは歓声を爆発させた。それは意味の分からんことに、あれが何者か知っているはずの仲間たちでさえ例外ではない。 「すごい……まさか、本物の彼女たちに会えるなんてっ」 「今夜、俺たちは伝説の証人になれるんだな」 「やべえ、やべえよ。そりゃこれに比べたらあたしらのバンドなんかは前座以下だよ……!」 「うおおおっ、長瀬ェ! おまえこそ正真正銘の英雄だァ!」 「え、や、……はあ?」 溢れ返る長瀬コールとキーラコールに飽和した会場は、唸りをあげる熱狂に包まれて怖いくらいだ。ちょっとおい、頼む誰か、この状況を説明してくれ。 「さあ、今こそ本当のショウが始まるぞ四四八くん!」 「おまえもかよ!」 ていうかこれ、おまえのせいじゃないだろうな。時空を超えた真理に辿り着きかける俺を放置し、ステージ上のキーラ三姉妹は脳が蕩けそうになる歌と踊りを披露しだした。 俺たちの時代はまだ始まったばかりだ。本当のユメがここにある。そんな熱い一体感のもと、絶好調のキーラが贈る投げキッスに栄光が昏倒した。鳴滝でさえ胸を押さえて蹲る。 「ああ、駄目。私もう死んでもいい!」 気を確かに持て我堂。おまえがしっかりしないで誰があれを止めるんだ! 「ロムはお姉さまのものだけどぉ、お兄ちゃんたちもだぁぁい好き」 「ぐはぁっ」 「ねえお願い。あなたのことをパパって呼ばせて」 「くっ、な、なんだこの込み上げてくる愛しさと切なさは……!」 「捕まえたら、もう二度と放してはあげないんだから」 「それがキーラのぉ」 「こ・こ・ろ・い・き☆」 ばたばたと倒れていくオーディエンスは、皆例外なく至福の表情を浮かべている。もはや男も女もお構いなしだ。 「なんということでしょう。これこそ傾城……素晴らしい!」 いや、しっかりしろよあんた。お株奪われてるぞ、目を覚ませ。 「月が、輝く月が見えます。とても綺麗……あれは、狼?」 「ああ~~ん、お願い私を貪ってぇ!」 もはや正気を保っている奴は一人もいない。こうしている俺でさえ、次の瞬間には拳を振り上げてヘッドバンキングしたくなる。 熱い、熱い、湧き上がる情熱の鼓動。そうだよ、何を格好つけているんだ柊四四八。もう一度おまえの本音を見つめ直せ。 「こんなのでお終いだなんて、寂しいじゃない」 寂しい。ああ、そうだ俺は寂しいんだ。もっともっと、夢が続いたっていいじゃないかと思っている。 そうだろう? あんたらだってそう思うよな! 「四四八!」 「四四八くん!」 「私たち、まだこんなので終わりたくないよ!」 世良たちの懇願は切実だった。そしてそれは、俺自身の叫びでもある。 「然り! 今こそ立ち上がれ無限のペガサス! この夢を愛してくれた君たちの祈りがあれば、僕らの物語は終わらない!」 「そう、永遠に!」 永遠。なんと素晴らしい言葉だろう。長瀬の激に俺の魂が熱く燃える。 いや、萌える。 ここは時空を超越した長瀬ワールド。あまねくペガサスファンタジーよ我に力を与えたまえ! 「だから、さあ!」 「一緒に行こう。怖がらないで、勇気を出して、私の手を握りしめて」 「ウェルカムトゥ、ネバーエンディングドリーム」 囁くようなその招きに、俺はただ手を伸ばして…… 「そうだよ、夢は永遠に終わらない」 「さあ、タイトル画面に戻ってね☆」 「おう柊、信明、やっぱりおまえらもここにいたのか」 「はい、淳士さんも来られたんですね」 校内を一回りした俺は、信明を伴って再びこの場へ帰ってきていた。それは他の生徒たちも例外じゃなく、皆が続々とここへ集まり始めている。 理由は明白、後夜祭だ。 「劇じゃあすっかり晒し者になったからな。今度は気楽な見物側に回りたいんだよ、おまえだってそうだろ」 「そりゃあな。しかし去年も思ったが、誰に強制されてるわけでもねえのによくやるぜ。俺にはさっぱり分からねえ」 「有志を募って漫才だのバンドだの……まあ見てるぶんには面白いからいいけどよ」 「おまえ、今年はどんな酔狂人が出るのか、そこらへん知ってるか?」 「ああ、それはな……」 さっき野澤に聞いたことを口にしかけたが、直前で思いとどまる。だってあまりにも非現実的な内容だし。 長瀬の力を甘く見ているわけじゃないが、この場はちょっと忘れておきたいというのが本音だった。 「すまんが、特に知らないな。まあ開けてびっくりというやつに期待しよう」 「おうおう、捜したぜおまえら。今さらだけどお疲れさん」 「なんかこう、一山越えて解放感がハンパねえよな。ようやく肩の荷が下りたっつーかさ」 「おまえはたいして重要な出番があったわけでもねえだろうがよ。俺だってそうだが」 「んなこと言っても、緊張したのは同じなんだからしょうがねえじゃん。なあノブ?」 「とにかく、無事に終わってよかったですね。僕のほうも、実際ほっとしてますよ」 「ま、確かにそうだな」 肩の荷が下りたというのは間違いない。だからさっきも言ったとおり、今は気楽な立場を楽しみたいと思う。 「で、そりゃそうとさ。他の奴らはどうしたんだよ? 水希とか、晶とか、要するに女どもは」 「それが見当たらねえんだわ。おまえは知ってるか信明?」 「生憎、ちょっと分かりませんね。四四八さんはどうです?」 「いや、俺は……」 と、そのときだった。 「うお、なんだいきなり」 「停電……てなわけでもねえよなこれは」 唐突に照明が落とされて、暗闇となった場内に皆のざわめきだけが聞こえてくる。だがそれも束の間で、再度点灯した照明がスポットライトとなり、ステージを浮き上がらせた。 そこには―― 「なッ……」 「水着、コンテストだあ?」 「う、嘘でしょ?」 堂々と掲げられた『千信館水着コンテスト』という大看板。 まさか、おい、本当にそんなことをやれるのか? 一応ここ、学校だぞ? 文化祭の出来事だぞ? 「うおおおお、マジか? マジでか? やっちゃうのかすげええ!」 そうして栄光を筆頭に、頭が幸せ系な野郎どもが歓喜の雄叫びを張り上げた。仮に冗談ですなんて言おうものなら、暴動が起きかねないほどボルテージが高まっている。 「ちょ、待て待て待て! こんなの先生たちに見つかったらヤバすぎるだろ。父兄もたくさん来てるんだし」 「うわ、おい。いま一斉に扉閉まったぞ。ロックまで掛かりやがった」 俺の心配を他所に、人知を超えた何かの力で会場は完全な密室と化していた。これで外から邪魔が入ることはもちろん、内から脱出することも出来ない。 ゆえに今、俺たちの運命は決したのだ。たとえこの先、何があろうと、水着コンテストを見届けるしかないのだと。 「あの、皆さん……これってもしや」 「長瀬か」 「長瀬だな」 「ああ、あいつしかいねえ。こんな真似が出来る奴は、千信館にたった一人だ」 長瀬。長瀬。その名は長瀬健太郎。 NA・GA・SE、NA・GA・SEと、最初は静かに地を這うがごとく、やがては怒涛のように熱を帯びて、男たちの欲望が一体となり唸りをあげる。 もはや誰にも止められない。そして俺も、ここまできたら野暮を言うつもりはまったくなかった。 ああ、いいとも。カマせよ長瀬――俺も男だ、ここに夢を見させてくれ。 「これこそ、ペガサスファンタジーだ」 「柊っ」 「四四八さんっ」 「行こうぜみんな、夢の果てまでっ」 頷き、俺たちは手を握ると、全校男子生徒が心を一つにしてその名を叫んだ。 「長瀬ええええッ!」 瞬間、あまねく子羊たちの祈りに応える神のような声が響き渡る。 「静粛に」 「誇りを持って二次元の海を行く者ならば、いつ如何なるときも紳士であることを忘れてはならない」 「今宵、僕がこの場を設けたのは、中盤に水着回という昨今のお約束を無視して素通りすることがどうしても出来なかったからであり、言わば使命感に駆られてのものだということを皆には理解してもらいたい」 「よって、僕の信念に賛同し、このイベントにおける花となることを承諾してくれた女性たちにはくれぐれも粗相のないよう、敬意と情熱を持ちつつ萌えてほしい」 「もしも彼女らを汚し、嘆かせ、野蛮な獣欲のハケ口にしようと思っている者がいたならば――」 そこで一旦言葉を区切り、氷のような声で長瀬は告げた。 「銃殺する」 「…………」 本気だ。あいつ、ガチで殺る気だ。 「すげえ……こんなに気合いの入ってる長瀬は久々だぜ」 「マイク越しでも殺気がビンビン伝わってきますよ。これが千信館の草食王子、ペガサスの名を持つ者なんですね」 「なあ柊、おまえちょっとやべえんじゃねえの?」 「いや、その、うん……」 なんとか、そこは大丈夫だろう。長瀬ワールドに染まりかけていた頭がお陰で少し正気に戻ったが、ともかくこの場を尊重するスタイルさえ弁えていれば、あいつの逆鱗には触れないと思う。 たぶん。 「ではお待ちかねだ、始めようか。エントリーナンバーワァン!」 そんな俺の自問はともかく、ついに水着コンテストの幕が切って落とされた。長瀬のMCに招かれて、ステージへかぶり付くような男たちの前に最初の出場者が現れる。 「ついに枷から解き放たれ、自由となったかつてのメインヒロイン――その真価はすぐに発揮されるだろうから期待していろ」 「多少面倒くさい性格は健在だがそれもまたご愛嬌だ、世良水希!」 「ね、姉さん……」 「うわあ、攻めてんなあ。すげえぞあの布面積」 「もはや怖いもんなしだろあいつ」 身内の信明にとっては堪ったものじゃないだろうが、ステージ上の世良は実に堂々とポーズを決めつつ、モデルウォーキングとターンなんかを決めている。 伊達にスペックが高いわけじゃないのでそれらは様になっており、なんというか、うん、いいね。 長瀬の言ってることが少々意味不明だったが、そんなものは気にしないでいこう。 「ちょっと恥ずかしいけど、この夏に備えて少し冒険してみました。どうかなみんな、似合ってる?」 「今度、一緒に海へ行こうね。返事は私への投票で――」 「お・ ね・ が・ い 」 「うおおおおおっ、やべえええ! どうした水希、おまえは渚のキラキラハニーかあッ!」 「何をワケの分からんことを言ってるんだおまえは」 「姉さん、僕はいったい……どういう気分になればいいんだ!」 「泣くなよ信明、とりあえず姉貴のターンは忘れとけ」 「オーライ、実に王道的なセクシースタイルに感激だ。それでは引き続き、エントリナンバートゥー!」 トップバッターとして充分以上のインパクトを残した世良だったが、無論のことまだコンテストは始まったばかり。切れ味を増す長瀬のMCが二番手の出場を告げる。 「その智謀は真なる意味での盤面不敗――要領よすぎなトラブルメーカーだが、ほんとは繊細な女の子だってことをこの場のみんなは知ってるんだぜ」 「ちっちゃな胸に詰まった大きな希望。ああ素晴らしきかなロリータ枠よ、龍辺歩美ィ!」 「やっほーみんな、無敵のルベンがやってきたよー。可愛いかな?」 「ほんとはスク水にしようかなって思ったんだけど、変に飾らないわたしを見てほしかったから、今日はこんな感じです」 「気に入ってくれたそこのあなた、わたしのスナイプからは逃げられないから覚悟しろよー」 「ばきゅーん」 うぐ、とか、ぐは、とか言いながら、胸を押さえてのた打ち回る奴らがそこらへんに続出した。 「あの、すみません四四八さん、ルベンってなんでしたっけ?」 「あいつのハンドルネームだよ。FPSの業界じゃあ、その名を見るだけで恐慌状態になる奴が世界規模でいるらしい」 「いやー、こうやって見ると歩美も結構可愛いよなあ。ふりふり系がマジ似合ってんじゃん」 「まあ、否定はしねえよ。あいつのことだから、自分の武器はよく分かってんだろうし」 「ルベン、実にツボを抑えた振る舞いに心からグッジョブと言わせてもらおう。ところで今度、聖なる白銀の紋章と未知なる夢の翼を交換してもらえないだろうか」 「長瀬、おい長瀬、ここでプライベートの話はやめろ」 ヘビーなオタク同士、こいつらの仲が良いのは知ってるが、おそらく誰も知らないだろうレアアイテムのトレード相談なんかを始められても困る。 「ああ、すまない。僕としたことがついうっかりだ。それでは気を取り直して行こうか、エントリナンバースリィー!」 「彼女はブルーブルービューティフルムーン――月が綺麗ですねは愛の告白、おいおい何百年前のセンスだよなんて、詩想を解さない野暮な奴はまさかこの場にいないだろうな?」 「彼女をその手に掴みたかったら、するりするりと躱されまくっても追い続けるんだ。何だかんだで押しには弱い大和撫子だしね、野澤祥子!」 「…………」 「………………」 「…………………………ッ」 「絶対、あとでブチ殺しますからね……長瀬くん!」 「ほああああああ、祥子! 祥子! 祥子さあああん! オレの名前も呼んで祥子さああん!」 「死んでください、栄光さん」 「おがあああッ! 我が人生に一片の悔いなァし!」 「うるせえおまえ! 耳元で怒鳴りまくんじゃねえよぶっ飛ばすぞ!」 「まさか、野澤さんまで出てくるなんて……いったい長瀬さんはどんな手を使ったんですかっ」 「深く考えたら負けだ信明。だがうん、珍しいものを見れたんだから俺たちは間違いなくラッキーだろう」 野澤の水着は前の二人に比べればボーイッシュな系統だったが、即物的な色気を武器にしないのはあいつらしくて良いと思う。 それに言ったら殴られそうだが、屈辱と怒りに耐えている表情が実にこう、素晴らしい。 「君の魅力を広く知らしめる一助になることが出来たなら、殺されようがなんだろうが僕は本望だよ野澤さん。さあみんなも、我が文芸部の誇るエースに拍手だ!」 「く、本当に、覚えてなさいよ」 「オーケーオーケー、俄然テンションも高まってきたからより一層アゲて行こうか。エントリナンバーフォォウ!」 「顔芸――それは一見、汚れの役だと思われがちだが実は違う。見た目も中身も、元が調っているからこそ成立する概念なんだと知るがいい」 「スリムに、シャープに、研ぎ上げられたサムライソードがここにある。いざ括目して震えるがいい、我堂鈴子ォ!」 「馬鹿かあれ、なんだあいつレースクィーンかよっ」 「いやでも、確かに長瀬さんが言うとおり凄いシャープですよ。無駄が全然見当たらない!」 「そりゃ貧乳って言うんだよノブ」 「おまえ、一転して身も蓋もないな」 しかし、我堂のスタイルが洗練されているのは誰も否定できないだろう。今のところ一番の長身だし、足の長さを強調するような水着だからモデルっぽさが際立っている。 あとはあいつが、妙なことを言わなきゃ満点だって取れるんだろうが…… 「さあ跪きなさい、このクソ庶民ども」 「私の美しさに、情けない声をあげつつひれ伏すがいいわ。だって好きでしょ、そういうの。いい、いい。言わなくたって分かってる」 「私の奴隷はまだ定員を締め切っていないから、せいぜい必死になって急ぐことね。お馬鹿さんたち」 「……なんだそれ」 やはり、我堂は何処までいっても我堂だった。いつもブレないのは結構だけど、こういうときくらい媚売っとけよ。 「サンキュー、ミス右翼舐めんな。大日本帝国の誇りを僕もしっかり受け取ったぜ。いよいよここから後半戦だ、エントリーナンバーファァイブ!」 「生まれの違いはすべての違い。家柄云々言い出したら、こっちはガチで貴族の血筋だ――学園創始者のブルーブラァァッド!」 「すみません。あの、ほんと一度だけ踏んでもらえないものでしょうか。幽雫先生がいないところでどうか一つ、辰宮百合香ァ!」 「踏むんですか? ええっと、まあ、お望みなら別に構いませんけれど」 「わたくし個人としましては、逆に踏まれてみたかったりしています。そういう雄々しい殿方が最近好みで」 「力強く、たとえばほらこんな風に――」 「なッ……!」 「うわあああ、ちょっ」 「あーれー、とお代官様プレイみたいな」 腰に巻いていたパレオを躊躇なく自ら剥ぎ取った百合香さんのパフォーマンスで、会場全体が一瞬のうちに震撼した。 「あ、駄目。もう駄目。すげえもん見たオレ、死んでもいい」 「あの人……いったいどこまで本気なんだか、相変わらずさっぱり分からん」 パレオを外したところで、ただのビキニになるだけだから確かに問題はないんだが、絵づら的にはいきなりスカートを脱いだような感じになるため、健康な男子ならば反応せずにいられない。 何よりタチの悪い点は、その効果を狙ってやったのか天然なのかまったく判別できないところだ。これが石神や歩美なら即座に分かることだけど、百合香さんだけは本当に読めない。 今も俺たち、馬鹿な男どもをにこにこしながら愛しそうに眺めているし、女は怖いというのを痛感せずにはいられなかった。 「ごふっ、流石は最上級生。千信館の現総代は伊達じゃなかった。僕にはちょっと刺激が強すぎたので次に行こう。エントリーナンバーシィックス!」 「あざとい? 計算? そんなわけあるかこれが素だ――きそば真奈瀬の看板娘は、純情乙女な二代目そばもんプリンセス」 「煌け爆乳、触手ダンサー! ハゲの遺伝子を淘汰するべく婿を選べよ、真奈瀬晶ァ!」 「あ、ちょ、あわわわわ」 べちゃ、とそのまま、ステージに現れた晶は突っ伏した。あいついったい何してるんだよ。 「こけやがった。マジかよ」 「相変わらず恐ろしいですね晶さんは。今どきドジっ子属性まで装備するとは……もはや尋常じゃありませんよ」 「なんか段々、ソムリエみたいになってるおまえも充分やべえぞノブ」 「それはともかく、おい晶……なんだおまえその水着は」 「え、なに? なんだよ、何なんだよおまえらその目はぁ」 「お、おかしいのか? あたしどっか変なのか? おまえら黙ってないでなんか言えよぉ!」 「…………」 恐ろしい。そんな際どい水着姿を公衆に晒し、自分が男全般からどう見られるのか分かってないところが俺は甚だ恐ろしい。 「肉のボリュームがこれまでの奴らとは全然違うから、布面積だけの話じゃねえよな」 「そうですね。加えて言うなら、水着の色もクレイジーです。遠目からなら、全裸にすら見えそうですよ」 「なあ信明、真奈瀬もそうだがもっと自分を大事にしろよ。何処に向かってんだよおまえはいったい」 晶の魅力は健康的で開放的なところにあると思っているから、キャラに相応しいとも言えるんだが、流石に場が悪かったか。 水着コンテストという特殊なステージは、真夏のビーチみたいにはいかないということだろう。 「まあ、うん。だがこれはこれで、間違いなく高いポイントを得られるはずだ。晶が喜ぶかどうかは別として」 「あああ、もう! いーよいーよ、どうせ可愛くねえってんだろ。そんなの言われなくても分かってるしー、ふんだ!」 言い捨て、逃げるように去っていく晶を見送りながら俺は思った。 やっぱりおまえはそれでいい。ずっと変わらないでいてくれ。 「ありがとうそばもん。眩しかったよそばもん。僕は今、久しぶりに初心を思い出したような気がしている」 「さあ、それではみんな準備はいいか? いよいよ最終選手の入場だ、エントリーナンバーセブンッ!」 「その名は広島の大自然が生んだ世界に誇る未確認生物――最近の子がヒバゴンなんて知ってるわきゃあねえだろう、なんて悲しいことは言わないでくれ」 「可愛く、強く、そしてエロいぞスーパーヒロイン。歩くラッキースケベが今日も行く、石神静乃ォ!」 「はっはっは、素敵な紹介を感謝するぞ長瀬くん。後で是非、君の素顔を拝ませてくれ」 「ということでみんな、私がトリだ。存分に審議し、観賞してくれたまえ」 「四四八くんには綺麗でセクシーだと言われたボディだから、正直自信を持っている。なかなかクるものがあるだろう? そうだよな?」 「黙らんか貴様ァ!」 ステージ中央で仁王立ちし、快活に笑いながらクソ戯けたことを口走る石神に俺は全力で絶叫した。今さらそんな昔のことを蒸し返すなよ。 「最っ低だなおまえ」 「そんなこと言ったのかよおまえ」 「フォロー不可能ですよ。ていうかしたくないです」 会場中から注がれる憎悪の視線に、俺はすり潰されそうな心地だった。 しかし、これはそれだけ、石神が人気を得ているという証なんだろう。 俺の名誉と反比例して跳ね上がっていくものではあるが。 「聞けばこのコンテストの優勝者には、長瀬くんが願いを叶えてくれるという。だから私は、なんとしてでも一位を取りたい。他の出場者は皆友人だが、負けるわけにはいかないんだ」 「そういうわけで、石神静乃に清き一票をお願いする。以上、よろしく頼んだぞ!」 こいつらしく、爽やかだが力のある態度に会場内が沸きかえった。 しかし願いを叶えるって……魔法のランプじゃあるまいし。 「長瀬の奴、まったく何を言ってるんだか」 そんなあやふや極まりない口約束を餌にして、出場者を確保したわけでもあるまいが……とにかくこれから集計開始だ。 俺たちは、各々良いと思った女の番号を紙に書いて、用意された投票箱へ投じていった。 「なあなあ、おまえら誰に入れた?」 「教えねえよ。あと、おまえのも聞く気はねえ」 「栄光さんのは、聞くまでもないですからね」 「そりゃそうだ」 こいつは何がどう転ぼうと野澤一本に決まっているし、信明はまあ、何だかんだで義理的に世良へ入れたんじゃないだろうか。 鳴滝は読みにくいところだけど、順当に考えれば百合香さんか……もしくは白紙なんてことも有り得るだろう。 俺? そこはまあ、想像にお任せするよということで。 「それでは、これから結果を発表する」 ステージに勢ぞろいした七人の女たちに、回転するライトが目まぐるしく浴びせられた。あれの止まった位置に立っている奴こそが、このコンテストを制した覇者となる。 「第一回、千信館学園水着コンテスト――栄えあるその優勝者は」 誰だ、と皆が固唾を呑んで見守るそのとき。 「おらァ、おまえら何ふざけたことやってやがんだァ!」 「長瀬ェ、てめえ今日こそ絶対逃がさねえぞ! ていうか、なんで私だけスルーなんだよ! 私の水着は価値がないとでも言いたいのかァ!」 「そっちかよ!」 「て、やばいですよ皆さん、逃げないと!」 施錠されていた扉を渾身の力で蹴り倒し、大音響を轟かせながら憤怒に燃える芦角先生が現れた。 「えー、そんな! まだ結果が出ていないのに」 「長瀬、ちょっと、早くそこだけ教えなさい!」 「わたしだよね?」 「あら、わたくしでしょう?」 「どうでもいいよ、バックレないと花恵さんに殺されっぞ!」 「むしろ、この機に乗じて私は長瀬くんを殺したい」 「一位は? いったい誰なんだッ?」 「それは、君たち一人一人が持つ夢の中に」 「この期に及んで、なにカッコいいこと言おうとしてんだあいつ」 「逃げろ――さっさと撤収すんぞ、四四八ァ!」 「おら待てぇ、待たんか貴様らァ!」 悲鳴と怒号が響きあう大混乱の会場に、だがあくまでも厳かな草食王子の声が流れていく。 「君らが夢見る強さを失わなければ、僕はまた現れる。そのときこそ、素顔を晒すと約束しよう」 「これは手付けと思ってくれ」 すると、いったいどういう原理か知りたくもないが、天井から俺のもとへ一枚のメダルが落ちてきた。 「待っているよ、至高なる二次元の高みで」 「おまえはもう、世界観ぶっ壊すだけだから出てくんな!」 そうして、実に破天荒なペガサスファンタジーの第一章は、ひとまず幕を閉じたのだった。 以降、続きがあるかどうかは俺次第ということらしい。 ……… …………… ………………… 「でだ」 「結局、おまえの願い事っていうのは何だったんだよ?」 「んー? 気になるのか四四八くん」 修羅場も過ぎ去り、校庭に炊かれたキャンプファイヤーの前でフォークダンスを踊りながら、俺は石神にそんな質問を投げていた。 こいつはそれに、珍しくにやにやと意地悪く微笑みながら、なかなか答えを返さない。炎の照り返しでコントラストが濃くなった表情から、思考を読むのは難しかった。 「そりゃあな、あんな言い方をされたら誰だって……」 「長瀬の非常識さはともかく、おまえは結構本気だったろ」 「別に、そこまで大仰なことを願ったわけじゃないよ」 「いや、だけど見方を変えれば充分に荒唐無稽なのかもしれないな。だから長瀬くんに願うというより、あの場を借りて宣言のような真似がしたかった」 「そうすれば、叶うような気がしたから。少なくとも、協力を得られるだろうと思ったから」 「私はな、四四八くん」 なんだと言うのか。黙って先を促すに俺に、石神は緩くはにかんで言葉を継いだ。 「君たちとの日常が、今後も変わらず続きますように」 「卒業して、大人になって、そしてさらに何十年……さすがにそこまで先のことは分からないけど、可能な限り今の関係が続いてほしいと」 「そう思ってる。それが願いだ」 まるで宝物でも抱きしめるような石神の口調。あまりに真摯な感じだったので俺は身構えていたのだが、聞いてしまえばそんなことかと言えるようなものだった。 なぜなら俺も、そして世良や晶たちも、そういう気持ちは同じだろうと思ったから。 「それが荒唐無稽か? まったく特別なことだとは思わないぞ」 「いやもちろん、ささやかだからたいした願いじゃないと言ってるわけじゃないんだが」 「分かってる。でも私にとって、君らと出会ってからの毎日は、あまりにも夢に描いていた情景そのままで……」 「とても得難い、とても大事な、そういう分類になってるんだよ。つまり思い入れが違うのだ」 どことなく威張ったようにこいつは言うので、俺は負けじと言い返した。 「まあ、確かにそうかもしれないが、俺たちだって、今あるすべてを当たり前だと思っているわけじゃないぞ」 それが大事なものだということくらい、誰に言われずとも分かっている。 「ああ、そんな君たちだからこそ、私は今を貴重に思えるんだ」 「と、なんだか我ながら臭すぎるな。少し恥ずかしくなってきた」 そこはまったく同感で、俺と石神は苦笑しあう。そんなこちらを指差しながら、囃し立てている他の面々。 そちらへ一度目を向けてから、再び石神は口を開いた。 「あとはまあ、ああいうことだ四四八くん。荒唐無稽だと言ったのは、そういう理屈」 「うん?」 ちょっと、意味が分からない。こいつは何を言っているんだろう。 「たとえばこれ、君と私はフォークダンスをしているわけだが、きっかけは王様ゲームというやつだったよな」 「ああ、それが?」 いわゆる王様の命令は絶対というやつで、俺と石神が今こんなことをしているのは、言ってしまうと罰ゲームに近い。 「だけど、君と踊りたかったという女子は、他にもいると思うんだよ。水希や、歩美や、鈴子や、晶……」 「そんな彼女たちにしてみれば、石神静乃は憎らしい奴だと思うんだ。これに限った話じゃない。下宿の件にしろ、先の演劇についてもそう」 「最初はその手の機微を全然分かっちゃいなかったが、最近はそうでもない。だからこそなおさら思う」 「これは奇跡だろうって……普通、こんなに和気藹々とはならないんじゃないのかなって」 だから夢みたいだと、石神は気恥ずかしそうに呟いた。 「いやしかし、おまえ、俺はな……」 「すまないが四四八くん、ここは私に話させてくれ。色々言いたいことはあるだろうが、今は少し堪えてほしい」 「とにかくそんなわけで、現状の私たちは稀有なバランスになっているんだ。それが続けばいいだなんて、荒唐無稽な願いだろう?」 「正直、虫が良すぎるくらいだと思わないか?」 「…………」 言われている内容が内容なので、非常にコメントが難しい。ある種、己の優柔不断をからかわれているような気にもなってくる。 「よく、言うなおまえ。未だに許婚がどうだとか、隙あらば言ってくるくせしやがって……」 だから、なんとかようよう皮肉らしきものを返したのだが、当のこいつは何処吹く風。 「あはは、うん、それはすまない」 「だが分かりにくいかもしれないけど、私の中で矛盾してはいないんだぞ」 「なぜなら四四八くん、君のことは好きだけど、別に独占したいと思っているわけじゃないんだから」 「大勢いる嫁候補の一人として、今後も可愛がってほしいと思う。そして私も水希たちと、隔意なく付き合っていきたいと願う」 「こういう主張は、男子一般にとって都合のいいものなんだろうが、君のようなタイプにとっては苦しかったりするんだろう」 「情けない気分になったり、自己嫌悪したりするのかもしれない」 「だから君が自分を責めなくてもいいように、私たちは幸せだという夢が見たい。もう少し、可能な限り」 「せっかく、ここに奇跡のバランスがあるんだから」 続けばいい。崩れないでほしいと、石神は祈るように結びをつけた。 「おまえ、なんかタチ悪いな……」 「かもしれない。幻滅か?」 「そういうわけじゃないんだが……」 俺がこいつに抱く気持ちは、正直なところ複雑で。 「劇でもやったが、君の曽祖父は結局誰と結ばれたのかが不明だろう? それに重なる状況みたいで、なんだか嬉しく思うんだよ」 こいつが見ているのは俺じゃない。その事実に対する、なんとも歯がゆいような〈齟齬〉《そご》だった。 「はいそれまでー! 時間よ時間。次の勝負始めるから、さっさと戻ってきなさいあんた達」 「今度こそ、絶対わたしが王様引いてやるもんね!」 「私が引いたら……よし、よし、マジに一発カマす!」 「怖ぇよおまえら……目が据わってんだろ正気に戻れよ」 だが、それをこの場で言及することは出来なかった。凄い剣幕で呼んでる連中が存在するし。 「とにかく、今夜はありがとう。とても楽しい文化祭だったよ、忘れない」 「……ああ、俺も楽しかったよ」 平和な夜も、しょせん束の間。 おそらく明日かその辺りに、次のタタリが顕れるだろうと俺たち全員が知っていたんだ。  殺人鬼――陳腐な言葉だ。手垢で黒ずんでいると言っていい。  だがそれは、そう感じてしまうほどに、その手の者らが存在したという事実を示す。  現実であれ、夢であれ。  人を殺す鬼。人でありながら人に非ずと評されるような存在は、それゆえに普遍的でおそらく永劫消え去らない。  なぜなら人類の歴史は死に満ちている。同属で殺し合うのは人の専売特許でないものの、動機や手法、意味その他の多様さに関してなら、人間ほど複雑な種は他に見当たらないだろう。  よって殺人鬼と呼ばれる者たちも同様に種類が多く、一口に纏められるようなものではない。  ある者は純粋な娯楽として。  またある者は哲学の体現として。  欠けた何かの代償行為であったり、怒りや悲しみの爆発であったり。  あるいは、何も考えていなかったり。  古今東西、溢れ返る殺人鬼たち。そこには本物も偽者もなく、レベルの高低を問うものでもない。  だが、あえて別けるとするなら基準が一つ存在する。  それは、根源的に人を愛しているかいないかだろう。  人間は進化の過程で共存したほうが有利であると結論し、ゆえに群体的な性質を持つに至った。  愛とはそこから生まれた概念である。互いに慈しみ、愛し合うことで守り合い、殺される可能性を低くしていくためのシステムとして成立させた。  自分が殺されたくないから殺さない。至極単純な論法で、それを効率的に回すのが愛だろう。だから、愛し愛されることはこの上なく気持ちいい。  そうしたことから、人を愛さない殺人鬼は協力より裏切りを好み、周りを出し抜いて利用することに重点を置いている。  それは一種の先祖返りに近いもので、まだ人が群体ではなかった頃の精神を有しているのだ。  学術的には、サイコパスと呼ばれる存在。  自己中心。共感不全。つまるところ原始的な、より動物に近い者たちと言えるだろう。  身近に例を挙げるなら、逆十字の血統などがまさにそれだ。彼らは人を愛さないし、その手のことを気持ち悪がる。  では逆に、人を愛する殺人鬼とはどんな者らか。端的に言うと、極度の寂しがり屋である。  不器用な彼らは殺人という行為でしか外の世界と繋がりを持てず、ただ単純に他が出来ない。もしくは知らない。  赤ん坊が泣くことですべての感情を表現しているように、彼らは殺すことでしか人と関われないのである。  だからこっちを見てくれ、見てくれと言いながら殺している。  タブーを犯しているのが分かっていても、他に手がないからやめられない。やめて繋がりを断たれてしまうのが耐えられない。  君に触れたくて。触れられたくて。  すなわち、ああ――愛しているから。  たとえどれほど歪であっても、何より共存を望んでいるのだ。  これは、そんなとある殺人鬼の夢。  人を愛し、愛されたくて、だけど愛の概念を体現することが出来なくて。  それを探し求めている。ずっとずっと、果てて消え行くそのときまで…… 「どうやら私には、心というものが無いようだ。  少なくとも、その何たるかを見出せていないのは確かだろうと分析する」  自らの在り方について述懐する彼女の姿とその声は、この夢を見ているすべての者らに等しく届けられていた。  靡く金髪。怜悧な微笑。悲観的なことを言いながら、声音はどこか楽しげだ。しかしそこから伝わる印象は、周りを和ませるようなものではない。  磨かれた刃で首筋をなぞるような。  銃口を覗き込んでしまうような。  破滅を予感させる昂揚に精神が掻き立てられる。  これに触れて、触れられたら死ぬ――だからなおさら魅せられる。  言うなれば、死への憧憬。  そういう普遍的な感慨を呼び起こさせる女性だった。 「道理は分かる。理屈も分かる。私がいわゆる悪性だというのも理解している。  だが、私はやめられない。他に方法を知らないんだよ。いや、正確には納得が出来ないのかな。  とかくこの世は不平等だ。不条理、不整合に溢れている。おまえは私を機械のような女と言ったが、否定はしない。  ああ、そうだとも。機械だからな。作りの乱れているものを見るのが甚だ我慢ならないんだよ。私を動かしているのはそういう衝動。  心ではないな。単一の、同じ音しか出さない機能だ」 「よって、平等を体現するなら殺すしかないだろう。私も、おまえも、彼も、彼女も――必ず死ぬ。  その一点のみ、貴賎も上下もない摂理なのだと思うから」  死こそが救い。死こそが唯一普遍なもの。神が与え給うた〈愛〉《マコト》である。  ゆえに殺すことが世界に対する己の処し方。彼女はそう言い切っていた。  しかし、そこには歪みがある。明確な論理の破綻が存在しており、彼女もそこは自覚していた。 「ああ、その通り。一番作りが乱れているのは、言うまでもなくこの私だ」  人との、世界との繋がりを持ちたい彼女が、殺人という群体の禁忌を犯さないとそれを実感できないこと。 「矛盾であり、間違っている。先の論に照らして言うなら、私こそが私を殺すべきだろう。  その衝動は今もある。このみっともない出来損ないをぶち壊してしまえと歯車が回っているよ。だからおまえにこんなことを話している」 「おまえは私のことが嫌いだろう。危険な奴だと思っているだろう。その直感は間違っていないと、懇切丁寧に説明している私は自殺志願者だな。  だからここでおまえに殺されても、そこそこに本望だろうと予想する。  しかし、あえて抗いたい。足掻くよ、私は――まだ死ねない」  命乞いと言うにはあまりにも決然として、執着と言うには悲しいほどに他人事めいていて。  心が無いと言った彼女は、その何たるかをずっとずっと追い求めている。 「愛とは何なのか。人が共存していくために生み出した概念なのは分かっているが、それは方程式を解いただけだ。  そこに生じるエネルギーの本質を私は理解も実感もしていない。だから矛盾した行為に走っている。  どうすれば愛せるのか。愛されるのか。その力を持っていると言えるのか。  知りたいがために、私は邯鄲を制覇する」 「その果てに得られる、私だけの人間賛歌があるのだろう。結局今のように、理屈が先行するだけかもしれないが…… 方程式を解くだけで、エネルギーの実感は出来ないのかもしれないが」  それでも、少しは作りの良い機械になれるのかもしれない。  あるいは、なんとか人間と言ってもいいようなものに。  そう呟いて、彼女は―― 「クリームヒルト・レーベンシュタインは、必ず第三番目の盧生となる。  そのとき、私が紡ぐ夢のかたちをおまえに命名してほしい。  それがおまえにとって悪しきものなら、戦うことになるのだろうが……」  明らかに慣れていない、とても苦労して作り上げようとしているのが分かるぎこちなさで。 「ヨシヤ、私はそうならなければいいなと思うよ」  微かに、切なくはにかんでいた。  それは死神と呼ばれた彼女が殺人以外で他者に送る、初めての親愛表現だったのかもしれない。 「ミズキ、ミズキ……なあおい、ミズキ……」 「聞こえているか、ミズキ」 「私はおまえを……」 「おまえと、一度……」  ああ、まただ。何処からともなく自分を呼んでいる誰かの声。  これが聞こえるようになってから、いったいどれくらいになるだろう。  発端は曖昧すぎて分からないけど、確かなのは徐々に強く、鮮明になっていくということ。  今やもう、それは間近で語りかけているくらいにはっきりしていて…… 「ミズキ……」  私はこの声にシンクロしていく。  あなたは誰なの? どうして私を呼んでいるの?  この現象にどんな意味があるのだろうかと、考え、だけど分からなくて…… 「――水希!」 何度呼んでも応えない世良に業を煮やして、ついに我堂が声を荒げた。 「え、や……ご、ごめん。なんの話だっけ?」 ようやくこいつは、弾かれたように飛び上がりつつ俺たちのほうへ向き直った。 「今夜出てくると思しきタタリのこと。それについての話し合いをしている最中だろ。ぼうっとするなよ」 「まったく、あんたらしくないわね。どこか体調でも悪いわけ?」 「う、ううん。そんなことは全然ないから、気にしないで」 「それに、そうそう、タタリだよね。大丈夫、聞いてるから」 俺たちの突っ込みにあたふたしながら居住まいをただし、頷く世良。そんなこいつに、全員が溜息を吐いていた。 「あのさ、ほんと今さらだけど、なんか悩みがあるんだったらちゃんと言えよ? おまえがそういうの溜め込むと、すげえ面倒くさいことになるんだから」 「同感。頼むから爆発するまで抱え込むっつうのは無しにしてくれ。経験上、手に負えなくなっちまうのが見えて怖ぇ」 「そうそう。昔も一度あったもんね」 「例のストーカー事件だろ? ありゃあ今思い出しても滅茶苦茶だったよな」 「それは興味深いな。どんなことがあったんだ?」 「あんまり軽々しく話すようなものでもないんだが……俺たちが千信館に入学する前のことだ」 栄光が言ったとおり、ざっくり説明すればストーカー事件であり、世良に惚れた男が色々やらかしてくれたというものだ。 この手の事件ではよくあることだが、世良はそいつとほぼ面識をもっていない。すれ違ったとか挨拶したとか、その程度のことで向こうが勝手に燃え上がり、以降は歪んだアプローチを繰り返したという流れ。 「そのへん、かなり変質的な奴でね。おまけに巧妙だから、周りも中々気付かなくて」 「当のみっちゃんが誰にも言わないもんだから、どんどんエスカレートしていったんだよ」 「それで、結果は?」 「俺の家に火をつけられた」 「なッ……」 絶句する石神に、肩を竦めてネタじゃないぞとアピールする。世良の問題をこうして問われるがまま話しているのは、俺も当事者として巻き込まれた身だからだ。 「つまり、あの野郎がいなくなれば愛しの水希ちゃんは僕のものだー、と思っちゃったんだな、ストーカーは。一番派手だったのは四四八だけど、あたしらも嫌がらせはされてたよ」 「ポストに犬猫の死体とかな。定番なんだろうが、実際やられるとびびるぜあれは」 「結局うちは、母さんがすぐに気づいたから〈小火〉《ぼや》ですんだが、一歩間違えれば殺されてたよ」 「ううぅ、それはほんとにごめん」 当時を思い出したのか、申し訳なさそうに世良が縮こまっていく。一番悪いのは言うまでもなくストーカーなので不要に責任を感じてほしくはないが、もう少し早く相談してくれればよかったのに、というのが俺たちの総意だ。 「なるほど、みんな本当に災難だったな。話に聞いたことはあったけど、ストーカーというのはそんなに困ったものなのか。私も気をつけないといけない」 「いや、おまえは大丈夫じゃねえの? なんか一瞬で捕まえそうな気がする」 「それで、堂々とお説教始めそうだよね。君の気持ちは嬉しいが、手段を間違ってはいけない――とか」 「そんで向こうも毒気抜かれるみたいな感じか。ああ、リアルに想像できるわ」 「確かに」 俺もまったく同感だったので、思わず笑ってしまった。 「むぅ、なんだか馬鹿にされてるみたいで複雑だが、その後ストーカーはどうなったんだ?」 「簡単に言うと、信明のお手柄よ。あの子が一番早く、真相に気付いたの」 「だから、ターゲットとして一番やばいのは柊だろうって思ったあの子は、要するに張り込みをしてたのね。そこで放火直後のストーカーとご対面」 「おおっ、そしてそのままヒーローのようになぎ倒したと――」 「まあ、マンガとかならそうなんだけどさ」 「あいつ、逆に殴り倒されちまったんだよ。でも、ボコボコにされながらかなり粘ったみたいでさ」 「その間に俺と剛蔵さんが駆けつけて、一気に御用。そんなところだ」 ちなみにクソ親父は一番最後に出てきて、一番何もしていないくせに一番偉そうにしていた。 それはともかく。 「けど、我堂も言ったが、あの件に関して一番のヒーローは信明だったと俺は思うぞ。強いて文句をつけるなら、気付いてたんなら俺に言えよというくらいで」 「そのへん、やっぱ姉弟だよなあ。変な風に似てるっちゅうかさ」 「そういうわけで長くなったが、改めて訊くぞ世良」 「本当に、大丈夫なんだな?」 「うん。平気だから気にしないで、ありがとう」 「平気、ね」 それは何もないわけじゃないという意味にも取れたが、ずっとこのことを話しているわけにもいかなかった。今の俺たちには、もっと面倒な問題が目の前にある。 「分かった。じゃあ切り替えよう。それで今夜のタタリだが……」 文化祭から一日経ったこの夜、周期的にも悪夢の顕象が成されるのは間違いないと思っていたが、対策の面で俺たちは行き詰っていた。 「今、話題になっている夢の内容はクリームヒルト。そういうことでいいんだよな歩美?」 「うん。甘粕事件の話はもう一通り終わったみたいで、今はその後が夢に流れてる感じみたい」 「つまり、満州での柊四四八が何をやっていたかって内容だよね。そこでの登場人物にクリームちゃんがいて」 「だからクリームちゃんって……おまえその呼び方やめろっつうの。気が抜けんだろ」 「とにかく、今はそいつが大人気っていうわけだ」 クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン――曰く死神。殺人鬼。 俺の曽祖父や甘粕正彦とも肩を並べる第三の盧生。 ある程度、欧州の文化に詳しい奴なら即座に分かることだろうが、クリームヒルトは女性名だ。原典に遡れば、由来は伝説的英雄の妻。 〈冥界〉《ヘルヘイム》という禍々しい冠にはそぐわない気もするが、石神が聞いていた情報からも女であることは間違いないらしい。 「まったく、ほんとに男っていうのは馬鹿ばっかりね。キーラのときもそうだったけど、見た目がいい女だったら中身はなんだって構わないのかしら」 「そこは耳の痛い話だが、愚痴を言ってもしょうがないだろう。もし本当にクリームヒルトが出てくるんなら洒落にならない。何せ二つ名が死神だぞ」 「キーラのときより朔も進行しているんだ。きっとタタリとしての力は跳ね上がっている」 それに、忘れてはならない事実が重く俺たちに圧し掛かった。 「相手は盧生……なんだもんな」 おそらく四等と石神が判断したキーラでさえ、タタリが拡散することで十人以上の犠牲者が出た。 ならば今夜のクリームヒルトは、それより二周り以上の影響力を持っている。しかも晶が言ったとおり、相手は盧生だ。眷族にすぎない俺たちとは根本的に格が違う。 つまり、この場の問題とはそういうことだ。かなり危険な状況だと分かっているのに、具体的な対処法が見つからない。 さっきまで、世良の昔話でどこか和んでいたのは一種の現実逃避に近かった。今は全員、どうすればいいんだという思考の袋小路に陥っている。 「だが……」 だからって、尻尾を巻くわけにはいかないだろう。それもやはり、俺たちの総意だった。 「思うんだけどな。盧生が本当に雲の上にある存在で、俺たちの手に余るというなら、そもそもタタリになんかならないんじゃないかという気がする」 「ただの希望的観測というわけじゃなく、ある程度の理屈を立てた上での意見だ。何にでも言えることだが、基本的に格下が格上を弄ぶなんて真似は出来ない」 「もし本当のクリームヒルトが現れたら、確かに絶望的だろう。しかし、本物じゃなかったら?」 「なるほど。鎌倉の一般人たちによる妄想ごときで、盧生たる者が好きに弄くり回されるはずはない、と」 「つまり、今夜クリームヒルトが顕れても、それは妄想主たちの身の丈にあったレベルに改変された偽者で、劣化している。そう言うんだな?」 「ああ。この考えに、おまえらは何か破綻を感じるか?」 問うと、全員が神妙な顔をしてから、一様に首を横へと振っていた。 「ううん、四四八くんの言うとおりだと思う。それこそ格の問題だよね」 「二次創作じゃあ超えられない壁っていうのは、当たり前にあるでしょうよ。私もあんたに同感よ」 「逆の見方をすれば、仮に本物と同レベルの奴が出てきても、それは盧生なんかその程度っていう証明だろうよ」 「だな。寄って集まりゃあどうにか出来るっつうことだもんな」 「だったら、あたしらの力を合わせれば勝てるはず」 「ということになるな。うん、論理的だ四四八くん」 「ま、そう言ってくれるとありがたいよ」 しょせんは仮定。推測にすぎないと言われればそれまでだが、相応に精査して出した考えなので的を外してはいないだろう。 もとよりやるしかないのだから、いつまでもネガティブなノリではいけない。前向きに気分を上げるというのは大事なことだ。 まだ俺たちの知らない何かが絡んでくる可能性も捨てきれないが、そこまで考え出したら疑心暗鬼で一歩も動けなくなってしまう。 とにかく今は、今夜を絶望だと思わないこと。光明があると信じることが出来たのだからそれでいい。 「しかしそうなると、肝になるのはもう一つの問題だな」 「クリームヒルトは、甘粕事件に登場しない」 「彼女の舞台は満州だから……」 すなわち、〈鎌倉〉《ここ》に縁の地を持たない。それは、何処に顕れるか分からないということになる。 「ああ、そっか。そういやそれが問題だわ。当てがまったくないじゃんか」 「出てくりゃ察知も出来るだろうが、場合によっちゃあ取り逃がすか……」 「そうなったら、何人殺されるか分かったもんじゃないわよね」 「ちょ、だったらいったいどうすんだよ?」 「手分けして、てわけにもいかないし……」 こっちはこっちで、非常に由々しい話だった。甘粕事件に登場しない存在を、鎌倉の地理に当てはめて考えることは出来ない。 よって完全な盲滅法。ここまで俺は、ずっとそのことを考えていたが、まったく当たりをつけることが出来ずにいる。 それは他の皆も同じみたいで、再び重い沈黙が場を包み始めたのだが…… 「あの」 おずおずと発せられた世良の声に、俺たちはそろって弾かれたように顔をあげた。 「あ、その、そんな一斉に見られても困るんだけど……」 「水希は何か予想がついたのか?」 「うん、だけど……ほんとになんとなく思っただけだから、全然保証はできないっていうか」 「いいから、言ってみろ」 この際、ただの勘でもいい。それでも行き当たりばったりよりは随分ましだ。 そう言って促すと、世良は自信なさげな上目遣いでぽつりと言った。 「〈円応寺〉《えんのうじ》……」 「なんじゃないかなあ、って」 「――――――」 「あっ――」 「――そうかっ」 同時に、俺と我堂と石神が反応した。なぜならおそらく、いいや間違いなく、世良の読みは当たっている。 「なんだよ。円応寺がどうかしたのか?」 「馬鹿ね。あんた、あそこに何があるか知らないわけ?」 「河童のお墓?」 「え、マジで?」 「阿呆、それは別の円応寺だ。ていうか、なんでそんなことは知ってるのに地元のことは知らないんだよ」 「いや、だって仕方ねえだろ。地元民ほど地元の名所なんかは行かねえもんだし」 「ええい、ほんとにこの馬鹿ども!」 説明している時間も惜しい。幸いなことに、円応寺は〈段蔓〉《ここ》からそう遠くないのですぐに向かおう。 「行くぞ、話は走りながらだ!」 「ええ、ちょ――だからいったい何なんだよ!」 未だ理解していない連中を引きずりようにして、俺たちは駆け始めた。 鎌倉円応寺――そこにあるものはクリームヒルトに関係がある。 「閻魔大王。冥界の十王が祀られている寺なんだよ」 すなわち死の神――ならばこの鎌倉で、ヘルヘイムが顕れそうな場所はそこしかなかった。 そうして、五分も掛けずに目的地へ到着。円応寺に至るための階段を、いま俺たちは見上げていた。 「この上だ。こうして見る限り、特に変わった様子はないが」 「どうかしらね。私からは、嵐の前って風にしか見えないけど」 「まあ、とにかく行動だ。先回り出来たんだから、今のうちに地の利を押さえておきたい」 石神の言葉に頷いて、俺たちは円応寺の階段を上り始めた。 「しっかし、なんだな。水希もよく気付いたもんだぜ」 「あ、鎌倉民だったら気付いて当然っていうのは無しな。だって四四八も、言われるまで分かってなかったんだからよ」 「それでおまえらの無知がフォローされるわけじゃないが、迂闊だったのは認める」 「そーそー、むしろ知ってたのに分からなかったんだから、四四八らのほうが抜けてるよな」 「うるさいわね。言い返せないのが凄いムカつくわ」 「ま、なんにしろお手柄じゃねえか世良」 「うん、今夜のことが片付いたら、わたしが表彰状作ってあげる」 「ああ、ははは……」 などと、皆に褒められながらも、世良の表情はどこか曇っている。 「おいおまえ、本当に大丈夫なんだろうな? ちょっと顔色も悪く見えるぞ」 「え、そうかな? 気のせいだよ気のせい」 「…………」 これは、やはり看過できないものかもしれない。石神が言うとおり、先回り出来たんだから今のうちに余計な不安材料は消しておこう。 「世良、もういいからさっさと話せ。それがどんなくだらないことでも別に構わん」 「場合じゃないとか、もっと大事なことがあるとか、おまえは空気読んでるつもりなのかもしれないが、結果的にまったく読めてないのが世良水希というキャラクターだ」 「有り体に言うと、こっちは気になってしょうがないんだよ」 「うわ、ひどいな柊くん……」 「でも、確かにそうなのかもね」 困ったように苦笑しながら、まだ迷いを残している感じだったので俺は続ける。 「これが最後だ。話せよ世良」 強くそう促すと、世良は一度目を閉じてから、深呼吸すると再び開いた。 「分かったよ。本当に上手く説明できないことだから言えなかったんだけど」 「声がね、ただ聞こえるの」 「声?」 予想外の内容に、俺は思わず鸚鵡返した。 「うん、私を呼んでる誰かの声。はっきり自覚したのはつい最近だけど、ほんとはもっと前から呼ばれてたのかもしれない」 「〈円応寺〉《ここ》に来たのだって、なんとなく声が導いているように感じたからで……」 だったら、それはどういう意味のことなんだ? 深く追求しようとした俺だったが、そのとき石神が横から制した。 「しっ、非常に興味深い話だが、もっと分かりやすい異常が起きてる。気付かないのか君たちは」 「え?」 「なんだ石神、藪から棒に」 「だから、〈私〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈階〉《 、》〈段〉《 、》〈を〉《 、》〈上〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》?」 「―――――」 その指摘に、全員がはっとなり絶句した。そうだよ、これはおかしすぎる。 円応寺に至る階段は、見ての通りまったくたいした長さじゃない。せいぜいが二十段かそこらだろう。 さっきから話しながら上っている俺たちが、未だ頂上まで辿り着けないなんて馬鹿げたことが普通に有り得るはずはない。 「創界?」 「あるいは。どうする四四八くん」 「走るぞ――無謀かもしれんが、まずは突っ切る」 了解、と皆が頷き、そのまま俺たちは全速で階段を駆け上がり始めた。 これが何かの創界に嵌められた結果としたら、立ち止まって後手に回るのは危険すぎる。なのでこちらから積極的にアクションを起こし、その中で状況を見極めねばならない。 「近づいてるな」 「ああ、どうやらたいしたものじゃない。このまま一気に抜けられる」 進行は遅々としてだが、それでも確実に頂上が近づいていた。 問題は、先回りしたと思っていたが、実際は待ち伏せされていたらしいということ。よってこの階段を上りきれば、俺たちは虎穴に入る羽目となる。 「全員、警戒を怠るな。何があっても即応しろ!」 叫び、いよいよ頂上へと踏み出そうとしたそのときに―― 「あ、駄目! 止まってみんな!」 「――え?」 不意に停止を告げる世良の声は、だが僅かに遅かった。 「なッ――」 階段を上りきったその瞬間、爆発した白い闇が俺たち全員を呑み込んだのだ。 それは五感のすべてを一気に奪い、自我さえあやふやになるほどの凄まじい奔流。明確な攻撃ではなかったが、桁が違うというのを感じずにはいられない。 まさに御業だ。言わば神威。 あの地下風穴で触れた、曽祖父の意志力に勝るとも劣らない。これこそ盧生が紡ぐ普遍の顕象なのだと確信して…… 「ミズキ、ミズキ……さあ、こちらへ」 クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。 こいつは理屈抜きに本物だ。 まともに対峙し、俺たちの手に負える相手じゃない。 「―――――」  ホワイトアウトに翻弄されていたのも一瞬、再び五感を取り戻した水希の前には、冗談のような光景が広がっていた。 「なに、ここ……?」  さっきまで、自分は何処にいて何をしていたのか。そんなことさえ咄嗟に分からなくなってくるほど、目に映るすべてが現実から掛け離れている。  それは城……いいや、宮殿とさえ言える建築の内部だった。しかも、見るからに東洋のものではない。  寺への階段を上っていたということをようやく水希は思い出したが、だからといって何の慰めにもならなかった。常識から外れすぎて、まったくリアクションがとれないのだ。  創界ではあるのだろうが、規模と精度が違いすぎる。かつて体験した狩摩のものは言わば概念系の世界だったが、これはひたすら物質的。  つまり、脅威的な〈形〉《ぎょう》を下地にしたうえでの界なのだ。踏みしめた床の感触は偽りなく確かなもので、奇妙な言い回しになるがこの上なく現実的。  だからこそ、異常が際立つ。ここはそんな空間だった。 「これ、辰宮の屋敷より大きいんじゃないの……?」  ようやくまとな言葉を発することが出来たものの、それは伽藍に反響するばかり。他には誰も何も応えない。 「そうだ柊くん、静乃――」  思い当たって周囲を見回す水希だったが、仲間たちは一人もいなくなっていた。この広大な宮殿で、彼女は単独となっている。  皆は何処に行ったのか。どうして自分は一人なのか。湧き上がる疑問は数多あったが、それを断ち切るように一言。 「――ミズキ」  例の声が、この宮殿そのものの意思であるかのように響いたのだ。 「待っていたよ。さあ早く語らおう。私のもとへ―― 来てくれ、ミズキ」 「――――ッ」  幻聴、空耳の類ではない。ここにきて、水希はようやく事態を悟った。 「全部、あなたがやったのね。  ずっと私を呼んでいたのも、こんな所に連れ込んだのも」  そして、と拳を握り締めつつ水希は言った。 「みんなを、消してしまったのも」 「ふふ、はは、ははははは……」  返答は、控えめだが楽しそうな笑い声だった。それだけで相手の容姿を想像できてしまうような、華やかだが鋭利な印象。  貴族然とした気配なら夢の百合香も纏っていたが、あれとはまた種類が違う。端的に言って、こちらが本家だ。  つまり、古い意味での貴族らしさ。王侯が戦士としても一線級でなければ成り立たなかった時代のような、硬骨とした世界観を声の端から滲ませている。 「消すとはまた、人聞きの悪い。彼らは少々、隔離させてもらっただけだ。  おまえとの語らいを邪魔されてはつまらんのでね。物の数ではないが、私は少々抑えが利かない。つい殺したくなってしまう。  そこは話に聞くアマカスと同じだよ。いいやそもそも、我々は等しくそういう面を持っているのだ。要するに子供でね。  馬鹿者なのだよ。分かるだろう?」  今、この相手は自らの正体を暗に示した。水希は知らず息を呑む。  これは、やはり予想通り。 「クリームヒルト……?」  第三の盧生。もはや間違いのないことだった。 「ヘルと呼んでくれよミズキ。おまえも、ヨシヤも、私をそう呼んでいただろう。 今さら他人行儀は無しにしないか?」 「それは、だって私と関係……」  ないだろうと言いかけて、水希はだが留まった。どうやらこの相手は、自分と曾祖母を誤認しているらしい。それを正すのは危険と感じる。  なぜなら、四四八たちを隔離したと彼女は言った。邪魔をされたら殺したくなるからと。  つまり裏を返せば、現状において殺す気はない。  それは本人も言っている通り水希と話がしたいからで、クリームヒルトが求めているのは百年前の世良水希。  だったら、ここで間違いを正してしまうと前提が崩れ去る。四四八たちがどんな目に遭うか分からない。 「……分かった。お誘いに乗ってあげる。私は何処に行けばいいの……ヘル」  自分が偽者だと気取られてはいけない。精一杯虚勢を張って、友人に対するような気安い態度を水希は取った。  どこまで通じるか不明だが、誤認し続けてもらいたい。それは自分にとっても、ある種のアドバンテージになるはずだろう。 「真っ直ぐ、ただ道なりに進めばいい。正式に招いた客を惑わすような真似はしないさ。  待っているぞミズキ。早くおまえと語らいたい」  そうして、再び場に静寂が降りてきた。水希は一度深呼吸すると、両手で自分の頬を叩く。 「――よし」  気合い完了。根本の因果は不明だが、とにかくご指名は自分である。  仲間と離れ離れになったのは不安だが、だからこそここで皆を救わなければならない。 「ごめんねみんな。もっと早く相談しておけばよかったね」  言っても何も変わらなかった率はきっと高い。  だが問題はそういうことじゃないのだ。  負い目、後悔、後ろめたさ……そういうものを引きずったまま、難関を越えることは出来ないから。それをよく分かっているくせに、自分という奴はまったくもう。 「あとでいっぱいお説教は受けるから、とにかくこの場は私に任せて。  頑張らないといけないから、ここにひとまず後悔は置いていく」  前向きに、気を強く持て。今、四四八たちを助けられるのは自分しかいない。  そう強く言い聞かせて、水希は無人の宮殿を歩き始めた。 「それにね……」  なぜだか自分でも分からないが、徐々に湧き上がってくる気持ちがある。  それは熱く、胸を焦がし猛るような……絶対退きたくないという強い思い。 「負けたくない。この相手にだけは、どうしても…… おかしいよね。だけど、それが私の本音なのよ」  宣言するようにそう呟き、水希はただ歩き続けた。  一歩、一歩、その都度に、ここの主へ近づく感覚と、相手に対する闘争心を湧き上がらせて。  世良水希という人間にとって、それは甚だ珍しい感情だが、しかし彼女は超然とした人格者というわけじゃない。  むしろ狭量な部類だし、足りないものはたくさんある。基本、偏りのある性格だから、たまに爆発するときは大噴火だ。  今がそのときで、予兆を感じる。これはある種、因縁の対峙かもしれないという感慨と共に…… 「入るわよ」  水希は、宮殿の最奥に通じる扉を押し開けていた。  目の前に広がるのは玉座の間。そして、そこに待ち受けていた人物を見咎めたとき、水希は小さく息を呑んだ。 「あなたが……」  クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。  漆黒の軍装に身を包み、豪奢な金髪を靡かせながら不敵に笑っているその女性は、有り体に美しかった。容姿の面で欠点らしいものは見つからない。  だが、水希を戦慄させたのはそういう意味のものじゃなかった。これはおそらく、同じ女にしか分からない感覚だろう。  〈ク〉《 、》〈リ〉《 、》〈ー〉《 、》〈ム〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ト〉《 、》〈を〉《 、》〈羨〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。こうなりたいとか、憧れるとか、持てる者に対する憎たらしさや劣等感、まったくそういう思いを掻き立てられない。  たとえば、かつての辰宮百合香だ。あの美貌。妖気。匂い立つ魔性の気配は確かに危険だと感じたが、女なら羨ましいと必ず感じる。  程度が狂っているとはいえ、化粧をしたりお洒落をしたり、そういう女を磨く行為の延長線上にあれはいるのだ。  しかしこれは、喩えるならまるで兵器。  磨き上げられた無謬の砲身。稼動する鋼鉄の歯車による集合体。  通常、人間の心や振る舞いには強弱と濃淡が必ずある。それが織り成す調べによって、愛や憎しみといったメロディーを奏でるのだ。  にも関わらず、クリームヒルトから感じるのはただ一音だけ。  ひたすら巨大で、重く激しい単調な轟音。  この人物には心が無い。少なくとも、その何たるかを見出せていない存在なのだと水希は悟った。  殺人鬼――なるほど確かにそうなのだろう。  彼女にとって、人間は皆同じもの。差異を感じられないから、死神のごとく一様に処してしまう。あるいは、差を無くすために殺すのかもしれない。  だが、だとしたら、なぜわざわざ自分を指名し、呼び出したのか。  第三の盧生にとって、特別という概念はおそらく存在しないはずなのに。  もしやこれが、タタリとして顕象された結果の歪みか? 曰く二次創作だから、劣化している部分だとでも?  改めて警戒を強める水希に対し、〈死神〉《ヘルヘイム》は朗らかな笑みを浮かべて歓迎の意を示してきた。 「ようこそ。私の城はあまりお気に召さんかね?  まあ、無理もない。基本、生者が立ち入るところではないからな」  死者の国。すなわち冥界なのだろう。水希はなんとか呑まれないように心を立て直し、口を開いた。 「それで、私にいったい何の用が?」 「強引に連れ込んだんだから、それくらいの説明は惜しまないわよね、ヘル」  曾祖母ならこんな風に言うのかな? 頭の中で模索しながら、水希は会話の主導権を掴みに掛かる。分からないことだらけだが、いちいち翻弄されるわけにはいかない。 「ふむ、何の用か。そういえば説明していなかったな」 「おまえも知っている通り、私は些か粗忽者だ。人情の機微というものに疎いので、それを学びたいと思っているが、これが中々上手くいかん。  ゆえに、最初はどうしても理屈で動かざるを得んのだよ。現状、正直に言うとおまえに興味は持っていない」 「ええ、それはそうでしょうね」  というか、他の誰にも興味なんかないだろう。最初に感じた印象どおり、これは機械か現象の類だ。感情に基づく選択はしないし出来ない。  ここに来る前、邪魔をされたら四四八たちを殺したくなると言っていたのも、要するに障害排除という機械的な衝動だろう。優先順位は弁えているから、彼らを隔離するという手段を採ったにすぎない。  だがそれも、状況次第で覆される危ういバランス。これもやはり聞いた通り、甘粕正彦と似た属性を持っているのだ。いざとなったら、平然と目的をご破算にしてしまう大馬鹿者。  機械だが、精密ではない。だからこそ恐ろしい。  それがクリームヒルト・レーベンシュタイン。  だがそうなると、二次創作の劣化はしていないと考えられる。ならばこれは、本当にタタリなのか? 「色々訊きたいことはあるけれど……」  そのあたり、深く突っ込みすぎるとボロが出そうな気がしてならない。朔がどうだのという話になれば、クリームヒルトの時代から百年経っている事実を語らざるを得ず、連鎖でこちらの正体がバレる。  ゆえに、なんとも悩ましい事態だった。ともかく質問できるところから突いていき、そこから全体像を掴むしかない。 「あなたは理屈に則って、私を呼び出したということなんでしょ? ならそれは、いったいどういう意味なのかしら?」 「私と接触することが、曰くあなたの勉強にとって何の価値を持っているの?」 「それは決まっているだろう」  問いに、クリームヒルトは一秒の間も置かず即答した。 「おまえが私と同じだからだよ」 「……は?」  なんだそれは。まったく意味が分からない。  いったい我が曾祖母は、この死神に見初められる何をやらかしたというのだろう。  当惑する水希を他所に、クリームヒルトは話し続ける。 「これはヨシヤも知らんことだがな、私にとって八層の試練はまだ終わっていないんだよ」 「答えを見出すことで悟りは得た。そういう意味で私は確かに盧生だし、アラヤもこの手に握っている。  だが言ったように、私はどうしても理屈が先に立つ存在だ。方程式を解いただけで、そこに生じるエネルギーを実感できない。 だからおまえなんだよミズキ。まずは形から入ってみようかと考えたわけだ」  自嘲気味に言いながらも、怪物じみた大きさの歯車が軋むような気配で、彼女は―― 「抜けよ。いざ勝負をしよう」 「なッ――」  相変わらずまったく理解できない流れのまま、第三の盧生が宣戦を布告した。 「おまえと剣を交えた先に、私は本当の真理へ至れる気がする。  いいや、それを実感することが出来るようになるのだろう」 「ちょ、ちょっと――いったい何を意味の分からないこと!」  話をしよう。語らいたい。その表現を馬鹿正直に捉えていたわけじゃないし、裏の意味合いもあるだろうと充分視野に入れていた。  しかし、だからといってこれはなんだ? 戦闘は覚悟の上でも、いったい何の勝負なのかが分からない。  混乱しながら咄嗟に剣を創形した水希に対し、クリームヒルトが前に出る。 「行くぞ」  同時に、凄まじい破裂音が冥界の玉座に轟いた。 「ぐッ、きゃああ――」  それが音の壁を突き破ったものだと理解するより速く、強烈な体当たりを受けた水希は成す術もなく吹き飛ばされる。  いけない。意味が分からなくても対応しなくては呑み込まれる。  そう悟って、転げながらも体勢を立て直した水希の前に―― 「ふむ、そういえば忘れていた」  あらゆる間合いを侵犯する踏み込みで、クリームヒルトが立っていた。続く二撃目は避けられない。 「――――ッ」  ゆえに死すら覚悟した水希だったが、続く展開は再び慮外のものだった。 「これでよし。どうだ気分は?」  そのとき水希がされたことをありのままに説明すれば、両の目に指を突き立てられたというもの。  しかも根元まで、抉りこむように。  まともに考えれば失明必至のものだったが、どういう理屈か痛みはないし、目も見える。  いいや、それどころか……なんだこれは? 「あ、っ……」  力が、夢が湧き上がる。  違う――むしろ今までが落ちていたのだ。どのタイミングでそうなったのかは知らないが、劣化していた力が正常に復帰したのを実感した。 「くッ、はあ――!」  だから水希は、ほぼ密着した間合いからでも窮することなく剣を振り上げ、クリームヒルトを攻撃していた。あちらも同様、やはり事も無げにそれを受け止め、再び両者は距離を開き対峙する。 「やるな。いいぞミズキ、それでこそだ」 「心配するなよ、〈終段〉《ついだん》などは使わない。これは純粋な武の勝負だ。  どだい盧生と眷族では、そうしないとまったく戦いにならんからな」 「~~~――ッ!」  なんだろう。なぜだか凄く腹が立つ。  彼女の言っていることは正論で、終段を使わずにいてくれるならむしろありがたいことだというのに…… 「あんたね、ほんと舐めんじゃないわよ!」  こんな、まるで鈴子みたいな物言い。  ムカつく。ムカつく。こいつはなんだかどうしようもなくぶっ飛ばしたい。  絶対負けたくないと思うのだ。 「お望みどおりやってやるわよ――泣かしてやるから覚悟しなさい、ヘル!」 「ああ、私は泣いたことがない。是非泣かせてくれ、ミズキ」  それは奇妙な、だが激烈を否応なく予感させる戦いの始まりだった。 出口の見えない巨大な城に放り込まれ、成す術もなく右往左往していた俺たちに、そのとき唐突な異変が襲い掛かった。 「う、がッ――ああああああぁぁァッ!」 「――石神ッ!?」 いきなり顔を押さえて絶叫したこいつの目から、噴水のような血が迸ったのだ。 「ちょ、おい――どうしたんだよおまえ!」 「いけない、晶――早く治して!」 「お、おう! 大丈夫か静乃、見せてみろ」 「――いい、問題ない私は平気だ!」 しかし、駆け寄った晶を制すように石神は手を振った。依然顔をしかめているが、謎の出血はすでに止まり始めている。 「無理しちゃ駄目だよ、しーちゃん!」 「意地張らねえで、大人しくしてろ。どう見ても普通じゃねえだろ、それ」 「違う、意地なんか張ってない。本当になんでもないんだ、もう痛くない」 「それに……」 乱暴な所作で血を拭うと、石神は立ち上がった。どうやら本当に、目は見えているらしい。 「水希が危ない。見えるんだ。彼女はクリームヒルトと戦っている」 「なんだってッ?」 この城で一人だけ行方知れずになっていた世良が、今そんなことになっているとこいつは言うのか? 「ど、どうしてそれが分かるのよ?」 「知らん。だが見えているんだ――今だって」 そう返す石神の目は、確かに焦点がブレている。まるで俺たちと会話しながら、別の情景も見ているかのように。 「だったら放っておけねえだろ」 「行かないと!」 「ああ、けど、どうやって?」 「そこに行く道とか、分かんねえのかよ」 「それは……」 問いに石神は答えられない。それはつまり、どうしようもないと言っているのだろう。 「とにかく、走るぞ。ここでこうしてても仕方ない!」 「石神、おまえは向こうの状況を逐次説明してくれ。それでもしかしたら、世良と合流するヒントが得られるかもしれない」 「わ、分かった!」 そうして、視界がブレているらしい石神の手を引きながら俺は走った。他の奴らもそれに続く。 「世良……!」 なぜおまえが、どうしてクリームヒルトと戦っている? いったい何があったんだ? 焦燥に歯噛みしながら駆け続けるが、依然としてヒントはない。 そして今夜、俺たちに出来ることは何もないのではないだろうかと…… そんな思いが、胸の中で徐々に生まれ始めていた。  風を巻いて銀光が走る。刃と刃が交錯する。  弾ける剣戟の調べが閃き合い、乱れ咲きながら空間を彩る様はさながら花吹雪のようだった。  色無く、音無く、静寂に包まれて是とする冥界――世界樹の地下に広がるとされるヘルヘイムにありながら、今この玉座だけは瞬く色彩の息吹に満ちる。  すなわち一言、綺羅綺羅しい。  見る者が見れば叙情的な感嘆さえ漏らすだろうが、しかし当事者にとってはそんな思いを抱く余裕など欠片も無かった。  少なくとも、片方にとってはまさにそう。  ここは死地――紛れも無く冥界の直下であると感じていたのだ。 「くッ―――」  すでに斬り結んだ数は百度以上。そして死を感じた瞬間も百度以上。  何度も繰り返したから慣れるということなどまったくない。それが闘争一般的に言える真理かどうかは知らないが、どっちだろうと関係ないと死線の水希は思っている。  仮に殺し合いをひたすら愛好する自殺志願者がこの場に立っても、抱く思いは同じだろうと確信するのだ。  それほどまでに、この相手が叩きつけてくる“死”はでかい。  質も密度も桁違いだ。いいや、これこそ本当の死という概念が持つ重さなのかもしれない。  生物は死なない限り死を知れないから、生きているうちは当たり前に死の本質を理解できない。  何度死線を潜り、どんな哲学を修めようと、結局のところ分かったような気になるだけ。  百年生きた伝説の戦士だろうが哲人だろうが、彼らが生前に見出す死の何たるかは、堕胎される胎児が羊水の中で悟るものより軽いだろう。 「見事――流石はミズキ。私とここまでやれる者は真におまえが初めてだ」  陳腐でベタな賞賛にも、何か言い返す余裕を持てるはずがない。この今、自分の前にいるのは正真正銘の死神なのだ。  死の〈普遍性〉《アラヤ》に触れた史上ただ一人の存在。生きながらにしてその境地へ達した人類の〈代表〉《ヒーロー》である。並の者なら、下手に会話をするだけで命を失うことすら有り得るだろう。  この、喩えようもない暗闇の深淵に引きずり込まれるような感覚。  それを前に、現状生きている水希は確かに褒められて然るべきだ。  ゆえにクリームヒルトは手放しの賛辞を惜しまない。 「概して臆病な者ほど死から逃れる術に長けている。  技量より、強固さより、なお大事なのはその認識だよ。己は脆く、弱く、至らないと思っているからこそ回避が上手い。  自覚はあるかねミズキ。おまえも一種の死神だ。  周りに死の因果をばら撒いて、おまえ一人だけは切り抜ける」  瞬間、無拍子で放たれた鋭剣の一突きが水希の眉間に飛来した。それを紙一重、首だけの回避で躱し踏み込む。 「あんたは――褒めてるのか貶してるのかどっちなのよ!」  そして返しの袈裟斬り一閃。タイミング的には必殺を疑うべくもなかったが、これで決まるとは思っていない。そんな簡単に片がつくなら、とっくにこの戦いは終わっている。  踏み込んだ水希を上回る速度でクリームヒルトが退いたのだ。それによって斬撃を躱すのみならず、鋭剣の持ち手が逆手に変わっている。  すなわち、一度吹き抜けた刺突が首狩り鎌と化し戻ってきたのだ。うなじに迫る断頭の気配を総毛立ちながら感じた水希は、身体ごと投げ出すように前方へ転倒した。  その挙動は言うまでもなく隙だらけ。頭上を走り抜けた死風が再びその軌道を変えて、地に伏す水希を串刺しにするべく迫り来る。  だが、ここでも彼女は死に対応した。むしろ読んでいたのかもしれない。  倒れこんだ勢いのままに前転して、再び地に足をつけた水希は蛙飛びに跳ね上がった。背中を切り裂かれる痛みはあったが命にまでは届いていない。 「づゥ、ああァッ―――」  クリームヒルトの胸元へ、渾身でぶつかる頭突きに近い体当たりだった。不恰好だが、こうする以外に切り抜ける手はなかっただろう。  結果、この攻防を制したのは水希だった。胸を打撃されたクリームヒルトは後方へ飛び、微かに呻きながら距離を開ける。  表情は、変わらず死想を湛えた微笑のまま変わらなかったが…… 「無論、褒めているつもりだよ」  軽く胸元を手でさすり、冬の湖面にも似た碧眼を細めている。荒れた呼吸で肩を上下させている水希とは対照的な、まったく平静そのままな態度だった。 「おまえなら、私のことはよく知っているはずだと思うが?」 「―――――」  だから、水希はそれ以上の反駁を封じ込めるしか出来なかった。局所的には一本取ったが、全体としては甚だ劣勢。これ以上の不利を増やすわけにはいかない。  クリームヒルトは自分と曾祖母を誤認している。その間違いを早々正すわけにはいかないのだ。  違いを見せるなら、それは決着となる瞬間にこそ切り札として使用すべき。 おまえも死神だという、不名誉極まりない評価に文句をつけている場合じゃないだろう。 「それに、そうね……」  まったく褒め言葉として受け取れないが、確かに言う通りかもしれないと水希は思った。曾祖母がどうだったかは知らないが、自分はよく仲間をピンチにさせてしまう。  例のストーカー事件にしてもそうだし、今回もそうだ。おまえの性格と判断が、曰く面倒臭い事態を引き起こすのだと指摘されれば言い返せない。  〈水希〉《おまえ》は〈死神〉《わたし》と同じであると、最初に言われたことにはそういう意味があったのかも。 「だけど、今のこれはそこまでじゃない。  私があんたに勝てばいいんだもの。簡単なことだわ」 「ほう、簡単か?」  因果の構図式という意味ではなく、事象の難易度としても簡単なのかと。  その問いに、水希は決然と頷いた。 「ええ、難しくない」  返答に虚勢はなかった。クリームヒルトという女に対して、いくら形容不明な対抗心を持っているからといっても、水希は自惚れと無縁である。  根拠があるのだ。そして、あるからこそ今も普遍の死に呑まれていない。  真相はただ一つ。  この敵手は、言ってしまえば単純なのだ。心が無いと感じた印象通りで、挙動に強弱や濃淡が存在しない。  常に単一の音しか鳴らさないモノとして、旋律を奏でることが出来ないのだろう。だから攻勢にもそれが反映されている。  要は、すべての攻めが純に殺し技なのだ。  虚と実。布石。そうしたものがまったくない。  誘ったり、騙したり、削ったり、封じたり。  それらは重要な駆け引きで、戦いに必須のものだろう。百度打ち合って、百度の死を感じるというのは通常有り得ることじゃない。  途轍もない純度の死と殺意を纏った、決め技のみの百連撃。それがクリームヒルトの戦い方で、つまり大砲の乱れ撃ちだ。  脅威は無論のこと凄まじく、僅かな停滞を見せただけで即座に潰されてしまうだろう。  しかし、分かっているなら対処は出来る。読めるし、返せるし、掬うことも不可能じゃない。 「では見せてもらおうか」  どこか楽しげに嘯きながら、再び一歩踏み出すクリームヒルト。水希も無言でそれに応じる。  両者の間合いが触れた瞬間、号砲のごとく大音響が炸裂した。  戟法。解法。創法の三種融合――極限の出力と精度で練りあげられた夢と夢が激突し、空間震すら伴いながら放射状に拡散していく。  吹き荒ぶ剣戟の暴風は広大な玉座においても逃げ場を失い、いとも容易く許容量を突破された証として戦場の崩壊が始まっていた。  隆起する床。落ちてくる天井。石像は握り潰されたかのようにひしゃげていき、陥没する壁面が液状化しながら崩れていく。  もはや大地震の直下に等しい。いいや、もしくは〈大海嘯〉《だいかいしょう》か。  超自然災害をも連想させてしまうほど、二人の鬩ぎあいは度外れたものだった。厳密に言うと、破壊を成しているのはほぼクリームヒルト単独の暴威だったが、それを逸らしながら戦闘している水希の立ち回りも尋常ではない。  すべてが決め技、殺し技。  それが死神だと分かっているからどうにかなる――という次元を超越した所業だろう。  うねり飛びながら上下する床はすでに足場の態をなくしており、常人ならば直立どころか即座に跳ね飛ばされてしまうだけ。  にも関わらず、水希は未だに両の足で立っている。平地と何ら変わらぬ体捌きで、死神の鎌に拮抗している。  このとき彼女は、全生命を総動員してクリームヒルトに対峙していた。五感のすべてに夢を纏い、眼前の存在を看破しようと試みている。  だから見えるのだ。明かされていく。ヘルヘイムの王が有する力量のほど、その真実が。 「―――――」  そうして脳に映し出された情報を認識するや、水希は心の中で悪罵を放った。  なんだこれは、冗談じゃない。  よりによって柊くんとまったく同じ資質だと?  全方位、隙なしであるオールラウンダー。得手も不得手も、僅かな差すら見当たらない。四四八と鏡合わせのような結果を前にし、水希の苛立ちは一瞬にして高まった。 「どうした、動きが乱れたぞ」 「あ、きゃあ――」  よって、それは明確な隙となる。  繰り出された一閃を反射で受け止めようとしてしてしまい、威力を逃がし損なった水希は片腕の骨が砕ける音を聞いていた。 「~~~―――!」  不覚、失態以外の何物でもない。なんとか死なずにすんだものの、代わりに左腕を殺された。循法に気を割いている余裕はなく、戦闘中にこれを癒すことは出来ないだろう。  ゆえに当然の流れとして、水希は劣勢に落ちていく。つまらない心の揺れを楽しんでいる場合じゃない。  今はただ、明鏡止水のごとくあれ。 「そうよ――」  四四八とクリームヒルトが同じ資質だから何だと言う。両者は似ても似つかない。  数字は数字。ただのグラフで情報だ。そして情報ならば私情を交えず分析してしまえばいい。  ここでクリームヒルトに勝てる道筋を見出したからといって、別に四四八と戦うことを想定するも同じだなんて飛躍した話にはならない。  オールラウンダー。全方位70パーセント。  確かに厄介な数値だが、資質の面では水希もまったく負けていない。だから本当に面倒なのは、それを操る熟練度のほう。  レベル99――いわゆるカンスト。頂点だ。  人間が到達できる最高の域に達しているという証明で、そこは流石に盧生と言わざるを得ないだろう。代表者の肩書きは伊達じゃないということか。  使い手として差がありすぎる。片腕の負債を背負ったまま、夢の出力や巧さを競うべき相手ではない。  最低限、身体能力を助ける戟法だけは維持しつつ、頼みにするなら純粋な武技そのものを……  閃き、直観、〈鍛〉《 、》〈え〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈生〉《 、》〈身〉《 、》に付随するものを使ってこの逆境を覆す。  そう決心した瞬間に、水希の顔から表情が消えた。まさしく明鏡止水のごとくあるため、芸術的と評せる手際で雑念が消えていく。  その過程で得た副産物として、啓示にも似た一つの理解へ至った瞬間――  それは風に舞う、花弁のように。  迫り来る暴風の一撃をするりと躱してのけた水希は、解法すら使わない刺突でクリームヒルトの左肩を穿ち抜いていた。  これで互角。共に片腕をもがれたに等しい。 「ぬ――、ははは! いいぞ、私に血を流させるかミズキ!」  にも関わらず、受けたダメージをむしろ寿ぐかのように死神の圧力は高まっていく。それに比例して攻勢の密度も強度も跳ね上がったが、そのすべてを水希は躱した。  当たらない。悉くが空を切るのだ。そして頻度は少ないながらも、時に放たれるカウンターが再度クリームヒルトを切り裂いた。  そも解法とは、物質や現象に存在する〈解〉《ほつ》れを突く夢である。  そうした概念を纏った武器や拳で、対象に斬りやすい一線や壊しやすい一点を具象化させているにすぎない。  ゆえに、解れを正確に見極める呼吸と直観を持っていれば、解法を使わなくても同等以上の効果を発揮できるのは自明の理。  たとえまったくの生身であっても、素手で大岩を粉砕できる武の達人がいるように。  水希はそれと同じことをやっている。邯鄲の術理という土俵で競う限り、その頂点に立つ盧生を制すことは出来ないと悟ったのだ。 「なるほど、ヨシヤの真似事か?  やはりおまえだ。おまえこそが私に必要なのだよミズキ――」  クリームヒルトの声に対し、水希は一切応えない。  そもそも聞いていなかった。今の彼女はそうした枠の外にある。 「おまえだけは歴史が無い。私と同じで、愛の結末を得られずにいる」  だがそんなことなどお構いなしに、どこまでも高まっていく嵐の中でクリームヒルトは話し続けた。  掛け替えのない友人と何かを共有するかのように。 「ゆえに同じ土俵だろう? おまえが私を嫌うのは、つまりそういうことなのだろう?  どうしても理屈が先に立つんだよ。方程式を解いただけで、そこに生じるエネルギーを実感できない。  私もおまえを嫌いたいのだ。疎ましく、憎らしく思いたい。そうするべきだろうと分かっているのに、どうすればそう思えるのか分からない。  ああ、どうして私には心が無いのか――」 「これほどまでに、答えは明白で夢を見るのに」  殺人鬼は慨嘆する。不敵な微笑を常に浮かべている表情は、どこかデスマスクのようにも見えて。  明朗かつ凛々しい声音は、なぜか慟哭しているようだった。 「我も人、彼も人。全は一、一は全なり――」 「私の悟りは間違っていない。道理も理屈も分かっているのだ。  ゆえにたとえばこんなとき――」  やはり死神の声に取り合わないまま、攻め込んできた水希の一太刀がクリームヒルトの胸に迫る。  それに彼女は、防御も回避もしないまま無造作に踏み込んで―― 「どういう〈選択〉《ノリ》が相応しいかも分かっている」  振り下ろされた弩級の一撃は条理を完全に無視したもので、ゆえに捌き切れなかった水希は血煙をあげつつ吹き飛んだ。 「不整合。だがこの場合はむしろ王道。  それが人、それが心。私は間違っていないだろう?」  このとき、重大な損傷を被ったのはクリームヒルトも同じだった。豪奢な金髪が紅に染まるほど、先の相打ちは両者を死に近づけている。  不整合と彼女が言ったのは、そうした暴挙のみを指していない。そもそも死神の一撃を受けた水希が、瀬戸際でも生きていることからしておかしいのだ。  そして、そうなった理由は単純明快。当のクリームヒルトが、流れを無視した雑な攻撃を仕掛けたという事実に帰結する。  刃筋は乱れ、軌道は揺らぎ、狙いも何も定めていない力任せの出鱈目な一撃。  言わば突拍子もない不恰好なものだったからこそ水希は被弾したのだが、同様に不恰好だったからこそ命を取るまでには至っていない。  それは馬鹿馬鹿しい子供の喧嘩に近いもので、ゆえにここでは王道だとクリームヒルトは言っていた。 「感情の爆発。譲れぬ思い。意地、信念、誇りを懸けたこれぞ決闘…… とは、こうしたものだろう。違うかミズキ?」  問いに、今ようやく立ち上がった水希は、ゆっくり構えを取り直してからぽつりと言った。 「ええ、そうね。そうでしょうね、ヘル」  その目は、未だに焦点が合っていない。つまり、依然として彼女は無我の境地にいる。  にも関わらず会話を成立させているのは、いったいどういう理屈なのか。  まるで憑依が起きたように、〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈は〉《 、》〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 「でもあなた、いちいち言い方が大仰なのよ。あまり格好つけた表現で語るのはやめてよね。  これはもっと、馬鹿みたいで恥ずかしいもの。  人に見られたら、赤面して逃げたくなっちゃうようなもの。  だからこっそり、それこそ誰にも気付かれないように……」  続く言葉を置き去ると、水希は滑るような体捌きで前に出た。 「思いっきり、滅茶苦茶激しくやるものなのよ!」 「――心得た!」  そして再び、風を巻いて銀光が走る。刃と刃が交錯する。  弾ける剣戟の調べが閃き合い、乱れ咲きながら空間を彩る様はさながら花吹雪のようだった。  色無く、音無く、静寂に包まれて是とする冥界――世界樹の地下に広がるとされるヘルヘイムにありながら、今この玉座だけは瞬く色彩の息吹に満ちる。  すなわち一言、綺羅綺羅しい。  見る者が見れば叙情的な感嘆さえ漏らすだろうが、しかし当事者にとってはまったくどうでもいいことだった。  俗で結構。もとより極めて茶番な喧嘩だ。格好つけてやるものじゃない。  だから両者は、ここに裸の心を晒しながらぶつかり合う。 「だいたいあんたね、盧生だからって実は勝ち誇ってるでしょう!  それで勝手に運命感じてんじゃないわよ、少しは人の迷惑考えなさい!」 「ほう、私は迷惑なのか?」 「言われてないの?」 「覚えがないな」  それはそれは随分都合のいい記憶をお持ちだ。水希は呆れ返りながら切り込み続ける。 「極論から極論にすぐ走る。これだからクソ真面目な奴は嫌なのよ!」 「つまりよく考えろとおまえは言うのか? だが知る限り、よく考えろと言われた者は大方思考停止する。それはいわゆる魔法の言葉だ。  ならばおまえは、私に魔法をかけたいのか? 思考停止をさせたいのか?」 「あんたは何したって止まらないでしょ――だから面倒なのよ、この共産主義的馬鹿コンピューター!」  人は群体。ゆえに全は一なり。そこで死神の探求が止まっていたら、きっと今この場の展開はなかっただろう。  しかし彼女は、さらにもう一歩先へ進んでしまった。きっとヘルヘイムの悟りとはそういうもので……  それがどうしようもなく嬉しく思えてしまうから、同時に水希は腹立たしいのだ。 「ああもう、ほんとになんて馬鹿!」 「おまえがか? 私がか? あるいはどちらも、そういうことか?  だがミズキ――おまえはどうも、私がヨシヤに斃される未来を避けたいと思っているように感じるぞ。  だとしたら意味が分からん、道理が通らんし不合理だ。  おまえにとって、私はいないほうが嬉しかろうに」 「だからって、そんな不戦勝みたいな結末、嬉しくない!」  だいたいそもそも、善悪の話というやつがあるだろう。だがそのあたりを語っても、きっとクリームヒルトは分からない。盧生にとっては、己が体現する普遍性こそが善なのだから。  そう思って、少し切なくなってきたのに―― 「いや待て。私がいなかったとして、なら勝つのはおまえだという根拠はいったい何処にある?  確率的には、最大でも四分の一だろう」 「うるさいわね、もう! そんなだからあんたのことが嫌いなのよ!」  怒声一喝、下から跳ね上げた一閃がクリームヒルトの鋭剣を弾き飛ばして宙に舞わせた。  終段は使わず、武の勝負に徹すると最初に決めた約定を守るなら、これで勝負は決したも同然。 「そうか、だがな――」  下から迫る水希を見下ろし、クリームヒルトは仄かに笑った。  それは昔、彼に見せたのと同じような……  ぎこちないけど、〈真実〉《マコト》のこもったはにかみで…… 「困ったな。私はおまえのことが好きらしい。  私が女であることを自覚させてくれたのは、きっとおまえなのだから」  そのとき、水希の心眼に脅威の情報が走り抜けた。  解法は今もまともに使っていない。だがそんなものは度外視して、圧倒的すぎる現実というものが瀑布のように雪崩れ込むのだ。 「一つ、女らしく化けてみた。  それが嗜み――なのだろう、友よ」  偽装、改変、ここに大前提が存在する。  隔絶した力量差があるのなら、ステータスを眩ますことなど造作もない。  カンストの概念など盧生にはないのだと、文字通り桁の違うレベルが露になったクリームヒルトの性能は、最初に明かされたものと完全な別物だった。  バランス型のオールラウンダーなどではない。むしろ極端な特化型。  そしてその傾向は、白兵の極限とさえ表現できる。  ならば、剣を奪われたくらいで何が変わるはずもなく―― 「騙してすまんな。私の勝ちだ」  唸りをあげて打ち下ろされる鉄槌が、水希の顔面に叩き込まれる――  それは、瞬間のことだった。 「ええ、こっちこそね」  水希の瞳に、先ほどまでは失せていた現実の光が戻っていた。  その輝きが、言っている。  化けて騙していたのはお互い様。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈世〉《 、》〈良〉《 、》〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》と。  こちらが己を偽っていたのだから、そちらも偽っているに違いないと、初めて思考を飛ばしたときに啓示のごとく直感したのだ。 「私、大正女子なんかじゃないし――」 「それは私の曾お祖母ちゃんよ!」 「――――――」  その事実を告げたとき、僅かにクリームヒルトの拳がブレた。  そして水希は、生じた刹那の狂いを見逃さない。 「がッ、はあァ―――!?」  懐へ入り込むようにして拳を潜り、そのまま相手の勢いを逆利用しながら背負い投げを見舞っていた。クリームヒルトにしてみれば、己が持つ規格外のパワーをそっくり跳ね返されたに等しい。  爆撃もかくやという大轟音を響かせて、受身も取れず床と激突した死神は、大の字になったまま完全に活動を停止していた。 「ッ、は……、づ、はぁ……」  そして水希は立ち上がる。結果は両者の構図を見れば一目瞭然。ここに勝敗は決したのだ。 「あ、ぶなぁ……」  本当に、とことん紙一重の決着だった。最後の攻防はもちろんだが、そもそもそこに至るための演技が演技じゃなくなりかけていた。  実際、自分が何を言っていたか半分近くは記憶にない。本当に曾祖母の思考が頭を走り抜けていたような気さえする。  そこまで女優なつもりはなかったのだが、まさに憑かれていたと表現するべきなのだろうか。  しかし、とにかくなんとか乗り切った。ようやく湧きあがってきた安堵に膝から崩れ落ちそうになる水希だったが…… 「ふふ、はははは……」  下方から上がる枯れた苦笑が、未だ解かれぬ死神の顕象を告げていた。 「いやいや、まったくやられたよ。これは流石に、しばらく動けそうもない。  認めよう、ミズキ。私の負けで、おまえの勝ちだ」 「ヘル……」  健在とは言えないだろうが、それでもクリームヒルトは明晰な調子で自らの敗北を宣言した。複雑な顔で見下ろしてくる水希に目を向け、そのままにやりと意地悪く微笑む。 「この場は、な」 「続きは、すべてが終わった後にでもやるとしよう」 「あ、あのねえ、だから私は違うって……」  あんたが言っているのは自分の曾祖母なのだと、さっき言ったのにまだ分からないのか。  そう水希は不満を浮かべるが、クリームヒルトは微かに首を横へ振った。 「変わらんよ。私にとっては何も。  おまえのことはよく分かっている。先のあれは、まあなんだ……」  なぜ水希が正体を明かしたときに動揺を見せたのか。それについて、くつくつと喉を鳴らしながら、第三の盧生は意味不明なことを言った。 「もしかして、ライバルが増えたのかと思ったものでな」 「本当、おまえも随分面倒臭いぞユキコ……いくらなんでも嵌りすぎだ。  しかし、だからこそなのだろうな。私も、ヨシヤも、アマカスも、まともにやったところで万仙陣は崩せない。  しかしやれやれ、だからといってこれはなんとも酷なことを……」  そうして、何処か遠くを見るように目を細め、再び水希に視線を移すとクリームヒルトは静かに告げた。 「泣くなよ、ミズキ。ユキコを守ってやってくれ。  それがおまえたちの役割で、たとえ儚いものだろうと…… 私は、決してこの夢を忘れない」  言い終えると、その姿は夢へ解けるように消えていった。  後にはただ、奇妙な殺人鬼が残した謎と静寂だけ。  水希はそれを抱きながら、友人が遠くへ行ってしまったような寂寥感に包まれていた。 「あ……」 依然として城の迷宮を抜けられずにいた俺たちの中で、再び石神が唐突な異変を示した。 「雪子? ……待てよ、いったい何を言ってる?」 「……石神?」 だが、それについて問い質すよりも速く眼前の状況は急変していた。 「あー、見て見て! あそこ、おっきい扉!」 「ここか、ようやく到着だぜ」 「――水希ッ!」 城の終点と思しき巨大な扉を前にした俺たちは、そのまま一気に内部へと押し入っていた。 「あ、みんな……」 「おおお、よかったぜ水希、無事だったんだな!」 開けた玉座の広間には、ただ一人世良だけが佇んでいた。こうして見る限り、無傷ではないものの命に別状はないと分かる。 「それで、クリームヒルトはどうしたの? もしかして、あんたがやっつけちゃった?」 「いや、どうかな。そうとも言えない感じで複雑なんだけど……」 返答に困っている世良の様子から、ここで何があったかを知るのは難しそうに感じたので、俺は石神に目を向けた。 原理は不明だが、こいつはこの場の戦況を俯瞰していたはずであり、当事者の世良よりも事によったら理解が及んでいるかもしれないと思ったから。 しかし…… 「……………」 こいつは口を噤んで眉をひそめ、俄かに触れ難い雰囲気を出している。そんな石神に気付いているのはどうやら俺一人であり、その間にも世良は世良なりに拙い説明を皆にしていた。 「――というわけなのよ」 「はあ、なんだそりゃ? さっぱり意味が分かんねえ」 「みっちゃんと戦うことが、クリームちゃんの八層突破に関係がある?」 「まったく支離滅裂だな。聞く限りの言動にしてもそうだが」 「結局、いい奴だったの? 悪い奴だったの?」 「確かクリームヒルトってのは、すっげえ悪党だって話だったよな」 殺人鬼。人殺しの鬼。その属性を鑑みれば悪以外の何者でもないんだが、世良の話から伝わる印象は奇妙な切なさと滑稽さを感じさせる人物像だった。 盧生たる者、人間の普遍的思想を体現している存在なので、どんな奴から見ても一定の理解と共感を得られるものだ。……と、そう言われればそれまでの話なんだろうが。 「おまえの前に顕れたクリームヒルトは、本当にタタリだったのか?」 「分からない。さっきも言ったけど、彼女は私を曾お祖母ちゃんと勘違いしてたみたいだから、そういうノリに合わせていくのが精一杯だったし」 俺たちの命を握られたような状態で、人違いですよなんて早々言えるはずがない。だから世良の気持ちは大いに分かるし、実際こいつは最良の選択をしたと思う。 単独でクリームヒルトを撃退したという点からも、間違いなく大殊勲だ。 が……お陰で深い謎が残った。まるで、俺たちの信じていた今までの前提すべてが、崩れ去ろうとしているような。 「……怖いな」 知らず、俺はそう呟いていた。 具体的に何がというわけじゃない。ただ漠然と、自分の根幹を揺さぶられている気がするんだ。 それは今回、まったく当事者として立ち入れなかったことに対する、単純な不甲斐なさから来る焦りなのかもしれない。 しかし、上手く表現できる自信はないが、今夜のことは何かを象徴していると感じていたんだ。 おまえは舞台の演者ではない。そもそも盛大な勘違いをしている。 と、そう突きつけられているかのようで…… 「とにかく、全員無事で今夜を乗り切ったんだからそれでいいじゃない。ね?」 「ま、そりゃそうだな。世良に丸ごと投げっぱなしで、情けねえ話だったが」 「これであと、出てくるタタリは七等と八等……」 「新月は、もう四日後くらいに迫ってるよね。じゃあ、次の七等はこの二日くらいで起こるのかな」 「水希にゃ苦労かけちまったが、オレたち的には不完全燃焼で力が有り余ってんだから大丈夫だろ」 「だな。ほら、静乃もなんか言えよ」 「え、あ、そうだな……うん」 俺が感じている正体の掴めない不安は、石神も感じているのか。相変わらず浮かない様子のこいつは、いったいどんなことを恐れているのだろう。 今はそのことが、俺は何よりも気になっていた。 「はい――とまあそんな感じ。どうだった信明くん」  文化祭の夜から二日続いたクリームヒルトの夢をここに見終え、緋衣さんは僕に感想を求めてきた。 「どう、と言われも……正直掴みづらいとしか」  少なくとも、簡単に判断できない人物なのは間違いなかった。  僕らが見たのは、クリームヒルト・レーベンシュタインという女性の生い立ち、思想、そして邯鄲の夢を越えていく過程。  世界規模の動乱期には、それだけ盧生の資格者が生まれやすいということなのだろう。人類の〈総意〉《アラヤ》が自分たちの〈代表〉《ヒーロー》を求め、結果そうした者らが台頭してくる。  クリームヒルトはまともな時代のまともな環境で生じるような人間じゃなかったが、それでも筋金入りの異端というわけじゃない。言ったように盧生は人類の代表者なのだから、ある意味でとてもベタな価値観を中核に持っている。  曰く、死こそが救い。死こそが唯一普遍なもの。  この主張に反論することはかなり難しいだろう。実際、僕には出来そうもない。  死なない人間は存在しないのだから、生きているときは諸々の優劣による格差があっても、最終的には皆同じ。そこには紛れもない平等が存在する。  それは確かで、だからこそ彼女は救いをもたらす死神となった。  ということなのだろうが…… 「ただ一つ。クリームヒルトの中で、早すぎる死や惜しまれる死というものはなかったんだろうか?」 「そうね。悲劇の本質が分からないから彼女は殺人鬼だったのよ。  ごく真っ当な意味で言う愛の概念を体現できないタイプなの。簡単に言うと、不幸な人を生きたまま幸せにする方法が分からないのね。  ただ、本人も言ってたように道理は分かるし理屈も分かる。だからそういう可哀想な人たちがいるのを知っているし、その不平等が気に入らないのよ」  曰く、作りの乱れているものを見るのが我慢ならない。それを正すという衝動のみで存在している。 「つまり、彼女の論理はこういうことよ。自分に殺されることで、恵まれない人たちはそれ以上辛い生を送らなくていい。  逆に恵まれた人たちは、やはり自分に殺されることで幸運の飽食をしなくていい。  要はバランス取りだね。人類みんな腹四・五分目くらいの幸せを……ていう未来を目指している。実際、腹何分目くらいに調整するのが理想で普遍的なのかは知らないけれど」 「それは、機械の考え方だ」  平等、統計、全体という単位でしか人間というものを見ていない。クリームヒルトという盧生は、森を見るが木を見ないのだ。  なぜそういう視点になっているのか、夢の内容を思い出せば何となくだが見えてくる。 「人間は進化の過程で、互いに協力し合ったほうが生存に有利だと結論した。そのために愛という概念を生み出した。  結果、人間は社会というものを持つに至ったから、クリームヒルトは人を群体として捉えている。  その大きな群れを美しく調整することはつまり奉仕で、人間全般へ送る愛の体現に他ならない。  と、それが死神流の結論なのか?」 「きっとね。だって戦争を始めとするほとんどの不幸ごとって、結局は格差が激しいから起こるものでしょう?  リア充だからってあんまり調子に乗ってると、死神ちゃんがやってきて殺されちゃうぞ――ていう価値観がもし普遍的なものになったら、結構世の中は平和になるのかもしれない。  たぶんそれこそが、人を愛したいのに愛の何たるかが分からなくて、探し求めている殺人鬼の見出した答え」 「クリームヒルトは、そういう悟りに達したと?」 「今のところはね、そんな流れだったでしょう?」  まだ邯鄲を制覇する前のクリームヒルトは、柊四四八に己の歪みを語っていた。  人を愛したくて、人と交わりたい自分が、殺人という手段でしか世界と関われないのは間違っている。  ゆえに自分こそが、もっとも作りの乱れた出来損ないであろうと。  だから彼女は変わりたいと願い、悟りを求めて邯鄲に身を投じた。  結果、いま僕らが話していた結論へと向かったように思う。  そう、〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》。僕は深い溜息を吐いて、緋衣さんに目を向ける。 「お互い、甘粕のことが苦い薬になってるね。仮にも盧生に対して、あまり突っ込んだ観察は出来ない。深入りしすぎると、カウンターが来るかもしれないから。  結局、僕らの考察は僕らの考えでしかないよ。実際に、クリームヒルトがどんな悟りに達したのかは夢の中だ」  彼女の内面を覗き込むような真似は恐ろしすぎて無理だったし、肝心要とも言うべき八層攻略の条件を知ることは出来なかった。  なぜなら〈八層〉《アラヤ》の試練は、その盧生にとって最大の難関となり顕れる。その正体を知るほどクリームヒルトに同調すれば、間違いなく先日の二の舞になっていたことだろう。 「ただ……」  おそらく間違いないだろうと思えることのみ、僕は言うことにした。 「もしクリームヒルトの至った悟りが僕らの考察どおりなら、きっと柊四四八は許さない。  持てる者が欲をかきすぎると死神に魅入られる……そんな世の中になったとしたら、確かに君が言うとおり争いは激減するかもしれない。それは種として、一つの理想に近いとさえ言えるんだろう」 「だけど、柊四四八は殺人を前提にした未来なんか認めないよ。必ず防ごうとするだろう」  事実、僕らの考察した死神流の世界観は、現実に罷り通ってなどいないのだから。  その時点で、結論は二つに絞られるはずだろう。 「クリームヒルトは、柊四四八に斃されたか」 「私たちの考察とは、まったく違う悟りを得たか」  そういうことだ。そして僕は考える。 「君は知っているんじゃないか、緋衣さん」  第三盧生の存在は、当たり前だが一般の歴史に残っているようなものじゃない。だがクリームヒルトという女性は紛れもない実在の人物なのだから、その結末を知っている者は知っているはず。  そして、知っている者がいるならそれは目の前の彼女だろう。  僕の問いに、緋衣さんはゆっくり首を横に振った。 「残念ながら、クリームヒルトの悟りがどんなものかは本当に永遠の謎よ。それこそ、本人に面と向かって質問しないと返ってくる答えじゃないわ。   だけどね、事実としてなら一つ知ってる」  く、と口端を吊り上げるようにして彼女は言った。 「邯鄲を制覇したクリームヒルトは、柊四四八とその後同盟を組んだらしいわ」 「それじゃあ――」  第三盧生の至った悟りは、柊四四八にとっても好ましいものだったということなのか。  他人事ながらどこか嬉しい気分に僕はなり、思わず頬が緩んだのだが―― 「ふふ、ふふふふふ……」  なぜだろう。彼女の笑みを見た瞬間に、背筋が寒くなったのは。  僕の予想は間違っているということなのか? しかし現実として二人の盧生が手を組んだ以上、彼らは和解したはずで……  いや、待て。  予想し得るもう一つの可能性。同盟という言葉には、別の見方があることに僕は気付いた。  それは…… 「誰か、他に……」  そう、他に…… 「もっと、違う敵がいた……?」  と、言った瞬間だった。 「あははははははははははははははははは――――!」  爆発し、すべてを呑み込む渦のように轟き渡る彼女の哄笑。  戯画的なほど口を開いて顔を歪め、両手を広げて全身反り返りながら笑う、笑う――笑い続ける。  だが、そんな彼女の狂態よりも、僕は今―― 「ぁ………」  何か、計り知れないほど巨大な何か……正邪を振りきり、白痴の極限にまで至った普遍の阿頼耶による歯車の音を感じていたんだ。  ガチリと、それがいま回った。これはずっと、僕の前に存在したんだ。  あまりにでかすぎるモノだから、目の前にいても意味を把握することが出来なかっただけ。  蟻が地球の形を理解できないのと同じ理屈。  そして、巨大だからこそ一度動き出した歯車は止められない。  誰が何をしようとも、すべてを踏みしだきながら回り続ける。  その引き金を、僕がいま引いてしまったのだと理解した。 「万仙陣……!」  奇跡をその手に抱きしめるように、緋衣さんは詠嘆の吐息を漏らしている。  そのままひとしきり笑い続け、思い出したように力いっぱい抱きついてきた。 「大好き――本当に大好きよ私のヒーロー!」 「あなたに逢えてよかった。あなたがいてくれてよかった。  ああ信明くん――本当になんてなんて、なんてあなたは……」  私の役に立つのだろう、と。 「愛してる」  囁く彼女の細い肩を、僕は戸惑いながらも抱き返す。しかし、そこにか弱い印象はもはやなく、脅威的な力を得ているのが伝わってきた。  羽化にも似た、劇的な成長。  いいや、それともこれが本来あるべき姿か。  その状態に、緋衣さんはようやくのこと戻ったのか。  分からないが、いま僕が思いを巡らせているのはまったくの別のことだった。  愛。愛。愛するという概念。愛されるという意味。  クリームヒルトが問い続けたその命題を追うにあたり、僕らは殺人鬼というものの考察を夢に見た。  その中にあった一説が、さらさらと音を立てながら頭に浮かぶ。  曰く、殺人鬼とは大別して二種。  人を愛するがゆえに殺す者と、愛さないがゆえに殺す者。  前者はクリームヒルトだが、後者はまさに…… 「緋衣さん……」  彼らは言わば、先祖返りしている原始的な存在だ。  人が協力して生きることの有利を悟り、愛を生み出すより以前の人種。  裏切りを好み、出し抜くことを重視して、利用することしか考えない。  おまえは――あなたは――俺の――私の――ために在る。 「君はなんて……」  なんて強く、そして激しく…… 「綺麗だ。僕も愛してる」  いずれ、もうすぐ、すべての清算が訪れる。  下劣な太鼓と呪われたフルートの調べが降り注ぎ、あまねく夢も現実も覆い尽くしていくのが見える。  強い人とはなんだろう。見るべき〈真実〉《マコト》は何処にある。  ついに回り始めた無限の中核に棲む歯車が、その到来を告げていた。 「ちゅうての、俺はあんなに鎌倉へ行けえ言うたわけじゃわい」  まるで揶揄するように喉を鳴らし、男はくぐもった笑みを漏らしていた。 「そんでまあ……あんたも知っての通り、あげな感じの奴じゃけえのう。目ぇキラキラさせながら喜んじょったでよ。  本人はどうとも思っちょらん風に装ったつもりなんじゃろうが、正味バレバレっちゅう話じゃわい。よいよこんなァ、尻尾振りよる犬かあ思うたくらいでの、気付かれんとでも思っちょったんかのう、阿呆じゃのう。  俺はこれでも、あいつの親なんじゃけどのう……よいよ」  可愛い娘じゃ、と嬲るように男は手酌で杯を煽っていた。彼が娘から敬遠されている理由は大方自業自得であり、それは本人も分かっているが態度を改めるつもりはまったくない。  むしろ、可愛くて面白いからこそ、弄ってからかい倒したくなるのである。  彼の絡み方は、微笑ましいとかそういうものを遥かに逸脱したものであり、命に関わることすら珍しくないのだが、そのうえで声を大にし娘を愛していると叫べる男だ。獅子の子落としを地で行くつもりなのかもしれないが、根本にあるのは娯楽的嗜好である。  娘のためを思って――などという感性は、基本としてこの男の中にない。  己が楽しむためであり、またそれすらも、その場の気分で右に行ったり左に行ったり、前後はもちろん上下に指し筋が飛んでいく。  そしてタチの悪いことに、そんな行き当たりばったりの反射神経が大局的にまず外れないのだ。よって、誰もこのトラブルメーカーを正せない。  全方位から疎ましく思われている身でありながら、絶対的不可侵かつ不動の地位を得る存在。  曰く盲打ち――神祇省千数百年の歴史においても、彼を含めて二人しか現れたことのない極めつけのジョーカーだった。  それは教育で作り出せるようなものじゃなく、また血統すら関係ない。ある種の異能に属する才覚であり、彼が没せば永久に絶えるかもしれない正真の絶滅危惧種である。  そして、だからこそと言うべきだろうか。この男は事態に直接介入する気を持ってなかった。先代盲打ちがすでに手を打っているのだろうし、彼もだいぶ昔になるが伏線を張っている。  ゆえに後は野となれ山となれ。どだい何がどうなろうと、神祇の盲打ちから笑みを奪うことは誰にも出来ない。 「そんなわけでの」  男は今、酒を呑みながら陽気にくだを巻いている。付き合わされる相手にとっては堪ったものじゃないだろうが、幸運なことにこの場でそうした心配は皆無だった。  なぜなら今、盲打ちの相伴を務めているのは生あるものでなかったから。 「今夜は俺に付きおうてや……雪子さんよ」  杯を掲げた男の体面に座しているのは、もの言わぬ死者であり木乃伊だった。  仏教はもちろんのこと、神道とも厳密には異なる教義を持つのが神祇省であるため、死者の供養に関しても一般と同じ方式を採るとは限らない。  だからこの木乃伊とて、何も冒涜されているわけではなかった。それが証拠に、死者の様子は端的に美しい。  特に飾り立てられているわけでも、神聖に祀られているわけでもなかったが、とても大事に扱われているのが伝わってくる。  髪は綺麗に整えられて、衣服も清潔に折り目正しく、生前の人柄を想像できてしまうほど、質素だが楚々とした佇まいを見せている。  まるで家族……その一員であるかのような。そして事実、“彼女”は男にとっての血縁だった。より正確に言えば、祖母である。 「あんたらがなぁ~んも言わんと逝ってもうたけえ、俺らの代は大変なんじゃが、別に文句つける気はないでよ。聖十郎はあねえな奴じゃけえ、よいよ愚痴愚痴言いよったがの。  たぶんじゃが、あんなは死んでもうたろう? 今頃そっちで、やっぱり愚痴愚痴言いよるんじゃないか?  星がのう、ざわざわ狂い始めた感じでのう。それでなんとのう聖十郎のことは察したんじゃが、他のもんらはどうなることやら」 「さっきも言うたが、静乃はあんたらにブチぞっこんじゃけえのう。要は囚われちょるんじゃわい。  阿呆が、〈鎌倉〉《あっち》に行きゃあ生まれ変わりにでも会えるぅ思うちょるわけよ。なんなら、そりゃあ……そがァなもんがこの世にあるかい。  血は否定せん。環境もそりゃあ、あるじゃろう。なんら偶然なんちゅうもんまで絡めば、気色悪いほどよう似た子孫が出てくることもあるはずじゃ。  その可能性は、確かに誰もないとは言えん」 「じゃが、間違うちゃならんのは、それでも両者は別じゃあゆうことよ。そうじゃろうが、雪子さんよ。  俺も、あんたも、あいつも、あれらも、人間どいつも一世一代じゃし一期一会じゃ。生まれ変わり? ボケカス、何を血迷うちょんなら。現実を見ぃっちゅう話じゃわい。  とまあ、こんとなことを俺が言うても、どうせ聞く耳持たん輩はごろごろおるわい。基本、見たいものしか見ようとせんのが人間じゃしのう。  都合の悪いことは見ざる聞かざる。馬耳東風。ま、ええわい。好きにさらせえや」 「俺からして、別に今のが本気の熱弁ゆうわけでもないけえのう。囚われちゃあいかん、いかんで。夢を見ようや、カハハハハハ……」  酩酊が進んできたのか、男の独り語りはどんどん支離滅裂になっていく。かなり安上がりな酔い方だと言えるだろう。  呑んでいるのは美酒じゃないし、美食も別に摂っていない。加えて美談とは程遠い話をしているのだから、よくもこれで酔えるものだ。  まあ、強いて言うなら美女が目の前にいるわけで、それを肴にしているのだろう。再び酒を注いだ男は、祖母と対話するように杯を掲げて言った。 「じゃけどそれはそれとして、この際じゃし一個だけ教えてぇや雪子さん。  あんたぁ……ほんとの名前はなんちゅうんじゃ?」  問いに、当たり前だが死者は何も答えない。だがそれでも、男は引き続き重ねていく。 「あんたぁ、いったい何処から来たんじゃ?  先々代がつれて来たぁゆうだけで、俺は嫌な予感しかせんのじゃがのう」  あるいは、それこそかつての盲打ちによる奇手なのかもしれない。そして当代である彼もまた、似たようなことをやっている。 「実は俺ものう、静乃にちょいとした細工をしちょるんじゃ。迦楼羅云々の話じゃないで。  それはおそらく、先々代があんたにやったのと同じじゃなかろうか……ちゅうて思うんじゃ。  なあ雪子さんよ、じゃったらよいよ傑作じゃのう」  最初はくつくつと呻くように、だがやがて、男は爆発したような哄笑を轟かした。 「俺、実は壇狩摩の生まれ変わりじゃったんかのう! じゃったらブチ最悪じゃのう! なんなら、なんなら! 俺は俺じゃ――面倒臭いのう! ええ加減にせぇよコラ、ひゃはははははははははは!」  神祇の業を脈々と伝え続けている深山で、男は弾け笑い続ける。  それが今、渦中にある彼の娘とその仲間たちに届いたとして、意味があるのかどうかは分からない。  雪子と呼ばれた死者はただ、変わらず無言のままに久遠の時を眺めていた。 「四四八さま…… ありがとう。ねえ、四四八さま」  彼女の生きかたを決定した一人の男……その面影を追い続けて。  死してなお、降魔の剣となるべく盲目の仙境を見据えていたのだ。 「はッ、はッ、はッ、は――」 早朝――俺はいつもの通り日課のランニングをこなしていた。前の新月期からここまで約一ヶ月、当時を思えば考えられないほど様々なことが起こったし、今もまだ終わっていない。 実際、俺たちを取り巻く世界観は完全に様変わりしたと言えるだろう。もはや、自分はただの学生ですなんて自己紹介を本気で口にすることは出来ない。 だが、だからといって、これまでの日常に背を向ける必要性は感じなかった。それは以前、皆にも言ったし、目先のイベントであった文化祭を終えた今も変わらない。 学校には通うし、学生らしく過ごすし、この日課だって同じことだ。 俺は自分の精神ってやつを根拠もなく過大評価していないから、まずは身体を鍛えなければならないと思っている。 余裕があるときに寛大で優しい態度を取れるのは当たり前だが、追い込まれたときもそうあれる男でいたい。 自分は大変で、可哀想な状態だから、何をしてもいい。その権利がある――なんていう開き直りをして恥じない人種にはなりたくないと思っているんだ。 そのために今も身体を鍛えている。たとえトラブルの渦中にあっても、心の健全さを損なわないでいられるように。 皆で誓った、自分らしさを失わないでいようというスローガンを守るため。 心身共に充実した状態を維持するよう努めがけ、その形を自分自身に記憶させる。それがあらゆることに通じる基本だろうと考えていた。 俺がこの朝、改めてそう思っている理由は一つ。 「あの、四四八さん?」 「ああ、分かってる」 例の事件から一夜明けた今、明らかに調子を崩している奴がいたからに他ならなかった。 「ぐッ、は……、が、ぁあ……」 俺と信明が折り返し地点の浜辺に着いたとき、先着していた石神は全身汗だくで息を荒げていた。どうやらこいつ、勝手に爆走しただけではなく、ここでも何かやっていたらしい。 「平気か?」 「す、すまない……大丈夫、大丈夫だから」 俺が渡したタオルも目に入らない様子で、芯から疲労困憊している風だった。この体力馬鹿がここまで消耗するとは、いったいどれくらいハードなことをやったのだろう。 もはやこれは、完全なオーバーワークの領域だった。 「なんか、知らないですけど……すごい気合い入ってますね石神さん」 「こんなもんは気合いと言わん。ただの破れかぶれだ、情けない」 「おまえ、いったい何を苛ついているんだ。らしくないぞ」 そうだとも、らしくない。それは俺たちの決めた誓いに反することだろう。 目で告げる俺に、石神は一瞬苦しげな顔をしてから、悄然と首を垂れた。 「うん……本当に、すまない」 「えっと、その……」 立ち込める空気の微妙さに、信明が困っているのは明白だった。石神の変調については大方の原因も予想できるが、それはどのみちここで詰めることが出来ない話だ。 なのでそこは、ひとまず措いておくとしよう。のんびり出来ることでもないが、信明に要らない心配をかけるわけにはいかない。 「まあいいさ、それじゃあ帰るぞ」 「あ、いや、それなんだけど、四四八くん……」 「悪いが、先に行っててくれないか?」 「なに?」 まさか、まだ疲れているなんて理由じゃないだろう。そんなものはその気になれば、循法で一発回復できるものだ。 つまりこいつ、俺との絡みを避けている? 「あのな、石神……」 「ち、違う。そうじゃないって……いや、たぶん君が思っているような理由もあるんだけど、別にそこまで悪い意味じゃなくてっ」 「ちょっと、整理がしたいんだよ。だからその……」 言いつつ、石神はなぜか信明に目を向けた。 「今はなんとなく、信明くんと話したいかなぁ……みたいな」 「え……?」 「…………」 この野郎。 「なんだ石神、実は信明に惚れたのか?」 「え、や、おう――もしかしたらそんな感じなのかもしれない!」 「は? ええぇぇっ?」 すまんな信明。こいつはこういうところが阿呆なんだよ。あまり真面目に捉えないほうがいいぞ、疲れるから。 「……駄目か?」 「いや、いい。そういうことなら俺は行く」 「お、怒ってるのか四四八くん。ジェラシーなのか?」 「ぬかせ、この馬鹿」 あわあわしながら何を言っている。そういう次元の問題じゃあない。 整理が必要だと言っていたから、少なくとも逃げる気じゃないのは理解できた。なら今のところはそれでいい。 まさか信明に真相をべらべら話すはずもあるまいし、渦中の外にあるこいつと絡むことである種の気分転換がしたいのだろう。そうした気持ちは分からんでもない。 「考えが纏まったらちゃんと話せよ。あんまり待ってもやれないが、そのへんは信じてやる」 「それと一つ」 俺はあえて、神妙な顔と声を作ってから付け足した。 「信明に手を出しても無駄だと言っとく。こいつはどうやら、惚れた女がいるらしいからな」 「ちょ、な――」 「おおっ、そうなのか! それは実に素晴らしい!」 「だろ? じゃあ二人とも、学校に遅刻だけはしないようにしろよ」 「だから、ちょっと、四四八さーーーん!」 信明には面倒をかけてしまいそうだが、ここはあいつの人徳に期待しよう。 なぜなら常々思っているが、真に強い男とは信明だ。きっと石神の迷いも払ってくれるに違いない。 そう思って、俺はやや寂しい帰路についたのだった。 「ええっと……」  去っていく四四八の背を見送りながら、所在なさげに信明は当惑している。そんな彼に静乃は軽く噴出すと、豪快にその背を叩いた。 「なんだなんだ、居心地悪そうにするなよ信明くん。私と二人きりになるのが嫌なのか?」 「痛っ――ちょ、そういうわけじゃないですけど」  ただ、理由が分からない。ありありと顔にそう書いてあるのを見て取りつつ、静乃は意地悪く微笑んだ。 「まさか君、私に襲われるとか思ってるんじゃないよな? さすがにそこまで肉食系女子ではないぞ。  四四八くんが好いた惚れたの言い出すから、警戒してるのかもしれないが」 「いや、別に、いくら僕でもそこまでお目出度くありませんよ。  ただその……四四八さん、ちょっと怒ってたみたいですけど、いいんですか?」  気分転換に年上女子らしさを見せてみようとした静乃だったが、逆に心配されてしまったようだ。慣れないことをするものじゃないなと自嘲しつつ、大丈夫と呟いて顎をしゃくる。 「四四八くんはそんなに狭量じゃないよ。まあ、だからって彼の配慮にいつまでも甘えるわけにはいかないとも思っているから…… とりあえず、私たちも帰ろう。歩いて、ゆっくり。  それで、よければ少し話を聞いてくれ」 「……はい。分かりました」  そうして二人は、早朝の街を連れ立って歩き始めた。 「……つまり石神さんは、自分の四四八さんたちに対する気持ちが不実なんじゃないだろうか。そう思うようになってきたということですか?」 「うん。とある人物のお陰でな、自分がやられるまで気付かなかったというか、我ながら情けない話なんだけど……」  口調が尻すぼみになっていくのを自覚しつつ、静乃はそんなことを話していた。言う通り情けない話題なので恥ずかしかったが、信明は思いのほか真摯に聞いてくれている。 「私には雪子という曾祖母がいて、その人のことは好きだし尊敬しているんだよ。ほら、例の文化祭でやった役」 「ああ、あの演技は凄かったですね。なんか入り込んでいたというか、全然素人臭さを感じなかったですよ。〈雪麗〉《シュエリー》でしたっけ?   中国人でマフィアの娘だっていうのはオリジナルの設定だと聞きましたけど、尊敬している身内だからこそ熱が入ったというわけですか。納得ですよ。   で、具体的に曾お祖母さんのどういうところが好きなんですか?」 「いや、それがな、そう言われると理由は特にないんだよ」 「私は生前の曾祖母に会ったことがないし、彼女はたとえば柊四四八のような歴史的偉人というわけでもない」  実家に木乃伊はあるのだけど、と心の中で静乃は呟く。一般の価値観からしたらだいぶ奇異に見られることだろうと分かっているので、そのあたりは口にしない。 「ただ、なぜか、私は子供の頃から曾祖母に惹かれていたんだ。彼女のようになりたいとか、今思えば根拠もなく懐いていたよ」 「あ、懐くというのは、仏壇……や、お墓の前でよく遊んでいたという意味だぞ? 気持ち悪いか?」 「いえ、そんなことはないですよ。大なり小なり、誰でもやることでしょう」  木乃伊の膝を枕にして絵本なんかを読んでいた、と言ったら信明は卒倒するかもしれない。だがそれは、静乃にとって紛れもなく幸せな記憶だった。なので話半分とはいえ、理解を示してくれたことに礼を言う。 「ありがとう。とにかくそんな感じで、私は曾祖母が好きなんだ。だから彼女を褒められれば嬉しいし、そこに疑問は持ってなかった」 「けどな、混同してものを言われるとやはり複雑だったわけで……」  クリームヒルトと水希の戦い。原理は未だ不明だが、それを垣間見ていたときの記憶が、静乃に自省を促している。 「雪子さんは私じゃないし、私も当然雪子さんじゃない。だから一緒にされても困るんだよ」 「そういうようなことを言われたんですか?」 「はっきりしたものじゃなかったが、ニュアンス的にはそう感じたな」  雪子を頼む。彼女を守ってやってくれ。それがクリームヒルトの残した言葉だ。その真意は措くとしても、大事なのは静乃がどう受け取り、どう感じたかということだろう。 「別に向こうは混同しているつもりじゃなかったとしても、私はそう聞こえたんだ。それで、なんだか嫌な気分になった」 「と、同時に、気付いてしまったわけなんだよ。これはもしかして、私も散々やっていたことじゃないのかと。   ああ、何て言えばいいのかな。こういうの」 「ブーメラン?」 「そう、それだ」  自分の馬鹿さ加減が自分にそっくり返ってくるという現象。静乃を気落ちさせているのは、つまりそういうものだった。 「私は四四八くんたちに、凄く失礼なことをしていたのではないのかと。  だってそうだろう? 君のご先祖の大ファンだから君のことも好きだ、なんて言われたらやっぱり複雑なものだよな?」 「ま、それはそうでしょうね。僕だって、姉さんがなまじスペック高いですから、他人事じゃないし。   他にも、親が芸能人とかスポーツ選手とか、そういう家庭に生まれた人は同じような経験をしているはずですよ。七光りが鬱陶しいみたいな」 「石神さんの不安は分かりました。なるほど、それは確かに相談しづらい。  当の四四八さんたちに話すのは、かなり勇気がいりますね」 「うん……」  だから静乃は、所在なく縮こまっていく。まさに穴があったら入りたいというやつだ。  しかし信明は、そんな静乃を馬鹿にしない。むしろ朗らかに、元気付けるような調子で言った。 「だけど石神さんは、ちゃんとそれを自覚して謝りたいと思っている。なら問題はないでしょう。きっと四四八さんは待ってくれますよ。  なので焦らず、今は勇気を掻き集めながら言うべきことを考えたほうがいいですね。自分の気持ちを、ちゃんと誤解なく伝えられるように」 「そ、それで、言ったら怒られないかな?」 「そりゃ怒られるでしょうよ。ああいう人なんですから」 「気付くのが遅い、この馬鹿者――とかズバっと言われちゃいますよ。それくらいは覚悟しましょう。   でも、きっとその後は……」 「許してくれる?」 「でしょうね。そもそも許す許さないの問題じゃないと思うし。   石神さんは、もう四四八さんたちの仲間なんですから」  当たり前のようにそう言われ、胸のつかえが取れていくのを静乃は感じた。これまで、年下だからと少し信明のことを侮っていたのかもしれない。そこも反省すべき点だろう。 「ありがとう……そう言ってくれると助かる。   考えてみれば、ずっと秘境みたいな田舎でおかしなことばかりやって育った私は、人付き合いのド素人なんだよな。そのへんは、君のほうがよっぽど大人というわけか」 「ですかね。実際苦労はしてますよ。周りが濃い人たちだらけですから。  それで、四四八さんたちにどう謝るかは、少しでも纏まってますか?」  問われ、静乃は頷いた。信明と話している中で、まだ完璧じゃないものの、ぼんやりと見え始めている。 「私はただ、純粋にみんなと会えたことが嬉しいんだ。動機がなんでも、混同があったとしても、その気持ちだけは嘘じゃない。   だから、みんなに嫌われたり、会えなくなったりしたら寂しい。これはきっと、彼らの血筋がどうだろうと変わらない気持ち。   それを私は、誇らしく思っているんだ」 「分かりましたよ。じゃあそういうことで――」  そろそろランニングを再開しましょうか。と言った瞬間、信明は唐突に胸を押さえた。 「え、あれ……?」  さっきまでの和やかな気配が消え去り、まるで動力を止められたように緩慢な挙動となっていく。顔から血の気が引いていく。 「信明くん――!」  発作――その単語が咄嗟に浮かび、静乃は慌てて駆け寄った。  そうなのだ。普段あまりにも平気な様子だから意識していなかったが、信明は体調に問題を抱えている。 「あ、大丈夫。大丈夫ですから……こんな程度は、別に……」  珍しくもない、よくあることだと、静乃を制して言う信明。見ている側は気が気じゃなかったが、どうやら虚勢でもないらしい。さほど間を置かないうちに、紙のようだった顔色も戻ってきた。 「ほら、ね。たいしたことじゃないですよ」 「だけど、君は……」 「ええ、分かってます。もちろん無理はしませんし、残念ですが今朝のランニングはお終いですね。  タクシーでも捕まえて、ひとまず家に帰りますよ」 「分かった。じゃあ私も同行する」 「え、そんな、悪いですよ石神さん」 「いいんだよ。少しは年上らしいことをさせてくれ。責任というものがある」  言いながら、静乃は通りを見回してタクシーを探す。携帯電話は持ってないから、こうやって通りがかるのを待つしかない。 「すみません。ご迷惑をかけて」 「気にするな。お互い様だ」  と、そこで静乃はあることを思い出した。病気持ちという信明の状態を見て、連想するものがあったのだ。 「なあ、それはそうと信明くん。君は緋衣という名に心当たりはないか?」 「……え?」 「うん、だから緋衣。相当な重病人のはずだし、病院とかで聞いてはいないかなと」 「石神さんは、その人のことを捜している?」 「まあな。実は一度、前にこのへんでそれらしき奴を見かけたことがあるんだが、どうも確信が持てなかったから逃がしてしまった。あまりに酷い状態だったから、まさかと思う気持ちもあったし……」 「上手く言えないんだが、君がそいつとダブって感じたこともあるんだよ。私がこっちに越してきたばかりのとき……ほら、君はあの頃、夜中にふらふらして水希を心配させていただろう。   それを遠目に見たとき、ふとな。なのでそういう……」 「…………」  ああ、いけない。慌てているせいか口が軽くなっている。明らかに困っている信明を見て、静乃はまたしても自省した。 「ま、まあとにかく――そいつに会っても関わらないことだ。君の教育に良くないと思うし」  どころか、おそらく極めつけの危険人物である。信明を危ない目に遭わせたくないという気持ちは、静乃も四四八たちと同様だ。  ゆえにこんな話はもう切り上げ、ようやく通りがかったタクシーに手を振りながら停止を促す。 「よし、それじゃあ行こうか。あと、今日は本当にありがとう」  まだ表情が曇ったままの信明を元気付けるべく、心からの笑みを浮かべて静乃は言った。 「いったい誰なのかは知らないが、君に好かれているという女子は幸せだな。どんなときでも、君なら味方になってくれるだろうという安心感がある」 「正直、妬けるよ。羨ましい」  それは本心で、偽りなく思っていることだった。  だからこそ―― 「それを言うなら、四四八さんだってそうでしょう」 「うん、まあ、君の言うとおりなんだけど」  苦笑して、頬を掻く。そうだよ、だからこそ見合う己であらねばならない。  自分が真にみんなを想っているということを、まず信じてもらわなければ始まらないんだ。 放課後を迎え、俺は晶と下校していた。 最近は自然と二人でいることが多くなっている。こいつと一緒のときは気を遣わないで済むから、それは安心できる時間だった。 空気のような感じとはよく言ったものだ、などと思っていると晶に電話がかかってくる。 「あー、家からか……ちょっと悪いな四四八」 「はいはい、どしたの親父。え? 今帰ってる途中だけど」 「うん、うん、四四八も一緒。うるさいな、んなことどうだっていいだろ。それよか用件は何なんだよ」 「え? うん、分かった。いつもと同じのでいいよな? うん」 「あい、了解。んじゃな、はーい」 「剛蔵さんからか」 通話を終えた晶に俺は問う。 「ああ、聞いての通り、ちょっと買い物して帰ることになっちゃってさ。蕎麦の材料とかなんだけど」 「悪いけど、あたしこれから商店街の方寄っていくわ」 「じゃあ、俺も付いていっていいか?」 「え、そりゃいいけど……」 「でも、店で使うようなもん買うだけだし、四四八が来ても退屈なだけかもしれないぞ?」 「そんな遠慮するなよ。そもそも買い物ってことは、荷物だって増えるだろう」 「女一人じゃ大変だろってことだ。さ、行くぞ」 偶然とはいえこの場に居合わせたんだ、じゃあなと言って帰るほど薄情じゃない。 蕎麦の材料ということはそこそこ重いものだろうし、荷物持ちもいた方が楽なはずだ。 晶はしばし迷っていたが、やがて俺を見上げて言う。 「ありがとうな、四四八。じゃあお願いしようかな」 「いや、ほんと助かるよ」 ああ、と答え、俺たちは商店街へ向かうのだった。 やがて目的地に着き、俺たちはお使いを果たす。 そうしてきそば真奈瀬に向かう途中、晶が不意に言ってきた。 「そういえば、あたし最近蕎麦打ちの修行を始めたんだよ」 「そりゃ初耳だな、すごいじゃないか」 「まあ、まだまだ駆け出しだけどな。親父の作業見ながら色々習ってるところ」 「結構な肉体労働なんだよな、これが。なかなかきつくて大変だよ」 父親の仕事を学ぶという晶の決断は、とても自然なものに感じられた。 幼い頃から自分を支えてきた剛蔵さんを、こいつは心から尊敬している。同じ道を志すのも納得というものだろう。 しげしげと見つめる俺に、晶は照れつつ口にした。 「ほら、あたしらもいずれは千信館卒業するじゃん。その後どうするかってことも、考えないわけにはいかないかなぁって」 「それじゃ、やっぱり将来は──」 「うん。まずは実家の手伝いしながら、それからきそば真奈瀬を継ぐ準備も始めようかと思ってる」 「なんだかんだであたしも、あの店が好きなんだよな。親父の後の代までずっと続いてて欲しいしさ」 「それに、四四八は東京行くんだろ?」 「帰ってきたときに、あの店がなくなってたら悲しいだろ。おまえ昼飯どこで食えばいいんだよ」 「ああ、確かにそうだな」 晶の言う通り、俺はきそば真奈瀬で育ってきたようなものだ。もしなくなったら故郷が失われたに等しい痛手だろう。 ぜひ晶には、修行を頑張ってもらわないといけない。 そこまで考え、俺は一つ思いつく。 「これから、俺も見に行くよ。おまえの修行風景を」 「え、ええぇぇぇっ!? 四四八おまえ、いきなりそんな……」 「嫌か?」 「そんな、嫌とかってわけじゃないけどさー、こっちはまだぺーぺーなんだぜ? 見られるのが恥ずかしいつうか……」 「どうして恥ずかしがる必要があるんだ? 始めたばかりでまだ拙いというのは当たり前のことだろう」 「そんなことくらい分かっているさ。俺はただ、おまえがどういう風に蕎麦の修行をしているのか知りたいだけだよ」 「きそば真奈瀬の秘伝が門外不出というのなら諦めるが……どうだ?」 俺は単に見ておきたいのだ。頑張っているこいつの姿を。 「う、うぅ~……そうまで言われると断りづらいだろ」 「ならいいじゃないか。決まりだな」 「押し強ぇな、まったく──検事に向いてるよ、おまえ」 「褒め言葉として受け取っておくよ」 結局なし崩し的にではあったものの、今日はこのまま付いていくことになった。 そして。 「ただいまー」 「おお、帰ってきたか。急に買い物頼んで悪かったな」 「あら、四四八~」 「お邪魔します、剛蔵さん。晶に聞いたんですけど、今日ってこれから蕎麦打ちの修行をするんですよね?」 「ああ、まだ本格的な段階じゃないけどな。これから、そっちの厨房で稽古をつけてやろうと思ってたところだよ」 「それって、俺も見学させてもらってもいいですか? あ、もちろんお邪魔なようであれば結構ですが──」 俺の言葉に目を丸める剛蔵さん。困るというよりも、虚を突かれたという感じだ。 「いや、俺は別に構わないが……しかしちょっとばかし緊張するな。なんというか、晶の料理の腕前がチェックされてるみたいで」 「将来のお嫁さんだからこそ、今の内に見ておきたいってことなのかしら」 「いや、恵理子さん、きっとそういうんじゃないです」 「そうだぞ母さん。俺はただ応援しに来ただけだよ」 妙な方向に流れかけたので、そう釘を刺しておく。そもそも、俺がチェックなどしなくても晶は努力を怠ったりしないだろう。 やると決めたらとことんまで、それがこいつなのだから。 しかし、剛蔵さんはどうも意識しているようだった。そんなつもりはなかったのだが、邪推をしても仕方のない提案だったかもしれない。 「ああ、じゃあ味見も四四八にしてもらったら? やっぱり第三者の意見っていうのも必要だし」 「ね? 剛蔵さん」 「あ、ああ、そうだな。四四八くんはそれでいいかい」 「はい、お願いします」 「ちょ、待てって。あたしはまだそんなレベルじゃ」 「気合い入れていくぞ、晶。今日だけは無様な姿を晒せんからな」 「それじゃあ始めるぞ、着替えてこい」 「あー、もう分かったよ。こうなったら精一杯やってやるっ」 「楽しみねー、四四八」 「まあな」 そして、晶の蕎麦打ち修行が始まった。 当たり前のことだが、剛蔵さんの指導は至極真面目なものだった。 口当たりこそ普段通りだが、そこに妥協は一切見られない。晶が実の娘であることすら忘れたかのように……いや、家族であるからこその厳しい指導だ。 「どうしたどうした。そんなことじゃ常連さんは満足してくれんぞ。もっと腰を入れて打つんだ。セイッ!」 「はいっ!」 そう言って蕎麦を打つ晶は、本当に一生懸命頑張っている。 これはもう見るからにきつい類の肉体労働だ。ほとんど全力で蕎麦を叩きつけ捏ねる。しかも一度では終わらずに、ひたすらそれの繰り返しだ。 並の男ですら音を上げてしまいそうなものなのに、しかし晶は挫けない。 言われた通りに、いや、それをも上回ろうと試行錯誤しながら蕎麦打ちに取り組んでいた。その様子からはこいつの本気が見て取れる。 きそば真奈瀬に対する思いを、ひしひしと感じるのだった。 「晶ちゃん、頑張ってるわね」 「ああ、さすがだな」 「こういう時は、母さんも邪魔しちゃ駄目だからな」 「ふふ。分かってますー」 俺たちはそうやって話しながら、蕎麦と格闘する真奈瀬親子を見守った。 そして── 「うえー、疲れたー」 「お疲れだったな、晶」 ひと段落着いたところで、少し休憩を挟むことになった。 晶が今日やるのは生地を打つところまで。それを剛蔵さんが蕎麦にして運んでくれた。つゆの香りが食欲をそそる。 「なあ、どうだった四四八? あんなん見せるの、ほんと恥ずかしかったんだからなあたしは」 「いや、そう言ったものでもないさ。なかなか筋はいいように俺には見受けられたぞ」 「これから剛蔵さんの指導に基づいて努力していけば、いずれはひとかどの蕎麦打ちになれるんじゃないのか」 「えー、そうかなぁ。お世辞ならいいからな、無理して言わなくても」 いや、決して世辞というわけじゃない。晶はきっと職人として一番大切なものを既に持っている。 それは己に対する誇りであり、この店を思う気持ちだ。職人の軸とも言えるそれさえしっかり持っていれば、後は努力を重ねるだけだろう。 「今は基礎を固める時期だろうからな。辛いだろうが挫けるなよ」 「俺でよければ、いくらでも頼れ」 「はいよ、ありがとな」 そう言って、互いに笑みを交わす。さあ、いよいよ実食だ。 「うー……いざこうなってみると、やっぱ緊張するな」 「心配するなよ。あれだけ頑張ってたじゃないか」 「それじゃ、いただきます」 「召し上がれっ」 神妙な表情の晶に見つめられながら、箸に蕎麦を絡め、啜る。 そして…… 「──美味い」 「ほ、ほんとに!?」 「ああ、食べやすいにも関わらず、コシもしっかりとある。打ち始めでこれは、かなり筋がいいんじゃないか」 「頑張ったな、晶」 「へへ、そっかぁ……」 「いやー、よかった。正直めっちゃほっとしたわ」 心の底から嬉しそうな表情を浮かべる晶。それを見られただけで、ここに来た甲斐はあったなと思う。 「さ、どんどん食ってくれ。なんだったらお代わりもあるからな」 「おう」 実際のところ、空腹にこの蕎麦はありがたかった。剛蔵さん手製のつゆが優しく胃に染みる。 俺は勧められるままに箸を進めていき── 間もなく、椀は綺麗に空になった。 「ご馳走様でした」 「はい、お粗末様でした」 「いやー……食うの見届けたら、どっと疲れが出たわ」 「肩凝りとかさ、実は最近ひどいんだよ。やっぱ蕎麦打ちで身体使ってるからかな?」 「早く慣れないかなー、あたたた……」 そう晶は言いながら、ぐるりと肩を回す。 凝っているという原因は剛蔵さんとの修行にもあるだろうが、もう一つ思い当たる節がある。 それは、こいつの胸がいささか大きなサイズだということだ。やはりその、なんというか……起因している部分もあるんじゃなかろうか。 いやいや、なにを考えている柊四四八。晶が身体の不調を訴えているのだ、茶化していいはずがない。 ここは癒やしてやることこそ筋というものだろう。真にこいつの力になりたいというのであれば、迷う余地なくそうなるはず。 「晶。肩、揉んでやろうか?」 「え、どしたんだよ。いきなり」 「気にしなくてもいいさ、食費代わりだよ」 「いや、あたしはそりゃありがたいけど……」 「マジでいいの?」 「無論だ」 了解も取れたということで、俺は晶の後ろへと移動する。 「それじゃ、いくぞ」 「ああ、頼むわ」 小さな肩へと手をかけて、ゆっくりと揉む。決して力を入れすぎないように、一度、二度、三度…… 「あ、いいわー。気持ちいい」 「そこそこ、もう少しだけ強く」 「こうか?」 「んん、いい……上手いな四四八」 吐息と共に、悦楽の声を上げる晶。 実際こいつの肩は固く、どれだけ頑張って蕎麦打ちに取り組んでいるかというのが窺い知れる。 「あのさ──なんかいいよな、こういうの」 晶はそう言って、穏やかな笑みを浮かべている。 ああ。多分、同じことを俺も思っていた。 「変な意味じゃないけどさ、今のあたしらって、まるで長年連れ添った家族みたいじゃん?」 「蕎麦作って、食ってもらってさ。そのお礼っつって、四四八が肩揉みしてくれて……」 「この歳で言うことじゃないかもしれないけど、幸せ」 うむ……その、なんだ。 ずいぶんと艶っぽいじゃないか。 聞いてるうちになんだか照れてきて、それを誤魔化すためについ強めに力を入れてしまう。 「ぉ、あたっ──」 思いのほか晶が派手にリアクションしてしまい、その拍子にかたんと椀が鳴る。 まずいと思ったと時には遅く、蕎麦つゆが零れてしまった。 俺にもかかったが、手の端の方だけである。床にも少し散ってしまったのが気になりはするものの、まあ助かったと言うべきだろう。 しかし── 「うわわわ、あちゃちゃ!」 ジャージに直撃してしまった晶が慌てて脱ごうとして、っておいっ! 「ちょっと待て、それはまずいぞ晶っ」 「どうしてだよっ」 「って、そりゃ──」 おまえ、それ脱いだらどういう格好になるんだよ。 蕎麦を食べ始めてからしばらく経つし、実際そこまで熱くはないのかもしれない。が、晶は驚いてしまいちょっとした興奮状態となっていた。 「あっ、つう……四四八ぁ、もう我慢できないよあたし」 「早く脱がせて、お願いだから」 「待ってろ、そんなに慌てるな」 「焦らすのかよぉ、もお~」 「なに平然としてんだっての、ほら早く」 そのような遣り取りをしている、まさに最中── 「あ……」 「四四八くん、晶……これは、その……」 「わお」 互いの親が、家の奧から現われた。 剛蔵さんは俺たちを見て固まっている。顔はもう茹で上がったかのように真っ赤である。 そこでふと思う、俺たちの様子をいったいどこから見ていたんだ? この場での光景は、確かに誤解されてもおかしくない内容だったが…… 「あ……いや、違うんですよ剛蔵さん」 「これはそのですね、ちょっとした事故であり」 「どうしたんだよ、親父」 晶は状況を分かってないようだった。剛蔵さんは複雑そうに笑み、俺たちに告げる。 「いや、俺は二人が仲睦まじくしていることに何も言うつもりはないさ。むしろ祝福するつもりだよ」 「だが、その、そういう関係に至るまでには、いささか早いような気もするし……何よりも、互いにまだ学生であることだし……」 剛蔵さんは祝福をしてくれようとする一方で、なんだか常識的なことを言おうとしている。 それに対して── 「いや、私は待ってたわよ四四八、晶ちゃん!」 母さんは喜びをなんら隠すことなく告げてくる。 目の奧は爛々と輝いており、子供かよと言いたくなってくる。 「いや、だから母さん。これは別に」 「ああ、聖十郎さんにも早く教えてあげたいわ。四四八が大人になりましたって!」 「もうすぐ、私たちの孫が産まれますよー! 聞こえますかー、聖十郎さーん!」 「よせってマジで!」 父さんに届けとばかり、声を限りに夕空に叫ぶ母さんをどうにか止める。 まさか聞こえやしないだろうが、恥ずかしいことには変わりない。 そして──母さんがそんなことを言うので、つい俺も想像してしまった。 もしも俺と晶に子供が出来た場合、あいつはどういう反応を見せるだろうか…… 「なに、餓鬼を孕ませただと。貴様、避妊も満足に出来んのか?」 「塵め」 そんなろくでもない想像をして―― 「ブチ殺すぞクソ親父ィ!」 つい、遙か遠くにいるはずの親父にそう叫んでしまうのだった。 放課後の校庭では、運動部たちが各々の活動を行っている。 そんな中に紛れて、歩美は先ほどからずっと外周を走っていた。 この場において、こいつほどグラウンドが似つかわしくない奴も珍しいだろう。 「はぁ、はぁ……はぁっ……」 「も、きっつい……うぅ~~……」 ひいひい言いながら、ほとんど歩美は死にそうになっている。 普段から運動の苦手なこいつのこと、校庭を何周もさせられればきついに決まっている。 しかし。 「ほら、さっきよりペース遅れてるぞ。頑張れ頑張れ、あと少し!」 心を鬼にして、俺はそれを叱り飛ばしていた。 そう、言うなれば今の俺は歩美の監視役に他ならない。別に苛めたくてやってるわけじゃない。目を離せない理由があるのだった。 「おー、いいぞ。これで今何周だ?」 「七、周……」 「違うだろ、まだ六周だ。ちゃんと数えてたんだからな」 「歩いてもいいし遅くなってもいいから、ちゃんとやれ。誤魔化すな。俺はここでおまえのゴールを待っててやるから」 歩美はこういう奴なのだ。どうにかして俺の目を逃れて楽をしようとする。 色々周回とか誤魔化そうとしているが、見逃してはやれない。それはこいつの為にならないからだ。 「四四八くんは、走れって言うけどさ……わたしはそんな、身体強くないしー」 「だったら、自分のペースで量を調節しても、別にいいじゃんね」 「おまえな、そういうところが甘えているというんだよ」 「だいたい、今回罰走するに至った趣旨を理解してるのか?」 「あーん。鬼ぃ、悪魔ーっ」 「なんとでも言え。些細な誤魔化しとて見逃さんぞ」 「いいですよー、やりますっ。走ればいいんでしょっ」 そんな幼稚な口答えをする歩美に、俺は深く嘆息する。少し厳しくしすぎただろうか。 しかし、これは歩美の自業自得なのだと心を鬼にする。そう、原因は紛れもなくこいつにあるのだった。 事の発端は休み時間、歩美が落としたある〈も〉《、》〈の〉《、》にあった。 「あ、いっけない」 それは携帯用ゲーム機で、歩美は常に持ち歩き隙間時間にFPSをやっている。 しかし、無論のこと学校に持ってくるのは禁止されている。それゆえ焦ったのだが、一緒にいた栄光が他の誰かに見つかる前に拾ってくれたのだ。 「おい、歩美これ落としたぞ」 「今カツーンっていい音したよな。傷とか付いてなきゃいいけど」 「んあー、それなんだ? 大杉ぃ」 ゲーム機を拾い上げたその瞬間、先生に見つかってしまったのだ。 あーあ、と歩美は顔を覆う。芦角先生がいくらいい加減でも、一応のところ教師なのだ。この状況はさすがにまずい。 「おまえ、なーに持ってきてんだ大杉。しかも私の前で落とすか、挑発かそれ」 「ああ良い度胸だこっち来い。とっくり説教くれてやる」 「いやいや先生、すいません。それ誤解っす」 「これオレんじゃなくて、歩美が持ってきてたヤツなんすわ。だから説教とかはちょい違うかなって」 しどろもどろで言う栄光から視線を外し、先生は歩美を見る。 「おまえのか、龍辺」 「えー、なんですかそれ? わたし知りませぇん」 「持ってきてたのは、栄光くんだと思いまーす」 「ほら、こう言ってるぞ。おまえ責任逃れするなよなぁ、いつまで経ってもモテんぞそんなことじゃ」 「女を生贄にしようとか、恥を知れ恥をッ」 「いや、マジ違うんすよ。ちょ、先生っ」 「ってか、歩美おまえなぁ──」 芦角先生の視線が届かないところでニヤリとほくそ笑む歩美。ああ、これはいかんだろう。 こいつは昔からこういうところがあって、とにかく要領がいいのだ。自分に累が及びそうになったらするりと器用に逃げていく。 その器用さは、こういうアドリブを求められる場で如実に発揮されるのだった。 このままだと栄光は誤解のまま罰されるだろうし、歩美は上手く逃げおおせるだろう。普段の場面ならそれでもいいのだが、校則の絡んでいることを誤魔化すのは良くない。 それに── 「いや、待ってください先生」 「あ? どういうことだ柊」 「それは間違いなく歩美のです。落とすところ、俺も見てました」 毎回こうして上手くいくようでは、きっとこいつのためにならない。いつまでも責任を取らないじゃいかんだろう。 真相を明かした俺に先生は迷っているようだった。自分で言うのもなんだが、こういう時の信頼はあるつもりだ。 「電源入れて、ホーム画面とか見ればわかりますよ。ハンドルネームとか壁紙とか、栄光のセンスじゃないでしょうから」 「おおっ、それ名案だな。じゃ、さっそく」 「ちょ、四四八くん。それはプライバシーの侵害だって」 「ほうほう、そうなんだなぁ」 「おまえのプライバシーが、この中には詰まってるということでいいんだな?」 「あ……」 というわけで、珍しくも歩美は馬脚を現わすこととなったのだ。 科せられた罰はゲーム機没収と、校庭二十周。厳しすぎず温すぎず、まあ妥当といったところだな。 そして、歩美はどうにかこうにか走り終わった。 慣れない運動をしたせいか全身汗だくであり、恨みがましい目で俺を見てくる。 「頑張ったな、お疲れさん」 「もう、ほんと四四八くんは~」 「あんなこと言わなきゃ、上手いこと逃げられたのにぃ。ちょーっとわたしがミスったからって、ここぞとばかりにやったでしょ」 「そりゃ、ここぞとばかりにやったよ。分からせてやらねばならんからな」 頬を膨らませたままの歩美と向き合い、俺は真面目に諭す。 「要領がいいっていうのはおまえの長所だがな、それも時と場所によるだろ。他人を巻き込むのは感心しないな」 「たまにはこうやって、反省を促した方がいいだろうという判断だよ」 そう、歩美がこういう風に尻尾を晒してくれたのは極めて珍しいことだ。 掴まえどころがないのもキャラの内ではあるものの、違反は違反だ。見逃すわけにはいかない。 「別にさー、栄光くんにだって後でちゃんとフォローしようと思ってたのに。のっちゃんのブロマイドでもあげたら喜ぶでしょ?」 ああ、そうだろうなと首肯する。いつも歩美はこういうことをやるけれど、同時にフォローも忘れないのだ。 野澤の写真なんか貰ってしまえば、確かに栄光は喜ぶことだろう。むしろ泥を被ったことなど忘れてしまうかもしれない。 こういう気遣いが出来るからこそ歩美は憎まれないし、周囲もたまに切れながらも許容している。そう、決して悪い奴ではないんだ。 「でもな、良くないものは良くないんだよ」 少しばかり覚悟を決めて、俺は歩美へと向き直った。 「おまえはたぶん、何処に行ってもその調子でやっていけるだろうと思う」 「世渡りも上手で愛想もいい。皆に可愛がられることだろうさ」 「だけどな、なにが起こるか分からんだろう。上手く逃げたそのつもりでも、相手次第では問題になるかもしれないんだぞ」 「うー」 いや、唸るなよ。 とはいえ俺がなにかを伝えようとしていることは察しており、黙って話を聞いている。 「そもそもおまえ、身体能力は一般人以下だろうが。今の罰走でもそうだったけど」 この現代社会、頭が回ればおおむねの場合において窮地は乗り越えられるんだろうが、世の中には土壇場というものがある。 そこでは普段想像もしていないほどシンプルな理によって、すべてが決したりするものだ。 つまるところ── 「俺は心配なんだよ、おまえのことが」 「頭だって切れるんだから、リスクも承知してるはずだろう。なら、あまりスレスレの行動は慎んでくれ」 正面切っての物言いに怒るだろうかと思っていたが、歩美の反応はまったく逆のものだった。 どこか照れてしまったかのように、顔を赤く染めている。 「言うねぇ四四八くん。わたしのことが心配って、らしくないなぁ」 「いつもはむしろ放任なくらいなのにさ」 「それは、おまえのことを信頼してるからだろう」 「一目置いてるからなんだよ。これも分かってるんだろう?」 「う、うぅ…………」 「も~、まったく……言うかなぁ、そうやって正面からさ……」 しばらくそうやってもじもじとしていたが、やがて歩美は俺を見上げて口にする。 「そういうのはいいんだよ、わたしはもう」 「四四八くんが、これからもずっと一緒にいてくれればさ」 「いや、だからそれが出来なかったときのことを俺は話していてだな」 「現実的に考えて、四六時中ずっと傍にはいられない。そうだろう?」 「ゆえにこそ、普段の姿勢を正すことこそが肝要であると説いているんじゃないか」 歩美はきょとんとした顔のまましばらくじっとしていたが、やがてどこか拗ねたように一歩詰め寄ってくる。 「あのさぁ、それってちょっと鈍感が過ぎるんじゃないかなあ」 「女の子を期待させといて、この朴念仁め……」 「いや、だから何のことだ?」 「がー! ファーック!」 ついには暴れ出す歩美。いったい俺の話のどこが気に入らなかったというんだ。 ああ、もうやむを得んな。 「分かった、すまない。これは俺の責任だな」 「だから、ここに約束させてくれ。俺はおまえの隣にずっといる」 「先のことはまだ断言できないけど、少しだっておまえから目を離さないようにしたいと思うよ」 そう、想いを告げる。 再び歩美が目を見開いている。どうした、これが俺の本音だぞ。 「……四四八くん。その、言ってる意味分かってる?」 「分かってるぞ」 「いや、そうじゃなくて……それってさ、つまり」 「じゃあ、俺は教室で待ってるから、おまえも早く着替えてこいよ」 「あ、ちょっと待ってよー!」 「今のもっと詳しく聞かせてってば、四四八くーん!」 そう言いながら、歩美は俺の後を追ってくる。 いや、こっちとしてもあれで精一杯なんだ。おまえこそ少しは汲んでくれ。 心配しなくても、ちゃんと意味は分かって言ってるから。 だからまあ、今後もよろしくだ。そう心の中で呟きながら、俺は教室へと向かうのだった。 放課後、特にすることもなく俺が校内を歩いていると…… 「よぉ柊、おまえ今一人か?」 「はぁ、そうですが」 「だよなー。いや、ごめん。実は聞く前から分かってた」 声をかけられると同時、芦角先生が妙に馴れ馴れしく肩を組んでくる。 「だーってさ、もう見るからに暇そうなオーラ出てるもんおまえ。なぁ?」 「めんどい授業を終えて、これからいざ放課後だってのに、一緒に帰る相手もなしかぁ」 「さぞ寂しかろう青少年。分かるぞうんうん、ドンマイだ」 「いや、なんですか。いきなり」 教え子の姿を見るなり暇そうだと因縁つけてくるのはどうなんだろうか、教師として。 そもそも授業が終わって暇なのは当然のことだ。一日の緊張からようやく解放され、さあ家に帰ろうとなるのが放課後のあるべき姿だろう。 まあ、暇かと言われれば実際その通りであるのだが……誰かと会う予定も行くあてもない俺は、先生の言うように時間をいささか持て余している。 とはいえ、それを面と向かってからかわれる覚えはない。満面の笑みで指摘するなよと言いたくなってくる。 別に、放っておいてくれればいいだろうに。 「というか、どうしてそんな上機嫌な顔してるんですか」 俺の目の前にあるのは、とにかく嬉しくて仕方がないというような笑みだ。 なにかあったのかと勘繰っていると、芦角先生はさらに接近してきて言う。 「柊。おまえは本っ当────に駄目なやつだな」 「いや、反論はいらんぞ。ここで私に会うっつう時点でもうダメダメなんだよ。いったい今までおまえなにしてた? 時間はたくさんあったろう」 「どうせフラフラ目移りしてたんだろ。あっちとこっち、あわよくば同時にいい顔出来るとか考えてなかったか?」 「それはいかんなぁ、本当いかん」 「不埒なことは一切許さんと、私があれほどきつーく言っておいてやったのになぁ。守らないからこうなるわけだ」 「情けない。まっことに情けないっ」 「…………」 からかいなどという生温い表現を超越した、喧嘩を売るに等しい物言いで先生は俺に説教をくれる。 なにをわけの分からんことを──そう突っぱねるのは簡単だ。いつものことだとすら言ってもいい。 しかし、どこか彼女の言葉には引っかかる部分がある。 一笑に伏すことの出来ない、俺という存在の根幹を刺激する毒のようなものが見え隠れしているのだ。 ただ絡まれているだけなのに、何がこれほど気にかかっているというのだろう? 駄目な奴だの、目移りだの、まるで俺が女に対して不誠実であるかのような気分になってしまうじゃないか。そのようなことは断じてないぞ。 むしろそこまで周囲の連中と遊んだような覚えもなく、ああ、だからこそ心を痛めているのか? 分からない。 「いやいや。そういうのって、時間を無駄にしてると思うぞ私は」 「ここに至るまで決めきれなかったこと、あるだろ? それがショボいって言ってるんだよなー」 「だがまぁ、全部ひっくるめて青春だ。うん、私はそういうタイプの若者好きだから安心しとけ。仲間が増えたっつうか、なんつうかな」 「いいじゃないか、ぼっちでも。おまえはまだまだ学生だ。ひたすら極めよ勉学の道を。わっはっはっは────」 最後まで妙なことを口走りながら、先生はこの場から去っていった。 一人残された俺に、周囲の視線が集まる。いや、今言っていたのは違うんだ、そうじゃない。 どうしてだか知らないが、ぼっちと思われることに対して全力で弁解をしたくなってしまう。というか本当── 「なんだったんだ、今のは……」 いきなり現われて小馬鹿にされ、どうして俺の方が動じなくてはならないんだよ。 釈然としない思いを抱えたまま、俺は帰宅の途につくのだった。 放課後、俺は教室へ荷物を取りに戻る。 間もなく行われる中間テストのことで、今まで先生に呼ばれていたのだった。 とはいえ、別に大したことを話したわけじゃない。むしろその逆、実につまらない手伝いをさせられたのだ。 「おぉ柊。あのな、これからテストの問題作ろうと思うんだが、その資料がちょーっと私じゃ手の届かない場所にあってー」 「おまえなら踏み台使えば余裕だろ。ほれ、こっちこっち。あそこの上にプリントが積んであるよな。あれ取ってくれ」 「────」 見れば、ああ確かに大量のプリントがロッカーの上部に乗っている。 先生の言うとおり、俺が踏み台を使ってようやく届くかどうかという高さである。これは女性が取るには大変なんだろう、それは分かるが。 「どしたー? 妙に真面目な顔して。腹でも痛いか」 「いえ、そういうわけでは……」 「ならチャチャッと済ませてくれ。ほい、よろしくー」 俺が先生をじろり見たのは、こんなことのためにわざわざ呼び出したのかという意味であった。 だってそうだろう。こんな雑務なら、他の教師に頼めばいいだけじゃないか。 いくら生徒の方が使いやすいからって、こういうのはどうかと思うぞ。 などと腹の中に抱えながらも、ここまで来てしまったからには仕方ない。俺は言われるがままにプリントを下ろすのだった。 そして戻ってきた教室では、一人の生徒が残って勉強をしていた。 こういう世良の姿は、テスト前の定番である。 家でやった方が能率いいんじゃないかとは思うものの、世良は昔からずっとこうだった。 勉強方法は人それぞれであり、自由なものである。だから俺もことさら何も言わず接していくことに決めていた。 「よう、お疲れ」 「あ、柊くん。呼び出されてたのはもういいの?」 「ああ。別になにか用事があったわけじゃない、いつも通りの雑用押しつけだ」 「ふふ、相変わらずだねハナちゃんも」 「まあ、もう慣れてしまったと言えばそれまでなんだが」 そう、割とよく無茶で無体な言いつけを受けている。おかげで必然、俺は自分のペースを保つのに苦慮することも多い。 現にもうすぐ夕方だ。これから家に帰って色々して、という流れでいくとすぐ夜になってしまう。 ならば──と、俺は一つの考えを思いついた。世良の姿を見て、そういう気分になったのだ。 「今日は俺もここで勉強していくかな」 「柊くんが?」 「ああ。おまえが邪魔に思わないのなら、だが」 「そんなの思うわけないじゃない。むしろ柊くんがいてくれたら、色々聞けて心強いし」 「それに、ここは教室だよ? 誰がいたっていい場所だもの。私の許可なんて要りません」 「じゃ、さっそく始めるとするかな。よろしくな、世良」 「うん」 荷物を置き、筆記用具を取り出す。誰もいない教室でこういうのは何だか少し面映ゆい。いつもと同じ空間なのだが、まったく異なった感覚を受ける。 そんな俺を見ながら、世良が楽しそうに口を開く。 「ふふ、こうやって隣に誰かがいるっていうのも良いね」 「分からない問題とかあったら、どんどん質問攻めにしちゃうぞぉ」 「それはいいが、おまえだって学年上位の成績だろう。俺と理解度はあまり変わらないと思うぞ」 「でもさ、柊くんってあんまり勉強時間取れてなさそうじゃない? 栄光くんたちにいつも教えてるし」 それはまあその通りで、俺はあいつらの面倒を見ておくようにと先生にも言わている。 おまえ友達だろ、だったら助けろと。 実際のところ栄光たちに教えるというのはなかなかの難事で、まずはやる気を出させるところから始めなくてはならない。傍目から見れば、それは負担以外の何物でもないだろう。 しかし── 「確かにそうだが、あれは自分の復習にもなるんだよ。問題を理解せずに教えることは出来ないからな」 「それは、言う通りかもしれないけど」 「柊くんが自分の勉強だけに集中したら、私と成績で勝ったり負けたりの現状にはならないんじゃない?」 「どうだろうな。もし仮にそうだったとしても、おまえはおまえで結構手強いから分からん」 「それに、先生に言われなくても、なんだかんだ栄光たちの世話は焼いてると思うぞ。あいつらが赤点だの取ったら、やはり気に掛かるからな」 結局、あの連中をフォローするのは俺にとって当たり前のことに過ぎない。それがなくなってしまえば、返って落ち着かなくなることだろう。 「だから、結局そういうのも含めて俺なんだよ。有り余るほどの時間があれば、という仮定はあんまり意味がないと思う」 「さすが、未来の検事は自分にも厳しいねえ」 などと茶化すように言ってくる世良。それでこちらも、ふと思ったから訊いてみた。 「なあ。そういえば、おまえは将来どうするつもりなんだ」 「え? どうしたの急に」 「いや。ただ、今まで聞いたことないなと思って。考えてみれば、これだけ付き合いが長いのにそれも珍しいよな」 「うーん。そうだねぇ。じゃ、柊くんだけに教えちゃおっかな」 「私はね、教師になりたいの」 と、大きな瞳を輝かせてこいつは語る。 「どうして、って聞かれたら、きっと柊くんみたいに立派な志はないけれど……やっぱり、この学園が好きなんだ」 「クラスみんなが集まって、一緒にいろんな行事して……先生や晶たち、それに柊くんと過ごす時間がとっても楽しいの」 「教室で勉強するのも、きっとそういうこと。好きだから落ち着くし、下校時刻まで帰りたくないんだよね」 「って、どうだろう……やっぱり変かな?」 「いいや」 そう俺は首を振る。 好きな場所でやれば能率が上がるというのは分かる。それだけリラックス出来ているということだ。 「私、みんなからいろんなことを学んだ。それを今度は、次の世代の生徒たちに伝えていければいいなって思ってる。こんなに学校っていうのは楽しいところなんだよって」 少しだけ恥ずかしそうに、そして誇らしげに世良は言った。 無論、それは素晴らしい志だ。こいつらしいと言い換えてもいい。 世良ならもっと様々な可能性があるんじゃないかと思わなくもないが、そんな指摘は野暮だろう。好きで目指している道があるならそこに進むのが一番いい。 素直にそう思ったから。 「それじゃ、始めようか」 「ああ」 頷き、俺たちは勉強を開始することにした。 間もなく、集中状態が訪れた。心地良い静寂が教室を包んでいる。 おしゃべりも悪くないが、こうして居残りをしている目的は勉強に他ならない。世良の邪魔をしても仕方がないしな。 やがて、疑問点があったのか世良が声をかけてくる。 「柊くん、これってどうなってるのかな?」 英語のテキストを差し出され、どれどれ、と俺は覗き込む。 「────」 「あ……」 そこでふと、互いの顔が急接近していたことに気づく。意識はしていなかったものの、相当に際どい距離だった。 「ご、ごめんね」 「いや、俺の方こそすまなかった。それで、質問はなんだったかな──」 照れている自分を誤魔化すかのように、俺たちはテキストに視線を落とす。 そうだ。真面目に勉強しているのだから、多少のアクシデントで揺らごうはずもない。 「ここはな世良、関係代名詞に置き換えてみれば通りが良くなるだろう。どうだ?」 「ああなるほど、そうなんだね分かりやすい!」 「いや、そうだったなぁ。ここは関係代名詞だ間違いないよ!」 「ああそうだ、ここは関係代名詞こそがスムーズなんだ!」 などと、お互いに無理やり誤魔化しつつもしかしまだ顔が赤い。 意識するなよ柊四四八。おまえはなんのために教室に残ったんだ? 勉強するためだろう、それ以外になにがある。 「じゃあえっと、もう一つ聞きたいところがあってね……」 妙な雰囲気を流すべく、世良が次なる質問を俺に向けてきた。 助かった、これで冷静になれる──そう思いながら、俺は捲られたページを見る。 『Jesse:Who is for you, the most important person is?』 『Answer, Sam』 ああ、視界に入った例文に眩暈がする。 よりによって、なぜこのタイミングで内容が恋愛絡みになるのか。ここまで空気を読む必要はないだろう。 しかし、ここで質問を放り出す方がわざとらしいのは自明の理。逆に意識している感がありありじゃないか。 とは思うが、これを口にしろというのはどうにも…… 「────」 「柊くん──」 「早く、言ってよ……」 世良はそう口にして、俺の目を覗いてくる。 そして、今度は逸らさない。顔を赤らめたまま、俺の返事を待っている。 互いの心臓の音が聞こえそうな距離で俺たちは見詰め合い、そして── 「んあー。おまえら、まだ残ってるんかぁ」 なんの前触れもなく、先生が教室のドアを開いた。 二人揃って俺たちは固まってしまう。見回りに来るにしても、どうして今なんだ。いや、教師として何もおかしくはないけれど。 先生はおおよそ事態を把握したようで、表情を歪めて俺たちを見る。 「おーいおいおい。私は早く帰れって言ったはずだよなぁ、おまえら」 「それがどうして教室残って乳繰りあってんだアァン? てめえら、神聖なる我らが千信館をいったいなんだと思ってやがるッ」 「違うんです先生、これは──」 ああもう駄目だ、私憤に身を焦がした先生はまるで何も見えていない。どんな言い訳をしたところでその効果は限りなく薄いものとなるだろう。 ならばどうする? かくなる上は── 「それじゃ、俺たちは帰ります。行くぞ世良」 「ちょ、柊くん──」 「待て、おまえら逃げるなァァ」 「爛れた青春なんぞ、この私が許さんぞぉー」 分かりやすく八つ当たりをしてくる先生。早く帰れと言っておきながら、今度は逃げるなとはどういうことだ。 怨嗟の声を背に受けながら、俺と世良は走り去る。 校内はほとんど誰も残っていない。 夕日に照らされながら、二人は走る。ここまで来ればもう大丈夫だろうか? で、逃げながら。 「Hey, Sam!」 「What answer is a of a little while ago, to tell──」 世良の問いかけは、先ほどの例文の内容。 照れ隠しで誤魔化そうとしていたが、どうやらそうはいかないようだ。 走りながら、俺は覚悟を決める。いいぞ、今ここで続きをやるとしようか世良よ。 俺は気持ちを訊かれた。あなたにとって、もっとも大切な人は誰なのかと。 ああ──とっくに決まっているさ。 「Needless to say, such a thing──」 「Do not it has been decided to Jesse!」 俺の回答を聞いて、世良は顔を赤らめる。 そして目が合い、満面の笑顔を見せてくれた。可愛いぞジェシー、最高だ。 そのまま手を繋いで、俺たちは校舎内を走っていくのだった。 放課後であるにも関わらず、廊下は行き交う生徒たちで賑わっている。 それもそのはず、今日は〈あ〉《、》〈る〉《、》〈イ〉《、》〈ベ〉《、》〈ン〉《、》〈ト〉《、》がこれから体育館で行われるのだ。参加は一応のところ任意であるものの、ほとんどの生徒がまだ下校していない。 「今年はどうなってるんだろうねぇ、文化祭のクラス順位」 「わりとどこも力入ってたからなー、けっこう激戦なんじゃねえの」 「そりゃウチがいい成績だったら嬉しいけど、どうだろうなぁ」 今から催されるのは、先日の文化祭においてどのクラスの出しものが一番良かったかという成績発表会だ。 生徒や保護者たちからアンケートを取って、その集計結果が後日発表されるというものだ。やはり自分たちの評価は気になるもので、毎年けっこうな盛り上がりを見せている。 別に誰かと競い合うためにやっているわけではなかったが、それでもやはり時間と情熱をかけて作り上げてきた発表が褒められるのは嬉しいものだ。良かったという票の数が多ければ、それだけ己のクラスを誇れるのだから。 今回が初参加である石神も高揚を隠せない様子で、さっきから落ち着きなくぴょこぴょこ動いている。 「少しは落ち着けよ石神。気持ちは分かるけど、焦っても結果は変わらんだろう」 「そうそう、数十分後にはすべて判明するんだから。大船に乗ったつもりでいなきゃ」 「あー、改めてそう言われるとなんか緊張してきたぁ。どうなってるんだろ、うちのクラス」 「うん、いい評価がもらえているといいな。楽しみだ」 「それにしても……こういうのって、なんだかわくわくするものなんだな。子供のころに戻ったみたいなときめきがあるよ」 瞳を輝かせる石神の言葉は、そのまま一同の気持ちを代弁したものだろう。俺たちが演じた舞台にどれほどの値札が付けられているのか、クラス全員純粋に楽しみなのだ。 もちろん自分たちが満足していることが大事ではあるのだが、それはあくまで建て前。互いの出しものを評価し合い順位を出すと言う俗な行為に、どうしようもない期待を煽られてしまう。 対象は全学年であり、さすがにそう簡単に上位へは行けないだろう。しかしあの劇だったら、もしかして……という期待を誰もがせずにはいられない。 舞台上で受けた万雷の拍手は、それほどまでに素晴らしいものだったから。 「しっかし、自由参加なのにみんなよく残ってんなー。順位を聞くまでが文化祭、みたいな心理なのかねぇ」 「うんうん。こんな多くの生徒たちがいる中で表彰とかされるのって、きっと最高だよな」 「そういえば、うちのクラスがもし賞を取ってたら、やっぱり四四八くんと鈴子が壇上に上がるのか?」 そう問う石神に俺たちは目を見合わせる。誰が表彰されるかということまでは、特に考えてはいなかったが…… 「ま、普通はそうだな」 「この二人が文化祭実行委員だし、それが妥当じゃね?」 「そうね。まあ、柊の仕事は荷物持ちくらいのものでしょうけど」 「賞状以外、なんの荷物があるっていうんだよ」 そんな皮算用めいた会話をしながら、俺たちは体育館へと向かう。 しかし実際のところはどうだろう? 俺たちのクラスが表彰される可能性は、どの程度あるんだろうか。 あの劇が良い出来であったという自信はあるし、それなりの好評も博したはず。 とはいえ、他のクラスも頑張っていたんだ。こればかりは、運を天に任せるしかないだろう── 間もなく始まるという時間を迎え、体育館はほぼ一杯に入った生徒たちのざわめきに包まれている。 そんな中、前の席に座っていた晶が振り向いて俺たちに話しかけてきた。 「あのさ、さっき話してた表彰がどうのこうのってことだけど……」 「壇上に出るのは四四八と鈴子だっつってたよな。けど、こういうのって劇の主役とヒロインがみんなを代表するべきなんじゃねえか?」 「ふーん。つまり、四四八と石神ってこと?」 「ああ。もし選ばれたときには、この二人が出てもいいんじゃないかなってあたしは思うんだけど」 俺は石神と互いに目を見合わせ、続いて我堂の方を向く。 なるほど、そういう考え方もあるかもしれない。確かに実行委員よりも劇の主役たちのほうが、選んでくれた人たちに対しての通りはいいだろう。 実際にあれだけ俺たちの劇が盛り上がりをみせたのも、ひとえに石神の力が大きかったのだ。それを引っ込めておく手はないような気もする。 「だそうだ、おまえはどう思う。我堂」 「そうね、言われてみればそれが妥当のような気もするわ。私たちの劇を見てくれた人たちが見たいのは、裏方じゃなくて静乃でしょうし」 「し、しかしいいのか? 実行委員である鈴子を差し置いて私などが……」 「馬鹿ね、誰が貰いに行くかで別に悔しがったりしないわよ。こういうのは適材適所ってものがあるの」 「私はあくまで仕切り役。今回、二年四組の顔はあんたなんだから、ちゃんと立派に振る舞うのよ」 「うん! だったら任せてくれ、ここに集まった者たち全員の心を鷲掴みにするスピーチを今から考えておくからっ」 そう言い放つ石神を見て、我堂はおろか周りの誰も反対の意を示していない。改めてこいつには天性の魅力があるんだなとを感じさせられてしまう。 だから俺も、これは気を抜いていられない。あれだけの観客の前で曽祖父さんの役までやったんだ、こいつに容易く存在感を食われてしまったんじゃ、さすがに情けないだろう。 そして壇上には幽雫先生が上り、周囲のざわめきも徐々に静まっていく。さあ、いよいよ発表だ。 「みなさん、先日は文化祭お疲れさまでした。色々な出しものに寄らせてもらいましたが、どれも熱が篭もっていて大変見応えのあるものでした」 「その中から上位三つを表彰するわけですが、これに漏れた他のクラスも等しく素晴らしくあったことは覚えておいて欲しい。生徒全員で成功させた文化祭であると、我々教師陣は思っています」 そう、色々なことがあった。普段とは違う皆の一面も見られたし、それなりに疲れたりもした。 しかし、これだけは言えるだろう。あの一日は俺たち全員にとって、掛け替えのない思い出となったのだ。 そして── 「では、順位発表に移ります」 「まずは得票数、第三位── 二年三組」 呼ばれたのは俺たちと同学年であり、野澤の所属するクラス。すぐ隣から生徒たちの快哉が聞こえてくる。 見れば野澤も嬉しそうな表情を浮かべていて、ああ、こういう光景はいいなと思わせてくれる。 「おおー、祥子さんおめでとう! 二年でこういうのに表彰されるのってさ、なかなか凄いことなんじゃね?」 「そうね、やっぱり三年の先輩たちの方が気合い入ってるだろうし」 「だよなー! やっぱり最高だぜ祥子さぁぁん!」 囃し立てる栄光に野澤は気づいて、少し困ったような苦笑を浮かべる。すまんな、こんな場でまで迷惑かけて。 ともあれ、やはり同輩がこうして評価されるというのは素直に誇らしく、また励みにもなる。俺たちのクラスが二位、そして一位になる可能性だって等しくあるのだ。 祝福の拍手を送りながら、俺たちは次の発表を待つ。 「静粛に、みなさん。それでは次の発表に移ります」 「得票数第二位──三年一組」 告げられたのは納得の三年生。他ならぬ百合香さんのいるクラスだった。 ここは確か、文化祭という枠組みすらも超越した規模の出しもので好評を博していた。やはり最上級生、懸けた気迫が違ったということか。 皆に手を振る百合香さんはどこか晴れ晴れとした様子だった。その堂々たる成績はまさに、生徒総代としての面目躍如だろう。 残るはあと一つだが──どうだろう、この二クラスを俺たちは超えているか? 「それでは、最優秀賞の発表です」 俺たちが固唾を飲んで見守る中── 「このたびの文化祭において、最も来場者から支持を得たクラスは──二年四組」 「演目名、『戦の真は千の信に顕現する』となります」 「うぉぉぉ──っ! しゃああぁぁぁ獲ったぞぉぉぉッ!!」 「最優秀賞だよ、柊くんっ」 「あたしらが一番なのか? 本当に?」 「マジかよ……すげぇな」 「私は信じてたわよ。だってそれだけの出来だったもの、あの舞台は」 「ほらほら、もっと嬉しそうにしなよー四四八くん!」 沸き立つクラスメイトたちの反応とは裏腹に、俺は束の間思考が止まってしまったかのように呆けてしまう。 それは無論、この結果こそが理由。皆で喜び、興奮し、祝うことが出来る最優秀賞を欲しはしていたものの、こうして実際与えられてみるとやはり現実感が湧いてこない。 色々と大変だったことを思い出しながら……ああ、そういうことかと俺は理解する。 俺たちの劇が評価されたということはつまり、このクラスが皆に認められたということ。それがなによりも嬉しかったんだなと、胸に抱える感情の正体に気づいたのだ。 「やったな、四四八くん──嬉しいよ私は本当に、ははっ!」 「ああ」 満面の笑みではしゃいでいる石神。その様子はまるで子供だ。 こいつをここまで喜ばせる力があの劇にはあったのだと、こちらまで嬉しくなってくる。 「最優秀賞の二年四組は、壇上へお願いします」 「それじゃ行こうか、石神」 「うん!」 そして、俺と石神は誇らしい気分で壇上へと向かう。 「おめでとう。四四八くん。石神さん。君たちの舞台は俺も観させてもらったよ」 「柊四四八の人生、そして未だ明かされていない数々の謎に対し、独自の解釈を試みた良い脚本だった。感心したというよりは、思わず見入ってしまったよ」 「そして、君たちの演技こそが登場人物に命を吹き込んでいた。まるであの時代の人々が舞台の上にいるかのような存在感だった」 「もっとこの世界を見ていたい……そんな風にすら思わせてくれた演劇であり、最優秀賞に選ばれたことに異論などあろうはずもない」 「改めて祝わせてくれ。おめでとう、二年四組」 そう言って、幽雫先生が賞状を差し出してくる。 受け取った石神はしばらくそれを感慨深そうに見ていたが── 「やったぞお、みんなー!」 二年四組の方へと賞状を掲げ、歓喜の声を上げる。盛り上がる俺たちのクラスに対し、周囲からは祝福の拍手が起こっている。 石神を止めようともしたが、まあ今くらいはいいだろう。表彰の場であることだし、これくらいの余興は付きものだ。 そんな俺たちに、先生が笑顔で告げる。 「喜んでいるところ申し訳ないが、全校生徒に対してスピーチをお願い出来るかな。皆も君たちの言葉を聞きたがっているだろう」 「なに、難しいことじゃないさ。素直な気持ちを伝えてくれたらそれでいい」 その言葉を受け、石神がこちらを見てくる。主人公役を勤め上げた俺が、どのようなことを言うのかと期待に満ちた目だ。 しかし。 「ここは、おまえが言うべきだろうな。石神」 「え、えぇっ? 私がか?」 驚く石神に俺は頷く。そう、もしも表彰をされるようなことがあれば、スピーチはこいつに任せようと思っていたのだ。 「でも、そんな……主役の君を差し置いて、なにか言うわけにはいかないだろう。やっぱり」 「私なんて、とても……」 「俺が主役だと言うなら、おまえだってヒロインだろう。なにも遠慮することはないさ」 「それに、今回の最優秀賞は石神の演技があってこそだと思っているんだよ」 会場が最も湧いたのは、こいつがアドリブで演じた場面だったことを思い出す。俺の書いた脚本から外れた一瞬こそが、皆の好評を受けたんだ。 それを分かっているからこそ、この場は石神に任せてみようと俺は思う。 「別にお堅い挨拶をしろなんて言いはしない。ただ、いつもの石神らしく話してくれればそれでいい」 「頼めるか?」 石神は少し迷っていたが、やがて覚悟を決めて頷いた。 「うん、分かった。二年四組の代表、今しっかりと託されたぞ」 「見ていてくれ四四八くん。私なりの思いを、全校生徒にぶつけてくるから」 ああ、いい顔をしている。それでこそ譲った甲斐があるというものだ。 そして石神はマイクを受け取り、壇上から生徒達に向き直った。 「え、あぁ、こほん……まずは今回、このような賞をいただけたこと、大変誇りに思っています」 「私はこの春、編入してきたばかりなので、クラスのみんなより千信館に関わった日は浅いのですが……それでも母校に対する愛着は負けていないと自負しています」 「なぜならずっと、私は柊四四八とその仲間たちに憧れていましたから、かつて彼らが通ったこの学び舎に身を置き、彼らの後輩になることを、いつも夢に見ていました」 「そう、夢。今どき幼稚と言われるかもしれませんが、諦めなければそれは必ず叶うものだと信じています。事実今、こうやって、私には素晴らしい仲間たち出来たのだから」 「このたび賞をいただけた演劇は、そんな千信館という場を残してくれた先達に対する敬意と感謝の証であり、同時に今後の世代にも継がせていこうという、我々なりの誓いをかたちにしたものです」 「だからここに、一つだけ問わせてください。皆さんは、この百年に渡る母校の歴史に、誇りを持っていますか?」 「柊四四八たちに恥じない自分でありたいと、思っていますか?」 その問いに、全校生徒が静まり返った。俺も無論、例外ではない。 先ほどまでどこかお祭り気分だった場の雰囲気が、一転して厳粛なものに変わったのを感じている。 「言ったように、私は彼らに憧れています。だから色々、想像したし夢を見てきた」 「それはもしかしたら、実像とかけ離れたものかもしれない。憧れは理解から一番遠い感情だと聞いたことがありますから、単に現実逃避の娯楽として消費しているだけなのかもしれない」 「夢を見るのは自由。フィクションのように、自分が面白ければ真実なんかはどうでもいい。そんな風に考えてはいないでしょうか?」 「だとしたら、果たして人の繋がりとは何処にあるのか。それぞれが自分に都合のいいものばかりを真実として完結させてしまったら、社会は、歴史は、人の絆は成立しない」 「それは校訓に反する。そうでしょう?」 石神の言いたいこと、こいつが皆に問うているのは、まさに俺たちが直面している現状に関係しているものだった。 なぜなら今、この場にそろったほぼすべてが、毎夜百年前の夢を見て、その感想をタタリとして顕象させているのだから。 自分が面白ければ真実なんかはどうでもいい。いや、自分が面白く思うものこそが真実なのだと、そんな価値観こそが俺たちの打倒すべき敵である。 だからこれは、ある意味で石神の宣戦布告。叱咤であり、目を覚ませという啓蒙だった。 俺はそう捉えたのだが…… 「すみません。なんだか説教臭くなりましたね。私はただ……」 しかしこいつは、そこで柔らかに微笑んだ。照れたように一度軽く俯いてから、再び決然と顔をあげる。 「夢を見ること、理想を追い求めること自体は素晴らしい。たとえ憧れが、真実とは程遠い冒涜であったとしても、尊いと思うものに魅せられた気持ちだけは、誰にも否定できない〈現実〉《マコト》なのだから」 「我々一人一人が大事に思う真実……それが手前勝手な思い込みにすぎなくて、その証拠を突きつけられたとしても、自分の殻には逃げたくない。そう思います」 「だって、世界を己の形に閉じるなんて、そんなのあまりにも悲しいから」 「大事なのは否定じゃない。目や耳を閉じて塞ぐことじゃない。夢でも現実でも、理想を胸に抱いたまま、前に進んで行きたいと思っています」 「戦の真は千の信に顕現する……私たちの演劇はそうした信念のもと、作られました。なのでこの言葉をもち、締めくくりたいと思います」 そこで大きく息を吸い込んで、石神は告げた。 「私は今、現実にいる。たとえこれが、私だけが見ている夢であっても、感じている誇らしさ嘘じゃない」 「みんなのことが大好きだ。それを絶対の真実と宣言することで、以上、感謝の言葉とさせていだきます」 「ご清聴、ありがとうございました!」 ………… ………… ………… 沈黙はほんの数秒。しかしまずは俺が、そして晶が世良が歩美が我堂が―― うちのクラスを中心にして起こった拍手が、次第に全校生徒へ波及していく。 「いいぞ石神ィ!」 「ああ、よく言った!」 最後は、文字通り万雷の喝采となった。それだけ石神の演説が皆の胸を打ったという証明だろう。 ここまでの反応は想定していなかったのか、驚いた顔で放心している石神の肩に手を置き、俺は言う。 「何をぼうっとしてるんだ。みんなに手ぐらい振ってやれよ」 「え、や、だけど、その……」 「あれで、よかったのかな? 我ながらつい偉そうなことを言ってしまったと、今になって恥ずかしくなったというか」 「気にするな。そういうの、〈千信館〉《うち》の奴らは俺や我堂で慣れている」 むしろ、俺などが言うより真に迫るものがあったし嫌味もなかった。 なぜならこいつは、仲間内の誰よりも夢見る奴らに共感している。だからこそ、連中の心に響くものがあったのだろう。 「本当にいい演説だった。俺もはっとさせられたよ」 「夢を見ること自体は悪くない。そしてたとえ夢だと分かっても、それに憧れた気持ちだけは嘘じゃない……か。そうだな、確かにその通りだ」 目を閉じるな。耳を塞ぐな。現実を見ろ、戦え――と、一方的に突き放すようなものじゃない。こいつは俺たちを苦難に陥らせている連中の気持ちも汲もうとしている。 その器量、広い目線。俺のような堅物には中々持ち得ないものだと自覚できる。 かつての柊四四八は教え導くという人種だったのかもしれないが、対してこいつは、救うという人種なのではないかなと思っていた。 「そういうわけで、ほら、胸を張れよ」 「あ、ああ。うん、そうだな、ありがとう!」 言って快活に笑う石神。依然鳴りやまない拍手の中、皆に手を振るこいつの姿が俺は素直に眩しかった。 放課後を迎えたものの、さしたる予定もなく俺は帰宅の途につく。 誰かと一緒でもいいのだが、なんとなく一人を選んでしまうのだった。まあ、せっかくこうして時間もあることだし、早く帰って勉強をしてしまおう。 それこそ学生の本分であるはず。テストも近いし、気を抜いて成績を落とすわけにもいかない。 「おお、四四八くんじゃないか」 「こんにちは、剛蔵さん」 「一人……なのか?」 「ええ、これから家に帰るところです」 声を掛けてきた剛蔵さんに、俺はそう告げる。 すると、どうしたことだろう。とたんに剛蔵さんは切なそうな顔になった。 まるで俺になにか同情でもしているかのような……そんな表情だ。 「一人で下校か、そうなんだな……」 「その……これは聞いてもいいのか分からないけれど、一緒に帰る女の子とかはいないのかい? 晶はどうした?」 「えっと、どうして女の子なんでしょうか? 晶は、今日は知らないですけど」 特にこれから何をする予定もないのだ。誰かと一緒に下校していないのが、そんなに珍しいことなんだろうか。 連中とは学校でしっかり顔を突き合わせているんだ。放課後くらいは一人でのんびり、と思ってしまうことは自然であり、さして珍しくもないはずだろう。うむ。 すると、剛蔵さんはなにやら得心したかのように頷いている。 そして、潤んだ瞳で俺を見ると肩に手を置いてきた。 「──男やもめ、か」 「ああ、責めているわけじゃないぞ。むしろ気持ちはよく分かる。誰だってそうだよな。独りでいたいわけじゃ、ないんだよ」 「剛蔵さん? いったいなにを……」 「いやいい、皆まで言うな」 「辛いだろう、寂しいだろう。今は試練の日々が続くかもしれない。だがな四四八くん、夜はいつか明けるんだ」 「どれだけ長いトンネルでも、走ってさえいれば抜ける日は必ず来る。きっとだ。だから諦めるんじゃないぞ」 「君はまだ若い。時間はまだ、いくらでもあるのだから──」 「はぁ……」 「めげるなよ。俺との約束だ」 慈愛に満ちた言葉を熱く語って、剛蔵さんは俺の前から去っていった。 そして、大変申し訳ないのだが……彼が俺に何を言わんとしているのか、まったくもって理解が及ばなかった。 人生訓にも似た言葉の数々は、いずれも前向きなものばかり。剛蔵さんが俺をなんとかして励まそうとしていることは痛いほどに伝わってきた。 心配してくれたのだろうか? だとしたら、それは何故だ。 いや、むしろあれは憐憫。そういえば、独り身がどうとか言っていたな。 ありがたいような、無性に納得いかないような、そんな複雑な気分に襲われる。 剛蔵さんに言われたことはすべて事実ではあるのだが、改めて指摘されても困る。 ともあれ── 「まあ、とりあえず帰るか……」 釈然としない思いを抱えたまま、俺は再び帰路につくのだった。 放課後、俺は我堂と帰宅の途についていた。 慣れたいつもの道をこいつと歩く。ゆったりとしたその時間は、普段と同じであるはずだった── しかし、どうも今日は様子が異なっていることに気づく。 「柊、なんだか変じゃない?」 「ああ」 そう──周囲の通行人から、チラチラと視線を向けられているのだ。 のみならず、俺たちを見てひそひそと何かを話す声も聞こえてくる。これはいったいどういうことだ? 心当たりを探ってみるものの、すぐには思い当たらない。少なくともこうして歩いているだけで注目されるなんて、何をすればそうなってしまうのか。 そう不思議に思っていたのだが、しかしすぐに謎は解けた。 「ちょっと──」 「なんだよ、これは……!」 俺たちの視線の先にあるのは、駅前の目立つ場所に設置されている掲示板。 そこに、写真を拡大してポスターみたいにしたものが貼られている。 写っているのは、俺と我堂。一つのコップに二つのストローで、仲睦まじくドリンクを飲んでいる。 「まるで晒し上げだな……」 「誰が、どうしてこんなことを……」 その光景には確かに見覚えがあった。以前、我堂と一緒に入った喫茶店のものだ。 あのとき、スタッフが写真に撮っていたのかよ。 そういえば千組目のカップルとか言っていたことを思い出す。記念の客をこうしてポスターに載せることは、まあ聞かない話でもない。 しかし、この大きさでの掲載はひどいだろう。俺たちで全部埋まってるじゃないか。 「事態はどうにか飲み込めたが、さてどうするかな」 「そんなの決まってるじゃない、いったん剥がすのよ」 「いや、駄目だ。みんな見てる」 周囲の通行人がさり気なさを装ってこっちを観察しているのを感じる。剥がすか? 剥がすのか? という目だ。 実際店の許可を取らずに撤去するというのも気が引けるし、なにより面白がられている中で期待通りの行動を取ることに抵抗も覚える。 ああ、すっかりワイドショーの主役気分だ。 さりとてこのまま放置というのも釈然としない。どうするか迷っていると、そこに車の音が急接近してきた。 「危ない、我堂っ」 「ッ────」 凄い勢いで駅前に入ってきたのは、黒塗りのリムジン。 俺たちの僅か手前で車体を止めるという超テクニックを披露し、出てくるのは数人の黒服だ。そして。 「っ、なにを──」 「ちょっと、止めなさいっ」 有無を言う間も与えられず、そのまま俺たちは拉致されてしまう。 電光石火の勢いで車中に押し込まれ、リムジンは発車するのだった。 そして── 我堂の家で、俺たちは並び正座していた。 あの車は我堂家のもので、まともな説明がなされることもなく俺たちはこいつの親父さんの前に連れて来られてしまった。 不審者に攫われたわけじゃなかったことに束の間安心したものの、これは返って異常事態なのではなかろうかと俺は思い始める。 なにせ、どういうことなのかがまったく理解出来ていないのだから。 抗う気なんか起こりはしないものの、周囲には屈強な黒服たちが控えているのを感じられる。厳戒態勢もいいところだ。 「これはどういうことなんだよ我堂。なかなか強引な遣り口だが」 「私も知らないわ。あんた、ウチになにかやったんじゃないの?」 「馬鹿言え、そんな覚えはないぞ」 などと小声で言い争っていると、親父さんの咳払いで諫められる。 そして、彼は威厳のある重々しい口調で言った。 「手荒な真似をしてすまなかったね。君たちに来て貰ったのは他でもない──」 「これを見させてもらったからだ」 出された一枚の紙は、ああ。 駅前に掲示されていた、件のポスターだ。今ここで見ても、被写体たる俺たちはカップルにしか見えない。 我堂はこの家の一人娘だ。それが男とこのような行為に及んでいたとあらば心中穏やかじゃないだろう。逆鱗に触れたとしても理解出来る。 だが、濡れ衣だ。 「いや、それはですね。喫茶店側が勝手に仕組んだ企画といいますか、その」 「私たちも知らなかったのよ、こんな写真撮られてたなんて」 「そもそも、柊と私はそんな……」 「だが、これは君たち本人に相違ないのだろう?」 慌てながら弁解する俺たちであったが、そう言われてしまうと返す言葉がない。 いかん、取り付く島もないぞ。紛れもなくこの写真に写っているのは俺たちなのだ。厳然たる事実がある以上、ここからの挽回はなかなかに厳しい。 「これ、やばいんじゃないのか? 俺、殺されたりしないだろうな」 「ごめん、最悪やばいかも」 親父さんは無言で俺たちを睥睨している。周囲の空気が緊張を孕んでいるのが伝わってくる。 そして、唇をゆるりと崩し── 「いや、目出度い!」 「私はこの時を待っていたんだよ、鈴子。いやぁ、二人がその仲をここまで深めていてくれたとは」 これまでの空気はどこへやら、親父さんが一気に相好を崩した。 どういうことだよ、一瞬頭が空白になってしまう。 「昔から、私は四四八くんに一目置いていたんだよ。頭脳明晰で人望も厚い。これからの時代に嘱望されるべき人材だ」 「だが君の志望職業は検事だというじゃないか。強引にウチと関係を持たせるなんて、そんな真似も出来ないし……」 「どうにかして引き抜けないかと、常々思っていたのだが……いやぁ、これぞ吉報だ」 「よくやったぞ、鈴子」 事情は未だ飲み込めないものの、どうやら俺は相当気にいられているらしい。 なおかつ、俺と我堂の仲はもはや既成事実化しているようだった。そういうことになっている。 俺の母さんも似たようなもんだが、そのうえで失礼ながら言わせてもらえば、なんという馬鹿親っぷりだろうか。 微笑ましい光景ではあるのだが、自分の身に関わることなのでいつまでも笑っていられない。そう思っていると、我堂が立ち上がって親父さんに抗議する。 「いい加減にしてよ、父さん」 「説明したでしょ、あれは喫茶店の企画だって。私たちが恋人だとか、そういうことじゃないの」 「その通りです。俺と我堂の間には、なにも疚しいことなどありません」 「そう、天地神明に賭けてもッ」 そう力強く言い切った。ここで押し切らなくては、親父さんからはきっと誤解を受けたままになる。それは誰にとってもきっとまずい。 しかし、我堂はなぜか俺の言葉にその表情を変える。 殺気にも似た剣幕を、こっちへと向けて── 「そこまで言う? ねえ、そこまで言い切っちゃうの、あんた」 「私とデキてるのがそんなに嫌だっていうの。ふーん」 「そりゃそうよね、あんたと私は仲がいいわけじゃないもの。普段から反目し合ってるしさ」 「いや、そういう話じゃないぞ我堂。っていうかどうして不機嫌なんだよ?」 「だってそうじゃない、一緒に喫茶店に行ったのは事実でしょ。そこを無視して自分の潔白だけを証明しようなんて、そうは問屋が卸さないわよっ」 ああ駄目だ、こいつは妙な対抗意識を全力で燃やしている。 こうなってしまえば、もう我堂とまともな話は出来ないことを俺は経験上知っているのだ。 ならば一旦退くしかなく、俺は舌鋒を収める。 「そうだな、すまん。少し言い過ぎたようだ」 「二人で喫茶店に行ったこと、それは認めよう。しかしだな……」 「つまり、それだけ進んだ仲であると」 「ならば、実際に付きあい始めるのももうすぐだな。うむ、待っているぞ」 「いや、そうじゃなくてですね──」 「あんた、まだなにか不満があるの。私と一緒にいるのが嫌なのね。ふーん」 おかしい、これはおかしい。 俺は至って普通のことを話しているつもりなのに、我堂はそのどれにも噛みつきまくり切れている。 親父さんと二人による集中攻撃とあってはもはや抗し得ず、どうすればこの窮地を切り抜けられるのだろう。本当に。 そんな不毛極まる遣り取りを、幾度か繰り返し…… 「すっかり暗くなってしまったな」 「ごめんなさいね柊。私もつい、夢中になっちゃって」 「でも、あんたの言い方も悪いのよ。もうっ」 なんだかんだで夜も遅くなり、俺はこいつの部屋へ通された。 根気強く説明をした甲斐もあって、誤解はどうにか晴れたようだった。 親父さんは謝ってくれたけど、心の中では俺たちがポスターどおりカップルとなることを望んでいるようだった。親心、というやつだろう。 そして、もう時間も時間だし泊まっていくことになってしまった。断ろうとも思ったが、俺もいい加減疲れていたので親父さんの申し入れをありがたく受けることにする。 状況的に色々と重圧は感じるものの……まあ大丈夫だろう。たぶん。 「なんだか、今日は大変だったわね」 すっかり落ち着いた様子で言う我堂に、俺は頷く。 「まあ、結果的には良かったというところだろうな。誤解されたままだったら、それこそまずかっただろうし」 「ふふ、お父さん浮かれっぱなしだったもんね」 「さあ、それじゃご飯食べましょ」 部屋には、親父さんが用意してくれた夕飯がすでに運ばれていた。さすがは我堂家というべきだろうか、まるで旅館かというくらいに豪華なものである。 それじゃ、ここはご厚意に甘えて── 「いただきます」 「うん──美味い。おまえ、こんな飯毎日食ってるのか」 「そう? 普通じゃないかしら、このくらい」 「注ぐわよ、これ。いいでしょ?」 我堂の言葉に見てみれば、日本酒まで普通にある。 どうしようかと迷ったが、せっかくだし受けることにする。 「っと……ありがとう」 「ふぅ──」 酒はするすると喉の奥まで染み込み、身体を内側から熱く火照らせる。 こうして酌をしてくれる我堂は、なんというか年齢よりも大人びた雰囲気を漂わせている。 普段とは違う、などと言ったらまた怒鳴られてしまうのだろうか。 「父さんの勘違いはともかく、まあこういうのもいいものね」 「あんたと家でゆっくりするのも──」 そんなことを、照れながら我堂は口にする。 ああ、俺も否定はしない。 こいつと長い間過ごしてきたが、独特の居心地の良さがあるのは確かなことだった。 しょっちゅうぶつかりあっているというのは、裏を返せば本音で話せる相手だということだ。 それは俺が得たものの中でもっとも貴重なものであり、また大切なものであると感じられる。 しかし── こいつとずっと過ごすとすれば、俺たちの将来はいったいどうなるのだろうか? 俺には検事の夢があり、そのために上京するつもりだ。一方、我堂は家から離れる訳にはいかないだろう。 というか、もし一緒になることがあったりしたら俺も右派になるんだよな。それって検事としてありなのか? 「どうしたの、柊。考え込んじゃって」 「いや──」 「あら、もう飲んだの。それじゃ注いでおくわね」 意外な甲斐甲斐しさを見せる我堂を前に、まあ大丈夫だろう、などと考えたくなってくる。 法の番人だからとて、政治的イデオロギーを持ってはならないと規定されているわけでもなく、実際相当数の検事が信条を有しているようにも見受けられる。我堂の家も、むしろ主要な顧客となり得るかもしれない。 そう考えると、あながち突飛な話でもないと言えるだろう。 自分なりにではあるものの、こいつと一緒になった未来のことを考えながら俺は日本酒に口をつけるのだった。 放課後、校門から出たところで携帯から着信音が鳴った。 確認すると、画面に表示されているのは野澤の名前。珍しいこともあるものだなと思いながら、俺は電話に出る。 「すみません四四八さん。今、お電話大丈夫ですか」 「野澤か、どうした?」 「お願いがあるんですが、聞いてもらえないでしょうか。こんなこと、あなたにしか頼めなくて──」 どういうことだろう。見当はつかないが、野澤は相当切羽詰まっているようだ。 どんな相談を持ちかけられるにしても、俺の回答はもちろん決まっている。 「力になれるかどうか分からないが、話を聞かせてくれ」 俺を頼って電話をしてきたんだ、迷う余地などないだろう。 野澤は安堵の息を漏らし、そして話し辛そうに言う。 「ありがとうございます。本当に助かりました」 「それじゃあ、これから会うことって出来るでしょうか。私はですね、今──」 野澤との待ち合わせ場所である、海岸通りへと俺は向かう。 心地良い潮風に眼を細めていると、すぐに野澤は現われた。 「四四八さん──」 一度家に帰ったのだろうか、私服に着替えている野澤は申し訳なさそうに頭を下げた。 「すいません。急に呼び出したりなんかして」 「気にするなよ。それよりどうした、悩みがあるんだろ」 「はい」 本題を振られ、野澤はその表情を変える。 曇った感じではない、しかしなにか困っているという微妙な様子である。 「実は、栄光さんのことなんです」 相談内容はやはりというか、栄光が絡んだものであった。なんとなくそうではないかと思っていたんだ。 そんな俺の反応を窺いながら、野澤は話を続ける。 「最近栄光さんに聞いたんですが、三週間後にインラインスケートの大会があるみたいなんです」 「結構ギャラリーも集まるらしくて、彼は参加するつもりだとか」 「ああ、そういえば言ってたような気もするな」 うろ覚えだが、休憩時間にそのような話を聞かされた記憶が蘇ってくる。 「見に行ってやればいいじゃないか。野澤が来てくれたら、あいつ本気で喜ぶぞ」 「……問題は、まさにそこにあるんですよ」 「大会は、どうやら二人一組じゃないと参加出来ないみたいなんです。コンビでのトリックを競う場らしく」 「で、栄光さんが勝手に登録したんですよ。私とペアで」 「それは……大変だな」 「祥子さんと二人でトリックビシキメしたいー、とのことです。本当、直情的というか何というか……」 「おまえ、スケートは出来るのか?」 「いいえ、まったくの初心者です」 「どうしてなのか、彼は私ならいけると思ってるみたいなんです。祥子さんなら出来る、一緒にやろうと」 ああ、どことなく想像出来る。 確かに野澤は運動、勉強ともにある程度なんでもこなせる奴だ。そもそも器用で能力が高いのだろう。 だからスケートも少し練習すれば滑れるようになるはず。ならば、事前に練習して二人で大会に出たい……栄光の考えはこんなところか。 あいつなりに勇気を出してエントリーしたのだろうが、その方向は相変わらず間違っているぞ栄光。おまえはどうして、許可を得るという発想がいつもないんだよ。 「なるほど、事情はだいたい分かった」 「楽しそうに大会のことを話す栄光さんを見てると、今さら断るのも出来なくて……」 「そういうわけで、もう逃げられないのでやるしかないんです」 「だから、四四八さんには少しでいいので練習を見ててほしいんです。滑るときのフォームとか、自分じゃちょっと分かり辛いので」 「それは、構わないが……」 「栄光と練習すればいいんじゃないのか? 当然俺なんかよりずっと詳しいんだし、なんだったら今からでも呼ぶか?」 「──待ってください」 至極当然であるはずの提案を、慌てたように首を振って否定する野澤。 そのどこか焦った様子は、いつものこいつらしくない。どうした? 「いや……そのですね。栄光さん、私が結構やれば出来るって思ってるじゃないですか」 「ああ。でも、初めてなんだろ」 「それはそうですが、彼は幻想を抱いているわけで……それをただ崩すっていうのは癪じゃないですか」 すまん、ちょっとよく分からん。 崩すもなにも、上達するためならそっちの方が近道なんじゃないか。 「一方的かもしれないけど、私なんかのことを思ってくれてるわけですよ。栄光さんは」 「だったら、せめて彼の前では完璧にこなす自分を見せたいんです」 「そういう私だからこそ、好意を寄せてくれているところもあるわけで……だから失敗してるような姿はなるべく見せたくない、というか」 「私らしくないんでしょう? そういうことです」 「……やっぱり、変ですかね」 ああ、変だな──その言葉を俺は飲み込んだ。 そして、さっきから野澤らしくないと思っていた振る舞いが、実にこいつらしいものであったことを理解する。 遠回しな説明でこそあったものの、根底に存在していたのは気の強さで、それは紛れもなくこいつそのものだった。 色々言い訳していた野澤を、栄光にも見せてやりたいくらいだ。喜ぶぞ、あいつ。 ともあれ── 「分かった。そこまで話してくれたんだ、協力しないなんて言わないさ」 「ただ、フォームが不自然だったときに指摘するくらいだぞ。俺に出来ることなんてのは」 「ええ、すごく助かります」 「それじゃ、お願いしますね四四八さん」 本当、こいつは大した奴だと思う。巻き込まれたイベント事で、なかなかここまでは出来ないものだ。 そんな俺の気持ちに気づくことなく、野澤の練習が開始されるのだった。 「っとと──、っ」 「腰が退けてるぞ。恐がっちゃ駄目だ」 「栄光はもっと自然にジャンプしていたぞ。慣性を上手く利用するんだ」 「はいっ! こう、ですか──」 「もう少しだけ上体を反らすんだ。大丈夫、おまえなら出来る」 「成功するイメージを描くんだ、頑張れ」 もう数十分は、こうして練習に取り組んでいるだろうか。 最初こそ足取りが覚束なかったが、だんだんと上手になってきた。色々俺も偉そうなことを言ってはいるものの、野澤の滑りはもはや未経験者には見えないレベルである。 気づいたことを伝えつつ、俺は携帯でメールを打つ。 そうしている間にも、目の前で野澤が鮮やかなトリックを決めてみせた。 「おお、すごいじゃないか。やるな」 「はいっ!」 流れる汗を拭いながら、野澤は引き続き新しいトリックに取り組んでいる。 そして、時間は過ぎていき── 日も暮れかけてきた頃には、だいぶ野澤の滑りは上達していた。 短時間で基礎をものにするあたり、さすがと言わざるを得ない。 「どうでしょうか、四四八さん。少しはましになったと思うんですが……」 「ああ、いい感じだ。本番までさらに練習を重ねていけば、大会にも問題なく出られるだろう」 「そういうわけで、どうだ栄光」 そう隣のこいつに話を振る。 「お、おぉ……おおおおぉぉぉっ…………!」 さっき練習の最中に、連絡を入れて呼んでおいたのだ。 栄光抜きで野澤と会うというのも、やはりどこか気が引けるからな。 少し前から見ていたのだろう、栄光は覿面に感動している。まあ、そうだろうな。実際野澤は大したものだ。 当の本人はといえば、あたふたと顔を真っ赤に染めている。 「は、栄光さん、どうしてここに……」 「私はその、違うんです! ただ、偶然──」 「祥子さんが、スケートをやっててくれた……それって、オレと大会に出るからだよな」 「オレの、ために……!」 「違っ──」 「隠すことないじゃないか、これだけ喜んでくれてるんだから」 少しだけ意地悪く野澤に言うと、さすがに気づいたのだろう。拗ねたように俺を見て告げる。 「恨みますよ、四四八さん」 「すまんな。だがこっちの方がいいと思うぞ、俺は」 「~~~~──────」 「祥子さーん、今度はオレと滑りましょう!」 「見てるだけじゃもう我慢出来ないっすよ。いいっしょ?」 「ちょ、え………… いい、ですけど」 「ただ、栄光さんについていけるか分かりませんよ?」 「そんなの問題ないって。オレら波長ばっちり合うし!」 そんなことを言い合いつつ、二人は開けた場所へと向かう。 ああ、結局いい雰囲気じゃないか。 そして── 「おお、ひゃっほうっっ!」 「────」 「ねえ、どうだい祥子さん、気分は──」 「超気持ちいいっしょ、こうしてトリック決めるのって!」 「ええ、まあ──そうですね」 「……悪くは、ありません」 風を切り、自由自在に滑走する二人。 栄光がしっかりエスコートをして、野澤がそれにしっかりと付いていっている。 嫌がる素振りも見せないが、それは当たり前だろう。そもそも本心からは嫌っていないのだから。 手を取り滑るその姿はなかなか様になっており、似合いの二人だなと思う。 栄光と野澤は微笑み合い、暮れなずむ今日を惜しむようにトリックを決めていく。 「いやー、しかし上手いっす。さすがは祥子さん」 「そうですか」 「ああ、勇気出して誘ってよかった~」 「ぶっちゃけ、これなら上位も狙えると思いますよ──俺たち二人なら!」 「もう、大袈裟ですよ」 ついさっきまで俺に相談していた様子など、野澤はおくびにも出さない。まったく、ごちそうさまと言うかなんと言うか。 「それにしても──私たちがこうして一緒にいられるのって、なんだか不思議な気分ですね」 「なんか私が見ていた夢に、栄光さんが紛れて来たみたい──」 そんなことを言う野澤に、栄光は声を風に乗せて告げる。 「夢だろうがなんだろうが、祥子さんのいるとこなら駆け付けるに決まってるッ」 「オレは絶対に、どこにいようと祥子さんを見つけ出してみせるぜ──」 そして、微笑む二人は加速して。 「いくぜ──」 「はいっ──!」 呼吸を合わせ、同時に空へとジャンプする。 その軌跡はまるで虹を思わせるかのように、綺麗な弧を描くのだった。 平日の鎌倉大仏の周囲は、歩いている人の姿もまばらだった。 観光名所とはいえ、休日ほどのごった返す人出はない。そのため、爽やかな初夏の陽気が存分に満喫出来る。 そして、大仏のほぼ真下に見知った姿が二つある── 「来てくださって、どうもありがとうございます」 「ああ、いい風ですね。ふふ、このまま日光浴でもしていたいくらい」 「…………」 一人は千信館生徒総代、辰宮百合香。そしてもう一人は幽雫先生。 彼らの待ち合わせ先に、〈俺〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》は先回りしたのだった。 こうして身を隠している場所はちょうど二人から影になる位置であり、その話し声は聞こえるがこちらの存在はバレないはず。 対象の死角から息を潜め、まるでスパイか何かのようである。 いや、事実そうであるのかもしれなかった。俺たちはとある人物から〈命〉《オーダー》を受けているのだから。 「なあ……何やってんだろうな、俺ら」 「放課後にわざわざ、野郎二人でコソコソ隠れたりしてよ……」 「鳴滝、無駄なお喋りをするのは感心しないな。あの二人の会話が聞こえなくなる恐れがある」 「あのさ、もう帰っていいか?」 鳴滝は実に居心地が悪そうにそう尋ねてくる。あのな、おまえが言うなよ。むしろ俺が帰りたいわ。 こうした行動に良心が咎めないわけじゃない。だが、そうも言ってはいられないだろう。 先生直々に、頭まで下げられたとあってはな。 放課後、いつものように帰ろうとしていた俺は幽雫先生から声をかけられた。 「ちょっといいかな、四四八くん。放課後だというのにすまないね」 「鳴滝くんも、一緒に聞いて欲しい」 「あ、俺? なんだよいったい」 傍にいた鳴滝も一緒に捕まってしまう。 俺とこいつが揃って教師に呼び止められるというのは、なかなか珍しいことだった。しかも今は放課後であり、それゆえ何を言われるのかという予測がまったく立たない。 「教師に呼ばれるようなことは、別段しちゃいないはずだがな」 「いや、今日は別に説教をしようとかじゃない。ちょっと違うことでね」 どういうことだろう。俺も鳴滝と同じく心当たりはなく、先生の意図が分からない。 「この後、二人は時間空いてるかな? なにか予定があるのなら、そちらを優先してもらって構わないが……」 「俺は暇ですけど」 「……別に、なにもねえな」 「それなら、一つお願いを聞いて欲しい」 そして、先生は俺たちを前に居住まいを正す。それは教師が生徒にする類の所作ではなく、思わず緊張してしまう。 「自分はこれから、生徒総代と鎌倉大仏前で会う約束になっていてね。まあ呼び出されたんだが……」 「その場に、君たち二人も付いてきてほしい。お嬢様には気づかれないようにね」 「はぁ? あんた、なに言ってんだ」 「んなのおかしいだろうがよ。俺らが行って、なんかすることあんのかよ」 鳴滝は反発しているが、俺もその意見に同意したい気持ちだった。 先生が百合香さんと会うのは別に構わないし、野暮な突っ込みを入れるつもりもない。個人の事情もあるだろう。 しかしなぜ、俺たちまでそんな真似をするのか。 「ああ、君の言う通りだ。これはおかしな頼み事で、だからこそ頭を下げている」 「有り体に言ってこれは教師としてではなく、幽雫宗近個人の頼みなんだ」 「それは、兄心みたいなものですか?」 確認のために触れたのは、先生の抱える事情のこと。 彼が語らず、常に抑えている感情である。 「まあ、そうだな。本来、君には関係ないことなんだが……」 「分かります。俺の役目は、こいつを途中で帰らせないことですね」 「そういうことだ」 「どういうことだよ……」 鳴滝一人が分かってない。いいんだよ、おまえはそのままで。 ただ、絶対に必要だ。 「分かりました。俺たちは二人を見ているだけでいいんですね?」 「ああ。もしも何かあったら、俺がすべての責任を持つ」 「頼んだよ、四四八くん。そして鳴滝くん」 「はい」 「おい、勝手に決めんじゃねえよ」 戸惑う鳴滝の意向を、俺と先生は揃って無視して決定するのだった。 というわけで今、目の前では百合香さんと先生が向かい合っている。 最初こそ二言三言話していたが、以降は言葉少なに佇んでいるばかり。何かが起こるような前兆はない。 穏やかに微笑む百合香さんに、同じく黙っている先生。 いくら俺でも分かってしまう。これはおそらく、彼女がなにか告げようとして先生をここまで呼んだのだろう。 大仏のところまで来れば、千信館の教師たちに見られる可能性も低くなる。 つまりは、そういうことだろう。 そして── 「もう分かっているのでしょうね、あなたは」 「今まで言えなかった、わたくしの気持ち……それゆえにご迷惑もお掛けしました」 「わたくしは幽雫先生をお慕いしております。昔から」 「たぶん、これからもずっとです」 「そうか……ありがとう。嬉しいよ」 先生は涼しい顔で、それ以上の感情はここからでは読むことが出来ない。 「先生は、わたくしのことをどう思っていらっしゃいますか?」 そう問いかける百合香さん。 一瞬間があって、先生が口を開く。 「君は俺にとって可愛い生徒であり、守るべき主筋であり、放っておけない妹のようなものだ」 「そして、君が俺に対して抱いている気持ちも――」 「ええ。尊敬する恩師であり、頼りになるガードであり、ちょっと厳しいけど優しい兄のようなもの……なんですね」 「きっと──」 優しい初夏の風が吹き、二人の髪が揺れる。 俺たちは、それをただ見守ることしか出来ない。 「わたくしは、ずっと先生のことを好きなのだと思っておりました」 「実際、好きなんだと思います。ただ、それがどういう種類の好きなのかは分からなかった──」 「つれなくされると腹が立ったし、これが恋なのだろうかなと思っていた時もありました」 「でも、まあ要はそういうことだったんですね」 「ようやく気づくことが出来ました」 「だから、もう心配要りません。今まで、本当にありがとうございました」 そう言って、百合香さんは頭を下げる。それは普段の彼女とは違う、本当に心からの行為に見えた。 「ああ、承知したよ」 「君にそれを気づかせてくれた人が、千信館にいるんだね」 「はい、そのようです」 「では、後はその彼に任せよう」 「ただ君が言ったように、俺はずっと君の兄のような者でありたい」 「だから、困ったことがあったらいつでも言ってきてくれ。必ず力になるから」 「はい」 短い言葉でそう告げて、先生は百合香さんの前から去っていく。 「ここだぞ、鳴滝」 「おい、ちょ、柊──」 そこで俺は、鳴滝をどんと小突いて送り出す。 その姿が目に入ったのか、百合香さんが嬉しそうに目を丸くする。 「あら、淳士さん」 「どうされたんですか? こんなところで。お散歩にしては遠出になりますけど」 「いや、俺は、その……」 鳴滝はなにを言っていいのか分かっておらず、ただ口ごもっている。 だが、あいつならきっと大丈夫だろう。 「さあ、帰るか──」 そんな二人を見届けて、俺も踵を返すのだった。 「先生──」 少し先を歩いていた先生と合流する。 その顔はすっかり普通の表情、いつも見ている教師のものだった。 百合香さんに伝え、そして鳴滝に託してきたのだろう。 「ありがとう、四四八くん。これで心残りはなくなった」 「存分に、彼女の兄として振る舞える──」 「どうします先生。今から俺のバイト先に来ますか?」 「少しくらいなら、奢りますよ」 一瞬目を丸める先生。 そして、さも可笑しそうに苦笑する。 「そうだな、今夜は少し飲みたい気分だ──」 「きついのを一つ、貰おうか」 「おのれがァ……ふざ、けるなァァ―――!」  呪詛を搾りだすと同時に、膿んだ肉が胃から食道へと逆流した。今にもへし折れそうな枯れ木の指で胸を抉るほど掻き毟り、地をのたうちながら緋衣征志郎は現実を悪鬼の形相で呪っている。  それはさながら、寿命が尽きる寸前の蟲にも似ていた。もはや死ぬと分かっていながら生を求めて一心不乱に足掻きつつ、しかし誰かに助けてくれなど殊勝な言葉を口にはしない。  あるのはただ、悪意と憎悪と渇望だけ。  許さぬ。塵が。なぜ俺が死ぬというのだ。屑が屑が屑が屑が──と。  この期に及んでなお〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈愚〉《 、》〈図〉《 、》〈か〉《 、》と失望し、ありったけの妬みと恨みを吐瀉物と共にぶちまけている。  俺を救え。それ以外、この世のすべてに何の価値があるという。その大前提すら理解できないことに発狂し、此度の結果を呪い続ける征志郎は、今や骨と皮の蓄音器だ。  悪感情を無限にリピートしている壊れた〈円盤〉《レコード》。あらゆる神聖なものへ向けて、代わりに死ねと叫喚している。  そしてそれは、彼が今まで行い続けた延命手段の一種でもあった。  他を不安にさせて屈服させようと願う意志力、確かにそれは褒められたものでないとしても、平均を遥か凌駕する精神的な原動力であったのだけは間違いない。  緋衣征志郎という男にとって生きることと羨むこと、他を踏みにじって礎とすることはどれも等しく繋がっている。この世に悪がある限り、彼はまさしく無敵の悪魔だったのだ。  しかし、その夢が今ここに潰えようとしている。なぜならすでに、彼は盧生どころか〈眷〉《 、》〈属〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》のだから。 「が──ぁ、レーベンシュタイィィン……!」  かの死神が第八層を超えた瞬間、接続先からのリンクを絶たれた。それは征志郎にとって死を意味している事態であり、自分一人では生きていくこともできない重病人へ逆戻りしたのを示している。  ここに邯鄲の夢で猛威を振るった逆十字はもういない。  数えきれない病魔を抱えた、脆弱な末期患者が朽ち果てているだけだった。  力んだ途端に骨密度の浅い部分から骨折していき、肉を内側から引き裂いていく。そしてその肉もまるで熟したトマトのようだ。地を這いずるだけで皮膚はおろし金でもかけられたようにペースト状へと擦り潰れ、畜生の死骸じみた腐乱臭を放っているという始末。  流血の色に関して言えば、真っ当な赤色をしている部分など一滴すら見当たらず、口内を満たす血からは糞を煮込んだような味がしていた。麻痺したはずの〈味覚〉《したさき》さえ、徹底的に破壊されていく。  呼吸をするたびに抜け落ちていく体毛と歯。自意識が融解する。もはや微塵も耐えられない── 「これが……こんなものが、俺の死だと?」  盧生にもなれず、あまつさえこの手で造った〈死神〉《どうぐ》にさえ見捨てられて? ふざけるな、嫌だ断じて認めない!  だが目がかすむ、暗くなっていく。視神経そのものが狂い始めたのか、視界に穴のようなものまで出現し始めた。  喉の粘膜は度重なる嘔吐で残らず剥がれ落ちてしまい、気道を塞いでしまっている。たとえそれを摘出しても、癌化の進んだ肺は酸素を身体に取り込むことさえ出来ないのだ。  今や、精神を残して総入れ替えしない限り完治などは到底不可能。  だから寄こせ、俺に夢を。  生きたい生きたい。死にたくないのだ。  俺がここで死ぬなどと、こんな馬鹿げたことがあるか。  そう渇する気概さえ意識と共に消えていくのが、何より自分は許せないのに。  結果は絶対に覆られない。緋衣征志郎は、盧生でなかったのだから。  思えばそれが最初にして最大の間違いだった。そのたった一つと言うべき誤りが、自分のすべてを崩そうとしている。  それが憎くて、到底許すことができず、思わず虚空へ手を伸ばす。  世界へ爪跡を刻むかのように、自分を救わなかった塵ども、残らず不幸になれと呪いながら、細い五指をわななかせた。  その刹那。 「────、ぁ……」  脳裏をよぎる走馬灯が、屈辱の瞬間を再生させた。八層を踏破したクリームヒルトに、眷族の資格を剥奪されたときの記憶。  憎悪に塗れた生を送ってきた征志郎だが、あれほどまでに憤怒したことはないと断言できよう。  それはまさに、彼のすべてを否定する死神の鎌だったのだ。 「私はおまえを選ばないよ、セイシロウ。  おまえはこのまま、ただ人として果てるがいい」  度し難い理不尽。許し難い蒙昧。まさかこの愚かな女は、今さら臆病風に吹かれたのか。  征志郎はクリームヒルトに邯鄲を施す際、己の目的を憚りなく公言していた。すなわちおまえの盧生資格を奪い取り、俺が盧生になるための道具にしてやるのだ、ありがたく思えと。  まともに考えて、そんなことを言う輩に協力する者はいない。だが征志郎は、己の論法に一片の疑いもなかったし、だからこそ彼は彼と言えるのだ。狂った自負を天下の道理と謡いあげる精神性こそ、逆十字の証である。  そして当のクリームヒルトも、そんな征志郎を鷹揚に受け入れた。かつて甘粕正彦が、柊聖十郎を友と呼んでいたように。  だが、にも関わらず土壇場での掌返し。裏切りなど屁とも思わない征志郎だが、これはあらゆる意味で看過できない契約違反だ。仮にも盧生である者が、緋衣征志郎の至高性すら分からぬほどに愚鈍だというのか。 「違うな。そもそもおまえは勘違いをしている」  憤怒に絶叫する征志郎を、しかし第三の盧生となった死神は窘めるように突き放す。そしてそのまま、心を持たない彼女らしい冷淡な言葉を紡いでいった。 「己に向けられる他者の悪感情を嗅ぎ分けて、吊るし上げていく逆さの磔。それは肉体だろうが感覚だろうが、心であろうが記憶であろうが奪い取る」 「たとえ、盧生の資格であろうとも……確かに、筋としてはそうだろう。おまえの夢はそういうものだし、単純に公式として見るなら間違っていない。  だから、かつてアマカスとやらはそう肯定したかもしれんな。しかしおまえも知っているように、彼は第一の盧生。先駆者だ。  前人未到の夢を越えたその偉業には、一点の曇りもない敬意を払おう。だが同時に、前例がないということは不明瞭という意味でもある。  要は、情報不足なんだよ。私は現状、一番若い盧生だが、だからこそ盧生の何たるかを誰よりも分かっている」  先達がいるのだから分析できるし理解も深まる。彼女が言っているのは、つまりそういうことだった。 「それを踏まえたうえで結論しよう。おまえたち逆十字は、何がどうなろうと盧生にはなれない。  その精神性ゆえに資格を生まれ持てないという意味ではないぞ。獲れんと言っているのだよ」 「何を――」  道理の通らない戯言に激昂し、征志郎は己が急段を発動しようと試みるが、しかし逆十字の顕象は起こらなかった。  馬鹿な、いったい、これはどうした意味のことだと言う――! 「アマカスがそうだったように。ヨシヤがそうだったように。  そして私も、また然りだ。盧生とは、他者を見下し蔑みなどしない」  なぜなら人類の代表者なのだから。その悟りに辿り着いた存在は、ゆえに逆十字の急段にとって鬼門である。協力強制の条件に嵌らない。  征志郎がどれだけ盧生になることを望んでも、逆十字に奪われないからこその盧生なのだ。これほど皮肉な話があるだろうか。 「よって、おまえは盧生になれない。無駄な行為だ、もうやめろ。  これが私の、友に対する礼であり救いと思え。  痛みと憎悪で満ちたその生に、ここで幕を下ろすがいい」  死神の慈悲。生こそ地獄であった緋衣征志郎という男の魂を、クリームヒルトは救ってやると言っていた。  夢を見ろ。もう眠れ。  二度と覚めることもなく、死の安息に包まれるがいいと。 「黙れ……ふざッ、けるなァ―――!」  そしてまた、その手の情けを受け付けないからこそ逆十字だ。彼ら逆さの磔を背負った者らは、徹底して盧生たる者と相容れない。  必ず強烈に縁を持ち、惹かれ合うことさえ珍しくない関係だが、真に交わることだけは未来永劫有り得ないのだ。  ゆえに征志郎は激昂しながら、断固死なんと猛り狂う。  死の救いなど論外であり、そもそも誰が与えてくれと懇願したんだ。  たとえどのようなものであれ、他者から与えられる祝福を許容する世界観は持っていない。  それは奪うもので、掴み取るもの。献上されるもので、貢がれるもの。  己は強く、強く、至高で無敵なのだから施しは一切不要。間違った天の理を正すため、ただ憎悪を込めて逆さ磔に生贄たちを吊るし続ける。  その道を閉ざす者は、神であろうと許さない。 「恩着せがましく押し売るな屑めがァ! 貴様が何を言おうとも、俺は必ず盧生となる!」  その自負。病と狂気に蝕まれた激烈なる独尊。  逆十字の象徴とも言うべき黒く禍々しい輝きは、確かに人が有する強さの極限――その一形態と言えるのだろう。  だが、しかしクリームヒルトは揺るがない。むしろ嘆息さえ漏らしながら、やはり淡々と言葉を重ねる。  彼女流に言うなら方程式。心が無いゆえに論理性を突き詰めた物言いで。  だからこそ、反論不可能な一つの事実を。  それは、緋衣征志郎と柊聖十郎に共通する致命的な欠陥を突く指摘だった。 「おまえは、己が盧生でなければ価値などないとでも思っているのか?  己は最強、至高、絶対……そう謳いあげて憚らないおまえの自尊は、確かに素晴らしいと評価している。今日び、無駄に卑屈な輩が多いからな。たとえどのような音であれ、おまえの執念が鳴らす旋律は輝いているよ。  だが、そうであるからこそ私は解せん。きっとこれは、アマカスもおまえの父に感じたことではないだろうか」 「なぜおまえたち逆十字は、それほど己を誇っているのに盧生という冠が必要だと思うのだ?」  盧生にならなければ病で死んでしまうから――という次元の問題ではない。仮に征志郎や聖十郎が健全な肉体を持っていても、彼らは盧生の座を求めただろう。  事実、生きていくだけなら眷族の力だけで充分すぎるにも関わらず、逆十字は盧生の座に執着しているではないか。 「いつ資格を剥奪されるやも知れぬ不安、恐怖。形式として盧生の下位にある従者のような立場が気に食わん、というのも当然あるだろう。だが肝はそこにない。  そんなものは、おまえたち流に言うなら間違った天の理というやつだろう。邯鄲の夢を構築したのはおまえの父で、それを再現したのはおまえだが、しょせん道具は道具、手段は手段だ。  おまえは大木を切り倒すために斧を作った。しかしそれを充分に振り回す筋力がなかったからと、必死に無茶な腕立て伏せを続けている。非効率だろう。頭のいい者のすることではない」 「斧の重さが手に余るなら、別の者に振るわせればいいのだ。いいや、切り倒すという手法に固執する必要すらない。木が邪魔なら、燃やせばいい。  それでおまえの価値が何か下がるという理屈はあるのか? セイシロウよ、答えてくれ。  邯鄲の夢という斧の存在を知る前から、おまえはおまえであっただろうに。  その頃のおまえやおまえの父親は、曰く取るに足らぬ塵だったとでも? 違うだろう」  そもそも私は――と付け加え、クリームヒルトはごく当たり前のように止めの言葉を口にした。 「盧生の器という資格……特に素晴らしいとも思っていない。  正確には、盧生と成った瞬間にそう悟った」  かつて甘粕正彦は、盧生など珍しくも何ともないと言い切った。  そして柊四四八は、盧生の資格そのものを返上した。  そんな二人の先駆者が至った境地に、クリームヒルトも達している。  人類の代表者という冠も、彼らにとってはその程度でしかないのだろう。軽く見ているわけではないし、立場の責任も弁えているが、寄る辺とする芯は別に存在する。 「盧生であろうとなかろうと、私は私。自負と言うなら、それが真だ。  おまえが何者であったとて、おまえの価値は冠ごときに左右されるものではない。 と、悟ってもらいたいのだよ。セイシロウ」  言って、死神の手に夢が集まる。それは征志郎の中から抜き取られる、眷族資格という名の冠だった。 「救われてくれ、友よ。これが私にとって、きっと最後の……」 「う、ああぁ、ぁ──── オオオオオオ、ガアアアアアァァァァッ──!?」  絶叫は、クリームヒルトの言葉を掻き消して轟き渡る。こうして緋衣征志郎は、絶対不変の理と信じていた勝利の運命から弾かれたのだった。 「ぐッ、は、ぁ……塵めがァ!」  そして、だからこそ彼は死なない。瀬戸際まで行っていた命を貪るように掻き集め、未だこの現世にしがみつく。 「俺は負けん……誰にも、負けん……! 死んで堪るかァッ!」  死神の抱擁すら、征志郎は弾き返してみせたのだ。蛆だらけの身体を引きずり、外法の集大成が詰まった書物を抱えながら、彼は再び歩き始める。 「もう、一度だ……!」  もう一度。そうだ諦めるなもう一度。  まだ己の夢は終わっていない。新たな盧生を、今度こそこの手に! 「殺してやる……許さんぞ、レーベンシュタイン、柊四四八ァ!  俺は必ず、貴様らの前に再び立つ……! 待っていろ、待っていろよ。地獄で後悔するがいい!」 「無間の痛みに絶叫しながら、この俺にしたことを思い出せ!  ふはは、はははは、ははははははははははははははは――!」  悪鬼の呪怨が満州の夜に響き渡る。この後、緋衣征志郎なる人物がどういう末路を辿ったのかはすでに歴史が証明しており、端的に言うと彼は負けた。負けて死んだ。  しかし、その爪痕は深く深く残っているという事実を、正確に知る者がはたしてどれだけいるだろう。  彼は負けたが、その凄まじい執念は取り返しのつかない禍根を後に残したのだ。  それは最悪の存在。  代表者などという冠を、断じて持たせるべきではない万仙の王を生み出すことになっていく。 「ふふふ、なるほど。中々いいこと言うわね彼女。  自分は自分。自負と言うならそれが真。ええ確かに、言われなくても分かってるわよ、最初から」  そうして今夜の夢を見終えた緋衣さんは、上機嫌に笑いながらクリームヒルトの主張を肯定していた。  今回、もう一方の主人公であった緋衣征志郎は彼女の曽祖父なのだろうに、まったく同情や悼みを抱いている風はない。  それが逆十字。天下に己こそが至高と信じる血統の、あるべき価値観なのだからと。 「顔色悪いわね、信明くん。ちょっと体調でも悪くなった?  無理しないで。ゆっくり、ゆっくり、落ち着いて。私といれば大丈夫よ」  確かに僕の体調は芳しくない。夢の中でこんなことを言うのもおかしいが、今朝に発作を起こしてから明らかに弱っているのを感じていた。  そして、逆に彼女の力が強まっていることも。 「君は……僕は君を、緋衣さん……」  彼女はこの上ないほど逆十字だ。クリームヒルトに指摘された緋衣征志郎や柊聖十郎が持つ欠陥を有していない。  一番若く、先達がいるから分析できるし理解も深いという、これもクリームヒルトが言ったとおり。  彼女は完成されている。  その優劣を分からない奴は愚か者だ。初代と二代目の逆十字は完全なコピーだが、目の前にいる三代目は明確に異なっている。それを劣化と思うほど僕の目は曇っていない。 「よしよし、大丈夫よ。大丈夫」  だから確信を持っていた。彼女は勝利するだろう。  逆十字に刻まれた敗北の歴史を覆す者こそが緋衣南天。  そう思う。から、こそ…… 「僕は、僕は……」  誓いを、勇気を果たすまで消えたくない。  彼女の胸に抱かれながら、ただそのことだけを祈っていた。 「じゃあおまえら、また夜にな」 「集合場所はいつものように八幡だ。遅れないように」 「うぃーっす」  放課後、そんな言葉を交わしてから一時別れ、彼らはそれぞれの家路に着いた。おそらく今夜、七等のタタリが顕れるだろうと感じているので、気を引き締めなければいけないと思っている。  そう、思ってはいるのだが…… 「なぁーんかこう、どうにも調子が乗らないよな」 「うん。呑気なこと言ってる場合じゃないんだけど、いまいちこう……」 「気がそぞろってか。確かにな」  自ら口にしているとおり、集中することが出来ずにいた。しかも、その原因が分からない。 「普段ならどやしつけてやりたい台詞なんだけど、困ったことに私もよ」 「ああもう、いったい何なのこれ。我がことながらワケ分からなすぎて腹が立つわ」 「結局おまえはキレてんじゃねえか」 「でも、鈴子の気持ち、分かるな。このままじゃいけないって思ってるのに、どうしたらいいか分からないっていうのはキツいよ。   ほんとに、何なんだろうね。この感じ」  暗くなっているわけではないが、ある意味でそれよりもタチの悪い空気が場を包んでいた。  倦怠感と言うか、無気力感と言うか。いっそ他人事みたいとでも言うべきか。 「四四八はそうでもなさそうだったけどな。でもそれだけに、こんなこと話したら凄ぇ怒られるぞ、あたしたち。   つーわけでさ、それぞれ心当たりを挙げていこうぜ、とにかく原因把握しないとさ、モチベーションの回復もクソもないだろう」 「賛成、じゃあそうしようよ。ここ最近の出来事で、何か気になることはあったかどうか。 掴みたいのは取っ掛かりだから、この際どんなことでもいいよ。はい鳴滝くん」 「は、俺かよ? そんなん言われても、おまえ……」  言いつつ、淳士は首をひねって考える。そして一つ。 「そういや昨日、信明が発作起こしたらしいじゃねえか。そのへんはどうなったんだ、世良」 「ああ、うん。それだったら、特に大問題ってこともなさそうな感じ。お医者さんからは異常なしって言われたし、今も安静にしているから大丈夫と思う」 「そうかよ、ならいいんだ。それでおまえは?」 「私は、そうだね……やっぱり前の夜のことっていうか」 「クリームヒルトか。そりゃ盧生なんかとタイマン張ったんだから、色々大変だったはずだよな」 「結局タタリだったか本物だったか分からないって言ってたし、あんたが気になってるのはそういうこと?」 「まあね。あと強いて言うなら、彼女は私と曾お祖母ちゃんを間違えてたんだけど、それってほんとにそうだったのかなって……」 「どういう意味だよ?」 「だから、分からない。どっちだろうと同じだ――て言われたんだけど、それどういう意味?みたいな。   そのへんが、今でも釈然としないのは確かかな」 「なるほどねえ、結構大事そうな謎だなそれ。オレなんかおまえ、気になるって言えば水着コンテストの祥子さんが実に美しくて目に焼きついたからっちゅう」 「おまえもうほんと黙れよ。なんでもいいってそりゃ言ったけど、最低限の空気くらい読め。   あたしはその点、そりゃあ、なあ……」  明後日の方へ目を向けて、考えること五秒、六秒…… 「結局、誰が一位だったのかなあって」 「おまえオレと一緒じゃねえかよ!」 「ちょ、だっ、しょうがねえだろ。花恵さんが有耶無耶にしちまうし、長瀬の野郎は相変わらずレアキャラすぎて見つかんねえし」 「まあまあ、あっちゃんが一位っていうことだけはないから心配しないで」 「つーかそもそも、なんでおまえらあんなもんに出場したのかってのが最大の謎だわ。すげえどうでもいいけど」  少なくとも、いま自分たちを襲っている妙な気だるさには関係ないと断言できる。だからその話はもうやめよう。建設的じゃなさすぎるから。 「それで、鈴子はどうなんだよ?」 「私? 気になってることなら今夜のタタリ。緋衣征志郎なんでしょ、いま噂になってるのは」 「そうだね。だから間違いないと思うけど」 「でもそれ、普通に当面の問題だよな。それが気になるから気が散るっていうのは、理屈が通んない話だろ」 「まあね。なので残念ながら関係無し。他に思い浮かぶこともない。   そういうわけで、ほら最後よ。歩美はどうなの?」  結局ここまで、なんら取っ掛かりらしきものは掴めていない。しかしこういうときにこそ、歩美は意外と頼りになるとこの場の全員が知っている。  まあ、同じくらいボケそうな気もしているのだが。  一同の視線を受けて、どちら側の期待に応えるべきか迷うような顔をしつつ、歩美は言った。 「わたしが気になってるのは、しーちゃん。   ていうか、雪子さん?」 「はあ?」  ちょっと意味が分からない。全員の顔にそう書いてあるのを確認し、歩美は説明を始めていった。 「まずさ、前の夜以来、ちょっとしーちゃんの様子がおかしいと思うんだよね。基本的には普通な感じだけど」 「なんか他所他所しいっていうか、もじもじしてるっていうか、分かんない? そういう微妙な変化」 「全然」 「まったく」  一般に男は鈍感というけれど、まさにその通りで頼りにならない栄光と淳士だった。 「二人ともあれだね。彼女が髪切っても絶対気付かないタイプだよね」 「まあ、こいつらにそんなもんが出来る日は永久にこないからどうでもいいわ。静乃がちょっとおかしくなってるっていうのは、確かに言われてみればそうだと思う。 あんたも分かるでしょ、晶?」 「え、や……そうだっけ?」 「こっちもかよ……」 「駄目だなー。わたしは君のそういうところが、時に悲しくなってくるんだよ、あっちゃん。女子力ステータスおっぱいに全振りか」 「とにかくそんな感じでね、しーちゃんは少しおかしくなっております。これ前提」  目が節穴な野郎二人、プラス一名はどうでもいい。女子三人で納得しながら歩美は続ける。 「そんでその原因を考えてみたところ、雪子さんに行き当たるのだよ。みっちゃん、クリームちゃんから聞いたんでしょ?」 「あ、そうか。そういやそうだ」  意味は全然分からなかったが、彼女の口から雪子の名前が出てきたのを覚えている。 「確か、雪子を守ってやってくれ……とかなんとか」 「ふむふむ。そんでしーちゃんは、これまた原理不明だけどその状況をピーピーングしておりました。ここから察せられる事実は何か」 「いや、すまねえ。ピーピングってなんだ歩美」 「そりゃあんたみたいな奴のことよ」  覗き趣味の男。要するに変態だ。不得要領の栄光だったが、どうでもいいことなのでさっさと流す。 「つーか俺からも悪ぃ。雪子って誰だっけ?」 「そこからかよ……」 「静乃の曾祖母さんだろ? 劇のモデルにもした……」 「はいあっちゃんポイントアップぅ。暫定だけどこっち来ていいよ」 「ちょ、いや、そんなんはいいから続き言えよ。静乃が雪子で調子悪くなって、だから何なわけよ?」 「うーん、分かんないかなあ。この複雑なメンタル問題。要するにだねえ」  つまり、静乃は自分が始めて先祖と混同されたことにより、諸々のブーメランを自覚した。だから恥ずかしくなったんじゃないか。  と、俯瞰で見ればずばり的中の読みを、歩美はこの場で披露していた。 「あー、なるほどね。確かに石神ってそういうところあったもんなあ。オレは気にもしちゃいなかったけど」 「けどま、そういうことならバツも悪くなるだろうな」 「あたしも栄光と同じで、特に気にしちゃいないんだけどなあ」 「そこは結局、静乃がどう取るかの問題でしょ。ていうより、あの子がどう私たちに向き合ってくれるかって話よね」 「きっと大丈夫だよ、静乃なら」  ということで、一応話は出尽くしたことになるのだが。 「結局、私たちのモチベーションと何の関係があるの?」 「うん、それはだねえ」  再び集中する一同の視線を受け止めて、自信満々に胸を張りつつ歩美は言った。 「おーう、そこはさっぱり分かりませーん」  同時に全員、盛大にすっ転んだ。 「お、お、おまえなあ……」  散々核心っぽく話を引っ張っといてそれかよ、と。  ここまでの会話、まったく意味がなかったじゃないか。 「もーう、そんな顔されたって困っちゃうよ。だって、ほんとに全然分かんないんだもん。   けどまあ、こうやって色々話してると頑張らなきゃって気になるじゃない? そういうことでこの場は一つ」 「上手く纏めやがったわね……なんか微妙に腹立つけど、言いたいことは分かったわ」 「だな、ここまで来りゃあ四の五の言ってもしょうがないんだし」  なぜかやる気が出なくて困る――なんて愚痴にもならない。気分がどうだろうと、やるしかないんだ。 「どうも皆さん。楽しそうですね」  しかし、そう決心して顔をあげた一同の前に、いつ現れたのか一人の少女が立っていた。 「先日は、とてもお世話になりました。あのとき約束したでしょう、御礼はしに伺いますと」 「え……」 「な……」  誰だこいつは。親しげに話しかけてくるものの、まったく身に覚えがない。  そして、微笑んでいるものの、これはまったく笑っていない。  思わず硬直したのはどうしてか。そしてなぜ今も動けないのか。  いいや、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ああ、これはすみません」  そんな六人を嬲るように、少女はくくっと小首を傾げて。 「人違いでした。誰なんでしょうね、あなた達」 「世良水希。  我堂鈴子。   真奈瀬晶。   龍辺歩美。   大杉栄光。   鳴滝淳士」  ぽんぽんぽん、と。六人の間を縫うように通り抜けながら、それぞれの肩を軽く叩く。そして告げる。 「ではなかったようです。さようなら――夢はお終い。   うふふ、あはははは、ははははははははははは―――!」  そうして少女は去っていく。残された六人も、やはり何事もなかったように個々ばらばら家路についた。  そう、人違い。人違いだったのだ。  人違いだったから、朔がどうだの彼らには関係ないのだ。  やる気がなんだの、ハナからそれ以前の問題なのだ。 「もう止まらない。止められない。終わりよあなた達、万仙陣は回りだした。  そういうわけで、もう二度と……」  帰ってこれないし帰させない。そもそも彼らが帰る場所ではない。  これはただ、それだけのこと。  本当に、それだけのことなのだから。 「―――遅い」 集合場所の八幡で、俺は未だやって来ない連中を待っていた。すでに約束の時間を10分すぎてる。声音に若干の苛立ちが混じってしまうのもしょうがないことだろう。 「まあ、まあ、そんな……これくらいは大目に見ようじゃないか四四八くん。あんまりカリカリしていると身体に悪いぞ」 「おまえも呑気なことを言ってるなよ石神……ダラけていい問題じゃないんだぞ」 「別にみんながダラけてサボっていると決まったわけじゃあ……」 「いいや、間違いなくダラけている。俺には分かるんだよ、絶対だ」 昨日あたりから、晶たちの注意力がどこか散漫気味になっているのを感じていたので疑いはない。別に意図してサボっていると言う気はないが、なんらかの些細なミスで遅刻しているのは確かだろう。 「まったく、ほんとに駄目な奴らだ。もう頭にきたぞ、電話してやる」 「ああ、ちょっと待てって。そんな急かさなくても大丈夫だよ。君こそ少し、おかしいぞ」 「なんで時間厳守してる俺のほうがおかしいんだよ。悪いのはどう考えてもあいつらだろうが」 「それは、でも……やっぱりそんな四四八くんはどこか変だ」 「真面目で厳格なのは知ってるが、普段はもうちょっと寛容だったじゃないか」 「…………」 「家を出る前、恵理子さんにもなんだか当たりがキツかったし」 「それは……」 だって、なぜか不明だけど母さんまでダラけ気味に感じたし、あの人は基本ドジだから、そういうときはちゃんと諌めないといけないだろう。 と思ったが、口には出さず唸るような溜息を吐いた。……ああ確かに、石神の言うとおり今夜の俺は余裕がないのかもしれない。 駄目だな、気分を切り替えよう。こいつに当たるのは筋違いだし、そういう真似は格好悪いと常々自分に言い聞かせてきたはずじゃないか。 「……すまん、感じ悪かったな。おまえの言うとおり、いつもの俺じゃなかったみたいだ」 「なんだろうな、これは……上手く言えんが、実を言うと俺も気が散ってる感じなんだよ。だからこれじゃあいかんと集中しようとしたら、力んでしまうみたいな」 「自分自身、原因が分からないから戸惑っている。おまえはそのへん、何か調子に違和感はないか?」 「いや、私はその……全然異常はないかって言われたら違うけど」 「気が散るとか苛々するとかいう感じじゃあないよ。だから、そうだな。君がリラックスできるよう、フォローしたいと思ってる」 「そんなわけで、よければ少しそこらへんを歩かないか? 時間つぶしも兼ねて、そうしていればみんなもそのうちやって来るだろうし」 「…………」 「な?」 まあ実際、気分を切り替えねばならないとは思っていたし。 「分かった。それじゃあちょっと歩こうか」 「うん」 俺と石神は、他の奴らがやって来るのを待つ傍ら、八幡の敷地内を歩いて回ることにした。 とはいえ、かなり広いので、本当にあちこち散策するわけにもいかない。晶たちが到着したらすぐに気付け、合流できる範囲に絞っておく必要がある。 そういう条件を踏まえて考えれば、最初から選択肢はそんなになかった。 だから、俺は…… 「弁財天社だ。来たことあるか?」 源氏池を渡った先にあるここへ石神を連れてきていた。 「うーん、四四八くん……君はもしかして、まだ機嫌が悪いのか?」 「はあ? なんでそうなる」 こんな所、と言ったら弁財天に失礼だろうが、とにかく別に凄い場所じゃないから石神が大喜びで感激するはずと思っていたわけじゃないけれど、だからといって今のように微妙っぽい顔をされるとも思わなかった。 「京都だと、客にお茶漬けを出すのはもう帰れという意味があるらしい」 「これはそれと同じような意味なのか?」 「………?」 依然、まったく意味不明である。なので首をひねっていると、今度は石神が苛々したように言い始めた。 むしろ、泣き入ってるといった感じで捲くし立てだす。 「わ、私のことが嫌いなら、はっきりそう言えばいいじゃないか。なのになんだこんなの、遠回しな。男らしくないぞ、馬鹿馬鹿っ」 「君がこんなに陰険だとは思わなかった。わ、わ、私だって、四四八くんのことなんか嫌いだこのヤロー」 「い、いや待て。何を言ってるんだおまえは」 両手を上下に振りながら、ぷるぷる震えて涙目になっている。 しかし、何と言うか、石神に嫌いと言われるのはかなり胸が痛くなる感じだった。良くも悪くも、いつも元気に四四八くん四四八くんと懐いてくる犬っぽい奴だったので特に。 「だってあれだぞ? 弁財天っていうのは嫉妬深いんだぞ? なので自分のところにカップルがやってきたら、容赦なく仲を引き裂くという鬼ババアのような奴だこいつはっ」 「君がその程度の常識、知らないはずがない。だからこれは、暗に私への三行半だ。おまえキモいんだよ、こっち来んなバーカとか思ってるんだろ……ば、バーカ」 「…………」 「ば、バーカ」 二回言うなよ。しかも噛みながら。 いきなり怒られたので焦ったが、ともかく原因は理解した。真っ赤な顔でふーふー唸っている石神に、落ち着けと俺は促す。 「誤解するな。別にそんなつもりでここへ連れてきたんじゃない」 弁財天に関する逸話は確かに知っていたが、俺の中ではそんなもの、単なる迷信以下の信憑性しかなかったから言われるまで気付かなかっただけだ。 なぜなら…… 「〈弁財天社〉《ここ》はな石神、うちの親父と母さんが出会った場所でもあるんだよ」 「え……?」 「嘘じゃないぞ、聞いてないのか? 俺なんかおまえ、子供の頃から耳にタコレベルの話だ」 「親父はともかく、母さんはいい歳していつまでも惚気てる。そんな夫婦がだな、出会った場所がだ、縁起悪いなんてことは有り得ないだろう」 「俺個人としては親父がいなくなっても一向に構わないんだが、とにかくそういうわけでおまえが思ってるような意味はない」 「だいたい、俺とおまえはカップルとか別にそういう……」 「ほんとかっ、おおおお、それはいいことを聞いた!」 聞けよ、人の話を。燦々と輝く太陽のような顔をしやがって。さっきまでの半泣きはどこにいったんだと突っ込みたい。 が、やはりこいつはこういう顔が似合うのも事実。どうにか誤解も解けたようで、俺は胸を撫で下ろす。 「ただ言っとくけど、逆的な勘違いもするなよ。おまえはすぐ飛躍して物事を考えるから」 「分かってる。別にこれが四四八くんなりのプロポーズとか、そこまではさすがに私も考えない」 「だけど、いい話を教えてくれてありがとう。ここが君の家族にとって大事な場所なのは分かったし、そういう所に私を連れてきてくれたのは純粋に嬉しい」 「まさか本当に何も考えず、適当にここへ来たってわけでもないんだろう?」 「そりゃ、まあ、なあ……」 「うん、だったらそれで充分私は幸せだ。もう一度、ありがとう」 ぺこりと頭を下げる石神になんだか俺は照れてしまって、強引に話題を変えようと試みた。 「気にするな。おまえは昨日、信明を助けてくれたみたいだし」 「あいつの兄貴分として、これは俺なりの感謝だよ。礼はいらない」 「それで、信明の調子だが……」 「ああ、それか。私が見る限りすぐに容態も安定したし、本人も大丈夫だと言っていたけど、医者じゃないので詳しいところは分からない」 「水希が特に慌ててもいなかったからたぶん心配はないんだろうが……それでもやっぱり気にはなるな」 「じゃあ明日、世良に言って信明の見舞いでもするか」 「そうだな。うん、そうしよう」 と、これで一旦区切りはついた。それなりに話し込んでしまったし、そろそろ晶たちも来るだろう。ここまで待ってまだ遅れやがったら、さすがにちょっと許さんが。 「じゃあ戻ろうか」 そう言って、踵を返したそのときに。 「あ、ちょっと……待ってくれ四四八くん」 不意に後ろから、軽く袖を掴まれた。それで俺が振り返ると、そこにはなんだかもじもじしている石神がいて…… 「えっと、そのな……昨日の話が出たから言うんだが」 「ほら、覚えてるだろう? 私が少しおかしくなって」 「君は何も言わず、待ってくれたんだと思うから……私もずるずる待たせるのは不実だろうし、いま言うよ」 「聞いてほしいんだ四四八くん。私は……」 「…………」 「わた、し、は……」 「―――――ッ」 そのとき、石神の顔が強張ったのを見て俺は即座に振り返った。明らかに、それは尋常な反応じゃなく―― 「な……」 そこに顕れたモノを見て、俺は絶句してしまった。 弁財天社へと続く橋の上、長身の男が無言のまま立っている。 外見から年齢は窺えない。俺とさして変わらないようにも、百歳を超えた老人のようにも見える異形の姿としてそこに在った。 その全身に纏っているのはどす黒い威厳。隙の無い気配は凍結した鋼のようで、顔立ちは整っているが非人間的なほど温かみというものを感じない。 酷薄で、冷厳で、威圧的な容姿ながら、なぜか幽鬼のように不確かな存在感を滲ませている。 ここに居て、ここに居ないような。固体のようで、気体のような。 これがこの男の特徴なのだ。常人とは掛け離れた何かをその身に巣食わせている。もはや何をしても手遅れなほど、壊滅的に汚染され尽くしている。 すべてを不安にさせる男。 近づけばまともじゃいられなくなる男。 奇怪なアンバランスさを秘めた偉丈夫。こいつはただそこにいるだけで、周りの世界へ破壊を促す不協和音に満ちていた。まるで壊れたまま完成した存在だから、見る者に自分もそうあることが自然なのだと勘違いさせるような…… 健常であることの自負を、捻じ曲げる男。 そして、そして、ああ、こいつの顔…… 「お、親父……?」 違うに決まっていると分かっていても、そう漏らしてしまうのは止められなかった。なぜならこんなの、似ているというレベルじゃない。 表面的な容姿だけを見るなら完全な同一。まさにコピーだ。そしてそれだけに、親父と違う部分がおぞましいほど際立っている。 俺の父親、柊聖十郎は傲岸不遜で性格悪くて、お世辞にも褒められた男じゃないが、こいつの中身は人間の範疇にすら入らない。 病――数千数万もの死病が詰まった憎悪と憤怒と絶望の権化。 まさにタタリと呼ぶしかない存在で、ならば正体は明白だった。 「緋衣、征志郎……」 これが、俺の曽祖父の異母兄弟。千信館の地下で遭遇した躯のような残滓じゃない。生前の姿として顕象された、二代目逆十字の悪夢だった。 「柊、四四八……」 地獄の底から響くような、怨念に塗れた声が俺の名を呼ぶ。 いいやおそらく、こいつが見ているのは俺じゃなく―― 「誓いを果たそう。俺は再び帰ってきた」 「ああああぁぁ、そうだ――帰ってきたのだァッ!」 「―――――ッ」 膨れあがる弩級の殺意に、身構えてしまうのを止められない。こんな存在を前にして、平常心を保つことなど不可能だ。 恐怖、焦燥、嫌悪、忌避、そして憐憫―― 英雄と呼ばれた曽祖父の兄弟でありながら、これほどまでに道を違わざるを得なかった男に対する、遣る瀬ない怒り。 緋衣征志郎――、俺はおまえが…… 「駄目だ四四八くん、あれを見るな!」 石神の言葉は聞こえているが聞こえない。理解しているが理解しない。 これは柊の血に残った禍根で、だからこそ―― 「〈干〉《かわ》キ〈萎〉《しぼ》ミ〈病〉《や》ミ〈枯〉《こや》セ。〈盈〉《み》チ〈乾〉《ひ》ルガ〈如〉《ごと》、〈沈〉《しず》ミ〈臥〉《こや》セ」 「急段、顕象──」 かつて、〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈こ〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈試〉《 、》〈練〉《 、》〈の〉《 、》〈帳〉《 、》〈尻〉《 、》〈あ〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 「〈生死之縛〉《しょうししばく》・〈玻璃爛宮〉《はりらんきゅう》逆サ磔――」 爆発する死病の闇が、ここに逆十字の再来を告げていた。  そこは、一言で表現するなら矛盾に満ちた空間だった。  希望に溢れていながら絶望的。至福の極楽でありながら地獄的。渾沌としながら混じり合うものは存在せず、さりとて争いが起こっているかと言えばそんなことはまったくない。  誰もが愉快に、しかし救いようがなく墜落している。そんな状況が世に存在するのかと、聞けば誰もが疑うだろうし、非現実的とさえ思うはず。  しかし、あるのだ。  それも難しいものでは一切なく、また斬新なものでもない。  非常に典型的で普遍的。だからこそ極まっている。  ここはつまるところそういう世界で、ゆえに“彼”は白羽の矢を立てたのだろう。そして当然ながら激している。 「だから! 俺と貴様は一蓮托生だということだ!」  クリームヒルトに眷族資格を取り上げられ、死を待つばかりとなった征志郎。しかし諦めという文字は彼の辞書に存在せず、腐汁まみれの身体を引きずりこの場までやって来たのだ。  逆十字たる者が有する憎悪の心、その強大さについては今さら語るまでもないだろう。常人とは比べ物にならない精神力を源に、征志郎が未だ命を繋いでいる事実に関しては何らおかしなことでもない。  よってこのとき、一番の異常が何かと言うなら、それは彼に吼えかけられている相手こそがそうだった。  なぜなら、逆十字とは極限的な邪悪である。その身に詰まった死病の闇と怨念を前にすれば、何者であれ反応せずにはいられない。  かつての甘粕正彦やクリームヒルトのように親愛を表す者は非常に稀有だが、そんな彼らも注目を促されたという点では他の者と変わらないのだ。少なくとも、無視は出来ない。  盧生でさえ〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》のが逆十字。にも関わらず、この相手はいったいどういうことなのだろう。 「聞いているのか、何処を見ている! この薄汚い中毒者風情が、俺の言葉が届かんと言うのか、度し難い……!」  悪鬼そのものである征志郎の凶念は、しかし男へ到達できない。  まるで霧の中を乱反射するかのように、正しい形で伝わらないのだ。ゆえにこの状況を俯瞰で見れば、まさしくパントマイムの有り様である。  確かに向かい合っているはずなのに、両者の間は絶望的なまでに分かたれていた。そこに見えない壁があり、突破できないから交われない。  かといって、男が征志郎を拒絶しているわけでもなかった。むしろ大いに歓待しており、溢れんばかりの好意と愛で迎えている。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈に〉《 、》〈対〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、ここでも切に思っているのだ。  なんと哀れな、救ってやろう。報われてくれ愛しい君よ。俺はおまえたちの幸せだけを、いつも変わらず願っている。  ああ、だから、いったいどうしたのだよ楽しめよ。おまえの世界はおまえのもので、おまえの形に閉じているからおまえの真実はおまえが好きに描けばいいのだ何を言っているのかなあ。  俺はおまえのことがとても好きだしおまえも俺を好きなのだからきっと楽しめるに決まっているのだよそうだ素晴らしいではないか善哉善哉。  飲めよ吸えよ気楽に酔えよ。さすればそこは羽化登仙。おまえだけの仙境は、いつもおまえを待っているのだ。至福は約束されている。  丹が欲しいか? 視肉はどうだ? 霊芝は幾らでもそろっているし、艶が好きなら虹の仙女でも呼んでやろう。  紅衣、青衣、素衣、皂衣、紫衣、黄衣、緑衣、なんでもより取りみどりなのだよ、遠慮をするな派手にいこうか。  一つ蟠桃会と洒落込んでみるのも悪くあるまい。俺は西王母とも最近懇意になってなあ。これがどうして、なかなか気前のよろしい瑶池の金母であることよ。めでたい、めでたい。なあ笑えよ。世界はこんなにも輝いている。 「ふはは、ははははは、あははははははははは―――!」  それら、延々と垂れ流される痴れ言は完全に別の時空へ飛んでいる。男は征志郎を歓迎しながらまったく彼を見ていないし理解しない。  なぜなら、男にとって世界はそういうものだから。そこになんら不都合は存在しない一人芝居の舞台となるだけ。  ゆえに誰もこの男を掴めないのだ。激突どころか意思の疎通がそもそも用を成していない。  まるで霞に揺蕩う仙人である。事実男は、そのような二つ名で魔都に君臨する背徳の帝王。  この時代、この国を真なる意味で統べている四凶渾沌の天尊だった。  紛れもない狂人だが聖人で、規格外の化け物がここにいる。  だからこそ―― 「糞、糞、糞、屑め」  男に目をつけた征志郎の見立ては正しい。それは彼自身も確信を持っており、また新たに候補者を探していられる時間もなかった。 「役に立てよ、貴様の生まれた意味なぞは、俺に使われる以外にない!」  よってパントマイムが続行する。  もはや滑稽を通り越し、悲哀どころかおぞましさすら感じさせるやり取りだったが、それでも征志郎は他に選べる道がない。  如何にして、どうすれば、この狂った仙道をこちらに向かすことが出来るのか。今このときも死に近づいている絶望の中、二代目逆十字の口から出たのは彼にとってもっとも許し難い男の名だった。 「貴様も俺も――このままでは柊四四八に殺されるのだぞ! 許せんと、思わんのかァ!」  そう、許せるはずがないだろう。同じ柊聖十郎の子でありながら、こうまで立場が開いてしまったその現実が認められない。  それが緋衣征志郎という男の真実。血を分けた兄弟だからこそ、絶対にこの不条理を正してやると誓っている。  なぜおまえだけ。なぜ俺のみが。許せん、許せん、断じて、と――  その思いが、果たして通じたのだろうか。 「だから、貴様が俺の盧生となれ!  そして俺は――夢を掴み、貴様を踏み越えて盧生となるッ!」  これまで一切交わらなかった両者の間に、微かな変化が生じていた。 「盧生……?  おまえがそう思うのならそうなのだろうよ。それがすべてだ」  征志郎の言葉に対し、初めてまともと言えなくもない反応が返ってくる。  いったい何がその現象を引き起こしたのか。それは当人同士にも分からないまま…… 「ああ、痴れた音色を奏でてくれよ」  薄桃色の煙が揺蕩う仙境で、彼らはこのとき一つの運命を紡いだのだ。  万仙の陣という、〈快楽〉《けらく》の奈落に落ちる夢物語を。 「――うわああああああああああぁぁぁッ!」  絶叫と共に、僕はその夢から逃れようとするかのごとく飛び起きていた。  しかし、いいや、起きたというのにまだ悪夢が終わっていない。 「あッ、ぐ……なんだこれは!」  発作だ。しかも相当きつい。息も満足に出来ないほど、胸が締めあげられ身体の感覚が消えていく。  だけど、今はそんなことより…… 「緋衣さん……!」  ベッドから転げ落ちるようにしながらその名を呼ぶ。待ってくれ、嫌な予感がするんだよ。  なぜなら今夜の夢に、緋衣さんはいなかった。これまでずっと一緒だったのに、唐突なすれ違いが不安で不安で堪らない。  だから、行かなくては。彼女を探し、守らなければ。  その一念でもがきながらも身体を起こし、僕はドアノブに手をかける。いつもはなぜか開かないのに、今夜はすんなり開いてくれた。  それについて思いを巡らす余裕はない。  玄関に辿り着くまで、見覚えのない家具やら何やらが目に入って他人の家みたいだったが、そんなことはいいんだよ。  分かるんだ。この発作は危ない。僕にはもう時間がない。  だったら、その前に誓いを果たさないといけないだろう。僕のすべては、彼女のためにあると決めたのだから。  今にも消えそうな身体を抱いて、僕は夜の街に出て行った。  緋衣さん、何処にいる? 君はまだ、世良信明を必要と言ってくれるのか?  それならいったいどうすればいい。君のために何をやればいいのかを……  教えてほしいんだ、緋衣さん。 顕現の直後、吹き荒れたのは呪毒の嵐。 肉よ腐れ。骨よ朽ちろ。膿に爛れて果てればいいと、渦巻き轟く〈病〉《ヤミ》の波動が俺に向かって放たれた。 瘴気に侵されるたびに削られていく正気の数々。蠢く悪意の逆さ十字が背後に浮かぶ磔を唸らせながら、邪悪な夢を問答無用で駆動させて身体を蝕んでいくのだが、しかし。 これは、何かが── 「ははははは、はははははははははッ! そうだ、いいぞ、俺を見ろ。好きなだけ仁でも義でも奮い立て!」 「残さず奪い獲ってやろう。おまえはまさしくそのためだけに存在する」 悪党そのものという矜持を謳い上げ、困惑するこちらの意志など委細気にせず征志郎は攻撃を放ってくる。まるでコマ写しの映画みたいに、瞬きの時間で戦い方を次から次へと切り替えて。 〈一撃離脱〉《ヒット&アウェイ》、〈一撃必殺〉《ワンストライク》、〈電光石火〉《スピードスター》、〈変幻自在〉《トリックスター》…… 手技、足技、柔術、剛術、殺人活人、一対一から多対一まで多種多様に……節操なく。迫る変幻自在の攻め手は確かにかなりの脅威だが、それゆえに奇怪な現象と言えるだろう。 何だこれは、〈伝〉《 、》〈え〉《 、》〈聞〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈急〉《 、》〈段〉《 、》〈と〉《 、》〈効〉《 、》〈果〉《 、》〈が〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈違〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 石神の話を信じる限り、緋衣征四郎は柊聖十郎の生き写しだったらしい。そのため描いた夢の形もまったく同じ、玻璃爛宮だと聞いていた。 光と闇の等価交換。考の心を会得しなくば断ち切れない憎悪の絆。あくまで知識の上でだが、口伝だけでも相当な凶悪性を誇っていたと察するのは語るに及ばず。なのにこいつは、それを現状使っていない。 いいや、使ったつもりで攻撃を重ねているのだろう。それがどこか奇妙な滑稽さを醸し出していた。 これは真実である歴史との齟齬、明らかな劣化と言える。さらに加え、精神にまで強烈な錯誤を抱いているのは間違いない。 何せこいつ、さっきから── 「盧生となる。盧生となるのだッ」 「────、ッ」 攻撃を加えるたび、こんなことばかりを叫んでいるのだ。どう見ても現実を認識していないだろう。 どうやら俺のことを子孫ではなく、第二盧生である柊四四八そのものだと見なしているらしい。 夢を見ている鎌倉市民の願いと同じように。彼らが求めているように。自分がそう思うならそうなのだという理屈のもと、ここに顕象した緋衣征志郎は盲目の姿を晒していた。 ゆえに当然、連座でこいつの急段が変化した理由についても見えてくる。それは今までの経験や知識に加えて、征志郎の拳を受けた箇所に起こる明らかな変化を見れば一目瞭然というものだろう。 「病か? いいや、そもそもこいつ──」 防御した腕から噴き出る血はどす黒く染まり果て、腐った肉を食みながら蛆がじゅくじゅくと皮膚の下に発生しだす。 あのとき、千信館の地下洞窟でミイラ化していた征志郎から喰らったものとほぼ同じだ。変化した急段の真実とはこういうこと、手足に病魔の概念を纏った上で叩き込む毒手じみた格闘である。 逆十字の本領とも言うべき略奪の効果が顕れていない。 だからこそ、改めて思う。紛れもなくこれは劣化だ。 以前に見たこいつはただの死体にすぎず、あんな状態で揮われる夢は残りかすでしかなかったはずなのに。生前の姿として顕れた征志郎が、本来この程度であるわけがない。 悪感情を抱いただけで距離も人数も関係なく成立する玻璃爛宮と比較すれば、誰が見ても格下なのだと感じるはず。 だというのに、征志郎はそんな無様なものこそ自らの夢だと信じ掲げて、俺を執拗に狙っている。 すべては、こいつが預かり知らない観客たちの期待を下敷きにして生み出された〈廃神〉《ユメ》だからか? 〈初〉《 、》〈代〉《 、》〈逆〉《 、》〈さ〉《 、》〈十〉《 、》〈字〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈柊〉《 、》〈聖〉《 、》〈十〉《 、》〈郎〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈二〉《 、》〈代〉《 、》〈目〉《 、》〈は〉《 、》〈格〉《 、》〈下〉《 、》〈に〉《 、》〈違〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。いいや、そうあるべきだという決めつけに縛られて、獰猛な一人芝居を哄笑しながら続行している。 「さあ俺に潜む〈病魔〉《ヤミ》を知れ。聖十郎が造った道具め、それらしく差し出すがいい」 「寄こせ、寄こせ、寄こせ寄こせ寄こせェェッ──」 だから、クソッ……何だこれは! 「ふざけるなよおまえ。いったいなんだその様は」 放たれた怒涛の攻めを受けきれず、一発ごとに業病を植えつけられていくがそんな痛みはどうでもいい。あまりの怒りにこっちは目眩がしてるんだよ。 この今、二代目逆十字が劣化している現実は、客観的に見る限り俺を利しているだろう。 単純に勝率は上がっているし、玻璃爛宮を打ち破ろうとしなくていいし、何よりこちらを柊四四八と誤解したままなら付け入る隙も当然できる。 ざっと考え付くだけでもこれだ。他にも総合すれば紛れもなく状況は有利になったと言っていい。夢で見ている一般人たちの思い込みが、ここに来て初めてこちらに得な形で顕れている。 しかし、そんな事実が一切どうでもよくなるほどに、俺は征志郎の劣化具合が腹立たしくて堪らない。 だってそうだろう。つまり、連中はこんな風に思っているわけだ。 二代目は、偉大な初代に決して決して敵わない──と。 「原典は最高で、古いほど神秘的で、後に続く存在は劣化コピーに過ぎないと? むしろそうであってほしいのだと、そんなことをなぜ願う」 「自分が気持ちよく崇められる概念に少しでも似ているものは、馬鹿にすべきバッタもの? 気持ちよくこき下ろすための材料だって? 冗談じゃない」 「相手を見ないのも大概にしろ……!」 吼えた言葉へ空間越しに返って来たのは否定の思念だ。やめろよ白ける、そんなことを言うなよおまえ、柊聖十郎は徹頭徹尾鬼畜である、いいやそうでなければならないという、身勝手な願望たち。 だから逆説的に彼こそ至高の悪党であり、後に続くものなどしょせんは二番煎じに過ぎないと、決めつけながら悦に浸っているのだろう。 いつまでも、気に入った昔のものを最上だと讃えることが正しいかの如く。 ああ、つまり―― 「俺のことも曽祖父さんから劣化した、粗悪な模造品だと言いたいんだな。そういう夢を見たいわけだ」 かつて柊四四八が誇りとした“継承”という概念を冒涜しているその事実が、頭にきて仕方なかった。 緋衣征志郎を劣化品だと見なすことは、すなわち同時にそういうことだ。今を生きる俺という存在も同じ道理で見下している。 しょせん、後発ごときに大した真似など出来ないと。 偉大な先達は超えられないと。いいや決して超えるなと―― 過去を神格化して崇め奉りたいがために、源流から派生した存在をどれもこぞって馬鹿にしているのだと理解した。 「安穏とした日常では輝きが磨かれないと、戯けたことをほざくなよ。危険な時代に生きたことはそんなに賞賛されるべきか?」 いい加減にしろよ、なぜ気づかないんだ。その理屈こそまさに、甘粕正彦の提唱した〈楽園〉《ぱらいぞ》という概念そのものじゃないか。 平和な時代を生きる俺たち子孫は、偉大な先祖が勝ち取った時間の中でだらだら濁っていくだけの存在か? そうでなければいけないのか? 初代を気持ちよく拝するために永遠の格下で在り続けろと? 冗談じゃない。 後発は何をどうしようが劣化扱いかよ、ふざけるな! 「誇りを継ぎ、今を育み、少しでもより良いバトンを渡せるように努力する。その繋がりこそ人の歴史というものだろう」 俺も、そしてその点だけは征志郎も継承者として譲れないはずの部分だろう。 この男と相容れるとは思わないが、これだけは理性を持たないこいつに代わって俺が文句を言わねばならない。 過去に見た感動しか素晴らしいと認めない盲者たち。そんな狭量で浅い見識の奴こそがいつも進化を妨げるんだ。 よく吟味もせず、する気もなく、ただ気に入ったものと似ているというだけで問答無用に格下扱い。そんな大馬鹿野郎どもが幅を利かしている限り、人類は一ミリだって前へ進めなくなるだろう。 初代あっての今だというのは間違いないが、ゆえにそこから生まれたものを認め、評価し、継いでいかなければ意味がない。すべてがオンリーワンなど有り得ないし、そんな世界に絆は存在しないんだよ。 「ああ、複雑な気分だとも。助かっているのに腹が立つ」 緋衣征志郎は柊聖十郎を超えていたかもしれない。そう考えない人間たちのお陰で俺は多少の病を受ける程度に留まっているが、それが益々むかついてくる。 「おまえだって悔しいよな。勝手な外野の一存で、聖十郎の格下扱いされるのは」 だから、そこだけは同情するよ。なあ二代目。 こっちも柊四四八の子孫としてそう見られている節があるから、その点だけは心の底からおまえの姿を悲しく思う。 確かに俺は曽祖父さんのような盧生じゃないし、未熟な面も多いだろう。だが劣化コピーなんかじゃないと思っているし、そんな立場に甘んじるつもりもない。 そっちだって、先代に劣っているなど欠片も思っていなかったんだろう? むしろより凶悪な、新型の逆さ十字であったかもしれないのに。 先人と同一視されている現状も含め、劣化させられて悔しいよな。 耐えられないほど屈辱だろう。 「だから俺が祓ってやる」 自分たちに向けられる歪んだ期待ごと打ち砕くべく、俺は旋棍を消しながら腰を落として拳を構えた。 拳を強く握りしめ、真っ直ぐな視線で相手を射抜く。もはや単なる悪夢を相手にするつもりはない。 僅かでも血の繋がっている血族として、俺は緋衣征志郎と対峙するんだ。 〈試〉《 、》〈練〉《 、》〈は〉《 、》〈再〉《 、》〈び〉《 、》──今ここに、やり直しは果たされる。 不思議な感慨を抱きながら、求めるのは真っ向からの殴り合い。 「来いよ、クソ〈異母兄〉《あにき》。今から俺がおまえの役に立ってやるから」 「血の繋がった家族として遠慮するなど思うなよォォ──!」 「吼えたな、俺を救わぬ〈救世主〉《イエホーシュア》がァァ──!」 作戦や理屈などは一切抜きに、同じ地平を歩む人間として―― 俺たちは、魂をぶつけるような熱い決闘を開始した。 「ッ──────」 「な────」 瞬間、描いた軌跡はクロスカウンター。 同時に放った拳骨が互いの顎をかちあげて、派手に大きく頭部を揺らす。 与えたダメージはほぼ同等だったが、埋められた病の分こちらの方が深い痛手を負うものの、構うものかよ。上等だ。 苦痛や絶望で逃げ出すようなら、そもそもこんな特攻じみた真似はしていない。闘病とは気力の勝負だと知っているから、それを支えに気合を滾らせ再び相手へ殴りかかる。 そして再度、いいや何度も激突する俺と征志郎。鏡のように回避の二文字を捨て去って正面からぶつかり合った。 拳を叩き付けては叩き付けられ、殴って蹴られて血を吐いて、睨んで吼えて、何度も何度も、何度も何度も…… 「羨ましい。妬ましいぞ。なぜこの俺が、くだらないおまえと違って〈病〉《ヤミ》を抱えて生まれなければならんのだッ」 攻撃を交わし合う過程で征志郎は忌々しげに膝を浴びせ、腕を垂直に打ち下ろす。 死ね、死ね、死ねと、瞳を血走らせて呪いを万と吐きながら。タタリであるからなどではない、奴だからこそ相応しい邪悪そのものという双眸で憎悪の闇を叩き込むのだ。 その気概は負の方向に突き抜けているが、絶対値だけで見るならやはり凄まじいものがあった。生への渇望、その裏返し。生きたいからこそ怨んでいる。 「〈試験管〉《ぼたい》の差だと言うのなら、今すぐ俺に献上しろ! 逆さに吊るし宿した因子を根こそぎ抉り出してやる」 「このまま死ぬなど断じて認めん。生きる、生きる、だから貴様ら──」 「──磔になれなどと甘ったれたことを抜かすなッ」 「ぐ、ッ……ぬ──」 吼えて、ならばこそと俺は肘打ちと共に殴り返す。吐血を拭いながら今や腐汁まみれになった身体に構わず、奴を見据える。 逆十字の血族――確かにその意志力には感服してるよ。生きたいという渇望の強大さや、そうまで怨念に頼らなければ生きられなかった過酷さも、健常者である俺にはきっと分からない絶望だろう。 けどな、だから見えてきたものもあるんだよ。 やはり緋衣征志郎、おまえらは悲しいほど間違っている。なぜなら── 「今はっきりと分かったぞ、おまえ達は意気地なしだ。助けてくれと叫ぶのを弱さと断じて逃げている」 「探せばそれこそ幾らだっているんだよ。どんな悪党が相手でも、救いたいという人はッ!」 これは決して間違いでも希望的観測でもない。なぜならかつて聞いた百年前がそれを証明しているのだから。 柊恵理子が、真奈瀬親子が、そして息子の柊四四八がいたように。 逆さ十字がどれほど邪悪で手の付けられない鬼畜外道でも、救いたいと願う人は必ず出てくるものなんだ。人間には冷たい奴も多いけど、だからってすべてがすべてそうじゃない。 俺も、そしてきっと曽祖父さんも、そこまで人は無関心じゃないはずなんだと信じている。だからいいか、よく聞きやがれ。 「奪う奪うとやかましい。力ごなしに毟らなければ、手に入れたんだと信じられないだけだろう。周りの人が与える救いを救いであると受け入れない、そんな悲しい在り方こそおまえ達を破滅させた真実じゃないか」 「逆十字なんてものをプライドにしているから、二代揃って敗れたんだよ」 闇のままでいなければ、百年前に柊四四八は血の繋がった〈異母弟〉《かぞく》として、おまえを救おうとしたはずだと確信している。 素直に助けてくれと言えなかったこと。光の指す道を恐れ、忌み、ゆえにそこから逃げたこと。これを弱さと言わずになんと言うんだッ! 「ふざけるなッ、見下すなよ塵どもがァァ──!」 「がはッ、つぅ──」 訴えた想いに、しかし征志郎は改心しない。 そうだとも、こんな程度で心を曲げるような男では断じてないのだ。本物か偽物かなどという以前にまず、だからこそ彼らは外道の逆さ十字。 情などまるで解さないし、己を変えるつもりも皆無。奴らにとって自分以外のあらゆるものをどう見ているかは、顕象している磔の数々が今もおぞましく証明している。 「他者という礎が、訳の分からぬことをつらつらと。万象俺の道具であるのは天地に轟く不文律だ! あるがままに鬼畜となった!」 「その純粋さを今さら損なわせるものか、弁えろォッ!」 「だから、この馬鹿……それじゃあ一人ぼっちになると、さっきから言ってるんだ!」 「それがどうした、まとわりつくな! 有象無象の塵屑を、どうして俺が気にかけなければならんという……ッ」 「憐憫したな、見下したか、ああ許さんぞ四四八──四四八。俺の地獄を妨げた貴様が憎い。資格を差し出せ、俺の手にィィッ」 平行線のまま浴びせられる拳からもはや技術は消え失せて、力任せに成り果てててはいるものの、乗せられた感情の多寡については依然上昇し続けている。 無暗やたらに殴りつけてくる相手へこちらも一切容赦はしない。罵倒と忠告を交わしながら足を止めて打ち合いを続けるものの、それは徐々にこちらが押し込まれていく結果となった。 衝撃と共に浸透する病の楔はより深く、憎悪に応じて俺の身体に堆積していく。やはりどれだけ劣化しようとこれは猛悪な死病の夢、逆さ磔に他ならないのだ。 どれ一つとっても回復できる類の病ではなく、楯法により繕えるのはあくまで表層だけである。与えられた症状は一向に治癒していない。 すでに脳も内蔵も中枢機関は腫瘍まみれだ。ぷちぷちと水面に浮く泡のように動くだけで血管を腐らせながら破裂して意識を断線しにかかる。 拳を握る気力は何とか保てたとしても、握った拳がそれだけでぐちゃぐちゃに砕けてしまえば当然戦えないということだった。 さらに、大きな理由がもう一つ。 「ごほ、ッ……ああぁ、ぐ──」 ──〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》、夢が巧く回せない。 もういい加減にしろよと思うが、無視できない不調が強制的な実力低下を引き起こして俺の動きを鈍らせる。 自分の芯が剥離しかけているかのようなこの感覚。何が原因かは今この時も分かっていない、そのために改善に何をすればいいのかも未だ掴めていなかったから対抗策はどこにもなかった。 それらの身体を襲う病と不調、二重でかかる枷によって、俺は徐々に征志郎の回転率を追いきれなくなってきた。 一方的に殴られる展開が増加していくことにより、不覚にも崩れ落ちそうになりかける中……不思議と意識を繋いだのは当の征志郎からかけられる憎しみだらけな罵倒の数々。 朦朧とする視界で加熱していく奴の姿が、なぜか心に訴えるのだ。 これを聞き届けなければならないと強く思うその度に、激昂する様からとても目が離せない。俺を痛めつけながら、同時に己の矜持を自分ごと掻き毟っているかのような、こいつは……ああ。 「なぜ、おまえが盧生なのだ。なぜ、俺は盧生になれない。間違っているだろうそんな世界は。何の価値があるというのだァッ」 「四四八、四四八、四四八ァァッ──!」 見えた確かな真実に、俺はようやく。 「……おまえは、本当に〈柊四四八〉《おとうと》が羨ましかったんだな」 二代目逆さ十字、緋衣征志郎の〈真〉《マコト》へと至るのだった。 同じ柊聖十郎の子でありながら、片や盧生で片や死病まみれの重篤患者。そうだよな、悔しくて当然だ。なまじ比較できる関係のため尚のこと憎く疎ましかったのだろう。 その一点、柊四四八に対して抱いた憤怒と絶望に関してだけは、間違いなく初代逆十字を圧倒的に凌駕している。 こいつほど第二盧生を憎んだ男は史上にいない。そしておそらく、だからこそ本来の急段もまた柊四四八に対しては聖十郎を上回る段違いの凶悪さを発揮していたはずであると、想像するに容易かった。 なんだろう、不思議な感慨がある。〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈く〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈を〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》という事実を俺はこの一瞬、深く深く噛み締めて── 「だから俺も、俺の〈真〉《マコト》をここに告げるよ」 言い放ち、決意も新たに向き直った。 迷い。逡巡。我が心には微塵もなし──これから放つことがおまえへ贈る答えだと、柊四四八はこの刹那に清廉な祈りを籠めて言葉に変えた。 「よく見てくれ、俺は俺だ。盧生じゃないし、曽祖父さんの劣化コピーなどでもない」 「ならばこそ、御先祖様から意志を継ぎ前に進んだという自負がある。それを誇りにあんたの闇をここに断とう──!」 彼もきっと、今の自分みたいに緋衣征志郎を家族として愛したかったと思うのだ。そして同時にその機会がふいになったことがあると、なぜか確信するからこそ同じ子孫として向き合おう。 鬼畜でも外道でもろくでなしでも、すべて自分のためであったとしても、血の繋がりがある家族だから容赦はしない。 我も人、彼も人なり──ゆえに今、この手に集うは破魔の水気。 孝の心が〈苦悩〉《やみ》を祓う! 「抜けば玉散る氷の刃──」 「破段、顕象──」 「〈犬塚信乃〉《いぬづかしの》──〈戍孝〉《もりたか》ァァッ!」 至った誠心が光と共に強く輝き、身に受けたあらゆる病を叩き出す。 穢れなどもはや身体に一欠片も残っていない。 先人への畏敬、哀悼、継承した誇りと重さ──それらをすべて、この一撃に籠めながら。 「これで終わりだ──!」 断ち切った憎悪の絆が、磔ごと音を立てて崩壊した。  そして──四四八と征志郎、彼らの決着と時間は少々前後する。  継承者同士の戦いは一つの結果へ辿り着いたが、しかしまだ本質的には終わっていない。  そう、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈決〉《 、》〈せ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。柊と緋衣の宿命は。  水の流れと同じこと。誇りであれ、呪いであれ、始点から派生するものは枝葉のように広範囲へと流出していく。  それを拡散による濃度の低下と見るか、支配圏の拡大とするかは人それぞれだが、少なくとも数が増えることだけは間違いないと言えるだろう。  石神静乃が柊四四八を仰いだ結果、彼の眷属となったように。  逆さ十字もまた、もう一人増えているのだ。邪悪を継承した存在は緋衣征志郎で途切れていない。  すなわち── 「まずいぞ。早く──」  訪れた最大の好機、悲願成就は目の前に。 「こんばんは、石神先輩」  ならば容赦する道理も無し。  すべての策謀を結実させる最後の一押しを成すために、彼女は姿を現した。 「さあ、誓いを果たしましょう。逆十字は帰ってきた。  ああぁ、そうよ――帰ってきたの。朔という歴史に穿つ空隙へと」  軽やかな足音を響かせて少女が出現した瞬間、空気が再び邪悪に歪んだ。  見る者を一人残らず不安にさせるその気配。健常者なら覗き込んではならない闇を携え、朔を演出した張本人がついに静乃の前へ姿を晒す。  それは時を超え、子孫にまで転移した癌細胞の結晶体。  いいや、彼女こそが究極傑作の三代目逆さ十字――緋衣南天はすべての勝利を確信したからここにいる。 「おまえが──」  名乗りを前に疑問を抱く余地などなく、静乃はそれが真実であると即座に察して息を呑んだ。余りに凄まじい毒を煮詰めたこの気配。彼女こそ朔の首謀者なのだと理解するのは容易かった。  征志郎の〈創界〉《きゅうだん》へ連れ去られた四四八の探索、などとという選択肢はもはや採れる余裕がない。  今、自分にこそ最大の本命が立ちはだかっているのだと、思い知らされたがゆえに意識を戦闘へと切り替える。  さらに、もしやこの声──  聞き覚えがある。記憶を探る静乃へ南天は微笑みながら首肯した。 「その節はとてもお世話になりました。約束通り、あなたにも御礼をしにきましたよ」 「そうか、やはりおまえが緋衣の血族だったか」  恩返しと告げた言葉に合点がいった。なるほど、不覚。あの瞬間かつてないほど真実に近づいていたことを悟り、ならばこそ悔やむ想いを飲み下して相手の姿を見据えて構える。 「だがこうして出てきた以上、もはや逃がさん。覚悟しろ」 「うふ、あははははは──やだ怖い。自信満々なのね先輩。  それは仲間が助けてくれると思ってるから? でも残念、ここに来る前、私が全員消しちゃったわ。ご愁傷様」 「な、ッ──」  さらりと吐かれた台詞に対して愕然とし、次いで意識が白熱化する。南天の言葉を鵜呑みにしたわけでもないが、仲間が何かしらの妨害を受けているのはその一言で確信できた。  彼らが今夜集まらなかったのは、眼前に立つ相手の余裕は、どちらもすなわちそういうこと。 「──貴様、許さない!」  ゆえに問答などもはや無用。  火蓋を切るにはそれで充分。  勢いよく飛び出した静乃の激する咆哮が、万仙陣の成否を決する一戦の幕を上げていた。 「単純ね。こうもあっさりムキになる」  一直線に迫る敵手、その噴き出す義憤を大上段から嘲笑しつつ南天も迎撃を開始した。自ら後方へ飛びながら、手にした拳銃を連続して発砲する。  歩美の獲物と同じく、無論それも常識的な範疇の武器ではない。創形された武装のため装弾数は無限であり、連射力は機関銃を遥か凌駕した域にある。  弾丸の一発一発には強力な解法が乗せられているせいか、貫通力や概念的な破壊力も抜群だ。それが優れた咒法の誘導を受け、自在に空を飛翔しながら静乃の身体を喰い荒らす。  咒法、解法、創法──三つの分野に突出した夢、そこから繰り出される弾幕は凶悪の一言に尽きるだろう。  ゆえに静乃もそれを捌き、時に受けつつ駆けながら相手の素質を即座に見抜いた。他の夢である戟法と楯法を南天が不得手にしていることも、同時に容易く見えてくる。  両者の速度差が純粋に大きいのだ。豪雨のように飛来する魔弾は非常に厄介な代物だが、それでも逃げ撃ちに徹している南天は静乃を突き離せていない。  強烈な足止めを受けながら追いすがれているのは、肉体面における差が如実に現れている結果だった。  それも無理からぬことだろうと静乃は思う。なぜならこの少女は逆十字、先天的に業病を宿しているのは確実であり、そこから考えて現実感が大きく関係する夢については相性が悪いのだと看破した。  聖十郎のように、超人的な健常さを願い続けていたからこそ戟法に対しても高い素養を得るというのは、やはり稀有なパターンだったらしい。少なくとも、南天は明らかにそうじゃなかった。  世界を〈咒〉《のろ》い、解体して、自らの望む形へ創り直すという祈りへ極端に偏っている。  それは言い換えれば、彼女の方が聖十郎より〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈的〉《 、》だと言えるのだが、しかし邯鄲法において有利に働く要素ではない。  弾丸は血肉を穿ち、練る夢を片っ端から崩壊させているものの、こうまで執拗に近寄らせない戦い方は南天の脆弱さを証明している。  特化した能力者ゆえの弱点が分かったからこそ、静乃は怯まず尚のこと気合いを入れた。  つまり、これは一撃入れるか入れられないかという勝負。  よほどの隠し玉でもない限り、静乃が南天に到達できればそこで決する。  因縁へ終止符を打つための意識も新たに、踏み出す一歩へ力を込めた。  それで負傷を受ける頻度が増そうとも構わない。より加速して飛燕のように虚空を蹴りつつ、逃げる射手へと追いすがる。  だが、その必死な姿を見るたびに南天の笑みは深まっていった。  本当に、本当に、なんて滑稽なのだろうかと。  真実が欠片も見えていない。正義の味方面をして向かってくる静乃の手足を撃ち抜きながら、歪に口端を吊り上げる。 「ねえ、教えなさいよ。なんでそんなに仲間のことが大切なの?」  そして問いかけた。破滅への一押しへ、滴る毒を注いでいく。 「ぬるくて甘い理想的なラブコメが、夢中になるほど楽しいわけ?  仲間たちとの日常がいつまでも続くように願いますって。そりゃそうよね、ずっと思い描いていた通り。だからこうも嵌まっちゃう。  しかもなぜか最後に選ばれるのは自分で、ふふっ、くく── どうよ、気分がいいでしょう! 他の女を押しのけて、ぽっと出のあんたが突然、横から男をかっ攫ってさァ」 「優越感が疼くわよねえ! 何から何まで都合がよくて、実に楽しそうじゃない」  きらきら眩しいごっこ遊び。夢見た通りの楽しい日常。  馬鹿か? 阿呆か? こちらから見ればおまえ、おままごとに勤しむ餓鬼と何も変わらないのだと、南天は静乃のすべてを嘲り尽くす。  だから消してやったんだと笑う相手に、静乃は強い怒りを覚えた。自分ならばいざしらず、仲間に対する侮辱なんて絶対に許せない。 「彼らを侮辱するなッ」 「していないわよ? 馬鹿にしているのはたった一人。目の間にいる頭のゆるいお花畑を嗤っているの。  ていうか、本当に何も気づいていないわけ? 自分が一番大好きな〈柊四四八〉《ヒーロー》をオモチャにしているということを」  そんな人間関係、現実的にありえるはずがないだろうに。  だからこそ、こういった〈齟〉《 、》〈齬〉《 、》が生まれる。静乃の世界を抉るように、粗を取り出し晒すのだ。 「彼はふらふらと女の間で揺れるような男だった? あんなハーレムくずれの関係を八方美人に築き上げて、踏ん切りつかずだらだらと…… あんたの描いた柊四四八は、つまるところそういった程度の低い男なわけね」 「ふざけるな。そんなこと──」 「ええそうよ、あるわけないでしょそんなこと! あんたが選ばれることも、あんな状態であったことも、あいつらが願った通りであることも!」 「全部、全部、全部、全部ッ──本当に、先輩ったら滑稽よね」  愛い、愛い──好きなだけそう思っているがいい、と。  その一瞬、南天越しに垣間見えた強大な思念は何だったのか。  自分と相手を等しく俯瞰し、祝福している痴れに痴れ狂った桃源郷の視線を感じて、冷水を浴びたように静乃の意識は凍り付いた。 「おまえは、何を……」  だから思わず問いかけてしまう。  そう、彼女はこのとき、ほんの僅かに〈醒〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  それがどれほど禁忌に触れる所業なのか、理解できずいるままに、しかし想像だけは止まらない。  夢、願い、理想的な人間関係──ああ確かに、自分はとても恵まれている。  鎌倉に来る以前から何もかもが思い描いていた通りで。南天が指摘した事実に偽りなど微塵もなく、奇跡的なバランスを日常は優しく保っていた。  それがなぜか、今は思えば思うほど恐ろしく感じるのはどうしてなのか?  とてつもない冒涜。吐き気のするような痴愚の罪を犯してしまったような感覚に静乃は辿り着きかけた、 瞬間。 「不安を抱いたな」  達成された協力強制。ここに条件が満たされる。 「あはははははははは──もう遅いわ、私の〈急段〉《ユメ》はここに成る!」  勝ち誇るような宣言を聞き、静乃は我に返ったがもはや手遅れ。先代二名とは一線を画す緋衣南天の急段が、空間を塗り替えながら紡がれた。 「築基・煉精化気・煉気化神・煉神還虚・還虚合道―― 以って性命双修、能わざる者墜ちるべし、落魂の陣――急段顕象」  そして同時に、奈落へ通じる巨大な穴が出現した。 「雲笈七籤・墜落の逆さ磔」  顕象する絶望への片道切符。  大地という概念の消失した世界へ、高笑いする少女の声が轟き渡った。  その銘は落魂の陣――  己を蝕む病や悪心宿業を意志の力で調伏する修行というのは珍しくない概念であり、世界各地の宗教や民族間で存在している。  道教の内丹術においてもそうした考えは認められており、極意がすなわち性命双修。  〈意志〉《ユメ》と〈身体〉《ゲンジツ》は一つであり、魂魄を構築する二つのバランスを極めれば人は無敵に至れるという仙道の思想である。  それに能わぬ愚か者よ。残らず虚空へ落下して魂ごと砕かれよ。  紡いだ術者の〈詠唱〉《ネガイ》通り、これは迷える衆生を落とすごみ捨て場。  〈己〉《 、》〈は〉《 、》〈万〉《 、》〈仙〉《 、》〈陣〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈自〉《 、》〈覚〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》、〈真〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈恐〉《 、》〈怖〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈逸〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈弱〉《 、》〈者〉《 、》〈ど〉《 、》〈も〉《 、》――すべて片っ端から突き落とす緋衣南天の夢だった。 「これは、足場が……ッ!?」  その効果を前に焦る静乃を銃撃が器用に撃ち抜く。  同じく果てなき奈落へ墜ち続けている南天だが、この空間を創造した者として一日の長があるのだろう。  まるで雲を渡る仙人のように身軽な動きを見せながら、一方的に獲物を削ってやまないが、逆にその危機感が静乃の意識を引き締めた。 「だが生憎だな。界の創法にはこちらも多少の経験がある」  これくらいなら戦えないこともない。  狩摩の生み出した性悪な曼荼羅に比べれば、この程度がいったい何だというものだろう。  浮くことは出来ない。飛翔を試みてもなぜか強制的に落とされる。ならば重力に身を任せて墜落し続けながら戦うのみ。  手足を振り子のように動かすことで姿勢制御を行いながら、静乃は迫る弾丸の雨を弾き飛ばした。空間の特性へ驚異的な順応を見せ、自ら加速して先に墜ちる南天へと追いすがる。 「そして逆十字、おまえたちへの対抗策も織り込み済みだ」  加えて、勝算もあった。どうやら病を押し付けるという形でない以上、むしろこれは容易であるとさえ感じながら内面へ静かな祈りを形にしていく。 「考の心、報いる祈りが破魔となって闇を討つ。  過去から継いだ誇りの力を受けるがいい」  どんな効果であれ、これが逆十字の血族であるなら致命的な弱点を抱えているのは変わらない。  先人への畏敬、繋がる命と歴史へのたゆまぬ感謝。柊四四八と戦真館を常に拝してきた彼女にとって、その境地へと至るのは何も難しいことではない。 「破段・顕象──」  曇りなき誠心は胸から溢れて四肢を優しく駆け巡った。急加速と共に放たれた一撃はまさしく破魔の利刀となり、両者を結ぶ悪循環を断ち切らんと振り下ろされる。  その雄々しさと力強さに静乃は勝利を確信して── 「があああああァァァッ!?」  しかし直後、訪れた逆の結果に一転窮地へ突き落とされた。  全身を襲ったのは魂ごと砕きかねない墜落の衝撃。  超高所から無防備に大地へ激突したと思わせる破壊力が、静乃の全身を粉砕された花瓶のように蹂躙した。 「く、くふっ、はははははははは」  その様を見て、南天は指揮者のように腕を広げて哄笑する。ひしゃげながら千切れ飛ぶ手足と骨と内臓に、押し花の如く潰れた胴体。まるで壊れたお人形ねと無邪気な子供のように嘲った。  本当に、おかしくておかしくて堪らない。  ああ、だって自分からすればすべて── 「盧生、死すべし――ざまァないわね。やっぱり何も分かってない」  どいつもこいつも、目先の情報を鵜呑みにしている馬鹿ばかり。結局見たいものしか見ていない。  ここは墜落の逆さ磔。かつての逆十字とは似て非なる、さらに凶悪な死病の夢だ。  希望はないし、癒せないし、夢の核は略奪じゃない。己が盧生になれるという妄想に最後まで囚われていたから柊聖十郎は敗北したのだ。  いいや、盧生ごときを至高の座だと勘違いしたのが彼の敗因。 「孝の心? 報いる祈り?」  だから阿呆め――百年前と同じ手が通用するとでも思ったか。 「進歩するのはいつも正義の味方だとでも思ったの? おめでたいわね。二代も経ればこちらも形を変えるわよ。  破魔の利刀が繋がる〈憎悪〉《きずな》を断ち切るなら、最初からそんなものを当てにするのは馬鹿馬鹿しいでしょ」  なにせ、ほら。私は私というだけで天下に至高なのだから。 「あんたから奪いたい輝きなんて、これっぽっちもありはしないのよ」 「なん、だと……?」  解せないという顔がまた滑稽で堪らない。しかし脳筋の特性か、荒事に関してはどうやら巡りが良いようだ。 「そうよ、きっと今先輩が考えている通りの理屈」  答えに至ったことで瀕死の顔色がより悪くなるそこへ、優しく追い討ちをかけてやる。共に墜ちながら相互に繋がりなどないことを南天は肯定した。  そうとも、これが落魂陣。邪魔なものを駆除するために存在する地獄へ通じた穴なのだ。 「前の二人は余計な色気を出したことで失敗したわ。最大の目的さえ叶ってしまえば、盧生がどうだの夢がどうこう、くだらないとは思わない? まったく男はこれだから」  冠や称号を掴まなければ我慢できないのが男の弱さで幼稚さだ。  しかし南天は女である。その手の欠陥は有していない。 「極論、新型の注射や薬で治るならそれで結構な話でしょ? だからこうして、邪魔なものは墜とすだけ。  まさかあんた、自分が何か魅力的な光とやらを持っているとか思ったわけ? 傑作ね。自惚れんじゃないわよ」 「気持ちよく一人で股を弄りながら、自前の〈重力〉《ふあん》に引っ張られて真っ逆さまに落ちていろ」  よって事象は少女を中心に、あらゆるものが利用されて打ち捨てられる。  それは廃神と化す逆十字も、万仙陣すら例外ではない。  憧れで? ヒーローで? ええ、とても大事よ当然じゃない。だって一番私の役に立つ道具だから。 「決して、決して、私が生きることの邪魔はさせない。  宇宙の果てから墜落して、夢ごと潰れてしまいなさいよ」  それら宣言した言葉の数々に、致命的な損壊を抱えながら静乃は自分が絶対に勝てないことを悟ってしまった。南天曰く荒事に対して巡りのいい思考回路が、落魂陣の絶望的な獰猛さを暴いてしまう。  先程の損傷は、おそらく時間にして十秒程度落下した果てに受けたものだが、それでさえ数千メートルの高度から落ちたに等しい衝撃力へと至っていた。  あれでも命を瀬戸際に繋ぎとめるのが精一杯であったというのに、今は先から何秒経っている?  長々と、朗々と、自慢げに語られる南天の言葉こそが罠だった。耳を傾けてしまった時間を考えれば――無理だ、次に墜落の衝撃を受けてしまえば即死の運命を避けられない。  だというのに、未だ破壊が再来していないこと。あのとき起こした何の行動が判定スイッチとなったのか、玻璃爛宮と比較すればこちらもまた見えてくる。  悪感情で繋がる〈憎悪〉《きずな》とは逆さまに、希望を抱けば落ちるのだ。  静乃の予測は正鵠を射ており、加えて言えば落魂陣が生み出す破壊力の方程式は、抱いた希望と経過時間の乗算により決定される。  助かった。もう大丈夫。勝てる、行くぞ逆転だ──などという感情が大きければ大きいほど、訪れる衝撃は比例して強大化するのだ。かといって戸惑うばかりであればあるほど、こちらもまた死に近づく。  “希望”を持つことで“現実”に激突する墜落の夢。  それが、死病に塗れながらも無情な現実を直視しながら戦い続けた三代目逆十字、緋衣南天の夢である。  初代や二代目のように、盧生などという夢物語の称号を盲目的に追う無様は晒さない。  だからこれこそ、彼女が先達を超えるために生み出したものなのだろう。  なぜなら仮に逆十字同士が戦った場合、聖十郎も征志郎も自身と同じである死病の南天を羨ましいとは思わない。ゆえに玻璃爛宮は条件が成立せず、顕象できなくなるのは自明の理。  しかし、落魂陣は彼らに対しても嵌るのだ。いいやそもそも、逃げられる者など皆無に近いと言えるだろう。  最大の普遍性を有する第四の終段と表裏を成すのが落魂陣。誰もが夢に憧れ痴れて、届かぬ理想に陶酔することを望んでいる。  〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》〈備〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈く〉《 、》〈せ〉《 、》〈に〉《 、》。  〈ど〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈の〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈夢〉《 、》〈に〉《 、》〈逃〉《 、》〈避〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  盧生になりたい? それこそ最たるものだろう。聖十郎も征志郎も、己にその資格がないと知っていたからこそ狂おしく求めたのだ。  自負で、自尊で、どれだけ武装していようが同じこと。  現実に無いものを求めているなら万仙陣には必ず嵌る。そしてそれを自覚し、恐怖しながら〈妄想〉《ユメ》に固執する者は落魂陣からも逃げられない。  よって、もはや静乃は詰んでいた。急段が顕象した時点で彼女に勝ち目は存在しない。  緋衣南天こそ史上最強の眷属である。  しかし彼女は、そんな冠など屑ほどにも思っていない。盧生の資格とて同じことだ。何より大事なのは初志だろう。  己は必ず死病に克つ。そして絶対に生き残る。最優先事項を見据える視野は刹那も揺るがず、他のすべては手段と道具の山でしかない。  彼女は夢を操りながらも、徹底したリアリストだ。己に出来ることと出来ないことを誰より正確に弁えており、しかも打算的なわけではまったくない。  すなわちそれこそ、完全に体現されている性命双修。落魂陣の法則下に自らも存在しながら、都合のいい希望など抱かないのがその証だ。 「いい顔ね。で、絶望したけどその次は?」  どちらが優でどちらが劣か、それを互いが正しく理解したところで南天は最後の仕上げに至る。  先に落下しながら、しかし見下すその視線は天に墜ちる覚者のようだ。静乃が抱く悩みと苦痛を引きずり出して、これがおまえの愚かさなのだと禍々しく教授していた。 「毎度のように大切なお仲間でも呼んでみる? お願い私ピンチなの、今すぐ助けて英雄~~って。  それが絆と呼ばれるもので、応えてくれるのが嬉しくて、力になるのが誇らしくて、それが全部思うがままに通る時間が好きなんでしょう? 馬鹿ね、塵ね、そんな〈現実〉《もの》はあり得ない。  憧れを免罪符にしてごっこ遊びをしてきたあんたに、奴らを讃える資格なんて端からどこにもないんだよォォッ」 「違う違う、私は──」  違う? 何が? 馬鹿め、屑が、そうやって必死に否定していることが何よりの証明なのだと知って絶望するがいい。  おまえは塵だ。なんて醜い。自分にとって都合のいい〈展開〉《ユメ》しか見てはいないから、そんなに無様なんだろう。  柊四四八は素晴らしいと、己が妄想を神格化して騒ぎ立てるその姿──  気色悪いんだよ、恥ずかしくならないのか三流作家め。  少し俯瞰で見てみろよ、とてもそっくりではないか。  おまえ達が手を焼かされた鎌倉に渦巻く〈妄想〉《タタリ》の信者らと、いったい何が違うという?  悪役ではなく〈正義の味方〉《ヒーロー》を仰ぐのは素晴らしいから、お願いどうか許してとでも? 恥を知れ。 「さあ、自画自賛もこれでおしまい」  そうやって南天から叩き付けられる〈絶望〉《しんじつ》の数々を前に、もはや戦闘は二人の間で起こらなかった。  墜落し続ける静乃を睥睨しながら、彼女は悠々と落魂陣の外に出た。術者だから出入りが自在などというものではなく、常に現実を見続けているからこそ南天は地続きのように逆さ十字から脱出する。  落ちていくのは迷妄により翼をもがれた迦楼羅だけ。 「さようなら石神先輩。あなたは本当、役に立ったわ。  この、うすらみっともない二次創作家野郎――」  遠ざかっていく敗者へ賛辞と侮蔑を吐き捨てた後、にこやかに南天はその場を去った。  残された石神静乃は落ちていく。  この瞬間、己の描いたすべての〈理想〉《ユメ》が砕け散るのを心のどこかで自覚しつつ。  無明の闇をただひたすらに、墜落していくしか出来なかった。 「見たかよ、俺は俺だ」 征志郎の消滅と共に磔の異空間から自負を抱いて脱出を果たす。 消えた創界から抜け出して一段落といきたいが、どうもそうはいかないらしいであることは続けて即座に理解した。 石神の姿がない、どころではなく離れた場所であいつが誰かと戦っているのを直後に感じる。 しかもよほど苦戦しているのか、それとも先の俺と同じく別空間に連れ去られたのか、反応が明らかに弱い。ならば連戦がどうだのと泣き言を言ってはいられないだろう。 「待っていろ石神。今すぐ俺も──」 そして、一歩踏み出した──その瞬間。 感知した絶望が、何か大切な芯の部分を打ち砕いた。 同時に、いや、自分は、しかし── 待て待て。俺は、俺は―― 「──なんだ?」 俺は、はたして本当に柊四四八なのか? そんな疑問を抱きながら、突如として意識が闇に覆われた。 そう、人違い。人違いだったのだ。 人違いだったから、朔がどうだの彼には関係ないのだ。 やる気がなんだの、ハナからそれ以前の問題なのだ。 だからもう止まらない。夢は終わり、万仙陣は回り始めた。 帰ってこれないし帰させない。そもそも彼らが帰る場所ではない。 これはただ、それだけのこと。本当に、それだけのことなのだから。  今にも崩れそうなほど痛む身体を無理矢理引きずり、僕が辿り着いたのは八幡だった。  そこに何かの確信があったわけではまったくない。ただ緋衣さんのことだけを考えて、結果ここに引き寄せられたと表現するのがきっと一番正しいのだろう。他にどんな説明も出来そうにない。  僕の中にある彼女、彼女の中にある僕。二つが磁石のような効果を発揮し、この場所まで導いた。  そう思っているからこそ…… 「ぁ、……づ、がは……」  僕は怖い。何よりも死ぬのが怖い。  これほどまでに彼女を思い、強く縁を実感しているというのに、不甲斐なくも倒れようとしているこの現実は何なんだ。  守ると誓ったのに、救うと決めたのに、それが自分の覚悟で勇気だと見出すことが出来たというのに……  依然、無力で頭も良くないこの僕は、どういう形で思いを果たせばいいのか分からないんだ。  守る守ると吼えるだけなら馬鹿でも出来る。大事なのは具体的な方法論で、それがなければ僕の覚悟なんて寝言と何も変わらない。  そんなことは誰に言われるまでもなく分かっているから、甘粕の前で誓ったときからずっと方法を考えていた。  どうすれば緋衣さんを救えるのか。そのために僕が出来ることは何なのか。  探し続けているうちにこの体たらく。世良信明は何も成せないまま死のうとしている。  ああ、これは紛れもなくカウントダウンだ。歴代、三人の逆十字とは比べ物にならないだろうが、僕とて身体が蝕まれる感覚には多少鋭い。  経験上、これは致命的なことになっているのだと分かっていた。時間はもう、まったくない。  だからこそ―― 「緋衣さん――何処だ、いるんだろ? 緋衣さん……!」  今すぐ彼女に、何を置いてもまず会わねば始まらない。そう思って絞れるだけの声を絞り出したのが、目当ての人物は現れず…… 「あ、すみません。ここに……」  全然別の誰か、〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈他〉《 、》〈人〉《 、》と行きあったので問うたのだが、その人は僕のことを見向きもせずにすれ違い、去っていく。  まるでおまえなど、何の価値もない塵だとでも言わんばかりに。  そんな感想は被害妄想の自虐だと分かっているが、現状の不甲斐なさが僕を負の思考螺旋に引きずり込んでいく。  そうだ、こんな気持ちに囚われたことは前にもあった。  自分は何も成せない落伍者であり、どんな努力や根性を振り絞ろうが望んだ結果は得られない。  世良信明はそういうステージに立てる器じゃない。  だから、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》…… おまえは何も成せずに死ぬのだと。  言われているようで、それはいつ? 本当に?  ああ、しかし緋衣さん―― 「僕は、僕は君を、ちくしょう……!」  自分自身に激昂し、まさしく腹でも掻っ捌きたくなったそのときだった。 「なんだ、来ちゃったのね信明くん。無理しちゃって、安静にしてないと駄目じゃない」  唐突に、彼女が僕の前に現れていた。  ここ最近はずっとそうだったが、それにも増して上機嫌な様子を隠さず、呆れたように苦笑しながら僕を見ている。 「迎えに行こうと思ってたのに」  言って、優しく手を差し伸べてくる。僕はそれを、半ば縋りつくような態で取っていた。  迎えに行くつもりだったということは、彼女にとってまだ僕は価値があるということだ。出来ることが残されているという意味だろう。  世良信明は塵じゃない。役立たずじゃない。誰よりも強くそう言ってくれたのはこの人で、だからこそ僕は緋衣さんを愛している。  そんな彼女に求められている以上、誓いは果たさないといけなくて…… 「うんうん。頑張ったね、偉い偉い。私の手間を省いてくれてありがとう」 「だからもう安心して。前も言ったけど、私の傍にいれば大丈夫よ」  そうして、彼女は僕を抱きしめる。すると次の瞬間に、あれほど苦しかったすべての発作が引いていくのを感じていた。  もはや全然、つらくない。その事実が、安堵よりも僕を混乱させていた。 「これは、いったい……」 「まあ、話せば長くなるんだけど」 「初めて逢ったとき、私たちってエッチしたじゃない? だいたいのことは、それで説明がつくことなのよね。  私は信明くんの精を受け取って、身に納めた」  言いつつ、彼女は自分と僕の間で悪戯っぽく指を振る。そこに二人を繋ぐ赤い糸があるのだと言うかのように。 「だから私の中には、信明くんがいる。  分かる? 私はあなたで、あなたは私」 「一・心・同・体」  おどけた仕草とその口調。機嫌がいいのは分かっていたが、もはや浮かれていると言っていいほど緋衣さんは喜んでいる。  そして、その気分のまま言葉を重ねる。 「一応、これでも女だからね。別の命を身体に入れることが出来るのよ。妊娠してるって意味じゃないけど、概念的にはそんな感じ。  私たちが一緒に夢を巡ることが出来たのも、こうして私の傍にいる限り信明くんが消えないのも、そういうこと」 「じゃあ、僕は……」  まだ永らえることが出来るのか? 緋衣さんの言ってることを完璧に理解できたわけじゃないが、それでも先の言葉はそういう意味だ。彼女と共にいる限り、僕はとにかく消えずに済む。  守るどころか守られている状態だが、時間を稼げるのは確かだろう。その間に、僕は僕の目的を果たすための手段を見つけなければいけない。  そう考えているこちらの心を読んだように、緋衣さんは頷いた。 「ええ、むしろこれからが信明くんの真骨頂よ。あなたにしか出来ないことが残ってる」 「盧生のあなたにしか出来ないことが、ね」  盧生。盧生。僕が持っていると彼女が言い続けている冠。  だがしかし、この人は冠なんてそんなもの…… 「うふふ、あははは、あはははははははははははは――」 「だから自信を持って。何回も何回も、ほんとに何回も言ってきたでしょう?   あなたはとってもすごい人。世界にたった一人だけの、私を救ってくれる私のヒーロー。 だから――」  手を引き、僕を立ち上がらせると緋衣さんは一緒に行こうと囁いた。  彼女の家へ。そこで眠り愛し合い、共に夢を見ましょうと。 「役に立ってね。あなたは私のために生まれてきたんだから。  他の価値なんて、無いのよ。無い」  謳う彼女に、僕は誘われるまま付いていくしか出来なかった。  理屈は依然としてよく分からないが、今は緋衣さんと一緒にいないと生きられない。  それは確かなことだと感じていたから、そこに否応はなかったのだ。  彼にとって最古の記憶は、桃色に染まる煙に包まれた光景だった。  香を吸えば愉快に痛快。苦痛は剥がれて揮発する。  この楽園は絶対だ。なぜなら誰もが閉じている。  因果? 理屈? 人格? 善悪? 知らん知らん、それを決めるのは〈己〉《おまえ》だけ。他我の混じらぬ心の中で好きに世界を描けばいいと、あらゆる者が酔いに酔い痴れ謡いながら霞の中で踊っていた。  それは万人へ分け隔てなく開放された完全無欠の桃源郷。無償かつ永遠に酒池肉林が広がり続ける楽に満ちた仙境は、その人物を語る上で外せぬ原風景に他ならない。  上海に深く根付いた、中華最大規模の阿片窟。  大戦から派生して生み出された巨大な堕落の桃源郷で、彼は日々を堪能していた。  いつから自分がそこにいたのか、どうしてそんな場所にいたかは彼自身にも分からない。  捨てられたのか、自ら進んで入ったのか、もしくはここで産まれたのか、あるいは特に意味などないのか。正確な部分はもはや誰にも分からないだろうし、何より本人自身がそれをたいした問題とまったく思っていなかった。  母を名乗る人間が一応傍に居はしたものの、それが本当に血の繋がった身内であるかという点さえ、やはり同時にどうでもいいこと。なにせ煙を吸っていればそれで世界は幸福だから疑問に思うことすらない。  彼自身、そして当の母親も、夢にまどろむ重度の阿片中毒者。  人界から切り離されたこの場で育ち、彼にとって世界のすべてはただひたすら幸福に満ちたまま宴のように進行していく。  母はとても幸せそうにいつも笑っている人だった。女手一つで幼児の彼を育てている現実に泣き言など僅かも零さず、常に笑顔を崩さない。阿片窟にいる他の者たちも同様で、皆が皆、例外なく至福の夢に包まれている。  それもそうだろう、何せ互いにコミュニケーションが取れないからこそ彼らは激突しないのだ。  常に焚かれて蔓延している阿片の煙は互いの世界をそれぞれ綺麗に遮断して、二分したままぶつからせない。  実際に他者と直に遭遇しても、決して両者を統一された意識の下で鉢合わせたりはしなかった。  自己の世界に入り込み完結している、パントマイムの世界。都合のいい一人芝居がそこかしこで演じられている。  よって母もそうだったし、本当のところ彼を息子と正確に理解していたのかどうか、そんなことさえ分からない。  実は娘と、いいや父と、あるいはかつての恋人かと、思っていたかもしれないが、しかしそれでも構わなかった。  ああ何せ、〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  阿片窟という環境で育った少年にとってすれば、他者とは常にそういう反応を返すことが正常なのだと当たり前に認識する。  意思疎通? なんだそれは。概念さえも分からない。  普通よりだいぶ遅れて一応言葉も覚えたが、会話の本質は今に至るも掴めていない。そんな状態で健やかに、正常な観点からはとても歪に愛を注がれながら成長していく。  阿片に染まった空気を吸い、阿片が染みた乳を飲み、阿片に揺蕩う人の中で文字通り夢に包まれ育っていった。  ゆえに自然と彼も中毒者になったのだが、他の者らと違う点は、生まれながらにそういう環境だったせいか、ある種の抵抗力を身につけていたということだろう。  そしてそれは通常の耐性なり抗体なりとは、少々異なる特性として現れた。  酔っているのが常態となっているため永遠に中毒状態が醒めない反面、阿片の毒で衰弱することもまったくない。  要は身体機能その他の生命維持を成したまま、常に酔っているということである。異常な環境に対して人体が期せず適応した、その結果と言っていい。  そういう意味で、彼は最初から夢の世界の住人だった。シラフというものを生涯経験したことがないし、その意味も当然知らなければ不都合を感じる必要さえない。  そうだとも。ここは万事、永遠の幸福が約束された桃源郷。困ることなど何もなく、ならば好きにすればいい。  母はたまに彼を間違え、うち捨てられた人形なり死体なりを優しい笑みで愛玩している。いいことだ。  向かいの男はいつも女へ愛を語り、蛆と〈蛭〉《ひる》のたかった腐肉へ猛然と股ぐらを突っ込みながら絶頂している。仲睦まじくして素晴らしい。  隣の老婆は毎日欠かさず、神仙の桃と名付けた馬糞を飽きもせず独り占めしながら味わっている。満足するまで食べるがいいさ。  不老長寿の小便売りは大繁盛で、通りに座る大将軍は蝿を相手に明日の軍議を説いているが、酸で風呂浴びする女は美容の探究に忙しく子供は姉の内臓調理に炎で父を洗いながら犬の頭蓋を鍋にしつつ演奏するのは〈僵屍〉《きょうし》の群れを前にして、導師が平和を守っているため老人は両目を蠱毒に捧げたのだ。なんて感動的なのだろう。  あなたの、君の、きっとたぶん、活躍と幸運で国は再び守られた。  素晴らしい。今日もみんなは幸せである。  何もおかしなことはない。ここには笑顔が溢れていた。  中でもとりわけ、母の愛情に対しては感謝の一言しかないだろうと彼は常々思っていた。  休みなく錯誤している事実を除けば、彼女はまさしく親として一点の曇りなき愛情を常に注いでくれたのだ。  そこを疑う気持ちは微塵もない。白痴とは見方を変えれば聖性の現れでもあるのだから。  優しい親と、幸福そうな周囲の人々。彼から見て、この世界は紛れもなく完璧だった。  すべてが満たされ、完結している至高の桃源郷である。  そんな日々が、ある日唐突に終わりを告げた。  誰かが火を用いたのか、それとも外部から持ち込まれた要因なのかは定かでないが、阿片窟全域を巻き込むような大火事が前触れなく発生。  結果として、彼以外の全員がそこで焼け死ぬことになる。皆幸せそうに。例外なく夢見心地で。  いつもと同じパントマイムを続けながら、誰しも笑顔で、動く火柱と化したのだった。  彼一人が生き残ったのは母親に抱きしめられていたからなのだが、それは炎から守ってくれたという意味での母性では当然ない。  別にただ、いつもどおりに、彼女は阿片にやられた頭で可愛がってくれていたというだけの結果である。  命を捨てても我が子のためにか、いつものように我が子のためにか、理由としてはどちらであってもやはり結果は同じこと。  ならば論ずることこそ無粋だろう。母が真に彼を愛していた点は間違いなく真実だったと言っていい。  そしてその後、ともかく一人生存した彼は、今までとまったく異なる別種の価値観が横行する世界で生きていくことになる。  燃え落ちた阿片窟を取り仕切っていた〈青幇〉《ちんぱん》。いわゆる中華のマフィアであり、そこの頭目である黄金栄という男がわざわざ彼を引き取り育てたのだ。  しかし言わずもがな、そこに母のような愛情はこれといってまったくない。  どの界隈でも験を担ぐのはよくあることだが、危険の伴う生業に手を染めている輩は特にそれを重視する傾向が人類には存在している。  兵士が戦場でジンクスを気にするように、黄金栄もまた彼なりの理由で少年の身柄を引き入れた。  すなわち、大火事から無傷で生き残った彼は奇跡的な星を持っていると解釈し、その加護を自身の統べる青幇にもたらそうと思ったからこそ、手元に置いたわけだった。  伝統的な中華思想において、生まれ持った宿星を重要視し、その恩恵を得ようという発想はさほど珍しいものでもない。  つまり、人間的にまったくまともな理由ではなく、彼の保護者となった男はそういった行動にもこれといって躊躇しない、率直に言って屑と呼ぶに相応しい存在だったことは確かな事実なのだろう。  死んだ母とは大違い──そういう認識を彼が正確に持つことはなかったが、この新しい父親がまったく違う属性を持っているということだけは、感覚的に理解していた。  なぜなら、母が自分に与えてくれた環境は素晴らしい桃源郷だが。  父が与えた環境は、まさしく地獄であったのだから。  期せず阿片窟から出たおりに、彼は〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》外界とやらを初めて目にすることになったのだが……いったいこれは何なのだ?  皆が皆、常に何事か怒って嘆いて争っている。なんて不毛な行いに終始しているのだろう。  金銭のため、尊厳のため、相手にわざわざ自分の理屈をねじ込んで必死に手間暇かけながら、実際に血まで何度も流しつつ意見を統一しようとしているその理屈がまず分からない。 「こいつら馬鹿なのか?」  なぜ他人に認めてもらいたがる?  なぜおまえが、そうと思っているのならそれでいいと思わない?  なぜわざわざ他人が何を感じているのかなどと聞き、知って自分をさらけ出し、ムキになって言葉を交わした挙句に傷つき傷つけ合うのだろう。  彼が生きた世界観、その美しさに比べれば雲泥である有様だった。  阿片窟の人々みたいに、世界を自分の形に閉じてしまえばみんな幸せになれるだろうに。  それが証拠に、なんだその議論というのは。甚だ非効率に見えてしまうぞ。  結局みんな、見たいものしか見ようとしていないのに。自分の中の真実しか信じていないし大切などと感じていないはずなのに。  分かり合う? 仁義? なんだ? そんなことが必要なのか? なぜ閉じないのか皆目わからん、本当はみんなそうして生きていきたいはずであろうが。  際限なく彼の中で噴出する疑問と不満と呆れの嵐。そんな懊悩に囚われながら幇会の一員として育った彼は、やがて阿片に関する驚異的な才覚を発揮していつの間にか青幇を掌握してくことになる。  その過程で、育ての父である黄金栄も流れるように中毒者へ落とすのだった。  それを見て、彼は満足そうに笑う。これでいい。ようやくこの常に怒ってばかりいた可哀想な父親を、母のような笑顔に出来たと。  抱いた想いは純粋そのもの。彼流に言えば紛れもない祝福と善意の御手であったからこそ、対象は一人だけに留まらない。  結果だけを言うならば、彼は上海を丸ごと阿片の海に沈めて数百万単位となる中毒者を生み出した。皮肉にも黄金栄が望んだ通り、後継者の手に渡った青幇は過去最大の勢力を築き上げていく。  魔都に君臨する悪徳と背徳の王。  伝説のギャングスター。その誕生である。  だが、それはあくまで他人から見た視点の話。多くの者は彼をそう呼び恐れたが、当の本人に邪念や我欲は一切ない。  誓って、ただ純粋に、救いをその手で施しただけ。  これが人間の、世界のあるべき姿だと思っているから迷わない。  この美しさ、この完成された夢を掛け値なしに愛している。  幸福に包まれた環境で育まれた優しさが、衆生の悩みを取り除いてやりたいと今も切に訴えている。  おまえたちは盲目だ。等しく何も見ていない。  他者も、世界も、夢も、現も、いつも真実とはおまえたちそれぞれの中にしかないのだろう? 見たいものしか見ないのだろう?  〈愛〉《う》い、〈愛〉《う》い。実に素晴らしい。  その桃源郷こそ絶対だ。その否定こそ幸福だ。おまえたちが気持ちよく嵌れるのなら〈己〉《おれ》は何も望まない。〈玉座〉《ここ》に夢を描いてくれ。 「おまえがそう思うならおまえの中ではそうなのだから。  誰に憚ることがある。さあ、奏でろ――痴れた音色を聴かせてくれ。人間賛歌を謳うがいい」  ゆえに彼が謳いあげる賛歌の形は、さながら太極から無限に広がり宇宙を覆う万仙の陣。  矛盾に満ちた人の世を、妄想という渾沌で塗り潰し浄化する四凶の夢。  幇会の王として冠する二つ名は〈鴻鈞道人〉《こうきんどうじん》。  人としての名を、〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》といった。  その巨大さ、その歪み、成し遂げた“偉業”を思えば史上の大偉人とも堂々比肩し得る怪物でありながら、今は誰にも知られていない。  彼のことを記した書物は一切なく、記憶している者さえも皆無に近いのが現状だった。  上海を掌握し阿片の煙で覆い尽くしたこの男は、不自然なほどその足跡が闇に途切れてしまっている。  それはなぜか?  いったい、彼は何処へ行ったのか?  答えは……  露出した僕の下腹部に緋衣さんは顔を近づけ、恍惚の表情で微笑んでいる。  あれから再び意識を失った僕は、以来ずっと夢の中で彼女と戯れ続けており、現実的にどれだけの時間が経ったのかはもう分からない。  この状況は彼女自身が望んだもの。  まるで永らく欲していたものが手に入ったかのように、実に嬉しそうな様子で相好を崩している。 「ふふ、立派だね。信明くんの〈こ〉《、》〈こ〉《、》〈。〉《、》  まだ触れてもいないのに、見てるだけでドキドキしてきちゃう──」  先ほど見ていた夢のことなど既に忘れたかのように、緋衣さんは目の前のものを褒め称える。  そこに彼女の常である刺々しさは微塵も感じられない。  事実、緋衣さんは気分が良いのだ。  普段見せないような表情を浮かべ、歯の浮くような世辞も口にする。  宿願を果たしたという喜悦に身を任せながら、そのまま宝石でも眺めるかのように僕へ視線を送っている。 「信明くんもドキドキしてる? 女の子の前で下半身丸出しにしてさ、じいっと見つめられちゃって…… うん、分かるよ、喜んでくれてるの。だってほら、こんなにカチカチになってるんだもん。  でも本番はこれからだよ? 私が、もっと興奮させてあげるから……」  囁くようにそう言って、彼女はぬらぬらと濡れる舌を伸ばしてきた。  ひやりとした舌先が亀頭を這う。  その感触は蛇を想起させ、事実として僕は睨まれでもしたかのように動けない。ただ与えられる感覚に身を震わせるのみ。  悪戯めいた彼女の口淫は僕の背筋を容易く粟立たせ、実に情けなく身震いしてしまう。 「あは、今ビクッてしたね……ん、ちゅっ……こうやって、おちんちんチロチロされるの気持ちいい?  れろ、ちゅぶ……ん、んんっ……はぁ……大っきいね……上手に咥えられるかなぁ。  あ、なんだかヌルヌルしてきたよ? やっぱりイイんだ。んむ、ちゅぶっ……」  僕の反応を見逃さず、緋衣さんは些か加虐的な色を浮かべてそう告げる。  実際彼女の言うとおりであり、与えられる刺激は心地良く僕の身体を溶かしていく。  そのはずなのに──  眼前で起こっているはずの目眩く行為に、僕は没入し切れていない。  本来なら、身の震えるような幸福感に包まれているべきだろうに。  いや──なぜなのかは分かっている。  僕の心に巣喰っているのはあの男。  〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》という人物のことが、今こうしていても頭から離れない。  見てしまった彼の夢は、怖気を催すものだったから。  この幸せであるはずの現状をもってしても、忘れ去ることが未だ出来ない。 「まだ気にしているの? ちゅぽ、ちゅ……こんな、いいことされてるのにさ…… んむっ、れる……はぁ……ん、ちゅ……くぽ、くぽっ……ふぁ……」  深く、口内いっぱいに咥え込みながら緋衣さんは僕を上目遣いで眺めてくる。  その瞳に浮かぶのは、言ってしまえば幼稚な嫉妬だ。他のことを考えるな、こっちを見ろと言っているかのよう。  まるで不意に髪を引っ張られたかのような刺激を与え、僕の意識を行為へと引き戻す。  自分以外の存在に目が行くなど許さない。 「真面目なのもいいけどさ……今は、それって違うんじゃない……? ちゅ、んむ…… 信明くんは、ただ私に夢中になればいいの。  夢とかさ、そんなものどうだっていいじゃない……こっちに集中しようよぉ……」  こんなに機嫌の良い緋衣さんはほとんど見たことがない。  まるで謳うように、彼女は快楽の坩堝へと誘ってくる。  今やその舌先はただ舐めているのみならず、亀頭へと絡めたり、口内を窄めて締めつけたりと多様性に富んでいる。  もし気を抜いてしまったなら……いや、気を張っていても意識ごと持っていかれそうだ。  容赦のない緋衣さんの責めは、的確に僕の弱いところを突いてくる。  加虐趣味を濃密に匂わせながら、僕のすべてを丸裸にしてやろうと絡みついてくるのだ。 「あは……ほら、いいでしょ? 私のオクチ……ちゅぶっ、ん……れる、んんっ、んぶっ…… ねぇ、気持ちいい……? ちゅぷ、ちゅ……れるゅぅっ……いいんだよね、分かるよ…… 信明くんは、そうでなくちゃ……涎を垂らして、物欲しそうに私を見てるあなたの顔…… 最高に可愛らしいわ……んぶっ、じゅっ、じゅぶぅっ!」  物欲しそうも何も、見ざるを得なくしているのは緋衣さんの方だろう。このような責めを受けて平常心でいられようはずもない。  だが、それを口に出して言う余裕など僕にはなかった。緋衣さんの頭が上下するたび、激烈な射精衝動が背筋を走り抜けるのだから。 「んぶ、んぅ……ぷぁ、すごぉい……まだ、大きくなるんだね……信明くんのここ。  こんなの、咥えてるだけで顎痛くなっちゃう……ちゅぶ、れるぅっ……あぶ、ちゅ、んんんぅっ……!」  彼女の顔ほどもある僕のペニスを、口内いっぱいに頬張りながら緋衣さんはそう告げる。  ただ快感のみを与えてくる刺激。それは彼女の言うとおり、僕に一切の抵抗を許さない。  心の交接も、情動も、想いもなく──ただ性技としてのみ僕の内側からすべてを搾っていくのだ。  彼女の舌先はときに柔らかく絡みつき、ときにペニスを引き千切らんばかりの締めつけをみせる。変幻自在の刺激を与えて決して僕に慣れさせない。  脳髄の焼き切れそうなほどの快感に、やがて思考は白熱化していく。  感覚のコントロールはもはや不可能、秘めた射精衝動が解放される。  満足気に瞳を三日月型に歪める緋衣さんに、抗う術などもはや分からず──  突き抜けるような感覚と同時、彼女の口の中に僕は思うがまま射精していた。 「あはぁっ……ん、ふ……ふふ。ずいぶんとたくさん出したのね、信明くん…… うわぁ、これ、すっごく濃いよ……? オクチから妊娠しちゃいそう……れる、ちゅっ……」  緋衣さんは小刻みに身を震わせて、精の薫りに酔い痴れる。  口元にだらりと垂れる白濁を舐めながら、陶酔はさらに深まっていく。  これから先、待っているのは彼女の描いた脚本だけ。  僕が抵抗の意志を示そうと無意味、ましてや拒否など許さない──そう言わんばかりの所作で僕を誘った。 「いいよ、私は嬉しいの。信明くんがこうして求めてくれるのなら、そのすべてに応えてあげたい。  そう。もっと、もっと──」  囁くようにそう言って、彼女は身を横たえる。  浮かべた微笑に隠されているのは飽くなき欲望か。  尽くし、捧げてきたがまだ足りない。目に映るものすべてを寄越せ、そう言われているかのような錯覚を覚える。  いいさ、と心中独りごちる。君がそう望むのならば、僕の何もかもを簒奪すればいい。  元よりそのくらいの覚悟は決めている。伊達や酔狂で傍にいるわけじゃないのだから。  そして……  まるで従者を傅かせるように、彼女は僕を迎え入れた。  その仕草は尊大で、恋する二人などという甘やかな雰囲気は欠片もない。  淫靡に濡れた彼女の秘唇はペニスを呑み込んで、ひくひくと妖しく蠢動している。 「ああ……嬉しいわ、本当に。  だって、やっと夢が叶うんだもの……絶対に無理だと思ってたし、危ない場面も何度もあった。  それが、もう手の届くところに来ているの……全部、全部あなたのお陰よ。信明くん」  まるで何かに酔ってしまったかのような表情を浮かべ、緋衣さんは自らの腰を擦り付けてくる。  熱く狭いその肉壺に、不釣り合いな大きさであると思われたペニスは容易く沈んでいく── 「っ……あ、はぁっ……! く、ふぅっ……はぁ……はぁっ…… んんっ……入ったね、信明くんのおちんちん……すごく硬くて、熱ぅい……」  いくら濡れていたとはいえ、ろくな愛撫もなしに一気に根本まで貫いたのだ。負担が掛からないはずないだろう。  だが、緋衣さんは苦しそうな様子は見せず、どころかより貪欲に僕を求めてくる。  もっと、もっと──そう言わんばかりの彼女の意志は、止め処なく溢れてくる愛液に顕著に表われている。 「あ、あぁっ……はぁっ、んんっ……いい、よ……信明くん……ん、んぅぅっ…… あなたは素敵、最高なの……はぁっ……くぅ、んっ……あぁっ!」  僕の下で一心不乱に腰をくねらすその様子は、どこか熱病めいている。  彼女の言葉にしてもそうだ。僕の意志をまるで斟酌しようとしないそれは殆ど〈譫言〉《うわごと》めいており、ただ快楽を増幅させるためだけの装置であるかのようだ。  しかし──自分の好きな子が、我を忘れて乱れているその姿を前にして冷静ではいられない。  徹底的に精を搾り取られようとしている睾丸を中心に、痺れるような震えが走り抜ける。 「ああ、思い出すわ……いつだって、あなたは私のピンチを救ってくれた。盧生にだって立ち向かってくれた。  今、こうしていられるのは全部あなたのお陰なのよ。信明くんっ」  そして互いに律動を合わせる。  結合した両者の性器からは卑猥な水音が響き、それに呼応するようにして彼女の肉襞はより熱くなる。  身体で、そして自らの発する言葉でも快感を味わっているのだろうか。  まさしく全身で喜悦を享受している。 「だからずっと言ってたでしょう? あなたはすごい、すごいって。  私には分かっていたんだから。信明くんがどれだけ素敵なのか── どれだけ駄目だと思っても、ここですべてが終わっちゃうような時だって、私を助けてくれたよね」 「だからこそ、まだ続く──〈未来〉《さき》がある。そうよ、もう暗闇なんて見なくていいの。 信明くん、信明くん! ああ──」  緋衣さんは艶やかな髪を振り乱しながら、感謝の言葉を僕に告げてくれる。  守ろうと決意した女の子にこうして褒められるのは、無論のこと嬉しい。  感情が自らの身体に影響を与え、僕の享受する快感も倍加される。  まるで絡み合う螺旋のように、二人で絶頂へと昇っていくのだ。  そうして彼女は僕にしがみつき、起き上がって逆に押し倒し、今度はこちらを組み敷く形で跨ってきた。  抗う力も、そのつもりも、僕にあろうはずがない。  高まっていく彼女に呼応するかのように、一切の余裕がなくなっていく。  微かに残っていた意識のすべてが緋衣さんに支配されていく。 「大事なもの。求めていたもの。絶対に欲しかったそれを、信明くんが私にくれたんだよ。  ありがとう、ありがとう──ああ、何度言っても足りないわ。  あなたに逢えて、本当に良かった」  ああ、僕もだよ。心の中でそう思う。  互いに同じ気持ちを込めて、僕は腰を突き上げた。 「きゃあん……っ! んあっ、あん……あ、あぁっ、はぁぁっ!  は、あぁっ……いいわ、凄いよ信明くん……もっと、もっと、もっと来てぇっ」  女の懇願に自尊心を擽られない男など、この世に存在しないだろう。  それは僕も同じこと、ゆえにより激しく、深くペニスを拗じ入れていく。 「あ、あ、あぁぁっ……ん、んんっ! はぁぁっ、あぁっ!  素敵、素敵、素敵、素敵ぃっ!」  もはや境目すら曖昧になった僕と緋衣さんは、互いに高まり熱くなる。  解け合う肉はそのまま一つになってしまうかのよう。緋衣さんは無心に腰を叩きつけ、僕の精を余さず貪る。  まるで、そのすべてを奪うように。  そして── 「んっ、んふぅっ……信明くん……私、もう来ちゃう……来ちゃうよ…… はぁっ、ぁん! はぁっ……はぁっ……一緒に、イってくれる……?  くふぅっ……ん、あっ、ぁあぁっ! イく……イっちゃうぅっ……!  あっ、あっあっ……んあぁっ、あああぁああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」  絶叫にも似た声御と同時、緋衣さんが身を大きく震わせて仰け反った。  同時に僕も限界を迎え、白濁した精を彼女の最奧へと叩きつける。  身震いしながら注ぎ込む僕のペニスを、彼女の秘所はまるで貪るかのように蠢動しながら搾り取る。 「は……ん、くふぅ……信明くんの、熱い……びゅくびゅくって、私のここに来てるよ……はぁぁっ…… いいわ……あ、あぁっ……とっても素敵……」  余韻に身を任せながら呟く緋衣さんを、僕は下から見上げていた。  そう、彼女のためにやってきたのだ。  意地も張ったし無茶もした。そのすべてが緋衣さんのため。  今、傍にいる女の子の笑顔のため── 「ええ、まったく……」  あなたがいてくれてよかったと、彼女は満足げに笑ってくれた。  僕という存在そのものを、すべて呑み込んだままの姿勢で──花のように。  そして──  どこか弛緩したような空気の中、僕たちは身体を重ね合ったままでいた。  あれだけ夢中で情を交わしていた先ほどが嘘のように、二人の間には事後特有の気怠さが漂っている。  緋衣さんは、何度も何度も最高だと言ってくれた。今こうして思い出すだけでも胸が熱くなるし、彼女のためなら何でも出来ると思えてくる。  だが、しかし。 「──僕は、本当に君の役に立てたのかな?」 「ええ、もちろんよ。決まっているじゃないそんなこと。  信明くんがいなかったら、私とっくに終わってた。あなたの存在があるからこそ、この計画は見事完遂出来るの。  残すはもう、あと少し……今から、その仕上げをしてもらうわ」  〈仕〉《、》〈上〉《、》〈げ〉《、》。彼女がこれまで幾度となく口にしてきた積年の悲願。  幾つもの不可能を乗り越えた先にようやく可能性が存在している、夢物語にも似た難事だ。  大袈裟でなく彼女の人生を懸けた最後の一手──そこに僕程度の人間が介入出来るというのは、やはり。 「それは、僕が……」  そこまで言いかけたところで、気づく。  緋衣さんの微笑みが、別種のものへと変わっていることに。  喜んでいるはずの表情なのに、なぜだかとても禍々しい。  君は、どうしてそんな──〈塵〉《、》〈を〉《、》〈見〉《、》〈る〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》〈目〉《、》〈を〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》? 「盧生だからって? ふふ、は、ケッサク。  ふふ、くくく……はっ、ははは、あはははははははは――――!」  最初は抑え気味に、やがてもう耐え切れないとばかりに彼女は爆笑する。  体勢は未だ騎乗位で繋がったまま。緋衣さんは大きく背を仰け反らせて笑い、そのままぐるりと顔を戻して僕を見つめながら言う。 「あなたが? 盧生? 何言っちゃってんの、有り得ないでしょ。  妄想もいい加減にしてよね本当。いったいどうやったらそんな話になるのかしら。ねえ信明くん、盧生の意味分かって言ってる?  そこらへんに転がってる塵屑がさ、おいそれと成れる〈存在〉《モノ》じゃないんだけどぉ! ははははははッ!」  まるで劣悪な冗談を聞かされたかのように緋衣さんは大笑する。対する僕は――未だ状況が飲み込めない。  目の光景が歪む。彼女の顔も歪んでいく。これはどういうことなんだ? 「おまえみたいなのが盧生なわけないだろ、バ――カ! 普通に考えてみろってのマジでぇ!  そりゃ私は確かにそう言ったよ? 言ったけどさ、まさか信じてたの? 真に受けちゃった? 自分が盧生に相応しいって? うわ引くわ、有り得ないよそれ。  本当に、本当に、本当に、あんたは馬鹿ね。間抜けね。阿呆ね屑ね――」  待ってくれ、緋衣さん。  なんで。どうして。聞きたいことは幾らもある。しかし混乱に落とされた僕は思いを上手く言葉に出来ない。  だがそれでも一つだけ。どうしても伝えなきゃいけない気持ちがあるんだよ。 「緋衣さん、僕は君が……」 「好きだって? ぶふっ……はっ、あははははははははは――――!  はいはいはい、まーだお花畑なのね鬱陶しい。信明くんさ、空気読めない奴ってよく言われるでしょ?  私、あんたみたいなの大っ嫌いよ、気持ち悪い。ずっと我慢して傍にいてやっただけなのにさ、どうしてそこまで勘違いするかなぁ。  死ねよマジ。死ね。死ね。死ね。死ね――さあ早く、腹でも切っておっ死ねよおォ! 昔のあの時みたいによォ!  おまえなんか、それしか能がないんだからよおォォォ!」  その表情は、まるで何かに憑かれたかのような狂気を孕んでいた。  いや――もうこれは悪魔そのものだ。見ているだけでこちらの精神を不安にさせる、そんな魔性を有している。  彼女は実に愉しそうに凶笑しながら、僕に手を伸ばしてきた。 「が、は――」  そのまま、〈僕〉《、》〈の〉《、》〈首〉《、》〈を〉《、》〈絞〉《、》〈め〉《、》〈て〉《、》〈く〉《、》〈る〉《、》。  口元は三日月のような弧を描いて嗤っていた。まさか――本当に殺すつもりなのか?  彼女に対して何かを告げようとするも、言葉すら発することが出来ない。  込められている力は女の子の細腕とは思えない、まるで凶悪な殺人者そのものだった。それにもし振り解けたとしても、おそらく問い掛けなど意味を成さないだろう。  彼女は僕を殺すためにここまできた。この身が盧生であると謀ってまで。  その意味するところは不明だが、殺意は紛れもなく本物なのだと理解して、僕は、僕は…… 「あらもう諦めたの? ええ、それでこそ信明くん。殊勝でいいわよ、素敵だわ。 そう、あんたもしょせん〈あ〉《、》〈の〉《、》〈男〉《、》と同じ。せいぜい惨めにおっ死んで、私の役に立てばいい。  受け皿同士、地獄で仲よくやりなさいよねぇぇ」  朦朧とし始めた意識の中で、僕は彼女の言葉を反芻する。  今、何を言った? 惨めに死ぬのがあの男と同じ?  それは、もしかして――  ここ最近、僕らの前から消えた人物といえば一人しかおらず…… 「ああ、そう知らなかったのね。本当にあなたって蚊帳の外にいるのが好きなのね。今さら蒸し返すとか、ふふっ、頭悪ぅい。  ええそうよ、〈私〉《、》〈が〉《、》〈あ〉《、》〈の〉《、》〈日〉《、》、〈柊〉《、》〈聖〉《、》〈十〉《、》〈郎〉《、》〈を〉《、》〈殺〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》。  そうすればどうなる? 何が起こる? 今のあなたなら分かるでしょ。  最初からとっくに決まってたんだよ。全部、残らず、一切合切おまえら私の道具なんだ。  だからそろって、今すぐ生贄になれェ!」  緋衣さんは狂気に囚われている。  こんなのはおかしいし、何より悲しい。ああ、だけどしかし。  呵責のない剛力で首を締められ続け、やがて意識を保っているのにも限界が訪れる。  そして最後、掠れる声で僕はようやく口にした。 「緋衣さん―― 僕は、君を……」  今、たった一つだけ。ついに見つけたことを君に…… 「ふふっ、ふふふふ……はははははははは」  信明の首を絞め続ける南天の腕は、少しの躊躇もなく本気だった。身体を許した相手であろうと何の関係もなく殺さんとしている。  同情? 後悔? そんなことしない。するはずがない。  大願がまさに成就しようとしている瞬間を、どうして逃すことが出来ようか。 「ああ、信明くん本当にありがとう。何度感謝しても足りないよ。  〈近〉《、》〈づ〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》のを感じるの。この瞬間をずっと夢見ていたの。  あなたのおかげよ、本当にィィィッ」  彼女が知覚しているのは絶頂が迫ってくる感覚だ。  それが訪れるのはきっと間もなく、この腕に力を込めればすぐだろう。  身を震わせ、そのまま恍惚としながら破顔する。 「信明くんも嬉しいでしょう? 一緒に喜んでくれるわよね? だって、あなたの好きなわたしの為になるんだもの。  ええ、ええ、ありがとう。だから死んで。今すぐ死んでお願い早くぅ」 「あ、――――」 「どうしてそんな目で私を見るの? おかしなことなんて何もないじゃない。  だってあんた、キモいんだもの。君が好きだの守るだの、ちょっと優しくされただけで舞い上がってさ。  ひょっとして、本気で愛されてたとか思ってる? マジで? こぉんなどうしようもないあなたが? あはははははははは! はははははッ!  てめえみたいな屑が、んなわけねえだろうがよぉ。マトモに考えろボケ怖気走るわ。 見るな見るな、気持ち悪い。さっさとくたばれ塵屑がよぉぉぉ」  心の底から喜々として、あらゆる罵詈雑言を叩きつける。  同時――黒い泥に埋まっていくように、信明の思念が意識の深奥へ沈むのを南天は感じていた。  もうすぐだ。もうすぐだ。心の中で彼女は快哉を叫んでいる。  信明の自我が失われていくほど、周到に仕掛けたものへと繋がっていく。  ここまでさんざん持ち上げた。  煽て囃して、そして奪った。  残されたものは何もない信明が、行き場のない情念をぶつける先はおそらくただ一つ。 「ぁ、あ、あァッ――」  幾度となく、自分の英雄だと信明に語った存在がある。  それこそが柊聖十郎。  始まりの逆十字であり、緋衣南天の愛を一身に受けた―― ように見える存在。  そして今、自分に捨てられた信明。  ああ、なんて可哀想な信明!  彼の中で強烈に湧き上がる未練は、南天の〈最優道具〉《ヒーロー》である聖十郎に牙を剝いて襲いかかろうとしている。  それは嫉妬か、憎悪か、絶望か――  委細は分からなかったが、そんなことはどうでもいい。  重要なのは激情の向き先であり、今ここに確かなチャンネルが成立したということだ。  来る。来る。来る。来る――!  永劫待ち望んでいた、叫び出しそうなほど焦がれていた。この世界を転覆し得る、最後にして最強の切り札。  第八等廃神・〈玻璃爛宮〉《はりらんきゅう》が降臨する。 「これが私の〈夢〉《マコト》だ、顕象しろ〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》ッ!  今こそおまえは、第四の盧生として復活する―― 回れ、万仙陣!」  緋衣南天の絶叫と同じくして、空に異変が発生した。  朔の最高潮となった新月の夜。〈全〉《、》〈長〉《、》〈何〉《、》〈千〉《、》〈メ〉《、》〈ー〉《、》〈ト〉《、》〈ル〉《、》〈も〉《、》〈あ〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》〈か〉《、》〈と〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》〈巨〉《、》〈大〉《、》〈な〉《、》〈逆〉《、》〈十〉《、》〈字〉《、》〈が〉《、》〈前〉《、》〈触〉《、》〈れ〉《、》〈も〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》〈顕〉《、》〈現〉《、》〈し〉《、》、〈鎌〉《、》〈倉〉《、》〈の〉《、》〈街〉《、》〈へ〉《、》〈と〉《、》〈一〉《、》〈直〉《、》〈線〉《、》〈に〉《、》〈墜〉《、》〈落〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》。  未知の物体であるそれが纏っているのは、死を濃密に感じさせる禍々しさ。  のみならず、荘厳華麗な外観を湛える宮殿もまた、同じく天に現れていた。  施された意匠は中華のものであろうか。  全長はやはり極大であり、妖しの霧に揺蕩いながら蜃気楼のごとく浮かぶ様はまさに〈崑崙〉《こんろん》――伝説の仙境を思わせる。  それら二つの威容から放たれるのは、人智を超越した波動。  崑崙から広がる異界の煙が、鎌倉中の人間すべてを変えていく──  〈触〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈人〉《、》〈々〉《、》〈は〉《、》〈皆〉《、》〈例〉《、》〈外〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》、〈そ〉《、》〈の〉《、》〈姿〉《、》〈を〉《、》〈失〉《、》〈い〉《、》〈触〉《、》〈手〉《、》〈の〉《、》〈怪〉《、》〈物〉《、》〈と〉《、》〈な〉《、》〈り〉《、》〈果〉《、》〈て〉《、》〈た〉《、》。  人であった頃の面影は微塵もなく、完全な異形と化している。  そうした自己認識すら持てぬまま、彼らは己の身体そのものを繭として目覚めることのない夢の中へと落ちるのだ。  そして逆十字から放たれた波動により、それらの触手は肉体部位を奪われながら極悪な死病に冒されていく。  内腑、呼吸器、心の臓……そのすべてが腐った果実のように落ちていく。  生命維持など絶対不可能。玻璃爛宮はあらゆるものを憎悪し、妬み、目にするすべてを奪い尽くしても止まらない。  無差別に襲来した特級の災禍は、しかし触手となった者たちにとって不幸ですらなかった。  そのような状態でありながら、彼らは至福の夢に包まれているのだから。  まるで阿片に酔い痴れているかのように。  怪奇現象が広まるのは僅か一瞬、もはや鎌倉にまともな人間は存在しない。  死病と略奪によって、遠からずここは死の街と化すだろう。抗う術など存在しない。  そして現象は、鎌倉だけに留まらなかった。  崑崙を基とした凶禍の波は、加速度的に展開していく。  隣県へ。日本の首都へ。次の瞬間には海の向こうへと──  距離も時間も関係なく、パンデミックを思わせる速さで爆発的に伝播する。  何をも巻き込むこの悪夢こそが万仙陣。  現象の根源、第四盧生たる〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》が抱え込める眷族の数は常軌を逸し、それこそを絶対無比の強さへと転じている。  単純な武力という意味でなら、おそらく彼は歴代の盧生でも最下位だろう。  しかしその影響力、召喚士としての技量、及ぼせる効果範囲の広大さにおいてはまさに桁が違うと言っていい。  おそらく、三日も待たずに全世界を万仙陣が呑み込むだろう。  それを止める術はない。〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》を打倒できる者など、この世界には存在しないのだ。  なぜなら彼は、他者との交流というものを知らないのだから。  常時酩酊した中毒者の精神は、コミュニケーションの意味すら理解しないため何者であろうが激突できない。  如何に彼を問い質そうが、どんな攻撃をぶつけようが、黄はそれを自分のいいように解釈して流してしまう。  まるで山岳に立ち籠める霧であり、人の手では絶対掴めない〈夢幻〉《ゆめまぼろし》。  何をしようとも意味がなく、彼を測ることもまた不可能。  ゆえにこそ、最弱であるが無敵の盧生。  たとえ最強の甘粕正彦であろうとも、万仙陣を発動した黄錦龍を斃すことは出来ない。  盧生の優劣は支持者の多寡で決まる以上、黄の愛情ほど普遍的なものは人間社会に存在し得ないのだから。  崇高な理想、高潔な大儀、ああそれもいいだろう。だが、そんな堅苦しいものにいったい何人が賛同する?  この世に楽というものがある限り、誰もが安寧を求める限り、黄錦龍の万仙陣は絶対普遍かつ不滅なのだ。  ゆえに、世界は終わった。  永遠の桃源郷に包まれたまま、玻璃爛宮を始めとする個々が生み出した無限のタタリによって皆殺しにされるのみ。  そう──阿片窟は確かに至福の安息を約束するが、同時に決定的な破滅も約束するのだ。  極楽の中で業火に燃やされる世界。それこそが〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》の理想である。  彼の生まれ育った阿片窟がそうだったように。  そして、今―― 「あ、ああぁぁぁ……!」  万仙陣の発動と共に、南天は現実世界に帰還した。  同時、彼女に変化が訪れる。  病に蝕まれ、生命の尽き果てる寸前であった少女の身体が、健常な姿へと戻っていく。  まるで、生涯の逆回しを見ているかのように──  彼女が常に苛まれていた、ショック死しないのが奇跡と言えるほどの苦痛。  それらが僅かほどの抵抗もなく消失していく。  毒々しい斑点に覆われたその肉体に、瑞々しさが戻っていく。  肌色である己の身体など、どこまで記憶を遡っても存在しないものであったというのに。 「ふふ、ふふふふふ…… くくくくくく、はははははははははッ──!」  己の掌を握り締め、南天は喉も張り裂けんばかりに哄笑した。  ついに、ついに──ああついに!  膿が滴り、蛆すらも這い寄ってくる腐乱臭。  ──消えた。  髪は殆どが抜け落ちて、醜い隆起と陥没により怪物めいていた己の顔。  ──美少女のものへと変貌する。  そう、このときをもって緋衣南天は、ようやく人間へと成ったのだ。 「空気が、美味しい」  何に阻害されることもなく、清々しい呼吸ができる。内腑の崩壊も起こっていない。 「身体が軽い──」  あらゆる病が癒え、思った通りに四肢が動く。  すべての時間を費やし希ってきた身体の快復。ああ、快哉を叫ばずに何としよう! 「素晴らしい! 素晴らしい! ははっ、これが、〈死病〉《ぜつぼう》の消える感触というもの── あは、はははははっ、ははははははははははははっ!  やった! やったぞ! 私は勝った! どうだ見たかよ、うふあはははははははははっ!  ありがとう黄錦龍! ありがとう柊聖十郎! そしてありがとう信明くん!  全員、とっても私の役に立ったわ!」  絶頂すら引き起こす恍惚に包まれながら、南天は声を限りに叫んでいる。  破滅していく街中で喝采するその姿は、まるで彼女の求めた悪魔そのものであった。  狂気のように笑いながら、南天は頬に一筋の涙が伝っていることに気づく。  いつの間に? そしてなぜ? まったく理由が思い当たらない。  一瞬だけ信明の最期を思い出し、そして── 「これは歓喜の涙だろうが!  そうよね、泣くよね! だって、やっと夢が叶ったんだもん! うふははははははははははははは────!」  朔の空へと向かって叫ぶ南天。  微笑を浮かべながら、それを俯瞰している者がいた。  崑崙宮殿の最奥。超密度の阿片香に包まれながら、百年越しに復活を果たした最悪、最弱、最優の盧生。  無限の仙境に揺蕩う幇会の帝王、鴻鈞道人――黄錦龍。 「ああ──なんて素晴らしい世界だろうか。 さあもっとやればいい。それでこそ生きている甲斐があるというものだろう」  回り続ける万仙陣。広がり続ける桃源郷。  痴れて、痴れて、どこまでも酔い痴れながら世界を己の形に閉じればいい。  どうせ誰もが、見たいものしか見ようとしないのだから。  人とはそういうものなのだから。  救われてくれ。報われてくれ。ああ、幸せになってくれ。  俺はおまえたちを愛している――  二度と怒ることも嘆くことも苦しむこともない未来を与えよう。  それが自分にとって、ただ一つの〈夢〉《マコト》なのだ。  そして私は夢を見る。  いつもそうしていたように。束の間の寂しさと、現実のつまらなさを妄想で埋め、逃避するために。  告白すると、私の日常においてそれが一番楽しい遊びであったから。 「ん……く、ぅ……あ、あ……はぁっ……」  自分の指先から与えられる快感によって、私はいとも容易く気持ちいい世界へ入っていける。  慣れているから。いつものことだから。躊躇や恥ずかしさなんてまったくないし、指は当然遠慮しない。  少しくらい強引で、痛いほうが丁度いいとさえ思っている。無遠慮に奧へと侵入していこうとする指の動きはそういう現れ。 「ひ、ぅ……ん、んんっ……あ、あ……あぁっ…… はぁ、は……や、ぁ……ん、んんっ……!」  淫唇に置いた指先に力を入れる。同時、身体の奧から滲み出すかのような快感が一瞬で脳髄を支配した。 「あ、あ、あぁっ……は、ぁ……ん、くぅ……ん……」  理性などでは本能に抗うことは敵わず、私は快楽を求めてしまう。  指で己の淫核を擦るたび、下腹部のあたりが融けてしまいそうなほど熱くなるのを感じていた。  この心はまだ不安定であり、しかしだからこそ求めているのだ。  何もかもを忘れさせてくれる、麻薬のような没入感を。 「んんっ……あ、はぁ……ん、んんぅ……く、ふぅ…… わ、たしは──」  〈ど〉《、》〈う〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈現〉《、》〈代〉《、》〈に〉《、》〈生〉《、》〈ま〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》〈と〉《、》〈思〉《、》〈う〉《、》。  私は人生の大半において、一般と隔絶した環境で育ってきた。  人が嫌いというわけじゃないから不満も寂しさもいっぱいあって。  そんな中、幼い頃から私の傍にあったもの──  それは、柊四四八たちの物語。  甘粕事件をまるで御伽話か何かのように聞かされて育ったことにより、私の想像に生きる彼らはいつも燦然と光り輝いている。  だから、その活躍に心躍ったし憧れた。  英雄譚に惹かれたから、どうしようもなく触れ合うことを求めたんだ。  もし出来ることならば──私も、彼らと一緒に戦いたかった。そんなことを思うほどに心酔している。 「あぁ、ああぁっ……はぁっ、はぁ……う、ぁ…… よ、しやくん……んんっ……四四八くんっ……は、ぁっ……」  柊四四八のことを頭に思い描いた途端、私の身体は熱を帯びる。  まるで溶鉱炉の中のように、全身が溶けてしまうかのようだ。  これは如何なる感情か? 痴情か、それとも憧れか。そのどちらもが綯い交ぜになり、必然として私の自慰行為を加速させる。  指は止まらず、より貪欲に快楽を求めてしまうのだ。  こうしている間は、すべてを忘れ呆けていられる──  語るまでもなくそれは堕落だろう。だけど、今までだってそうだったのではないか?  見たい夢を見ているのであれば、己を否定することはない。  そして詮なき自己追求をしている間、再び私は思うのだ。  なぜ彼らと同じ時代に生まれることが出来なかったんだろうと。  分かっている──それは子供の我儘に過ぎない。目の前にないものをねだっているだけなのだ。  しかし、どうしても頭から離れない。  日々、己の限界まで厳しい修行を課されながら育ってきた。  一般という尺度から逸脱した価値観だったかもしれないが、少なくとも私にとってそれは当たり前のことだし苦ではない  でも、同時にこうも思うのだ。  せっかく鍛えているのだから、この力で柊四四八の役に立ちたい。  それが叶えば、どれほどの幸せがこの身体を支配するのだろうと。 「あ、あぁっ……んぅっ……四四八くん……く、ぅんっ…… はぁっ……はぁっ……くぅ、んっ……ん、んんっ……あぁっ!」  夢想に身を任せ、秘所をまさぐる指は止まらない。身体の奧が熱を帯び、淫蜜が止め処なく溢れてくる。  憧れている。焦がれている。だからこそ、私のいる現実に異を唱えずにはいられない。  どうして石神静乃は大正の時代ではなく、この現代に生まれてきたのかと。  だってそうだろう。いくら柊四四八に近づきたいと思ったところで、彼は歴史の中にしか存在しない。  たとえこの現代で私が世界を救おうが、あの人はこちらを見てくれないのだ。認識すらもしてくれない。  当たり前だし、そんなことは分かっているけど。  それでもなお焦がれるからこそ、今もこんな風に拘泥している。  どれだけ剣を振るっても届かない、力になれない。こんなにも彼の助けになりたかったのに──  士の幸せは英雄と共にあること、そう言ったのは果たして誰だったか。  私にはそれがよく理解出来る。  そして、ただ悔しい。  この運命が、巡り合わせが、すべての想いを否定する。  現代の世でこんな力を鍛えたところで、それに何の意味があるんだろう。  いつの頃からか、本当に彼らを身近に感じるようになっていた。  まるで自分が仁義八行の犬士であるかのような錯覚にすら囚われていたのだ。  そんなこと、あるはずがないのに。  ないと分かっているからこそ、己の内で精製した情念はやがて知覚すらをも凌駕する。 「んっ、んふぅっ……あ……あ、ふぁ……?  はぁっ、ん……はぁっ……は……ん、んぅっ……あぁ……」  私の傍に現われた彼の姿は、在るはずのないもの。今まで何度となく抱いてきた憧憬を、この期に及んで〈見〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈と〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》に過ぎない。  なんと浅ましい代償行為。そう頭では分かっている、はずなのに──  互いの身体が触れている箇所から、彼の体温すら感じてしまう。息遣いが耳を擽ってどうしようもない。  同時代に生まれてさえいたならば、こんな状況も有り得たかもしれないと思うがゆえに鮮明さは増していくのだ。  一心不乱に自らの秘唇を探る。白熱化する思考の中で最後に過ぎるのは、他でもない自身の愚かさ。  仮初でもいい、隣にいたいし支えたい。  せめてそう、今このときだけは── 「わたし、が……んあっ、ぁん……あ、はぁぁっ……」  柊四四八には、現在でも多くの謎が残されている。  歴史上の偉業にまつわることも然り、そして彼自身の来歴についても然り。  明確に判明しているのは満州に渡る前後辺りまででしかなく、肝心要の箇所は未だにして闇の中だ。  誰と一緒になり、寄り添って生を送ったのか。それさえも分かっていない。  〈な〉《、》〈ら〉《、》〈ば〉《、》──  自慰のもたらす快楽の中で頭を過ぎったそれは、意味のない仮定だろう。  考えてどうなるものでもないというのは、自分が誰よりも知っている。  しかし、だからこそ夢想せずにはいられないのだ。  もしも私が百年前に存在していたなら、彼と一緒になれていた可能性だってあったのかもしれない。  傍にいて、同じ時を過ごし、そして柊四四八に選ばれたい。情念にも似たその想いが身を焦がす。 「四四八くん……四四八くん、四四八くん四四八くん……!  んっ、あっあっ! んふぅっ……あ、ああっ!」  彼の存在を間近に感じ、一心不乱に快楽を貪る。  感情が全身を鋭敏にさせ、溢れ出す淫蜜はもはや止め処ない。微かであった水音は隠しようなく響き渡る。  愛しい人の名前を何度も呼んで、そして── 「はぁぁっ……あっ、あぁっ! あっ、あっあっ…… ふあぁっ、あっ、はああああああぁぁぁぁぁ────っ!」  嬌声混じりの悲鳴を上げて、己の指で絶頂する。  だが──それは柊四四八の存在あってのものだ。物言わぬ彼の視線こそが、私を快楽の極点へと導いた。 「はぁ……はぁ……四四八、くん……あ、ぅ……あ、ぁぁっ…… あ……」  それは馬鹿な妄想だと分かっている。自分にとって都合の良い解釈だけを選び取るなど、愚か以外の何ものでもないだろう。  だけど、そんな風に思ってしまったのだ。  そして、妄執とは一度嵌ってしまうと簡単に抜けられない。  まるで悪夢へと落ちてしまったように、自らの意志では醒めることすら敵わないのだ。 「んっ……あぁ……んぅ…… は、ぁ……あ、ぁあっ……んんっ……」  後ろにいるのは柊四四八。  ずっと焦がれてきた存在が、だらしなく溶けた私の秘所をその剛直で貫いている。  深く突き刺さったそれは、現実なのか幻か。  いいやと私は首を振る。ああ、それはもはや関係ないのだから。 「っ……あぁっ……や……あ、はぁぁっ…… 四四八くん……はぁっ……あ、ぁ……んぅ……ん、んんっ……!」  自ら律動し、彼から与えられる快感を貪る。  先ほどの行為で火照った身体はどうしようもなく敏感で、意識を持っていかれそうなほどの感覚が断続的に訪れる。  混濁した意識の中で、これだけははっきりと理解出来る──  今、この状況こそが私の求めていたものなんだ。  柊四四八に選ばれたという、他の何にも換え難い栄誉。それは恍惚となり、全身を震えとなって駆け巡る。  彼の剛直は火傷しそうなほどの熱を帯びており、包み込む私の肉壁とそのまま解け合ってしまうかのようだ。  もっと与えて欲しい──それだけを思って、浅ましい行為に耽溺する。 「あ、あぁっ……はぁっ、んんっ……く、ぅんっ…… 四四八くん……四四八くん、もっとぉ……あ、あぁ……っ……ん、ぁうっ……!」  名を呼び、求め続ける私はさながら卑しき獣のようだろうか。  柊四四八にこの身を抉られるたびに喘ぎ、嬌声を漏らす。  まるで駄犬。でも構わない、ここは夢の中なのだから。  誰にも何も見咎められはしないんだ。  ただただ、現実のすべてを忘れて腰を振る。  空しい私にあるのは恋焦がれる心のみであり、彼を想うたびにそれは炎となって胸を焦がすのだ。  今までずっと望んでいた世界。  柊四四八の傍にいて、彼のためだけに身を尽くす。ようやく手に入ったんだ、夢中になることの何が悪いというんだろう? 「ぁんっ、あぁっ……! んっ、くふぅっ……ふぁっ、ぁん!  はぁ、はぁっ…ん、くぅっ……はぁっ……んっ、んんっ…あぁっ…!」  彼は私のことをどう思っているのだろうか──  身体を許し、与え合う相手として知って然るべき疑問にすらも、今の私は蓋をする。  だって、こうして求めてくれているんだから。  ならばもう、いいじゃないか。きっと、他の何も必要ないはずだ。  打ちつけ合う互いの動きが次第に早くなっていく。  それは野獣めいた激しさで、でも傍から見れば不出来な紙芝居のように滑稽なのだろう。  しかし一切構わない。熱く抉られ、奧まで彼を迎え入れる──  これ以上の幸せなど、求めるべくもないだろうから。 「んっ、あんっ! はぅっ……くふっ、あぅぅ……あ……ん、くぅっ…… もっと……もっとぉ……四四八、くん……あ、あぁっ!」  そう、ずっとずっとこの瞬間を希っていたのだ。  私の柊四四八に対する想いを、否定するなんて許さない。  荒々しく膣壁を擦り、子宮口までも突かれて善がる。  壊れてしまったかのように流れ出す愛液が二人の腿を伝い、そのまま足下までもを濡らす。  もはや呼吸すらもままならず、私は身体すべてで柊四四八を強く求める。  そして── 「く、来る……んんっ……ふぅっ……あ、あ、はぁんっ……あっ、ああぁっ……んあぁっ!  あっ、はあぁっ、あ、ああぁあああぁぁぁぁぁっ────!」  絶頂に至ると同時、私の体内で彼の白濁が勢い良く爆ぜた。  柊四四八の熱い精に、奧の奧まで染め尽くされて身を震わせる。 「く、ぅん……んんっ……はぁ……はぁ……ぁ…… あ、あぁぁ……はぁぁっ……」  女としての本懐を遂げた喜びからだろう、弛緩した声が漏れてしまう。  今この瞬間、私は望むものを手に入れたのだ。 「四四八、くん……」  脱力したまま、私はそう声に出す。  だけど彼からの返事はない。僅かに去来した感傷に浸りながら私は微笑む。  そのくらいのこと分かっているさ。だって、これは夢なのだから。  私の見たいもの、ただそれだけなんだ。  そう割り切って、だけど拭いきれぬ寂しさを抱えながら、私はいつもの日常に帰っていく。  山の中で訓練。訓練。ただひたすらとにかく訓練。  こんなに鍛えあげたところで、どうせたいした意味なんかはないのにと自嘲しつつ……  まあ、つらくなったらまた彼に抱かれればいいのだ。これが一番楽しい遊びで、とても大事な宝物。  さあ、それでは、今日こそ親父殿をぎゃふんと言わせてやろうと思う。  だから、それが彼女の夢だったのだ。  現実に投射された一人芝居。  石神静乃という個人の中で閉じた世界の真実だった。  それが儚く無意味であり、しょせんは自慰に過ぎないと思いはしただろうが夢見ることは止められない。  同年代の人間とこれいった交流がなく、ただ山奥で研鑽を積む閉鎖的な環境を念頭に置いたとしても、それは些か一線を飛び越えた現実性を帯びていた。  事の次第に成り立ち、理屈。正常な状態において優先すべき諸々がこの一時だけ彼女の内で、確かに浮遊し剥離しながら都合のいい幻想を生む。  まさしく静乃がそう思うならそうであれ、と。  束の間体感する桃源郷に包まれながら、現と夢の曖昧な境界をどこか茫洋と彷徨いつつ幸福の霧を掻き分ける。  だからこそ、このとき静乃は逆説的に知覚した。  遊戯が終わるたび、抱き留められたはずの熱が〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈は〉《 、》〈無〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》だと自覚していく感触とまったく同種の喪失感に愕然として目を見開く。 「四四八くん……?」  今も変わらず虚空へ墜落し続けながら、呟いた声音はどうしようもなく怯えていた。顕象した夢がひび割れ霧消したような、彼そのものが陽炎めいて消えた感覚に思わず大きく身震いする。  柊四四八が、いいや当然、彼だけではなく──  水希が晶が歩美が鈴子が、さらに栄光、淳士まで。  自分以外の仲間がすべて、このとき連座で消失した恐るべき絶望を、静乃は疑いない真実として誰より深く察知したのだ。  ああ、だって、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈眷〉《 、》〈属〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  柊四四八から授かった〈誇り〉《ユメ》の証が、跡形もなく失せているのだ。南天に敗北したあの瞬間、泡のように消えていったのを自覚している。 「〈愛〉《う》いぞ。構わん。好きに願って夢を見ろ。  おまえの閉じた仙境こそ、おまえにとっての真実である」  そして同時に、別チャンネルから割り込んで来る謎の思念は何なのか?  悲しみに暮れる静乃のことを慈しみ、純粋な愛を注いでいる超巨大な弩級の総体。名状しがたい何者かが脳髄を融かすような寛容さと甘ったるさを振りまきながら、墜ち続ける彼女に対して何事かを囁いている。  訥々と、一人語りのように。  まるで言い聞かせるつもりなど端から持っていないような、錯綜した気軽さはどうしようもなく痴れている。よって何かがおぞましい。  害意は皆無。敵意も空っぽ。この存在は他者をひたすら愛している徹底した平和主義者であることを、余すことなく感じている。  なのに、これは何なのか? 耳をひとたび傾ければ原形を保ったまま丸のみされかねないという、計り知れない危険性が静乃の鍛えた警戒心をこれでもかと掻き立てるのだ。  潰れた桃の果肉が如く、滴り溢れる糖の毒。暴力という概念とはまったく異なる恐ろしさを感じたからこそ、思わず。 「誰だ、おまえは?」  仲間や他の一切を、この瞬間だけは後回しにして問いかけた。  そうでなければ自分もまた、この愚かしい夢を回す部品になると直感して、直後にそれは反応を示す。 「俺は根源。俺は太極。俺は森羅。俺は万象。  そして無であり、無限であり、天上にあり、奈落に坐すもの。  全であり、同時に一。つまり俺はおまえだよ。  〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》という〈阿頼耶識〉《アラヤ》である」 「黄、だと……?」  誰なのだろうか。明かされた人物名は静乃にとって紛れもなく初耳の存在だった。  さらにアラヤ、〈阿頼耶識〉《アラヤ》だと? 馬鹿なそれこそありえない。  この存在は、かつて聞かされた普遍意識の窓なのか?  であればまさしく盧生そのもの、黄錦龍とやらが得た人間愛の属性に他ならないということになる。  甘粕、四四八、クリームヒルトの三人とはまた異なる第四の盧生。  それがいる可能性は初期に判明していたが、だからこそ解せない。 「私がおまえとはどういうことだ」  黄の告げたその言葉を聞き逃すことが出来なかった。なぜかはまるで分からないが、そこに静乃は息が詰まるような破滅の予兆を感じている。 「おまえがいったい何者なのか、正確には分からないがこれだけは胸を張って言えるだろう。私の名前は石神静乃、黄錦龍などではない。  そもそもおそらく、声色からして性別さえも違うはず。訳の分からん戯言で、こちらを惑わしどうするつもりだ」 「あぁ、そうだなその通り。おまえの言うことは実に正しい。  だからこそ俺もおまえを自分なのだと思っているし、その認識に矛盾もなければ齟齬もない。 どちらも信じているならばお互いそれが真実だろう。いいな、実に素晴らしい」 「まぁならば、好きに思えよ。こちらもそうする。おまえも変わらず幸せに夢を顕象すればいいさ。望み、求め、救われてくれ」 「おまえ、何を言っているんだ……ッ」  蜃気楼のようにすり抜けていった言葉の数々、否定を微塵も含まなかった返答は、異なるはずの意見と問いをまったく激突させていない。  すべてが軽く、透明で、すれ違いを続けながらなぜか成立させていると相手だけが納得する……この違和感は何だろうか。  まるで気体のような精神構造。こちらが何を語ろうが自己の抱く理屈のみで完結しており、煙のように揺蕩ってるからその全容が掴めない。  つまり、相互理解が不可能だということ。相手を知ろう、自分を知ってもらおうという意志が無いからこその危険性を静乃は正確に理解し始めていた。  仁義八行、あるいは〈楽園〉《ぱらいぞ》、強い信念を掲げるならば備えているべきぶつかり合おうという意志が今もまったく感じ取れない。紛れもなく人類愛であるはずが、ここまで歪な形であるのはいったいどういうことなのだ。 「いや、違う。そもそもまずはその前に」  盧生でない自分がアラヤに触れられるという現状からして意味不明である。  何が何だか分からない。真実さえも共に闇へと墜ちている。  まず疑うべきは接続された思念だが、しかし、かといってこの自称アラヤが悪意を持ち嘘を騙っている風ではない。  そういう他人を扇動しようという発想さえ、これはきっと持たないはずだ。好きに思えと言うからこそ、自己にとっての真実を気の向くままに語るだけ。 「ならば……いいさ、好きに喋ろ。おまえは私なのだろう?  おまえが、自分なりにいったい何をどう思っているというのかな」  なので、疑問はともかくここは相手に語らせよう。  閉じた中で思っている真実とやらを、己と彼が同一であるという指摘を一縷の糸として事の次第を聞き出そうと考えた。  ゆえに〈黄錦龍〉《アラヤ》は語りだす。〈静乃〉《じぶん》がそう思っているからそうするという、ズレて正しい認識と共に。 「どうといっても、そうだな。幸せだったろう、あの昔日は。俺は今も覚えているからおまえも忘れたことはない。  皆が皆、日々穏やかに笑っていた桃源郷の阿片窟。利得に功績、栄誉に見栄えと、つまらぬ雑事に囚われず誰も彼もが救われていた。己に閉じた自分一人の仙境に不幸な者などいはしない。  ゆえにまあ、懐かしいな覚えているか? ああそうだとも。あの世界ごと幸福に焼けた母とは違い、俗世で生きる父はとても可哀想な人だったから。  我が〈青幇〉《ちんぱん》が、勢力が、沽券が金がどうこうと、常に怒鳴って殴りつけ……とても見てはいられない。  救ってやらねばならなかった。幸せになるべきだ、あの人は」 「…………」  阿片窟、焼け落ちた、そして青幇を統べる父親……  さらにこのアラヤが名乗った名前、黄錦龍。  羅列された情報から総合して推理するのは容易かった。そこへ阿片が絡んだ事実を鑑みれば、この男は百年前に幇会を統べる首領であった黄金栄に繋がりのある人物なのだろう。同じ姓を冠している事実からも関係性が伺える。  歴史上、中国全土の阿片流通を青幇が支配していた期間もある。記録から紐解いてもアラヤの語った出生にこれといった齟齬はない。  そして、もっとも危険な一つの事実も見えてきた。 「それで、いったい結末は? 親父殿は幸せになれたんだろうな、ええ?」 「無論だ。青幇は中華を統べ、日帝を下し、欧州を掌握して世界を傘下におさめたのである。しかもその後は〈道〉《タオ》を経て羽化昇天まで果たしたのだ。  〈黄金栄〉《ちちおや》の名は三千世界に轟き渡り、天仙としてこの今も未来永劫語り継がれる我らが偉大な父祖である」 「はっ……彼がそう思うなら、だろう」  この男なりの幸福とはそういうことだ。掲げている救済の真実とは、彼が生まれ育った環境の再現に他ならない──すなわち。 「貴様、父親を阿片漬けにしたのだな」 「あぁ、そう褒めるなよ。さすがに照れる」  寝ぼけるように、起き抜けに賞賛されたかのように。照れさえ見せて肯定したその意志は彼自身の中で閉じている。そもそも静乃の言葉自体、間違いなく彼にそのまま伝わってなどいないだろう。  常時、胡乱。ひたすらに不明。  ただつらつらと自分の言葉を並べ立て、返答もないのに時折頷いてる様は壊れたラジオを連想させる。  黄錦龍もまた超重度の阿片中毒者なのだと看破した。彼にとっての自然とは、そして人のあるべき正しい姿とは、統合失調症じみたこの一人芝居なのである。 「ん、なんだ。その後に何をしたのか忘れたと? ならばほら、思い出したのだから喋れよ。今日のおまえは饒舌だな」  このように、静乃という人間と交わした記憶や話した筋、それどころか自分が語った文の流れや前後さえ自由に無視してぺらぺらと。  自身がそう言われたような気がしたから、さっきこう言ったはずだと思うから、黄錦龍はあくび交じりに無意識の海へ揺蕩いながら真実を何も意図せず垂れ流していく。  顔をしかめる相手のことなど意に介さず、尋ねていない話の続きを納得しながら口にし出したそのときに── 「父の後を継ぎ、上海の人民を〈救〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》俺は、俺の真を貫くために勢力の北上を開始した。なぜならそこは、当時もっとも嘆きと混乱に満ち溢れた悲劇の中心だったから」  伝播する思惟と情景、まさしく彼が静乃自身であるかのように真実が彼女の頭へ雪崩れ込む。  いいや、ただただ、穴の空いた茶碗のように束の間写してすり抜けていく。  そこは満州。国と国、民族と民族、主義と利権と理想と現実、それらが激しく鬩ぎ合い不毛な争いを続けていた最果ての地。  日本帝国、中華民国、露西亜などを筆頭に、アジアにおける支配と統治を目論んでいる勢力が睨みあう群雄割拠の土地である。  その場所で複雑に絡みあう国家間の威信なり確執なりを、流れ込む黄の意識はまったく理解しておらず興味も抱いていなかったが、そこで生まれる流血に痛めた心は疑いなく本物だった。  誰かが激しく争っている。今もつまらぬことに拘り、怒り苦しみ嘆きながら迷っている衆生共。  なんて可哀想な者たちだろう。渦巻く迷いを祓わねば。 「俺が救ってやらねばならない。彼らをあるべき世界に導いてやらなければという一念で、俺は当時の情勢へ介入しようと試みた」  二十世紀前半における中華は、青幇の資金力と組織力に大きく依存している状態だった。ゆえに事の渦中へその頭領が参戦するということは、ある意味当然の流れであり実際それは容易に叶う。  蒋介石を筆頭に青幇から施政者になった人間さえ数多いたのだ。周囲の情勢を考慮して黄の賛歌を渋る輩もいはしたが、それも彼と出会った途端に幸福な一人芝居を繰り返す夢の住人へと早変わりする。  ならば誰がその行動を止められようか。幇の帝王は常に自分の理屈を信じ切って他を見ないまま事の渦中へ姿を現す。まったく正気の沙汰じゃなかった。あまりの浅慮に静乃は眩暈が止まらない。 「馬鹿かおまえは。当時の満州はアジアの覇権を左右しうる火薬庫だったと聞いている。中華の裏たる顔役が、自らそこに身を投じて阿片をばら撒き誰かを救う? 寝言の方がまだマシだろう!」 「俺ならばと望まれた、その期待には応えるのが筋だろう。あちらが、いいや自分から? 言いだしたのはどちらだったか…… まあ、何であっても構わんか」  都合よく過去の認識さえ一人解釈する様は、何が正しいと論じることさえ馬鹿馬鹿しくなる有様だったが、それでも黄の中にとって万事は綺麗に通っていたのだ。  迷いなく行動を開始する。その上で、まず目を付けたのは── 「当時の俺が面倒だと感じていたのは、日帝率いる関東軍だったな、確か」  彼らはどうやら満州を武力制圧する気でいたらしく、またそれを可能とする当時の最大勢力であったことは言うまでもない。  ゆえにまず、警戒すべきは日本帝国。人類同士の衝突を回避し、無駄な流血を防ぐために黄は活動を開始する。  そして、その中で非常に興味深い人物と出会うことになったのだ。 「ああ思えば、俺が他者というものに本当の意味で向かい合ったのは、それが初めてだったかもしれない」  そこで初めて、黄の声音へ別の色が混じったように静乃は感じた。現実を見ていない茫洋とした気配は変わらないが、伝わる思惟には彼自身理解してしないだろう形容しがたい感情が乗せられている。  当時、自分とまったく同じ理由で動いていた者。  人間賛歌の信念を誰より強く、明確に胸の中で抱いていた者。 「彼の名前は柊四四八。  俺が向き合い、言葉を交わしたいと思った人物。対話を望んだ個人とやらは後にも先にも彼一人のみだったよ」  帝国軍に所属しながら、なぜか戦争を回避すべく尽力している奇特な男を、黄錦龍は知ったのだった。  なぜ彼を特別だと感じたのか、誰もが支配を目論む中で共に平和を模索している同類の存在を知り……などという表層的な理由だけではないだろうが、とにかく彼らは引き合った。  関東軍の台頭を防ぐという目的において一致していた両雄は、気づけば自然に会談の機会を設ける運びとなっていく。 「当日には、あぁ、彼と俺を除いておそらく十数人はいたと思うが…… まあ、しかし二人きりだったのだろう。なにせ俺が覚えているのは柊四四八だけなのだから」  そのとき、彼の回想に伴って当時の情景がより明確に投射されていく。  要はそれほど、他者に興味を持たない黄にとって重い意味を持つということなのだろう。在りし日の柊四四八が鮮明に再生される。 「つまりおまえは、満州のすべてを上海のようにするつもりか?」 「そうだが、それの何が問題なのだ?」  堅く、重く、鋭く射抜くような視線と言葉に対して、黄は滑稽なほど子供のように首を傾げて問い返した。静かに叩き付けられる怒気の波にまるで揺るがず、言葉を重ねて止まらない。 「争いは度し難い。人は幸福に生きるべき。俺たちの抱く感情にさほどの差異は存在しないと思うのだが。違うのか?  人間、よい夢を見ればいいだろう。誰もが好きに生きられたのならそれに勝る救いはなく、自分の中で救いを構築できるなら、一も二もなくそうするべきだ。皆々進んでそうしないのが俺は心底不思議でならない」 「困難を? 乗り越える? 思えばよかろう、その時すでにおまえはおまえの中で勝者だから。成長とやらも望んだ分だけしているはず。劇的な展開とやらも、好きなだけ夢見て描け。  閉じればいいさ。無遠慮に外など見るから人は悲しくなり果てる。  先の大戦とやらも突き詰めればそれが原因ではないか」  技術の発展と共に人類は地球全土を行き来できるようになり、結果自然として争いだし、世界大戦が勃発したと黄は語る。  価値観や人種の異なる国々の存在を正確に把握してしまったこと。極論、他者が何処に、どれだけ存在しているのか知ったことが最大の原因であると指摘していた。  資源や優劣などより、まず他人を意識するな。  不幸になるのだ、そういうのは。 「気楽に吸えよ。そんな目くじら立てることかね」 「おまえは……」  差し出した阿片に対して四四八の失望が深まっていくことを、黄はどこか残念そうに肩を竦めてへらりと笑った。  そう、〈残〉《 、》〈念〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。驚くべきことに彼はそのとき、眼前の男が理解に至ってくれない事実を自分なりに惜しんでいた。  傍からみれば壊滅的なやり取りでも、先ほど語った論説には他者が読み解ける理が一定以上含まれている。それ自体がすでに驚くべき異常事態と言っていい。  常に一人芝居をしていた黄錦龍にとって、こういった議論をすること自体が凄まじく稀有というか人生初の出来事であり、つまりそれだけ柊四四八という男のこと認めている証である。  方向性はまったく違うが、どちらも真摯に人類を愛するものだ。そこに何か共感なり反発なりを感じたのはある意味当然だったのかもしれないが……  しかし、当の四四八がそんなことを斟酌するはずもなく。  いいやまず、こんなどうしようない男を前に〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》が黙る道理もなかった 「頭わいたこと抜かしやがって。このジャンキーが」 「都合のいい世界が好きなら、おまえだけが籠もってろよ」 「屑まる出しね、あんた。救えないにもほどがある」 「こっちはそんなのお断りなんだから」 「ご都合主義に逃げるほど、オレらは臆病者なんかじゃねえんだ」 「そして私たち以外の人にも、あなたを正しいと思えるようにさせるなんて間違いだと信じてる」  と、叩き付けられる糾弾の数々に耳を傾けさえしていない。四四八以外の面々を案山子や石ころとさえ見ないまま、一歩雄々しく前に出た会話相手を眺めている。 「分かったか、黄錦龍。これが俺たちの総意だ。  外界を遮断して鏡を相手にパントマイムを続けてどうする。そんな理屈を、俺は決して人の〈真〉《マコト》と認めない」 「そうか、とてもよく理解したさ。おまえ達がそう思っていることは」  深く深く、頷き示した納得に自論の正当性を黄はより確信していく。  他者と何かを通わせようとする行いは絶対的に悪手であると。  なにせそら、初めて遭遇した同類である男とさえ、人類愛の論点でこうもすれ違ってしまうのだから。  ああ、やはり世界は閉じている。  真実は個人それぞれの中にしか存在しない。  悲しい。悲しい。救ってやらねばならないだろう。  俺はただおまえ達が幸せになってほしいだけである。  意識を覆う桃源郷の霞に抱かれ、満足そうに首肯する。傍から見れば改心したように見えたとしても、中身は依然まるで変わらずひたすら阿片の煙で揺蕩ったまま。  そしてそんな彼を見て、四四八は軋るように呟く。 「貴様を見ていると、過去の選択を悔やみたくなる。  こんな怪物が存在すると知っていれば……」 「はあ」  その発言が、かつてアラヤに到達した盧生としてのものであると、黄が気づけるはずもない。共にそれを分かっていながら、しかし四四八はどうしても言わずにいられなかった事実を呟く。 「貴様はおそらく、ある意味では甘粕以上の──」 「──まさか、盧生の器だと?」 「だろうな。どうやらそういうことだったらしい。 俺はあのとき、柊四四八に看過できぬ敵であると認められてしまったようだ」  無論、当時の黄がその決定的な部分を理解することはなかったが、四四八からの強い敵意を本能的に感じるには充分である。  〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈彼〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  青幇の武力で追いつめても、なぜかいずれ敗北する危険があると察した黄は、不思議な理解を下敷きにして会談の場を切り上げたのだ。  踵を返したその直後、呼び止めようとした四四八たちに多数の銃口が突きつけられる。  頭目を害そうとする者を青幇の構成員は容赦しない。戦真館の面々は、黄の命令如何によって即刻射殺されかねない状況へと一転放り込まれてしまう。 「……争いごとは嫌いだと聞いていたが?」 「だとしても、殺される趣味はない。何より俺がここで死ねば、誰が彼らを救うというんだ」  理想を成就するために、もう少し生きさせてもらわなければならないだろう。夢に包まれ、幸福の内に死ぬのはよくても、万人に夢を広めること敵わず朽ちていくのは御免だった。  そうして、強引に場を終わらせた後に彼は表舞台から雲隠れする。  あの一瞬、確かに感じた危機感に従って徹底的に四四八から自分の身を裏に隠した。  以降、そうして地下に潜りつつ満州総阿片化計画を進めていくその傍らで、柊四四八の動向にも常に探りを入れていた。  隠遁と暗躍、目に見えない静かな攻防の中で、やがて彼は別の敵と戦いだしたらしいという情報を入手する。 「で、これまたなぜかそちらにも感じるものがあったので、自分なりの興味を抱いたよ」  潜在的な盧生資格者である黄が、直感的に感知した何者か。  あれほど黄錦龍を危険視した柊四四八が、彼の捜索を切り上げてでも対峙したであろう何者か。  当て嵌まるのはおそらく一人。 「そうか、クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン……ッ」 「然り。ナチスドイツの将校となぜ揉めているのか不明だったが、彼と敵対しているということはそれ自体が大きな意味を持っていると思わざるをえなくてね」  だから方向を若干修正。以後は二人の動向と対決をそれとなく追い、直にクリームヒルトと顔を合わせたこともある。  が、ある時を境として、彼女の情報がまったく入って来なくなった。 「一時期は死亡説さえ流れていたが、いやいやそれは違うだろうよ。曲がりなりにも柊四四八が敵視した存在なのだぞ?」  そう簡単に死ぬはずない、という確信があった。そこは人の無意識に接続できる盧生の潜在資格者同士、何かを感じていたのかもしれないが……  ともかく情報収集を継続したその結果、事態は驚くべき展開へと移行する。 「そして約一ヶ月後、再び現れたクリームヒルトは一転して柊四四八と結託していた。  しかもそのうえ、二人がそろって自分を探し始めたというのだから。まったくやれやれ」 「…………は? なっ、え?」  さらりと、まるで散歩するかのように明かされた真実に思わず静乃の意識が飛んだ。  いや、待て、そんな馬鹿なありえない。  第三盧生の夢は死神。確かに一度僅かばかり邂逅した経験から、殺人鬼という呼び名に対して多少の違和を覚えはしたが、それでも学び聞いた風評を覆すというほどではなかった。  何より歴史がクリームヒルトの悪行を然りと肯定しているわけで、それが真実ならば尚のこと、柊四四八がそんな女と手を組むなどとは思えない。  はずなのだが……  混乱する静乃を置いて、黄のアラヤは嘆息していた。嫌な夢を見た後の寝覚めが如く、あくびと共に苦く乾いた笑いを零す。 「まったく不明な状況だったが、さすがにあれはお手上げでな」  なにせ盧生のタッグなど前代未聞の追跡者である。夢に繋いでいるいないではなく、普遍無意識に接続しうる精神力の持ち主が二人揃って精力的に、黄の影を追って来るのだ。  成す術がないどころか反則的と言ってよく、着々と追い詰められていく中で、下手に動けば余計に見つかってしまうという状況。 「あわやこれまでかというところ、俺のもとへ一人の男が現れた」  身動き出来ずにいたそのとき、瀕死の悪魔が鴻鈞道人の前に舞い降りる。 「緋衣征志郎。生きているのが不思議なくらいの病に蝕まれ、だが凄まじいまでの呪詛と執念に満ちた男。  彼は言ったよ。おまえが俺の盧生になれと」 「─────」  その瞬間、すべての前提が連鎖的に覆るのを雷鳴に打たれた気持ちで静乃は悟る。今までの知識や思い込みが木端微塵に吹き飛んで、湧き出す疑問に次々とパズルのように答えが嵌まる。  いま自分が話している黄錦龍という男の性質を考えれば、全容が見えてきたのだ。 「まさか、いや、そうかだから──」  最悪の死神と後世に記されたクリームヒルト。しかし彼女の真実が、四四八と轡を並べられる勇者の一人であったなら。 「奴は選ばれなかった。そうなのだなッ」  邪悪な緋衣征志郎を眷属として迎えるだろうか?  いいや、それこそ否だろう。 「無論だ。柊四四八と同盟したクリームヒルトは、八層を攻略して現実に帰還した際、征志郎を眷族としては選ばなかった。実に憤慨していたとも。可哀想にな」  早々にあらん限りの呪詛を吐き捨て、第三盧生へ見切りをつけたと想像するのはあまりに容易い。  ならば次に彼の選んだ有資格者こそ黄錦龍。己と同じく二人の盧生に狙われている男へと白羽の矢を立てたのだろう。  絶体絶命だという点でも両者は利害が一致している。邯鄲へ手を出すことに迷いはない。  そしてなぜ、クリームヒルトは悪評を後世に遺してしまったのか。  本当に彼女が勇者であったなら、そんな誤解を同盟相手である柊四四八がただで看過するとは思えない。  ならばなぜかと、考えて、考えて、過去最高に知恵を搾って思いつくのはこれしかなかった。 「第四盧生という怪物を、歴史から完全抹消するために……?」 「だろうな。彼らは俺をそう思っている」  間違いない、真実を葬り去るためだったのだろう。  黄錦龍を物理的にも、人々の記憶からも、アラヤの海にすらその痕跡を残さないよう、徹底して消そうとしたんだ。  黄にまつわる狂気に満ちた風評を、すべてクリームヒルト自身が己のものとして改竄しつつ請け負うことで。  事実無根の汚名を後世に残すことになっても構わない。そうまでしなければならないほどに、黄錦龍は危険すぎる男だったから。  柊四四八らしからぬ非情さをもって処さねばならないほど、第四の盧生が描く夢は度外れた脅威だったから。  忸怩たる思いも当然あっただろうが、二人はその手段を一致団結して取ったのだろう。当時に抱いた彼らの苦悩が、静乃には伝わってくるようだった。 「しかし、じゃあそれなら──」  ゆえにますます分からない。いま自分に語り掛けている、この〈黄錦龍〉《アラヤ》は何者なんだ?  二人の盧生は、最終的に黄を斃したはずだろう。でないとこの世は、とうの昔に彼が奉じる桃源郷に呑まれていたはず。  現代まで平穏に人の歴史が続いていた以上、そこは疑うべくもない。  眷属にして協力者である緋衣征志郎も、無念の内に死んでいたではないか。  だから、盧生は三人のみだと聞いていた歴史についてはやはりある意味正しいのだ。  かつて歩美は、未来に第四がいる可能性を説き、それに自分は反駁したが、どちらも真実の一端は捉えていたということだろう。  彼は過去におり、おそらく盧生に成れぬまま死に、だが今もこうして存在する。頭がおかしくなりそうだった。  朔とは? 黄錦龍とは何なのか?  そして自分は、いったいなぜ、抹消されたそんな悪夢と繋がっているのだろうかと、新たな疑問に苛まれる静乃に対して。 「柊四四八らしからぬ真似……」  彼はそっと、彼女自身が先ほど封じた違和感のもとを呟いた。  おまえの思っている通りだと、優しそうに囁く声が背筋に悪寒を走らせる。 「彼は八層を超える際、父である柊聖十郎の存在を消し去りたいという己が暗部と直面し、その葛藤を克服して悟りを開き盧生となった。  そんな彼が、都合の悪い〈黄錦龍〉《おれ》を再び史上から抹消しようと選択する。なあ、これは矛盾と言えないだろうか。  いかに盧生の資格を返上した身とはいえ、かつて克服した難題に再び同じ誤答を返す。それは理屈としておかしいだろう。  なぜか? なぜだろうな?」  朗々と清らかな詩でも謳いあげるような問いかけに、しかし静乃は答えられない。なぜなら彼女自身、内心では黄の指摘をその通りだと感じているから。  一人の人間を否定する。不都合だから、邪悪だから、その痕跡さえ消し去って未来永劫決して日の目を見させない。  自分が憧れた柊四四八はそんな手段を採る男か?  いかに恐ろしい怪物が相手でも、その輝きを見せつけて道を叩き直す存在ではなかったのか?  かつて、鬼畜であった父親さえ真っ直ぐ認めたときのように。  そんな感情は憧れの押し付けであると分かっているが、一瞬そう感じてしまったことは静乃の中で疑いなく真実だった。  黄のアラヤもその思いを肯定している。朔の真実、すべての基点はそこに集約するのだと。 「俺が邯鄲の八層に直面したとき、課せられた試練はこうだ」  盧生として完成するには避けられない最後の難関。彼が超えるべき悟りの道が明かされた。 「では、〈八層〉《アラヤ》の試練を始めよう。 それはおまえにとって最大の難関。おまえ自身が不可能だと思っていること。  柊四四八に勝利せよ――」 「馬鹿馬鹿しい! なんて難易度、無理難題にも程がある!」  断線していく人々の相互理解と連動して崩壊する世界の中、かつて黄が直面した最後の試練をあげながら南天は腹を抱えて哄笑していた。  盧生に至っていない者が、至るためには完成した盧生を超えねばならないという空前絶後の大難問。誰がどう考えても達成できる道理がない。  おそらくこの先、たとえ何千人の盧生が生まれようとも、これを超える超絶難度は有り得ないと言えるだろう。 「けれどそれも仕方がないのよ。なぜなら彼ほど大量の眷族を引き連れて邯鄲に挑んだ者は後にも先にもいないのだから!」  緋衣征志郎を筆頭に、青幇の全部下、そして黄が落としたすべての阿片中毒者たち。  総勢、実に三百万以上。  それら全員を黄錦龍は己が夢に接続して邯鄲へと潜ったのだ。そんな手段に至ったという発想以前に、法外にもほどがある眷族を抱え込めたそれ自体が常軌を逸していたと言える。  盧生はその性質から、掲げている人間賛歌に属性として呼応する者が多いほど支配力が増大していく。種を導く代表者という一面から考えて、賛同者が多いほど容量も比例するのは当然のことだった。  つまり、裏を返せば黄の理想はそれほど普遍的だったと言える。 「いい〈展開〉《ユメ》が見たい。できるならば現実で。ええそうね、こんなの誰しも一度は必ず思うこと」  ゆえにこれを否定できる人間など、それこそ世の何処にも存在しない。凡人だろうが天才だろうが、きっと盧生でさえも万仙陣には嵌まってしまう。  自殺志願の人間だとて自死を夢見ている以上、そこには何かを描いているから逃げられない。それとは逆により良い未来を描いても、本質的に在らぬものを願っているから同じこと。  極論、思考できる人間ならば黄の掲げる夢の形と必ず多少は呼応するのだ。  衆生ならばなお容易く、楽を許す彼の思想に自然と同調してしまう。賛同者の数で競うなら、間違いなく第四盧生は圧倒的に最優だった。  そして、だから当然、驚異的な大進撃の結果として八層に辿り着くまでの時間も最短のレコードを刻み込む。  かつての記録は柊四四八の一週間だが、黄はそんなレベルじゃない。実に数時間も掛からない内に彼は邯鄲の最奥へ一周目で到達する。  電光石火の極みとも言える夢界攻略は、四四八とクリームヒルトが妨害する暇すらなかった。文字通りの雪崩が如く怒涛となって階層を破りながら、第八層へと辿り着きはしたのだが…… 「けれど、それゆえに八層の試練は例を見ない極限域の難関よ。もはや条理を度外視した無理難題と言っていいわ」  問題なのはそこからだ。膨大な眷属数に比例して、最後に挑む彼の試練も空前絶後の達成難度へ天井知らずに跳ね上がる。  柊四四八に勝利しろ──それは先ほど論じたように、未だ盧生に成り切れていない身でありながら完成した盧生を倒せという滅茶苦茶なものである。さらに過去、甘粕事件の最後において四四八自身が盧生資格を返上している事実さえ、ここでは綺麗に無視される。  立ちはだかったのは常人としての柊四四八ではない。  完全な第二盧生、仁義八行の理念を宿した勇気の魔人が顕象した。  ……後の詳細は語るまでもないだろう。結果として黄錦龍は順当に、アラヤが召喚した先達を前に成す術もなく敗北する。  彼自身、四四八を特別に見ている傾向があったに加え、理屈として盧生は盧生じゃなければ倒せないという不文律は自覚していたのだから、これは当然の結末だった。  しかし同時に、やはりそれでも絶対不可能な試練ではないのだ。  確率絶無の条件をアラヤが提示することだけは、それもまた有り得ないことである。  では、黄が選ぶべきだった攻略法とはいったい何か?  何をすれば、盧生に至っていない身で第二盧生という魔人を打ち砕くことができたのか? 「答えは簡単──〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈を〉《 、》〈第〉《 、》〈二〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈で〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》ッ!  そう、彼は本当の意味で第八層をクリアしてはいなかったのよ!」 「だってほら、当時の彼は〈緋衣〉《わたしたち》のことを知らなかったんだから」  外道な父、聖十郎を抹消したいという自己の暗部と向き合って、その難題を克服すること。  すなわち、聖十郎の鬼畜行為をすべて把握し、受け止めなければならないということ。  そうした果てに、真の家族として人の悟りを得なければならない。それが甘粕事件において柊四四八が直面したアラヤの試練であったことは間違いなく、そして実際乗り越えた。  しかし現実はどうだ? 「柊四四八は緋衣征志郎という異母兄弟の存在を知らなかった。つまり取りこぼした家族がいたということになる。  そして今も、私という癌の暗躍を許してしまった。  駄目よ駄目よ。それじゃあ本当の意味で盧生にはなれない。  知らなかった? 機会がなかった? ああそれで? 人類の総意を語る盧生様にそんな言い訳、許されるはずないでしょうがッ」  ゆえにあのとき、柊四四八が真に盧生となるならば異母兄弟の征志郎をも認め、許し、受け入れなければならなかった。  南天が嗤うように、一般人なら仕方ないで済ませられても盧生である彼には認められない。当の四四八自身さえ、これは自ら疑問を呈する問題だろう。  よって、黄を倒した四四八は盧生であっても盧生に非ず。  完全な試練が相手ではなかったから、黄もまた完全には死んでいない。  粉微塵に心の海へと砕かれながらも、破片と言うべき残留思念がその性質を残したまま希釈しつつも保存される。まるで彼自身の夢と同じ、揺蕩う煙か霧のように……  結果として、この朔の日にすべての因果が再集束した。  暗夜が降りる歴史の空隙に、百年前の帳尻あわせが発生する。  そう、朔の真実とは第二盧生と第四盧生、双方にもたらされた八層攻略の再挑戦に他ならない。  かつて取りこぼした緋衣の血族を制すことが四四八の試練。  柊聖十郎が遺した禍根を、未来において清算すること。  それを果たせば、黄錦龍は〈現代〉《ここ》で本当に消えていたのだ。  しかし逆に、果たせなかったらいったいどうなる?  答えは簡単。この様だ。〈南天〉《ひごろも》の暗躍を止められなかった結果として、黄錦龍は一世紀の時間を費やしあの難問を攻略する。  盧生、死すべし――柊四四八は盧生資格を喪失し、それが転じて第四盧生は邯鄲の踏破に成功した。時間軸さえ踏み倒してここに復活を果たしたのである。  その恐るべき快挙を成した最大の功労者は、言うまでもなく南天だろう。  彼女は征志郎から継いだ血と死病、そして朔に関わる舞台設定として、産まれたときから黄の眷族である。その事実は武器であると同時に、ひどく曖昧な今にも切れかねない蜘蛛の糸でもあったのだ。  接続先の黄は完全に死滅してさえいないものの、普遍無意識をバラバラに漂いながら希釈されているような状態だった。そのため夢を現実で行使するにも、静乃や四四八たちのように自由自在とはいかない。  力を使うためには、黄錦龍という存在の痕跡をこの世に浮かび上がらせねばならないという必須工程が生じていた。  よって彼女の策謀がどの程度成功しているかという、その都度ごとの状態により眷族として発揮できる夢の力が波のように上下する。  例として顕著なのは、信明が甘粕に攫われた際が挙げられるだろう。状況が絶望化した瞬間、南天は急激に弱体化してほとんど夢が使えなくなった。  しかし、事態が好転すればそれに比例して力も復活するため、今はご覧の通り万全。  すべては黄が第四盧生として復活できるか否か、その確率判定により南天の力は強弱を決定するのだ。  あらかじめ位置を掴んでいた緋衣征志郎の〈遺骸〉《ミイラ》をわざわざ四四八に見つけさせたことも、その一環。  戦わせ、抱えていた書を奪取したのも理屈としてはまったく同じ。  戦真館の子孫を舞台に上げることで、かつてのやり直しが始まったという状況を作り上げたのだ。  そして悲願成就の一石として、彼女は世良信明の存在へと目を付ける。  なぜなら、〈廃神〉《あくま》を喚び出すことにおいて彼以上の供物はないのだから。  タタリを喚ぶには対価がいる。山羊の心臓。処女の子宮。赤子の脳髄。つまり生贄。かつて〈神野明影〉《シンノカゲリ》としてチャンネルを繋いだ彼には、悪魔の核に相応しいとびきりの適性が拭いがたく受け継がれていた。  ゆえに信明を再び堕天させられるなら……さらに加えて、その矛先を以前の〈蝿声〉《べんぼう》ではなく、逆さ十字に向けることが出来たなら。  アレンジを加えることで、柊聖十郎という廃神を召喚出来ると目論んだ。そして望んだ結果は今、天に足を向けながら真っ逆さまに顕象している。  どうして聖十郎を廃神化させることに拘ったかは、やはりかつての柊四四八が八層をクリアしたという歴史自体を消し去るために他ならない。  逆さ十字の男は変わらず、徹頭徹尾、鬼畜である。  手の付けられない外道である。  柊聖十郎は永久不変。息子に超えられるはずなどなく、究極のタタリとして顕現したのがその証だと、南天は百年越しに因果関係をぶち壊したのだ。  ゆえに、第二盧生の資格を消す病原という意味において、聖十郎がいれば南天などそもそも無用の長物と化す。  彼女が引き継いでいた逆十字の特性、死病の数々、〈絶望〉《やみ》のすべてが大元である聖十郎へ還っていくのを今このときも感じていた。  すなわち、それは彼女が健常な身体に生まれ変わるということ。  事実が、因果が、あらゆる理屈が逆さに落ちる滝のように目指した願いをここに叶えた。 「机上の空論? ええ、仮定に仮定を重ね続けた果てのことよ。保障なんてどこにもなかった。  だけど結果は、ほらこの通り! 私は勝った、勝ったんだ!」  つまりこれが、緋衣南天の言う強さの形だ。  常識、限界、もう助からないという現実に何度潰されても目を逸らさないし諦めない。  むしろそんな解答を示す世界のほうが間違っていると。  世界の理すら超えてやると彼女は誓い、そしてやれると信じ続けた。  自分はやれるに違いない。自分を死なせていいはずがないだろう。そんな答えを用意するほうこそ間違ってるから正してやったと叫んで吼える、逆十字特有の狂った自負。凄まじい怨念の成就がこれだ。  万仙陣はすべてを呑み込む。  ゆえに彼女も、遠からずそこらに蠢く奇怪な触手の塊と化し、永遠の夢に落ちる未来は間違いない。性命双修の体現者として、理想を完全に捨てることも人の現実ではないと知っているから、こればかりは回避不能だ。  実際、身体は徐々に黄の夢へ取り込まれて今も変貌しつつある。健常な身体になった次の瞬間、等価交換だというように南天は人間としての形状を失いつつあった。  ならばこれは本末転倒か? いいや違う。 「私はおまえの終段に酔って、都合のいい自分の妄想に逃げたんじゃない!  自分の〈現実〉《チカラ》と自分の〈理想〉《ユメ》で運命を覆した。間違った天の理を正したのよ!」  崑崙宮殿を見上げながら、南天は己の真を咆哮する。  そう、万仙陣に嵌ればどのみち死病は消えていたが、それは〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈込〉《 、》〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。曰く都合のいい妄想に逃げるだけ。  軟弱な救い、現実から目を逸らした勘違いだ。南天が求めたのはそんなものじゃない。  病を克服し、生き残ること。  この二つ、これだけは実際に達成したという完全なる手応えを欲したのだ。  それこそ生きる意味、人生の命題を果たしたという勝利の実感と宣言だ。 「この現実は誰にも否定させやしない。たとえこの後どうなろうとも、私は私の人生を、貫き、乗り越え、勝利したんだ!」  譲れないものを勝ち取るため、南天は命を懸けて奮闘した。黄の終段に嵌ったから、現実を忘れていい気分になっている馬鹿どもとは違う。  天に逆さ十字を描いている玻璃爛宮は、そんな南天を攻撃できない。いいや、正確には〈見〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  なぜなら、両者の縁は前述の通り、完全な形で切れたのだから。  血の宿業を突破した彼女は、柊聖十郎からあらゆる意味で独立することに成功したのだ。  本来、玻璃爛宮の生贄として最上位の候補資格を持つのは南天だが、そんな立場をこの少女が受け入れるはずもない。太源の病巣と同一化などしてしまえば、病を克服どころか苦しみが増すだけなのだから当たり前だろう。  それは信明が持っていった。  南天と交わり、病のごとく属性を感染させられ、今ごろ玻璃爛宮の中で地獄の苦悶を味わっていることだろう。  最高に笑える。 「見下すなよ、役に立て第四盧生。せいぜい私を生かすために万仙陣を回すといいわッ」  その不遜。限りなく純粋な強さが黄は愛しくてたまらない。他者の理を歯牙にもかけず、己が〈道〉《タオ》へと至る様のなんと美しいことであろうか。 「ああ、まったくだ。なんて〈愛〉《う》い奴。おまえがそう思うならおまえの中ではそうなのだろう」  よって深まる相互間の同調率。盧生と眷属の結びつきはより強固となり、奇怪な怪物に堕ちることは避けられなくとも、南天は黄の力でまさしく永遠を手に入れられる。  彼女は今、名実共に鴻鈞道人の筆頭眷属。新生幇会の大幹部だ。  玻璃爛宮はもちろんのこと、そこらの雑多な触手どもが生み出すタタリごときで傷つけられる存在ではない。  空腹は無縁に、寿命は無限に、そして現実は夢幻と化す。  第四盧生が存在する限り、どんな形であろうとも、人類でもっとも長く健康的に生存するのは彼女であると約束された瞬間だった。  それは皮肉にも、あるいはやはりと言うべきか、甘粕と聖十郎の関係にどこか相似したものだった。下にいるべき眷属がまるで盧生を敬わず、対する盧生の側はそういう悪意に満ちた眷属を誰より深く愛している。  南天も聖十郎も、接続先の盧生を道具としてしか見ていない。  だがそれでも、両者の違いはそこから先の対応と、考え方というものだろう。納得できない現実を聖十郎は自ら盧生へ至ることで克服しようと躍起になったが、対する南天にはそんな思いが微塵もないのだ。  というよりも、馬鹿にしてさえいる。  自分が盧生にならなければ我慢できないその性を、腹の底から嘲笑いつつ巨大な逆十字をこき下ろした。 「なんて情けない。なんて脆い。そんなことだからあんたは無様に負けたのよ。初志を見失っている。  鳥は空を飛べるけど、人間には翼がないから不可能ね。だからといって人間は鳥類以下の存在かしら?  違うでしょうが。馬鹿じゃないの」  実際に比較として見た存在の強度関係、能力的に出来ること。そんなものはどうでもいいと思っている。  私こそが最強。至高。盧生だろうがタタリだろうが、自分がただの女だろうが、そういう次元の問題ではない。  おまえらは私に利用されて私のために踊った雑魚、脇役、その他大勢にすぎないのだと、南天は万事を見下し睥睨している。 「私にとって、盧生なんてのは鳥や魚と同類よ。出来ないことが出来るからといって、イコール私より格上だなんてそんな馬鹿みたいな話があるわけ? ありはしない。  結局どいつも、結論として私の道具なんだから」  かつての聖十郎は自分が盧生じゃないからといって盧生になろうとしたが、それは己が盧生以下の存在だと認めたことに他ならない。  神の座に至るのだ? つまり、そこに届かない自分のことを落伍者なのだと自覚していた証明だろう。  よって奪う。足りないから、欲しいから。  そうしないと自分は劣っているのだと心の何処かで思っているから──なんて弱い男だろう。  あんなカスをやれ強いだの格好いいだの、本気で崇めている奴が夢の中にも結構いたが、どいつも極めつけの阿呆である。物事の真理というやつが一ミリも分かっていない。  ああ、馬鹿どもにも分かり易く言ってやろう。憧れなんてものはクソだ。  自分はそんな盲目を好む愚者じゃない。  勘違いした? ご苦労さん。信明同様、頭の中が童貞ね。 「第一盧生、甘粕正彦。曰く最強の盧生ですって? どこがよただの馬鹿じゃない。 わいた頭で〈楽園〉《ぱらいぞ》、〈楽園〉《ぱらいぞ》。勇気や覚悟がどうこうと、屑ね塵ねいいから私の役に立て。  仁義八行、柊四四八? ああはいはい、そうねあなたはヒーローよ。気持ちよく皆にマンセーされながら、お友達と〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》がどうこうと仲良く自慰に耽っていれば? 気持ち悪いのよ、いいから私の役に立て。  平等だから死は大切? それならほら、邪魔な奴らを殺してちょうだいクリームヒルト。どいつもこいつも踏み潰してさ、中々役に立ちそうじゃない」 「他にも、他にも、どいつもこいつもあなた達、そのためだけに生まれ育って生かされてるのよ。  私に足りないものは、ただ〈寿命〉《ソレ》だけなんだから」  愛は分かる。情も分かる。  人の性に属するすべて、彼女は余さず知っている。  ゆえに無論、自己の邪悪さも誰より承知。望むまま、あるがままに鬼畜であるだけ。そこに後悔など一片もない。  だからただただ利用する。それは女の考えであり、精神を重視する魔性の顕現と言えるだろう。  称号や冠に執着し、物理的な高みを目指す男のそれとは明らかに一線を画している。  そう――強くなければ男じゃないが、女はその限りでないのだから。  腕力で劣る? ああそれで? 財力で養われている? はいご苦労様。  肝は誰が主導権を握り、支配しているかということだろうが!  ゆえに己の弱ささえ、他者の気を引く材料として狡猾に利用する。そうした性を本領として、南天はあらゆる者を出し抜いた。  その自負。思想。そして現実。彼女は確かに、柊聖十郎を超えている。  なぜなら病を克服して生き残るという至上命題を見事に達成したのだから。失敗者とは比較にさえならない。  盧生ごときはくだらないと言い切れば、じゃあ盧生以上の超存在がいるのだろうなと短絡的に思い込む阿呆ども。そういう浅はかな雑魚の群れこそ緋衣南天のカモである。  冠がなければ自己のなんたるかを信じることも出来ない。  翻せば、冠さえあったら乞食であろうと玉座に立てると思っている。  聖十郎のように。征志郎のように。そして、ああ――信明のように。  馬鹿め、馬鹿め、度し難い弱者め――自分の価値は自分のものだ。冠ごときに左右されるものではない。  その程度のことさえ分からない蒙昧は、道具として使い捨てられるのが分相応というものだろう。  朔における一連の流れを見切り制したことで、いま痛快な達成感に包まれながら南天は蠢く触手に呑まれていく。その中で── 「ああそれと、改めてもう一度ありがとう石神先輩。  役に立った度合いで言えば、あなたも相当なものだったわよ」  生涯初の、そして最大の勝利と共に微笑みながらそう告げた。  第四盧生再誕におけるもう一人の功労者へ向け、嘲笑と確かな賛辞を贈るのだった。 「そんな、馬鹿な……!」  それら、南天が高笑いして語り明かす真実を〈黄錦龍〉《アラヤ》から同時に聞かされていた静乃は、思わず歯噛みしながら呻きを漏らした。  今まで自分が体験していた一連の事件と、裏で暗躍していた南天の企みを知り目が眩むような衝撃を感じている。巧妙に誘導されて陥った現状が、いかに最悪なものであるかを理解したのだ。 「〈愛〉《う》い。〈愛〉《う》いなあ、あれはまったく。見ろよとても幸せそうだ。 おまえも嬉しかろう、征志郎。俺たちの結んだ盟はこれで正しく果たされた」  黄はそんな静乃のことをまるで意識に留めることなく、己が眷属である南天を愛玩するように眺めていた。  恍惚と、延々と、適当に呟くそれはやはり自閉したパントマイム。  先ほど叩きつけられた罵倒さえ、万雷の拍手か何かと都合よく解釈しながら一人楽しげにまどろんでいる。  その様が歪であると感じる嫌悪を支えとして、静乃は必死に自己の精神を立て直す。大まかな筋については理解したが、まだ一つ解せないことがあるだろう。  自身が落下している直接の原因である南天に敗北した際、あなたはとても役に立ったと餞別代わりに言われたはず。  だがしかし、今まで知った情報の中で石神静乃を必要とする局面が、いったいどこにあったというのか?  自分が何かの鍵になったと現段階では思えない。その真実は何なのだ?  などと、疑問に思う一方で本音のところは徐々に気づき始めていた。最初から感じていた、押し殺していたはずの不安が芽吹くように自分の内で育つのを、静乃はもはや止められない。  かつて耽っていた一人遊び、形を帯びていく荒唐無稽な妄想。それを好む自分の〈性〉《さが》……  己がどういう人間で。  どんなことを夢に描いて。  どんな風に現実を歪めたがっていたかを振り返り、見えかけている答えがとても恐ろしくて堪らなかった。 「…………私はっ」  それを認めることがどうしても出来ない。  怖くて、目を逸らしたくなる。  違う違う。そんなことは絶対に、と── 「おう、ようやくカラクリに気付いたか。  しかしおまえは、ほんまに大将が好きなんじゃのう」  小馬鹿にするような男の声が、景色ごと煩悶を吹き飛ばして顕現した。 「……ここ、は」  そこはかつて彼女が過ごした実家の風景。  人の往来から切り離された山奥は静乃が育った記憶通りの場所であり、同時に先ほどまで感じていた黄の意識もまた消える。  墜落中の浮遊感が消えていないため足場の感覚がないことから、これはおそらく幻だろうか。  意識に直接映し出された世界の中、現実的には落ちながら突然の事態に惑い、唖然と周囲を見渡すしかない。  眼前に立っているのは、この空間を創造したらしき一人の男。  とてもよく知る人物の登場に、思わず静乃は息を飲んだ。 「先々代、なぜあなたが」  思わず問いかけて、しかし返って来たのは意味深な笑みだけだった。面白い見世物を観覧しているかのように、狩摩は彼女を見据えている。  彼がなぜこのタイミングで現れたのか。その真意はどこにあるのか。いいやそもそもこの壇狩摩それ自体が、黄に生み出された都合のいい願望による虚像なのではなかろうか──と。  思考を巡らせる子孫の疑念を、彼は飄々とした態度であしらいながら、たいした問題じゃないのだと含み笑った。 「憧れて、夢を見て、仲間になりたいと祈り続けて…… なあ、もう分かっちょるんじゃろ? 事の次第と真実を」  そして容赦なく突きつけられた言葉は、静乃の中からそれ以上の問いかけに対する意志を奪い取った。  ざっくりと、容赦なく言葉の鉈が心に食い込む。息が詰まった。身体の震えが再発して止まらない。  だが、さあ、それでも言えや。気づいた〈真〉《マコト》をここに晒せ。  厳しく微塵の容赦もなく、語り掛けてくる先達に意を決して、彼女は小さく口を開いた。  そう、自分はもう半ばそれを理解した。  朔に起こった最初にして最大のご都合主義を。  己が、周囲が、何より見たがっていた〈幻想〉《ユメ》。  現実的に考えればまずありえない、始まりの阿片窟とは──すなわち。 「私と共にいた四四八くんたちは、私が生み出した夢……なのか……?」  この鎌倉に来てから過ごした日常そのものに他ならない。  泣き出しそうになる喪失感を堪えながら、静乃はそう詫びるように血を吐く思いで己が真実を告げたのだった。  狩摩もまた、無情にそれを肯定する。 「その通り。俺が以前出てきた際のお嬢や幽雫と本質的にはまったく同じよ。子孫の肉体を核として顕象されてた虚像じゃな。  現実的に考えて、いくら子孫であったとしてもああまで似ちょるわけがないじゃろう。しかも一人残らず名前まで? なんじゃそりゃあ、ぶち傑作でよ」  現実を見ろ──そんなことはあり得ない。  いや、確率的には多少あるかもしれないが、さすがにこれは出来すぎていると言うしかない。考え方から容姿まで戦真館の末裔が一人残らず瓜二つ、などという事態がそもそも成り立つのか?  恵理子に剛蔵、聖十郎、親の名前まで同じ? しかも教師は花恵で担任、こうまで上手くなぜ嵌まる?  その疑問に対する答えがこれだ。薄闇へ隠され続けた真実が、ついに白日へと引きずり出された。 「その辺まとめて、朔の日というものの趣旨よ。歴史に空いた風穴に各々が都合のいいものを見たがった。  そしてそこらの際たる一つが、おまえの望んだ戦真館の生き写しに他ならんっちゅうことじゃな。実のところ万仙陣は、最大にして最初の効果をとうに発揮しちょったのよ」  万仙陣――それが黄錦龍の終段を表す名前であると、静乃はここで理解した。自分がどれだけ、その夢に溺れていたのかということも。  柊四四八が、水希が晶が歩美が鈴子が、栄光や淳士たちがいたということ。出会ったこと。自分を認めてもらったこと。  仲良くなって、仲間となって、共に一つの目標を目指し駆けたあの時間こそすべての布石で、逃れ得ぬ黄錦龍復活の予兆。  頭の中が桃色の煙で埋まった桃源郷に他ならない。  黄のアラヤが語ったように、かつて第二盧生である柊四四八は八層攻略が不完全だったという事実があり、その帳尻を合わせるために当時を緻密に再現すべくこの現象が発生した。  求められたのは同じ役者の再配置。百年前に活躍した彼らの分身とも言える存在を舞台に揃えなければならず、登場人物を投影する装置として静乃は選ばれてしまったのだろう。  これは人類史の化身であるアラヤのシステム。朔の瞬間にそうなるよう、流れが最初から仕組まれているのだから逆らえない。  四四八にとっても、黄にとっても、この一連は八層の再挑戦という意味を持っている。二人の盧生が人類の意識集合体において優先されるのは当然であり、静乃はその歯車として組み込まれた存在だった。  彼女が現実を歪めたのはいつなのか、もはやそれすら分からない。  世界は五秒前に始まったと言われても、完全な否定は誰にも出来ないのと同じこと。  ただそう思うなら、願うなら。  それこそ真実であるという祈りを帯びて纏った願いの外装は、誰一人その歪さに気づかぬまま、優しく甘い絵物語を紡ぎ出す。 「だが、それでも中にはっ──」  たとえば野澤祥子だとか、たとえば幽雫宗近だとか。 「名前が違う奴もおったと? それは当時の甘粕事件をおまえが聞いて知っちょるからじゃ。読み物としてどこが好きか言ってみい。  空亡を鎮めたくだりや、お嬢と幽雫の結末なんぞは、たぶん相当好きなん違うか? 陽が好きじゃろうからの」  ああ、確かにその通り。だからこそ静乃も当然その理屈に思い当たる。  愛を捧げて龍を鎮めるその決断を、聞いて自分は奮えたはず。  二人の男に教えられて愛を知った百合香を想い、胸が締め付けられるようだった。  よって自分が語り部ならば、その事実を捻じ曲げたり都合のいい解釈を混ぜることは当然したくないだろう。そしてこんな意識もまた、如実に〈現実〉《ユメ》へと反映される。 「私なりの尊敬なり、先人への敬意として現れたから?」 「数名、同じ名前にはならんかった。まあ要するに、二次創作家なりの良心なり、リスペクトというやつじゃわい」  時代感を無視した、狩摩らしい俗な喩えに何か言う気にもなれない。  自分は彼らを尊敬し、その選択に敬意を払っているからこそ、栄光と野枝を同じ名前のまま出会わせることが出来なかった。無意識でこれが夢だと思っていても、それは決して認められない原作崩壊の冒涜だから。  宗近も同じようなもので、幽雫宗冬の直系が断絶したのを知っている。  だから明らかに遠縁の存在として、宗冬の完全分身めいた者は作ることができなかった。  彼らが好きだ。大切だ。その想いに嘘はない。  真実だからこそ配役はそのままに、呼び名だけが変わったのだろう。 「では、辰宮邸であなたが言ったことの意味は……」 「おうとも、実は瀬戸際じゃったぞありゃあ。なんせ誰か一人でも死んじょったなら、即刻あそこで万仙陣が回っちょった。  なぜなら死ねば、そいつはおまえの描いた夢から自然と解放されるからのう。つまり〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈当〉《 、》〈な〉《 、》〈子〉《 、》〈孫〉《 、》として屍をさらす羽目になる。  そうなると目の前で転がっとるのは、極論年齢や性別すらまったく違う誰かの死体じゃ。さすがのおまえも、そいつを無視して夢を見るほど剛毅じゃなかろ?」  指摘はまさにその通り。愚かではあったとしても、彼女は決して恥知らずではない。  真実を目撃してしまえば、静乃は湧き上がる違和感を無視できない。 「その度合い、どれだけ妄想と現実がズレているかで規模は変わるが、それに対応する形で万仙陣は回り始める。  つまり真相に対するおまえの理解度が上がれば上がるほど、抹消した黄の歴史が彫り起こされるっちゅうことよ」  石神静乃は黄錦龍で、黄錦龍は石神静乃……先ほどアラヤが語っていたその言葉が真実なら何もおかしなことはない。彼女の精神状態と第四盧生の復活は密接に関係している。  静乃が現実を見るということは、黄という男の意識もまた同時に夢界から現実へ浮上することを指していた。  彼の復活する確率が上昇すれば、イコールそれは南天の力も復活することに繋がるわけだ。あのとき、彼女が狙っていたのはそういう思惑からである。 「ちなみに知る由もないじゃろうが、おまえから離れたところで戦っちょった戦真館は、揃いも揃って無視できん実力低下に襲われちょる。どういう意味かは、ここまで言えば当然分かるの」 「それ、は……私の認識できる範囲から外れたせいで、英雄の分身という属性が薄れてしまった結果であると?」 「さもありなんよ」  おまえは誰だ──そう問いかけられた途端、彼らは急に夢を繰るのがおぼつかなくなり、大切なものを見失った。  その度に窮地へ陥り、君たちは柊四四八だ、戦真館だと〈施術者〉《しずの》から声をかけられることで、願いと呼応するように何度も立ち直った。 「結局のところ、おまえはずっと自分好みの人形劇を演じていたに過ぎんのよ。鎌倉に来て体感した日常も、すべて現実ではありえん人間関係じゃけえのう」 「それを望んだのが、おまえの描いた夢じゃろうがい」  真実を知らぬ限りは美しい友情であっただろう。しかし今では、滑稽な一人舞台だ。彼女の求めに応じて回る絢爛な演劇は、主演が我に返ってしまえばいともあっさり破綻する。  その事実が恐ろしく、己を引き裂きたいほどの羞恥心に静乃は駆られた。  いったい自分は、どれほど彼らを侮辱してきたのだろう?  過去の英雄だけではない。核となった今を生きる子孫の面々さえ、ああどれほどと震えながら後悔する。 「──とまあ、しこたま〈虚仮〉《こけ》にしといてアレじゃが、馬鹿正直に落ち込まんでもええじゃろオイ。なんせこりゃあ、どこの誰でも嵌まるんじゃからなァ!  気持ちよく願う限りどいつもコロリと堕ちよるでよ。怖い、怖いのう万仙陣は。そりゃたまらんわ、無茶振りにも程があろうやッ」  一転、何が楽しいのか破顔一笑する壇狩摩。静乃の嘆きを知らん知らんと吹き飛ばし、膝を叩いて歌舞伎のように口角を吊り上げた。 「それに、実際のところはよう分からんじゃろ。仮に朔が無かった場合、子孫がどれだけ大将らに似ちょったか誰も確認しとらんからのう。  案外、本当に容姿も名前も同じだったかもしれんわい」 「それこそ、都合のいい夢主義でしょうに……」  可能性を完全には否定できないが、それは甚だ極小で、しかも確かめる術はない。狩摩に百年後を正確に知る手段はなく、静乃もまた百年前を再現した舞台にいたから何も分からぬままでいる。  だが、それでもだ。 「しかし一つだけ。確実にこれは言えるじゃろうな。  本来、正当な子孫である今代の柊四四八は、とうの昔に好いた女と結ばれちょったはずじゃろう、ということよ」  知らぬはずの未来を彼は強く断言した。確信に満ちたその言葉に静乃の胸が小さく軋み、同時に籠められた指摘も悟る。  百年後の千信館で再会しようと誓った四四八。その意志を継がせ、誇りを家訓として後代に残そうとしたのも知っている。  常に愛する人を思いやれ。  好きな女が出来たときは、そいつに対して言葉を惜しむな。  彼が遺した仁の家訓を聞いて育った子孫たる者ならば、少なくとも千信館に入学するという区切りを迎えた瞬間には、必ず生涯愛すべき女を選んでいたはずだろう。  なぜならかつての柊四四八は、結局誰と結ばれたのか不明という謎を抱えた男だったから。  親が果たせなかったことを子が果たす。そんなごく当たり前の人情を、子孫たる者は発揮していたに違いない。 「それがどうして、綺麗さっぱりワヤになったか」  なぜか? なぜか? なぜか? そんなの──  決まっている。理由なんて一つしかない。 「私の、せい……?」  真実は今さらすぎてどうしようもない。  まったく何が奇跡のバランス。結局最後は己が持っていくつもりだった。  自分も柊四四八に選ばれたい。それが静乃のもっとも強い願望だから。  彼らの仲間になりたいという思いも、根本の動機はその一点に集約される。派生元の太源である感情は万仙陣の後押しを受けて、無意識にそれを叶えるべく一つの効果を発揮した。  すなわち、四四八の告白という現実の消去。  まだ誰も彼に選ばれていないという、らしからぬ優柔不断な状況を創造して、生温い学園ラブコメのような日常を具現化させた。  一見して楽しく平和に見えていた日常も、そういう意味では非常に歪で狂っている。先も言ったように、これは本来有り得ない人間関係。  一人の少女が恋心と憧れゆえに描いてしまった、桃源郷の結果だった。  ゆえに── 「黄錦龍の万仙陣にもっとも嵌っちょった信者とは。  誰よりも見たいものしか見ちょらんかった痴れ者とは」  語るに及ばず。 「石神静乃――おまえじゃよ」 「──じゃあいったい!」  静乃は吼えた。吼えずにはいられなかった。  いくらアラヤが、個々の無意識に干渉して舞台を調整したとしても。  いくら自分が、寝ても覚めても四四八たちを夢見ていた痴れ者でも。  現実に起こった歪みの規模は度外れすぎている。これまで何度か遭遇した、鎌倉市民の夢によるタタリなどとは比較にならない。  どうして自分は、かくも凄まじく万仙陣に―― 「なぜ私は、こうまで深く強烈に、黄錦龍という盧生に対して同調していたというんだ!」 「く、ふふ、ひゃひゃひゃひゃひゃっ」  それこそおまえ、当然じゃわいとにやつきながら。  指をさして狩摩は笑った。 「言ったじゃろうが、おまえは〈迦楼羅〉《カルラ》じゃと」  瞬間、彼の言葉を契機として再び視界は別の情景を描き始める。  暗転したのはそれこそ一瞬。瞬きの間に世界は再び姿を変えて、ここに一つの〈起源〉《ルーツ》を映し出した。  そこに佇んでいたのは、一人の少女。  静乃とよく似た小さな子供が、柊四四八と壇狩摩を茫洋と見上げている姿だった。 「なんじゃ大将、この餓鬼は?」 「黄の娘だ。奴の眷属は、この子と征志郎を残して全滅した」  時は、彼が黄錦龍を第八層の試練において粉砕したほとんど直後なのだろう。青幇の頭が眠るように謎の死を遂げたことで、その後始末に終始していた時間軸の一幕だった。  事態の顛末については先ほど四四八が述べた通り。  黄と繋がった総勢三百万の阿片中毒者たちは、たった二人の例外を除き、今さら現実など見たくもないのか己の生さえ幸福に閉じたらしい。  そこに四四八は心を当然痛めたが、まずは生き残った例外への処遇についてだ。とりわけ征志郎に関しては即刻手を打つ必要がある。 「緋衣は日本に逃亡したらしいのう。まあ、あいつは放っといておっ死ぬが、俺の手のもんに始末させよう。  邯鄲の術式ごと、地の底にでも封印しちゃるわ」 「頼む。それでこの子のことだが……」  二人の視線がもう一人の生存者、黄錦龍の娘へと向く。四四八は目に痛ましさを宿しているが、狩摩はそれを揶揄するように苦笑していた。 「こいつも殺すか?」 「それは出来ない。この子には何の罪もないんだ」 「じゃろうなァ……まあ大将ならそう言うはずとは思っちょったが」 「甘いのう。コレ、後に禍根を残すん違うか?」  臭いものには蓋、面倒なものは殺処分。粗暴で短慮かもしれないが、もっとも楽で安全なのは間違いなくそれだろう。仁愛の働く場面も、想いを注ぐ相手によりけりというやつだ。  そう狩摩に感じさせるほど、この少女はとても〈危〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》。  自分の処遇を決める二人のやり取りを見上げながら、現実を理解していないようで今もどこか夢見心地。  間違いなく、黄の特性を非常に色濃く引き継いでいた。  それがどれだけ危険な性か、狩摩以上に四四八は深く理解している。  だがそのうえで、この子を救わねばならないと思っているのも事実だった。  ゆえに、彼は…… 「狩摩、おまえに頼みたい。この子を神祇省で育ててくれ」 「は? おいおい、藪から棒に。そりゃ正気か?」  大仰な狩摩の問いに、無言のまま首肯する。そうしなければならないと、四四八は少女と出会った時から運命のように悟っていたのだ。  黄の八層攻略の条件として、アラヤに召喚されて彼を斃した事実のすべてを四四八は正しい形で認識している。  そして、だからこそ一抹の懸念が残るのだ。  その手で確かに砕いたはずが、黄錦龍を完全に滅ぼしきったという確信を持つことがなぜか出来ない。  あいつはまだ生きているのではないか。再び現れるのではないかという小さな不安が、今もどこかで根を張っているのだ。  そして、もしもこの予感が的中したら。黄錦龍が生きていたら。  今回は成り掛けだったからよかったものの、あれが第四の盧生として完全な復活を遂げたら間違いなく手に負えない。  あれほど邯鄲のシステムに合致している存在は後にも先にもいないだろう。  だから、そのときの対抗策を用意しなければならない。  それが自分一人では決して成せないことなのだとも、思っているから四四八は深く、目の前の少女に謝罪した。 「すまない。俺は君に、とても酷い運命を背負わせようとしている」  そう詫びつつ、同時に思う。この子を守るにはそれしかない。  もう一度少女の世界を閉じることや、このまま見て見ぬふりをして闇に葬り去るべきだと? いいや、否。これ以上、自分らしからぬ行いを信じてくれた者のためにもしてはならないと信じている。  だから、変わるのならば少女自身もそうあるべきだ。黄の呪縛から解き放つには、彼女自身が降魔の剣に成らねばならない。  彼らしい厳しさと優しさで、新たに険しい宿命を第二盧生は静かに授けた。  狩摩はそんな四四八の心情を分かっているのかいないのか、それでも何か琴線に触れるものはあったのだろう。飄々と笑いながら快諾する。 「ええよ、分かった聞いちゃろう。  じゃが、よいよ人使いが荒いの大将。そりゃあ俺の好きにやってもええっちゅうことか?」 「任せる。盲打ちの手並みに期待しよう」  ここに新たな盟約は紡がれた。今は誰にも分からない未来を見据えた布石が、確かに一歩を踏み出したのだ。 「そうかい。けどのう、俺は思うが、今からでも大将が盧生に返り咲いて世界征服でもしてしまえば、それでええんじゃないかのう。  なんせそら、まっとうなのは第二くらいのもんじゃろうし」  甘粕の〈楽園〉《ぱらいぞ》、黄の万仙陣は言うまでもなく、クリームヒルトも好きにやらせるには危うい面を持つ女だ。  ならばいっそ、仁義八行の信念で迷える者どもをこぞって掬う〈救世主〉《イエホーシュア》になるというのも有りではないかと、狩摩は語るが。 「おい、断っておくがな。俺は二度と盧生をやるつもりなどないんだよ」 「それをやるとすれば、黄を直接この手で斃すそのときだけだ」  きっぱりと勇者らしい生真面目さと馬鹿正直さで、覚悟と共に却下された。予想通りの返答を耳にして、楽しげに狩摩は笑う。 「おう、それでこそ大将じゃ」  その賞賛とも呆れともつかない言葉を最後にして、過去の記録は霧消した。眼前では変わらず口端を歪める男が、ついに最後の種を明かす。 「つまりこういうことよ。おまえは黄の血族でな。  あれがおまえの曾祖母になる。知っちょるじゃろうが、雪子さんよ。  そんでまあ、緋衣の小娘と同じ理屈で、直系ゆえに、より深く、生まれたときから黄の眷属という属性を先天的に持っちょるわけよ。 万仙陣との同調率が抜きんでて高いのも、煎じ詰めればそういうことじゃて」  ゆえに石神静乃こそ、歴史から抹消された黄錦龍が存在したという何よりの証明だった。  朔の日においてあらゆる現象の基点となった最大の理由こそ、まさしくそれに他ならない。慎重な扱いが求められるのは想像するに容易く、そこから逆に導けば目の前の壇狩摩が何であるかも頷けた。 「ならば、もしやあなたは──」 「一種の安全装置、なんじゃろうが俺自身でもよう分からんわ。  出てきたときになんぞ思い出した気もするが、まァうまいこと嵌まったんならよかろうが。うわははははッ」  つまり四四八たちの計画が頓挫しかけたとき、要は静乃がピンチになったら導く者として壇狩摩が顕れるのだ。一種の後催眠暗示だろう。  かつての辰宮邸では四四八の顕象かと思っていたが、本当は仕組まれたプログラムに従うがごとく、静乃が無意識下でやったにすぎない。  狩摩が術を施したのは雪子であろうが、自分にまでそれが適応されたのは血に刻まれた遺伝の他に、静摩も同様のことをやったからだろうと予想できる。  柊四四八の命を受けて、二人の盲打ちが講じた奇手。  この現状はそういうことだ。 「ともあれ、俺がそうまでおまえのことに目をかけたんは、お目付ばかりじゃなくてのう。期待してもおるからよ。  なんせ黄錦龍と非常に近しいおまえだけが、逆説的に万仙陣を破壊し得る唯一の存在であるんじゃからな。  黄のもっとも怖いところは、その精神性ゆえにあらゆる攻撃が到達できんという点よ。相互理解を端から放り投げちょるせいで、切った張ったが意味を成さん。  都合のいい捉え方を片っ端からされるわけじゃな。昔のお嬢どころじゃないけえ、こっちとしては手が出せんわ。よほど近しい存在から渇を入れられん限り、奴の夢は無敵じゃわい」  殴られた──ああおまえ、俺がそんなに好きなのか。  貶された──おいおい、そんなに俺を讃えるかね。  どんな否定や攻撃も、彼は彼の閉じきった現実で一人芝居に変えてしまう。  疑う余地なく描き出されたその〈妄想〉《ユメ》は、盧生の力で現実と化し、どのような敵意であっても黄の肥やしに塗り潰されて反転する。  まさに無敵だ。かつて四四八自身も認めたように、黄錦龍こそ盧生という器においては甘粕さえも凌駕している怪物なのだと言っていい。  だが誰よりも万仙陣に同調している静乃だけは、概念的に黄と同一存在ですらある。先のアラヤと彼女が接触できたのもそういう理屈。心の海に揺蕩う彼が、唯一現実を知覚する外界に対する窓口が石神静乃なのだから。  いや、あるいはもっとこれは単純な理屈なのかもしれない。  他人に殴られるより、肉親から殴られた方が心に響くのは当然のこと。距離の近さと因果の重さが巡り巡って彼女の内に逆転の一手を宿していた。 「ああだから──私はずっと、そのために」  そのうえで、衆生の迷妄を祓う迦楼羅として技を叩き込まれたこと。あの山奥で研鑽を積んできた時間のすべてに意味があったのだとついに悟る。  黄の眷属であると同時に、四四八の眷属でもあるという稀有な特性。  複数の夢と繋がる二重眷属。静乃だけが持つ属性の集大成が、黄を打倒する唯一無二の剣となるのだ。 「さっきの回想で、大将が言ったことは覚えちょるじゃろう?」  ──俺が再び盧生の力を揮うのは、黄を直接斃すときだけである。 「その誓いは果たされつつあるんじゃから、気合入れんかい。ここがおまえの正念場よ。  信じちょるから眷属の許可を出したんじゃろがい」  そうだ、あのとき感じた誇らしさは今も胸にあるまま忘れていない。  愛すべき子孫であると言ってくれた、すべてを分かった上であれほど強く自分を認めてくれたのだと分かった今、胸が感謝で溢れそうになる。  ならば、それを形にしないと。  先人にそうまで見込まれたのだから、今を生きる人間として前を向こうと静乃は雄々しく涙を拭った。 「おまえは大将を口だけ野郎にするつもりか?  見込まれたんなら、応えんにゃあのう」  言うべきことを終えたのか、それを機に狩摩は消えていく。あと幾ばくもないと分かったから、その前にこれだけは聞かないといけない。 「待って、一つ教えてくれッ!  私が自分の夢から覚めたら、あの四四八くんたちとはもう二度と……」 「そりゃ会えんわい。ハナから生きちょる時代が違うじゃろうが。後に残るんは、当たり前の子孫としての千信館よ。  そんでそいつらも、黄が消えればおまえのことなんぞ覚えちゃおらん」 「──、ッ」  分かっていた、分かっていたつもりだった。それでも思わず絶句して静乃は拳を強く握る。  当然の結果だと芯のところで理解していた。でもやはり、突きつけられた真実が棘となって突き刺さった。  そんな傷つく子孫の姿に対して、狩摩はどこか感慨深そうに含み笑って。 「青いのう、迷えや餓鬼んちょ。そしてさっさと片付けい。  面倒終えたその後で、ゆっくり自分の〈信〉《イノリ》と〈真〉《マコト》を探さんかい」  突き放すような、健闘を祈るような、判別つかない台詞を残して彼はそのまま消えていった。 「…………」  残された静乃は、誰もいなくなった空間で落下しながら、しばしの間瞑目する。自分の愚行、重ねた時間、そして今と託された祈りの重さを反芻して微笑みながら目を開けた。 「──そうだな。うん、罰としては軽すぎる」  勝手に四四八を夢に描いて、百年前の役割を自分の都合で押し付けて。  知らないうちに弄んでしまった罪が、忘れられるということなら確かにとても軽い罰だ。自分が悲しむだけでいいのが救いといえば救いだろう。  だから、これが終わったら今度こそ“現実”で始めるんだ。  再び出会いからやり直して、本当の彼らを相手にしっかりと向き合うこと。  それが黄を斃す使命以上に、自分が真にやるべきことだと静乃は強く思うのだった。  そしてそのためには、失った眷属資格を取り戻さないといけない。  同時に、英雄の分身たる四四八たちの再構築も。  だって自分は弱いから。  たった一人で黄錦龍に勝てるなんて思えないから。  そして何より、彼らに詫びねばならないから。  それが余計に残酷なことだというのは分かっている。  事が終われば消えてしまう前提で、たとえ夢でも命を弄ぶに等しい行為。  でも、自分たちは八人で眷属となったのだから、誰か一人でも欠けていたら朔を乗り越えることは出来ない。  自分の愚かさを直視することになるだろう。でも構わないんだ。  それでも彼らに憧れたという気持ちだけは嘘じゃない。それを誇りに思っている真実だけは、誰にも否定させない。穢させない。  だから最後の夢として、真の現実に帰るためにも彼らを紡ごう。 「私は……」  今、この瞬間に改めて静乃は己と向き合った。  希望を取り戻す予兆に対して、落魂陣が今か今かと……彼女を潰してしまおうと焦がれているのは分かったが、それさえもはや迷わない。  誰よりも見たいものしか見ていなかったのはこの私。  朔の日、百年前に見逃された一つの不完全を埋めるための帳尻あわせが、こんな形で顕れている。  夢とは、タタリとは、万仙陣とは何なのか。緋衣南天の最終目的……この身が継いだ血の意味と迦楼羅の号は、そのためにこそあったのだ。  三毒を絶ち、迷妄を祓う。果てに訪れる未来は怖く、目も耳も閉じてしまいたくなるけれど。 「だけどそれでも、私は君らが好きだよ……四四八くん」  あの優しく愛しい時間は、夢であっても嘘じゃないと信じている。  だからお願いだ、勇気をくれ。  もう一度、立ち上がって戦うために。  君らの仲間になれて誇らしいというこの気持ちだけは、誰にも否定できない私の真実なのだから。  羽ばたく霊鳥の翼に呼応して、静乃が有するすべての属性が顕現していく。  黄錦龍の直系であり、柊四四八の八犬士であり、神祇省の迦楼羅――  嘘偽りの桃源郷を祓うために降り立つ自分は降魔の剣。ゆえに成すべきことは決まっている。 「頼む、力を貸して私の英雄──!  あなた達との〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》を、どうかここに紡がせてくれッ」  瞬間―― 「──応ッ!」  再び掴んだ、紛れもない眷族の資格と彼らの魂――  もちろんだ、よくぞ呼んでくれた。ありがとう。  雄々しく愛しいその言葉に、思わず涙が頬を伝った。  希望はここに──緋衣南天の急段が〈現実〉《ぜつぼう》を奏でるべく発動する。 「ぎ、ィィ、ああああああああああッ──!」  襲い掛かる破壊力はかつてない規模として身体を襲った。その衝撃量は、月世界から叩き落とされたに等しい領域まで至っている。  訪れるダメージを決定する方程式は、時間経過と希望の乗算。  まる一昼夜以上墜ち続けたこと。生涯最高とも言える希望を抱いたこと。  これら二つが掛け合わさったその結果、致命的な大破壊が静乃の身体を嬲り尽くす。  もはや何をどう足掻こうが耐えられるようなものじゃない。  一瞬で五体が水風船のように弾け飛ぶ、その刹那。 「合わせろ、歩美ィィッ──!」 「了解、どこかへ吹っ飛んじゃえ!」  飛び出した二人の夢が、合一しながら静乃の命を守り抜く。  距離の操作と解法による合体技。彼女を襲う膨大な墜落の衝撃を、崩して透かして遥か彼方へ問答無用に消し飛ばした。  かつて百年前、邯鄲の第七層で栄光は廃神・百鬼空亡の放つ大震を地脈に散らして防ぎ切ったことがある。それと同じ要領で今度は歩美の空間操作を筋道に、恐るべき効率で訪れるべきダメージを虚空へ散らした。  しかし、それでも崩壊は止まらない。二人の活躍で衝撃は数十分の一に減ったが、まだまだ人体を潰すには余りある破壊力が残っていた。  ひしゃげる手足、飛び散る臓腑、流出する血に回復が追いつかないが―― 「任せな、絶対あたしが死なせねえッ!」 「人体だって、繋がってなきゃ〈物質〉《パーツ》でしょうが──!」  癒しの光と共に、創形される人体の構造物。創法を最大限に利用した異例と言える回復が失う命を補填した。  鈴子が吼えたように、人体も切り離された状態なら蛋白質やカルシウムで構成された単なる部品だ。繋がっていない髪や爪を誰も生きているとは思わない。そしてそう認識する限り、夢はそれを可能とする。  次から次へと目まぐるしく生み出される人体の欠片たち、それが晶の回復を最大限に後押しして静乃の身体を癒していく。  なにせ、出来た血や内臓を埋めていくだけなのだから回復は当然早い。一人でやるより段違いのスピードで壊れる命を繋ぎとめる。 「もっとこっちに回せ! このぐらい、屁でもねえんだよォォッ」 「足らない部分は必ず支えてみせるから!」  そして、消しきれず確実な致命傷になるだろう衝撃は淳士がその身で引き受ける。彼方よりも近くに散らしてロスを防ぐという暴論をもとに、自ら志願し衝撃の避雷針と化して守る。  血を全身から噴出させても、気力と意地で耐え凌ぐその姿に迷いはない。静乃が受けるべき苦痛をこれが俺だと歯を食いしばり、愚直に背負い受け持っていた。  水希もまたそんな淳士のことを支え、時に歩美や栄光に、晶と鈴子の補佐へと素早く、恐るべき回転率で夢を切り替え駆動させる。  その様はまるで超高速のルーレットだ。自由自在に己が役目を切り替えながら、常に仲間が最高の働きを出来る足らない箇所へ優先的に、自分の力を滑りこませて止まらない。  それは得意な分野に注力するより遥かに恐ろしい難易度なのだが、彼女は苦も無くそれを見事にやってのける。  それでもまだ、担当者がもう一人必要であるときは。 「そうだ、忘れるなよ石神。おまえだって間違いなく──」  あらゆる資質を自在に動かす柊四四八がここにいる。 「俺たちの仲間なんだからなッ!」  悌の破段、犬田小文吾悌順──発動。  片手落ちの略奪ではない、石神静乃が己の真を掴んだ確たる証として完全な夢の共有が八人の間を駆け巡った。  合一を果たした彼らと、敷かれた布陣に敵はない。  墜落の逆十字たる落魂陣を勇気と絆が真っ向から迎え撃ち、そして── 「まあ、そういうわけでだ」  底まで到達し地面にへたり込んだ静乃へ向かって、四四八はそっと手を伸ばした。 「しゃきっとしろ、この馬鹿」  ぴん、と額を軽く弾いて笑う彼らにもはや想いが止まらない。  胸が熱いよ。暖かいんだ。こんなのとても眩しくて、真っ直ぐ直視できないじゃないか。 「みんな、ッ……!」  思わず駆け寄り、全員の身体を抱きしめる。目の奥からは雫が溢れて止まらないし、情けない顔をしているだろうけど我慢なんか出来なかった。  始まりは過ちで、愚かさゆえであったとしても。 「ありがとう、ありがとう。皆とこうして、会えてよかったッ!  私は、君たちのことが大好きだよ!」  この想いだけは覆せない真実だと、満面の笑みで静乃は宣言するのだった。  もとは人であった触手に包まれ、安らぎの中で万仙陣の夢に落ちようとしていた南天。  その光景はどこか、魔的なものを超越した安らぎに満ちていた。  しかし── 「う、が、あああああああァァァァァァッ!?  ハァ……ハァッ……あ、ぎィ、あああああッ──」  唐突な激痛を感じ、身体を打ちつけながら絶叫する。  この感覚を忘れようはずもない。生まれてからずっと共に在り、憎悪し続けてきたこの苦しみを。  はっきりと理解出来る。〈死〉《、》〈病〉《、》〈が〉《、》〈再〉《、》〈び〉《、》〈舞〉《、》〈い〉《、》〈戻〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈き〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》。  片時の休みもなく襲い来る激痛。脳が沸騰し白痴と化すかのような高熱。  病魔に取り憑かれ、腐り落ちる五臓六腑。失われてゆく五感。氾濫する幻覚、幻聴の嵐――  消滅させたはずのそれらが、まるで何事もなかったかのように我が身を苛んでいるではないか。  万仙陣に亀裂が走り始めている。  千切れそうなほど強く唇を噛む南天。すべてを賭して組み上げたものが、どうしてこんなに容易く崩壊する?  いや、自らに問うまでもなくその原因は分かっていた。  石神静乃―― あの野郎、生き残ったどころか立ち直りやがったというのか! 「糞、糞、糞、屑めッ──」  偏執的に表情を歪め、呪いの言葉を吐き捨てる。許せない。許せない。許せない。許せない。  そう、許さない!  お幸せな日常ドラマが、何の意味も理由もなく存在するとおまえは思っていたのだろう!  よく吟味もせず勝手にそう決め付けて、好きに調子付いたことを言っていたのだろう!  馬鹿が、意味も理由もあるに決まっているではないか!  おまえごとき能無しの糞チンケな尺度で見通せるものなど何もない。  ないんだよ石神静乃――私が今度こそ現実を教えてやる。  魂ごとバラバラに粉砕してやるぞ! 「役に、立たん、塵どもがァッ……どういうことなのふざけるなッッ!  おまえらごときの生まれた意味など、私に使われるために決まってるだろうがッ……! その程度の、役目さえ、果たせない? 馬ッッ鹿じゃないの。  死ね。死ね。死んで詫びろ。豚にも劣るおまえらが、私の希望を奪いやがって── この世に、私を生かす以外の法などないだろう。天下の道理だ、弁えろ!」  口から血膿混じりの泡を吹きながら怨念を撒き散らす。  どいつもこいつも死ねばいいと、憎悪を込めて腕を伸ばす。  夢を回して外見だけはなんとか少女の態を保っているのは、彼女にとって最後の意地だろうか。  狂気に咆哮するその姿はもはや人外。周囲に絡みついた触手を荒々しく引き千切って立ち上がる。 「許さん、許さん、許さん許さんぶっ殺す!」 「誰にも私が生きることの邪魔はさせない。させないんだよクソッタレ──  舐めてんじゃねえぞ蛆虫どもが! おまえら、全員粉々にしてやるからなァッ!」  崑崙宮殿と玻璃爛宮を背後に、ありったけの呪詛をぶちまけながら南天は激昂した。  人ならざる狂乱の様相を呈する少女は、最優の盧生に連なる史上最強の筆頭眷属。万仙陣を攻略しようとする者にとって最大最悪の障害である。  そう、まだ落魂陣を破られたわけではない。死病の再発による衝撃を突かれ、瞬間的な解除をされただけのこと。まみえれば何度だって嵌めてやれる。  甘くないんだよ現実は。私以上にそれを知っている者はいない。  ああ、おまえがそう思うならそうなのだろう。  黄錦龍は、変わらず茫洋と揺蕩いながらそのすべてを眺めていた。  悲しいなあ。悲しいなあ。皆が幸せになればいいと願っている。  真摯に、どこまでも純粋に。  無限の中核にまどろみながら鴻鈞道人は夢を見るのだ。  とても長く、そして悲しい夢を見た。  その中で直面した“現実”に彼の心は耐えられず、生きていく気力さえ失っていたのだ。  仕事など、無論やっていられる状態ではない。食事も胃が受け付けず、ただアルコールに耽溺して逃げ続けるしか出来なかった。  そんな酩酊した日々の中で、己がぐずぐずに融けていくのは分かっていたが、どうにかしなければという考えさえ浮かばない。  立ち直る必要性をそもそも見つけられないのだから。  自分はもう終わっており、朽ちていくだけなのだから。  もういい。もう死なせてくれ。  世界は闇だ。夢も希望はありはしない。神など存在しないのだと悟った瞬間、彼は絶望の底へ落ちていくだけの者になった。  だからこそ――  ああ……この今、すべてが夢だったと分かったことで、途方もない安堵に彼は包まれている。  頬を伝う涙の跡は、しょせん悪夢の残滓でしかない。本当の現実はここにあり、そこで生きていく彼の前には依然として光と祝福が満ち溢れている。  そうだよ、すべては夢だったんだ。自分は何も失っていない。  それが証拠に、見るがいいこの幸せを。  幼なじみだった妻は、台所で朝食の支度に掛かっている。  三歳になる娘は、舌足らずな声でパパ、パパと自分のことを呼んでいる。  その光景に喜びの涙が止まらないのだ。どうして自分は、これほど愛しい宝物を失ってしまうという愚かな夢を見ていたのか。  度し難い非現実。信じられない冒涜だろう。生涯かけて守ると誓った彼女たちを死なせてしまうなど有り得ない。  交通事故? 馬鹿な、そんなことがあって堪るか。くだらない妄想にたとえ夢でも耽ってしまった事実を彼は恥じ、詫びるように妻と娘を抱きしめていた。  すまない。すまない。僕はずっと君らを守るよ。  相手にとっては意味の分からない行動だろうが、それでも彼はそうせずにいられなかった。驚きながらも笑ってくれる妻子の温もりに、ただただ幸せを噛み締める。  そうだ、今日はこのまま、一緒にピクニックでもしようじゃないか。仕事はもちろん大事だけど、この場で優先すべきものじゃない。  大丈夫、一日くらいはどうってことないさ。いいだろう? なあ、だからお弁当を作ろう。僕も当然手伝うから。  そんないきなりの提案に妻は少し戸惑っているようだったが、すぐに苦笑しつつ許してくれた。娘は無邪気に喜び笑っている。  そうして一家は仲睦まじく準備に掛かり、幸せな日の始まりを過ごすのだった。これからもずっとずっと、この幸福が続くのだと信じているし、疑う理由は何処にもない。  そう、世界は喜びと輝きに溢れているのだから。  青い空。広い海。降り注ぐ太陽。  なんて美しく素晴らしい日々だろう。  この地は今、何一つ陰りのない祝福に包まれていた。  人々は例外なく笑いさんざめき、童心に帰ったような嬌声がそこかしこから聞こえてくる。  すべてが満たされ癒された、生命の歓喜が青空の下に木霊するのだ。  ここには、不幸な人間など一人もいない。  人が世界に対し美や幸福を感じられる精神性とは、果たして何だろうか。  つまるところ、それは満たされているがゆえの余裕……それがもたらすものに他あるまい。  危険や苦痛に脅かされていたり、今日の糧に窮していたり、明日の展望が見えずに苦悶する……そうした余裕のない者たちに、何かを美しいと感じるゆとりなどは生まれないのだ。  ならばこそ、今――  この地の誰もが、それとは対極にある境地で満たされていた。  ここではついに、彼らの夢が叶ったのだから。  それぞれに求めた理想の願望が、まるきり望むがままの形と結果で出力されている。  誰もが憧れ、しかし叶わぬままに終わることが半ば当然とされる、生涯における最高の到達点……そこに至った景色を、皆が余すところなく体感している。  彼らにもはや未来の不安はなく、現状への苛立ちもない。  誰もが己だけの絶対を手にした今、世界は完全な形に閉じていた。  その結果……残ったものは、ただ我を忘れるほどの幸福のみ。  一人一人が謳いあげる歓喜の波動に満ち溢れている。  繰り返すが、ここには不幸な人間など一人もいない。  たとえば、プロスポーツ選手を目指した若者がいた。  世界に羽ばたく憧れの星にならんとした情熱は、しかし他者との競い合いを続ける中で徐々に削られ、下方修正を余儀なくされる。  自分が特別な存在ではないことを思い知り、敗北と挫折を経ていつしかその道を捨ててしまった彼は……しかし今、念願の檜舞台で活躍を約束されていた。世界中の注目を浴び、万雷の歓声に包まれる己の姿に心から陶酔する。  また、ギャンブルでの一攫千金を夢見た男がいた。  破滅的な生活を送りながら、周囲の嘲笑を物ともせずに儚いチャンスを追い続けた自暴自棄の果て……彼の夢もついに実現を果たしていた。札束と酒池肉林に埋もれながら、男は愉悦の絶頂にあった。  理想の愛を求め爛れた男遍歴を繰り返していた少女もまた、自分だけを愛してくれる最高の恋人と巡り合う。  今や彼女の目に映る世界とは、すべてが愛に包まれた薔薇色に輝いている。  友人を欲した孤独な引きこもりは、自分を賞賛し受け入れてくれるコミュニティの人気者になっていた。  歩行さえ不可能な重傷者は強壮な身体を取り戻し、犯した罪に苦しむ者は過去のすべてが許される。  求める内容に違いこそあれ、その結果はいずれも共通している。すなわち、彼ら彼女らにとっての理想の成就だ。  それはとても幸せな、充実しきった最高の人生。  心からそう思えるだけの多幸感に、誰もが包まれ歓喜している――  夢の中で。  そう、それらはすべて、閉じた妄想の内側でのみ展開される話にすぎない。  客観的な現実における世界の姿は、そんな桃源郷と凄まじいほどかけ離れていた。  市街地は見る影もない廃墟と化し、おぞましい〈人間〉《ばけもの》たちが蠢くように徘徊している。  彼らはもはや人の輪郭すら逸脱し、水棲生物を思わせる軟体の触手を全身に生やしていた。  そして濁った盲目の眼球から、随喜の涙を流し続けているのだ。  世界は今、王のユメに包まれ〈揺蕩〉《たゆた》っている。  ゆえに誰もが盲目にして白痴。己だけに聞こえる狂った太鼓と歪んだフルートの響きに合わせて、延々とパントマイムを演じ続ける。  それが幾万となく積み重なり、無意味で独り善がりな無音の調べで地上を覆い尽くしていた。  ここでは誰も彼もが酔い痴れている。  自らの姿を直視することも、歪んだ世界に気付くこともなく。  のみならず、それら異形の見る〈妄想〉《ゆめ》は決して平和なだけのものではなかった。夢の中で、彼らは他者を貶め、傷つけ、踏みにじる攻撃性をこれ以上もなく発揮している。  なぜなら、彼らは知識でなく本能で知っているから。理想とは、誰かを蹴落とさなければ掴めないものであると。  〈幸福〉《ゆめ》を掴むのは己だけでいい。〈他者〉《だれか》の物語など見たくないし聞きたくない。  木霊する、そんな人間たちの負の妄念。それは泥のように堆積しながら腐り続け、凄まじいばかりの黒い熱を帯びていく。妄想世界で約束された祝福の裏、現実は今、渦巻く邪念の坩堝と化していた。  そして……その熱泥じみた思念の汚濁に引き寄せられるように、この場に相応しい闇の存在が招来する。  それこそは、阿頼耶識の海より現出した数多くのタタリたちだった。  いずれも凶の波動を振りまく廃神の群れは、まだ完全な実体化を果たしきれていないものの、遠からずユメに溺れた〈触手〉《にんげん》たちを片っ端から殺戮していくだろう。  いいや、すでにそういうものは存在している。  第八等廃神・〈玻璃爛宮〉《はりらんきゅう》――これら事態の元凶とも言える始まりのタタリは、完全な実体化を果たし猛威を揮い続けていた。  亡者を喰らう羅刹さながらに、虐殺は止まらない。  怨念、憎悪、憤怒、嫉妬、彼を構成するものはそれしかなく、命の略奪こそが存在理由だ。その貪欲さは凄まじく、朔という一連の事象に関わった者ならば、過去の死者さえ因果を繋ぎ食い貪っている。  つまり、時間軸すら無視した暴威。  それは歴史の空隙とも言える特異な夜だからこそ可能と言えるのだろうが、そこまでの広範囲に牙を向けるという獰猛さが尋常ではない。  廃神と化した逆十字の行くところ、触手の化け物は余さず肉片と化し飛び散っていく。  しかし、殺され踏み潰されながら、怪物たちは夢見たままで動かない。というよりも、この現実自体を認識しない。  最後の瞬間に至っても、自分だけの幸福な〈物語〉《ゆめ》と戯れたまま死んでいく。  血まみれの桃源郷……そんな矛盾した形容こそ相応しい光景が、そこかしこで演じ続けられていた。  これこそが第四盧生の終段、万仙の陣。  人間同士の繋がりを完全に絶たれた、妄想中毒者たちの閉じた理想郷が現実を覆い尽くさんとしている。  それは、遠くない未来における人類滅亡を意味していた。  なぜなら〈廃神〉《タタリ》の餌食を免れたとしても、行き着く果ては同じこと。  最低限の生命維持にすら背を向けた、妄想への重度の耽溺……それがもたらす結末とは、衰弱死の他にないだろう。  いわば、世界そのものが巨大な阿片窟と化している。至福の桃源郷を感じながら、絶対的な破滅に墜落する世界。  そして……  痴れ者どもが奏でる狂気の〈笛〉《ユメ》にまどろみながら、無限の中核に揺蕩うのは盲目白痴の彼らが王。  その二つ名である〈鴻鈞道人〉《こうきんどうじん》とは、中国神話に伝わる四凶が一つ、“渾沌”を擬人化したものである。  地上を見下ろすその存在は、天空に浮かぶ巨大な城の中にいた。  紫禁城、銅雀台……中華の歴史上におけるあらゆる宮殿を混ぜ合わせたような外観は、まさに見る者を狂気へ誘う渾沌だった。  平衡感覚や距離感を歪める奇怪な建築様式は四次元的ですらあり、およそこの世のものとは思えない。  現実に在らざる仙境は崑崙とも、玄都とも。玉虚、碧遊、または蓬莱、螺湮城とも。いずれにせよ人が立ち入れる場所でないという点は共通していた。  王の閉じた楽園には、何者も侵入できない。  そういう概念のものであるゆえ―― 「おまえの世界はおまえの形に閉じている。  ならば、己が真のみを求めて〈痴〉《し》れろよ。悦楽の詩を紡いでくれ」  回り続ける万仙陣の最奥で。  鴻鈞道人――〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》は人々の幸せを全き愛と善意で祈り続けていた。 千信館の広い校舎。そこは今、人の気配が完全に絶えていた。 今や鎌倉に存在している俺たち以外の人間は、一人残らず万仙陣に巻き込まれている。 結果として何が起こっているのか……世界をどんな惨状が覆っているのか、それを俺は理解していた。彼らを思うと、胸が強く締め付けられる。 そして悼む気持ちを噛み締めながら、静かに闘志へ変えていく。 第四盧生、黄錦龍。その存在を放置は出来ない。人の理想郷がこんなものであるはずがないだろう。 だから―― 「これが、最後の戦い」 「そして、俺たちが今こうして存在することの意義であり、使命なんだな」 教室の窓ガラスに映る自分を見つめ、改めて言葉にしつつ反芻する。 柊四四八は……少なくともこの心を持った〈自〉《 、》〈分〉《 、》は、石神静乃という〈現〉《 、》〈実〉《 、》の人間により顕象された夢……いわば虚構の〈存在〉《キャラクター》であることを、俺はすでに知っていた。 一度消えた状態から再度の顕象を経たことで、あいつの認識がそのままこちらにも反映されている状態だ。そのへんは複雑な相関なので、すでに何度かやった整理をもう一度試みる。 まず第一に、今の俺たちはかつての辰宮邸における百合香さんたちとほぼ同じものであるということ。 現実に存在するはずの“柊四四八たちの子孫”は、いわば石神の理想を強く具象化するための依代にすぎない。彼らを核として、俺という夢がここに紡がれている。 だが無論、再顕象され石神を救ったときの俺たちには核などなかった。現実から切り離されたあの閉鎖空間で依代となるものはなかったのだから当たり前だが、お陰で瞬間的に力の大半を使い果たしてしまったのは否めない。 ゆえに、その後の俺たちは顕象を保つために核との再融合を果たしたわけだが、これは何も自分たちだけの都合ではない。 そうしなければ、核たる者たちは万仙陣に嵌ったままとなってしまう。彼らを守るためにも、そうする必要があったのだ。 結果として顕象が強化された俺たちは、未だ万仙陣に抵抗することが出来ている。余裕というわけではまったくないが、種を知っているのがアドバンテージになっているのは確かだった。 少なくとも、いきなり無防備で阿片を嗅がされた人々とは違う。これはやばいものだという認識を持っているぶん、そう簡単に酔いはしない。 要は前知識の差というもの。そして今の俺たちが有する知識は、言ったようにかなり複雑なものとなっていた。 この身は石神の夢であり、大正時代の柊四四八の分身でもある。あいつがその認識を正確に持ったことで、俺たちの自己認識も変わったのだ。 あくまでも石神が知っている範囲の歴史――時間軸と言ってもいい――が基準になっているため、些か歪な状態だが、具体的に言うとこうだ。 俺たちは甘粕事件の後で満州に渡り、そこで黄錦龍と出会い決裂し、ヘルと手を組み黄を追い詰め、一時的な形であれ斃したこと。それらの事実を経験として“覚えて”いる。 細部について、つまり百年前の柊四四八が何月何日に何を食べて誰とどういう会話をしたか――などというのは石神が知り得るはずのない情報だが、それすらこの俺は持っているのだ。 その理屈はつまるところ、石神が黄を通じてアラヤと接触したことの影響だろう。再顕象された今の俺たちは、それほど真に迫っているということだ。 けれど、記憶は〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》に留まっている。それから先の出来事……すなわちどのようにして世界大戦を食い止めるに至ったのか、その経緯や手段はまったくの不明だった。 ゆえに、果たしてそんなことが俺に可能なのかという疑問を抱かずにはいられない。そういう気持ちは確かにある。 「だが、それでも俺は〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》だ」 客観的には虚像であり、本物ではない。しかし、ここにいる俺もまた柊四四八。心を持った一個の存在であることに変わりはなく、そうした意味で偽者じゃない。もとより、自分をそんな風に卑下する趣味は持ってなかった。 ならばそれを受け止めながら、胸を張って立ち向かおう。 今度こそ完全な形で黄錦龍を斃し、そのユメを消滅させること。それが成すべきすべてだと強く思える。 なぜならこの戦いの結末こそが、俺の知らぬ後世に続く諸々に直結してくるのかもしれない。そんな予感があったから。 そう、たとえ…… 「黄を斃せば、消えてしまう夢だとも」 その真実もまた、言葉にすることで認識を刻んだ。同時に湧いてくる微かな怖さと寂寥の念も噛み締める。 「こんな気持ちだったのかもな、あのときの百合香さんも」 彼女が口にした、自分自身が夢であることを自覚しながら、それでも生きていたい、存在したいと願う理屈抜きの心情―― かつて俺は仲間たちと共に、それを巡って異を唱えたことがある。ただの夢である百合香さんが存在を主張すれば、核となっている現実の子孫から立場を奪い取ってしまう。それは許されざることなのだと。 しかし、我が身が同じ境遇となって分かった気がする。この瞬間ここにいて、生きていると感じるのに消えねばならないということ……その意味が。 この不安や物寂しさはそこから発している。けれど、俺は一方で納得もしていた。まして俺を生み出した石神を責める気などは毛頭ない。 それは先ほど口にしたように、役目を持って招かれたということを自覚しているからだ。そして託されたその願いは、紛れもない俺自身の望みであるということも。 そこにこそ、この俺が生きたという確かな証が存在する。 石神らと過ごした俺たちの日常は、確かに夢だったのかもしれない。けれど夢であっても、その中で感じた想いや育んだ絆までが嘘であるわけじゃないだろう。 だからそれに則って、あくまで自分らしく進むだけだ。きっと他の奴らも同じ気持ちだろうと、俺はそう思っている。 「行くか」 馴染んだ教室の壁、机。それらに別れを告げるように手を触れる。この場所もまた、確かに存在した俺の一部なのだから。 たとえ夢であろうとも、それだけは幻じゃないんだと噛みしめて。 石神との出会いを含め、過ごした数々の時間を反芻しながら……俺は無人の教室を後にした。 思い出の残る校舎、その廊下を歩きながら……俺は記憶を共有する面影を思い浮かべる。 俺が今、会いたいと思う相手を求めて。足はいつしか、その場所へと向かっていた。 「――――」 文芸部の部室。果たして、目当ての人物とはそこで会うことに成功した。 「やっぱりここにいたか」 「驚いたな、四四八くん……どうして私がここにいると分かったんだ?」 そう目を丸くしつつ、意外そうに尋ねてくる石神。俺は立ち並ぶ本棚の列を改めて見渡す。 「何のことはない。こんなとき、おまえはここにいるんじゃないかとそう思っただけだ」 「石神静乃の夢は、ここにあるような本の山に育まれたようなものだろうからな」 大正や昭和初期の純文学作品。石神は人里離れた閉鎖環境で、それらに親しみながら外の世界を想像していたという。 つまりこの場所は、そうした石神の憧れが詰まった宝箱のようなものだろう。こいつが無意識に心の拠り所としていても不思議じゃない。 「そ、そうか。そうだよな……」 「好きなものに感化されやすいというのは、自分でもよく理解しているよ」 居心地悪そうに、いつになく萎縮した様子を見せる石神。 「だからこそ、そんな子供じみた私の憧れが……君たちをこんな形で呼び出してしまったんだしね」 その言葉に、俺は罪悪感めいたものを嗅ぎとった。 結果的にこの事態を収拾させる道具として、かつての柊四四八を始めとする戦真館の仲間たちを顕象させたこと。石神は、そのことを申し訳なく思っているらしい。 「そんなことを気にする必要はないぞ、石神」 だからこいつの気がかりを解消するため、俺は努めて優しく声をかけた。 「むしろ、おまえには感謝している。この充実した日々を与えてくれてありがとうと、改めて心から礼を言う」 原因が何であれ、ここに自分がいるのは俺にとっての生きた現実そのものだ。そして、ここで過ごした日々はとても楽しく張りのあるものだった。 だからこそ、その日々を経て今ここに至った〈俺〉《 、》として……石神の夢である柊四四八として、この生の実感を与えてくれたことには感謝している。 その気持ちに一切の嘘偽りはなかったが…… 「気遣いはとても嬉しいよ。けど、それでも……私のしたことは、君たちに責められるのが当然だと思う」 「だって、その日々を奪ってしまうのも私なんだから」 石神は安堵するどころか、より悲嘆に暮れた様子で消沈している。弱々しい瞳の光は、俺に対する申し訳なさで揺れていた。 「全部が終わったら、四四八くんたちは現実から消えてしまう。小説の登場人物と同じさ。物語が閉じればその人生も同時に終わりを迎えるんだ」 「こうして今確かに生きているみんなに対して、そんな仕打ちが酷いことでなく、何だという……?」 「だから、正直な気持ちで恨んでくれて構わない。労わられると、かえってつらくなってしまうよ」 「……まあ実際、消えてしまうのは確かに怖いさ。まったく平気だとは流石に俺も言えないけどな」 らしくもない自虐に走る石神に苦笑しながら、俺はこいつに答えを返す。 「だが、それを差し引いても今は嬉しいし、誇らしいと思えるんだ」 「それは、いったいどういう……?」 怪訝そうに俺を見つめる石神を前に、俺は説くようにして自分の気持ちを伝えていく。 「おまえは、史実の英雄である柊四四八に憧れていたわけだろう。俺の曽祖父である過去の人物にな」 「だからおまえから好意を向けられるたび、内心複雑な思いをしていたんだよ。当然だろう。それら好意の対象は、今ここにいる俺とは別の柊四四八なんだから」 「しかもおまえ自身、その構図の歪さに気付いていない感じだったしな」 こみ上げる微苦笑と共に、落ち込む石神を見つめる。 「けれど、今は違うぞ。さっきも言ったが、おまえの好意が嬉しいし誇らしい」 なぜなら、すでに真相は明らかになったのだから。ここにいる〈俺〉《 、》が何者なのかという事実と共に。 こいつは自分の偏りを自覚したし、そのうえでこの俺がいる。だから妙な責任を感じてほしくないし、謝罪もいらない。 「今ここにいる俺自身が、おまえが憧れる柊四四八と……夢に描いた理想そのものなんだと分かった今は。だから、素直に気持ちを受け止められる」 そして、確かな俺自身の心から湧いてくる気持ちのまま……目の前にいる石神の両肩を抱き寄せた。 「四四八くん……」 「俺はおまえが好きだよ。男として、その気持ちに応えたいと思っている」 そして真正面からその顔を見つめ、はっきりとそう言い告げた。 「ででっ……でもっ……」 恥ずかしげに赤面し、俺の抱擁に対して身をよじる石神。 散々あれだけ全裸を見せたりしても平気な顔だったというのに、相変わらず妙なところのある奴だ。 「まさかおまえ、この俺の気持ちさえ自分の妄想だと……願望まみれの二次創作だと思っているんじゃないだろうな?」 わざと声に怒りを含ませ、そう言ってやる。慌てたように目を見開く石神。 「流石にそれは違う! いくら私でも、そこまで厚顔無恥じゃない……と思う」 そうきっぱりと言い切ったものの、なぜか次第に声が消え入りかけていく。動揺しているのか混乱しているのか、とにかく一杯一杯な様子が伝わってきた。 「じゃあ、どうするんだ? こっちはもう、自分の気持ちをはっきりと伝えたぞ」 だから次はおまえの番だ――とばかりに、そこで容赦なく言葉を切って相手を見据える。 「う……」 熟れた柿のように真っ赤な頬。目を白黒させていた石神が、ようやく意を決したように口を開いた。 「ウチは、四四八くんのことがぶち好きやけえ……今、死にそうなくらい嬉しいんよ」 そして、一気に吐き出すようにそう言った――いつもとは若干違うイントネーションと言葉遣いで。 「おまえ、それ……広島弁か?」 不意打ちすぎて、一瞬呆けた後で吹き出してしまった。まさかのまさか、忘れていた方言ネタがここで来るとは。 「そういや確か、効果的なタイミングを図るとか言ってたな。つまり、今がその時ってことか?」 「ち、違う! それは断じて違うぞ、四四八くん!」 突然、前にも増して慌てふためき釈明を始める石神。 「今のはつい、ついなんよ。そんな、狙ってやったわけやないけえ。あざといみたいなこと言わんでやあ!」 「どうしよウチ、なんで今広島弁なんか使いよんねえ。こんなんもう、ぶちアホみたいやんかあ!」 まるでパニックに陥ったように、一気呵成にまくしたてる。本人は当然意識していないが、もはや完全に〈広島弁〉《ネイティヴ》モードと化していた。 「気にするな。女の子の方言は可愛いって言ったろ?」 「そ、そうじゃったっけ……」 いつかのように改めてそう言ってやると、石神はようやく落ち着きを取り戻しはじめた。 「それで、黄と戦うに当たってどう出るかだが……」 落ち着いたところで、頭の中で考えていた作戦方針について切り出していく。 「万仙陣を突き崩せるのは石神しかいない。だから作戦としては、とにかく切り札であるおまえを奴の宮殿に突入させるのが唯一にしてそのすべてだ。頼りにしてるぞ?」 そう力づけるように肩を揺さぶり、微笑を向けてみたのだが…… 「…………」 むっとしたように押し黙り、少し拗ねた顔で石神は俺を見ていた。 「どうした、石神?」 「四四八くん、もっとムードっちゅうんを考えてや」 「ここでそんなん言うんは、最悪じゃっち思わんの?」 むしろ、状況としてはそちらの方がそぐわないと思える抗議を向けてくる石神。この非常時に呑気というか、頼もしいというべきか。 「気遣いが足らなくて悪かったな。だったらもう四の五のは言わん。おまえの頑張りを、全力で後押しするだけだ」 そして俺は、こいつの身体をゆっくりと押す。なんで文芸部にそんなものがあるのか知らないが、大方長瀬あたりの計らいだろうベッドの上へと、石神を優しい力で寝かせていった。 「四四八くん……」 「ああ、あと予想以上に可愛かったから、引き続き広島弁で頼む」 機先を制するようにそう言うと、また拗ねた様子を引きずりながら……石神は、横目で俺をちらりと見つめた。 「嫌じゃ……ウチはもう、絶対に四四八の前で広島弁なんか使っちゃらんのじゃけえ」 「四四八くん、私の身体、変じゃないかな……」 「まったく変じゃない。むしろ、感動してるぞ俺」 「そ、そう……。コンプレックスだったけど、今は自分の境遇に感謝したくなっちゃうね」 「どちらかというと、さっきの広島弁が聞けないのが、わりと残念というか……」 「もうっ。それはもうおしまい。四四八くんが欲しくて、頭がおかしくなりそうなんだから」 嬉しいことを言うものだと思いながら、彼女の瞳、それから髪、鍛え抜かれた美しい身体へ目線が奪われてゆく。 制服を着ていてもはっきりと分かる。石神には無駄な贅肉など一つとしてない。 だからこそ、彼女の朧気にも感じる儚さが、言葉にしなくとも伝わってくるのかもしれない。 「遠慮しなくていいよ。思う存分、見たいだけ見てくれ」 「そうでないと、これから脱ぐのも寂しくなってしまうだろう。四四八くんが見てもくれない世界で、服など脱ぐ気にならないから」 「大げさなやつだ」 「それを大げさと言ってくれるのであれば、どうやら自分で思っているようも、君は私のことを見てくれているのかも」 その通りだ。こいつはときどき達観し過ぎたり、また好奇心は旺盛なくせして欲望は控えめで、捉えどころのないときがある。 言葉にしないと伝わらない部分もあるとは思うが、ストレートな台詞のせいで心の底まで伝わってこないこともあるんだ。 そんなことを考えていると、俺はようやく石神静乃という女の子の、心根に張った願いや祈りに触れられた気がした。 「どうする。おっぱいから見たい? それともスカートからたくし上げた方がいいかな」 「少しは身を任せてくれ。ムードってもんを求めてきたのは、石神の方からだろ」 「分かった。私だって女子だから、そういう機微を大切にしたいと思ってるよ」 「四四八くんにすべて任せるよ」 無防備に身体をあずけてくる彼女。 上から下まで視姦するように、彼女の身体をはっきりと目に焼きつけてゆく。 「はぁ……四四八くんに見られてるだけで、身体の芯から熱くなってくる」 汗滲む肌は生温かい。本能の源泉から溢れ出す劣情が、互いの体温を上げてゆく。 彼女の瞳から不安や憂慮は感じられないが、その表情にはどことなく恥じらいが見え隠れしていた。 まだ触れてもいないのに、彼女の肌には後から汗が浮かび上がってきている。 「いいよ……脱がせて欲しい。君の好きなように、好きなところを見ておくれ」 漂う女の匂いが濃厚になってゆき、呼吸する度にくらっとなった。 甘く、それでいて苦みもあるような中毒性。鼻の奥へと忍び込んでくるフェロモンは、眼球の奥をかき混ぜるように刺激する。 「こうして見られるのは、初めてじゃないのに、どうして恥ずかしいんだろう……」 動悸が伝わってくる彼女の身体は、たしかに力がこもっていた。 思わず手を引いてしまいそうになるが、男が怯んでいても仕方ない。 「すんすん……はぁああ、四四八くんの匂いだ」 「君はまだ脱いでないのに……暴力的なくらい、私の中を刺激するんだ」 あまりポジティブな表現じゃなくて気になるが、わざわざ突っ込むほどでもないだろう。 服を脱がしながら、彼女の肌へ指の腹を滑らせてゆく。 「このまま、君の腕の中で死んでしまいたいくらい……」 うっとりと語る瞳は熱っぽい。とはいえ、やっぱり怖いことを言うものだ。 石神の場合、これがムードに流されてつい口走ったという感じじゃないから、より真実味がある。 きっと彼女は本気で、心の底から、そう思っているのだ。死んでしまいたいくらい、柊四四八に抱かれていたいと。 「難しいことは考えず、このまま抱いて欲しい。柊四四八に抱かれることで、石神静乃は至福の時を得られるのだから……」 濡れた乳房の間を、一滴の汗が伝う。舐めたい衝動に駆られたが、それはまだ早い。顔を突っ込むのはまだ先だ。 ゆっくりと制服の下にある可憐な下着へと手をかけてゆく。 「はぁ……はぁ……ま、まるで小さな子が服を脱がされてるみたいだね」 犯罪っぽくなるから止めろ、と言いかけて口をつぐむ。 眼前に広がる真っ白な胸元。目の奥が眩むほどの豊満な双丘が、彼女の歴史を物語っている。 なんと美しい身体なのだろう。磨かれ鍛え抜かれた肉の感触は、期待通りの弾力でこちらの指を押し返してきた。 「ご、ごめんよ。固くて残念だったろう……?」 「私自身、もっと柔らかい方が良かったと思っているのだが、いかんせん幼少期からの日課は染みついてしまっていて……がっかりさせちゃたかな」 などと弁解めいたことを石神は口にする。どうやらこれは思い違いをしているようだ。 石神の身体は、たしかに柔らかさという面では、普通の女の子と比べて違うのかもしれない。けれど、それは良い方向でのことなのだ。 世俗から離れ、ひたすら磨き続けてきた身体。穢れのない環境で、彼女は処女のまま、こうして身をあずけ、こちらの思うがまま衣服を脱いでくれている。 「四四八くん、せめて君が満足できるよう、私の身体は好きにして構わない」 「だから、お願いだ。この瞬間、このときが一秒でも長く感じさせて……」 宣言するように契りを求めてくる。ぴんと立っているようにも見える乳首。 苛酷な訓練は、ここまできめ細かな白皙を作り上げたのだろう。その美しさに誘引されるように、俺は手を伸ばしていった。 「っ、あ……はぁっ……」 「ん……ごめん……つい、声が出てしまって……」 「何をされているわけでもないんだ。少しくらいの刺激は、我慢しないとな……」 軽く素肌に触れただけで、敏感な反応を見せる石神。 こいつはそれを恥じらっている風だが、俺に言わせれば何も気にする事はない。むしろ嬉しいとすら思っている。 自分の手で感じてくれる女の子が、可愛くないわけないのだから。 だが、わざわざ驚かせることもない。なので今度はゆっくりと包み込むように触れていく。 「あ、あ……んんっ……はぁ、っ……」 「優しいんだね、四四八くん……私が、驚いてしまったからか……?」 「はぁ……手、大きい……やっぱり男の子だな、んんっ……」 「くぅ、ん……あ、あ、あぁっ……」 微笑みながら俺に身を預けてくれる石神に、鼓動が高まっていくのを感じる。 そう、これからする行為は不安になるためものじゃないんだ。緊張をしているのなら解してやりたい。 目の前の乳房は、まるで吸いついてくるような柔らかさを有している。俺はそれを徐々に揉みしだく。 「はぁ、ぁっ……! く、ふぅっ……は……あ、んぅっ……!」 「あ……気にしないで、続けてくれ……んっ、ぁ……あぅっ……」 「はぁ……あ、はぁぁっ……私の、身体……熱くなって……自然に声が、ぅんっ……!」 顔を真っ赤に染め、石神は込み上げてくる感覚に身を捩る。 健気に受け入れてくれてるその姿が堪らない。晒け出された乳首はすっかり固くなっており、石神の快感をそのまま表わしているかのようだ。 俺も男だ、その先を自然と求めてしまう── 「ぁ、あっ──」 「……そんなに、見ないでくれないか……? うぅ……」 上目遣いで抗議してくるが、そういうわけにもいかない。俺の目の前には、石神の秘所が遮るものなく露出しているのだから。 下着は脱がされ、薄桃色をした淫唇が隠そうとするたびに形を変える。 先程までの愛撫のためか、しっとりと湿り気を帯びているそこはとても蠱惑的だ。 「触られただけで、こんなになるなんて……恥ずかしい、っ……」 「でも、誤解しないでほしい……君だから……相手が四四八くんだから、私はこうなってるんだぞ……?」 そう告げられて、俺の心は容易く揺り動かされてしまう。 緊張しながらも己の身体を捧げてくれる石神は、月並みな言葉になるが凄く綺麗で……単なる欲情とは違う気持ちが湧いてくるんだ。 それをこいつに伝えるべく、再びそっと触れた。 「ふぁっ……あ、あぁっ……んくぅっ、あ……」 「四四八くんの指が……私のここに、触れて……はぅっ……」 膣口を撫でるようにするたびに、微かな水音が聞こえてくる。 初めての刺激に石神は戸惑いながらも、その表情には艶が浮かんでいる。俺の愛撫を受け入れてくれているのだろう。 「あ、んくぅっ……! な、中に、入れるのか……? っん、はぁ……くふぅっ……」 「動いてる……四四八くんの指、ぐちゅぐちゅって……ぁ、はぁぁっ……!」 石神を傷つけないように細心の注意を払いながら、第二関節の辺りまで指を挿入する。 きついほどに絡みついてくる肉襞へと、そのまま飲み込まれてしまいそうだ。愛液は今や滴るほどで、石神の熱が伝わってくるかのようだ。 これだけ求められては、男として意気に感じるしかないだろう。おまえが俺を欲しているというのなら、容易いことだ捧げてやる。 「ふぁ、あぁっ……んんんっ……はぁ……はぁ……ん、はぁぁっ……」 「もう、待てないよ……はぁっ……ん……四四八くん、来てくれるか……?」 「君と一つになりたいんだ、早く……」 想いの行き場を求めるように、身をくねらせながら石神は告げてくる。 その瞳は熱っぽく俺を──こいつがずっと求めてきた存在を見つめていた。 そして、極上な肢体をこちらの意のままへ預けてくれる。 石神の身体に触れてきて、俺の側の準備はすっかり整っていた。どころか、もう爆発寸前と表してもいいだろう。 こいつに当初あったであろう緊張も、すっかり解れたようで穏やかに微笑んでいる。 「なぁ。四四八くん……不思議だな」 「さっきまで、私はあんなに絶望していたというのに……今ではこうして、幸せに包まれている」 「乗り越えたからこそ、君と寄り添うことが出来たのかな? だとしたら……愚かに思えたいくつもの事も、無駄ではなかったのかもしれないな」 「とても素敵な日々だったと、今なら胸を張って言えるよ」 ああ、そうだな。 この夢を見ないことも、もしかしたら出来たのかもしれない。そうすれば、余計なことは起こらなかったはずだから。 しかし、それがゆえに俺たちは出会えた。 無駄じゃないし、後悔もさせない。悪夢となるか、素晴らしい思い出に変わるのかを決めるのは今これからなのだから。 石神の頭を軽く撫でて、すっかり濡れそぼった秘所に俺の先端を宛がう。 身体の力がすっかり抜けきったところを見計らって、俺は開かれた彼女の中へゆっくりと潜り込んでいった。 「はぁあああああん……、あ、あぁっ……んくぅうううう……!」 「こ、これが男の子の……っ」 練磨を重ねたその身体が、初めて男に開かれる。 きっとそれは石神の中で、どこよりも柔らかく手つかずだった部分だろう。そんな場所へ初めて達する栄誉を貰えたというのは、男冥利に尽きるというものだ。 「あっあっあっあ、ま、まだ奥へ入ってくるんだ……んくぅううっ……!」 「はぁ……はぁ……だ、大丈夫……く、ぅっ……んんっ……」 「あはは……これで、本当に私は四四八くんと結ばれたんだね……」 膣内の締めつけは言語にし難いほどの快感だった。強烈な圧を伴って絡みついてくるそれは、俺を求めてくれる気持ちの表われだろうか。 石神は目にうっすらと涙を浮かべ、破瓜の痛みを堪えている。 初めて男のペニスがが自分の中へと入ってきたんだ、きつくない筈はないだろう。 「す、すまない……本当は、挿れた瞬間から動きたいはずだよね……」 「んんっ……そういうのは、ちゃんと、親父殿から聞いてあるんだ……」 あの親父は一体、何を娘に教えているんだ。 彼女は肺腑のさらに奥から息を吐き出すかの如く、深呼吸をしている。 「はぁ……は、あぁっ……やっぱり、少しだけ痛い、かなっ……」 「四四八くんのものが、立派な証だね」 健気にもそう言ってくれる石神。どうにかしてやりたいが、俺に出来ることといえば、こうして極力動かず慣れるまで待っていてやることだけだ。 やがて汗を浮かべながも、石神は呼吸を徐々に整えていった。 「……ん。大分、楽になってきたよ……ありがとう」 「こうして考えると、男にとっては処女など面倒でしかないのだろうね」 「いつまで生娘でいるつもりだと、親父殿が気にしてたのも理解出来る」 ……本当どういう教育をしているんだ、あの親父は。今度会ったら、色々と思い知らせてやろうと誓う俺である。 むしろ、男にとっては石神の処女を知ってるというだけで、胸の奥から込み上げてくる思いもあるというのに。 「もう、大丈夫……動いてくれ、四四八くん」 「私の身体を、気遣ってくれたのだろう……? いつまでもそれじゃ、さすがに悪い」 「好きにしてほしいんだ……憧れの君の、全てを受け止めたいんだから」 石神は俺を見上げてそう告げる。 同時、膣襞をぎゅっと締めつけられた気がした。気持ちと身体は繋がっているのだと、当たり前のことながら実感する。 同じだよ、石神。俺も全てを伝えたい。 まだ痛みの残っていそうなこいつの身体に決して負担を掛けぬよう、ゆっくりと俺は抽送を始めた。 「は……あ、あぁっ……んぅ、っ……はぁっ、あ……」 「くぅっ……あ、ぅ……深いぃ……く、ぅんっ……あ……んんっ」 「あ、あ……あぁっ……!」 石神は時折眦を歪めるも、先ほどまでと比べ少しずつ慣れてきたようだ。 すでに充分に濡れてはいたものの、今や愛液は互いの脚を伝うほどに溢れている。 一つ突くごとに水音が鳴って、それが興奮を高めていく。 「はぁ……はぁ……四四八くんは、やっぱり優しいな……んんっ……」 「嬉しいよ。今、二人でこうしていられるのが……」 「私だって、女の子だ……好きな人と愛を確かめあうことに、ずっと憧れていたんだよ」 そう言って、石神は俺に回した手に力を込めてきた。 ああ、知っている。そして俺も、誰よりも魅力的な女だと思っているからこそこうしてるんだ。 出会った頃はいろいろあったが、だからこそ今がある──様々な思いを抱えながら、互いの身体を求めていく。 「はぅっ……ん、あぁっ、あぅっ……や、ぁ……はぁっ……」 「ふぁっ、あっ……んんっ……ん……あ、あぁっ……!」 俺の動きに合わせるように、石神が腰をゆっくりと前後させ始める。 同期させることによって、肉襞の奧の深いところまでペニスが侵入していき、倍加したかのような快感が襲い来る。 「四四八くんも、気持ちよくなってくれてるかな……?」 「どうしたんだろう……私、身体が熱いんだ……んっ……あ、あぁっ……」 「まるで、繋がってるところから、溶けてしまいそうに……こんなの可笑しいよね、初めてなのに」 その表情からは緊張の色はすでに消え、陶然としたものを漂わせている。 頬を赤らめ、恥じらいながらも身動く石神。それを見て、俺は素直に可愛いと思う。 求めてくれて嬉しくない男など、この世にいようはずもないのだから。 俺はセックスの快感に耽溺しながらも、無防備に晒されている乳首へと手を伸ばした。 「あ、あ、四四八くん……んっ、ふぁぁっ……!」 「そこ、乳首っ……気持ちいい……く、ぅんっ……」 「捏ねられると、意識、とんじゃいそうで……ぁんっ……あ、あぁっ!」 いささか荒々しく弄られ、すっかり固くなった乳首を俺は摘む。 揺れる胸が正面に見え、あられもない石神の姿に興奮してしまう。 心も、身体も、こいつの全てが欲しいと思ってしまうんだ。 「ふぁっ、くぅ……あっ……はぅ……んっ、あぁっ、んんっ……!」 「奧まで、届いてる……ぁん……はっ、あぁっ……」 「くふぅっ……あっ、んぁっ……や、あ……はぅぅっ……!」 肉襞とペニスを摩擦させながら、俺は石神の中を深く突いていく。 無論、痛がるようなら止めようと思っていた。しかし、石神はより奧へと誘導するかのようにしがみついてくる。 「あ、あ、あぁっ……大きい、っ……はぁぁっ!」 「いっぱいに、満たされて……これじゃ、君の形を覚え込んでしまうっ……」 気を抜いたら持って行かれてしまいそうなほど、石神の膣襞は強烈に締めつけてくる。 石神にとってこれは初めての体験であり、ゆえにの感覚ということだろう。そして、千切られそうな圧力は快感へと転じて俺の精を搾り取ろうとする。 「んぁっ、くぅ……あ、はぁっ……嬉しいんだ、君のものになることが……んんっ!」 「遠慮なんてしなくていい、もっと来て……んっ……くっ、ぅん……!」 貪るように腰を揺すりながら、石神は俺を誘惑してくる。 まったく、いい度胸じゃないか。ならばこっちも男として、全力で応えねばならんだろう── 「ふあぁっ! ん、ぁ……はぁっ、あ……はぁぁっ……!」 ペニスを一息で奧まで捻り入れる。熱い柔肉の奧にある子宮口をノックされ、石神はその身を大きく震わせた。 断続的に極上の快感を与えられ、俺もすっかり抑えが効かなくなっている。休むことなく律動を続け、石神の膣内を蹂躙する。 「あ、あ、あぁぁー……四四八くん……よし、やくんっ……」 「いい、気持ちいいよ………はっ……んんっ……どうにか、なっちゃいそうなくらいっ……」 「んぅぅっ……は、ぁっ……あっ、あぁぁっ! くぅぅっ、んっ、んんんっ!」 身体の最奥を突かれ続け、石神は限界近くまで高まっているのだろう。刺激を与えられるたびに嬌声を響かせている。 それは体温にも表われており、今や膣内は火傷してしまうのではと思うほどに熱くなっていた。 今や互いに乱れている。打ちつけあい、与えながらにして求め合っているんだ。 「はぁ、ぁぁっ……私……どう、したんだろう……んぅっ……」 「こうして繋がって……幸せ、過ぎるはずなのに……四四八くんが、もっと欲しい……」 「もっと、もっと……何もかも……あ、あぁっ……くふぅっ……!」 俺の背に爪を立てんばかりに力を込めて、石神はそう告げてくる。 何も心配することはないさ、俺が必ず導いてやる。 おまえと二人、笑い合える結末へと──何があっても進むのだから。 抽送のペースは留まることなく速まっていく。もはや互いの全てが混ざり合い、どっちがどっちのものかも分からない。 「はっ、あぁっ……ふあぁぁぁ……はぅ……ん、ぁぁ……」 「あぅっ……んんっ……あ、あぁっ……! く、ぅっ……んんっ!」 石神は無心に腰を叩きつけ、俺の全てを余さず貪ろうとする。 いいぞ、その挑戦受けて立つ。俺とておまえに見込まれた男だという自負があるから、そのくらいでは屈せない。 そして、互いの気持ちをぶつけ合ってどのくらいになっただろう──ついに限界は訪れる。 「あ、あぁぁっ……いっ、イク……イっちゃう……んぅ、あ、あぁぁっ……あっ、ああぁっ……!」 「四四八くん、一緒に……ん、んんっ……一緒にぃっ……!」 オルガスムスを迎えつつある肉襞の収縮は一層激しくなり、俺は石神の手を握ってそれに応える。 やがて俺の全身にも射精衝動が走り抜け、そして── 「んぁっ……あ、あぁっ! あ、あぁっ、あああああぁぁぁぁぁぁっ──!」 熱を帯びた膣壁が強烈に締まって、石神はその身を激しく痙攣させた。 まったく同時に俺も限界に至り、己の欲望を石神の奧へと吐き出していく。 絶頂に達した後も石神の秘所は蠢きを続けており、それはまるでもっとと求めているかのようだった。 「ん、ぅっ……はぁぁっ……はぁ……はぁっ……あ……」 「四四八くん……本当に、ありがとう……はぁっ……ん、んんっ……」 身体を小刻みに震わせながらもそう言ってくれる石神に、抑えきれない喜びが湧き上がってくるのを感じる。 感謝するのは俺の方だ。おまえはこれほどまでに、自分の気持ちを晒してくれたんだから。 そう、ならば次に奮起するのは俺の番だろう。 この微睡みの後に待つであろう戦いに、しばし思いを馳せていると── 「ふふ……もう、先のことを考えているのかい?」 どこか穏やかな微笑みを浮かべて、石神が甘えるように言ってくる。 「たしかに、君のそういうところを好きになったんだけどな。でも今は、私だけを見ててくれてもいいだろう」 「なにしろ、処女を捧げたのだからな。ほら、あるだろう? 余韻とか」 行為の火照りが未だ覚めやらぬ様子の石神に指摘されて、ああそうだなと自省する。 たしかに、焦ることはなにもない──これは休息でもあるが、決して余興なんかじゃない。俺たちにとって欠かせず必要なものなんだから。 ならばとばかり、俺は石神を腕の中に抱いた。大切な女の子の、柔らかい香りが漂ってくる。 「四四八くん。さては君、私にどきどきしているな……? こうしていると、鼓動がよく聞こえるよ」 「ふふっ、私と一緒なんだな……嬉しい」 そんなことを悪戯っぽく言う石神。まあ、この体勢になってしまうとその辺隠しようがない。 俺も笑みを返す。もちろん、本音を見抜かれたという照れだけじゃない。 心を通じ合わせた相棒を得ることが出来たという喜びが、自然と表情を綻ばせるんだ。 「ああ──私は、とっても幸せだ」 「好きだよ、四四八くん」 胸の内から見上げるようにして、石神はそう告げてくる。 互いの体温を感じあいながら、俺たちは暫しの時を過ごすのだった。 思い出の残る校舎、その廊下を歩きながら……俺は記憶を共有する面影を思い浮かべる。 俺が今、会いたいと思う相手を求めて。足はいつしか、その場所へと向かっていた。 「ここにいたか、世良」 「うん。改めて校舎をちゃんと見たくてね」 校庭で、一人千信館を眺めていた世良と俺は合流した。 「全体を見るためには距離を置いて離れるべきなんだなあ、とか。真実も同じで一歩引かないと見えないのかもうんたら~、なんて、哲学っぽく一人唸っていたところ」 「ふふん、どう? なんだか物憂げな姿にキュンとしちゃったり?」 「そうだな、改めて色々考えたあげくに悶々とするタイプだなとは思ったよ」 「ぶー、つれない男もどうかと思いまーす」 軽口。それはいつもどおりのやり取りで、ゆえに無粋かもしれないが訊いておこう。 「身体の調子はどうだ?」 こいつは溜め込む癖があるから、一度消えた状態から石神に再構築されてここにあるという現状に、なんらかの不如意を感じてはいないかと。 それは身体的な面もそうだし、感情的な問題もある。だが世良は、陰りのない様子で答えてくれた。 「なんだかまだ実感はないけど、記憶的な意味でも変な感じだね。集大成というか、自分がそのまま総集編になったような気分かな」 「けど、全然悪いものじゃない。だから静乃が罪悪感を感じてなければいいけれど、さすがにね」 「結局あいつには、とても重い決断と責任を課すことになったからな。ある意味ではこっちの方が気楽なものだ」 裏心なく石神を案じている世良の気持ちが伝わってきたので、俺も素直なところを口にした。 そう、いつか自分で言ったことだ。ヒーローが現れないなら、俺たちがヒーローになればいい。 俺たちは石神のヒーローとして、自らの役目を果たすのみ。そこについての覚悟はあるし、これは自分の意志で決めたことだ。 なのであいつに余計な責任を感じてもらいたくはないのだが、そこは難しい問題なのも分かっている。 「だから俺たちは、石神を全力でサポートするぞ」 「だね。最後まで千信館らしく」 あいつが、見事本懐を果たせるように。俺たちはその援護に徹するという形で信頼の表明をしようと思う。 ということで話は纏まったのだが、世良は一転して意地悪げな顔をしつつ俺を見てきた。 「けどまあ、やっぱり静乃は柊くんの好みだったよねえ。ばしっとしてて潔い子がそんなに好みでございますか」 「おい」 「だってさー、いいなー、ずるいなー、こんなに想ってもらえてさー」 そりゃまあ、あいつは誰かさんみたいに面倒くさいタイプじゃないし。 と思ったが、さすがにそれは口に出来ない。返答に困っている俺を前に、世良はまだぐじぐじ言ってる。 「あいつのためにも俺たちみんなで頑張ろうぜ、だってさ。ああ羨ましい、私も一度は誰かさんにそんなことを言われたりしたかったのに……ちらちら」 「おまえな、さっきの誓いは何だったんだよ」 「それはそれ、これはこれ。女心は複雑なの」 「だからほら、こういうときには恒例の──えいっ」 言って、世良は俺を押し、そのまま何をするのかと思いきや…… 「…………またこれか」 「いいじゃん。癖になったんだもん」 曰くストレス解消……だったか確か? とにかく再び、俺の膝をこいつは占領するのだった。 「また一人ライバル増えたみたいだし、これくらいはね」 「誰だよ」 「ヘル」 はん? 意味の分からないタイミングで思いも寄らぬ人物の名を出され、俺はぽかんとしてしまう。 ヘル、ヘル……つまりクリームヒルトか? あいつがなんだっていうんだよ。 今の俺たちにはヘルと手を組んだときの記憶もあるから、まったく突拍子もない会話の流れというわけでもない。以前と違い、あいつがどういう人間かは多少なりとも知っている。 だが、ライバルってなんだそれ? 困惑する俺を他所に、世良は微妙に拗ねた感じで話し始めた。 それはこいつが、この現実でヘルと一騎打ちしたときの話。 「あのときごちゃごちゃやったこと、今になってなんか分かっちゃったんだよね」 「どうして私を選んだのか。盧生の彼女が眷属である私のことを対等なんだと見なしたか」 「あれ、きっと〈邯鄲〉《ユメ》の中で一度も選ばれていないという選定基準なんだよたぶん。それはそれで腹立つけど」 選ばれる? 誰に? などというのは愚問だった。なぜなら俺は柊四四八で、甘粕事件におけるすべてのことを記憶している。 邯鄲の八層に至るための周回で、俺は晶と、歩美と、そして我堂と…… だが、目の前のこいつとだけは…… 「ヘルは柊くんのことが好きだから、女の勝負がしたかったの」 「おいやめろ、ゾッとすること言うな」 だから世良の言わんとすることは分かったのだが、そこに〈ヘル〉《あれ》が入ってくる理屈はまったくもって分からなかった。 というか、本気で引いた。 なぜならおまえ、だってあれだぞ? あいつはやばいだろ色々と。 女の勘ってやつを侮るつもりは全然ないけど、ヘルが俺を好きとかおまえ、いくらなんでも飛躍がすぎる。 「あいつが? ない、絶対にないだろそれは。というか、恐ろしすぎるぞ嫌がらせかよ」 「ありゃま、パツキンの軍人ねーちゃんは好みじゃないんですかい旦那」 「たわけ、あれはメスゴリラというんだ」 こいつ筆頭に、癖のある女は色々と知ってるが、ヘルはその中でもとびっきりだ。むしろ女というカテゴリーにすら入れたくない。 「あんな物騒極まる女を俺は他に一人も知らん。理路整然としすぎているから馬鹿になった手の付けられない大馬鹿者だろ。性格的にも極端すぎて、正直色々引くんだよ」 あとは物理的にも甚だしく危険な奴だ。直にやり合ったならこいつも当然分かっているだろうが、あいつは白兵の化け物だぞ。 邯鄲の夢という術の要素、盧生という特権的立場を排除した素の状態で見た限り、おそらく最強はヘルだろう。技量の面では世良やかつての幽雫宗冬に劣るかもしれないが、純粋なパワー、身体能力、そういう強さはもはや人の規格を逸脱している。だからあれはメスゴリラだ。 キーラのような、ある種の改造人間というわけでもない。生まれつき何かが違っている別人種だ。正確なところは不明だが、いわゆるミオスタチンなんとかというやつではないかと思っている。 凄まじい大食らいだし、なのに栄養が脳にいってないんじゃないかと思うほど馬鹿だし、とにかくそんなこんなであれはない。断固ない。 と、俺は思っているというのに…… 「だからそれって、やっぱり柊くんの好みってことじゃん」 こいつはまったくこっちの話を聞こうとせず、むしろ楽しそうにしているのだから手に負えなかった。 「一直線で、堂々として、なのにどこか抜けていて。ちょっと静乃にも似てるよね」 「もう勘弁してくれ」 ゆえに完全なお手上げだった。とにかくこの話はやめてくれと、降参の意を示すしか出来ない。 それに世良は、くすりと微笑み。 「でもこうやって私のところに来てくれたっていうのはさ、そういうことでいいんだよね?」 〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》……つまり、ああ、確かにそれはそのとおり。 「今このときに限って私を選んでくれたことは、決して嘘じゃないんでしょ?」 「私たちは夢だけど、それでもこの一瞬は紛れもない現実なんだから」 史実の柊四四八は、結局誰を選んだのか分からない。俺にそこまでの記憶はない。 だけど〈今〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈は〉《 、》、一つの答えを出しているのだ。 それは誰のものでもない。俺が導き出した〈現実〉《マコト》だと思うから。 「まあ、そうだな」 答えて、だが恥ずかしかったのでそっぽを向きつつ頷いた。すると―― 「おっ、照れてるなこの。うりうり」 「って、お、おお……」 ごろごろと膝の上で頭を揺する世良が、不意に驚いた感じで硬直していた。 「…………なんだよ」 「…………えっと、うん」 「なんか今一つ締まらないけど……責任、とってあげよっか?」 あん? ちょっと意味が分からない。というのはすまん嘘だ。正しくは軽く現実逃避したくなってる。 だってほら、仕方ないだろ。恥ずかしいことを言われて、言って、そのうえこいつが妙なところを刺激してくるもんだから…… 男の生理現象ってやつが、ああもう! 赤面して悶絶を堪える俺の無言を、世良は肯定と取ったらしく。 「それじゃあ、息子さんにご対面っと。おじゃましまーす」 「エロ親父か」 ノリノリかよこいつ。 まったく、確かに締まらない感じだったが、俺も込み上げる衝動に抗うことは出来なかった。 グラウンドの芝生から照らされる優しい月光。 世良は見た目よりも、ずっとリラックスして俺の膝へ頭を置いているように見えた。 それはきっとこの態勢が好きなのだろう。この膝枕という非日常が。 「こうして柊くんの身体を好きにさせてもらうの、恒例になってきた感じだね」 「表現がおかしい。好きにさせるんじゃなくて、ただ膝を貸してるだけだろ」 「ふふ、素直じゃないんだから。見ただけで分かるし、近くだからはっきりと感じてるよ。少し固くなってる」 「それは気のせいだ。まだそこまでじゃない……完全になるまでは、もう少し時間がかかる」 「あ、否定はしないんだ?」 「そこまで朴念仁でもないし、淡白な男じゃないぞ」 「ありがとう。柊くんがそう言ってくれるだけで、私すごく嬉しいよ」 口調からは、恥ずかしさと共に純粋に嬉しそうな響きも感じられた。 この体勢だと、世良のスタイルの良さがはっきりと分かる。 くびれた腰や、真っ白く眩しい脚。性格とは反対に主張している胸囲は、彼女がしゃべったり息を吐いたりするだけで、蠱惑的に動いていた。 「こんなふうに近く感じられるなんて、裸になるよりエッチな感じがする」 頬を染め、淫靡な視線を注いでくる。見つめられる方としては落ち着かないものだ。 彼女の視線の先には固くなりつつあるペニスが待ち構え、竿へ沿うようにして目線を上げてくる。 上目遣いの中に、妖しげな色が見え隠れする。直接的な言葉にするとつまらない。俺たちは愛撫しあうように語り合い、やがて世良が自らの制服へと指をかけた。 「ずっと、ここ見てるでしょ。もっと奥のところ見たい?」 股間に顔を寄せて囁いてくる。柔らかな頬の側で、男根が硬度を増してゆく。 「この態勢のままだと、身体を見せながら口でしちゃいたくなるね」 熱のこもる言葉に気圧されるようだ。 「はぁ……っ、すごい。これが、入ってくるなんて。それにどんどん大きくなる。ちょっとしか触ってないのに……」 胸元を露出させながら、反対側の指で陰茎をつつくと、ぞくぞくとしたものが背中を駆け抜けた。 脈動を早くなり、陰部に血が集まってゆく。痙攣とともに、固く隆起してしまう。 「はぁ……、んんっ……これが勃起なんだね」 囁くたびに熱い吐息が鈴口にかかる。意図せずか淫猥な言葉が吐かれ、ペニスはより敏感に反応して昂ぶり始める。 半開きに空いた唇が、今までに見たことのないくらい淫らだった。 「どう、もう始めちゃう?」 最初は小さかった愛撫が徐々に大胆となってゆく。まだ咥えることはできなくとも、ペニスを包み込むように、優しく指で擦り上げてくる。 そのたびに、じわりと汗を滲ませていく目の前の谷間。濃密な香りが鼻腔をくすぐり、それがさらに下半身を滾らせる。 「ふぁ……んふっ。ビクビクしてるね。ここかな……?」 「それとも、先っぽじゃなくて、根本の方が気持ちよかったりする?」 ズボンの中では、はっきりと滲み出る先走りの汁。まるでその味を知っているかのように、彼女は刺激を繰り返す。 与えられる愛撫に対抗して、肉棒の怒張もまた破裂しそうなくらい膨らんでいった。 「あっ……すごい、こんなに大きくなってきた。びくびくしてるよ」 陽物はされるがまま、鈴口からは先走りの液が零れだして止まらない。 「んっ……感じてるね。今より気持ち良くするには口でするしかないのかも」 などと楽しそうに言う。 「はぁはぁ……んんっ。服越しでも伝わってくるね。熱い……こんなの咥えたら、私の舌と唇、火傷しちゃうんじゃないかな」 「かたくて立派な柊くん。どんなえっちな味がするんだろう」 雁首を引っかけるように指で挟み、激しく擦られる。 絶妙な感触に腰のあたりの感覚が敏感になってゆき、すると俺の反応を伺ったように、彼女は緩めて触れてきた。 「うん。そろそろだね。これ以上、焦らしたら意地悪になっちゃう」 「柊くん、いっぱい気持ちよくなって。貴方が、私のことを忘れられないように……もう私だけが寂しいのは嫌だもん」 誰よりも頼りになる世良という存在。なんでも出来るくせに、どこまでも健気な女の子。そんな彼女と、ようやくこうして結ばれようとしている。 儚くも物欲しげな目が潤み、淫猥な台詞となって押し寄せては消えてゆくようで、俺は我慢できずにそっと腰を突き出した。 「はぁあああああん……すごいよ。これ、見てるだけで、私濡れちゃうかも」 亀頭のくびれを舐めまわそうと、小さな舌が伸びてくる。 「えへへ、膝枕だったのに、ちょっと照れちゃうね……はんむっ……ちゅ……れろ……んんっ」 ペニスを包み込む温かい世良の口内で、血流が迸る男根がビクンビクンと揺れている。腰のあたりから、じわりじわりと痺れて上がってくるのだ。 舌は淫靡に亀頭に巻きつき、さらに彼女は唇で陰嚢をいじってくる。 ぱくぱくと袋をつまみ、竿を咥えたままの吐息が、こちらの身体を浮かすように刺激を与えてくる。 こちらの咽せるような性臭を肺いっぱいに満たし、彼女は恍惚と言った様子でなぞり上げた。 「ちゅぴっ、んっんっんっんっ、少ししょっぱい味がするね」 「ぷはっ……はぁはぁ、ちゅるぅっ……ちゅぶっ、ぷぶっ、美味しいよ柊くんの……」 「私の舌、気持ちいい? んっ、ちゅぷ……ちゅるうぅうううううううっ」 吸い上げるとき、彼女はそれまでよりも深く口に入れた。尖端が咽につくんじゃないかというくらいの深さだ。 同時に蕩けた視線で見上げてくる。うっとりと理性が薄くなり始めているのか、予想以上に大胆な愛撫を見せてくれた。 世良の口淫は、その姿だけでこちらの劣情を煽ってくる。 「ここにキスマークつけちゃおうかな……ちゅっ、ちゅうぅううううう」 亀頭に吸いつくようなキス。それは本気でキスマークをつけるために口づけだった。 あまりに情熱的なキスで、意識が真っ白になりかける。 上唇と下唇が激しく食い込み、歯が雁首にぶつかると痙攣するような刺激が奔った。 「あっ、ごめんね……激しすぎたかな、これくらいなら、気持ちいい……? ちゅぅ、ちゅっちゅっちゅ」 本音を言うと、激しいほど快感は強いが、こういうフレンチなキスも気持ち良かった。 ついばむように口づけ。鈴口へ時折、舌が触れては離れて、いやらしい糸を引く。 際限なく熱を帯び、硬度を増してゆくペニスへ、世良はそっと頬ずりをして言う。 「柊くんが幸せなこと、すべてしてあげたい。なんだか、今ようやく私のターンが来たって感じがしてるの」 「ずっと待ってたんだ……こうして結ばれるの。エッチなことして、それから二人で抱き合って眠って……」 微笑む世良の頭を撫でると、無性に愛しくて胸が熱くなってくる。 たしかに俺も、こうなることをずっと望み、そしていつかはと諦めずに待っていたのかもしれない。 「柊くんがヘトヘトになっちゃうくらい、頑張っちゃうね……あむぅ、んちゅうぅ」 「はぁはぁ……んちゅっ、ちゅるぅうううううっ、るりゅ、ちゅぶっ……ちゅるっ」 「あふぅ、んんっ……おつゆ、濃くなってきたね。匂いもすごいよ?」 股間に顔をうずめて、口内でしごいてくれる姿は、妙にそそるものがある。 とくに世良のような完全無欠のような女にしてもらうのは、それだけで興奮するものがあった。 しかし、そんな俺よりもずっと、彼女は高まっているようだった。 「ちゅぱっ、……じゅるぅんっ、ちゅううううぅっ、れりゅぅっ、るちゅぅっ!」 「ふぁああんっ……、素敵だよ。本当に幸せ。だから、この味を忘れないようにしないとだね」 半開きにした唇で、ぐっぽぐっぽと音を立て責めてくる。 「ふむぅ……ぐっぽ……っ、ぐっぽ! じゅるぅっ……れろれろっ! ぐぽっぐぽっ……ちゅるっ」 「れろぉっ……じゅるっ、ぷぶっじゅぷっ……じゅっぷっ! ちゅるぅうううっ」 「ぐっぽぐっぽ…れろれろれろっ……ちゅっ、ぷぶっ!」 巻きつくような舌技で、程よく締めつけられ、さらにはこちらの反応の仔細を彼女は把握しているようでもあった。 おそらくうっかり果ててしまわないよう、コントロールしているのだろう。 こういうところで、同年代では希有であろう大人っぽい気遣いや優しさに、俺は感じ入ってしまうのだ。 「ちゅぱぁっ……、じゅるぅっ! はぁはぁ……じゅっぷっ! ぐっぷぐっぷっ」 陰毛に唾液が落ちるたび、濃厚な性臭が立ち込める。 鼻腔から入ってきた匂いにくらっとしてしまい、思わず射精したい衝動に駆られたが、それでも彼女は敏感に感じ取って、愛撫を緩める。 すごいな。こんな風に隅から隅まで見透かされたように口淫されては、俺の性癖はもう彼女次第といった感じになるかもしれない。 「先っぽのところと、傘になってるところ、どっちが気持ちいいかな。舐めるとね、それぞれ違うんだよ?」 「先っぽの方が味が濃くて、傘の裏側は匂いが強いの……ふふ、私はどっちも好きだなあ」 「柊くんの大事なところだもん。舐めてるだけで幸せなの」 後から止めどなく出てくる精液を残さず舐めとられてしまう。 彼女の言う通り、匂いも粘り気もかなり濃くなってきているだろうから、そうそう飲み込んだりする行為は簡単じゃないだろうに。 けど世良は、まるで噛んで確かめるように、また匂いを堪能しながら飲み干すように舐め取っていくのだ。 「ちゅぱっ! じゅるぅっ……ひゃぁん! じゅるぅううううっ……ちゅっ、ちゅっ、ちゅうぅっ! ちゅるうぅううう!」 「はんむっ……れろちゅっ! ちゅぶっ! ぐっぷぐっぷ! じゅるぅっ!」 一気に溢れ出す精液を、まるで至福の如く啜るかのよう。 「柊くんの子種、一滴だってこぼしたくないもの……ちゅぅうううううう!」 吐き出させるようにして陰嚢を優しく揉み、言葉通り一滴残さず彼女はごくりと飲んでゆく。 鈴口を舌でさすり、亀頭は転がされていく。後から溢れる精液をじゅるりと吸い取っては、頬を染めてうっとりと夢中に奉仕を続けてくれた。 「はぁはぁ……っ、ちゅるぅっ、じゅぷっぅ……ちゅっ! ちゅぱっ!」 「じゅるるぅっ! れろれろれろ……っむちゅっ、はむぅ……、じゅぷっじゅっぷ! じゅるっ、じゅるるうううぅぅ、ぐぽっ!」 耳まで犯すような口淫の音だ。まるで遠慮のない行為は、視覚からも聴覚からも、隙あらばといった感じで、こちらの理性を焼き切ろうとする。 揺蕩う劣情を堪え、視線をわずかに落とすと世良は嬉しそうに微笑んだ。 「んむっ……ぷはっ、うん、いいよ。柊くんは我慢なんてしなくていいの。私の口の中にすべて吐き出して……」 そう告げると、彼女の舌と唇の動きは一気に激しさを増した。 肉棒は激しくしごかれ、根本から先天まで余すところなく、彼女の口によって染め上げられた。 「……じゅぷぅっ! じゅるっ、ちゅるっ! じゅぽっ、ぐっぽぐっぽぐっぽ……ぐぷっ! ぷぶぅっ!」 「はむんぅちゅっ、ちゅぱっ! ぷはぁ……んんっ……、るちゅっ、ちゅぶ……じゅるじゅるぅぅ!」 精液が上ってくる。実際は刺激など与えられていないのに、彼女による愛撫は、前立腺と呼ばれるところにまで響いてくるかのようだった。 甘く疼いてしかたのない陰茎の中を、押し流されるような、洪水の如き劣情が迸ってくる。亀頭が破裂しそうなくらい、濃厚な精液を感じた―― 「はぁはぁ……ぶるんってしながら、どんどん膨らんでるよ。ぞくぞくしちゃう……うん、好きなときでいいから」 「柊くんのイクところ、私に見せて……っ」 そして、彼女は最後のとどめをささんとばかりに、唇で吸いついて吸い上げたのだ。 「ちゅるぅううううっ! ぐっぽっぐっぽ……、はむぅ……れろっ! ……ちゅぅうううううううっ! じゅぷっ……ちゅる……っ」 「じゅるるぅうううううううううううーーーーッ」 噴出する射精音。まるで自分の身体ではないような錯覚さえ覚えるくらい、圧倒的な吐精だった。鼓膜を震わす音だけでも、淫猥で眩暈がするくらいである。 そして、世良は吐き出した後でも、最後まで吸い出すように、口技を続けていた。 「じゅるるるぅっ……はむぅちゅ、くぷぅっ、ちゅるっ……ちゅっ! れろれろっ」 口の休むことなく刺激は与え続けられ、尿道にはまったく何も残らないほどに、彼女は吸い上げてしまった。 「むふぅっ……ふぅっ……ちゅるるるるうううっ……ちゅぅぅぅ……ぷはっ」 まもなく脱力してゆく俺の陰部から、口を離した彼女は唇の端を拭った。 「はぁはぁっ……ふぅ、ごちそうさま。びっくりするくらい出たね」 「噛みきれないくらい、濃いのをたっぷり……素敵だったよ」 わずかに指へ残っていた精液をこねては、それすらもぺろりと舐め取ってしまう。 彼女の徹底した奉仕に、俺は言葉で返すことはできなかった。 「……ね、そしたら、そろそろしよっか……?」 「今のよりも、もっと濃いのを、ここで感じたいから――」 彼女は自らの下腹部へ手をあてて、うっとりと願い出る。 当然、断る理由も意味もなく、俺は再び火の点いた獣欲へ身を任せていった。 「ひゃあああああああああぁっ! 入ってきてる」 挿れた途端、喜びの嬌声といった叫びが降ってきた。 導かれていったペニスは、自重でいささかの躊躇もなく彼女へ突き刺さっている。いや、貫くと言っても過言ではないほど、世良の身体の奥深くへと差し込まれている。 絡みついてくる粘膜を食い荒らすかのよう。肉壁は総毛立つようにして、男根を受け入れ、そして締めつけている。 そして、騎乗位という態勢のせいか、亀頭はしっかりと子宮口へと辿りついていた。 「……はぁはぁ、奥まで挿れちゃうと、息もできなくなっちゃいそうなくらい、お腹の中いっぱいになるんだね」 「不思議な感じ。苦しいけど気持ちいいな……っ」 彼女が呼吸をするだけで、子宮にぶちあたっている鈴口が、絨毛で擦られる。 密着し過ぎるがゆえに、こちらに余裕など微塵もない。気を抜くとすぐに持っていかれそうだ。 未だ擦れていない粘膜同士の結合は、俺たちへ予想以上の刺激を与えている。世良も懸命に堪えているようだ。 「じんじん痺れちゃうけど、痛気持ちいいって感じだね、これ……」 「柊くんのがもう少し小さなかったら、私の方に余裕があって、リードもできたのかな……?」 変なことを言い出す奴だ。けど性格的に頷ける部分もある。 彼女の真意には決して主導権を握りたいなどという願望はない。とにかく健気な女である。こういうことを言うときは、必ず相手への労りが裏にあった。 可能ならば、俺はまったくのマグロ状態でいいから、とにかく尽くして気持ち良くさせたいなどと思っているのだ。きっと、こいつは。 そんな風に考えさせてしまう自分に軽く腹が立ち、少しばかり揺すって突き上げた。 「ふわあぁあああ、はうっ! うごくと、ふかく刺さって……ひゃあああっ」 「ぎちぎちになって、身動き取れない動物みたいになっちゃう――」 執拗に締めつけてくるヴァギナの中が、奇跡のように心地がいい。 すでにとろりと垂れてきている彼女の愛液は、肉棒の先走りとも混ざり合り、濃厚な性臭をあたりに立ち込めさせている。 愛蜜によってしとどに濡れ、こんなにも苦しいくらいなのに、びっくりするくらいスムーズに滑ってくれる。 舌を絡ませ合う口づけのように、結合部は涎を垂らして、今か今かと待ち構えていた。 「う、動きたくなっちゃうね……柊くんはどう? もう動いても大丈夫かな」 やはり彼女は、自らの性欲のまま腰をくねらせたりなどといったことはない。そういう発想がないのだ。 上目遣いで訊ねる瞳には、不安や葛藤が入り混じっている。できるのならば、貪るのではなくて貪られたい。 生温かい吐息には、彼女のそういった願望が混じっているようでもあった。 「動きたくなったら、いつでも好きに突いていいよ。きっとそっちの方が、気持ちいいはずだから……我慢しないで」 「私ね、柊くんが気持ち良かったらそれでいいの……ううん、ちょっと言い方が違うかな」 「こういう言い方はずるいよね……? ずっとね、柊くんにめちゃくちゃにされたいって思ってたから」 挿入したまま、すりすりと恥骨を擦り付けてくる。まるで愛玩動物がおあずけをくらっているような、そんな仕草。 女の体臭はどんどん濃くなって、鼻腔をくすぐり、絡み合う陰毛からは眩暈がしそうな匂いが立ち込めた。 たまらず俺は、くいっと腰を動かした。 「ふわぁああああんっ……いいぃ、いいよお、柊くんのが、膣内から引っ掻いてくるのっ」 「ぴちぴちで隙間なんてなくて、これ、すごいよお……っ」 膣肉が蠕動し、いよいよ精を搾ろうといった感じで蠢き始める。 亀頭を刺激されるたび、ぞわっという快感が波のように押し寄せた。こちらもそれに合わせ、ゆっくりと波のような抽送を開始した。 「ふあぁっ……くぅうううう、はぁはぁっ……た、たまんない、これえ」 「まだちょっと痛いけど……、そんなこと飛んじゃうくらい気持ちよくて、内臓、持ち上げられちゃってる」 「苦しいのが、いいのぉおお……っ、あっあっあっあっ……、ひゃあああん!」 突き上げてると弓なりに喘ぎ、そのたびに豊かなバストがぷるぷると揺れた。 確かに夢中の様子であるが、それでも世良は近視眼的に自分だけの快楽など追求したりはしないだろう。 きっと俺の目線を意識した上で、まるで生き物のような双丘を派手に上下させていた。 「くぅううう……っ、う、動くとね、柊くんの形を、はっきり感じられるの……太くて、長くて、固くて……、先っぽがね、太くなってる」 それは一般的な男性器だと思うんだが……しかし、彼女は恍惚の表情で続ける。 「それが、ぴったりなの……っ、もうこれ以上ないくらい、私の膣内をいっぱいにしてる」 「きっと、これ、柊くんのだから……柊くんじゃなきゃ、絶対に満たされたりしないって、そう感じちゃうんだ」 抽送はまだ遅い。世良の肉を味わうように、ゆっくりと結合部をくねらせて、蜜壺の中を掻い出してゆく。 子宮の入り口へ尖端があたると、彼女は深く息を吐き出して、身を捩った。 「ふわあぁあああっ、ひゃっ、あん……あっあっあっあっあっ……!」 そうして彼女は、俺の頭を抱いてよがって鳴いた。 慣れるまでは速過ぎる抽送こそしない方が良いと思っていたのだが、どうやら世良自身、加減ができなくなっているよう。 最初から動きすぎて、どこか傷ついても事である。ぐっと彼女の身体を抑えると、はっと我に返ったようだった。 「あ、ご、ごめんなさいっ。勝手にいきなり……、変なスイッチが入ったみたいだった」 無理もない。慣れていれば別だが、もちろんそんなわけがあるはずもなく、また世良にとっても、そして俺にとっても、これは互いに特別なことだったからだ。 過去の時代、終ぞ結ばれることなく通り過ぎてしまった二人。 こんなにも心と身体が合っているというのに、俺たちの間に積もり積もった想いは切ないほどなのだ。 それはときに姿を変え、快楽への渇望となり、俺たちをただ獣のように乱れさせるのである。 「……うん。もう大丈夫だと思う。落ち着いてきたから」 「いいよ、柊くん。いっぱい動いて、好きなときに私の膣内へ出して……」 「貴方の子種が、ずっと欲しかったんだから」 脈動する男根を、柔毛が物欲しげにやわやわと圧迫してくる。 彼女は嬌声を上げて髪を振り乱し、自重による律動を続けてきた。 「ひゃああああぁぁっ……ああっ! あああああああああぁっ!」 ぐっぷぐっぷという水音が反響する。 彼女の動きに合わせて突き上げるたびに、先走り汁と蜜液との和合水が、泡立って執拗にかき混ぜられた。 「きゅふぅうううっ……! ふあぁっ……あっ、あっあっあっあっあっ……ああ!」 「はぁはぁ……くぅふううううう! んんっ……、かはぁ、ひゃあああああん」 「ぐちゅぐちゅって、すごい音……っ、膣内から、あたまへ響いてくる……!」 「あっ! ああっ! ああああっ! だめ、まだ! 先にイったら、柊くんが……! 絶対、一緒に……っ」 ぶるんっと乳房を揺らしながら、俺に跨る彼女は、どこまでも乱れてゆく。らしからぬ振る舞いや嬌声。けれど、俺は今まで一番、世良という存在へ近づけた気がした。 そう。彼女は彼女なのだ。普段の優等生じみた姿を期待していたら、俺たちだって苦しめられた周りの視線と同じになってしまう。 豊かな胸をじっとりと濡らす汗が飛び散り、彼女は獣のように声を上げていた。 「ふあぁあ……ああああ……! ち、力が抜けちゃう……っ」 ガクガクと震える腰の動きと、蠢く膣内の肉壁は、まるで連動したかのように狂おしく波立っている。 腸壁まで突き破ってしまいそうな突き上げを見せると、彼女の中で何かが変わったようだった。 「ひゃあああああああああぁっ……あっあっあっあっあっ、イク、イっちゃう、もうすぐ、そこまで来てる……っ」 「はぁはぁ……ああっ! そんな風に突き上げられると……もう自分じゃ、どうにもならなくなっちゃうの」 「ふわぁあああ、ひゃあっ……はああうっ、んくぅううううう!」 頬に張りついた髪と、舌から伸びる糸が絡み合い、てらてらと光って見える。 涎を垂らして腰をふる彼女の姿は、まるで獣のようだった。 最後の抽挿を深めてゆくと、びくんっとさらに大きく仰け反って弓なりに喘ぐ。 「んくぅううううう……! ひゃあああああんぁっ……ああっ! くふぅうう!」 「め、目のまえが……まっしろになる……っ、蕩けちゃうよお……っ」 ぽたぽたと零れる混ざり合った愛液の量は、すでに例えのよう無いくらいシーツを汚していた。 「くぅっ……ひゃああああっ……ぁあああっ! あっ、あっあっあっあっふわあっ! ら、らめえ、イっちゃうのっ! とめられないのぉっ……」 「も、すぐそこまで、きちゃってるっ! ひゃあああああああんっ」 そして、ぱんぱんっという擦過音は脳髄にまで響き、射精欲求は限界を迎えたのだ―― 「イ、イクううううううううううううううーーーーーっ!」 「はぁああああああっ……んくぅううううううううっ!」 膣内に沈み込んで果ててゆく。押し付けられる子宮が、注ぎ込まれる分だけ搾り上げていた。 しかし、あまりに突き抜ける快楽のせいか、精液は尽きないほどに溢れてきている。 終わりのない射精感。そんな俺の身体を逃さまいといった様子で、世良はぎゅっと足を絡みつけ、ひたすら密着してくる。 「……ひあぁっ! まだ、出てるぅ……っ、柊くんの、どこまで出てくるのかな……っ」 「はぁはぁ……熱くて、火傷しちゃう」 至福の表情はずっと変わりないが、切ないような行為中の顔に対して、今の方が柔らかく見えた。 性行為が終わって、今はただ優しく密着しているだけだ。とはいえ膣からペニスを抜くことなく、俺たちは繋がり合って笑い合う。 「はぁはぁ……ふぅうう……んんっ、まだ、もうちょっと」 ようやく射精の勢いが止まり始めると、世良は名残惜しそうに最後の一滴まで絞り取ろうと腰の角度をわずかに変えた。 絨毛が一斉に打ち寄せて、亀頭をなでては子種をちゅるっと吸い上げる。蠕動する肉壁の感触は、これ以上ないくらい繊細で甘ったるかった。 「……できちゃったら、どうしようかな」 嬉しそうにつぶやく世良の言葉はしっかりと耳に入ってきたが、なんと答えるべきか分からなかったので、黙って目を閉じる。 男性器を引き抜こうとするが、世良は内股をきゅっと閉じたままである。 見透かしたように妖しく腰をくねらせる様子は、しかしそれでも利己的といった感じではない。やはり彼女の頭の中には、俺のためにというのが見え隠れする。 「男の子って、もっとしたいんじゃないかな……柊くんがしたかったら、このまま、もっとしちゃってもいいんだよ?」 「きっと今このときのために、私はずっとあり続けてたんだなって感じてる」 「大好き……ずっと、これから何があっても、私は柊くんのためにいるってこと忘れないでね」 とこまでも俺のために。そんな世良の健気さは、これから起こるであろう避けられない俺たちの運命を考えたとき、少しは救われる気がした。 俺は世良を抱きしめ、性行為ではなくて、純粋に愛のまま口づけをした―― 思い出の残る校舎、その廊下を歩きながら……俺はその記憶を共有する面影を思い浮かべる。 俺が今、会いたいと思う相手を求めて。足はいつしか、その場所へと向かっていた。 「四四八――」 空き教室の一つに晶はいた。 「やっぱりここにいたか」 俺がそう言うと、微かに頬を赤らめる晶。この場所で思い出すのは、やはり共通のことらしい。 「やっぱりって、どういう意味だよ」 「どういう意味? ああ、この場所と晶との因果関係についてか」 「いいとも、事細かに説明してやろう。あの時の記憶は非常に鮮明だからな」 「ぬああっ、何でもない何でもない! 別にいいからさっさと忘れろ! つうか忘れろって言ったよな!?」 顔を真っ赤にして喚き出す晶。あまりにも予想通りの反応に、思わず笑いがこみ上げてきた。 「ちっくしょう、一時の気の迷いだったのに……いっそ今ぶん殴って記憶飛ばしてやろうか、くそぅ」 そして横目で俺を睨み、ぶつくさとぼやくことしきり。 「まあ、いっか。ああもう吹っ切れたわ」 「長い付き合い、都合の悪いことだけ忘れてくれとか、そういうわけにもいかねえしな」 そして……そうしみじみと呟いた言葉で否応なく意識するのは、共に過ごした今までの時間の長さだった。 俺と晶は掛け値なしの幼なじみ。親ぐるみの付き合いに始まっているから、生まれる前からの繋がりと言うこともできる。とにかく、共有した時間の量では仲間たちの中でも圧倒的に多い。 「ああ。だから俺は、おまえとのあれもこれも忘れないつもりだ。第四層でのこともな」 俺がそう言うと、晶の表情に何とも言えない色が浮かぶ。 かつて四層突破の際、俺たちは互いに死力を尽くして凌ぎ合い、そして俺は晶の命を刈り取った。夢の中での出来事とは言え、それは忘れることのできない……そして忘却してはならない真実だ。 「とにかく晶とは今までずっと一緒だったし、これからも一緒だ」 「それに、親父の件もある。気に入らない奴だとしても、俺の父親なんだからあのままにはしておけないだろう」 「そうだな、家族なんだしさ。任せろよ。全力でサポートするから」 今、この鎌倉で直接的な最たる脅威となっている玻璃爛宮……あれほど強力な廃神を顕象するには生贄が不可欠であり、ならば“誰”がそうなっているかは容易に察せられるものだった。 なぜなら親父も、石神の理想から生まれた夢にすぎない。俺たちの復活に際し、柊聖十郎が“何処”にいるのかをあいつは感覚的に理解したのだ。 よってこれは、もはや疑うべくもない事実。俺の親父は、今や玻璃爛宮の中にいる。 ならば、逆十字の核としたままになどさせたりしない。母さんや剛蔵さん、そして何より血の繋がりがある息子として、あいつの遺志を継がなければと感じていた。 「百年前、あたしは聖十郎さんに──柊聖十郎にこう思ったことがあるんだよ」 「あんたがまともだったなら、こっちも助けたかったんだって」 「その感情を不思議と今から果たせそうな気がしてるんだ。いや、手遅れなのは理屈だと分かってるんだぞ?」 「ただ不思議と、まだ間に合うような気がしてさ……何でかな」 「おまえがそういう優しい奴だからだよ」 相手を想う義の心と思いやりを改めて眩しく想う。 「ずっと俺の幼なじみでいてくれて、ありがとうな。晶」 真奈瀬晶とは、つまるところ俺に取ってそういうかけがえのない存在なのだろう。ありのままの気持ちを言葉にすると、落ち着かなさげに目を白黒させた。 「そ、そんな、真顔で言うなよ。馬鹿」 それから照れた自分を誤魔化すように、真顔に戻る。 「えっと……なあ、四四八」 「どうした? 改まって」 「あたしたちが今ここにいるのって、つまり静乃の夢が浮かび上がった……みたいな感じなんだろ」 「そうとも言えるな」 現実の柊四四八と真奈瀬晶は、およそ百年前の満州事変やらが始まっていない時代の人間だ。 ここに今にこうしている〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》は、第四盧生の終段に反映された石神の願望が具現化した姿でしかない。 「だから、あっちの方で四四八とあたしがどうなるのかは分からないけど……」 「今、ここでだけは……あたしを探しに来てくれた、ってことでいいのかな?」 そう言って、期待と不安に揺れる瞳で俺を見つめてくる晶。 「ああ、その通りだ」 それに対して、俺は自信をもって頷きを返す。 「四四八……」 「おまえのメイド服姿を、もう一度見たかった」 「最低だぁッ!」 誠意をもって答えた俺の告白に、なぜか晶は突然憤慨しだした。 ありのままの気持ちを伝えたはずなのにと、思わず困惑してしまう。 「すまん、少し言葉が足りなかったようだな」 「おまえのメイド服姿の、絶対領域が忘れられなかった」 「ちょっとおまえ、いい加減にしろよ!?」 だが俺の懇切丁寧な説明にも関わらず、晶は更に怒りをエスカレートさせている。 「あれは掛け値なしに人類の宝、芸術品だった。俺もようやく、長瀬の域に少しだけだが近づけたようだ」 しかし俺は、なおも相互理解への努力を放棄せずに続けていった。すると、晶の表情に深刻な疲労の色が浮かぶ。 「もういいよ……糞真面目な顔して、そういうこと言うなよな」 「……そんなに見たいのかよ?」 「ああ、見たい」 間髪入れずに力強く頷いてみせる。諦めたように、晶が深く溜息をついた。 「うぅぅ、分かった……じゃあ、ちょっとだけ後ろ向いててくれ」 気が進まなそうに、ロッカーに仕舞われていたメイド服へと着替えだす晶。俺は言われた通りに後ろを向き、衣擦れの音を聞いていた。 いいぞ、高まる期待感だ。どうせこれが最後だから思い切り馬鹿になってやるとしよう。 それこそ、今このときにひときわ輝く夢なのだと確信しつつ── 「っしゃあッ……いいぜ、さあどこからでもかかってきやがれ!」 妙な感じで気合を入れている晶へ、俺は後ろを振り向いた。 「…………い、いらっしゃいませご主人様。真奈瀬晶のスペシャルメイドバージョンでございまーす」 「うむ、やはり素晴らしいものだ」 そして目の前には、いつぞやのメイド服を着た晶の姿。 「四四八ぁ、そのノリなんか怖ぇよ……つか、この格好で……?」 もはや晶を求める衝動を、俺は隠そうとしてはいなかった。それを受け、俺を見つめるこいつの視線に恥じらいが浮かぶ。 「まあ、気に入ってくれたんなら……いいけどさ」 抱いた晶の身体から伝わってくる激しい動悸が伝染してくるようだ。俺まで息苦しい。 普段、男勝りの言動をする彼女がこうして身を預け、あまつさえ―― メイド服に身を包んでいる。 「ど、どうかな。前にさ、四四八には見られたことあったけど、こうして触ったりするのは初めてだろ?」 頼んでおいてなんだけど、震える声を聞いていたら、どうして着てくれたんだ?と突っ込みたくなってしまう。 月明かりの下、誰もいない教室の中、艶やかなメイド服がくっきりと浮かび上がる。 「なんか触り方がエロくないんだけど……ヒラヒラしてるとこ、引っ張るなよ」 「そんなことするか。ただ、ちょっと、珍しいもんで、ついつい確かめたくなるんだよ」 「あたしより、メイド服に気持ちがいってるじゃねーか」 「いや、おまえが着てるから意味があるんだ」 「うっ……もう、ばか。そういうことストレートに言うなよっ」 それは仕方のないことなんだ、と男心を前面に出して言い返したいが、それもまた情けない話なので、ただ黙って触り心地を確かめる。 嗚呼、今の自分、いつもの俺じゃない。 「あ、やんっ……そこ、生地が薄いんだから、あんまりなぞるなって」 「この部分は裏地がないんだな。発見だ」 「何を見つけようとしてるんだよっ。そんなに珍しいもんなのか」 「少なくともここいらには、そういう店がないだろ。いや、あったからといって別に行きたいわけじゃないが」 「メイド喫茶か。そういえば文化祭のときは盛況だったらしいな」 「おまえが着てるのは、それと同じものなのか。こうして着て来られたのも、どっかの教室に残ってたわけか」 「まぁな……って、ああっ、ふわあっ。生地が薄いんだってば、おまえの手の感触が妙に伝わってきて……ひゃ」 肌触りならぬ布触りが気持ちいい。普通の衣装じゃ得られないこの感触。学生が着ているにしては安っぽくなく、ところどころ絹で編んである。 柔らかでいて弾力のある肌が、メイド服を通して伝わってくる。胸回りなんかは、俺の劣情を刺激して挑発してくるようだ。 「はっ……あぁあああん。胸のところ、くすぐったい」 「っ……はぁああ! もっと激しくしていいのに……なんで、そんな指使いなんだよ」 「優しい方がいいだろ。それとも乱暴にして欲しいのか?」 「そんなことないけど……優しい方が嬉しいし……けど、んんっ、あっあっ……だ、だんだん、エロい感じになってきてるのが」 さっきエロくないとか言ったのを後悔させてやる。なんとなく男の自負を突っつかれた気がして、無性にやる気が出てきてしまう。 ときおり零れる喘ぎ声。蠱惑的に響き、どこまで感じているのかよく分かる。 乳房を手の平でこねると、固く勃起しようとしている肉の芽が、ひょっこり顔を出す。 「はぁはぁ……んんっ、やだ、わざとてっぺんだけ避けて触って……」 豊かな胸を背後から抱えてゆするたび、形を変えて揺れる乳房が視線の中へ飛び込んでくる。 にわかに沸き立つ欲情にかられ、勢い押し倒してしまいそうだ。 「はぁああああ……ひゃあっ、ふわぁっ、ああっ……んんっ」 らしくない甘やかな声が、乳房と同じように跳ねて転がる。真っ白い首筋から伸びてゆく鎖骨へ、舌の先を這わせた。 「ああああっ! ちょっ、そこ、舌で押すなバカっ。か、感じ過ぎちゃうだろ」 じっとり汗ばんでいるようには見えなかったが、わずかにしょっぱくて、それでいて濃い女の匂いが鼻を抜ける。 びくんっと反応しては、自ら身体を抑えつけるようにして、晶は力を入れている。 そのせいで尻が直接、俺の股間へ乗っかるように押しつけられてくる。 「よ、四四八ぁ……おまえのあそこ、もう固くなってるのか。涼しい顔してるくせに、素直じゃない……」 あまり感じ取られると主導権を取られそうでもあったので、続く彼女の言葉よりも早く、双丘へ指を差し込んだ。 「胸の中に手、入ってきた…んんっ……気持ちいいかも」 乳首をかすめて、胸腺に沿って指を這わしてゆく。鎖骨から滑り込むように、奥へとまさぐってゆくと、ふいに女の匂いが漂ってくる。 濃いめの雌といった感じの匂い。彼女は、こちらの指を追いかけるように視線を落として呟いた。 「手つき、エロくなってきた……っ。な、なんだか四四八らしくないな……、実はずっとこうしたかったとか?」 見透かされる劣情は恥ずかしいものだ。小さく頷くも、俺は視線を逸らして指を動かし続ける。 ぽよんという感触に動悸がしてくる気がした。でかいな、こいつ。 「……ふわぁああっ……んんっ、そ、そこ……固くなってるの、恥ずいな」 尖端を弾いてみると、晶は身体をびくんっと震わせた。まだ触ったばかりだというのに、乳首は既にこりこりという固さにまでなっている。 少し強めに揉みし抱く。背後からだと顔が見えないが、背中をびくびくと震わす反応で、こいつの感じている刺激は余すところなく伝わってくるようだった。 「はぁはぁ……強くなってきたな。四四八の手、めっちゃ気持ちいいよ。も、もっと強くしたかったら、いいんだぜ」 身をよじらせて、豊満な弾力ををわざと押しつけてくる。 「へへ……、おまえとこうしてるなんて、感動しちゃうよな。好き……四四八。おまえ以外に触れるなんて、絶対嫌だったから――」 今しかないといった様子で内心を告白してくれている。普段はこんなことを言えないからこそ、強く伝わってくるものがあった。 肌と肌で伝え合っていても、それでもまだ足りないと叫んでいるような、彼女の想いが伝わってくる。 スカートをたくし上げると、まとわりつく密のような匂いを感じた。急に辺りの密度が濃くなるとうか。 いきなりショーツの中へ手を衝動に駆られたが、メイドさんにそんなことしてはいけない。男として。 ゆっくりと優雅に、まるで楽器を奏でるかの如く指使いを持って、俺は晶の腿へ触れた。 「なんか、四四八の手の動き、きもい」 おい。せっかく優しく触れようとしているのに、言うに事欠いてきもいとは何だ。 というか、さっきまで気持ちいいとか告白していたのは何だったんだよっ。 「そ、そう怒った顔するなって。なんか急に雰囲気変わったから、つい突っ込んじゃっただけだから」 「その、おまえが優しく触れてくれるの、めっちゃ嬉しいって思ってるよ。ただ……」 ただ? 「あたしばっかり気を使ってもらうのって好きじゃない。こっちは四四八がどう思って、どう感じてるのか気になってるんだ」 「だから、えっと……そのだな、本当は反対なんだ」 ま、まさか。 「私のこと好きになさって下さい……ご、ご主人さまっ」 瞬間、脳天が割れて何かが出てくるような感覚に襲われる。 まさか晶から、こんな台詞が出てくるだなんて……やっぱ、そうだよな。ツンデレ幼馴染みメイドたん萌え! 勢い思考がおかしくなっていくのを止められないが、仕方ない。男の嗜好なんて、ときにこういうものなのだと自分に言い訳をしておく。 「ヒラヒラのスカートまくられると、変な気持ちになっちゃうな……でも四四八の手、すごくあったかくて気持ちいいよ」 「けどこんな風に触られてたら、すぐおまえの手が濡れちゃうかも」 貞淑なメイド服に身を包みながらも、愛撫すればまるで泉の如く、愛の泉が湧き出てきたり。なんと男心をくすぐる背徳感だろう。 「はぁはぁ……、おまえの手つき、いやらしくなってきたぞ」 ご主人さまじゃなくなったのが、ほんのわずかに残念な気もしたが、ずっとあのテンションで相手をされても、それはそれでこちらがついていけなくなるだろう。 太ももから内股から、ときおり女性器を上から優しくなぞる。何も言わずに丁寧な愛撫を心掛けて続けた。 「や、ぁ……気持ちいいところばっかり、じゃんか――あたしばっかり触られて……んくぅうう」 「おまえの手が触れたとこ、あたしの目にしか見えない跡が残ってゆくみたいだ」 徐々に腰の動きがねだる感じになってくる。 もちろんあからさまな要求をしてくるわけではないが、こちらの指が性器へ触れるたび、はっきりと濡れ始め、それがまた撫でられて性器にまぶされる。 「はぁはぁ……腹の中が汗かいてるみたいだ。勝手に息が上がってくる感じ……」 内ももに触れていた指を離して舐めてみると、はっきりと女の味がした。 「ちょ、馬鹿。変なところ触ってなめるなよ……変態みたいだぞ」 「……って、こんなの着てるあたしが言えることでもないか」 ふうっと息を吐くように彼女は力を抜いて言った。 身体を固めていた緊張感は、ここにきてようやく完全に抜けてきたようである。 無意識なのかは分からないが、言葉とは裏腹にこちらの手へヴァギナを押しつけて擦ってきている感じだし。 今までもより深めに指を入れてみると、くちゅりという水音が聞こえた。 「はぁあああん……っ、今、音が――」 陰唇をくぱと割って、人差し指と中指を擦りながら鎮めてゆく。そんな光景は、まるで彼女のあそこが頬張って、指を食べられているようだ。 「はぁ……んくぅっ。ひゃああんんっ……あっあっあっあっ、中に入ってくるぅ」 挟み込むなどという表現ではゆるいだろう。 こちらの勘違いなどではなく、彼女の性器は本当に俺の手を求め、そして自らの膣内へ指を導こうとしていた。 柔らかい肉壁を丹念に指の腹で撫でながら反応をうかがう。 「くっ、おまえわざとだろ。入れずに周りを撫でるだけなの、ずるいぞ」 「もっとっ、指を入れるなら奥まで入ってくればいいのに……! ひゃん……っ」 突き出してくる腰へ、わずかに指先だけ差し込んでクイッと第一間接を曲げる。 「はぁああああああん! あはぁあああ……あっあっあっ、やぁん……っ」 艶やかで甘やかな嬌声がこちらの脳髄へ駆け抜ける。 事実、それはされるがままであるはずの女から、逆に愛撫されているようだった。 「ふわぁあああ……っ、あ、あああっ、んん……!」 「あっ、やん……! ああっ、あっあっあっあっ、ふくぅうううううう……っ」 いよいよ絶頂が見えてきたようだ。アクメを目の前にして、びくんびくんっと身体を震わせている。 液を掻き出しつつ、一旦指を出して見ると、蜜壺へ手ごと入れたようにびしょびしょになっていた。同時に鼻をつく性臭。 「はぁんっ、あぁあぁっ……ああああああっ、四四八の、びしょびしょに……っ」 再び指を入れて陰唇を開き、赤く腫れている突起を刺激する。 「ひゃああああ、ふわぁああああっ! はわぁっ、あああっ、あっ、あっ、あっ、ひあっ!」 「ああうぁっ……! 四四八、イク、イッちゃうよ……あぁああああああっ」 「ひゃああああぁっ、あああっ、はあぁあああぁんっ……! ンくぅううっ、ああっ、あっあっあっあっひゃああァンっ!」 よがって嬌声を上げた晶の身体は、激しい痙攣に震え、絶頂に導かれた後、弛緩して倒れるように寄りかかってきた。 秘裂は充分にほぐれてくれた。 俺はいよいよ本番を迎えるべく、彼女の息が整うのを見計らい、立たせて後ろから挿入した―― 「はぁああああああん……おっきぃよ……四四八の、かたい」 男根が濃密な媚肉に包まれてゆく。ぬちゅりという音が脳天にまで響いた。 「な、なあ、どうだ? あたしの膣内、変じゃないか。気持ちいい?」 頷きつつ、さらに奥へと秘裂の中へ潜り込んでゆく。尻をつかむと、彼女はぐいっと腰を上げて誘導してきた。 肉壁は一瞬だけ緩んでたわみ、だが肉棒の尖端を締めつけるように絡みついてくる。 間もなく子宮の入り口にまで辿りつくと、亀頭を押し返すようにぐいぐいと反発してきた。 「ふわあ……っ、奥まできた……お、おまえのっ、先っぽが、あたしの深いところにキスしてくる」 「あっあっあっあっ……上側のとこ、まだ擦るなっ、びりびりって……くぅううう」 先走りを柔毛へ塗りつける。たしかにキスをして舌を入れてるみたいだ。 「……くはぁああああああっ、子宮のとこ、ほぐすよなよ……っ、そんな風に動かれると立ってられなくなっちゃうから」 まだ掻き回すといった程ではないが、膣内を充分に慣らすため、角度をつけるようにして腰をわずかに前後させた。とめどめもなく溢れる愛液が、陰嚢へと垂れてくる。 すると濃厚な水の混ざり合った匂いが立ち込めた。 「はわあっ! あああっ、ち、乳首、押し込んで……ひゃあああ……んんっ!」 同時に豊かな乳房を揉んで抱くと、立っていられないといった様子の彼女の身体は、逆にびくんっと背筋が伸びた。 「ご、ごめん。あたしので、おまえのを濡らしちゃってる……っ」 「でも、こんな零れてくるなんて……自分の身体じゃないみたいだ。お腹の奥が、ずっとじんじんしてる」 軽めの抽送で身体を揺すらせる。 「膣内で膨らんでるけど、おまえ、もう出す感じなのか?」 まさかそんなことはない。けど愛撫する度に敏感に反応する彼女の声を聞いていると、自然に亀頭のあたりが熱くなった。 豊かな弾力で反発してくる双丘の感触は、そうそう普通の女じゃ味わえないだろう。改めて、幼馴染みのスタイルの良さに感心してしまう。 「はぁはぁ……も、もっとつき上げても、いいけど、四四八はきつい……?」 そんな風に言われると、男のプライドとして傷つきそうになったが、しかし口調に挑発的な響きはなかった。 純粋に心の底から、俺が果ててしまうのを心配していて、少しでも気持ち良く感じさせられるよう、声をかけてくる。 そんな晶の気持ちだけで、亀頭へ集まってゆく血流を感じた。 「くぅ……ど、どんどん膨らんで……んんっ、固くなってる。これ、出したいわけじゃないのか?」 「あ、ひゃん! もしかして、これが四四八の本気なの……?」 「こんなすごいので、あたし、突かれちゃうのか……っ」 挿れたばかりだというんい、肉棒はすっかり臨戦態勢へまで高まっている。 こつんと当たる子宮壁のさらに奥へ、射精したい欲求がこみ上げてくるが、俺たちはただ種付けする動物じゃない。 幼馴染みから濃密な男と女の関係へ。ひたすら求め合い、しゃぶりつくせば、きっとそれが俺たちのあるべきカタチなんだと思えた。 「ふぁああっ……! あっあっあっあっ……んくぅうううう! あたしの膣内、びっくりしてる……っ」 「くふぅうう……っ、んっんっんっ、あっあっあっあっ、そんな動物みたいに、突いて……はぁああああっ、んんっ……ふわぁ」 「目の前……まっしろに、なる……んくぅうう、ひゃああああああああーーーっ」 じゅぷじゅぷという水音も泡立つほどにシェイクされ、彼女の内股からぽたぽたと雫が垂れて落ちてゆく。 「はあぁっ……んんっ、ひゃああう! はぁはぁ……この……体勢っ、好きかも」 「おまえに、もとめられてるんだな、このあたしが……んんっ」 後ろから挿れられるのが好きなのだろうか。 尻を持ち上げて突くと、晶は発情した動物みたいに腰を振りまくった。汗ばんだ肢体から濃い匂いの汗が弾けて飛んでゆく。 貪るように尻をくねらせ、子宮の壁をずぶりとあててくるようだ。 「もっと、もっとぉ突いて……っ、奥までかき混ぜて……い、痛いくらいにしていいからっ」 「はぁあああんっ……! ふわぁあああ! ああっ、めちゃくちゃに犯して……もっとお」 らしくないおねだりに、こちらの理性が散り散りになってゆく。 膣内で絡み合い、性器同士が擦れ合う。 腰を浮かして抱え、それまでとは比べものにならないほど突き上げると、膣壁はうねり、ぎちぎちになっている肉棒を締め上げた。 「ふわぁああああ、んくぅうううう……! ……はぁはぁ、あたま、どうにかなっちゃいそう……っ」 激しく出し入れする怒張に合わせて、突っ張ったように反り返る。みちみちという音が聞こえてきそうな、肉壁の蠕動だった。 掻き出されて漏れてくる泡立つ和合水。気泡の混ざる淫靡な水音の間を埋めるように、恥骨と尻のあたる渇いた音が響いた。 「んくぅううううう! もっと……もっとぉおおお! 我慢、できない……はぁあああああっ!」 ぐちゅぐちゅの蜜液も、とめどめもなく滲み出てくる汗も、雫となって垂れるたびに濃い性臭を放った。 その生臭さに慣れる暇もなく、いよいよ快楽の終着点が見え始めてくる。 脈動する竿の中、膨れ上がる亀頭から尿道を経て、身体の奥底から際限のない劣情が溢れ出すのを感じた。 「はぁああんんっ……ああッ! あぁああっ、あっあっあっ……!」 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、きてる、さっきから、なんか上がってきてる……んはぁああ!」 水音に淫らな声が混じり、ごちゃまぜにしてシェイクする。 壁に反射した嬌声は耳孔から入って脳髄へ響き、あたかもこの瞬間へ楔を打つようだ。 「ひゃぁあああっ、あ、あついよ、あたしの大事なとこ、やけちゃう……っ」 「ふわぁ、ああっ、はぁああっ……んんっ……」 薄い肉壁が蠕動すればするほど、後ろから立って挿入しているおかで、上擦る角度によって刺激がより直接的なのだ。 彼女の喘ぎ声を聞きながら亀頭が擦り上げられるたび、俺は果てそうになった。 「はぁはぁ……んくぅううううう……た、たまんないっ……っ」 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……はぁあああん! ひぅううっ」 「ひゃああああん……そんなに掻き回されると……っ、んんっ、かはあぁ……!」 本格的にピストンが早くなってゆくに従い、膣の中では肉壁が吸いついてくる。 準備が出来たと言わんばかりに、子宮の柔毛はより深く絡みついて肉棒を締め上げた。 先走りと濃厚な蜜は混ざり合い、擦過した粘膜の性臭が燻る。尿道を迸る精子によって、自分の男根が最大限にまで膨らむのを感じた。 「迷うなよ。おまえが出したいときに膣内へ出せばいい」 「おまえの種が欲しいって、あたしの身体が言ってるんだ……はぁはぁ、柊四四八と結ばれた証を残してくれ」 変わらず激しく喘ぎ続ける彼女だが、くいと尻を上げて、吐精を受け止めようという強い意志が伝わってくる。 亀頭へ肉壁を押し付ける子宮は、いつでも果ててくれと求めているようだった。 「ふわっ……はぁっ、んんっ……くぅうううう……おまえのあついのをっ、ここに」 膣肉は一斉に蠢き、ペニスを一番奥へと導いてくる。 激しい抽送によって、恥骨と臀部の肉がぶつかるたびにパンパンという渇いた音が鳴り響いた。 すると泡立つぬめり気のある密液が、壺から溢れたのだ。 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あァンっ! はあぁあああああああん!」 あまりに早い律動によって、粘膜は限界まで擦れ合う。 ふわぁっと淫靡に散る、さながら熱い塊が下腹部へ堕ちてくると、彼女の雌の本能は、果実が破裂するかのように際限なく膨らんだ。 「かはぁああ、あっあああっ、ああっ、きてる、きてるよ、四四八……ああああっ!」 「ひゃあああっ……い、イクッ、イクぅうううううううううう!」 「はぁあああああああぁンっっ! 出でるッ、四四八のが、あたしの膣内で……っ」 ビクビクと意識が飛んだように体を震わせ、そんな身体の反応は、肉壁へ伝わり男性器にまで返ってきた。 最後の最後まで、一滴残らず搾り取る気だろうか。絡ませた足や腰を離そうとしない。 「ひゃあああぁ……あふわぁあ、ビクビクって、まだ出てるよ……っ」 メイド服という非日常的な様相のせいだろうか。それとも純粋に愛撫が良かったのか。 こういうことへ恥ずかしがって、あまり乱れる姿を見せてくれないような気がしていた晶だが、まさに見たこともない痴態を晒してくれていた。 叫ぶような嬌声に、弛緩した顔はだらしなく淫靡である。あまりに扇情的な姿へ、射精は信じられないくらい長かった。 「はぁはぁ……ふふっ、元にもどってくおまえのも可愛いな。なんだか、出したくなくなっちゃうぜ」 まるで種付けられているのを堪能するように、彼女はくいくいと腰をわずかに動かしてくる。 陰嚢をマッサージされてるかの如く、まだ残っていた子種を子宮の中へあますことなく吐き出していった。 「おまえの精子、腹の中に感じるよ。たぶたぶの中で、元気に泳いでるのかな」 下腹部をさすり、どこか悪戯っぽい口調で幸せそうに語る。そんな彼女の姿は、神々しくもあった。 本当に宿したのかもしれないなと、俺もさすりたくなってくる。 「あ、ちょ、ちょっと……なんだよ、いきなり。こういうの恥ずかしくないか?」 すりすり。つい、手を伸ばしてしまった。あまりに幸せそうだから。 おかげですっからかんまで出したはずのペニスがぴくんぴくんと反応する。吐精はまだ済んでいなかったようだ。 「あんっ……、また出てきた。とろとろしてる……おまえの、どこまで出るんだ」 それから、数分間。 絶頂にまで達した俺たちは、それでもまだ静かに世界の端っこで繋がり合い、これからのことをぽつりぽつりと言葉にした。 俺たちが存在している経緯から、きっと終わりは、すぐそこにまできているだろう。 けれど眠気が及んでくる朦朧とした意識の中で、俺はずっと晶の顔を覚えている。 何があっても忘れるものか。幸せそうに彼女が微笑んだ姿こそ、何よりも自分が欲したものなのだから。 「なあ、四四八。メイド服の次のリクエスト、ちゃんと考えておけよ?」 「あたし、何があっても絶対にまた着てやるから。それでおまえのこと、今日よりもずっと満たしてやる……」 ふざけてそんなことを告げてくる瞳は、どこまでも真剣で―― 彼女を守る。そして俺たちは必ず勝つ。心の晴れた想いで、俺は決意を覚悟を新たにしたのだ。 思い出の残る校舎、その廊下を歩きながら……俺は記憶を共有する面影を思い浮かべる。 俺が今、会いたいと思う相手を求めて。足はいつしか、その場所へと向かっていた。 「およ、どしたの四四八くん。こんなところに来てさ」 「それを言うならおまえもだろ。ていうか、こっちの行動を読んでた奴が言うことかよ」 「ふふん、そりゃあね。四四八くん負けず嫌いだし」 「黒星ばかりだと心残りだろうしね。それなら当然、わたしのところに来るかなって」 「もちろんだ。黄を斃してしまう前に心残りは解消しておきたくてな」 心残り……それは言うまでもない。こいつに一度くらい勝負事で勝っておかないと気がすまないという、極めて単純かつ切実なものだった。 言ったとおり歩美もそこは読んでいたようで、いつかのように将棋盤の前で不敵な笑みを浮かべている。準備万端といった風情だ。 「できるかな~」 「自信満々なのもそこまでだ。見てろよ、今日こそ一泡吹かせてやる」 「いいねえその顔、返り討ちにしちゃるぜい」 それはいつものとおり。これまで何度も繰り返したやり取り。 状況の特殊さ、すべてが終わった後のことなんて今このときだけは考えない。現実逃避という意味じゃなく、これが俺たちらしさってやつなんだと考えて、将棋盤を挟み向かい合った。 無論、感慨深い気持ちもあるが、最後の勝負になるからこそ雑念は捨てて集中する。 「ルールは?」 「ハンデ無し、待った無し。一手指すのに使える時間は十秒までの一発勝負、というのでどうだ?」 「後に本番が控えているから……そうだね。お互い速攻で」 「じゃあ、こっちからも一つ注文。負けたほうが勝者の言うことを何でも聞くっていうのはどう?」 「実はこれ、わたしがいつも勝っちゃうから遠慮して言わなかったんだよね。けどせっかくの機会だから、とことんやってみようかなって」 「……なるほど、なるほど」 「つまりおまえは今まで情けをかけていたと。俺には負けるはずがないと、高をくくっていたわけだ」 「だって実際そうだもーん。でしょ」 「いいぞ、受けて立つ。俄然やる気が出てきたさ」 「人は成長する生き物だと今から俺が教えてやろう」 かなり調子乗ってるな、この野郎。乗せてしまったのは俺だからこそ、ここらで叩きのめしてやらないといけないだろう。 いい具合に高まった気合いを自覚し、意地でも負けられない戦いが始まった。 いいやそもそも、負けていい勝負などない。そう自分に言い聞かせつつ、俺は一手一手を指していく。 そんな中で、歩美はしみじみと呟いた。 「なんていうか、やっぱりいいよねこういうの。しーちゃんには改めて感謝かな」 「まったくだ。おかげでこうしておまえと勝負もつけられる。頼ってくれたことも含めて、夢でも悪いものじゃない」 「それでもきっと、なんか悩んだり色々抱えているはずだから……」 「それを支えるのが俺たちの役目だな。頼りにしてるぞ、歩美」 「こっちこそ」 俺たちは石神を恨んでなどいないし、むしろ感謝している。その気持ちをあいつにきちんと伝えてやりたい。 しかし、口で何を言ってもそう上手くはいかないだろう。気にするなというだけで万事罷り通るなら、世の中はもうちょっと単純だ。 石神はこちらの気持ちを理解してくれるだろうが、それでも消えない自責というものは必ずある。だからあいつが、見事本懐を果たせるように。俺たちはそのサポートに徹するという形で信頼の表明をしようと思う。 共にそんな胸中を確認しつつ、俺と歩美の攻防は一進一退。どこか和やかな空気とは裏腹に、かつてない熾烈な勝負となっていた。 「なあ、覚えているか? 前にここで言ったこと。幼なじみという関係を過信しているわけじゃないってやつ」 それは石神がこの千信館にやって来た日のこと。あの日も俺はこうやって、歩美と将棋を指しながらそんなことを話していたの思い出す。 「俺はあのとき、人との関係はそんな簡単じゃない。俺の知らないおまえがいて、おまえの知らない俺がいるはずだ、なんて口にしたよな」 「そういうのをもっと知るためにも一緒にいるんだと伝えたし、だからまあ、なんだ……」 ぱちり、と指した歩を金へと成らせて静かに告げる。 「俺がおまえと指しに来たのは、そういうことだと思ってくれ」 龍辺歩美をもっと知りたい。より深く分かり合いたい。俺が今、ここに来たのはそういうことで、それを分かってもらいたい。 史実における柊四四八は、結局誰と結ばれたのか分からない。その記憶は俺にもないのだ。 しかし、今ここにいる柊四四八が選んだのはただ一人。これは真実俺だけの、俺が育んで導き出した気持ちと答えだ。 それは夢でも、嘘じゃない。自分が間違いなく存在するという証とも言えるものだった。 「そっかそっかあ……うん」 「嬉しいけど、ほんとに見つけられるかなぁ? 四四八くんが知らないわたしは、まだまだたくさんあるんだよ」 「女の子はそう簡単に、男の子へ本音を見せたりしないんだからね。特にわたしは、案外こうだし、肝心なところで逃げ癖あるし」 「知ってるさ。おかげでずっと苦労している」 こいつの、こういった奔放さや性格も込みでの選択。だから繰り返し俺は言う。 「重々承知で、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》だ」 「……えへへ。なら、しょうがいよね。だって〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》だもん」 歩美にしては珍しく、ちょっと照れたようにはにかんでいた。それを見て、俺の胸も満たされていく。 そして…… 「決着だね」 「ああ。いい勝負だった」 ここに、勝負は決していた。 どちらが勝ったか、そこはたいした問題じゃない。 なぜなら、負けた側がなんでも言うことを聞くという条件の内容は、どっちが勝った場合でもまったく同じだったからだ。 「へえ~、ちっちゃい頃は何度も見たことあったけど、今の四四八くんはこんなになってたのかあ」 「あまりジロジロ見るなよ」 「いいじゃんかー。これもエッチできる幼馴染みの特権ってことで。普通の恋人だったら、昔どうなってたかなんて知らないでしょ」 「そんなにはっきり覚えてるものなのか? つーか、過去と今を比べられても、ただ恥ずかしいだけなんだが……」 「へへ、それが狙いだもん。四四八くんの身体だったら、生える前だって知ってるもんね」 なんていうか、アレだな。いつも通り過ぎる。 これから大人の行為へと向かうはずなのに、彼女はどこか玩具を与えられた子どものように無邪気だった。 「まだ固くないね。ほら、ぐりぐり~」 軽口を叩きながら、せっせと男根を乳房へ擦り付けてくる。 当然、鈴口にちょこんとした乳首が当たるたびに、痺れるような刺激があるのだが、腰が引けそうになっては、まだ完全に勃ってはいなかった。 「むー、どうすればもっと固くなるんだろ。ふにゃふにゃ過ぎると、エッチなことも捗らないっ」 どちらかというと、この後で捗るために今こうして、はだけては弄ってくれていると思っていたんだが。 どうやら彼女としては、ゆっくり仕上げていこうという感じではないらしい。ダッシュな展開を期待しているようだった。 「せっかく脱いだのになぁ~。ねえ、わたしの身体って、そんなにガキっぽいかな」 「そんなことはない」 「優しく答えつつも、まだ半勃ちにもならない四四八くんであった」 実況をするんじゃない。 制服を脱ぐときは何とも楽しそうな様子だったのに、ここにきて確かに彼女は不満そうだった。 いや、でもなあ。こういうのって自分の意志じゃ何ともできないわけで、何と答えればいいのか困ってしまう。 見た目よりも興奮しているのは嘘ではないだろうが、確かにまだ固く隆起しているわけではない。言葉だけ嘘をついてるとか思われたら台無しなわけで。 「四四八くん、もしかして巨乳じゃないと勃たなかったり?」 「待て。変な性癖を与えてくれるな」 「えー、残念だけどさ、新発見だから、みっちゃんに報告しようと思ったのに」 そういうのを止めろよ。まったく……マイペース過ぎて、ムード感の足りないところが問題なんじゃなかろうか。 事実、気持ちよくはだけてくれた胸元から、俺は目を離せなくはなっている。 「四四八くんの視線は感じるんだよね。嬉しいくらい、エッチな目してる」 「なのに、どうしてぼっきーんっしなんだろ。もしかして、刺激そのものが足りないのかな……わたしのおっぱいじゃ、あんまり圧迫できないし」 あっけらかんと言うわりに、彼女の言葉の端からは実に残念な様子も伝わってくる。そんな表情を見ていたら、思わず腰を突き出してしまった。 「お、おお? 四四八くんの方から、積極的なアプローチが……!」 「そうだよね。やっぱ攻め方が純粋に足りないんだよね。あっちゃんとかだったら、押し潰す感じで包めるけど、わたしのじゃ無理だもん」 「……よし。ここは奉仕の見せどころだ」 なんとなく自分の中で完結して結論が出たようである。 乳首が鈴口をつつき、こちらだって陰部へ血が集まってゆくのは確かに感じているのだ。 あまりごちゃごちゃ言ってもしかたないので、俺は歩美のやりたいように身を任せていった。 「はぁ……、んっんっんっんっ! よいしょっ」 「こうしてると、改めておっきなあって感じちゃうね。四四八くんの立派過ぎるよ。わたしの身体とアンバランスしてない?」 眼前の光景を説明するなら、まさにアンバランスというかインモラルだった。 小さい身体へ、ひたすらペニスを押しつけているようで落ち着かない気持ちになる。 「んふふ。なんだか気持ちよさそうな顔してる。わたしの身体で、気持ちなりかけてるんだ?」 竿へ巻き込むようにして指を絡め、愛撫が激しくなる。 じんわりと汗が滲む幼い肢体。濃密な香りが鼻腔をくすぐり、それがさらに下半身を滾らせる。 「ふぁわあああ……っ。ああっ、ビクビクって、してる……っ」 「こ、ここかな? それとも、裏側の方からさすった方がいいのかな」 「えへへ。ちょっとずつ楽しくなってきたかも。四四八くんのここが反応してくれると、胸がきゅんきゅんしちゃうね」 このままずっと主導権を取られるのもどうなんだろうな。 俺はわざと亀頭で固くなりつつある乳首を擦り上げてみた。 「ひゃぁぁあん! そっちも、いよいよわたしの裸に我慢できなくなってきた?」 当たり前だろう。流されるままだと、向こうのペースで最後までいってしまいそうな予感がした俺は、ぐりぐりと円を描くように亀頭を胸へ擦り付けてゆく。 男根が這った跡には、先走った液がてらてらと光るように糸を引いたりした。 滲み出る愛液を確認すると、彼女は我が意を得たりとばかりに目を輝かせて行為を継続する。 「ふふふっ、いいね。四四八くんの先っぽから、すごくエッチな匂いがしてきて、くらくらしちゃうよ」 「固くなっていくのをおっぱいで感じるのって、けっこう幸せかも……」 本当に楽しそうだ。玩具を弄る幼女のようでもあり、光景だけだと、なんとなく居心地の悪ささえ感じてしまう。 陽物から先走りの液が零れ出せば出すほど、歩美はすんすんと鼻を鳴らして、より激しくしごいてくれる。 「はぁはぁ……感じてるんだね、気持ちよさそうな顔してる。えっちな液も、どんどん濃い匂いになってきてる」 「んっんっんっんっ、ふわあ……えいっ」 乳首で雁首を引っかけるように挟み、薄めの胸板が絶妙な感触をもたらしてくる。 腰のあたりが甘く痺れ始め、確かに彼女の言う通り、分泌される液は始めと随分変わっているようだった。 ぎりぎり陰茎に振れない程度で、小さな舌をチロチロ見せつけてくる。 「はっ……んんっ、ふわっ……くぅ……んんっ」 ペニスよりは柔らかい。けれど埋もれるような弾力ではない。 確かな刺激が返ってきては、痺れるような甘ったるさに腰が沈みそうになる。 だが、せっかく勝手を掴んだような――熱心に愛撫をしてくれる彼女を邪魔しないよう、ひたすら堪えて肉棒を晒してゆく。 男性器を自由にできるというのが、思いのほかテンションを上げるのか、歩美は夢中で刺激を与え続けていた。 「ふわぁっ、はわっ、く……っ、気を抜くとするするって、四四八くんのが逃げちゃうね。集中しないとっ」 なんとなくスポーツでもしているような情熱である。 「……んんっ、先っぽ触るとビクンッて反応するのが、可愛いなぁ~」 「ぺったんこの魅力から、もう抜けられないよう調教してあげるっ」 言葉に自虐的っぽい響きはなく、恥ずかしがりながらも淫猥な視線で見つめてくる。 行為を見せつけて、男の羞恥心さえ引き出したいと言わんばかりに、彼女は過激に煽ってしごいてくれた。 「はぁはぁ……んふふっ、嬉しいなぁ~、これ、そろそろ出そうになってるでしょ」 「膨らんでる先っぽから出てるのだけで、わたしのおっぱいベタベタだよお。四四八くんの身体にも塗りたくりなっちゃうな」 しかし、そんなことをされても実際困ってしまうので、そこまで来ている果てる衝動をボディランゲージで伝えようとしていた。 「あっ、そろそろ……我慢できなっちゃいそうかな……んっんっんっんっ」 「心配しないで。ちゃんと出させてあげるから、安心して、わたしに身を任せていいよ」 白濁液が塗りたくられた乳房はてらてらと照り返り、そこへ亀頭を滑らせては乳首に引っかかって、俺は果てそうな衝動がこみ上げる。 血流に震え、陰茎が異様な熱をもってくると、それを見つめる彼女の視線は、うっとりと幸せそうだった。 「そんなに気持ちいいんなら、えっちするときには必ずしてあげよっかな」 「えへへ……普通におっぱいの大きい子がしてあげちゃうより、きっと癖になっちゃうよ?」 ふわりと髪を振り乱し、淫靡な笑顔で誘うように語りかけてくる。 「はぁはぁ……あふぅ、んんっ……四四八くんのおつゆ、すごい匂い……っ」 「それにおち○ちんって、こんなに膨らんじゃうんだね」 そうして彼女はいよいよスパートをかけるべく、亀頭を中心にして挟み込んできた。 「んむぅ……ふっふっふっ、ふわぁあ……はぁはぁ、先っぽから、溢れてきてるよ」 荒くなる歩美の鼻息が、陰毛にかかってくる。 それさえも、こちらの高まる一つに過ぎなくなっていた。笑顔も、体温も、吐息も……何もかもが、いやらしく見えてしまうのだ。 「ひゃぁん……わ、わたしの身体も、なんだか、びっくりするくらい敏感になってるみたい……っ」 「先っぽが引っかかると、ぞくぞくしちゃう……んんっ、くぅううう、このまま思いっきりイっちゃえ、四四八くんっ」 女の情欲によって融解し、いつのまにか、精神まで丸裸にされてしまう。 「子種、見せて欲しいな……わたしの身体にいっぱいかけてみてっ」 「はぁはぁ……んっんっんっんっんっ、……ふわっ」 「うわっ、びくんってきた……イッちゃうんだ、四四八くん。ねえ、射精しちゃうんだね」 期待に充ち満ちた声色が、背筋を這い上ってゆく。うっとり囁く歩美の声だけで、弾けそうになるのだ。 そして、ここまで来たら導かれる通り、思い切って吐き出すべきだろうと、遠くなりかける頭でぼんやりと思った。 「きゃあっ――――ッ」 びゅるるっと勢いよく空中へ吐き出された精液は、そのまま彼女の胸へ飛び散った。自分で思っていたよりも興奮していたようで、あまり見たことない量が吐き出されている。 「わっ、まだ出てるよ~、なんか感動する……っ」 目を輝かせて射精をじっと見つめる幼馴染み。俺はというと、気の利かない置物のように、ただ果てているだけである。 客観的に考えると、なんとも間抜けな光景だったが、それでも俺の中では吹っ切れたような気もしていた。 こんなことやっても恥ずかしくないのって限られてるよな…… 「ん……? なに、何か言いたそうだね。もしかして、今更おっぱいの大きさに文句言われても受け付けないよっ」 まったく見当違いなんだが……まあいいか。いちいち説明するようなことじゃないし。 とにかく俺は取り繕ったり、見栄を張ったりするような虚栄心などなく、自らをさらけ出すようにして、歩美に射精へと導かれていった。 すると歩美は、さらに期待の色を浮かべながら俺に言ったのである。 「さて……次はもう分かってるよね? 自分だけ気持ち良くなろうなんて、そうは問屋が卸さないよっ」 望むところだ。俺だって、ただされるがままってのは嬉しくない。 一発すっきりした後で、なんだか妙にやる気が漲ってきた俺は、わりとノリノリで歩美を抱きしめたのだ―― 「やんっ……、やらしいポーズだね……これっ」 立ちながら抱き抱えるようにすると、動悸がはっきりと伝わってきた。 さらけ出された上半身に対して、スカートを降ろした下半身には、まだ可愛らしいショーツがつけてある。 乳房での行為によって、歩美はとっくに出来上がっているよう。じっとりと汗で濡れているが、その実、乳房にはふんだんに精液が染み込んでいた。 自らの身体からわきたつ匂いに、彼女自身うっとりと頬を染めている。 「ね……こんなにエッチな気持ちって、四四八くん分かる?」 「なんだかね、自分の身体がまったく別になっちゃったみたい」 彼女の言うことは、なんとなく分かる気がした。一度果てたせいか、たしかに感度が違うのだ。あどけない胸や肋骨による射精行為。 おそらく普通の性行為よりも、ずっとアブノーマルに過ぎたせいで、互いの性感における感度みたいなものが、最大限にまで上げられてしまっている。 「はぁはぁ……出したばっかりなのに、四四八くんの、びんびんになってるね」 「わたしもね、さっきから濡れちゃってるんだ。やだ、四四八くんのおっぱいにあてて、擦ってただけで、すっかり出来上がっちゃったみたい」 見せつけるように広げられたそこは、ショーツ越しでも分かるくらいに温まっている。 「あそこ、じっと見てるね。そんなに気になる……?」 「わたしのここと、四四八くんのあそこが、これからちゅーってして、絡み合っちゃうんだね」 性器同士が擦り合うところからは、むっとした性臭が立ち込めて、汗と愛液の混じる腿は指でさするたびにねっちょりとした感触が絡みついた。 「あ……うぅ……んっ……四四八くんの手……気持ち……いい」 「お、おち○ちん、で触ってくれるのも、すごくいいよ……っ。先っぽから溢れてくるのが、とても熱いの……」 股間を上下に擦り上げると、陰毛が絡みつき、濃厚な粘膜の匂いがふわっと立ち込める。 とろりと愛液が零れ落ち、すくい取ってから、指の腹で擦り合わせて引き伸ばした。 「ふあぁ……んっ、……やだ、糸引いてる……。前はこんなに、ねばねばしてなかったのに」 「擦っちゃうと、いつもよりえっちなおつゆが出てくるのかな……」 陰裂に優しくペニスを置いてみると、そこはヒクヒクと待ち望んでいる。 「きゅんきゅんって、四四八くんのこと、欲しがってるのが、伝わってくるね」 「はぁあううぅ……っ、切なくなってきちゃったよ……」 恥ずかしさよりも、いよいよ物欲しげな気持ちが溢れてきているようだ。口調はより淫猥になり、腰を浮かして身体をあずけてくる。 「ほら、早くしようよ。ロリ体型の幼馴染みを好きにできるチャンスだよー?」 「こういうロリサイズが好きなんでしょ。期待してるから、さっきよりも濃いのをよろしくね」 一度、薄い胸板でイっただけなのに、妙な性癖イメージを持たれている気がする。 言い返したくもなったが、だからといって歩美がセックスアピールに欠けているとも思えなかった。 というより、可憐なスタイルというのも、これはこれでとても興奮するもんなんだなと自分の新たな扉を開いた想いである。 あれ、やはり何か開いてしまったのだろうか? 「あっあっ……はああああっ! いっぱいになっちゃうねえこれ……っ」 熱く揺蕩い蠕動する柔毛が総毛立つようにして絡みついてきた。 陰嚢にしとどに濡れた陰毛が張りついて、膣内では鈴口を柔毛でなぞってくる。 意識し過ぎると、それだけで衝動的に果ててしまいそうだった。 「え、えっちってこんな感じなんだ……くぅうううっ!」 気泡の混ざった大量の愛液。 ぐぷりっという粘着音が部屋に響き、ふわっと鼻の前を甘い体臭が通りかかる。 小刻みに痙攣している幼い体からは、かなり歳下の少女のような匂いが発せられているようだった。 「あっ、ああっ……はぁはぁっ、よ、四四八くん、これ、ずきゅんってくるよ」 息苦しそうな表情から、てっきり痛みの訴えかと思いきや、歩美はにへらと笑って続けた。 「な、なんかね、癖になっちゃいそうな痛さなんだっ。ああ、これでわたしの身も心も、男のものになっちゃったんだって……」 「しかも……んんっ、それが四四八くんだなんて、なんだか照れくさいやら……ふわぁ、あああっ、幸せやらで――」 すると動くとまだきついだろうに、彼女はぐいっと膣に力を入れて、ペニスを膣内から圧迫してきた。 脈動する男根を締め上げてくるざらついた肉壁は、これいじょう言わせるなと無言で伝えてくる。勝手にそっちからしゃべったくせに。 なんだよ、こいつも照れくさかったのか。 「はうぅぅっ……ひゃああっ! んくううぅっ……あっ……あっあっあっ」 「ふわぁああっ、んんっ……! 奥まで……子宮のっ、ところ……はぁはぁ、こつんって先っぽ当たったね」 しかし、身体の反応はようやく本気を出し始めたといったところ。子種を搾りとろうと蠢いて、絨毛がざわめいているようだった。 ねっとりとした濃厚な蜜が止め処なく溢れ出している。先ほどまでの濡れ方と比べると、圧倒的だ。深く挿れれば挿れるほど、洪水のように止まらない。 「はぁくぅ……っ! かはぁぁっ……んっんっんっんっんっ」 「四四八くんの……っ、おっきすぎて、引っかかれちゃうと、息とまる……ああっ! ああっ!」 「先っぽ、あついよお……ひゃああああああっ!」 ぐっぷぐっぷという律動する音が、ゆっくりと耳孔までをも犯してくる。脳髄が甘く痺れ、彼女の嬌声が混ざると滴る水音までもが淫靡に聞こえてくるのだ。 互いの蜜液による和合水がビチャビチャと音を立て、気泡が混ざり、目の前を時折真っ白にしてしまう。 徐々に獣欲へ変化してゆく秘めていた情熱が、小さくも淫らな肢体を求め続けていた。 「……んふふっ、我慢……しなくてっ、いいんだよ? もっとずんずん、パンパンってわたしの犯しちゃえ……っ」 「それとも、幼馴染みをえっちに鳴かせることが、四四八くんは気が引けちゃうのかな……?」 わざとらしい挑発的な声と台詞。余裕なんて無いだろうに、彼女のそんな優しさを感じた瞬間、俺の中で何かが切り替わった気がした。 「ひゃああぁんっ……! ふわっ、はわあああっ! んくぅうううう……ああっ!」 「と、とうとう、本気だねぇ……! たまらなく、なってきた……っ」 膣内には、溢れる蜜だけでなく、こちら先走った液が溢れるほど溜まっていた。混ざり合う水音が、床までをも染めてゆく。 いやらしい腰の動きと、それから肉の蠕動。亀頭が子宮口と擦れるたびに、彼女の反応は見事に違った。 びくんっと身体を仰け反らせては、喜びに打ち震え喘いでいる。 「かたぁい……っ! こ、こんなの持ってたのに、今まで使ってこなかったなんて……っ、もったいなかったね……んっんっんっん」 「お……奥まで、一番深いところっ、んはぁあああ! びりびりってしちゃう……んくぅうううう!」 「……はぁはぁっ、きっとわたし、これをずっと待ってたんだ……っ」 感情の狭間で、いよいよ歩美はすべてをさらけ出して、思いの丈を吐露している。本能だけではなくて、今まで共に過ごしてきた想い出やすれ違ったときもある時間。 いつからか大人になり始め、そういう意味で、彼女は誰よりも早く自分というものを持ち出した女だった。 だからこそ、開放される蓄念はひたすら純化された想いである。 「ふくぅうううぅっ……ひゃあああっ! んくううぅっ! ああっ、あっあっあっあっ……あああっ! あああああっ!」 喘ぎに合わせてペニスを抽送させると、子宮口のざらついた感覚が、鈴口を伝わって返ってくる。 突けば突くほど沼の深みへはまりこんでいく。いかなる理性があったとしても止めれない衝動が、波のように押し寄せる。 「はぁっ、あはぁっ、んんっ……ふわあぁあああああああーーー!」 「えっちな、音……パンパンって、すごく、やらしくて、好き……っ」 ぐぷりと溢れる泉は、いくら掻き出しても追いつかない。 高速で繰り返される恥骨のぶつかり合う渇いた音が、ことの終着地点を暗に伝え始めていた。 「ひくぅううぅっ……んんっ……はぁはぁっ! あっあっあっあっあっ、ああーーーぁっ!」 もっと深く。子宮の、さらに奥まで。 種付けしようと打ってゆくと、固く膨らんだ亀頭が子宮壁をずいっと擦り上げ、彼女の身体が大きく跳ねた。 「ひゃあああああああんっ! あああああああっーーー! んんっ……くぅっ……ふぅっ……はっはっはっ」 彼女の嬌声に脳内が染め上げられ、こちらも射精感を押しとどめるので精一杯だが、ここは男の見せどころである。 ぎりぎりまで堪えながら、めいっぱい打ち付けてゆく。 「も、もうっ……おかしく、なりそうぅ……そろそろイっていいかな……んんっ!」 「はぁはぁ……さっきから、バチバチって、と、飛びそうになってる……っ、ふわっぁあああ、はあぁあああああんーー!」 一心不乱に律動を繰り返す。高速でひたすた突きまくると、泡立つ和合水がはじけ飛んで、ぽたぽたと互いの内股にべっとりとついてくる。 沸き立つ性臭が二人の意識を真っ白にしてゆくようだった。 「ふああぁぁっ! かはぁああああっ! ひゃああああああーーーっ」 びくんびくんっと身体を弓なりに震わせ、よがり狂う歩美を抱きしめ、顔をくっつけて腰を限界まで押しつける。 間もなく尿道を駆け上がる感覚が襲ってきて、ついに劣情の果てを迎えようとした瞬間、彼女は叫ぶように喘いだ。 「ふあぁぁっ! ああああっ! ああぁああああああああああ……っ」 「あっあっあっあっ! イ……イクっ、イクの、イッちゃうよぉおおおおおっ!」 「ひゃ、ぁ、ああああああああぁっーーーーー!」 極限まで凝縮したような白濁の液。恥骨の存在さえ邪魔なくらい、限界まで身体を絡ませ合いながら、女の最深部へ印を刻んでゆく。 小さな肢体が、この腕からするりと抜けていかないよう、ぎゅっと強く抱きしめていると、歩美はそれ以上の力で爪を立てるかの如く、俺の身体を必死に掴んでいた。 互いにびくびくと震え、子種をこれでもかと固定にした少女へ一滴残らず注ぎ込む。 「びくびくって、いっぱい……出されてるよお……はぁわああっ」 和合水がぐぷりと零れ、オルガスムスは彼女を痙攣させて、その場へ縛り付けていた。小刻みに震える秘裂からは、ときおりぴゅっと潮が噴出されたりする。 「わ、わたしの方からも、出ちゃってるね……っ」 「それくらい、気持ち良かった証だ……四四八くん、最高に気持ち良かったよお」 身体の反応は淫靡な雰囲気なのに、言葉はどこかあっけらかんとしたものだった。 鼻腔の粘膜を溶かすくらい、濃厚な蜜の匂いが立ち込めている。そんな臭いは、行為が終わっても意識を途切れ途切れにさせた。 「ぐりぐりってすると、液が零れるの、止まらなくなっちゃうね……んふふ、どこまで出るんだろー」 「終わったはずなのに、四四八くんの、まだまだ種付けしたがってるみたい」 それを言うなら、歩美の性器もさらにもっと欲しがっているように感じたが、言い合っても仕方ないことである。 というか、こんなにも深く愛し合ったのに、どこか軽い雰囲気で脳内もさほど意味のないことを考えたりしている自分が、少し不思議だった。 性行為で交われば、もっと深刻になったりもするのかなと思っていたが、歩美に限ってはそんなこともないようである。 改めて俺は、こいつの器の大きさに感心さえしていた。 「いっぱい入りすぎて、わたしの体重、けっこう増えちゃってるかもね。気のせいか、身体重たい気がするし」 それは気のせいだ、と俺の立場からは言い切れないのが、恨めしい。 「たぷたぷしてる、この幸せを四四八くんにも伝えたいなあ」 男としては有り難い感想だが、それでもあんまり知りたいものではない。 もちろん、そういう俺の凡人っぽい感覚を見過ごしているようで、彼女の表情はただ悪戯っぽくしゃべる子どものようだった。 本当にマイペースでいつも通り―― 「大好きだよ。わたしの幼馴染みが、四四八くんで良かった」 そして、こういう台詞をぽろっと最後につけ加えて言ってくるのも相変わらずだった。 けどさすがにエッチした直後だからか、顔はどことなく恥ずかしそうでもある。そんな彼女を、ただひたすら愛おしく感じ、俺は再びその姿勢のまま抱きしめた。 「きっと戦いが終わったら、色んなこと変わっちゃうと思うけど……」 「でも、またこういうエッチなこと、二人でやれたらいいね」 微笑みながら、少しだけ寂しい決意の言葉を受け取ると、歩美はにこっと屈託なさそうに笑った。 だから、俺も余計なことは言わずに微笑み返して頷いた。 思い出の残る校舎、その廊下を歩きながら……俺は記憶を共有する面影を思い浮かべる。 俺が今、会いたいと思う相手を求めて。足はいつしか、その場所へと向かっていた。 「あ、柊……」 我堂がいたのは体育館。まだ記憶に新しい文化祭のことを思い出していたのだろう。俺に気づいてこちらを向くまで、こいつはこの場の諸々を感慨深そうに眺めていた。 「なんだ、あんたもここに来たのね。考えてることは一緒かしら」 「まあ、そうだな。今になって思うとっていうやつだ」 ここに来ればまざまざと思い返せる。あの演劇は、史実とそう外れていなかったということを。 なので我堂は、苦笑しながらそのことを話し始めた。 「あんたが書いた台本、最初に見たときは何なのこの超展開って思ったけど……不思議なこともあるものね。これも普遍無意識がどうたらってやつ?」 「自覚はなくても、史実に近い流れを選んじゃったっていうことかしら」 「分からない。だがそうだとしたら、それだけ石神の理想は真に迫っていたということだろう」 「あいつが夢に描いた俺たちは、出来の悪い二次創作じゃない。その証明になるんだったら、まあ……そういうことにしておくのもいいんじゃないかな」 「俺個人としては、会心の台本にアラヤの意思が絡んだみたいで複雑だが」 「静乃に文句を言いたいわけじゃあないみたいね」 「当たり前だろう。おまえは違うのか?」 問いに、我堂は肩を竦めて首を横に振っていた。 「まったく怒ってないって言ったら嘘になるし、先のことを考えると少し怖いのは本当。でも、だいたいにおいては光栄な気持ちよ。そこらへんはあんたも同じようなもんでしょう?」 「あとはなんていうか、ちょっと恥ずかしくなっちゃうわね。そこまで純に想われてるなら、夢を壊さないようにしてあげないといけないなって」 「似合わない?」 「いや、おまえはそういう奴だろ。よく知ってる」 この現実で見知ったこいつも、さらに百年前の記憶にあるこいつも、我堂という奴はこれで意外に面倒見がいい。 特に自分を慕ってくる目下の者に対しては、驚くほど寛容な思いやりを見せるタイプだ。厳密なところ石神は目下どころか親みたいなものなんだが、昔の記憶を有している今の俺たちにはそういう視点の見方も生まれている。 そこらへんが複雑で、少々持て余すところがあるのは復活以来何度も自覚していることなんだが、別に不愉快なものではない。 我堂が言うとおり、俺たちはそこまで石神に想われているという証なのだから光栄な話だった。 「で、それはそうと、あんたあの台本……会心の出来だったっていうのは本当?」 「なんだよ、悪いか? いい話だったろうが」 「人に身売りみたいな役をやらせといて、よく言うわねこの男は」 「おまえは実際にも、青幇の連中と交渉するときは突撃していっただろうがよ」 そう、俺たちが記憶している史実においても、こいつは〈青幇〉《ヤクザ》相手に喧嘩上等なカチコミを掛けやがったんだ。 黄錦龍との交渉がまったく話にならなかったのは我堂と関係ないことだけど、青幇の首領が黄金栄だったらきっとあの台本みたいな展開となったに違いない。 そこについては、かなり確信を持って言えると思う。 まあ、こいつを愛人にするのは相当の努力が必要だと思うが…… 「なに、あんたすごいムカつくこと考えてない?」 「気のせいだ。むしろ褒めてるんだよ、おまえは一筋縄じゃいかないってな」 「あっそう。じゃあそんな私らしく、意地の悪い質問を一つ」 指を立て、言葉どおり意地悪く微笑みながら我堂は問いを投げてきた。 その内容は―― 「もしあの台本みたいなことになってたら、あんたいったいどうしてたの?」 「つまり、黄錦龍がもう少しまともな奴で、交渉の余地があった場合」 「血の盟約を持ちかけられたら、あんたはそれを受けたのかしら?」 「それは……」 要するに、我堂が言いたいのはこういうことか? 「俺が、雪子と結婚していたかっていう話か?」 「そう。その場合、静乃は生まれなくなっちゃうけど、そこらへんのことは取りあえず無視して。もしもの話」 「あの当時、そういうことがあったらあんたはどうした?」 「…………」 これは、かなり、滅茶苦茶意地の悪い質問だ。我堂らしいと言えば確かにそのとおりだが。 「……実際の雪子は、まだ子供だっただろう。十歳かそこらだったぞ、あれ」 「だから何よ。干支の一回りと少しくらい、今も昔も全然珍しくない年の差じゃない。ヤクザ相手に、そんな理屈で言い抜け出来るとでも思ってるわけ?」 「さあほら、改心の台本だったんでしょう? だったら答えられるはずよねえ」 楽しそうだなこいつ。 だが言ってること自体に穴は無いので、いい加減には誤魔化せない。しかし、だからといってこれは……ああもう! 「分かった、俺の負けだ。実を言うとあの台本には、一つだけ矛盾と言うか筋の通らないところがある」 「自覚はしてたが、時間もなかったし、まあいいかって流したんだよ。全体として気に入ってる出来なのは確かだが……」 それでも、会心は言い過ぎだったと素直に認めた。問題の矛盾点とは、他でもない雪子の扱いに関すること。 「雪子と出会ったとき、俺はその……あいつを娼婦と勘違いしたって設定だったよな? それで、向こうのお誘いをこんな風に断った」 「俺は今から女を助けに行かないといけないから、それに際して別の女を買うなんて有り得ない話だと」 「そう言った柊四四八が、いくら状況が変わったからといって女を取引材料にするはずがない」 「つまり――」 「ああ、もしあの劇みたいな展開になったとしても、断ったと思う。だいたい、雪子と結婚したら黄が俺の義父になってしまうだろう。それは賢くない選択だ」 「まあそうね。要するに子分になっちゃうってことだもん。日本の極道社会も大概だけど、〈中国〉《あっち》は儒教の本場だし」 「それじゃあ同盟って言うより、服従に近くなっちゃうか」 「そういうことだ」 ヤクザや儒教の価値観では、親の言うことに逆らってはならない。実家が右翼の我堂なら分かるだろうが、その手の徹底した上下を重んじる縦社会だ。 ゆえに俺が雪子を娶れば、青幇との関係は対等じゃなくなる。悪手とまでは言えないかもしれないが、ベストな選択じゃないだろう。 「だから実際にああいうことがあったとしても、俺は受けなかったはずだよ。血の盟約を結ぶなら、黄本人と対等なものじゃないといけない」 「五分の兄弟杯みたいな?」 「理想を言えばな。まあ、今さら詮無い話だが」 そんな展開は有り得なかったからこの今があるわけで、本当にもしもの話だ。そしてそれだけにあの演劇は、史実に掠っていたがやはり現実的なものじゃない。 「てわけで、納得したか? 結局素人の台本なんだから、多少なり脇が甘くなるのは大目に見てくれよ」 「じゃあ、さ……」 と、そこで我堂は少しだけ口ごもり、窺うように新たな問いを投げてきた。 「結局、史実のあんたは誰と一緒になったんでしょうね」 「今の私たち、そこらへんの記憶がないじゃない? でも、核になってる子孫がいる以上、あんたが一生ぼっちだったってこともないわけで」 「それはお互い様だろう」 「まあ、そうなんだけど、でも……もしかしたら」 我堂の言いたいことは理解できる。百年前の俺が誰と結ばれたのかは何度も言ってるように不明だが、それは裏を返せばどんな展開も有り得たということだろう。 ゆえにもしかしたら、いま俺とこいつの核になっている存在は親戚だったりするのかもしれない。しかしそこについて、確かめる術は少なくとも俺たちにはなかった。 が、そのうえで俺は思う。 「どうでもいいだろう、そんなことは」 しょせん、いくら考えても分からないことだ。それに、今ここにいる俺はあくまで俺という一個人。 子孫であり、史実の柊四四八であり、そしてそのどちらでもない。 だから、そんな俺が抱いている素直な気持ちを口にした。 「この俺が選んだのは、おまえだよ我堂」 「史実がどうなのかは分からないし、関係ない。ただ、今この場では、そういう選択をしたんだよ」 「それが俺の真実だ」 「え、あ……」 言うと、我堂は一瞬呆気に取られたような顔をして。 「あ、うん。そうか、そうよね。ありがとう」 「甘粕事件のとき、邯鄲の中で一度あんたとはそういうことにもなったけど」 「なんていうか、どうしよう。記憶的には初めてじゃないのに、その……」 もじもじと、上目遣いにちらちらこっちを見てくる我堂。だが、そんないじらしい状態がいつまでも続くキャラじゃないと俺はよく知っている。 「ああもう、分かった。そうよね、これが今の私たち」 「百年前がどうだろうと、今の現実はここなんだもん。私もあんたに同感よ柊」 「だから――」 言って、我堂は…… 「な、なによ。なんか言いなさいよ」 「こんなところまで来て、これ以上、何を言えばいいんだ」 体育館から舞台袖まで連れてこられる間、我堂は何も言わなかった。 目も合わせない。ただ黙って俺の手を引き、そしてずんずんと歩いていって、こんなところまで引っ張ってきたのだ。 さっきまで思い出話をしていたときはすいすい言葉を紡げたのに、意識をすると上手くいかなくなってしまう。 それなのに、我堂は俺に何か言えという。 「……色々とあるはずでしょ。昔のことだけじゃなくて、たとえば、その、これからのこととか」 「言いたいことは分かるが、そういきなり詰め寄られても、すぐに出てくるもんじゃない」 顔と顔の間は、たった数センチ。身体は一メートルも離れていない。 衝動的に思わず抱きしめそうになったが、あまりに脈絡のない抱擁なので踏み止まる。 劣情に流されたら、それこそ後悔しきれなくなるだろう。 「その……、あんた、言い残したことあるんじゃない?」 俺が言葉を逸していると、どこか挑発的に響く声と台詞で我堂が言った。 口調は普段のように高圧的だったが、それでも見つめ合うまま、彼女は想いを吐露しようとしている。 そうだな。ここまで来たからこそ、言っておかなければならないこともあるだろう。 こいつの言うように、今ここで言い残したことがあったら、それは一生後悔することになるかもしれない。 「うまく言葉にはしにくいが……」 あやふやな焦燥や不安が、我堂だけでなく、俺の中にも渦巻いているよう。 だから、なるべく葛藤を表に出さないように、俺は言ったのだ。 「ちゃんと……生き残れよ」 「……なによそれ。ロマンの欠片もない。もうちょっとムードのある台詞とか吐けないの?」 「生憎、そういう台詞が得意な方じゃないんでな。この状況で俺から言えることは多くないんだ」 「死ぬな、我堂。それで俺の側からいなくなるな。また隣で、いつものように声を聞かせてくれよ」 「……ふん。生きて戻ってきても、今までと同じように喧嘩したり、憎まれ口を叩いたりするだけじゃないの」 「それでいいじゃないか。皆で約束したはずだろ。俺たちらしくあろう。いつもの自分たちを見失わないように……」 「そのために頑張ってきたはずだ」 すると我堂は少しだけ黙って逡巡した様子を見せる。こういう台詞はなかなか言い返せないようだ。 だが無理もない。周囲の悪辣によって乱されようとしていた俺たちにあって、あの誓いは何よりも大切なものだったから。 やがて彼女はゆっくりと首を縦に振る。 「……そうね。覚えてるわよ。その誓いだけは忘れたことないから」 「だったら、今はそれでいい。お互い、生きて戻ろう。皆のところへ」 そこまで言うと、俺からはつけ加えてもう言うことはなくなってしまった。 伝えたいことは全て言葉にしたし、大切なことは前からずっと変わっていない。 だからこそ、今だけは―― 言葉よりも、我堂の体温を感じたいと思ったんだ。 「ん……っ」 彼女が目を閉じると、静かに俺も目を閉じて、それからゆっくりとキスをした。 口づけを何と呼ぶかなんて野暮なことだが、抱擁を交わし、俺はこれはなんて言ったらいいんだろうなんて思っていた。 まるで互いの存在を、その感触と体温で確かめるようなキスだった。 「……柊、こういうキスって何ていうのかしら」 我堂も同じことを考えていたようだ。 「よく分からん。栄光なら知ってるかもしれないが、俺はあいつが読むような雑誌を知らない」 「雑誌なんてあるの?」 「女向けの方がこういうことに詳しいんじゃないか」 「……そう、かもしれないわね。水希なら読んでるかも」 「けど俺はよく知らない。教えてくれ、我堂……」 「四四八……」 「はむぅ……ちゅっ」 今度は舌を忍ばせようと思ったが、それも寸前で止まった。 彼女の唇は硬く、未だ閉じている。 俺を受け入れまいとして締まっているのではなく、わずかに震える様子から、まるで年相応の少女のようだ。 「くすぐったいっ」 「もう少し力を抜いたらどうだ」 「……抜かせてみなさいよ」 「ちゅっ…ちゅ……んんっ、んちゅ」 「んんっ……ちゅ、くっ、はむんちゅっ……ぷはぁ」 唇を離すと、間には露と光る糸が引き、橋が架かる。 だが、それでもほんの一瞬のことで、俺たちはすぐに唇を求め合った。 「ちゅぱっ……ちゅるぅっ、ちゅっ……れろっ、るちゅっ」 「はんぅむぅ、れろれろ……じゅぷぅっちゅっ……りゅむぅっ、れるぅっ」 唇をつけあったまま、縦へ横へ、斜めの奥へ。わざとくすぐるように密着させると、二人の身体は不思議な熱を帯びてゆくようだった。 粘膜で繋がった一体感。恍惚感をもたらすそれは、まるで今この瞬間を世界から切り取っているよう。 自然と抱きしめる力は強くなり、猛々しくそそり立ったそれを彼女の下腹部へと押しつける。 「はぁはぁ……なに…よ、これ。いつのまに固くしてたの」 「こういう場じゃ、自然とこうなるものなんだ」 「そ、そうなんだ……思ったよりもすごいわね」 「あまり刺激を与えないでくれ。我慢するのって、それなりにつらいものなんだ」 「……ふうん」 すると我堂は何か思いついたように目を閉じて、再びキスをしてきた。 「はぁんむ……、れろっ、ぺろっ……ちゅる」 「ちゅぶぅっ……ちゅるぅっ! はぁんむちゅ……ちゅっちゅっちゅっ」 「ぷはっ……はぁはぁ――」 「本当ね。すごい、どんどん熱くなってる。服着てるのに、こんなに伝わってくるなんて火傷しそう」 すりすりと腰をあててくる。妖艶な動きとは裏腹に、我堂の顔は熱にうなされたように焦点が定まっていなかった。 キスを止めると、鼻をつく唾液の匂い。互いの唾が混ざり合い、濃厚で眩暈がするくらいだ。 いよいよ身体の力が入らなくなった我堂を抱き抱えるようにして、その身体をしずかに横たえる。 彼女は無抵抗のまま完全に身を預けてくれる。 首筋、それからスカートから伸びるスラリとした足。 制服から覗いている肌へ触れると、汗ばんだ身体は幼い少女のように温かかった。 「……なんだか、今このときが信じられなくなるわね」 首をかしげると、彼女はほくそ笑むように答えた。 「柊が私のことを選ぶなんて、そういうのって時々、夢みたいに思えてしまうわ」 「誰かに望まれたわけじゃなくて、私が望んであんたが応えてくれた……まるでお姫さまみたいね、あたし」 キスのおかげだろうか。場所を移ってきたときよりも、ずっと我堂はリラックスしているようだ。 普段は見せまいとしている小動物みたいな笑顔。くすくすと笑うたびに、内緒話をしているようにしゃべって身体を触り合う。 「制服、脱がしてくれる……?」 彼女がこちらの手を自らの身体へ引き寄せる。衣服の裾から入り込んだ指が、きめ細かな感触へ滑り込んでゆくようだ。 「触られてると気持ちのいいものね……」 「もっと好き勝手にまさぐっていいのに、こういうときでも優しいんだから」 乱暴になんて出来るわけがない。 視線で誘導されながら、衣服をゆっくりと脱がせてゆく。同時にペニスを擦るようにして、彼女が手を這わせてきた。 熱っぽい視線が注がれ、軽く角度をつけて擦り上げてくる。 衝動的に流されそうつつも、ようやく行為に至るくらいまでには脱がすことができた。 「あはっ……、完全に裸になるよりもずっといやらしい感じね。こういうの好き?」 こくりと頷くと、彼女は満足そうに笑う。 「ふふ、良かった。柊の指、すごく気持ちいいわよ。優しいだけじゃなくて、ときどき男らしいの。触られてるだけで安心するのよ」 滑るように内肌へと潜り込む。贅肉の無い身体は、あたかも磨かれた温かい彫像のようだ。どこにも引っかからない。 「あっあっあっあっ……んんっ。爪があたって、ふわぁ……はぁはぁ」 内股はじっとりとした感触で、手を差し込むだけで、甘ったるい女の匂いがこみ上げてくるよう。 そのまま上下へとさするように陰唇を開き、生温かい粘膜は俺の指を飲み込もうとする。 くちゅりという小さな水音。指のは腹を押し付けるにして擦ると、ヴァギナからはとろりとした液が零れた。 じゃれ合いのような愛撫だが、我堂が相手だと妙な興奮をもたらしてくれる。 「もう、大丈夫よ……あんたの好きなときに来ていい、から……ひゃっ」 秘裂に触れると隆起した陰核が引っかかり、そのたびに彼女はびくんっと弓なりになって震える。 純化した愛欲が渦巻き、俺は怒張したものを相手の太ももへと押し当てた。 「やんっ……、熱い……生で触れると、こんなに固くて、どきどきしてる。血が流れてるの…感じるわ……」 「普段の柊と正反対ね……んっ。それとも……あっ、ふわぁ……ホ、ホントは、こういう動物みたいな男なのかしら」 嬉しそうに語ってるが、愛撫は一瞬たりとも止めていない。 ぴくんっと震えながら、狙いをつける亀頭に対して、彼女は身をよじって待ち構えている。皮がめくれたところにある、それは目で分かるくらい充血していた。 蜜が後から溢れてくる中心へ、熱く滾るペニスを埋没させたい。さらに奥で吐き出したいと身体を前へ進めてゆくと、俺のことを抱き抱えるように、彼女は身体を開いた。 「いいわよ……一番、深いところに来て……あんた以外の誰にも許さないところ」 「好きよ、柊」 「ふわぁあああぁ――はぁああああああんんっ」 導かれるようにして男根は滑り込んでいった。当然きついことはきついのだが、それでも奥に入る方が自然だと言わんばかりに膣内で引っ張られる。 「あ……はぁあああ……入っちゃったっ……柊のが……こんな奥まで」 「ふわぁっ、あくぅうううううっ……す、凄いっ……熱いっ」 内壁が絡みつき、ぐちゅという音が耳の奥へと響いて返ってくる。 陰茎が埋もれる膣内の収縮は、まるで打ち震えているようだった。隙間がない感触は、ここまでの一体感なのか。 「んっ……はぁはぁ…あああっ、ねえどう? 私の膣内は気持ちいいの?」 言葉で答える代わりに、より深いところへ亀頭を押し進める。子宮口にぶつかってしまうと、彼女は大きく息を吐き出した。 「はぁあああああああ……どうしてだろ、もう一番深いところで繋がってるのに、もっと欲しくなっちゃう」 「ああっ、あんっ、ふわぁあ、あっあっあっあっ――少しずつじゃなくていいのに、好きなように動いていいのよ」 彼女の反応は言葉の裏側まで共感できた。満たされてなお渇望するくらいの純情。 こうして繋がって初めて確認できる互いの劣情と本能、それから思慕の念が俺たちをどこまでも高まらせてゆく。 「……突いて柊。ぐちゅぐちゅにかき混ぜて、よがり狂わせて欲しいの――だって、あんたのおち○ちん、苦しそうだもん」 淫らなおねだりをする彼女が、ペニスを激しく締め上げてくる。 雁首を引っかける肉壁の感触は、休むことなく灼けつくように刺激してくる。腰まで蕩けそうだ。 おのずと腰をせり出す姿勢になって、子宮口と噛みつくようなキス。亀頭が擦り挙げられては腰が浮いてしまい、背筋から脳天にまで電気が奔る。 「ふわぁっ、はぁはぁ、くぅううう……んんっ! 私の膣内で、苦しいって暴れてるみたい」 「んんっ、あっあっあっあっ、はぁああああああ……あんたの先っぽから、溢れてきてるっ」 隙間のないように思えた結合部だったが、それでもとろりと雫が垂れて落ちてくる。 鈴口から漏れる先走りとむせかえるような蜜が混ざり、体育倉庫という密閉空間を淫靡に満たしていくのだ。 蠕動と絡みつく絨毛の感触。鼻腔をつく匂いにまで、互いの陰部が反応をして敏感になっているようである。 混ぜて掻き乱して腰を動かすと、絡みつく彼女の太ももが張りついた。 「すごいわね、溢れてるので、肌がぴたっとくっついてるわよ……?」 「太もものところから、濃い匂いがして眩暈がしそう……はぁあああ、私から零れたのか、柊のなのか、これじゃ分からないわね」 しとどに内ももを濡らす愛液の匂いは強烈だ。息を吸っただけで、本能のタガを外されそうになる。 わりとされるがままだった我堂も、少しは余裕が出てきたのか、積極的に腰をくねらせ始めた。 ただそれは技巧的というよりも、本能がペニスから吐き出される精を望んでいるよう。揺蕩う表情はだらしなく、けれど女の劣情を感じさせるものだ。 「ああっ……、ぐりぐりって、そこ、擦らないで……んんくうう! 感じ、過ぎちゃう……っ」 「ふわあっ……はあぁああん、分かる? 子宮がね、締まってからゆるんで、また締まって……、もう自分じゃどうにもできないの」 勃起している乳首は固く、勢いよく腰が前後するたびに、小ぶりな乳房も揺れる。 硬度を増し続ける男根から逃げては求める動きを繰り返し、拉致が空かないとばかりに強く突くと、我堂は破裂するような声をあげた。 「ひゃあああああぁっ! はぁああ……あうぅっ……んんっ……ああんっ」 「い、今の、奥がきゅんきゅんって……んんっ……ふわぁあああああっ」 「あっあっあっ……はぁっはぁっはぁっ……くぅううう! ぐしゅって音、いやらしい……」 鼻の前を通りかかる匂い、それと淫靡な水音。倉庫の中でぐちゅぐちゅとした音が響き、それだけでアブノーマルな雰囲気に包まれる。 突いて突きまくって吐き出したい。我堂という高めな女の奥に、男の一番濃いものを植えつけたいという欲望が迸る。繋がった部分から染み出す液は、とめどめもなかった。 顔に張りつく髪の毛でさえ、興奮を覚えてしまう。 「柊のそんな顔は初めてみたわね……素敵よ、最後まで私のこと貪って……途中でやめたら恨んでやるんだから」 悪戯っぽく告げてくる彼女の瞳は、とてもいやらしく見えた。それまで箱入り娘で育ってきた少女が、まるで悪い遊びでも覚えたよう。 「子宮より、もっと奥に出しなさい。柊の精子、全部受け止めてあげるから」 「先のことなんて考えないで。あんたの中に溜まってるもの、ちょっとでも残したら、ずっと言い続けてやるんだから」 頭ではなく本能でしゃべっているかのような我堂の言葉。 頭がおかしくなりそうなくらいの欲求を、こちらは理性で抑えているというのに、彼女はまるでおかまいなしだ。 そのとき、俺の中で――何かが焼き切れるような音がした。 「くぅっ……ふわあああっ……んはぁっ……あっあっあっあっあっ……!」 下腹部をさすり、彼女が恍惚に喘ぐ。 小さな乳房を甘噛みして、言われるがまま劣情を残さぬように、ぐいっと腰を奥へ浮かして律動を開始した。 「ああっ! んはぁあああ! な、膣内ぁっ、奥まであたってるぅうう……っ」 グラウンドすると身体は浮き、雌の汗がしたたり落ちる。 首筋、脇の下、結合部のいずれからも濃い匂いが溢れていた。芽吹くような性臭に肉棒は激しく怒張して際限なく硬くなる。 抽送を繰り返すたび、彼女は息を深く吐き出した。 「はふぅっ……、ふわっ、はっああっ、あっあっあっ……あふぅんっ」 「た、たまんないわ、柊の……ひゃああっ、上のところ引っ掻かないで……真っ白になっちゃう……くぅっ!」 彼女の足がびくんっと震えた。同時に肉壁がきゅっと締まって絡みつき、ぐいぐいと絞りだそうとしてくるのを感じる。 「奥まで、響てくるの……っ、びりびりって伝わって、お腹の中が下がってくるみたい……っ」 「はぁはぁ……くぅうううう! はわぁあああん! 痺れちゃう……っ」 乳首を甘噛みして、乳房を揺さぶるように愛撫する。 「ひゃああああああああぁっ! や、大きくないぶんっ……敏感なんだから、そんな風に吸わないでえっ!」 「はぁあああんっ! ああっ、あっあっあっあっあっ、ひゃああっ! ふわあっ! あああっ!」 嬌声と共に、零れてくる蜜の滲みは、もはや水たまりのようになっている。 互いの和合水はすえた匂いを放っており、秘裂は半開きのまま、まるでキスをせがんでいるよう。 いやらし口づけを。半開きの陰唇で噛み合い、そして膣内を熱い芯で蹂躙する。 「ふああっ! ひ、柊ぃっ……あついのっ、火傷しちゃう……そ、そんなに、かきまわさないで……っ」 内臓はとても熱く蕩けていた。蜜液は尻を伝い垂れ、よがり狂う彼女の高まりを伝えてくる。 膣内の壁を擦るように抽送を繰り返し、湯を掘るようにして雫を掻い出していくと、泡立つ精液は、じゅぷじゅぷと音を立てて滴り落ちた。 「もっと……もっとよ……っ、かき回して、乱暴にして……いいの」 「んくぅううううっ……はあはあっ! ああっ、ふわぁあああ……おかしく、なっちゃうくらいぅ、滅茶苦茶にしていいから……っ」 子宮の壁を突くと、意識を飛び越した身体の反応であるがように、だらしなく広げた足が、俺の腰へ巻きついてくる。 蠕動する絨毛の波打つ感触が、俺の意識を塗り潰すようだった。 「あっ、ああっ! ああああっ……! はぁ、んんっ……、くぅううう……っ」 疼く精嚢から、これでもかという興奮が迸って上ってくる。 「ひゃあああああっ、はああああうぅっ! はぁっはぁっはぁっ……ああっ! んくぅううううううう!」 いよいよラストスパートへ向かうべき律動を激しくすると、我堂は悲鳴を上げた。粘膜が焼けつくほどひりついて、情動が背筋を駆け抜けてゆく。 「あ、あついっ……、奥までパンパンっされて……あっあっあっあっ……!」 ピッチを上げると、返ってくる反応もタイトになってゆく。 亀頭がのぞくギリギリまで引き出して、再び子宮を貫く勢いで突き上げる。尻がきゅっとしまり、肛門がひくひくと物欲しげに震えていた。 ぐっぽぐっぽという愛液の音が耳穴まで犯すよう。 「はあああぁっ……ぁっ……んんっ! かたぁいの、イイぃっ……がちがちよぉ!」 「あっあっあっあっ! 柊の、なんて早いの……っ、身体、ついていけなくなる」 したたり落ちるかのように涎を垂らす女性器を、揺すりながらほじくってゆく。 堪能するほどの余裕はなく、もはや俺も動物の如くひたすら腰を打ち付けては、射精感が駆け抜けてゆく喜びに打ち震えていた。 「ふわあぁっ……ひぃうぅっ! はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……そ、それぇえええっ! そこがぁっ、好きなのおお!」 蠕動する膣内が一斉にうねり、まるで別の意志をもった生き物のようだった。子宮の壁をぶち破るかの如く、鈴口を当ててはこね回す。 「ひゃあああうぅっ……あっあっあっあっ! あくぅうううっ! 柊のぉ、おち○ちん……子宮のところ、たたいてるぅ……っ」 「い、いいわっ、出してくる子種、私がすべて飲み込んであげるから――」 パンパンという渇いた音が倉庫に響き、高速の律動が、泉を掘り返すようにびちゃびちゃという水音を一気に溢れさせた。 肉壁の蠕動が、昂ぶる男根をきゅうきゅうと締め上げた。ぐちゅりという粘着音が、脳髄へ染み渡ってゆく―― 「もぉっ、だめぇっ! ひゃああああああぁぁっ! あついの、ちょうだい……とろけるの……イッちゃうからぁああああっ!」 「イク、イクイクイクのっ! イッちゃうぅのぉおおおおおおおっっ!」 「きゃあああああああああああああぁぁーーーーーっっ!」 導かれるまま溜まり溜まった疼きを注いでゆく。女の奥の、さらに奥。俺しか許されない場所へ、白濁の液を吐き出した。 「キテるッ! あついのが、きてるよぉおおおおおおお……っ」 膣内で射精するという、背伸びをしたような甘美なる快感。極上のお嬢様へ種付けするという背徳感は、背筋をぞくぞくさせてくれる。 「きゃふううぅんんっ! あっ! ああっ! あああ……っ」 「まだ、流れてきてる……こんなに、いっぱい……ぐしゅぐしゅになってる」 痙攣する身体を抑え、我堂は何とか我に戻るように息を整えていった。 「はぁはぁ…好きよ……っ、大好き。ちゅ……ちゅっちゅ」 膣内から抜く前に、俺たちは後戯として口づけをする。腰の辺りには、未だ残っている甘ったるい痺れが残っていた。 結合部から、泡立つ和合水がぽたりぽたりと零れ続けている。 「膣内に入ってるの、幸せなものね……抜かないでもいいかしら?」 そういうわけにはいかないだろう。俺たちは戦いの場へ戻っていかねばならない。 ゆえにだからこそ、今だけはまどろんだまま、俺たちは抱き合って泥のように身体をあずけあった。 「……キスしたときの約束、覚えてる……?」 当然だろう。俺の方から、我堂へ言ったのだから。 「ふふ、今なら、どうして当たり前なことをあんたが言ったのか、理解できる……」 「たしかにここまできて、すんなり消えちゃうわけにはいかないわね」 「生きなきゃ。最後まで……死ぬか消えるかするまで、生き抜かないと駄目って、柊に抱かれてみて、強く感じてる」 思うまま吐き出した吐精は、雄としての本能であり、間違いなく身勝手な欲望だ。 それが俺の心を叩く。生きたい、消えたくない、せめて最後まで信じ抜いて生き続けたいと熱く滾るような想いに満たされていた。 「セックスすると、こんな風に世界が変わるものなのね」 とろとろの女性器から零れる精液は、強烈な匂いがした。むしろ行為中よりも、はっきりと感じられる生物としての交わり。 淫靡でありながら、どこまでも純化されたモノである。 「最後まで後悔のないよう戦いましょう。頼りにしてるわよ?」 「でもだからといって、過保護にならないで。私たちは背中合わせでいたいから」 そうして、俺たちはしばしの間、睦まじく抱き合い互いの体温を感じ合った。 「あり、四四八じゃん」 「意外だな。おまえが一人とは思わなかったぜ」 「そうそう。いいのかよ、あいつらの方へ行かなくて」 教室を出てからしばらく、特に誰と会うこともなく校内を歩いていた俺は、ここで栄光と鳴滝に捕まった。 先の台詞からこいつらの言わんとすることは分かっていたので、自嘲の笑みを浮かべる。 「茶化すなよ、見ての通りなんだから」 「なんだよぱっとしねえなあ。日頃の行いが悪かったんじゃねえの?」 「色んな奴を追いかけるより、もうちょい狙い定めておこうぜ。いやマジで」 「まったくだな。我ながら情けない」 「まあしょうがねえわな。石神が望んだ日常は、きっとそういうものだったんだろ」 「はは、そうかもな。みんなでわいわいドタバタとか、おまえがルート決めちまったら、楽しくラブコメできねえもん」 「取り合う内が華ってことだ。苦労したよな、おまえもよ」 慰められているのか馬鹿にされているのか分からない言われようだが、実際二人の言うとおりだろう。俺たちの日常は石神の理想だったのだから、むしろこういう落ちこそ相応しいのかもしれない。 無論、一から十まであいつに操られていたつもりはないし、これはこれで俺が選らんだ一つの結末だ。決戦前に男同士で小突き合うというのも普遍的なものだと思う。 「で、で、本当のところどんな気分だったわけよ。ギャルゲの主人公やるってのはさ!」 「五人に迫られるって、おまえこれ、考えてみりゃすげえことだぞ。せっかくなんだしその辺り、いっちょ感想言ってみろよな。このこの」 「黙秘権を行使しよう。というか、それを言うならおまえ達こそどうなんだ?」 「決まってんだろ、オレと祥子さんは年がら年中ストロベリー。何度生まれ変わっても必ず出会う運命なのだ」 「妙な勘ぐりするんじゃねえよ。こっちはどれだけ生まれ変わっても、馬鹿女だけは御免だわ」 「ほほう」 栄光はともかく、鳴滝に関しては別に特定の誰かを指したわけじゃないんだが、それでもしっかりと頭に思い浮かべる相手が存在したようだ。 それで思わずにやついてしまった俺に気付き、不機嫌を露にする鳴滝だったが、ここで何か言うほど墓穴になると分かっているらしく、拗ねてそっぽを向いてしまう。それが余計に面白くてしょうがない。 ああ、そうだよ面白かったんだ。俺たちの日常は夢にすぎないと分かった今でも、そこで感じ育んだ諸々は嘘じゃない。 だから石神に妙な罪悪感を持ってもらいたくもない。たとえ事が終われば消える身でも、守るべき何かを得られた喜びは本物だ。 俺たちは依然変わらず、自分たちの現実を大切に思っているからこそここにいる。 その気持ちを変わらず持ち続けていられる今が誇らしく、そう信じられるこれまでのこともすべて―― 「悪くなかったな」 「ああ、だから必ず守り抜こうぜ」 「最後に一発ぶちかますか」 ここに改めて、互いの思いを確認すると誓い合った。 男同士拳を合わせて、必ず朔を祓おうと俺たちは頷く。 「行くぞ、作戦決行だ」 俺たちの日常はただの嘘っぱちなんかじゃないと証明するために。 今こそ自分のすべてを懸けた意地を見せねばならないんだ。  皆で一緒に月蝕を見よう。  最初にそう言ったのは誰だったのか、今となっては思い出せない。  歩美さんや栄光さんの言いそうなことだけど、そうと断言できないのは特に揉めた記憶がなかったからだ。  これは実際、珍しい。僕たちは幼い頃からいつも一緒だったから、互いに遠慮をしないのが当たり前で、思ったことは即座に言う。  少なくとも、ただ一人年下である僕を除いた七人はそういう人たちで、何をするにも始めは一悶着あるのが常だった。  纏まりがないわけでは決してないが、その手のお約束があったということ。  最初に何かを提案するのは、言った通り歩美さんか栄光さん。ポジティブな反面トラブルメーカーな二人だから、よく突拍子もないことを言い出して周りに突っ込みを入れられている。  その一番手は、だいたいにおいて鈴子さんだ。子供っぽいとか馬鹿馬鹿しいとか、とりあえず何かしら文句をつけるのが役割だと言っていい。  それに淳士さんは追従するか反発するか、場合によってまちまちだけど、共通しているのはひどく端的に切り捨てるということ。なのでそうした態度に鈴子さんはどのみち腹を立ててしまい、議題は明後日の方角へ飛んでいく。  そこで筋道を正そうとするのが晶さんだ。しかし彼女は一言二言多いので、すんなりとは中々いかない。煽り耐性もあまりないため、むしろ余計に紛糾させてしまうことが多い。  僕の姉さん、世良水希はその点クレバーで如才ない。どういう方向に乗ったらより美味しいか、即座に見極め立ち回っている。ある意味、収集のつかなさ具合を頂点に引き上げる役だろう。  それは見方を変えればお膳立てで、続く最後の一人へのパサーだと言えなくもない。かなり暴投気味ではあるけれど、上手く締めてくれるだろうという期待と信頼の表れだ。  ゆえに、四四八さんは毎度見事に皆を纏める。彼にとっては面倒この上ない役割かもしれないが、そういう星のもとに生まれた人だ。リーダーとして相応しい人格と能力を持っており、その特性を磨くことにも余念がない。  他者に厳しく、自分にはもっと厳しく。誠実で裏表のない柊四四八を仲間の誰もが認めており、僕も彼を尊敬している。  おまえもそれでいいな信明―― と、皆を黙らせた後で確認してくる四四八さんに、笑って頷くのがこの僕だ。そうした一連こそが普段の展開。  だから、すんなり決まったあの日の月見は、とても珍しいと言い切れる。  誰かが言った。じゃあそうしよう。そんな風には到底いかないはずなのに、いってしまったから逆に細部の記憶がぼやけているのだ。  いつもの工程を踏んでいない。個々の役割がばらけている。パターンから外れてしまった催しは強く印象に残った反面、どこか非現実的に曖昧だった。  まるでそう、夢であったかのように。  皆既月蝕――それ自体はまったく特別なものじゃない。年に一・二度はある天体ショーで、具体的に言えばその半年前にも同様のことは起こっている。  だけどあの時、2015年の四月初頭……春休みも終わりかけた夜の月は、僕ら全員を微々に惑わすある種の魔性を帯びていたのか。  これが何か、一つの区切り。  ここから始まる物語を、皆が感じていたかのように……  僕は千信館に合格した。遠からず四四八さんたちと同じ制服に袖を通し、あの学校の門を潜る。  そのお祝いを兼ねた集まりというのが発端ではあったけど、それにこじつけて月蝕を見ようとなったわけではない。そのことだけは覚えている。  おまけはどちらかと言えば僕のほうで、ああつまり、そうだよ。そうだ。  僕の名前は世良信明。幼い頃からずっと一緒だった八人の中で、ただ一人だけ居ても居なくてもいい存在。  先の役割分担からして、僕の立場というものは明白だろう。ずっとずっと、そういう位置にこの自分は身を置いていた。  自虐ではない。卑屈になっているつもりもない。そんなことはとうの昔に自覚して、乗り越えたという自負がある。  この物語、万仙の陣という悪趣味極まりない〈歴史〉《シナリオ》の中で悟りを得たのだ。  僕は四四八さんたちと違う。  そして、だからこそ僕にしか出来ないことが存在する。  仁義八行の八人目にはなれないからこそ、忘れてはならない一つの真。  世良信明という男が貫くべき覚悟のかたちは、至極単純。  僕は彼女を……あのとき掴んだ誇りと温もりを見失わない。  君を守る。救ってみせる。  愛情は深まるばかりで増すばかり。強く激しい君は綺麗だ。  逆さ十字の後裔である彼女に捧ぐ僕の思いは、まさしく緋衣南天に相応しい花言葉そのままで……  それはこんなことになった今も――  勇気の真実として胸にあるまま変わらない。  だから今、このときこそ僕は前に進むのだ。 「…………」  死病の廃神、玻璃爛宮――その内部に渦巻くものは言語を絶する憎悪と憤怒と、そして痛み。自我がバラバラに砕けかねない病の嵐を掻き分けながら、僕は進み続けている。  だが言ったように、迷いも躊躇も今さらなかった。ここにきて、自分がどういう存在なのかを自覚したから尚更に。  世良信明は夢である。  百年前、何も成せない落伍者として自決した負け犬が、石神さんの理想によって形を成しているだけにすぎない。  それは純粋に、この上なく名誉であり幸せなことだった。なぜならやり直すことが出来るのだから。  かつては姉さんに救ってもらった形だが、今度こそ自分の力で何かを成し遂げるチャンスが与えられている。  救われるのではなく、救うことが出来るのだ。ならば我が身の儚さなど、もはや何でもない些事だろう。  たとえ夢だろうがなんだろうが、僕は今ここにいるのだ。  そう思える自分の心は真実で、ゆえに己が真を貫くのみ。  その一心で、僕は玻璃爛宮の中を歩いていた。ここで絶対、何が何でもやらなければならないことが存在するから。  タタリの核として縛られた僕は、四四八さんたちのように一度消滅するということがなかった。しかし石神さんによる再構築の影響は確実に受けており、それが真相に対する理解という形で顕れている。  これは同時に、石神さんも僕の目的を幾分かは察するという相関を生んでいることだろう。以前、彼女に言われた言葉が胸を過ぎる。 “君に想われている女は幸せだな。どんなときでも味方になってくれるという安心感がある”――  実際、自分がそこまで頼り甲斐のある男なのかは知らないが、そうありたいと思っているのは確かだった。  ゆえにこれは、僕じゃなければ出来ないこと。石神さんにも四四八さんにも不可能で、彼らとは違う世良信明だからこそ成せる役割なのだと信じている。  僕は彼女を、そう、彼女だけを何よりも……  願い、誓い、祈り、信じる。  その果てに、僕はようやく目的の場所へ到達した。  第八等廃神・玻璃爛宮のここが中核――それを象徴するかのごとく、目の前に現れた人物が誰であるかなど言うまでもない。  彼もまた、僕と同じ生贄だった。強いて違いを挙げるならその属性で、言わば精神と肉体の関係だろう。  僕が玻璃爛宮と繋がったのは心の部分、すなわち無形の生贄としてであり、彼は血族という物質的な繋がりから選ばれた生贄だ。  一つの廃神に二つの生贄を要したのは、それだけこのタタリが強力だという証だが、そこには別の意味も存在する。  彼女は、自分が生贄となるのを避けるために僕らを見繕ったのだろう。  逆十字の後継者として最上の候補適性を持っている彼女だからこそ、万が一にも自分が引っ張られてしまわないよう、念を入れたということだ。  なんともらしい。容赦なく狡猾で冷酷な作戦だが、そこに文句をつけるつもりはない。  少なくとも、僕に限れば。  この状況を生んでくれたことに感謝さえしているんだ。ゆえに目的を果たそうと思う。  そしてそのためには、そんな僕の気持ちを〈彼〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈う〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  いいや、〈彼〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  周囲には、玻璃爛宮によって虐殺された何千何万もの人たちが苦悶しながら蠢いている。そこは略奪するタタリである特性ならでは、逆さ磔にかけられた人々は、この死病渦巻く世界で永劫に苦しみ抜くということだろう。  僕にとっては、〈好〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  だから怖じずに、襲い来る激痛を無視して前に出た。  さあ、勇気の誓いを今から果たそう。正確にはその前段階にすぎないが、だからこそここで失敗などしていられない。  かつて甘粕に言ったとおり、僕は戦いが嫌いだし興味もない。そういう形で見出す強さは世良信明の真じゃないんだ。この身が掴んだ夢の力は別のもの。  ゆえに無駄だよ。どんな恨みや怒りをぶつけてきても構わないが、その手の土俵で君たちとは向き合わない。  僕は真摯に、ただ何処までも…… 「緋衣さん……」  君を守る。救ってみせる。覚悟は微塵も変わっていない。  前にも言っただろう。あまり甘く見ないでくれ。  これでも一応、やるときはそれなりにやる男でありたいと思っているんだ。 そして、千信館の校庭に俺たちの全員がそろう。 「行くぞおまえらァ!」 「──応ッ!」 俺の号令に、気合を込めて応える仲間たち。集まった顔ぶれには、充分な覚悟と闘志が漲っている。 「俺たちのやるべきことは一つ、石神をあそこに突入させることだ」 もはや前置きは不要とばかり、俺は作戦方針を切り出した。 「それはもちろん、分かってるけどよ」 栄光が遥か頭上を見上げて、しみじみと呟く。 「あそこまで行くって言っても、まずはその手段からだよな?」 鎌倉上空、果たしてどれほどなのか具体的な距離は掴めないが……目指すべき敵地、黄の宮殿はとにかく虚空に浮かんでいる。内部へと続く階段こそあるものの、それは地上までには届いていない。 「実際問題、空を飛んでくしかないだろうし。となると、そりゃオレの役目か?」 「こう、石神を抱っこするなり背中におぶるなりしてよ」 「いや、そのやり方は選ばない」 解法による重力キャンセルと、それを駆使した空中機動。それは栄光の得意とする領分だ。こちらの手持ち札的に当然それだろうという一番の具体策を、俺は即座に却下した。 「そういう真っ当な踏破の仕方では、おそらくあそこへ辿り着けんだろう。この場合、問題は空間的な高度じゃない」 「どういうことだよ?」 「黄の邯鄲の性質がどんなものかを考えてみろ。奴が、そう容易く外部からの接近を許すと思うか?」 俺の投げかけた疑問に、真っ先に頷きを見せたのは世良だった。 「万仙陣は自分だけの理想に閉じた桃源郷……だから、他者と触れ合うことや交わることも絶対にない」 「ああ。それが〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》という男の持つ特性だ。当然、奴が創形したあの宮殿にも同じ性質が働いていると見るべきだろう」 試してこそいないが、おそらく目に見える距離はまったく当てにならないはずだ。邯鄲における法則とはそういうものだと、かつて経験した数多の記憶が物語っている。 「だってさ。しーちゃんと密着チャンスの役得、なくなって残念だねぇ栄光くん」 「いや別に。つか、いくらオレでもそんぐらいのTPOは弁えるわ」 「でも、そうなると他に方法は?」 「私の存在だけだろう」 歩美と栄光のやり取りを横に、我堂が視線と問いをこちらへ向ける。それを受けて、石神が俺の代わりにそう答えた。 「私は〈黄〉《ヤツ》で、〈黄〉《ヤツ》は私だ。他人の言葉を馬耳東風と受け流すあいつであっても、自分自身の声にだけは耳を傾けざるをえない」 だから石神の創形で、地上から階段を積み上げていく。地道な作業になるが、それが現状もっとも堅実な方法だろう。そう断言するこいつの口調に迷いはなかった。 「うわー……あそこまでかぁ」 「考えただけでも気が遠くなるな」 そろって空の上を見上げ、歩美と晶が溜息を吐く。 「その通りだ。それには決して少なくない時間が掛かる」 「そして、その時間を稼ぎ出すことこそ俺たちの役目なんだ。つまりその間、何が来ようと石神を守る」 「この千信館に、どんなタタリも踏み込ませちゃならないってことだ」 ここぞとばかり、俺は全員の顔を見渡して告げた。 「決死の防波堤ってところか。いいぜ、上等だ。やってやろうじゃねえか」 「うん、分かった!」 声に出したのは鳴滝と世良だけだったが、残るみんなも一様に力強く頷く。事ここに至って、怖気づく奴なんかは一人もいない。 「すまない、みんな……!」 「そういうのは言いっこなしだぜ、静乃。結局最後は、おまえが一番しんどい役目なんだからさ」 「それに、鎌倉市民をこの狂った夢から引っ張り出すためでもあるしね」 石神を気遣う晶に続き、我堂が毅然と宣言した。 そう、今この瞬間も、異形に変えられた人々は危機的状況に陥っている。すでに顕象している玻璃爛宮はもちろんのこと、個々が生み出すタタリも実体化は近い。 だからそれを俺たちが掃討する。黄錦龍に外敵排除などという思考はないだろうが、鎌倉市民たちは違うだろう。本能的に自分の理想郷を守るため、すべてのタタリがこちらに向かってくるはずだと予想できた。 それは彼らを守ると同時に、その夢を粉砕するという意味でもある。黄の終段に嵌ることで絶望から救われた人もいるだろうから、目を覚まさせようという俺たちは恨まれるかもしれないことさえ承知の上だ。 それでも、これはやらなければいけないことだから。 「なるほど、こりゃ難儀な仕事だわ。まあでも、やるしかねえよな!」 守備範囲は鎌倉全域。その上で、この千信館を不落に保つ。間違っても楽な戦いじゃないことだけは確かだが…… 「栄光の言う通りだ。やるぞ、みんな!」 「どんなに困難だろうと、それが俺たちらしさを貫くってことだ」 最後に全員の総意を確認する。対して、迷いのない六つの頷きが返ってきた。 「ま、心配すんな石神。何があろうと、必ずあそこまで送り届けてやらぁ」 「おうよ、どんと任せとけって!」 「この私たちは、あんたが想い描いた理想の英雄なんでしょ? なら、こんな所で負けっこないわ」 「ああ、ヒーローは絶対に負けちゃいけねえんだよ。そんで、おまえも一緒にヒーローになろうぜ!」 「うん、しーちゃんはもうわたしたちの仲間なんだから!」 「あなたを信じてるわ。だから、あなたも私を信じて」 思い思いに、滾るような決意を告げながら散開していく仲間たち。それに一つ一つ頷きを返す石神の瞳は、感極まり潤んでいた。 「俺たちを――おまえ自身の夢を信じろ。その想いの強さが、最後は一番の力になるんだからな」 「うん……!」 最後に俺を見上げた石神の顔が、眩しく輝く。 それに頷き、俺もまた千信館の校門に向かい踵を返した。  千信館校門。  この場所を守るために残留したのは、歩美と水希の両名だった。  仲間から二人が選ばれた理由だが、まず歩美は目端が利く観察眼と攻撃射程の長さ。それは高精度の索敵と先制攻撃を可能にし、拠点防衛には欠かせない重要な要素であると言える。  もう一方の水希に関しての選出理由は、言うまでもなく誰もが認める総合的な実力の高さ。四四八を含めた全員の中でもそれは傑出しており、どんな局面にも対応しきれる信頼性を有している。  二人が相手取るのは、各方面に散った仲間たちが討ち漏らした敵群だった。いわば残敵掃討を兼ねた、最終防衛ラインの死守が両名の役割である。  だが戦域は広く、そして敵であるタタリの数も招来源である市民の数だけ圧倒的に多い。対するに仲間の方は、静乃を除いてたったの七人。  よって防衛拠点であるこの場所も、戦闘の初期から相応の激戦区と化していた。ついに実体化を果たしたタタリたちが、自らの理想を守るために大挙して顕れる。 「絶対、こっちにまでは来させないよ!」  〈照準〉《レティクル》の十字線に捉えた、不定形の煙霧めいたものを必殺の銃撃が吹き飛ばす。  触手怪物と化した鎌倉市民、その身体から湧き上がってくるそれこそが討つべきタタリの本体だ。  遠距離からの狙撃、さらにそれを受けて分裂する断片をも、射から散に切り替えた即席の榴散弾が逃さず全て消滅させる。 「ここは私たちの持ち場なんだからッ!」  そして歩美の射撃をもってしてもカバーしきれない分は、遊撃手として水希が各個に撃破。確実に防衛ラインへの侵入の芽を摘み取っていく。  咒法の射と比しても見劣りしない韋駄天の疾走、そして抜刀からの斬撃。銀の流星めいた剣閃が乱れ飛ぶごとに、街路を覆うタタリは寸断されては消し飛んだ。  数こそ雲霞のごとく多いとはいえ、その大部分は神祇省の等級で言えば遥かに力の劣る低級廃神たちである。  よってこの二人の実力をもってすれば、そうそう危うい局面を招く事態には陥らないと思われた。現に、押し寄せる何度目かとなる波状突撃はたった今完璧に蹴散らしたばかりだ。 「どうしたの? 何か気がかり?」  にも関わらず、歩美は過度とも言える警戒の様子を崩さない。  油断や慢心への戒めゆえそうしているのではないことは、共に戦う水希にも伝わっていた。 「うん……もしかしたらここであいつが来るんじゃないかと思って、気を張っちゃって。  絶対、こういう嫌なタイミングで何か仕掛けてきそうな奴だからさ」  歩美が口にした相手とは、彼女に取って因縁深い宿敵のことだろう。  すなわち鬼面衆を統べる神祇省の奇才、壇狩摩。もしタタリ化した盲打ちがここに現れたとすれば、なるほどそれは危険な事態に違いあるまい。 「でもその様子はないみたいだし、今のところは助かってるかも……」  そう安堵を一度は口にした歩美だったが、すぐに思い直したように。 「みっちゃんには、そういう不安はない?」  共感を求めるように水希に尋ねた。  因縁の宿敵は、彼女にもまた存在するのを知っていたから。 「そうだね……完全に意識してないかと言えば、嘘になるかな。あいつも、こういう時に足を掬ってくるのが得意だし。  でも、神野だったら逆にここでは仕掛けてこない気もするの」  歩美の不安に半ば同意しつつ、水希はそう自分なりの見解を告げた。 「そう?」 「うん。あいつはこんな時、もう少し待つんじゃないかなって……  私が警戒できる程度に〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》なタイミングは見送って、もっとたちの悪い、劇的な瞬間を狙ってくるんじゃないかってね」 「それは今この場じゃない?」 「何の確証もないけど、そんな気がするな。それがどういう形になるのか、まったく想像付かないけど……」  予感は不気味なものであり、とにかく〈外〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》んじゃないかという気が水希はしていた。しかし今はそれにかまけているわけにもいかない。  今この瞬間にも、タタリの群れは四方八方から集まってきているのだから。  二人が背にする千信館校門。その向こうの校庭では、静乃が邯鄲を組み上げている。自分たちの勝利へと繋げる、布石となるべきその道を。 「まあでも、どうせやることは同じよね。たとえここで神野明影が出てきても」 「壇狩摩が出たとしても――」  水希と歩美は得物を再びその手に構える。そして雄々しく叫びを上げた。 「ここは絶対に通さないッ!」  最終防衛線、依然としてここに健在。  同時に、その頃――  鈴子は街を駆けていた。一帯の景観を見渡したその顔は、痛ましげに歪んでいる。  視界に映るのは、かつては健常な姿を保っていたであろう鎌倉市民の変わり果てた異形の姿。  湧き上がってくる激情は、それに対する嫌悪よりも怒り。この異常な光景を生み出した存在への、人としての義憤だった。 「これがあいつの願う〈終段〉《ユメ》、なんて最悪な人間賛歌よッ」  第四盧生、黄錦龍の描く極彩色の狂気……そう、まさしく狂っていなければ紡ぎ出せない、腐爛した廃人の夢が今地上を覆い尽くそうとしている。 「改めて思ったわ。あいつは絶対に許さない。  だから、思いきり気合を入れるわ――いいわね淳士! 足引っ張るんじゃないわよッ」  自分自身にも言い聞かせるように、隣を疾走する〈相方〉《パートナー》を叱咤する。 「ああ。おまえも気を付けろよ、心配してるんだから」  何ということはない一言で、淳士が返す。  が、聞いた鈴子は思わず眉をひそめていた。  ここはいつもの流れなら、『うるせえな、分かってるよ』『おまえに言われるまでもねえ』あたりの悪態が返ってくるタイミングだったから。 「……ねえあんた、何か悪いものでも食べた?」  これが四四八に掛けられた言葉だったら、これほどの違和感は覚えなかっただろう。  しかし幼なじみかつ悪友と言ってもいい淳士とは、今さら改まった気遣いを要するような間柄じゃない。 「何言ってんだ。俺はいつだって、おまえのことを誰より守り抜くと決めてるんだぜ」 「──は、い?」  更に重ねて優しい言葉を掛けられ、甘ったるいシロップを一気飲みしたような表情になる鈴子。  たとえ天地が逆になろうと、鳴滝淳士とはこんな台詞を真顔で口にするような男ではない。まして、その対象が自分であるなどありえないと誰よりもよく知っている。  鈴子はもはや、淳士に対する明確な異常を感じ始めていた。 「何なのよそれ……ふざけてる場合じゃないでしょ、やめなさいってば」 「俺はいつだって真剣だぜ、鈴子――おまえのことだけを考えてる」 「おうぇぇ、気持ち悪ッ──!?」  そして淳士もまた、隣を行く相方の反応に渋面を浮かべている。 「……おまえ、頭どうかしちまったんじゃねえのか?」 「私はどうもしないわよ。それより、あんたを頼りにしてるんだから。  お願いね? 信じてるわよ、淳士――」  明らかにいつもとは態度が違う。絵に描いたような女らしさというか、妙に馴れ馴れしいというか……とにかく、自分が知る我堂鈴子の振る舞いとはかけ離れている。  よしんば隠れたこういう一面があったとしても、自分にだけは絶対に見せないだろうと淳士は確信していた。 「うぷ……おい、気色悪い冗談も大概にしろよ。マジで鳥肌立ってきたわ」  不気味さから無意識に距離を開ける淳士だったが、知ってか知らずか相手は逆に近寄ってきた。 「照れてるんじゃないわよ、ばぁか。私とあんたはお似合いなんだって、昔からよく知ってるでしょ?」  そして明らかな媚態も露わに、微笑を漏らし肩をすり寄せてくる鈴子。  百万歩譲って二人が恋人同士であったとしても、状況を考えれば常軌を逸した言動だと言えるだろう。  事ここに至って、淳士は完全に異常を確信した。  何らかの外的要因で心身に変調を来たしているのか、あるいは何者かに精神を支配ないし操作されつつあるのか……いずれにしろ、この鈴子には喝を入れる必要がある。  だからこそ―― 「この馬鹿野郎、目ぇ覚ませ!」  ――淳士は吼え。 「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ!」  ――鈴子もまた叫んだ、のだが。 「なにッ――」 「――えぇッ?」  同時に放った大声は、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈隣〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  異常事態に対し、反射的に肉体が起動。大きく後ろへ飛び退いた二人は、互いに背中で誰かとぶつかる。 「おま――なんでそこにいるんだ!?」 「こっちの台詞よ!」  肩越しに振り返った先には、今しがたまで隣を疾走していたはずの相方の顔があった。  そして、困惑する二人の前方には…… 「ああ淳士、本当のあなたはそこにいたのね」 「俺はいつだっておまえの傍にいるぜ、鈴子」  あろうことか、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈組〉《 、》の鈴子と淳士の姿があった。  その目は、すぐ前にいる互いの相方のみを映している。自分たち〈偽〉《 、》〈者〉《 、》の存在など、文字通り眼中にない。  そして交わし合うのは、蜜のように甘い睦言。現実の二人であれば決して口にしないような、恋人同士の会話だった。 「なんなんだ、ありゃあ」 「……ッ」  出遭ったならば死を呼ぶという、自分そっくりの〈二重存在〉《ドッペルゲンガー》。  瓜二つの容貌は、まさにそんな伝説の妖怪をも連想させたが……明確な自分たちとの差異は、いつの間にか身にまとっている戦真館の黒い制服。そして何より、その口から出る言葉の数々である。 「愛しているわ、淳士。本当は柊なんかより、あんたのことがずっと好きだったの」 「俺もだぜ、鈴子……おまえに比べたら、辰宮百合香なんざ目じゃねえよ」  見つめ合う映し身の二人は想いを語り、互いを求めて情愛の焔を燃やし続けていた。  現実に存在する淳士と鈴子を置き去りにしたまま、まるで誰かの描いた脚本を読み上げるように。  そう、現実の二人は〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》が何であるのかをもう理解していた。  目の前で織り成される恋愛劇こそ、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》鳴滝淳士と我堂鈴子の戯画である。  この二人の関係を、“こうであるべき”と望み求めた鎌倉市民の妄想が具現化したものに他ならない。  であれば、続く展開を予想するのは容易かった。 「ねえそこのあなたたち、目障りだから消えてくれないかしら?  どう考えたって、私たちの方がニーズのあるカップリングよね。誰も求めてないのよ、〈そ〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》なんか」 「それに、そもそも〈そ〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》も夢だろうが。  石神静乃が勝手に描いた憧れじゃねえか。同じ夢なら、俺らが入れ替わっても文句ねえよな」  やはりというか、つまりそういうことだった。彼らは“コレ”が正しいと思っているから、立場の交代を望んでいる。  もとよりドッペルゲンガーとはそういうもの。  同じ顔、同じ声、醜悪なまでに瓜二つな鏡像を相手に……淳士と鈴子はそろって怒りを爆発させた。 「ふざけんなよ、コラ…… 俺たちとてめえらが同じだと? 冗談じゃねえ笑わせんな!」 「そうよ、あんたたちとは全然違うわ。たとえ夢でも、築いた時間と関係は創作なんかじゃ決してない。  そこには、れっきとした真があるのよ!」  短絡的なお花畑の恋愛脳め。男女の関係は何も愛情ばかりではない。友情や信頼もこうして確かに育めるのだ、見るがいい。  それだけは譲れない気概と真を込めて、彼らは己の戯画と向かい合う。 「一緒にするんじゃねえぞ、この中毒者がァァッ!」 「私は飼い主、こいつは下僕。間違えんじゃないわよコラァッ!」  そして戦端は開かれる。  陰と陽、互いの存在を賭けた奇怪な死闘の幕はこうして上がったのだ。  その二組を見下ろす、遥か沖合に至る鎌倉上空―― 「うおおおぉッ!」  押し寄せるタタリの群れを突き破り、栄光は宙空を単身駆けていた。  敵の数こそ圧倒的だが、ここのタタリはまだ確たる形や属性を定めていない不完全なものたち。  栄光の繰り出す崩の解法を前にしては、どれもが霞のように吹き飛ばされて消え去るのみだ。 「やべえな、段々きつくなってきた」  しかし、栄光は次第にタタリたちの様相が変化していることに気付いていた。  徐々にではあるが、より強固な存在感を有した個体が増えつつある。まるで、何かの到来を告げる先触れのように。  それがどういうことなのか、ある予感を脳裏に描き始めていた。  具体性のある凶兆のイメージ。かつて一度、いや幾度にも渡って相対した、彼の知る最大脅威との対決によって刻まれた記憶。  現れたが最後、万象全てを瓦解させ滅亡させる最悪の敵……いや、〈敵〉《そ》の概念すらも超えた存在が、空を震わせ顕現しようとしている。  自分には誰よりも〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》との深い因縁がある。だからこそ、ここでぶつかるのは間違いなく〈奴〉《 、》であると栄光はそう確信していた。  そして―― 「やっぱりてめえか」  眼下に広がる〈碧〉《みどり》の海を断ち割って、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》は傲然と現れた。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」  関東平野にも匹敵すると謂われる、夢界最大の霊的質量。人も魔も超越した巨大なる零落の龍神。 「よう、久しぶりだな龍神様ッ──!」  空間をそのものを撃砕するかのような、凄まじい震動を伴う霊圧の波動……ただ曝されているだけで圧し潰されそうなそれに真っ向対しながら、栄光はその名を吼えた。  〈記〉《 、》〈憶〉《 、》に刻まれた恐怖と、こうして同じ空間に相対することで感じる脅威とがシンクロする。  栄光は自身を勇者とも強者とも思っていない。むしろ、いつも勇気や強さから遠い臆病な弱者だと自認し歯がゆく思っている。まして空亡とは〈対〉《 、》〈戦〉《 、》〈済〉《 、》であり、その力を見誤るはずもない。  だからこそ、あれが己の――いや人間の手に負えるような存在ではないことも、十二分に弁えていた。 「けどよ。無理だろうが無茶だろうが、出てきた以上はどうにかするしかないだろうが。  そしておまえの相手をするのは、オレの役目と決まってるんだよッ」  振り絞ったのは弱者の勇気。朝露のように儚いそれだけを握りしめ、栄光は龍神めがけて突撃する。 「ぐッ、がァァァッ……!」  だが何をされるまでもなく、この相手には接近することそれ自体が最大の破滅を意味している。全身の細胞一つ一つが引き剥がされ、魂ごと解体されかけぬほどの空間震――空の津波が、栄光を木っ端のように粉砕にかかる。  のみならず、その余波となって襲い来る百鬼夜行の凶将陣も健在だ。キャンセルしきれないその突撃が、全身を〈膾〉《なます》のように引き裂いていく。 「滅・滅・滅・滅ゥゥゥ」「亡・亡・亡ォォォ──!」  余りにも圧倒的なその猛威。だがしかし、迫る死を前にして栄光は恐怖よりも違和感を覚えていた。  空亡は強い。それは誰もが承知の事実である。  だがしかし、栄光の記憶と眼前の実態との間には名状しがたい誤差があった。それはこの空亡が弱いということではなく、逆に強すぎるということでもない。  記憶とは何が違うという本能的な感覚。それが何であるのかと、薄れかける意識をつかの間巡らせた瞬間…… 「栄光さん――」  いつの間にか傍に寄り添っていた気配。耳に馴染んだその声が耳元で聞こえた。 「……〈野〉《 、》〈枝〉《 、》、さん?」  栄光の口から自然と零れ出たのは、より深い記憶に刻まれたその名前の方だった。  それは、今の彼女が身に着けている服装ゆえだったが…… 「いいえ、違いますよ。〈祥〉《 、》〈子〉《 、》です」  呼ばれた相手は栄光を見つめ、静かにそれを否定する。 「私たちは夢ですけど真実でしょう。〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》で重ねた時間と記憶は、確かな本物なんですから。   だから私は野澤祥子、あなたと同じ時間を生きた同級生に他なりません」  よって過去の装いに戻っているのは、祥子の本意ではないのだろう。気が付けば栄光の方も、いつの間にやら戦真館制服へと変じている。  おそらくは、かつて演じられた空亡と二人との戦いを知る鎌倉市民が投射した願望による影響。  こうして空亡の前に現れた祥子を、かつての名勝負の再現として“戦真館の伊藤野枝”に見立てようとする心理は、彼らが望む展開として当然だとも言える。  そのため、空亡に接近するほどその影響力を受けてしまうということ。 「それより、栄光さんは気付いていますか?」  試すような祥子の瞳に、栄光は全てを理解したように頷きを返す。 「ああ、奴を見透してみて分かったぜ。  あいつは、本物の空亡じゃない」  あの空亡には弱点がない。まるで、予めそれを知っていた〈誰〉《 、》〈か〉《 、》が修正を加えたかのように。  かつて栄光と〈彼〉《 、》〈女〉《 、》が挑んだ時のように、忠の真をぶつけたとしても通じなくなっている。  つまり鈴子が相対したキーラ・グルジェワのように、かつては通じた必勝法がバグのように取り外されているのだ。  それは一見、更に輪をかけた無敵状態と化したようにも思えるが…… 「ぶっちゃけ、とんでもない〈冒涜〉《かいあく》だなありゃ。弱点を無くした代わりに、奴に取って大事なものも一緒に消えちまっている」  栄光はそう看破する。  陰陽狂乱というタタリ神として本来持っている属性。それを都合よく消されているから、強化されたように見えても実は脆い。  解法の才に特化した栄光、そして祥子には、眼前に迫る龍神の構造がはっきりと解析できていた。 「二次創作なんてそんなもんだ。薄いんだよ」  矛盾だらけ。後付けだらけ。  その場限りの思いつきで、ごてごてと無粋な装飾品を付け足された模造品。大地の歴史が生み出した龍を再現できるはずもなし。 「あんなもんに、俺たちは負けねえ」 「それにもう二度とごめんですしね。  こうして、やっと巡り会えたんですから――」  自然と繋がれた手と手。指先に感じるのは確かな熱と力強さ。  栄光は、言葉の先をそこに感じ取る。 「ああ、オレも嫌だぜ。この想いを、また龍神に捧げるなんてさ」 「なら、今度こそ最後まで――」 「行こうぜ、この気持ちを抱いたまま!」  そう力強く宣した二人は、迫りくる彼方の空亡へと突撃していった。  荒れ狂う空の津波を押しのけて、誇り高くちっぽけな流れ星のように。 「なあ、見えるだろう神様──  俺たちは取り戻したぜ。百万回、生まれ変わってよォォッ!」  勝ち誇るかのごとく掴んだ愛を掲げながら、栄光は偽りの廃龍を喜びと共に撃ち抜いた。  そして――神域たる八幡宮。  その場所でもまた、真を賭けた激戦は続いていた。 「──ッ、お構いなしかよこの野郎!」 上空で顕現する第八等廃神・玻璃爛宮。対峙する超巨大なタタリと化した悪夢の具現は恐るべき猛悪さを無条件に撒き散らしていた。 現実に這い出ている時点でもはやこいつに制限などはない。聖十郎を救いたいんだ、対等なのだと言ったところで問答無用。逆十字は常に効果を顕している。 補足人数、射程距離は制限無し。さらに協力強制の概念さえ必要しないというそれは、言いたくないがまさに無敵だ。こちらの身体や記憶を自由自在に奪い獲り、逆に病を押し付けてくる。 逆さに磔られた木乃伊が髑髏のように昏い眼光を覗かせながら、俺を眺めて万の呪詛を垂れ流した。 「そうだいいぞ、俺を憎め。俺は無敵だ、最強なのだ」 「盧生になる。盧生になる。それ以外、この世に何の意味がある! 貴様ら残らず磔となれ!」 激している。狂している。理性の蒸発しきった姿は初代逆十字、柊聖十郎が持つ負の側面を極限まで浮き彫りにした闇の標本に他ならない。 玻璃爛宮が語る言葉は百年前そのものだが、自我は無いも同然だった。ひたすら憤怒と罵倒を浴びせる姿に知性はなく会話は欠片も成立しない。ただ自分の抱いた渇望を壊れたレコードのように鳴らすだけ。 その様が悔しくて、悲しくて、腹立たしくてたまらない。ふざけるな、こんな〈悪夢〉《ユメ》をなぜ願う──! 「見ていられねえよ。こんなの……ッ」 俺を必死に回復する晶も、嘆きを噛み締めるように玻璃爛宮を見つめていた。死病に侵されていく苦痛よりも、あれが存在しているという事実が何倍も心に痛い。 柊聖十郎は悪党である。手の付けられない外道である。そうだとも、いいやそうあるべきだという祈りの結晶……あんまりだろうこんなのは。 負けられない、見くびるなという一念で降り注ぐ瘴気の波動に耐えながら逆さ十字へ挑んでいく。進行速度は跳ね上がるが、こっちはもう闘病という我慢勝負も慣れっこなんだよ。 規模と効果が膨れ上がっている程度で、止められるなど思うんじゃない。たとえ夢であったとしても人は進歩すると教えてやる。 そしてそれは、何も自分たちだけじゃないはずだから── 「おいクソ親父、聞こえているなら応えてみせろ」 「あんたともあろうものが、そんな奴の生贄に甘んじるのか。悔しいと思うなら少しは気合いを見せてみろッ」 願われて存在していたものだから、お行儀よくタタリの中で核になったままお寝んねか? 随分と生温くなったなおい。何か言ってみたらどうなんだ。 「あんたは本当にムカつく奴で、何度も何度も腹が立ったし、嫌った時期もあったけど……誇りに思っている面も確かにちゃんとあるんだよ」 「いつか乗り越えるべき壁なんだと認めているから、こんな勝手に逝くんじゃない!」 だから、なあ聞こえているか? 馬鹿だなんだとこき下ろしていた息子からこうまで叱責されているんだぞ。我慢ならないのがあんただろう。 しかもそれで何とかしてしまう奴だから、こちらも柊聖十郎という男のことを意識せざえるを得なかったんだ。つまりそれだけ認めているし、目標としている部分があったんだ。 なのにこんな局面で子供に手を焼かせるな。いつものように威張ってみせろ。不敵に笑って馬鹿にして、理不尽みたいに凄いところを見せてくれよ。 俺が超えたいのは親父である柊聖十郎であり、初代逆十字なんかじゃ決してないから── 「だいたい母さんはどうするんだ」 「うちの親父だって、どれだけ泣くか分かんねえしさ」 「あの日常は誰が欠けても駄目なんだよ。そうだろう?」 みんながあんたを待っている。長い時間を経て奇跡のように家族となれた俺たちだから、最後までそれらしくいこうじゃないか。 「だからさっさと帰ってこい。迷惑かけろ。こっちはそんなの慣れっこなんだ」 「らしくない心配なんかするんじゃないぞ。幾らだって受け止められるさ」 「なにせ俺は──」 生まれてきたんだ。ここにいるんだ。あんたのおかげだ──ありがとう。 「──親父。あんたの息子なんだからなァッ!」 両親から継いだ血統を己の〈真〉《マコト》と掲げながら、誇りと共に突撃した。 瞬間、病ごと押し返すような気合の喝破がどういう効果をもたらしたのか。確かに一瞬、玻璃爛宮の攻勢が嘘のように停止する。 生贄となった聖十郎がもはやただの死者であるのは晶も俺も分かっていたが、しかしそれでも目の前で起こった光景に思わず小さな笑みが浮かんだ。 タタリと化してもはや抗えないはずの支配に対し、あり得ないことに何かしらの反旗を翻したと確信できたのだ。 どのような手段かは分からないが、ああまったく、それでこそ。 不可能を可能に変えた事実に対して痛快な感情が湧き上がった。あんたはやはり、俺にとって超える甲斐がある親父だよ。 見ていろ、いつか必ず今度はこちらがあっと言わせてやるからな。 それがいったい何時になるかは分からないし、その機会が訪れるかは分からないが願うくらいはいいだろう? 自慢に思っているんだから、これぐらいは許してほしいと。 夢らしく、僅かな刹那に確かな祈りを小さく捧げて── 「届けぇぇッ──!」 宙に浮かぶ巨大な逆十字へ向け、俺たちの放つ懇親の一撃が突き刺さる。 それは奇など一切てらわない、ただ真っ直ぐな、呆れるほどの全力により形となった……父に捧げる魂をこめた一撃だった。  それら仲間の奮戦を今この時も静乃は強く感じていた。  彼らの想い、誓いに覚悟。自分や仲間を互いに信じて、誰もが彼女へ可能性を託そうと命を懸けている事実。  繋がる絆に嘘はない。思うならば願うならばと、酔いしれた芝居などでは形にできない心の強さは涙が出るほどありがたい輝きだった。  だからこそ── 「ありがとう。見ていてくれ、みんな」  ただ一人、万仙陣を打ち崩せる剣として彼女はついに崑崙へ続く階段を組み上げることに成功する。  校庭から空へと延びる一筋の回廊は、黄錦龍との間に出来た道筋をなぞって生まれた天への梯子。堕落の仙境へと至る唯一無二の手段だった。  創形と同時に駆けだした身体は、着実に目的地へと接近していく。  その度に絡みつく愛玩の気配が濃くなるものの、それがどうした。仲間のためにも万仙陣を打ち砕くのだと揺るがぬ決意のまま走り……しかし。 「見ているな」  同時に、前進するたび感じるのは別の視線。非常に凶悪な、救いようがないほど激烈な呪詛と怨念が自分一人へ向けられていた。  それは今も絶えず噴火し続けている憎悪のマグマ。世界を呪い、他者を呪い、運命を絶えず罵倒しているそれら執念の持ち主を、静乃はもちろん知っている。 「やはり来るか、緋衣」  緋衣南天。崑崙へと至る階段の途上に、彼女が自分を待ち構えていると理解したのだ。  ならばこそ無謀には進めない。なぜなら南天と戦いになれば、静乃は再び成す術もなく負けるだろうと半ば確信しているために。  その予想は非常に正しい。事実上、南天の急段を防ぐ手段を静乃は何も有していない。  一度は仲間たちに助けられて生還を果たしたものの、一対一の状況下ではどうなるかなど火を見るより明らかだ。千信館の面々に今も負い目が残る自分では、また墜落の逆さ十字に苦も無く嵌まってしまうだろう。  いいや、逃げられる者などいないのではないかとさえ思っている。  なにせ万仙陣に嵌まる可能性がある存在とは、イコール落魂陣にも嵌まると言っていいのだから。  いい〈展開〉《ユメ》が見たい、できるならば現実で。こんな馬鹿げた条件に囚われない、最低でも盧生ほどの精神力を有していなくば南天に突き落とされて終わるだけ。  石神静乃ではどう考えても勝ち目がないのは明白だったが、しかし不思議とそこに気後れは欠片もない。悲壮感さえ一滴も胸によぎりはしなかった。 「確かにそうだな。私はおまえに敵わないよ」  刻一刻と南天が待ち構えているだろう場所へ近づきながら、足取りに迷いは無い。  敵の優劣を認めていながら、いったいなぜ? この落ち着きは何なのか。  そう、戦いなら……殺し合いなら緋衣南天はまさしく無敵だ。  彼女が有する生きることに懸ける執念は、何者にも侵せない。万仙陣の傀儡だった経験のある静乃は決して敵わないだろう。  けれど、戦いではなかったら?  可能性は充分にある。いいや、事実これだけしかないのだろう。  考の心を破魔の武器として用いようとした自分では、彼女に対して成せなかったことがある。それが今必要なのだと、静乃は強く感じていた。  悲しいかな、正義では届かない想いがある。生まれつき癒せない病がある。ならばそれら、根深い闇を真に救済できる心は、いったい何か?  決まっている。 「だから、君の出番だ」  呪わしい邪悪と、救えない痛みを祓うのはいつだって愛と勇気。  かつての逆十字が、妻と親友にだけは勝つことができなかったように。  彼女を想う真摯な愛を抱くのは彼しかいないと手を伸ばす。 「彼女を救うのが、君の真なんだろう──信明くん」  誰より一途で、とても強い男の子。君に好かれているという女子は幸せだと言った言葉に嘘はない。  どんなときでも、どんな相手でも味方になってくれるだろうと今も強く思っているから。 「私もまた、君の勇気を信じているッ」  ここに輝く、シンノヒカリを見せてくれ。  祈り、願い、誓われて──百年の時を超え信の心が形を成した。  一人じゃ駄目だ。道具が要る。自分は生贄になどなりたくない。  かつて彼女を動かしたのはそういった利己の念だけ。  縁を強固に繋ぐことで自らの代替となる玻璃爛宮の核を求め、うまく利用するために緋衣南天という逆十字は世良信明を見定めた。 「ふぁ、っ……いいよ、ほら、もっと求めて信明くん」  甘い媚態と鳴き声は、蜜を湛えた食虫花だ。愛や情など欠片もなく、自身の身体を利用して悲願成就の工程を推し進めていた。  夢見る気楽な童貞が。弱さゆえに腹を裂いた落伍者め。  ほらよかろう、溺れろ貪れ。そして必ず役に立つのだ。百年前の残影ならせめて今を生きている自分のために踊ればいいと、内心激しく嘲りながら彼女は初心な少年の恋心を毟り獲る。  最後の最後に絶望させて、逆さに無様に吊るしてやろう。  淫蕩さの裏で着々と互いの存在を外法の鎖で結びながら、それだけを目的として一時彼女は女優と化した。  そして実際、その目論見は達成する。上手く彼を動かして身代わりに捧げることまで成功した。  そう成功した、はずだというのに── 「糞が、屑が、塵が、死ね。どいつもこいつも死ねばいい」  なぜか今、少なくとも彼女にとってはまるで解せぬ理由により、憤死しかねぬ窮状へと再び叩き落された。石神静乃の復活が、戦真館の再来が、渦巻く痛みと憎悪により暗い炎を南天の内で燃え上がらせる。  仁義? 愛? 勇気に友情──ふざけるな。  そんな餓鬼が好むような御託の力で、再び自分に死ねというのか。  おまえは醜い悪党だから、優しく雄々しい自分たちに磨り潰されろと夢や希望を抱きながら語るというなら、決して決して許さない。  単に運よく健康に生まれただけの虫けらども、命の価値を真実欠片も知りはしない者たちに自分の祈りを否定させはしないのだ。  信明みたいに役に立て。おまえたちに比べたら、あれは便利な道具だったと今なら素直にそう感じられる。  まったく今思い出してもあの馬鹿は、間抜けでこんなにも笑えるのだから。  緋衣さん緋衣さんと、子犬のように名を呼びながら尻尾を振って懐く様はまさに計算通りだった。  実に愚かなその姿は時に彼女を楽しませ、時には苛立たせてもいたけれど、不利益になることだけはおそらく一度もしなかった。  甘粕の手から独力で帰還した際など、有用性を発揮したこともある。  散り際も実に無様で最後まで模範的なモノだったと、南天は悪鬼のように笑みを深めた。  だからこそ、彼が消えたあの瞬間、なぜ自分が涙を流していたのかが、ふと小さな違和を掻き立てたが──馬鹿な、違う。そんなこと。 「あれは歓喜の涙だ」  あまりの滑稽さに笑い過ぎてしまっただけ。  なぜか、そこに凄まじく不吉な予感を覚えることなど気のせいである。  これら一連の流れが、何かをなぞっているなどとは。  思わないためにも、強引に己が思考を現実へと切り替える。石神静乃を粉砕して万仙陣を回すために。  黄錦龍が唯一残している現実への窓を潰してしまえば、誰も桃源郷を壊せない。第四の終段は真実無敵のものと化し、緋衣南天は勝利を得るのだ。 「さあ来なさいよ、妄想好きの淫売が。都合のいい閉じた夢へ逃げ続けていた塵屑なんかに、私が劣る道理は無いッ」  ゆえにもう一度、今度は二度と戻れないよう地獄の底まで墜としてやる。  静乃の心は盧生などと違って健常、言ってしまえば俗である。桁の外れた馬鹿ではなく、人間賛歌を謳い続ける聖典などでもない以上、凡人らしい心の傷を突いてやれば彼女は再び〈急段〉《ユメ》へと嵌まる。  それは南天のみではなく、両者が共に認めている覆せない真実だ。石神静乃はどう足掻いても今代の逆十字に単独で勝利できない。  だから、さあ、さあ来いと悪魔のように膿んで爛れた憎悪をかざし、彼女は獲物を待ち構える。  この階段を通った瞬間、渾身の絶望を叩き付けてやるために。  気配を感じ、残った力を振り絞って病んだ視線を狂えるように持ち上げた。  そのとき、彼女が捉えた影、は── 「待たせてごめん。けれど、約束を果たしに来たよ緋衣さん。  僕が君を救ってみせる」  少年の姿を目にした途端、一気に血の気が引いていった。  逆十字を〈天国〉《じごく》へと導くために、百年の時を経て再び〈聖者〉《あくま》が現れる。 「来るなァァァッ──!」  瞬間、悲鳴そのものである絶叫をあげて南天は後ずさった。手を突き出すように相手へかざし、狙いさえつけぬまま咒法を何度も何度も放つ。  全身が震えて止まらない。病による絶望さえ、迫る救済の光に霞んだ。  この構図、この展開──ああ、信じられない。彼女はそれを知識としてだがよく知っている。  今から自分がいったいどんな末路を辿るのか。悟らざるを得ない恐るべき確信から少しでも逃れるべく、血涙さえ流しながら睨み呪い罵倒を吐くのだ。 「やめろ、消えろ、近づくなよ。こっちを見るな。見下すなッ!  私を恨め憎悪しろッ! 使い捨ての道具なら、呪いを吐いて地獄の底まで墜ちてろよォォッ」  叫ぶだけで気道が破れ、口から蛆と腐汁が溢れだす。  それがなぜか、堪えられるのに苦しくて。 「やだ、見るな。見るな見るな、そんな目でッ──」  この姿……すなわち病み爛れた自分を信明に見られたのはこれが初めて。  彼の前ではどんなときでも外見だけは取り繕った。それは男を誑かす女として当然の嗜みであり、他に意味などありはしない。  ゆえに今、明確な障害となった信明を排除する段においてはどうでもいいこと。むしろ、こんなおぞましい化け物をおまえは抱いていたのだと嘲笑ってやればいい。  そう思っている。思っているがなぜかどうして――気が狂いそうなほど彼に見られることが怖いのだ。  視線。視線。優しい瞳。歩み寄る信明が憎くて憎くてたまらない。  こんな様である自分さえ慈しむその視線こそ、最大の侮辱であり恐怖だった。女の素顔を見破る男は、どんな理由でも死ねばいい。  悪意によって夢を回すが、さっきから南天が出来ているのはそれだけだ。 「ああぁ、糞が、どうして嵌まらない」  このお目出度い男は、事ここに至って恥も憎悪も恐怖も不安も抱いてなかった。むしろ己の愚かさを誇りさえするかのようで、求める墜落が顕象しない。  その真実など、もはや語るまでもないだろう。 「言ったはずだよ。僕は君を必ず救うと。  緋衣さんが大切なんだ。それが偽らざる本心だから、あと一度だけ役に立とうと足掻くのをどうか大目に見てほしいな。  大丈夫。緋衣さんがどんな人でも、僕の想いは変わらない」 「────ッ」  願っていない、知るかやめろ──などとはもはや言えなかった。すれば駄目だ、ますます自分が一連の流れに嵌まると予見する。  悲鳴と恐怖を噛み殺すのが今となっては精一杯だ。嫌悪するこちらに構わず歩み寄る信明は、南天を光で〈癒〉《こわ》す救済者という名の死神だった。  そう、こういった人間こそ逆十字の系譜にとって最大最悪の鬼門である。  こいつらは愛という最悪の狂気で武装した、道理の通じぬ怪物ども。  己の〈病魔〉《やみ》が通じぬどころか犬のように懐いたあげく、破滅をもたらす〈気〉《 、》〈狂〉《 、》〈い〉《 、》である。絶対に、そう絶対に関わってはならない人種だった。  かつて柊聖十郎が恵理子の手で〈浄化〉《けが》されながら憤死した時とまったく同じ。相手の〈病巣〉《ヤミ》を正視しながら純粋な愛情を向けてくる存在こそ、彼らにとって真の破滅をもたらす盧生以上の怪物なのだ。  これを上回る猛毒がいったいどこにあるというのか…… 「────殺してやるぅッ!」  だから絶対に許さない。使えない急段を選択から捨て、直接的に消し去るべく病の波動を呪詛と共に相手へ飛ばした。  〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈す〉《 、》〈べ〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈な〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。なぜならかつての聖十郎は眷属から外された上、死ぬ寸前であったため抵抗さえも出来なかったが自分は違う。  極限まで病は悪化しているものの、未だ黄の眷属ゆえに物理的な殲滅が可能だった。ならばここで小細工抜きに信明を砕くしかないだろう。滾る憎悪を呪殺に変えて、南天は病の波動を叩き込む。  死霊さえ凌駕する怨念が空間すら毒しながら標的を包み込んだ。浴びればあまりの凶念に一瞬で脳死する呪いを飛ばし、そのまま朽ちろ、果ててくれと半ば懇願するかのように放っているが、しかし、やはり。  これだけ呪い恨んでいるのに信明は止まらない。前進するたびに死病を宿し、かつて邯鄲で聖十郎とリンクした際に受けた何十倍の苦痛を受けても、愚直に耐えて自分へその手を伸ばしていた。  儚い笑みは翳りもしない。  目に宿る光は真っ直ぐで、清らかで、悪感情や絶望など欠片もなく。  何だこれは、どうかしている──こんな〈愛情〉《はめつ》はあんまりだろう!  あれに捕まったら祓われる。鴻鈞道人の筆頭眷属、落魂陣の〈操〉《く》り手である自分は妖仙……物語のように封神される未来が見える。  そう、見えるのだ。  ああ、なんということ――〈緋〉《 、》〈衣〉《 、》〈南〉《 、》〈天〉《 、》〈が〉《 、》〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈逸〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  落魂陣が顕象しない最大の理由はむしろそこに存在した。信明の人間性だけが原因ではない。  盧生と偽り、利用した。絶望させて叩き落した。そして訪れた結果を前に涙して、これは歓喜ゆえだと何度も何度も、逃げるように――  その一点、そこに付随する感情についてのみ、南天は己の真実から目を逸らしたのだ。そして今も認めていない。  史上最強の眷属たる少女が体現した性命双修は、このとき音を立てて崩れ去った。  すなわち、それは彼女もまた彼のことを……  いいや違う、断じて有り得ん――そんなことは絶対にない!  これを認めてしまったら、逆十字ではいられないと分かっている。 「死ね、死ね、死ね死ね死ね。気持ち悪いのよ近寄るなァッ!  ひどいじゃない。あんまりでしょう。何をしてても無駄だと言うの? 結局最後は綺麗な光で昇天しろって? 世界はやっぱり間違っている。そうよ、こんなにも間違ってるのに!  そんなに私が憎いのか。そんなに私を〈天国〉《じごく》に叩き落としたいのか。ええありがとう信明くん──私もおまえが大嫌いだッ」 「おまえみたいな、奴なんて───」  嫌いだ。嫌いだ。こんなことなら、最初の内に殺しておけばよかった。  どうして素直に役に立ってはくれないのだろう。思い通りにいかないのか、分からない。  何より、そう。 「そもそもどうして、堕天したはずのおまえがいるのよ。玻璃爛宮の生贄として確かに捧げたはずなのに……ッ」  こうして再び自分の前に顕象できたか、まるで理屈が通らなかった。  いくら彼が静乃の描いた夢であろうと出来ない事象は当然ある。とりわけ第八等もの廃神を召喚する核となった生贄が、呼びかけ一つで再び容易に舞い戻るなど誰が見てもおかしいだろう。  甘粕事件で世良水希は神野明影を祓ったが、それは第二盧生が抱える最強の眷属である彼女が相手であったから。そして両者の関係性があったからこそ、苦難の果てに成し得た偉業だ。  それと比較してみれば、これがどれだけ有り得ない事態なのかは一目瞭然。どう考えても理解できない。  石神静乃が急成長した? いいや違う。  まさか盧生が召喚した? それも違う。  ならば、ならば、いったいどうして── 「どんな理屈で、ここに帰ってこれたというのッ」 「簡単なことさ」  呪いを込めた詰問に、何も難しいことじゃないと彼は優しく囁いた。 「あのときから僕は君を憎んでいないし、絶望もまたしていない。  そう、最初から〈堕〉《 、》〈天〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》だけなんだよ」  告げた言葉に一瞬瞠目した彼女のことを、素直に僕は愛しいと思っている。  外装がない、いつもの綺麗な姿じゃない。だからそれが、いったいなんだというんだよ。  むしろこんな姿でも一人で生き続けた彼女の気高さを尊敬するし、とても強いと感じられる。  だから自分も、緋衣南天に釣り合うような男になるべく努力しないといけないだろう。  彼女はずっと、この何十倍に等しい〈絶望〉《ヤミ》と戦ってきた。それを思えば、この程度、膝を屈していいものじゃない。癒して救う、役に立つなど恥ずかしくて吐けるものか。  強くなりたい──僕は男だ。かつてないほど強く思う。  いいや、仮に弱いままでも、大事なのはそこに恥を覚えるか否か。気概の有無。覚悟のほど。  大好きな女性を守ることでヒーローになれる特権こそ、男に生まれた醍醐味だろう。  その資格を持って生まれたことに、今こそ何物にも勝る喜びを感じている。  一夜の〈幻〉《ユメ》にすぎない自分が、現実を生きる彼女の人生を救えるならこんな奇跡は他にない。だから確かな感謝を抱いて進むのだ。  躊躇も恐れも、そこにあろうはずがなかった。 「僕の真は、緋衣さんを守りたいというただそれだけだ」 「どれだけ病んでいようと構わない。救ってみせると誓ったんだよ」  甘粕正彦にそう言い放ったあのときから、それは何も変わっていない。  本性がどれだけ邪悪であったとしても、どれだけ自分を騙していても、世良信明を必要だと心から欲してくれたことは間違いない真実だろう。  たとえ利用する道具としてでも、その一点だけは嘘じゃない。彼女は真を偽らない。 「必要とされて嬉しかった。だから君を救う理由なんて、僕にとってはそれだけで充分だ」  しかし、だからこそ緋衣さんは激昂する。彼女にとって、僕の理屈はとても度し難いものだろうから。  ああ、それは分かっているけど退けないんだよ。 「なによそれ馬鹿じゃないの。おめでたいにも程があるわ、この狂人が!  勘違いも甚だしい。おまえはしょせん、私にとって──」 「道具なんだろう? それでも構わない」  そして、やっと届いた彼女の手をそっと両手で包み込んだ。  触れた肌に柔らかさはないけれど、それでもやはり、好きな相手の指だと思えばどうしても照れてしまう。  気持ちの問題だとはよく言うが、まったく男はどうしようない生き物だなと苦笑した。少しでも痛みが薄れることを願って、優しく愛しく体温を相手へ伝える。  そう、すべては彼女のために。その一念があったからこそ、僕は闇に潜らねばならなかった。  〈堕〉《 、》〈ち〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「だからあのとき、あくまで自分の意志だったんだよ。タタリの〈生贄〉《かく》になったのは。 緋衣さんが背負うものを少しでも軽くしたかったから」  絶望したように見えたかもしれないが、あくまであれは自発的な行動だ。計算づくとはいかないし賭けでも当然あったけど、それでも狙った思惑自体は堕天とむしろ対極にある。  守ると決めた。救うと誓った。しかし無力で頭も良くないこの僕は、それをどういう形で実現すべきかずっと答えを見出せなかった。  そうこうしているうちに万仙陣は回りだし、石神さんの現実認識と連動して僕の存在は薄れ始める。当時は事情を理解していなかったが、願いを果たせぬままに死ぬかもしれないと恐怖した。  しかし、僕は答えを得たんだよ。それこそ本当に土壇場で、君が僕を殺そうとしたあのときに―― 「まさか──」  そして、聡い緋衣さんはすぐに勘付き、信じられないというように表情を驚愕の形へ歪めた。 「そう。聖十郎さんを……正確には現実を生きている柊聖十郎だった誰かを救い出すためには、一度内部に入らないといけなくてね。  そうでもしないと、取り戻すのはさすがにとても出来なかった」 「石神さんの夢に過ぎない僕たちは、黄が消えれば同時に消えてしまうけど、君はその後も生き残る。いいや、僕が生き残らせてみせるとも。  けれどそのとき、必ずこれを知った外野が糾弾するのは目に見えていた。それがとても嫌だったんだよ」  盧生じゃないと言われたことの失望なんて、まったくなかった。  重要なのは冠じゃない。そんなものがあろうがなかろうが、僕は僕で貫く覚悟は変わらないから。  問題なのは、彼女が現実的に出してしまった被害の方だ。  それを生きた形で取り戻さない限り、緋衣さんは孤立無援になってしまう。  なぜなら黄錦龍の眷属と化した者たちは、その筆頭である彼女とも間接的に繋がっている。ゆえにすべてを知ってしまう可能性は無視できない。  少なくとも、万仙陣の消滅と同時に綺麗さっぱり忘れてしまうという絶対的な保証はなかった。仮にあっても、それを期待して何ら手を打たないというのは僕にとって有り得ない。  考えてもみろ。朔の一連が白日に晒されたときのことを。  全世界の人間がこの女の子を憎み罵り、永遠に批難するだろう。  そして自分は、そのときもう傍にいない。  だからこそ、彼女が否定される要因をあらかじめ潰す必要があったのだ。  僕がいなくなった後も、その人生を守ってあげたい。ただ夢見心地で面白そうに酔い痴れていた者たちなんかに、緋衣さんを糾弾させない。  彼らはきっと、賢げな顔で緋衣南天は死すべきだの、償うべき罪人だのと他人事のまま語るだろう。  邪悪だから、逆十字だから、自分のために周りへ不幸を撒き散らしたから何だのと。挙句の果てには、人類という種のためにこういった存在は害悪であるとさえ、神妙な顔で言いだす様が目に見えていた。  口にする世界平和や秩序など、真剣に考えたことすらないくせに。  彼女はこういう人だから、単に気に食わないというだけで。 「否定する人間は必ず出てくる。蝕んでいる〈死病〉《ヤミ》の深さを理解しようとすらせずに」  死病にまみれて生きる辛さと苦痛を、彼らは本当に分かっているのか?  爪を剥がされる程度の痛みで悶絶するような普通を生きる人間たちが、常に発狂しかねない苦痛の中でも生きると誓う彼女の真を、いったい何だと思っているんだ。  ああもちろん、緋衣さんは悪だろう。そこを否定する気はまったくない。  でもだからこそ、彼女を責めることがなまじ正しいために、無敵の印籠でも得たかのように勝ち誇りながら小突き回すに決まっている。  その下卑た正義感。ただのストレス解消という本音を隠した醜い陶酔が許せないんだよ。  そんな調子付いた嘴で緋衣さんに触れることは許さない。  無論、僕とて分かっている。これは余計なお世話だと。  彼女は一人でもそういう連中に対峙しながら生きていくことが出来るだろうし、実際歯牙にもかけないはず。  しかし、だからって自分がそれを許容できるかは別の話だ。 「緋衣さんはそんなの気にしなくても、僕が嫌だ。許せない」  君の苦しみと絶望を解そうともしない無粋な輩が付け込む粗を、徹底して潰すと決めた。  そう潰す。潰すんだよ。客観的に被害者は僕くらいだという状況に持っていくことが出来たなら、その僕が許す以上は何も言えなくなるだろう。完全な封殺は出来ないかもしれないが、そこは甘粕の言葉を借りさせてもらう。  曰く、勝手に苛々していろよ。その程度の輩はリスクを恐れて、緋衣さんの影すら踏めまい。  だから核となった柊聖十郎を救うし、玻璃爛宮に殺された人々も救う。  もともと万仙陣は即効性の死を与えない。阿片窟がそうであるように、本来は緩やかな破滅をもたらすものだ。  ゆえに明確な凶禍として顕象された玻璃爛宮の犠牲者さえどうにか出来れば、今なら僕が望む状況を作ることが出来ると思う。  緋衣南天は誰も殺してなどいない。  そして病を克服し、健常な身体を手に入れる。  この二つが果たされた未来を、彼女の手に渡すこと── 「それが僕なりの、役に立つということかな。  君を必ず守るという、絶対に譲れない世良信明の〈勇気〉《マコト》だよ」  百年前、何も果たせなかった自分がここに存在する意味。あらゆるすべてはこのためにあったのだと、今は深く感謝していた。  現代における僕が姉さんに弟以上の感情を持っていなかったのは、当初石神さんの理想によるところがあったのだろう。だが、真相を自覚した今でもその気持ちは変わっていない。  それはすなわち、僕が緋衣さんに抱く想いは、紛れもなく世良信明が育んだ僕だけの現実ということ。  ここに見出したシンノヒカリは、何があっても揺るがない。 「大きなお世話よ。施すつもりか? ふざけるなッ!  そもそもどうやってそんなことが出来るというわけ? 取り戻す? 死者は死者、蘇生なんて出来っこない。真奈瀬晶の急段であったとしても不可能でしょうが」  願ったぶんだけ癒すという最上級の治療さえ、死体には当然効かない。  そして緋衣さんの病にしても健常な状態が分からないから、かえって危険な結果になるという指摘。確かにそれはその通りだが、しかし。 「いいや、出来る。なぜならそのために描いた夢がこれだから」  ずっとずっと、好きな女の子を救うにはどうすればいいかを考え続けた結果に得た悟りの形をここに告げる。 「僕が得た夢の形は、〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈と〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈属〉《 、》〈性〉《 、》〈を〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈に〉《 、》〈応〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈混〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈る〉《 、》というもの──  生きることを分かち合う、その果てに得たものなんだよ」  それは〈相互理解〉《きずな》によって効果を変える、回復や治療ともまったく異なる救済方法として発現した。  人が生きる上で重要なのは互いの意志を汲み取ること。同時に想いを正しい形で相手に上手く伝えることだ。  自分にだけ通じる自分だけのルールや理屈なんていうのは、どこまでいっても意味を成さない。それは万仙陣の実態を見れば瞭然だろう。  現実の社会では、コミュニケーションを円滑にする能力がまず真っ先に求められる。  完全に分かり合えないのは誰もが知っている大前提だが、それでも分かりあおうとする努力を怠ってはならないんだ。  傷つくこともあるだろうし、すれ違うことも当然ある。家族であっても互いに本心は分からないから不安になって、けれどそれを恐れるあまりに激突を避けてしまうと待ち受けるのは互いの不幸に他ならない。  かつて自分と姉さんがそうして破滅を歩んだように……  伝わらなくても伝えようとすることを諦めてはいけないんだ。  自分の中には相手がいて、相手の中にも自分がいると感じられる瞬間がその果てに必ずくると信じたい。  そういった想いと願いを核として、僕の夢は形を成した。 「玻璃爛宮と合一した瞬間に、核である柊聖十郎とも融合した状態だった。だから対話も容易だったよ」  そして、玻璃爛宮に殺された者たちとも。  あれは略奪するタタリだから、その点は大いに助かったとも言えるだろう。  朔の最終段階に顕象されたものとして、その計り知れない貪欲さは事件の初期に死んだ者らの魂まで地獄のように吸い込んでいた。  そんな死病の廃神たる逆十字の中で、苦悶に喘ぐ何千何万もの犠牲者たちと語り合うのは骨だったが、諦めていいことじゃないし成さねばならないからやり通したよ。  その結果、自分が持つ命という概念さえも互いに交わり均一化した。  薄められた死と生を会話で交わした想いの分だけ分かち合ったことにより、皆が確かに蘇生したのを確認している。  僕の命を何万分割もしたというわけじゃない。相互理解の度合いに応じて混じり合うというものだから、数が多ければ効果が薄まるという意味ではないんだ。人と人との繋がりとは、そんな算数じゃないだろう。  仲間や友達が多くなるほど浅い関係となるに決まっている――なんてことは必ずしも言えないように。  無論、これは相応に危険を伴う夢でもある。術者である僕の中には何人もの人間が入り込むため、人格が崩壊してしまう恐れがあったし今も平気なわけではない。  だけど、別にいいんだよ。どうせ黄が死んだら消えてしまう身なのだから、その前に緋衣さんを救えるなら迷いはない。  そして、発動が対話や理解という形を取るために、僕の核となっている世良家の誰かがこの影響を受けてしまう恐れもなかった。  あくまで効果対象は夢である自分自身と、言葉を交わす相手だけ。ゆえに今から、僕たちの関係に一つ答えが出るのだろう。  共に夢を渡った時間、出会ってから今まで過ごした日々の数々。  その間に、そして真実を知った今、どれだけ自分たちは互いに互いを理解することができたのか。  それが今から目に見える効果となって現れるのを悟った瞬間……彼女は一際大きく震えて戦慄きながら呟いた。 「まさかおまえ、それを私にも――」 「ああそうだよ。君が持つ〈死病〉《ヤミ》と、僕が持つ〈健常体〉《ヒカリ》という概念を混ぜ合わせる。  どの程度、互いに分かり合っているかで割合は変わるけど、間違いなく病巣は希釈されるだろう。あるいは、現代医学で完治できる範囲までも」  上手くいけば、病弱ではあるが死ぬほどではないという身体になれる。なぜならこれは分割じゃなく、語ったように〈希〉《 、》〈釈〉《 、》だから。  真水と海水を同じグラスに注ぎ込み、そこから再び分けるようなもの。  だから腕は治ったけど足には丸々病が残ったままである、なんていうことは有り得ない。  万遍なく均等に全身の症状は軽くなり、比例してこちらは不健康になる。  完治させることは出来ないけど、快方には必ず向かうということだ。それを正確に理解したのか、緋衣さんの怯えと悪意が棘と化して再燃した。 「やめろ、やめろ、やめろやめろやめろォォッ!  そんなものは望んでいない、気持ち悪いんだよ。この手を離せ──!」  泣き喚く子供のように彼女は逃れたがるけど、それでもこれだけは聞いてあげられない。 「〈信〉《イノリ》、〈信〉《ネガイ》、〈信〉《チカイ》、信じる……そうさ、僕は君を信じている」  こちらもまた、逆十字の背負う非業に負けられないと思うから。  彼女に対する罰も救いも、等しく僕だけのものとしたい。極めて大がかりな事件になったが、落としどころはありふれた矮小なものにしたいんだよ。  しょせん二人の問題だからと、そんな言葉で片付けることが出来るような。 「これが緋衣さんに僕が捧げる〈急段〉《チカイ》だよ」  唯一無二の想いをこめて、静かに夢を回し始めた。 「どう、して──」  そして、穏やかに発動していく協力強制の絆を前に、南天は呆然と湧き上がる光を眺めていた。  彼女は今、信明の急段に嵌まっていく己を自覚し恐怖している。他ならぬ自分が相互理解などという愚かしい条件を満たしている事実に対して、怨嗟を生み出すことさえできない。  おかしい、おかしい。こんな馬鹿なと思いながら、同時に一つの事実へ至る。 「あのとき──」  期せず施しを受けたことを想起して、自分の中で何かが折れた真実を今この時に掴むのだった。  抵抗できなかったという言い訳など通じない。あのとき、僅かでも助かったと思ってしまった経験が、緋衣南天を構成する逆十字の邪悪さに一筋の亀裂を刻んでいたと知覚する。  光を味わい、光のまま受け入れてしまったこと。  ただの一瞬でも自らの手で奪うのではなく、純然たる善意を肯定的に甘受してしまった汚点。それが少女の持つ〈天国〉《じごく》の概念を、ほんの僅かでも当たり前の形である天国へと反転させた。  それら逆十字としての堕落は、人としての正常化へ通じる確かな兆しだ。小さな齟齬は救いの手を前に増幅し、南天の無意識へ当然の想いを育ませる。  どうか、このまま救われたいと。  まるでそこらの有象無象と同じように、せせら笑う他者の慈悲を喜ぶものに堕ちたことを示していたから。 「悔しい。負けた。なんで、こんな、無様なものに……」  弱くなった。かつてない敗北感が彼女の心を苛んでいる。他者からの癒しなんかを受け入れるようなものになったことが、惨めで惨めでたまらない。  柊聖十郎や緋衣征志郎なら死んでも選ばなかった選択を自分が手にしてしまった事実に、止め処ない痛みが走る。  嗚咽がこぼれる喉さえも、今は恥にしかならなくて…… 「私は弱い」 「いいや、君は強いよ。なぜなら最終的に生き残るという目標を達成することが出来たんだから」  静かに慟哭する少女に対し、救済者である信明は首を振って真摯に答えた。  彼女が弱くて負けたなど、そんなことは有り得ない。むしろ正反対だと断言する。 「逆十字は聖十郎も征志郎も敗北の歴史を重ねてきたけど、君はそれをこうして覆したじゃないか。その時点で圧倒的に格上なんだよ。  そうだろう。だって、生きることに嘘も真もあるものか」  より邪悪だから? 戦闘能力が高いから? 悪党として鬼畜を貫き魅力的だから何だというのだ。  結局最後は願い叶わず、呪いを吐いて彼ら二人は憤死した。それで受け取る拍手喝采なんてものに、一片たりとも価値はない。  彼女は主義や理念がどうであれ、今から生き延びようとしているのだ。その輝きと強さの形に、外道の滅美が勝るはずもないだろう。  ならばそれは劣化でなく、変われる強さというものだと彼は優しく微笑んで告げるのだ。 「緋衣南天は勝者だよ。絶対に誰がなんと言おうとも、間違いなく」 「────馬鹿」  断言した想いに涙がこぼれたその瞬間──暖かい輝きが、爛れた瘴気を浄化した。  光が満ちる空間、祓われていく数多の〈病〉《ヤミ》。清爽な息吹が春風のように二人の身体を包みこみ、互いの備えた属性を融合させて均一化する。  分かち合う命に伴い、荒地のような肌が瑞々しさを取り戻した。  血肉に、臓腑に、深く根ざすあらゆる痛みが染み出していく。  この一瞬、確かに通じ合った想いに応じて緋衣南天と世良信明は、二人の有する属性をほぼ等分に分け合った。  まだ病は当然少女の身体に残っているが、それはもはやどれをとっても末期と呼べるものではない。  手の付けられなかった癌細胞、腐った血に膿んだ肉。それらもすべて早期発見で治療可能な領域まで希釈されたことにより、人として真っ当な寿命が今、彼女の身体へ宿ったのだ。  変わらず病弱ではあるだろうし、多少不自由でもあるだろう。  免疫機能が健常者より低いという程度には、南天の背に十字架は残されている。しかし、今までの地獄と比較すればこれはどれだけ、軽く容易な重みであろうか。 「本当に、馬鹿、馬鹿でしょ信明くん。  どんなつもりでこんな夢を願うのよ……ッ」  最大効果を発揮した彼の急段。二人で一つの法則を協力して繋いだ意味を噛み締めて、だからこそ少女は問う。  この少年は、なんて間抜けなんだろう。  女を見る目がまるでない。  だからこんな、どうしようもない馬鹿な真似をしてしまうんだ。逆十字の意味と穢れを分かった上で迷わなかった。それが痛い。  なぜか、どうしようもなく、涙を溢れさせるから── 「あなた、もうすぐ消えちゃうんだよ? どこにもいなくなっちゃうのよ? こんなとんでもないこと出来るなら、どうしてもっと別の夢を描かなかったの」  過去の不遇を断ち切り、最後の八犬士として戦真館に参することもきっと可能であっただろう。  不名誉を返上すべく英雄としてやり直す機会でもあったのに。  色香で迷いそれを軽く棒に振って微笑まれても、そんなの困る。消えゆく相手に勝ち逃げされたら、いったいどうすればいいのかと南天は思うのだ。  気づけば強く、彼女は細い指で信明の手を握り返していた。  自分とは逆に病を受け取り薄れていく温もりを、離さないと訴える。そうだ絶対逃がさない。 「こんなにも、役に立つんだから──」  消えるな馬鹿、勝手に行くな。あなたは凄い道具だって、心から認めてあげるわ。だからお願い、命令させて。 「これからも、私のために生きなさいよ。ずっと、ずっと一番に利用してあげるから……ねえッ」 「ごめん。でも、そこから先は君にとっての現実だ。〈夢〉《ぼく》がいていい場所じゃない」  責任を取れと女の子が言っているのに、彼はやはり微笑んで、同時に少し切なそうに首を振った。  ああ、分かっている。そんな風に不器用で光に焦がれた彼だからこそ、少女を闇から救えたのだ。不可能であろうとも、相手を想う心ひとつでここまで来れた証明を投げ捨てられはしない。 「それでも一つだけ、願いを伝えていいのなら……」  だから代わりに、彼が遺す求めは一つ。 「緋衣さんが回復した後、いつの日か現実を生きる世良信明に会ってほしい。  きっと僕と同じように、少し不甲斐ないけれどやる時はやってくれる男だろうと思うんだ」  自分に自分を託すというわけではないが、そこに少しだけ我儘な夢を込めて信明はそう告げた。  二人は共に生きられないし、愛しい少女を軽々と子孫に託すということでもない。けれどそれでも、互いの築いた縁が途切れてしまうのを惜しいと思う感情は、嘘をつけない真実だから。  それはなんて、優しく、愛しく、残酷な夢なのだろう。  芽生えた想いが理解として伝わったのかは分からないが、南天は涙しながら微笑んだ。 「なんか、たまに酷いこと言うよね。あなたって」 「好きな人の影響かな。だから勘弁してほしい」  はにかんで交わした笑みにそれ以上の言葉はいらない。  彼と彼女は今このとき、紛れもなく通じ合っていた。  それに伴うかの如く、徐々に崩れ去っていく玻璃爛宮。  核の解放はもとより、静乃の夢である信明が南天を制したことで、柊四四八の八層攻略は今こそ完全なものとなったのだ。  すなわちこれこそ、この少年も勇者の一人である証。彼は己が真を貫くことで南天を……静乃を、四四八を、そして世界すら救ったのだ。  決して過大な評価ではない。信明がいなければ崑崙を崩すどころか、誰もそこに辿り着くことすら出来なかったろう。  逆十字を象徴する逆さ磔が終焉を迎えた瞬間、信明もまた邯鄲の一滴として現実を離れ始めた。  逃がさない。逃がさない。あなたは私のものなのだと、どれだけ彼女が願っても彼の喪失は止まらない。幼子のように悲しみ惑う南天へ、だからこそ信明は最後にそっと── 「生きてくれ、緋衣さん。誰よりも君のすべてを愛している」  満面の笑みで青臭い告白を口にした。  淡い輝きに包まれながら彼の魂が昇天する。恋した少女に未来を与えたとても強い男として、世良信明は今度こそ自分の〈真〉《マコト》である〈信〉《イノリ》を貫き通して去ったのだ。 「あ、う、あぁっ、あああああああぁぁ────」  締め付けられる胸の痛みに、南天はうずくまって泣きだした。  彼女がその生涯で、ただ一つだけ目を背けていた現実を今このときに受け入れる。  だからそれは、世界への憎しみからくるものではなく。  生まれて初めて誰かを想う果てに流す、人のためにある涙だった。 「―――行ける!」  最大の障害である黄錦龍の筆頭眷族――緋衣南天が落ちたのを感じ取り、静乃は全力で崑崙宮殿へ至る〈階段〉《きざばし》を駆け上がっていた。  届く、近づく。盲目の仙境へと、いま彼女は確実に迫っている。  〈現実〉《マコト》を抱きながら万仙陣へ――群がる〈悪夢〉《タタリ》を切り払いつつ、降魔の剣が突き進むのだ。  ゆえにこのとき、彼女の胸に去来するのは、己を押し上げてくれた皆に対する〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》そのものだった。 「勝ってね静乃。あなたに全部懸かってる」  身に余る大役。清算せねばならぬ過ち。それらはとても重く厳しく、今もこの双肩に乗っているけど。 「大丈夫。あたしは心配なんかしてないから、さっさと片をつけちまえ」  だからこそ、夢に浮遊しないで地を踏みしめることが出来るのだ。自分がここに立っていると、信じることが出来ている。 「それによ、なんつうかオレは感謝してんだぜ。祥子さんに逢わせてくれて、ありがとうな」  彼らは自分を許してくれて、一言だって責めたりしない。ああ、だけど、自責の念だけは消えないから―― 「楽しかったよね、本当に。しーちゃんの夢は、みんなの夢だよ」  ここに責任を果たさせてほしい。苦しい現実から逃げないために、君らの仲間でありたいから。 「だらだら述べる趣味はねえ。あの腐れジャンキーをぶっ飛ばせ」  そうだとも。ぶっ飛ばすとも。胸倉掴んで殴りつけ、意地でもこちらを向かせてやる。 「きっと、雪子さんもあんたのことを見てるわよ」  我が曾祖母は、この日のことを予感していたのだろうか。私に託してくれたのだろうか。 「僕も感謝を。あなたのお陰で、ようやく僕は、石神さん……」  だとしたら、これほど誇らしく思えることは他にない。 「継ぐということ。報いる思い。ああ、おまえこそが相応しい。突き進め」  私は、孝の犬士だから――! 「―――黄錦龍ォォン!」  憧憬は真実から遠い〈羽化登仙〉《ライアニズム》。  嘘とまやかしの霧に揺蕩う桃源郷は、己の愚かさを象徴しているものだからこそ越えねばならない。  盲目白痴の仙王と同じ業を持つ末裔として。  柊四四八の眷族たる八犬士の一人として。  三毒を断ち迷妄を祓う我は霊鳥――その羽ばたきで幻のすべてを掻き消すがために。  ここに神祇省、第四代目の迦楼羅が舞うのだ――! 「理屈、理屈と貴様は言ったな」  溢れる〈夢〉《マコト》が戦装束を編み上げて、流星のごとく超疾走を発揮しながら静乃は告げる。 「痴れ者らしからぬ物言いだ。それこそ理屈にあっていない」  黄錦龍が八層で直面した試練とは、柊四四八に勝利すること。  それを不可能であると“理屈”で感じ取っていたからこそ負けた彼は、なるほど盲目の一人芝居という普遍性を体現する盧生としては不充分。  ゆえに負けた。ゆえに散った。生涯初めて遭遇した柊四四八という同格の存在に、黄は最初から己が賛歌を崩されていたからこその敗北だろう。  そこまでは分かる。当人にとっての無理難題が顕象されるという八層の試練ならでは。盧生の成り掛けにすぎなかった当時の黄には、極めて正しい試練と言えよう。  だが、その後は? 万仙陣を発動し、人界を呑み込みながら崑崙を出現させた今の黄は、名実共に第四盧生であるはずだ。  試練を踏破し、アラヤを掴み、無限の阿片窟に万象沈めようという痴れ者たちが奉じる〈代表〉《ヒーロー》――鴻鈞道人ではなかったのか。  少なくとも、南天の急段に墜落していた静乃と接触したときに、黄はその境地へと達していたはずだろう。  にも関わらず、彼は柊四四八の取りこぼしを極めて論理的に看破していた。のみらず説明までした。  甘粕事件当時において、緋衣征志郎を知らなかったから第二盧生は不完全。ゆえに己は彼に負けても死なずにすんだと、へらつきながら言っていたことを忘れていない。  俺を歴史から抹消しようとするのは“理屈”としておかしいと。柊四四八らしからぬと。盧生となってからも言っていた黄錦龍こそらしからぬ。  つまり、これはそういうことだ。 「貴様はまだ、柊四四八を越えていない――!」  どこかで依然、彼に対する客観性を持っているという証。  万仙陣には亀裂がある。 「よって、第二盧生は復活し得る!」  ああ、そもそもが、眷族として未だに自分はここにあるのだ。それだけでも答えは明白というものだろう。 「雪子さん……!」  きっとあなただ。あなたのお陰だ。黄錦龍の世界観が、閉じきらないようあなたが穴を維持している。  だから、後は自分が攻め込むのみ。必ず痛打をくれてやる。  誓いと共に静乃は、いいや―― 「行くぞォォッ―――!」  迦楼羅王の雄叫びが、ついに崑崙内部へと達していたのだ。 「―――――」  そうして次の瞬間に、視界を覆うのは薄桃色の靄だった。酔えよ痴れろよ気楽に吸えよと、まさしくこれこそ黄の原風景に他ならない。  呼吸をやめても肌から浸透してくるような、超密度の阿片香。如何に頑健な偉丈夫だろうと、こんな所に留まったら数分保たずに脳のすべてが溶け崩れる。  このような世界で黄は生まれ育ったのだ。現実の何たるかを知らないまま、その必要さえ感じずに、始まりのときから夢の住人として、これこそ至福と信じ続けてきたのだろう。  確かに完璧かつ完全だ。ゆえにどうしようもなく終わっている。先というものが何もない。  万人に開かれた幸せとは、もはや絶望と同義だろう。絶頂しながら墜落し続けている嘘偽りの桃源郷は、まさしく地に足が着いていない。  ここにあるのは仮初めの快楽と、緩やかな滅びへ向かう退廃だけ。やがては皆が死に絶えて、最後に残るのは黄だけだ。  そして、世界に一人の存在となっても彼は意に介さないだろう。  もとより他者との交わりそのものを度し難いと断じた男だ。全人類を救済したという手前勝手な愉悦を肴に、永劫酔い痴れ続けるだけ。  そのような未来は断固阻止する。決意を強固に抱きながら、静乃は桃色に煙る帳の中を歩き始めた。  まず何をおいても黄錦龍――ここの主を見つけなければ始まらない。  そうして一歩、また一歩。崑崙の中枢へと向かう静乃は、己に語りかけてくる何者かの声を聞いた。 「嘘ばっかり。本当はこのまま夢を見ていたいくせに。  ねえ、どうして素直にならないの? 恥ずかしがって、意地を張って、我慢した先に何があるの?  あなたのほうこそ、現実を見ていない」  それは右から左から、前から後ろから上から下から、反響するように位置の掴めないものでありながら、すぐ耳元で囁いているようにも感じる。呼吸や体温、これの持つ情念の濃さまでもが伝わってくるのだ。 「黄錦龍をやっつける? それで一瞬、少しいい気持ちになったからといって、そこからいったいどうするの? いったい何が得られるというのよ。  何もない。誰もいない。またあの山の中に帰るだけ……  私はすべてを失ってしまう。この街で得たもの、大事な人、全部。   そんなのは、嫌。嫌なの」  だから、静乃はこれが何なのかを理解した。  言葉の内容を吟味するまでもない。  近くで遠くで何処から聞こえてくるのか咄嗟に分からなかったのも道理だろう。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈声〉《 、》〈だ〉《 、》。 「……なるほど、まあ当たり前か」  自分は弱くて、愚かで、みっともなくて……つまり芯は凡人にすぎないから、盧生のような悟りに至れる器じゃない。  勇気や覚悟、使命と責任感で脆い自分を武装しているだけなのだ。迷いのすべてを雪ぎきったわけじゃないし、未練は必ず胸のどこかに存在している。  勇ましくあろうとしている石神静乃は、裏を返せば我慢しているということだから。またあの理想的な日々に帰りたいと、そんな誘惑に今も内心で葛藤しているのは否定できない。 「ゆえに、これを越えなければいけないわけだな」  自らそう言った瞬間、その通りの現象が目の前に展開した。  偽りの至福が充満する崑崙で、酔い痴れたように恍惚としている石神静乃。  憧れの英雄たちを思い描き、その分身に囲まれて、夢見た理想の世界を渾身込めて抱きしめながら自家中毒に嵌っている。  君らが好きだ。愛している。おまえは仲間だ。一緒に行こう。少女が描いたご都合主義は今も一切曇りなく、素晴らしき日々として環を閉じたまま完成している。  なんという幸せ。なんという奇跡。そしてなんという快感だろう。この祝福を知ったうえで、なぜ今さら夢のない現実などに戻れるというのだ。  ここにはすべてがあるというのに。 「君たちとの日常が、今後も変わらず続きますように」  それはかつて、彼女自身が言っていたこと。これこそ己の真だと、誰憚りなく誇っている。 「荒唐無稽だと分かってる。でもだからこそ夢を見るんだ。なあ四四八くん、そうだろう?」 「なぜなら君のことは好きだけど、別に独占したいと思っているわけじゃないんだから。 大勢いる嫁候補の一人として、今後も可愛がってほしいと思う。そして私も水希たちと、隔意なく付き合っていきたいと願う。  こういう主張は、男子一般にとって都合のいいものなんだろうが、君のようなタイプにとっては苦しかったりするんだろう。  情けない気分になったり、自己嫌悪したりするのかもしれない。だから君が自分を責めなくてもいいように、私たちは幸せだという夢が見たい。  せっかく、ここに奇跡のバランスがあるんだから」  と、目の前にいるもう一人の自分が並べ立てる言葉を聞いて、静乃は微かに失笑した。  赤面ものの告白で、まさに黒歴史というやつだが、それは単純に恥ずかしい台詞を客観的に聞かされたからというだけではない。 「……おいおい、おまえは私だろう? そっちこそ誤魔化すなよ、静乃」  まったく、自分という奴は、こんなときでさえ真実から目を背けている。当時は自覚していなかったが、先の主張には隠れた本音があったのだ。 「間違っちゃいないが、正確でもない。より正しくは、こうだろう?」  曰くぬるい学園ラブコメ。それが破綻しないという前提の下で、本当に願っていたのはたった一つだ。 「最終的に、四四八くんから選ばれるのは石神静乃であるということ。  私は〈雪麗〉《シュエリー》になりたかった。そうだよな?」  今思えばあの演劇は、史実からもそう外れていない。柊四四八が誰と結ばれたのかは依然不明のままだったが、雪子は青幇の公主として紛れもなく存在したんだ。  黄金栄の娘ではなく、黄錦龍の娘ではあったけど……彼女は事象の核として、その後の歴史を左右する立場になった。  柊四四八に特別目を掛けられて、彼の大願に欠かせぬ存在となったのだ。  ゆえに、静乃が真に望んだのはそういうこと。 「奇跡のバランスを崩さないまま、彼にとって特別という座にこの私がつければいい。 なんて甘えた、皆を馬鹿にした妄想だろう。絶対不可能とは言い切れないのかもしれないが、実現するための努力をまるでしていない。   〈私〉《おまえ》の夢は彼らの真を汚している。ゆえに認めんし、許さんよ。思うのは自由だなどと、痴れた戯言も吐かせないッ!」  晶が好きだ。水希が好きだ。歩美が好きだ。鈴子も好きだ―― 四四八に選ばれたいと思う傍ら、同じ思いを持っている彼女らにも嫌われたくない。  だから仲良く、楽しく幸せにやりながら、だけど美味しいところだけは渡さない。それが本音で、それが理想。  必ずしも蔑まれるべき価値観ではないのだろうし、言ったとおり絶対不可能な構図ではないのかもしれない。  しかし、そこを目指すための手段がどうしようもなく最悪だ。  万仙陣に酔い痴れて、現実のすべてを放り捨てている。都合のいい自己完結のみに嵌っている。  そんな世界で自分に優しくしてくれる彼らが、本当の彼らだとでも?  そんな彼らを、無二の真実だと思い込めばいいだって?  ああまったく、馬鹿も休み休み抜かせよ痴れ者――! そんな石神静乃は今この場で、断固完全に叩き潰す! 「そうだ。おまえは凄く邪魔だ。 私の夢を、私の奇跡を否定する。何もない現実に、私を引き戻そうとしている。  させない……許さない絶対に。邪魔なんだよ潰してやるッ!」  期せずして、二人の静乃は同じ結論に達していた。さながら鏡合わせのように、戦意と釵を抜き放つ。 「説得は無意味だな。自分を殺せばどうなるのか分からんが、まあ構わんさ。やってみよう。  それで何が欠けようと、また夢を見て埋めればいい。だから安心していいぞ静乃。おまえが抜けた穴は、もっと私らしいおまえで補うから」 「そうか、おまえは優しいな。だが私はもっと厳しい」  否、まったく同じというわけでもなかった。殺意を燃やすあちらに対し、こちらはどこか自嘲的で…… 「叩き潰すが、消しはしない。正しくは叩き直すだ」 「私は柊四四八の眷族だからな。スパルタでいくぞ――容赦しない。  おまえは私なのだから、多少居心地が悪かろうと戻って来るんだ。  それが現実というものだろうッ!」 「ふ、はは、はははは……」  自ら己に向けた宣言は、しかし霧の中を乱反射するかのごとく…… 「悲しいなあ、やっぱり世界は閉じている。  自分自身とさえこんなにズレるよ。悲しいなあ、ははは、はははははは!」  黄錦龍の直系に相応しい痴れた笑いを放ちながら、それは猛然と攻め返してくるのだった。 「ああ――」  眼前で繰り広げられる少女たちの戦いに、彼は心からの悲しみに満ちた慨嘆を漏らしていた。  まったくなんということだろう。なまじ外界に染まったせいで自己という単位すら統一が出来ず、争い始めてしまうとは。  基本的に葛藤というものは気持ちよくないのだから、黄の教義に反している。悩み苦しむことが目的ならそれはそれで構わないが、いま展開しているものは違うだろう。  自傷を愛好する者や、戦闘に恍惚とする者なら数え切れないほど見たから分かる。ゆえにそういう〈理想〉《ノリ》であったら、一人と言わず千でも万でも別の自分を作り出して永劫戦い続ければいい。  黄が争いを嫌うのは、そこに嘆きがあるからだ。当人が嫌な気分になっており、心の平穏がないからだ。  よって、自己を追い込むことが好きであるなら大いに結構。傍から見れば痛々しいものであろうと、彼らの中ではその状態にこそ安らぎがある。ならば望むがままに踊ればいい。  万仙陣とはそういうもの。衆生に捧ぐ愛と平和に満ちた救済である。そう、人は救われなければいけない。 「俺はただ、おまえたちが幸せになってほしいだけである。笑って、満ち足り、素晴らしい理想の形に世界を閉じてほしいのだ。  なのになぜ、そんな風に胸を痛めながら自分自身と争っている。つらいだろう。遣る瀬無いだろう。悲しくて恥ずかしくてもうやめたいと思っているのに、我慢する意味が分からない。  俺を斃したい? やればよかろう。 おまえがそう思うのなら、おまえの中で俺を消し去り、おまえの世界を救った英雄としておまえ自身を誇ればいいのだ」  至極簡単なことだというのに。  まさしくそう願うだけで、一瞬のうちにそれは叶うことだというのに。 「悲しいなあ。ああ、とても悲しい」  どのようにすればこの少女を救えるのだろう。嘆きに満ちたその心を、癒してやることが出来るのだろう。依然夢見心地に揺蕩いながら、仙界の王は考えている。  深く、深く、彼らしからぬほど切実に、深く……  だから、その思念は静乃のもとにも流れていた。自我と比較するのが馬鹿らしくなるほどの、超巨大な弩級の意志。歴代最多の眷族数を誇る第四盧生は、まさしく星を呑み込むほどの普遍性を有している。  この念に触れただけで、砂の一粒が大海に落とされるような感覚を味わっていた。しかし、だからこそ静乃は折れない。 「確かにでかい。そして深い。単純な多数決じゃあ、まったく勝負にならないだろう」 「だがな――」  もう一人の自分が繰り出した釵を弾き返して、静乃は決然と吼えていた。 「重さがないんだよ。しょせんは霧か煙の類だ。  ふわふわと鬱陶しいぞ黄錦龍――私を救ってくれるのなら、おまえ自身が出張って来い!」  怒声は四方に反響し、手応えなく〈静寂〉《しじま》に消えていくばかり。依然として黄錦龍には、あらゆる攻撃というものが届かない。  届いたと思い込めば届くだろう。だがそれは、都合のいい妄想のパントマイムだ。僅かでも心が易きに流れれば、途端に夢と現実の区別がつかなくなってしまう。  ゆえに、この戦いは極限難度の綱渡りめいた精神戦となっていた。  前提として勝利を目指さなくてはならないのに、勝ちを欲しすぎたら万仙陣に嵌められる。  勝負事において、強く成功を求めるのは論ずるまでもなく当たり前だ。過酷な戦いであればあるほど、そうした気持ちを武器にしないと結果を出すのは不可能だろう。  だが、ここではその思いこそが逆転現象を引き起こすのだ。  勝ちたい。勝った。やったぞと――希望に墜落したその瞬間、ありもしない夢を見ながら一人芝居を演じる運命。そんな自分が、一秒後にも生まれてしまうかもしれない。  だから現実は甘くないと、そんなに上手くいくはずがないと等しく思い続けなければならなかった。これもある意味、勝負事の基本であろうが、今は状況が特殊すぎる。  何せ、戦っている相手は自分自身なのだから。 「ああほら、やっぱり、おまえは私になりたがっている。  現実はとてもつらいと、誰より分かっているんじゃないかァァッ!」 「ぐッ、あああァァ―――」  首ごと刈り取るような回し蹴りは、防御してもまったく威力を削げなかった。腕が粉砕される音を聞き、静乃は目の前の自分が先ほどより強くなっているのを感じている。 「勝ちたくないんだろう? 負けたいんだろう? 私には絶対勝てないと、思っているんだよなそうだよなあ!」 「――飛躍しすぎだ、なんでも都合よく解釈するな!」  つまり、静乃が現実の厳しさを自戒すればするほどに、障害であるこの相手は強くなる。簡単に勝てるわけがないと思うから、そのイメージに相応しい難敵へと変わっていくのだ。  綱渡りと表現したのはそういうこと。希望と現実、どちらも切り離せない二本柱で、どちらに寄っても待っているのは敗北だ。もはやバランス感覚という表現くらいで要約できる状況ではない。  一ミリの狂いもなく、ど真ん中を突っ切らなければ真っ逆さまに落とされる。  拳法、気功、武器術、方術、そして邯鄲の夢に関わる練度、特性、得手不得手一切を含む癖や思考――手の内すべてを知られている相手に対し、奇策の類は意味を成さない。  あらゆる防御も攻撃も即応され続ける状況は、本来なら完全な線対称こそ望ましいが、現状は迦楼羅の静乃が押されるものとなっていた。  釵を揮う速さが違う。突きの鋭さ、正確さが違う。戟法の精度にも徐々に格差が生まれ始め、威力を捌けなくなりつつある。  先ほど折られた片腕など、最たる負債となっていた。両手利きの静乃は攻防の回転率こそ本領だが、これでは文字通りの片手落ち。  血飛沫が舞う。骨が軋む。もはやダメージの大半は己のみに集中し、今にも押し切られんとしているのが自覚できるが、しかし―― 「―――上等ッ」  もとより自分の克己心にたいした信頼は抱いていない。なまじ優勢になるよりは、確実に現実を踏みしめていると実感できる劣勢のほうがましだろう。  少なくとも、被虐に陶然とするほど歪んではいないはずだから。  苦しくて、恐ろしくて、痛くて嫌になるこの気持ちこそが、真を掴んでいるという証。  だから、どれほどつらくてもこの痛みは手放さない。これは絶対、手放してはならないものだ。  夢のない現実には何もないとこいつは言った。  ああ、確かにそうかもしれない。  一時の格好付けで気持ちよくなった先に、待っているのはこの一ヶ月で得たものすべての喪失だと、頭から否定できるだけの強さはない。それは紛れもなく、胸にくすぶる本音の一つなのだから。  戦の熱狂が去った後、自分が立っているのは荒野だろう。その未来は事実として、抉られるほど分かっている。 「それでも、静乃――」  だからこそ、ここで自分自身に問い質したい。 「本当に何もないのか、そう思っているのかおまえはッ!」  違うはずだ。そうではないと、何より静乃は信じている。 「私は彼らに憧れた……!」  まるで物語のヒーローを敬するように、胸を躍らせ英雄譚に没頭した。 「そして、自分も共にと強く願った!」  なぜなら本を閉じ現実に帰ったその瞬間が、あまりに寂しすぎたから。  どうして自分はここにいるのだ。どうして彼らの所に行けないのだと、己が境遇に絶望さえした。  戦真館特科生――彼らはフィクションの存在じゃあないというのに。  ほんの百年、たったそれだけ。生きる時代が違っただけで、現実に存在していた相手だろう。立ち位置の相関として、架空を掴もうとするほど隔絶しているわけじゃない。 「私が、もう百年早く生まれていれば……」  雪麗になれたかもしれないのに。手が届いたかもしれないのに。  そう願い、祈って焦がれて回り始めたのがこの万仙陣だ。ゆえに黄錦龍を打倒すれば夢は消えると、さっきから何度も何度も何度も何度も―― 考えなければならないほど、今このときも自分は夢に縋り付きたい。その証明として目の前の〈静乃〉《おのれ》がいる。  ああ、分かっているのだ。本を閉じた後に、どれほどの寂寥感が襲ってくるかということなんて。  けど、残るのは寂しさだけじゃあないだろう? 「そうだ。私は百年遅く生まれたから、彼らをこちらに呼び寄せるんだ。  そうすれば願ったとおり、私は彼らの仲間になれる。この時代の雪麗になれる。 そして奇跡のバランスに生きていくんだ。ずっと、ずっと、永遠に……  私と彼らの理想郷を奪う者は、たとえ私であっても許さないッ!」 「違う――それは〈私〉《おまえ》だけの阿片窟だ!」  釵を釵で弾き返し、額同士を叩きつけて至近距離から己を見る。  酩酊した瞳。蕩けそうな歪んだ笑み。これも間違いなく自分だと、強く強く己の魂に言い聞かせて―― 「生きる時代が違っても、彼らの仲間になることは出来る!」 「私は孝の犬士だから――継いで、報いる気概を誇りとすれば、柊四四八はいつも〈私〉《おまえ》の傍にいる!  詭弁ではない! 気休めでも、御為ごかしでも……!」  まして、夢でもない〈真実〉《マコト》。 「だから私たちは、彼の眷族になれたんだろう!」 「本を閉じた後は寂しい。物語に思いを馳せて、ふと我に返れば広がっているのは荒野かもしれない。  だけど、胸に点る熱く切なく愛しい何か」  きっとそれこそが、たとえどれだけ離れていようと彼我を繋ぐ絆の輝き。  ヒーローに憧れて、悪党に憤慨しながらも楽しんで、思いもしない展開に驚いたり突っ込んだり、泣いたり笑ったりしながら物語に入り込むこと。 「彼らと駆けた記憶は遥か、手の届かない遠いものだったとしても」 「胸に残った熱は真実――それを感じている限り、〈私〉《おまえ》も彼らの仲間なんだ!」  ここに至るまで、幾つもタタリと対峙してきた。それは度し難い二次創作で、無自覚と無責任の権化であると断じてきたのを覚えている。  散々にこき下ろし、ときには呆れ、ときには哀れみ、なんと大衆とは醜悪な欲望を垂れ流すのだと思ってきた石神静乃が、その実もっとも万仙陣に嵌っていたとは、皮肉すぎるブーメラン。  だけど今、彼ら夢見る者たちを頭から否定するつもりはない。自分も同じ穴の狢だからと、自己弁護をしたいわけではなく、分かるのだ。 「私たちは、ただ熱を感じ続けていたかっただけ」  大好きだから、大ファンだから。彼らとの繋がりを守りたいと思っただけだ。遠い存在だからと放り捨てず、確かに生じた胸の真を誇ることは、断固絶対に間違っていない。 「どうでもいいから、関係ないから、好き勝手に面白おかしく弄くり回して消費する――なんてわけあるか! そんな暇人がいて堪るか!  しょせん嘘っぱちだと思っているものなんかに、人はそこまでエネルギーをつぎ込まない!」  すべて、それは彼らが育み抱きしめた、真実の熱だったからこそ。  適当に紡がれた夢なんか一つもなく、そんなことは当たり前で。 「みんな、みんな、柊四四八たちが大好きなんだ!」 「みんな、彼らの仲間になりたいと願い、彼らと繋がった絆を愛しただけ。  間違っていない。それだけは絶対に……時を超えても仲間になれたという真実だけは。なりたいと願った心だけは。  そのとき私の魂は、彼らと確かに触れ合ったのだから……!」 「だったら私を否定するなァッ!」  激昂と共に増す圧力。こちらの静乃にしてみれば、迦楼羅の静乃が言っていることは支離滅裂で矛盾している。  自分たちの所業に理解を示しているくせに、なぜ万仙陣を崩そうとするのだ。  この桃源郷を。唯一無二の羽化登仙を。  抱きしめた熱とやらを、最高の形で感じ続けることが出来るのに。 「絆を確固として思い描くことの何が悪い!  そのとき私は、紛れもなく彼らの仲間になれるんだッ」 「ああ―――」  閃いた釵が釵を絡め、弾き飛ばして虚空に舞わせる。 「あくまで、〈私〉《おまえ》の中ではな。  忘れるな。万仙陣の正体は、単なる絆の全否定だ」  衝撃に呆ける自分へ、静乃は何よりも己自身がつらい現実を口にした。 「憧れて、夢に見て、胸に生まれた想いは真実。その熱さえ信じられたら、もうそれで充分だろう?」 「そこにあった。真は確かにあったんだ。彼らと繋がって仲間になれたし、本を閉じたからといって色褪せるようなものじゃない。  それを信じず、妄想に逃げて、なあ……どこに絆があるというんだよ。  せっかく築いた宝物を、自ら捨てようとしているのはおまえじゃないか。  おまえの行きたがっている所にこそ、何も無い。  無いんだよ、静乃……」  血を吐くような、自分で臓腑を締め上げているような声だった。この痛みは、きっと生涯なくなることがないだろう。  折に触れ泣くだろうし、何度も後悔するに違いない。格好いいことをいくら言っても、しょせん自分はそんなものだ。ぶれてぶれて、揺れまくる。  だからせめて、この痛みを誇りに変えていきたいと願う。永遠になくならない苦しさは、それもまた真に違いないのだから。  彼らと繋がった現実があるからこそ、胸が疼くのだと強く思える。  手放さない。放してはいけない。自閉して気持ちよくなるという選択は、これを捨てることなのだと知っている。 「だから来いよ。これから先も一緒に行こう。居心地悪いのはお互い様だ。  こうして私たちが喧嘩をするのも、それだけ彼らのことが好きなんだという証明だろう?  絆は、そういう中にこそあるんだよ」 「ぁ………」  苦笑し、手を差し出す静乃に対し、もう一人の静乃もおずおずと手を伸ばして……だからそのとき―― 「悲しいなあ」  黄錦龍は、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈結〉《 、》〈末〉《 、》〈を〉《 、》〈許〉《 、》〈容〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  なぜか、どうして――おまえがそう思うのならそうなのだろうと、万仙陣を回すことが出来なかった。  欠けているもの、いや異物があって、歯車が淀みなく回転しない。  そんな己の異変に気付かず、彼は真摯に切実に…… 「救われてくれよ。我が父のように、母のように……  娘よ……」  その存在を意識した瞬間に、異物がさらに拡大する。まるで投射された影絵のように、何処かで今も座している女性の輪郭をなぞりながら、彼を覆い尽くす霧が薄く、薄く、穴を穿つがごとく晴れていき―― 「おまえは幸せになるべきだ」  伸ばされた黄の手が、距離を無視して静乃の背に触れた瞬間、それは起こった。 「がッ――――」  まるで脳と心臓を直接鷲掴みされたような。おぞましい快楽中枢の暴走は対面の静乃にも伝播して、彼女らを夢幻の彼方へ呑み込もうとする。  巨大すぎる阿頼耶の普遍性を前にすれば個人の自我など意味を成さない。秒瞬も待たずに静乃は汚怪な触手と化し、盲目の王を讃える冒涜の言辞を吐きながら下劣な太鼓と呪われたフルートを奏でるものへと成り果てるだろう。  夢見に痴れて、痴れて痴れて、崑崙の深淵にまどろみ揺蕩うだけの未来に。 「見つけたぞ、黄錦龍」  そう、至るはずがなかったのだ。  背を押され、ぶつかってきたもう一人の自分に腹を深く抉られながらも、静乃は笑みを浮かべて暗愚なる渾沌の果てを睨んでいる。 「荒事にまったく慣れてないのだろうから、一ついいことを教えてやる」  これが石神静乃の急段顕象。  百年前の英雄たちに憧れて、その意志を継がんと誓う孝の犬士でありたいから、まったく捻る必要など感じない。  抜けば玉散る氷の刃。迷妄を祓う迦楼羅の翼。父祖たる黄錦龍が自分に接触してくることを条件に、協力強制は発動する。  私をどうにかしたいのならば、酔いを醒まして外に出て来い。  そうこれは、この二人においてのみ成立する急段だ。ゆえに汎用性は皆無だが、そんなものは要らないだろう。此方と彼方を繋ぐことこそ孝であり、それはすなわち万仙崩しに他ならない。  家族を、そして先達を、受け継いだ意志に報いたいと願うからこそ、こちらを向け鴻鈞道人。  今こそこの一手をもち、黄錦龍の一人芝居は崩れ去る。  なぜならば―― 「攻撃するとな……基本、防御が疎かになるんだ、よッ!」  自分を抱きしめ、同化しながら、振りかぶった釵を静乃は渾身込めて投げ放っていた。 「行ッ、けえええェェェッ――――!」  霧を穿つ。裂いて唸る。霊鳥の羽ばたきがごとく清廉な風切り音をあげながら、降魔の剣が飛翔する。  何者であれ辿り着けない屈折の帳を切り開き、いま桃源郷の中枢へと――  その先には、言うまでもない。 「――――――」  玉座にあって胸を貫かれた黄錦龍が、ただ呆然としているのみだった。自身に何が起こったのか理解できず、子供のように首を傾げて身に突き立った釵を見下ろしている。 「……なんだ、これは?」  実にこのとき、彼は苦痛というものを初めて知った。  青幇の帝王として成り上がった道は当然甘いものであるはずがなく、殴られることも刺されることも撃たれることも数え切れないほど経験したが、それに痛みを感じたことはなかったのだ。  常時酩酊。ひたすら不明。生来の中毒者である黄錦龍は、言うまでもなくまともな感覚を持っていない。触覚はほとんど機能しておらず、中でも痛覚に至っては完全な無だ。  攻撃を攻撃として認識せず、すべて無効化してしまうという第四盧生最大の特徴は、その精神性が原因であると同時に身体的な面もあったのだ。  何をされても痛くない。その意味さえ正確に理解していないのだから、悪意や敵意もやはりまともに取り合わない。  愛い、愛い、実に微笑ましいと、勝手な解釈のもと自己完結していたのは、無論のこと幼年期からの習性である。  常人から見れば不死身の化け物であったろうし、だからこそ彼は伝説のギャングスターと呼ばれるまでの者になった。そして盧生となってからは、その怪物性に拍車が掛かった。  過去、唯一例外的に黄を警戒させた者は柊四四八だけであり、それにしたところで八層の試練を超えた今は克服しているはずだった。 「これが、痛み……?」  が、ここにすべては覆される。黄の身体的無痛は崩れ去り、痛みのなんたるかを正しく理解し始めたことで、精神的無痛も連鎖で崩壊を始めていく。  絶対防御と言ってもよかった黄錦龍のアドバンテージは、いま静乃によって砕かれたのだ。  盲目の仙境が完全に閉じきらないよう、亀裂を維持し続けた雪子によって。  外界に対する正確な認識を、辛うじて黄が残しているうちに。  誰よりも万仙陣に同調していた直系の子孫が穿つことにより、彼の無敵は消滅する。 「そうだ黄、それが痛みだ……」  自身も腹部に重傷を負い、のみならず精神を破壊されかけた衝撃に喘ぎながらも、強い笑みを浮かべて静乃は言った。 「気分の悪いものだろう。それを知って、おまえはさらに偽りの快楽へ逃避するようになるんだろうが……もう遅い。  二度と経験したくないと、おまえに恐れが刻まれた。再び刻もうとする者に対する防衛心も」  これにより、万仙陣はある意味でより強固となるだろう。へらへらと痴れていた黄の中に苦痛を回避する必死さが生まれたことで、その顕象は間違いなく激烈化する。  だが同時に、根本の動機が崩されたせいで攻防の概念も帯びるのだ。静乃の戦いに横槍を入れたときのように、もはやその衝動は抑えられない。  そして、攻撃すれば防御は必ず穴を生む。 「終わりだ、黄……これで私の……」  ついに限界を迎えたのか、膝から崩れ始めた静乃はしかし、未来を確信した声で告げた。 「彼らの、勝ちだ」  そして瞬間、崑崙の霧が跡形もなく消滅する。 「……馬鹿な」  どこか呆けたように呟いて、黄は知らず立ち上がっていた。胸の釵を引き抜いて、そのままふらふらと歩きながら、自身の王国である宮殿の壁を、床を、天井を――まるで初めて見るかのように眺めている。  いいや、事実初めて見たのだろう。彼の精神を常に覆っていた阿片香が吹き飛ばされ、シラフとなった黄錦龍にはすべてがまったく違って見える。  ここは何処だ? 何が起きた? 俺はいったい何をしている?  急転直下の状況に寝ぼけた頭は機能せず、何も真実を掴めない。  いいや真実? 真実だと? それを探すとはどういうことだ?  何が正しいことかなど、そんなものは常に明白で外に求めるようなものではなく――  ようやく己が何者であるかを思い出しかけたそのときに、彼の耳を打ったのは背後からの拍手だった。 「見事だユキコ、そしてシズノ。ああ、確かに勝利したのはおまえたちだよ。実に天晴れな啖呵だった。 後は我々に任せておけ」  つい先ほどまで黄が腰を下ろしていた玉座の左右に、新たな座が出現して新たな者らが存在している。  向かって右側に腰を下ろし、今も惜しみない賛辞を口にしているのは、豪奢な金髪を靡かせて微笑している軍装の美女。 「どうやら頭の霧も少しは晴れたか、〈黄錦龍〉《ファン・ジンロン》。ならば初対面に等しかろうし、名乗っておこうか。私はクリームヒルト・レーベンシュタイン。  知った者からはヘルヘイムなどと呼ばれている。そしてこちらは――」 「甘粕正彦。なるほど、おまえが第四の盧生殿か。どうして、豪気な漢らしい。  俺やそこの女がここにいるのは幾分かおまえのお陰なのだと聞いているぞ」  目に危険なほどの稚気を宿して、死神の紹介を受けたのはかつて魔王と呼ばれた男だった。 「ゆえに礼を言わせてもらおう。来て早々、俺好みのものを見させてもらった。  いいな、この時代にも人の勇気は枯れ切っておらんようで結構、結構。足を運んだ甲斐がある」 「朔とやらを生んだのがおまえならば、遠慮せずに俺の感謝を受けるがいい」  彼らは盧生。それぞれの理想に則した〈普遍性〉《アラヤ》を纏う人類の代表者であり、時代の超越すら可能にする者。  しかし無論、何の制限もなく自由に歴史を跨げるわけではない。彼らが介入できる座標は朔のような空隙の特異点に限定され、それにしたところでせいぜいが意志を飛ばせるというだけである。  つまり混乱期だからこそヒーローが求められるという理屈なのだが、このように実体の顕象まで伴う介入は極めて異例。通常起こり得ることではない。  それを可能にしたものこそが、万仙陣の特性だ。すでに一度クリームヒルトがやったように、名指しの上に容姿や能力まで知られた状態で招かれれば、曰く本物が顕れるのは至極当然の道理だろう。  そして付け加えるなら、今は朔の最高潮。そこに比例する介入のし易さにより、この場のクリームヒルトは以前のときと比べ物にならない。 「とまあ、状況は理解したかね? ならば早々申し訳ないが、おまえには死んでもらう。 理由の説明は必要あるまい。どだいこれは戦争だからな、ずっと手を出せなかった男が丸裸となった好機……見逃す手はないだろう」  死神らしい怜悧な口調で、クリームヒルトが第四盧生に死の運命を宣告する。未だ詳細は不明だし語るつもりもないようだが、四四八と同盟したという彼女にとって、黄の万仙陣は看過できないものなのだろう。  第三盧生の得た悟りは、偽りの桃源郷を許していない。  となれば、残るもう一人のほうが問題なのだが…… 「万仙陣……なるほど、仙道の極技だったな。文字通りの羽化登仙、というわけか。 いやいや、まったく面白い。おまえはおまえで〈楽園〉《ぱらいぞ》を求めるわけか。実に見上げた愛の発露で、人間賛歌の形だよ。その計り知れない普遍性に、俺は尊敬の念を禁じ得ん」  対する甘粕正彦は、黄錦龍に本気の賞賛を送っていた。善悪を度外視し、絶対値のみで人を評価するこの魔王は、万仙陣がどれだけ狂ったものであろうと否定しない。むしろその強大さに敬意すら払っている。  ならば彼は第四盧生に味方するのか。いいや、否。 「そう、おまえの勇気は素晴らしい。 ゆえに当然、俺と戦う覚悟もあるのだろう?」  この男に気に入られるということは、すなわちこういう結果を招く。  他者とまともに向かい合う気のない黄錦龍に、勇気や覚悟といったものが存在するとは客観的に思えないが、甘粕はまるで頓着していないのだ。  そこにあるのは、万仙陣の強度に対する純粋な賛美。それを創りあげるほどの漢ならば勇者であるという絶対的な信頼。  その気概が外に向かぬならこちらに引きずり出してやるまでだと、恐るべき自負とお目出度さを下敷きに決定を下している。  もとより全世界に盧生と眷族を溢れ返らせ、混沌の大乱戦を起こすというのが甘粕の求める〈楽園〉《ぱらいぞ》だ。この状況は彼の理想が実現している状況に近いだろう。  ゆえに戦う。容赦はしない。  加えて言うなら万仙陣は、甘粕の夢と対極である。殴り合うことが繋がりのすべてであり、一方通行ほど空しいものは天下にないと思っているため、盲目の一人芝居などさせはしない。 「殴るから、殴り返せよ。共に踊る喜びも一度は経験してみるといい。  存外と、病み付きになるかもしれんだろう? なあ、阿片狂いな導士殿よ。ふふふ、はははは、はははははははははは――!」  何よりも甘粕自身が、黄の拳をその身で味わいたがっている。彼の勇気を、彼の愛を、素晴らしき覚悟の輝きを感じたいのだ。  絶対普遍の敵として立ちはだかり、光を愛でることこそ魔王の本懐なのだから。 「というわけでだ」  軽く顎をしゃくった甘粕に応じるかのごとく、黄の背後から響いてきたのは一つの靴音。  これまで、魔王と死神を前にしてすらどこか他人事のようにしていた仙王が、ただそれだけで弾かれたように振り向いた。 「真打登場……ということらしいな」  一歩、そしてまた一歩。霧の晴れた崑崙を踏みしめながら、ここに顕象したのは第二の盧生。  今こそ万仙陣を崩すため、時代を超えて仁義八行の勇者が現る。 「柊、四四八……」  もはや黄は彼しか見ていなかった。目の前の存在を確と認識したうえで、己の天敵がやって来たのを自覚している。  だが当の四四八はそんなことなどまったく無視し、倒れている静乃のもとまで歩み寄ると、厳かな面持ちで膝をついた。 「あ、っ……、よしや、くん……?」 「ああ、俺だよ。本当に、よく頑張った。  全部おまえのお陰だ。ありがとう」  意識朦朧としている静乃の頭に手を置いて、優しく髪を撫でてやる。それで安心したらしく、迦楼羅の少女は安らぐように微笑んでから徐々に意識を落としていった。  その身に被害が及ばぬよう、崑崙の外に転移させられる間際まで、自分が憧れた英雄の姿をひたすら目に焼き付けながら……  よって今、この場に残る者はすべてが盧生。  甘粕正彦。  柊四四八。  クリームヒルト・ヘルヘイム・レーベンシュタイン。  黄錦龍。  再び立ち上がった第二の盧生が、ここでようやく第四の盧生に目を向けた。  そこには、何者であれ侵すことの出来ない意志の光が宿っていて…… 「幕だ、錦龍。おまえの一人芝居もここで終わる。  もはや何処にも逃げられんぞ」 「ふはっ―――」  静かだが激しい戦意を浴びせられて、黄は片手で顔を覆うと天を仰ぎ失笑した。  そして同時に、僅かずつだが周囲の情景が揺らぎ始める。  臓物を裏返したような音と共に、びちゃびちゃと跳ね回りながら宮殿の構造が生物的な様相を帯びていくのだ。 「そうか、そうだよな。もう逃げるわけにはいかんよな。俺はおまえを、まだ救ってなどいないのだから。  幸せになりたいのだな柊四四八。それで俺を探していたというわけだな。まったくいつもいつも、いつもおまえは怒っているのだものなあ……可哀想に。  うふふふははははははははははははっ―――!」  晴れていた瞳に再び霧が掛かりだす。すべてを自分のいいように解釈しだす。  以前よりも激烈に。痛みを知ったがゆえに狂おしく。  痴れて、痴れて、奈落の底へ墜落するように崑崙のすべてが変わっていく。  それはさながら、沸騰する無限の中核に棲む渾沌のごときおぞましさ。  森羅万象、あらゆるものは彼が見た夢にすぎない。 「救ってやろう、おまえたちすべて。  ああ俺は、皆が幸せになればいいと願っている」  主の祈りに呼応して、蠢く仙境がついにその真なる姿を顕し始めた。 「ほうほう、これはまた面妖かつ凄まじい。まさにこの世のものとは思えん〈様〉《ザマ》だが、いったい何と言うのだ、あの終段は」 「知らんな、私のアラヤも答えようとせん。おそらく、名を口にするのも憚られるモノだと言いたいのだろう。  もしかすると、人間が生んだ神ではないかもしれんぞ」 「は、なるほど。であればいったい、何処から来て何処へ行く?」 「すべては幻、夢から夢へ。  あれは“無い”ものだ。まともに見るな、気が狂うぞ」  今、眼前で展開していく黄錦龍の終段は、彼らをしても奇怪極まりないとしか表現できないものだった。  どだい、まともな人間の神経で看破しきれるものではない。あれに同調すれば狂気どころか体構造の変幻すら招き、異次元の仕様へと組み替えられてしまうのだ。  人の生んだものではない。クリームヒルトの言は的を射ているのかもしれなかった。ならばそれを顕象する黄錦龍は何者なのか。そんな彼が最大の普遍性を有する盧生なのはどういうことか。  分からないことは数多あったが、それでも確実なことは存在する。 「何にせよ、加減の必要はなさそうだ」  その異形から漲る弩級の神威。単体としてこれほど強力かつ巨大なものは、この場の誰にも覚えがなかった。盧生三人を相手取っても、役者が足りぬということは有り得ない。  これより、超絶の神話が始まるのは間違いないと言えるだろう。 「ゆえに全力で行かせてもらうが、その前に聞かせてくれよ。柊四四八」 「俺とおまえたちの時間軸はずれている。察するに、あれから四・五年というところかな?  であれば、俺はおまえに負けたのかもしれん。こちらにとってはまだ見ぬ未来の出来事だが、どうだ、甘粕正彦は満足そうしていたか?  人は泣きながら生まれてくる。ゆえに死は豪笑をもって閉じるべきだと決めているのだ。おまえの目から見た俺は、見事本懐を果たせていたのか?」 「ああ、腹立たしいほどおまえはおまえを貫いたよ」 「ならばよし」  心底満足そうに頷いて、魔王は口角を吊り上げた。 「少なくとも、この場のおまえは俺を超えた漢であると認識した。ならば指揮下に入るのも吝かではない。  未来は枝分かれする葉脈のごとし。よって、いずれおまえと成る者にあちらで会えるかは不明だが、今はその可能性に敬意を示そう」 「つまり具体的に言うとだな、俺に首輪を掛けるならここしかないぞということだ。 興が乗れば、俺はどこまで走り始めるか自分でも分からん」  何せ、いざとなったら己が理想の実現すらも笑いながら捨てる男だ。この場の甘粕にとっては身に覚えのないことだろうが、そういう人種であることを四四八は嫌というほど知っている。  ゆえに返答は速かった。 「おまえに付ける薬などない。ここで何を言っても三歩歩けば忘れるだろう」 「好きにしろよ。熱心な馬鹿ほど手に負えん部下はない。おまえのことは自然現象のようなものだと理解している。  それでこちらの障害となれば、言うまでもない。二度とおまえのような奴と戦いたくはなかったが、そういうことだ」 「はっはっは、なるほど実に明快だ。これは未来が楽しみでならん。  俺にとっての〈楽園〉《ぱらいぞ》は、至るところに萌芽の兆しを見せているということか。  今後、この身はあらゆる未来の過渡期に顕れ、存分に人の愛と勇気を堪能しよう! 素晴らしい、実に実に素晴らしい! すべてが光り輝いている!  これほどの祝福が天下にあろうか! ああ、俺は招かれれば何処にでも行くぞ。おまえたちを愛するためにな!」 「おめでたい男だ」  熱狂する甘粕とは対照的に、クリームヒルトは冷淡そのもの。過去の経緯を密には知らない彼女だが、この男が裏でこんなことをやっていたのかという事実に、ただただ呆れ返っている。  あらゆる未来に足を運ぶなどと言っているが、はたして寿命が尽きるまでにどれだけの機会があるものなのか……不明だったが、まあせいぜい夢を見させてやればいい。 「ともかくだ、今は終わらせるべき夢が目の前にあるのを忘れるなよ」  そう、ここで黄錦龍を斃さなくては、四四八の理想も甘粕の未来も、クリームヒルトの悟りも永遠に閉ざされる。  回れ回れ酔い痴れろと、無限の阿片窟が沸き返りながら溢れ出した。 「人皆七竅有りて、以て視聴食息す。此れ独り有ること無し」  それには目も耳も鼻も口も存在せず、ゆえに彼我のなんたるかも分からない。  常に己の尾を咥え、飽き果てることなく回り続け、空を見ながら痴れた笑いを垂れ流す。 「太極より両儀に別れ、四象に広がれ万仙の陣――終段顕象」  そしてそれに触れた者は、同じく七穴を塞がれた盲目白痴の理へと絶頂しながら墜ちていくのだ。 「〈四凶渾沌〉《しきょうこんとん》――〈鴻〉《こう》・〈鈞〉《きん》・〈道〉《どう》・〈人〉《じん》ィィン」  ここに顕象された汚怪なる神の姿は、数億もの触手で編みこまれた翼と獣毛の塊だった。そうとしか形容できない。  異界の法則として存在しているかのように、蠢き蠕動する巨体の形は今このときも変幻し続け、薄桃色の煙を纏い虚空の中心に揺蕩いながらまどろんでいた。  〈鴻鈞道人〉《こうきんどうじん》――その名はかつて幇会の帝王であった黄錦龍に冠されたものであり、最上位の神仙すら意のままにする〈丹〉《たん》の持ち主だったと言われている。  それはまさしく、〈中原〉《ちゅうげん》を阿片に沈めた彼に相応しい威名だろう。しかもこれは、正式な教えの中に存在を認められていない。  あくまでも、中華道教の頂点に立つのは元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三清である。それをも上回る鴻鈞などという仙道は、後代に生まれた物語の中にしか登場しない。  つまり幻、二次創作だ。正道を無視した妄想から発生し、にも関わらず万民の支持を受けて存在感を得るに至った架空の神仙。本来そこに在らざるべき者。  一度は歴史の闇に封じ込まれた身でありながら、大衆の夢を吸って復活した黄錦龍こそ、まさに鴻鈞道人そのものだろう。彼の本領たる四凶の神威が、いま唸りあげて放たれる。  瞬間、対峙している三人の盧生は、起きた事態の凄絶さを秒も待たずに理解した。そう、〈秒〉《 、》〈も〉《 、》〈掛〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「ああ、そして彼らは救われた。いいぞ、いいぞ、輝ける未来よ。降り注ぐ夢が見たい。痴れた音色を聴かせてくれ」  実にこのとき、爆発的に広がった万仙陣はアジア全域を一呑みにしていたのだ。彼の故郷である中華はもちろん、インド、モンゴル、ベトナム、ミャンマー、パキスタン――その他は当然、加えて日本は言うまでもない。  そこに住まう人々は、悉くが夢見る触手に成り果てた。至高の桃源郷を感じながら、彼らの救世主である黄に向けて悦楽の詩を歌っている。  今このときも増え続ける眷族、それが生み出すタタリ。すでに三十億を超えんとしている圧倒的と言うにも凄まじすぎる大軍勢――!  盧生の力は支持者の多寡で決定する。ならばこのどうしようもない物量差をどう覆せばいいと言うのか。  分かりきっていたこととはいえ、理想の普遍性という面で差がありすぎる。  四四八も、甘粕も、クリームヒルトも、決して支持者が少ない盧生ではないものの、黄は文字通り桁が違う。 「怒るなよ、そんな顔をするな。もう見てはいられない。  笑ってくれおまえたち、楽しい夢を見てくれよ」  足元から彼方から、這い上がり殺到してくる無数のタタリが、凶禍となって三人へ押し寄せてきた。 「まあ話は簡単だ。奪い返して塗り替えればいい」  しかし、依然クリームヒルトは揺るがない。いつものように分析しながら、計算の狂っているとしか思えないことをさらりと言う。 「要は選挙のようなものだろう。現状、我らの支持率が足りんと言うなら、一席ぶたせてもらうまで。  まずは論より証拠といってみようか」  静かに抜き放った鋭剣から、凄絶なほど純化された死というものが流れ始めた。それは触れもしないまま群がるタタリを薄れさせ、彼女を中心に放射状の空白地帯が現出していく。  そして無論、ただこれだけでは有り得ない。 「〈富は滅び 親しき者は死に絶え いずれは己も死に至る〉《Deyr fé, deyja frændr, deyr sjalfr it sama》――」  死想が集う。集い形を成し顕象していく。彼女の悟りを体現する存在として、相応しい神格を召喚するのだ。 「〈終段顕象〉《Dags ansuz》―― 〈高き者の箴言〉《Hávamál》」  そのときそこに出現したのは、巨大な鋼の騎兵だった。冥界の宝石を思わせる漆黒の鎧に身を包み、静謐ながら何者にも無視できない強固な存在感を放っている。  なぜなら、それこそ死という概念なのだから。  富は滅び、愛する者の憎むべき者も、そして己も必ずいつか死ぬ。  誰もが当たり前に知っており、だからこそ誰もが目を背ける現実の最たる典型と言えるだろう。  ここに顕象された黒騎士はそうした真理を否応なく掻き立てる者であり、時間すら停止しているような佇まいが死のなんたるかを雄弁に物語っていた。  そして無論、ただ静かなだけの存在であろうはずがない。彼は死神であると同時に戦神であり、ここへ喚ばれたのも戦いのためである。ゆえに今、武として神威を揮うことに一切の躊躇はなかった。  携えていた槍を肩に担ぐ。騎乗したまま、巨体に相応しからぬ流麗さで投擲の姿勢に入った〈高き者〉《ハーヴァマール》の威容からは、紛れもない荘厳さが漂っていた。  そう、死は回避できぬものだからこそ人類が有史以来崇めてきた普遍の摂理。  恐ろしく、忌まわしく、嫌われるものであるが同時に、これは粛然と厳かに敬われるものなのだ。  よって目を逸らしてはならぬ――召喚に際し合一化したクリームヒルトの意志を己のものと受け止めて、鋼の巨人はここに死の大槍を投げ放った。  飛翔する神威の一撃は、まさに万軍を突破する流星のごとし。だがそこに破壊という印象はなく、阿鼻叫喚の一切が顕現しない。  厳粛に、ただ静然と、槍を中心に無音の世界が溢れ出し、それに呑まれたタタリたちは悲鳴一つあげることなく消え去っていく。  その情景を悠然と眺めながら、第三盧生は苦笑した。 「なんだおまえたち、そんなに私が怖いのか。心外だな」  槍は今このときも群がるタタリを討滅し、戦果を拡大し続けているが、クリームヒルトの支持率は依然まったく変わらぬどころか、むしろ下がり始めているのだった。  すなわち恐れさせることには成功しても、畏敬や憧憬を勝ち取れていない。  現状は単なる力押しにすぎず、そういう勝負で黄錦龍を斃すことは不可能だ。先ほど自分で言ったとおり、選挙の票数で圧倒的に負けているまま。  事実、槍が生み出す死の勢いも徐々に減じ始めていた。支持基盤が脆弱なため、盧生の力が落ち始めている。  だから彼女は首を振り、困ったなと嘆息してから…… 「どこまで私のことを見たのか知らんが、そもそも勘違いをしていないか?  いいか、私は――」  と、何事か呟いた瞬間だった。  槍が、そして鋼の死神が、再び神威を漲らせる。  その急激な上昇は度外れたものであり、最初の数倍、数十倍、いいや数百、それ以上――  変転した状況を前にして、クリームヒルトは自嘲の笑みを浮かべていた。  概して死とはそういうものであるように、彼女は誤解されやすい。  あまり真剣に覗き込むのが怖いから、表層を撫でただけで判断されることが多いのだ。  ゆえに今も、第三盧生の真実は明確なところが分からない。  彼女の悟りはどういうものか。求めた未来はどういう形か。  普遍的であるがゆえに見えにくいのが死神で、それはクリームヒルトの業とも言えることなのだろう。端的に損な女性と表現できる。  だから反面、非常に分かりやすいもう一人はどうかと言うと…… 「ふふふふ、はははははははははは―――!」  絶頂、興奮、狂喜乱舞の大喝采。  轟く第一盧生の高笑いと共に、相模湾から顕れたのは巨大な黄金の龍だった。緩く鎌首をもたげている状態で、頭頂部分はなんと成層圏にまで達している。  これは関東平野にとぐろを巻けるほどの大龍神に相違なかった。王都を守護する神獣であり、星の血流とも言うべき地脈が具象化した存在だ。  その〈咒〉《な》は黄龍――かつては廃神として百鬼空亡という名に堕とされていたのだが、ここで顕れたものは外見どおりに眩い聖性を纏っている。  なぜなら甘粕正彦という盧生にとって、そこにたいした違いはないのだから。審判という概念に強い親和性を持つ神格ならば、邪龍であろうと聖龍だろうと同じことで、さらに言うなら彼はノリを弁えている。  ゆえに今、龍神の頭頂で仁王立ちし、群がる眼下のタタリどもを睥睨しながら甘粕正彦は己が真を謳っているのだ。 「情けない、情けないぞおまえたち。現実で戦うことから逃げ続け、いったい何処へ辿り着けるつもりでいる」 「気に食わんなあ、喝を入れてやるとしよう。殴るのが好きなわけでは決してないが、そうしなければおまえたちの輝きは取り戻せんと信ずるゆえに」  人の迷いを祓うなら、汚辱に染まる退廃の阿片窟から救い出すなら、導く夢は聖なるものこそ望ましい。  彼は魔王に違いないが、光の属性も有しているのだ。 「少々痛いが、なに、良薬は苦いとでも思ってくれよ」  同時に、黄龍の鱗が発電するようにさざめきだす。それは地脈を走りながら瞬く網目を描きあげ、その範囲に入ったすべてのタタリへ超級規模の震動波を叩き付けた。  粉砕、灰燼、少々どころの破壊ではない。龍の咆哮は大地の怒りとなって顕現し、対象物を分解するまで揺り動かしつつ消滅させる。都を守護する龍神は、汚怪な穢れを許さない。  文字通り地形すら変える一撃は、百万のタタリを瞬時のうちに消し去ったのだ。 「やがて夜が明け闇が晴れ、おまえの心を照らすまで、我が言葉を灯火として抱くがいい――終段顕象」  そして、そのまま終わらないのが甘粕正彦という男である。興が乗ったら何処まで走るか分からないと自ら言っていた通り、黄龍を召喚しながら並列して次なる術式に移っている。 「〈出〉《いで》い黎明、光輝を運べ――明けの明星ォ!」  そう、彼はノリを理解する男なのだ。ノリしかないとも表現できるが、ともかく万仙陣の何たるかを知った以上は、夢見る観客たちの要望を決して無碍に扱わない。  彼らが望むもの、見たがるもの。ああそうだとも、楽しませるというならば、甘粕正彦も一家言持っている。それは黄錦龍ばかりの十八番ではない。  ゆえに、さあ、こんなのはどうだおまえたち。  顕れたのは黄龍同様、光り輝く聖性を纏った存在だった。  純白に、ただ清らかに、天上の愛と正義を謳いあげる掛け値なしの絶対的善。そこには微塵の淀みもない。  最高位〈熾天使〉《セラフ》を意味する六枚羽を閃かせ、そこにはかつて〈蝿声〉《べんぼう》と呼ばれた者の正しき姿が招かれたのだ。 「かの少年が業を乗り越え、勇気を貫き通したならば、おまえも応えるべきだろうよ。いざ光となって舞うがいい。  祝福よッ! この満天下に降り注げ、彼と彼女の愛に万歳ッ!」 「友よ、セージよ――おまえの後継は名実共におまえを超えたぞッ!」 「仰るとおりです、我が主」  きっと彼らは、どこまでも大真面目かつ誠心込めてこの場に立っているのだろうが、どうしてもふざけているようにしか思えない。  そしてそんな反応も承知の上だと言うかのように、主従は傍から見れば噴飯もののやり取りを続けていく。 「後続に道を示し、やがては乗り越えられることこそ父祖の本懐。セージにもそれを分かっていただきいものですが……」 「是非もあるまい、ああいう男だ。それはそれで奴の求道なのだろうよ。今のおまえは逆さ十字を正したいと思っているのか?」 「ええ、この場の私はそういうものだ。彼のような者こそ救ってやりたいと願うがため、安易な妄想に逃避する偽りの救済など看過できない」  天使の羽に光が集まる。一点の曇りもない善性を煌かせて、正義の使徒が法の裁きを執行した。 「人の意志、そは無限なり。諦めなければ夢は叶う!  努力を怠り、虚構に逃げる子羊たちよ――我が審判の火を知るがいい!  ハレルヤ、オオオォォゥ――グロオオオリアアアァァス!」  羽の一枚一枚からレーザーのごとく迸る、数千条の烈光流星神火の乱舞。  これぞ堕落した者たちに送る真の救いで愛の顕現。最高位天使が放つ光の抱擁は世界を覆い、汚矮を浄化し焼き尽くす。 「ならば俺も神罰覿面といかせてもらうか」  同時に天が、いいやさらにその先で――甘粕の掲げた両手から放たれた勅令により、宇宙の法則が乱れ始める。  もはや常軌を逸する創形および射の咒法。  これこそ究極、絶対兵器。  実にこのとき、衛星軌道上に出現した彼の軍勢は数十万を超えていた。  そのすべてから、等しく鉄槌が墜とされる。 「神鳴る裁きよ、降れい〈雷〉《イカズチ》ィ――ロッズ・フロム・ゴオオオォォッド!」  もはや誰にも止められない。ゆえに甘粕正彦なのだ。  神威を帯びて放たれた衛星砲の絨毯爆撃に容赦は欠片も存在せず、タタリを潰して潰して消し飛ばす。  最強の盧生はここにあり。  たとえ支持者の数で劣っていようが、いったい何ほどのことがある。  そうした流動的要因を無視して言えば、基本となる単純な武力で彼に勝てる者はいない。  先に言った、先達は後続に乗り越えられてこそ本懐という価値観に自ら真っ向逆らっているが、そうした点もまた彼らしい。甘粕正彦は常に最強であってくれと、願う者らもやはり存在するのだから。 「満悦かねおまえたち。ああ、俺もいま満ち足りている。  この神話的世界観こそ我が理想。そこに懸ける覇気と覇気のぶつかり合いこそ我が王道。善悪定かならぬ境地へ至り、輝きと呼べるすべてを余すことなく現出せしめる」 「なんでもよいのだ。願う真が胸にあるなら、ただその道をひた走れ。躓き、倒れ、泥を舐めようが何度でも立ち上がるのだよ。  なぜなら誰でも、諦めなければいつかきっと夢は叶うと信じているから。  易きに流れるなよ、胸を張れい。おまえは必ず、おまえの人生を踏破できる。  俺はいつも、いつもおまえたちの傍に在るのだ――忘れるな!」 「よいか、忘れてはならん。それが勇気だッ!」  二人の盧生による大喝破は、どこまでも激しく轟き続けた。  夢見る者たちの目を覚ますために。  そして今、最後の一人は…… 「―――――」  未だ何の行動も起こさず、ただ万仙陣の中心にある黄を睨み続けているだけだった。そこにどういう意図があるのかは分からない。  彼は怠慢を是とするような性ではないし、無意味な余裕を示して大物を気取るような男ではもっとない。  では自分の出る幕ではないと思っているのかと言われれば、そんなことも有り得なかった。  現状、傍目に彼らは優勢である。四四八が動かずとも甘粕とクリームヒルトはタタリを滅し続けており、本人たちも窮地とは無縁の態度だった。  ゆえに黄錦龍、口ほどにもなし―― とはいかないことを柊四四八は知っている。 「ジリ貧だな。切がない」  彼が漏らしたその言葉は、現状を端的に要約していた。そう、これはまさに黄の掌で踊っている状況に他ならないのだ。  前提として、第四盧生は武や暴を体現する存在ではない。ゆえに彼が召喚した鴻鈞道人は、何ら破壊的な所業をしていなかった。  驚異的な普遍性を基に膨大な眷族を生み、そこから生じるタタりたちが向かってくるというだけのもの。  その一体一体、常人にとっては確かに致命的なものだろうが、盧生の揮う神威の前では塵芥に等しい。よって甘粕とクリームヒルトはまさに無双しているのだが、はたしてそれがどこまで続く? 「三日三晩、どころではないな。百年でも続ける気か」  万仙陣に落ち、触手と化した者たちが夢を見続けている限り、これらタタリは何度滅ぼそうが湧き続けてくる。今でさえ三十億を超え、さらに増え続けている眷族たちこそが根源なのだ。  ゆえに黄を斃すまで、越えなければならないタタリはどれだけいる? 眷族一人あたりが数百体の夢を生むと仮定すれば、その総数は兆を突破してしまうだろう。  そしてそれすら、甘い計算なのだと分かっている。人に夢見ることをやめさせるのは不可能だから、事実上無限の軍勢と言っていい。  そんなものを真っ向から相手取り、たった三人にすぎない側の気力体力が保つはずもないだろう。  かといって、眷族への直接攻撃は論外。万仙陣に嵌った者らは基本的に罪などないし、そもそも四四八たちは彼らを救うために戦っている。  それを攻撃するというのは本末転倒な話だろう。仮に見捨ててしまうとしても、やはり数が多すぎるのだ。やるなら人類を絶滅させるレベルの真似をしなくてはならない。  以上、問題はとにかく数。支持者の多寡で優劣が決まるという盧生の性質が、もろに現れている結果だった。  選挙、つまりはそういうこと。甘粕はどうせ何も考えていないのだろうが、クリームヒルトはそこを考慮しながら戦っている。  自らの〈普遍性〉《りそう》に帰順させ、万仙陣からの離反を促し、タタリを削いで人々を救うと同時に己の力も上昇させる。一挙何得もの手に違いないが、ここでもやはり問題は数。  覆すために必要な時間、労力。達成は非現実的なほどに遠すぎる。  認めざるを得ない。黄錦龍の普遍性こそ人の最たるものなのだ。  皆が皆、芯から百パーセントご都合な幸せに逃避しているわけじゃないと分かっているが、そういう願望を一片たりとて持ちあわせない人間はおそらく一人も存在しない。  ゆえに、万仙陣はきっと盧生にさえ嵌り得る。  夢を、理想を、目的を叶えたい。それが果たされた世界を見たい――  と、そういう想いを絡め取るのが鴻鈞道人。このまま熾烈な消耗戦が続行すれば、結果は火を見るより明らかだろう。  言ったように、非現実的なほど覆すのが困難な戦況なのだ。一日二日ならどうとでもない。百日だって耐えてみせるし、一年以上掛かってもあるいはと……思っているが、百年千年戦い続けてその先どうなる?  無理だ。四四八は冷静に断じている。そもそもからして、自分たちがここにいられるのは朔という特殊な時期のお陰である。よって厳密なところ、許された戦闘時間は今夜限り。  この時代で復活を果たした黄錦龍は、朔がすぎても余裕で留まり続けるだろう。文字通り外敵のいなくなった世界で、無限の阿片窟に酔い痴れるのだ。  焦りは禁物だが、悠長な真似もしていられない。だから四四八は―― 「まあ、俺もやはり馬鹿だな」  どこまでも、彼らしいと言える行動に移ったのだ。 「あまり好きにやらせていると、甘粕が世界ごと滅ぼしかねん。  俺がこうするだろうこと、分かったうえでのことか、ヘル」  一歩、ひたすら無造作に、雲霞のごときタタリの波へと身を投じる。  そしてそのまま―― 「さがってろ」  特に声を張ったわけでもない一言で、群がるタタリが一気に道を開けたのだ。その光景は、さながら十戒を手にシナイ山から下りる預言者のごとし。  クリームヒルトは感嘆の吐息を漏らして、甘粕正彦は爆笑した。後者にとっては未知のものだし、彼の時間軸で再現されるかどうかは不明だが、それはかつて第一盧生を討ち取った勇気の極限なのだから。 「聞きわけがよくて助かる。 こういうところは、おまえのお陰でもあるな錦龍」  彼は柊四四八。第二の盧生。史上唯一、盧生に達しながら盧生の資格を返上した者。  しょせんこんなものは夢にすぎぬと、夢界の頂点を極めながら悟れた漢は彼しかいない。これはその結果であり、さらには万仙陣の影響でもあった。  存在を抹消された黄錦龍という第四の盧生。彼を復活させるため、緋衣南天は闇に封じられたその歴史を掘り起こそうと試みた。手段として邯鄲の術式を再構築し、己と信明を軸に鎌倉中の人間を百年前の夢へと引きずりこんだ。  それは一度、玻璃爛宮の召喚という形で完全に成功している。だが同時に、黄の眷族は甘粕事件の真相を良くも悪くも知ったのだ。  柊四四八が、かつて神々の黄昏さえ生身で踏破できたのは、ひとえに相手が甘粕正彦という奇特な盧生であったからこそ。当時の彼が自覚していたように、他の盧生にもおいそれと通じるものではない。  しかし、ここでは話が違う。少なくとも鎌倉市民たちから生まれたタタリは、〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈に〉《 、》〈夢〉《 、》〈が〉《 、》〈効〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  ゆえに他県、他国、そこの眷族から生まれたタタリには無効な手だが、現状最多の勢力は直下の現場であるこの鎌倉。  速やかな短期決着を狙うなら、勝ちの目がある賭けだろう。聞きわけの悪い連中は、甘粕とクリームヒルトに任せればいい。  要は、核である黄のもとへ辿り着ければそれでいいのだ。  鴻鈞道人。第四盧生。共に物理的な破壊を成す存在ではないのだから。  懐に入れば生身のままでも戦える。 「俺は二度と盧生の力を使わない。それが得た悟りの一つであり、貫き通す気持ちは今も変わらず胸にある。  おまえを生んだのは俺の不手際……ゆえにおまえを斃すときだけは例外にせざるを得なかったが、やはりどうにも馬鹿なんでな。  この時代への介入、おまえとの対峙。それを果たすための最低限を除けば、やはり盧生の力を使うべきではないと考える。  随分とまあ、下の世代には持ち上げてもらったようだしな。彼らの夢を壊さんためにも、格好つけなければならんだろう」 「それこそが継ぐということ。継がれるに足る己たらんと走ること。  おまえには分からんか、錦龍。まあいい、すぐに教えてやる。  教えるのは得意なんでなァ――!」  言うと、四四八は全力で駆け始めた。  生身そのままのスピードで、しかし群がるタタリを歯牙にもかけず。  何割かは無効化できないタタリが混じり、軽くない損傷をその身に刻んでいくが頓着しない。  四四八がここに至るまでの時間を要したのは、ひとえに前述の覚悟を再び身に纏うためのもの。一度やったことなのだから簡単だろうと、そんな甘い次元の話ではない。  何事であれ、一度破った禁を締め直すのは最初以上の克己心を要求される。黄を打倒するためにこの時代へ介入せざるを得なかった四四八は、言うなれば極上の美酒を再度飲む必要があったのだ。  そのうえで、味を思い出した状態で断固絶つ。無効化できないタタリも多くいるという状態で恐怖に負けず。  並みの精神力で成せるようなことではない。  だが、それをやるからこそ彼は盧生で、ヒーローで。  かつ、最高の馬鹿なのだ。 「おおおおおおォォォッ―――!」  雄叫び、踏み込み、勇者とは斯く在るべしという様を見せ付けて、今―― 「―――――」  四四八渾身の鉄拳が、黄の顔面に命中した。  跳ね上がった顎。仰け反る痩身。  だが依然、その瞳には仙境の霞が掛かっており…… 「なんだおまえ、それほど俺が好きなのか?  〈愛〉《う》いなあ、俺に救ってもらいたいからやって来たのか。いいぞいいぞ、好きに夢を思い描け――そのときおまえは、おまえの中で世界の勝者だ。  俺はおまえの幸せを、いつ如何なるときも祈っている!」  げらげらと痴れた笑いを放ちながら、黄錦龍は喝采していた。彼の背後で蠢く鴻鈞道人もまた然り。  絶望的に、致命的なほど、彼我の世界は交わらない。 「どうした、来いよ。おまえはいつもいつも怒っているのが哀れでならん。何をそんなに穏やかならぬ心で苦しみながら生きているのだ。  要するに、こうなのだろう? おまえは人間が嫌いなのじゃあないだろうか。おまえが思うおまえにとっての世界では、おまえ以外の人間は度し難い愚か者で溢れており、それが腹立たしくて堪らんのだと。ああ、実になんと救われぬ〈劫〉《ごう》の持ち主であることよ。  俺もおまえたちが哀れで哀れで堪らない。似た者同士か? なるほどなあ、これが正義の味方というものだろう」 「おまえは俺に逢いたくて、逢いたくて逢いたくて救われたくて、ゆえにここまで来たのだな。まったく、なんと愛い奴――抱きしめてやろう。  気楽に吸えよ。おまえのためなら幾らでも用立ててやる。崑崙より羽化登仙に至れば、〈殺戒〉《さっかい》を犯して悩むこともない。  天数などものの数ではないのだから。仙丹で〈道〉《タオ》を極めれば柊四四八よ――」  身体ごと捻じ曲げるように首を逆さに傾けて、至近距離から四四八の目を覗き込みつつ白痴の王は破顔した。 「世界は薔薇色に輝いて見えるぞ」  僅かな邪気も驕慢も、嘲りも何もない心からの善意。それがゆえにどうしようもなくおぞましい。  ここにいるのは背徳の錬丹術で大羅天から玄都を突破し、太元すら支配に治めた架空世界の天尊なのだ。  妄想に生まれ妄想に生き、そして他者を妄想の中へと引きずり落とす。  太極図瞑想など生まれたときからやっている狂人で、かつ聖人だからこそ黄錦龍は普遍の盧生。 「仙道の究極とはそこにある。おまえなら素晴らしい境地へ至れるだろうと思うのだが……ふははっ」  ゆえに再び、無言で揮われた四四八の拳をまともに受けても黄の笑みは崩れない。二度ならず三度、四度、連続で叩き込まれるすべての打撃を恍惚としながら楽しんでいる。  ……いや、本当にそうなのか? 「まったく、よく喋る根性なしだ」  そして一撃、また一撃。四四八の拳はすでに左右血塗れになっていたが、黄は鼻血の一滴すらも流さない。  いかに非暴力、武威の面で最弱の盧生といっても、やはり盧生は盧生である。生身の拳で崩せるような甘い循法の持ち主ではない。  そう、循法。  その意味するところは何なのか……四四八は正確に分かっていた。 「俺が怖いか。何を恐れている錦龍――貴様それでも〈幇会〉《ヤクザ》の頭か。  今日び餓鬼でも、いくらか真っ当な喧嘩が出来るぞォッ!」  腹から吼えた怒声と共に、四四八は怯むことなく血に濡れた拳を振り上げるのだった。  全力で、ただ一つを願い、夢と現が揺蕩う狭間で、静乃はただ我武者羅に駆けていた。  声が出ない。叫んでいるのに何の音も紡ぎ出せない。これでは自分の思いが伝わらないと、身を引き裂くような焦りに彼女は囚われている。  だって消えてしまうから。彼らがいなくなるというのが分かっていたから。  自分の思い描いた英雄たちが、今このときに薄れていくのを静乃は実感していたのだ。掌から零れ落ちていく砂のように、皆の消失が伝わってくる。  水希……  晶……  歩美……  鈴子……  栄光くん……  淳士くん……  そして、ああ、そして…… 「四四八くん……!」  声は、やはり音にならなかった。自分と彼らが、すでに違う世界へ別たれようとしているのが確かな事実として感じられる。  そう、分かっている。分かっているんだ。理解していたし覚悟もしたし、これが自分の背負わねばならない現実なんだと知っている。  本を閉じれば寂しい。ふと我に返って周りを見渡せば荒野かもしれない。そう納得したうえで石神静乃は夢の終わりを選択した。  万仙陣は消えるだろう。偽りの桃源郷はそのとき地上から無くなるのだ。  自分はその結末を目指し、迦楼羅として犬士として、降魔の剣たる務めを果たした。そこに誇りを持っている。  ゆえにこれは、紛れもない勝利の予感だ。約束された未来が迫っているのを意味している。  黄錦龍が落ちることで、世界は破滅から救われるだろう。そこに間違ったことをしたという気持ちは一片も無い。  だけど…… 「私は、私は……!」  それでも、やっぱりとても寂しい。これに耐えていかなければならないことに、震えるほど恐怖している。  もう一人の私に言ったすべては本音だし、ただの痩せ我慢じゃないけれど。  あの石神静乃も自分であると認めているからこそ、最後に一言。  私が二度と夢に酔ったりしないように、誓いを紡がせてほしいんだ。  君たちと共にあった日々の喜びは嘘じゃない。  熱を感じ続けたいと願った心は、そうして繋がった絆だけは、断固間違ったものじゃないと信じているから。  行かないで、なんて言わない。  連れて行って、とも言わない。  私は現実で生きていく。そのための強さをくれた君たちに、ただ心から告げる感謝の言葉を……  あのときと同じ、私の〈真実〉《マコト》をもう一度だけ。  届いてくれと願い、祈って、静乃はそれを口にした。 「ありがとう、ありがとう。皆とこうして、会えてよかったッ!  私は、君たちのことが大好きだよ!」  この想いを抱いて自分は生きる。その発露が言葉となって成された理屈は、きっとすごく簡単なことで。  まだ小さかった頃、それは懐かしく幸せな記憶。  曾祖母の膝を枕に、英雄たちへ夢を馳せた幼い自分を、静乃は日向の温もりと共に思い出していた。  ああ、雪子さん、ありがとう。  あなたがいたから私は私になれたのだと、今こそ強く感じられる。  だから真っ直ぐ前を見ないと。  いってしまった彼らにもう心配はかけたくないから。  柊四四八は勝利する。彼が負けるなど有り得ない。  その約束された未来の兆候を静乃と雪子は確信し、共に結末を見届けるべく万仙陣の亀裂に立っていた。  黄錦龍、我らが父祖よ――あなたの〈道〉《タオ》は完成しない。  なぜそうなったかということは、きっと柊四四八が教えてくれるはずだろうから……  痛くても、苦しくても、悲しくても、その先に光が待つ未来もある。  あなたもそれを知ってほしい。  世界は閉じてなどいないということ。  その真実を、何より彼女たちは強く信じているのだから。 「―――――」 殴り続ける。ひたすらに。休むことなく何度でも。 すでに両の拳は折れ砕け、潰れた泥団子のようになっていたが頓着しない。 いま俺は、間違いなくこの男を追い詰めているという確信があった。それは無論、万仙陣に嵌ったがゆえの妄想なんていう落ちじゃない。 だって、なあ、そうだろうが! 「生身の拳にすら――循法を使わざるを得んのか錦龍ッ!」 「弱いな、そんなものか臆病者め!なるほど、現実から逃げ出した奴に相応しい!」 「生まれて初めて感じた痛みは、それほどまでに強烈だったかッ!」 盲目の仙境に揺蕩う盧生。生涯夢の世界に生きてきた錦龍。ゆえにこいつは、他者との意思疎通を始めとしたあらゆる外部からの刺激に真っ当な反応を示さない。 その際たるものが敵意や攻撃に対する処し方で、すべてを自分のいいように解釈するから芯にはまったく届かない。それは大気光学現象にも似て、妖しの霧が光を乱反射させるどころか偽りの像すら生んでしまう。 盧生となる前からこいつはその片鱗を見せていた。そして盧生となってからは、絶対的な境界術へと昇華した。 いや、そうなるだろうと分かっていたんだ。俺やヘルが、これまで錦龍に対抗する術を持たなかった最大の理由はそこにある。 「俺は一度、貴様を斃し損なった……!」 「貴様の八層試練に際し、完全なかたちで斃し切れなかったのは俺の不明」 甘粕との決戦を控えたあのとき、当時の俺は征志郎を知らなかったから条件を取りこぼした。ゆえにこの身は不完全で、錦龍を斃し損なった原因の一つはそこにある。 だがもう一つ。やはり当時は不完全だったが、こいつも仙境の霧を纏っていたから死を回避することが出来たんだ。 ゆえに俺は、いつの日か起こる万仙陣の再来を確信したが、そこにジレンマが発生する。 アラヤの海にバラバラとなって拡散した錦龍を斃すなら、こいつの完全復活を待たねばならない。しかしそれをさせてしまうと、第四盧生は誰の手にも負えない存在となってしまう。 復活を待たねばならないのに、復活させると斃せない。この背反がどうしようもない壁として俺たちを苦しめたのは事実―― 「だが、今は違うぞ! こうして拳が貴様に届くッ!」 「二人の雪子に穿たれた胸の穴は、確と存在しているだろう!」 「それが痛みだ錦龍――人と人を繋ぐ関連性の一つ」 「俺の眷族、孝の犬士を侮るなよおおォォッ!」 全力で、それこそ身体ごと叩きつけるように壊れた拳をお見舞いする。そこに表層的なダメージが通ったか否かなど関係ない。 「貴様は痛みを恐れている。二度と味わいたくないと思っている。循法など使っているのがいい証拠だ!」 「そもそも貴様に、そんな感性はなかったはずなんだからなァッ!」 痛みを知らない。分からない。ゆえに攻撃を受けるということの何たるかも理解できない。 かつて阿片窟を出たこいつの目に映る他者と世界は、さぞかし意味不明なものに見えただろう。 笑っていない。楽しそうではない。だから幸せにしてやろうと、ただそれだけが錦龍のすべて。 哀れにも相争う人々の本質が分からないから、こいつは精神と肉体が持つ無痛の他に防御の概念を持っていない。 あるのは遮断と曲解のみで、本来なら循法の行使どころか意味すら解さなかったはずだろう。 にも関わらず、今のこいつは循法を使っている。それが恐れの顕れでなく何だと言うんだ! 「貴様、未だにへらへらと笑っているが……」 薄皮一枚剥げば引きつった顔が見える。これは決して、錯覚じゃない。 「真を曝せ黄錦龍――そんな様で俺をどうにか出来るとでも思っているのか!」 「へははっ、は、ははは……」 「おまえの言うことはさっぱり分からん」 「つまりなんだ、ああ、うむ……俺に奮起してほしいのだな? おまえ自身がもう耐えられぬから、一刻も早く仙境に導いてくれと言っているわけか」 「痛み痛みがどうこうと、おまえのほうこそ随分とまあ痛そうにしているのだから。そうだなそうに違いない」 「初めて逢った瞬間から、アラヤの試練に直面し、今に至るこのときまで……俺が目にしたもっとも哀れな人間はおまえだよ」 「ゆえに俺の真とやらは、おまえを昇天させたいという気持ちだけ」 「それこそ黄錦龍の至った悟りである」 「ああ、そうだろうなッ!」 こいつが循法で身を守っている恐れの心は、間違いなく無意識下のものだろう。現状自覚すらしていない。 だが、盧生にとって無意識というものがどれだけの意味を持つか。それを必ず教えてやる。 「知っているか錦龍……人としても仙道としてもあぶれた者は、そのどちらでもない世界へ行くことになる」 「おまえの国では有名な話だろう。そこは神界というらしい」 「そして、神界へ送られることを〈封神〉《ほうしん》という」 殷と周の易姓革命を舞台にしたその物語は、端的に言うと現世社会に上手く適応できない者らの一斉排除で、件の鴻鈞道人もその中に登場する。 「おまえのやっていることはまさにそれだが、一つだけ致命的に異なる点が存在する」 「封じられたあぶれ者たちはな……」 強く、強く拳を握り締め、俺はあらん限りの声で吼えると同時に渾身込めて振り下ろした。 「それでも封神台の中で、共に成長を目指し学ぶんだよッ!」 だから、俺がおまえを正しく封神してやろう。 二度と世界は閉じているなどと、世迷い言を吐かさせないように。万仙陣に取り込まれるような人の弱さを、僅かでも拭えるように。 誓い、放った一撃を胸に受けた錦龍は、その瞬間動きを止めた。 「―――――、……」 「どうした……痛いか?」 痛いだろう、そのはずだ。なぜなら今、俺が殴った箇所はこいつが初めて他者との繋がりを実感した傷痕だから。 初手からここを攻めたところで、さほどの意味はなかっただろう。こいつの無意識下にある恐れを浮上させるため、〈あ〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈拳〉《 、》〈を〉《 、》〈壊〉《 、》〈す〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈様〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈付〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 俺という存在に対する不可解さ。すなわち手前勝手な解釈ではない外への認識。 〈他〉《 、》〈者〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈怖〉《 、》〈く〉《 、》、〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈ま〉《 、》〈ず〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈ろ〉《 、》。 常時胡乱だった思考の霧を払い飛ばし、生涯初のシラフを一時的にでも顕現させられた衝撃を思い出せ。 そして、それを成した者の存在も。 「おまえの封神台には雪子が待っている。せいぜい娘に根性叩き直されてくることだ」 ああ、俺も今こそ感じるぞ。二人の雪子が世界は閉じていないと信じる祈りを。 その〈真実〉《マコト》を。 「錦龍……おまえも盧生なら、せめて家族とくらいは向き合ってみせろ」 なぜなら一方通行の繫がりなど、空しすぎるだろうが、なあ――! 「社会の最小単位すら知らん身で、人の代表者などと驕るなよ!」 「ぁ、……ぁ、っ……ぉ」 どうやらようやくのこと気付いたか。〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈傷〉《 、》〈だ〉《 、》〈ら〉《 、》〈け〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》。 「なんだ、もう一発欲しいのか? それなら……」 再び俺は振りかぶり、先と同じ箇所へ見舞ってやろうとしたそのとき―― 「お、おおぉ……がああああああああぁぁぁァァアッ!」 爆発した錦龍の咆哮が、虚空を震わせながら万仙陣に轟いていた。 「―――――」  そのとき己が何をしたのか、彼は咄嗟に量りかねた。触覚全般がもともと曖昧な男である。己が手足を動かすことさえ特別意識した記憶はなく、ましてその結果に何事か思うなど皆無に近いのが常だった。  しかし、だというのにこれは何だ? 俺はいったい何をしている? 「効かんな……やはりしょせんはそんなものか。  女の平手打ちのほうが、まだ芯にくるぞ錦龍」 「―――ッ、……!」  弾かれた顔を見せ付けるようにゆっくり戻し、不敵に笑う柊四四八。折れた歯を無造作に吐き捨てて、挑発を重ねていく。 「おまえは俺を救ってくれるつもりらしいが、これが幇会流の救済か?  ならばよし、気が合うな。俺もこういうのは嫌いじゃない。事実先ほどまでよりいい気分だよ。   礼を言おうか、錦龍。これはその、代わりと思え!」  そして、今度は黄の顔が跳ね上がる。同時に彼の頭と身体と精神に、形容不可能な電撃が走った。 「あ、がっ……」  何だ。 何だ。 何だ。 何だ。  何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だこれはあああァァッ―――! 「痛いか?」 「……痛い?」  そう、己はこれが何かを知っている。言葉上の意味ではなく、正体を経験したことがあったのだ。  この、極めて不愉快な体温、脈拍、神経伝達速度の上昇。脳が重くなり揺さぶられる感覚は慣れ親しんだ酩酊にも似て、しかし黄錦龍が愛する桃源郷とは完全な対極にある。  少なくとも、彼にとってこれはそういうものだったから…… 「さて、それじゃあ続けようか」  こんな愚劣極まりない真似を嬉々と再開しようとする柊四四八を前にして、新たに生涯初の経験をしたのだった。 「や、めッ、――ろおおおおおぉぉォォォオッ!」  交差する二つの拳、そして弾き合う両雄の顔。事象だけ見れば相打ちだが、その実より多大な衝撃を受けたのはいったいどちらのほうだったのか。 「やめる? おいおい、つれないことを言うなよ錦龍。俺は気分がいいと言ったぞ。 救ってくれるんだろう? ――なあッ」  血に濡れた顔も拳も、凄惨を通り越した様相ながら、言葉どおりに柊四四八は笑っている。それが黄錦龍を恐怖させる。  自傷を愛好する者や、戦闘に恍惚とする者はこれまで数え切れないほど目にしてきた。しかし彼らの愛する痛みとやらを、黄はようやく解したゆえにこの桃源郷が我慢できない。  勝手にそちらでやるなら構わん。好きに一人で痴れるだけなら祝福しようと今も変わらず思っている。  だが、それに自分を巻き込むならば話はまったく違うだろう。  加えて言うならこの男、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈救〉《 、》〈う〉《 、》〈行〉《 、》〈為〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈言〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》―― 「ガアアアアアアアァァァァァッ──!?」  全身の血が沸騰するほどの嚇怒と共に、幇の帝王は絶叫を迸らせた。  断固認めん。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》――!  このような悪性を是とする賛歌の盧生など、世に許してはならんだろう。俺は衆生を救わねばならん。  万象慰撫する桃源郷の仙道は、争いを消し去ることのみ祈っているのだ。 「やめろやめろ、俺に貴様の価値観を押し付けるな!  家族だと? それは俺にとって、あの懐かしき桃の煙に今も変わらず揺蕩っている!  我が母に捧ぐ愛こそが万仙陣――彼女の世界は完璧だった。  貴様の歪な在り方は、父の世界より醜く、汚く、度し難い!」  ゆえに己は、揺り篭の記憶に従順なだけ。それこそ全人類に共通する普遍の安寧というものだろう。いったい何処の誰が否定できる?  そう、目の前に在る狂人を除いて。 「救われん、報われん! 史上もっとも穢れた魂――それが貴様なのだと理解した。俺の仙境に立ち入るんじゃない!  閉ざせ、塞げよ関わるな! 無遠慮に外など見るから人は悲しく成り果てると言ったであろうがッ!  だのに、未だもって分からんのなら……」 「貴様一人の封神台に、永劫叩き落してくれるわァッ!」  猛然と、吼え猛りながら怒涛の拳を打ち込み始める黄錦龍。もはやそこに、一人芝居の様相は掻き消えていた。  目的として個々を閉じようとしている点は変わらぬものの、手段に明確な攻勢行動を選んでいる。気楽に吸えよとへらつきながら阿片を差し出していた昔とは、それだけでまったく別と言えるだろう。  唸りをあげる第四盧生の両拳には、彼渾身の戟法がこもっていた。先の循法に続き、やはり初の行使である。  だから〈拙〉《つたな》い。邯鄲に精通した者が見れば失笑を買うほどの取り回しだったが、それでも出力だけは馬鹿にならないものがある。直撃すれば鉄板を貫き、岩を粉砕するだけの暴威がそこに宿っていた。  よってこれは、生身の四四八にとって危機的状況そのものだろう。狂乱する大熊に丸腰で向かい合っている状況に等しい。 「まあ、少しはましになったか」  しかし、四四八は変わらずタフな笑みを浮かべていて…… 「言っても、餓鬼が拳銃を振り回しているようなものだがな」 「がッ、ぐうゥ―――」  完全に捉えたと思った黄の拳が空を切り、代わりに鳩尾へ叩き込まれた抉るような一撃。循法の守りを素通りして、生身の拳打が突き刺さる。 「あまり甘く見るなよ錦龍。俺がどれだけ修羅場を潜ってきたと思っている。  解法など使わなくても、むらが多い輩を崩すのは容易い」  言い終わる前に放たれた振り払うような黄の拳を、四四八は首だけの最小動作で回避した。しかもそれは、たった一度きりのマグレではない。その後も繰り返し再現される。  柳のように、流水のように、迫る風圧そのものを利用しているかのごとき体捌きは、あくまで常人の速度域に留まっている。にも関わらず黄はその動きを捉えられない。目で追うことさえ困難なのだ。 「虚と実、緩急、五感で捉える気の流れに呼吸の静動……説明しても分からんだろうが教えてやる。これもまた、おまえが好む一人芝居からは絶対生まれ得ぬものだ」 「少しは外に目を向ける価値が分かってきたか? それとも、余計に閉ざしたくなったか?  どうなんだ、答えろ錦龍――貴様も今、この熱を強く感じているだろう!  無痛が晴れ、酔いも晴れ、何を見出し何処へ行く!  まだ貴様には、絆の何たるかが分からんのか!」  きっと四四八は、盧生の資格を返上してからずっと生身の技を磨き続けてきたのだろう。  もともとそうした面に疎いわけでもなかった者が、大戦阻止という空前の目標を掲げて自他と向き合い練磨してきた。一度は極めた超常の力に頼ることなく、地に足をつけてただ一徹に。  その覚悟、その克己、今の彼がどれほどの境地に達しているかは深く考えるまでもない。たとえ盧生という冠がなかろうと、柊四四八は人の極限。  それに近い者の一人であることは間違いないと言えるだろう。 「~~~―――ッ」  だからこそ、黄には彼が異形の者にしか見えなかった。  人とは哀れで、脆く、愛しく迷える者たちだ。己に救いを求めてくる存在で、己を救おうとする者ではない。  そもそも、柊四四八の示す救いは万仙陣の教義と対極にある。 「誰が――苦しみながら進む道で幸せになれると言う!  絆だと? しょせんは我欲の押し付け合い、他者に望まぬことをやらせるため、創りあげた体のいい方便だろうが!  嫌ならやらねばいいだけのこと、その自由すら奪い取るのが曰く絆、曰く正義、ただの同調圧力にすぎん! 痴れているのはどちらだと言う!  貴様のような者がいるから、人は嘆き悲しむのだろうがァッ!」  そうだ、あの少女のように。  夢を見たい、覚めたくないと、泣き濡れながらも夢を消そうと血を流していたその神経が分からない。  思い出すだにおぞましく、それは柊四四八から流れた属性なのだろうと理解して、ゆえに―― 「天絶、地烈、風吼、寒氷、金光、化血、烈焔、紅水、紅砂、落魂ォォン――  終段顕象、十絶の陣ィィンッ!」  一刻も早く、この歪みを排除する。  悲鳴にも似た絶叫で新たな終段を顕象させたが、しかし招かれた一聖九君は、その真価を発揮することすら出来なかった。  クリームヒルトの終段で、一撃のもとにすべて消滅させられたのだ。まるで黄と四四八の勝負に、無粋な邪魔は入れさせんと言うかのように。 「〈絶龍嶺〉《ぜつりゅうれい》――〈九天応元雷声普化天尊〉《きゅうてんおうげんらいせいふかてんそん》ッ!」  そしてそれは、次なる終段を顕象しても同じこと。  最高位雷神すら歯牙にもかけず、甘粕正彦と彼の天使が稚気のもとに粉砕してしまったのだ。二人の盧生は未だ無限のタタリを突破できずにいるものの、黄の終段だけは見逃さぬという構えでいる。  四四八と、甘粕と、クリームヒルト。内の誰かと一対一なら黄はまず負けぬだろうが、この状況では完全に主導権を取られている。  そして、誰がもっとも厄介であるかは言うまでもなく…… 「なんだ今の終段は。あんなものがあの連中に通用するとでも思っていたのか?」  怒りに我を忘れるあまり、黄は己の致命的な失策にまだ気付いていなかった。しかしそれも、仕方ないことなのだろう。 「慣れないことをしたな錦龍。おまえはそもそも、応用の利くタイプではまったくない」 「たいして親和性も高くない終段を使ったところで、半端な出来になるだけだ。それでは勝てんし…… そもそも、自分自身に無理が来る」 「――――――」  そのとき黄は、背後で膨れあがる異様な気配を察知して振り向いた。  そこに在るモノは、言うまでもない。 「母よ……」  鴻鈞道人――それは彼自身であり、彼が崇める母の象徴でもある架空の神格。万仙陣の核を成すもの。  蠕動する触手と獣毛の集合体が、まるで路傍の石でも見下ろすように黄を睥睨していたのだ。 「万仙陣の使い方を誤れば、鴻鈞道人に裁かれる……物語の通りだな、終わりだ錦龍」  そう、これこそ四四八の狙いだったのだろう。  驚異の普遍性を有する黄に、単純な力押しや支持者の奪い合いを仕掛けたところで勝負にならない。  ゆえに勝機を見出すならただ一つ。〈黄〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈を〉《 、》〈万〉《 、》〈仙〉《 、》〈陣〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈離〉《 、》〈反〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  別の終段を使ったことなど、結局のところ最後の引き金にすぎない。  四四八の拳が持つ熱に呑まれ、恐怖と痛みと怒りに駆られて一人芝居をやめたとき……  いいや、そもそもそれ以前に勝敗は決していたのだ。 「おまえを討ったのは、あくまでも雪子とその曾孫、そして彼女の仲間たち。  俺などしょせん、ただの〈外野〉《ゲスト》だ。若い奴の手柄を己がものとするほど恥知らずではないし、もちろんおまえもこの時代の主役ではない。  そういうわけでだ……」  最後に強く、これまででもっとも熱く拳を握り、振りかぶってから四四八は言った。 「苦しみながら行く道の先に幸せはない――それこそ、おまえが勝手にそう思っているだけだ。  そこについては封神台で学んでこい。雪子、後は任せたぞ」  同時に、止めの一撃が放たれる。成す術もなくまともに受けた黄錦龍は、そのまま奈落へ落ちるように鴻鈞道人の内部に取り込まれていった。  そう、盲目の白痴たる神に同調できる存在は、同じく七孔を塞がれた自己の桃源郷に生きる盧生のみ。  たった一つでも孔を穿たれた黄錦龍は、その時点で鴻鈞道人と同じではなくなっていたのだ。  渾沌に目鼻を空ければ死んでしまう。道理に合わない無理をすれば破滅するという格言どおりに、第四盧生は墜ちていく。  その間際に、彼は思った。  ああ、なんと世界は度し難い。救いを要らぬという者さえいる。  だが、その果てにあるものこそを彼らは望んでいるということなのか?  それは破滅を求める陶酔なのか、もしくは単なる楽観なのか。  苦しめば苦しむほど、成功が約束されると信じているわけではないだろう。そんな分かりやすいものであったら、万仙陣が崩れることなど有り得なかった。  ならば彼らは、いったい何を是としている。  過程か? 手段か? 気構えか? 真実はなんだ、分からない。  救いとは、生きるという意味、幸せの普遍的着地点とは何処にあるのだ。  分からない。誰か誰か、〈教〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》―― 「娘よ……」  ああ待てよ。俺はいったい、何を考えているのだろう。  この黄錦龍が、真実を外に求めるなどということ……  もしかして、これこそが…… 「お、おおぉぉ、ガアアアアアアアアアァァァ―――!?」  絶叫は、断末魔の咆哮以外、何物でもなかった。ここに万仙陣という理は確かに潰える。二度と鴻鈞道人は再来しない。  だが同時に、それは一つの産声でもあった。黄錦龍という仙道が、新たな理を僅かながらも自覚したという事実であり、そこから生まれるものもある。  破滅には違いないが、誕生であり救済でもあったのだ。その存在を史上から抹消され、幻と化して現実を侵した男はもういない。  ゆえに今、架空の神仙は再び夢へと帰っていく。内へ巻き込んでいくかのごとく、第四の盧生を新たな場所へと送るために。  封神台へ。彼が次なる段階へ進むための特別な世界へ。  せめて家族とくらいは向き合ってみせろ告げた、柊四四八の言葉通りに。  薄れていく万仙陣。解放される数多の眷族。消えるタタリ。  すなわち今、このときをもち、百年越しに発生した朔という暗黒の夜は終わりを迎えたのだった。  そう、終わらせるために彼女は存在したのだから……  夢を見ていた。  とても幸せで、だけど儚い物語を。  彼女は彼らの仲間となって、同じ大義と志を胸に手を取り合い、共に素晴らしい青春を謳歌しながら駆け抜ける。  言葉にすればただそれだけにすぎなかったが、込められた時間と密度、思いの強さは決して簡単になど語れない。  文字通り、命を懸けて祈ったのだ。生涯をそのことにのみ捧げたのだ。  いいや、死した後もずっと、ずっと……  もちろん、だからといって辛いと思ったことはない。だが非常に難しい、綱渡りのような道行きであったのは確かだろう。  求められたのは、夢を見ながら現実を知るということ。  羽化登仙の境地にありながら、己の立ち位置を忘れずに踏み止まり続けるということ。  その身は窓口であり亀裂として、万仙を崩す楔とならねばならなかった。ゆえに、二つの世界へ常時身を置いている必要がある。  “繋ぐ”という役を果たすため、本来なら交わることのない仙境へ、その核へと通じる役目を負ったのだ。  降魔の剣になってくれ……そう願われた日のことを、今も褪せることなく思い出せる。強く優しい顔と声、彼が押し殺していた罪悪感まで、はっきりと。  だから彼女は、そうなる道を受け入れた。いいや、自ら選んだのだ。  父と同じく生来の中毒者であったがため、崑崙を見ることが出来た唯一の存在としてこれは責務。  阿片に塗れた幼子一人、魔都で生きられるはずもないから拾ってもらった恩を返す。  などと、理由をあげることは出来るものの、本当のところはただ単に、彼らの仲間になりたいと思っただけ。自分の桃源郷を夢見ただけ。  孝という概念に照らし合わせれば、その選択は大逆に等しい。なぜなら己がルーツに真っ向弓を引いている。  鴻鈞道人。幻にして盲目の仙王が願い焦がれた夢の完成を阻む役割。そこに何ほどの躊躇も覚えなかったと言えば、当然嘘になるだろう。形はどうあれ、親から受け取った諸々を歪めてしまった不孝者であることに疑いはない。  それは淀みを生む後悔で、仙境にも人界にも身の置き所をなくしてしまう〈疵瑕〉《しが》に成り得る。  だから……ああ、だからこそ―― 「私は私の後継に、私を継いでほしいと強く願った。  そうすれば、私はともかく彼女は孝の道から外れない。淀みなく、〈疵瑕〉《しが》もなく、誇りを持って降魔の剣になれるだろうから。  ですがその結果として、重く辛い大役をあなたに負わせてしまいましたね。詫びても許されることではないでしょうから、代わりにあなたを誇らせてください。 よくぞ、この夢と現実を越えました。あなたこそ迦楼羅。あなたこそ希望。あなたこそ迷妄の霧を払い、照らす者」 「仙境は今より閉じる。あなたは朝へとお帰りなさい。もうこちらへ来てはいけませんよ。  可愛い、可愛い私の静乃。愛していますよ、嘘ではない」  ゆえにもう会えないのが寂しいけれど、もとよりこの身はとうに朽ちているはずの者。  そうゆるゆると呟いて、彼女は別れを口にした。 「あなたが迦楼羅であったなら、私は鴻鈞道人の公主です。積年の不孝を清算せねばならないでしょう。  もはやこれ以上、父を盲目の箱庭に置き去ることは出来ませんから。  さようならです」  言って彼女は顔をあげると、人生、存在の半分を常にゆだねていた仙境へと、いま完全に入っていった。  そこで困惑したように揺蕩う男へ。この彼が二度と人界を侵さぬように。 「一緒にいきましょう、お父様……〈雪麗〉《シュエリー》が御供します。  ここには私とあなたしかいませんが、それでもたった一人の楽土ではない。  いいえ、二度と一人であるとは言わせません」  たとえどんな世界であろうと、そこには必ず他者がおり、ぶつかって、交わりながら生きていく。  つらいことはあるだろう。苦しいこともあるだろう。度し難いほど愚かな諍いも生まれていくはず。  だがそれでも、いやだからこそ、真の喜びを見出すことも出来るのだ。  一人芝居はもう終わり。自己完結などしなくていいから、世にあぶれた仙道は仙道同士、ここで新たな理を見出していけばよい。  今のあなたなら出来るはず。彼の拳、その熱さを知った今ならば。 「これをもって事態は収束」  そう、すべてはここに…… 「〈封神〉《ほうしん》、完了です四四八様…… ああ、まったく。相変わらず煮えきりませんね日本男児は。いいですか、誤解なさらぬよう」  最後に一度、あえかに彼女は微笑んで。 「雪子は、幸せでありました」  今、仙境へ通じる道を内から完全に閉ざしたのだ。  それに伴い消えていく。  現世に残った彼女の躯が、光となってさらさらと…… 「―――終わったな」 長い、あるいは一瞬にすぎない心の旅を踏破して、俺たちは今ゆっくりと目を開いた。 「あとはユキコに委ねよう。この時間軸で言うには語弊もあるが、とにかく未来は守られたのだ」 「万仙陣の再来はない。我々の勝利だ、ヨシヤ」 「……そうだな」 朔への接続はもはや出来ない。それはすなわち、歴史の空隙がなくなったということを意味している。 この地、満州において大戦を食い止めようとしている俺たちの時代から、淀みなく歴史は続いていくだろう。 それがどのような未来を描くにせよ、少なくとも黄錦龍の復活はない。そのことだけは確かだった。 雪子、雪麗……彼女に対する哀悼と惜別の言葉を胸中でごち、俺は顔をあげて前を見る。 「だが、本当に大変なのはこれからだ。結局のところ、これまでの俺たちは寄り道で忙殺されていたにすぎない。朔への対処に追われるだけで、未だ本題は手付かずだ」 「いいや、むしろ相当に後れを取ったと言えるだろう」 如何にして世界大戦を封じ込めるか。そこについては依然暗中模索であり、遅々としか進んでいないのが現状。 所々手ごたえを感じる出会いや戦果を積み重ねてはいるものの、まだまだ目的達成には程遠い。気を抜ける状況ではまったくなかった。 「未来を守ると言うのなら、それこそが肝だろう。あの世界をあるがままに……とはいかないかもしれないが、好ましい形として子孫に渡してやる責任が俺たちにはある」 「雪子の曾孫にも苦労をかけた。彼女をこれ以上、つらい目に遭わせたくない」 「了解した。まあ、ロシアと欧州なら私に任せろ。我が国が火の海になっては堪らんからな、眷族どもにもそこはよく言い含めてある」 「なに、心配は要らんさ。彼らはとても優秀だ。おまえの〈眷族〉《とも》たちにも早々引けは取らんほどに」 「頼むぞ。俺はこのアジアだ。その先触れとしてまずは満州――」 「あと、問題といえばアメリカだな。流石におまえ一人では荷が重かろう」 「ゆえに〈欧州〉《わたし》の側と、挟撃というかたちで封じ込める必要がある。特にあの大統領だ、あれを就任させてはいかん」 「何も奴に限った話ではなく、いっそ殺してしまったほうが手っ取り早い者は数多いるが……」 そこでこいつは苦笑した。無言で発する俺の気配に、分かっているよと首を振る。 「約束だからな。私はもう、誰一人としてこの手にかけない」 「セイシロウを読み損なった負い目もあり、黄を最後にするつもりだったのだが……おまえに持っていかれた以上はこれまでだろう」 「それが私の得た悟り。掲げる大義だ――ああ、守っていくよ」 殺人鬼として生きてきたクリームヒルト・レーベンシュタイン。死こそが救い。死こそが唯一普遍なもの。 それを額面どおりに貫く機械のままであったなら、俺はこいつと盟など結ばなかっただろう。それでどれほど窮地に陥ろうと、断じて認めるわけにはいかないものだ。 しかし邯鄲へと挑む前、愛の何たるかを理解したいとこいつは俺に言ったから。その言葉に真を見たから信じたのだ。 そして結果、こいつは期待を裏切らなかった。ゆえに今、こうしてここに立っている。 死こそが救いという思想はそのままに、誰も殺さないという悟りは一見矛盾しているだろう。 だが…… 「矛盾。不整合こそが人だからな。機械ではない、人だからこそ得られる悟りを見出さねばならない」 「死こそが普遍。死こそが唯一平等なもの。だからこそ死へ至るまで、人は懸命に生きねばならない」 「生まれたときは泣き顔だから、死ぬときは豪気な笑みで……というのはアマカスの弁だったか。なんともらしいな、まあそこについてだけは同感だよ」 「誰もが大いなる満足と共に、死という安息へ至れるように。曰く笑って死ねるように」 「そう、それならおまえも、流石に反論はしないだろう」 「誰もがまさに戦っている。普遍なる平等へと至るために」 「であれば、彼らの求道を勝手に妨げていいわけがない。そういうことだ」 「それこそが私の人間賛歌」 それこそが、死神の見出した愛の答えなのだろう。 こいつは誰も殺さない。死を絶望と捉えることも人の普遍的な感性だろうが、だからこそ死から目を逸らさぬように。 自分は必ずいつか死ぬと、その事実に押し潰されて心が魔道に落ちぬよう。俺の父や兄のような者が生まれないための思想だった。ゆえに否定する理由は何処にもない。 ただ精一杯、胸を張って生きる。いつかやってくる死を恐れず、堂々と向き合って受け入れる心の強さを得るために。 そう願い戦っている人々にとっての、こいつは〈代表〉《ヒーロー》になったのだ。 まあもっとも、まだ理屈が先に立っているだけの状態らしいが。 「ヘル、この際だから一つだけ聞かせてくれ」 「おまえにとって八層攻略の試練とは、いったいどういうものだったんだ?」 こいつがそういう悟りに至った根本の原因は何なのか。俺のように取りこぼしがあったら禍根を残すからというのも当然あったが、純粋に興味がある。 なぜならそれは、聖十郎や征志郎を救えたかもしれない答えなのだから。 「なに、とても単純なものだよ」 問いに、ヘルは言葉どおり軽々しく笑って返答した。 「一人の人間を愛してみろ……だとさ」 「………なに?」 予想し得なかった内容に、俺は思わず首を傾げた。そしてなぜか、微妙に背筋が寒くなる。 「つまりな、私は人を群体としてしか見ていなかった。理屈でそう納得していたから、要するに森を見ても木を見ることがなかったんだよ」 「だから、個々それぞれの人生というものを軽視していた。そこにも尊い真があり、物語があるのだと気付かないまま」 「概して殺人鬼とはそういうものだ。個人の尊厳に無頓着で、その重さを理解しない」 「ゆえに、それではいかんと言われたわけさ」 「……で、おまえはどういう結論を出した?」 こいつ流に言うなら方程式。アラヤの試練とヘルの悟りは、関連性こそ匂うものの微妙に直結していない。 であれば、その間を埋める公式が存在しているはずだろう。それはいったい何なのか。 やはりとても軽々しく、こいつは驚くべきことを口走った。 「私は女だ。ならば子でも産んでみようかなと」 「はあっ?」 あまりに飛躍した答えを聞いて、俺は呆気に取られていた。 こいつが? 子供を? 産むって? マジかよ? 「そんなに驚くようなことかね、失礼な。いいかおい、極めて論理的な筋道だろう」 「私は愛が分からない。中でも個人のものというのが特に駄目だ。死想を極めるためには生の素晴らしさを知らねばならんわけだから、女の私は命を生んでしまうに限る」 「どうだ、一点の曇りもない完璧な答えだろうが。おまえともあろう者が、なぜこの程度のことを理解しない」 「おそらく、歴代盧生の中で私の試練が一番簡単なものだったぞ」 「……………」 いや、本当にそうか? ことによったら、一番達成困難な試練じゃないのか、それは。 「というわけでヨシヤ、おまえが私の夫になれ」 「はあっ?」 またしても、俺は意表を衝かれて頓狂な声をあげてしまった。何が「というわけで」なのか、まったくもって分からない。 「私は遠からず親になる身だ。ならば自分の親にも思いを馳せねばならないだろうし、そこから導き出した結論だよ」 「私の母はどうしようもない女だったが、父は素晴らしい人だった。そんな彼が授けてくれた名前には、人として誇りを持つべきだろう」 「クリームヒルト……つまりジークフリートの、英雄の妻だな。立派な男に嫁いでくれと父は願っていたのだろうから、当然のこと無碍には出来ん」 「加えて言うなら、ニーベルンゲンの歌におけるクリームヒルトは途中で性質が変わっている。まさしく別人であるかのように」 「これもまた、私にそぐう属性だろう。よって、おまえを伴侶に選ぶという判断はまったく正しい。何も破綻していない」 「ん、どうした? 顔色が悪いぞ」 当たり前だ。そりゃ悪くもなるだろう。馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが、この手の理屈馬鹿が一番困る。 「理解の悪い男だな。ミズキはとうに察していたというのに」 しかも、さらに聞き捨てならんことを言いやがる。世良が妙にこいつを敬遠しているとは感じていたが、そういうことだったのかよ。 「………断固、ことわる。それだけは勘弁してくれ」 とにかく言いたいことは色々あったが、この場は俺の意志だけでもしっかり伝えておこうと思う。いや本当に、何があっても退いてはいけない。 だというのにこの馬鹿は、からからと笑い飛ばすだけだった。 「まあ構わんさ。焦りはしないし、じっくり煮込もう」 「おまえはあくまで第一候補というだけだしな。他にもアツシなりハルミツなり、彼らも充分いい男だ。なのでそちらにも私の意思を伝えようかと……」 「やめろ!」 これ以上、俺の周りの人間関係を引っ掻き回さないでもらいたい。腹の中で唸りつつ、それから深く溜息を吐いていた。 「……今はそんなことを言っている場合じゃないだろう。大事の前だ」 「何をおいても、まず成し遂げるべきは大戦の阻止」 「承知しているが、大局ばかりに囚われていると目の前のことを見失うぞ。個人の幸せを蔑ろにして、得られる全体の救いなどない」 「それはもちろん分かってるよ。おまえの婿探しはともかくとして」 一つ一つ、出来ることからやっていこう。未来の子孫たちへ、しっかりバトンを渡せるように。 「風が出てきたな」 「ああ。本当の動乱はこれから始まる」 まさに日が沈もうとしている満州で、俺たちは現実に立ち向かうため未来を見ていた。 朝へ――かつて見た夢の日々へと至るために。 「―――何を見ちょる」 一夜明け、そして再び日が暮れようとしている正常を取り戻した鎌倉の街。 崑崙が消えてからこの今まで、一歩も動かず立ちつくしていた私の背後から、よく知っている声が掛かった。 「別に、海を……ただ綺麗だなって」 「その向こうに行ってみたいとは思わんか」 「思わない……と言えば嘘になるけど、思わない」 「この海を何処まで越えても、彼らは存在しないのだから」 相模湾から見える景色の先に満州はない。当たり前の地理的な意味でもそうだし、観念的な意味でもそうだ。 彼らと私は、生きる時代がそもそも違う。どれだけ憧れて、会いたいと願っても、その壁は越えられないのだ。 盲目の仙境に入らない限り、憧憬は遠く遥かにある。 「私は現実で生きていく。そう誓ったから、夢は見ても夢に酔わない」 「もう、そんなことはしないと、決めた……からっ」 駄目だ、泣くな。泣いちゃいけない。私は必死になって溢れ出てくるものを抑えようと試みる。 だって、状況が最悪だもの。渦中のときは何もしてくれなかったくせに、こんなときだけ狙い済ましたようにふらっと来て、私を泣かすようなことを言いながら遊んでいる親父殿が後ろにいる。 殴りたい。怒鳴りたい。何なのだこの人はと、怒りを燃やすことでどうにか涙を堪えたのに…… 「おまえは迦楼羅の務めを果たしたんじゃろうが、胸を張れい」 「自慢の娘じゃ、ようやった」 そんな、今まで一度も言ってくれたことのない手でくるものだから、私の我慢は呆気なく決壊した。 「う、うぅ、うわあああああああ………」 くたばれ盲打ち。あなた絶対面白がっているだろう。 悪かったな、馬鹿みたいで。 悪かったな、こんなに弱くて。 みっともなくて恥ずかしい石神静乃は、あなたの娘だからといっていつも笑ってなんかいられない。 私の裏なんか誰でも取れる。私を泣かすのなんてこんなに簡単。 だけど――溢れる涙はこんなにも熱いんだ。 「わた、わたしは……みんなに、四四八くんたちに、ひどいこと……」 「夢でも、彼らは生きていたのに……生きているって、信じてたのに」 「私が、勝手に生んで、勝手に消して……それでも笑って、許してくれて」 「もういない、どこにもいない……過去にも、〈今〉《ここ》にも、未来にも……!」 「会えない……会いたいのに、会っちゃいけない……思ってもいけない!」 「どうしたら、私……私はどうしたら、親父殿……!」 「知らんわい」 一刀両断に私の泣き言は切り捨てられる。 ああ、この人ならそう言うだろう。そして私も、そう言ってもらいたかったのかもしれない。 「おまえがどがァな夢を見たかなんての。俺ァさっき〈鎌倉〉《こっち》に着いたばかりじゃし、分かるわけあるまいが」 「そもそも俺のことからして、おまえはおまえの都合がええように弄っちょったんと違うんかいや」 「柊の親父と俺がダチで? 朔をどねえかするためにおまえを鎌倉に送り込む? 記憶にないのう。いや、あったかのう。そこらへんのことはどうなんかのう? おまえに分かるか?」 「それ、は……」 「分かんまいが」 まるで口笛でも吹くように、親父殿はそう言った。 「つまりじゃ、おまえはまだまだ、なぁ~んもまったく分かっちゃおらんっちゅうことよ」 「どこまでが夢で、どこまでが〈現〉《うつつ》か。おまえの妄想ゆうもんが、どういう範囲で及んだんか。どれくらいのズレが実際にあるんか」 「知らんし、見ちょらんし、分かっちゃおらん。ならどうするや? おう、現実に生きるぅゆうた石神静乃は、何をどうするべきなんじゃ?」 「ちなみに言うといたるがのう。おまえ俺のことは当てにすんなや」 「…………」 「おう、なんじゃおまえその態度は」 「だって……」 この人は、こうと決まった型がない。つまり、言ってることが嘘か本当かも分からない。 「親父殿……実際当てにならないもの」 「だから私が、この目でしっかり確かめないと」 甘えた希望的観測ではなく、迷妄を祓う迦楼羅の〈眼〉《まなこ》で。 「ふははっ、分かりゃあええんじゃ。ボケコラよいよ」 「ちゅうわけで、おら行くぞ。いっちょ間違い探しっちゅうやつじゃ」 「……うん」 私はまだ、真実を知らない。 どれだけ私の夢とズレていたのか、具体的に分からないから……まず何よりもそこを確認しないと始まらないのだ。 〈信頼〉《トラスト》と、〈真実〉《トゥルース》と。 今度こそ真っ直ぐそれと向き合うために。彼らと本当の仲間になるために。 私が生んだ私の夢は、もう消えてしまったけれど。 楽しかったこと。嬉しかったこと。幸せに感じた日々の素晴らしさを尊く思うこの気持ちだけは夢じゃない。 それをもう一度、この現実で掴みたいと思うから。 「まあ、あれじゃ。もしかしたら本当に大差ないかもしれんじゃろうが。したらそれは、正味軽い記憶喪失程度の誤差じゃわい。なんちゃあないわな」 「あまり……煽らないでくれ、親父殿。段々怖くなってくる」 「あと、別についてこなくてもいいんだが……」 「そういうわけにもいくかい」 結構本気で私は嫌がっているんだけど、だからこそ楽しそうにこの人は言ったのだ。 「改めて、これから娘が世話になる家じゃし、街じゃし、学校じゃしのう。挨拶くらいはせにゃあなるまい」 「俺はおまえの、親じゃしの」 「…………」 「おい、なんじゃおまえ。なんぞ言いたいことがあるなら言わんかい」 珍しく。本当に珍しく拗ねたような口調の親父殿が面白くて、私は思わず笑ってしまった。 そう、私は笑うことが出来たのだ。 「別に。ただ四四八くんの気持ちがよく分かった」 「なるほど、これはすごくぶっ飛ばしたい」 この人をぶっ飛ばしたいとは常々思っていたけれど、そういうのとはまた違う、なんだか胸が温かくなるような心地いい苛立ちだった。 ああ、あの家やあの学校で、彼はいつもこういう気持ちに包まれていて…… 「行こう。でも、私に恥を掻かせないでくれよ親父殿」 「阿呆が。そりゃあこっちの台詞じゃわい」 また君らと、それを感じられたらいいなと思う。 石神静乃は仁義八行の一として、君らの仲間と言われたいから。